詩人と家族・中原中也論...詩人と家族・中原中也論...

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詩人と家族・中原中也論 肉親の死と詩篇の生成をめぐる問題 岡崎 和夫 キーワード:中原中也 家族 肉親との死別 亜郎 恰三 文也 詩篇の誕生 「冬の日の記憶」「秋岸清涼居士」「また来ん春…」 Keywords: Nakahara Chuya,The Death of FamilyMembers,Thugurou,Kouzou, Humiya,the formation of the poetry,“Huyunohinokioku” , “Syuuganseiryoukoji” “Matakonharu” 0.はじめに 家族の情景がえがかれる。絵でも、小説でも、ドラマでも、随筆でも、詩でもいい。歌 や唄でもいい。それが、人の心をうつ、うち続けるとき、それは、そこに、きわまりのな い情感が閉じ込められてい、また、うけとめる人にきわまりのない情感が再構成されてい るのだと思われる。 とくに、それが、肉親の死にとらえられたとき、おそらく、それ以上にインパクト強く 人の心に迫りくるものはないと思われる。 このことは、私にとって、広く文芸的産物の中に調査と考究とを尽くしたいテーマなの であるが、この稿の目的の上から、いまは一点に絞っていう。詩人の詩業、とくに詩作 品、詩篇の生成の場合である。 1. 中原中也は、三十年六ヶ月という短い生涯のうちに、弟の亜郎にはじまってのちのち長 3

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Page 1: 詩人と家族・中原中也論...詩人と家族・中原中也論 肉親の死と詩篇の生成をめぐる問題 岡崎 和夫 キーワード:中原中也 家族 肉親との死別

詩人と家族・中原中也論肉親の死と詩篇の生成をめぐる問題

岡崎 和夫

キーワード:中原中也 家族 肉親との死別 亜郎 恰三 文也 詩篇の誕生

「冬の日の記憶」「秋岸清涼居士」「また来ん春…」

Keywords:Nakahara Chuya,The Death of Family Members,Thugurou,Kouzou,

Humiya,the formation of the poetry,“Huyunohinokioku”,

“Syuuganseiryoukoji”“Matakonharu”

0.はじめに

家族の情景がえがかれる。絵でも、小説でも、ドラマでも、随筆でも、詩でもいい。歌

や唄でもいい。それが、人の心をうつ、うち続けるとき、それは、そこに、きわまりのな

い情感が閉じ込められてい、また、うけとめる人にきわまりのない情感が再構成されてい

るのだと思われる。

とくに、それが、肉親の死にとらえられたとき、おそらく、それ以上にインパクト強く

人の心に迫りくるものはないと思われる。

このことは、私にとって、広く文芸的産物の中に調査と考究とを尽くしたいテーマなの

であるが、この稿の目的の上から、いまは一点に絞っていう。詩人の詩業、とくに詩作

品、詩篇の生成の場合である。

1.

中原中也は、三十年六ヶ月という短い生涯のうちに、弟の亜郎にはじまってのちのち長

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男の文也にいたるまで、七度肉親との死別にめぐり合わせている。論述の明瞭を目指し

