群馬県、愛媛県での現地研修記 - osaka city...

17
群馬県、愛媛県での現地研修記 は じめに 1 .群馬県の場合 (1) 群馬町N地区にて (2) ジラー ド事件の こと (3) 尾島町 S地区にて (4) 桐生市にて 2 .愛媛県の場合 (1)T 木工工場 にて (2) 菊間町にて (3) 愛媛方式について は じめに 本紀要の毎号に報告 しているように、大阪市立大学同和問題研究室は年に 2 回の現地研修を行なっている。それはいうまで もなく部落問題の実状を現地に おいて直接に学ぶためである。同和対策事業はすでに成果をあげたとして大巾 に縮小 され、あとは啓発活動を画一的にすすめればよいとする流れが強まいるが、はた して同和対策事業 はそれぞれの地域で どう実行 され どの くらい・の 実績をあげたのか、また部落差別は解消されたであろうか。部落の人たちはい まどのような問題に直面 し、どのようなことに努力 しているのであろうか。わ れわれはこうしたさまざまの問題を現地研修で学ぼうとしているのである。 それで今回報告す るのは、1986 年度に行なった群馬県 と愛媛県での現地研修 のことである。群馬県へは1986 7 13 日と 14 日の 2 日間で、参加者は村越末 男(同和問題研究室)、野口道彦(同和問題研究室)、牧 英正(法学部)、 -73-

