齋藤竹堂 撰 鍼肓 訳註lib.hum.ibaraki.ac.jp/kiyo/humcom/humcom4/horiguchi.pdf齋藤竹堂...
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齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�三�
一
© 2008 茨城大学人文学部(人文学部紀要)
�人文コミ�ニケ�シ�ン学科論集�四号�一�一〇頁
六�八月廿七日
念七�裕卿�使子彌八爲筑波之導�一山從屋後起�頗秀�曰烽S
山�E小田氏置烽S處�今曰寳筐者訛矣�北條村有墟�北條時家
所據�曰神郡�曰碓井�路漸峭�筑波驛�在山腹�大御堂極偉
麗�稍登�喬木障天�如行綠U中�見水自石閒滴�建碑標之�曰
男女川�據廻國雜記�男女川�謂遶山麓者�是則不然也�路益
峻�大石層起�有陽峯祠�是爲絕頂�而X木掩翳�不能領其全
勝�登陰峯�西e房總之海�煙濤縹渺粘空�近之霞浦�灣環如
鏡�愈近烽S山�Y木可數�其北二山相抗�曰Z山�曰足尾山�
愈遠�日光髙原諸山�遙翠如髪�歷歷露頂�而[峯聳其上�爛然
插天�眞壯\也�南下�怪岩
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突0石0�倚0疊0攢0立0�如屋0
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�如壁0
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�如劍0
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戟0�如獅猊
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�余攀之困甚�喉閒生聲�彌八曰�奇哉石也
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�使初0
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平0
叱之0
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�當成幾頭羊
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�余曰0
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�羊則未也
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�但見0
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遊0客疲困
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�作喘月之牛
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耳0�爲之一笑
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�過石門�暗如穿洞�至稻村祠�見奇巖孤聳十丈
許�如廈屋�乃登�廣可容十數人�其\不及峯頂�而覺數州之土
壤�攢蹙在腳下�亦佳眺也�降則石頭聳而狹�如行劍背�俯瞰深
谷無底�心骨俱悚�或兩石對峙�閒絕不屬�顧無他路可循�躍而
踰之�一蹶卽]粉矣�善應寺僧嘗云�千金之子�不可攀此巖�信
然�有鐘委地�質甚古�無款�不知其爲幾千年物�相傳�撞之
則海水湧溢�故棄之不撞�左轉排^而下�老0杉0_`�聞水0
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聲0鏘0
然0�至則0
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溪0石森竪