て、かりに、いま、一覧をこころみれば、次に示すようである。

中也の、親族との死別体験

○ 大正四年(一九一五)一月…………次弟・亜郎(四歳) 中也八歳時

○ 大正十年(一九二一)五月…………養祖父・政熊(六十六歳) 中也十四歳時

○ 昭和三年(一九二八)五月…………父・謙助(五十二歳) 中也二十一歳時

○ 昭和六年(一九三一)六月…………三弟・恰三(十九歳) 中也二十四歳時

○ 昭和七年(一九三二)九月…………祖母・スヱ(七十四歳) 中也二十五歳時

○ 昭和十年(一九三五)二月…………養祖母・コマ(七十二歳) 中也二十七歳時

○ 昭和十一年(一九三六)十一月……長男・文也(二歳) 中也二十九歳時

これに、中也の詩作品(詩篇)とのかかわりを重ね合わせてみる。上の七つの場合につい

て調査をこころみると、まず弟の亜郎の場合に重厚な一篇がみとめられる。第二詩集『在

りし日の歌』(昭和十三年 四月十五日 創元社刊行)の「在りし日の歌」の章の第十五

篇目に収められた「冬の日の記憶」がそれである。

昼、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、

夜になつて、急に死んだ。

次の朝は霜が降つた。

その子の兄が電報打ちに行つた。

夜になつても、母親は泣いた。

父親は、遠洋航海してゐた。

雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。

北風は往還を白くしてゐた。

つるべの音が偶々した時、

父親からの返事が来た。

毎日々々霜が降つた。

遠洋航海からはまだ帰れまい。

その後母親がどうしてゐるか……

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電報打つた兄は、今日学校で叱られた。

亜郎は、アロウ、アアちゃんと呼ばれることのほうがおおかったようでもあるが、ほん

とうは次男の意味のツグロウ、中也が三歳半のとき、広島市の鉄砲町で生まれている。

この亜郎は、しかし、中也の小学校入学の翌大正四年(一九一五)、四歳になって間も

なく、風邪をひいたのがもとで高熱を出して突然に亡くなっている(一月九日)。亜郎は、

中也と同じ洋服を欲しがり、中也の幼稚園(このとき、金沢の北陸女学校附属幼稚園)に

も一緒に通い、また湯田に引き移ってからも兄とともに小学校に通いたがる子であった。

それが許されないと知ると、中也の登校の背中を追いかけては「早う帰れ」「早う帰れ」

と呼びかけ、中也の下校時には裏門に出て待ちわびる弟であった。

謙助は急を知らせる電報で朝鮮から一時帰国、亜郎の死を看取り、ひどく落胆しながら

葬儀を済ませて七日ほどで勤務に復したというが、中也は、ひまがあると、そのころ買っ

てもらった小さい自転車に乗って、ひとりで水無河原の橋を渡る吉敷までの墓参りを欠か

さなかったという。学校の帰りには、レンゲの花をたくさん摘んできては仏壇の亜郎にさ

さげたともいう。

中也を見舞ったこの初めての肉親の死が、強い衝撃で中也をおそったことは想像にかた

くない。この点については、わたくしには、なにより、のちの中也の未刊の評論稿「我が

詩観」末尾に添えられた「詩的履歴書」におもい意味が感じられる。中也は、ここに、こ

のときの亜郎の死を歌ったことが生涯の詩作のはじめだったと明言しているのである。

―大正四年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くな

つた弟を歌つたのが抑々の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所、「今一ひと度たび

天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。(四か所ほどの修正跡あり――注1

による――。いま組版上明示し得ない)

亜郎の死は、生まれて初めて味わう肉親の死のその深い悲しみとともに、七歳の中也

に、早くも、人の世の救いようのない心のありようを詩歌に与託して造型する方途を、原

初的ながら、もたらしていたのだったとわたくしはかんがえている。

ここにみるごとく、さきの十四行の詩は、昭和十年(一九三五)ごろのものと推測され

る、完成度の高い作品である(発表は、昭和十一年「文学界」二月号に初出)。厳しい冬

の寒さのなかに父親不在の家をおいて、そこに雀や、外地との電報や、泣く母や、それに

また、頭のなかが母への気遣いばかりになって先生に叱られる仕儀に陥る兄を配するな

ど、やはり、幼い亜郎の死につながる詩情がたしかめられる。あたりのさまざまなものに

気を配り、こまやかに心をくだく、ふるえるような感性の澄みわたる叙情の表出である。

そして、この詩のなかに、とくに、雀をかわいがるやさしい弟の存在と、泣く母への兄の

気づかいのありようはみのがし得ないとわたくしには感じられる。

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亜郎の死ののち、中也は母フクが生前の亜郎を思い出して泣いていると、「おかあちゃ

ん、また泣きだした。泣きだした。ぼくが死んでも、おかあちゃんはあんなに泣こうか

ね。」と問い、フクが「それはおんなじことよ。だれが死んでもおんなじだから。」と言う

と、「いいや、ぼくが死んだら、あんなに泣くまい。亜ちゃんはやさしかったから、思い

だして泣くんじゃろう。」と語ったという。このことばには、子供らしい複雑な思いが見

てとれるが、同時に、亜郎の生得のやさしさが、中也にも存分に身に沁みていたらしいこ

とがうかがわれる。 中也と亜郎の、対照的な性質を、フクは、

亜郎という子は、絵本を一冊買うてやりましても、座敷のふすまの陰で、その本を

何日もくりかえして楽しそうに見る子でした。…(中略)…中也はそれをサラサラとみ

ると、もう二度と見ないんです。亜郎はそうじゃなく、何回でもくりかえして雑誌を

楽しそうにみておりました。

ふたりの性格は、かなりちがっておったようです。なにかふたりにわけるものがあ

るとき、中也はあれこれと見よりますが、かならず良いほうをちゃっととるんです。

そして、中也はさっさと食べてしまうんです。亜郎のほうはすぐに食べないで、まず

机の引出しにちょっとしまっておくんです。それで、ほしくなったとき、それを出し

て食べよりました。そんなとき、中也の分けぶんはもうありあせんから、亜郎に、そ

れをくれ、くれ、というんです。すると、亜郎は兄にちょっとわけてやるんですよ。

(『私の上に降る雪は』)

