一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島...

20
森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 はじめに ここで取り上げるのは,蓼生活綴方恵蔀の子嚢 磯巻甕瞬暮に鶴かって選に駁められている丹瀦徳 子¢)実践記録である。この実践が誌こなわれた簿 年代の半ばは,全騒的にも恵綿¢)生活綴方蜜践の 特籔が運解されつつあり,その子ども捲縷ξ)隻進 性や鐸晶に反狭された震践の質的評懸紐も注馨が 集ま酵始めていた時難で為る。その幸心紅いた実 践家グ)一入が丹羽であった。しかもこの丹灘実践 は,中津購毒教育薦疑会議が協力した鑓録駿塵作 絞と平行した時難紅もあたっていたので,藻分魏 で1まあるが1幾1象の記録も残さ穀た。さらに,石蟹 穣男との素縫執筆,もしくは共縁実践記録である 匿生き方を考える性の教育遜にも,瞬詩麟ヂ)丹羽 学綴の織子が兎墾に鑓録されている。 この実践にもっとも緒方的な分極の筆を執った のは,ほとんど患部には建を運ばなかったものの 患部の実践・運嚢紅関心を払ってきた五十嵐鑛で あった。さらに,懸年代半ぼ過ぎの今麟こあって も穣中孝彦によって葬現代の教育実践の古典ゴ(岩 波密教脊学人携麟として評遜されている。この 樗羽実践への高い評懸は当然とはいえ,「患部の 生活綴方実践」の全体的な評鱗との関連でどうな のか,という観点から中津堰灘小学校,付知簿教 醗,上小学校から続く蓬番§のテーマとして設定 した。ただし,実践そのものがかな陰知られてい ることもあって,丹羽実践の辞儀にかかわる講点 解中心となる。 もちろん,筆巻の総年代摂究,驚年代講究は, とりあえずは今欝欝開題意識をなるべく擁饑し事 実の紹介に重心をかけてきたので,これまでの講 発の延長線.とでこの論稿を書き続垂ナることとした い。なお薄灘のこの実践謎録は,毳毳では縫蔽だ が全羅規模の離叛だったので,箆較的欝に離れる ことが多い。そういう資料的特性から,紙幅の舞 台もあるので弓瞬きは原文のままをなるべく避けて, 要約・技粋1こなることが多いことをお藪脅してお ぎたい倉 1 丹羽実践の背景とその機要 この実践記録の舞台1難解§年蓬月から77年3擁 にかけての中津鱗毒坂本小学絞である。坂本地褻 は,中津纐毒の中心部から藩方に猿直し,戦後に なって農地開拓紅よって人員が増撫しはじめ,ま た中心薬紅ある工場へ通聾する人たちの住宅擬発 も,この蒔簸1こ進んだ。そして,7§年から始まる 「学力」を中心テーマとした籍学校撹辛毅の「市 民運動」の中心地でも訪った。この動きは,恵郷 の各地の教懇親甥の保守的政治勢力の動きと連動 していたが,右濠の労轡運動の損い手が絡むとい う驚年代の縫代的特籔をもったもので,またその テーマもそれ舞鶴とは質的に異なる要素があった。 丹羽は,典型的な生活綴方実践家として,この 「学校擾灘舅運動の竣撃の矢面紅立たされ,この 学級の子どもたちを卒業さ量た直後に,ついに心 労から2カ年の病気林1織を余儀なくされることと なった。讐灘実践は,教官学的な,つまり生活綴 方実践の意義を綾証する素材であるだけでなく, こうした政治釣運動と学校・教饒の関わり,教欝 運嚢と「学校鏡鞍」運動との関わ参という襲鰯を 昆逸すわけにはいかない。 新鹿がこの学較鼓舞の斎民運動を輯遣した姿勢 は,まさにこの「地域1こおける敬治力学」を中心 に置くものだったといえる。このヂ学校撹鞠は, 票数畜委員会とその鐵先である地方教欝事務飛と, 中津鱗毒教委との行政的縫係にも大きな影響を与

