Ⅰ 戦争遺跡・遺構...問 合 先 長崎市文化財課( 095-829-1193) 沿 革 施 設...

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- 1 - 長崎県は朝鮮半島や中国大陸の近くに位置していることから、古くは日清戦争、日露戦争などにおいて重要 な軍事拠点としての役割を果たしました。明治22年に佐世保鎮守府が佐世保市に開設され、九州及び四国、 沖縄などの西日本地域一帯の防衛と東アジアへの進出拠点となりました。 太平洋戦争においても、昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦となった、真珠湾攻撃の「ニイタカヤマノボ レ」の攻撃命令が打電されたといわれる針尾無線塔が佐世保市針尾島に今も残っています。そして、戦艦「武 蔵」が長崎市の三菱長崎造船所で建造されたことも有名です。大村市には第21海軍航空廠があり、当時、東 洋一と言われた戦闘機の製作修理工場や特別攻撃隊の出撃基地である大村海軍航空隊がありました。また、 中国大陸や朝鮮半島に近く位置し、海路の要所である東シナ海や対馬海峡に面していることから対馬、壱岐、 五島などの離島、西彼半島には外洋に向けた砲台が数多く設置されました。 終戦を迎え佐世保の浦頭港は京都の舞鶴港や広島の呉港などとともに引揚港に指定されました。浦頭港に は、昭和23年6月までに中国大陸や南方の戦地から139万人の旧軍人や一般邦人等が復員、引き揚げてき ました。浦頭の地は家族の元、郷里に戻る日本上陸の一歩をしるした地であります。 ここにご紹介します戦争遺跡・遺構は現在その跡を残すものを中心に掲載しています。 ▽ 戦争遺跡・遺構位置図(市町別の四角囲み数字は次頁以降の戦跡№を表示しています) Ⅰ 戦争遺跡・遺構

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Page 1: Ⅰ 戦争遺跡・遺構...問 合 先 長崎市文化財課( 095-829-1193) 沿 革 施 設 太平洋戦争中の昭和18年(1943)初頭、標高145メートルを測る遠見岳山頂とその一帯に海軍監

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長崎県は朝鮮半島や中国大陸の近くに位置していることから、古くは日清戦争、日露戦争などにおいて重要

な軍事拠点としての役割を果たしました。明治22年に佐世保鎮守府が佐世保市に開設され、九州及び四国、

沖縄などの西日本地域一帯の防衛と東アジアへの進出拠点となりました。

太平洋戦争においても、昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦となった、真珠湾攻撃の「ニイタカヤマノボ

レ」の攻撃命令が打電されたといわれる針尾無線塔が佐世保市針尾島に今も残っています。そして、戦艦「武

蔵」が長崎市の三菱長崎造船所で建造されたことも有名です。大村市には第21海軍航空廠があり、当時、東

洋一と言われた戦闘機の製作修理工場や特別攻撃隊の出撃基地である大村海軍航空隊がありました。また、

中国大陸や朝鮮半島に近く位置し、海路の要所である東シナ海や対馬海峡に面していることから対馬、壱岐、

五島などの離島、西彼半島には外洋に向けた砲台が数多く設置されました。

終戦を迎え佐世保の浦頭港は京都の舞鶴港や広島の呉港などとともに引揚港に指定されました。浦頭港に

は、昭和23年6月までに中国大陸や南方の戦地から139万人の旧軍人や一般邦人等が復員、引き揚げてき

ました。浦頭の地は家族の元、郷里に戻る日本上陸の一歩をしるした地であります。

ここにご紹介します戦争遺跡・遺構は現在その跡を残すものを中心に掲載しています。

▽ 戦争遺跡・遺構位置図(市町別の四角囲み数字は次頁以降の戦跡№を表示しています)

Ⅰ 戦争遺跡・遺構

Page 2: Ⅰ 戦争遺跡・遺構...問 合 先 長崎市文化財課( 095-829-1193) 沿 革 施 設 太平洋戦争中の昭和18年(1943)初頭、標高145メートルを測る遠見岳山頂とその一帯に海軍監

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№ 名 称 1 遠見岳 所 在 地 長崎市琴海大平町遠見岳

参考文献 『琴海町史』(琴海町教育委員会編

1991 年) 問 合 先 長崎市文化財課(℡095-829-1193)

■ 沿 革

■ 施 設

太平洋戦争中の昭和18年(1943)初頭、標高 145 メートルを測る遠見岳山頂とその一帯に海軍監

視所が置かれた。山中下方に兵舎を建てて兵員40名が配置された。戦争激化の中で兵は10名に

減り、青年学校生徒が補助員として動員された。東側に聴音機や 13 ㎜機銃、北に探照灯、中央に

指揮所があった。

セメントで固めた陣営のみが残存する。

№ 名 称 2 海軍火薬収納庫 所 在 地 長崎市琴海戸根原町

参考文献 『琴海町史』(琴海町教育委員会編

1991 年) 問 合 先 長崎市文化財課(℡095-829-1193)

■ 沿 革

■ 施 設

太平洋戦争中の昭和 19年(1944)、海軍の火薬疎開地に指定され、谷々に分散して収納された。

戦後、占領軍の指示により村民が動員され、入江の小島などで焼却されたという。

遺構の残存は未確認

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№ 名 称 3 砲台跡 所 在 地 長崎市伊王島町 1丁目 真鼻

参考文献 『伊王島町郷土誌』(伊王島町教育委員

会編 1972 年) 問 合 先 長崎市文化財課(℡095-829-1193)

■ 施 設

■ 保 存

第二次大戦中に陸軍駐屯部隊が築いたという円形の野砲台跡が残存している。

遺構は、長崎市指定名勝「伊王島灯台公園」の範囲内に位置している。

№ 名 称 4 野母崎遠見山電探基地 所 在 地 長崎市脇岬町 遠見山

参考文献 『子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ 熊本県南編』

2007 年 問 合 先 長崎市文化財課(℡095-829-1193)

■ 沿 革

■ 施 設

雲仙の電探が撤去された後、標高 259 メートルを山頂とする野母崎遠見山に新たに電探基地が設

置された。もとは、江戸時代に外国船の来航を監視する遠見番所がおかれていた見晴らしの良い場

所である。

レーダー設置のためのコンクリート製基壇、地下施設等

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№ 名 称 5 無窮洞 所 在 地 佐世保市城間町 3-2 地先

参考文献 『ふるさと歴史めぐり』2010 市教育委員会 問 合 先 宮地区公民館(℡0956-59-2676)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

無窮洞は、太平洋戦争中に旧宮村国民学校(現市立宮小学校)の防空壕として掘られたものであ

る。当時の校長の発案により昭和 18 年(1943)から昭和 20 年(1945)の終戦の日まで掘り続けられ

た。掘削は教師に指導された高等部の生徒(今の中学生)たちが行い、男子がツルハシで掘り、女子

が整形を、下級生が運び出しを担当した。「無窮」とは、きわまりが無く無限という意味がある。 凝灰岩の岩盤をくりぬいた幅 5m、奥行き 19mの主洞と、幅 3m、奥行き 15mの副洞を中心に書類

室や台所、トイレ、非常階段などが設けられている。 平成 14 年度から公開されており、現在は地元有志により結成された無窮洞顕彰保存会が管理し、

見学者に対するガイド活動を行っている。年末年始を除いて午前9時から午後5時まで見学できる。

№ 名 称 6 田島岳高射砲台跡 所 在 地 佐世保市小野町(弓張公園)

