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-79- 人文研究 大阪市立大学文学部紀要 52 9分冊 200 79 -99 聖女エゼル ドレダの時代 -7 世紀 イングラン ドの宗教 と政治 - アングロ ・サクソン時代のもっとも有名な聖人の一人である聖女エゼル ド レダ(S t .Etheldreda ,630-79)は, イース ト・ア ングリア王 アンナ (An- na ,在位644-54)の王女 として,ニューマーケ ッ ト (NewMarket) 近郊のエ クスニ ング (Exning)に生 まれ た。彼 女 は652年 に フ ェ ンズ地方 の支配者 ト ン ドベル ト (Tondbert)と結婚 したが,彼が 3 年後に死去すると,かねて 決意 していた とお り修道生活に入ることになった。 しか しその後エゼル ドレ ダはノーサ ンプ リア王 オズウイ (Oswy,在位64ト70)の息子エグフリッ ド (Egfrid ,在位670-85) との二度 目の結婚を余儀な くされ,のちに夫の即位 とともにノーサ ンプ リア王妃 となった。彼女はどちらの結婚 において も夫 と 寝所をともにせず純潔を守ったと伝えられている。 エゼル ドレダは672年 にエ グフ リッ ド王 か ら結婚 の誓約 の解 除 を詑め られ たのちに,誓約 によって コールデ インガム ( Coldingham) で修道女 とな り, 当時の偉 大 な司教聖 ウ イル フ リッ ド (S t. Wi批id ,6341709) に修道院建造の ための土地 を寄贈 した。673年 には イース ト ・ア ング リアに帰 り, アイル ・ オヴ ・イー リー (IsleofEly)に共同礼拝修道院を建造 し,その修道院長 と して貧者 へ の奉仕 や施 療 活動 に献 身す る生 活 を送 っ たが ,679年 に疫 病 に よ って他界 した。 エゼル ドレダをめ ぐって数おお くの奇跡が伝えられ,イー リー修道院は中 世 をつ う じて重 要 な巡 礼 地 とな り,彼 女 に献 堂 され たおお くの教 会が各 地 に 建造 された。 ア ングロ ・サ クソン時代の王族か らほおお くの聖女が生 まれたが, 聖エゼル ドレダはもっとも崇敬 されている一人である。 エゼル ドレダは古英語ではエゼルスリス (Ethelthryth , Aedilthryd)とも 呼ばれ,現代名でいえばオー ドリー (Audrey) である。 (833)

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人文研究 大阪市立大学文学部紀要

第52巻 第9分冊 2000年79頁-99頁

聖女エゼル ドレダの時代-7世紀イングランドの宗教と政治-

横 山 徳 爾

アングロ ・サクソン時代のもっとも有名な聖人の一人である聖女エゼル ド

レダ (St.Etheldreda,630-79)は,イース ト・アングリア王アンナ (An-

na,在位644-54)の王女 として,ニューマーケット (NewMarket)近郊のエ

クスニング (Exning)に生まれた。彼女は652年にフェンズ地方の支配者 ト

ン ドベル ト (Tondbert)と結婚 したが,彼が3年後 に死去すると,かねて

決意 していたとお り修道生活に入ることになった。 しかしその後エゼル ドレ

ダはノーサンプリア王オズウイ (Oswy,在位64ト70)の息子エグフリッド

(Egfrid,在位670-85) との二度目の結婚を余儀なくされ,のちに夫の即位

とともにノーサンプリア王妃となった。彼女はどちらの結婚においても夫と

寝所をともにせず純潔を守ったと伝えられている。

エゼル ドレダは672年にエグフリッド王から結婚の誓約の解除を詑められ

たのちに,誓約によってコールデインガム (Coldingham)で修道女 となり,

当時の偉大な司教聖ウイルフリッド (St.Wi批id,6341709)に修道院建造の

ための土地を寄贈 した。673年にはイース ト・アングリアに帰 り,アイル ・

オヴ ・イーリー (IsleofEly)に共同礼拝修道院を建造 し,その修道院長 と

して貧者への奉仕や施療活動に献身する生活を送ったが,679年に疫病によ

って他界 した。

エゼル ドレダをめぐって数おお くの奇跡が伝えられ,イーリー修道院は中

世をつうじて重要な巡礼地となり,彼女に献堂されたおお くの教会が各地に

建造された。アングロ ・サクソン時代の王族からほおお くの聖女が生まれたが,

聖エゼル ドレダはもっとも崇敬 されている一人である。

エゼル ドレダは古英語ではエゼルスリス (Ethelthryth,Aedilthryd)とも

呼ばれ,現代名でいえばオー ドリー (Audrey)である。

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K E

まず 7世紀のアングロ ・サクソン諸王国,特にケント王国,イース ト・ア

ングリア王国,ノーサンプリア王国の状況を,キリス ト教への改宗という観

点から概観 しておきたい。

西ゲルマン民族に属するアングル人,サグソン人,ジュー ト人などがブリ

テン島へ移動 してプリトン人を破 りつつ各地に定住 し,いくつかの王国を建

設したのは,5世紀後半から6世紀後半にかけてである。その間,アングロ ・

サクソン人の進出は,当然ブリトン人の激 しい抵抗に直面 しなければならな

かった。まず 5世紀後半には,彼らの進出は,アンプロシウス ・アウレリア

ヌス (AmbrosiusAurelianus)によって阻止された。彼はローマ ・ブリトン

系の名門出身の軍事指導者で,後世のウェールズの伝説ではエム リス

(Emrys)の名で知られる人物である。

ついでアングロ ・サクソン人は,バ ドニクスの丘 (MonsBadonicus)の

戦い (●5世紀末または6世紀初め)でプリトン人に大敗 し,その結果,6世

紀前半にはアングロ ・サクソン人の進出は停滞せざるをえなかった。この点

については,6世紀前半のプリトン人修道士ギルダス (Gildas)の rブリト

ン人の破壊 と征服」(DeexcidioetconquestuBritanniae)と rアングロ ・サ

クソン年代記J(neAnglo-SaxonChronicle)の記述が一致 しているところで

ある。 このブリトン人の戦勝をもたらした英雄的戦士が,のちのアーサー王

伝説のアーサー (血・仙ur)である。

その後,ソールズベ リー (Salisbury)の戟い (552)におけるサクソン人

の勝利が契機となって,アングロ ・サクソ㌢人の攻撃が再開され,6世紀後

半になると,彼らは内陸部へ進出してイングランドにアングロ ・サクソン諸

王国が形成されることになった。 7世紀にはおよそ20の王国が存在したが,

のちに8-9世紀には主要な7つの王国に統合され,七王国 (Heptarchy)

が成立 した。すなわちケント,エセックス,サセックス,ウェセックス,イ

ース ト・アングリア,マ-シア,ノーサンプリアの諸王国である。

アングロ ・サクソン諸王国のうちで最初に強勢を誇ったのは,ケント王国

である。rアングロ ・サクソン年代記Jによれば,スコット人やビク ト人の

侵入に対抗するために,ブリトン人の宗主ウ オルティゲルン (Vortigern)