Upload: others

Post on 09-Jul-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝

欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一

森 田 道 雄

はじめに

 ここで取り上げるのは,蓼生活綴方恵蔀の子嚢

磯巻甕瞬暮に鶴かって選に駁められている丹瀦徳

子¢)実践記録である。この実践が誌こなわれた簿

年代の半ばは,全騒的にも恵綿¢)生活綴方蜜践の

特籔が運解されつつあり,その子ども捲縷ξ)隻進

性や鐸晶に反狭された震践の質的評懸紐も注馨が

集ま酵始めていた時難で為る。その幸心紅いた実

践家グ)一入が丹羽であった。しかもこの丹灘実践

は,中津購毒教育薦疑会議が協力した鑓録駿塵作

絞と平行した時難紅もあたっていたので,藻分魏

で1まあるが1幾1象の記録も残さ穀た。さらに,石蟹

穣男との素縫執筆,もしくは共縁実践記録である

匿生き方を考える性の教育遜にも,瞬詩麟ヂ)丹羽

学綴の織子が兎墾に鑓録されている。

 この実践にもっとも緒方的な分極の筆を執った

のは,ほとんど患部には建を運ばなかったものの

患部の実践・運嚢紅関心を払ってきた五十嵐鑛で

あった。さらに,懸年代半ぼ過ぎの今麟こあって

も穣中孝彦によって葬現代の教育実践の古典ゴ(岩

波密教脊学人携麟として評遜されている。この

樗羽実践への高い評懸は当然とはいえ,「患部の

生活綴方実践」の全体的な評鱗との関連でどうな

のか,という観点から中津堰灘小学校,付知簿教

醗,上小学校から続く蓬番§のテーマとして設定

した。ただし,実践そのものがかな陰知られてい

ることもあって,丹羽実践の辞儀にかかわる講点

解中心となる。

 もちろん,筆巻の総年代摂究,驚年代講究は,

とりあえずは今欝欝開題意識をなるべく擁饑し事

実の紹介に重心をかけてきたので,これまでの講

発の延長線.とでこの論稿を書き続垂ナることとした

い。なお薄灘のこの実践謎録は,毳毳では縫蔽だ

が全羅規模の離叛だったので,箆較的欝に離れる

ことが多い。そういう資料的特性から,紙幅の舞

台もあるので弓瞬きは原文のままをなるべく避けて,

要約・技粋1こなることが多いことをお藪脅してお

ぎたい倉

1 丹羽実践の背景とその機要

 この実践記録の舞台1難解§年蓬月から77年3擁

にかけての中津鱗毒坂本小学絞である。坂本地褻

は,中津纐毒の中心部から藩方に猿直し,戦後に

なって農地開拓紅よって人員が増撫しはじめ,ま

た中心薬紅ある工場へ通聾する人たちの住宅擬発

も,この蒔簸1こ進んだ。そして,7§年から始まる

「学力」を中心テーマとした籍学校撹辛毅の「市

民運動」の中心地でも訪った。この動きは,恵郷

の各地の教懇親甥の保守的政治勢力の動きと連動

していたが,右濠の労轡運動の損い手が絡むとい

う驚年代の縫代的特籔をもったもので,またその

テーマもそれ舞鶴とは質的に異なる要素があった。

丹羽は,典型的な生活綴方実践家として,この

「学校擾灘舅運動の竣撃の矢面紅立たされ,この

学級の子どもたちを卒業さ量た直後に,ついに心

労から2カ年の病気林1織を余儀なくされることと

なった。讐灘実践は,教官学的な,つまり生活綴

方実践の意義を綾証する素材であるだけでなく,

こうした政治釣運動と学校・教饒の関わり,教欝

運嚢と「学校鏡鞍」運動との関わ参という襲鰯を

昆逸すわけにはいかない。

 新鹿がこの学較鼓舞の斎民運動を輯遣した姿勢

は,まさにこの「地域1こおける敬治力学」を中心

に置くものだったといえる。このヂ学校撹鞠は,

票数畜委員会とその鐵先である地方教欝事務飛と,

中津鱗毒教委との行政的縫係にも大きな影響を与

Page 2: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

i§ 橿島大学教育学認論纂第§5考

えたし,それ以上に像守灘政治勢力と革新濠講罠

運動,教緩運動との馨鱗こも摩擦をつくり議し,き

わめて深薦な影響を学校にもたらすことになった。

このように,塩鱈綴方実践以躰の磐的状溌が縮ん

だものであったので,これをどのような要素とし

て逡解するのかということも重要なテーマではあ

る。

 丹場実践そのものは,いわば教室の外のこうし

た嶽をのり越えたところで成立したもので,丹羽

への魑人攻撃も強桑望にあったが,それで実践が意

麟しない方溝に歪められたというように受け取る

必要はない¢もし作品を礫解するとしたら,そう

いう背景をぬきにしても可能である。しかし,甫

議会でド万鱗きの手引き書」だという蔑縢無稽な

葬難発言の鰐象となった作贔にしろ,記録硬露に

登場する「お母さん私が書いてやるで一…」とい

う作贔にしろ,舞灘実践はこの「学校撹覇」の織

烈な嵐のなかでうみ縷されたものであり,ヂ子ど

もで勝負」する悪漢の教責の真骨頂を示すもので

ある、むしろ,そうした環箋のなかでいっそうそ

の鐸きを増している。

 家構の筆者の立場1ま,こうしたr学校鍵鷺」運

動に鰐して轟然撰1舞納である。しかし,それはこ

の実践を無条樽祷こ賛美するということを意殊する

ものではない。また,彩学力」にいわば焦点牝さ

れる毒毘意識や幾の「教育」要求の験証という羅

究的な課題を不要とするものでもない。むしろ,

灘年代終盤から嬉蒙った患郵教官会議運動,およ

び中齪され7§年代半ぱによみがえった教奢毒浸会

議運動の評癬という課題と一薩線につながるテー

マである。恵蔀の薮鴬・教纏運動(盤活綴方実践

をも食んで)の教育鮭会学的挨誕が必要とされる

のであるが,本稿では藻分的紅ふれるにとどまる。

<窪萌饗に向かって毒(上〉の機要>

 使われている活字がやや大きめということもあ

るが,認容頁にも及ぶゼ墾羅紅鶴かって塞本体と,

性教官の藻分をあつかった窪生き方を考える性の

教鳶盤でも腿§頁近くあるのをどのように要約す

ればいいのか,難しい。また,ここで綴られた子

玉響憾年肇2月

どもの作贔も全文掲載してこそ意義があるもので

あるが,それ.はここではおこなわない。こ1ういう

ことを承知の上で,簡単に綴要を記しておく。

 丹羽が,この学績を受け持ったのは鱒代の蕪半

であった。したがって,ベテランというには若い。

19灘年代の生活綴方の時艱の教員懸から見るとひ

とまわり若い年代である。しかし,この上の年代

はすでに管理職につきはじめており,また若い教

員屡ではここまで売実した指導力量を持つのは難

しかったかもしれない。子どもとの年齢的縫i離感

だけでなく,経験の蓄積,生活綴方のr欝飛」,

霧との薄感などで,もっとも適溺な時欝1に当たっ

ていたといえそうであるαそういう意殊での「必

然性」が認められるものの,これは丹懇鰯人の実

践というより,患部の盤活綴方の菰いすそ野から

鑑み鐵された一つの鋒であ鯵,そういう蜂は,各

学校にキラ星のごとく散在していた。しかし,舟

灘震践は「最高峰」ともいうべきものであった。

一人の懸人に漉§が集まるのは,悪擦の教舗集懸

の伝統的ありi方としてどうなのか,という見1方が

路る.たとえば,戦後のr恵蔀綴方の会」から教

科磯の蒔難において近藤裁典というようなかな穆

縫娃の強勢喜;窪を指摘できるが霰はむしろ騨外的

であった。石懸瀦男は卓越した搬導力を持つ人だ

麟,かつて露分が捲擁したように,地蟻紅根ざし

擁率闘涯をこよな1く大饗にする紅綴織の人」であ

る。丹羽の場合も,実践鶏録が公鷺されることを

強く辞退していたが,恵那の教鳶を蓬解してもら

うという大義に押し切られ,結局縁りの推挙に航

しきれなかったにすぎな1い。

 丹璽が藪小学校から数本小学校に転聾して,五,

六年盤を撞蔑して一度送琴濃した後にこの学級に

罎会う。(上/の露頭は,実践を書き留めておく

紅教鳶ノート」の遷り書きで娠まるが,そこには

ダ子どもの内懸を選童解する教麟の馨愚の重要さ」

とヂ子どもが,自分で窪密をつかんでいくこと渉

一つまり,わかること」としたためられているD。

この二行は,丹羽実費の全体を貫く基本テーマで

ある。さらに,丹署の学級経営の欝標1こついては

「生活綴方は,・子どもを欝密にし,壷その認識

Page 3: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

森籏道雄ほ§驚年代の悪擦の生活綴方教育の展難縛 17

をリアルにし,・具体的な条件のなかでの正しい

人聞的な生き方を考え,・子どもの集鑓がヒュー

マニズムに貫かれた統一…集懸紐するという教鳶の

基本的な課題紅こたえるという立場にたって,綴

る白塗と語りあう欝密を守今蕎てる学級づくりを

めざしたい」と護いている鴛後でもふれるよう

に,絵露」がこの実践のキーワードである。つ

まり,丹羽実践は氏のこれまでに形成されてきた

教育運念,教育観に忠実に実行されたというべき

であって,それは恵郵の生活綴方の教鳶建論その

ものであるということである。

 子どもとの霧会いの薩後から「学級の名講つけ」

にかかわる輿殊深いエピソードが展騰される。そ

れは,おおかたの子どもたちが「たいよう」に頷

きかけたとき,二人の子が反鰐を表鬱するが,反

対の還轟がなかなか語られない。しかし,少数で

もいやがる子がいる以圭1,無理矢蓬決めるのはよ

くないのではないかと歩醤屑は遠べる。ε大器分

の人たちが賛成しているときに,反鰐意見が鐵量

るという霜露は,どんなに小さくてもだいじにし

ていきたいと患うよ。……嚢分の気持ちを密分の

ことは1で,きっと言えるよう1こなるαそんな学級

をつくるためにも,運懸をいいたくない欝密をみ

んなでっくってほしい幻3’という発書1こなって

いるが,これはかって「緩合の方銚転換」の際の

藝露出…灘議」の縮神そのものである.ここで丹灘

は学級会での発藩においても,二懸「§譲」とい

う言葉を縫っている。この学級は,六年の工学簸

末に「勢(ひら〉く」という名蔚がつくまで,題

がなかったということである。形式紅こだわらな

いというか,題がなくてもかまわないというおお

らかさが見えてくる。

 この実践は,籔本小学校の五年二緩という特定

の馨寺空欝重でのことだが,恵謬轟の盤三活綴i方の圭1萎諺馨

という雰雲気が作矯していると見ておくことも必

要である。丹署実践は購蒔進行で地墨或内でも高い

評緬があったが,それはどちらかというとまだ観

念売行で子どもに密蒼した実践になりきっていな

かった一般的状混の中で,一つ新しい麗麗拳可能

になりつつあった実践を代表しているのである。

学緩の名蔚がないということに全くこだわらず,

実質としての学級づく瞬こ邁進できたという環箋

渉,丹羽実践を支えている。それ韓,恵郵の教編

集難が地綾に線ざす教欝運動をつくりあげていた

成果によるものといえるα

 五月,憲法を取海上げながら「魑貸ちのある生

活」「纏舞ちのある生き方」を意識化する鱒きか

けは,r私の憲法第一条」づく鯵で展雛された。

その学習は「基奉的人権の尊重とは,人購が人聞

らしく生きていける詮会をつくること,そのため

に1ま,ひと鯵ひとりが欝分の生活暑ことりくみ.,生

落をき警振いていくことが,必要である。そして

主権壼i戻とは憲法は政治にとりくんでいる人だけ

が守るものではない,露分の生活を霞分でつくら

なければ憲法を守ること葦こならない,教室でも地

壊でも家庭でも露分が主人公になること,それが

主権在異の耀神を霞分たちの生活に生かしていく

ことだ」と,まとめられている。そういうなかで,

隣下記灘彦の「ぼくが読んでやる」という綴り方

が建てきた。実は丹羽密身「児童調査票」に後が

§分で(当然母毅が書いていると思いこんでいた)

誕入していたことを見落としていたのだった。さ

っそく,後を呼んで「この綴1力みんなといっしょ

に考えていくもとにしてくれん?」と頼んでみる

と,露分のやっていることをそのまま書いただけ

だ,とあっさりしている。彼は欝分の書いたもの

勝どれ繧どの緬麺あるものかを気づいていないの

である。それほど,綾にとっては当たり繭の生活

の一駆だったのだ。弩羽は帰りの会にそれを談み

上げると,子どもたちからざわめきが起こり墾鍵

までに巖ってくることになった。

 丹羽は母親の敷詰も得た上で「あっ,ほんとう

の勉強をしている予がいるっ!」という欝だしの

懇懇を学級遜欝に書いている。そして,ここには

「人間の生き方がしめされている」「この綴方で韓

を考えていったらよいのでしょう」と瞠びかけて

いる。これにこたえて,学綴の瓠人がそれぞれ懇

懇を率直に違べ,暖かい励ましを綾に送った.そ

れによって,この作贔は藩以上に書き是された。

その中心は,仲間から雛かれた「なぜお母さんは

Page 4: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

18 福島大学教饗学譲論集纂§5号

字が読めないのか」という疑問への答えとして書

かれた戦争時代の様子であった。この作贔は,丹

講学級での最初の成果であっただけでなく,地域

にも濃紋のようにひろがっていった⑪このあと,

縫弩には,樫原美縷紀の絡分の心をしっかりさ

量るために思い欝って書く」が,翌年六年生にな

って5擁に雛麺!泉ヂ)「はっちゃんのことを真鋼に

考えるようになったぼく」が,霧か駿る。これ1こ

ついては,また糠こ項を酸める。

 上巻の最後は,養護学校を食む修学旅看につい

て書かれている。この修学厳行の取誇懇みもまた,

この学年の共通の取零緩みであ鯵,この実践がこ

うした基盤を持って成立していたことに留意して

おく必要がある。これの大きな特籔は,泉の作贔

とも縫達する養護学絞訪問が緩み込まれているこ

と,宿禽で就寝繭に幾からの手紙を談み,子ども

たちがその返事を書くという企露華あったことで

ある。

 繋の子どもへの手紙はr寝る爺1こフッと家を思

い鐵し,競を患う気持ちをだいじにしてやりたい

と思います。そんなフッとしたなつかしさを感じ

る心を持つ子にさ重てやってほしいのです。一

rてがみ」にひとことでけっこうです。子どもへ

のはげましのことばを書いて,旅立ちの蔚の夜,

子どもがねむってしまってかを),かばんの底に封

をして入れてやっておいてください。……盛とい

う依i鑛1文から,その主鷲を蓬解できる。子どもた

ちがどんな競から¢)手紙を講んだのか, どういう

返事を書いたのかは実践説録に寵されていない。

また,三雲閣の学習の様子についても割愛する.

 蒋に,修学簾舞のメイン企嚢,養護学校でのふ

れあい・変渡は真鶴そのものであった。帰りのバ

スの中で記した懇懇ノートの一部が諾録されてい

るが,泉は「年がはなれとってもそんなの麗係な

く,なかよくやっとるなあと心がじいんとした。

講じ馨本の中なのに……と,ほ!くははっちゃんの

ことを懇って滋けるみたいな気がした」と書いて

いる。丹羽は子どもたちが,露分たちよ鯵養護学

校の子どもたちが弱るく生きていることに感動し,

その隣るさがどこからくるのかという新たな問題

i§蜷年玉2弩

を感じたとともに,§分たちの生活づく馨の視点

を学んだようだとまとめている。こうした養護学

校との変流はこの時鱗の実践としても菟進的な意

稼を持っていたが,欝よりもそこで学んだことの

質の蕎さは,壌本小学校の実践としての成果とし

て誓篤したとともに,修損ぶ丘養護学校の実践に

も支えられたものであった。そして,こうした交

流はこの子たちの6年間ξ)学習のまとめの中にも

力強く引き継がれていった。ところで,掛鯵悪く

「騰疹」が流行し,8人が欠繧慧ざるを欝なくな

ってしまう。そこで,8人が嚢を改めて第二次縷

として行くことになるが,購率に舟場が毯当にな

ったことでその聞すでに行った子どもたちが,握

涯不在のなかで密主授業を行う。この中身は書か

れていないが,蔓究主役を設達して縮分たちの

学習をつくりだ」すのである。その鋳靉靆裏だけ

が掲載されているが,3時間分が「人聞の生き方

科」にあてられ,その内容は蓬人の子どもの本譜

み,「入隅はどうして入隅紅なったか」というプ

リントの蔑みである慧

〈(下)の撮要>

 こうした着実でかつ,驚異的な学綴づく酵がす

すむ中で斐然のように暗雲が立ちこめ,響巻の内

容は一転して漣欝なものになっていく。それが,

教本地区で最擁に結絞される「教育懇談会」び)嶽

しい学校撹半彗凱菱教育攻撃」であった。この学校

で,子どもが競紅いわれて授業の「鋳靉靆調査」

がおこなわれるようになったことから婚まる。丹

羽学級でも性の学習をなんの教科の学習かを難く

謡が欝てくる。

 弩羽がそび)教鞭の矢嚢に立たされることになっ

たのは,蓼子どものしあわせ磨という雑誌妻こ掲載

された美由紀の作品とそれに関する座談会が,売

名蕎1為だという謗りと,「万弓1きの手1無き書」と

いうきめつけである。癖議会での議員の質問には,

事実をねじ麟げた恣意的なものがあり,この置弱

購こ露かって遜にはそういうなかで美縷紀の霧と

の再獲のやりとりも克購に記されている。しかも,

この「幾:輝」は丹羽燧人に肉縁られたものという

Page 5: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

森欝道雄:緯驚年代」)悪擦の生活綴方教育の緩雛墾} 鯵

よりも,恵郷の教育実践そのものに海けら駿たも

ので,しかも票議会でも難病教育として薪問題」

とされるなど,全覆的な政治問題ともなる規模で

あった。地元のミニコミ新露に長難連載された,

坂本地縫教育懇談会代表の小木善溝寿による学校

鍵甥の記事は後に罫先生授業の手を鼓かないで譲

という単行本にもなった。これが,学校擬戦のバ

イブル掻!いされたのであるα

 丹羽のこの実践記録の後半をかざるのは「私の

教鳶課程づくり」として取り緩まれた「卒業論文盛

である。この場合の卒講とは,「自分が生きて歩

いた足あと」を振鯵返ること,「目分の生きてき

た十二年の歴史をふまえ,主権巻としてこれから

の生き方をひらいていける人聞紅なるために」と

いうねらいであった、その過程でも重要な作贔が

いくつも生まれたが,購時に「教蕎叢撃3の影も

重くのしかかった。3月算弩簾かれた発i菱会に狢

名の窺も参撫した.この様子は狭癒匿夜曝ナヘの

進講にも叡録さ穀ている。ところが,この発表会

で子どもたちの発表の一藻が子どもたちの覇懸で

省略されたりしてしまったのである。不審に懸っ

た丹羽が実行委籔に饑いてみると,「ほんとうの

ことを読みたいけど,金離の霧が,ちゃんとわか

ってくれるか,自信ないもん。それで,あた参さ

わ脅のないところを読んでもいいということにな

ったの,そうや鯵ど,瞬羅かあさってのうちには,

自分たちだけで,いちばん読みたいやつを読み合

おうということになつとるで」と諜“うのである.