参考文献 『佐世保海軍警備隊戦闘詳報第11号(昭和20

年 6 月 29 日佐世保方面対空戦闘)』防衛省防

衛研究所蔵 問 合 先

佐世保市教育委員会社会教育課

(℡0956-24-1111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

昭和 16年(1941)に佐世保軍港防禦のために建設された高射砲台。防空指揮所も併設されてお

り、軍港防禦の要となる砲台だった。装備は順次増強が繰り返され、最終的には最新式の高角砲

と射撃用レーダーを備えていた。昭和20年(1945)6月の佐世保空襲の際には136発を発射し、

8 機撃破を報告している。 鉄筋コンクリートで造られた砲座 2 基と、野外ステージに改造されたレーダー跡、煉瓦造りの弾薬

庫などが残っている。砲座には当時世界有数の性能を誇った98式10㎝連装高角砲が装備され

ていた。 昭和 37 年(1962)に一帯が弓張公園として整備され、現在に至っているが、特に砲台跡に関する

説明板などは無い。

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№ 名 称 7 戸尾市場 所 在 地 佐世保市戸尾町 125-1地先

参考文献 『図説佐世保・平戸・松浦・北松の歴史』

2010 郷土出版社 問 合 先

佐世保市教育委員会社会教育課

(℡0956-24-1111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

戸尾市場は通称「とんねる横丁」と呼ばれている。これは戦時中に掘られた防空壕をそのまま店舗と

して利用したため、その名が付けられている。このような防空壕は佐世保市内に無数に掘られ、空襲

のたびに多くの市民が避難した。戦後は空襲で家を失った人が、防空壕を住居や店舗として利用す

るようになった。 旧戸尾小学校のある台地に十数基の防空壕が掘りこまれている。コンクリートで補強されているもの

もあれば、素掘りのものもある。本来は奥で連結されていたようである。 通称「とんねる横丁」として市民に親しまれており、食料品を中心に衣料品や日用雑貨まで扱う店が

並んでおり、現在も防空壕を利用した店舗で営業を続けている。

№ 名 称 8 丸出山堡塁砲台観測所跡 所 在 地 佐世保市俵ヶ浦町 3115

参考文献 『続・しらべる戦争遺跡の辞典』2003 柏

書房 問 合 先

佐世保市教育委員会社会教育課

(℡0956-24-1111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

明治34年(1901)に建設された陸軍砲台の観測所跡。佐世保湾の入り口に当たる俵ヶ浦半島の先

端近くには、軍港防禦のための陸軍砲台が複数建設された。丸出山堡塁砲台はその中でも最大級

の砲台であり、24cm 加農砲 4 門、28cm 榴弾砲 4 門を備え、観測所からの情報により射撃を行っ

た。砲台は実戦を経験することなく昭和初期には演習砲台となり、昭和20年(1945)の終戦により撤

去された。 御影石と煉瓦によって築かれた掩蔽部の上部に、鋼板で構築された上屋を持つ観測所が置かれて

いる。周囲には周壕をめぐらせており、有事の際にはここに兵員が配置されたと考えられる。 昭和 30 年(1955)頃に丸出展望所として整備され、現在に至っている。特に観測所に関する説明

板などは無いが、鋼製上屋が現存する観測所は全国的にも極めて珍しく、貴重な存在である。

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№ 名 称 9 高島番岳高射砲台跡 所 在 地 佐世保市高島町 149

参考文献 『佐世保市黒島の文化的景観保存調査

報告書』2011 佐世保市教育委員会 問 合 先

佐世保市教育委員会社会教育課

(℡0956-24-1111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

高島は、佐世保港の西 6km の海上にある。明治 44 年(1911)には全域が佐世保軍港区域に指定

され、昭和 16 年(1941)頃には、高島にも軍港防備のための高射砲台が建設された。高島番岳砲

台は佐世保市が初めて空襲を受けた昭和19年(1944)7月以降たびたび敵機に対する砲撃を加え

撃墜も報告している。 89式12.7センチ連装高角砲2基、97式聴音機、150センチ探照灯を装備していた。砲座は解体

されたが、山頂に聴音機跡や探照灯跡、聴音照射指揮所が良好な状態で保存されており、麓には

鉄筋コンクリート造の発電所が残されている。 番岳山頂は現在公園として整備されており、説明板も設置されている。

№ 名 称 10 黒島名切砲台跡 所 在 地 佐世保市黒島町 835-1

参考文献 『佐世保市黒島の文化的景観保存調査

報告書』2011 佐世保市教育委員会 問 合 先

佐世保市教育委員会社会教育課

(℡0956-24-1111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

黒島は、佐世保港の西12kmの海上にある。明治44年(1911)には黒島全域が佐世保軍港区域

に指定され、大正時代には軍港防備のための砲台などが建設された。

名切砲台は、終戦直前の昭和 20年(1945)5 月に本土決戦に備えて建設されたもので、佐世保

鎮守府が策定した防備計画によると、黒島の砲台と、対岸の小佐々に配備された特攻艇「震洋」

で挟み撃ちにする計画であった。 御影石とコンクリートで構築された洞窟陣地であり、15.2 センチ砲 1 門、25 ミリ機銃 2 門を備えて

いた。フェリー乗り場の近くには同時に建設された洞窟式の発電所が残されており、島内には大正

時代の砲台建設に伴って建てられた煉瓦建物も残されている。 黒島は、平成 23 年(2011)9 月に国重要文化的景観に選定されており、名切砲台も文化的景観

を構成する要素として保存活用が検討されている。

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№ 名 称 11 亀山八幡神社焼夷弾痕 所 在 地 佐世保市八幡町 3-3

参考文献 『ふるさと歴史めぐり』2010 佐世保市教

育委員会 問 合 先

佐世保市教育委員会社会教育課

(℡0956-24-1111)

■ 沿 革

■ 保 存

亀山八幡神社が現在の地に建てられたのは、1264 年(文永 1)のことと伝えられている。戦国~江

戸時代には松浦家の守護神として崇敬を集め、1874 年(明治 7)には村社となった。軍港が設置さ

れてからは武の神様だけに陸海軍の崇敬も深かった。

しかし、1945 年(昭和 20)6 月の佐世保空襲においてほとんどの建物が焼失した。境内にはこの時

落下した焼夷弾の弾痕が石段や参道に十数か所確認され、石灯籠の中には火災の熱で表面が剥

離してしまったものもある。 戦後は一時存続が危ぶまれた時期もあったが、民心の復興とともに立ち直り、今では「おくんち」をは

じめ諸々の行事も行われ、昔と変わらず市民に親しまれている。

№ 名 称 12 八天岳高射砲台跡 所 在 地 佐世保市里美町国有林

参考文献 『佐世保海軍警備隊戦時日誌』防衛省

防衛研究所蔵 問 合 先

佐世保市教育委員会社会教育課

(℡0956-24-1111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

昭和 16 年(1941)頃に佐世保軍港防禦のために建設された高射砲台。佐世保市の最も北東部に

位置する八天岳山頂にあり、中国大陸方面から進入する敵機の迎撃を企図したものと考えられる。

3年式8センチ高角砲4門を装備していたが、砲座は6田島岳砲台のようなコンクリート造では無く、

周囲に土塁を廻らせる様式であり、4 基が現存している。周囲には探照灯跡や、兵舎跡も確認でき

る。

八天岳からオサエ峠に至る九州自然歩道の沿線にあるため、アクセスは比較的容易である。しかし

砲台跡そのものは整備されておらず、説明板なども設置されていない。

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№ 名 称 13 針尾送信所(旧佐世保無線電信所) 所 在 地 佐世保市針尾中町 382