Upload: others

Post on 12-Feb-2021

7 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • 群馬県、愛媛県での現地研修記

    山 名 伸 作

    はじめに

    1.群馬県の場合

    (1) 群馬町N地区にて

    (2) ジラード事件のこと

    (3) 尾島町S地区にて

    (4) 桐生市にて

    2.愛媛県の場合

    (1) T木工工場にて

    (2) 菊間町にて

    (3) 愛媛方式について

    はじめに

    本紀要の毎号に報告しているように、大阪市立大学同和問題研究室は年に2

    回の現地研修を行なっている。それはいうまでもなく部落問題の実状を現地に

    おいて直接に学ぶためである。同和対策事業はすでに成果をあげたとして大巾

    に縮小され、あとは啓発活動を画一的にすすめればよいとする流れが強まっ て

    いるが、はたして同和対策事業はそれぞれの地域でどう実行されどのくらい・の

    実績をあげたのか、また部落差別は解消されたであろうか。部落の人たちはい

    まどのような問題に直面し、どのようなことに努力しているのであろうか。わ

    れわれはこうしたさまざまの問題を現地研修で学ぼうとしているのである。

    それで今回報告するのは、1986年度に行なった群馬県と愛媛県での現地研修

    のことである。群馬県へは1986年7月13日と14日の2日間で、参加者は村越末

    男 (同和問題研究室)、野口道彦 (同和問題研究室)、牧 英正 (法学部)、

    - 73-

  • 三輪嘉男 (工学部)、桂 正孝 (文学部)、桐村彰郎 (文学部)、佐々木信彰

    (経済学部)、荻谷茂幸 (大学事務局)、殿村 猛 (大学事務局)と山名伸作

    (商学部)の10人であった。愛媛県-は1987年 2月3日から5日までの3日間

    で、参加者は村越末男、三輪嘉男、野口道彦、桂 正孝、桐村彰郎、佐々木信

    彰、荻谷茂幸、殿村 猛、山名伸作の9人であった。

    なおこの報告は、現地で頂いた資料と、研修のときの私のメモによるもので

    ある。したがって大事なことが抜けていたり、あるいは誤まりもあるかもしれ

    ない。その場合は御寛容をお願いしたい。

    1.群馬県の場合

    (1) 群馬町N地区にて

    群馬県には昭和61年4月1日現在で、38市町村に174の地区があり、7,146

    世帯、31,313人の人口がある。地区全体の世帯は20,952、人口は84,203人であ

    るからいわゆる混住率は37.2%となり、一般的な都市化の発展で混住が進みつ

    つあることを示している。群馬県の関係する38の市町村人口は1,324,628人な

    のでその人口に対する比率は2.3%である。同和地区の直面 している困難な問

    題を端的に表わすものとして生活保護状況をみると、県全体の保護率は千分率

    で7.0%。であるのに同和地区全体は10.5%Oと上り、同和関係だけをとると14.8

    %。と県平均の2倍である。

    以上は群馬県生活部同和対策課の資料による。われわれは集計された統計数

    字の背後にかくれている現実の姿を学ぶために来たのである。前夜に高崎市の

    宿舎に集合したわれわれは午前9時に出発して北へ進み、高崎渋川線沿いの群

    馬町N地区に着く。このあたりは広々とした農村風景のなかに新しい家々が目

    立ち、高崎市への通勤者がふえてきているようである。

    隣保館長の0さんが出迎え下さり熱心に説明して頂く。それによるとN地区

    の戸数は現在55であるが、もともとは長吏職4戸があったという。これは旧三

    国街道ぞいに約4kmおきに集落の出口、入口におかれた長吏の 1つと考えられ

    る。0さんの研究されたところでは、N地区発生の背景には戦国時代の16世紀

    初頭に群馬郡箕輪村に箕輪城の築城があり、その周辺に数多くの砦が造られた。

    その守りの 1つであるN砦は現在もわずかに土手の跡があり、その跡地に居住

    -74-

  • したのが部落の先祖である。資料に出てくるのは寛文6年 (1666年)の倹地台

    帳に3名記してあり、天保年間の古文書では14戸、慶応年間には17戸と増え、

    明治、大正まではあまり変化はなかった。

    大正2年生れの老人の昔語を0さんが記録されている。この人の家は350年

    以上も続いた家であるが、 「あそこから向こうは先祖が乞食なんだ」 との偏見

    と差別のなかでの地区の生活の物語りである。農業は大きな農家でも7反 (70

    アール)、多くは3反以下の過少農、それも戸数の三分の一程度で、あとは季

    節労務者か自由業であった。自由業の内容は鶏の買い集め、うさぎその他の小

    動物の取り扱い、野犬狩であって、女性たちは竹皮草履、毒の上族につかう高

    綱の生産に従事していた。

    このほか大正時代は春の彼岸、盆、秋の彼岸、歳末には花売りをした。とく

    に春から秋にかけては 「ジラード事件」の相馬ケ原演習場の草原に咲く季節花

    をとって町に売りにいく。老人も小学生のとき大人にまじって花売りに行った

    ものだという。車引き、馬車引きもあったが部落の人は雇われ人足であった。

    大正から昭和にかけて田植え時期の日雇いが一年を通じてのかせぎ時であった。

    7月15日には子どもたちに新しい着物や履物を買ってやり、盆にはゲタ、草履

    を買って子どもたちを喜ばせる。それが親たちの愛情であった。

    N地区のことについては F被差別部落』東日本編 解放新聞社編 1980年

    に高杉晋吾氏のルポがあるのでくわしくはそれを参照して頂 くことにして,わ

    れわれもここに記してある鶏肉処理場を見学する。当日はたまたま休んでいた

    のをわざわざ機械を運転してもらった。立派な近代的設備で現在は25-26人が

    働らいているが、2、3人を除いては地区外の人であるとのことであった。

    さてあとになったが群馬町は面積約22平方キロ、昭和59年7月 1日現在で7,