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�流泉0
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a之0�晶然如水
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精0簾0�掬0飮0神0魂頓爽
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�晩
歸小田�裕卿曰�世傳開闢之初�b册二神�降臨此地�今祠卽其
廟也�然延喜式�但稱陽神陰神�不詳爲何神�考其名�特稱二山
之靈耳�謂爲開闢二神�係後人附託必矣�辨甚有理�山中生c�
俗云�一根百d�唯此及丹之龜山產之�然諦視之�未必然也�又
生倒捻子�瓣i四折�與日光山所產自別�
�訓読�
念七�裕卿�子弥八をして筑波の導たらしむ�一山�屋後より起
り�頗る秀づ�烽S山と曰ふ�Eし小田氏の烽Sを置きし処なり�
今�宝筺と曰ふ者は訛せり�北条村に墟有り�北条時家の拠りし所
なり�神かんごほり郡と曰ひ�碓うすゐ井と曰ふ�路漸く峭けはし�筑波駅は山腹に在
り�大おほみだう
御堂�極めて偉麗なり�稍N登る�喬木天を障さへぎ
り�緑幕の中
齋藤竹堂撰 �鍼肓錄�訳註C�三�
堀
口
育
男
[240]
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堀口
育男
二
[239]
を行くが如し�水の石間より滴るを見る�碑を建てゝ之れに標し�
男女川と曰ふ�廻国雑記に拠るに�男女川は山麓を遶る者なりと謂
ふ�是れは則ち然らざるなり�路益N峻し�大石層起す�陽峯祠有
り�是れを絶頂と為す�而るにX木掩翳して�其の全勝を領する能
はず�陰峯に登る�西のかた房総の海を望めば�煙濤縹渺として空
に粘す�之れを近くすれば�霞浦湾環して鏡の如し�愈N近くすれ
ば�烽S山�草木数ふべし�其の北に二山相抗す�樺山と曰ひ�足
尾山と曰ふ�愈N遠くすれば�日光髙原の諸山�遥翠髪の如く�
歴々として頂を露あらは
す�而して蓮峯其の上に聳え�爛然として天に挿
む�真に壮観なり�南のかたに下る�怪岩突石�倚畳し攢立するこ
と�屋の如く�壁の如く�剣戟の如く�獅猊の如し�余�之れに攀
ぢて困くるしむこと甚し�喉間声を生ず�弥八曰はく�奇なるかな石
や�初平をして之れを叱せしめば�当に幾頭の羊とか成るべき�
と�余曰はく�羊は則ち未だし�但だ遊客の疲困して月に喘ぐの牛
と作なるを見んのみ�と�之れが為に一笑す�石門を過ぐ�暗きこと
洞を穿うがつが如し�稲村の祠に至る�奇巌の孤聳すること十丈許ばかりに
して廈屋の如くなるを見る�乃ち登る�広きこと十数人を容いるべ
し�其の観�峯頂に及ばざれども�数州の土壌�攢蹙して脚下に在
るを覚ゆ�亦た佳眺なり�降れば則ち石頭聳えて狭し�剣背を行く
が如し�俯して深谷を瞰みれば底無し�心骨俱ともに悚おそる�或いは両石対
峙し�間絶えて属つかず�顧みるに他路の循したが
ふべき無し�躍りて之れ
を踰こゆ�一蹶せば即ち]粉せん�善応寺の僧嘗て云はく�千金の子
は此の巌に攀づべからず�と�信まこと
に然り�鐘有り�地に委ぬ�質甚
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齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�三�
三
だ古し�款無し�其の幾千年の物たるかを知らず�相伝ふらく�之
れを撞けば則ち海水湧溢す�故に之れを棄てゝ撞かず�と�左の
かたに転じ�^を排して下る�老杉_`す�水声の鏘然たるを聞
く�至れば則ち渓石森竪し�流泉之れにaぐ�晶然として水精の簾
の如し�掬飲すれば神魂頓に爽かなり�晩に小田に帰る�裕卿曰は
く�世に伝ふらく�開闢の初め�諾冊の二神�此の地に降臨したま
ふ�今の祠は即ち其の廟なり�と�然れども延喜式には但だ陽神陰
神と称するのみにして�何の神たるかを詳かにせず�其の名を考ふ