参考文献 『旧日本海軍針尾送信所学術調査報告

書』2011 佐世保市教育委員会 問 合 先

佐世保市教育委員会社会教育課

(℡0956-24-1111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

日露戦争において、無線通信の重要性を認識した日本海軍により建設された無線電信施設。大

正7年(1918)に着工し、大正11年(1922)に完成した。太平洋戦争の開戦に際しては、「ニイタカ

ヤマノボレ 1208」の暗号をここからも発したといわれているが、それを裏付ける資料は確認されて

いない。戦後は海上自衛隊と海上保安庁により使用されて、平成 9 年(1997)まで現役の無線施

設であった。 高さ 136mの鉄筋コンクリート造無線塔 3 基、半地下式の電信室、油庫、見張所などが良好な状

態で残されている。当時は長波通信が主流であったため、非常に大規模な施設となっている。 施設は海上保安庁の所有となっており、一部の施設を除いて近くからの見学はできない。現在は

文化財指定を含めた保存について協議を行っている。

№ 名 称 14 第21海軍航空廠本部防空壕跡 所 在 地 大村市古賀島町 595-49,50

参考文献 楠のある道から 第21海軍航空廠の記録 問 合 先 大村市文化振興課(℡0957-53-4111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

第21海軍航空廠の本部庁舎前に設置された防空壕の遺構。第21海軍航空廠は、昭和16年

(1941)10月に佐世保にあった海軍工廠航空機部が移転し開設された。海軍の観測機や戦闘機を

製造し、5万人の工員が就業した。この人口増と、関連施設が当時の大村町のみならず周辺の村に

も及んだため、航空廠の設置が、大村町と周辺6村が合併し大村市が誕生する契機となっている。

1,440 ㎡の敷地に地下式防空壕が1基残る。

平成17年に市の史跡に指定され、所有者の国から大村市が管理委託を受けて維持管理を行って

いる。

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№ 名 称 15 慰霊塔公園(工場、防空壕遺構) 所 在 地 大村市松並2丁目 857

参考文献 回想 第21海軍航空廠 問 合 先 大村市河川公園課(℡0957-53-4111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

第21海軍航空廠の防空壕の遺構。設置時期の詳細は不明であるが、空廠設置の昭和16年

(1941)から空襲を受ける昭和19年(1944)の間に設置されたと思われる。終戦後も残り、昭和38年

(1963)に、空襲による殉職者の慰霊のため、防空壕の上に慰霊塔が建設されている。

空廠の防空壕が残り、その上に殉職者慰霊塔が建てられている。

現在、市の都市公園となっている。

№ 名 称 16 第21海軍航空廠(工場) 所 在 地 大村市古賀島町ほか

参考文献 長崎県の近代化遺産、 放虎原は語る

大村空襲と第21海軍航空廠 問 合 先 大村市文化振興課(℡0957-53-4111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

第21海軍航空廠は、昭和16年(1941)10月に佐世保にあった海軍工廠航空機部が移転し開設さ

れ、海軍の観測機や戦闘機を製造し、5万人の工員が就業し、その規模から東洋一ともいわれた。

工員などによる人口増と、関連施設が当時の大村町のみならず周辺の村にも及んだため、航空廠

の設置が、大村町と周辺6村が合併し大村市が誕生する契機となっている。昭和19年(1944)10

月の空襲により大打撃を受け、その後は疎開工場により就業を続けたが、終戦により解体している。 範囲は現在の協和町、古賀島町、森園町、松並2丁目にあたり 216 万㎡に及ぶが、現在、施設は

解体されほとんどが残っていない。しかし、廠内の通路の道筋が今も道路として利用されており、現

在の市立市民病院前の道路には、開設当時に植えられた楠が残る。 無

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№ 名 称 17 第21海軍航空廠工員養成所門跡 所 在 地 大村市松並1丁目 116-3

参考文献 放虎原は語る大村空襲と第21海軍航空廠 問 合 先 大村市文化振興課(℡0957-53-4111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

昭和16年(1941)の第21海軍航空廠の設置に伴い、昭和18年(1943)、佐世保海軍工廠工員養

成所航空機部が移転し開設している。見習科、専科、補修科があり、航空技師の要請を行った。

現在は養成所の正門のみが残り、市立西大村中学校の校門となっている。また、校内に工員養成

所跡の記念碑が建っている。

市立中学校の門として利用されている。

№ 名 称 18 掩体壕(防空壕等) 所 在 地 大村市原口町 837(下原口公園)

参考文献 - 問 合 先 大村市河川公園課(℡0957-53-4111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

海軍大村航空隊に設置された航空機用の防空施設。大村航空隊は、大正11年(1922)に設置さ

れ終戦(1945)まで存続した。掩体壕についての記録はなく設置時期は判明しない。

コンクリート製の掩体壕が1箇所残る。

現在は都市公園下原口公園の中にあり、倉庫として使用されている。

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№ 名 称 19 海軍病院跡(軍病院) 所 在 地 大村市久原2丁目 1001

参考文献 - 問 合 先 長崎医療センター(℡0957-52-3121)

■ 沿 革

■ 現 状

昭和17年(1942)7月に開設され、多くの戦傷病将兵の治療にあたってきた。特に長崎への原爆投

下時には多くの被爆者を受け入れ、治療にあたっている。終戦後は旧厚生省に移管され、国立病

院となっている。

海軍病院は現在、国立長崎医療センターとなっている。当時の遺構としては、門柱が残るのみであ

る。

これは昭和58年(1983)の国立病院の改修工事の際に、海軍病院顕彰碑の横に移設保存されて

いる。

№ 名 称 20 今富城跡砲台跡 所 在 地 大村市皆同町

参考文献 - 問 合 先 大村市文化振興課(℡0957-53-4111)

■ 沿 革

■ 現 状

今富城跡の高台に築かれた砲台跡。昭和17年(1942)から昭和20年(1945)にかけて、海軍の高

射砲陣地として利用された。

今富城跡として知られる福重住民センターの裏の高台に、高射砲の砲台などコンクリート構造物が

複数残る。

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№ 名 称 21 大村連隊区司令部跡 所 在 地 大村市玖島1丁目 (大村公園)

参考文献 - 問 合 先 大村市文化振興課(℡0957-53-4111)

■ 沿 革

■ 現 状

明治29年(1896)、長崎大隊区司令部が編成替えとなり、大村連隊区司令部として大村町本小路

(現在の大村公園)に設置された。県内大部分の徴兵事務を担当した。昭和16年(1941)に長崎連

隊区司令部に改められ、長崎市に移転した。

大村公園内に司令部跡の石碑が建てられている。

№ 名 称 22 陸軍歩兵第46連隊(基地跡) 所 在 地 大村市西乾馬場町 416

参考文献 長崎県の近代化遺産、大村陸軍 問 合 先陸上自衛隊大村駐屯地広報室

(℡0957-52-2131)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 現 状

日清戦争後の軍備増強による陸軍編成替えにより設置され、明治30年(1897)に放虎原練兵場

(現在の陸上自衛隊大村駐屯地)に兵営を構え、明治31年(1898)に連隊旗が授与され正式に発

足した。戦後は、一時駐留アメリカ軍や長崎師範学校が存在したが、昭和27年(1952)に警察予備

隊が駐屯し、以後、保安隊、そして昭和29年(1954)からは陸上自衛隊駐屯地となり現在に至る。 陸上自衛隊大村駐屯地は、陸軍46連隊駐屯地の敷地をほぼ踏襲している。戦前の建物としては、