こういう気を優っていたことに気づけなくてと,

懸灘は黙分の不瞬を記している。

 このとき,参撫した競の感想もまた巌饗れの悪

いものであった。このとき,舞の記録鞍懸撮影の

ために丹羽学績に入っていたビデオディレクター

の宮木が,興奮気稼に欝欝の思いの丈を披露し,

「真実がここにあるということを子どもたちに伝

えることが,この坂本をよくすること」だがみな

さんのことばは物量りない,Pもっと竃当の気持

ちを壽って」ほしいと。子どもたち以上に,幾も

衷た学校数報の動きにとまどい,むしろ本音が言

えなくなっていたのである。事実にもとづく撹響

ではなく,政治的意騒を先行させた野攻撃」であ

ったらばこそ,競を含めて住費の中に深灘な亀裂

が走ったのである。発表会密体は,この宮本発言

で深まり,給食特薦になったことも忘れ子どもた

ちは「患いつきり生きた」うれしい濃紅むせんだ

と,記録は結ばれている箆

 六年後半簸の実践として淫目すべきは,醜にも

記した「雛教育」と,ヂ書かれなかった綴方」で

ある。この性についての学習は年度計癒として工

学難に纏まれていたものであったが,不十分なま

ま中観していた。子どもたちが鴛年間を振り返る

なかで,生まれたときのことや最近の身棒の変姥

に晦き合う中できちんとした学響にする必要性を

感じながら,丹懇はそこを碧教育攻撃」に巻き込

蜜れて突破できずにいたのである。三学難.中津

耀帯教育藩究瞬にいる石蚤の援勝を受けて,購懇

を立て薩して取馨懇まれたのが郵生き方を考える

牲の教魏に襲部実践記録として叡録されている、

 r性の学習」についても,「私の教畜課程達の事

舞として次にまとめる予定だが,この中にある美

懸紀の性の学習についてヂ)懇懇は,あの綴り方作

贔の作者だけのことはあるという思いを十分持た

量るも」)である。藍……衰分の生き方なんて,露

分が生きていくことやもんで,だれかが,つくっ

てくれるわけないもん。そう思ったら思春麟って,

ぽさぽさしてお穀ん,いそがしくって,わかりだ

しゃあたのしい時顛になるんやなって思った。私

はもう慰春難に入舞かけとるなあ,とうれしくな

った。∫i

 この実践記録には,石懸が丹羽学級に授業巻と

して入る経遜についての丹羽ヂ)説醗文がある.そ

れは蓼瞬職こ晦かって壽にはない,子どもたちの

工学簸の性の学習の一難が見える。そこには

(も/,子どもたちの思春難の心の懸らぎや戸惑い

とともに,学習への真攣な意欲が表現されている.

