韓国キリスト教系新宗教のイエス観 ·...

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韓国キリスト教系新宗教のイエス観 -李龍道の晩年期の再考察とその系譜団体のイエス観- 古田 富建 1.李龍道の生涯と先行研究 李龍道(19011933)は朝鮮半島の北部に位置する黄海道の極貧家庭に生まれる。彼は反 キリスト教の父と熱心なクリスチャンである母の元で育った。学生時代には日本植民統治最大 の反日運動である「31 運動」(1919 年)が起きるとそれに積極的に参加し、何度も投獄され た民族主義者であった。24 歳の時にメソジスト派の神学校である協成神学校英文科に入学し たが、この当時はまだ社会主義に関心を示すなど政治への関心が強かった。人生の大きな転換 期は 25 歳であった。当時不治の病であった肺病末期と診断され、病気の療養を兼ねて行った 旅先で突然復興会を依頼され、その復興会中に慟哭しながら熱く説教を語るという感動体験を する。それを機に、それまであまり関心を示さなかったキリスト教に回心することになり、卒 業後は伝道師になる決意をする。28 歳で、金剛山に上って 10 日間断食祈祷をし、悪魔と闘う 「勝魔体験」を経験した後、「霊的な力」を得る。30 歳でメソジスト派の牧師となり、その年 に巡回復興師に任命され、教派を超えて全国の教会から復興会を招請されるほどの人気復興師 になっていく。 李龍道の生きた時代は、日本が大韓帝国を保護国化し、朝鮮半島における影響力を徐々に拡 大させ植民地化した時期(19051945)と重なる。朝鮮半島にプロテスタントが流入したの 19 世紀の欧米列強のアジア進出の時期で、厳格な「逐語霊感説」的な聖書観を持つアメリ カ人宣教師を中心に布教が進められた。儒教文化が根強い半島南部地域よりも、半島北部、つ まり巫俗などの民俗宗教あるいは東学などの新宗教信者が多いエリアで広がっていく。植民地 統治期の朝鮮半島のクリスチャン数は人口の 1% に満たない微々たるものではあったが、民族 主義者の多くが外国人宣教師に保護してもらえるという理由からキリスト教に入教し、「31 運動」にも多くのクリスチャンが関与していた。 31 運動」は統治者である日本に大きな衝撃を与えた。「31 運動」以降、朝鮮総督府は、 尖鋭的な反日民族主義者に対しては弾圧を行ったが、それ以外の対象に関してはある程度の自 由を与えるなど、「弾圧」と「懐柔」を使い分けるようになっていく(文化統治期)。そうした 統治システムの変化の中で、キリスト教は民族主義の色彩を薄めていく。農村運動や節制運動 などの社会運動や近代化の促進を目指す「現実的な啓蒙運動」、あるいは政治には介入せずに 貧困と独立に対する挫折を経験した大衆の現実逃避の場ともいえる復興会を中心とする「超越 韓国キリスト教系新宗教のイエス観 17

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韓国キリスト教系新宗教のイエス観-李龍道の晩年期の再考察とその系譜団体のイエス観-

古田 富建

1.李龍道の生涯と先行研究

李龍道(1901~1933)は朝鮮半島の北部に位置する黄海道の極貧家庭に生まれる。彼は反

キリスト教の父と熱心なクリスチャンである母の元で育った。学生時代には日本植民統治最大

の反日運動である「3・1運動」(1919年)が起きるとそれに積極的に参加し、何度も投獄され

た民族主義者であった。24歳の時にメソジスト派の神学校である協成神学校英文科に入学し

たが、この当時はまだ社会主義に関心を示すなど政治への関心が強かった。人生の大きな転換

期は 25歳であった。当時不治の病であった肺病末期と診断され、病気の療養を兼ねて行った

旅先で突然復興会を依頼され、その復興会中に慟哭しながら熱く説教を語るという感動体験を

する。それを機に、それまであまり関心を示さなかったキリスト教に回心することになり、卒

業後は伝道師になる決意をする。28歳で、金剛山に上って 10日間断食祈祷をし、悪魔と闘う

「勝魔体験」を経験した後、「霊的な力」を得る。30歳でメソジスト派の牧師となり、その年

に巡回復興師に任命され、教派を超えて全国の教会から復興会を招請されるほどの人気復興師

になっていく。

李龍道の生きた時代は、日本が大韓帝国を保護国化し、朝鮮半島における影響力を徐々に拡

大させ植民地化した時期(1905~1945)と重なる。朝鮮半島にプロテスタントが流入したの

は 19世紀の欧米列強のアジア進出の時期で、厳格な「逐語霊感説」的な聖書観を持つアメリ

カ人宣教師を中心に布教が進められた。儒教文化が根強い半島南部地域よりも、半島北部、つ

まり巫俗などの民俗宗教あるいは東学などの新宗教信者が多いエリアで広がっていく。植民地

統治期の朝鮮半島のクリスチャン数は人口の 1%に満たない微々たるものではあったが、民族

主義者の多くが外国人宣教師に保護してもらえるという理由からキリスト教に入教し、「3・1

運動」にも多くのクリスチャンが関与していた。

「3・1運動」は統治者である日本に大きな衝撃を与えた。「3・1運動」以降、朝鮮総督府は、

尖鋭的な反日民族主義者に対しては弾圧を行ったが、それ以外の対象に関してはある程度の自

由を与えるなど、「弾圧」と「懐柔」を使い分けるようになっていく(文化統治期)。そうした

統治システムの変化の中で、キリスト教は民族主義の色彩を薄めていく。農村運動や節制運動

などの社会運動や近代化の促進を目指す「現実的な啓蒙運動」、あるいは政治には介入せずに

貧困と独立に対する挫折を経験した大衆の現実逃避の場ともいえる復興会を中心とする「超越

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Page 2: 韓国キリスト教系新宗教のイエス観 · 物である。しかし肯定派も否定派も柳明花との交流については神学的なアプローチが困難で、

的神秘主義運動」が「3・1運動」後の韓国キリスト教の活動の主流となっていった1。李龍道

は後者の系譜に位置づけられる。

李龍道が復興会で伝えたメッセージの核心は「キリストの愛」と「苦難を感受するイエス」

であった。彼は当時の朝鮮教会は物質や知識など外的なものに溺れていると批判し、霊的な改

革が必要であると訴えた。教会指導層に対する批判や、復興会の熱狂的かつ神秘的な雰囲気を

恐れた教会指導層は、「李龍道を重んじると他の牧師が被害を受ける」という理由から、禁足

令を公布して李龍道が行う復興会を規制するようになる。

復興師としての活動が難しくなってきたころ、神学校の先輩である李浩彬に、柳明花という

一人の女性を紹介される。柳明花は自分にイエスが「親臨」したと主張し、自分がまるでイエ

スであるかのように振る舞った。李龍道はやがて柳明花に親臨するイエスを信じるようにな

り、この事件をきっかけに、教会指導層はさらに李龍道に対する攻撃を強め、休職処分に追い

込む。行き場を失くした李龍道と彼を慕う信徒らは、柳明花を通して得たイエスの啓示に従

い、民族教会である「イエス教会」を新たに設立する。李龍道は「イエス教会」の責任者とな

るが、その翌年 33歳で結核によりこの世を去る。その後、李龍道の死後 60年が過ぎた 1988

年に基督教大韓監理会第 23回総会において満場一致で彼は名誉復職を果たしている。

李龍道に関する先行研究は、1930年代、1970年代、1990年代以降の 3つに大きく区分でき

る2。1930年代の研究は、李龍道の死後すぐに、彼と関係の深かった人物が中心になってまと

めたもので、「研究」というより彼のライフヒストリーを整理したり、1次資料を収集・編集

したものである。金麟端は李龍道の復興会に参加して感銘を受け彼を慕っていた人物であった

が、李龍道が柳明花との関係を深めたことについては批判した。李龍道の死後は、自らが主筆

を務める『信仰生活』に何度かにわたってイエス教会と李龍道を否定的に取り上げた記事を書

いている。李龍道と共に牧会按手を受けたアメリカ人宣教師 Victor Wellington Peter は李龍道

の親友であった。1935年に大韓基督書会が発行した雑誌“Korean Christian Literature Society”

に 12回にわたって李龍道の幼少期から晩年までの生涯を執筆した。邊宗浩は李龍道の死後、

彼の日記や書簡を集めて編集し、『李龍道全集』を出版した。『李龍道全集』は李龍道の思想研

究の際には必ず参考にするべき 1次資料だが、邊宗浩の「主観」が多く入ったものでもある。

例えば、「書簡集」は李龍道が送った手紙 300通の中から編集者が李龍道の生活や信仰生活に

ついて読み取りやすいものを恣意的に 90通選別し、90通の手紙の中にも部分的な削除や匿名

化された部分が多く見られる。特に自分と関係のある箇所や、晩年に神学史上問題視された

「聖主教(金成道を信奉する集団)」と「イエス教会」に関する部分について記録がほとんど残

────────────1 韓国基督教歴史研究所『韓国キリスト教の受難と抵抗』新教出版社,1995, p.196.2 李正培「李龍道研究史の批判的分析と黙示文学的一考察」『神学と世界』第 40号,2000年春,p.298.

