経済成長が雇用拡大に結びつかないインド...2) 正式名称はmahatma gandhi...

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75 経済成長が雇用拡大に結びつかないインド ~教育水準が低く、労働供給に構造的ボトルネック~ みずほ総研論集 2011年Ⅱ号 みずほ総研論集 2011年Ⅱ号 1.近年のインドでは、経済が成長しても雇用は伸び悩み、特に2004~2007年度は「雇用なき高成長」だった。 2.この傾向は特に2次・3次産業で顕著だ。これら産業では、労働集約型ではなく、資本・知識集約型 の業種が発展することで「雇用なき高成長」が維持されてきた。経済成長の成果は資本・知識集約 型産業に従事する一握りの層に集中し、雇用拡大という形で広範な階層には浸透しないことから、 所得格差も拡大している。中国では労働集約型産業が発展し、2次・3次産業の雇用が拡大して中間 所得層の形成につながっており、インドとは対照的だ。インドで雇用が伸び悩む背景には、労働集 約型産業の雇用を抑制する構造的要因があると考えられる。 3.インドの雇用を抑制する主因として、全般的な教育・スキル水準が低いため、労働供給にボトルネッ クがあることを指摘できる。インドの識字率は6割で、9割を超えるアジア諸国に水をあけられてい る。労働集約型産業を担う中・高卒層は2007年度は人口の19%で、2000年度時点で45%だった中国 との格差は大きい。なお、インドでは初・中等教育の普及が遅れている割に、大卒層は人口の7% と中国の4%よりも多く、これらの人材が資本・知識集約型産業を担っていると考えられる。 4.インド政府は、教育・スキル水準を引き上げるべく、2010年に無償義務教育法を施行したが、6~ 14歳までの義務教育を修了するだけでも8年が必要であり、効果を上げるには時間を要する。職業 訓練機関の受講枠も、人口の7割が居住する農村を中心に不足している。また、農村については、 政府は公共工事を通じた雇用対策(全国農村雇用保障法)に力を入れている。しかし、これは当座 のセーフティーネットの性格が強く、根本的なボトルネックの問題に働きかける政策ではない。 5.今後を展望すると、経済成長率は中期的に現状の+8%程度で推移すると期待されるものの、労働 供給のボトルネックはすぐには解消されず、資本の知識集約型の発展パターンが続くだろう。以上 を前提に中期的な就業者数と失業者数を試算したところ、成長率に比べて就業者数の伸びは引き続 き緩慢にとどまるとの結果が得られた。若年層を中心に増加する人口は雇用として十分に活用され ず、失業が増えると懸念される。 6.こうした事態を回避するためには、教育・スキル水準の低さが雇用拡大の障壁となっていることか ら、人々の就業能力(employability)を高めることが喫緊の課題となる。具体的な対策としては、 若年層をターゲットに職業訓練の機会を増やし、労働の即戦力に仕立て直すことなどが考えられる。 インド政府には、こうした施策を通じて増加する人口を雇用として有効に活用し、経済成長の成果 を万人に広げる包括的成長(Inclusive Growth)の実現が求められる。 要 旨  経済成長が雇用拡大に結びつかないインド ~教育水準が低く、労働供給に構造的ボトルネック~ アジア調査部 主任研究員 小林 公司 E-Mail:[email protected]

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Page 1: 経済成長が雇用拡大に結びつかないインド...2) 正式名称はMahatma Gandhi National Rural Employment Guarantee Act。マハトマ・ガンジーの名を冠していることか

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経済成長が雇用拡大に結びつかないインド~教育水準が低く、労働供給に構造的ボトルネック~

みずほ総研論集 2011年Ⅱ号みずほ総研論集 2011年Ⅱ号

1.近年のインドでは、経済が成長しても雇用は伸び悩み、特に2004~2007年度は「雇用なき高成長」だった。2.この傾向は特に2次・3次産業で顕著だ。これら産業では、労働集約型ではなく、資本・知識集約型の業種が発展することで「雇用なき高成長」が維持されてきた。経済成長の成果は資本・知識集約型産業に従事する一握りの層に集中し、雇用拡大という形で広範な階層には浸透しないことから、所得格差も拡大している。中国では労働集約型産業が発展し、2次・3次産業の雇用が拡大して中間所得層の形成につながっており、インドとは対照的だ。インドで雇用が伸び悩む背景には、労働集約型産業の雇用を抑制する構造的要因があると考えられる。

3.インドの雇用を抑制する主因として、全般的な教育・スキル水準が低いため、労働供給にボトルネックがあることを指摘できる。インドの識字率は6割で、9割を超えるアジア諸国に水をあけられている。労働集約型産業を担う中・高卒層は2007年度は人口の19%で、2000年度時点で45%だった中国との格差は大きい。なお、インドでは初・中等教育の普及が遅れている割に、大卒層は人口の7%と中国の4%よりも多く、これらの人材が資本・知識集約型産業を担っていると考えられる。

4.インド政府は、教育・スキル水準を引き上げるべく、2010年に無償義務教育法を施行したが、6~ 14歳までの義務教育を修了するだけでも8年が必要であり、効果を上げるには時間を要する。職業訓練機関の受講枠も、人口の7割が居住する農村を中心に不足している。また、農村については、政府は公共工事を通じた雇用対策(全国農村雇用保障法)に力を入れている。しかし、これは当座のセーフティーネットの性格が強く、根本的なボトルネックの問題に働きかける政策ではない。

5.今後を展望すると、経済成長率は中期的に現状の+8%程度で推移すると期待されるものの、労働供給のボトルネックはすぐには解消されず、資本の知識集約型の発展パターンが続くだろう。以上を前提に中期的な就業者数と失業者数を試算したところ、成長率に比べて就業者数の伸びは引き続き緩慢にとどまるとの結果が得られた。若年層を中心に増加する人口は雇用として十分に活用されず、失業が増えると懸念される。

6.こうした事態を回避するためには、教育・スキル水準の低さが雇用拡大の障壁となっていることから、人々の就業能力(employability)を高めることが喫緊の課題となる。具体的な対策としては、若年層をターゲットに職業訓練の機会を増やし、労働の即戦力に仕立て直すことなどが考えられる。インド政府には、こうした施策を通じて増加する人口を雇用として有効に活用し、経済成長の成果を万人に広げる包括的成長(Inclusive Growth)の実現が求められる。

要 旨 

経済成長が雇用拡大に結びつかないインド~教育水準が低く、労働供給に構造的ボトルネック~

アジア調査部 主任研究員 小林 公司*

*E-Mail:[email protected]

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経済成長が雇用拡大に結びつかないインド経済成長が雇用拡大に結びつかないインド

《目 次》

1.はじめに…………………………………………………………………………………77

2.近年の雇用情勢…………………………………………………………………………77

⑴ 高成長の割に増えない雇用………………………………………………………………………… 77

⑵ 2次・3次産業は労働力に依存しない成長パターン …………………………………………… 79

3.雇用が増えない要因と政府の対応……………………………………………………83

⑴ 教育水準が低く、労働供給にボトルネック……………………………………………………… 83

⑵ 不十分な政府の教育・雇用対策…………………………………………………………………… 85

4.雇用情勢の中期予測……………………………………………………………………88

⑴ 資本・知識集約型の成長パターンが続く………………………………………………………… 88

⑵ 高成長でも就業者数は伸び悩む公算……………………………………………………………… 89

5.まとめ……………………………………………………………………………………89

参考1 インドの雇用統計について………………………………………………………91

参考2 全国標本調査について……………………………………………………………93

参考3 OECDの雇用保護インデックスについて ……………………………………93

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みずほ総研論集 2011年Ⅱ号みずほ総研論集 2011年Ⅱ号