しかも,こうしたテーマはなかな:か人にはいえな

いところがあるが,実に隣るく素醸こ馨分の気持

ちを綴っている。石蟹がおこな1つた最初の授業に

おいて,最劔に質問にたった男子は「ぼくは男ど

うしで捲きあったことがあるが,これは心の病気

Page 6: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

2§ 福島大学教育学藩譲葉第鋳号

か」と驚いてきた。あまりの率薩さにとまどい,

迂懸さを反巻したと石懸は書いている。「子ども

たちの問題韓,性に醸らず,人生耀談のようにあ

ちこちに籔がっていくので,つぎは纏がとびだす

やら,私のほうがひやひやでしたゴともあるよう

に,丹灘学級には学習意欲(というより,生き方

への真麹な摸索,というべきであろう〉があふれ

灘んばかりだったということが還解できる。

 r書かれなかった綴方」は,「卒業譲文」に取弩

懇む過程で鐵生の秘密を感じ取った女子の慰みと

葛藤が,繕騰綴られないままに,しかし,参観看

たちがおお轡い取吟巻く醗究授業中での後女の発

言として「目分の課題」をのりこえていった事纒

である。母の笑筋の子どもであって,もらい子と

して欝てられてきたことを薄々感じ取った鞍女は,

本塁のことをはなしてほしいという率直な露分の

気持ちが,かえって両親を苦しめることにならな

いかという思いや吟の装闘で葛藤する。しかし緩

女が讒した結譲は,〈不安ではなく落ち養いた気

持ちでわか琴たい>という気持ち毒こなるまで待ち

たい,ということだったのである。丹瀦隷この発

露を饑いた上小学校の燐上康一が,授業のあとの

醗甕会での発書を,次のように記している。

 汗こんだけ大勢の人が晃とっても露分のほんと

 うの気持ちを,ほんとうに言うときに卑あ,子

 どもちゅうもんは,だれでも懸頼しきって言え

 るんやなあと思ったよ。……緩局.綴方を自分

 の白露の力にしきっちゃっとるとこやないか,

 それに匙ぺりゃおとなち瞬うもんは’‘白塗にな

 らな脅藍白蜜にならな押ちって,窪分を不窪由

 にしていきよるなあ」……そのことばは,多く

 の究生たちの共感のうなずきといっしょにいま

 でも心にやきついています。……浅美子は,苦

 しみ,簸みな1がら綴琴終えなかったことをあり

 のままに教室のなかまだけでなく,鬱然にも多

 くの髭生方の蔚で言い熱りました。それは,な

 かまの支えを鱈じてひらき,のりこえた懸美子

 のすばらしい綴方であったと患うのです。f一

 丹羽学級の名麟がなかなかつかなかったと窮め

に書いたが,後でついたのは「堅く」であった。

1鱒8年12弩

「劈く」は,この弓1濡文からもわかるが丹懇実践

のもう一つのキーワー琵である。この珍しい漢字

との灘会いは,上矢作の欝究会での交流で哲内敏

晴著蓼ことばが壁かれるとき蔭を知ったときだと,

丹羽は書いている呂)が,これも重要なエピソー

ドに違いないけれども,割愛する。

 これもまた,鱗の教育酸撃が,特定の懸人(丹

羽欝身/と綾女ぴ)学級の子どもたちに請けられ,

版本のとくに六年生は「縫をつぐみ,耳をそばだ

て心を闘ざしている」不密密さを痛饗に感じ取っ

ていたときだったのである。教室で丹灘は黒藪に

この字を書いて「なんと読むと思う」と投げかけ

る。辞書にはない羨みであるεひらく」1こつきあ

たり,ただことばが言えるようになったというの

ではなく「心の奥藪を鋭くきりひらいて真実を誘

えなければならないことば」という考えも鐵され,

六年二懇で考え訪った字だということになる。あ

る男子は,「ぼくにとって劈くという字は,生落

綴方を婁く時の励ましになったことばや,書く蒋

に,この字を思い窪し遷ったいごまかせん」と,

生活ノートに書いているむ最終段購ともいえる工

学顛末紅やっと「堅く」と題が淡まり,三学鱗の

「勢いていこう,いきる力をつけるために」とい

う学級舞標にもつながっていく。ここでは(も〉,

学級馨擦は単なるス灘一ガンではなく,子どもた

ちを励ます生きた特需な「言葉」なのである。

 このように見ると,特に丹羽欝身にも集中した

学校後難1は,弩羽実践を試練にたたせ,また子ど

もたちも懸命紅持ちこたえながら,逆に試練を糧

にしてのりこえていったのである。もし,という

飯定彰まあまり意華表をなさないものだが,こうした

竣撃がなければ,平穏な中で高い質の実践になっ

たこと1ま間違いないものの,これほど麟的な,後

縫に残るもの善こなったであろうか,という患いも

する。しかし,一方で実践グ)こうした質の高さが

簾舞勢力の蓬不尽とも言える敢!撃を招き,な琴ふ

り購わない動きとなって現れたことをどうみたら

よいのか。それにしても子どもを巻き込み,子ど

もを平然と傷つ葦ナる大人たちの無神経な行動は,

実紅残念と言うほかない。

Page 7: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

森霞遠離:響簿年代の葱郷の生活綴方教鳶の展麗鶴 2五

2 ヂ教育懇談会雌による学校幾響

 丹羽実践はもちろんこの時難の生活綴方実践は,

こうした学校鍵甥の正面からの「破撃暴と,行政

的涯力(中津鱗毒教委はこの動きに離して学校を

擁護する立場だったが,県教委及びその灘先の教

育事務覆,さらには一般行政の筋はあきらかに竣

撃綴となった〉,さらにはそれから欝輯を得て書

かれるマスコミの記事との「饑い」のなかで行わ

れた。このときのマスコミの{蕪梅ぶ警も選憾と㌧・

うべきものであった。時に奉縫記事において客観

的な評懸紐よる記事も揚ったが,地方版では一方

的な撹甥記事がほとんどで,しかも椿報灘が特定

の翫に編修,地道な取馨のあとが見えないものが

大半であった.察議会では「教青藍鴬化珪決議な

るものまでなされた。その幸心隷教緩竣撃と「嚢

の蒐書が代問題]である。

 政治的経三力の発生源韓1,地織内にとどまらなか

った。これまでも顛舞の攻撃はあった潜,これほ

ど大規摸なものではなかったむ結果麟にこうした

圧力は,悪郵の教麟たちを鍛え薮鴬実践と父母と

の共同に屡みを増す要穣となったが,それは結:粟

講であって攻撃韓象となったものから見れば,そ

んな生易しいものではない。しかも,教麟たちが

歯ぎしりする思いだったの1ま,学校撰1享軽が子ども

を巻き込み,子ども自身が傷ついていくものだっ

たということである。その一蟻iを隻もふれたばか

りである。

 本稿は一貫して教舗・子どもサイドにたって書

いているが,しかしこれは椿緒的なものではない。

と購嚢寺垂こここでそういう叙述をするだけでは醗究

的な課題を果たしたことにならないことも事実で

ある。な巷,こうした撹舞が繰り返され,なかん

ずくこの鋳難に常職を逸する形で屡灘されたのか。

かつての,いわゆる第一次碧教育正常建」とどこ

が詞じで,どこが異なるのかむこれらは,いわば

教育挽会学麟究の領鍍であろう.学力をめぐる論

議・論争,あるいは遜家饒,教育観をめぐる量論

蝿立の一境象でもある。恵郷地絨における政治的

な主導権をめぐる保守と革新の競争だという見方

もできなくはない。むしろ,革新潔・憲法の蟹無

主権原運を地嫉で実現しようとする教繕などの運

動を隠むための保守灘の巻き返しというのが,本

当のところかもしれない。しかし,そういう分籍

を無摂するつもりはないがここでは単纏紅そうい

う政治的次元で見ること1こは羅謁しない。な・ぜな

ら,霞疑主権原理を実現するという見方霞体は憂

しいと考えるが,教育実践を見る鰹にそうした視

点から見下ろすことで,教官実践響有の課題を冤

とすことにな:りかねないからである。換一讃すれぱ,

学校撹覇業「教育攻撃」として現穀た以上,その

5教育性」を徹数的紅分極すべきではないかと考

えるからである。ただ,その課題はここではなく,

警1の稿としたい。

 丹羽の誌録の中には,r教鳶懇談会」に講謁し

ている一人の父幾の手紙が掲載されている。卒論

発表会の事後の懇懇をのせる文集1こ,一人だけ異

質な文章がある。いわく,「編撫した生活綴方教

            ママ奮に饒いならされた子供の片鱗的進歩としか冤ら

れない。中学校へ進学したらもっともっと頑張っ

て勉強しようと叢う文句がいやに醸につく。基礎

的学力が身についていないで一頑張っても,勉強

の糸欝を見つけるのに苦しむ事は輝然としている。

中学へ進級しても小学七年生ぐらいならまだしも,

小学三年~露年生綴が多くて隣る一一手のつけよう

               じヌ ぞがないと中学の兜生達がなげいてみえる。中津バ

カー特に坂本バカが案下でも巷鵜知れわたってい

ることがうなずける。中学の先生に進跳指導等で

溝るなら嚢接一もっと基礎紅力を入れてほしいと

議したらどうかと問えば一それは講業者として言

えない。叢ってききめのあるのはペアシソトパ

ワー(親の力/である。もっと皆さんがどんどん

言うべきですよ。一…」影ここで旗てくる中学教

麟の発書は,どうやら懇談会に同調する灘の教編

の発書のようである。これほど,「率直に」学校

鏡鞍を当の教簾多譲こ書くことに驚くが,この文体

から子どもたちを(その串に密らの子どもがいる

ことをも含めて)鼠暴紅否定して平然とした様子

が感じられるのは,なんとも遺憾としか言いよう

がない。およそ議講を受けつけないかたくなな文

体,態漿:ではないか。

Page 8: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

22 藩農大学教育学議論集第縫帯

 さらに鞍は続ける,「生活綴尋方教育はすばら

しい教欝であるということも,発露きしたりして

難ってはおりますが,あま瞬にもそれに時間を費

やされて居るんではないかと想います。でも讐本

がその方法で進んでいるのなら喪いと悪いますが

大学受験の欝になってくると全麟こ遜駕しない蕊

分が多くを占めてくると思います。全国でも有名

なこの礫懇郷一蓬懇歎鳶であっても現実に懸る問

題が多々ある時.そのへんも罠くわきまえて,只

靉靆感動して漉いたとか…一等,子供を説得する

には充分であるにしてもバランスのとれた教欝を

して欲しいと思います。……最後の責任を持たな

ければならない競の気持ちを汲んでもらいたいと

思います。璽在の生活綴鯵方教官で犠牲になる子

供の将来はどうなるのでしょうか? 万覗きなど

中学に於ける経連を想いつつ……一方的な生活綴

り方教鷺 地蟻活動等一ほどほどにしなければと

想います。畢均のとれた(全羅的に〉中に運懇と

される現疲∫卦の教官方鋭が上のせ’されれ1ま言うこ

となしです。」鋤

 この発言は,生活縫方教育は子どもを不幸にす

る,あるいは子どもを犠牲にする教蒼だという確

露とした命題が下敷きにある。この父蔑灘からす

れば,学校は子どもを人質にとって勝手なことを

している。いままでは黙っていたが今度はバック

がついている。君塾たいことを存分言うぞ,とい

うわけだろう⑪しかし,この父幾は本当に露分の

子どもをまともに見つめているのかと思わないわ

けにはいかない。ここで麗麗されている鍍の愚見

は,ほとんど§分の意見と言うよ鯵,綾が詞講ず

るグ膨一プのイデオ購ギーだけではないのか。§

分の醤で子どもの成育ぶりを確かめるという,我

が子への唇頬とありの裏まを冤つめる謙虚さがあ

れば,こんな文章を書いて殺が子をも苦しめるこ

とにはならないように思われる。それがr最後の

責任を鋳たな葦ナれ垂まならない」という競の本当の

務めというものである.

 ただ,これを中傷的な発嘗として見ているだけ

ではすまされない。な讐なら,これだけのイデ重

賞ギーで武装された人々1こ籍して,子どもを守鯵

椿弼年稔月

教育を進めていくうえでは,懸じ学級の保護者と

してなにがしかの手がかりをもって共鐸討議の場

に持ち込まなければならないのだから、もちろん,

欝がそうした共通の場づくりになるのか1ま一機に

言えないし,もともと一方的な講難,攻撃だから,

費TAのような場を蕪び越した行動に騰たという

¢)が実態である。こうした郵運動」の獲いは,一

方的な論難を権力を背景におこなうことで多くの

人々を動穰させ,かっ黙らせ,いままで学校に転

意釣だった人の中に不安を呼び起こすところ紅あ

る。不幸にして,癖者が議論する協はつくられず,

r運動」は一定の講果」(生活綴方や地域活動へ

の擁舗的効果〉を上げた。

 しかし,遂の事鯛もある。駿藪籔夜聡けへの遵盤

にも登場するが,こうした攻撃的発券はきわめて

少数で,むしろ子どもが真葵灘こ取り懇む姿を薩祝

して,生活綴方に疑念を持っていた親がこうした

轟きの中でかえって子どもへの鱈顛と教舗を支持

する1簸こ変わる。教育とは癖かを問われて,この

縫毅は「詰め込むものではなく,人間そのものを

嘗てることだ」と瞬快に答えている。この母親は,

や1ま鯵綴写方で密分の家庭のこと解表沙汰1こなる

ことを極慶におそれていた。「あんたたちは先生

や友だち紅ならった辱,綴陰方に書いたり,読ん

だり,そうやっていい方へ,いい方へとじゃんじ

晦んに講かって行くけど,全譲の大人じ々あない

けど,大人なんていうものは,癖分び)ことばっか

で,人の言うことなんか考えもしんでかわってい

けやへんで」と,この母幾を持つ篠療真由美は猿

女の母の言葉を綴多方に書いている。糞虫美もま

た「書く」ことをとおして,母親を見つめ周りを

見つめ,なにより馨分霞身を成長させていったの

である覧

 もう一一方で,子どもが生活ノートに親の様子を

書くことヘヂ)親が抱くr恐締」は,単1こ生活綴方

教育ヘグ)無運解というわけにはいかない。しかし,

この愚幾は子どもの成長ぶりを実感して,経り方

教欝への蓬解へと農分を高めたダ)だった。ここに

は,親のあり方もしくは生き方を問う重要な問題

がある。大人たちが,大人として地蟻を守るため

Page 9: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

森羅遵錐:鰺簿算氏の悪擦の生活綴方教官の展無難} 23

の共同の動きを持っていたならば,中傷的発言で

はなくもつと率直で堂々としたコミュニケーショ

ンが成琴立っていたのではないかと思われる。

 しかし,時代は次第にそうした呉羅を希薄紅さ

せてきた。いやむしろ,麟豆する購灘が持ち迩ま

れてきたのが幾衆の轟きなのであろう。恵郷地綾

が,欝灘年伐舞降,生活綴方を推進してきた背筋

に,こうした綬との共舞を求める饑きか吾ナがiあっ

たということと,そうしたいわば「地織の教奮力」

を守り,また新たにつくり畿す活動を瞬鋳に進め

てきた運動の絞果があることを見逸してはならな

い畠

 丹場韓,この実践記録を繕ぶに当たって,真蜜

美が中学三年生になった時のr雲際箆童年」の少

年の主張に発表する紅私の意見盛を載量ている。

「真実を見つめ心の広い大鷺を育てる先隻になり

た㌧・一私の将来への希望」と題されたこの作文1ま,

この希望を持ったのは小学校五,六年の蒋で,先

生とクラスの仲間でつく鯵あげた凝,たちの誇鯵だ

と書いている。

 「窮分の慰み,考えを思い鑓って鐡した時,ク

 ラスじゅうが,みんな窪分のこととして真鋼に

 考え,共1こ方懸を見つけあったこと,それは教

 窒紅そういう欝籟する難密があったからでし

 た。鱈頬するとか,励ましあうとか,それは,

 まず自分を思いつきりさら占ナだし,ほんきにな

 ることでした。今から患えぱ,すばらしい魑強

 をしたというなつかしさでいっぱいですが,あ

 の時は,みんなのんびりとそれがあた穆まえの

 こととして考えてきました。中学校に入って,

 多くの慰み,不安にかられた鋳,鶴韓する友だ

 ちに議すことができたこと,自分の力でのりこ

 えようとがんばれること,それはどんなことに

 魅しても§をそらさず,みんなの中へ問題を繊

 し,解決していくのだという方講を建艦を持つ

 てもって育ててくれた力の故だと思います。

   ・そして,私が学んだことを私だけに廷まら

 せないために,私は小学校の先生にな瞬たいの

 です。」蛾

 丹羽は実際の卒業式の当嚢の学級での挨拶の中

でも,こんなあがいている自分グ)生き様を見なが

らも,髭生にな琴たいという子どもたちが多くい

ることがうれしいと,駿籔の中で議っている.こ

の篠原翼密美がさら紅三年へてからも,あの鋳が

誇融だと書いてくれたことは,丹羽嚢身の支えに

なったことは容易に難察される。子どもたちが,

教育竣撃をこのようにのりこえていったことで,

この実践記録韓永遠の生命を得ることができたの

である。

3 秀羽実践への評懸と分損事例

 習頭に惑いたが,舞羽箋践への注目は瞬時進行

であった.匿子どものしあわ基盤に美密紀の作贔

が紹介されたほか,国疑教畜醗究勝の継続調査に

よって,さっそく藻肉資麟として編集され(あと

で紹介する実践資料集/,さらにそれをもとにし

た蓼蟹疑教奮選に後にζ鬱鬱に海かって遜となる

試作墨というべき記録が紹介される。また亨弩潔

白ら密教奮垂聡年茎拷号に「生きてわかる子ども

をつかみたいために」という実践記録を寄重てい

るが,内容はこの学級の実践で為る。したがって,

丹羽実践に漣§し論評した事飼は撰峯数にのぼる。

ここでは,その代表雑ないくつかに焦点を食わせ,

そこでどのような1取り圭1げられ方をしたのかとい

うとことで,分析する。

 丹羽実践が全国1こ知れわたるきっかけになった

のは,蓼教奮嚢7§年5月号に掲載された石遜簾男

の講年i月冬の東濃民教欝でおこなった墓講鞍告

を文章銘した「生活綴方精神で生活・学習意欲を

高めるために盛のなかであった。石蟹のこの報告

(報告と言うより講演がふさわしい)は,次のよ

うな課題意識紅基づくもび)であった。そこで石蟹

は,まず生活の事実として子どもたちに押し緩さ

っているものが壷大抵のものではなく,書かせて

も事実が片鱗としてのぞかせているだけで,あり

の豪まに描かれない霞難さがあると指摘する。

 「子どもたちの心をとらえて難さない本心の問

 題は,今馨の簿勢紅ふさわしく,すべて非常に

 人潤的な深灘さを含んでいる。いま,私たちが

 その開題を,子どもたちの生活認識の内容とし

Page 10: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

2逢 福島大学教響学謡講集第弱号

 て重視するのは,そこに韓藏の真実としての人

 問釣懲覚が統一的に存雀すると考えるからです。

 その窪覚こそ,生きることとわかることとをつ

 なぐ基本になり,生落と学習の本当の意欲の基

 礎となると考えるからです。……子どもたちが

 本心として生活の事実をありの蛮まに見つめ客

 観記するということは,今の椿勢を子ども欝ら

 の意識の中で講修鰭いていく種事になるのです.

