一山一寧の伝記史料 -...

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  • 駒澤大學佛敎學部硏究紀要第七十五號 

    平成二十九年三月

    三七

    [凡例]

    一�

    、本史料は南宋末期から元代中期に浙江禅林で活動し、その後に日本に渡来して鎌倉・京都の五山禅林で活躍した臨済宗曹源派(一

    山派祖)の一山一寧(一山国師、妙慈弘済大師、一二四七─一三一七)に関する伝記史料であり、鎌倉後期に臨済宗聖一派の虎関

    師錬(海蔵和尚、本覚国師、一二七八―一三四六)によって撰述されている。以下はその翻刻と訳注である。

    一�

    、本史料の翻刻に当たって底本としたのは、駒澤大学図書館所蔵『済北集』巻一〇「行記」に所収される「一山国師行状」であり、

    これは『五山文学全集』第一巻の『済北集』に所収される「一山国師行状」とほぼ同文である。

    一�

    、異本として対校に用いたのは、国会図書館所蔵の五山版『一山国師妙慈弘済大師語』(略して『一山国師語録』)巻下の巻末に所収

    される「行記」①と、内閣文庫所蔵『禅林僧伝』七に所収される「一山国師妙慈弘済大師行記」②と、金沢市天徳院所蔵『禅林諸

    祖伝』三に所収される「一山国師妙慈弘済大師行記」③と、同じく『禅林諸祖伝』七に所収される「一山国師妙慈弘済大師行記」

    ④と、『続群書類従』第九輯上(巻二二九〈伝部四十〉)に所収される「一山国師妙慈弘済大師行記」⑤である。

    一�

    、異本の対校については、別体字や異体字など旧字体の厳密な意味での相違までは、煩瑣にわたるため一々は指摘しないものとする。

    一�

    、原文は旧字体をそのまま用いるが、訓読文では原則として常用漢字に改め、送り仮名も歴史仮名使いではなく、現今の仮名表記に

    統一しておきたい。

    一、註は読解上に必要と思われる語句の意味を明らかにするとともに、できうる限り諸典籍から典拠や事例を載せておきたい。

    一�

    、本史料の書き下しに関しては、『国訳禅宗叢書』第二輯第三巻に『国訳一山国師語録』が存し、その巻末に「行記」の国訳も存す

    るのでこれを参考とする。

    一�

    、あくまで本史料を読解することを目的としていることから、他の諸史料との比較検討を通した一山一寧伝の総括的な考証とはいえ

    ないが、かなりの面で一寧の伝記を分析したつもりである。

    一山一寧の伝記史料

    ―虎関師錬撰『一山国師行状』の訳註―

    佐 藤 秀 孝

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    三八

    [伝記史料の表題]

    一山國師行状。

    一山國師行状…①行記②一山國師妙慈弘済大師行記③④一山国師妙慈弘濟大師行記⑤一山國師妙慈弘濟大師行記

    一いっさん山国こく師しの行ぎょうじょう状

    [郷関・俗姓および幼少時の因縁]

    師諱一寧。号一山。大宋國台州臨海縣胡氏子也。齠齓入村塾、吾伊琅琅。郷先生稱其敏悟。

    一山国師行状…臨済宗曹源派(一山派祖)の一山一寧(妙慈弘

    済大師、一山国師、一二四七─一三一七)の伝記史料。『一

    山国師語録』巻下の巻末に臨済宗聖一派の虎関師錬(海蔵和

    尚、本覚国師、一二七八─一三四六)が撰した「行記」が収

    められている。『一山国師語録』は『大正新脩大蔵経』第八

    〇巻(三一一c~三三三c)に所収され、また名著普及会本

    『大日本仏教全書』第九五巻と鈴木学術財団編『大日本仏教

    全書』第四八巻にも所収される。ただし、本稿で底本とした

    のは虎関師錬の詩文集である『済北集』巻一〇に所収される

    「一山国師行状」(『五山文学全集』第一冊に活字化される)

    であり、これに『一山国師語録』所収の「行記」と、『禅林

    僧伝』七に所収される「一山国師妙慈弘済大師行記」と、

    『禅林諸祖伝』三に所収される「一山国師妙慈弘済大師行記」

    と、『禅林諸祖伝』七に所収される「一山国師妙慈弘済大師

    行記」と、『続群書類従』第九輯上に所収される「一山国師

    妙慈弘済大師行記」を対校したものである。

    一山国師…一山一寧が晩年に後宇多上皇より下賜された国師

    号。後段を参照。

    行状…文体の一つ。亡き人のために生前の行実や業績などを書

    き記した文章。中国・日本の著名な禅僧には行状が残されて

    おり、門人や有縁の道俗が記す場合が多い。本行状も一寧の

    ことをよく知る参学門人の虎関師錬によって撰されている。

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    三九

    号…①②③⑤號 

    國…③④国 

    台…⑤合 

    琅琅…②③④⑤琅 々

    稱…③④称

    師、諱いみなは一いちねい寧。号は一山。大だいそうこくたいしゅう

    宋国台州臨海県の胡こし氏の子なり。齠ちょうしん齓にして村塾に入るに、吾ご伊い琅ろうろう琅たり。郷きょう先生、其

    の敏悟なるを称す。

    先生は法諱が一寧であり、道号が一山である。大宋国の台州(浙江省)臨海県の胡氏の子であった。乳歯が生え変わる

    幼い頃に村の郷塾に入ったところ、書物を読む声は明るくはっきりして美声であった。村塾の教師らは先生の聡明さを

    誉め称えた。

    諱一寧…諱とは法諱(僧名)のことであり、得度剃髪の際に受

    業師(得度の師)より与えられる場合が多い。法諱は二文字

    が通例。一寧というのが法諱に当たるが、南宋代を通じて法

    諱の下字に「一」を用いた禅者は多いが、法諱の上字に

    「一」の字を用いた用例はきわめて珍しい。また南宋末元初

    に道号の上字と法諱の上字に同じ文字を用いた禅僧として

    は、曹洞宗宏智派の雲外雲岫(方巌、妙悟禅師、一二四二─

    一三二四)が存している。一寧の行実については、本史料の

    訳注を参照されたい。

    号一山…号とは道号のこと、禅僧・教僧・律僧などが用いる一

    種の字。一山というのが道号に当たる。同時代に一山一寧と

    同じく「一山」を道号に用いた禅者として、大慧派の東叟仲

    穎の法を嗣いだ一山了万(無意、一二四一─一三一二)や破

    庵派(幻住派)の高峰原妙の法を嗣いだ一山行魁(天紀、枯

    木道人、紫垣上人、一二六八─?)がいる。『仏祖正伝宗派

    図』や『正誤仏祖正伝宗派図』三によれば、大慧派に蔵叟善

    珍の法を嗣いだとされる一巌一寧の存在も知られるが、これ

    は善珍にも参じた一山一寧との混乱に因るものであろう。

    大宋国…後周の節度使であった趙匡胤(太祖、字は元朗、九二

    七─九七六、在位は九六〇─九七六)が後周の後を承けて、

    建隆元年(九六〇)に建国する。趙氏に因んで趙宋とも称す

    る。河南の汴京(開封府)を国都とし、文治主義による君主

    独裁制を樹立する。建炎元年(一一二七)に金国の侵入によ

    り江南に移り、国都を浙江の杭州(浙江省)に置いた。それ

    以前を北宋(九六〇─一一二七)といい、祥興二年(元の至

    元一六年、一二七九)に元国(蒙古)に滅ぼされるまでを南

    宋(一一二七─一二七九)という。ここでは杭州臨安府に国

    都(行在所)を置いた南宋の時代を指す。『応菴和尚語録』

    巻三「廬山帰宗禅寺語録」の「上堂」に「蘇州人獃、常州人

    打レ爺。大宋国裏、只有二両箇僧一。川僧・浙僧、其佗尽是子。

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    四〇

    淮南子・江西子・広南子・福建子。豈不レ見レ道、父慈子孝、

    道在二其中一矣」(卍続蔵一二〇・四一三a)とある。

    台州…浙江省の東南部に存する台州のこと。南宋代に編纂され

    た台州の地志である『嘉定赤城志』によれば、当時の台州

    (赤城も台州のこと)は臨海県・黄巌県・寧海県・天台県・

    仙居県を併せた五県から成り立っている。南宋末期から元代

    初期にかけては、松源派の霊石如芝(仏鑑禅師、一二四六

    ─?)・東嶼徳海(明宗慧忍禅師、一二五六─一三二七)や

    大慧派の元叟行端(寂照、慧文正辯仏日普照禅師、一二五五

    ─一三四一)といった台州出身の諸禅者が多く浙江の五山十

    刹に陞住して活躍している。一寧とともに日本に渡来した松

    源派の西澗子曇(大通禅師、一二四九─一三〇六)や一寧の

    法嗣である石梁仁恭(慈照慧燈禅師、一二六六─一三三四)

    も同じ台州の出身である。

    臨海県…台州内の一つの県。台州の中心地域に当たり、台州府

    治(郡治)が置かれる。現今の浙江省台州市の中心部に相応

    する。『伝教大師将来目録』「伝教大師将来台州録」の末尾に

    「最澄等深蒙二郎中慈造一、於二台州臨海県龍興寺浄土院一依レ数

    写取、勘定已畢」(大正蔵五五・一〇五七c)とある。台州

    内でも特に一寧と同じ臨海県出身の僧として、南宋末元初に

    大慧派の元叟行端や松源派の東嶼徳海が出たほか、元末明初

    にも松源派に木庵司聡(一三〇四―一三八一)や恕中無慍

    (空室、一三〇九─一三八六)がおり、大慧派に仲邠克岐

    (尚素、一三〇九―一三九一)や季潭宗泐(全室、一三一八

    ─一三九一)などが知られる。

    胡氏…一寧の俗姓。胡とは北方または西方の異民族の意であ

    り、あるいは一寧の父方の遠い先祖もそうした漢民族以外の

    血筋を引くものであろうか。『釈門正統』巻六「有厳」の伝

    によれば、天台宗の樝庵有厳(曇武、一〇二一─一一〇一)