    としてはまだ農村的である。同和地区は町内に5地区あり、昭和59年7月1日

    現在で、世帯数は72、60、32、45、12であり、昭和50年6月 1日の調査ではそ

    れぞれ90、60、60、45であったからどの地区も世帯数が減少している。この5

    地区のうち最小のA地区は昭和56年現在では地区指定を拒否していたのでその

    年の調査に含まれていない。そのA地区を除いた4地区の世帯数合計が昭和50

    年には255戸であったのが、A地区も加わっている昭和59年では221戸となり

    - 75-

  • 1割以上も減っているのは大きな変化である。

    人口のほうもこれに対応 して、昭和50年には362人、230人、234人、195

    人の計1,021人であったのが、昭和59年には252人、167人、109人、154人、

    42人となり、最後のA地区も加わっての合計が724人で、3割近くも減ってい

    る。いわゆる混住率もしたがって昭和50年には31.1%、15.6%、18.5%であっ

    たのが昭和59年には19.4%、9.3%、10.0%、ll.1%、4.1%と大巾に下がっ

    ている。それはもちろん地区全体の人口がこの間に急増しているからである。

    すなわち世帯数は4地区計の1,159から5地区計の1,819へ、人口は4,463人

    から6,601人へと50%近くも増えているのである。N地区も世帯数は変らない

    のに人口は減り、混住率も10%を切ってきている。

    これだけ変化して混住がすすんでくると差別が解消の方向にすすむかという

    とそうはならない。町内で戸数の最も多いH地区は1つの行政単位をなしてい

    るだけに差別も強いし、K地区では解放運動に参加しているのは半数であると

    いうことは、A地区が地区指定を拒否したと同じく寝た子を起すなの考えであ

    ろう。長年の差別の歴史が植えつけたものであろう。

    群馬町部落実態調査委員会による F部落実態調査集計表』1953年3月 があ

    る。これは100戸についての調査であるが、結婚差別を受けたことがあると答

    えた人が10人あり、複数回答で夫の親の反対が7人、妻のきょうだいの反対が

    5人、夫の親戚 ・知人の反対が2人、妻の親戚 ・知人の反対が8人,身元調査

    されたが1人、相手から冷たくされたが1人となっている。差別は決してなく

    なっていないのである。しかし結婚の組合せをみると、夫が地区の生まれで妻

    が一般地区の生まれが25.6%あり、夫が一般地区の生まれで妻が地区の生まれ

    の場合が5.6%あって、適姫は広がりつつあると思われる。結婚差別を受けた

    人で妻の親元といきさしていないと答えた人は1人だけである。

    就労形態をみると回答総数209人のうち71%の148人が被雇用者であり、う

    ち常雇は106人、あとは日雇、パートタイムである.自営業主は31人いて半数

    の15人は雇い人なしである。勤め先の規模は5-29人が一番多くて37%を占め、

    300人以上は12%しかいない。官公庁は4.7%の7人である。就労内容は、専

    門的、技術的、管理的職業が204人中わずかに11.8%の24人、一番多いのは単

    純労働者の・57人、27.9%、次が技能工、生産工程従事者の48人、23.5%であっ

    - 76-

  • てこの両者で50%をこえる。

    学歴調査では回答数326人のうち未就学が5人もいる。義務教育のみが56.4

    %の184人で、大学、短大になると在学者7人、中退 1人、卒業8人と非常に

    少ない。だからこそ小 ・中学生を持つ親の願いは、複数回答方式であるが回答

    者30人のうち15人までが大学に進学させたいとしている。差別にまけず、立ち

    上がる力をつけた子どもに育てたいとするのが18人もあることは力強い。それ

    は部落差別の体験、見聞への回答者数326人が複数回答で713件 も体験ありと

    しといることに対応している。項目別で一番多いのは、日常生活の中で、地区

    周辺の人による部落差別であって165人、回答者の50.6%までが体験 している。

    2番目は家族や親せきの結婚に際しての差別体験で98人、30.1%、3番目は結

    婚に関しての部落差別を直接見聞きしたが94人、28.8%ありいぜんとして結婚

    差別は根強し残ってい'る。就職差別は25人、7.7%と多くないがそれでも職場

    内での部落差別をあげた人が31人、9.5%いることと合わせて問題である。 4

    番目に多いのは学校教育の場での部落差別で78人、23.9%、5番目がPTAな

    ど社交の場での部落差別が59人,18.1%となっている。今までに部落差別を体

    験したり、見聞きしたことはないとする人も87人、回答者の26.7%あることも

    あげておかねばならないが、日常的社交の場での部落差別、結婚差別、就職差

    別がこのように多いことは、一般的には部落差別は西日本のことであって、関

    東の方にはないと思いこんでいる人たちすらあるということがいかに社会の現

    実を見ていないかをぱくろするものである。

    (2) ジラード事件のこと

    N地区を出たわれわれのマイクロバスは北-向って進む。かつての養蚕時代

    をしのばせる大きな2階家の家が両側に展開する黒っぽい道は次第次第に高く

    なってくる。榛名の山麓を登っているのである。

    箕郷町のK地区の入口で車がとまる。このあたりはかなりの傾斜で南下がり

    になっている。畑はあるが水田は見えない。水平に走っている道にそって家が

    並んでいる。われわれを案内して下さっていを解同県連の人が先頭になって歩

    いて行き、その人がある家-入ってしばらくして出てきて話を聞くことは無理

    だという。

    この家はジラード事件の被害者であるSさんの親せきの家である。県連の人

    - 77-

  • はこの部落の人たちは事件のことにふれたくないというという。それにSさん

    の家族の方がずっとおられることもあって、周囲の人たちが暖かく見守ってい

