巻頭言 · 2000-04-01 · 巻頭言 大学図書館長 丸茂 新 ・・・・・・・・・・...

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巻頭言  大学図書館長          丸茂 新 ・・・・・・・・・・ 2�

第8回 大学図書館特別展示・学術資料講演会�

    明治・大正の文学者たち�

  八重津家旧蔵資料について�

      光華女子大学日本文学科教授  清水 康次 ・・・・・・・・・ 3�

  丹羽記念文庫について�

      関西学院大学名誉教授     中島 洋一 ・・・・・・・・・ 5�

  旧蔵書簡・手稿寄贈にあたって�

      関西学院大学名誉教授     八重津 洋平 ・・・・・・・・ 5�

  特別展示資料解説�

      光華女子大学日本文学科教授  清水 康次 ・・・・・・・・・ 6�

  学術資料講演会要旨�

   書簡資料に見える文学者たち�

      光華女子大学日本文学科教授  清水 康次 ・・・・・・・・・ 13�

座談会 「知的緊張感」と大学図書館   ・・・・・・・・・・・・・ 15�

  出席者:今田 寛(学長・文学部教授)�

      丸茂 新(大学図書館館長・商学部教授)�

      Ruth M. Grubel(社会学部教授)�

      竹本 洋(経済学部教授)�

      天野 明弘(総合政策学部教授)�

   司会/阪倉 篤秀(大学図書館副館長・文学部教授)�

電子媒体の時代へ ~最近の学術雑誌の動向~  ・・・・・・・・・ 23�

            雑誌資料課長  篠崎 陽一�

日本図書館協会建築賞を受賞      ・・・・・・・・・・・・・ 26�

(表紙 題字:山崎 掃雪 デザイン:芥川龍之介書簡より)��

1

2

3

関西学院大学図書館では、図書館所蔵の貴重図書など普段目にする機会の少ない図書資料を紹

介する機会として、特別展示を年1回企画している。第8回特別展示(1999年11月開催)は「明

治・大正の文学者たち」と題して、貴重図書「八重津家旧蔵書簡・手稿」(八重津家旧蔵資料)

と特別文庫「丹羽記念文庫」を中心に、近代文学者の書簡や原稿などを紹介した。

展示資料は第1部「近代文学者の書簡」として、芥川龍之介、巌谷小波、真山青果らの書簡な

ど10点、第2部では「近代文学者の草稿・原稿」として、高村光太郎草稿、与謝野晶子資料、

三木露風歌稿など18点である。

展示解説は清水康次 光華女子大学日本文学科教授にお願いし、「丹羽記念文庫について」の解

説文は第4回特別展示解説(中島洋一本学名誉教授)から引用した。なお、八重津家旧蔵資料に

ついては、細川正義 本学文学部教授と日本文学研究科大学院ゼミ学生に資料の判読と印刷物の

確認作業で協力をいただいた。

また、この特別展示に関連して学術資料講演会も同時に開催し、光華女子大学の清水康次教授

に「書簡資料に見える文学者たち」と題して、主に明治・大正期の作家と編集者との繋がりにつ

いて講演していただいた。

第 8 回   大 学 図 書館特別展示・学術資料講演会�

明治・大正の文学者たち�

八重津家旧蔵資料は、八重津輝勝(やえづて

るかつ、九州医学専門学校(現・久留米大学)

教授(解剖学)、1886(明治19)年~1934(昭

和9)年)の蒐集によるものであり、御子息で

ある八重津洋平関西学院大学名誉教授・元図書

館長(1996(平成8)年3月退職)によって、

1997(平成9)年10月、関西学院大学図書館に

寄贈された。近代の文学者・著名人の書簡17点

と、近代の文学者の草稿及び原稿14点からなり、

すべてが自筆の資料である。今回は、その中か

ら書簡4点、草稿・原稿4点を選び、貴重書の草

稿1点を加えて、9点を紹介し、あわせて参考資

料約20点を展示した。

資料については、今回は便宜上、形態によっ

て書簡類と草稿・原稿類とに分けて配列した

が、文学史的には、二つのグループとそれ以外

のものとに三分類することができる。

第一のグループとまとめられるものは、巌谷

小波の角田浩々歌客宛の書簡(展示№2)、江見

水蔭の八重津輝勝宛の書簡(展示№4)と葉書5

点・封筒1点、上司小剣の黒田湖山宛書簡、泉

斜汀の黒田湖山宛書簡、山岸荷葉の原稿「節分

の夜」、前田曙山の草稿「春の七草」で、硯友

社(けんゆうしゃ)系の作家にかかわる資料と

いう共通性がある。

硯友社とは、1885(明治18)年2月に尾崎紅

葉・山田美妙らが始めた文学者の集まりであっ

たが、機関誌『我楽多文庫』などを通じて大き

く発展し、1888(明治21)年・1889(明治22)

年の美妙・紅葉の文壇進出を初めとして、川上

眉山・巌谷小波・江見水蔭・広津柳浪・泉鏡

花・小栗風葉ら、多くの作家を輩出していく。

硯友社系の作家たちは、明治20年代から30年代

にかけて文壇の主流となり、紅葉・小波・水蔭

らは、それぞれに多くの門弟すなわち新進作家

たちを抱えることになる。黒田湖山・泉斜汀・

山岸荷葉・前田曙山らは、このような硯友社の

二代目の作家たちである。しかし、彼らの隆盛

の期間は長くはなく、次には自然主義の文学が

台頭してくることになり、これらの作家の多く

が進路を変え、また筆を折っていく。水蔭は、

創作の重心を探検小説などに移し、晩年は揮毫

と講演によって全国を行脚し、その途上、九州

八重津家旧蔵資料について

光華女子大学日本文学科教授

清水 康次

江見水蔭書簡

4

で八重津輝勝と親交を結んだ。小波も、口演旅

行で各地を巡遊しつつ、一方で、編集や出版の

仕事を多く手がけていく。黒田湖山は新聞社に

入社して、また、山岸荷葉は演劇界に移って、

いずれも創作からは遠ざかっていく。

ところで、明治・大正期には、作家と編集者

を兼ねる者が多く、作家が一時期新聞や雑誌の

編集を行った例は枚挙にいとまがない。夏目漱

石でさえ、『東京朝日新聞』の連載小説や文芸

欄の執筆者選びに苦慮し、各作家とのスケジュ

ールの打ち合わせに煩わされた時期があったよ

うに、作家と編集者は十分に分業されていなか

ったといえる。従って、作家が編集者に宛てた

手紙は、同業者への説明であり、言い訳であり、

アピールであるという色彩を持つことが多い。

硯友社系の資料以外にも、八重津家旧蔵資料の

中には、このようなあり方をうかがわせる資料

が多く、芥川龍之介の小島政二郎宛書簡(展示

№1)や真山青果の角田浩々歌客宛書簡(展示

№2)も含めて、作家と編集者とのかかわりの

問題を、今回の展示資料からうかがわれる一つ

のテーマと見ることができる。

八重津家旧蔵資料の第二のグループは、近代

の詩歌にかかわる資料である。

高村光太郎「小娘」(展示№5)は、時期的に

は『道程』以後にあたる1917(大正6)年制作

の詩の草稿である。「家」(展示№5)はやや後

の時期に書かれた文章であるが、文中に、1916

(大正5)年発表の詩「わが家」が引かれている。

特別展示では、1910(明治43)年4月号の『ス

バル』に掲載された「緑色の太陽」を参考資料

として置き、光太郎の変化を示した。光太郎は、

この後、さらに変化の激しい長い道のりを歩く

ことになる。与謝野晶子の資料「婦人と短歌」

(展示№6)は、従来から本図書館に所蔵してい

た資料である。光太郎の草稿・著書・雑誌と対

照させて、晶子の資料・著書・雑誌を並べるこ

とで、『明星』『スバル』から始まる詩歌の流れ

が視野に入るようにした。晶子もまた、『明星』

や第一歌集『みだれ髪』での浪漫主義から、長

い着実な道のりを歩くことになる。

三木露風の歌稿「彩雲」(展示№7)、前田夕

暮の歌稿「潮鳴」(展示№8)、尾山篤二郎の歌

稿「家の歌」、正富汪洋の詩稿「山椒にまつは

る愛着」は、車前草社(しゃぜんそうしゃ)や

雑誌『詩歌』を通じてつながりのある歌人・詩

人の歌稿・詩稿であり、関連の深いものと考え

られる。車前草社とは、尾上柴舟を中心とする、

正富汪洋・前田夕暮・若山牧水・三木露風ら歌

人の集まりであり、1905(明治38)年に始まり、

1907(明治40)年頃まで続いた。『明星』の浪

漫主義に対抗する勢力であり、自然主義歌人と

呼ばれる夕暮・牧水を世に送り出していく。一

方、露風は、1909(明治42)年、詩集『廃園』

を刊行し、短歌から詩へと活動の中心を移して

いく。

これら二つのグループ以外のものとして、芥

川龍之介の小島政二郎宛書簡(展示№1)、遅塚

麗水の角田浩々歌客宛書簡、三宅花圃の原稿

「花の趣味」(展示№9)、笹川臨風の原稿「今と

昔」、佐々醒雪の原稿「常陸の海」などがある。

芥川龍之介の書簡は、後輩の作家であり、当時

雑誌『赤い鳥』の編集にかかわっていた小島政

二郎に宛てた書簡であり、「蜘蛛の糸」「地獄変」

についての言及があり、資料的な価値も高い。

三宅花圃は、樋口一葉とも親しかった、一葉に

先立つ女性作家、すなわち近代の初頭に立つ女

性作家である。小説の執筆期間は短く、展示し

た資料は、やや後の時期の随筆であるが、花圃

は、今後より多くの注目を必要とする作家であ

るといえる。

これらの資料は、それぞれの方向から近代の

文学者に光をあてる資料である。そこに浮かび

上がる作家の横顔や時代の影、また文学の香気

を感じとっていただければ幸いである。以下の

「丹羽記念文庫について」以外の解説は清水康

次(光華女子大学)が執筆し、与謝野晶子の資

料・三木露風の歌稿・前田夕暮の歌稿について

は、太田登氏(天理大学)の助言を仰いだ。な

お、資料解説において、展示した4点の書簡に

ついては「原文翻刻」を、5点の草稿・原稿に

ついては「概要」を併記した。また、特別展示

の際に、それぞれの資料に並べて展示した「参

考資料」についても、それぞれの項に付記した。

高村光太郎草稿「小娘」

5

丹羽記念文庫について

関西学院大学名誉教授

中島 洋一

「丹羽記念文庫」は、本学院で長く財務部長

や理事として活躍された故丹羽俊彦氏の令夫

人、故丹羽安喜子氏によって集められた、近代

短歌を中心とするものである。1959(昭和34)

年、故丹羽氏より寄贈を受け、大学図書館では

これを「丹羽記念文庫」として目録も作り大切

に保管している。故丹羽安喜子氏は与謝野晶子

に師事した歌人で、『芦屋より』(1936(昭和11)