るに�特ただ二山の霊を称せるのみ�開闢の二神たりと謂ふは�後人
の附託に係ること必せり�と�辨�甚だ理有り�山中にcを生ず�
俗に云ふ�一根百莖なるは唯だ此こゝ及び丹の亀山にのみ之れを産す�
と�然れども之れを諦視するに�未だ必ずしも然らざるなり�又た
倒捻子を生ず�瓣葉四折す�日光山に産する所と自ら別なり�
�語釈�
○念七
廿七日�
○彌八
尉信には七男五女があつたが�木原元礼�郁子園翁墓表���
彌八がこの七男の内の誰であるかは�未詳�尉信の長孫重敏�尉敏
の子�の通称を弥一郎とするなど��弥�の字は�長島家で通称な
どに多く用ゐられたやうである�なほ�尉信の長子尉敏は�文化三
年六月六日生���長島十二代尉敏六位��文政八年�尉信の隠居に由
り�廿歳で小田村の名主職を嗣いでゐる�天保十年には三十四歳�
末子は幼名を郁平と言ひ�文政十年十月二十五日生�後に石岡の武
石家に婿養子に入り�武石信徴と称した�天保十年には十三歳�幼
くして真鍋善応寺の良哉�後の佐久良東雄�のもとで学び�後年�
�櫻東雄略伝�を著してゐる�明治三十六年歿�七十七歳��幕末
�農政学者�長島尉信とその時代�等参照�
○筑波
筑波山��新編常陸国誌�P六�山川�筑波山の条に�筑
波郡ノ北ニアリ�故ニ名トス�山足筑波�眞壁�新治ノ三郡ニ鼎
峙セリ�コヽニ云フ�新治郡ハ�古ノ茨城ナリ��頂ニ峯雙アリ�
西ヲ男體ト云ヒ�東ヲ女體ト云フ�陰陽對立シテ�坂東八國ニ秀出
ス�八國四面ヨリコレヲeムニ一ノ如シ�坂東無雙ノ名嶽ナリ�
一名見カハシ山��とあり��地名辞書�常陸�茨城�筑波郡�筑ツクバ波
山に�坂東平野の中に屹然特立し�形貌最人の視望を延くに足れ
り�故に古来世に喧称せられて�海内の名山に推さる�山頂二峰に
分れ�東西に並ぶ�馬耳の双聳に喩すべし��とある�標髙は女体
峰頂に於て�八百七十七米��山頂の石標に拠る��男体峰は�これよ
り六米程低いといふ�現在�山頂部はつくば市に属するが�山裾
は�つくば�石岡�桜川三市に跨がる�筑波山は�古来よりの神体
山であり�近世には�講組織などでの信仰的登拝が盛んに行なはれ
たが�所謂�物見遊山の登攀も多かつた�西海賢二�筑波山信仰の
展開とダイドウ講���日光山と関東の修験道��昭和五十四年七月
名著
出版�等参照�筑波山に関する近世の地誌として�亮盛�筑波山名
跡誌��安永二年自序�がある�亮盛は字を大仙と言ひ�上生庵�龍
山と号した�武蔵国入間郡山口村�現在の埼玉県所沢市上山口�観音
堂�金乗院�の住僧�他に�三社託宣一毛鈔��大黒宝囊記��東都
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堀口
育男
四
六地蔵巡礼記��坂東三十三所観音霊場記�などの著述がある�生
歿年未詳���国書人名辞典���筑波山名跡誌�は��ふるさと文庫�
�筑波書林�に翻刻�桐原光明解説�がある��平成四年六月刊�また�
秋里籬島�池田舜福��木曾路名所図会��文化元年自序�同二年刊�P
五�筑波山中禅寺の条所載の二丁�四面�にわたる插図�西村中和
画�は�筑波山一帯の精細な俯瞰図であり�近世後期の筑波山の様
子が手に取る如くに描かれてゐる�なほ�明治以降の筑波山の地誌
としては�岩上長作�筑波山��明治三十七年十月
交通世界社��杉
山友章�筑波誌��明治四十四年七月
筑波山神社�が挙げられる��共
に崙書房よりの復刻版がある��また�宮本宣一�筑波歴史散歩��昭
和四十三年六月
宮本宣一遺C刊行会�も�山中の禅定に就ての詳しい
記述がある�
○導
道案内�案内人��国語�周語中に�候人為レ
導��とある�
○一山
三ミムラ村山を指す�小田村の東北に聳える標髙四百六十一米の
山�小田山�宝篋山�宝鏡山�豊凶山などゝも称せられる��地名
辞書�常陸�茨城�筑波郡�豊凶山に�筑波山の別峰にして�女体
の南二里�十三塚峠�不動峠等を以て相連脈し�標髙四百六十二�ママ�米
突�屹乎として筑波双岳の前障を為す�山の西南麓は�即小田村