    るということであった。不意にやってきて事件のことを聞きたがる外部からの

    人の無神経さに、部落の人たちがどんな思いで口をとざしているのであろうか。

    われわれもすぐ出ることにする。

    ジラード事件というのは、いま陸上自衛隊が使っている相馬ケ原演習場で、

    1957年 (昭和32年)の1月30日に、弾丸拾いをしていたSさん (当時46才)が

    アメリカ軍の兵隊ジラードに射殺された事件である。当時は事件の性格、その

    裁判権の問題等で大問題となったが、時の流れとともにいまでは人々の記憶か

    らうすらいでしまっている。

    しかし、この事件のとき前述の F被差別部落東日本編』にあるように、 「--

    被差別部落の人びとにとって、"これからも命を奪われるかも知れぬ。 しかしわ

    しらにとって弾丸拾いはしごとなのだ。弾丸拾いはつづけさせてもらわなけれ

    ばならないかけがえのない収入なのだ"という複雑な思いを、人びとは知って

    いただろうか。」という部落の現実がはたして正確に報導されたであろうか。

    いやいまでも被差別部落にかかわることとしては語られないのではなかろうか。

    さきにみたN地区の人も夏から秋にかけてはここ-草花をとりに来ていたと

    いう相馬ケ原は、1910年に帝国陸軍が演習場として以来、1922年、41年と拡張

    し、敗戦後の1946年にアメリカ軍がさらに拡大し、しかも演習地区の農耕を全

    面的に禁止してしまった。敗戦当時に35-6戸だったK地区はもともと小作の

    貧しいところであったうえに、アメリカ軍により山林原野を200ヘクタール.揺

    収されたためいっそうひどくなったと、前掲書に証言がある。弾丸拾いはその

    ように追いつめられていた部落の人たちにとって、生きるための命がけの仕事

    であったのである.ジラード事件は30年を過ぎて昔のこととな-1た.しかし私

    は、福井県美浜町で聞いた、原発は神さまだ、原発のおかげで仕事がある、と

    いう言葉を思い出す。危険な仕事を人はすき好んでやるわけはない。わずかの

    火山灰地の耕地だけでは生活は支えられないK部落の人たちのやむをえざる仕

    事であった。それはまたこういう土地に住まわされた差別の歴史こそがこの悲

    劇をもたらした真の原因であることをわれわれに示している。

    K部落から東北-車が走りやがてうつそうたる森の中に入る。陸上自衛隊相

    - 78-

  • 馬ケ原演習場の門は固 く閉ざされていた。あの方向のあのあたりといわれても

    雑木林でよく分らない。われわれは演習場ぞいに榛名山麓を走り、やがて右手

    に眺望が開け赤城の山が見えてくる。

    (3) 尾島町世良田にて

    榛名山麓から平野部に降りて太田市の南西にある尾島町世良田のS部落に午

    後2時に着く。県連役員、支部長、区長、支部書記長、町生涯教育担当課長ほ

    かの方々が待って下さっている.昭手D46年にできた木造の粗末な集会所にはそ

    の壁面を利用して当時の状況を伝える資料が展示されている。有名な世良田事

    件について早速熱心に語って頂く。

    そのまえに尾島町のことにふれておく。利根川ぞいの北側にあって肥沃な農

    地のつづ くこの町は、野菜などの農業が主産業の面積19.3平方キロ、人口約

    15,000人の豊かな農村である。現在戸数50のS部落も2、3戸を除いてはみん

    な農家である。

    この一見平和な世良田の地で、1925年 (大正14年) 1月18日の夜、1,000人

    もの群集がS部落をとりまき、当時23戸あった家の10戸を破壊 し、家々の家財

    道具をみなはうり出して路上で焼いて しまい、12人を負傷させたのが世良田事

    件である。 しかもこの事件を新聞が報 じたのはそれか ら20月 も過ぎた 2月8日

    の夕刊がはじめてであった。

    Mさんは80才をこえているのに、事件の体験者としてわざわざ集会所に来て

    われわれに話して下 さった。Mさんはそのとき13才であった。18日の夕方7時

    ごろ、家のすぐまえで 3、4人が何か叫んだ。それから10分もしないうちに寺

    の鐘、火の見やぐらの半鐘が鳴り出し、部落の西のほうからわっと押 しかけて

    きた。あまりに恐ろしかったのでM少年は縁の下にもぐりこんで難をまぬがれ

    た。おそわれたのは糾弾の先頭に立っていた人の家であり、あさらかに計画的

    に狙ったものである。

    部落焼打ちという前代未聞のこのひどい事件については、前掲書をはじめいく

    つかの資料があるので くわしくはそれらをみて頂 くことにして、ここではかん

    たんにその経過を記 しておくことにとどめる。直接の発端は前年の1924年12月

    31日に、境町のT材木店へ買いに来たMが店のものにむかって 「ポロを着てい

    てもチョ-リンボーではない」としゃべったことにある。この差別発言をめぐっ

    -79-

  • て糾弾が行なわれ、その結果講演会を開くということになった。ところが 1月

    13日になって開かないとの手紙が来た。このことは差別発言者の親戚である村

    の有力者の動きによる。この有力者は村の自警団のなかから交渉委員をえらび

    水平社側に対抗させた。村長は両者を和解させようとしたができず辞表を提出

    してしまった。

    こうした緊迫した状況のなかで、18日はS部落の東端にある家のやぶし (家

    をこわすこと)の手伝いで各戸 1人づっ男が来ていて、仕事のあとの酒をごち

    そうになっていたときに襲撃されたのである。老人、女、子どもしかいない部

    落の家を、暴徒は片っぽLからふみ荒らし、雨戸や障子、家財道具、なべ、か

    ま、フトンまで外-出して焼いてしまった。このとき 「家は焼くな、人を殺す

    な」と叫んでいたのは、放火罪や殺人罪に問われないためであり、こうしたこ

    とをよく知っているものが指導したことを示しといる。警察の動きもなぜかに

    ぶく、館林や伊勢崎からの警官約40名が現場についたのは夜おそくであり、し