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されていない3。

1970年代に入り、柳東植や閔庚培といった神学者による李龍道の研究が始まるが、この時

代の研究は「神秘主義者」李龍道に関するもの一色であった。西洋の神秘主義者と比較しなが

ら、李龍道がどんな「神秘主義者」であったのかを明らかにするのが主であった。柳東植は

「シャーマニズム的入信思想との接続点を持つ無差別的な愛の神秘主義者」として4、邊鮮煥は

「東洋的霊性に深くしみ込んだ韓国的キリスト体験」として彼を評価した5。閔庚培は李龍道の

神秘主義を形態論的に分析し、「民族の苦悩とキリストの苦難を互いに感情移入した苦難の神

秘主義」と指摘した6。70年代の研究は、李龍道を神秘主義者と捉えている点が共通している

が、晩年の柳明花との交流とイエス教会の設立に関する見解は立場によって異なる。李龍道の

所属したメソジスト系の神学者は「植民地時代に活躍した復興師」として評価し、逆に長老教

の研究者は「異端的な神秘主義者」として紹介することが多い7。

1990年に、李龍道が設立に関わったイエス教会を中心に「李龍道信仰と思想研究会」が発

足する。この学会で発表された研究成果には李龍道の柳明花との交流に関する言及は全くな

く、研究成果は復興師として活躍した時代に限定されている8。この時期の李龍道研究は 70年

代の主流であった神学的な枠組みから脱却し始める。研究の主流はあくまで神学的なアプロー

チではあるが、社会学や詩、文学、美学など他のアプローチ方法での研究も行われるようにな

った。

2.本稿の目的と意義

李龍道は「著名な復興師」と「異端的な神秘主義者」というように両極端に評価が割れる人

物である。しかし肯定派も否定派も柳明花との交流については神学的なアプローチが困難で、

肯定派は李龍道を肯定的に評価するために柳明花に関する議論を避け、否定派は李龍道につい

て即座に「異端」と結論を下す9。神学的な枠組みではイエスの親臨を主張する柳明花は許し

難い「異端」で、論じるまでもない忌避事項であることから、李龍道と柳明花が交流する晩年

────────────3 キム・ヒョンギ「是無言 神学の思想的諸連関」,『李龍道の生涯・神学・霊性』,ハンドゥル出版社,

2001, p.128.4 柳東植「李龍道牧師と彼の周辺」『キリスト教思想』,1967年 7月号,p.21.5 邊鮮煥「李龍道とマイスター・エックハルト」『李龍道関係文献集』長安文化社,1993, p.141.6 閔庚培「韓国教会と神秘主義主義史」『李龍道関係文献集』長安文化社,1993, p.71.7 閔庚培は柳明花との交流以前の復興師としての李龍道は高く評価するが、その後おかしくなったと主張する。閔庚培「李龍道の神秘主義とその復興運動」『日帝下の韓国基督教民族・信仰運動』大韓基督書会,1991.

8 この研究会に関連した研究者の論文集『李龍道牧師の霊性とイエス運動』(1998)『李龍道の生涯・神学・霊性』(2001)『李龍道と韓国教会改革運動』(1998)に乗っている大部分の論文は李龍道の晩年期を中心とした研究はなく、わざとその内容を扱わないものも多い。

9 「病魔にむしばまれ精神的にもおかしくなった」「感情移入が激しく善悪の判断をするのが難しくなった」「度が過ぎた神秘主義者となった」という理由を挙げている。

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の李龍道について詳細な分析や考察を行った研究は存在しない。

そこで、本研究の第一の目的は、先行研究では扱われなかった李龍道と柳明花との交流につ

いて取り上げ、宗教学的な「内在的理解」というアプローチを採用しながら李龍道と柳明花の

交流を再解釈していくことにある。「内在的理解」とは島薗進が天理教の教祖である中山みき

の神降ろしの体験を理解する際に教学的な方法論とは異なる中立的な視点を保ちながらその内

面的世界観を重視したアプローチ方法である10。本研究では、李龍道研究において重要な争点

となる柳明花との交流事件について、この方法論を用いて、神学的なアプローチでは「見えな

いようにしている」あるいは「見えなくしている」ものを考察する。

第二の目的は、李龍道と李龍道の影響を受けたキリスト教系新宗教の思想的な連続性を模索

するものである。李龍道が設立した「イエス教会」はその後分裂し、一部が教団から飛び出し

て「聖主教」や「統一教」をはじめとするキリスト教周辺に存在するキリスト教系新宗教へと

発展していく。「イエス教会」と李龍道の関係については 90年代に入って以降、活発に議論さ

れたが、「統一教」や「聖主教」との連続性についてはあまり関心をもたれなかった。そのよ

うな中、渕上は 30年代の神秘主義から始まり「イエス教会」に端を発する「聖主教」や「統

一教」などの教団や黄国柱などのその周辺に見られた神秘主義者を「血分け教」と呼び、李龍

道を「血分け教の開祖11」と位置付けているが、その中身に関する具体的な考察はない。現在

の「イエス教会」も李龍道を設立者、李浩彬をその後継者とするだけで設立当時の他の関係者

(柳明花や金成道)については明確に語らない。また、「統一教」側も李龍道を自分たちの神学

的な位置付けに李龍道を登場させているが、その思想的な系譜の連続性がどこにあるのかにつ

いては言及していない。

3.李龍道のイエス観と教会観

3−1.李龍道のイエス観

李龍道が活躍した 1930年代序盤の韓国教会は、アメリカの保守主義神学を学んだ宣教師の

影響から、イエスの死を「神の計画による栄光の死」「人類の贖罪のために十字架に架かった」

と理解するのが一般的であった。ところが、李龍道の場合それとは大きく異なっていた。彼の

日記と書簡集から分かるイエス像を端的に述べると、「栄光」とはほど遠い「苦難のイエス」

であった。

彼は成長するとき、大工の家で日雇い労働者のように、カンナ仕事やのこぎりの作業をし

────────────10 島薗進「中山みきと差別・解放」伊藤士郎他編『中山みき その思想と生涯』,明石書店,1998, p.118.11 渕上恭子「「祈祷院」にみる民族史と民俗宗教-韓国キリスト教のフロンティア」『宗教研究』第 67巻

第 1輯(296号),1993, p.106.

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た。彼が生きていたとき一間斗屋も無かった。そしていつも山と野原で生活していたの

で、頭には露と霜がたくさんついていた。この世を去る時は…ああその時は…12

イエス様がその聖なる母親と兄弟にも、理解されず、友達に捨てられ哀れにも一人で死刑

に処せられるとは…13

33歳の若さでイエスは哀れにも死刑に処せられました。自分のせいでもなく、他人の罪

(我々の罪)のために、おぞましい死刑に処せられました。あらゆる辱めと罵りをすべて

受けられました。茨の冠、痛々しい茨の冠を被られました14。

上記の引用から見られる李龍道の理解したイエスは「苦難を耐え忍ぶ存在」である。残酷な

死刑に処せられるだけでなく、家族にも理解されず経済的に貧しかったイエスの哀れな立場を

語る。李龍道の残した資料を見ると、イエスの「神性」や「贖罪」、「復活」などに関しては言

及が少なく、イエスの「痛み」や「十字架」「屈辱」に関するものが多い。閔庚培は「李龍道

のイエス観には権勢の主や聖父、聖霊としての神の姿は見られない。ただただ悲運を耐え忍び

刑苦の道を行くイエスの姿を語っており、これは李龍道や当時植民地時代を生きた人の心理を

投影している15」と説明している。

さらに、李龍道はイエスの衣食住、痛みや辱めを具体的に言及するなど、「人間としてのイ

エス」をクローズアップする。もちろん贖罪や三位一体の教義などイエスの「神」としての側

面を否定するわけではないが、李龍道が強調したのは、あくまでイエスが苦痛を感じる肉体を

持った生身の人間であるという点だった。イエスの生涯は悲しみと苦痛の連続で悲しく賤しい

存在であったと説明した上で、復興会中にはそんなイエスに対して「同情の涙16」を流し、や

がて苦難のイエスの姿に自分自身を重ね合わせていく。

イエスの行動と真実と神霊を見て、人々は悔い改めの念を抱いたが、人々の傲慢な心は、

自分の伝道と奇跡では救われないとイエスは悟られた。そしてついに自らが死ななくては

いけない事を…イエスの肉と血を見る前に人々が悔い改め、信じていればよかったものを

(後略)17

────────────12 邊宗浩編『李龍道信学』長安文化社,1993, p.30.13 邊宗浩編『李龍道牧師書簡集』長安文化社,1993, p.51.14 邊宗浩編『李龍道信学』長安文化社,1993, p.20.15 閔庚培「李龍道の神秘主義研究」『李龍道牧師関係論文集』長安文化社,1993, p.49.16 黄ピルホ「統一教の神観」『宗教研究』第 3集,1987, p.113.17 邊宗浩編『李龍道信学』長安文化社,1993, p.22.