    が台州臨海県の胡氏の出身であり、『嘉泰普燈録』巻一六

    「南康軍雲居法如禅師」によれば、仏眼派の雲中法如(一〇

    八〇─一一四六)も臨海県の胡氏の出身とされるから、ある

    いは彼らは一寧と同族に当たるのかも知れない。

    齠齓…歯が抜け替わること。生え替わりかけている乳歯。乳歯

    が抜け替わる時期の子。七歳から八歳の頃。『顔氏家訓』「序

    致」に「昔在二齠齓一、便蒙二誨誘一」とあり、『建中靖国続燈

    録』巻六「東京十方浄因禅院大覚禅師」の章にも「諱懐璉。

    姓陳氏。漳州龍渓県人也。(中略)齠齔出家、丱角円頂」(卍

    続蔵一三六・五〇c)とある。一寧は宝祐年間(一二五三─

    一二五八)の初め頃に村塾に入学したことになろう。

    村塾…村学。郷村の学校。郷塾に同じ。村内に存する学び舎。

    『増集続伝燈録』巻四「杭州中天竺一渓自如禅師」の章に

    「福建人。元兵下二江南一、師年少被二游兵虜一、至二臨安一遺レ之

    而去。富民胡氏収養レ之。令下伴二其子弟一読中書郷塾上」(卍続

    蔵一四二・四一五b)とある。

    吾伊琅琅…吾伊とは唔咿。伊吾・咿唔とも。書を読む声。言語

    の不明瞭なさま。琅琅は宝石や金属が触れ合って鳴る美しい

    音。ここでは少年のソプラノ的な美声をいう。『嘉泰普燈録』

    巻六「隆興府黄龍仏寿霊源惟清禅師」の章に「南州武寧人、

    族陳氏。方レ齠入レ学、日誦二千言一、風神瑩徹吾伊。異比丘見

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    四一

    [浮山鴻福寺の無等恵融と俗叔の霊江智月]

    無等融禪師、住郡之浮山鴻福寺。主蔵之者月靈江、師之俗叔也。怙恃察其無塵累之姿、介月而投等。等加

    撫念。

    等…①③䓁 

    禪…①③禅 

    蔵…①②④⑤藏 

    靈…①②③霊④雲 

    等等…①䓁々④等々

    無む等とうゆう融禅師、郡の浮ふ山ざんこうふく

    鴻福寺じに住す。主しゅぞう蔵の者、月げつれいこう

    霊江は師の俗ぞくしゅく叔なり。怙こじ恃、其の塵じんるい累の姿無きを察し、月を介して

    等に投ぜしむ。等、撫ぶ念ねんを加う。

    無等恵融禅師が同じ郡内の浮山鴻福寺に住持された。ときに蔵主を司っていたのは霊江智月という人で、先生の実の叔

    父であった。両親は先生の世俗に染まらないさまを見て、叔父の智月禅人を介して、無等禅師のもとに投じさせた。無

    等禅師は先生を慈しみ育てた。

    レ之熟視曰、此児苦海法船也。以二出家一白二其父母一。父母聴

    レ之」(卍続蔵一三七・五七a)とあるから、北宋代に活躍

    した黄龍派の霊源惟清(字は覚天、仏寿禅師、?―一一一七)

    の場合も一寧と類似している。

    郷先生…老いて官職などを退官した後、郷里に戻って青少年の

    教育や指導を行なっている者。郷里の村塾で学問を教えてい

    た先生。『嘉泰普燈録』巻一六「遂寧府西禅文璉禅師」の章

    に「郡之長江人、族張氏。天姿頴邁、幼従二郷先生趙嗣業一、

    頗通レ儒。趙以二遠大一期レ之」(卍続蔵一三七・一二二a)と

    ある。

    敏悟…聡明なこと。頭の回転が速く賢いこと。物事の道理を知

    り、判断力にすぐれていること。『大慧普覚禅師語録』巻一

    「進二大慧禅師語録一奏劄」に「径山大慧禅師、敏悟英発、直

    受二正伝一」(大正蔵四七・八一一a)とある。また一寧の幼

    少期に関して『東渡諸祖伝』巻上「宋一山寧国師伝」では

    「容止端厳、気貌秀発」とあり、『本朝高僧伝』巻二三「京兆

    南禅寺沙門一寧伝」も「稟生端重、気宇神秀」(鈴木日仏全

    六三・一四五一c)と伝えている。

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    四二

    無等融禅師…臨済宗大慧派の無等恵融(一に慧融とも)のこ

    と。『仏祖正伝宗派図』や『正誤仏祖正伝宗派図』三によれ

    ば「道場無等慧融」とあり、妙峰之善の法を嗣ぐ。大慧宗杲

    ─拙庵徳光─妙峰之善─無等恵融と相承する。郷関や俗姓な

    どは定かでない。本史料によって台州黄巌県の浮山鴻福寺に

    住持したことが知られ、鎌倉市の常盤山文庫に江心山の恵融

    が日本の簡上人に与えた策励の墨蹟(重要文化財)が所蔵さ

    れているから、温州(浙江省)永嘉県の江心山龍翔寺にも住

    持したことが判明する。最後に湖州(浙江省)烏程県の道場

    山護聖万寿寺に住持して示寂している。『虚舟和尚語録』「臨

    安府霊隠景徳禅寺語録」に「道場無等和尚遺書至上堂」(卍

    続蔵一二三・八六a)を収め、『蔵叟摘藁』巻下「祭文」に

    も「祭二道場無等一」を収めている。『龍源清禅師語録』巻末

    「龍源和尚塔銘」(卍続蔵一二一・二四一a)によれば、虎丘

    派の龍源介清(仏海性空禅師、一二三九─一三〇一)が湖州

    の道場山で大慧派の東叟仲頴と恵融に参学している。

    郡…州や府など一つの比較的大きな行政区。ここでは東浙の台

    州(浙江省)の管轄区をいう。

    浮山鴻福寺…台州黄巌県西八〇里に存した浮山鴻福禅寺のこ

    と。『嘉定赤城志』巻二八「寺観門」の「黄巌県」に「鴻福

    寺、在二県西八十里一。東晋永和中建。旧有二永和堂一、相伝菩

    提引尊者所レ基。至二唐咸通中一新レ之。按二五代石刻一、山有二

    独峯一、望レ之若二紫雲覆一レ頂、芒采注射山若二浮動一、故号二浮

    山一。後有二胡僧一結レ廬誦経、其動遂止。国朝大中祥符四年、

    賜レ額」とある。東晋代の永和年間(三四五─三五六)に渡

    来僧の菩提引尊者によって永和堂が建てられたことに始ま

    る。山に紫雲が棚引いて峰が浮動して見えたことから、浮山

    と称せられた。北宋の大中祥符四年(一〇一一)に鴻福禅寺

    の勅額を賜わり、宣和年間(一一一九─一一二五)に伽藍が

    焼失したものの、靖康年間(一一二六─一一二七)に重建さ

    れている。『僧宝正続伝』巻四「雲居悟禅師」の伝に「紹興

    二年、台州得レ旨、革二浮山鴻福寺一為二禅居一」(卍続蔵一三

    七・三〇〇d)とあるから、楊岐派の高庵善悟(一〇七九─

    一一三二)が晩年に当たる紹興二年(一一三二)に禅刹開山

    に迎えられている。『仏海瞎堂禅師広録』巻一にも「台州浮

    山鴻福禅寺語録」(卍続蔵一二〇・四六二c~四六四d)を

    収めており、楊岐派の瞎堂慧遠(仏海禅師、一一〇三─一一

    七六)もこの寺に住持したことが知られる。明の隆慶年間

    (一五六七─一五七二)には伽藍が一新されている。

    主蔵之者…蔵を主るの者。蔵主のこと。知蔵とも。六頭首の一

    つ。蔵殿を主管する役職。寺院内の一切経などの書籍を管理

    する役職。禅院の修行僧らの閲蔵や看経を掌る。藏とは一切

    経・大蔵経のこと。

    月霊江…臨済宗破庵派の霊江智月のこと。『仏祖正伝宗派図』

    や『正誤仏祖正伝宗派図』四によれば「白雲霊江智月」とあ

    り、無準下の西巌了慧(一一九八─一二六二)の法を嗣ぐ。

    本史料によって、一寧の叔父であったこと、その住持した禅

    寺などが知られる。白雲とはおそらく明州鄞県明堂に存した

    白雲山宝慶禅寺のことであろう。『西巌和尚語録』巻下「行

    状」(『物初賸語』巻二四「西巌禅師行状」)に「回禄煽レ災、半

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    四三

    [戒律と天台教学の研鑽]