1.はじめに

近年のインド経済は目覚ましい成長を遂げたにもかかわらず、雇用の伸び悩みに直面している(Ministry of Labour and Employment (2010a))。今後、インドの人口は増加を続け、2025~2030年には中国を抜いて世界最大となり、2050年には16億人を超えると予測されている(United Nations (2009))。人口増加を背景としてインド経済の拡大に対する期待は高い一方で、期待を実現するためには増加する人口を労働力として活用することが必要である。そうでなければ、経済成長の成果は「雇用増→所得増」のプロセスを通じて国内の各層には波及せず、「所得増→消費増→生産増」という形で再び雇用に波及する好循環も実現できないからだ。このため、2004年の総選挙で成立した現シン政権は、経済成長の成果を万人に広げるという意味の「包括的成長(Inclusive Growth)」をスローガンに、雇用重視の経済政策を打ち出している。同年に公表した政策綱領では、統治の基本原則として、「経済成長と雇用拡大」を筆頭に掲げた1)。2006年には、政権のフラッグシップ(旗艦)政策として、全国農村雇用保障法(NRE-GA)2)という雇用政策もスタートさせている。このNREGAが農村では好評となり、2009年の総選挙でシン政権の再選に貢献したというの

が現地での見方だ。そして、2010年に入ると、雇用関連の重要なデータや政府報告書が少しずつ公表されるようになり3)、シン政権になってからの雇用情勢について客観的な分析ができるようになってきた。そこで本稿では、これらの情報を駆使して、インド経済の最重要課題である雇用問題について分析を試みる。以下、第1節では近年の雇用情勢を各種データに基づいて確認し、第2節では雇用が増えない要因と、その要因に対する政府の取り組みを分析する。以上を踏まえて、最後の第3節では中期的な雇用動向を展望する。

2.近年の雇用情勢

⑴ 高成長の割に増えない雇用

インド全体の就業者数や失業率をカバーするマクロ統計として、「全国標本調査」(National Sample Survey、以下NSS)がある。NSS は毎年調査されているが、2010年に2007年度の調査結果がようやく公表された。これによると、就業者数は1999~2004年度に年平均+3.0%の増加で、続く2004~2007年度は同+0.2%の増加にとどまった(図 表 1) 4)。1999~2004年度については、就業者数5)が80年代以降で高めの増加率となっているが、内訳別にみると地域別、性別にバラつきがあった。すなわち、都市の女性就業者が専ら拡大した一方で、農村の働き手である男性就業者は伸び悩ん

1) 厳密には、統治の基本原則として、①社会的融和の維持・促進、②経済成長と雇用創出、③農民・未組織部門就業者の福祉の増進、④女性の能力強化、⑤指定カースト・指定部族等への教育と雇用機会の優先的提供、⑥企業家・技術者等に対する支援政策の順に、6つの目標が掲げられた。①の社会的調和という抽象的な理念の後に、具体的な目標の筆頭として雇用創出が設定されている。

2) 正式名称はMahatma Gandhi National Rural Employment Guarantee Act。マハトマ・ガンジーの名を冠していることからも、シン政権の意気込みが読み取れる。NREGAの詳細は本稿第2節で後述。

3) インドの主要な雇用統計については、本稿末尾の参考1を参照。 4) 就業者数は「ふだんの状態」(調査実施日に先立つ365日間の状態)のベースで、詳細は本稿末尾の参考2を参照。また、1999年度お

よび2004年度に言及する理由は、NSSのなかでも5年毎の「大サンプル調査」の年に相当し、データの精度が高いとして重視される年だからである。また、2007年度に言及する理由は、NSSの最新調査年であり、かつ2007年度調査は5年毎の「大サンプル調査」の年ではないものの、サンプル数が「大サンプル調査」並みであるため、同等の精度があると考えられるからである(参 考 1参照)。

5) 就業者=自営業主+家族従業者+雇用者

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経済成長が雇用拡大に結びつかないインド経済成長が雇用拡大に結びつかないインド

でいた6)。続く2004~2007年度はシン政権の前半に相当し、実質GDP成長率は年平均+9.5%と過去最高に達した。しかしながら、前述の通り就業者の増加率は+0.2%と極めて低い伸びにとどまっており、「雇用なき高成長」に終わった。地域別では都市の就業者が増加したことに対して農村は減少し、前政権に続き農村の雇用情勢が厳しかった。一方、失業率7)は99年度の7.3%から2004年度は8.3%に上昇し、2007年度も8.1%に高止まっ

た 8)。地域別では、特に農村の失業率が上昇して2007年度には都市を上回り、やはり農村での雇用悪化がうかがわれる(図表2)。また、年齢別では若年層ほど失業率が高く、2007年度に15~19歳の失業率は農村で17%、都市で20%だった(図 表3)。若年人口が増えているインドでは、これらの層が新規に労働市場に参入しても、雇用機会を得るのは難しいことが判る。NSS の最新データは2007年度であり、その後の雇用情勢については断片的なデータしか得られないが9)、労働雇用省は2008年のリーマン

6) Ministry of Labour and Employment (2010a)。都市の定義は、①人口(5千人以上)、②人口密度(400人 /km2以上)、③経済活動(75%以上の男性就業者が農業以外の産業に従事)の3基準を全て満たす地域。また、全ての地方自治機関所在地も都市と定義される。都市以外の地域が農村である。

7) 失業率=失業者数/労働力人口。失業者とは、仕事を探している者、もしくは仕事があれば就職できる状態にある者のこと。労働力人口とは、労働の意思と能力を有する者であり、就業者と失業者の和と定義される(労働力人口=就業者+失業者)。ちなみに、反対概念の非労働力人口は、学生や専業主婦、引退した高齢者、病人、けが人など、働く意思・能力を持たない者である。

8) 失業率は、調査実施日に先立つ7日間の各「1日ずつの状態」であり、詳細は巻末の参考2を参照。 なお、1999~2004年度は就業者数の伸びが高まった一方で失業率は増加し、2004~2007年度は就業者数の伸びが低下した

一方で失業率も小幅低下したことについては、図表1の就業者数の定義(ふだんの状態)と図表2の失業率の定義(1日ずつの状態)が異なるため、必ずしも矛盾する現象ではない。また、「1日ずつの状態」に着目すると、労働参加率(労働力人口/15歳以上人口)は両期間を通じて女性を中心に変動しており(Economic & Political Weekly (2010))、1999~2004年度は上昇した一方で2004~2007年度は低下していた。すなわち、相対的に就業者数が伸びた1999~2004年度は労働市場への参入も増加したため、失業率の上昇を伴ったとみられる。そして2004~2007年度に就業が困難になると、求職意欲を喪失(ディスカレッジ)して労働市場から退出する動きが強まり、統計上は失業率の低下に繋がった可能性が考えられる。

9) 例えば、労働雇用省が一部業種について調査する「経済減速の雇用への影響に関する報告書」や、2009年度のピンポイントの雇用情勢を調査した「雇用・失業サーベイ」がある(参考1参照)。

図表1:就業者数増加率と実質GDP成長率

(注)就業者は「ふだんの状態」のベース。(資料)NSS、Economic & Political Weekly(2010)、インド準

備銀行“Handbook of Statistics on Indian Economy”

0

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

83~93 93~99 99~04 04~07

(年率、%)

(年度)

実質GDP成長率

就業者数

図表2:失業率(地域別)

(注)「1日ずつの状態」のベース。(資料)NSS、インド計画委員会“Databook for DCH”、

インド財務省“Economic Survey2009-10”

5

6

7

8

9

10

11

83 93 99 04 07

全国

農村

都市

(%)

(年度)

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みずほ総研論集 2011年Ⅱ号みずほ総研論集 2011年Ⅱ号

ショックがインドの雇用に及ぼした打撃は軽視できず、その後の回復についても悪影響が尾を引いているとの見解を示している(Ministry of Labour and Employment (2010a))。以上より、近年におけるインドの雇用情勢を整理すると、経済が成長しても雇用は伸び悩み、特に2004~2007年度は「雇用なき高成長」だった。2008年度以降もリーマンショックの悪影響があり、雇用情勢は顕著には改善していないとみられる。