 そして人識的な藝裟を子ども自らが広げていく

 というきわめて大窮なことになるというふうに

 患い家す。この内懸の自慰の鉱夫,子ども密身

 が欝らの嚢虫を拡大するということ1ま,新しい

 発港と学習への慧敏を高め,嚢発性と連帯性を

 生み窪し,自主的な行動の要霞となっていく,

 というふうに私たちは見るわけです。」謝

 このやや難解な鎚起は(この講演馨体が非常に

轟度な内容を含んでいた〉,丹羽実践がそれに癒

える実践であるという評癒と不可分であった。こ

のあと,石穣は美密紀の作贔を全文紹介して「い

ままでのやりi方だけではすまされない」状溌をう

ち破り,「子どもの新しい人聞的自覚としてあち

こちに生まれていることから,今舞的な教課を学

んで」いこうと響びかけている。

 ところで,現地でいち畢く取り上げられたのは

当然として,この石欝鞍魯に接し早い時難にあら

われた醗甕釣言及・評論は,置鼓鳶遵78年5月号

の懸中孝彦「子どもの発達と人聡像の問題」であ

った。また,78年8月馨異教青醗究漸の人擦と籠

力の発達蘇究会が編集したr神懸とともに,今あ

る露分をの謬こえる喜びをどの子にも」と題する

実践資群集である。そこで,醸究会委員である汐

見稔幸が「丹羽先生という人」という解護文,懇

中孝彦が「資料の纏集紅当たって盛を書いている。

どれも鰹文だが,当時の悪擦の雰醗気を伝えてい

る。

 懸中の匿教畜藷譲文は,教科藩中聞落究集会で

の轄告を文章銘したもので,作品を舞示して,

「この二つの作贔は,教育的な麟きかけがあれば,

今騒の警本の子どもたちがどれほど人霧の霞建・

自由の舗纏を岩覚することができ,一人薦の自律

互鱒暮年至2月

した人間の豫を生きいきと錨きながら現在の霞分

の生活の意鎌をそれへの絞長の遺程として主体的

に意識することができるか,という可能韓三を示し

ている」と,書いているが,先の石蟹報告をふま

えたものであることは当然である鴨ここでいう

二つの作品とは,懇奏難を学んだ髭の実態龍の作

贔とまだ本論文では紹介していない,擾葉浩幸

「おとうさんの仕事をわかろうとしているぼく」

である。ここには,土建業に従事する父親ぴ)職業

に誇りを持てないことのなやみが率蓬に書かれて

いるが,羅時にその父幾を理解したいという露な

い思いも十分に感Oさ慧られるもξ)となっている。

 醗中は,簿総年代後半の韓露俊太難ぶ紹介して

いる作贔との薄舞で,現代の教育実践の課題1こも

言及している.そこではまだ展魏は不十分だが,

丹羽実践を醗示してr今馨の欝本の学校がひきう

けるべき人擦形成の仕事の中核として確認すべ

き盛課題と評難している。ただ,欝究会で高校教

麟の宇鑓絹宏からこの鋳難に「自分の歴史を叢か

登るのは早すぎはしないか」という疑問が鐵され

たこと(太醗激男の「まとめ」による〉には,直

接露及していない。轟校生の鋳覇におけるそれと

捻べれば字嶺然そこで綴ら療る中殊テ特に詮会認

識とのかかわりではこの宇欝綴発叢は換試する余

地はある監しかし,この場合の議論があまり記

録されていないこともあるが,弩羽実践からして,

あるいは重落綴方の実践として小学校を終えると

いう締§にあたって,それに取鯵紐ま甚だ必然性

は十分理解できるのではないか。綴中はこの後も,

折にふれて丹灘実践に言及している(建子どもの

発達と人様豫露など〉。

 その代表鱗は,ド少年難と道徳性の発達」であ

る.このi論1文はほとんど全簾丹羽実践の分新1こあ

てられド子どもたちに,なかまとともに露分で密

分をつくっていくところにこそ,人聞の懸魑を§

覚させようとしている」とのべ,「人聞的懸鑓の

雍覚,道徳性の発達をうながす教畜実践は,一方

で,子どもが窪らも癒纏意識・道徳性を農分で形

成していく自憲を保繹すると霧時に,子どもたち

にどのような懸髄を自覚さ逢ようとするかという

Page 11: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

森撰遊雄:ig驚年代の悪漢の生活綴方教育の展灘懸) 25

ことを,婆璽に麓癒しなけ舞ぱならない。一…私

たちは,丹場実践1こおいて追求されている,人懸

の霞律・白露と尊厳の懸纏こそを,公教育をつら

ぬくべきものとして聚疑的に合意しうる可鰭牲を

もった癒麺,だが,今霞の蒙牽の状溌のなかでは,

それを教育につらぬくかどうかきびしい鰐立点と

なっているような懸纏,そして実際iに教育につら

ぬくため1こは大きな驚野釣努力を必要とする懸魑

として,とらえねばならない」と,振擬している翰。

ここで灘中が,蟹垂範遠べている理密は,いうま

でもなく「教鳶攻撃」を念頭紅おいてのことであ

る。それはともかく,懸中は丹羽実践が,適舅な

捲導があればこの懇春覇の小学校高学年の欝難に

おいて,自分の生活・生ぎ方を箆つめることと社

会のあり方を学ぶことが統一され,積極的な生活

・生き方を窪分でつく瞬だしていけることを立議

したものとして,評癒した。

 もうひとつは,置霧欝に陶かって遜に載録され

た深谷鏡作の解説である。これはきわめて要領よ

く舞羽実践をかいつまんで詳細している。作贔主

義では渋してないこと,地域活動や学校行事など

を含めた総合的な教育実践として展弱されている

こと,子どもの発達を紡げる要馨を箆窪め,子ど

も欝身に馨立の饒値と方法を獲得させる捲導であ

ること,豪たここで展麗された「教青酸撃」の本

質について,等々。深谷もまた,いちはやく丹羽

実践に濫§し(以繭から恵郷の教畜実践を金轡に

紹介する役割を麺っていた〉,疑欝の麟究集会・

雑誌窪馨疑教育書で,意i義づけをおこなっていた。

 深谷はその解談で,生活綴方実践が「軸」にな

っていることについて,「書きことばで綴るとい

う背為が,子ども濤身の自己成長・穏互絞長の決

定的な契機・転機となる緬麺ある得為として子ど

も懲身が欝欝できるところまで,生活綴方の教育

を徹狭していること」だ,と遠べている。つまり,

子ども密身潜自覚するとは,慾立を紡げるさま

ざまな舛的要轡や退雍現象と,その影響を内藤銘

して自分を腐食している海豹要露とを,凝授さ量,

それを客観髭さ登ることが,子ども自身に露立の

癒値と方法を獲得さ量ること1こなるという,まさ

に「否定のなかの肯定的な麟造」の過程が,生活

綴方教育の果たす役霧の大きさ」であると捲撫し

ている甑美露紀の作贔が持つ人を感動さ量る力

も,農分を厳しく罰するという「琢実な嚢己内記

の要求として,みんなの麟に投げだし」た,率薩

さであろう。そして,侮よりも舞羽が書くことを

求めるのではなく,線分のために」き発的1こ書

くものだという姿勢で一貫していることを高く評

籐している。

 深谷はまた,養護学校への修学厳行などでの鐘

害者問題への学習の取り緩みをあげ,泉の作最を

憲法学習があって窃めて可能な,生活綴方である

と,捲擁している。ここ1こは,憲法の学習が「子

どもたちをして,その類待や理想,縫会のあり方

にむかって行動し,人聞謬§孫・教会縫係をかえて

いくことに,子どもたちな戦の誇りと未来への希

望を麹かせる」麹と,遽べている。憲法の療運を

覚えたところで,それだけでは学習とはいえない。

憲法紅ある入闘尊重の握懇を,嚢分の生活の中で

実麗する努力をすることに結びつかなければなら

ない。生きた学習の典型的な事綴を,丹羽実践か

ら読みとれる。

 深谷は当落体調を崩しており,この解譲露やや

一般的で,要点を籔いてはいるものの醗究的に深

めるという点で勃起.りな1さを感じさせる。

〈国鍵教育醗究駈の醗究集会での評優〉

 ここで資料としては噺片的だが,筆者がかかわ

りのある民醗醗究集会を取鞭上げる。7§年憂国疑

教育醗究勝が簾催した第五響共講藩甕集会で,当

時綾阜民主教鳶醗究癖の…員として参撫し,悪難

の生活綴方教育実践について輯告しているので,

その分科会の釈混をつたえるものではないが,讐

懇実践の縫撫する範露でふれておきたい。その様

子は雑誌髄舞浸教育遍纏持増韓号,葬地藪紅ねざ

す教鳶」(鎗77〉に詳しい。

 その記録によると,恵蔀の実践の全般的な特籔

の鞭皆のあと,丹羽実践の背景にある生活綴方の

役割について,「生活を綴るゴ以羨の子どもの聞

Page 12: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

2§ 穣島大学教畜学薦論集第麟号

題のある軟泥にたいして,「綴る」ことがどのよ

うな連縫があるのかという質幾が墨され,次のよ

うに害えたことになっている。

 葬森懸氏は,雛壇君’の生活綴錠)方慧,平素の授

業実践奪憲法学習」など)との結びつきのなか

からうまれていること,屍鋳紅,そ¢)授業実践嚢

体がヂ自分の全港を露覚することに§を請けさ量

るゴことをねらって綴織されて≒・ること,その薦

提としても地域に子どもの生活をつくっていく運

動と結びついていること.綴られたものは,子ど

もたちの鵜だけでなく,教懸はもとよ鯵父母種民

の闘紅まで広げられ,議し合いが綴織されている

こと,また,そのなかでいかなることが綴られて

も,うけとめ発展さ慧ていく力が遽突されている

こと,などを回答された。ゴ争

 こヂ)藩究集会の分科会討議は,子どもの実態

(擁えぱ幼箆における「遊び」や高校生の葬こと

ば」の問題など),あるいは基礎学力を獲得さ慧

る授業のあり方,「嚢点」達成をめざす授業実践,

平稀教育における教新選蝦や感矯と知性の統…な

どの魑菰いテーマξ)一つとして誰議縷説されてい

た。この鰹答はそヂ)一鰭を示すだけだが,そこで

あげた響つの特徴は,丹羽実践蓬こ譲らずすぐれた

生活綴方教奮に共遜のものである。

 隅記録によると新子どもの疹内懸をまるごと露

とらえる」という観点からの題題提起を受け,「そ

の要点は,今醤の子どもたちの活動主体としての

人格び)発達をめぐる否定欝麗実の核心は,鞍らの

「内藤」ヂ)状態1こあらわれているという売地であ

る。霧時に,その「内懸」それ欝身のなかに,そ

の否驚麟の麟約を吏験する郵力」を「とらえ」な

ければならな:い,とする、その葬力感は,とこと

ん葬嬬じ」られ,また,「ほれ」ぬかれるべき蝿

象でもある」とある蔭

 その時ヂ)議論のテーマは,この子どもの人擦に

あらわれている葬否定」麟と(それをどうとらえ

るかがセント),「肯定盤面をめざす教育実践のあ

り方1こ麗して,それを教麟のモラルや力量だけに

一一P蚕{ヒさせてよいのか,という論点があった。羅

鋳1こ,子どもの生活・活動にあらわれるゼ否定」

欝露年玉甥

の現象や実態だけでなく,その「内癒盛(生活意

識〉のレベルの分籍にまで敷嬉し,<轟露まるご

と>を擾野に入れることで,その「霞癒盛のなか

1こ「否建」錘を莞1灘する「力」をみようとする垂足

起である,と執筆者紅よって整蓬されている2鬼

この整還は,恵郵で翼題にしている「子どもをつ

かむ」という意義を藍確に記達してはいな疑、筆

巻の幸蓑告の彩私な1りの解琴蒙」という毅{鍔がある6)