    三年而月在四明太白山、遣使取師、與普光寺處謙、習法華等諸經。踰二歳得度。間如城中應真律寺聽開遮、

    延慶教寺學天台教觀。聞杭州集慶院文節法師有台譽、繭足依之。

    遣…④遺 

    與…④与 

    處…④処 

    等…①③④䓁 

    經…②経 

    真…②③⑤眞 

    聽…①②③聴④徳 

    學…②③④学 

    譽…②③④誉 

    繭…

    ①②③④⑤蠒

    日而尽、非レ数也耶。師逆境順処、不下以二灾故一而弛中叢規上。

    衲子不レ忍レ舎、宗清・徳淵・智月輩、占路分衛、助二厥興復一」

    (卍続蔵一二二・一八六a)とあるから、この人の法諱が智

    月であったことが確かめられ、天童山が火災で焼失して後も

    同門の混渓宗清らと共に本師了慧を補佐していたことが知ら

    れる。

    俗叔…世俗の叔父。実の叔父。父母の弟。族叔とも。父母の兄

    ならば俗伯。ただし、智月が父方の叔父か母方の叔父かは定

    かでない。『続伝燈録』巻三六「径山仏智晦機禅師」の章に

    「諱元煕。族豫章唐氏、世業レ儒。西山明覚院明公、廼師之

    族叔父、聚二其宗族子弟一、教二之世典一。師与二兄元齢一倶従二

    進士業一。元齢既登第。師年十九、遂従二明公一祝髪」(卍続蔵

    一四二・三五九c)とあり、同巻「杭州径山元叟禅師」の章

    にも「諱行端。族臨海何氏、世業レ儒。母陳氏。師生而秀

    抜、幻覚不二茹葷一。年十二、従二族叔父茂上人一、得二度於餘杭

    之化城院一」(卍続蔵一四二・三五九d)とあるなど、当時、

    一族から出家した俗叔や俗兄などの働きかけによって俗甥や

    俗弟が出家得度する事例がかなり見られる。

    怙恃…頼みとすること。当てにすること。両親・父母のこと。

    怙は父親、恃は母親。たとえば『大川和尚語録』巻末「霊隠

    大川禅師行状」に「四明奉化六詔張氏子。父友崇、母兪氏。

    (中略)果生二三子一、師其季也。(中略)然無二経世意一、見二仏

    書一則端坐、探繹忘罷。怙恃見二其然一、則曰、吾三子、以レ一

    出家、固所レ願也」(卍続蔵一二一・一七三b)とある。

    塵累…俗世の関係。塵縁。世俗の煩い。悟りの妨げとなり、自

    分に煩いを及ぼす煩悩や悪業。『大仏頂万行首楞厳経』巻一

    に「応身無量、度二脱衆生一、拔二済未来一、越二諸塵累一」(大

    正蔵一九・一〇六b)とある。

    撫念…可愛そうに思う。慈しみ育てる。撫は撫でる、可愛がる。

    『建中靖国続燈録』巻二一「東京大相国寺智海禅院仏印禅

    師」の章に「斯日、伏遇下皇帝陛下撫二念禅林一、特回中天睠上、

    令下臣等於二慈徳殿一陞座、挙中揚般若上」(卍続蔵一三六・一

    五一d)とある。

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    四四

    三年して、月、四し明めいの太たいはくざん

    白山に在り、使いを遣わして師を取り、普ふ光こう寺じの処しょけん謙に与えて、法ほっ華け等の諸経を習わしむ。二

    歳を踰えて得度す。間に城中の応おう

    しんりつ

    真律寺じに如ゆきて開かいしゃ遮を聴き、延えんけいきょうじ

    慶教寺にて天てんだいきょうかん

    台教観を学ぶ。杭こうしゅうしゅうけいいん

    州集慶院の文ぶんせつほう

    節法師し

    の台たい誉よ有るを聞きて、足に繭まめつくりて之れに依る。

    三年して智月禅人は四明の太白峰天童山景徳禅寺に居られ、使いを遣わして先生を引き取り、普光寺の処謙和尚に托し

    て『法華経』などの諸経を習わせた。二年を経て、先生は得度した。その合間には明州府城の羅漢応真律寺に行って開

    遮(戒律)について聴講し、また延慶教寺では天台宗の教えや止観を習学した。杭州の集慶院の文節法師に名声がある

    のを伝え聞いて、足にまめして出かけて行き、そのもとに従った。

    三年…一寧がいまだ正式に出家せずに童行(童子行者)として

    浮山鴻福寺の無等恵融のもとに在って指導を受けていた期

    間。明確ではないが、おそらく七歳・八歳の頃から一〇歳頃

    までに当たろう。

    四明…四明山が存する明州(浙江省)の地。後世の寧波府。南

    宋当時の明州は慶元府と称し、府城を中心に鄞県・奉化県・

    慈渓県・定海県(後の鎮海県)・象山県・昌国県(後の定海

    県)の六県に分けられていた。元代には明州は慶元路に、奉

    化県は奉化州に、昌国県は昌国州にそれぞれ改められてい

    る。また四明山とは鄞県から奉化県に連なる山並み。明州の

    地志として南宋代に著された『宝慶四明志』や元代に著され

    た『延祐四明志』などが存する。

    太白山…明州鄞県東六〇里の天童山景徳禅寺のこと。太白山ま

    たは太白峰と称される。太白星(金星)から天童が到ったと

    いう伝説に因む。詳しくは後段の天童山の項目を参照。この

    とき霊江智月は天童山に掛錫していたことが知られるが、当

    時の天童山住持は本師の西巌了慧から了慧の法弟で後席を継

    いだ法叔の別山祖智(智天王、一二〇〇─一二六〇)に交代

    している。

    遣使取師…使いを遣わして師を取る。四明の天童山に居してい

    た智月が使僧を台州鴻福寺の恵融のもとに遣わして一寧を引

    き取ったことをいう。『建中靖国続燈録』巻二八「頌古門」の

    「明州雪竇山重顕明覚禅師」の章に「挙梁武帝問二達磨大師一、

    (中略)志公云、此是観音大士、伝二仏心印一。帝悔遂遣レ使

    取。志公云、莫レ道陛下発レ使去取、闔国人去、他亦不レ回」

    (卍続蔵一三六・一八七d)とある。

    普光寺…明州鄞県東四五里に存した甲乙院の普光寺のこと。後

    晋の開運二年(九四五)に光化院として創建され、北宋の治

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    四五

    平元年(一〇六四)に普光寺の額を賜わる。『延祐四明志』

    巻一七「釈道攷中」の「鄞県寺院〈甲乙院〉」の箇所に「普

    光寺、県東四十五里。旧号二光化院一、晋開運二年建。宋治平

    元年、賜レ額」とある。

    処謙…当時、明州鄞県の普光寺に住持していた僧。事跡は定か

    でないが、霊江智月と交友が存したものであろう。この人が

    正式に一寧を得度した受業師であろうか。古く北宋代に

    『法華玄記十不二門顕妙』一巻を著した天台宗の教僧に終倩

    処謙(神悟法師、一〇一一─一〇七五)が存しているが、こ

    こにいう処謙とは二世紀を隔てている。

    法華等諸経…『妙法蓮華経』などの大乗経典。当時、仏門に投

    じた者が最初に看経すべき経典。『大智度論』巻一〇〇「釈

    嘱累品第九十」に「般若波羅蜜、非二秘密法一。而法華等諸経

    説、阿羅漢受レ決作レ仏」(大正蔵二五・七五四b)とある。

    踰二歳…二歳を踰えて。踰は越える、過ぎる。二年を経て。た

    だし、一寧が普光寺の処謙のもとに在った二年間が具体的に

    何歳からなのかが明確でない。状況的には一〇歳代の前半と

    見られる。

    得度…剃髪すること。得度を受けて始めて沙弥となり、正式に

    仏門への第一歩を記す。このとき得度証明書として度牒が与

    えられる。

    城中…府城の内(在城)の意。ここでは明州府城のこと。現今

    の浙江省寧波市の中心街に当たる。

    応真律寺…明州府城西北隅に存した在城の律寺。唐代に乾符寺

    として創建され、会昌の破仏後、咸通八年(八六七)に重建

    されて薬師院・承天寺と称される。北宋の政和七年(一一一

    七)に羅漢応真寺ないし能仁羅漢院の額を賜る。寺はもとも

    と法華教院と羅漢律院に分けられ、後に羅漢律院のみが残

    る。元の至元一九年(一二八二)に火災に焼け、至元二一年

    (一二八四)に復興された。『延祐四明志』巻一六「釈道攷上」

    の「在城寺院〈律十方院〉」に「羅漢応真寺、在二西北隅一、

    即能仁羅漢院。唐為二乾符寺一、咸通八年、復建名二薬師院一、

    又為二承天一。政和七年賜レ額。寺有二子院二一、曰二法華教院一、

    曰二羅漢律院一。後能仁法華廃、惟羅漢院存。徙二東南隅寿昌一

    廃二基上一。皇朝至元十九年火、二十一年有レ司復二其地一。」と

    ある。

    開遮…開制または遮開とも。開とは為すことを許す。遮とは為

    すことを禁止する。戒律でいえば、守らないと守ると。認め

    ると認めないと。『大川和尚語録』巻末の「霊隠大川禅師行

    状」に「年十九、依二香林院文憲師一、薙染受二具戒一。憲俾二由

    レ律而入一レ教。乃預籍二郡之湖心一、討二論開遮之説一。既又負二

    笈赤城一、染二指性具之理一」(卍続蔵一二一・一七三b)とあ

    り、大慧派の大川普済(一一七九─一二五三)の場合も戒律

    (開遮)を修めた後、天台教学(性具の説)を学んでいる。

    延慶教寺…四明の延慶寺。明州府城の南湖延慶教寺のこと。明

    州府城南三里ないし東南隅の倉橋東に存した天台宗の名刹。

    後周の広順三年(九五三)に創建され、はじめ報恩院と称せ

    られた。北宋代に天台宗の四明知礼(四明尊者、法智大師、

    九六〇─一〇二八)が拠点とした一大道場であり、大中祥符

    三年(一〇一〇)に延慶教寺と改名された。知礼の後も門流

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    四六

    によって維持され、多くの堂塔伽藍が整備され、四明天台の

    一大中心寺院として栄えた。常盤大定・関野貞編『支那文化

    史蹟』第四輯によれば、一九二〇年代には大雄宝殿など伽藍

    が存していたが、すでに跡地を残すのみとなっている。『延

    祐四明志』巻一六「釈道攷上」の「在城寺院〈教化十方〉」

    の「延慶寺」の箇所を参照。

    天台教観…天台宗の教観二門。教相門と観心門。理論面と実践

    面をいう。とくに天台宗では教義と実践修行の両面を片寄る

    ことなく修めることを説いている。たとえば『湖州呉山端禅

    師語録』巻下末「端禅師行業記」に「二十六歳、遂以レ策試二

    応格一、既受二具戒一。始従二浄覚仁岳師一、学二天台教観一」(卍

    続蔵一二六・二五八a)とある。

    杭州…杭州(浙江省)は南宋代の国都(行在所)であり、臨安

    府と称せられた。現今の浙江省杭州市に当たる。当時、杭州

    の府城や近隣の銭塘県には多くの禅寺・教寺・律寺などが存

    しており、とくに西湖周辺は現今では世界遺産に登録されて

    いる。地誌として南宋代の『咸淳臨安志』一〇一巻や中華民

    国期の『杭州府志』一七八巻などが存する。

    集慶院…杭州銭塘県の西湖に面した九里松に存した顕慈集慶教

    寺のこと。淳祐一〇年(一二五〇)に理宗の皇后のひとり貴

    妃閻氏の香火院(功徳寺)として創建され、寺内には理宗の

    御書が飾られていた。元末に焼失して重建された。『咸淳臨

    安志』巻七九「寺観五」の「顕慈集慶教寺」の項、『万暦杭

    州府志』巻九九「寺観三」の「集慶寺」の項、清代の『西湖

    志』巻一二「寺観三」の「顕慈集慶講寺」の項を参照。また

    『仏祖統紀』巻四九「法運通塞志第十七之十五」の「理宗」の

    項に「紹定二年(中略)昭法昭法師、住二下天竺一、尋遷二上

    天竺一、補二右街鑒義一、賜二仏光法師一。進二録左街一、賜二金蘭袈

    裟一、召見二倚桂閣一、対レ御称レ旨。時集慶寺新成、有レ旨命二

    法照一開山、力辞。挙二白蓮観主南峯誠法師一以代。明年誠公

    入寂、詔二仏光一兼住、特転二左右街都僧録一、御二書晦岩二大

    字一賜レ之」(卍続蔵一三一・三一一c~d)とあり、集慶寺

    が創建された当時の逸話を伝えており、開山となった天台宗

    の晦巌法照(仏光法師、一一八五―一二七三)の事跡を記し

    ている。

    文節法師…天台宗の操庵文節(通叟、一一九七─一二八二)の

    こと。明州慈渓県の夏氏。天台宗の栢庭善月(光遠、一一四

    九─一二四一)のもとで天台教学を究める。明州定海県の観

    音教寺、明州象山県の玉泉教寺に住持した後、杭州銭塘県九

    里松の天竺集慶教寺に陞住する。松源派の虚堂智愚(息耕

    叟、一一八五─一二六九)とも交友が存した。『仏祖統紀』

    巻一九「諸師列伝第六之九」の「操菴文節法師」の章(卍続

    蔵一三一・一一三a~c)に、

      