    かも竹槍や根棒を持った村民をおさえることもせず、なかには襲撃者と一緒に

    家財道具を焼いている火にあたっていた者もいたという。この警察の動きにつ

    いては1月28日の帝国議会衆議院予算委員会で有馬頼寧が批判している。しか

    も事件の処理としては、襲撃したものは現行犯としては1人も検挙されなかっ

    た。栽判の結果は、襲撃側の指導者たち3人は無罪、懲役6ケ月1人、同4ケ

    月3人、執行ゆう予15人とゆるく、逆に水平社側は剛志村の3人が懲役6ケ月、

    S部落の水平社同人 2人が懲役5ケ月執行ゆう予3年となった。差別者側にゆ

    るく、被差別者をきつく罰しているのである。

    世良田事件はもう60年以上も昔のことになった。しかしなおこの事件は重く

    この地に残っている。前掲書にもあるように、一般地区の人びとはこの問題に

    ふれることをさけている。それは双方の当事者にMさんのように現存Lといる

    人もあり、代は替ってもその家はそのまま土地の有力者としてつづいているこ

    ともあるからである。

    群馬県連の松島一心氏の報告によると、S部落に1984年10月に 「部落史を語

    る会」が発足した。その勉強会のなかで、世良田小学校の卒業生を調べてみる

    と、部落の子どもで卒業生が出るのはやっと1900年に1人である。それまでに

    760人以上の卒業生があったのにである。それが1911年~19年になると男子19

    - 80-

  • 人、女子8人となる。松島氏はそれをみて焼打事件は目ざめようとした部落の

    若者達を、村一番のインテリがあらゆる手段で押しつぶそうとした事件ではな

    かったかとする。

    もう1つ。85才まで生きて20年まえに亡くなったM老人が、われわれの祖先

    は今井の地に眠っているといった。この意味を探っていくうちに分ったことが

    ある。世良田は昔新田義貞の新田庄の中心であり、その関係で義貞、その奥方、

    息子をまつる3つの桐がある。やがて江戸時代になって三代将軍家光のとき、

    東照宮を家康の遠い先祖の地として世良田へ建てた。そのときそのすぐ上座に

    ある息子をまつる子方神社を守っていた人々を、強制的に村の外れの下の原に

    追い払った。1642年 (寛永19年)のことである。現在の部落内の最も古い墓石

    はそれから32年後の延宝2年のものである。このことはA家の過去帳でたしか

    められる。なおこの過去帳のなかの1872年 (明治5年)の女性の戒名は明らか

    に差別戒名である。

    東西に家が並ぶ部落のすぐ裏手には、かつて襲撃のときそこを渡って人々が

    逃げたという小川が流れている。そこに改装された共同墓地があり、差別戒名

    の刻まれた墓はいまも残っている。

    このあたりの歴史を知らない私には世良田は不思議なところである。中心部

    で東西南北の道が交わり、そのすぐ北には関東三大祭りといわれる八坂神社が

    ある。逆にすぐ南手に長楽寺という大きな寺がありそれに隣接してたしかに東

    照宮がある。新田の紋と徳川の紋が並んでいる。徳川の先祖の地がどうしてこ

    こ世良田なのか。征夷大将軍になるためには源氏であることが必要でありその

    ために新田と結びつけたのではないか。たしかに近くに徳川の地名があり、そ

    こには関東に 2つしかなかった縁切り寺万徳寺もある。万徳寺については同行

    の牧教授に内容を説明してもらう。

    いずれにしても部落のいいったえのように東照宮建立のときに強制的に湿地

    へ追いやられたのが真実であるとすれば、部落は徳川初期から受難の途を歩い

    ているのであり、しかも明治解放令後60年もたった1925年になってなお、差別

    者側の村人たちが1,000人以上も武装して部落を焼打ちしたのである。差別の

    根がいかに深いか。

    運動側もいつも正しかったわけではない。事件の処理をめぐって問題があり

    - 81-

  • 運動も衰退したが、われわれが訪ねたときは、50戸のうち1戸以外は全部同盟

    に結集しているとのことであった。午後もおそくなってわれわれはこの地をは

    なれる。

    (4)桐生市にて

    桐生といえば西の西陣と並ぶ東の織物産地として1200年の歴史をもつまちで

    ある。面積132平方キロの細長い三角形の75%までが山地であるが、1921年以

    来の市であり1980年の人口が13.2万人となっている。現在では繊維関連産業よ

    りも自動車部品等の機械金属工業の出荷額が多く、とくにパチンコ機械製造が

    急激に伸びていることはまだそれほど知られていない。

    それよりも社会問題に関心のある人たちにとっては、田中正造の名と結びつ

    く浮良瀬川の鉱害のほうが問題であろう。桐生市勢要覧によれば1970年になっ

    てからはアユのすむ清流になったと紹介されている。この要覧には 「東の西陣」

    を育てたのは自由な空気と進取の気性であるとも記されている。

    鉱害を克服し、自由で進取の気風のこのまちになんとも納得のいかないこと

    がある。それは被差別部落が昭和42年調査では市内に9地区もあり、そのうち

    のわれわれが訪ねるH地区は、戸数160、人口960人の群馬県最大の部落であ

    るのに、桐生市当局は桐生市には部落はないとしているのである。

    前夜市内で泊ったわれわれは7月14日の朝市内のH町2丁 目を訪ねた。料理

    店を営業しているM氏の宅-上らせて頂いて、県連書記長のB氏も交えて地元

    の方たちのお話を聞かせてもらう。

    1922年に全国水平社が結成され、翌年群馬県でも組織ができたが桐生では立

    ち上らなかった。その後ずつと時が経過し同対法が施行されてからも、働らき

    かけはあったがだめであった。1971年に解放同盟関東ブロック代表の野本氏が、

    桐生市には部落はないとする市長に、1971年 (昭和46年)まで特別交付税が来

    ていたのはどういうことかと追求すると、市長は県に部落はないと回答し、特

    別交付税は打切られてしま.ったd以来いまも市の態度は変っていない.