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これはイエスの死について李龍道が語ったものであるが、イエスの死に対する「無念さ」が

よく表れている。李龍道は、プロテスタントでは「神の計画」によって十字架に架かったはず

のイエスについて、「本来死ななくてもよかったのに予定にはない死を迎えた」と語る。

このように、イエス(神)も他の人間同様に苦痛を感じ、信徒が感情移入しやすい苦痛や無

念さを抱える存在であるとする見方は、巫俗神を見つめる民衆の視線を彷彿させる18。

3−2.李龍道の教会指導層に対する批判と「禁足令」

李龍道と宣教師や保守的な神学者のイエス観の間には大きな隔たりがあったため、李龍道は

当時の朝鮮教会の現実に大きな不満を抱き、激しい批判を繰り返していた。当時の教会は外国

人宣教師らが主導し、「教会の非政治化」という名のもと「来世的」で「現実逃避的」な傾向

が強く、形式面に偏っていた。そのような現状を受け、李龍道は教会の変革と悔い改めを促し

た。

ああ! この朝鮮教会の霊をお守りください。頭の中に教理と信条だけが、命のない枯木

のように骨だけ残り、我々の心霊は命を失い化石化しており、その教理がどのようにして

我々を救い、我々の体が教会に出入りしてもその霊が何の力と喜びを得ることが出来よう

か?19

イエスの生活を知るにはその外的な表現だけでは知ることが難しい。その内的な動き、そ

の霊の躍動感、それに一ケ所でも触ってみなければいけない。そしてその霊と私の霊が接

触することによって起こる愛の電光、または愛の霊声が私の生命全体に影響を与えなけれ

ばならない。すなわちこれによって私の全体が動き、私は私の全ての存在さえも見失う境

地に入らなくてはならない20。

現代の教会は「奇異なイエス」を求めており、現代の教会は「奇異なイエス」を伝える。

「真のイエス」が来たら、イエスは殺されてしまうであろう。「真のイエス」は我々が殺し

てしまった。そして罪の要求通り、悪魔をイエスのごとく仮装させ、宣伝している。(イ

エスの)逆鱗に触れるであろう現代の教会よ! お前たちの求めているイエスは肉のイエ

ス、栄のイエス、富のイエス、高のイエスであって、本来のイエスは霊のイエス、賤のイ

エス、貧のイエス、卑のイエスだ。イエスに要求するのか?神の息子イエスを探せ!人間────────────18 古田富建「植民地期朝鮮のキリスト教と民俗宗教-復興師・李龍道とキリスト教系新宗教を中心に」『韓国朝鮮の文化と社会』第 4号,2005

19 邊宗浩編『李龍道信学』長安文化社,1993, p.67.20 邊宗浩編『李龍道牧師書簡集』長安文化社,1993, p.112.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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のイエス、お前たちが作り上げたイエスではなく! イエスをお前たちに合わせるのでは

なく、イエスにお前たちが合わせよ21。

誰が主をよく知っているのか?聖書学者や神学博士か?違います。学識があってもなくて

も、若くても若くなくても、イエスを本当に愛することによって、イエスを正しく知るよ

うにしてください22。

李龍道はイエスの「内的な動き」や「霊の躍動感」であって、「教理」や「学識」などの知

識によってイエスを知るべきではないと語り、聖書学者や神学者を批判した。「韓国教会の全

ての機関、全ての事業は大きく拡大しているようだが、伝道と復興に全く熱がない。長老派、

メソジスト派ともそうである。お金や時間その他多くの功を与えたが、救いの結果は全くな

い23」と語ったり、「私の親兄弟と弟子たちは制度の奴隷となっている24」といって制度や組織

を批判し、変革を迫った。

こうした李龍道の熱狂的な復興会に民衆は心を打たれ、李龍道が開く復興会は常に会場に入

りきらないほどの参加者を集めた。復興会に参加した信徒たちは次第に他の牧師では物足りな

さを感じるようになり、教会を批判するようになっていった25。そのため、李龍道は教会指導

層から嫌悪され、1931年に長老派の黄海老会から「教区禁足令」が出された。李龍道の復興

会は規制され、彼に感化されて結成された「平壌祈祷団」の解散が命じられた。32年には平

壌老会でも同様の処置が下されるなど教会体制派や指導層がいかに李龍道を警戒していたかを

うかがい知ることができる。

3−3.新しいキリスト教の模索

李龍道は教会指導層だけでなく当時のキリスト教神学そのものにも不満を抱いていた。この

キリスト教に対する不満はイエス観に留まらず、聖書観や贖罪観にまで及ぶ。特に、キリスト

教における 16世紀の改革(宗教改革)は完全な改革ではなかったとして、今の時代に合った

「新しい福音」とキリスト教内のおける「新しい改革」を熱望するようになっていった。

16世紀の改革以降、人々の信仰は改革者の宗教体験以上の信仰があるとは思えない。大

概はその範囲の復興であり、改革者が提唱した真理の消化に過ぎない。改革者の宗教はロ

────────────21 邊宗浩編『李龍道信学』長安文化社,1993, p.21.22 邊宗浩編『李龍道信学』長安文化社,1993, p.41.23 邊宗浩編『李龍道牧師日記』長安文化社,1993, p.96.24 邊宗浩編『李龍道著述集』長安文化社,1993, p.212.25 柳東植「李龍道牧師と彼の周辺」『李龍道牧師関係文献集』長安文化社,1993, p.235.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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ーマカトリック教会よりは進歩しているが、決して終局的なものではなかった。(中略)

果たして今日のキリスト教会の現状はどうなっているか?古い信仰は形だけで、初期の生

命力と力を失っており、新しい信仰は想像と期待だけで、信仰にもなっていない。古い信

仰を持っていては世界を征服できないと、新しい人々は古い心情を疑い否定し、新しい信

条を求めている。(中略)しかし 4世紀たった今日の人類は新しい様式を求めている。改

革者たちの聖書観、贖罪観で今日の世界を征服するには、世の中が余りにも変わってしま

った。今日の世界を征服するには、今日の世情にあった福音が必要である。今は人類の霊

の革命期である。人々はより根本的なもの、霊的な糧を摂取してのみ生気を得て、生きた

活動ができる。私はその霊の運動が、新約時代のように 20世紀の今日に起ることを期待

している26。

さらに「創世記三・四・五章には不満が残る。信仰と文学的才能がある信徒が神の言葉を正

しく訳す日が来ることを望む27」「聖書の言葉は聖書に載っているから真実なのではなく、人

間の心霊生活において事実であるからだ28」というような記述から、当時の朝鮮教会で一般的

だった「逐語霊感説的な聖書観」ではなく、「柔軟に解釈する聖書観」を持っていたことが分

かる。保守的なキリスト教が主流の植民地朝鮮においては、特異な考え方であるといえるこの

ような「柔軟な教義観・聖書観」こそが、既成教会に迷信だといって蔑視されたイエスの親臨

を主張する「巫俗(霊媒)的な霊能者」を受け入れていく素地になったと考えられる。

では、李龍道が目指した「新しいキリスト教」とはどのようなものだったのだろうか。沈一

燮は李龍道が「東洋的」あるいは「韓国的」キリスト教の誕生を熱望したとし29、李正培は西

洋キリスト教とは異なる「巫俗的神秘主義」に基づいた「朝鮮的キリスト教」を訴えた30と記

している。

東洋において西洋的キリスト教は失敗。西洋人は共観福音的。東洋人はヨハネ福音的。西

洋の未完成のキリスト教からは満足を得ることが出来ず、心霊方面で新しいものを探さな

くてはいけない。西洋人は外的なものを探した。これからは神秘的なものを東洋人が探さ

なくてはいけない31。

────────────26 邊宗浩編『李龍道牧師日記』長安文化社,1993, p.108−109.27 邊宗浩編『李龍道牧師日記』長安文化社,1993, p.89.28 邊宗浩編『李龍道牧師日記』長安文化社,1993, p.24.29 沈一燮「韓国キリスト教異端史の批判的最照明」『李龍道の韓国教会改革運動』,長安文化社,1995,

p.25.30 李正培「東洋的霊性と「朝鮮的キリスト教」の模索」『韓国文化研究』2号,李花女子大学韓国文化研

究院,2002, p.34.31 邊宗浩編『李龍道著述集』長安文化社,1993, p.209.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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Page 9: 韓国キリスト教系新宗教のイエス観 · 物である。しかし肯定派も否定派も柳明花との交流については神学的なアプローチが困難で、