    法師文節。字通叟、自号二操庵一。四明慈渓夏氏子。世為二

    大族一、百餘家行路者、常聞二読書声一。父諱歴年、賢厚人。

    □□□二時有二住土山定講師者祖免一、親異二其貌一、勧出二

    家于邑之永明寺一。明年落髪。十七遊□□□□□遷二悦庵一、

    皆山家之□峻者。師与レ塡自聡応無□□□□□未レ有二所

    得一。遇二西山次教栢庭月法師一、以二大爐鞴一、煆二煉学者一。

    師於レ是竪二精進幢一、留十三載、随赴二上竺一。有二謙慧応

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    四七

    [天童山の簡翁居敬と問答し定海県資聖寺の霊江智月のもとに到る]

    已而嫌義學之支離、弃而歸、就月質所疑。時月爲天童板首、堂頭簡翁敬也。月讓于主者、師便謁之。翁知

    師之粹台教、問曰、一心三觀、以何爲體。師即一笑。翁許參堂。坐究二期、月瑞世定海之資聖寺。師講道

    義隨往。越年、月移靈峰、又從之。

    三師一、皆有二大名一、師合而為二四傑一焉。栢庭謂レ師曰、

    汝国得二吾之大全一矣、畢竟至当一句作麼生。師厲レ声

    曰、瞎二却頂門竅一、壺中別有レ春。至レ此天上地下無二一

    可レ見之形一、一無二可レ翫之色一矣。栢庭九旬謝レ事、衆

    散。師独留三夏、至レ唱レ滅乃退。年五十一、始出二世定

    海観音寺一。十四年住二象山玉泉一。六年陞二天竺集慶寺一、

    乃理庿所剏在二九里松度庿一。継志式念二先訓一。適住二持本

    法一。師求レ去九重独断、以二操庵一補二其処一、万衆駭伏。

    十年間、講鐘法鼓、震二動湖山一、四方学者如二水就一レ下。

    樹レ規立レ範、有レ典有レ則。四明南湖之帰、有二世忠寺一、

    在二万山中一曰二東呉好処一。衆強起レ師主レ之。至正壬午

    二月二十六日、鳴鼓告レ衆払レ龕、書レ偈擲レ筆而逝。寿

    八十六、臘七十三。著述有二指要会宗集英等一。于レ度弟

    子覚初、羿帰二家山善慶庵一、全身窆レ焉。得レ法者、如二

    呉之似蘭・子華・思治・惟簡、明之大東・慧海・法東等一。

    説金錍有二半月偸閑解夢書一。又観心観仏偈曰、春到二上

    林一渾似レ錦、不レ須レ尋二訪売華翁一之句。径山愚禅師、

    嘆賞不レ已。

    と記されている。ただし、この記載によれば、文節は至正二

    年(一三四二)二月二六日に世寿八六歳で示寂したとされて

    いるから、逆算すると出生は宝祐五年(一二五七)となって

    しまう。文節の師匠である天台宗の栢庭善月は淳祐元年

    (一二四一)に示寂しており、文節と道交のあった松源派の

    虚堂智愚も咸淳五年(一二六九)一〇月に示寂していること

    から、『仏祖統紀』の記載は明らかな誤りとすべきであり、

    おそらく文節は干支(還暦)を六〇年早めた慶元三年(一一

    九七)に出生し、元の至元一九年(一二八二)二月二六日に

    示寂したと解するのが妥当であろう。

    台誉…誉れ。名声。台は敬語として用いる。誉は良い評判や名

    声のこと。

    繭足…蠒足とも。足にまめを作ること。繭は足にマメやタコが

    できること、名詞では足のマメの意。『禅林宝訓』巻三「山

    堂震和尚」の項に「湛堂嘗曰、杲侍者再来人也、山僧惜不レ

    及レ見。湛堂遷化、妙喜繭レ足千里、訪二無尽居士於渚宮一、求

    二塔銘一」(大正蔵四八・一〇三一b)とある。

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    四八

    學…②③④学 

    歸…①③帰④皈 

    所…⑤可 

    爲…①②③④為 

    讓…①②③④譲 

    師便…②⑤仰便 

    問…②③⑤簡 

    觀…④観 

    爲體…

    ①②③④為体 

    參…②③④参 

    期…①②③④朞 

    隨…③随 

    往…②③④徃 

    靈…①②③霊④㚑 

    峰…②⑤峯

    已にして義ぎ学がくの支しり離を嫌い、弃すてて帰り、月に就きて所しょ疑ぎを質ただす。時に月、天童の板はんしゅ首為り、堂どうちょう頭は簡かんのうけい

    翁敬なり。月、

    主しゅしゃ者に譲り、師便ち之れに謁す。翁、師の台たいきょう教に粋くわしきを知り、問うて曰く、「一いっしんさんがん

    心三観は何を以て体と為すや」と。

    師即ち一笑す。翁、参さん

    どう堂を許す。坐ざきゅう究すること二期、月、定ていかい海の資ししょうじ

    聖寺に瑞ずいせい世す。師、道どう義ぎを講じて随往す。年を越え

    て、月、霊れい

    ほう峰に移るに、又た之れに従う。

    やがて先生は教学の繁雑さを嫌うようになり、これに見切りを付けて再び智月禅人のもとに戻り、自らの疑念を問い質

    した。当時、智月禅人は天童山の首板(首座)であり、堂頭和尚は簡翁居敬和尚であった。智月禅人は先生を住持の簡

    翁和尚に託したので、先生は直ちに簡翁和尚に相見した。簡翁和尚は先生が天台の教義に精通していることを知り、先

    生に「一心三観の教えは、何を根本としているのか」と問うた。先生はすぐさまにっこりと笑った。簡翁和尚は先生に

    僧堂に入門することを許した。天童山で自己を究めること二年したとき、智月和尚が定海県の資聖寺に出世開堂した。

    先生は仁義を述べて智月和尚に随従して行った。翌年、智月和尚が霊峰寺に遷住すると、先生はまたこれに従った。

    義学之支離…義学は仏教を信仰の対象として修めることをせ

    ず、ただ学問として研究すること。文字語句の訓詁として学

    問的に仏教を研究すること。支離はバラバラになる。めちゃ

    くちゃにする。支離滅裂である。言語や文章がバラバラで筋

    道が立っていない。『物初賸語』巻二四「大川禅師行状」や

    『大川和尚語録』巻末「霊隠大川禅師行状」に「一日幡然曰、

    持犯束レ身、義学支離、何能超二生死一乎。於レ是舎レ教而入レ

    禅、小留二瑞巌荷屋席下一」(卍続蔵一二一・一七三b)とあ

    り、大慧派の大川普済(一一七九─一二五三)の場合も同様

    の記事が存する。

    質所疑…所疑を質す。所疑は疑うところ。疑問に思うところ。

    質は正す、問い質す。『嘉泰普燈録』巻二三「丞相富弼居士」

    の章に「不レ舎二昼夜一、力進二此道一。聞下証悟修顒禅師主二投

    子法席一冠中准甸上、往質二所疑一」(卍続蔵一三七・一五九c)