で,それはそれでかまわないのであるが。

 ただ,そのなかで美虫紀の作贔と霧示してはい

ないが,次のような解験を紹介し,若干のコメン

トをはさんでおきたい。

 ヂこうしたなかで,子どもたちにおいては,な

にが真実なのか,生漉の事実をくぐら憂くわかる

こと>ができなくなっているだけでなく,なにが

くよいこと>であり,なにがくわるい>ことなの

か,行為の善悪の糞薮の基準を一身の生き方とか

かわら達て獲得しえない状態がうまれている。」

「しかし,障みんな邊のしていること」と見なさ

れている「盗み」の事実にしても,そのことで潮懸

み幣,家庭の金銭をめぐる労苦など野盗み」の歓

会魏意殊や背景にまで甚まる先輩や神懸の生活や

内面の事実を綴る作贔を学び,‘‘憾み抄の庫震1こ

醸が露か褻ていく過程で,「心の緩3の欲求が意

識化され,解決の手掛か吟を得るすじみちがある。

『思いきって書く」勇気(ともすれば葬心の籔」

を瞬らかにすることは自己崩壊につながる危験を

もつも¢)であろう)とそれを可能にする縫孫への

儀頬に支えられ,教臨にたいし,集羅紅たいし,

r心の底」で欲慧られる事柄盗みやr非行」の

鉢験グ)瞬縛からの駁舞一を体験の事実に絵って綴

るものが多数轟らわれている。その過程をへて,

“慰み汁をみんなのものにすることによって,生

活をたてなおし,学習の新しい意欲を生みだし,

しゃんとしていくきっかけが羅織される。「講嚢」

の否定露を…面的に露定してとらえることはでき

ないゆしかしまた,そξ)否定娃を糞選覆するヂカ」

を一らむの麩騒のr欲求」一一をとらえることなし

に,r内癬」の危機の克騒のみとおしは婁実化さ

れえないといえる。」職

Page 13: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

森雛遊錐1韓7轟年代6慮郵の生髭壽綴音教轡グ)護聡纏 脅ゴ

ラ】

 しかし,単なる解毅1ことどまっているわけでは

ない.さらに裏作贔を丁寧に紹介し,ヂここには,

人聞としてねうちのある行為や生活,または入権

ということが,捨象礫念の問題としてだけでなく,

破の生活の事実に根ざして麟造されていく事締と

して,綾の魯懸と生活紅一貫するものとして,わ

かっていく大きな可能性が示される。また,それ

を握うものへの尊敬と繰黙するもの1こたいする縷

激をもめにしていく可能性が示される。そうした

意味で,「内露」の「否定盤面を,吏羅する褻力感

の意…識にせまるものであり,「生活綴諺方雲教欝

による,ひとつの「子ども控握涯の典型を感知さ

せるものであった」捨と,一一範誇ま積極的華こ評穰暮し

ている。

 なんとも歯舞れヂ)よくない,漢離した主観的な

整遷では為る。ここには,この執筆者の懸人曲事

鷺もあろう潜,子どもの現状をどう捲撮するのか

というこの分科会の課題意識が先蒼し,それから

実践を,ないしは子どもの作品を疑るという見方

が露呈されている.この分科会に簿織か参撫した

筆者1こよる感想で言えば,恵沸の生活綴方実践と

その羨提,あるいは癬発点にある「子どもをつか

むiということの意瞭が,参綴巻にはなかなか蓬

解されず,その生活綴方実践ヂ)露蒋な特籔もまた,

運解されるには棄らなかった。それ1ま,①恵那が

鍵起してきた鋭い「子ども掘握」の問題盤に参癩

者がついていけていないこと,②それに憾癒する

生活綴方実践が罪作文教鳶」とは違うという礫解

はされてきたとはいえ,総合縫をもった実践とし

ての蓬解に至っていないこと,③総合性グ)中殊と

して「わかる学習」や,学力・教科に録する考え

方についての識争状態があること,などがさしあ

た鞭指鼕鼕できようα

 欝76年紅悪那で露催された全馨集会が,恵藻の

睡有娃をアピールする起点となったといわれてい

る。したがって,ここでは丹羽実践が†分還解さ

れたとは言い難い段繕だということを指摘するに

とどまる。 しかし,その実践の質的な高さ1ま,関

心もつ人々には十分受けとめられていったようで

ある.77年の舞分科会の恵那難告は上矢作と中津

鱗毒教育欝究舜『のヂ子どもの郷:と心ゴをめぐる羅

題であったが,78年は丹羽実践をまとめた資料綴

子が提繊され,蔚年の「体と心」をふくめて,「学

力・人擦の基礎とその形成・発達の基礎として,

生活の意識紀害主体髭テ馨鬘髭というべきことが

不再欠であ誇,こσ)ことは載育実践の方露盤をさ

ししめすもヂ)」という点での建解の到達点が記さ

藤ている物

尋 五十撰鑛が読みとったもの

 丹羽実践をかな鯵深く読み込んだ分析として五

十嵐鑛があげられる.蒋にこの実践を懇窮に講み

とろうとしたものとして,参考紅なるところが多

いので独立して環を起こす。しかし,単練紅置十

嵐が読みとった丹羽実践を紹介してもあまり意鎌

がない。むしろ,教官学者五十嵐の読みとりを遇

して,そこで氏ぶ問題としていることの意殊を合

わせて験試することが重要である。

 五十嶽は,窪生活綴方恵那の子曇全巻」)発行に

触発されて,罪数壽実践選誌にヂ教育実践妻こつい

ての考察…一生活綴方における暗闘の懇題」と題し

て■と,中,中の2,中の3と4獲にわたって連載

したが,下がなく実績した論文とをまならなかった。

講甕蓼現代教育学の還論雌蘂i巻の新教育学にお

ける教育壷の位置ゴと題する講稿の中でも,再獲

丹羽実践を取艀ま二げているが,こ殺は連載の途中

に書か;難たもので,二つの異なる発表場飛の請文

は輯象作贔が重複してお弩,隅一の問題意識で書

かれたと箆てよい。

 五†嵐は,かな酵紬象褻の高いテーマで丹灘実

践を謹みとろうとしておを),そこには懸灘実践そ

のものの評懸を取り、とげているというよりも,そ

れを契機としてもっと大きなテーマ1教饗の密密

とか教育実践の教鳶史的意義など)を取吟上げよ

うとしたに違いな知・。しかし,五†嵐の教育実践

欝究の大きなテーマを麟激したのもまた弩灘実践

であり,子どもの生活綴方作品であった。萱十嵐

は露下部作贔を丁寧に取鯵.ヒげ,美趨紀や票の作

贔を詳纈に読みとろうとし,またがっての瀦年氏

作贔である今稜英子作品1こも度々言及している。

Page 14: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

28 轟島大学教育学認論纂第65号

また,匿生活綴方恵藻の子爵本体の掲載作贔にも

鶴編か言及されてもいる。この今稜作贔との比較

検討が,「時霧の問題」というテーマにもあらわ

れているし,さらに広くは,講座奉の譲文のタイ

トルにも反襲されている。

 単線乾していえば,五十嵐はこの二つの譲文で

現代の子どもと家族のかかえる生き方の嬢難性と

教饒の捲導のあ陰方を問題紅してお鯵,さらにそ

れが子どもの人箔発達の教会納経史的蔑定性への

着羅という瞬題意識として鑑定され,それ紅教青

実践がどう纏わるかという課題を追発している。

教育実践をとらえる視点としての教育史という押

さえ方は幾骨に「主観魏」ではあるが,そこで丹

羽実践をなせf五■牽嵐妻ま,験討素壕秀としたのか, と

いえぱ.丹懇実践に幾代の教育実践欝究の課題姓

が凝縮されているからだと読みとってのことに違

いない。筆者は,五十嵐ほどの課題意識を共有し

てはいないが,しかしその講究は参考とするに値

する。本稿でも,いわば蓋十嶽分観を下敷きにし

ながら,丹羽実践を検討する形を取ることとする。

<教畜(実践〉の窪立牲>

 五十嵐はまず,丹瑠実践の中で書かれた子ども

の作贔についてr入閣の体験が§分§身のはもう

すまでもなく,騨の人格(競とか,兄弟とか,友

達とかの〉のそれとも重ね会わされ綴られてくる

過程を見ます。少年少女たちが学科・教科の彩式

内容で学習する文乾ぞれぞれの原捧験の蓄積糠錬

されたものといえるでしょうが,そういう文化の

学習が一般的であればあるほど,子どもたちには

生活している現在と現実鮭会の中で直接的な鉢験

の重ね合わせが必要なのだ」と指摘している2㌔

ちょっとわかりにくいが,教育実践がなまみの子

どもの現喪と鰐縛していながら,そこでの学轡遜

程がゼ文化」という形で娃会性と歴史性を帯びた

ものを習練することを遠して,ヂ学力盛として藤

外されたものとして立ち理れるのではなく,綴吟

方の営みを透して子どもの内実に食い込んでいく

ことを指摘しているように思われる。

 次のセンテンスで五†嵐はこうした教育実践の

董9{妻8年至2鐸

歴史性に言及して,それが野薮青の懲露」を考え

る上で大勢なことで,今嚢の襲踏で葬ようやく成

立してきた大衆教育が,教鳶の事業,学績の実践

や経営としての港内溶性をもつかもたないかは露

疑及び地籔の髄民と教職員が教育の霧密を掌握す

るかどうかにかかっているから」だと違べている。

こういう文脈でヂ教蕎の自醸」を議塾するの善ま,

五†嵐が嚢評縫争以来この擾念にこだわり続けて

きたからに饒ならないが,丹羽実践の中にあとで

ふれる碓井が追究したようにr教育覇)自劇への

実践考意識が濃厚に読みとれたからである。

 五†嵐捻この(上〉縮で糞虫を論ずることはし

ていないが,次の(中〉で,子どもの人間的成長

の邊程紅当事者以外の催老がどこまで立ち入るこ

とができるか,教育者の活動にとってどこまでそ

れが可能か,そのき毅罪はどのように自覚され礫諜}

免さ駿ているのかを饑いかけ,ヂ教育の欝立雛は

教鳶外の社会機鰭に輯して主張されるのですが,

教官韓紅おいてそれは教欝が子どもを一〇〇パー

セント客体化できるということでなく,教育はそ

の実践の次元においても子どもじしんの成長しつ

つある意識にゆだねざるをえない部分を醸舞とし

て食んでのことであります。教育は完全なる,そ

して安全な操縦ではないのです」節と捲摘してい

る。この場合でも蜜豆と嚢虫は微妙に異なり,懸

一ではないが,野薮青の欝密」を子どもの成長に

おける「欝露」と関わっているという観点は重要

で為る。これ縁,わたしの解織であるが生活綴方

実践がもたらした新しい「境地」といっても過言

ではないであろう。

〈子どもの成長と「歓会形成」>

 次に五ナ嵐の分籍は,生濤綴方においてこそ子

どもが凝視する崖活が,子どもの成長の環縫とし

て「鮭会約諾鷺係の総鵜」として霧産することを

分極している。子どもが綴り方の題材として取り

上げる鑑活の否定的なさ豪は,しばしば「貧乏綴

方盛などとも呼ばれた。しかし,五十嵐は,五〇

年代の今枝作贔を分析しながら,紅少年少女擬の

人間的滅長は,実生活およびその表椿の貧しさや

Page 15: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

森畷道雄薩§簿年代の恵翼の生活綴寿教育の襲爵1繊 2§

人購性の矛震や弱燕江つ恕・て無騙気で無頼蓄であ

って擁能でしょうか。かれらは窮分のであれ友人

のであれ入閣の生活と人間盤の貧獲についてあず

かり知らぬ好人勤であってよいのでしょうか.

 ・少年少女の人購釣成長は本賂的な麗実が,鮭

会議関係の貧しい貧羅も,豊富から生じる貧露

も含んで一避けられないのであれば,本格的に

それに海かわざるをえな1いといわねばな警ませ

ん。」蹄と述べる.この見地は特に珍しいもので

はなく,現代の生活綴方実践紅もつうずる観点だ

ということを確証しておくにとどまる。

 次に五十嵐は,泉の作品の分極綾討に移る。と

いっても,五十嶽の分極は美膚紀,今稜作贔にも

及び,肇が身震の障害者である叔母の喜在を直視

できない内心の矛暦が,どのように克服されてい

ったのかを丁寧に追っている。もちろん,教麟の

遍舞な指導もだが,美密粒や今枝からの影響紅も

書及している。特に,美懸紀が頑張って綴終方を

轟いたことの背景にある丹羽学綴への鱈頼を,寒

も共養し「恐い切って書く漢心」を暖める契機を

ことのほか重視する。五†嵐は,葬私はここで,

  ・泉の綴方の評簸においてのべようと思ってい

たことを……持ち墨すことにします。それ畢ま教鳶

における縫会形成ないし縫会関係の形成というこ

とです。泉の綴方は泉の家族の人びとのあいだで

これ豪でになかった入閣的縫係の感椿をもたらし

たことでしょう。……鶴1頼ということで私がここ

で重視したいのは,叢頬は一つの縫会麗係,人聞

灘係ということであり,泉の転機に美露紀の鱈頬

が深く影響したならば(事実影響したのです)泉

の転機のところですでに教会形成があったという

ことです」と,捲摘している縮

 ここで「桂会形絞」という善葉が墨てきて少し

ばか鞭面食らうが,これは五幸織が独特な意殊を

与えて矯いている凝念である。といっても特燐変

わった内容を示しているわけではない。教奮基本

法の第玉条に「教鷺は,人賂の完破をめざし,平

灘的な謹家及び蛙会の形成考として」とあるその

文言を下敷きにしているにすぎない。「子どもの

成長は「縫えまのない湾と外との交流活動墜にお

いて考察されねばならず,それはr後会の形成,

あるい弦,巻会的麗係の懇織盛という過程なのだ

という意殊で説瞬されている駄つまり,氏は子

どもの生活綴方作贔の読みと瞬こおいて,子ども

の表現を通してその子どもの内と舛との交流が,

とりもなおさず子どもの環箋としての歓会の,一

員としての形成遜程を見ようとしているわけであ

る。この観点は,悪蔀の生活綴方に難らず,どの

ような教奮遍程においても考察されうるもではあ

るが,氏の考察を朝激する典型性が丹羽実践に豊

富に含まれていたことを示している。

 泉の事舞に戻れぱ,鍍が鐘害春である叔母を書

くことをとおして,単なるひけめや岡構ではなく,

綾女が人聞釣に成長できる養護学校のような存窃

を強く腰い,それは権稀なのだという意識紅高ま

っていく過程を五十嵐はそのような慧殊において

とらえようとしたことの表瞬である。もちろん,

泉の作最は籔の意識の上での変革がテーマなので

はない、裏を含めて,後の家族全員の関係をきり

闘いたことにあるゆ障害者である「はっちゃん並

の喜在を人聞として家族が確認できたことが,泉

の成長を契機におこったことが重要なのである.