西洋のキリスト教-物-現世的-形式-外的、

東洋のキリスト教-霊-内的-神秘32

宣教師のもたらした「欧米的保守主義神学」に対して不満と物足りなさを覚えた李龍道は、

「西洋」と「東洋」を二項対立的に捉え、「聖霊」の体験や「霊」の働きを何よりも重んじると

いう「東洋的なもの」とキリスト教を融合した「完成したキリスト教」、あるいは「霊を重視

したキリスト教」を目指した。

「形式」より「霊」による働きを重んじた李龍道は、「聖霊」を受けるために、己の持つ外的

な所有物にとどまらず自らの「心的所有」「思想」なども捨て、ただ霊によって行動する「開

かれた心」を持つように努めたことが下記の引用から分かる。

我々の所有を全て否定しなくてはいけない。外的所有でも心的所有でも! そして完全な

る空虚、無になります。私の思想、私の注意、私の計画全て捨てて、おお主よ。私は無で

あり、空であります。私の上に聖霊が動き主の理想を立て、主の計画を立ててくださ

い33。

「霊」に対して開かれた心を持つ李龍道は「主よ直接来てください。私はただ機械のように

動きますので、主が動かしてください34。」「エホバの神が私を通してお話しになり、そのみ言

葉が私の下にある35」と記し、ひたすら神からの「啓示」を思慕した。復興会の会場も神の

「啓示」によって決定し、親しい友人から依頼があっても「啓示」が降りなければ会を開くこ

とはなかった。また、復興会では神の「啓示」通りのメッセージを語り、「啓示」が降りない

ときは祈祷だけで終わることもあったという36。さらに、信者の悩みや家庭状況を言い当てた

り、治病のための「按手祈祷」を行うこともあったという37。

4.李龍道と柳明花の交流

4−1.柳明花との出会い

1931年 8月に黄海老会、32年 10月には平壌老会で李龍道の「教区禁足令」から出される。

徐々に活動の場を奪われていく中、李龍道は一人の若い女性と出会う。この女性こそ、李龍道

────────────32 邊宗浩編『李龍道信学』長安文化社,1993, p.80.33 邊宗浩編『李龍道牧師書簡集』長安文化社,1993, p.104.34 邊宗浩編『李龍道牧師日記』長安文化社,1993, p.154.35 邊宗浩編『李龍道牧師日記』長安文化社,1993, p.187.36 邊宗浩編『李龍道信学』長安文化社,1993, p.58.37 邊宗浩編『李龍道牧師著述集』長安文化社,1993, p.206.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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Page 10: 韓国キリスト教系新宗教のイエス観 · 物である。しかし肯定派も否定派も柳明花との交流については神学的なアプローチが困難で、

が「異端者」のレッテルを貼られる大きな要因となった柳明花である。柳明花は 27年ごろか

ら「イエスの親臨」を主張し始め自らイエスであるかのように振る舞い、彼女の周囲には韓俊

明、朴承傑、白南柱38など、スウェーデンボリなどの「神秘主義者」を信奉する集団が存在し

ていた。李龍道が柳明花と最初に交わした会話は以下のとおりである39。(柳は柳明花、李は

李龍道)

柳:あなたは何のために説教をしているのか?それが本当にやらなくてはいけないことなの

か?私の声を聞かなければ、あなたの説教や復興会は何の意味も持たない。…私の声なし

に何をするのか?見よ! 私はこの時代の最後の新しい仕事を始める。

李:このように罪深い者になぜ啓示をくださるのか?

柳:私が罪人を愛するのを知らないのか?私はこの世界で蔑視されている者たちに栄光を与

えたい。

李:なぜこのように無学な女性があなたの僕なのでしょうか?

柳:私が知識人の口を通して語れば、あなたはそれが私の言葉ではなく、その知識を伝えて

いると信じるからだ。あなたは私の能力を理解できない。

李:これがサタンの仕業なのか神の仕業なのか私は知りたい。主を試しているのではありま

せん。私はこの僕を試しているのです。私はあなたを信じます。おお神よ、これが本当に

神の業であれば、このように試すことをお許しください。

柳:あなたが信じることが出来るならば…あなたが私の横腹を触らずとも、信じることが出

来るならば、あなたはもっと大きな恩恵を受けるだろう。あなたは試した後、信じるとは

信仰のない者よ。

上記のような会話を交わした後、李龍道は柳明花の「親臨」はサタンの仕業ではなく聖霊の

行為であると信じ、「主よ」といって跪いたという。これらのやり取りから分かるのは、李龍

道は当初柳明花に「親臨するイエス」に対して半信半疑であったことである。さらに、無学な

女性に対して否定的で警戒していたことも伺える。李龍道は「いてもいないように接しなけれ

ばいけないのが女、見えなくても私にみ言葉を下さるのが神40」「明花という個人は主でもな

く神でもない。彼女を通じて現れるみ言葉だけが主であるだから、そのみ言葉の前には敬礼を

────────────38 柳明花の通っていた神学校の教授。「新しい生命の道」という聖書の絶対性を否定し、新しい教義を説

く「異端書」を出版し、既成教会から非難を浴びる人物。のちに「イエス教会」設立の中心メンバーの一人となっていき、「イエス教会」憲章を作成する。

39 Victor Wellington Peter,「是無言 韓国キリスト教神秘主義者」『李龍道牧師の霊性とイエス運動』,聖書研究社,1998, p.85.

40 邊宗浩編『李龍道牧師日記』長安文化社,1993, p.178.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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Page 11: 韓国キリスト教系新宗教のイエス観 · 物である。しかし肯定派も否定派も柳明花との交流については神学的なアプローチが困難で、

捧げなければいけない」と述べ、柳明花自身と柳明花に「親臨したイエス」との間には線引き

をし、柳明花自身とは一定の距離を保ちながら接していた。

保守的神学の強い朝鮮のクリスチャンにとって、柳明花のように、迷信として蔑視される巫

俗の伝統に見られる「接神」をしながらイエスの振る舞いをすることは当然「あるまじき行

為」であった。李龍道と親しかった宣教師ピーターは柳明花に従うようになった李龍道につい

て、「超自然的幻視について常に開放的であり、聖霊の臨在を受け入れたように悪魔の侵入も

たやすかった41」と述べ、著名な無教会主義者であった金教臣は、李龍道について「巫女と女

宣旨に屈した聖徒42」と酷評した。特に厳しく批判したのは金麟端であった。彼は李龍道の復

興会に感銘を受け「平壌祈祷団」を結成するほど李龍道を慕っていた人物で、彼を説得しよう

と李龍道と何度も書簡のやりとりをしている43。しかし、李龍道は金麟端の説得に対する返答

の中で次のように語る。

(前略)兄弟たちよ。お前たちは以前から私からキリストの仕業を見たではないか? 私

の涙を通して彼の涙を見、私の額と背中を通じて落ちる血の汗を見て、キリストのそれを

悟らなかったのか?(中略)お前たちがお前たちを導いた者から教わらなかった真理を、

私を通して学ばなかったのか? お前たちがお前たちの牧師を通して接することが出来な

かった命の動きを、私を通して見て、お前たちの霊が命の注射を打たれ、また熱い涙の祈

祷と歓喜に震える感謝の歌から、大きな力と勇気の体験を持たなかったのか? お前たち

はこれを悪魔の仕業とするのか? ●●44のようなものの言葉として酔った者の惑世欺民

の仕業とするのか? お前たちはお前たちの霊が経験した跡を残し、お前たちが判断せ

よ!(中略)私の中で働き、お前たちを叱り、勧告し、慰労し、教えたその神はまだ私の

中で生きて絶えず働いているからお前たちは敬虔な心で耳を傾けよ。聖神のみ言葉に耳を

傾け、よく聞く者となれ45(下線部引用者)