と語っている。このやさしい心の持ち主が存命で、この兄のことをのちのちまで見守るこ

とがあったとしたら、中也その人も中原家そのものも、あるいは、少し違ったすじがきを

たどっていたようにかんがえられる。亜郎の夭折は、のち、三弟で医学生であった(昭和

五年、日本医科大学入学)恰三の二十歳を目前にした病没とともに中也にもおおきな損失

を与えたのではなかったかと思われる。この恰三の死については、次章にふれる。

2.

次に詩作品とかかわる肉親の死は三弟恰三の場合である。

恰三の死は、中也の父の死と実祖母の死との間にある。その間の事情は、中也の二十一

歳時から二十五歳時をたどることによって克明になる。

さきの一覧にみるように、謙助が亡くなったのが昭和三年、そこから二年を経た昭和五

年の春は、郷里の中原に、この月、三弟恰三の日本医科大学入学があった。中原医院の後

継者たるべく恰三が医学生として上京したことは、湯田のフクや、祖母、養祖母にとって

はもちろん、このとき中原の長子の責を逸脱していた中也の心にもどんな安堵をもたらし

ていたか知れない。この月の下旬、中也は、一年ぶりの京都へ安原喜弘を訪ね、そして安

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原とともに奈良への旅を試みている。京都では、比叡山に登り、立命館中学に立ち寄り、

校舎の廊下をひとめぐりして懐しさにひたっている。通学路だったとおもわれる鴨川の堤

も歩いている。奈良では、国立博物館で見た作品群を「すべてみな自力的な芸術であっ

た。無常観などといふものは所謂卑屈なものである。」と河上徹太郎に葉書を書き送り、

また奈良カトリック教会に、湯田時代親しんだ八十七歳のアマトス・ビリオン神父を訪

ね、親しく再会を果たしてもいる。

しかし、翌昭和六年、事態は暗転する。故里湯田では、医科大学入学後まもなく外傷性

の肋膜炎にかかり東京を去って療養していた三弟恰三の病勢がいちじるしく悪化、肺浸潤

への進行があった。そして実祖母スヱには乳がんの発病があった。このため、七月の、千

駄ヶ谷八七二の下宿、高橋秀男方への転居をはさんで、この時期の中也の帰省は、六月に

も八月にも試みられる。六月は、安原に宛てて、

「随分暑い日がありはじめました。君にはいかがお暮らしですか。僕は十日頃帰省

します。祖母と弟が病人になつてゐますので、君に山陽を見せるといふ約束事はこの

たび果すことが出来ません。七十過ぎの祖母のこととて何れにしろ先が短いので、こ

とによつたら僕の北海道行きもみ合わせることになりさうです。」

と書き送った帰省であり、さらに、八月の帰省は、中也を、これまでになく長く湯田にと

どまらせている。恰三の病勢を確かめ、父謙助の死のときに思いを馳せて、「もし恰ちゃ

んが死んだら、こんどは死に顔をぼくにみせてから、焼場へつれていってください」とフ

クにかたく言い含めて中也が上京するのは九月はじめのことであった(『私の上に降る雪

は』)。そして、恰三は、ついに薬石の効なく、このニ十六日に他界する。

恰三の死は、上京した中也が、フクから十月分の仕送りを受け取ったのを知らせる手紙

に、

「本日有名な易者にみてもらひました。恰三は今に丈夫になるさうです。こんなに

丈夫になつたかと驚くことがあるやうになるさうです。しかし来年一月頃まではハツ

キリしない状態が続くとか。」

と書き送った直後のできごとであった。「お父さんが死んじゃったから、こんどはお母さ

んが死んじゃあいけんから、気をつけなさいよ」と言って何時もフクを気づかい、また、

死の直前まで「医者になって、女房をもらったら、もうすぐ死んでもええ。けども、医者

にならんうちは死にたくない、死にたくない」と言いつづけた恰三の、二十歳を目の前に

した若すぎる旅立ちであった。

急いで帰郷した中也は、深く悲しみに打たれ、火葬場では焼爐の扉が高温に達してもな

かなか手を離そうとしなかったという。兄中也に代わって医家中原の後継をめざした恰三

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の死は、このときの中也に強い衝撃を与えていたことがあきらかである。