にして�登攀一里�頂上に至る��とある�三村山の称は�小田村
が�和名抄�に見える筑波郡三村郷に比定せられることゝ関はるも
のと考へられる�また�宝篋山といふのは�山頂に石造宝篋印塔が
有ることに由る�これは花崗岩製で�総髙二百五十糎もある巨大な
ものである�刻識は無いが�鎌倉時代中期の逸品であり�中世文
書��康永三年二月日付別府幸実軍忠状写��には�三村山を�小田宝篋
塔峯�と呼んだ例も見られる�田岡香逸�続早期宝篋印塔考���史
迹と美術�第四百廿二号
昭和四十七年二月��野村隆�伊派遺品の傾
向と大蔵派宝篋印塔���同�第五百十九号
昭和五十六年十一月���筑
波町石造物資料集�上P�昭和五十八年三月
筑波町史編纂委員会�
九十三頁��筑波町史�上P�平成元年九月
つくば市�第二編�中
世�第三章�筑波地方の宗教と文化�第二節�文化の諸相�二�石造物
の世界�等参照�宝鏡山�豊凶山などゝ書くのは�宝篋山の宛字で
あると考へられる�中世�鎌倉期�には�三村山の南麓一帯に�清
涼�冷�院極楽寺�一名�三村寺�が小田氏の外護を受けて栄えてゐ
た�建長四年�忍性がこゝに入寺し�弘長二年�鎌倉に移るまでの
十年間�西大寺流律宗の東国弘通活動の足場とした�三村山上の
宝篋印塔は�かうした中世寺院と関はつて建立せられたものであ
る�なほ�同寺は小田氏の衰退と共に衰微し�廃墟となつた�和島
芳男�常陸三村寺と忍性���金澤文庫研究�百九十五号
昭和四十七年
七月���筑波町史�上P�平成元年九月
つくば市�第二編�中世�
第三章�筑波地方の宗教と文化�第一節�宗教の展開�一�三村山と忍
性�及び第二節�文化の諸相�二�石造物の世界���筑波山麓の仏教�
�平成五年十月
真壁町歴史民俗資料館�Ⅱ�中世仏教のひろがり��糸賀
茂男�忍性の開いた寺���中世の風景を読む�第二P�平成六年十二月
新人物往来社���松尾剛次編�叡尊・忍性��平成十六年十二月
吉
川弘文館�等参照�
○屋後
長島尉信の屋敷の背後�尉信の屋敷は�三村山を背負ふや
[237]
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齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�三�
五
うな場所に位置してゐた�現在は�土塀等の一部が残るのみ�
○秀
秀でる�髙くぬきんでゝ聳える�
○烽S山
三村山�宝篋山�を�竹堂が自らの推論に基づいて呼ん
だ呼称�実際に通用してゐたものではない�
○小田氏
中世�小田城を本拠としてゐた豪族�詳しくは八月廿八
日の条に述べる�
○烽S
烽候�又は烽堠の意であらう���S�の字は一般の字書に
見えない��烽候は�烽のろし火
�狼煙�を上げる為に山上などに設けた設
備�烽火�狼煙�臺��後漢書�郭伋伝に�賞厳二
烽候一
�明二
購賞一
�
以結二
寇心一
��とあり�唐�盧照鄰�上之回詩�に�回中道路険�
蕭関烽候多��とあり�同�元稹�酬二
楽天東南行詩一
一百韻詩�に
�郵亭一蕭索�烽候各崎嶇��とある�烽堠は、烽候に同じ�こゝ
で�竹堂は�三村山�宝篋山�に小田氏の烽火臺が置かれてゐた�
と推測してゐる�三村山が小田城の背後に聳え�城を眼下に瞰すの
みならず�周辺の平野を一望にする眺望を有する点から�烽火臺や
物見などゝして利用せられてゐたであらうことは�容易に想像し得
ることであり�中世には�実際に三村山に陣が布かれたり�これを
争奪する合戦が行なはれたりしたらしい�現在�軍事的遺構として
尾根に堀切などが確認出来る��筑波町史�上P第二編�中世�第
四章�筑波地方の中世的様相�第二節�城館の遺構�二�城館一覧�宝
篋山の条参照�
○寳筐
寳篋の誤と考へられる�筐キヤウ
は�竹製の籠�又は箱�篋ケフは�
竹製の箱�字体及び意味が近く�実際の発音も同じになるので�誤
つたものであらう�前述の如く�山名を宝篋といふのは�山頂の宝
篋印塔に由来する�なほ�宝篋印塔の名称は�塔の中に宝篋印陀羅
尼を納めることに由るものである�
○訛
謬る�また�訛ナマる��旧唐書�地理志�姑蔵に�匈奴本名二