一旦、柳明花を神の業による「イエスの親臨」と信じた後は、誰の説得に対しても李龍道は

考えを曲げることはなかった。

また、柳明花は「これが再臨である。哀れな者は私が違った形で再臨すると信じているが、

まだそのままにしておけ」と語り、自らの「入神」をイエスの「再臨」であるとし、既成教会

────────────41 Victor Wellington Peter,「是無言 韓国キリスト教神秘主義者」『李龍道牧師の霊性とイエス運動』,聖

書研究社,1998, p.86.42 金教臣「今後の朝鮮キリスト教」『キリスト教思想』,19362月号,p.1.43 邊宗浩編『李龍道牧師書簡集』長安文化社,1993, p.197−204.44 原文ママ45 邊宗浩編『李龍道牧師書簡集』長安文化社,1993, p.203.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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の信じる「再臨」を否定した。それ以外にも「パウロ書や使徒言行録は無用」であるとし、聖

書の権威を否定する発言もしている。さらに、「私(イエス)が生まれたのは 1月 3日である」

と独特の教義を語る。また「お前たち、私が誰にこのように降りてきているのか知っているの

か。お前たち朝鮮にだけこのように親臨している。お前たちは大きな栄光を受けている」と述

べ、「龍道よ。お前は朝鮮第一の私の使者だから病気ではない。73歳までお前と共に過ごすで

あろう」などとも発言46している。

4−2.柳明花を受け入れること

当時の朝鮮キリスト教において柳明花の「入神」を受け入れることは完全な「異端」行為だ

ったはずだが、李龍道にとって柳明花を受け入れることにはどのような意味があったのだろう

か。そして彼の目指していた「東洋的キリスト教」と、柳明花を受け入れることにはどのよう

な関連があったのだろうか。

朝鮮半島にやってきた宣教師の多くはアメリカの「信仰覚醒運動」の影響を受け「霊的覚

醒」を重視しており、李龍道自身も霊的体験を重んじるメソジスト派に属し、Thomas A. Kem-

pis やスウェーデンボリなどキリスト教の「神秘家」と呼ばれる人の著作にも触れていた。ま

た外的なものや肉的なものを捨て、内的なものや霊的なものを求める「二項分立」的な思考

は、敬虔主義的なメソジスト派神学にも見られるものである。したがって、「東洋的キリスト

教」で李龍道が強調した「霊的なもの」とは、「東洋的」な特徴というよりむしろ「西洋」の

敬虔主義やメソジスト派にも見られるものともいえる。それにも関わらず李龍道は、西洋の

「霊的キリスト教」であるメソジスト派神学からさらに学ぼうとするのではなく、たとえメソ

ジスト派と似た内容であるとしても、「東洋」から霊的なものを探し出し、「東洋」から「西

洋」に「新しいキリスト教」を伝播することを目指した。つまり、「東洋的」という言葉には

「霊的なもの」を重んじるということのほかに、「ナショナリズム」的な観点が存在していたと

考えられる。

「東洋から西洋に伝道人を送ろう47」など、李龍道の用いた「東洋」や「アジア」という言

葉には中国や日本は含まれず、日記や書簡集を見ると「朝鮮」と同義のものと考えられる。さ

らに、李龍道に柳明花を紹介した李浩彬は「主は、スウェーデンボリやサドゥ・スンダル・シ

ングには間接的に現れたが、柳明花には直接現れた。主は我々朝鮮に親臨された。これは朝鮮

においての栄光である」とイエスが「朝鮮に特別にやってきた」ことを強調している。

────────────46 金麟端「龍道教会の内幕調査発表(3)」『信仰生活』,1934年 5月号,p.22.

また柳明花は全く知らない人の過去や未来に対する予言をするなど巫俗の職能者と同様の能力も持っていたという。:「新しい生命の発祥地?(1)」『基督申報』1933年 3月 15日 6面/「新しい生命の発祥地?(2)」『基督申報』1933年 3月 22日 6面

47 邊宗浩編『李龍道牧師著述集』長安文化社,1993, p.232.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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李龍道は学生時代、キリスト教信仰に熱心ではなかったが、その時代に幾度も投獄されるほ

ど民族独立のために戦った。しかし、「3・1運動」の失敗以降、朝鮮全土で直接独立運動が展

開されることが少なくなると同時に、彼もキリスト教の信仰に目覚め、民族主義的な自覚は彼

の中で消滅したかのように見えた。しかし彼の日記には下記のような記述が残っている。

弱い民族である我々はこの世において、奴隷として十字架という罪人が座る刑罰の椅子に

つかされています。私は「おし」のように我々が受けるべきすべての鞭を受けて傷つかれ

るあなたを、黙って仰ぎ見ているだけです。(中略)キリストよ、行き先をこちらに変え

て来てください。アジアにあなたの場所を探してください48。(下線部引用者)

ああ私の主よ! 愛の主よ!私が「願いの目」を開ける時、あなたのすべては見ることが

できないとしても、ほんのわずか服の袖でも霧のように静かに滴らしてくださらないでし

ょうか。それが夢だとしても私はそこに万歳49の疾苦と千苦の怨恨を洗って余りあるでし

ょう50。(下線部引用者)

復興会の開催地に向かう途中に見る朝鮮民族の貧しさや苦しみに慟哭したり51、「異教の支

配者」による虐げから救ってくれる「アジア(朝鮮)」へのキリストの「到来」を待ち望んだ

李龍道。復興師になった後も、李龍道は「万歳(3・1運動)の失敗」をイエスによって昇華

しようとするなど「民族」を意識するベクトルを失ってはいなかった。こうしたことから、柳

明花を通じた「朝鮮へのイエスの再臨」は、李龍道にとって特別な意味を持ったと考えられ

る。

また、柳明花を受け入れることは「西洋キリスト教」の規範や形式の打破であり、それは同

時に李龍道の中にあった規範や形式を重んじる「西洋的なキリスト教=既存のキリスト教・既

成教会」の打破でもあった。当時の朝鮮社会には、近代化が進んだといえども儒教的な価値観

が根強く、男尊女卑思想が色濃く現存していた。またキリスト教内では「巫俗」は迷信とされ

蔑視されていたことから、柳明花という女性に降りてきたイエスは、朝鮮社会においては「卑

しい存在」であったといえるだろう。李龍道自身も当初、柳明花を「卑しい存在」と考え「イ

エスの再臨」を信じることに抵抗感を覚えている。復興会で李龍道が語ったイエス像は「貧し

い主」「賤しい主」であったが、柳明花に親臨するイエスを受け入れることは、彼が霊的体験

の中で悟り、復興会中に語った「賤しい主」を実際に受け入れていくことであったといえよ────────────48 邊宗浩編『李龍道牧師日記』長安文化社,1993, p.66.49 「万歳」とは「3・1運動」を指す。50 邊宗浩編『李龍道牧師日記』長安文化社,1993, p.66−67.51 李浩彬「私が見た李龍道」『イエス』1985年冬,イエス教会,p.30.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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Page 14: 韓国キリスト教系新宗教のイエス観 · 物である。しかし肯定派も否定派も柳明花との交流については神学的なアプローチが困難で、

う。

李龍道は教理を保持することに目的を置く形骸化した「形式的キリスト教」を「内的あるい

は霊的な体験」を重視するキリスト教に変えようとした。そこで李龍道がたどりついた「霊的

なもの」は、キリスト教の教理の外にあった柳明花という女性を通じた「巫俗的なもの」であ

った。

さらに李龍道を「巫俗的なもの」に導いたのは、神の啓示に従順に従う「霊的な啓示への絶

対性」であった。前述したように、金麟端への手紙には「お前たちを叱り、勧告し、慰労し、

教えたその神は、まだ私の中に生きて絶えず働いている」と、ひとえに神の「啓示」によって

柳明花を受け入れたことを記している。その後、李龍道は柳明花に親臨するイエスの命により

「イエス教会」を設立するが52、日記には「ああ私の名前が新教団管理者に上がった痛みよ!