    とある。

    天童…明州鄞県東六〇里の天童山景徳禅寺のこと。東晋代に義

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    四九

    興が庵を結んだことに始まる。唐末に洞山下の天童咸啓が禅

    刹開山となる。北宋代までは小刹であったが、南宋初期に曹

    洞宗の宏智正覚(隰州古仏)が第一六世中興として住持し、

    一二〇〇人の修行僧を擁する大刹となした。さらに黄龍派の

    慈航了朴や虚庵懐敞らが住持して伽藍を整えている。明庵栄

    西が黄龍派の虚庵懐敞に参じ、永平道元が曹洞宗の長翁如浄

    に参ずるなど、多くの日本僧が掛搭したことで知られ、また

    蘭渓道隆や無学祖元が来日する直前にそれぞれ天童山に身を

    寄せていたことも重要であろう。南宋五山の第三位に列す

    る。当時の天童山は霊江智月の本師である西巌了慧の代に火

    災によって伽藍が焼失し、了慧の法弟に当たる無準下の別山

    祖智の代に伽藍を修復している。一寧が天童山に掛搭したと

    き、住持は祖智の後席を継いだ簡翁居敬であった。寺志とし

    て明代の『天童寺志』五巻や清代の『新纂天童寺志』一〇巻

    などが存する。

    板首…第一座。首板・首版あるいは板頭・首座とも。板は僧堂

    内の牀縁・床縁。『仏鑑禅師語録』巻五末「径山無準禅師行

    状」に「遂訪二旧友巌雲窠于穹窿一、与首レ衆。雲窠遷二瑞光一、

    復居二板首一」(卍続蔵一二一・四八四c)とある。霊江智月

    が天童山の簡翁居敬のもとで首座を勤めていた事実が知ら

    れ、『希叟和尚広録』巻二「慶元府応夢雪竇資聖禅寺語録」

    に「上堂謝二天童月霊江一」という上堂を収めている。破庵

    派無準下の希叟紹曇は景定五年(一二六四)から咸淳二年

    (一二六六)の間に明州奉化県の雪竇山資聖禅寺の住持を勤

    めているから、この前後に智月が天童山で首座位に在ったこ

    とになろう。

    堂頭…禅寺の住持の居室。方丈のこと。転じて一ヶ寺の頭。禅

    寺の住持、住職。堂上とも。『臨済録』「行録」に「師初在二

    黄檗会下一、行業純一。首座乃歎曰、雖二是後生一、与レ衆有レ

    異。遂問、上座在レ此多少時。師云、三年。首座云、曾参問

    也無。師云、不二曾参問一、不レ知問二箇什麼一。首座云、汝何不三

    去問二堂頭和尚一、如何是仏法的的大意」(大正蔵四七・五〇

    四c)とある。

    簡翁敬…臨済宗虎丘派の簡翁居敬のこと。出身地や俗姓は未詳。

    『増集続伝燈録』巻四では破庵派の無準師範の法嗣とする

    が、『五燈会元続略』巻五では曹源派の癡絶道冲の法嗣とす

    る。杭州銭塘県の浄慈報恩光孝寺や明州鄞県の天童山景徳寺

    に陞住し、その後に明州奉化県の雪竇山資聖寺に退住してい

    る。福岡市美術館に簡翁居敬が揮毫した「杜子美図賛」が所

    蔵されている。『天童寺志』巻二「建置考上」によれば、景

    定四年(一二六三)に居敬は天童山の住持として千仏宝閣を

    修復しており、『物初賸語』巻一〇「天童浄髪庫記」にも名

    が見られる。『希叟和尚語録』巻末には至元一六年(一二七

    九)中秋に雪竇山住持として居敬が記した跋文が載せられて

    いるから、当時なお健在であったことが知られる。『西禅長

    慶寺志』巻二「禅宗志」の「第二十九代在山道傑禅師」の項

    によれば、福州(福建省)侯官県の怡山西禅長慶寺に住持し

    た在山道傑(広辯仏心禅師、?─一三一二)は雪竇山の居敬

    に参じて法を嗣いだ高弟とされる。

    主者…つかさどる者。寺院を主管する者。住持・住職のこと。

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    五〇

    『宏智禅師広録』巻九「勅諡宏智禅師行業記」に「道由二天

    童山之景徳寺一、適闕二主者一。衆見二師来一、密以告レ郡。師微

    聞即遯去、大衆囲繞、通夕不レ得レ行。不レ得レ已而受レ請」(大

    正蔵四八・一二〇b)とある。

    台教…天台教の略。天台宗の教え。天台教学。『法華経』に基

    づく中国天台宗の教学。たとえば『嘉泰普燈録』巻四「建康

    府保寧仁勇禅師」の章に「四明人、族竺氏。容止淵秀。齠為二

    大僧一通二台教一。俄黲服、依二雪竇明覚顕禅師一」(卍続蔵一三

    七・四八a)とある。

    粋…専らにする。専一にする。精通している。

    一心三観…天台宗の観法。一念の心の中に空観・仮観・中観の

    三観を同時に実現すること。一切を空であると観じ、仮であ

    ると観じ、さらに空と仮も一つであると観ずる。『景徳伝燈

    録』巻二八「越州大珠慧海和尚上堂」に「曰、一心三観、義

    又如何。師曰、過去心已過去、未来心未レ至、現在心無レ住、

    於二其中間一更用二何心一起レ観」(大正蔵五一・四四二a)と

    ある。

    以何為体…何を以て体と為す。体は本性、ものごとの根本とな

    るもの。『景徳伝燈録』巻九「杭州大慈山寰中禅師」の章に

    「趙州問、般若以レ何為レ体。師云、般若以レ何為レ体。趙州大

    笑而出。師明日見二趙州掃一レ地問、般若以レ何為レ体。趙州置

    レ箒拊レ掌大笑。師便帰二方丈一」(大正蔵五一・二六六c~二

    六七a)とある。

    一笑…一たび笑う。一咲。一寧としては大笑いの中に空仮中の

    三観がすべて具わっていることを示したものであろう。『嘉

    泰普燈録』巻一〇「成都府信相正覚宗顕禅師」の章に「覚一

    日問レ師、高高峰頂立、深深海底行、汝作麼生会。師於二言

    下一頓悟曰、釘二殺脚跟一也。覚拈二起払子一云、這箇又作麼

    生。師一笑而出」(卍続蔵一三七・八六c)とある。

    参堂…僧堂に入る。旦過寮などから僧堂に入って単位を与えら

    れて坐禅辦道する。『人天宝鑑』「慈航朴禅師」の項に「受具

    畢入二新戒寮一、受二持三衣一鉢一、夜則展二坐具一、披二五条一而

    睡。復請三一精誦二戒経一者与レ之教授。誦至二通利一、方許二参

    堂一」(卍続蔵一四八・六七d)とある。

    坐究…坐して究める。坐禅辦道して自己を究める。坐禅して己

    事究明する。『増集続伝燈録』巻五「応天府霊谷天淵清濬禅

    師」の章に「師益奮励坐究行参、弗レ忘二向上事一」(卍続蔵

    一四二・四三二d)とある。

    二期…二年間。期は一巡りすること、ここでは参堂を許されて

    から二年の意、または夏安居を二度過ごした意であろう。

    定海…明州(浙江省)定海県のこと。明州六県の一つ、後世の

    鎮海県に当たる。

    資聖寺…明州定海県東南六〇里に存した資聖禅寺。明州奉化県

    の雪竇山資聖禅寺(禅宗十刹第五位)とは別の寺院。唐末の

    大順年間(八九〇─八九一)の初めに資福寺として創建され

    る。北宋の治平年間(一〇六四─一〇六七)に資聖禅寺の額

    を賜う。『延祐四明志』巻一八「釈道攷下」の「定海県寺

    院」の「資聖禅寺」の箇所を参照。

    瑞世…出世・開堂に同じ。寺院に出世開堂する。晋山入寺して

    住持の式を挙げる。『枯崖和尚漫録』巻上「臨安府径山少林

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    五一

    [阿育王山に掛搭して頑極行弥のもとで機縁が契う]