蓋
蔵城一
�語訛為二
姑蔵城一
��とある�こゝで�竹堂は�宝篋山といふ
山名に就いて�往昔�小田氏の烽火臺が置かれてゐた為�本来�
烽ホウコウ候山と言つてゐたのが�転訛して�宝篋山と呼ばれるやうになつ
たのである�と推定してゐる�この場合�この推論は�歴史的事実
としては妥当ではないと思はれるが�宝篋といふ仏教語を退けて�
烽候といふ漢語に由来を求めようとする辺り�いかにも儒学生らし
い思考が感ぜられる�
○北條村
筑波郡の内�現在のつくば市北条�古くは多気邑と称
し�常陸平氏本宗多気氏の本拠地であつたが�多気氏没落後�小田
氏の支流北条氏の支配地となつた���茨城県の地名�筑波郡�北条村
の条��新編常陸国誌�P五�村落には�北条新町�北条中町�北
条内町を挙げ�北条内町の条に�凡新町�中町�内町ハ通ジテ古ノ
多気邑ナリト云リ�後三町ヲ併テ�北条村ト称シ�云々
�とある�
北条の町は�初め多気城�城山城�の根小屋�城下集落��次いで佐
久間氏や堀田氏の陣屋の所在地として�中世末から近世前期にかけ
て�形成�発達したものと考へられる�元禄十一年以降は土浦藩領
となつたが�筑波地方の農産物の集散地であり�在郷商人が活動
し�街道沿ひには商家が軒を連ねてゐた��筑波町史�上P第三編
�近世�第二章�江戸時代の村と町�第二節�門前町と在郷町�二�在郷
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堀口
育男
六
町北条�参照�北条の町は�小田方面から下妻方面へ東西に通る街
道に沿つて�東から西へ�新町�中町�仲町��内町と並ぶ�街道
は�中町�仲町�に於て�北に向つて丁字形に分岐してをり�横町
となつてゐる�これが筑波山へ向ふ道であり�寛永年間�筑波山中
禅寺の普請に当り�資材の運搬路として開かれたものであるとい
ふ�後には筑波山への参詣路となつた�分岐点となる中町�仲町�
の角には��東�ひたり��きよたき
つちうら�かし満��向て右
側���これより�つくは道��正面���にし�おふそね
いちのや�
江戸��向て左側�と刻した石製の道標�正徳五年初建�寛政十年再建�
が今も立つ��筑波町石造物資料集�上P百七十五頁�なお�同書
に拠れば�この道標の文字を書いた龍崎和道なる人物は�大曽根を
�おほそね�と書かず��おふそね�と誤記したことを恥ぢて自裁し
た�と伝へられてゐるといふ�
○墟
廃墟�旧跡��史記�魏公子伝に�吾過二
大梁之墟一
�求二
問
其所レ
謂夷門一
��とあり�晋�張載�七哀詩��其一�に�園寝化
為レ
墟�周墉無二
遺堵一
��とある�こゝでは�城跡の意�こゝで言
ふ�墟�とは�下に続けて�北條時家所據���北条時家の拠りし所
なり��とあることからすれば�北条城址�北条故城�を指すものと
考へられる��新編常陸国誌�P八�故蹟に�北條故城�として
��補�筑波郡北條村東北部中臺ニアリ�小田氏ノ支城ナリ�小田
知家ノ八子時家始テ築ク��尊卑分脉�O志��時家北條七郞ト稱
ス��○中略�其裔孫世本城ニアリ�永祿中太田三樂ノ小田氏ヲ滅ス
ル�北條氏亦滅セリ��O志�諸國廢城考���とある��筑波町史�
上P第二編�中世�第四章�筑波地方の中世的様相�第二節�城館の遺
構�二�城館一覧�には�これを�北条城�として載せるが�現在
は北条小学校の敷地になつてをり�遺構は見当らないといふ�な
ほ�城址�北条小学校�は�北条仲町で右に折れ�筑波山へ向つて
北上する街道の右手�東側�の台状の小高地に在るが�さ程目立つ
ものではない�一方�この左手前方�西北�には�標髙百二十九米
の多気山�一名�城
ジヤウヤマ山�が聳えてをり�多気城�多気故城�城山城�
が在つた��新編常陸国誌�P八�故蹟には�多氣故城�として
��補�筑波郡北條村ニアリ�平維幹始テ築ク�維幹ノ先ハ桓武平氏
大掾國香ノ子貞盛ノ養子ナリ�初筑波郡水守郷ニ居リ�水漏大夫ト
稱ス�後多氣ニ徙リ�多氣大夫又平大夫ト云ヒ��尊卑分脉�常陸
大掾タリ��大掾系圖�子爲幹�ソノ子重幹�重幹ノ子致幹�常陸