私を刺す棘である。…53」「どんな苦痛でもどんな病気でも、どんな死でも構いません。し

かし、これだけは許してください。私が一生声を潰して叫んだのが『愛し団結しよう』ではな

かったでしょうか? 愛する者がどうして別れる、主の体である教会の分裂は避けなければい

けません。…この仕事だけは免れさせてください54。」と、神からの「啓示」に対して葛藤し

ながら服従していった様子がうかがえる。李龍道が神の「啓示」を受け葛藤する様は、李浩彬

の証言からも確認できる。

「(李龍道は)このこと(新しい教団を立てること)を啓示によって何回も聞かされたの

で、「何故このような十字架を私に与えるのか」と何度も尋ねたそうです。(中略)主に尋

ねるたびに、追い出された空腹の羊の群れが彷徨している光景を(主が)見せるというの

です。お前は彼らを見て見ぬふりをするのか?お前は教団を作るのが嫌で、批判を受ける

のが嫌で、お前のために集まってくる彷徨える羊に対して知らぬふりをすることはできな

いと、主の声が…(後略)55」

李龍道が柳明花を受け入れることは、李龍道自身にとっても「受け入れがたい」「理解不能」

な側面があった。彼女の存在は、キリスト教神学からすれば、即座に「異端」で済まされてし

まうものであったが、李龍道は以前から「東洋的なキリスト教」という新たな「霊性」を求め

ており、その中身が既存の常識から外れようが自分の意に反しようが、「啓示」を神の願いと

して受け止めていこうとする姿勢が彼にあったことが、柳明花を受け入れることを可能にさせ

た。さらに、それは彼が心のうちに願っていた「朝鮮」への「イエスの再臨」とも合致する、────────────52 金麟端「龍道教会の内幕調査発表(3)」『信仰生活』,1934年 5月号,p.22.53 邊宗浩『李龍道牧師伝』長安文化社,1993, p.205.54 邊宗浩『李龍道牧師伝』長安文化社,1993, p.195.55 李浩彬「李龍道牧師を追慕して」『イエス』復刊 18号,1999, p.10.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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特別なイベントとなったのである。したがって、柳明花を受け入れることは、先行研究で論じ

られてきたような思想的な断絶はおろか、李龍道が復興師として人気を博していた時代、ある

いはそれ以前からの思想的な連続性を見出すことができるのである。

5.迫害と「イエス教会」設立とその後

1932年、朝鮮キリスト教会では柳明花の事件が物議をかもした。『基督申報』は、柳明花の

「イエス親臨」に対して「本当か偽りかは時間が証明する」と否定的な報道をした56。李龍道

は「柳明花の言葉だけを神と信じている」と報道し、教会体制派はここぞとばかりに李龍道を

批判し、柳明花を「悪鬼の頭」「イザベルの群れ」「迷信を信じる者」「聖書に依拠しない異

端」と罵倒した。1932年 12月メソジスト教会中部連会で、李龍道は柳明花との関係について

尋問され、その際に彼は休職願いを提出している。このころには彼の健康状態は悪化してお

り、人生最後の復興会を海州の教会で行った際には咳が止まらなかったという。1933年 2月、

安州老会でも李龍道の断罪決議が通過し、1933年 3月に休職処分が決定した。その一ヶ月後、

既成教会から追い出されて行き場をなくした李龍道は、朝鮮東部の江原道元山に行き、白南柱

や韓俊明らと合流した。1933年 6月に「イエス教会」が設立されると、宣道監に李龍道が選

出された。「イエス教会」が設立されたのは、「龍道よ。お前は私のために新しい教会を建てな

ければならない。お前が教会を分立しなければ、私のために十字架を追うという言葉は、何の

意味もない57」という柳明花を通じて語られたイエスの言葉に端を発していた。熱心に祈祷す

ることがなく牧師の指定する聖句を暗唱するだけの現在のキリスト教では霊的に満足できず、

神との直接交渉によってのみ内部の渇きを潤すことができるとの考えから、「イエス教会」は

祈祷、聖霊による体験、生活を重視した。また「イエス教会」の設立は、新しい教派や制度建

設を意味するのではなく、既成教会の「内容改革」であると主張し58、教会の要職名をハング

ルにするなど、民族教会としての意識も垣間見られた。また、「三位一体の否定」「聖書の絶対

的な権威の否定」「イエスの誕生は 1月 3日59」など独自の教理も展開されている。

ここまで「イエス教会」の設立を見てきたが、李龍道が「イエス教会」の設立にどれほど関

与したのか、どれほど影響力を持っていたのかについては、現存する資料からは明確に分から

ない。李龍道は「イエス教会」の発起人であり、初代宣導監にも就任しており、ある程度の影

響力はあったのだろうが、その当時の李龍道は肺病末期であったため、まともに活動できたと

は考えにくい。また 1月の「イエス教会」設立以前の会合には李龍道は参加しておらず、遅れ

────────────56 「イザベルの群れに注意せよ」『基督新申報』,1932年 12月 14日,第 1面.57 金麟端「龍道教会の内幕調査発表(2)」『信仰生活』,1934年 4月号,p.22.58 「イエス教会創設の由来(1)」,『基督申報』,1933. 3. 10,第 7面.59 崔重炫『韓国メシア運動史』考える百姓,1999, p.52.「イエス教会」の影響を受けて誕生した清水教会と統一教もイエスの誕生日を 1月 3日としている。

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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Page 16: 韓国キリスト教系新宗教のイエス観 · 物である。しかし肯定派も否定派も柳明花との交流については神学的なアプローチが困難で、

て合流している。

また、「イエス教会」というと設立者の李龍道の名ばかりが取り沙汰されるが、実際は柳明

花の信託によって設立されていること、柳明花を信じた白南柱派、「再臨思想」「淫乱による堕

落」などの新しい啓示や治病行為を行う金成道派など、互いに思想的、神学的バックグラウン

ドが異なる集団が集まってできた教団であったことは再確認すべき事実である。この異質なグ

ループの集合は、李龍道というカリスマを失った後に分裂していくこととなる。

この「イエス教会」の設立については既成教会から猛反発があった。設立から三ヶ月後の 1933

年 9月、長老総会において李龍道、白南柱、李浩彬などが「異端」として断罪された。その一

か月後の 10月に李龍道は結核のため 33歳でこの世を去っている。

李龍道の死後に現れた、李龍道の影響を受けたとされる「キリスト教系新宗教」教団でも

「霊的なもの」や「新しい啓示」が重んじられ、「朝鮮・韓国」という民族主義的な要素が教義

の中で重要な役割を占めている。現在の「イエス教会」も祈祷や霊的な体験を重視し柳明花の

「啓示」を教義の一部としているほか、パンと葡萄酒の代わりに餅とマッコリを儀式の供物に

用いるなど民族主義的な要素が残っている。

6.聖主教のイエス観

6−1.聖主教の概略史と「イエス教会」との関係

聖主教は 1935年、「新しい主派( )」が母体となって設立され、金成道という女性を

再臨主として信奉する教団である。金成道は 1882年、鐡山の儒教の影響の強い家庭に生まれ

た。17歳で 10歳年上の官僚の夫と結婚したが、金成道は三人目の妻で、第二夫人に虐げられ

ながら暮らした。息子の出産後、金成道はある種の精神病を患う。病気を治すために巫堂を呼

ぶが完癒せず、この事件をきっかけにキリスト教会に通うようになる。教会に通い始めてから

3ヶ月で病が治ると、彼女はキリスト教に回心したが、夫の家は儒教の一門であったため妻が

教会に通うことを快く思わなかった。金成道の夫は彼女が 34歳の時に他界してしまい、彼女

は徹夜祈祷や断食祈祷に没頭し、祈祷中に神憑って様々な神秘体験をするようになる。また霊

的にイエスと出会い対話をして「新しい真理」を体得したり、霊能(按手祈祷)で病気治療を

するようにもなった。

朝鮮総督府が韓国の民俗宗教を「類似宗教」と規定し、「類似宗教」と見なされた団体への

弾圧が厳しくなった 1925年頃に、金成道は既成教会から「異端者」のレッテルを張られて除

名処分をされ、キリスト教諸派団体と交流を持ち始める。その団体とのひとつが柳明花を信奉

する集団であった60。

────────────60 崔重炫『韓国メシア運動史』考える百姓,1999, p.29.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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「イエス教会」が誕生する前の 32年 10月頃から、金成道を長とする「新しい主派」に李浩