⑵ 2次・3次産業は労働力に依存しない成長

パターン

就業者シェアを産業別にみると、農業が93年度の65%から2007年度は57%と、依然として雇用の主要な受け皿である。一方、流通ホテル運輸通信(10%→14%)、建設業(3%→6%)、製造業(10%→11%)は小幅にシェアを高めたにすぎず、その他サービス10)はほぼ10%で横ばい

だった(図表4)。一方、付加価値生産(GDP)のシェアは、農業が93年度の30%から2007年度は18%に大幅に減少した。非農業では製造業が小幅な伸びに止まっているのに対し(14%→15%)、流通ホテル運輸通信(19%→28%)、その他サービス(26%→28%)といったサービス関連産業の上昇が目立つ(図表5)。一般に、就業者ならびに付加価値生産に占める一次産業のシェアは経済発展とともに低下し、2次産業、3次産業の順にシェアが高まる「ぺティ=クラークの法則」が知られている(渡辺(2010))。しかしながら、インドの状況は異なり、経済が発展しても農業の就業者シェアは高止まりしたままである。付加価値生産のシェアについては、農業から非農業へのシフトがみられるものの、非農業のなかでは2次産業でなく3次産業の上昇が先行している。新興国の代表格である中国とインドを比較すると、就業構造の違いは明確である。中国の場

10) 「その他サービス」=金融、保険、不動産、企業向けサービス(IT含む)、個人向けサービス(公務を含む)。

65

103

10 10

57

116

1410

0

10

20

30

40

50

60

70

93年度

07年度

(%)

農 

製造業

建 

流通ホテル

運輸通信

その他

サービス

図表4:就業者シェア

(注)主な産業を抜き出しており、シェア合計は100とならない(小数点以下は四捨五入)。「ふだんの状態」のベース。

(資料)NSS

図表3:失業率(年齢別、07年度)

(注)「1日ずつの状態」のベース。(資料)NSS

02

46810

121416

1820

都市

農村

(%)

15〜19歳

20〜24歳

25〜29歳

30〜34歳

35〜39歳

40〜44歳

45〜49歳

50〜54歳

55〜59歳

60歳〜

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経済成長が雇用拡大に結びつかないインド経済成長が雇用拡大に結びつかないインド

合、生産シェアの構造変化を反映して、90年代以降に農業の就業者が減少した。その一方で、農業就業者の減少を補って余りあるペースで2次・3次産業の就業者が増加し、就業者全体は年率+1.8%のペースで拡大した。これに対し、インドでは依然として1次産業が増えたにもかかわらず、2次および3次産業の伸びが中国に比べて鈍かったため、全体でも+1.5%の増加にとどまる。中国の就業者増加率はインドを小幅に上回るばかりか、内訳では1次産業から2次・3次産業へのシフトが進んでいるのだ(図表6)。こうした就業構造の変化は、中国の1次産業雇用比率を2007年時点で4割まで低下させ、農業の余剰労働力はほぼ解消されたといわれている 11)。依然として農業に余剰な労働力を抱えるインドに比べると、中国の就業構造は対照的である。インドでは停滞している農業に余剰労働力が滞留して、生産が伸びている2次・3次産業には

雇用がシフトしないことから、農業と2次・3次産業の1人当たりGDP格差は拡大している。すなわち、就業者の6割が滞留する農業では、一人当たりGDPが93年度の1.7万ルピーから2007年度は2.4万ルピーにとどまった。対照的に、ITサービス業を含む“その他サービス業”では、1割の就業者でより多くのGDPを産出するようになっており、一人当たりGDPは93年度の9.4万ルピーから2007年度は22.2万ルピーへと大きく伸びた(図表7)。このような一人当たりGDP格差の拡大は、所得格差の拡大を示していると考えられる。2次・3次産業を中心に付加価値生産が拡大しているにもかかわらず、これら産業の雇用が伸び悩んでいることは、労働集約型産業の発展が遅れていることを意味する。この点について、詳細な産業別の雇用データが得られないため、産業競争力の観点から検証を試みたい。産業の競争力指標としては、顕示的比較優位

(Revealed Symmetric Comparative Advan-

11) 関(2010)は、農村における余剰労働力が払底し、2009年頃から労働者を募集してもなかなか集まらない「民工荒」(出稼ぎ労働者不足)という現象が顕著になったとしている。同様の見方は、丸川(2011)によっても指摘されている。

▲0.5

0.0

0.5

1.0

1.5

2.0

2.5

中国 インド

(年率、%)

就業者計

3次産業

2次産業

1次産業

図表6:就業者増加率(産業別寄与度、93~07年度)

(注)「ふだんの状態」のベース。(資料)NSS、中华人民共和国国家统计局「中国统计年鉴」

図表5:付加価値生産シェア

30

146

1926

18 157

28 28

0

10

20

30

40

50

60

7093年度

07年度

(%)

農 

製造業

建 

流通ホテル

運輸通信

その他

サービス

(注)主な産業を抜き出しており、シェア合計は100とならない(小数点以下は四捨五入)。GDPは実質ベース(99年度基準)。

(資料) イ ン ド 準 備 銀 行“Handbook of Statistics on Indian Economy”

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みずほ総研論集 2011年Ⅱ号みずほ総研論集 2011年Ⅱ号

tage、以下 RSCA)指数を計測し、貿易の観点から各産業の比較優位構造を推定する(図 表 8) 12)。図表の見方としては、縦軸が2009年におけるRSCA指数の水準であり、▲1から+1の分布域のなかでプラスの場合に競争力があることを示す。また、横軸は2000~2009年における同指数の変化(差分)であり、プラスの場合は同期間に競争力が向上したことを意味する。すなわち、反時計回りに、第1象限(競争力の水準はプラスで、変化の方向もプラス)は「優良産業」、第2象限(水準はプラスだが、変化はマイナス)は「成熟産業」、第3象限(水準、変化ともにマイナス)は「衰退産業」、第4象限(水準はマイナスだが変化はプラス)は「新興産業」と整理できる。以上の手法でインドの製造業について分析すると、競争力水準が高く、かつ競争力が向上している優良産業は金属産業しかない。鉄鋼業等

の金属産業は資本集約産業の代表であり、「工業年次調査(ASI)」によると資本装備率(従業者1人当たりの固定資本額)はインドの製造業のなかで最も高い。つまり、最も人手に頼らない産業が、唯一の優良産業なのである13)。一方、インドの伝統的な有力産業である窯業・土石(ダイヤモンド研磨など)や、繊維(綿・ジュート製品など)などは、2000年以降に競争力が低下した(図表8の第2象限)。これらの労働集約型産業は成熟期にあり、新規の雇用吸収力を低下させていることがうかがわれる。インドの比較対象として中国をみると、資本集約型と考えられる一般機械や電気機械だけでなく、労働集約型とみられる家電(完成品組立等)や繊維も第1象限に位置する。雇用吸収力

12) RSCA指数の計算式については、図表8の注および大和総研(2006)を参照。 13) インドの粗鋼生産量は2010年(速報)に6,685万トンで、中国(6億2,665万トン)、日本(1億960万トン)、米国(8,059万トン)、

ロシア(6,702万トン)に次ぐ世界第5位であり(社団法人日本鉄鋼連盟調べ)、世界市場における存在感を高めている。

▲1.0

▲0.5

0.0

0.5

1.0

▲1.0 ▲0.5 0.0 0.5 1.0

金属

食品

繊維

紙パ化学

石油石炭

窯業土石

一般機械 電機

家電輸送機械

精密

玩具

優良成熟

衰退 新興

2009年競争力水準

2000→09年への競争力の変化

図表8:インドの産業別競争力(製造業)

(注)競争力指標は顕示的比較優位指数(RSCA)(Xki/Xi)/(Mkw/Mw)=RCARSCA=(RCA-1)/(RCA+1)(Xki/Xi)は、i国の総輸出に占めるk財の割合、(Mkw/Mw)は、総世界輸入に占める k財の割合。