f介ニ任ジ�多氣f守ト稱シ�ソノ子直幹�直幹ノ子義幹�並ニ大
掾ヲ襲グ��系圖�云々
��とある�平安中期に平維幹が築いたといふ
のは聊か疑はしいが�多気義幹が楯籠つた��吾妻鏡�建久四年六月
五日の条�及び同年同月廿二日の条�といふ�多気山�は�此処であ
る可能性が髙いとせられる�現在�多気山には全山にわたつて大規
模な城郭の遺構が見られるが�これは戦国期のものである��筑波
町史�上P第二編�中世�第四章�筑波地方の中世的様相�第二節
�城館の遺構�二�城館一覧�城山城の条参照�多気山は�十分�筑
波山へと向ふ旅人の目を引くものであり�竹堂の言ふ�墟�とは�
或いはこちらを指して言つてゐるものかも知れない��それならば
�北條時家所據�といふのは�竹堂の誤解といふことになる��
[235]
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齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�三�
七
○北條時家
�尊卑分脈�では�八田知家の七男とし�右に�十
郞��伊賀守��左に�法名道円��号髙野�と註記する�北条時家
は�吾妻鏡�に�嘉禎二年八月四日の条から文永三年三月六日の条
に至る迄の間�筑後図書助�伊賀前司�伊賀入道道円などゝして数
N登場してゐる�殊に弘長元年三月には引付衆の五番�文永三年三
月には評定衆の一番に挙げられてをり�幕政の中核に参与したこと
を示してゐる�子孫は髙野氏を称し�曽孫知宗及びその子時知�貞
知兄弟の三人は六波羅頭人となつてゐる��筑波町史�上P第二編
�中世�第二章�南北朝・室町時代の筑波�第一節�南北朝内乱期の小田
氏�一�建武政権下の小田氏�参照�しかし�名前を出せば誰もが聞
き覚えがあるといふ程著名な人物でもないと思はれる�
○神郡
筑波郡神郡村�現在のつくば市神郡�
○碓井
筑波郡臼井村�現在のつくば市臼井�この辺りは�筑波山
に向つて�ほゞ真直ぐに北上する�
○漸
やうやく�次第に�段々と�
○峭
険しい�さがしい�
○筑波驛
筑波郡筑波村�現在のつくば市筑波��新編常陸国誌�
P五�村落�筑波に�臼井村ノ北ニ當リ�筑波山ノ中腹ニアリ�其
小名ヲ西山町�門前町�横道町�一町目�二町目�三町目�四町
目�五町目�六町目�東山神戶内�東山新田町ト云フ��とある�
筑波村は�筑波山中禅寺の門前町であり�中禅寺下の坂道に沿つ
て�南北に七百米程�人家が連なり�上から一町ごとに区切つて�
一町目から六町目まであつた��木曽路名所図会�P五には�筑波
の町長くして�奇麗なる旅たびや房多く�亦また商家も多し��とある�六町
目の入口には�一の鳥居といふ巨きな石鳥居があり�嵯峨大覚寺宮
の御染筆になる�天地開闢筑波神社�の八字を書した額が掲げられ
てゐた�その脇には�全剛力士像と服部嵐雪の句碑が在つた�亮盛
�筑波山名跡誌�に�一ノ
大鳥居�として�額ハ嵯峨大覚寺宮御染ふ毫で
にて�天地開闢筑波神社の八字なり�鳥居の側かたはら
に金剛密迹の銅かなぶつ像あ
り�一尊立るが故に俗に筑波の一王といふ�昔此ノ
像を造る者過あやまつ
て
口を閉とぢたる方を先に造り�口を開ける方を後にせし故に�障しやうげ碍あり
て開口の像出来ずといふ��とある�この金剛力士像は�維新後の
廃仏毀釈の際�東京の護国寺に移された�嵐雪の句碑は�有名な
�雪はまうさずまづむらさきの筑波山�の句を刻したもの�天明二
年�雪中庵三世の俳人大島蓼太の弟子杉野翠兄が建てたもので現存
する��筑波町史�上P第三編�近世�第二章�江戸時代の村と町�第
二節�門前町と在郷町�一�知足院中禅寺と門前町�参照�
○山腹
山の中程のところ�中腹�山半�唐�皇甫曽�遇二
風雨一
作
詩�に�陰雲擁二
巌端一
�霑雨当二
山腹一
��とある�
○大御堂
筑波山知足院中禅寺の本堂�中禅寺は真言宗無本寺寺
院�坂東三十三所札所第二十五番�現在の筑波山神社拝殿の場所
に在り�本尊千手観音を安置してゐた�寛永十年の建立で�間口