    このH町2丁目は桐生市の市街地の東を境して北から流れてくる桐生川が東

    南に向きを変えたとこ.ろの南側であり、∫R両毛線が川ぞいに走っている。

    最初案内されたときは、車を降りたところは道も整備されているし家もみな

    新しいので、これならいいではないかと内心思ったが、実はこの一画は区画整

    - 82-

  • 理事業の行なわれたところであって、内実は家の借金で苦しんでいるという。

    H地区が環境劣悪の密集地区であることは近くを歩いてみてすぐ分った。狭い

    道路に廃品回収業、皮革学その他の業者が混在しており、在日韓国、朝鮮人の

    ○戸の回まりもある。戸数は現在250戸でまだ消防車の入れないところが80戸

    ぐらいある。仕事はほとんどが土木などの労働者である。われわれは桐生川の

    堤防に上ってみて驚いた。両毛線が右岸から山側-渡るところのすぐ上手であ

    るが、かつての水害の跡がそのままになっているのである。この地は昔からし

    ばしば水害におそわれたところである。同行した工学部三輪助教授が、桐生市

    史にもこの地区は戟前はゴミ焼却場があり、市内で最も環境の悪いところだと

    明記してあるのに、いまになってもほとんど改善されていないといわれる。地

    域にはいまは同盟の支部が結成され、市に対して地区指定を要求 しているのに

    市はこれに応じようとしない。早く地区指定しておればかなりの環境改善はで

    きている筈である。

    次にわれわれは少し北-行って東へ橋を渡り高台に案内される。眼下に市街

    を展望できるこの高台には道も広く新しい中層アパー トが整然と並んでいる.