(資料)独立行政法人経済産業研究所「RIETI-TID」

図表7:一人当たりGDP(産業別)

(注)就業者は「ふだんの状態」のベース。   GDPは実質ベース(99年度基準)。(資料)NSS、インド準備銀行“Handbook of Statistics on

Indian Economy”

5

10

15

20

25

93 99 04 07

農業

建設

流通ホテル運輸通信

その他サービス

製造業

(年度)

(万ルピー)

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経済成長が雇用拡大に結びつかないインド経済成長が雇用拡大に結びつかないインド

の高い業種も優良産業の一角を占める点が、インドとは対照的である(図表9)。同様の手法で非製造業も分析したところ、インドの優良産業としては ITのみが確認された(図表10)。特に、ITの RSCA指数は+0.94と上限の+1.00に近く、さらなる指数上昇の余地が無いほどだ。ITは知識集約型産業の典型であり、資本集約型産業と同様に労働集約型産業の対極に位置する。インド統計・計画実行省によると、ITサービス業の雇用は2006年度に63万人で、一人当たり名目GDPは81万ルピーだった14)。雇用は全就業者の0.1%にすぎない一方 15)、一人当たり名目GDPは全産業平均の10倍に相当し、ITは他産業に比べて高付加価値の経済活動を行っていることが判る。これに対し、中国の優良業種には ITの他、

必ずしも知識集約型ではない建設も含まれる(図表11)。以上のように、インドでは経済が高成長にもかかわらず、雇用は伸び悩んでいる。この傾向は特に2次・3次産業で顕著であり、これら産業では、資本・知識集約型の業種が発展することで、「雇用なき高成長」が維持されている。そして、経済成長の成果は資本・知識集約型産業に従事する一握りの層に集中し、雇用拡大という形で広範な階層には浸透しないことから、所得格差も拡大している。一方、中国では労働集約型産業が発展して2次・3次産業の雇用が拡大し、中間層の形成(所得格差の縮小)につながっており、インドとは対照的だ16)。インドで雇用

14) Ministry of Statistics and Programme Implementation(2010a)。ここでいう ITサービス業の定義は、コンピュータプログラムやソフトウェア販売のほか、コンピュータコンサルタント、データ加工、ポータルサイトサービス、コンピュータ修理である。

15) 2006年度はNSS の全国雇用調査が実施されなかったため、2007年度の全就業者と比較した。 16) Mehra(2007)。また、小林(2010)は、中国はインドに比べて所得格差が大きいものの、近年、中国の所得格差は縮小す

る一方、インドでは格差が拡大していることを検証している。

金属

食品

繊維

紙パ

化学

石油石炭

窯業土石

一般機械電機

家電

輸送機械

精密

玩具

2000→09年への競争力の変化

優良成熟

衰退 新興▲1.0

▲0.5

0.0

0.5

1.0

▲1.0 ▲0.5 0.0 0.5 1.0

2009年競争力水準

図表9:中国の産業別競争力(製造業)

(注)競争力指標は前掲図表8に同じ。(資料)独立行政法人経済産業研究所「RIETI-TID」

保険通信

運輸

IT・情報

旅行

特許・ライセンス建設

金融

ビジネスサービス

優良成熟

衰退 新興

2000→09年への競争力の変化

▲1.0

▲0.5

0.0

0.5

1.0

▲1.0 ▲0.5 0.0 0.5 1.0

2009年競争力水準

図表10:インドの産業別競争力(非製造業)

(注)競争力指標は顕示的比較優位指数(前掲図表8脚注参照)。ただし、(Mkw/Mw)に関しては、全世界のデータが得られなかったため、日米仏独伊英の先進6か国のベースとした。

(資料)CEIC(各国国際収支統計)

Page 9: 経済成長が雇用拡大に結びつかないインド...2) 正式名称はMahatma Gandhi National Rural Employment Guarantee Act。マハトマ・ガンジーの名を冠していることか

83

みずほ総研論集 2011年Ⅱ号みずほ総研論集 2011年Ⅱ号

が増えない背景には、労働集約型産業の雇用を抑制する構造的要因があると考えられる。

3.雇用が増えない要因と政府の対応

⑴ 教育水準が低く、労働供給にボトルネック

一般に、インドの雇用が増えない要因として、教育・スキルの水準が低く労働供給が抑制されることと、労働者保護規制が厳格で労働需要が抑制されることが挙げられる17)。そこで両者について分析すると、以下に述べる通り、教育・スキルの問題が主たる要因であり、労働者保護規制の影響はさほど大きくないことが指摘できる。まず、インドの教育・スキルの水準が低いこ

とについて確認すると、識字率は2007年度に6割程度で、9割を超える他の主要アジア諸国に水をあけられている(図表12)18)。学歴別の人口構成をみると、中卒以上の学歴保有者はインドでは2007年度に人口の26%にすぎず、2000年時点の中国(49%)を23%ポイントも下回る。とりわけ中卒者がインドでは少なく、中国を22%ポイント下回る。次いで高卒者が4%ポイント少なく、大卒に限り3%ポイント上回る分布構造だ(図表13)。インドでは初等・中等教育の普及が遅れている割に、イギリス植民地時代のエリート教育や、初代首相ネルー政権時代の理系教育重視の影響で、大卒者は相対的に多いといういびつな学歴構成となっている。職業訓練についても、2004年度のインドでは、

17) Ministry of Labour and Employment(2010a)等が、雇用の増えない要因として教育・スキルと労働者保護規制の二つを重視しており、本稿でも両者に注目して分析する。

なお、その他の要因として、インフラ整備の遅れが経済活動の停滞を招き、結果的に雇用拡大を妨げるとの見方もある。インフラ整備状況と経済活動との関係を、インドの州別に実証分析した最近の研究として、Gupta et al. (2009)がある。この研究では、①インフラを物的インフラ(交通網、電力供給、通信網等)と人的インフラ(識字率、教育水準等)に分類し、②いずれのインフラについても整備が進んでいる州ほど経済活動は活発であることを確認しており、③しかも両インフラの整備状況は相関性が高い(物的インフラが充実している州ほど識字率・教育水準は高い)との結果を得ている。本稿は物的インフラを直接には論じないものの、教育・スキル要因に注目することで、広義のインフラ要因を考慮に入れていることになる。

18) 2011年4月、2010年の国勢調査結果(暫定値)が公表され、識字率については74%だった。

保険通信

運輸

IT・情報

旅行

特許・ライセンス

建設

金融

ビジネスサービス

優良成熟

衰退 新興

2000→09年への競争力の変化

▲1.0

▲0.5

0.0

0.5

1.0

▲1.0 ▲0.5 0.0 0.5 1.0

2009年競争力水準

図表11:中国の産業別競争力(非製造業)

(注)競争力指標は図表10に同じ。(資料)CEIC(各国国際収支統計)

0

20

40

60

80

100(%)

インド

ベトナム

インドネシア

マレーシア

中国

フィリピン

タイ

図表12:識字率(国際比較)

(注)ベトナムのみ99年で、その他は2007年で統一。(資料)総務省「世界の統計」

Page 10: 経済成長が雇用拡大に結びつかないインド...2) 正式名称はMahatma Gandhi National Rural Employment Guarantee Act。マハトマ・ガンジーの名を冠していることか

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経済成長が雇用拡大に結びつかないインド経済成長が雇用拡大に結びつかないインド