はサクソン人をまねき,サクソン人の首長へンギス ト (Hengist)とホルサ

(Horsa)がサネット島に上陸したが (449,いわゆるア ドウェントウス ・

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聖女エゼル ドレダの時代 -81-

サクソヌム),455年にヘンギス トとホルサは反乱を起こし,457年にケント

王国を樹立 したことになっている。ケントには大陸のフランク王国の影響が

強く,大陸との交易によって経済的に繁栄 し,アングロ ・サクソン最初の貨

幣がこの地において鋳造 された。

この ような経済的隆盛 を背景 として,ケン ト王国にエゼルベル ト王

(Ethelbert,在位560-616)が登場 し,近隣のエセックスや ミドルセックス

に勢力を伸長させた。フランク王シャリベル ト (Charibert)の王女でキリ

スト教徒でもあった王妃づルタ (Bertha)の感化があり,また大陸 との頻繁

な交渉をつうじてキリス ト教徒の商人たちの影響もあって,エゼルベル トは,

597年にローマ教皇グレゴリウス一世 (GregoriusI,在位590-604)によっ

て派遣 されたベ ネデ ィク ト会修道士 アウグステイヌス (Augustinus,?-604)にキリス ト教の布教を許 し,みずからキリス ト教に改宗することによ

ってイングラン ドで最初のキリス ト教の王となった。

エゼルベル ト王のもとで,カンタベ リーに司教座がおかれ,アウグステイ

ヌスが初代司教 となった (597)。さらにエゼルベル トはカンタベ リーにセ

ント・マーティン教会を建造 し,各地に修道院を建造 した。603年にはアウ

グステイヌスは初代カンタベ リー大司教に叙され,ガリアの司教管区から独

立することになった。またロチェスターに第二の司教座がおかれ,ユス トウ

ス (Justus,?-627)が司教に叙 された。つづいてエゼルベル トの甥である

エセックス王サベル ト (Sabert,?-616)の改宗によって,ロンドンに第三

の司教座がおかれ,メリトウス (Mellitus,?-624)が司教に叙 されるとと

もに,最初のセン ト・ポール大聖堂が建造 された (604)。またアウグステ

イヌスは,エゼルベル ト王の支援をえて,カンタベリーの市壁外にセント・

ピーター ・アンド・セント・ポール合同修道院を建造し,これはのちにセント・

オーガステイン修道院となった。このようにキリス ト教への改宗がケント王

国を中心 として順調にすすんだのは,ベーダが伝えているように,エゼルベ

ル トが第三の 「覇王」(Bretwalda')としての権威をアングロ ・サクソン諸国

のあいだに保持 し,その支配は一時ハンバー川以南にまでおよんだことにも

よるであろう。

しかしケント王国はエゼルベル トの死とともに衰退にむかい,王位をめぐ

る内紛によって勢力をうしなってしまった。ケント王国におけるキリス ト教

の勢力も,エゼルベル トの息子である後継者のエア ドパル ド (Eadbald,荏

位616-40)が異教徒であったために,一時凋落せざるをえなかった.

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他方,イース ト・アングリアにおいては,6世紀におおくのアングロ ・サ

クソン人が渡来し,まずノーフォーク (「北の人びと」の意),ついでサフ

ォーク (「南の人びと」の意)の2勢力が生まれた.ウフア (W曲 ,571即位)

とその子ティテイルス (Tytilus,578即位)の時代をへて,やがて7世紀に

は両者が統合されて,現在のケンブリッジシヤーの一部をも含むイース ト・

アングリア王国が成立 した。 600年ころにはケント王国に従属 していたが,

7世紀前半にはティテイルスの子レドワル ド王 (Redwald,在位?~624)の

時代に隆盛期をむかえた.彼はダニツジ (h wich)の近くに宮廷をいとなみ,

第四の 「覇王」として南イングランド全域に宗主権をおよはしたばかりでなく,

北 方の ノーサ ンプ リアにつ いて も,バ ーニ シ ア王エ ゼ ル フ リッ ド

(Ethelh・id,在位592/3-616)をアイドル河畔に破 り (616),デイラのエ ド

ウィン (Edwin)がバーニシアを併合してノーサンプリア王として即位するl

のを援助 した。イース ト・アングリア王国の繁栄は,ケント王国の場合と同

様に,大陸との交易,特に北海によるラインラントとの通商に負うところが

おおきい。

レドワル ド王がキリス ト教に改宗 したのは,当時彼の宗主であったケント

王エゼルベル トを訪問したときであった。しかし彼がイース ト・アングリア

に帰国すると,王妃と 「邪悪な教師たち」を中心とする勢力がキリス ト教に

強 く反対 し,アングロ ・サクソン人古来の宗教を固守することを主張 した。

レドワル ドはそれでもキリス ト教を棄てることなく,神殿の一方の側を古来

の神々に犠牲を捧げるための祭壇として使用するとともに,他方の側にキリ

ス ト教のためのよりおおきな祭壇をもうけた。レドワル ドにとっては,キリ

ス ト教の神は古来の神々とならぶもうひとつの神にすぎなかったとも想像さ

れる。アングロ ・サクソン人のあいだにキリス ト教が受容されていく過程に

おいては,このような状況はおそらく例外的ではなかったであろう。

レドワル ドの死 (624)後,息子のエアルプワル ド (Ea叩Wald)が後継者

となり,エ ドウィンの勧めもあってキリス ト教に改宗 したが,数年後にリク

ベル ト (Ricbert)という,異教勢力を代表する貴族に殺害 された.その後

の3年間のイース ト・アングリアは,異教勢力が複興 した時代であった。

イース ト・アングリアにおけるキリス ト教は,エアルプワル ドの異父弟と

考えられるシグベル ト (Sigbert)のもとで復活することになった。シグベ

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ル トは,エアルプワル ドの在位中には彼によって大陸へ追われていたが,そ

の間にガリアでキリス ト教に改宗 しており,即位とともにキリス ト教化を推

進することになる。シグベル トに協力 したのが,ブルゴーニュ出身の司教フ

ェリクス (Felix,?-648ころ)である。ローマ教皇ホノリウス一世 (在位

625-38)によって聖別 されていたフェリクスは,王子シグベル トを改宗させ

た人物であるが,ともにブリタニアヘ渡 り,627年に第5代カンタベリー大

司教ホノリウス (Honorius,?-653)の同意をえてイース ト・アングリアに

おける布教を開始した。サフォークのダニツジ司教に任命され,以後17年間

にわたって布教活動に献身した。 (教皇ホノリウスは,前任者のグレゴリウ

ス一世と同様にブリタニア布教に熱意をしめした人物であり,カンタベリー

大司教ホノリウスは,教皇ホノリウスの門弟であった。)