年)や『低唱』(1944(昭和19)年)などの歌

集を出し、1937(昭和12)年の「紫絃社」の創

始者でもある。

ここに集められたものは、明治・大正・昭和

の短歌を中心に三千冊近いもので、その中心は

やはり与謝野晶子と鉄幹に関するもので、晶子

全集を含め百五十冊ほど見いだされる。この外

に佐々木信綱や吉井勇関係のものもそれぞれ四

十余冊、金子薫園や若山牧水関係のものがそれ

ぞれ三十余冊等があり、歌集は三千冊近くに及

んでいる。

雑誌類では、東京新詩社の「明星」を始め、

泣菫らの「小天地」や�外の「スバル」、晶子

の関係していた「よしあし草」などの貴重なも

のを含み三十余種類に上っている。中でも「明

星」は、最近では複製本が出されているが、原

本で揃って見られるのは大変珍しく貴重なもの

といえる。

このように、この文庫は一歌人の集めたもの

である故に、そう系統だったものではないが、

それだけに現在では珍しい文献や未開拓の文献

も含まれており、今後の研究者には貴重な資料

を提供するものといえる。

※第4回大学図書館特別展示・学術資料講演会

「近代詩の展開」解説から抜粋

旧蔵書簡・手稿寄贈にあたって

関西学院大学名誉教授

八重津 洋平

このたびは新大学図書館の落成を祝い、また建

設の初期に幾分ともかかわった者として、父・輝

勝が収集した資料を寄贈させていただいた。

父のことは私が7歳の時に48歳(1886-1934)

で亡くなったので、あまり記憶に残っていない。

父は長崎医学専門学校を卒業してのち、久留米

にある九州高等医学専門学校(現在の久留米大

学医学部)の解剖学の教授を勤めた。家は久留

米藩有馬家に代々医業をもって仕えた。少年の

頃から考古学に興味を持ち、小学校、中学校時

代に暇を見つけては筑後地方の遺跡を訪ね、遺

物を探査した。やがて、家業を継ぐため長崎で

医学を学んだが、その一方で、長崎考古学会の

草創のメンバーとして、遺跡の発掘調査を行い

研究論文を発表した。こうした考古学への関心

の深さから人類学や解剖学の研究へと進んだ。

父が少年時代、もう一つ熱中したのが江見水

蔭の探検小説(『空中飛行器』『探検実記地中の

秘密』など)である。水蔭の小説は明治30年代

頃の流行で、当時の青少年の血を湧かせた。今

で言うファンレターを水蔭に送り、文通を通じ

ての交際が始まったようだ。父と水蔭とは20歳

ぐらい歳が離れているが、水蔭が後年全国を講

演しながら生計を立てていた頃、九州に来た際、

我が家に投宿されたことがある。白髪痩躯の老

人が江見水蔭という人だと父から教わり、客間

に挨拶に行ったのを覚えている。

文学は趣味として愛好していたので、その範

囲で当時の作家・歌人(巌谷小波、芥川龍之介、

高村光太郎、与謝野晶子ら)の書簡・手稿を収

集していたものと思う。資料を有意義に利用し

ていただければ幸いである。

与謝野晶子『みだれ髪』

八重津輝勝氏(右)と江見水蔭

特別展示資料解説�

6

第1部 近代の文学者の書簡

No.1 芥川龍之介書簡、1918(大正7)年5月16日付、小島政二郎宛

[原文翻刻]拝復/ 

入学試験準備で/五六日東京へ来てゐま/した

今日午後鎌倉/へ帰ります/

地獄変はボムバスティ/ックなので書いてゐて

も気/がさして仕方がありません/本来もう少

し気の利い/たものになる筈だつたんだ/がと

毎日、新聞を見ちや考/へてゐます/

御伽噺には弱りましたあ/れで精ぎり一杯なん

です/但自信は更にありません/まづい所は遠

慮なく筆/削して貰ふやうに鈴木さ/んにも頼

んで置きまし/た/

多忙は申上げる迄/もありませんけれど時々/

学校まで雑誌記者氏に/襲はれるのには恐縮し

ま/すそれが皆押しが強いの/で此頃大分一々

会つてゐ/るのが損なやうな気がし出/しまし

た/

文章倶楽部か/何かの文章観(諸家の)を/見

ると皆雨月を褒めてゐ/るでせうあれは雨月の

文/章が国文の素養のない/人間にもよく判る

からなの/です王朝時代の文章/に比べて御覧

なさい雨月/の文章などは随分土口気/泥臭味

の多い文章です/から/

序に書きますが雨月の中/では秋成が「ものか

ら」と云/ふ語を間違つて「なる故に」の/意

味で使つてゐる所が二つ/あるさうですこれは

谷崎潤/一郎氏に聞きました一つは/確「白峯」

でしたあんな/学者ぶつた男が間違つて/ゐる

んだから可笑しいでせう/

此頃高浜さんを先生/にして句を作つてゐます

点/心を食ふやうな心もちで/です一つ御目に

かけませ/うか/

夕しぶき/舟虫濡れて/冴え返る/頓首/

五月十六日/芥川龍之介/小島政二郎様

[参考資料]①芥川龍之介『傀儡師』(1919(大

正8)年1月15日新潮社発行の原本の複刻本、

1971年5月、日本近代文学館)、②『赤い鳥』創

刊号(1918年(大正7)年7月発行の原本の複刻

本、1968年11月、日本近代文学館)、③「蜘蛛

の糸」原稿(複製、『近代文学手稿100選』

所収、1994年11月、二元社)。

[解説] 芥川龍之介(あくたがわりゅうのす

け、1892年~1927年)は、「羅生門」(1915年11

月)・「鼻」(1916年2月)で登場し、1927(昭和

2)年に「歯車」「或阿呆の一生」などを残して

自殺した、大正期の花形作家であり、時代の指

標ともいうべき文学者である。物語と理知的な

認識とを結合させた初期の作品から、空漠たる

現実を表現した晩年の作品まで、多数の好短編

小説を残している。この書簡の時期は、創作活

動の高揚期にあたり、「戯作三昧」(1917年10月

~11月)「地獄変」(1918年5月)「蜘蛛の糸」

(同年7月)「奉教人の死」(同年9月)などが

次々と産み出される。『傀儡師』(かいらいし、

参考資料①)は、芥川の第三短編集であり、上

記4作品を含む11編の短編小説を収録している。

小島政二郎(こじままさじろう、1894年~

1994年)は、大正期の『三田文学』(慶応義塾

大学の文芸雑誌)から登場した小説家である。

「一枚看板」(1923年2月)ほかの短編小説、「花

咲く樹」(1934年3月~8月)などの新聞小説、

さらに大衆小説・古典鑑賞・随筆・戯曲など、

多方面に作品を残している。書簡の時期は、大

№1 芥川龍之介書簡

7

学卒業直後で、鈴木三重吉(すずきみえきち)

が童話の革新のために創刊した『赤い鳥』(参

考資料②)の編集を手伝いながら、芥川や菊池

寛と出会っていく時期である。

書簡の文中の「御伽噺」は、『赤い鳥』創刊

号のために執筆した「蜘蛛の糸」を指す。芥川

は、連載中の「地獄変」を「ボムバスティック」

と述べ、「蜘蛛の糸」についても「弱りました

あれで精ぎり一杯」と謙遜している。後輩の新

進作家であり、『赤い鳥』の編集を手伝ってい

た小島への配慮と、先輩としての姿勢が随所に

見うけられる。

「蜘蛛の糸」については、芥川が鈴木三重吉

に「筆削」を依頼していたことが文中にも見え

る。編集者である三重吉は、作品に感心しつつ

も、童話としての平易さのために、漢字をかな

に改め、パラフレーズを増やし、文章に手を入

れる。「「蜘蛛の糸」原稿(複製)」(参考資料③)

を見ると、三重吉の朱筆での訂正をたどること

ができる。

No.2 巌谷小波書簡、1905(明治38)年6月1日付、角田浩々歌客(勤一郎)宛

[原文翻刻]御手紙拝見致し/ました御滞坂六

ケ年/遂に再び東都/文壇に御帰坐の/御計画

此際寧ろ/賛成の意を表し/ませう皇軍/ます 

大勝帝/国の大発展と共に/文壇も大々的

活/動を要する折から/斯道の驍将が/筆鋒を

新にしての/東上は正に斯界/の惰眠を覚破

し/て猶余あるの快/事と存じ升/

委細は 当 拝眉/の上 萬々 承る事/に致

し取りあへず/御返事まで/ 小波/

六月朔/ 浩々歌客大人/ 坐下

[参考資料]①巌谷小波『こがね丸』(1891(明

治24)年1月3日博文館発行の原本の複刻本、

1968年12月、日本近代文学館)、②雑誌『小天

地』(1900年10月~1903年1月)。

№2 巌谷小波書簡

[解説] 巌谷小波(いわやさざなみ、1870年

~1933年)は、硯友社の一人として作家活動を

始め、児童文学の方面に多くの足跡を残した。

『こがね丸』(参考資料①)は、初期の作品であ

る。創作以外にも、『日本昔噺』(1894年)を初

めとする多くの叢書をまとめ、「昔噺」「お伽噺」

を定着させた。また、雑誌『少年世界』ほか、

児童向け雑誌の主筆をつとめた。同時に、小波

は、硯友社のリーダーの一人として多くの門弟

をかかえた。サロンは「木曜会」と呼ばれ、会

員は、久留島武彦・黒田湖山・生田葵山ほか数

十名に及び、永井荷風や押川春浪も一時期参加

している。文壇の交友範囲も広い。

角田浩々歌客(かくだこうこうかきゃく、本

名は勤一郎、1869年~1916年)は、新聞の記

者・編集者をつとめるかたわら、評論活動を展

開した。1899(明治32)年には『大阪朝日新聞』

の記者となり、1905(明治38)年に『大阪毎日

新聞』に転じ、さらに『東京日日新聞』に移る。

一方、評論活動によって、文壇に刺激を与え続

けた。『大阪朝日』時代には、雑誌『小天地』

(参考資料②)の編集にも参加している。

この書簡の書かれた時期は、日露戦争(1904

年2月~1905年9月)の終わり頃にあたる。文中

に、「皇軍」の「大勝」とあるが、ちょうど5月

31日・6月1日の新聞には、日本海海戦の勝利が

伝えられている時である。浩々歌客は、この年

5月に『大阪朝日』を退社、8月に『大阪毎日』

に入社している(高松敏男「角田浩々歌客書誌」)

が、その間に、東京での別の就職先を探してい

たのだろうか。浩々歌客が上京の意志を小波に

述べ、それに小波が応じた書簡と考えられる。

結果的には、大阪での生活が続くことになる。

日露戦争の後、文壇は、小波の期待どおり

「大々的活動」を始め、漱石・ 外・藤村らが

活躍することになるが、小波や浩々歌客は、そ

の「活動」の担い手とはなれなかった。

く�

8

No.3 真山青果書簡、1910(明治43)年10月1日付、角田浩々歌客(勤一郎)宛

[原文翻刻]拝啓/未だ御面晤の栄を得ず候へ

共/栄硯益御多祥恭賀この事/に奉存候時に甚

だ突然紹介/の状も無くかゝる事を御願申上/

ぐるは失礼の甚しき事に候へども/御面識の栄

を得ざりしため却つて/御願申すにも又御断り

下さるにも/都合よろしと存じ故と紹介状も/

無く突然御願申上ぐる次第に/御坐候と申すは

外ならず候へ共/一度御紙に小説を書かせて頂

く/訳には参り不申候哉実は一度/骨を折りて

一般読者に悦ばれる/やうなものを書いて見た

しと存申/居候処恰好の腹案も出来候 まゝ

/甚だ押売がましく御願申上げる/次第に御坐

候回数は八十回前後/のものに御坐候自分より

申上ぐるも/変なものに候へ共小生は元来種々

の/風評ある人間に候へば斯如く御願/申上候

へば或ひは金がほしさの濫作/と思召されんこ

と口惜しく候へども/実は決して然やうの次第

にては無之候/若し都合よく行けば来夏あた

り/少しく遠くに遊学いたし度存申候/に付き

その準備も今より少々宛/なりとも致し度且つ

はその遠遊中/の学資として彼地に より 一

般読者/に向くやうなものを時々書いて見度

く/その為め真面目に研究して/創作いたした

しと存申候今度もし/相応の読者を引くを得候

はゞ後々/また御願申上げることを得んが/希

望にて多少自信あるものをば/有力なる御紙に

て発表致度と/存ずる次第に御坐候勿論斯日/

を何時と御願致す訳には無之/候へ共出来る事

ならば至急/書かして頂きたいのに御坐候/

何分にも突然一面識も無き/貴下へ御願申上ぐ

るのに候へ共/決して後々御迷惑を掛け候やう

の/事は誓つて無之候申過ぎる/言には候へ共

作品にも多少の/信ずる所ありて御願申上ぐ

る/次第に御坐候御聴許被下候はゞ/幸福この

上なしと存申候先は/失礼を顧みず御願まで如

斯/に御坐候/

陰晴不定の時候柄折角/御自愛祈り上げ候/

匆々不具/

九月三十日/ 真山 彬/ 角田勤一郎先

生/ 侍史

[参考資料]真山青果『平将門』(1925(大正14)

