ケインズ時代と現代ケインズ時代と現代...
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ケインズ時代と現代
花輪 俊哉
(一橋大学教授)
はじめに
わが国の景気は、バブル経済の崩壊を機に、不況に突入し、回復の
期待もむなしく、不況がさらなる不況を呼ぶという形で、きわめて深
刻な状況に落ち入っている。日銀も公定歩合を史上最低の1.75%にま
でひき下げ、政府も緊急経済対策を決め、深刻な不況からの脱出をは
かってはいるものの、必ずしも成果はあがらず、1930年代の大不況を
思い出させる風がある。本稿の課題は、現代の日本の問題をケインズ
時代との対比において理解しようとするものである。
第一節 ケインズ時代と共通の特色
ケインズは、1883年に生まれ、1946年に62才で死んでいるが、19361)
年有名な『一般理論』を出版し、いわゆるケインズ革命をひき起した
のである。ケインズは、ケインズ革命以前の伝統的経済学を「古典派」
と呼び、それを批判して新しい経済学の樹立をはかったのである。も
ちろんケンプリッヂ大学で勉学したケインズは、当時の代表的経済学
者であるマーシャルの弟子として、この古典派経済学を学んだだけで
はなく、それを教えていたのであるから、ケインズ革命は、まず自分
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自身の変革でなければならなかった。
ここに「ケインズ時代」というのは、当時支配的であった経済思想
と大不況という経済状態の中で、ケインズの新しい経済学が如何に浸
透したかを示した時代と考えることができる。なぜ「ケインズ時代」
をいま考えるかといえば、われわれを取り巻く現代は、このケインズ
時代と似ているところが多いと考えるからである。
細かくいえば、いろいろあるが、大きくいって、ここでは次の2点
を取上げよう。
まず第一に、価格機構に対する信認の度合いが、ケインズ時代も現
代も高いということである。資本主義経済には、代表的な3つの市場
がある。生産物市場、労働市場および資本市場であり、それぞれその
市場の価格として、生産物価格、賃金、利子率がある。そして、それ
ら諸価格を目安に需給が生ずる。一般に、価格が高くなれば、供給が
増え、需要は減少する傾向がある。反対に、価格が低くなれば、供給
が減少し、需要が増える傾向があるといえよう。そして、需給が等し
くなるように均衡価格が決定され、生産資源が有効に配分されると考
えられている。したがって、この価格機構に介入することは望ましい
ことではないと考えられるので、企業の独占や寡占および政府の介入
は拒否されることとなったのである。
ところで、こうした価格メカニズムに対する信頼は、論理的に自由
放任(レッセフェール)の思想につらなるのである。すでにケインズ2)
は、1926年『自由放任の終焉』をあらわし、価格機構の作用に疑問を
捏示していた。しかし、古典派経済学全体をくつがえし、新しい経済
学を樹立するためには、後十年を必要としたのである。1936年の『一
般理論』において、ケインズは、価格機構のマクロ経済学的意義を明
白にしたのである。すなわち、価格の働きは、ミクロレベルでは、古
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典派が説くように効果があるとしても、マクロレベルにまで、それが
拡大されたときには問題が生ずるということである。
たとえば、賃金は企業にとってコストであるから、失業の増大傾向
の中で、賃金が引下げられれば、利潤が増加し、企業の投資意欲が増
大すると、古典派は考えていた。したがって、不況下での賃金引下げ
は望ましいとしたのであるが、こうしたメカニズムは個別企業として
はいえる場合もあるが、賃金引下げが全企業に及んだ場合に、はたし
て同様によい効果をえられるだろうかといえば、ケインズは、それに
真っ向から反対したのである。なぜなら、賃金はコストである反面、
労働者の所得でもあるから、賃金の引下げは所得を減少させ、有効需
要を減少させるので、不況をさらに深刻化させると考えたからである。
たとえ個別的には妥当したとしても、全体的には妥当しないという考
えは、合成の誤謬として良く知られていることである。価格機構の有
効性について、とくにこの合成の誤謬を考慮することは必要である。
同様のことは、生産物価格についてもいえる。たしかに個々の価格
が下落すれば、われわれは需要を増やすことができるであろう。この
点では、ケインズも古典派と相違はないのである。しかし、経済全体
にそれが波及し、全体としての価格水準が低下するようになると、経
済はデフレーション過程に入ってしまうのではないか。したがって、
全体としての価格については、物価の安定が望ましいのである。相対
価格については、上がるものもあるが、下がるものもあったりしてよ
いが、全体としての価格水準は安定していることが望ましいとケイン
ズは考えたのである。一般にも物価の安定が経済の安定にとって望ま
しいと考えられているのである。相対価格の変化と物価水準の変化を
混同することは許されないのである。
現代において、計画経済を標樺していた社会主義経済が崩壊し、そ
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の市場経済化が進行しつつあることもあって、価格機構に対する信認
は、どこの国でもかなり強まっているのではなかろうか。またわが国
においては、戦後ながきに渡って規制が厳しかったことにより、価格
メカニズムに対する期待は大きくなっている。しかし価格機構万能主
義となることは、合成の誤謬を指摘したケインズ革命の意義を忘却し
てしまうことになるのである。