こうしてイース ト・アングリア王シグベル トと司教フェリクスは,キリス

ト教の布教にかんしてたがいに協力したが,同時に教育においても,敬度で

あるとともに学問のあったシグベル トは,少年たちに文字を教えるための学

校を創立 し (これはケンブリッジ大学の起源といわれることがある),フェ

リクスはこの学校のために教師を提供 した。

イース ト・アングリアにおけるキリス ト教の布教におおきな役割をはたし

たもうひとりの人物は,アイルランド生まれの苦行修道士フルサ (Fulsa,

?-648)であるoラフ ・コリブ (IDugh Corrib)の近郊に生まれたフルサは,

スコット人の貴族の家系に属 し,アイルランドにおいても修道院を創建 して

いたが,主のために巡礼の生活を送ることを望み,630年ころにイングラン

ド-移った。イースト・アングリア王国において,シグベルト王の知遇をえて,

王からあたえられた土地に修道院を建造 し,その高貴な精神と熱意のこもっ

た説教によって,キリス ト教の布教におおきな影響をおよはした。彼はヤー

マスに近い海岸壁ガリアノーヌム (Gariannonum,バラ ・カースルBurgh

Castle)にみずからの修道院を建造 し,祈祷と学問に専念 し, しばしば幻視

を経験 した。

このようにイース ト・アングリアにおいては,司教フェリクスによってロ

ーマ教会のキリス ト教が広まっていくとともに,それと共存するかたちでア

イルランドからの修道院活動を中心とするキリス ト教 も広 く受け入れられて

いったのである。

その後シグベル ト王の信仰はますます深まり,ついに王位を去って修道生

活に入ることを決意 した。彼は王位を親族のエグリック (Ecgric)に譲っ

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て,みずからのために修道院を建造 し,すべてを棄てて修道士 としての生

活をはじめた。後継者のエグリック王は,シグベル トのような器量を欠

き,国民の信頼をえることができなかったが,やがて彼はマ-シア王ペンダ

(Penda,在位626-54)の攻撃を受けることになった。ペンダは,アング

ロ ・サクソン人の改宗が急速にすすんでいた時代 にあって,ヴオーダン

(Wodan)の末商を自任 して生涯異教徒のままであったが,マ-シアを-

部族国家からアングル人の有力な国家へと発展させたばかりでなく,ノーサ

ンプリア王国との戦いにおいては,632年にエ ドウィンを,641年にはオズワ

ル ドを敗死せしめた不屈の戦士であった。イース ト・アングリアは,ペンダ

の脅威が迫ったとき,みずからの劣勢を認識 して,かつてその豪勇で知られ,

国民のあいだに信望の厚いシグベル トに戦いへの参加を請うた。シグベル ト

はそれを望まず拒否したので,イース ト・アングリアの人びとは彼を無理や

り修道院から連れ出して,彼の存在が戦士たちを鼓舞することを期待 した。

しかし彼は自分の信仰誓約を忠実に守 り,敵軍に包囲されたときにも戦おう

としなかったので,エグリック王とともに戦死 し,イース ト・アングリア軍

は壊滅 した。

イース ト・アングリアの王位を継承 したのは,アンナ (Anna,在位644-

654)であった。彼は,レドワル ド王の弟ユニ (Eni)の息子であるので,エ

グリックの従兄弟にあたる。アンナ王は信仰心の厚い立派な人物であったが,

マ-シア王ペンダに殺された。アンナには4人の王女がおり,いずれも修道

女として生涯を送 り,そのひとりが聖エゼル ドレダである。その後エゼルヘ

レ王 (Ethelhere,在位654-55)とエゼルワル ド王 (E山elwald)の時代にな

ると,イース ト・アングリア王国はしだいにおとろえ,マ-シアヤウェセッ

クスに従属したのちに,9世紀にはヴァイキングの支配下に入ることになった。

イース ト・アングリア王国の最盛期の富強をみごとに示 しているのが,

サフォークのウッドブリッジ (Woodbridge)近郊の小村サ トン ・7-

(SuttonHoo)の舟塚である。1939年に発掘 され,切妻造 りの船室をもつ全

長24メー トルの擢船が復元されるとともに,さまざまな豪華な副葬品が発見

された。 しかし遺体は発見されず,その痕跡 もなかったために,イース ト・

アングリア王家の記念塚であると推定されており,イース ト・アングリア王

国がスカンデイナヴイアはもちろん,フランク王国やはるかビザンツ帝国と

交渉をもっていたことがあきらかにされた。すなわち副葬品のなかには,フ

ランク王国の金貨やビザンツ皇帝アナスタシオス一世の刻印のある銀製大皿

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などが含まれている。この記念塚の主は,前述のレドワル ド王であるとする

説と, 7世紀なかばのアンナ王またはエゼルヘレ王 とする説がある。

(3)

ハンバー川以北のノーサンプリアにおいては,アングル人がヨークを中心

とするデイラ王国 (南部)と,さらに北部のバーニシア (ベルニキア)王国 (北

西部)の二つの王国を形成 し,それぞれリージッド,ウオタデイこ,ダルリ

アダ,ス トラスクライ ドなどのプリトン人と戦いつつ勢力を拡大 した。6世

紀の後半に,デイラにはアエラ (Aella,在位560-88),バーニシアにはエゼ

ルリク (E山elric,在位568-72)が出た。

エゼル リクの息子のバーニシア王エゼルフリッ ド (Ethelfrid,在位

592/3-616)は,603年にデグサスタン (Degsastan,デグサ石の意で,おそ

らくド-ス トンDawston)において,スコット人すなわちアイルランド人の

王アイダン・マック ・ガブレイン (AedanmacGabrain)が率いるダルリア

ダ軍を破 り,さらに613年ころにはチェスタ⊥ (Chester)の戦いでウェール

ズ北部のボウイスを破った。

その後エゼルフリッドは南の同族デイラを攻撃 したが,デイラ王アエラの

王女アクハ (Acha)と結婚 し,ここにノーサンプリア全域の支配者となった。

しかしアエラの王子エ ドウィン (アクハの兄)はイース ト・アングリア王レ

ドワル ドに保護をもとめた。 レドワル ドは,エ ドウィンを助けて,エゼルフ

リッドをアイドル河畔の戦い (616)で破ったことは前述のとお りである。

こうして今度はエ ドウィン (在位616-32)が,エゼルフリッドの王子たちを

追放 してバーニシアを併合 し,ノーサンプリア王国を樹立することができた

のである。

エ ドウィンは,第五の 「覇王」に数えられ,その支配は,それまでのアン

グロ ・サクソンの諸王のなかではもっとも広範囲に,つまりべ リックシヤー

からコーンウォールまで,ロンドンからホリヘッドまでおよんだ。マ-シア

を従属 させ,ウェセックスに遠征 し,ブリトン人との戦いではエルメツトを

併合 し,ウオタデイ二やグウイネッズを攻撃 した。彼の王宮のひとつが,ノ

ーサンバランド州のイェヴァリング (Yeavering)で発掘 されているが,こ

れは王宮 というよりも,rベ-オウルフ」に見られるような,奇襲,戦闘,

略奪の世界を紡柵 とさせる城砦であったといわれている。 しかしヨークにお

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いては,現在 ヨーク大聖堂 (YorkMinster)地下の発掘があさらかにしてい