年3月12日、新潮社)。

[解説] 真山青果(まやませいか、1878年~

1948年)は、自然主義の小説家として活動を始

めるが、のちに劇作家に転じた。明治40年代に

は、「南小泉村」(1907年5月)など客観的な描

写の小説を書くが、1908(明治41)年・1911

(明治44)年の二度、原稿の二重売り事件を起

こし、激しい非難を浴びる。彼の作品を掲載す

る雑誌はほとんどなくなり、青果は、1913(大

正2)年以降、新派演劇の戯曲作者として再起

をはかり、その後、『元禄忠臣蔵』(1934年~

1941年)ほか、多くの優れた戯曲を残すことに

なる。『平将門』(参考資料)は、『真山青果戯

曲集』の第一編として刊行されたものである。

この書簡において、青果は、当時『大阪毎日

新聞』の学芸部長であった浩々歌客に、「突然

紹介の状も無く」、この手紙を送り、新聞の連

載小説を執筆させてくれるように頼んでいる。

この前年の「四十二年初頭の告白」(『読売新聞』、

1909年1月1日)において、青果は、「僕は随分

世間に非難の多い男である。(中略)二重売り、

代作、放語、罵倒、絶交。なるほど為ました」

と述べている。この書簡の「小生は元来種々の

風評ある人間に候へば」ということば、また、

「決して後々御迷惑を掛け候やうの事は誓つて

無之候」ということばなどには、青果の置かれ

ていた状況がよく現われており、必死の嘆願の

様子が伝わってくる。しかし、結果的に、この

願いは希望通りには実現していない。翌1911

(明治44)年、青果は、再び原稿の二重売り事

件を重ねることになる。

No.4 江見水蔭書簡、1934(昭和9)年3月17日付、八重津輝勝宛

[原文翻刻]どうも変だと思ひました/あまり

にお便りがないので/もしや学校の方がお忙し

いので/さう思ふだけで/御病気とは全然考へ

№3 真山青果書簡

9

ませんでした/しかしどうも不安なので/武藤

先生におたづねしやうか/とまで思つてゐまし

た/近ければ飛んで行つて御見舞申上げる/の

ですが/あまりに遠いのみならず/実は全集六

巻の/苦作中で・・・・・/

あまりくだ   しく申上げて/又お熱が出る

とイケませんから/単なる御見舞いにのみ留め

ておき/追々の御快癒につれて/おなぐさみに

もなる音信を/致したく存じます/

別便にてホンの御見舞のしるしに/粗果を送り

ました/ボツ めし上つて下さい/

幾重にも御自愛を祈ります/家内よりも/くれ 

もよろしくと/御見舞申出でました/

昭和九年/ 三月十七日 江見水蔭/ 八重

津先生/ 御病床へ

[参考資料]江見水蔭『硯友社と紅葉』(1927

(昭和2)年4月3日、改造社)。

[解説] 江見水蔭(えみすいいん、1869年~

1934年)は、小波と同様に硯友社のリーダーの

一人として活躍し、門下生をかかえ、サロンは

「江水社」と呼ばれた。水蔭は、「女房殺し」

(1895年10月)・「炭焼の煙」(1896年1月)な

どの短編小説で好評を博するが、明治30年代以

降は探検小説・大衆小説に重心を傾けていく。

その時期の「空中飛行器」(前篇・後篇、1902

年2月・3月)「探検実記 地中の秘密」(1909年

3月)などの多くの作品は、質の高いものでは

ないが、少年たちに歓迎された。昭和期には、

『硯友社と紅葉』(参考資料)・『自己中心明治文

壇史』(1927年10月)などの回想記を著した。

晩年は、揮毫と講演の旅行にあけくれ、旅の記

録である『水蔭行脚全集』(全8巻)を記した。

本資料の蒐集者である八重津輝勝は、少年時

代、熱烈な水蔭のファンであったという。年代

的に、明治30年代の探検小説などを多く読んだ

と思われるが、その愛読は、輝勝少年がやがて

「解剖学」「人類学」の研究を志すきっかけの一

つとなったのかもしれない。後年、輝勝は、九

州旅行の途上の水蔭を歓待し、水蔭は八重津家

に宿泊したという。その後、二人の親交は続い

たと思われる。この書簡は、当時病を得ていた

輝勝に対する、水蔭の見舞いの手紙である。文

中に「全集六巻」とあるのは、『水蔭行脚全集』

の第6巻を指すと考えられる。八重津輝勝は、

この年11月12日に亡くなる。そして、見舞い状

を出した側の水蔭も、この年11月3日に、松山

市の旅館で没している。

No.5 高村光太郎草稿「小娘」・「家」

[概要]400字詰原稿用紙(20字10行2面)2枚・

同4枚。

[参考資料]①高村光太郎『道程』(1914(大正

3)年10月25日抒情詩社発行の原本の複刻本、

1968年9月、日本近代文学館)、②『道程』改訂

本(1940(昭和15)年11月20日、山雅房)、③

高村光太郎「緑色の太陽」(雑誌『スバル』

1910(明治43)年4月号)。

[解説] 高村光太郎(たかむらこうたろう、

1883年~1956年)は、彫刻家であり、詩人であ

る。アメリカ・ヨーロッパに留学し、西洋的な

芸術家の自我にめざめ、帰国後、日本の旧弊さ

の中で苦しむ。『スバル』1910(明治43)年4月

号に、評論「緑色の太陽」(参考資料③)を発

表し、個性的な自我の解放を訴えた。本格的に

詩作を始め、1914(大正3)年、長沼智恵子と

結婚し、詩集『道程』(参考資料①)を刊行し

第2部 近代の文学者の草稿・原稿

№5 高村光太郎草稿「小娘」(右)

№4 江見水蔭書筒

く�

く�

く�

10

た。その後、智恵子との生活と彫刻に専念して

いくが、1931(昭和6)年頃から、智恵子は精

神に変調をきたし、1938(昭和13)年没する。

1941(昭和16)年、詩集『智恵子抄』を刊行す

る。戦争中には戦争協力の詩を制作し、戦後、

「暗愚小伝」において、自己の人生を悔恨を込

めて振り返っている。近代の日本の進路をもっ

とも厳しい形で体現した芸術家といえる。

『道程』は、光太郎の第一詩集であり、自我

が高調した声を響かせている。この後、光太郎

は詩作から遠ざかり、『智恵子抄』まで新たな

詩集はない。ただし、この間に、『現代詩人全

集』第9巻『高村光太郎・室生犀星・萩原朔太郎

集』(1929年10月)が刊行されており、また、

『道程』の詩編を削り、「道程以後」・「猛獣篇時

代」の詩編を加えた、改訂本『道程』(参考資

料②)が刊行されている。この草稿にかかわる

詩「わが家」・「小娘」は、いずれも改訂本『道

程』において増補された「道程以後」の詩編で

ある。

草稿「小娘」は、1917(大正6)年に制作さ

れた詩「小娘」の草稿であり(掲載誌は未詳)、

改訂本『道程』収録の本文との間に、細部的な

異同がある。

草稿「家」は、1921(大正10)年5月に発表

された「家」の草稿である(掲載誌は未詳)。

のちに随筆集『美について』(1941年8月)に収

録されている。ただし、草稿では、後半部分に

「五年前に書いた私の詩一篇」が書かれている

が、定稿では削除されている。この「詩一篇」

は、1916(大正5)年10月に雑誌『感情』に発

表された「我家」にあたり、のちに、一部分が

削除され、「わが家」として改訂本『道程』に

収録されている。

No.6 与謝野晶子資料「婦人と短歌」

[概要]400字詰原稿用紙(20字10行2面)2枚

(筆跡は与謝野寛の代筆と思われる)。

[参考資料]①与謝野晶子『みだれ髪』初版

(1901(明治34)年8月15日、東京新詩社・伊藤

文友館)、②『みだれ髪』訂正3版(1904(明治

37)年9月5日、杉本書店・金尾文淵堂)、③

『みだれ髪』4版(1906(明治39)年10月1日、

杉本書店・金尾文淵堂)、④雑誌『明星』(第1

次、1900年4月~1908年11月)。

[解説] 与謝野晶子(よさのあきこ、1878年

~1942年)は、与謝野寛(よさのひろし、鉄幹)

の創始した東京新詩社に入会。機関誌『明星』

(参考資料④)に多くの短歌を発表し、それら

の歌をまとめて、1901(明治34)年8月、第一

歌集『みだれ髪』(参考資料①)を刊行する。

若々しい情熱や感情をストレートに、また絢爛

に歌い上げ、ロマンチシズムの新しい旗手とし

て注目を浴びた。晶子は、この年六月、家を出

て上京し、与謝野寛との恋愛を貫き、10月結婚。

11人の子供を産み育てることになる夫婦生活を

始める。

『みだれ髪』は、3版(参考資料②)におい

て改訂が施された。丹羽記念文庫には、初版・

3版・4版(参考資料③)が所蔵されている。晶

子の歌集・詩歌集・歌文集は、共著も含めると

生涯に20冊以上にのぼり、歌風は徐々に変化し

ていく。また、随筆・評論集は15冊を刊行、多

くの文章において女性の自立を訴え続け、当時

の女性たちと、女性をとりまく社会に対して、

大きな影響を与えた。さらに、古典研究にも多

くの足跡を残した。日本近代の文学者の中で、

№6 与謝野晶子資料「婦人と短歌」

№5 高村光太郎草稿「家」(左)

11

もっとも現実的な形で、自己を発展させた一人

といえる。

草稿「婦人と短歌」は、『女子文壇』などの

投書雑誌に書かれた初心者向けの文章の一部で

あろうか。あるいは、講演の要旨であろうか。

掲載誌や執筆時期は未詳である。古典文学の例

を引きながら、「我国の女子の素質が文学的で

あり、殊に端的に感情を表現する短歌に適して

ゐる」とし、現代の女性にも「奮発」を望んで

いる。また、「私が歌を作つてゐる体験につい

て申述べようと思」うと記されている。ただし、

筆跡は与謝野寛の代筆と思われる。寛の代筆し

た晶子の草稿は他にも存在しており、二人の協

力関係を示している。内容的には、寛の「和歌

は婦人に適す」(1909年4月)や、晶子の「女子

と詩歌」(1920年2月)・「女子と文学」(1929

年10月)などと通じるものである。

No.7 三木露風歌稿「彩雲」

[概要]400字詰原稿用紙(20字10行2面)3枚。

[参考資料]①三木露風『夏姫』(1905(明治38)