彬が接触するようになり、結局「新しい主派」の 130人が李浩彬らの集団に合流する。1933

年 6月の「イエス教会」設立後は、金成道の家が「イエス教会」のチョンジャ礼拝堂となり、

金成道の息子は「イエス教会」の伝道師格である福音師となる。1933年 6月以前には李龍道

自身や既成教会から追い出された信徒もそこへ合流し61、その年の 6月 3日に発起人の李龍

道、白南柱、李ジョンヒョンの名で「イエス教会」の設立が宣布され、6日から 9日まで「イ

エス教会」公議会が開かれ、李龍道が布教管理者である宣導監に選出された。

その年の 10月の李龍道死去後、李浩彬が教団を引き継ぐと、イエス主義を標榜する李浩彬

と白南柱が指導する元山神学山という「イエス教会」の神学校の学生との間で関係が悪化し始

め、2年後に教団は分裂する。この時に白南柱が金成道に手を貸して作られた教団が聖主教で

ある。聖主教は一時期 20ケ所も集会場を持つほど拡大したが、1944年に総督府によって教祖

の金成道が逮捕され拷問の末に他界すると、教勢は衰退していった。その後、聖主教平壌支部

長の許浩彬がその基盤を受け継いだが、許浩彬は自らを「復活されたキリストの母」と称し、

彼女にも直接イエスが親臨して言葉を語り、霊通すればその予言は外れることがなかったとい

う62。独立直後の 1946年に許浩彬も共産党当局に逮捕され、その後行方が分からなくなって

いる。現在は金成道の息子が聖主教の教理を継承して全羅道にカメル祈祷院という修道院を建

てて活動しているほか63、一部は統一教に合流している。

6−2.聖主教のイエス観

金成道は多くの神秘体験をしながらイエスと会話をし、既成教会には見られないイエスに関

する「新しい真理」を得たという。内容は次のとおりである。

1.イエスは十字架に架かるために来られたのではなく、死なずに志を果たさなければな

らなかった。

2.神には二つの大きな悲しみがあるが、一つ目はアダムが堕落した瞬間、それを知りな

がらも干渉できなかった悲しみである。二つ目はイエスが神のみ旨を十字架に架から

ず生きて果たさなければならなかったのに、人間の不信によってイエスが十字架に架

かった場面を見た悲しみだった。

3.再臨主は雲に乗ってくるのではなく女性の体を通じて来られる。

4.再臨主が韓国に来れば万人が韓国を信仰の宗主国として訪ねてくる。

────────────61 安水江「李龍道神秘主義と「イエス教会」設立に関する研究」(延世大学大学院修士論文,1994)p.86.62 崔重炫『韓国メシア運動史』考える百姓,1999, p.43.63 崔重炫『韓国メシア運動史』考える百姓,1999, p.53.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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5.罪の根は善悪の実という果物を食べたことではなく、男女の性的関係が原因である。

つまり淫乱が堕落の動機となった64。

金成道が理解していたイエスは、「人間の贖罪のために死ぬためにやって来た救世主」では

なく「人間の不信によって志を果たせずに殺された主」であるというものである。「イエスの

十字架による死を神が悲しんだ」「本来イエスは死なずに果たすべきことが別にあった」と、

十字架による贖罪ではない「イエスの本来の使命」があったことにまで突っ込んで述べてい

る。

イエスを十字架に追いやった人間の罪深さを懺悔しようとした李龍道は、イエスが「予定に

ない死」を遂げたと語った。金成道はそこからさらに発展して、プロテスタントの教理の中核

である「十字架による贖罪」、そして神とイエスを一つの人格と捉える「三位一体」を完全に

否定している。

また、金成道の 4番目の啓示を見ると、李龍道が柳明花を通して聞いたように、韓国に再臨

主が降臨するというナショナリズム的な言説が登場する。さらに、5番目の啓示によれば、罪

の根とは淫乱を指すなど独自の教義が展開されている。

このような金成道のイエス観は、金成道の死後に聖主教の教主となった許浩彬65や統一教と

いった系譜団体へと受け継がれていく。

許浩彬は聖主教の信徒に「皆さんは韓国を代表して世界を代表する信徒なので、心を一つ

にして再臨主の服を作れ」と命じた。その時から信徒は再臨主の服を作り始めた。イエス

はユダヤのベツレヘムで生まれたときにまともな服を着ることができなかったので、再臨

主の時はそうなってはいけないといって、子供服からだんだんと年齢を重ね、成人後の服

など生涯着るための服をすべて作り始めた66。

李龍道が、当時のクリスチャンたちには見えていなかった「イエスの人間的側面」に着目し

たとするなら、許浩彬はさらに踏み込んで人間イエス像を語り、共感し、慰めた。

さらに許浩彬は「再臨主が平壌に来られる」「再臨主は金成道ではなく男」といった新たな

啓示を受け67、再臨主がイエスのように十字架の受難を味わい苦しむことがないように儀礼を

行った。儀礼の内容は、最高の服や食事をイエスと再臨主のためにそれぞれ用意するというも

のだった。服は、イエスの誕生から死ぬまでの 33年分を「啓示」を受けたサイズで作り、生────────────64 金成道の息子鄭錫天の証言を崔重炫『韓国メシア運動史』考える百姓,1999, p.37. より再引用65 聖主教平壌支部の中心人物。統一教では「腹中教」教祖と呼ばれる66 崔重炫『韓国メシア運動史』考える百姓,1999, p.43.67 崔重炫『韓国メシア運動史』考える百姓,1999, p.43.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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活必需品や王冠なども準備したという68。さらに、イエスは食事を十分に食べられなかったの

で「イエスのために宴を用意せよ」という啓示を受けて、週に 2回イエスと再臨主のために食

事を用意した。さらに驚くべきことに、こうした儀礼は衣食住にとどまらず、地上に誕生する

再臨主のための新婦まで用意していたという69。

許浩彬は哀れなイエスに感情移入し、具体的な儀礼を通じてイエスの恨を解こうとしたが、

これは巫俗の「恨解(ハンプリ)」の発想と類似している。巫俗では、哀れな死を遂げた英雄

神である崔瑩将軍を降ろして「クッ(巫俗の祭礼)」を行い、そこで成桂肉に噛みつく。崔将

軍の怒りを借りながら、崔将軍の怒りを解くと同時に信者のやるせない思いや心を解く70。

李龍道が語った「哀れなイエス」「人間イエス」は、聖主教の金聖道、許浩彬によってより

具体化され、それと同時にキリスト教の教義を離れて巫俗的世界観が強まっているのが分か

る。

7.統一教のイエス観

7−1.統一教の設立の概略史

教祖である文鮮明は 1920年に平安北道定州に生まれた。曾祖父の代までは裕福な儒教家門

であったが、15歳の時に兄弟が精神病を発症したのをきっかけに、家族全員がキリスト教に

入教する。16歳の時、祈祷中にイエスと霊通し、再臨主の使命を継承してほしいと召命され

る71。18歳の時にはソウルに上京して学校に通い、「イエス教会」の所属教会である明水台教

会に通い始め、そこで日曜学校の講師をするなど熱心に活動する。「イエス教会」のリーダー

である李許彬が明水台教会を訪問した際に二人は会っており、文がそこで「神の摂理」と「究

極の真理」を体得したと語っているだけでなく、文の初婚時には李許彬が主礼を引き受ける72

など両者は深い関係にいたことが推察できる。また、文は李龍道を自分の思想的、歴史的なル

ーツと捉えており73、李龍道の妻を統一教に入教させようとした74という記録もある。こうい

った状況証拠からも、文が「イエス教会」から多くの影響を受けていたことは間違いない。22

歳で日本留学からの帰国後には、柳明花を信奉した一人である白南柱の弟子、金百文が建てた

「イスラエル修道院」に通っていた。26歳の時に再度「啓示」を受けて平壌に移り住んだが、

そこではキム・ジョンファという女性信者の家で集会を持ち、信者が集まると祈祷をして神の────────────68 世界基督教統一神霊協会編『統一教会史(上)』,1978, p.83.69 文鮮明によれば教団の信者数は 1000名であり、再臨主の為に新婦まで準備していたという。平壌に再

臨主が住む大きな家までも用意したという。(ジョージ・D・クリサイディス『統一教会の現象学的考察』新評社,1993, p.45.)