開設直後の明治30年に建てられた(明治32年ともされる)陸軍連隊本部とその他、将校集会所、

兵器庫などが残る。連隊本部は煉瓦基礎木造2階建、その他は煉瓦基礎木造1階建である。 旧連隊本部は、陸上自衛隊大村駐屯地史料館となっており、旧軍時代から現代までの資料を展示

し、建物とともに歴史を伝えている。

※当施設は駐屯地内にあるため、見学については陸上自衛隊大村駐屯地広報室への連絡が必要。

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№ 名 称 23 陸軍病院跡・歩兵第23旅団司令部跡 所 在 地 大村市西大村本町 127

参考文献 大村市史、大村陸軍 問 合 先 大村市文化振興課(℡0957-53-4111)

■ 沿 革

■ 現 状

明治31年(1898)、大村衛戍病院と歩兵第23旅団司令部が開設。大正14年(1925)、軍備縮小

のため歩兵第23旅団司令部が廃止となり、その敷地を衛戍病院が引き継ぎ拡充し、陸軍病院とし

て多方面から患者を収容、治療を行った。

現在は、児童養護施設「光と緑の園」となっており、煉瓦造りの門柱と塀が残る。門の脇に歩兵第23

旅団司令部跡の石碑有り。

№ 名 称 24 白岳砲台跡 所 在 地 平戸市大久保町

参考文献 アジア歴史資料センター HP 問 合 先平戸市福祉保健部福祉課

(℡ 0950-22-4111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

旧日本海軍 佐世保鎮守府により設置されたと思われる砲台跡。アジア歴史資料センターにお

ける資料において『白獄見張所』としての記述はあるが、砲台としての記述を確認することはでき

ない。

砲台が置かれていたと思われる場所は、現在公園となっているが、周囲には、高射砲の弾薬庫

であったと思われる石垣が残されている。

現在は白岳砲台跡公園として整備されており、生月島や的山大島などを見渡すことができる。

Page 14: Ⅰ 戦争遺跡・遺構...問 合 先 長崎市文化財課( 095-829-1193) 沿 革 施 設 太平洋戦争中の昭和18年(1943)初頭、標高145メートルを測る遠見岳山頂とその一帯に海軍監

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№ 名 称 25 高島兵舎跡 所 在 地 平戸市野子町

参考文献 長崎新聞(2005 年 10 月 1日) 問 合 先平戸市福祉保健部福祉課

(℡ 0950-22-4111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

昭和 18 年(1943)頃、米海軍に対抗すべく、主に離島部の防衛強化のため、旧日本海軍により建

設されたという。

平戸南部や上五島海域を監視していたとされる見張りやぐら兼兵舎。

高さは約 30m、コンクリート造りで、屋上には高射砲を据えたとみられる台座も残っており、島民から

は『四階建て』と呼ばれている。

建物は現在も残っており、歩いていくことができるが、人が立ち寄ることはほとんどない。

№ 名 称 26 御崎砲台跡 所 在 地 平戸市生月町御崎

参考文献 アジア歴史資料センター HP

Wikipedia『壱岐要塞』 問 合 先

平戸市福祉保健部福祉課

(℡ 0950-22-4111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

対馬海峡の防備のため、旧日本陸軍により設置された『壱岐要塞』の一角をなす砲台。

昭和 12 年(1937)に着工し昭和 13 年(1938)に竣工となり、15cm砲が二門配置された。

壱岐島の 30 黒崎砲台の41cm砲や 27 的山大島砲台の30cm砲とともに、壱岐水道等に来襲し

た敵の軍艦を迎え撃つこととなっていたようである。

現在も見張所跡や倉庫跡は残っており、西海国立公園 生月島自然歩道から立ち寄ることができ

るが、経年により埋没しているものもある。

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№ 名 称 27 的山大島砲台跡 所 在 地 平戸市大島村的山戸田

参考文献 アジア歴史資料センター HP

Wikipedia『壱岐要塞』 問 合 先

平戸市福祉保健部福祉課

(℡ 0950-22-4111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

対馬海峡の防備のため、旧日本陸軍により設置された『壱岐要塞』の一角をなす砲台。

大正 11(1922)に調印されたワシントン海軍軍縮条約により、廃艦となった戦艦『鹿島』の 30cm口

径の主砲塔を陸上用の砲塔砲台に改造して設置され、大正 13 年(1924)に着工し昭和 4 年

(1929)に竣工となった。(戦艦『鹿島』の主砲塔もう 1 基は、「東京湾要塞」千代ヶ崎砲台に設置) 壱岐島の 30 黒崎砲台の 41cm砲や生月島の 26 御崎砲台の 15cm砲とともに、壱岐水道等に来

襲した敵の軍艦を迎え撃つこととなっていたようである。 現在もコンクリート製の塀や建物跡は残っているが、周辺には人が立ち寄ることはあまりなく、草木が

生い茂っている。

№ 名 称 28 豊砲塔砲台 所 在 地 対馬市上対馬町鰐浦

参考文献 - 問 合 先 対馬市教育委員会(℡0920-86-3211)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

豊砲台は朝鮮海峡に面し、当時、軍事上要衛の地にあり、日本海及び朝鮮海峡の制海権を確実に

するため、昭和4年(1929)5月に起工し5カ年の歳月を費やし完成したものである。実践には、一発

の弾丸も発射することなく終戦を迎え、昭和 20 年(1945)10 月米軍の爆破班により解体された。

このような施設が二度と造られる時代がこないよう、人類永遠の平和を切望し昭和 59 年(1984)12

月現状に復した。 砲塔部及び地下室は鉄筋コンクリート造りで、天井、脚壁の厚みは爆撃に耐えられるよう 2m 以上、

特に砲塔部は、3m の擁壁で保護されている。 現地には説明板を設置している。

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№ 名 称 29 棹崎砲台 所 在 地 対馬市上県町佐護

参考文献 - 問 合 先 対馬市教育委員会(℡0920-86-3211)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

棹崎砲台は上県北西岸の棹崎に設けられ、昭和 11 年(1936)7 月に着工、同 13 年(1938)3 月

竣工した。

45口径15㎝カノン砲4門の砲台であり、砲座、弾薬庫、観測所等があった。

現地は棹崎公園として整備され、第三砲車跡には棹崎燈台が設置されている。

№ 名 称 30 黒崎砲台跡 所 在 地 壱岐市郷ノ浦町新田触

参考文献 - 問 合 先 壱岐市観光商工課(℡0920-48-1111)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

黒崎半島の先端に、昭和3年(1928)8月から6年の歳月をかけて造られた。

戦艦土佐の主砲が設置され、口径 41cm のカノン砲二門の砲台で、砲身の長さ 18.83m、弾丸

の重さ 1t、最大射程距離は 35km であったとのこと。対馬海峡を通る敵船を攻撃する目的だっ

たようだが、砲弾は発射されることなく終戦、その後解体、撤去されている。

現在は黒崎砲台跡入口から西に猿岩展望所があり、そこの売店裏の遊歩道を登ると、砲台の

巨大な穴を地上から見ることができる。

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№ 名 称 31 海軍望楼無線電信跡 所 在 地 五島市玉之浦町玉之浦(大瀬崎灯台)

参考文献 観光史跡案内書、玉之浦町郷土誌 問 合 先 五島市玉之浦支所(℡0959-87-2216)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