15~29歳の若年層のうち正式な訓練を受けたことがある者は2%にとどまっていた(Ministry of Labour and Employment (2010a))。若年層のほとんどが技能を持たないまま、就職市場へ参入しているというのが実態である。以上の状況を雇用主側からみると、募集する教育・スキル水準の人材供給にはボトルネックがあることを意味する。例えば、現地日系メーカーにヒアリングしたところ、ワーカーとして高卒や専門学校卒の人材を求めるケースが一般的だが、「必要とするレベルの人材は少なく、採用は困難」、「中国でも事業をしているが、インドは中国に比べて技能工が不足している」など、人材難を指摘する意見が聞かれた。次に、労働者保護規制が厳格なことについてみると、問題視されているのは労使紛争法である。100人以上の労働者を雇用している場合、解雇には州政府の事前許可を必要とすることが規定されている。こうした解雇規制があると、不況時における柔軟な雇用調整が困難になるた

め、平時から企業は雇用拡大を自重すると解釈されている。実際に、インドの解雇規制と雇用の関係を計量的手法で分析した先行研究があり (Besley and Burgess(2004))、1958~92年の間に労使紛争法について規制を強化した州では 19)、そのほかの州に比べて雇用が伸び悩んだとの分析結果が得られている。しかしながら、近年のインド企業は、解雇規制の抜け穴(ループホール)として間接雇用を多用するようになっている。企業が直接採用する正規雇用と異なり、人材派遣会社を通じた間接雇用は解雇規制の対象外となるからだ。実際に、製造業(零細規模を除く)の場合、従業者全体に占める間接雇用の比率は2000年度の15.7%から2006年度は22.9%まで上昇している 20)。筆者が現地で調査した日系メーカーのなかには、間接雇用比率が5割のケースもあった 21)。加えて、国際比較をすると、インドの労働者保護規制は著しく厳しいわけではないことが確認できる。OECDが各国の労働規制を数値化した雇用保護インデックスによると、2008年時点でインドの規制の強さは40か国中で13番目だった。アジアのなかで比較すると、インドネシアと中国の規制がインド以上に厳しい(図 表 14)。したがって、労働者保護規制は、雇用拡大に関していわれているほど大きな問題とはなっていないと考えられる。以上より、インド経済が成長しても雇用が増えない背景については、教育・スキル水準の低いことが主因と考えられる。企業が雇用を増やしたくても、労働供給に制約があるため、資本と知識に依存した発展パターンにならざるをえ

19) インドの労働政策は、連邦政府で定めた一定の枠組みの範囲内で、州ごとに裁量的な取り組みが認められている。 20) インド統計・計画実行省「工業年次調査(ASI)」 21) 間接雇用を活用する理由として、人員調整が柔軟なことのほかに、正規雇用よりもコストが低いという意見もあった。

7747

12

4035 34

11

36

0

10

20

30

40

50インド(2007年度)

中国(2000年)(%)

非識字者

小学校卒

中学校卒

高校卒

大学

専門学校卒

図表13:学歴別人口構成(印中比較)

(注) 15歳以上人口における構成。(資料)NSS、中华人民共和国国家统计局“全国人口普查

人口基本情况(国勢調査)”

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みずほ総研論集 2011年Ⅱ号みずほ総研論集 2011年Ⅱ号

ないのだろう。中国と比較すると全般的な労働供給に制約があるなかで、例外的に層の厚い大卒クラスの人材が、資本・知識集約型産業を担っていると考えられる。

⑵ 不十分な政府の教育・雇用対策

教育・スキル水準の低いことが雇用の障害になっていることに対して、インド政府は教育・スキル水準を高めることと、低スキル層への雇

用機会提供を打ち出している。このうち教育水準を高めることについては、2010年にようやく無償義務教育法(Right of Children to Free and Cumpulsory Education Act、以下 RTE)を施行した。従来からインド憲法では6~14歳までの無償義務教育を規定していたものの、教育政策の実務を担う州政府レベルでは財政難を理由に義務教育を実施しないところが多かった22)。そこで、今後5年間の

22) 外務省ホームページ「諸外国の学校情報」http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/index.html

0 1 2 3 4

規制が強い⇒

トルコルクセンブルク

メキシコスペインポルトガルインドネシアフランスギリシャ中国

スロベニアノルウェイドイツインドベルギーイタリアポーランドオーストリアエストニアチェコ

フィンランドブラジルオランダ韓国

スロヴァキアハンガリーアイスランドスウェーデン

チリデンマークイスラエルロシアスイス日本

アイルランドオーストラリア南ア共和国

ニュージーランド英国カナダ米国

図表14:OECD雇用保護インデックス(2008年)

(注)インデックスの算出法は本稿末尾の参考3参照。(資料)OECD

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経済成長が雇用拡大に結びつかないインド経済成長が雇用拡大に結びつかないインド

必要資金が1兆7,100億ルピー23)(約3兆4,200億円)と見積もられるRTEでは、連邦政府の教育予算を拡充して州政府の負担を部分的に肩代わりし 24)、政策効果を高めるように計画されている。とはいえ、RTEの効果については慎重な見方がある。元来、インドでは教育および教員の質が低いため、学校に通っても教科の内容を十分に習熟できないケースが多い。一例として、小学5年生が2年生のテストに回答できなかったとの調査結果がある(Wall Street Journal(2011))。また、教員のモラルが低く、3,700校を抜き打ち検査したところ、教師の4分の1が無断欠勤しており、出勤している教師のなかでも半分しか授業を行っていなかったとのデータもある(Kremer et al(2005))。こうした状況に対して、RTEは生徒の受け入れに必要な予算を各校にバラまくだけで、教育の質を高める仕組みを欠くと指摘されている(Banerjee and Rajan (2010)等)。すなわち、RTEの下で学校に通っても、教育の質が現行のままであるならば、教育水準は上がらないおそれがある。たとえRTEに教育水準を高める効果があるとしても、その効果が現れるまでには時間がかかる。そもそも、6歳の子どもが14歳で義務教育を修了するまでには8年が経過する。かつ、義務教育の対象は若年層に限られ、若年層よりも教育水準の低い中高年層は(図表15)、RTEの恩恵にあずかれない。RTEの下で義務教育を受けた若年層が中高年に達し、現在の中高年層と世代交代を遂げるまでには、文字通り1世代を要するのである。次に、スキル水準を高めることについては、

インド全体で310万人の職業訓練受講枠が整備されている。これに対して、毎年1,200万人ずつが労働力人口に加わっており、職業訓練の枠は4人につき1つと不足している。代表的な職業訓練機関は、政府系の ITI(In-dustrial Training Institutes)と、民営の ITC(Industrial Training Centres)であり、合計で112万人の受講枠を有する。近年は毎年10万人のペースで ITI/ITC の受講枠が拡大しているものの、毎年1,200万人の労働市場参入者をカバーするためには拡大のペースを加速させる必要 が あ る(Ministry of Labour and Employ-ment (2010a))。加えて、ITI/ITC は都市を中心に設置されており、人口の7割が居住する農村には少ない。かつ、受講するためには小学校卒業の学歴が条件となっており、低学歴層の多い農村からはITI/ITC への入学が困難という問題がある。このように、特に農村の低学歴層に対しては、スキル向上支援策は不十分というのが現状だ。

23) 2009年度の名目GDP比で2.8%に相当。 24) 従来の初等教育普及プログラム Sarva Shiksha Abhiyan では、2010年度の費用負担割合は連邦政府の55に対し州政府は45

だった。これに対し、RTEでは連邦政府負担を高める方向で調整されている(Times of India 紙(8 Apr, 2010)“Central RTE share may be raised from 55%”)。

40

50

60

70

80

90

100(%)

(歳)

中国

インド

15〜19

20〜24

25〜29

30〜34

35〜39

40〜44

45〜49

55〜59

50〜54

図表15:年齢階層別識字率(印中比較、2000~01年)

(資料)国際連合“Demographic Yearbook”

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みずほ総研論集 2011年Ⅱ号みずほ総研論集 2011年Ⅱ号