北海道十勝にいる彫刻家志望の友人松田利勝に宛てて「弟は亡くなりました」「その後

元気がありません」「僕も段々家の方はうまくゆかなくなり、困つてゐます」と書き送っ

た恰三の死は、この早春、安原に送った詩稿「羊の歌」以来このころまで創作から遠のい

ていたかと思われる中也に、詩作への思いをふたたびさせたとかんがえられる。それは、

この時期、「(ポロリ、ポロリと死んでゆく)」「(疲れやつれた美しい顔よ)」「死別の翌日」

を書かせ、この二年のちに「蝉」、小説「亡弟」を書かせ、また「早春散歩」も恰三の死

とかかわる。三年後の昭和九年には「秋岸淸涼居士」も書かれている。

消えていつたのは

あれはあやめの花ぢやろか?

いいえいいえ、消えていつたは、

あれはなんとかいふ花の紫の莟つぼみであつたぢやろ

冬の来る夜に、省線の

遠音ともに消えていつたは

あれはなんとかいふ花の紫の莟つぼみであつたぢやろ

とある佗わびしい踏切のほとり

草は生え、薄すすき

は伸びて

その中に、

焼やけ木ぼつ杭くいがありました

その木杭に、その木杭にですね、

月は光を灑そそぎました

木杭は、胡麻塩頭ごましほあたま

の塩辛声しよつかれごゑ

の、

武家の末は裔てでもありませうか?