地理的条件から、明治31年(1898)、大瀬山の頂に無線電信機を備えた高さが80mある海軍望楼

の無線方位信号所の鉄塔が建設された。良い天気の日には南南西方向に70km離れた男女群島

まで見通すことができた当地は、日露戦争時の明治38年(1905)、日本海海戦の哨戒艦「信濃丸」

からのバルチック艦隊発見を意味する、「敵艦隊見ゆ」の第一報を真っ先に受信した歴史的な場所

である。しかし、航海計器等の進歩により平成4年11月30日をもって業務を終了。玉之浦名物の一

つとして偉容を誇った鉄塔は撤去されることとなった。 現在、鉄塔は撤去され、大瀬崎の展望園地内に「敵艦隊見ゆ」の記念碑が残っている。 現在は、大瀬崎無線方位信号所は残っていないため、保存についても検討されていない。

№ 名 称 32 江島砲台跡 所 在 地 西海市崎戸町江島

参考文献 中村才伊著『江島物語』、崎戸町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

佐世保湾内に侵入するには、東シナ海より幅約1キロメートルの湾口を通過しなければならない。こ

の湾口の敵艦侵入阻止を目的として、江島の遠見岳山頂に砲台が整備された。これが江島砲台で

ある。 砲台があったとされる山頂付近は荒廃が進み現地を確認することができず詳細は不明であるが、中

村才伊著『江島物語』には、昭和 18 年(1943)、遠見岳山頂を整地し見張所を設け、機関銃を取り

付けたとの記述がある。また、同著によれば、昭和20年(1945)の本土空襲の際、同砲台より敵機へ

攻撃を行ったが、僅か3発の砲撃で故障してしまったとのことである。 無

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№ 名 称 33 旧海軍防備隊聴音所跡 所 在 地 西海市崎戸町本郷 337

参考文献 崎戸町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

旧日本海軍佐世保鎮守府の特設見張所の中の聴音所として昭和 13 年(1938)に建設され、昭和

20 年(1945)の終戦までの 7 年間、潜水艦や戦艦のスクリュー音の傍受施設として利用されてい

た。 崎戸町本郷にあるホテル咲き都から約 200 メートル海岸沿い(連絡道有)の展望所横に旧海軍防

備隊聴音所跡はある。ブロック2階建の比較的強固な造りであったため、ほぼ旧状のまま現存してい

る。崎戸町郷土史には、「国家総動員法が発令された昭和13年に御床(みとこ)島周辺に海軍防備

隊ができることとなり、住民は島の頂上まで資材運搬の奉仕作業に連日出かけていった」との記述が

あり、本施設での任務遂行に崎戸住民が重要な役割を果たしていたことが推測できる。 現地には説明板を設置している。

№ 名 称 34 面高砲台跡 所 在 地 西海市西海町面高郷 235-1 付近

参考文献 西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

面高砲台は佐世保湾口の正面防御と側防のため、明治 30 年(1897)に着工、同 32 年(1899)に

完成し、曲線弾道で上部破壊を目的とした榴弾砲と臼砲、平射で舷側破壊を目的としたカノン砲が

それぞれ配備された。 榴弾砲(28センチ)4門、スカ式速射カノン砲(12センチ)4門、銅製臼砲(9センチ)2門他、砲台下

掩蔽(えんぺい)部には、石とコンクリート造りの弾薬庫、砲具庫、電灯所、兵員室などが設けられ

た。また、係船場に通じるよう監守衛舎は砲台の南方に設置され、砲台看守が家族と共に住んだ。

砲台看守が用地巡視中は家族が残り、常時連絡が取れるようになっていたという。 無

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№ 名 称 35 石原岳砲台跡 所 在 地 西海市西海町横瀬郷 532-1

参考文献 西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

石原岳砲台は、佐世保湾口南側における湾口守備用の側面防御のため、明治 30 年(1897)に着

工、同32年(1899)に完成し、敵兵の攻撃に対する側防窖室(そくぼうこうしつ)を備えた砲台であっ

た。翌年10月24日には、皇太子殿下(大正天皇)が同砲台視察のため、寄船地区のウグメ海岸に

上陸され、ウグメ海岸から狭い沿道には奉迎の人々が夜半から集まっていたと伝えられている。 クルップ式カノン砲(10 センチ)6門を配備し、1掩体内の火砲の中心間隔は7メートル、各砲座2門

の首線は南西 10 度、射界は 120 度で広域を射程内に収めていた。終戦後、備砲は米軍によって

撤去処分されている。 遺構全体を「石原岳森林公園」として整備し、キャンプ場も併設している。

№ 名 称 36 ウグメ波止場 所 在 地 西海市西海町横瀬郷 464-9 付近

参考文献 西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

35 石原岳砲台と 34 面高砲台の建築と同時に、ウグメ海岸に資材陸揚場および乗船場として突堤

が築かれた。同海岸より石原岳砲台まで約1キロ、さらに先の面高砲台まで1キロ半の道が、資材、

弾薬、人員の移動運搬のために整備建設された。

また、同海岸は、佐世保海兵団の新兵水泳訓練場として利用され、夏には多くの新兵が訓練を受

けていた。 突堤は石造りで潮の干満に備え、先端は低く造られ、また防波堤も兼ねていた。陸上には、当時、

倉庫が4棟設けられており、予備兵器、弾薬、食料などが保管されていた。 無

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№ 名 称 37 寄船海軍防空砲台跡 所 在 地 西海市西海町横瀬郷 130-5 付近

参考文献 西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

西海町北端の寄船(よりふね)に海軍高射砲台が配備された。西海町郷土誌によれば、昭和2、3

年頃との記述がある。高射砲の隣には寄船地区の氏神である琴平神社があり、この砲台は「琴平砲

台」とも呼ばれた。 当初は、50 口径8センチ高角砲4門、探照灯1基、聴音器1基、兵員数名の配備であったが、太平

洋戦争末期には、45 口径 12.7 センチ連装砲2基、25 ミリ機銃 10 基、12 ミリ機銃 2基、150 セン

チ探照灯1基、兵員 100 名に増強され兵舎も建設された。

また、昭和19年(1944)になると、新たにこの砲台の南方に45口径12.7 センチ連装砲2基、25 ミ

リ機銃8基、12 ミリ機銃1基、150 センチ探照灯1基、兵員 96 名が配備され、地元では「新砲台」と

呼ばれた。 無

№ 名 称 38 虚空蔵防空砲台跡 所 在 地 西海市西海町太田和郷 4600-10 付近

参考文献 西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

昭和 13 年(1938)、西海町中央の虚空蔵山(こくうぞうさん)山頂に海軍高射砲台が建設された。

同砲台の建設には、佐世保海兵団から多くの兵が作業にあたり、資材は川内波止場から運搬され、

地元瀬川村青年団、小学生も手伝ったという。

また、山頂よりやや下方に、兵舎・練兵場が造られた。

45 口径 12.7 センチ連装砲2基、25 ミリ機銃4基、150 センチ探照灯1基が配備された。砲台完成

に伴う佐世保鎮守府司令官視察時には、村人は招集され、道路清掃作業に従事したという。

現在は、「西彼青年の家」として整備されている。

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№ 名 称 39 横瀬海軍貯油所 所 在 地 西海市西海町横瀬郷