    しかし道の反対側の斜面には部落が斜面にへばりついていてそこへの急な道に

    は車も入れない。部落の奥には墓地がありそこに見せてもらったあと、ふたた

    び川を渡って市役所-向う。

    午前11時過ぎから市役所で懇談をはじめる。市役所側からは教育委員会次長,

    同課長、福祉事務所長、群馬県からも同対室課長補佐が出席し、運動体側は県

    連書記長、桐生支部長それに地元の人たちも数人参加する。

    まず同行の村越教授が、今日現地を見せてもらってびっくりしたのは典型的

    な地域であるのに、同対法発足の1965年以前の状態のままにおかれていること

    であると指摘する。全国各地の実状にくわしい教授の言であるだけに説得力が

    ある。次に地区の生活保護率の問題に移る。桐生市は7.60%Oで、県平均の5.53

    %Oよりも高い、その桐生市のなかでもH町 2丁目は23.96%Oと市平均の 3倍強

    もある。内訳としては長期療用者が58%、その他は高年令者と母子家庭である。

    高校への進学率は昭和60年度でM中学で男7人のうち6人、女子は9人全員で

    ある。

    さて問題は同和地区の存在を認めない市の態度である。この日のやりとりで

    - 83 -

  • も市側は同和地区はないとのくりかえLであった。道路整備や公営住宅につい

    ても市の答えは、家賃は公営住宅基準でやり、道路整備は全市的にやっている

    というだけであった。地元の人たち70人もが組鰍 こ加入して、地区指定を要求

    しているのに、市側は混住で住民の合意がむつかしいという。地元の人はそん

    なことない。混住はほとんどなくせいぜい1割だけだという。地元の人はいう、

    反対者がいると市側はいうがそれが誰なのかはっきりしないと。県連書記長が

    運動しているのに桐生は市議会もとりくまないと決議しているという。県同対

    室課長補佐も県としては地区指定するようにと指導しているという。結局桐生

    の揚合は市長と市議会が同和地区の存在を強引に否定しているのである。県下

    にはこのような市町村が5つあるとのことである。

    こういうところでは差別事件があとをたたない。3年まえに市内の中学校の

    男の先生、小学校の女の先生の結婚問題があった。男性は国立大学法学部の出

    身であった。女性のほうは大学を卒業するまで自分が部落の人であることは知

    らなかった。それが結婚式の1ケ月まえになって男性側の親族会議で反対され

    男性の態度が急変した。女性は男性に会ったが男性はもはや結婚の意志はない

    とけってしまった。仲人になった人が全解連に頼み法務局に乗り出し説示した。

    県教育委員会、県連書記長も説得に努力したが結局駄目だった。こうして女性

    は差別の犠牲者になった。

    われわれがコピーをもらった地元の市役所御用新聞といわれるものに、市長

    も市議会も同和地域指定反対で同一歩調をとっていることを賞めて、 「-市内

    に同和地域はここですよと差別的なことは許されないだろう。この指定を受け

    たところは国の予算、その他の制度的恩恵が受けられるというが、金で解決で

    きない精神的な打撃の大きいことを考えた場合、市長、議会の見解は当然であ

    る。」としている。

    現実に存在している、誰でもが知っている同和地区の存在を認めようとしな

    いこと、それも国の責務、国民的課題としての同対事業がもはや打ちきられよ

    うとしているときになってなお国民的課題を無視しようとする、桐生市の市長、

    市議会の態度はいったいどういうことであろうか。金で解決できない精神的な

    打撃の大きいのは男性教員なのか、女性教員なのか、最高の学歴の青年ですら

    なお結婚差別をあえてする地域の社会的風土はどのようなものてあるか。

    - 84-

  • 2.愛媛県の場合

    (1) で木工工場にて

    1987年 2月3日、この日の大阪の空は雲低 くいんうつではあったがそれほど

    の悪天候ではなかった。ところが松山は珍しくひどい吹雪で荒れていた。午ご

    ろには松山-つくつもりでいたわれわれはそのため大巾におくれて しまった。

    新幹線を三原で降りてす ぐ乗った今治行の船もその日の最後の便であり、今治

    から列車でやっと松山-たどりついたときはもう夜になっていて、予定されて

    いた行事は不可能になった。それでもすぐ市内のH会館に案内されK県議以下

    の方に出迎えて頂 く。

    2月4日は昨日のことがうそのように青空の好天になった。9時に宿舎を出

    たマイクロバスが重信川を渡るとあたりは昨日の雪で真白である。やがて 5万

    坪近くも広い敷地のTキング-ウス工学KKにつく。ここは昨夜出迎えて下さっ

    たK氏が会長をされている会社である。

    早速会議室で県の人、地元の人たちから愛媛県下の同和地区の概要を聞かせ

    て頂く。

    愛媛県には市町村が70あるが、このうち同和地区は59市町村にありはぼ県下

    全域に散在 している。同和地区を有する市町村数がこのよう・に多く全国都道府

    県で5位であるが、地区数は477と全国で 2番目に多い。 しかし世帯数は約13,

    000弱で9位、人口は約45,000人強で8位となる。これ・は規模別にみて40世帯

    未満の地区が、全国平均では43.4%に対 して愛媛県は82.4%と多 く、逆に100

    世帯以上の大地区が全国平均でが29.3%あるのに愛媛県ではわずかに2.3% し

    かないことによる。 もっと細かくみると、愛媛県の場合、世帯数規模で多い地

    区は、10-19世帯が32.9%、20-39世帯が28.7%、 5-9世帯が15.1%の順に

    なっている。これに対応する全国平均の数字は20.8%、28.7%、13.1%である

    から明らかに小規模地区が県下全域に散在 していることが うかがえる。事実市

    町村別同和関係世帯数別分布図をみるとそうであって、山間部と南予の数町村

    を除いて県下各市町村に分布 している。

    またいわゆる混住率は全国平均の60.6%に対して51.1%と高く、県の説明で

    も同和関係者と地域外住民との交流が徐々にではあるがすすんできているとさ

    れている。

    - 8 5 -

  • 同和対策事業、地域改善対策事業は、地区が海岸部や山間部に点在 している

    ため生活環境対策の一環である道路、住宅関係が全事業費の約_7割を占めてい

    る。産業基盤整備対策については漁業対策もあるが農林業対策が中心になって

    いる。

    さて松山市には地区が92あり、同和関係世帯数は約3,000、人口は約12,000

    人弱である。混住率は41.4%と都市化の影響を受けてすすんでいる。世帯規模

    別にみると多いのは県全体と同じく、10-19世帯が29.3%、20-39世帯が23.9

    %、5-9世帯が13.0%の順であるが、40世帯以上が32.3%と少し高く、この

    うち100-159世帯が3地区ある。ただ前述の悪天候による予定変更で松山市

    内での地区訪問はできなかった。

    以上が愛媛県下の同和地区の概要であるが、われわれは今度はT杜の工場見

    学をする。広い敷地にま新しい工場が整然と並んでいる。ここはCAD、CA

    Mシステムを導入した-イテクの木造住宅一貫製作工場である。建築主はここ