この点について、筆者が調査した西ベンガル州(州都:コルカタ)のケースでも確認しておきたい。同州では2次・3次産業の振興に力を入れており、産業用に農地を売却した農民に対しては、当該産業ないし関連ビジネスへの転職が容易にできるよう、無償で職業訓練を提供する補償パッケージを整備している。具体的には、農村では小学校を卒業していない層が多いことから、これらの層を対象として自動車運転や大工補助等の基礎的な訓練コースを設けている(図 表16)。ベンガル空港・都市開発プロジェクト(Bengal Aerotropolis Project)の事例で

は、農地を売却した1,878戸の農家から1,436人の職業訓練応募があった。これに対し、西ベンガル州では2001年時点で人口の72%(5,775万人)が農村に居住しており、1プロジェクトにつき千人単位のペースで職業訓練を提供しても、農村住民に機会を普及させるには長い時間を要する。筆者がヒアリングした西ベンガル州政府関係者からは、巨大な人口を抱える農村で人材育成を進めることは「時間がかかる(time consuming)」とのコメントが聞かれた。スキル向上支援の取り組みが遅れている農村については、シン政権が全国農村雇用保障法(NREGA)に基づく雇用機会提供に力を入れている25)。この取り組みは、農村で教育・スキル水準が低く、農業以外の産業で雇用される可能性が低い人々に対して、政府が単純な労働を提供して生活を支援するというものである。具体的内容については、農村の希望者に対して世帯当たり1人、年間100日を上限に公共事業での職を提供するというものだ26)。道路の穴埋め、ゴミ用の穴掘り、用水路の掃除といった単純作業がほとんどであり、参加者には法定最低賃金相当の日当が支給される。2006年2月に一部地域で開始され、2008年度からは全国で実施されるようになった。2011年度の連邦政府予算でみると、NREGA予算は4,000億ルピーであり、初等・中等教育予算の3,896億ルピーを上回る一大事業だ。NREGAの効果については、2007年度のNSSで参加者側のデータが初めて明らかになった 27)。これによると、最低賃金相当とされる日当の全国平均は78.91ルピー(約158円)で、不定期労働者の平均日当(農村で60.33ルピー、

25) 脚注2参照 26) Luce(2007)によれば、NREGAによって、雇用に対するインドと中国の政策アプローチの違いが明確に示されている。

中国では、官・民・外資による積極的な投資を刺激することで、間接的に雇用を創出する方法を選んだ。これに対し、インドでは国が直接、雇用を保障する方法を選んだ。

27) NREGAを提供する政府側のデータ(予算、参加人数等)は以前から得られていた。小林(2010)を参照されたい。

図表16:学歴別の職業訓練プログラム (西ベンガル州の場合)

訓練プログラム 必要とする学歴

4輪自動車運転 基礎配管工補助2~3輪自動車運転 基礎刺繍仕立 基礎大工補助灌漑設備補修・維持冷凍・空調設備 基礎金属加工補助石工補助

小学校初等課程

旋盤電気工事 基礎コンピュータ(MSオフィス)基礎エレクトロニクス 基礎警備理美容 基礎溶接組立工 基礎板金 基礎介護

小学校卒業

経理電話セールス製図

中学校卒業

(注)Bengal Aerotropolis Project で農地を失った農民に対する補償パッケージの一部。小学校初等課程は10歳まで、小学校卒業は13歳、中学校卒業は15歳。

(資料)西ベンガル州開発公社

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経済成長が雇用拡大に結びつかないインド経済成長が雇用拡大に結びつかないインド

都市で72.24ルピー)よりもやや高い。そして、NREGA等の公共工事に農村で雇用された人数は、「1日ずつの状態」のベースで農村就業者全体の1%に相当した28)。同ベースの農村就業者数は2004~2007年度に年率▲0.3%だったことから、NREGAには農村就業者数の落ち込みに歯止めを掛ける効果があったと評価できる。ただし、NREGAには限界もあり、当座の雇

用を保障するセーフティーネット政策の性格が強く、持続的な雇用押し上げ効果は期待できない。今後、インド経済が発展するにつれて、2次・3次産業からの労働需要はますます拡大すると考えられる(Eichengreen and Gupta (2010))。こうした労働需要に対しては、NREGAで公共工事の雇用機会を創出することでは対応できず、教育・スキルを備えた人材の供給拡大が不可欠なのである(デリー大学の Poonam Gupta博士)。

4.雇用情勢の中期予測

⑴ 資本・知識集約型の成長パターンが続く

今後を展望すると、労働供給にボトルネックが残るため、資本・知識集約型の成長パターンは直ぐには変わらないシナリオが予想される。それでは、このシナリオの下で、雇用情勢はどのように展開するであろうか。本節では、インド労働雇用省のモデルに従って(Ministry of Labour and Employment (2010a))、①実質GDP成長率、②就業弾性値(=

就業者数増減率/実質GDP成長率)、③労働力人口の予測値を設定し、中期的な就業者数と失業者数の動向を試算する。実質GDP成長率については、インド準備銀行(中央銀行)が潜在成長率と見積もる+8% 29)

で推移すると想定する。ちなみに、2008~10年の直近3か年にわたる成長率実績は年率+7.8%だった。また、IMFによれば、2010~15年のインド経済は同+8.2%(予測対象183か国中の第8位)の成長率が見込まれている30)。+8%の成長率は現状と同程度であり、向こう5年間は世界でもトップクラスの位置づけとなる。就業者数と成長率の関係を示す就業弾性値についても、これまでの成長パターンが続くことから、近年と同様の値が続くと予想される。具体的には、NSS の就業者数31)と GDP統計により、93~07年度の平均値として+0.15を採用する32)。平均値を用いることには、就業弾性値は景気の良いときに上昇し、悪いときに低下する傾向があるため、短期的な変動を均す意図がある(Ministry of Labour and Employment (2010a))。今後の労働力人口については、インド労働雇用省の見込み値を用いる。すなわち、今後の若年人口の増加を織り込んで、労働雇用省では毎年+1,000~1,100万人ずつ労働力人口が増加すると想定している(Ministry of Labour and Employment (2010a))。

28) NREGAは年間100日を上限とする不定期雇用であることを鑑み、「ふだんの状態」でなく、「1日ずつの状態」のデータを用いた(参考2参照)。

29) Reserve Bank of India(2010)。これに対し、民間エコノミストのなかには、インドの潜在成長率が7.5%まで低下したとの見方もある(インド国際経済関係研究評議会のMathew et al. (2011))。

30) IMF “World Economic Outlook Database, October 2010”による。2010~15年にかけての成長率見通しランキングは、①モンゴル(年率+14.2%)、②イラク(+10.8%)、③サントメ・プリンシペ民主共和国(+10.2%)、④中国(+9.5%)、⑤トルクメニスタン(+9.2%)、⑥リベリア(+9.1%)、⑦カタール(+8.4%)、⑧インド(+8.2%)、⑨ソロモン諸島(+8.1%)、⑨エチオピア(+8.1%)。

31) 「ふだんの状態」のベース。 32) NSS の最新調査年が2007年なので、就業弾性値も2007年までしか得られない。ちなみに、2007年までの平均値なので、

2008年以降のリーマンショックに伴う雇用情勢の悪化は反映されない。

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みずほ総研論集 2011年Ⅱ号みずほ総研論集 2011年Ⅱ号

⑵ 高成長でも就業者数は伸び悩む公算

以上より、就業弾性値(+0.15)と潜在成長率(+8%)の予測値を乗じることで、就業者数の増加率は年率+1.2%との試算値が得られる。成長率は90年代以降の上昇トレンドに沿っているのに対し、就業者数の伸びは93~99年度の同+1.0%を上回る程度で、浮揚感はみられないことになる(図表17)。試算結果を人数ベースでみると、就業者数の増加は毎年+540~590万人に留まり、+1,000~1,100万人の労働力人口増加に見合う雇用は創出されない。雇用創出が足りない分だけ、失業者数も毎年500万人前後のペースで増加することになる(図表18)。年齢別では、増加する若年人口のなかから失業が発生しやすいと考えられ、前掲図表3が示す若年層の高失業率が続くと懸念される。 5.まとめ