参考文献 西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

横瀬海軍貯油所は、昭和5・6年頃の建設計画に始まり、昭和8年(1933)の佐世保海軍建築部の

現地調査を経て、当時8戸の農家が住む、田・畑・山林・住宅・墓地を含めた約 85 ヘクタールに及

ぶ横瀬銭亀地区を軍が買収し、昭和 12 年(1937)3 月 31 日に竣工した。当初の建設計画は、重

油槽5万トンタンク 16 基、揮発油5千トンタンク5基であった。 当初、重油槽5万キロリットル1基で竣工したが、翌年2号槽、翌々年には3号槽が竣工し、昭和 17

年(1942)までに、5万キロリットル槽7基、5千キロリットル槽3基が竣工した。戦時中は、東洋一の

重油タンクといわれたが、昭和24年(1949)12月には米軍使用となり、補償金800万円が瀬川村

へ支払われた。 現在、同貯油所における制限水域の一画に LCAC の新駐機場の建設が始まっている。

№ 名 称 40 長崎要塞地帯区域標(第 75 号) 所 在 地 西海市西海町木場郷 617-2

参考文献 西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存 ■ 参考Hp

明治 32 年(1899)、要塞地帯法が公布され、翌年には佐世保要塞地が告示、要塞司令部が設置

された。要塞地帯は、基準点から一定の距離が決められ、第一地帯、第二地帯、第三地帯とされ

た。各地帯を通じて、地帯内の水陸の状況測量、写真撮影、模写、録取、その他多くの制限事項が

設けられ、要塞司令官または陸軍大臣の許可が必要とされた。 西海町のみかんドーム前を通過し、「瀬川木場バス停」手前から旧道へ入ると、木場公民館があり、

その裏手の民家の庭に区域標はある。 無 みさき道人“長崎・佐賀・天草風来紀行”

http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/62282809.html

Page 22: Ⅰ 戦争遺跡・遺構...問 合 先 長崎市文化財課( 095-829-1193) 沿 革 施 設 太平洋戦争中の昭和18年(1943)初頭、標高145メートルを測る遠見岳山頂とその一帯に海軍監

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№ 名 称 41 長崎要塞地帯区域標(147 号) 所 在 地 西海市西海町七釜郷 2269-1 付近

参考文献 西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

■ 参考Hp

明治 32 年(1899)、要塞地帯法が公布され、翌年には佐世保要塞地が告示、要塞司令部が設置

された。要塞地帯は、基準点から一定の距離が決められ、第一地帯、第二地帯、第三地帯とされ

た。各地帯を通じて、地帯内の水陸の状況測量、写真撮影、模写、録取、その他多くの制限事項が

設けられ、要塞司令官または陸軍大臣の許可が必要とされた。 西海町郷土誌他、資料により位置は、九州電力面高瀬戸線 25 号高圧線鉄塔付近であることが判

明し、現地調査を行ったが、土地の荒廃が著しく遺構は確認できなかったため、西海町郷土誌

(P302)の画像を掲載した。 無 みさき道人“長崎・佐賀・天草風来紀行”

http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/62282809.html № 名 称 42 長崎要塞地帯区域標(第 151 号) 所 在 地 西海市西海町七釜郷 911-1

参考文献 西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

■ 参考Hp

明治 32 年(1899)、要塞地帯法が公布され、翌年には佐世保要塞地が告示、要塞司令部が設置

された。要塞地帯は、基準点から一定の距離が決められ、第一地帯、第二地帯、第三地帯とされ

た。各地帯を通じて、地帯内の水陸の状況測量、写真撮影、模写、録取、その他多くの制限事項が

設けられ、要塞司令官または陸軍大臣の許可が必要とされた。 県道 205 号線より白岳方面へ繋がる県道 122 号線へ進むと、道沿いに九州電力松島火力線 34

号鉄塔入口があるので、その作業路を 10 分程度徒歩で進むと鉄塔があり、そのすぐ傍に区域標は

ある。 無 みさき道人“長崎・佐賀・天草風来紀行”

http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/62282809.html

Page 23: Ⅰ 戦争遺跡・遺構...問 合 先 長崎市文化財課( 095-829-1193) 沿 革 施 設 太平洋戦争中の昭和18年(1943)初頭、標高145メートルを測る遠見岳山頂とその一帯に海軍監

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№ 名 称 43 長崎要塞地帯区域標(第 152 号) 所 在 地 西海市西海町七釜郷 909-1

参考文献 西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

■ 参考Hp

明治 32 年(1899)、要塞地帯法が公布され、翌年には佐世保要塞地が告示、要塞司令部が設置

された。要塞地帯は、基準点から一定の距離が決められ、第一地帯、第二地帯、第三地帯とされ

た。各地帯を通じて、地帯内の水陸の状況測量、写真撮影、模写、録取、その他多くの制限事項が

設けられ、要塞司令官または陸軍大臣の許可が必要とされた。 県道 205 号線より白岳方面へ繋がる県道 122 号線へ進み、伊東牧場へと続く小道へ入ると、途

中、牧場看板が目印となる三叉路正面に草原が広がる場所に出る。その草原の左手斜面沿を徒

歩で進み、植林地帯に入ったすぐの所に区域標はある。 無 みさき道人“長崎・佐賀・天草風来紀行”

http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/62282809.html № 名 称 44 長崎要塞地帯区域標(第 158 号) 所 在 地 西海市西彼町白崎郷 574

参考文献 西彼町郷土誌、西海町郷土誌 問 合 先 西海市福祉課(℡0959-37-0069)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

明治 32 年(1899)、要塞地帯法が公布され、翌年には佐世保要塞地が告示、要塞司令部が設置

された。要塞地帯は、基準点から一定の距離が決められ、第一地帯、第二地帯、第三地帯とされ

た。各地帯を通じて、地帯内の水陸の状況測量、写真撮影、模写、録取、その他多くの制限事項が

設けられ、要塞司令官または陸軍大臣の許可が必要とされた。

四本堂公園北端のオートキャンプ場下の海岸部にある。標柱は、平成 20 年(2008)に発見された

が、経年風化により刻字の判読が困難なため、末永い戦跡遺構としての継承を目的として同年 10

月、地元白崎郷により新設された。

地元で保存

Page 24: Ⅰ 戦争遺跡・遺構...問 合 先 長崎市文化財課( 095-829-1193) 沿 革 施 設 太平洋戦争中の昭和18年(1943)初頭、標高145メートルを測る遠見岳山頂とその一帯に海軍監

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№ 名 称 45 雲仙普賢岳陸軍電深基地跡 所 在 地 雲仙普賢岳山頂付近一帯

参考文献 小浜町・小浜町教育委員会「おばま史跡

めぐりガイド」 問 合 先 雲仙市福祉課(℡:0957-36-2500)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

第二次世界大戦中、雲仙はその山岳地形から重要な役割である対空監査を担うため、軍により接

収されていた。なかでも、1個中隊程度(200名~300名)の情報通信部隊、通称「雲隊」が普賢岳

周辺に配置されていた。

普賢岳頂上に偵察用電波塔が建設され、その近くに情報を受信する見張り台があり、兵舎は仁田峠

にあった。当時これらはすべて国家機密であったと言われている。

当時隊長であった緒方成男氏(東京都)は戦後たびたび来仙され、本隊の歴史的価値よりその財産

化のために尽力されていた。

写真は当時の見張り台(受信所)跡

№ 名 称 46 京泊震洋特攻基地 所 在 地 雲仙市南串山町

参考文献 南串山町郷土誌 問 合 先 雲仙市福祉課(℡:0957-36-2500)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