年7月15日血汐会発行の原本の複刻本、1979年6

月、霞城館)、②露風『白き手の猟人』(1913

(大正2)年9月25日、東雲堂書店)。

[解説] 三木露風(みきろふう、1889年~

1964年)は、象徴詩の完成者といわれ、詩人と

して有名であるが、初期には、短歌活動が大き

な部分を占めていた。1905(明治38)年刊行の

詩歌集『夏姫』(参考資料①)には、与謝野晶

子の影響を受けた短歌が多く収録されている。

同年、尾上柴舟を中心に結成された車前草社に

参加し、雑誌『新声』の「車前草社詩草(詩稿)」

欄にも短歌を発表しているが、次第に詩に重心

を移す。1909(明治42)年9月、詩集『廃園』

を刊行し、北原白秋の『邪宗門』(同年3月)と

並んで注目を浴びる。彼の詩は、『寂しき曙』

(1910年11月)を経て、『白き手の猟人』(参考

資料②)で一つの到達点を迎えたといわれてい

る。また、「赤とんぼ」など童謡の作詞者とし

ても有名である。

歌稿「彩雲」は、16首の短歌を記している。

露風は、1907(明治40)年以降は本格的な短歌

活動からは遠ざかっている。この歌稿は、それ

以前の車前草社時代の詠草をまとめたものと考

えられるが、詩歌集『夏姫』収録の歌も含まれ

ており、文学的出発をめざした時期の浪漫主義

短歌の香気が感じ取れる。第6首と第10首が

『夏姫』収録の短歌であり、後者はその巻頭歌

である。そのほかには、1906(明治39)年に各

紙誌に掲載された歌群に見える短歌が多い。小

さな異同のあるものを含めると、第2首は『山

鳩』(11月)、第3首は『読売新聞』(4月)、第4

首は『国詩』(1月)、第5首は『新声』(12月)、

第8首は『ホノホ』(3月)、第9首は『新声』(1

月)、第12首は『山鳩』(9月)、第13首は『婦人

世界』(7月)のそれぞれに掲載された歌群に見

える短歌である。

No.8 前田夕暮歌稿「潮鳴」

[概要]648字詰原稿用紙(27字12行2面)2枚。

[参考資料]①前田夕暮『収穫』(1910(明治43)

年3月15日、易風社)、②雑誌『詩歌』(第1次、

1911年4月~1918年10月、複刻本、1978年7月、

教育出版センター)。

[解説] 前田夕暮(まえだゆうぐれ、1883年

~1951年)は、尾上柴舟に師事し、1905(明治

38)年の車前草社の結成に、若山牧水・正富汪

洋とともに参加する。雑誌『新声』に連載され

た「車前草社詩草(詩稿)」に短歌を発表し、

『哀楽第壱』・『哀楽第弐』のパンフレット歌

集を経て、1910(明治43)年、事実上の処女歌

集である『収穫』(参考資料①)を刊行。若山

牧水の『別離』(同年4月)と並び称され、自然

主義歌人として注目された。1911(明治44)年

4月、短歌雑誌『詩歌』(参考資料②)を創刊。

尾山篤二郎らが参加し、三木露風も時々寄稿し

た。その後、歌集は、『陰影』・『生くる日に』

と続く。

歌稿「潮鳴」は、10首の短歌を記している。

夕暮は、『哀楽』以前の習作時代において、膨

大な量の短歌ノートを作っており、『前田夕暮

№7 三木露風歌稿「彩雲」

断続的に連載された。増補されて、1909(明治

42)年4月に服部書店から『花の趣味』として

刊行。内容は、「ゼラニウム」「クローカス」

「梅」など26章からなり、それぞれの花につい

て、育て方、楽しみ方、伝説や詩歌の紹介など

を記している。趣味的で文学的な随筆であり、

英文の詩と翻訳を掲げるなど、西洋的な教養の

香りがある。この資料は、『日本及日本人』第

455号(1907(明治40)年3月15日発行)に掲載

された「ヒヤシンス」の章の原稿と、第461号

(同年6月15日発行)の「アマリリス」の章(こ

の回は本文に章題がなく、単行本による)の原

稿である。

12

全集』第1巻(1972年7月)には、当時のまとま

った歌稿がいくつか収録されている。その中の

「夕陰草」と題された歌稿(1906年~1907年、

計473首)に、この「潮鳴」の10首のうち、最

初の短歌(「君が国へ……」)を除く9首が含ま

れている。『前田夕暮全集』の「解説」(香川進)

には、「歌稿として一冊にまとめられているも

の」のほかに「散発的にのこっているもの」も

あると記されているが、この歌稿も、当時作ら

れた、「散発的」な歌稿の一つと考えられる。

自然主義的な歌風を確立する以前の夕暮をうか

がわせるものである。

No.9 三宅花圃原稿「花の趣味」

[概要]540字詰原稿用紙(27字20行)7枚・原

稿用紙の断片(19字7~19行)9枚。

[参考資料]田辺花圃『藪の鶯』(1888(明治21)

年6月10日、金港堂)。

[解説] 三宅花圃(みやけかほ、1868年~

1943年)は、旧姓は田辺、本名は龍子。1888

(明治21)年、坪内逍遙の校閲を経て『藪の鶯』

(参考資料)を刊行、新しい女性作家として注

目を浴びる。「藪の鶯」は、逍遙の「当世書生

気質」(1885年~1886年)に触発されて書かれ

た小説である。また、中島歌子の萩の舎塾で、

花圃と同門であった樋口一葉に、小説家になる

決心させた作品ともいわれている。その後、

「八重桜」(1890年4月~5月)などを発表するが、

小説の執筆期間は短い。1892(明治25)年、三

宅雪嶺(みやけせつれい)と結婚し、以降は随

筆・評論がほとんどとなる。花圃はまた、歌人

でもある。

「花の趣味」は、雪嶺編集の雑誌『日本及日

本人』の1907(明治40)年1月15日発行の451号

から1908(明治41)年7月1日発行の487号まで、

№8 前田夕暮歌稿「潮鳴」(左)

№9 三宅花圃原稿「花の趣味」

清水 康次(しみず やすつぐ)光華女子大学日本文学科教授。専攻は日本近代文学。芥川龍之介・志賀直哉・夏目漱石の作品が研究の中心。近代文学の書誌についても調査している。著書に『芥川文学の方法と世界』(1994、和泉書院)がある。

13

学 術 資 料 講 演 会 要 旨 �

書簡資料に見える文学者たち�

光華女子大学日本文学科教授

清水 康次

今回展示されている4点の書簡をきっかけにして、その周辺を調べながら、生身の作家や、明治・大正という時代に向かって、目を凝らしてみたい。まず、№4の江見水蔭の八重津輝勝宛書簡につい

て見ていきたい。この書簡に現れている輝勝への水蔭の思いやりは、二人のどのような関係から生じて来るのだろうか。水蔭は、晩年の講演と揮毫の旅の記録を『水蔭行

脚全集』として出版しているが、第5巻『楽行脚苦行脚』(1934.1)には、1933(昭和8)年の九州旅行の様子と、輝勝の援助が記されている。それによると、輝勝は、直接間接に途上の講演の準備を整えてやり、また、九州入りした水蔭を鳥栖駅まで出向いて歓迎している。水蔭の講演旅行は、決して優雅な旅ではなく、生活のかかった仕事である。当時、水蔭は、税金滞納で家屋を差し押さえられ、旅費なしで出発している。予定された講演をこなし、講演料をもらうことで、はじめて旅が続けられ、食べていける。そういう旅である。そのような仕事のお膳立てをし、出迎えてくれる輝勝に、水蔭がどれほど感謝し信頼をよせたかは容易に想像できる。また、八重津家旧蔵資料の中の1933(昭和8)年10月14日付の葉書は、水蔭が東京を発つ前日に出されたものであり、旅行の予定と、輝勝への感謝を記している。明治・大正期は、作家が、小説を書くことだけで

生きていける時代ではなく、生活費の確保に努力が必要な時代であった。まして、水蔭のように文壇の動きから取り残された作家であれば、生計を立てていくことは容易ではなかったのである。水蔭の輝勝への感謝が、病床の輝勝への思いやりにつながる。そのような文学者と援助者の心の交流に、明治・大正という時代の持つ一つの側面がうかがわれる。

* * *№1の芥川龍之介の書簡には「地獄変」への言及

がある。「地獄変」は、『大阪毎日新聞』の夕刊に1918(大正7)年5月1日から22日まで連載され、また、『東京日日新聞』に5月2日から22日まで連載された。『大阪毎日』は、1911(明治44)年に『東京日日』と合併し、以降『東京日日』は『大阪毎日』の東京版というべき新聞となるが、紙面はまったく異なる。『大阪毎日』と『東京日日』は、この時代、別々に

編集され印刷された、別の新聞である。『大阪朝日』と『東京朝日』の関係も、これと同様である。新聞と作家とのかかわりについては、夏目漱石が

『朝日新聞』に入社したことが有名である。漱石は、小説執筆の義務とひきかえに、新聞社から給料を受け取るのだが、このように客員として新聞社へ入社する作家は、当時少なくなかった。作家が、原稿料や印税だけでは食べていけない時代であったから、このような専属契約を望んだわけである。漱石に最初に入社を打診したのは『大阪朝日』であったが、この提案には関西に住むことという条件があり、次に、『東京朝日』が入社を打診し、話がまとまる。漱石は、1907(明治40)年の入社第1作の「虞美人草」以降、おもな作品を両『朝日』紙上に発表し、『朝日』の連載小説は飛躍的に充実していく。しかし、漱石は、小説を書くだけではなく、小説

欄のスケジュールを整える仕事や、「文芸欄」に記事を依頼するという仕事、つまり編集者としての仕事も行っている。1909(明治42)年11月20日付の永井荷風宛の書簡、1910(明治43)年6月5日付の武者小路実篤宛の書簡などから、漱石の編集者としての仕事ぶりがうかがえる。明治・大正期には作家と編集者を兼ねる者が多

く、作家が新聞や雑誌の編集を行った例は数多い。八重津家旧蔵資料には、そのような作家と編集者のあり方を考えさせる資料が多く、今回は新聞を舞台として、その問題を追いかけてみたい。芥川の場合、『大阪毎日』の学芸部長であった薄

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田淳介(泣菫)との関係が興味深い。泣菫は、明治30年代の代表的な詩人であるが、行き詰まり、1912(大正1)年『大阪毎日』に入社し、編集に従事する。1915(大正4)年、『大阪毎日』は夕刊の発行を始めるが、泣菫は、夕刊の紙面に新味を出すため、新進作家であった芥川に小説の執筆を依頼する。芥川がそれに応じて「戯作三昧」を連載するところから二人の関係が始まる。芥川の泣菫宛の書簡は、全集に49通収録されているが、そのいくつかを見ていきたい。1918(大正7)年2月13日の書簡は、泣菫が芥川に