それとも汚ないソフトかぶつた

老ルンペンででもありませうか

風は繁みをさやがせもせず、

冥府あのよ

の温ぬる風かぜさながらに

繁みの前を素通りしました

繁みの葉ッパの一枚々々

伺ふやうな目付して、

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こつそり私を瞶みつめてゐました

月は半はん月かけ

銚く光り

でも何時もより

可なり低きにあるやうでした

虫は草葉の下で鳴き、

草葉くぐつて私に聞こえ、

それから月へと昇るのでした

ほのぼのと、煙草吹かして懐で、

手を暖あつた

めてまるでもう

此処が自分の家うちのやう

すつかりと落付きはらひ路の上へに

ヒラヒラと舞ふ小妖女フエアリー

だまされもせず小妖女フエアリー

を、

見て見ぬ振りでゐましたが

やがてして、ガックリとばかり

口開あいて背

うしろに倒れた

頸うなじ

きれいなその男

秋岸清涼居士しうがんせいりやうこじ

といひ 僕の弟、

月の夜とても闇夜ぢやとても

今は此の世に亡い男

今夜佗びしい蹄切のほとり

腑ふ抜ぬけさながら彳

たつてるは

月下の僕か弟か

おほかた僕には違ひないけど

死んで行つたは、

あれはあやめの花ぢやろか

いいえいいえ消えて行つたは、

あれはなんとかいふ花の紫の莟つぼみぢやろ

冬の来る夜に、省線の

遠音とともに消えていつたは

あれはなんとかいふ花の紫の莟つぼみか知れず

あれは果されなかつた憧憬しようけい

に窒息しをつた弟の

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弟の魂かも知れず

はた君が果されぬ憧憬であるかも知れず

草々も虫の音も焼木杭も月もレールも、

いつの日か手の掌ひらで挟んだ紫の朝顔の花の様に

揉み合はされて悉しつ皆かいくちやくちやにならうやもはかられず

今し月下に憩やすらへる秋岸清涼居士ばかり

歴然として一基の墓石

石の稜割然りようくわくぜん

として

世紀も眠る此の夜さ一と夜

虫が鳴くとははて面めん妖えうな

エデプト遺跡もかくまでならずと

首を捻ひねつてみたが何

ブラリブラリと歩き出したが

どつちにしたつておんなしことでい

さてあらたまつて申上まするが

今は三年の昔の秋まで在世

その秋死んだ弟が私の弟で

今ぢや秋岸清涼居士と申しやす、ヘイ。

さきに、この詩篇の誕生が弟の死の三年のちの昭和九年であったことを記したが、この

詩篇の稿末下には、実は、「一九三四・一〇・二〇夜」という中也の筆が添えられてい

る 。そして、この制作にかかわる日付は、次のような点で、特に注目される。

次の章に述べるように、昭和九年の十月は、中也に待望の出来事がもたらされていた。

郷里山口の、後河原にあった田村病院で、この月の十八日の午後一時に(妻の孝子をおい

てさきに東京にもどっていた中也への郷里山口からの電文による)、のちにその夭折の衝

撃のおおきさと詩作についてふれる長男の文也が誕生していたのである。

後継の誕生という事実が、三年余前の実の弟の死をふたたび歌うことに結びついたかと

思量される中也の心のうちがわになにがあったか、中也の心のうちがわのその生と死の交

錯とも謂いうるありように研究という営為がなにをみさだめうるか、この、弟の法名にそ

のまま重なる「秋岸淸涼居士」という特質的な詩篇の存在にかかわって、わたくしには、

今後、なお、たしかなデータと論拠に基づいたあらたな考察を得たい思いがしきりであ

る。

さて、恰三の死は、中也にとって、次弟亜郎(大正四年)、養祖父政熊(大正十年)、父

謙助(昭和三年)の死に続く、このとき、生涯四度めの肉親との別れであった。そして、

中也がフランス滞在を夢見て東京外語学校専修科に進んだこの年、五度めの肉親との別れ

が、すこしずつすこしずつ中也に近づいていた。

― 10―

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生後間もない中也の旅順行きにも同行して以来、その幼少年時、常に中也の傍らにあっ

て、この初孫に深い愛情と理解を注ぎつづけた祖母スヱが、乳癌を発症したのは、昭和六

年春のことであった。しかし、スヱは、はじめ、家族の誰にも病苦をさとらせず、日中は

常人のごとくふるまい続けたという。そして、このころ、中也のフランス願望に心から賛

成し、「(外務)書記生に早くなって、フランスへいらっしゃいよ」と応援し続けたのもこ

のスヱであった。翌昭和七年、病床のスヱは、苦しいあえぎのなかから、フランス、フラ

ンスと言い続けて、九月一日、中也の東京外語学校修了も待たず、ついに息をひきとる。

七十四歳、死ぬまでスヱの心にあったのは、孫中也への強い思いであった。フクは、実父

助之が果たし得なかった洋行への思いにも心をいたしながら、「『フランス、フランス』と

いいましたのは、中也をフランスへやれ、というつもりがあったんでしょう。私はそう

思っております。それは、スエの夫助之が、外国へいきたがっていた記憶もあったからで

しょう。」と語っている(『私の上に降る雪は』)。

3.

最後に詩篇とかかわる肉親の死は長男の文也の場合である。

昭和十一年(一九三六)十一月十日、午前九時二十分、中也は、長男文也を喪う。結核

性の脳膜炎だったといわれる。中也の代表作としてよく知られ、「あれはとほいい処にあ

るのだけれど おれは此処で待つてゐなくてはならない」の言葉で始まる「言葉なき歌」

成稿のひと月ほどのちのことであった。前年の九月、障子にさわってはじめて起つことを

覚え、間もなく階段を登り降りした文也、この年八月十四日の日記に「文也漸く舌が廻り

出す。一ヶ月に二つ位づつ単語が増える。来年の春頃には、簡単な話が出来るであらう。」

と記された文也は、その春の到来を待たず、「大安翼文空童子」となった。

この文也の死にかかわる中也の詩作品は、「また来ん春…」「月の光(その一)」「月の光

(その二)」、また、「愛するものが死んだときには、╱自殺しなけあなりません」とかきは

じめられる「春日狂想」など、きわめておおくにのぼる。

また来ん春と人は云ふ

しかし私は辛いのだ

春が来たつて何になろ

あの子が返つて来るぢやない

おもへば今年の五月には

おまへを抱いて動物園

象を見せても猫にやあ

といひ

鳥を見せても猫にやあ

だつた

― 11―

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最後に見せた鹿だけは

角によつぽど惹かれてか

何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は

此の世の光のたゞ中に

立つて眺めてゐたつけが……

(囲み線表示、岡崎)