昭和20年(1945)3月18日より同年5月26日までの約70日間、小富士空十六分隊員(甲飛14

期生)約130名は旧南串山町京泊・田ノ平地区の民家に宿泊して、京泊港の両岸の岩山に、敵

の本土上陸に対する人間魚雷作戦を実行するため、震洋艇を格納する掩体壕の掘削作業に従

事した。この間、隊員達は南串山住民と家族同様のふれあいの中で、軍民一体となって、任務の

達成に努力して、震洋特攻基地隊を迎える運びとなった。 昭和20年7月25日に第65震洋隊岩切舞台(乙飛20期生)が編成され、8月15日に5名の搭

乗員が、5隻の震洋艇で京泊基地に進出した。しかし、橘湾に米軍を迎え撃つ決意を新にしたとこ

ろで、終戦となった。 終戦後昭和20年当時の交情が忘れ難く、旧練習生たちは南串山を訪れ、昔に変らぬ堅い絆が

現在まで続いている。現地には石碑が置かれている。

Page 25: Ⅰ 戦争遺跡・遺構...問 合 先 長崎市文化財課( 095-829-1193) 沿 革 施 設 太平洋戦争中の昭和18年(1943)初頭、標高145メートルを測る遠見岳山頂とその一帯に海軍監

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「Google 地図」を使用

№ 名 称 47 富津砲台跡 所 在 地 雲仙市小浜町富津

参考文献 小浜町・小浜町教育委員会「おばま史跡

めぐりガイド」 問 合 先 雲仙市福祉課(℡:0957-36-2500)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

額栗がっくり

石周辺高台に、昭和18年(1943)頃、陸軍の監視所と兵舎ができ、福岡県の甘木太刀洗の航

空隊から、1個分隊12人の兵隊が任務についた。

45口径3年式12糎砲1門が露天で設置されていた。時には、額栗がっくり

石の上に乗って敵軍を監視して

いたこともあったといわれている。

現地には案内板が設置されている。

№ 名 称 48 千々石(釜山)砲台跡 所 在 地 雲仙市千々石町釜

参考文献 千々石町郷土史 問 合 先 雲仙市福祉課(℡:0957-36-2500)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

千々石第1トンネルのすぐ裏側に海岸高台があり砲台があった。

かつて昭和12年(1937)まで鉄道の路線として使用されていたトンネルに横穴を空けて、砲台の出

入りに利用していた。

第102分隊稗田秋義少尉部隊が45口径3年式12糎砲を1門設置し、49 愛野砲台と同時展開し

ていた。

現在の砲台の壕はコンクリートで塞ぎ、また、フェンス囲いして外部から入れない状態にあり、トンネル

内の横穴は、終戦後同じ石材で塞いで築き直してある。

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№ 名 称 49 愛野砲台跡 所 在 地 雲仙市愛野町乙

参考文献 - 問 合 先 雲仙市福祉課(℡:0957-36-2500)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

設置等の沿革は不明。

愛野展望台南側の鼻先凝灰岩を掘削し45口径3年式12糎砲砲台2基を本体ごと、内部に設置し

ていた。

砲台跡は奥行きが20メートル程度有り、戦時中は大量の砲弾が並べられていたという。

現地には掘削した砲台跡が残る。

№ 名 称 50 県郡民防空南串山第14番監視所跡 所 在 地 雲仙市南串山町城ノ越

参考文献 - 問 合 先 雲仙市福祉課(℡:0957-36-2500)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

昭和12年(1937)、長崎県が南串山防空監視所を旧南串山町国崎半島に設置したが、昭和15年

(1940)からは場所を同町のここ城ノ越に移し、名称も長崎県軍民防空南串山第14番監視所とな

り、終戦の昭和20年(1945)8月15日まで存続した。 この監視所には、敵の来襲を察知して長崎市にある本部に連絡するという使命が与えられていた。

施設は、鉄筋コンクリート平屋建ての屋上に木造の監視室があり、当時の近代的技術を導入した高

性能の望遠鏡と電話が設置されていて、1階部分には、当直室や炊事場があった。

監視に当たったのは、町内の住民の中から選ばれた所員で、3つの班が編成され、1班が10名で構

成され、所長、副所長の指揮のもと、昼夜を問わず3交代で監視任務に当たった。 現地には、写真のとおり石碑が建てられている。

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№ 名 称 51 航空殉難九勇士之墓 所 在 地 雲仙市千々石町岳地区

参考文献 航空殉難九勇士奉賛会編集「五十回忌供養記念」 問 合 先 雲仙市福祉課(℡:0957-36-2500)

■ 沿 革

■ 保 存

太平洋戦争末期の昭和19年(1944)2月2日、旧陸軍の飛行機が濃霧と吹雪の悪天候に加え

エンジンの不調により雲仙岳中腹に激突、搭乗の会津若松29連隊長、大島護大佐以下9名全

員が散華された。この飛行機には前々日の1月31日、皇居正殿において当時の昭和天皇自らの

手で渡された進軍旗が積まれていた。

当時の軍旗というと隊の象徴としてのほか、天皇の分身としてあがめられていた。この連隊は昭和

17年(1942)10月ソロモン群島ガダルカナル島の激戦で玉砕、その後再建された連隊に新軍旗

が下賜されマレー半島にいる現地部隊に帰る途中の遭難であった。 ここ旧千々石町に不運にも散華された勇士9名の名を刻み鎮魂と恒久の平和への祈りをこめ建

立されたものである。

№ 名 称 52 川棚海軍工廠跡 所 在 地 東彼杵郡川棚町百津郷(下百津・数石)

参考文献 *後述の■参考文献を参照 問 合 先 川棚町教育委員会(℡0956-82-2064)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存 ■ 参考文献

太平洋戦争開戦後の昭和 17年(1942)10 月 15日、佐世保海軍工廠の川棚分工廠として開庁創

業、九一式航空魚雷(航空機搭載用の魚形水雷)を製造した。昭和18年(1943)5月 1日、独立し

て川棚海軍工廠となり、航空魚雷工場としては日本一といわれた。昭和 19 年(1944)春、小串・新

谷地区に魚雷艇訓練所が開設され、関連施設が拡充された。 現在、煉瓦積の本部事務所、煉瓦の倉庫群、警備員用や半地下型防空壕が残存しており、町内の

城山・新百津・若草・旭が丘・山手・琴見が丘の各地区に木造の官舎・工員住宅・寄宿舎跡が残っ

ている。 川棚町教育委員会によって塩田跡記念石碑、平成 18 年には説明板を設置している。 №53 54 55 とも、川棚町教育委員会発行「川棚町郷土誌」、川棚文化協会発行「文化協会三十

周年誌」、川棚史談会製作 DVD「我が町の戦時遺跡」が参考文献。

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№ 名 称 53 川棚海軍工廠の疎開先 所 在 地 東彼杵郡川棚町石木郷と周辺

参考文献 *№52 の■参考文献を参照 問 合 先 川棚町教育委員会(℡0956-82-2064)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

昭和 19 年(1944)春頃、米軍機による空襲被害を避けるために工廠施設の疎開移転を開

始。石木川南側沿いに掘削作業でつくられたトンネルの中に旋盤やボール盤などの工作機械

を設置し、24 時間体制で航空魚雷の部品を製造したトンネル工場、大型機械の操業や各種

資材などを収納した半耐爆型工場、疎開工廠総務部用の大型防空壕を開設した。 トンネル工場の内部は全面コンクリート張り、最奥部で相互に連結していた。当時 20 本以上あ