70 崔吉城『恨の人類学』平河出版社,1994, p.418.71 世界基督教統一神霊協会編『統一教会史(上)』,1978, p.16.72 成和出版社編『真の父母様の生涯路程 2』成和出版社,1999, p.264.73 統一教は教団史の中で李龍道をメシアが降臨するために準備された人物として描いている。74 卓明煥『基督教異端研究』現代宗教国際宗教研究所,1986, p.122.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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悲しい心情に触れて泣いた。昼夜を問わず号泣していたので当時「泣く教会」と呼ばれていた

という。礼拝は白い服を着て行われ、讃美歌が繰り返し歌うと、その場は霊的な雰囲気に包ま

れ、信者の大部分は神の声を聞いたり夢で啓示を受けたりしたという。1948年、文は「社会

秩序紊乱」で共産党警察当局に拘束され、収容所で 2年半過ごした。その後韓国戦争勃発によ

り、釜山で避難生活を送り、その最中に教義書『原理原本』を執筆し、1954年「世界基督教

統一神霊協会」という教団名で伝道を開始した。1957年には全国に伝道師を派遣し、1961年

には朴大統領の軍事独裁体制下、反共産主義思想である「勝共思想」を展開して政府から庇護

された。1958年には日本、1959年にはアメリカに宣教師を送り、1965年には世界 40カ国を

巡訪した。1972年には渡米し、以降アメリカを拠点に、日本を経済基盤の拠点にして世界宣

教に力を注いでいる。日本においては 80年代ごろから「霊感商法」などが社会問題化し、マ

スコミの注目を集めた。

7−2.統一教のイエス観

統一教の教理の核心は神、イエスの「恨」を解くことである75。統一教は「人間が天使長と

の淫乱」で堕落することによって、神の「創造目的」を果たせずに、神に「恨」を作ってしま

ったと説明する。神はこの「恨」を解くために、歴史を通じて救援摂理を展開し、メシアとし

てイエスを送ったが、人間が「責任分担」を果たせずにイエスを殺害してしまったために神の

「恨」がさらに大きなものとなったとする。

統一教ではイエスを完全なる人格と神性を持った三位一体の存在とは考えられていない。イ

エスは心情的には神と一つであるが、神それ自体ではなく、祭司ザカリヤとマリアの間に生ま

れた原罪のない「人間」だという76。そして、イエスの本来の使命は、人間始祖であるアダム

の堕落によって果たせなかった地上天国を作るため、人類を重生して神の血統を残すために

「結婚し家庭を持つこと」であった。文鮮明は説教の中でイエスについて下記のように語って

いる。

地上でイエス様は 30年常に悲しく、苦しく、苦痛に満ちた道を歩まれて、昇天された後

も今日まで 2000年間、悲しく苦しい道を歩まれてきました。しかしイエス様はイエス様

自身のためにこのような道を歩まれたのではありません。堕落した我々人間のために、即

ち、堕落した人間を神様の前に取り戻すために全力でこの苦痛の道を歩まれました77。

────────────75 古田富建「恨と統一教」『東京大学宗教学年報』XXVII,東京大学文学部宗教学研究室,2009.76 魚谷俊輔『神学論争と統一原理の世界』光言社,1997, p.157.77 世界基督教統一神霊協会『文鮮明先生み言葉選集』2巻,成和社,1982, p.156.

韓国キリスト教系新宗教のイエス観

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イエス様はお腹が空かれている時もあり、のどが渇いている時もあり、また病にかかって

いるときもあり、旅人になっているときも、捕らわれの身となっている時もありました。

そしてイエス様は外的な面だけでなく、内的な面においてもこのような複雑な難しい事情

を抱えておられました78。

人間として誕生したイエスは「悲しく苦しい」生涯を生きたとあり、衣食住などの外的側面

について語った部分は李龍道の語った「哀れなイエス」と共通する。さらにイエスは非協力的

な親類縁者と無学でイエスに対して無関心な家族の元で恵まれない一生を送ったとして、既成

教会で語られる「聖なる家族」「栄光のイエス」のイメージと正反対のイメージで捉えている。

例えば出産間近のヨセフ、マリア夫婦が宿を見つけられずに馬小屋の飼い葉桶の中に新生児を

寝かしたという事実は、夫婦と親類縁者の間に対立があり非協力的であった証拠であり、東方

の博士はイエスを連れ去り、素晴らしい教育を授ける「責任」があったが、馬小屋で生まれた

イエスを救世主だと信じることができず、その結果イエスの救世主としての使命遂行に協力で

きない無学な家族の中で育つことになったという。さらにイエスが庶子さながらに誕生したた

め、父ヨセフや弟妹はイエスを無視し、12歳の時の過ぎ越しの祭りの際、丸一日イエスがは

ぐれたことに気づかなかったり、18歳の時にユダヤの風習に従って結婚を取り決めてやらな

かったりと、ヨセフ・マリア夫婦のイエスに対する無関心は聖書にも記されているという79。

イエスは「イスラエル民族」はおろか家族にすらも救世主と信じてもらえず、神の意に反する

十字架刑につけられて殺されるという悲劇が起きる。そこで統一教では、「十字架刑で神の摂

理が失敗に終わった」と強調する。イエスは、十字架によって死を迎えたことにより「子孫を

残せなかった失敗者」として描かれる80。

また「統一教」では具体的に描写されるイエスの「不幸や悲しみ」をただ知ればよいのでは

ない。イエスが様々な非難と拒絶によって味わった苦しみや悲しみを共感し、自分自身のこと

のように感じる「体恤」が重要だとする81。「統一教」ではイエスを神と考えていないが、イ

エスに感情移入しながら、感じる世界を大切にする理解の仕方は、李龍道がイエスを自分に引

き付けて捉えた理解方法と類似している。「統一教」の教祖である文鮮明自身が神やイエスに

感情移入し、その事情を共感する体験をしたのは「イエス教会」に通っていた時期であり82、

この「感情移入の体験」を重視する点は李龍道と統一教を思想的に結ぶ根拠となりうると考え

る。

────────────78 世界基督教統一神霊協会『文鮮明先生み言葉選集』2巻,成和社,1982, p.157.79 ジョージ・D・クリサイディス『統一教会の現象学的考察』新評社,1993, p.167−168.80 詳細は古田富建「韓国の資料信仰と鎮魂(恨プリ)」『現代宗教』2006,東京堂出版を参照81 ジョージ・D・クリサイディス『統一教会の現象学的考察』新評社,1993, p.169.82 世界基督教統一神霊協会編『統一教会史(上)』,1978, p.35.

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8.ま と め

「異端的交流」の一言で片付けられていた柳明花との交流は、内在的理解の方法論を使いな

がらつぶさに考察すると次のように再解釈できる。柳明花に親臨するイエスの受け入れは、李

龍道の突然の変化ではなく、復興師として活躍していた時代から彼が訴えたことを自ら実践し

ていくことであった。彼の訴えとは「啓示への絶対性」と形式や既存の概念にとらわれずに

「内的なもの」「霊的なもの」を重視し、「栄光のイエス」ではなく「賤しいイエス」を信じ共

感することであった。そこで李龍道は、男尊女卑が根強い当時の朝鮮社会において、柳明花と

いう「女性」、しかもキリスト教が迷信として蔑視する「巫堂(巫俗の職能者)のように接神

をする行為」を葛藤しながら受け入れていく様子が読み取ることができた。

後半部は李龍道と関連のある聖主教と統一教のイエス観を見てきた。まず、三者に見られる

「イエスの三位一体」の否定はイエスを人間として理解しようするところに端を発していた。

イエスも人間であれば誰もが感じうる痛みや悲しみを抱えた存在であると捉え、そんなイエス

の孤独や悲しみを理解し共感して感情移入しようとする83。ここで李龍道はイエスの「共感」

でとどまるが、聖主教ではイエスの服を作り料理を用意するなどシャーマナイズ化された「恨

解(ハンプリ)」の儀礼を行い、統一教では「恨解(ハンプリ)」を教義の根幹に据えている。

また、三者ともに既成教会では自明の十字架による「イエスの贖罪」を否定的に捉える。李龍

道は十字架による死を「予定的でない死」と捉え、聖主教や統一教の教義ではさらに発展し

て、十字架を「神とイエスの意に反したもの」「本来は必要のないもの」と解釈している。

李龍道とその派生団体には共通の土台があることも分かった。それは「聖書」を相対化し

「啓示」を絶対化する姿勢、そして「ナショナリズム」的傾向である。聖主教や統一教は堕落

が男女の肉体関係からくるものといった「新しい啓示」を信じているが、それは李龍道が当時

の「逐語霊感説」を否定し朝鮮教会では許されざるべき柳明花によるイエスの親臨を信じた際

の姿勢と重なる。また、聖主教や統一教が「朝鮮/韓国にイエスあるいは再臨主が来る/来

た」と訴えるが、李龍道もかつて独立運動に加担していたほか「朝鮮/韓国にイエスが来てほ

しい」と願うナショナリズム的な言説が見られた。

上記のことから、イエス教会に留まらず聖主教、統一教もその根底部分、つまり人間イエス

への共感、啓示の重視、ナショナリズム的指向性において、李龍道から思想的影響を受けてい

ることを明らかにした。

────────────83 ジョージ・D・クリサイディス『統一教会の現象学的考察』新評社,1993, p.169.

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