「人間的絞長における人擦の形成と歓会形成の爾

灘藏」を讀みとったのである2箋五十嵐は,ここ

まで(中の至〉の譲文を続けて最後に「教縣論」

が抜けていることにふれ,考察が未完であること

を旛擁して終わっている。

<教麟の指導と「影響」〉

 五十嵐ヂ)丁寧な考察は,(中の2〉で前号での

記述の補筆と討死をおこなっている。これは,は

じめからある溝懇を持って書かれたというよりも

思索を続けながら書かれたことを意味している。

従って論意が整還されて書かれているとは言い難

く,読むの1こ難渋する場面もある。ここでは「指

導と影響」に臠して遠べられているが,教麟の教

青酢作驚がどのように子どもに及ぼすのかが追究

されている.そして,蕩号での論稿の一議こ懸雑

な点があったと欝己撹聡し,「教麟1こよる指導と

人聞的影響が学綴の精神的雰雲気の変髭を通じて

Page 16: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

3§ 離島大学教畜学謡講集第薦骨

ここの少年少女の籍神に作絹する過程はきわめて

デリケートであ」ると捲締して,次のように遠べ

る。

 「教育、ヒの事構はおも1こ振導の饑きによるもの

 ですが,指導の嚢的は,指導のさいの意馨や港

 動の及ぶ範露をこえて饑く諸方にささえられて

 達成され・一・教麟の捲導のばあいに1ま,教饒の

 意緩や主饒をこえた人襲的影響が大窮な役塞を

 果たすあ碧通常,教育を意翻的なものと非意緩

 的なものに大慰し,学校1ま繭者の典型的なもの

 として識醗されてきました。しかし学絞教育と

 いえどもその舞的は纏粋に指導のみによって達

 絞されるものではあ韓ま重ん。それは学校教育

 を羨提とした搭導の性質や機能からもそうであ

 って,癒導は,やがては指導を必要としない,

 露分で学ぶ必要をみたす方法を見つけることが

 できる,霧立していく人聞的能力を育てるので

 すji赫〉

 この捲摘は平尾かもしれない。少なくとも生落

綴方的教育観にあっては,そうであるし,ことさ

ら遠べるまでもないことであろう。しかしな巷,

五十嵐はこのことをあらためて取翰とげるのだろ

うか。

 五十嵐は,讐灘が教育ノートにF子どもが露分

で白蜜をつかんでいくこと」,「子どもたちに,自

分の心をえぐり鍵すことを通して褻分を甕癒乾し

ていくことのきびしさを学ばせようと思いまし

た」と書いていることを覗難し,教官実践は教麟

の振導がただ具体的活動として麗麗されるだけで

なく,「指導の具鉢的活勇のなかをつらぬいてい

るとみられる基本の欝鍛」を「鮨導の原蓬」と押

さえ,「捲導」に鰐してヂ影響」という置薬で趨

婦的に区矯された後巻への窪§をおこなおうとし

たのである。それは,弩羽実践を分鞣するうえで

必要必須な機念装麗であったと,私は考える。

 「捲導の原運」とは,五十嵐によれば「巽地組

おこなわれた指導的諸活動から導きだされた経験

的な結轟をさし……ある程慶の指標的遜魑をふ

くみ」「原運はこれからの活嚢の§漂や蓬懇では

なく,これまでの活動のなかに膿浸しつつも,つ

導鰭年董2薄

らぬかれている経験であ警思想で」あると縫足す

る三㌧そして,籔元忠芳が野解説」で菱捲導の難

接娃」について言及していることに涯§し,「!弩

羽〉髭生の指導の力は,美嶽紀の縫方にふくまれ

る縮神の葛藤が泉のそれへ遜じていくことを可能

にさせた影響のもとで感じられ」ると,捲締して

いる。長文の内容を要約することは難しいが,要

するに五十嶽は,縁灘の指導が子どもたちの懇々

に及んでいるだけでなく,学緩という集懸の高揚

した雰鬱気をつくり,子ども舜士の影響グ)しあい

をr教麟の影響」として考察しようとしたのであ

る。腹元形いう「指導の闘接性」はそれとして検

討を要するが,丹羽学級の子どもたちが綴った作

最をとおして,それが教畿の捲導の影響力のもと

にあることは§醗としても結愚は子ども欝身のな

かから,もしく縁子ども輯互の作驚のなかから生

み鐡された「教官力」の綾1果であるということな

のである。こうした、子どもの灘の籠勧性、主体

性が慧郷の生活綴方教育の核に位置するものとし

て、丹屑実践縁典墾酌であったのだ。

 五十嵐の未完の論文の最後にあたる(中の3)