るように,エ ドウィンはノーサンプリア王にふさわしい威厳のある宮廷をい

となんだことが推定 されるのである。

エ ドウィンは627年 4月11日にキリス ト教に改宗 し,ノーアンプリアで最

初のキリス ト教の王となった。ノーサンプリアの改宗に貢献 したのは,パウ

リヌス (Paulinus,584ころ-644)である。 彼は,601年に教皇グレゴリウス

一世.によってイングランドへ派遣 された第二回伝道者たちのひとりである0

イース ト・アングリア王レドワル ドがケント王国において改宗 したとき,パ

ウリヌスはレドワル ドにしたがってイース ト・アングリアへ行 き,そこで亡

命中のエ ドウィンに出会ったものと推定 される。エ ドウィンの即位後,パウ

リヌスは,当時はまだ異教徒であったエ ドウィン王 と,ケン ト王エア ドパ

ル ド (Eadbald,在位616-40)の妹でキリス ト教徒であったエゼルプルガ

(Ethelburga,エゼルベル ト一世の王女)の結婚問題を解決 したために,エ

ドウィンは貴族や国民 とともにキリス ト教に改宗 した。パウリヌスは625年

に初代のヨ⊥ク司教に叙 されていた・。

しか しエ ドウィンのノーサ ンプ リア軍は,632年 にハ トフィール ド・

チ ェイス (HatfieldChase)の戟いで, グウ イネッズ王 カ ドワロ ン

(Cadwallon)とマ-シア王ペンダの同盟軍に敗れたために,パウリヌスに

よって築かれたノーサンプリアにおける教会は壊滅 してしまった。ヨークは

攻略され,エ ドウィンの王子たちは,彼が亡命中に結婚 したマ-シア王ケア

ルル (Cearl)の王女クウェ'ンベルガ (Quenberga)との男子 も,エゼルプ

ルガとの男子 も殺害された。パウリヌスは,王妃エゼルブルガや王女エアン

フレッド (Eanfled,のちのオズウイ王妃) とともにケントへ引き上げ,漢

するまでロチェスター司教をつとめた。

このような混乱のなかでノーアンプt)アの支配権を手中にしたのは,エゼ

ルフリッド王の王子たちである。彼 らはエ ドウィン王の時代にはスコット人

や ピク ト人の国に追放 されていたが,まずエアンフリッド (Eanfrid)がバ

ーニシア王 (在位633-34)と認められたものの,まもなくカ ドワロンに殺害

された。エアンフリッドの弟オズワル ド (Oswald,在位633-41)は,633年

にノーサ ンプリアに帰 り,カ ドワロンをデニセスプルナ (Denisesburna,

すなわちデニス川の意)において破 り,ノーサンプリアを再統一することが

できた。

オズワル ドは亡命中に,聖コルンバヌス (Columba)によって建造 された

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聖女エゼル ドレダの時代 -87-

イオナ (アイオーナ)島の修道院のアイルランド-スコットラン ド系の修道

士たちによってキリス ト教に改宗 していた。カ ドワロンとの戦闘にさきだっ

て木の十字架を立てて兵士たちとともに祈ったが,これが勝利をもたらした

と確信 し,即位後にキリス ト教化を推進した。イオナに宣教師の派遣をもとめ,

アイルランド出身の聖アイダン (Aidan,?-651)にリンデイスファーン島

をあたえて,伝道を支援 した。

オズワルドの支配領域は,エ ドウィンのそれを上回 り,彼は第六の 「覇王」

に数えられている. しか し641年にメザ-フェルス (Maserferth)の戟いで

マ-シアの異教徒王ペンダに敗れ,戦死 した。彼は殉教王と呼ばれ,聖人に

列せられた。

オズワル ドの死後,ノーサンプリアはバーニシアとデイラに分裂 し,前者

ではオズワル ドの弟オズウイ (Oswy,在位64ト70)が即位 し,後者ではオ

ズリック (Osric)の息子のオズウイン (Oswin,在位642-51)がデイラ王

となった。オズウインは容貌すぐれ,挙動 も端正で,かつきわめて謙虚な人

柄のキリス ト教徒であったと伝えられ,アイダンの布教活動を援助 した。 し

かし両者の不和はしだいにたかまり,651年にオズウイはデイラを攻撃 し,

オズウインは従士とともに,インゲ トリングム (hGedingum,ヨークシャ

ーのギ リングGilling)という場所で殺害 された。そこでデイラは,オズワ

ル ドの息子エゼルワル ド (Ethelwald,在位65卜55)を王に選び,マ-シア

王ペンダに保護をもとめた。ペンダは,イース ト・アングリア王エゼルヘレ,

グウイネッズ王カ ドワラダ (Cadwaladr,在位633-64)と連合 してオズウイ

を攻撃 してきた。オズウイは,兄オズワル ドが敗れた異教徒王ペ ンダと対

決す ることになったわけである。 オズ ウイは654年 にウ インウァイ ド

(wlnWaed)河畔の戦いでペンダとエゼルヘレの両者を破ることができた (こ

の川はおそらくリーズ付近のウェント川とされている)0

こうしてオズウイはノーサンプリアの統一を達成 し,第七の 「覇王」に数

えられた。彼はイングランドにおける覇権をもとめてマ-シアなどの隣国と

戦わなければならなかったばかりでなく,ノーサンプリアq)二つの王統をめ

ぐる確執のゆえに,オズウイン殺害の罪を犯すことになった。のちに彼は,

この罪をつぐなうために,ギリングに修道院を建造 している。のちのジヤロ

ー修道院長ケオルフリッド (Ceolfrid)はこの修道院ではじめて修道士をつ

とめた。オズウイは,他 にも修道院を建造 しているが,特に657年に創建 さ

れたウイトピー (Whitby)の共同礼拝修道院が知られている。この共同礼

(841)

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拝修道院はノーサ ンプリアの王族と密接な関係があり,初代院長に任命 され

たのが,聖 ヒルダ (HildofWh itby,614180)であった.聖ヒルダはノーサ

ンプリア王エ ドウィンの坊へレリック (Hereric)の娘にあたり,627年の復

活祭にヨーク司教パウリヌスからエ ドウィン王とともに洗礼を受けた0647

年に修道女 となる決心をして,妹のヘ レスウイス (Hereswith)がパ リ近郊

のシェル (Chelles)で修道女となっていたので,同様にフランク王国へお

もむくつ もりであった. (ヘ レスウイスは,・イース ト・.アングリア王アンナ

の弟で後継者のエゼルヘレと結婚 していたが,夫が王位を継承する以前に,

修道女となるために夫のもとを去ったものと思われる。) しか しイース ト・

アングリア王国にいるあいだに,アイダンによって母国に呼び戻され,ハー

トルプール (Hartlepool)の修道院長に任命 された (649)。そ してその8年

後にウイ トピーの修道院長 となった。ウイトピー修道院は,664年にはイン

グラシド宗教史上有名なウイトピーの教会会議の舞台となり,ヒルダはケル

ト教会の伝統と慣習の擁護につとめたが,最終的にはローマ教会への統一と

いう結果を受け入れた。

ウイトピー修道院は神学のみならず,文学 によっても有名となった。 7世

紀の宗教詩人として著名なキヤドモン (Caedmon)は,その名がはっきり

と知られているイングランド最初の詩人であるが,658年から689年までウイl

トピー修道院において聖ヒルダのもとで修道士をつとめ,いわゆる 「キヤド

モン詩」(Caedmonpoems)の作者とされている。ベーダが伝えるところに

よれば,彼は,夢のなかのお告げによって,創造主たる神にーよる世界の創造

を請えた歌をうたうように命ぜられて詩作 したが,目覚めたのちもそれらの

詩句を記憶 してお り,聖書に題材をえて詩作をつづけたとされている。 しか

し今 日ではノーサ ンプリア方言で書かれているキヤ ドモ ン作 r讃美歌」

(Caedmon'sHymn)のみが,彼の作であると認められている。 キヤ ドモン

の名前がゲルマン系ではなくケル ト系であることは,ノーサンプリアにおけ

る輝かしい文化の復興のために,キリス ト教文化 とともに,ケル ト文化がは

たしたおおさな役割を示唆 しているといえよう。

ノーサ ンプリア王国のオズウイ王は670年に死去 し,息子のエグフリッド

(EgAid,在位670-85)が王位を継承 した.すなわちエゼル ドレダの夫である.