    へ来て自分の希望をいえば、それがすぐカラーの平面図、立体図となり、納得

    いくまでの修正もすぐにできる。このCADシステムでこれまで20日前後かかぅ

    ていた設計、見積書が 1日でできてしまう。次の段階はCAMである。設計書

    の仕様にもとづく各部材の仕上げ方法がフロッピーデスクに記憶されて工場に

    送られ、 1戸分の部材が約3時間で完了するとのことである、われわれは広々

    とした工場のなかで仕事がスピーディにすすんでいくのを感心しながら見学し

    た。ここには西 ドイツから輸入した真空高速乾燥機、高速木材乾燥機のある工

    場、家具、建具工場、防虫、防腐工場などもある。

    総投資額40億円、年産能力1,000戸という最新木造住宅工場がこの地にある

    とは正直に言って驚きであった。CADシステムによる注文建築のカラー立体

    図が次々に出てくるブラウン管を見ながら技術はこんなにすすんできているの

    かとあらためて感心した。もっともこの工場は昭和61年の春にできたばかりの

    こともあって昨年の実績は150戸で、今年度 (1987年)は200戸が目標である

    とのことであった。年産能力に比べればまだまだであろうし、すべてが順調に

    というわけにはいかぬこともでてくるであろう。しかし東京、大阪からはかな

    り遠いこの地での、日本での最先端のハイテク企業が着実に成長していくこと

    を期待する。

    -86-

  • (2) 菊間町にて

    昼食のあとすぐ今度は北へ向う。北条市を過ぎて左手に斎灘を見ながら・菊間

    町へ。ここは瓦の産地として有名で、永々の屋根の瓦が上等である。

    やがて国道から海岸のはう-入る。小高い山があり八幡神社か中腹にある。

    その山の南側のふもとの菊間隣保館につく。町会議員の身体の大きいM館長が

    待っていて下さる。

    この隣保館は1973年 (昭和48年)にできたもので、敷地約330平方メートル、

    建物面積約200平方メー トルの鉄筋2階の建物である。頂いた資料によると、

    菊間町には地区が4つあり、昭和61年 4月現在で総世帯約220、総人口約780

    人である。このうち2つの地区が101世帯、92世帯とやや大きく、あとの 2つ

    は17世帯、10世帯の小さい。混住率は平均で98.1%であるから混住はあまりす

    すんでいない。

    会館を出てわれわれは東へ歩き、鉄道線路をこえてすぐのスレート瓦工場-

    案内される。スレート瓦の製造工場を見学し説明してもらう。ここは大型共同

    作業場として昭和53年度に用地取得し、静電塗装工場、スレー ト工場、全自動

    成型機など約2.3億円かけて建設されたものである。

    スレート工場をでて坂道を登ると斜面にそって整備された墓地と新 しい火葬

    場がある。墓地はさきほどの地区の中央部にあったのを昭和56年度の事業で移

    転したものであり、火葬場な翌年の事業である。火葬場はもちろん町営であり、

    ここへの道は同対事業で施工されたのであって町民全体に役立っている。

    新しい墓地から引き返す途中で西のほうをみると地区が一望できる。昔の墓

    地のあとは公営住宅になっている.昭手D47年度から60年度までの事業調査によ

    ると、昭和50年度から小集落地区改良事業がはじまり、51年度に22戸、52年度

    に22戸、54年度に17戸、56年度に4戸の改良住宅を建設 している。また57年度

    には20戸、60年度には4戸の公営住宅団地もつくられている。こうして不良住

    宅が買収除却され、団地が整備されたあと改良住宅が建てられ、別に新築、改

    修資金の貸付もなされていて、地区の外観は立派になっている。昭和47年度か

    ら60年度までの地域改善対策事業費の累計は約37.4億円であるが、そのうちの

    約33%は小集落地改良事業費であり、9.5%が公営住宅建設事業費である。.住

    宅新築資金等貸付事業にも7.6%が向けられている。

    -87-

  • 整備された道路と改良住宅の団地を通り、地区の周辺も歩いて廻る。菊間の

    特色は昔から仕事はあるということである。数百年の歴史を持つ瓦の産地であ

    ることから、瓦に関連するさまざまの仕事があった。とはいってもその仕事と

    いうのは瓦を積み出しの船へ運ぶというような肉体労働が主であった。小学校

    を出るとすぐ働いたものだと老人がいう。午後もおそくなりわれわれは再び松

    山へ引き返す。

    (3) 愛媛方式について

    2月5日の朝、われわれは市内のH会館へ行く。ここで県の課長クラスの人

    たち、運動体の幹部の人たちと懇談する。問題になったのは大学進学率のこと

    である。たしかに高校進学率では一般との差が縮少したが大学進学率では大し

    な差がある。かつて部落の人たちは中等教育も受けられないのがほとんどであっ

    た。そのために職業的に不利にならざるをえなかった。これから先のことを考

    えれば大学進学率の低さが同じ問題をくりかえすことになるであろう。地対法

    の終了で奨学資金が貸与制になればそうなる乙とは明らかであるということで

    ある。また関連して、昨年 (61年11月)松山で第38回全国同和教育研究大会が

    盛大に行なわれ,県も同和教育に熱心に取りくんでいるが、高等学校での同和

    教育が少し低調ではないかとの指摘もあぅた.

    そのあと月1回の生活相談員会の日であるからと案内される。菊間町のMさ

    んの顔も見える。60人以上と思われる県下各地からの方々が熱心に話をされる。

    そこで出された問題には村越教授がそれぞれ回答、解説される。

    各種相談員連絡協議会には、生活相談員会、結婚相談員会、営農相談員会、

    職業相談員会、経営指導員会、記帳指導員会の各部会があって問題ごとにきめ

    細かい指導をしている。

    さて愛媛県の解放運動の特色は、独自の県下一本組織の愛媛県同和対策協議

    会にまとまっていることにある。県会議員であるK氏の指導力で成立し継続し

    ているこの組織は、全国組織である部落解放同盟とは友好関係にあるが別組織

    である。それは同和対策を強力に実行していくことを目的に、K氏等が保守党

    からの知事を支援したことにある。現在は引退しているが、数期にわたって県

    独自の各種政策をおしすすめたことで全国的によく知られたS知事を会長に、K

    氏が会長代行であるこの組織は、県行政と密接に協同するという形で具体的事業

    - 88 -

  • を実施してきた、ユニークな方式である。頂いた資料をみると、各市町村にお

    かれている支部の支部長には、県会議員、市会議員、市長、町長が就任してい

    る。 「対話と協調」、 「行政と共闘」、 「教育との連帯」の愛媛方式は、第26

    回定期大会議案集 (昭和61年4月25日)にある部落解放基本法制定運動によく

    あらわれている。八幡浜市長を座長に、地元財界、宗教界の代表を集めての運

    動で、昭和60年に県下ほとんどの町村での決議をかちとり、県選出衆参国会議

    員全員を含め225万人の署名を集めている。愛媛方式に則っとった 「行政と共

    闘」のみごとな成果である。昭和61年度の運動の指標の1つであった全同教第

    38大会 (愛媛大会)も、完成したばかりの県民文化会館等で盛大に実行されて

    いる。愛媛方式の今後の展開が注目される。

    - 89-