十四間�奥行十二間�屋根は銅板葺の宏壮なものであつた��木曽
路名所図会�P五には�大御堂�筑波の山下にあり��として�本
尊千手観音�千手の窟より出現の本尊なり���とあり��筑波山名
跡誌�には�大御堂中禅寺�として�坂東三十三所観音第廿五番�
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-
堀口
育男
八
本尊ハ千手観音�行基大士の作�山上諸神の惣本地とす��とあ
る�筑波の町と中禅寺の境には細流があり�参詣者は�神橋�屋根
附きの橋で�普段は通行を許さない��脇に架けられた参詣者用の橋を
渡つて境内に入る�段々上りに進み�楼門�文化八年再建�をくゞ
ると�正面に大御堂が聳え�これを中心に三重塔�開山堂�薬師
堂などの堂塔�山王春日社などの境内社が配せられてゐた�中禅寺
は�延暦年間�徳一�徳溢�が開創した筑波山寺が淵源であるとせ
られ�中世には�筑波山は関東有数の修験道場であつた�近世に入
ると�筑波山が江戸城の鬼門の方角に当ることから�鎮護の祈禱所
として�幕府の厚い外護を受けるやうになるが�中禅寺の伽藍が本
格的に整備せられたのは�三代将軍家光の時である�寛永三年か
ら十年にかけて�幕府直轄の下�山上の男体女体両社�本堂�大御
堂��三重塔�山王春日社�厳島社�鐘楼�楼門�二王門��宝蔵�
神橋などが�或いは新築せられ�或いは再建せられた��筑波山名
跡誌�に�尚亦天正文録�ママ�の頃より�将軍家の御崇敬浅からず�神
社仏閣涌わくが如くに興隆し�人法繁昌古しへの千倍なり��とある�
��天正文録�といふのは暫く措く��明治維新の際�筑波山では激烈な
廃仏毀釈が行なはれ�中禅寺では�境内社�楼門�神橋などを除
き�大御堂を始めとする大部分の伽藍が破却せられ�中禅寺は廃せ
られた�大御堂の跡地には�明治八年�筑波山神社拝殿が造営せら
れた�本尊千手観音をgつてゐた大御堂は�紆餘の末�昭和五年に
至つて�筑波山神社に隣接する地に再建せられた�同十三年には山
崩れにより埋没したが�更に復興せられて現在に至つてゐる��筑
波町史�上P第一編�原始・古代�第四章�古代の筑波山信仰�第三
節�徳一と筑波山寺��第二編�中世�第三章�筑波地方の宗教と文化�
第一節�宗教の展開�二�信仰の風土��第三編�近世�第二章�江戸
時代の村と町�第二節�門前町と在郷町�一�知足院中禅寺と門前町��
�筑波山麓の仏教��前出�等参照�筑波山に於ける廃仏毀釈に就て
は�竹岡勝也�筑波山に於ける神仏分離���国学院雑誌�第二十八P
第十�十一号
大正十一年十�十一月�後��明治維新�神仏分離史料�第
三P�昭和二年十二月
東方書院�所収�名著出版の�新編�では�第二
P���坂本正仁�常陸筑波山における神仏分離�上下��大正大学研
究紀要�第六十五�六十六輯
昭和五十五年三月�同五十六年二月���筑
波町史�下P�平成二年三月
つくば市�第四編�近・現代�第一章
�明治前期の筑波�第一節�維新期の変革�二�筑波山の神仏分離�等参
照�
○偉麗
すぐれてうるはしい�大きく立派で美麗である��後漢
書�楊璇伝に�璇兄喬為二
尚書一
�容儀偉麗��とあり�宋�蘇軾
�次韻和下
劉貢甫登二
黄楼一
見上レ
寄幷寄二
子由一
詩��其一�に�此詩尤偉
麗�夫子計魁梧��とあり�清�蒲松齢�聊斎志異��劉夫人�に
�既帰�贖二
墓田一頃一
�封植偉麗����漢語��とある�
○稍
やゝ�少し�
○喬木
髙い木�年数を経た大木�老樹��毛詩�周南�漢広�に
�南有二
喬木一
�不レ
可二
休息一
��とあり��孟子�梁恵王下に�所謂故
国者�非レ
謂下
有二
喬木一
之謂上
也��とあり�唐�陳子昂�蘇丘覧古
詩�に�丘陵尽喬木�昭王安在哉��とある�
[233]
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齋藤竹堂撰�鍼肓B�訳注C�三�
九
○障
さへぎる�おほふ��南史�劉祥伝に�以二
腰扇一
障レ
日��と
あり�宋�蘇軾�次二
韻劉貢父西省種一レ
竹詩�に�成レ