エグフリッドは,このころしだいに台頭 してきたマ-シア王国と対決 しなけ

ればならなかった。マ-シアでは,最盛期のノーサンプリアをつねに脅かし

つづけたペンダが654年に戦死 したのち,彼の三人の息子たちが順次即位 し

(842)

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聖女エゼルドレダの時代 -89-

た。 まずペ アダ (Peada,在位654-56),ついでその弟の ウルフへ レ

(Wulhere,在位657-75),そ してエゼルレッ下 (Ethelred,在位675-704)

である。彼 らはそれぞれノーサ ンプリア王オズウイの王女エルフレッ ド

(Elfred),ケント王の王女エオルメンキルダ (Eormenkilda),ノーサンプ

リア王オズウイの王女オススリス (Osぬけ山)を王妃 としていた。オススリ

スはバー ドニー修道院長であったが,697年マ-シアの貴族たちに殺害された.

ノーサ ンプ リア王 エ グ フ リ ッ ドは , マ - シ ア王 ウ ル フへ レを破

り,リンドシーを回復 したが,679年にマ-シア王エゼルレッドと トレント

河畔で激戦を交わすことになった。 しか しカンタベ リー大司教テオ ドロス

('meodoruS)の尽力によって両国間に講和が結ばれることになった.

こうしてエグフリッドはハンバー川以南への進出を断念せざるをえなくな

り,それ以後は北方のピクト人との戦いに専念したが,ダンニヒェン ・モス

(DunnichenMoss)の戦いで大敗を喫 し,彼自身も戦死 した。

(4)

ブルゴーニュ出身の司教フェリクスが,627年に第5代カンタベ リー大司

教ホノリウス (Honorius,在位627-53)によって派遣 され,イース ト・ア

ングリアの改宗に着手 したのは,エゼル ドレダが生まれる3年前のことであ

った。彼女が生まれた630年には,シグベル トがイース ト・アングリア王

となっている。そして彼女が生 まれた4年後にはのちのヨーク司教聖ウイ

ルフリッドが,また 5年後にはのちの リンデイスファーン司教クスベル ト

(Cuthbert,635-87)が生まれている。

エゼル ドレダの父であるイース ト・アングリア王アンナは,前述のサ トン・

7-の舟塚に記念された王であるとする説があるように,7世紀半ばのイー

ス ト・アングリア王国の繁栄期の王である。もっともこのころにはレドヮル

ド王時代の覇権はすでに失われ,マ-シアヤウェセックスからの脅威をうけ

ていた。アンナ王は,ベーダの記述によれば,信仰心がゆたかで立派な人物

であった。たとえば,ウェセックス王ケンウアル (Cenwahl)は,もとは異

教徒であり,王妃はマ-シア王ペンダの妹であったが,こq)王妃と離婚 して

別の女性,おそらくセクスブルガ (Sexburga)と結婚 したために,ペンダ

から攻撃され,イース ト・アングリアに逃れた。彼はアンナのもとで 3年間

亡命生活をお くっているあいだに,646年フェリクスによってキリス ト教に

(843)

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改宗 してお り,アンナは彼の王位回復を援助 している。

アンナ王には,4人の王女がいたが,彼女らはいずれも最後には信仰生活

に入っている。イース ト・アングリアの王室においては,シグベル トの修道

生活への隠遁はまだ人びとの記憶のなかであたらしく,またフェリクスやフ

ルサの影響力はいかなる犠牲をもいとわないつよい信仰心を生み出していた。

エゼル ドレダもこのような宗教的環境のなかで成長 し,しだいに敬虞なここ

ろをやしなっていったにちがいない。少女時代には美 しい装身具などを好ん

だが,成人するとなんら誓約は立てていなかったけれどもはやくからみずか

らを 「キリス トの花嫁」とみなしたと伝えられている。

しかし7世紀半ばのイース ト・アングリア王国の王女にとっては,政略結

婚は避けがたい運命であった。マ-シア王ペンダがイース ト・アングリアに

侵入し,シグベル トとエダリックが戦死 したのは640年のことであった。エ

ゼル ドレダの姉セクスブルガ (Sexburga)は,641年または642年にケント

王エアルコンペル ト (Earconbert)と結婚 している。エアルコンペル ト

は,エゼルベル ト王の孫にあたり,640年に即位 していた。エゼル ドレダへ

の求婚者はおおぜいいたが,結局彼女はフェンズ地方の首長 (Princeofthe

Fenmen)であ り,キリス ト教徒の トンドベル ト (Tondbert)をえらび,

652年に結婚 した。フェンズ地方は,イングランド東部 リンカンシヤーのウ

オッシュ湾付近の低地であるが,エゼル ドレダの時代には沼沢地であった。

トンドベル トはイース ト・アングリアのかなりの地域の領主であり,その支

配は,南はケンブリッジにまでおよんでいた。ベーダは, トンドベルトを 「南

ギルワ人の首長」と呼んでいる。

エゼル ドレダは, トンドベル トと結婚 したけれども,はやくから 「キリス

の花嫁」として,キリストにのみつかえることを決意 していたので,夫と寝

室をともにすることはなく,純潔をとおした。 トンドベル トは,当時の慣習

にしたがって,結婚の贈 り物としてイーリー島 (山elsleofEly)を彼女にあ

たえた。これは,彼の領域のなかでは,沼沢地ではない陸地としては最大の

土地であった。エゼルドレダは,この土地をおおいに愛し,その収入の管理は,

執事のオーヴイン (Ovin,Owen)にゆだねている。オーヴインは,そのケ

ル ト系の名前が示唆するとお り,アングル人によるイース ト・アングリア地

方の征服ののちもフェンズ地方に残存 していたブリトン人であったと考えら

れる。

エゼル ドレダの結婚から2年後に,ペンダによる二回目のイース ト・アン

(844)