本稿の分析結果をまとめると、第1節において、インドでは経済が高成長にもかかわらず、雇用は伸び悩んでいることを確認した。この傾向は特に2次・3次産業で著しく、これら産業では資本・知識集約型の成長パターンとなっている。経済成長の成果は資本・知識集約型産業に従事する一握りの層に集中し、雇用拡大という形で広範な階層には浸透していないことから、所得格差が拡大している。第2節では、インドで雇用が増えない主因として、教育・スキルの水準が低く、労働供給に構造的なボトルネックがあることを指摘した。これに対し、政府の教育水準テコ入れ策は遅れており、効果が現れるまでには一世代単位の時間を要すると考えられる。また、教育・スキル水準の低い層が多い農村を対象に、公共工事を通じた雇用対策を実施しているものの、当座の

012

34567

8910

1983~93 93~99 99~2004 04~07 07~15

実質GDP成長率

就業者数(年率、%)

(年度)

試算

図表17:就業者数の中期予測(増加率)

(資料)Ministry of Labour and Employment (2010a)、RBI“Handbook of Statistics on Indian Economy”、Economic & Political Weekly(2010) に基づき、みずほ総合研究所試算

0123456789101112

2010 11 12 13 14 15

(前年差、100万人) 労働力人口の増加数

就業者の増加数

(年度)

失業者の増加数

図表18:就業者数の中期予測(人数)

(資料)Ministry of Labour and Employment (2010a)、RBI“Handbook of Statistics on Indian Economy”、Economic & Political Weekly(2010) に基づき、みずほ総合研究所試算

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90

経済成長が雇用拡大に結びつかないインド経済成長が雇用拡大に結びつかないインド

セーフティーネットの性格が強く、根本的な教育・スキル問題を解決するものではない。最後の第3節では、インドの雇用情勢の中期予測を行った。実質GDP成長率は中期的に現状程度の+8%で推移すると予想されるものの、労働供給のボトルネックを解消するには時間がかかるため、資本・知識集約型の成長パターンは直ぐには変わらないだろう。2次・3次産業を中心とする労働集約型の成長パターンへの転換が遅れることを反映して、就業者数の伸びは緩慢にとどまるとの試算結果が得られた。増加する人口が雇用として十分に活用されず、失業が増えることが懸念される。このように、本稿の分析からは、中期的に経済成長が続いても、それは「雇用なき成長」になるとの結論が得られる。また、成長を牽引する資本・知識集約型産業では一部の高学歴・高スキル層の所得が伸びる一方、人口拡大につれて失業者も増加するため、所得格差も拡大すると推論される。これに対して、インド政府の政策としては、増加する人口を雇用で吸収するため、労働集約的な産業化を進めて就業弾性値を高めることを目指している(Ministry of Labour and Em-ployment (2010a))。アーサー・ルイスの経済発展モデルに従えば33)、第1段階は農業中心の経済、第2段階は労働集約的な産業の発展(産業部門の雇用が拡大して農村の余剰労働力を吸収)、第3段階は資本・知識集約的な産業の発展(余剰労働力が解消して人手不足となり、省力化が進展)というパターンを辿るのが一般的だ。しかし、インドの場合、労働集約的な産業化は遅れ、むしろ資本・知識集約型の産業化が進み、雇用が伸び悩んでいる。したがって、第1段階

から第3段階へ飛躍するのでなく、第2段階の労働集約的発展パターンを重視しているのである。実際に「雇用なき成長」を回避するためには、当面の緊急的な対応策と、根本的な雇用対策の二段構えが考えられる。まず、緊急の対応策としては、インド政府が現在の雇用情勢を正確に把握することが必要である。雇用情勢の把握については、第1節で示した通り、代表的な雇用統計のNSS が調査から公表までに3年もかかるなど、そもそも統計の整備が遅れている。根本的な雇用対策の前提条件として、統計の作成を急ぐという基本的な問題から取り組まなければならない。また、当面の失業増加圧力を緩和するために、セーフティーネット政策の拡充も検討すべきだろう。若年人口の増加を背景に、特に若年層の間で失業圧力が高まると予想されることから、失業保険よりもNREGA型の雇用機会保障を行い、労働力として有効に活用することが求められる。そのうえで、根本的な雇用対策としては、教育・労働スキル水準の低さが労働供給のボトルネックとなっていることから、人々の就業能力(employability)を高めることが不可欠となる。とはいえ、子どもが教育を受けて労働力となるまでには時間がかかることは既に指摘した通りである。そこで、具体策な雇用対策の一つとして考えられるのが、義務教育の学齢期を過ぎた者に職業訓練の機会を広げ、労働の即戦力に仕立てることだ。主な対象としては、特に人口の多い農村の若年層(10代後半~20代)が想定される。インド政府は職業訓練機関の拡充を進める方針だが、さらにスピード感をもって取り組むことが重要であろう。加えて、受講者に対す

33) Lewis(1954)。また、本パラグラフの記述は渡辺(2010)も参考にした。

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る補助金制度等、職業訓練への参加を促す仕組みも必要となるだろう。職業訓練を受けた農村若年層の受け皿としては、農産物輸送や食品加工等、農村と親和性の高いビジネスに期待したい。ベンガル州の事例で示したように、教育水準の低い農村では職業訓練の内容も基礎的なものとならざるをえないため、エレクトロニクスやセールスといった分野よりも、基礎的なスキルが活かせる分野での就職が容易と考えられるからだ。また、近年のインドは食品を中心とするインフレ問題に直面しており、その背景の一つには農地からの輸送過程で農産物の30%以上が腐敗し(山田(2010))、消費地では品不足になることがあると指摘されている。農産物の輸送力を増強したり、腐敗しにくい食品に加工したりすることで、インフレ対策にもなると考えられる。そのためにも、硬直的な公的農産物分配制度の見直しや、州をまたぐ物品の移動に課せられる税制の簡素化、小売業に対する外資出資規制の緩和等、農産物輸送・食品加工業の振興に繋がる分野での政府による政策的支援も求められよう。インド政府には、こうした施策を通じて増加する人口を雇用として有効に活用し、経済成長の成果を万人に広げる Inclusive Growth を実現することが求められている。

参考1 インドの雇用統計について

インドの経済統計は全般的に整備が遅れており、雇用統計も例外ではない。以下、インドの主要な雇用統計について整理する(図表19)。第一に、インド統計・計画実行省の「全国標本調査(National Sample Survey、以下NSS)」であり、その一部に「Employment and Unem-ployment Situation in India」がある。インド全体の就業者数や失業率データはNSS が拠り所となるため、最も代表的な雇用統計といえる。2010年5月には2007年度の調査結果が公表され、シン政権(2004年度~)の前半期についてデータが得られるようになった。一方、NSS の結果公表は調査から3年ほど遅れることから、速報性に関して難がある。また、NSS は毎年実施されるものの、年によってサンプル数にバラつきがある。精度が高いとして重視される「大サンプル調査」は5年毎にしか行われない。近年では、93年度(サンプル数115,409世帯)、99年度(同165,244世帯)、2004年度(同124,680)が「大サンプル調査」である。これらに対して、例えば2005年度調査のサンプル数は78,879世帯にとどまり、注目度は劣る。なお、最新の2007年度調査は5年毎の「大サンプル調査」の年には該当しないが34)、サンプル数は125,578世帯と過去の「大サンプル調査」並みである。このため、本稿の分析では同等の精度があるとして活用することとした35)。第二に、インド労働雇用省の「組織部門雇用統計(Employment in Organized Sector、以下 EOS)」がある。インドの経済統計には組織部門と未組織部門という分類があり、①公共部門、および②民間非農業部門のうち従業員数10

34) 2004年度の次の「大サンプル調査」は2009年度調査であり、結果公表は2012年頃とみられる。 35) Ministry of Finance(2011)、インドの有力誌Economic & Political Weekly(2010)、デリー大学のHimansh(2010)も2007