    不久、辭上鄮山、依珍藏叟。叟應淨慈之詔、交代愷東叟也。愷見師妙英、侍主客。愷罷、照寂窻繼。期年

    寺火、窻又遷南屏。頑極弥來據主位、受窻之燼餘、早復輪奐。師以爲、一居四主我無分、今此老和尚不靳

    化權、又我之幸也。傾意親炙、從容酬酢。至我無一法與人、忽然冥契。翌歳、授以大藏之關鑰。

    辭…①②④辞 

    藏…①③蔵 

    叟叟…③④叟 々

    淨…②③④浄 

    窻…②④室③⑤窓 

    繼…①③④継 

    期…①②③④朞 

    窻…②③④⑤窓 

    弥…①②⑤彌 

    來…①②③④来 

    據…④拠 

    窻…②③④⑤窓 

    燼…④烬 

    爲…①②③④為 

    靳…②④ 

    與…④与 

    藏…①②③蔵 

    關…①④関

    久しからずして、辞して鄮ぼうに上り、珍ちんぞうそう

    蔵叟に依る。叟、浄じん慈ずの詔に応じ、愷がいとうそう

    東叟に交代す。愷、師の妙英なるを見て、

    主しゅきゃく客に侍せしむ。愷罷しりぞきて、照しょうじゃくそう

    寂窓継ぐ。期き年ねんにして寺火やき、窓又た南なんぺい屏に遷る。頑がんごく極弥み、来たりて主位に拠り、窓

    仏行崧禅師」の項に「生二於建之浦城徐氏一。受二業於夢筆峰

    等覚一。瑞二世於安吉報本一、嗣二東庵一。道声四馳。未レ幾、起

    住二杭之浄慈一」(卍続蔵一四八・七四a)とある。

    道義…道徳。人が踏み行うべき道。人として守るべき正しい

    道。『雪竇明覚禅師語録』巻六「祖英集」の「三宝讃并序」

    に「予天禧中、寓二跡霊隠一、与二宝真禅者一為レ友、或遊或処、

    固以二道義一相揖、投報相襲、冷冷然自楽二天常之性一也」(大

    正蔵四七・七〇四c)とある。

    随往…随いて往く。随従する。付き従って行く。行動を共にす

    る。『嘉泰普燈録』巻一四「平江府虎丘紹隆禅師」の章に「遂

    由二宝峰一依二湛堂一、客二黄龍一叩二死心一、其機語妙出二一時一。

    即至二夾山一、聞三悟移二道林一、師随往」(卍続蔵一三七・一〇

    九a)とある。

    越年…年を越えて。翌年に。越歳とも。『人天宝鑑』「天竺悟法

    師」の項に「未レ幾公薨。悟益加二精励一、昼夜不レ廃、越レ歳

    乃克如レ志、遂答二前誓一」(卍続蔵一四八・六二c)とある。

    霊峰…明州定海県南四〇里の霊巌山に存した霊峰禅寺のこと。

    後周の広順年間(九五一─九五三)の初めに全禅師が創建

    し、保安寺と称したのに始まる。北宋の治平年間(一〇六四

    ─一〇六七)の初めに霊峰禅寺の額を賜う。『延祐四明志』

    巻一八「釈道攷下」の「定海県寺院」に「霊峰禅寺」の項が

    存する。

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    五二

    の燼じん余よを受けて、早くに輪りんかん奐に復す。師、以おも為らく、「一たび居するに四たび主かわるは、我れに分無し。今、此の老

    和尚、化け権ごんを靳おしまず、又た我れの幸いなり」と。意を傾けて親しんしゃ炙し、従しょうよう容として酬しゅうさく酢す。「我れに一法として人に与う

    る無し」というに至り、忽こつ

    ねん然として冥めいかい契す。翌歳、授くるに大だいぞう蔵の関かんやく鑰を以てす。

    まもなくして先生は霊峰寺を辞して鄮山(阿育王山)に上り、蔵叟善珍和尚のもとに参じた。蔵叟和尚が浄慈寺の詔勅

    に応じて遷住すると、東叟元愷和尚に住持が交代した。元愷和尚は先生のすぐれたさまを見て、知客の職に侍せしめ

    た。元愷和尚が住持を退くと、寂窓有照和尚が後を継いだ。寂窓和尚が住持に就いて一年を経たとき、阿育王山が火災

    で焼失し、寂窓和尚はまた南屏山(浄慈寺)に遷住した。頑極行弥和尚が新たにやって来て住持の座に就き、寂窓和尚

    の代に焼失した跡を受け継ぎ、まもなく壮大な伽藍に復旧させた。先生は「一たび安居している間に四たびも住持が代

    わったのは、私に運がなかった。いま、この老和尚は学人接化を惜しむことがない、また我が幸いである」と思った。

    先生は心を傾けて親しく教えを受け、ゆったりと落ち着いて問答応酬した。「私には人に与える一法もない」というこ

    とばに至って、忽ちに奥深い道理に契った。翌年、頑極和尚は先生に経蔵の鍵を授けて蔵主となした。

    鄮山…貿山とも。明州(浙江省寧波府)鄞県東三〇里。鄞県東

    五〇里の阿育王山に連なる一峰であることから、阿育王山の

    意にも解する。海人が貨をもってここに貿易したことから名

    づけられた。古く鄞県を鄮県と称する。

    珍蔵叟…大慧派の蔵叟善珍(一一九四─一二七七)のこと。泉

    州(福建省)南安の呂氏。一三歳で泉州府治(晋江県)崇福

    寺の南和尚に就いて出家し、一六歳で遊方して杭州に到り受

    戒する。杭州霊隠寺の妙峰之善の法を嗣ぐ。無等恵融とは同

    門に当たる。泉州の光孝寺に出世し、同じく承天寺に升住

    し、さらに湖州(浙江省)の思渓円覚寺、福州(福建省)の

    雪峰山崇聖寺を経て明州の阿育王山、杭州の径山に勅住す

    る。南宋の景炎二年(元の至元一四年、一二七七)五月二一

    日に示寂。世寿八三歳。伝は『続伝燈録』巻三五や『増集続

    伝燈録』巻二に存する。詩文集として『蔵叟摘藁』二巻が残

    されている。『明州阿育王山続志』巻六「先覚攷補遺」には

    「第四十七代、蔵叟珍禅師。南安呂氏子。嗣二妙峯善公一。五

    月廿一日忌」とある。善珍は咸淳五年(一二六九)一〇月に

    示寂した松源派の虚堂智愚の後席を継いで阿育王山から径山

    に遷住しており、一寧が阿育王山の善珍に参学したのもそれ

    以前となろう。

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    五三

    浄慈…杭州銭塘県西南三里の西湖南岸に位置する南屏山浄慈報

    恩光孝禅寺のこと。五代周の顕徳元年(九五四)に呉越王が

    創建して慧日永明院と称し、法眼宗の永明延寿が住して

    『宗鏡録』一〇〇巻を撰したことで名高い。北宋代には雲門

    宗の円照宗本や大通善本などが住持し、南宋初期に浄慈報恩

    光孝禅寺と改められる。南宋中期には五山第四位に列し、曹

    洞宗の長翁如浄や大慧派の北磵居簡、松源派の虚堂智愚・石

    林行鞏などが住持している。寺志として清代に編纂された

    『勅建浄慈寺志』三〇巻が存する。『扶桑五山記』一「浄慈住

    持位次」には歴住名を載せるが、蔵叟善珍の名は浄慈寺世代

    には存せず、実際は明州阿育王山から杭州餘杭県の径山興聖

    万寿禅寺に陞住している。その時期は虚堂智愚が示寂した翌

    年に当たる咸淳六年(一二七〇)の春頃と見られる。

    詔…みことのり。天子(皇帝)の命令。上から下に告げる。天

    子が呼び寄せて告げる、天子が知らせる。『元叟端禅師語

    録』巻七「題跋」の「題二英宗皇帝手詔洎蘇子瞻小帖一」に

    「大覚璉、在レ宋為二禅門碩徳一。(中略)英宗賜以二任性住持之

    詔一。璉謂、駭二人耳目一」(卍続蔵一二四・二七c)とある。

    愷東叟…大慧派の東叟元愷のこと。郷関・俗姓とも不詳。大川

    普済の法を嗣ぐ。『大川和尚語録』の編者の一人として知ら

    れる。嘉興府(浙江省)秀水県の精厳寺や建康府(南京)上

    元県の蒋山太平興国寺に住し、明州の阿育王山に住持する。

    『明州阿育王山続志』巻六「先覚攷補遺」には「第四十八

    代、東叟愷禅師。嗣二大川済公一。十二月十四日忌」とある。

    『扶桑五山記』一「浄慈住持位次」によれば、元愷は松源派

    の石帆惟衍の後席を継いで浄慈寺に住持しているから、咸淳

    六年(一二七〇)に惟衍が天童山に住持した際、同時期に元

    愷も浄慈寺に遷住したものであろうか。

    交代…入り替わる。交替する。官吏などが任期が満ちて旧官と

    新官が入り代わる。ここでは阿育王山の住持が入れ替わるこ

    とをいう。たとえば『叢林盛事』巻下「黄龍楊岐二宗」の項

    に「紹興末、塗毒既没、而双径交代、乃育王仏照禅師入院之

    初、詣二巌主塔頭一置レ祭」(卍続蔵一四八・四五c)とある。

    ただし、『叢林盛事』のこの記事は紹興の末ではなく紹煕の

    末が正しい。

    妙英…妙齢英明の略。若くして優れている。妙は若い、若々し

    い。英は秀でる・賢い・優れている。妙齢にして英明である。