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聖女エゼルドレダの時代 -91-

グリア侵入が起こった。アンナとその息子は戦死 し,アンナの弟のエゼルヘ

レが即位 した。655年にはペンダとエゼルヘレがオズウイに敗れ,ペアダが

マ-シア王となり,エゼルワル ドがイース ト・アングリア王となった。イー

ス ト・アングリアでは,フルサが大陸にのがれ,ネウス トリア (メロヴイン

グ朝フランク王国の西の分国)のクローヴイス二世 (ClovisⅡ, 在位639-

57)の保護をうけることになった。フルサはパリ東郊に土地をあたえられ,

ラグニ-シュル-マルヌ (Lagny-sur-Marne)修道院を創立 し,静かな余生

をお くることができた。

トンドベル トはフェンズ地方にあってペンダの侵入からは無事であったが,

ペンダがオズウイに敗れた655年に死去 した.寡婦となったエゼル ドレダは,

かねての願望にしたがって,修道女としての正式の誓約はたてていなかった

けれども,この機会に信仰生活に入る決意をあらたにし,数人の侍女たちが

彼女と行動をともにした。

その後659年になって,エゼル ドレダと,ノーサンプリア王国の王子エグ

フリッドとの結婚が決まり,彼女はノーサンプリアへ行 くことになった。エ

グフリッドはオズウイ王と王妃エアンフレ.y'ド (エ ドウィンとケントのエゼ

ルベルガの娘)の子である。当時オズウイは,マ-シア王ペンダを破ったの

ちに,アングロ ・サクソン諸国のなかでしだいに 「覇王」の地位を築 きつつ

あった。エゼル ドレダは,ペンダとともにオズウイに敗れたエゼルヘレの姪

であったけれども,ノーサンプリアとイース ト・アングリアのあいだには長

い歴史的な友好関係が存在 し,彼女とエグフリッドの結婚は,イース ト・ア

ングリアにとって歓迎すべき縁組であった。 しかし修道生活への献身を決意

していたエゼル ドレダ自身は,再婚をまったく望んでおらず,エゼルヘレを

継いだイース ト・アングリア王エゼルワル ド (Ethelwald,在位655-64)の

つよい説得によって,彼女はこの結婚を受け入れざるをえなかったのである。

ちなみに,おなじ659年には,エゼル ドレダの姉セクスブルガの娘であるケ

ントの王女エオルメンキルダ (Eormenkilda)が,ペアダを継いだマ-シア

王ウルフへレと結婚 している。

エゼル ドレダとエグフリッドが結婚 したとき,彼は15歳であ り,妻よりも

14歳年少であった。彼女は, トンドベル トとの結婚とおなじ条件をエグフリ

ッドとの結婚に際 しても持ち出 したにちがいない。ベーダは,「彼女はこの

配偶者と12年間過ごしたが,処女の純潔によってたえず輝か しい状態を持続

した」と述べている。こうしてエゼル ドレダはノーサ ンプリアに落ち着 く

(845)

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ことになった。 ノーサ ンプリアでは,エグフリッ ドの兄アルクフリッ ド

(〟ch血・id)が 「下王」 としてデイラ王の地位にあった。アルクフリッドの

王妃は,ペンダの王女キネプルガ (Cyneburga)であった。ウインウアイ ド

河畔の戦いのときには,アルクフリッドは父オズウイとともに戦い,当時10

歳のエグフリッドはマ-シアで人質となっていた。その後,アルクフリッド

は何らかの理由でオズウイと対立 したものと思われる。

アルクフリッドは,のちに (669)ヨーク司教となるウイルフリッドをお

おいに尊敬 していた。ウイルフリッドは,7世紀のイングランド教会史にお

いては,カンタペ リーの (タルソスの)テオ ドロスとならんでもっとも著名

な人物である。彼は,634年にノーサンプリアの,おそらく貴族の家系に生

まれ,オズウイの王妃エアンフレッドの保護をえて,リンデイスファーンの

修道院に入った。この修道院は当時はまだ創立者アイダンの管轄下にあった。

654年には,ふたたびエアンフレッドの授助をえてローマ巡礼をおこない,

ノーサ ンプリアへ帰国すると,リボン (Ripon)の修道士 となり,658年に

はアルクフリッドによって修道院長に任命 された。ウイトピーの教会会議

(664)では,ローマ教会を代表 して,復活祭の日付の決定法および宗規に

かんしてローマ教会の慣習をケル ト教会に認めさせるために尽力 している。

その後まもなくウイルフリッドは,アルクフリッドによってヨーク司教に

任命されるが,当時カンタベリー大司教位は空位になっていたために聖別を

受けることができなかった。つまり,カンタペリーでは,第 5代ホノリウス

大司教の死後 1年 6か月空位ののちに,アングロ ・サクソン人としては最初

の大司教である第6代デウスデデイトウス (Deusdeditus,在位655-64)の

死後ふたたび空位 となった。テオ ドロスが668年3月26日に第 7代大司教に

えらばれ,翌年の 5月27日にカンタベリーに到着しているので,空位は約 3

年8か月間つづいたことになる。ウイルフリッドは,ケル ト教会の司教から

聖別を受けることはできなかったので,ガリアまで行って,もとド-チェス

ター司教で,このときパ リ司教になっていたアギルベル ト (Agilbert)から

聖別を受けることになった。ウイルフリッドがノーサ ンプリアを留守にして

いるあいだに,アルクフリッドは父オズウイと争うことになったものと推定

される。666年にウイルフリッドが帰国すると,アルクフリッドは行方不明

となっており,彼が任命されていたヨーク司教位は,オズウイによってチャ

ドにあたえられていた。またアルクフリッドにかわってエグフリッドが,チ

イラの支配者として,ノーサンプリアの 「下王」の地位についていた。ウイ

(846)

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ルフリッ ドはリボンの修道院へ帰らざるをえなかったが,できるか ぎり司教

としての職務を遂行 した。

チャド (Chad,?-672)もまたこの時代の著名な聖職者の一人であ り,ラ

テン語名ケアダ (Ceada)としても知 られ,リンデイスファーンの司教アイ

ダンの弟子であった。 ヨークシャーのラステインガム (hstingham)の修

道院長であった兄のケッド (Cedd)が664年に疫病で死去 したとき,修道院

長を引きついだが,おなじ年のうちに,彼はオズウイによってヨーク司教に

任命された。こうしてアルクフリッドによって任命されたウイルフリッドと

ともに,二人のヨーク司教が対立することになったのである。ちょうどこの

ころに,テオ ドロスがカンタベリー大司教として着任 し,チャドの司教職の

非合法性 を指摘 したので,チャドは669年に潔 く辞任 し,ラステインガムへ

引退した。 しかしまもなくテオ ドロスはチャドをマ-シアの司教に叙 し,チ

ャドは司教座をリチフィール ド (Lich丘eld)においた。その後,チャ ドはリ

ンカンシヤーのバロー-オン-ハンバー (B.arrow-on・Humber)に修道院を

創立するなど,宣教活動に専念 したが,3年後にペス トで他界 した。没後,

聖人に列せられた。

ウイルフリッドはこうして669年にヨーク司教になった。 (彼はこの地位

に678年 までとどまることになる。)このころにはノーサ ンプリア王オズウ

イの治世はすでに27年におよび,彼 もしだいに老いつつあった。オズウイは

マ-シア王ペンダと戦い,またノーサンプリアの王族と戦うことによって 「覇

王」の地位を保持するとともに,キリス ト教徒 として敬虞であり,エセック

ス王を説得 して受洗 させ,エセックスの改宗をもたらした。またペ ンダの息

子であるマ-シア王ペアダが,オズウイの王女アルクフレッド (Alchfred)