『大阪毎日』の「社友」にならないかと打診し、芥川が応じたものである。「地獄変」は、この「社友」時代の作品である。翌年1月12日の書簡では、今度は芥川の方から、「社員」にしてくれないかと申し入れている。創作への集中と、生活の安定とを得るために、芥川は客員としての入社を希望し、泣菫がそれに応える。しかし、入社後の芥川の連載小説はなかなか成功せず、「路上」「素盞嗚尊」など、長編を構想しては失敗していく。そんな中、大正10年に、芥川は、『大阪毎日』の取材旅行で中国へ行き、「上海游記」「江南游記」などの紀行文を書くことになる。このあたりになると、新聞社の客員となったことが、かえって芥川を苦しめてくるが、旅行の支度や、中国で発病した際の連絡など、常に頼れるのは泣菫であった。二人の関係の根底には、文学者同士の敬意がある。1917(大正6)年10月27日の書簡には、詩人としての泣菫に対する芥川の敬意がよく現れている。泣菫も、自身が詩人であり、詩が書けなくなった者であるからこそ、書けない芥川をかばい、見守り続けたと考えられる。この時代、多くの文学者が編集の仕事にかかわる。それぞれの分業が進んでいないのであるが、そうであったからこそ、両者の間に深い心の交流が生まれたともいえる。№2・№3の書簡の受取人である角田勤一郎(浩々歌客)は、この泣菫と並べて見ることができる人物である。彼も、新聞の編集者であると同時に、文芸評論を書き続けた文学者である。さらに、『大阪毎日』において、浩々歌客は、泣菫の少し前に学芸部長を務めている。その期間(1909年5月から1911年7月まで)の『大阪毎日』の連載小説を見てみると、それまでとは少し違う作品として、1910年の広津柳浪「お小夜」、1911年の高浜虚子「朝鮮」などが目を引く。浩々歌客は、編集者として、これらにかかわったのだろうか。最近の古書店の目録には、浩々歌客宛の書簡がいくつも見えるのだが、その中に広津柳浪と高浜虚子の書簡を見つけることができた。いずれも、それぞれの連載小説にかかわる書簡と思われ、そこに浩々歌客の編集者として仕事が浮かび上がってくる。№3の真山青果の浩々歌客宛の書簡

も、ちょうどこの時期の書簡であり、こうした調査を積み重ねていけば、編集者としての浩々歌客の姿が、やがては見えてくると思われる。

* * *最後に、芥川書簡にかかわって、「蜘蛛の糸」の

本文の問題について述べておきたい。芥川の「蜘蛛の糸」の原稿は、鈴木三重吉の訂正

を経て、『赤い鳥』に掲載される。№1の書簡にも記されているように、訂正は芥川の方から依頼したものであった。ところが、三重吉の下で『赤い鳥』の編集にあたっていた小島政二郎は、三重吉の訂正を自分の編集者としての失敗のように後悔し続け、芥川の没後刊行された昭和2年本の『芥川龍之介全集』において、「蜘蛛の糸」の本文を原稿の形に戻している(同全集『月報』1927.12)。しかし、芥川は、「蜘蛛の糸」を『傀儡師』『沙羅

の花』『芥川龍之介集』という3冊の本に収録しているが、いずれも三重吉の訂正を受けた『赤い鳥』の本文で収録しているのである。また、後に『赤い鳥』に発表された「杜子春」の文体は、三重吉の訂正を受けた後の「蜘蛛の糸」の文体に似ている。芥川は、三重吉の訂正した後の本文を、自分の作品と認定したと考えられるのであり、小島が「蜘蛛の糸」の本文を原稿に戻したことは、芥川の意志とは反する、いきすぎた校訂と考えられる。ただ、ここには本文についての複雑な問題が提出されているのであり、もっと多くの調査や研究がなされるべきであろう。以上、3つほどの問題を見てきた。いずれも、4点

の書簡をきっかけにして、その周辺をめぐりながら、作家や作品や、明治・大正という時代を捉えようとしたものである。見てきたものをあえてまとめるとすれば、それは、文学者と援助者の間・文学者と編集者の間にあったビジネスライクではない心の交流、一種過剰な信頼関係の存在とまとめられるかもしれない。(文中No.1~4は「特別展示資料解説」を参照)

談会�座� 「知的緊張感」と大学図書館�-教育・学習活動の活性化とその役割-�座�談会�ZADANKAIZADANKAI

また、学部長会での要請もあり、99年4月か

ら開館時間を1時間延長しました。平均する

と上ヶ原では午後10時の閉館時に約100人が残

っていますし、神戸三田では約15人が10時ま

で勉強しているという状況です。

他に学習に関しての配慮として、大学要覧

に掲載されるテキストの整備、講義に直接関

係する図書を各先生に推薦していただく指定

図書制度などを行っています。この指定図書

制度は99年度で全体の7.1%くらいしか利用さ

れていませんので、授業を活性化するという

点では、実績が上がっているとは言えないで

すね。

利用者に関しては、話し声など館内の騒がし

さが最近問題になっています。多い時には1

万人を超える学生が入館して利用しているの

ですが、行儀のよい学生ばかりとは言えませ

んので、夏などは地下階が静かで涼しいもの

ですから、昼寝をしたりする者がおりまして、

学習環境をどのように整えていくのかが今後

の課題です。

司会 今館長から現状について、良い点と少し

困る点を併せてご報告したのですが、学長は

「知的緊張感」という提言をしておられますね。

そのあたりを図書館の教育的役割といった観

点から、まずお話いただけますでしょうか。

15

全面開架制の大学図書館が開館し2年が経過して、図書館サービスの現状と問題点が次第に整理さ

れ始めた。また、神戸三田キャンパスでは理学部の移転や新学科設置に併せ、2001年10月から新し

い図書室を開室する計画が進められている。学長の提唱されている「知的緊張度の高い、個性的で特

色ある大学」を実現するために、大学図書館の役割はどうあるべきか。

今回は特に学部生の教育・学習活動を中心に、その役割と今後のあり方について議論いただいた。

司会 西宮上ヶ原キャンパスに全面開架式の大

学図書館がオープンして、2年が経過しました。

神戸三田キャンパスも分室が5年目を迎え、1999

年度から大学院生も在学しています。また、学

長の提唱されている「知的緊張感」のある大学

という言葉に、私たちは図書館に対する期待と

責務を感じるのですが、今回は特に教育・学習

面に絞り、今後図書館をどのように運営してい

くのが望ましいか、率直なご意見をいただきた

いと存じます。

まず最初に館長から話題提供を兼ねまして

現状の報告をさせていただきたいと思います。

丸茂 本館は座席数1700席、蔵書が約115万冊、

うち和書が65万冊、洋書が50万冊です。98年

度の貸出数は約17万8千冊、そのうち88%が学

生の利用です。全面開架制を採用しています

ので、ブラウジング効果は大きいと思います。

神戸三田分室の方は座席数177席、蔵書6万冊、

また図書室に近接してメディアラボ、メディ

アフォーラムが設置されています。分室は貸

出数2万4千冊で、同じく88%が学生への貸出

です。両キャンパス間には毎日1便シャトル

バスが運行し図書・資料を運んでいますが、

最近は神戸三田から上ヶ原に来て利用する学

生がかなり増えていて、98年度で月平均750人

の総合政策学部生が本館を利用しています。

出席者:今田 寛(学長・文学部教授)

丸茂 新(大学図書館館長・商学部教授)

Ruth M. Grubel(社会学部教授)

竹本 洋(経済学部教授)

天野 明弘(総合政策学部教授)

司会/阪倉 篤秀(大学図書館副館長・文学部教授)

図書館は「?」を「!」に変える場

今田 大学というところはたくさんの「?」

(疑問符)が、たくさんの「!」(感嘆符)に

変わる場であってほしいというのが私の理想

です。多くの疑問が、ゼミや授業を通して与

えられ、あるいは学生自身の内部から生じる。

そして学生はそれぞれ課題を持って図書館に

来て、自らで解決して、疑問符を感嘆符にす

る喜びを得る。その繰り返しがあちらこちら

で並行して行われている場が大学であり、そ

ういう意味では、図書館は知的喜びとの出会

いの場だと思っています。

知的緊張感というと、張り詰めたゆとりの

ない状態ばかりを想像されるかもしれません

けれど、疑問が解け、感嘆符が生まれる瞬間

の喜びも含め、知的な営み全部が知的緊張感

であって、この緊張と弛緩を大学の4年間に

繰り返し経験することで、人は成長していく

のだというイメージが私にはあるんです。

竹本 となると、疑問符から感嘆符へのダイ

ナミズムに我々教師側がどのように関わるか

ですが、私は授業では意識的に教科書を使わ

ないようにしています。自分の言葉で自分の

勉強したことを伝え、「この授業で僕は正解を

話しているつもりはない、自分はこう考える

が異説はたくさんあるだろうから、図書館に

行って異なる意見の書いてある本を見つけて

くるように」と繰り返し言います。大学は高

校までと違って、教師は正しいことだけをし

ゃべるものだという前提はありませんから、

図書館はそれを検証する有力な場の一つだと

思います。

16

Grubel 図書館を利用することで、自立して自

分で学び続ける方法を身につけてほしいという

のが、私が一番に学生に望むことですね。授業

の中では私達が「?」(クウェスチョンマーク)を

作りますが、卒業して社会に出ると、「?」は色

んなところから発生するはずです。だから、た

だ知っていることを学生に教えるんじゃなくて、

学ぶことのうれしさを知ってほしいし、学ぶた

めにはどのようなやり方で調べればいいかを分

かってほしいんですね。図書館にはサポートを

してくれる人もいるし、世界中の本があり、イ

ンターネットも使えば、本当に世界が自分の手

のひらの中に入るぐらいの力が持てるのです。

それをまず知ってもらいたいですね。

天野 私自身はアメリカで、図書館は大学の

アクティビティの中核として「?」を「!」

に変える場所だという強い印象を持ちました。

その点上ヶ原キャンパスの本館は全体のロケ

ーションからも非常にいい形にでき上がって

いて、キャンパスの誇れる資産ではないかと

思いますが、ただ現実の話に戻りますと、私

は神戸三田キャンパスにいますので、分室の

蔵書数の少なさがやはり気になります。

ただ、分室ではメディアフォーラムやメデ

ィアラボが近接して設置されていて、あれは

成功でしょうね。課題をする時にはビデオや

CD-ROMなどの情報媒体も一緒に使える。実

際学生は全部混ぜて使ってレポートを書いて

います。総合政策学部では新入生に情報学習

を必修で教えていて、全員がインターネット

を使いこなせるので、メールで色んな人と相

談や意見交換も効率的にやっています。英語

教育の手助けとしても効果的で、既製品のビ

デオの他に学部の授業風景をそのまま録画した

ものもあって、授業がわかりにくかった時はそ

今田 寛(いまだ ひろし)

学長。文学部教授。専攻は心理学。主著に『恐怖と不安(感情心理学第3巻』(誠信書房)『学習の心理学』(培風館)がある。

Ruth M. Grubel(ルースM. グルーベル)

社会学部教授。専攻は国際関係論で、"Government Efforts to Promote International Trade:State Trade Offices in Japan"などの論文がある。