昭和十二年(一九三七)、「文学界」二月号に「月の光(その一)」「月の光(その二)」

とともに発表され、第二詩集『在りし日の歌』「永訣の秋」の章に収録された「また来ん

春…」である。冗長な解説は無用であろう。

中也のもとで、たった二か年だけ、そのかたちを明るい光のなかに映しとどめた魂のあ

りようを、「た」が囲い込んで、はなとうとしない。いかにも自然に自然にうごいたと感

じられることばが澄んだ叙情をつくって、文也の死を明確にとらえている。

文也の葬儀は十一月十二日に行われた。急いで上京したフクのまえで、中也はわが子の

なきがらを抱いて長いこと離そうとしなかったという。そののち、四十九日が済む十二月

二十八日まで、中也は、家のなかに閉じこもって一歩も外出しようともしていない。坊さ

んを毎日呼んではお経をよんでもらい、長いこと、会話し、対座する日々が続く。中也自

身も欠かさず位牌の前に行って拝む日々であった。中也は、このとき、坊さんから般若心

経をもらっている。そこには、坊さんから聴いたメモがたくさんに書き込まれてあったと

いう。ついこのあいだまでたしかに手ごたえのあったちいさな命の二年間の軌跡を思え

ば、そのそちこちの場所に思い出のつまった部屋にとりのこされてしまった親の、察する

に余りある心情が伝わってくる。

この年の日記の終わりちかいところに、「文也の一生」という記事がある。おそらく十

二月のなかごろ、すくなくとも文也の四十九日を迎えるまえに記されたとされる書きもの

である。このなかに、こんなくだりがある。

春暖き日坊やと二人で小澤を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買つてやる。同じ頃

動物園にゆき、入園した時森にとんできた鳥を坊や「ニヤ―ニヤー」と呼ぶ。大きい

象はなんとも分らぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴を

みても「ニヤーニヤー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。

(注1による)

これは、「また来ん春……」第二連の実質にかさなる内容であるが、日記帖本文八ペー

ジにわたる毛筆書きのこの「文也の一生」は、このあと「七月末日萬国博覧会にゆきサー

― 12―

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カスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみ

る。」という万国博覧会行きの記事で終わる。この博覧会は、この国がしだいに軍事色を

強めてゆくなか、上野の不忍池湖畔を会場に七月十日から二か月間にわたって開催された

国体宣揚大博覧会である。この日連れ立って出かけた文也、孝子との体験は、この直後、

「冬の長門峡」初稿とともにやはり毛筆で書かれた草稿詩篇「夏の夜の博覧会はかなしか

らずや」に展じて行く。

そして、この詩篇には、中也の脳裏に、上に見た「また来ん春……」とは異質な時のと

らえのうまれていることが、わたくしには、たしかめられる。

夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

雨ちよと降りて、やがてもあがりぬ

夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

女房買物をなす間、かなしからずや

象の前に余と坊やとはゐぬ

二人蹲んでゐぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬかなしからずや

不忍ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりき、かなしからずや、

髪毛風に吹かれつ

見てありぬ、見てありぬ、かなしからずや

それより手を引きて歩きて

広小路に出でぬ、かなしからずや

広小路にて玩具を買ひぬ、兎の玩具かなしからずや

その日博覧会に入りしばかりの刻は

なほ明るく、昼の明あかり

ありぬ、

われら三人飛行機にのりぬ

例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空にめぐれば、

四囲の燈光また夕空にめぐりぬ

― 13―

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夕空は、紺青こんじやう

の色なりき

燈光は、貝釦かひボタン

の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ

その時よ、めぐる釦を

その時よ、坊やみてありぬ

その時よ、紺青の空

回想のなかに、文也を連れて孝子と出かけた、あの夏の夜の博覧会が、こんなにも、哀

切をきわめながら、時を追って、たしかな、しかし、はかない像を結んでゆく。この詩篇

の前半(「1」と推測されるもの)のなかに九度繰り返される「悲しからずや」「かなしか

らずや」は、けっして、奇異でも、不可解でもない。ある種の強調でも、ましてや、なん

らかの詩的リズムの醸成の要請によるのでもないはずだとかんがえられる。

それは、紛れもなく、あのとき、三人の家族の上に流れていた時の質を自覚し、確認し

ている様相とみることができる。確固たる死に隔てられた回想にもとづくからである。回

想のなか、小雨があがってなお昼の明るさを保つ景から、やがて紺青の夕景まで、時の流

れにしたがう博覧会の一こま一こまは、文也の幼すぎる死への一歩一歩であり、たしか

な、たしかな階梯であったからこそ、すべてが、悲哀をまぬがれえないのである。あのと

きの、一時間も、三十分も、十分も、一分も、時のながれというもののすべては、文也と

の永訣への近づきであることをまぬがれていなかった。そういう、時の思念にささえられ

た詩作である。

ここに見た、「また来ん春……」とさきに見た「夏の夜の博覧会はかなしからずや」と、

その比較のうえで、あえて、象徴的に云うなら、詩篇「また来ん春……」が、「おもへば

今年の五月には」という明確な過去の一点にくくられ、そのうちに、「鳥を見せても猫だ

つた」「何とも云はず 眺めてた」という、いわば、「た」に囲まれた叙情の反映であるの

に対して、いっぽうの詩篇「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は、みるとおり、そうし

た時の導入を避けたままに、いきなり、「夏の夜の博覧会はかなしからずや」というかた

ちに時制の制約を逃れた、あるいは現在にかかわるできごとの時制としての、いわば

「ぬ」に縁取られた叙情の奔出なのである。そこには、過去時制と、完了時制との、時の

認識への大きな差異が認められていいのではあるまいかそう、わたくしにはかんがえられ

る。

なお、家族の状況について付言すれば、この間に、次男愛雅が誕生している。年の暮れ

も間近い十二月十五日のことであった。日記のこの日付の欄には、

午後〇時五十分(かのと。未。八白)

愛雅生る。此の日半晴。

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Page 13: 詩人と家族・中原中也論...詩人と家族・中原中也論 肉親の死と詩篇の生成をめぐる問題 岡崎 和夫 キーワード:中原中也 家族 肉親との死別

と記され、この末尾には、靖雅、靖隆、愛雅、瑞喜、滋二郎、靖二郎という六つの男子の

名が書かれ、靖隆から瑞喜までの三つの名に○の印が付されている 。愛雅は、よしま

さ。長男の文也は名前が悪くて死んだのだと思い込んでいた中也に、このときは、名付け

の専門家の考えを聞く構えが生まれ、それは、夭折の心配のないようにとの希望を託した

命名となった。

以上、紙幅にあわせて、データとそれに伴う論述の具体的なおおくを省略にしたがいな

がら、家族の死にかかわる中也の詩作をたどって知られるのは、その対象のありようであ

る。

つまり、すくなくとも、父謙助、祖父政熊、二人の祖母たちに中也の詩作は及んでいな

い。中也の詩作、詩篇の誕生がこのように、肉親のうち二人の弟と長男とに限られている

と思量されるのである。肉親との七度にもわたる死別のうちで、中也の目は、ことさら、

詩作にかかわって三つの年少者たちとの別れに注がれているのである。これら肉親の死に

かかわる中也の詩作のありようは、それなりに中也の魂の必然、自然に重ねられる。それ

らの関連詩篇が、それぞれ、そのまま、若くして、また幼くして逝ったものたちへの鎮魂

の様相にかよう側面が意識されるのである。(このうちでとくに刮目され、留意されるの

は長男文也の死の場合である。それは、文也の死にかかわったテーマの詩作品の他と比べ

ての圧倒的なおおさでもある。)

おわりに

中也の場合、生涯の詩作の端緒が肉親の死にあった。次弟亜郎のいかにも幼い死が中也

の詩人としての出発をはっきりと指し示している。

三弟恰三の死を経て、長男文也の死は、前述のように、中也に人生のいちじるしい変調

をもたらしている。その狂気にも及ぼうとする悲しみなかでも、詩篇は編まれ、いな、か

えって死をつづることによってしか詩人の魂は一日もいきのびることをなしえなかったか

とかんがえられる。そのとき、その背負いきれない重さに耐えて、やがて、ことばの一つ

一つが祈りのかけらとなるかのように、詩人は、詩作にむかっていたのではなかったか

と、わたくしにはかんがえられる。

1)平成初年から同十五年にいたる、度々の披見調査に基づく。

2)中也の母ふくさんの口述録。村上護編。昭和48年10月刊、講談社。

付記

この稿は、二か年のプロジェクト期間終了直後にとりくんだデータの整理と分析に基づいて

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2005年4月中に執筆した論考のうちのひとつを、本報告の紙幅に合わせて簡略にとりまとめて

成ったものである(五月八日成稿)。

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