ったが現認数は 17本。高さ 3.2m、幅 4.0m、奥行 47.0m。半耐爆型工場は内幅 7.7m、奥行

100m、高さ 3.75m のコンクリート側壁の上に、木枠トタン葺きの三角屋根を載せた形式。現

在、石木郷の浦川内と鶴堂・岩屋郷の川原地区に計6か所のコンクリート側壁が現存する。疎

開工廠総務部用大型防空壕は主坑道長 149.2m、総延長 221.4m、高さ 3.5m で、多くの部

屋に仕切られており、奉安殿・会議室、事務室などがあった。 崩壊等の事故防止のため、平成 18 年トンネル工場坑口に、町によりフェンスを設置した。また

平成 18 年には川棚町教育委員会により説明板を設置している。

№ 名 称 54 魚雷発射試験場跡 所 在 地 東彼杵郡川棚町三越郷片島

参考文献 *№52 の■参考文献を参照 問 合 先 川棚町教育委員会(℡0956-82-2064)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

大正 7 年(1918)、佐世保海軍工廠や三菱長崎製作所(現長崎造船所)で製造した魚雷(魚形水

雷)の発射試験をするために魚雷発射試験場が開設された。同年片島の山頂には海辺の発射場

から発射された魚雷の進行状況を観測し記録するため魚雷観測所が設置された。試験に合格した

魚雷は佐世保鎮守府に船で送られた。昭和18年(1943)川棚海軍工廠の開設により、新観測所が

片島の南西側の海中に増設された。 コンクリート造の発射場、煉瓦積みの発射場塔、クレーンの基礎台 2 基、五連アーチの桟橋、運搬

用の線路のレール跡が残存し、新観測所橋脚の基礎コンクリート部が海中に残存している。片島を

南北に貫通するトンネルが東部と西部に計2本掘られた。川棚海軍工廠で製作した航空魚雷を船

で運んできて発射試験をするまでの間、これらのトンネルの中に収納したとの記録がある。 平成 18 年、川棚町教育委員会により説明板を設置している。

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№ 名 称 55 川棚魚雷艇訓練所跡 所 在 地 東彼杵郡川棚町新谷郷と小串郷一帯

参考文献 *№52 の■参考文献を参照 問 合 先 川棚町教育委員会(℡0956-82-2064)

■ 沿 革

■ 施 設

■ 保 存

昭和19年(1944)4月1日、神奈川県横須賀水雷学校の分校として移転し、臨時魚雷艇訓練所が

小串郷・新谷郷一帯に開設された。ここを中心として東側の惣津地区・現小串郷駅東部及び北側

の山の手一帯に訓練所関連施設があった。訓練期間は 1~2 ヵ月、訓練生の数は平均で3千人、

多い時は5千人以上も在所した。ここで訓練を受けて出陣した人数は数万人といわれている。 この訓練所は、全国から志願して集まった数万の若人を訓練して震洋特別攻撃隊・伏竜特別攻撃

隊を編成し、回天・蚊竜などの特攻隊員の練成を行った。また訓練所に関連して起重機の基礎台、

兵舎、弾薬庫、停車駅、給食施設(烹炊所)など多くの施設が建設された。 起重機の基礎台と給食所用その他用の防空壕や対空陣地跡などが、大規模だった訓練所関連施

設のうち、現在残存している。地元の新谷郷会が慰霊祭と清掃維持などを続けている。

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長崎県戦後 50周年平和記念事業/平和記念文集(平成 8年 3月長崎県・長崎県教育委員会発行)に

掲載された77編の中から高校生平和作文1編をご紹介します。

~ 戦争をしてはならん ~ 琴海高等学校2年 横瀬奈美さん

(現在は「長崎明誠高等学校」に校名変更)

「おめでとうございます。わたしは市役所の兵事係の

者ですが召集令状を届けに参りました。武運長久を祈り

ます。立派に戦って下さい。」

これは、この夏私が読んだ三浦綾子の『銃口』という

本の中のことばです。二月の寒い日それは突然主人公

竜太のもとへ届けられたのです。日本中がこの赤紙一

枚で妻子と別れ、親と別れ、もぎ取られるようにして戦

地へと行かなければならなかったのです。戦時中、一体

どれ程の人間が涙を流さなければならなかった事でしょ

う。竜太も明後日にはその中の一人になるとは、誰が予

想したでしょうか。竜太はある質屋の長男として生まれ

ました。姉と弟が一人ずついる幸せな家庭に育ちまし

た。竜太は幼い頃から思いを寄せたていた芳子という婚

約者もいたのです。それが今、すべてを捨ててお国のた

め、神と仰いだ天皇陛下のため戦わなければなりません

でした。いつ死ぬとも分からない満州の地で。私は思い

ます。あの赤紙を渡しに来た兵事係は竜太に、

「おめでとうございます。」

と言いました。何がめでたいのか私には分かりません。

戦場へ行くという事はもしかしたら命を失うことになるかも

しれないのです。それに、戦地に向かう兵士に、

「必ず帰って来てね。死んでは駄目よ。」

などと言う事は決してできなかったこと。それだけで非国

民と白い眼で見られます。そればかりか警察に連れてい

かれる人もいたのです。お国のため立派に戦って来いと

しか言えなかった家族の気持ちなども、この本で考えさ

せられました。

この本を読むまで、私は日本の国が絶対被害者のほ

うだと思っていました。それは私が被爆した長崎に住ん

でいるからかもしれません。でも私は忘れていました。日

本がし続けてきた朝鮮・満州に対する数々の非道を

…。前に少し聞いた事がありましたが、こんなに詳しくは

知りませんでした。村々を焼打ちし、人々を無差別に焼

く殺し、多くの人々が苛烈な扱いによって無残な死を遂

げたことを…。

この問題はあれから50年がたった今でも現実にくすぶり

続けています。家族を失ったり、最愛の人をなくしたりし

た過去はその人達の心の中から消える事はありません。

ともすると、私達はその事実を忘れそうになります。私に

は関係のない事だと簡単にかたづけてしまう事もありま

す。でも、この本が戦争の非情さを思い起こさせてくれま

した。

戦争…。それは人類が犯した最大の過ちです。戦後

50年を強調された1995年。一人ひとりがあの日を振り

返り、そして今の日本の平和を考える節目の年だと思い

ます。私は、戦争体験者が少なくなっていく中、少しず

つ戦争という過ちが忘れ去られてゆくような気がしてなり

ません。私達が他人事のように戦争をとらえたとしたら、

たぶんいつか人々の記憶の中から消えてしまうことでし

ょう。だからこそ私は戦争の悲惨さと、今の平和を忘れ

ないようにしたいと思います。家族を想い愛する者を想

い、はかなく死んでしまった特攻隊の若者たち、敵軍に

よって無残にも殺された女性や子供たち、日本軍により

死を選ばざるを得なかった人たち。彼らの死は何を訴え

ているのでしょうか。

『銃口』の中で誰かが言いました。

「何としても戦争はしてはならん。人間は武器を取っては

ならんのだ。」

戦争であらゆる人々に銃口が向けられた事、これは紛

れもない事実です。そして今、平和な日本の中で、戦争

で得た教訓を語り継ぐため様々な活動をしている人々も

います。私も、『銃口』の中の言葉にならって、今、日本

の多くの人々に、いや、世界中の人たちに大きな声で叫

びたいと思います。

『戦争をしてはならん!』

『武器を取ってはならん!』

私はこの言葉を、平和への提言とします。