17

れを借りて見ることもできます。ですからメデ

ィアラボはいつ行っても満員で、図書とかジャ

ーナルを使うのが図書館だという従来の観念と

違い、新しい図書館のあり方として活用されて

いると思います。

司会 神戸三田キャンパスでは蔵書数やスペ

ースに不自由な部分を残している一方で、図

書とマルチメディア資料がコンパクトに納ま

っていて、学際的な学部として教育研究内容

が広がっていくのは、新しく創ってこその効

果ですね。

今の学生は指示待ち型が非常に多いといわ

れますが、指示待ち状況だからこそ、挑発して

うまく乗せてやれば乗ってくる。そういう際に

はマルチメディア教育が随分有効で、映像を見

せればすごい反応を示すんです。ところがそれ

を文字を媒体にすると反応が弱い。文字から想

像力がうまく起きてこないような現状があるよ

うに感じるのですが、どうでしょう。

天野 インターネットはマルチメディアで絵

とか写真も入りますが、基本は文字です。そ

こで情報を収集しようとすると、相当量読ま

ないと自分の求める情報は得られない。だか

ら学生は雑誌論文や本よりもずっとたくさん

読んで集めてきます。ただインターネットの

情報は玉石混淆で、学生はその判断が付きま

せんから、その面での教育をしないといけな

いでしょうね。

眠れる利用者をサポーターに

Grubel 私はテストで評価せず、できるだけ

学生にレポートを書かせるようにしています。

学期開始後1ヵ月ぐらいでテーマを決めても

らい、テーマを紹介する文章を出してもらい

ます。アウトラインと参考文献もつけてもら

います。5つ以上の参考文献をつけないとテ

ーマを選ぶこと自体ができないというやり方

です。先生方はみんな経験されたことがある

と思いますけれども、レポート提出の前の週

に「私が研究したかったテーマに対する図書

が何もない」と言う学生がいますので、ずっ

と以前から確認せざるを得ないようにしてい

るわけです。そうすると自分の考えを早い時

期に整理でき、こういう文献があってこう説

明されている、では私もどういうふうに分析

すればいいのかなと考えていけるんですね。

アメリカでは毎週何か書く課題を与えていま

した。そのときはみんな文句を言うのですが、

卒業生からはそういう訓練を受けて社会に出

て行くと、書くことが楽になったし、書くこ

とで自分の意見を伝えることが上手になった

と、何度も聞きました。

それとここの図書館では、洋書と和書が一緒

に配架されている点が大変いいと思いますね。

学生が本を探している時、英語やドイツ語、中

国語の本が同じ棚にあれば、すぐ見ることはな

いかもしれませんが、自分が真剣に勉強してい

る分野について、世界の色んな言語で研究され

ていることを肌で実感できるはずです。

丸茂 両キャンパスとも蔵書は和書、洋書が

だいたい半分ずつなのですが、貸出図書の約

96%は和書なんですね。つまり洋書が学部生

にはおおよそ使われてないんです。ゼミや授

業のあり方にも関わるんですが、この半分寝

ている貴重な文献をうまく利用していく手は

ないかなとよく思いますね。

今田 確かに100万冊を超える蔵書があるとい

うことと、それを活用する方法を持つという

ことは別問題ですね。所蔵するものが充分に

活用されるのが望ましい姿ですが、それには

各先生方が授業を通して、図書館に眠る財産

を起こすための努力や工夫をしていただくこ

とが必要でしょう。

アメリカの大学で講義を受けると、大量にリー

ディングアサイメントのリストが出ますね。必読

図書にはアスタリスクが2つ、読んだ方がよいも

のには1つ、参考文献には何もついていない。異

説を知りなさいという一種のガイデッドツアーに

当たるやり方だと思います。今のような大衆化し

た大学の場合には、学生の能力に応じて読める範

囲も違いますので、こうしたガイデッドツアーが

必要になってくると思うんです。

司会 ところが、指定図書として複数本を用意

する制度はあっても、先生方の利用率は高くな

い。図書館としては門戸を開けているのに球が

帰ってこないというのが実状なんですね。

天野 学生に課題を出して添削を返すという

風にすれば借りるんですよ。総合政策の先生

方は色々工夫をなさっているんですが、授業中

にたくさん課題を出すんですね。その課題と

いうのはもちろん授業にも関係していますが、

図書館へ行って調べないと答が分からないよ

うな性質のものです。また、ある時は本を何

18

冊か指定してその中から探して来いというよ

うな課題も出しておられます。そうすると一

時期図書館は大変混雑して、館員の方は迷惑

されるんですが、学生は喜んで調べものをし

て課題を出してくる。ちょっと違う使い方を

なさっている先生は、ディベートをさせてお

られます。1年生の小演習あたりで、自分の

意見はひとまず置いて、賛成の意見を探して

来なさいと。そうするとそういう意見の書い

てある本を探して読まなければいけなくなり

ます。それからもう一人はライブラリープロ

ジェクトとして、授業時間の一部に組み込ま

れているのですが、そこではご自身では学生

に教えず、要するにクウェスチョンマークば

かりを出す。それを図書館へ行って何でもい

いから調べて来なさい、そしてペーパーにし

て出させる。そのペーパーで中間評価をして

おられます。私なども古臭い授業の仕方をし

ていましたが、教えられてそういう手法を自

分でも取り入れようかと思っています。

司会 Grubel先生のお話でも、天野先生のお

話でも、学生をいい意味で挑発というか、自

立を促す動きをしておられるようですね。そ

れに学生が誘われて図書館に行って自立的に

動けば、それこそ図書館が知的緊張感をうま

く生かし続ける場所になるのでしょうが…。

今田 しかし、それをするには先生側の努力

が相当要るということです。私はアメリカの

大学を経験してこれは日本でやらないといけ

ないと思って帰って来たら、とてもその時間

がないんですよ。リーディングアサイメント

を出して試験をする場合、教師側は100%その

周辺資料を知って、準備しておかないといけ

ない。なのにそのための時間がないというの

が日本の大学、特に私立の大学の現状ですね。

それに準ずるようなことは専門領域ではかな

りやっているつもりでしたが、アメリカのよ

うにはいきませんね。それに加えて先日の学

術審議会答申の中にも出ていましたが、日本

では並行して履修する授業科目が多過ぎます。

従って一人一人の先生がアメリカ並みに多く

のアサイメントを課すと、学生の方もパンク

してしまう。相当の制度上の工夫と意識改革

がまず必要でしょう。

ところで、もう一つ眠っているという話で

は、学生のうち何パーセントが図書館を使っ

ているかというのも気になる点です。最近あ

る名誉教授の先生がおっしゃっていたのです

が、「朝8時半から10時くらいに座って勉強し

ている学生の眼差しを見ていると感激してし

まう、あの姿を見ただけでこの図書館を作っ

たのは成功だと思う」と。私自身も横を通っ

ただけで学生の真剣な雰囲気が伝わってき

て、体がふるえるような感動を感じたことが

ありますから。私が図書館を生かしてほしい

という思いには、その持てるものを十分に活

用してほしいという思いと、たくさんいる学

生の中でできるだけ多くの人に使ってほしい

という2つの思いがあるんです。2年生にな

ってもコンピュータで検索ができない、でも

今更聞くのも格好が悪いという学生も案外い

るようです。文献検索のオリエンテーション

など、図書館で敷居を低くする機会をたくさ

ん作っていただくことで、眠れる学生集団を

ぜひ発掘してほしいですね。

Grubel 私が関学に来てひとつ気づいたこと

なのですが、開館日とか時間が案外と限られ

ているんですね。例えば入試期間中も開いて

いませんでしょう。

丸茂 ええ、入試期間中は館員が試験監督に

出るので、開けられないんです。ただし神戸

三田キャンパスでは総合政策学部の入試日以

外は開館しています。

19

Grubel そういう事情ですか。ちょうど学生

がレポートを書いたり、定期試験の準備をす

る時期ですので、自分の手持ちの資料を読む

のであれば別の場所でできますが、学期の重

要な時期に図書館が閉まっているというのは

ちょっとどうかなと思いますね。もちろん理

由としては理解できるのですが、所によって

は24時間開いてる図書館もあります。もちろ

ん予算上や人事上の問題もありますが、とにか

く学生がいつでも、授業がない時でも利用で

きる。さらには近隣のコミュニティの方々も

使えるような図書館になればうれしいですね。

天野 学生の利用という点では、神戸三田の

学生は、卒業論文を書く時期になりますと、

圧倒的に上ヶ原の蔵書に頼るようになるんで

すね。政治社会、経済、それに最近の学生は

就職などの関係で商学系統の本もよく読むよ

うになっています。検索で上ヶ原にあるとイ

ンターライブラリーで借りますが、3年生に

なると就職の関連で上ヶ原へ来ることが多く

なりますから、来たついでに本館を使って図

書館のサポーターになるというケースが多い

んです。ただ彼らは交通費の負担が大きく、

本館のブラウジング効果の恩恵に浴せないと

いうデメリットがあります。チャーターバス

を出すようにすればその負担が軽減され、先

ほどの眠れる集団の掘り起こしにつながるん

じゃないでしょうか。

竹本 利用者は図書館のサポーターと言い換

えることもできると思います。そこで学生サ

ポーターを減らさないためには、一度図書館

へ来た人の支持を失わないことです。そうい

う面で、図書館を利用した学生がどういう不

満あるいは要望をもっているかという点に耳

を傾けることは非常に大事だと思います。先

日ゼミの2年生以上にアンケートをとったの

ですが、不満として最も多いのはパソコンの

台数が少ないということです。それに座席数

が少ない。特に試験期は朝に来て座席を占領

して、すぐにいなくなる学生がいるので、余

計に不足してくる。これはもちろんマナーの

問題にも関わるのですが、要するに学生の要

望としてコストのかかることが一杯出ている

んです。もちろん大学の教育面でのサポート

も必要ですが、こうしたコストのかかる問題

に対して図書館が投資をする際に、その立場

をサポートするのも大学の重要な支援策だと

思うのです。私立大学ですから財政が無尽蔵

ではありませんが、それでも大学における役

割の重要性を認識しあって、図書館にお金を

出すことを厭わないと言えば、一定の条件下

では無理してでも資金を投入する体制がとら

れるのではないでしょうか。そうなれば本当

の意味で図書館への組織的サポートになって

いくと思います。それがひいては学生のサポ

ーターを減らさないことにつながっていくの

ではないでしょうか。

司会 図書館もできるだけ敷居を低くして、サ

ポーターを増やそうと工夫し、多くの方に図書

館の積極的なサポーターになっていただきたい

と思っています。教員の方々が図書館を積極的

に支えようと思ってくださることは重要です

ね。そしてそれは集約すれば学長府を中心とし

て大学が図書館というものを支えていくという

ことにつながると思うのです。時には協働者と

して、そしてやはり大学の方が組織的には器が

大きいですから、そこで図書館を支えていくと

いう方向性が提示されれば、図書館としては非

常に動きやすくなるのですが…。

視覚に訴えるブラウジング効果

司会 ところで、全面開架制を導入したこと

で、ブラウジング効果が大きくなったと思う

のですが、この点はどうでしょう。

竹本 概念を変えたかどうかは別にして、本

学の図書館は大学図書館のイメージを変えた

と私は思います。私が大学院を過ごした大学

の図書館は蔵書数は非常に多かったのです

が、閉架式で書庫は真っ暗だし、埃がたまっ

ていた。どういうわけか私はそういう本ばか

り探して借り出しますので、図書館の人から

ゴキブリみたいと言われました。でもここは

20

明るくて快適で、アートもあってリラックス

できる。ゴキブリが這いまわる暗いイメージ

からは明らかに脱却していますね。しかも学

部の学生でも自由に本を探すことができるよ

うになりましたから、全面開架制の効果は大

きいと思います。

丸茂 竹本先生はゼミで『国富論』を使って

いらっしゃるとお聞きしました。最近は新し

い学生の取っ付きやすいテーマを選んで、和

書でしかも安く手に入る本を選んでゼミの授

業を行うというのが一般の風潮だと思うんで

すが、原書をお使いなのですか。

竹本 いいえ、テキストは翻訳書を使うんで

すが、現物を見せることは重要ですね。『国

富論』というのは大きな本で、表紙も現代の

ように既製品じゃなく買った人が自分の趣味

に併せて作ったとか、こんな活字で組んであ

るとか、まずは視覚に訴えるようにします。

そうするとそれだけで学生は面白がるんで

す。本当の勉強につながるかどうかは怪しい

のですが、授業アンケートではなかなか好評

で、やはりそれなりの意味があるのかなと思

っております。経済学史というある意味では

古い分野をやっておりますので、図書館で現

物を見せられるのは手っ取り早くていいです

ね。でも、19世紀以降の本ですと全面開架制

で簡単に見せることができるのですが、それ

以前になりますと貴重図書扱いになりますの

で、大教室の講義へ本を持っていくわけには

いかない。『国富論』は帙に入った日本の古

書と違い皮製でなどと説明はできても、現物

は見せられない。保存とか管理の問題との兼

ね合いがありますが、現物教育の良い方法が

見つからないかなと今は思っております。

司会 僕の研究分野などもそうなのですが、

結構まだ文字ベースなんですね。印刷された

書物に向き合うことの重要性が高い学問もや

はりあると思います。一方、神戸三田キャン

パスの例にもありましたように、電子情報を

どう組み入れていくかは、図書館にとって大

きな課題になっています。先生方の授業での

試みとの関連で、図書館が今後どういう形で

役割を果たしていくかという点で、ご意見を

いただけますでしょうか。

インターネットが変える図書館像

天野 神戸三田キャンパスでは昨年から大学

院の授業が始まりましたが、社会人大学院生

の中には、普通の修士の1年生では思いつか

ないようなテーマを取り上げる場合も多いん

ですね。社会から影響を受けている政策系の

学部ですから、社会人は自分の現場の問題を

持ってきて話をするわけです。私達もそうい

うレベルの話をしなきゃいかんという気にな

って、非常に具体的な政策を取り上げて議論

を始める。そうするとやはりインターネット

でかなりレベルの高い資料を集めないと、ア

ップトゥデートな問題で、しかも政策に関連

する議論はできないですね。インターネット

を使って英語のサイトを調べると、大変豊富

なデータが手に入るんです。そこで大学院を

過ごした米国の大学がどうかなと検索したの

ですが、驚きましたね。インターネットでほ

とんど世界中のライブラリーが手の中に入る

んです。全米に散らばっているものをネット

で検索できる。サブジェクトごとに細分化さ

れていて、学部の中の小さいサブジェクトま

竹本 洋(たけもと ひろし)