との結婚を申し込んだとき,キリス ト教への改宗を条件 とされ,また王子ア

ルクフリッドから信仰の受容を説得された。オズウイはケル ト教会の伝統の

なかで成長 したけれども,ローマ教会の重要性 と魅力をよく認識 していたの

である。

さらにオズウイは,ベネディクト・ビスコップ (BenedictBiscop,628ころ

-89)にセント・ピーター ・アンド・セ ント・ポール合同修道院のための土

地をあたえている。イングランドのベネディク ト会の大修道院長として知ら

れるビスコップもまた,7世紀イングランドが生んだ著名な聖人のひとりで

ある。彼はノーサ ンプリアの貴族の家系に生まれ,本名をビスコップ ・バー

ドウチング (BiscopBaducing)といった。若いころにはセインとしてオズ

(847)

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ウイ王に仕えたが,25歳ころに宗教的回心を経験 し,653年にローマへの巡

礼に出発 したが,このときウイルフリッドがリヨンまで同行 している。いっ

たんイングランドに帰ったのちに,664-68年にも大陸に滞在 し,2度ローマ

を訪れている。668-69年にイングランドへ戻ったときには,テオ ドロスとハ

ドリアヌス (HadrianofCan berbuTy,?-709)を連れ帰った.ハ ドリアヌスは,

テオ ドロスの協力者として,のちにセント・ピーター ・アンド・サ ント ポ

ール修道院 (セント・オーガステイン修道院)の院長をつとめた人物である。

ビスコップ自身,669-71年にはカンタベリーに滞在 してこの修道院の院長を

つとめた。さらにもう一度671-72年にローマへ旅 したのちに,ノーサンプリ

アへ帰 り,673年にエグフリッド王からの援助によってウェアマスに修道院

を建立 し,ガリアから石工やガラス工を呼び寄せた。五度 目のローマ訪問

(678-70)後の681年に,ビスコップはジヤローに合同修道院を建立 し,ベ

ネディク トウス会則を修正 して導入 し,ケオルフリッド (Ceolfrid)を院長

に任命した.685-86年の最後のローマ訪問のときにも,おおくの書籍,絵画,

聖遺物をもたらし,ノーサンプリアにおける学芸の隆盛におおきく貢献 した。

特に,彼がローマからもたらした尾大な書籍が,ベーダの仕事を可能にした

と考えられている。

オズウイはまた,ケント王エグベルト (Egbert,在位664-73)と協議 して,

カンタベリー大司教の空位を満たすために,司祭ウイグハル ド (Wighard)

を大司教としての聖別のためにローマに派遣 したが,ウイグハル ドは疫病の

ためにローマで客死 した。このためテオ ドロスが大司教にえらばれたのであ

った。他方,オズウイを終生苦しめたのは,オズウイン殺害 (651)であった.

彼が,王妃エアンフレッドのすすめによって,殺害の地に修道院を建立 した

ことは前述 したとお りである。オズウイの最後の願望はローマ巡礼であり,

ローマをよく知るウイルフリッドに同行をもとめていたが,彼のローマ巡礼

が実現することはなかった。

(5)

670年 2月15日にオズウイは死去 し,ウイトピーに埋葬された。エグフリ

ッドが即位するとともに,エゼル ドレダはノーサンプリア王妃となった。彼

らの名目上の結婚生活はこのとき11年目に入っていたが,エゼル ドレダの信

仰生活への決意はますます強固になっていた。聖チャドがヨーク司教を辞任

(848)

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したのは669年であり,いまではウイルフリッドがヨーク司教の地位にあり,

ノーサンプリアの教会の比肩する者のない支配者となっていた。エゼル ドレ

ダが,豪華な宮廷生活をお くりながら,精神的支えをもとめたのは,このウ

イルフリッドであった。エゼル ドレダは,結婚の贈 り物 として,エグフリッ

ドからヘクサム (Hexham)の全域をあたえられていたが,この地はふたつ

の河川が合流する肥沃な領土であった。彼女はいまやこの土地からの収入の

すべてを,ウイルフリッドへ贈与するようになった。

エグフリッドは,彼女が司教ウイルフリッド以外にはだれをも愛さないこ

とを知 り,もし司教がエダフリッドとエゼル ドレダの結婚を有効ならしめる

よう王妃を説得することができたならば,おおくの土地と金銭をあたえよう

と約束した。しかしウイルフリッドは拒否 し,むしろエゼル ドレダに修道生

活のための衣服をあたえて,エダフリッドの憎悪をまねくことになった。エ

ゼル ドレダは夫に真の王キリス トにのみ仕える生活に入る許可をもとめつづ

けたが,ついに672年になってエグフリッドから結婚誓約の解消を認められて,

オズウイの異父妹であり,エグフリッドの叔母にあたるエツバ (Ebba)が

院長をつとめるコールデインガムの修道院へ入ることができた。エゼル ドレ

ダはこのとき42歳であった。

イーリーから彼女に従って来た家臣オーヴインも,俗世を棄てる決意をし

て,当時ラステインガムにいたチャドをたよった。チャドがリチフィール ド

に司教座をおいたときには,修道士オーヴインもリチフィール ドへ行き,

晩年のチャドによく仕えた。ちなみに,オーヴインはのちに故郷のハデナム

(Haddenham)へ帰ったであろうと考えられている。オーヴインに奉献 さ

れた十字架の基部が乗馬用踏み台に使われているのがハデナムで発見され,

現在は郷土史家ジェイムズ ・ベンタム (JamesBen血am)によってイーリー

大聖堂へ移されている。この十字架は基部だけであるので,ラテン十字架,

サクソン十字架,あるいはケルト十字架のいずれであったのかは不明であるが,

ハデナムの人びとは,この十字架を根拠にオーヴインは土地の人であったと

信 じているのである。

エグフリッドは,エゼル ドレダが去るのを許したことをすぐに後悔 したら

しい。 1年後には彼女をコールデインガムから力ずくで連れ戻そうとしている。

しかしエツバは,甥であるエグフリッドの宮廷の動向をよく把接 してお り,

知らせをえると,エゼル ドレダにコールデインガム修道院から脱出して故郷

のイーリーへ帰るように忠告 した。そこでエゼル ドレダは,二人の修道女と

(849)

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ともにイース ト・アングリアのアイル ・オヴ ・イーリーをめざして旅立った。