    『古林和尚語録』巻三「法語」の「示二見侍者一」に「見三侍

    者来二自新羅一、妙齢英発、険阻艱難、歴渉殆尽、孜孜為レ道、

    瘉篤瘉勤」(卍続蔵一二三・二四〇c~d)とある。

    主客…典客・典賓とも。客を主どる。賓客を掌る。禅寺の六頭

    首のひとつ知客の役職。禅寺にやって来た賓客を送迎接待す

    るのを掌る役。『破菴和尚語録』巻末「行状」に「遂往見二

    密菴於烏巨一。衆纔満レ百、然皆一時龍象、命レ師為二典客一」

    (卍続蔵一二一・四二六b)とある。

    照寂窓…虎丘派の寂窓有照のこと。福州(福建省)閩県の鄧

    氏。九峰の榕庵□慧に従って得度する。福州の怡山西禅長慶

    寺で枯禅自鏡に参じ、自鏡が杭州霊隠寺に住した際に侍者を

    勤めて法を嗣ぐ。明州阿育王山の無準師範などに参じた後、

    福州の黄檗山建福寺などに住持し、温州(浙江省)の江心山

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    五四

    龍翔寺を経て明州阿育王山に遷住する。阿育王山が火災とな

    るや、平章の賈似道の援助を得て伽藍の復興に尽力した。

    『明州阿育王山続志』巻六「先覚攷補遺」には「第四十九

    代、寂窓照禅師。福之閩県鄧氏子。嗣二枯禅鏡公一」とある。

    『増集続伝燈録』巻三「四明育王寂窓有照禅師」の章(卍続

    蔵一四二・三九五c~d)が存する。法嗣に龍源介清(仏海

    性空禅師、一二三九─一三〇一)がおり、『龍源和尚語録』

    巻末「龍源和尚塔銘」には有照との間で交わした商量が伝え

    られている。

    期年…満一年。一周年。期は一ヶ年や一ヶ月など一定の時間を

    いう。『仏鑑禅師語録』巻六末の「径山無準禅師行状」に「三

    年、京師諸禅以二焦山一挙レ師。密院劄二奉化一津遣、師不レ赴。

    再劄乃行。期年遷二雪竇一。三年被レ旨移二育王一」(卍続蔵一二

    一・四八四c)とある。

    寺火…寺が焼ける。寺院が火災に遭う。『増集続伝燈録』巻三

    「四明育王寂窓有照禅師」の章に「詔遷二玉几一、適灾変。竭レ力

    興建、衆屋稍完。謁二平章賈魏公一聞奏、朝廷降二金帛一、鼎二

    建舍利宝塔一、頓復二旧規一」(卍続蔵一四二・三九五c)と記

    されている。この時期の阿育王山の火災については定かでな

    いが、時期的に南宋末期に当たっており、失火によって伽藍

    が焼失したものらしい。復興に尽力した有照は伽藍が概ね復

    旧した時点で、平章の賈似道(魏公)に謁して聞奏し、南宋

    の朝廷から金帛を得て舎利宝塔を鼎建しているから、有照の

    代でほぼ復旧を完了しているように読み取れる。

    南屏…杭州銭塘県の西湖の西南にある南屏山。上に石壁があり、

    屏障のごとくであることから称される。西湖の畔に南屏山を

    背に浄慈寺が存する。『勅建浄慈寺志』巻一三「山水」の

    「南屏山」に「浄慈寺旧志。南屏山、浄慈寺之主山也。去二

    郡城一西南五里、而遥高四十餘丈、延袤可八里許、即九曜山

    分支、葢西湖南山之脉」とある。

    頑極弥…一山一寧の本師となった曹源派の頑極行弥のこと。越

    州(浙江省)紹興府の人。俗姓は未詳。若くして杭州銭塘県

    の下天竺寺に到って天台宗の古雲元粋のもとで天台教学を究

    めた後、天童山の癡絶道冲に参じて法を嗣ぐ。『癡絶和尚語

    録』巻下「径山癡絶和尚普説」は「嗣法門人行弥・紹甄編」

    (卍続蔵一二一・二六五a)とあり、行弥も編集に関わって

    いる。同巻下「径山癡絶和尚法語」に「示二行弥蔵主一」(卍

    続蔵一二一・二七四c)を収め、『北磵和尚語録』「偈頌」に

    も「頑極〈天童弥蔵主〉」(卍続蔵一二一・八〇b)を収めて

    いる。『希叟和尚語録』「偈頌」に「賀三頑極和尚住二越州光

    孝一」(卍続蔵一二二・九〇b)が存するから、越州紹興府

    城南の天寧報恩光孝禅寺に出世したことが知られる。その

    後、湖州烏程県の道場山護聖万寿禅寺を経て明州阿育王山に

    住持しており、『明州阿育王山続志』巻六「先覚攷補遺」に

    は「元第五十代、頑極彌禅師。嗣二痴絶冲公一」とあり、『宋

    文憲公護法録』巻四「碑」の「四明阿育王山広利禅寺碑銘」

    に行弥が阿育王山でなした活動の一端を伝えている。『一山

    国師語録』巻下「賛仏祖」に「頑極先師」の祖賛(大正蔵八

    〇・三二八c)が存する。

    主位…主人席。主人の座処。右を主位、左を賓位とする。寺は

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    五五

    南面していることから、東を主位、西を賓位とし、住職の居

    室である方丈は寺の東側に存する。ここでは寺の主人である

    住職のこと。『重彫補註禅苑清規』巻五「堂頭煎点」に「並

    係二大衆一迎送、堂頭並拠二主位一。如在二県下一、住持即接二知

    県一、自餘不レ須」(卍続蔵一一一・四五二a)とある。

    燼餘…燃え残り。餘燼。火災などで燃え残ったもの。燼は残り

    や余りの意。覚範慧洪の『石門文字禅』巻二九「塔銘」の

    「嶽麓海禅師塔銘」に「崇寧乙酉、遷居二於湘西之嶽麓一。勧

    請皆一時名公卿。明年正月八日麓火、一夕而燼。道俗驚嗟、

    以レ死弔。師笑曰、夢幻成壊、蓋皆戯劇、然吾恃二願力一、宮

    室未二終廃一也。於レ是就レ林縛レ屋、単丁而住。雑二蒼頭厮養一、

    運二瓦礫一、収二燼餘之材一、造二床榻板隔一。凡叢林器用、所レ宜

    レ有者皆備」とある。

    輪奐…建物が巨大で華美なさま。壮麗なさま。『礼記』「檀弓下

    第四」に「張老曰、美哉輪焉、美哉奐焉、歌二於斯一、哭二於

    斯一、聚二国族於斯一」とある。『雪峰真覚禅師語録』巻末「雪

    峰真覚大師年譜」には「三年癸亥、師年八十二。寺衆日繁、

    歳入不レ給、屋宇漸漏、欲レ行二脩葺一、工程浩大。有二僧無量

    無悦者一、立レ心勧二募衆縁一。輪奐仍旧、以遵二師行一」(卍続

    蔵一一九・四九一d)とある。

    以為…以謂とも。二字で「おもえらく~と」と訓ずる。思うこ

    とには~である。~と思った。

    一居四主…一たび居するに四たび主かわる。一寧が阿育王山に

    入門掛搭して修行している間に、蔵叟善珍・東叟元愷・寂窓

    有照・頑極行弥と四度も住職が相継いで交代したこと。

    我無分…我れに分無し。自分には資格がない、天運がない。分

    は資格・才能・持ち前などの意。『大慧普覚禅師語録』巻二

    九「大慧普覚禅師書」の「答二李宝文一〈茂嘉〉」に「士大夫

    学二此道一、却須下借二昏鈍一而入上。若執二昏鈍一自謂二我無一レ分、

    則為二昏鈍魔一所レ摂矣」(大正蔵四七・九三五b)とある。

    此老和尚…此の老和尚。這老和尚とも。ここでは頑極行弥のこ

    と。『大慧普覚禅師語録』巻八「泉州小渓雲門菴語録」の

    「為二円悟和尚一挙哀拈香」に「指レ真云、這老和尚、一生多

    口、攪二擾叢林一。近聞、已在二蜀中一遷化了也」(大正蔵四七・

    八四四c)とある。

    化権…感化する力。教化・感化、教え導くこと。『圜悟心要』

    巻下終「示二丹霞仏智裕禅師一」に「於二無辺香水一浮二幢刹外一、

    斬二魔外見網一、摧二仏祖化権一、掲示不レ可レ示。拈二提不レ可レ提

    之奥一、尚未レ為レ的」(卍続蔵一二〇・三九二c)とある。

    不靳…惜しまない、隠し立てしない。すべて包み隠すことがな

    い。『古尊宿語録』巻三四『舒州龍門仏眼和尚語録』巻末の

    「宋故和州褒山仏眼禅師塔銘」に「師不レ起二于座一而化、湫

    隘為二巨刹一。壮者効二筋力一、智者授二軌度一、富者施二貲財一、初

    不レ靳也」(卍続蔵一一八・三〇四d)とある。

    我之幸…我れの幸い。我が幸い。自分にとって好い巡り合わせ

    であること。『鼻奈耶』巻七「波逸提法之一」に「長者便作二

    是念一、得二此少児一是我之幸、常人坐肆得二一倍利一、此少児坐

    肆得二八倍十倍利一」(大正蔵二四・八八三a)とある。

    傾意…意を傾ける。心を傾ける。傾心・傾魂とも。心を打ち込

    む、心を寄せる、心を尽くす。『補続高僧伝』巻七「懐賢禅

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    五六

    [天童山の環渓惟一に参学し阿育王山に帰山する]