経済学部教授。最近はジェームス・スチュアートとアダム・スミスの理論と思想の比較を中心に研究。近著に『経済学体系の創成ージェームス・スチュアート研究』(名古屋大学出版)がある。

天野 明弘(あまの あきひろ)

総合政策学部教授。専攻は環境経済学・国際経済学。近著に『地球温暖化の経済学』(日本経済新聞社)『総合政策・入門』(有斐閣)がある。

21

で見ることができるんですね。懇切丁寧な使

い方が書かれていますし、わからなくなれば

この人にEメールを出しなさいとある。ホー

ムページを作りたいという学生のために、非

常に簡単ですが数ページ読めば、ともかくホ

ームページができるようなアドバイスも書い

てある。至れり尽くせりで本当に僕はよだれ

が出そうでした。それにデータベースや専門

雑誌ではそのうちのかなりの論文が現物をモ

ニターで読めるんですね。全米の大学が共通

に使っていて、ただ加入すればそのサービス

を受けられるわけです。もちろん詳しい内容

はライブラリーに登録している人でないと使

えませんが、そういうライブラリーの機能と

いうのは今後大変重要になると思います。も

ちろんプリントされたジャーナルとか本とい

うのは非常に必要ですし、専門分野によって

は必ずしも使い勝手がいいとは言えないかも

しれませんが、今後の図書館のあり方の一つ

かと思います。

丸茂 昨年東京で「大学図書館の近未来」を

テーマにした座談会に出席しました。そこで

聞いたのですが、2002年には電子情報による

サービスを念頭に置いた国立国会図書館関西

館が開館するんです。何より驚いたのは関西

館では電子情報を駆使して図書館や国民への

サービスを集中的にやろうとしており、時間

や距離を意識しないで、いつでも、どこでも、

誰でもアクセスできるようになるそうです。

竹本先生の研究対象にしておられるような特

別な図書は別にしまして、一般の図書であれ

ば、個々の大学図書館の垣根を越えて世界的

な規模で展開していく素地ができるわけです。

エレクトロニック・ライブラリー、デジタ

ル・ライブラリーあるいはヴァーチャル・ラ

イブラリー、いずれになるせよ、学習とか教

育との接点は非常に早い速度で変わっていく

と予想されます。

しかしその一方で、大学で一度ぐらいはア

ダム・スミスの『国富論』の原文を読むぐら

いの機会はあってよいのじゃないかと思いま

す。だから、そういう古典的な書物の取り扱

い方と、片方で急速に進む電子化への対応と

をいかにうまく矛盾せず統合させていくかが、

教育・研究体制を充実するためにも、図書館

にとっての大きな課題でしょうね。

天野 私は経済史は専門じゃないんですが、

私のいたロチェスター大学にロビンフッドプ

ロジェクトといって、ロビンフッドに関連し

たいろんな歴史的書物を集めて映像化して紹

介しているページがあるんです。関心のある

人はそこをアクセスすれば資料が見られます。

だから経済史関係だったら、やはり研究書と

か古いものは現物を見たいでしょうけれども、

中身ならば映像化して見ることができるわけ

です。そういうコレクションを大学が作って

いるというのが一つですね。もう一つはいろ

んな大学がしているんですが、その大学の先

生方が刊行された本を紹介するコレクション

ですね。関西学院大学出版会からたくさん本

が出るようになれば、それをライブラリーを

通して提供することも考えられるでしょう。

ジャーナルとして出す前段階として私たちが

書いているワーキングペーパーにしてもそう

です。アメリカの大学ではワーキングペーパ

ーも一般に公開されますので、それを見たい

と要求すれば、大学間のネットワークでつな

いで、アクセスできるようにしてくれる。

我々の分野ですと、経済データなどはこれま

では図書館や研究所へ行って探していました

が、今ではインターネット経由で政府刊行物

などはデータとしてそのまま手に入りますの

で、こうした資料などはもう図書館が置くべ

きものではなくなってくると思いますね。

学部を超えた教育の場として

竹本 大学図書館の可能性ということで言え

ば、天野先生のおっしゃったのは、おそらく

いかにして大学が世界とリアルタイムで結び

ついていくかというお話だと思うんですが、

丸茂 新(まるも あらた)

図書館長。商学部教授。専攻は交通経済学。大都市の交通問題を交通経済学、都市交通、環境問題の視点より研究。著書に『鉄道運賃学説史』。

私は少し視点を変えてこの関西学院という組

織の中で、大学図書館はどんな役割を果たす

べきかという非常にローカルな話をしたいと

思います。実は私は学部間の壁を教育上で破

る場というのは、図書館しかないんじゃない

かと思っております。経済学の教育を経済学

部はしますが、あくまでそれは経済学のフィ

ールドの中で教育しているわけです。例えば

学部でゼミ単位のディベートを毎年一回する

のですが、では同じテーマで文学部の学生だ

ったらどういうふうに問題をたて解答を出す

か、社会学部の学生だったらどうやるだろう

か。興味深いですね。

そこで図書館がテーマを設定し、場所や機会

を提供し、もちろん電子情報などでも図書館を

フルに利用してもらう。つまり図書館が仕掛人

になって、学部の枠を越えた全学的な教育の場

を提供するわけです。例えば図書館ホールを、

こうしたいわば学部の垣根の取れた図書館主催

の企画とかディベートなどをしたり、あるいは

学生の研究発表の場として利用する方法もある

と思うんですね。持っている財産を展示するだ

けではなくて、機会を提供してやるという使い

方です。学生発案の展示をしたり、図書館にあ

る既存の企画に学生も参加してもらうとか、あ

るいはそれについての感想なり研究なりの募集

をしてみるとか、そういう意味では学部を越え

たいろんな教育が図書館の中でやれるんじゃな

いかと思っています。

今田 そうですね。図書館が主催して「大学

図書館-私の経験と将来への展望」というよう

なテーマで、懸賞論文を募集してもいいですね。

学生だけでなく、卒業生も対象にすれば、大学

の同窓への働きかけにもなります。学部から選

考委員を出してもらい、発表会は図書館ホール

ですればどうでしょう。全学的なダイナミック

な企画になると思います。テーマを変え毎年こ

うした積み重ねをすることが、教育研究に弾み

をつけることにもなり、大学への提言につなが

ればと考えるのですが…。

今日の座談会は知的緊張感ということで始

まりましたが、ゆとりもなく張り詰めっぱな

しでいなさいと私は言っているわけじゃない

のです。バランスが大事で、いい意味で「よ

く学び、よく遊べ」なんです。快適性と知的

緊張感があってこそ、遊びも面白いんですよ

ね。遊びというのは学びがあって引き立つも

22

のだし、学びは遊びがあって引き立つ。アメ

リカの大学はものすごく勉強させますけれど

も、週末になると学生は思いっきり遊ぶんで

すね。留学中に週末によく聞いた“Have a

nice weekend!”という言葉が印象的ですね。

さっきも言いましたが、知的緊張感という言

葉はシンボリックですが、躍動的な喜びを伴

うものだと理解していただきたいと思います。

今は情報の洪水の時代です。私が学問を始

めた頃は、検索も研究の方法ももっと選択肢

が少なく、自分のターゲットとする情報にス

ーッと行き着くことができたように感じま

す。ある意味では学生は昔よりずっとしんど

い状況に置かれているのではないでしょう

か。そのためにはアスタリスクのついたリー

ディングアサイメントではないですが、教員

側がある程度おおまかな示唆を学生に与える

ことも必要じゃないかと思います。遊びと学

びのバランスの取れた学生生活を送り、おお

らかに成長してほしい。そして図書館は一つ

の「知の拠点」としての役割を果たしてほし

いというのが、私の願いです。

丸茂 そうですね。ここでいただきました

様々なご指摘ご提言を、今後の図書館の運営

に生かしていきたいと存じます。特に神戸三

田キャンパス分室につきましては、理学部移

転に併せて新たな規模、内容で建設計画が進

められています。メディアラボなどの利用も

含め、設備計画の参考にもさせていただき、

2つのキャンパスで互いにうまく影響しあい

運営していける方法を検討していきたいと思

います。

司会 本日はどうもありがとうございました。

阪倉 篤秀(さかくら あつひで)