陰障レ
日行当レ
見�取レ
筍供レ
庖計已疎��とある��障天�の用例は未検�
○綠U
緑色の幕�唐�韓愈�短燈檠歌�に�黄簾緑幕朱戸閉�風
露気入二
秋堂一
涼��とある�
○碑
上生庵亮盛��筑波山名跡誌�の著者�が�明和九年�安永元
年�に建てた石碑を指すものと思はれる��男女川�の語釈参照�
○標
しるす�あらはす�書く�目につくやうに書き示す�
○男女川
水ミナノ無川とも書く��地名辞書�常陸�茨城�筑波郡�水ミナノ無
川に�今男体�女体の間�南へ降る渓流を�美那乃川と呼ぶ�歌名
所なり�末は大貫村にて�桜川へ注入す�長一里余��とある�歌
枕として�古来�多くの和歌に詠まれてゐるが�就中��後撰和歌
集�P第十一�恋三�に�釣殿の皇女につかはしける�と詞書して
入る�陽成院御製�
筑波嶺の峰より落つるみなの河
恋ぞ積もりて淵となりける
が��百人一首�に採られてゐることもあつて�結句を�淵となりぬ
る�とする���最も名髙い��筑波山名跡誌�には�男ミなのかハ
女川�として
�此河絶頂に程近く�道を遮さへぎる細ほそながれ流なり�二神の社地の下より出れ
バ�男みなの女川と名付る也�麓に落てハ桜さくらかハ川といふ��と言ひ�続けて
著者である亮盛自らの建碑に就て��川のはじめ至つて細けれバ�
遠来の雅がじん人も名所を知らで越こへゆき行�峯に登りて悔くやむものおゝ�ママ�し�これ
を見るに恨み聞きくに嘆き�遂ついに筆のみじかきを忘れ�其そのほとりの石を
けづり�拙なき言ことの葉ハをのこすものなり�と述べ�更にその碑影を
載せてゐる�それに拠れば�碑文は�つくばねの�嶺より落る�ミ
なの川�ふかき恵ミハ
すべらぎの�五十七代を�しろしめす�陽
成帝の御ミ製うたにて�世々の歌うたびと人よミつゞけ�此名の所�むかしより�
かき集たる言の葉の�は山茂しげ山�しげけれバ�短き筆に及ばれず�
仰げば髙く�二なミに�いの字のごとく�そばだてる�西はいざな
ぎ�男神山�東はいざなみ�女神山�分れし嶺の�あひだより�岩
ほの下を�おのづから出る流の�ゆく末ハ�麓に落て�渕となり�
浪の花よる�佐さ久く良ら川がハ�わたる磯いそべ辺の�春かすミ�此面彼面と�し
たひ来て�こゝろつくばの嶺の川�爰こゝぞと指て�いつまでも�朽ぬ
しるべに�残す石ぶミ/明らかに和らくミつのへたつの春/武原
上生菴誌焉�といふものである�この碑はやゝ風化しつゝも現存す
る�なほ��木曽路名所図会�P五には�美那濃川�として��男体
の山中に瀧あり�これより流る��とある他��男体女体の峯よりお
つる一流りうの滝のなかれを美み那な濃の川と号す�これ女め男をの神の霊泉たれ
バ�多く恋に詠じ�みたらしと名な附づけ�陰陽和合の流れなり��とも
ある�
○廻國雜記
室町時代後期の紀行�一P��又は五P��道興著�道
興は近衛房嗣の子で�大僧正�聖護院座主等に任ぜられ�准三后の
待遇を受けた人物�文明十八年六月�京都を発ち�北陸�坂東の各
地を巡り�翌十九年三月�奥州の名取川に至るまでの記事を載せ�
随処に和歌�漢詩�連歌などを插んでゐる�元禄十四年の刊本があ
り�また�群書類従�紀行部�P第三百三十七�に収める�古くは宗
祇の著と思はれてゐたが�関岡野洲良が�回国雑記標註��文政八
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堀口
育男
一〇
年序・刊�に於て�その�道興の著なることを考証した�萩原龍夫
�道興准后の生涯と信仰���駿台史学�四十九
昭和五十五年三月�後
�中世東国武士団と宗教文化��平成十九年一月
岩田書院�所収���髙橋
良雄�廻国雑記の研究��昭和六十二年五月
武蔵野書院�等参照�
○謂遶山麓者
男女川に就ては��廻国雑記�文明十八年九月廿四
日の条に�みなの川は此山の陰に流れ侍り�恋ぞつもりてと詠ぜし
歌を思ひいでゝ�h波ねのもみぢうつろふみなの川淵より深き秋の
色かな���群書類従�本に拠る��とあり�必ずしも�山麓を遶る�
とは言つてゐない�竹堂の思ひ違ひか�
�以下次号�
[231]
�ママ