しかしその直後にエグフリッドがセインたちを率いて訪れたので,エゼル ド

レダらはエダフリッドの追跡を逃れるためにひとまず海岸にある岩山からな

る岬に身をひそめた。エグフリッドは彼女らの居場所を突き止めたけれども,

その岩山の岬は数日間高潮によって陸地から孤立 したままであったので,エ

ダフリッドは彼女たちに近づくことができなかった。その間にエグフリッドは,

聖別された修道女を無理に宮廷に連れ戻 し,修道誓約を放棄 させることが不

可能であることを知ったのであろう。あるいはエグフリッドにとって,異常

な高潮は奇跡のように思われ,神がエゼル ドレダをその保護下においたしる

Lとも見えたかもしれない。

エグフリッドが去ったのちに,エゼルドレダらは,巡礼者の姿に身をやつし,

ハンバー川を渡 り,できるかぎり村から村への間道をたどりながら,オフタ

ム (Al氏ham)を-て,リンカンからイーリーへむかった.14年間を北部で

過ごしたのちに,故郷へ帰ったエゼル ドレダは,43歳になっていた。彼女は

この地にイーリー修道院を創立することになる。

エゼル ドレダを呼び戻すことを断念 したエダフリッドは,以前から側室で

あったエオルメンプルガ (Eormenburga)と結婚 した。この女性はエグフ

リッドが664年にヨークでデイラの 「下王」 となったときには,すでに事実

上王妃の役割をはたしていたらしく,その倣慢な性格によってエグフリッド

を支配 していた。おそらく彼女は,エゼル ドレダがコールデインガムの修道

院へ入ることを認めるようエグフリッドに迫ったものと思われる。エゼル ド

レダが修道女となったいま,彼らの結婚は教会法から見ても,何の問題 もな

かった。

エグフリッドは, 7世紀のノーサンプリア王として,しば しば近隣諸国と

戦わねばならなかった。672年ころにはピク ト人の反乱を鎮圧 し,また西方

のカンブリアやス トラスクライ ドのプリトン人とも戦った。674年にはマ-

シア王ウルフへレの侵入軍を破って,リンジーの支配を確立 したが,679年

にはウルフへ レを継いだエゼルレッドに トレント河畔の戦いで敗れた0684

年には,イオナのエグベル ト (Egbertoflona,639-729)やクスベル トのつ

よい反対にもかかわらず,アイルランドを攻撃 した。マン島やアングルシー

島を征服 した祖父エ ドウィンと同様に,エグフリッドは優秀な艦隊をもって

いたものと考えられる。ベーダもこのアイルランド攻撃をキリス ト教徒にた

いする侵略 としてつよく非難 している。 しかし685年になって,エグフリッ

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Page 19: 聖女エゼルドレダの時代dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB...聖女エゼルドレダの時代-81- サクソヌム),455年にヘンギストとホルサは反乱を起こし,457年にケント

聖女エゼル ドレデの時代 -97-

ドは,南下をはかる北方のビクト人を攻撃 してフォース地峡をこえたが,前

述のとお り,ダンニヒェン ・モスで敗れて戦死 した。土グフリッドは,681

年にアバコーン (Abercorn,フォース湾南岸)に新 しい司教管区を設立 し

て いるが,これもノーサンプリアによる北部支配強化策の一環であった。

エグフリッドは,王妃エゼル ドレダが信頼 していたウイルフリッドをかね

てこころよく思っていなかったが,678年以後彼と対立することになり,カ

ンタベリー大司教テオドロスの支持をえた。テオ ドロスは,おおきな司教管

区の分割を考え,あらたに3人の司教をノーサンプリアのために聖別 した。

これはヨーク司教ウイルフリッドにとって,カンタベ リー大司教による意図

的な勢力拡大であるように思われた。追放されたウイルフリッドは,ローマ

へ行き,教皇アガ ト (Agatho,在位678-81)に訴えた。教皇の主宰する裁

判所は,ウイルフリッドの主張を支持 したので,勝訴 した彼は,復位のため

に教皇書簡をたずさえてヨークへ帰った。しかしエグフリッドは,教皇書簡

を無視 し,ウィルフリッドの復位を拒否 したばかりでなく,彼を9か月間投

獄 した。この背後には,王妃エオルメンブルガの,ウイルフリッドにたいす

るはげしい憎悪があった。エゼル ドレダの信頼をえていたウイルフリツドば,

エオルメンプルガの性格 と行動を酷評 していたからである。681年にウイル

フリッドは,エツバの努力によって,ノーサンプリアを去ることを条件に釈

放され,亡命生活 (681-86)のほとんどをサセックスで過ごした。685年の

エグフリッドの戦死によって,ウイルフリッドの運命は好転 し,アルフリッ

ド王は彼をヨーク司教に復帰させたが,このときには司教管区は以前よりも

はるかに縮小 されていた。この司教管区分割の問題は,テオ ドロスの死後の

691年に再燃 し,アルフリッドもウイルフリッドと対立することになった。

703年にアルフリッドによって追放 されたウイルフリッドは,すでに70歳に

なっていたが,ふたたびローマへ訴え,教皇ヨハンネス六世 UohannesⅥ,

在位70ト5)の支持をえて,イングランドへ帰国した。オスレッド王は彼を

許し,ウイルフリッドは晩年の4年間をヘクサムの司教 として過ごし,709

年に没 した。

(6)

エゼル ドレダによるイー リー修道院の創建に協力 したのは,司教 ウイ

ルフリッ ドと,従兄弟 にあたるイース ト・アング リア王アル ドウルフ

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(〟dwulf)であった。イーリーにはケント王エゼルベル トの時代以来の聖

母マリアに献堂された教会の廃城がのこっていた。エゼル ドレダは最初この

教会の修復を考えたが,のちに現在のイーリー大聖堂のすぐ南側によりふさ

わしい土地を見つけ,アル ドウルフ王の授助によって673年に建物の建築が

開始された。この修道院は,コールデインガムやウイトピーと同様に修道士

と修道女の共同礼拝修道院であった。このような修道院は,ふつう王家の出

である女性の修道院長がみずから規則をさだめ,その個性を発揮 して運営に

あたっていた。エゼル ドレダが修道院長の地位についたとき,ウイルフリッ

ドは,司教としての職務をはたしたばかりでなく,国王裁判権からの免除など,

おおくの特権を獲得するために尽力してお り,ふた りは彼女の死にいたるま

で精神的に深 く痕ばれていたといえる。

この修道院におけるエゼルドレダの生活は,ベーダが記録 しているように,

きわめて禁欲的であ り,「神に献身するひじょうにおおくの処女たちのなか

の処女である母となりはじめた」。麻布の衣服を身につけず,毛織の衣服だ

けを用いたいと考えた。ひじょうに重要な祝日,たとえば復活祭,五旬節,

主の御公現の祝日以外には,めったに温浴 しなかった。温浴する場合にも,

他の者の最後であり,はじめにはキリス トの下碑 として,下女とともに他の

者を洗ってやった。一日に一回以上の食事をすることはまれであった。これ

らはいずれも禁欲生活において承認された特色である。また彼女は自分が死

去することになる疫病を予言したと伝えられる。

エゼル ドレダは,修道院長になって7年後の679年 6月23日に他界 し,イ

ーリー修道院は,姉のセクスプルガが院長として引き継いだ。セクスプルガは,

20年後の699年に他界 し,娘のエルメニルダ (マ-シア王ウルフへレ王の寡

棉)が院長を引き継いだ。そしてエルメニルダも,その娘のウェルプルガ

(Werburga)によって継承された。その後,9世紀になって,イーリー修

道院の建物はデーン人によって破壊されたが,その廃城はキリス ト教信仰の

ための礼拝に使用されつづけた。修道院は,10世紀になってカンタベリーの

聖 ドゥンスタン (St.DunstanofCanterbury,fXXト88)によって復興されたが,

ノルマン時代になってウイリアム征服王によってとり壊され,ノルマン朝の

修道院の建造が1080年代初頭に開始された。修道院教会がイーリー司教座聖

堂となるのは,1109年のことである。

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