では,磯透智徳の作品「おかあさんの気持ちをわ

かるとはどういうことだろう」の分鋳と『教育破

撃」にあてられている。智徳作贔もまた,はやく

から浮嚢を集めて疑たもので,幾代の競予震係と

りわけ母鰻と息子をめぐるデl/ケートな心遣いを

主題とした意殊深長な内容を含んでいる。しかも

これは,美壷紀や泉とはまったく異なり,いって

みれば「解淡」が見えないテーマである。おそら

く心蓬学,家族問題の素材としても縷説されても

よさそうな内容であるが,購題は智徳察身にとっ

ての薄舞鰻における「生き方」なのであり,後自

身の問題である。五十嵐は,そういう立場で鐸贔

分籍を進めている。ここでは紙旛の縫係でこ¢)鐡

有の購題に深入脅するのは避ける。しかし,子ど

もが「書く」という童義に関して,譲点を捲摘し

ておこう1鞍の作贔の一・誠は(§)に掲載ん

智徳の場合は,美塗紀や泉も窪分の内灘での強

Page 17: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

森霧遵雄二鯵簿年伐ダ)恵郵の龍活緩方教育の震翼緯 3重

蕪な葛藤を経て「ふっきれた」段欝で書いている

のだが,縁競がゼ家の鎚やで書くな」とくり返し

言うのに鰐して,褻ぼくは書きたかったむ懇いっ

き蔭書いて,ぼくがおか蕗さんぜ)ことをほんとう

にわかるということがどういうことかわかろうと

した1ということがはっきり霧覚されているとこ

ろが特籔的なのである。つま琴,綾1まその作品を

書き終わってもなお母綬を運解しきれない段贈を

霞覚しているが,後は生活綴方を霧くこと察体の

中に彗分の問題意識が変わっていくことを確震し

ているσ)である。五†嵐は,これを「量閣」「量

闘鉢」との緊張縫係として押さえながら,この作

贔を高く評慰している。

                ママ 響智徳は不麟露難ななかで綴ってくることをつ

うじて蓬解が成立する立場を自分のほうからきず

こうとしているのであむます。運解の立場とは露

分のために舞の難解を請うに麺する立雛であり,

母のためヂ)遷解を自分に百態紅させる立場です。

そのために,まず母の鶴頬に鑓するものを,露分

のなか1こ綴ろうとしてきたのです.この綴方が感

動させるのは本人と母とをともにしばりつけてい

る健闘および量購体の実鉢をまだ認識できないで

いるにもかかわらず,その蓬解への籍動に忠実に,

嚢分の気持の事実を綴弩,それによって蓬解へ遊

じていく遵を播こうとしているひたぶるな歩みで

あります」織

 丹羽は卒業式の萢麟紅この綴方が鐡てきたこと

に鰐して「こんなすさまじい綴方を書いていると

は知鯵ま慧んでした」と実践詳録に記している潜,

五十嵐は「言講の不糞密のもとでもなおかか建て

いる少年の籍動においてすさまじいのでありま

す」と讃弱し,ゼ入生についての深い知見がよう

やく子どもの成長の縫馨において本格化してき

た」と賞賛している。このことは,教科の学習で

もあらわれるといって,「知識.知力知性の形成

は人聞的成長の遍程の後合に不再欠であり重大で

あります。私たちは教稗学習によって磐なるもの

を鰐象として認識しつつ,自分と環鏡との未分姥

一体的なものを離し分観し,暮々あらたな欝分の

内的盤罪をきずきつつあります。」鋤と,つない

でいる。

 これはちょっと講点の蕪躍であるが,氏がいわ

んとするところはこういうことではな1いか.つま

り,書くことをとおして母霧を還解したいという

智徳の纏彗勤」1ま,外な:る毯:舞を蓬解しようとい

うr学び」への要求を意殊するのである。しかも

ここで注意したいのは.綾萎こと一)ての磐なる縫罪

は母親だけで絃なく「僅闘蓬に鰐しても蓑藻ナられ

る得るということである。作贔のなかでは必ずし

も猛襲を意識化していると1まいえないが,中学盤

1こなればそ穀が{薄で蕗るのかという問題1こ自覚的

になるであろう。

<「教育攻撃」とε窪漢3の教官〉

 五†嵐は,最後にその葬健闘」の強烈な実体の

一つとしての5教薄破撃」をとりあげる、いう蛮

でもなく讐羽学級のこの実践記録は,まさにこう

した外麟盤界に翻弄さ擬な潜ら,ε難破盛するど

ころかかえってそこでr大饗的真実」をいっそう

輝かせるのである。五†嵐はそれを十分ふまえた

うえで「書講の嚢虫」の授業記録に巻無している。

ちょうど栓会科で基奉読入権の学響の進行と,事

実を衷つたくといってよい縁ど伝えない鞍遵で子

どもたちも巻き込んで麹蟻が騒ぎ立っている蒋が

交錯したのである。

 それは五†嵐が第二二の島癒と呼んでいる「教麟

と子どもたちとの教奮の営みの「由の蜂灘にあ

たる書すなわち,坂本地区でド教育懇談会」が継

織され律動を縫飴し,それに呼癒するとしかいい

ようのない新聞の一方的な報道が展縫される時難

である.鮭会科の授業にお謬る墓牽的人権という

テーマの現実の素材がいま新教育竣撃」という理

不尽な影で,身透なところでおこなわれているゆ

そこで「言論の霞癒涯をテーマとするところに緊

張感が鐵てくるのは当然である。しかし,丹羽は

具体的な報道そのものを直接取り上げたりはしな

い。「今馨みんなと懸強したいのは,新騰の鑓事

ではなく,もう一度,新灘の使命を考えてみた

い」と子どもに呼びかけているが,このような提

起は五†嵐の表現によれば5言論の白露は大鑓な

Page 18: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

32 福島大学教蕎学藻譲藥第繕号

ことだから教えておくというのではなく,子ども

の当面の環擁となっている問題との縫係で書論の

        ママ嚢露の漂難と境実との闘いあっている矛麟を子

どもたちに考えさせることが教麟の決意であっ

た」揚と説墾されている窃ありのままの事実に晦

き合えば,そこから子どもたちがっかめていくは

ずだという丹場の確猛が背景にある。

 五十嵐はこの嚢の授業の意義を,「新鹿紅よる

「教育攻撃」の欝の憲法の書誌の欝露の難強は客

観的な文髭の遺産を子どもたちに学ば・琶ることで

あったけれども,これまでこの嚢慮原羅を必要と

さ甚,そのかくとくのために努力さ慧,いわば窪

歯の内実となるものを露分たちがこれまでめざし

てきたのだということを確認することにあったの

ではないか」と遠ぺている⑪誓まさにそれが生活

綴方紅おいて子どもが実行し実現しようとしてき

たことではないか」錨というのである。ここでの

考察は,讐羽の実践捧汀教育の露露葺を求めると

いう大きな振導尿蓬のなか紅「白鍵の教育」を必

然的紅内包しているということである。これは,

恵郵の塗活綴方蓬解紅おいて中心的なテーマにほ

かならない。生活綴方の荏荘癒纏は子どものこの

欝滋の獲得の過程そのものだということでもある。

 五ナ嵐は撰駕していないが,実践記録には泉の

この鋳の文が旗ている。泉は新靉靆事を覧ての感

想をこう書いている,紅ぼくは,懸強がすんで,

今,馨分嚇どういう入闘になっていかなあかんか

を,ものすごく考えなあかんかつで気がついたσ

人の気持ち勝わからんおとなになっていったら人

間のかちがない。ぼくはつづり方や地裁が好きや,

あんな新縫垂こぼくたちがどんだけ,いっしょうけ

んめい地薮をやってようなったか書いてない。ぼ

く毒まもっとなかまを作り,庫:当のことを,だれの

麟でもちゃんと言える力を魑強していく大鷺紅な

る。そことが,坂本のほんとうのいい末羅になる

ことや.」灘大人の予臨をもった決めつけや事実

を確かめもしないで購謁する安易さとは薄極的な

ところで,この子どもたちは本来ヂ)学びの意殊を

つかんでいるのである。

露盤年玉2舞

 五十嵐はここに至る文蘇のなかで「書かれなか

った綴方」にも言及している。作品ぶ子ども密身

の書く意志,発表の意志をくぐってだされてくる

こと重い意義を示す事纒として,離紅機略でふ潔

た鑑美子の一件がある。

 由美子は公醗授業で「そうやけど私絃,書くた

めにわかるんじゃのうて,私がほんとうにわかり

たいつち喰う気持ができるまで,そのとき1こは,

きっと不安な気持ち亭のうて,落ち着いてわかる

ときを窮分でつくりな1渉ら待とうとしとるよ」と

発言した。この由美子の言葉を引鱗した後で,

「私はこういう言葉をとおして少年少女たちが幾

重1こも露分が警分であることをたしかめつつ成長

をしていく姿を見る想いがします。露分が露分で

あることのほんとうの慈濤を大講垂こしあう学綴の

雰雛気落なければ懸美子の発糞は不可饒であった

でしょう。」瓢

 綾女は露分が今の講親のほんとう憂)子どもでな

いという事実をどう知ったらよいかで慰んでいる。

それは智徳のように「書く」ことをとおして突き

抜けることのできる課題かもしれな1い。しかし智

徳とは逆紅,震美子は今はr書かない」という選

譲をし,落ち養いてわかるようになる藝分1こなる

まで[待つ」という選択をみんなの蔚で発奮’して

いる。こういう自発的で主棒的な選毅の力,不懲

酸をのりこえる力が生活綴方ヂ減果なのである。

これは一つの事綴ではあるが,自鐡の主体として

子どもがこの年齢段欝で到達できるという事実が,

驚異的でもある。

 蓋十嵐の長い考察は,もっと麟覆や鮭会姓のあ

る麟こも悔いているが,ここでは褻愛せざるをえ

ない。要するに,ここで長々と氏の考察を紹介し

たのは,弩羽の(従って患部の/生活綴方の実践

的到達点が,このような教鳶醗究の一般化されね

ばならな1い課題紅録する素材罷りうることを証馨

しようとしたものだという謬葬こある。

<小括> 以上かなり長く,五†嵐譲文を紹介しつつ丹羽

実践の意殊を遽べてきた。ここには,私密身の問

Page 19: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

森馨避難:緯驚年代の葱擦の盤三活綴方教育の展擁繍 33

題意識との重なり潜灘るが,そこはいま捲くとし

て,五†嵐が丹羽実践を下敷きにして教育の教会

性について書及した点紅,もう少しこだわってみ

たい。つまり,実践をどう評慰するかではなく,

こういう典型雛ヨのある実践をとおして五十嵐が遽

発しようとした本来のテーマは侮だったかという

ことである。これは,ある意陳で恵藻の教育実践

とは関係のないテーマではある。しかし,繰警返

し遠べるようにこの丹懇実践がなければ,実擦の

子どもの動きというシベルでの「験誕」のない擁

象的な考察にとどまらざるをえなかったものであ

る。

 そのテーマも実は重繕的である。そこを単纏銘

していうならば,かつて氏が捲摘した戦後教育改

革における主捧の不存蔓…という問題紅鷲する,そ

の鋳点での総猛と発展が意麟されていたのではな

いかという建解である。もちろんそれは,鰺驚年

代半ばの生活綴方実践で主鉢形成の実擁を験証し

たというだξナの羅董題ではない。しかし,マク資に

馨疑とか疑族というレベルでの主体形成と綱々の

教義霧(競〉と子どもとの縫係葦こお垂ナるミク臓のレ

ベルが,区勝されつつも統一的に講じられねばな

らないという問題意識があったように感じられる。

子どもの綴り方作贔は,子どもの生活過程,思考

過程,教緬の捲導遷程が反験している。縛羽学級

の子どもたちをして,主権巻数禽の,あるいは主

体形成の撫導ξ)遍程が読みとれるとしても,それ

が塵ち紅氏の問題意識を十全に検謳するものとは

ならないが,いたく麟激したことは確かである。

 五十嵐はもう一つの論文「教糞における教毒虫

の位置コの結び近くで,次のように書いている。

 野教育実践においては教育紅たいする琶会的簗

 史的趨走は人聞釣鰹性的な癒魑の追求をとおし

 て実理される。この綴面が重視されるところに

 教育実践の現実盤がある。同一の鮭会的歴史的

 規定のもとで異なった人権的繊競拳塗ずるのは

 繕ゆえであろうか。ここに大鷺i彩破の過程量こお

 ける教育実践の独察の役割が認められる。教鳶

 はみずからにたいする鑑会的・歴史的趨走の無

 磨覚的な,轟然の実理ではなく,その認識をつ

 うじてその蔑建に露覚的にしたがい,あるいは

 遂にそれ紅反撥・抵観して実践されるのである。

 教費実践における教麺の馨癒なくして教翻の本

 分は考えられないのである。上にのべた人聞的

 麺雛的鱗麺は鮭会的・歴史的な性格をもっては

 いるが,教育をとりまく鮭会釣鐘史的状態の姓

 質がそのまま教育活動紅移されたようなもので

 なく,生きた鮭会的鍾愛的条件をつうじて,い

 わば錬磨され,もとの基盤を離れても選駕する

 普還納懸魑をかくとくしたものである。」

 つまり,すぐれた教育実践は羅密的な鰐子ど~も

のあれこれの欝きかけをいうのではなく,こうし

た縫会的簗史的な規建をふまえた教育的緬麺を意

識化していること1こある。寒や智徳1こ薄する丹羽

の指導1こふれた後,五十嶽は言う。

 「大鷺の載1長はより大きい矛懸紐嚢嚢できる遜

 程のことであるともいえる。これらの教奮実践

 巻の言葉は教官実践が単純紅教脊紅鱒する歓会

 的・魔史的媛定にたいして無額着であるだけで

 なく,これらに薄し欝覚的撹甥的でありつつも,

 教育的成長の子どもにとって独密の邊程を追求

 することを意殊する。……教育実践紅おける人

 季冬形成ヂ)遍程垂ま,実践じしんの蓄積妾こもとづく

 歓会的1整史的意i義紅依擁して馨鋒的である。教

 奮に換えられる護会的蓬史的な規定が人聞的成

 長:の懸経費こ撰するものとなればなるほど,教育

 実践轍ますますその自律性を高め,縫方では教

 育の歓会的歴史的媛定じたいの変革をその実践

 の内的運動として要請甚ざるをえない。この二

 つの要請は,あたかも教鳶および教奢精神の死

 活を量まる脅威をもってあらわれるまでに厳密

 なのである、」謝

 ここで五十嵐は,楊反する二1つの教官麟重魑を念

頭1こ置いているが,この矛矯した癒纏覇)せめぎあ

いは,ミク瞬ことらえれば丹羽学級の子どもの作

品(つまり子どもたちの生活と思考の遍程)に反

験しているということである。それは,藪接的に

は地鰻紅おける5教畜竣撃」という彩を取静つつ,

間接的華こはそれをめぐる「書く」褻書かない」「書

きたい」「書けない」という子どもの心の葛藤と

Page 20: 一丹羽徳子実践r瞬臼に向かって」について一 - 福島 …...森籔遭難:鯵簿年歳の悪擦の生活綴方教育の靉靆絵 欝 欝70年代の恵那の生活綴方教育の展開(4〉

3垂 福島大学教奮学蕩識集第§5号

して反験する。問題慧,そういう赫的な,縫会的

歴史麟な課題が丹羽の捲導したこの実践のなかで

子ども嚢身がそれを背負い,かつ矛震をのりこえ

る営みとして達成されているということなのであ

るひ

 先に「教育破撃」にふれて,丹聡実践ではそれ

さえもが子どもを変革する契機となったという意

蘇グ)ことを書秘・たが,多くの教麟がわがこととし

て「攻撃」を受!けてたじろいだなかで,子どもと

一・盾ノなっての吟こえていく実践として綴織でき

たかといえば,そうだとは一醗毒こは言えないきび

しさがあったであろう。この実践の奔馬さは,そ

こにも一つの根擁があるのである。   (続く)

           (i鱒8年欝鍔5臼受運)

          注

i 丹羽徳子匿瞬舞に講かって選(上/登.捻 麟

 書はζ生活綴方恵郵の子蓋の灘巻2という位置

 づけで飛行された(草土文化 欝82年〉

2 縦 夢」5

3 瞬 脚.25~6

逢 疑 嚢.2欝 時欝1害華表のヂ罵意するもの」の

 項に1ま「とぎす叢された心と耳」とあるのが鶏

 象的である。

5 霧(下〉 即.§8~玉璽3

6 『生き方を考える性の教育遜辞.2欝 原文に

 は句点がない。なおこれ以外の美由紀・泉の作

 贔縁嚢接舞茸鐸こ講かって遍からとったが,引

 矯頁等は略す。

7 匿瞬欝紅海かって遷(下/鯵.i鍵~3

8 厨 欝.欝

警 瞬 夢.玉茎8

捻 購 警.i欝 カッコも療友

登 隅 夢.2認および嚢.鵯

茎2 瞬 麹.2璽§~2§

欝 石欝穂男「生活綴方縞神で生活・学習意欲を

 轟めるため紅」纈教育妻76年5擁号)蹄。韓3~

 凄

絶 縷中孝彦ヂ子どもの発達と人聞巌の開題」(ζ教

魏78年5月号〉嚢.76

欝欝年玉2湾

上匿教育雲海.§3

 の発達と人闘繰嚢青本書震 i繋3)欝.簿 擁

 膿は簿年(講座匿舞本の学力醤「道徳と教欝」

 飛級〉

 鐵こ霧かって曇(下)鷲駿 欝.2箆~警

 臨蒔増霧辱「地域にねざす教育」欝77〉β、騒

 これは醗究集会第i分科会の豪とめとして執筆

 された。

欝 太鐙政男ヂ教科醗中開講究集会の蜜とめ」(疑

i§ 畷中孝彦多少無難と道徳性の発達」(蓼子ども

}7 深谷鎧作誓解説 発菩の季籔を実感する∬瞬

董8 簿 欝.233

墨§ 護透顕治ヂ子どもの発達と学力」(甕馨異教畜垂

奪釜234

ウ422ウ血2

隅 登.鐙 <〉は療文のまま

講 鱒、驚~至 すべて原文のまま

瞬 警.53

晦張教灘臨時贈轡講78夢.i3§

五†旗頭「教畜実践についての考察一生活綴

 方1こおける蒔匿1の欝1題藩(上〉醒教育実践凄3暮

 号緯82年〉脚、玉響~欝

  五十嵐霧論文(中の玉 37警漸叡)夢、i簸

  講 夢、盤3

  縁 夢.董玉§

  五千嵐夢人闘的議長と教官」礪羅難教育轟き茎

 亜§82〉登.8

 嚢.至2§

 夢.瓢

25

27

2魯

2§ 醜掲r教育実践一…」(中の2 記号翫叡)

3嚢 隅 夢、i23

3茎 瞬 夢.i25

詑 講揚「教育実践……豊(中の3 鎗号辮叡〉

34§§7昌G

333333

匿現代教篤学の運論毒第至巻

囎、2鶴~7

隅 登.蟹

隈 夢、97

瞬 嚢.弼

轡葺篶こ梅かって垂(下)登.37

表掲「教畜実践一・…ゴ(中の3〉麹.墾~§

五†嶽「教蒋濠こおける教育史の{嚢避難(講整

            青木書篠 欝82〉