年度調査に注目している。

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人以上の事業所を組織部門と定義し、それ以外(農業部門、零細企業)を未組織部門と定義する36)。EOS は文字通り組織部門の統計であり、未組織部門をカバーしないという限界がある。また、EOSは年次調査であるが、最新結果は2007年度までしか公表されておらず、速報性にも難がある。第三に、統計・計画実行省の「工業年次調査

(Annual Survey of Industry、以下ASI)」がある。製造業のうち、各州政府に登記された①雇用者数10名以上で動力を用いる工場と、②雇用者数20名以上で動力を用いない工場が調査対象となる。したがって、規模別では零細部門が対象外となり、カバレッジが狭い37)。また、AEI も最新結果は2008年度までしか公表されておらず、速報性が低い。第四に、労働雇用省の「経済減速の雇用への影響に関する報告書(Report on Eff ect of Eco-nomic Slowdown on Employment in India)」がある。2008年のリーマンショックに対応した取り組みとして、2008年10~12月期から四半期毎に公表している。本稿執筆時点の最新調査結果は2010年10~12月期に関するものである。

リーマンショックの打撃を強く受けたとされる8産業(繊維、金属、自動車、貴金属、運輸、ITおよびビジネスアウトソーシング、皮革、織機製造)の組織部門について、3,000程度の事業所をサンプル調査して全国レベルの雇用者数を推計する。雇用情勢をタイムリーに調査することが長所である一方で、カバレッジが8産業の組織部門に限定されるという短所がある。第五に、労働雇用省の「2009年度 雇用・失業サーベイ報告書(Report on Employment & Unemployment Survey)」がある。45,489世帯をサンプルとして、2009年度(2009年4月~2010年3月)の雇用情勢を全国推計している。2007年度が最新のNSS に比べると、直近の動向をカバーしている利点がある。ただし、①サンプル数がNSS の「大サンプル調査」よりも少ないこと、②2009年度が初めての調査だったため調査員が不慣れだったことなどから、精度の点で限界があることを労働雇用省自身が認めているMinistry of Labour & Employment (2010b)。

36) EOS では、民間非農業部門のうち、従業員25名以上の事業所は回答を義務づけられており、10名以上の事業所は任意回答。 37) AEI と EOS を比較すると、AEI がサービス業をカバーしないのに対し、EOSはサービス業も含めるため、AEI のほうが

カバレッジは狭い。

図表19:インドの主要な雇用統計

雇用統計 調査頻度 カバレッジ 最新調査 留意点

全国標本調査 年 次(大サンプル調査は5年毎) 個 人 07年度 ・調査頻度が低い

・速報性が低い

組織部門雇用統計 年 次 官庁、企業(零細企業除く) 〃 ・カバレッジが狭い

・速報性が低い

工業年次調査 〃 製造業(零細企業除く) 08年度 ・カバレッジが狭い

・速報性が低い

経済減速の雇用への影響に関する報告書 四半期 企業

(8業種のみ、零細企業除く)10年

10~12月 ・カバレッジが狭い

雇用・失業サーベイ 年 次 個 人 09年度 ・精度が劣る

(資料)みずほ総合研究所作成

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参考2 全国標本調査について

NSS では、「ふだんの状態」「1週間の状態」「1日ずつの状態」について、3種類の就業・失業状態を調査する(図表20)。就業者数については、3種類の定義のなかで、過去1年間の「ふだんの状態」(主たる状態(PS)と副次的状態(SS)を合わせた PS+ SS のベース)が伝統的に重視され、本稿でも同定義に従った。一方、失業率については「1日ずつの状態

(CDS)」が重視される。貧困問題を抱えるインドでは、「ふだんの状態」として失業を続けることは“贅沢”であり、収入のために日雇や臨時雇に従事するケースが多いと考えられるからだ(太田(2006))。本稿でも、失業率については「1日ずつの状態(CDS)」に着目した。

参考3 OECDの雇用保護インデックスについて

OECDは、雇用保護規制を国際的に比較する指標として、雇用保護インデックスを作成・公表している。約20の個別項目別に雇用保護規制の強さを6点満点で評価し(点が高いほど規制が強い)、各項目の点を加重平均してインデックスを算出する。加重平均の方法別に雇用保護インデックスは3種類あり、version 1は常用雇用と臨時雇用に関する保護規制を測り、version 2は常雇と臨時雇に加えて集団解雇に関する規制の強さも総合評価する。そして、version 2に正規雇用者と派遣労働者の平等な取扱いといった個別項目を3つ追加したものが version 3である。本稿の図表14は、最も包括的な verison 3を示している(図表21)。

図表20:NSSにおける就業・失業の3定義

就業・失業の状態 定   義

ふだんの状態(Usual Activity Status) ・調査実施日に先立つ365日間の状態

主たる状態(Principal Status:PS) …過去365日間に相対的に長い期間を占めた状態

副次的状態(Subsidiary Status:SS) …過去365日間の少なくとも30日以上を占めた状態

1週間の状態(Current weekly Status、CWS)

・調査実施日に先立つ7日間の平均的な状態・具体的には、過去7日間に少なくとも1時間働けば「就業者」とカウントされる

1日ずつの状態(Current Daily Status、CDS)

・調査実施日に先立つ7日間の各1日ずつの状態・例えば、ある個人について、7日間のうち就業状態が6日、失業状態が1日の場合、就業者は6人/日、失業者は1人/日と計上(これを集計すると、人口の7倍の「人/日」データが得られる)・インドでは農業従事者、零細企業従業者の不定期な労働パターンが一般的なことを考慮し、1日当たりの状態をきめ細かく計測

(資料)Ministry of Statistics and Programme Implementation (2010b)

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図表21:OECDの雇用保護インデックスについて

第三段階(各6点満点) 第二段階(各6点満点) 第一段階(各6点満点)ウエイト

Version1, 2 Version3

A:常用雇用に関する規制  =D+E+Fversion1(1/2)version2(5/12)version3(5/12)

D:解雇手続きの不便性(1/3)

1.解雇通知に関する手続き2.解雇通知に至る期間

(1/2)(1/2)

(1/2)(1/2)

E:解雇予告期間と解雇手当(1/3)

           ・勤続9か月3.解雇の予告期間  ・勤続4年           ・勤続20年

(1/7)(1/7)(1/7)

(1/7)(1/7)(1/7)

           ・勤続9か月4.解雇手当     ・勤続4年           ・勤続20年

(4/21)(4/21)(4/21)

(4/21)(4/21)(4/21)

F:解雇の困難性(1/3) 5.不当解雇の定義6.試用期間7.不当解雇の補償8.不当解雇の復職可能性9.不当解雇に対する最大抗告期限

(1/4)(1/4)(1/4)(1/4)-

(1/5)(1/5)(1/5)(1/5)(1/5)

B:臨時雇用に関する規制  =G+Hversion1(1/2)version2(5/12)version3(5/12)

G:有期雇用(1/2) 10.有期雇用契約利用の有効条件11.有期雇用契約の最大連続更新回数12.有期雇用契約の最長連続累積期間

(1/2)(1/4)(1/4)

(1/2)(1/4)(1/4)

H:労働者派遣(1/2) 13.派遣契約が可能な業務の種類14.派遣契約の更新回数の制限15.派遣契約の最長累積派遣期間16.配置に必要な認可と報告義務17.常用雇用労働者と平等の待遇

(1/2)(1/4)(1/4)--

(1/3)(1/6)(1/6)(1/6)(1/6)

C:集団解雇に関する規制version1(0)version2(2/12)version3(2/12)

18.集団解雇の定義19.追加的な解雇通知要件20.追加的な解雇予告期間21.その他の使用者へのコスト

(1/4)(1/4)(1/4)(1/4)

(1/4)(1/4)(1/4)(1/4)

(注)かっこ内の数値はウエイトを示す。(資料)内閣府(2009)、OECD

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