司会。図書館副館長。文学部教授。専攻は東洋史学。明・清王朝期の官僚制に焦点をあて研究、近著に『明王朝中央統治機構の研究』(汲古書院)がある。

23

電子媒体の時代へ�電子媒体の時代へ�~ 最近の学術雑誌の動向 ~�

雑誌資料課長 篠崎 陽一

1.高まる雑誌へのニーズ

情報化時代といわれて久しいが、最近の情報化

の波は大学図書館にも大きな変革をもたらしてい

る。求める資料の検索手段がコンピュータ中心に

切り替わってきたこと、CD-ROMやインターネッ

トのような電子媒体で学術情報を入手できるよう

になってきたことは、その顕著な現象といえる。

それらとともに所蔵資料の中で、学術雑誌の比重

が次第に高まってきていることも、情報化のうね

りと無縁ではない。今日の社会は情報が速く、大

量に出回る環境になってきている。そのため紙媒

体においても、近年の出版界にあっては図書以上

に雑誌の出版部数の伸びが著しい。情報の内容に

新鮮さを持ち、個々の記事が適度の情報量になっ

ている雑誌は、限られた時間で多様な情報を仕入

れようとする現代人のライフスタイルに適合して

いるのであろう。学術情報においても学術図書の

出版部数の伸びに比べて学術雑誌、とりわけ学会

誌や大学紀要類の伸びは著しい。

さて、いつの時代においても知的生産のための

大いなる源は学術情報である。教員・研究者は一

方では学術情報の生産者であり、他方ではその利

用者でもある。学術情報が洪水のように日々流れ

ていく中で、教員・研究者そして学生がいかに必

要とする学術情報を選び、速く入手できるかは大

きな課題であろう。大学図書館はそれをサポート

する立場にある。大学の教育研究活動の基盤とな

る学術雑誌の選択および提供、学内で購読してい

ない学術雑誌の収録論文の確実な入手、利用者の

必要とする学術情報の調査および提供。これらは

大学図書館に求められている課題である。最近で

はその活動を支える国内の大学・学術機関のネッ

トワーク利用や海外のデータベースの利用など、

情報化時代にふさわしい環境や対応も充実しつつ

ある。しかし一方で、新たな課題も生まれてきて

いる。そこで、その課題に触れ、今後の取り組み

を考えていきたい。

2.外国語雑誌をめぐる状況

近年、学術雑誌、とりわけ外国語雑誌を取り巻く

状況には大きな変化が生じている。それは外国語雑

誌価格の慢性的な値上がりが続いている点である。

研究分野の細分化と特定分野での雑誌の序列化傾

向は、研究者による特定誌への投稿の集中化を招き、

主要誌ほどページ数が増大していると言われる。さ

らに、電子出版の設備投資を並行して進める出版社

が増加し、そのため雑誌価格は毎年10~15%近く高

騰している。

一方、本学の図書予算は前述の高騰に対応できる

ほど潤沢ではない。最近では外国語雑誌の予算は図

書予算全体の40%を超える程にまでなってきてい

る。こうした状況の中で、1998年度は円安のあおり

を受け、雑誌価格が30%アップに及ぶ事態になった。

大学図書館では今回のような雑誌価格高謄の危機

的状況に対して、書店の協力や図書館の努力ではと

ても対処できるものではない。そのため教員への外

国語雑誌必要タイトル調査に基づき、検討を行った

うえ、購読タイトルの削減に取り組むことになった。

やむなく購読を中止するタイトルについては、雑誌

情報のデータベース提供が容易に行えるように対応

措置を取ることにした。そして、313タイトルの削

24

減案が大学図書館運営委員会に提案され、了承が得

られた。この件については、教員の理解と協力を得

ることが出来たと感謝している。

1999年度は、円高の影響が雑誌価格の高騰を吸収

する形となり、価格水準は前年並みになっている。

しかし、出版社の値上げ基調は依然として変わって

いないし、今後、為替変動の影響を受けないという

保証は全くない。外国語雑誌提供の不安定な状況は

まだまだ続いていくであろう。

3.ネットワーク時代がもたらす変化

通信技術とコンピュータ技術の進展がインターネ

ットワーク社会を創造し、学術雑誌の提供にも大き

な変化をもたらしている。従来の冊子体では対応で

きなかった、「いつでも」「どこからでも」「即座に」

利用者が希望する雑誌論文の閲覧・入手が可能とな

ってきた。以下その情報源となるデータベースとオ

ンラインジャーナルについて次に述べたい。

(1)二次情報のデータベースから全文入手へ

現在、様々な学術雑誌のデータベースがある。そ

れらの多くは、雑誌論文の二次情報(論題、著者名、

雑誌名、巻号、発行年などの書誌情報や抄録)を収

録したものである。従来、紙に印刷された冊子体の

索引や抄録などを、オンラインやCD-ROMなどの電

子媒体へ切り替えによってコンピュ-タで検索でき

るようになったものも多い。また、目次集のデータ

ベース化の結果、キーワードで文献が探せるように

なったものもある。データベースは冊子体と比較し

て、大量のデータを迅速に検索できるという利点が

ある。初期のコマンド式の時間課金制のオンライン

データベースから、最近は初心者も検索しやすい操

作性を持つCD-ROMやインターネット利用のデータ

ベースが主流となってきている。

この二次情報のデータベースには、「論文そのも

の(全文情報)」までは入手できないという限界が

あったが年々改善がなされている。最近はインター

ネットのデータベースで全文情報にリンクされたも

のや、その文献の複写依頼ができるものも出てきて

いる。また、電子ジャーナルの発達は、電子媒体で

の全文提供を可能とし、学術雑誌提供で非常に有効

な手段となりつつある。利用者に一番望ましいデー

タベースの形は、複数の雑誌を一度に検索でき、最

終的に全文を図表などを含んだ形で入手できるとい

うものである。そのためには、データベースの全文

情報へのリンクや電子ジャーナルの検索機能の更な

る充実が望まれる。近年、FirstSearchのECOや

ProQuestのように、二次情報から全文情報がアクセ

スできるデータベースは、より利用者の要求に応じ

た電子的学術情報提供を可能にしつつあると言え

る。

これらのデータベースを利用する上で理想的な環

境は、いつでもどこからでもアクセスできるという

ことである。しかし、その導入には、データベース

の整備以外にも、予算、サービスへのアクセス権、

サポート体制など解決するべき問題も多い。なお関

西学院大学図書館で提供しているデータベースは別

表のとおりである。

(2)オンラインジャーナルの公開

学術雑誌に掲載された論文の電子媒体による提供

は、米国でまずCD-ROMやオンラインデータベース

(DIALOGなど)から始まり、1990年代前半ごろか

らインターネットが本格化した。現在では、学会や

雑誌記事索引(国立国会図書館)�学術雑誌�

社会風俗�

社会風俗�

教育�

文学・言語学�

人文科学�

OCLCが提供する複数のデータベー�スを含む提供サービス�

社会科学�

人文・社会科学3500誌の1990年まで�

British Library所蔵の2万タイトル�の雑誌と1.6万タイトルの会議録の提供�

産業・経済�

大宅壮一文庫雑誌記事索引�

JOINT

ジャーナルインデックス�(NICHIIGAI/WEB)�

ERIC

MLA

Humanities Index

Social Sciences Index

PCI

insideWeb

FirstSearch

(雑誌関連はArticleFirst、� ContentsFirst、MEDLINE)�

日 本�

海 外�

名  称� 内  容�

◆ 関西学院大学図書館が提供する雑誌関係データベース一覧(購入分)�

25

学術出版社が、発行している雑誌の電子版としての

オンラインジャーナルの提供に積極的に取り組んで

おり、提供されるタイトル数は急激に増加している。

欧米はもちろん我が国でも、大学図書館や研究機関

がこぞってオンラインジャーナルを導入しており、

利用者にとっても身近なものとなってきた。

紙媒体の消滅がオンラインジャーナル普及の到達

点とするならば、冊子体そのものの電子版という現

在の形態は、発展プロセスの初期の段階と位置づけ

られている。現に、出版社などがオンラインジャー

ナルに力を入れているのも、冊子体購読者の確保が

目的であるといわれている。そのため、オンライン

ジャーナルの閲覧契約は、冊子体購読者は無料か割

引価格というケースが多く、オンラインジャーナル

のみの単独契約はできない出版社がほとんどである。

このように、現在は同じ雑誌に冊子体と電子版が

共存している段階であるが、オンラインジャーナル

には顕著な特色がいくつかある。まず、電子媒体の

特性ともいうべき検索と閲覧機能がある。著者名や

論題名が不明でもキーワードから複数の論文を検索

したり、雑誌名や巻号からコンテンツを表示して掲

載論文を閲覧することが可能である。PDF表示可能

な環境のパソコンであれば、図版なども冊子体と全

く同じように表示し、ハードコピーがとれる。次に、

情報の更新の早さが挙げられる。通常、出版社は、

冊子体の発行とほぼ同時期に電子版もアップロード

しているので、取次代理店を通じて冊子体を入手す

るよりも早く最新号を読むことができる。図書館に

行かなくても研究室のパソコンから全文情報を読め

るのも魅力的であろう。

本学図書館では、1999年11月1日からオンライン

ジャーナルの提供を始めた。契約している冊子体の

うちから、出版社が無料で電子版を提供している約

200タイトルの全文情報が閲覧可能である(1999年

12月時点)。すでにアクセス可能な出版社としては、

Oxford University PressやRoutledge、Taylor & Francis

などがあるが、学術雑誌出版最大手のElsev ie r

Science社の存在が大きい。同社は、Science Directと

いう名称のオンラインサービスを提供しており、出

版している約1,100タイトルの雑誌の電子版が閲覧

できる。本学では、購読分約120タイトルに関して

全文表示が可能で、さらに未購読誌でも書誌事項お

よび抄録は無料で入手できる(ただし、2000年に限

っては未購読誌も全文表示が可能となっている)。

4. 電子媒体の動向を注視

前述してきたように、電子媒体は非常に便利な機能

と特性を持っており、特に逐次刊行物などの雑誌資料

の提供方法に高いメリットをもたらすものである。大

学図書館としては、今後電子媒体について積極的に検

討していきたいと考えている。しかしここで考えなけ

ればならないことがある。オンラインジャーナルは出

版社の開発がそれ程古いものではないため、発行年が

遡る巻号については閲覧ができない。冊子体の契約で

あれば、購読を中止した場合でもそれまでの雑誌資料

は残る。しかしオンラインジャーナルの場合は、契約

を解除するとすべての巻号が提供されないのが大半で

ある。その点を考えると、将来的には、オンラインジ

ャーナルを中心とした学術雑誌の提供が考えられると

しても、現時点ではなお、従来の冊子体提供を基本に

して、電子媒体の動向を見極めながら学術情報の提供

に取り組むのが賢明であろう。

電子媒体による学術情報の提供は、従来のILL(相

互利用)業務にも変化を与えると思われる。現在は

冊子体のコピーによる流通を行っているが、これか

らは電子情報の流通まで視野に入れる必要性があ

る。また、電子的二次情報の充実により利用者にと

って、情報入手の可能性が広がった。そのためILL

の利用者が増加することが予想される。事実、1998

年度で他館に複写依頼した件数は、前年度比10.3%

増の3,412件に上っている。ILL利用ニーズは着実に

高くなってきている。それに関連し、FirstSearchや

insideWeb等のオンラインデータベースサービスお

よびドキュメント・デリバリーサービスを、早期に

利用者が自由にアクセスできるように、環境とサポ

ート体制を整備する必要性を感じている。ネットワ

ーク環境やデータベースの進展を考慮したうえで、

利用者の利用実態やニーズに応じて、冊子体と電子

媒体の学術情報をバランスよく提供していくこと

が、今後の大学図書館の役割と考えている。

西宮上ヶ原キャンパスの大学図書館が、日本図書館協会

建築賞を1999年10月27日に受賞した。この賞は、同協会が

優れた図書館建築を表彰することにより我が国の図書館建

築の水準向上に寄与しようとするもので、1984年に創設さ

れた。

対象とする図書館は公共図書館、大学図書館、専門図書

館で、これまで受賞した大学図書館は、筑波大学中央図書

館、慶応義塾大学図書館新館(三田)、関西大学総合図書館

などである。

審査では建築的な面はもとより図書資料と利用空間そし

て利用サービス面からの総合的な判定が行われる。第15回

を迎えた今回は、多くの応募図書館の中から「豊の国情報

ライブラリー」「ブリティッシュ・カウンシル図書館情報セ

ンター」とともに本学図書館が選ばれた。

評価の概要は次のとおりである。

①キャンパス全体がスパニッシュミッションスタイルで

統一され明解なキャンパスのグランドデザインのもと

既存建物群となじみよく納まっている。

②家具やサイン、照明器具、建具ならびに仕上げ材の質

は高く、館内に統一する雰囲気は落ち着きと気品があ

り、吹き抜け上部から吊りおろされたカラフルな3枚

のバナーが、若々しさと活気をもたらしている。

③利用者に知的集積への敬意と心地よい空間体験を味あ

わせるであろう完成度の高い図書館建築である。知的

活動の場としての凛とした気品と活気との調和がうま

く計られた大学図書館らしさに満ちた図書館である。

以上、最大級の評価をいただいたが、「地下階の積層書架

の防災上の課題」「図書館リソースのデジタル化への対応、

情報化への対応」「職員の事務・作業スペースの狭隘の課題」

などに対する指摘があった。

69 2000

日本図書館協会建築賞を受賞

西宮上ヶ原キャンパス大学図書館

「気品」と「活気」を評価