    解印、拉友人明自誠、雲游天台鴈蕩之間。肩錫來歸、適一環溪居天童、衲子輻湊、法社甚盛。師求掛錫、溪

    師伝」に「当時賢士大夫聞二其風一、皆傾レ意願二与レ之游一」

    (卍続蔵一三四・六八d)とある。

    親炙…親しみ近づく。その人に近づき感化を受ける。親しく教

    化を受ける。『孟子』「尽心章句下」に「孟子曰、聖人百世之

    師也。(中略)非二聖人一、而能若レ是乎。而況於下親二炙之一者上

    乎」とあり、『羅湖野録』巻上「西蜀表自禅師」の項に「西

    蜀表自禅師、参二演和尚於五祖一。時圜悟分座摂納。五祖使二

    自親炙一焉」(卍続蔵一四二・四八七d)とある。

    従容…ゆったりと落ち着いているさま。寛いださま。『大慧普

    覚禅師語録』巻六末尾の「大慧普覚禅師塔銘」に「嗚呼、我

    識レ師之早、此心黙契、未レ言先同。従容酬接、達レ旦不レ倦、

    人間至楽、孰与等擬」(大正蔵四七・八三七b)とある。

    酬酢…酬対・酬答とも。主人が客に酒を勧める。受けた盃を返

    す。盃をやり取りする。答える。応対する。応対報答する。

    『大慧普覚禅師語録』巻一七「大慧普覚禅師普説」の「銭計

    議請普説」に「須二是行也提撕、坐也提撕一。喜怒哀楽時、応

    用酬酢時、総是提撕時節」(大正蔵四七・八八六a)とある。

    我無一法与人…我れに一法の人に与うる無し。仏法は他から与

    えられるものではなく、自ら修行辦道して究める以外に術は

    ない。『景徳伝燈録』巻一五「朗州徳山宣鑑禅師」の章に

    「雪峯問、従上宗風、以二何法一示レ人。師曰、我宗無二語句一、

    実無二一法与一レ人。巌頭聞レ之曰、徳山老人一条脊梁骨、硬似

    レ鉄拗不レ折。然二雖如一レ此、於二唱教門中一猶較二些子一」(大

    正蔵五一・三一八a)とあり、青原下の徳山宣鑑が門下の雪

    峰義存や巌頭全奯と交わした商量に因んでいる。『一山国師

    語録』冒頭の「一山国師語録序」において松源派の霊石如芝

    も「我宗無二語句一、亦無二一法与一レ人。若有二一法与一レ人、土

    亦難レ消。(中略)一山龢尚、伝二頑翁不伝之秘一」(大正蔵八

    〇・三一一c)と述べており、やはりこの語句を一寧の機縁

    として載せている。

    忽然冥契…忽然として冥契す。忽然とは不意に、突然に。冥契

    は奥深いところで仏法と契う。冥は奥深く、隠れて見えない

    さま。契は叶う、弟子の証が師匠の証に相い契う。悟る、開

    悟する。『景徳伝燈録』巻一九「南嶽金輪可観禅師」の章に

    「便参二雪峯一。雪峯曰、近前。師方近前作礼。雪峯挙レ足蹋レ

    之。師忽然冥契」(大正蔵五一・三五六a)とある。

    翌歳…翌年。ただし、具体的な年時が定かでない。

    大蔵関鑰…大蔵は大蔵経・一切経。関鑰は鍵。閂と鍵。重要な

    ところ、枢要の部分。大蔵経を納める蔵殿を管理する鍵。

    『絶岸和尚語録』「温州鴈山能仁禅寺語録」の「謝二元蔵主一

    上堂」に「一大蔵教、了無二関鑰一、奇峰峩峩、幽石落落」(卍

    続蔵一二一・四八八a)とある。

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    五七

    不拒。不幾、寺奪祝融。因是又回育王、附珙横川。川逝、祥巧菴來。菴逝、沅清溪來。皆居座下。師已參

    覲諸老、淵默雷轟。

    拉…④位 

    游…③遊 

    來歸…①来帰②⑤而來歸③而来帰④而来皈 

    居…①②③⑤踞④路 

    幾…④ 

    輻…①幅 

    湊…⑤輳 

    來…①②

    来 

    川川…③④川 々

    菴…⑤庵 

    來…③④来 

    菴…⑤庵 

    沅…⑤沆 

    參…②③④参 

    淵…④渕

    印解けて、友人明みょうじせい

    自誠を拉ひいて、天台・鴈がんとう蕩の間に雲游す。錫を肩にして来たり帰るに、適たま一いちわんけい

    環渓、天童に居す。

    衲のっすふくそう

    子輻湊し、法ほうしゃ社甚だ盛んなり。師、掛か錫しゃくを求むるに、渓拒こばまず。幾ならずして、寺、祝しゅくゆう融に奪わる。是れに因りて又

    た育いく

    おう王に回り、珙きょうわんせん

    横川に附く。川逝きて、祥しょうこうあん

    巧菴来たる。菴逝きて、沅げんせいけい

    清渓来たる。皆な座下に居る。師已に諸老に

    参さんきん覲し、淵えんもくらいごう

    黙雷轟たり。

    蔵主の役職の任期を終えて、先生は友人の自誠妙明禅人を誘って天台山や雁蕩山の間に行脚修行した。錫杖を肩に掛け

    て明州に帰って来ると、たまたま環渓惟一和尚が天童山に住していた。多くの修行僧が集まっており、仏法の集いもき

    わめて盛んであった。先生が掛搭を求めると、環渓和尚は拒まなかった。ほどなくして寺の伽藍が火災によって焼失し

    た。そのため再び阿育王山に赴き、横川如珙和尚に付き従った。横川和尚が逝去すると、巧庵祥和尚がやって来た。巧

    庵和尚が逝去すると、清渓了沅和尚がやって来た。先生はみな彼らの会下に留まった。先生はすでに多くの禅匠に参見

    され、心静かに口数が少ないものの、雷が轟くようであった。

    解印…印解けて。役職を辞する。印は役職・官職の意。ここで

    は阿育王山で蔵主職の任期が解けたことをいう。『樵隠和尚

    語録』巻下「自讃」の「楠蔵主回レ浙」に「司二其鑰一者喜レ得

    レ人、(中略)功成解レ印湖山秋、柳影梅香旧知識」(卍続蔵

    一五〇・五六二a)とある。

    拉友人…友人を拉く。拉は引き連れる、誘って同行する。友人

    はここでは法友・道友、同じく仏道を学ぶ親友。『補続高僧

    伝』巻一五「日本徳始伝」に「聞古幽都山川之勝、意其必有二

    異人一居レ之、拉レ友遊観、及足跡殆遍」(卍続蔵一三四・一

    三一d)とある。

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    五八

    明自誠…臨済宗曹源派の自誠妙明のこと。一に自承妙明とも。

    郷関・俗姓など事跡は定かでない。頑極行弥に参じて法を嗣

    ぎ、一山一寧とは同門に当たる。特定の禅寺に開堂出世する

    ことなく、蔵主の職位で終わったものらしい。『仏祖正伝宗

    派図』では「自承妙明蔵主」とあり、『正誤仏祖正伝宗派

    図』四では「白承妙明蔵主」とある。道号は自誠または自承

    と称したものであろう。この人の名はもともと『中庸』第四

    段「誠者天之道也」の項に「自レ誠明謂二之性一、自レ明誠謂二

    之教一、誠則明矣、明則誠矣」とある語に基づく。

    雲游…雲遊。雲の流れるように諸方の叢林を自由にめぐり歩く。

    諸方を歴遊して参学に努める。『古尊宿語録』巻六「附録」

    の「雲菴真浄和尚行状」に「時南禅師已居二積翠一、径造二其

    廬一。南曰、従二什麼処一来。曰、潙山。南曰、恰値二老僧不在一。

    曰、未審、向二什麼処一去。南曰、天台普請、南嶽雲游」(卍

    続蔵一二〇・一〇六b~c)とある。

    天台…台州(浙江省)天台県の天台山のこと。天台山は台州天

    台県の北に位置し、一に桐柏山または大小台山と称される。

    隋代に天台智顗(智者大師)がこの地に居し、とくに国清教

    寺を創建して『法華経』に基づく天台教学を打ち立ててい

    る。唐代に日本から最澄(伝教大師)が天台山に到って道邃

    (興道尊者、止観和尚)より天台学を修得して帰国してい

    る。山中には国清寺や明庵栄西・永平道元ゆかりの万年寺の

    ほか、華頂寺・方広寺・天台石橋(石梁瀑布)など寺観や史

    跡が多い。天台山と雁蕩山は対で用いられる場合が多く、

    『応菴和尚語録』巻一「衢州桐山明果禅院語録」の上堂に

    「且脳後一句是第幾機。喝一喝云、耶舎塔中敲二鉄磬一、天台

    鴈蕩絶二人行一」(卍続蔵一二〇・四〇五b)とある。『天台

    山方外志』などが存する。

    鴈蕩…雁蕩・雁山とも。温州(浙江省)瑞安府楽清県東九〇里

    の北雁蕩山のこと。北鴈蕩山と南鴈蕩山に分かれ、北鴈蕩山

    は楽清県の東に、南鴈蕩山は平陽県の西南に存する。諸峰が

    高く聳え、奇巒奇怪にして羅漢応現の霊地ともされる。山中

    には霊峯寺・霊巌寺・能仁寺など一八カ寺を列ねた。山志と

    して『雁山志』四巻が存する。

    肩錫…錫杖を肩に掛ける。諸方を行脚歴遊するさま。『宋高僧

    伝』巻二三「唐漢東山光寺正寿伝」に「釈正寿者、不レ知二

    何許人一也。風儀峻整、節概高強。肩レ錫曳レ嚢、宗師皆謁」

    (大正蔵五〇・八五五b)とあり、『圜悟心要』巻上終の「示二

    民知庫一」に「既而搯二布巾一、欲二離レ法自浄一。乃肩レ錫南游、

    訪二西来宗旨一」(卍続蔵一二〇・三六三d)とある。

    一環渓…臨済宗破庵派の環渓惟一(一二〇二─一二八一)のこ

    と。資州(四川省)墨池の賈氏。成都(四川省)や衡陽

    (湖南省)の南嶽で参学した後、阿育王山や径山で無準師範

    に参じて法を嗣ぐ。淳祐六年(一二四六)に建寧(福建省)

    の瑞巌禅寺に開堂出世し、その後、臨江軍(江西省)清江県

    の瑞篁山恵力禅寺、隆興府(江西省)靖安県の泐潭山宝峰禅

    寺、隆興府義寧州の黄龍山崇恩禅寺、建昌軍(江西省)南城

    県の資聖禅寺、瑞州(江西省)新昌県の黄檗山報恩光孝禅

    寺、袁州(江西省)宜春県の仰山太平興国禅寺と主に江西の

    諸刹に歴住し、福州(福建省)侯官県の雪峰山崇聖禅寺を経

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    五九

    て咸淳九年(一二七三)三月に明州鄞県の天童山景徳禅寺に

    陞住する。至元一六年(一二七九)冬に住持を退き、至元一

    八年九月に世寿八〇歳で示寂。『環渓和尚語録』二巻が存

    し、巻末に覚此撰「行状」を収める。法嗣の鏡堂覚円(大円

    禅師、一二四四─一三〇六)が無学祖元に随侍してともに来

    日している。今枝愛眞『〈新訂図説〉墨蹟祖師伝』(柏林社刊)

    の三九に環渓惟一直筆の法語の影印を収めている。

    天童…明州鄞県の天童山景徳寺のこと。前出。

    衲子輻湊…衲子は衲衣を着た僧、禅僧のこと。とくに修行僧を

    指す。輻湊は輻輳とも、人や物が一ヶ所に集まる。輻は車輪

    のスポーク。『増集続伝燈録』巻六に付録される『五燈会元

    補遺』の「杭州径山大禅了明禅師」の章に「遷二住長蘆一、衲

    子輻湊、叢林改レ観。隆興元年、奉レ詔住二径山一」(卍続蔵一

    四二・四五六c)とある。

    法社…仏法の集い。叢社とも。修行道場。叢林。『禅林宝訓』

    巻三「雪堂行和尚」の章に「雪堂曰、(中略)是以、主二招

    提一有二道徳之師一、而成二法社一、必有二賢智之衲子一。是為二虎

    嘯風冽・龍驤雲起一」(大正蔵四八・一〇二九b)とある。

    掛錫…挂錫・駐錫とも。掛搭に同じ。修行僧が行脚に用いる錫

    杖を壁に立て掛ける意。行脚を止めて一ヶ寺に身を置いて僧

    堂で他の修行僧と起居を共にすること。たとえば『景徳伝燈

    録』巻二五「杭州真身宝塔寺紹巌禅師」の章に「曁遊方与二

    天台韶国師一同受レ記、於二臨川一尋二於浙右水心寺一掛錫宴寂」

    (大正蔵五一・四一五b)とある。

    祝融…伝説上の火の神の名。祝融神・赤帝。炎帝の子孫とさ

    れ、火を司る南方の神。ここでは火事・火災を意味する。

    『淮南子』巻五「時則訓」の「赤帝祝融之所レ司者万二千里」

    の注に「祝融、顓頊之孫、老童之子、呉回也。一名レ黎、為二

    高辛氏一火正、号為二祝融一、死為二火神一也」とある。

    育王…明州鄞県の阿育王山広利寺のこと。既出。

    珙横川…臨済宗松源派の横川如珙(此庵、子璞、一二二二─一

    二八九)のこと。温州(浙江省)永嘉県の林氏。滅翁文礼

    (天目樵者)の法を嗣ぐ。咸淳四年(一二六八)に温州楽清

    県の北雁蕩山の霊巌禅寺に出世し、咸淳八年(一二七二)に

    同じ北雁蕩山の能仁禅寺に遷住している。至元二〇年(一二

    八三)に明州阿育王山に入寺し、至元二六年(一二八九)三

    月一八日に六八歳で示寂。『明州阿育王山続志』巻六「先覚

    攷補遺」には「第五十三代、横川珙禅師。永嘉林氏子。嗣二

    滅翁礼公一。三月十八日忌」とある。門下には古林清茂・断

    江覚恩などが存し、とくに清茂は鎌倉末期に入元した多くの

    日本僧に絶大な影響を与えている。『牧潜集』巻三に「横川

    和尚塔記」が収められ、『増集続伝燈録』巻四「四明育王横

    川如珙禅師」の章や『補続高僧伝』巻一二「横川珙禅師伝」

    が存する。『横川和尚語録』二巻が残されているほか、田山

    方南『禅林墨蹟〈乾〉』二七によれば、横川如珙筆「主丈

    歌」が現存している。

    川逝…天隠円至の『牧潜集』巻三「横川和尚塔記」に「至元二

    十年、忽有レ旨授二師育王広利禅寺一。(中略)凡六年乃退。前

    退之歳為二蔵穴一、寺側曰二此庵一。将レ没造曰、吾旦日行矣。帰

    坐書下所二以訣一レ衆者上而化。年六十八。至元二十六年三月十

  • 一山一寧の伝記史料(佐藤)

    六〇

    八日也」(禅門逸書初編六・一六a~b)とあるから、横川

    如珙が至元二六年(一二八九)三月一八日に世寿六八歳で示

    寂していることが知られる。また『宋文憲公護法録』巻四

    「碑」の「四明阿育王山広利禅寺碑銘」に「笑翁十二伝、至二

    頑極弥公一、適際良会。遂以二詔書一従事。未二曾幾何一、甍棟雄

    麗、如二天成地湧一、上薄雲漢、宝塔還二于故処一。頑極四伝、

    至二横川珙公一、道被二華夷一、禅学為レ之中興。僧伽来依二法輪一

    者、至レ無二席以一レ容」とあり、ここでも阿育王山の世代が頑

    極行弥から四伝して横川如珙が住持したことを伝えている。

    祥巧菴…臨済宗楊岐派の朽庵□祥のこと。道号は巧庵なのか朽

    庵なのかが明確でない。郷関・俗姓などは定かでない。純庵

    善浄(淳庵とも)の法を嗣いでおり、法系は圜悟克勤─蓬庵

    端裕─水庵師一─息庵達観─純庵善浄─朽庵□祥と次第す

    る。『正誤仏祖正伝宗派図』三には「華蔵純菴善浄」の法嗣

    に「薦福□祥」とあり、『明州阿育王山続志』巻六「先覚攷

    補遺」には「第五十二代、朽菴祥禅師。嗣二華蔵浄公一。五月

    初五日忌」とあるから、朽庵祥は饒州(江西省)鄱陽県の東

    湖薦福禅寺に住持した後、阿育王山に遷住したものらしい。

    沅清渓…臨済宗虎丘派の清渓了沅のこと。枯禅自鏡の法を嗣

    ぐ。郷関や俗姓は定かでないが、四川出身の蜀僧と見られ

    る。枯禅自鏡に参じて法を嗣ぎ、明州の阿育王山や杭州の浄

    慈寺に住持する。元代初期に七二歳で示寂。『増集続伝燈

    録』巻三に「杭州浄慈清渓沅禅師」の章が存するが、伝記的

    な記事は見られない。『明州阿育王山続志』巻六「先覚攷補

    遺」には「第五十一代、清渓沅禅師。嗣二枯禅鏡公一。八月廿

    八日忌」とある。おそらく松源派の石林行鞏の後席を継いで

    至元一八年(一二八一)に阿育王山から浄慈寺に遷住し