いま経済が不況過程にあるとすれば、消費支出は増加することが望
ましいが、その時価格が下降しているならば、下がりきった時に買え
ばよいと消費の延期を考えることは合理的であると考えられる。また
将来所得が増大するという期待がないならば、消費支出を増やすこと
は難しいであろう。さらに景気の行方が不安なら消費支出は反対に減
少するおそれさえあるのである。また企業の投資にしても、不況下で
は増大することが望ましいとしても、収益を得られる期待がなければ、
投資の増大はありえないであろう。
こうしたことで、価格機構による資源の有効配分に疑問をいだいた
ケインズは、それを補佐するものとして、経済政策による有効需要管
理を重視したのである。不況においては、金融緩和政策と拡張的財政
政策が、またインフレにおいては、金融引き締め政策と緊縮的財政政
策が必要とされたのである。現在の平成不況において、財政金融政策
が実施されたことは、現代においても、ケインズ的思考がなお生きて
いることの老嬢であるかもしれない。しかし、自律性が強調され、経
済政策の実施がやや遅れがちとなるのは、なお古典派的思考の尻っぼ
を残しているためではなかろうか。とくに赤字財政について、家計の
赤字と同様に考え、慎重な姿勢をとる人が多いが、いくら財政が健全
であっても、国の経済が不安定となったのでは仕方がないのである。
一国の安定成長のために、赤字財政が必要ならば、古い考えから脱却
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しなければならないだろう。問題は財政赤字の使用の仕方である。こ
れで後世代の資産形成が可能とならなければならない。わが国は、ま
だ社会資本の形成が不十分であるから、後世代の為にいまこそ政府が
積極的に行うべきである。
第二の類似点としては、1930年代の大不況と今回の平成不況の性質
があげられる。すなわち、両者とも単に有効需要の不足によるリセッ
ションだけではなく、その根底に金融面に根ざした原因があるのであ
り、不況の特色を、有効需要面と金融面との結合に求められると考え
られる。ケインズは、金融面の問題を主として、彼の新しき利子論で
ある流動性選好説に求めたのである。すなわち、「所有と経営の分離」
により、新しい経済主体として投資家(インベスター)が出現し、経
済の安定に大きな影響を与えるようになってきたと考えたのである。
弱気と化した投資家が債券よりも貨幣を選好するので、利子率は高止
まりし、完全雇用を維持するに足りる投資が起きないために、深刻な
不況の中では金融政策はあまり効果があがらず、積極的財政政策に期
待をかけざるをえなかったのである。
これに対し、今回の不況はバブル経済期における過剰な設備投資と
いう実物的要因だけでなく、バブル崩壊による不良資産の累積が金融
機関の経営を圧迫し、これが貸出を減少させ、投資を圧縮しているの
ではなかろうか。こうして第-に価格機構を重視する背景および第二
に有効需要面と金融面との結合による不況解釈という点で、ケインズ
時代と現代では類似している点が多いが、また異なっている点も多い。
次に、その異質点に注目して有効需要面と金融面の問題を考察しよう。
注1)J.M.Keynes,TheGeneraluleOryOfEmployment,lnterestandMoney,1936.
塩野谷裕一『雇用・利子および貨幣の一般理論」ケインズ全集東洋経済新報社
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昭和58年.
2)J.M.Keynes.TheEndofLaissez-Fhire,1926.宮崎義一訳r説得論集j東洋経
済新報社1981年に収録。
第2節 有効需要面における相違点
ケインズ革新が有効需要を重視したことにより、ケインズ経済学は、
一般に需要制約型モデルとして特色づけられ、それに対して、古典派
経済学は供給制約型モデルと考えられている。前者では、供給力がす
でに過剰であり、現実の生産量を制約するものが有効需要だと考えら
れたから、有効需要の増大が重要と考えたのであろう。現在のわが国
においても、バブル経済期におけるエクイティ・ファイナンス等によ
り、設備投資が過大となってしまったわけで、有効需要が不足してい
ることが問題なのである。
これに対して、後者では、供給が不足していることが生産の制約と
なっていると考えるのであり、単に需要を増大しても、生産の増加と
はならないのである。すなわち、財政支出を増大しても、民間支出が
クラウド・アウトされ、全体としての需要を増加させることはできな
いと考えられるのである。こうした古典派の世界は、まさにセーの法
則の言うように、「供給はそれ自らの需要を生む」世界と考えられる
のである。
こうした需要制約型・供給制約型モデルという特色付けは正しいの
であるが、これにより需要制約型モデルは不況の時代にしか妥当しな
い不況の経済モデルであるとか、また供給制約型モデルは、成熟した
経済には妥当しない開発途上国向けの経済学と考えることは誤りであ
る。両者の相違は、むしろ企業の生産調整を価格機構に依存させるか
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どうかにかかわらせて理解することができる。供給制約型モデルでは、
超過需要・超過供給に対応して、それぞれ価格が上昇・下降すると考
えているのに対して、需要制約型モデルでは、価格は生産費と適正利
潤に見合って設定され、企業の適正在庫を上回る売れ残りで、在庫が
増加する場合には、生産を減少させ、逆に適正在庫を下回るような在
庫減少がある場合には、生産を増加させるものと考えられており、価
格の調整よりも在庫の調整を重視しているのである。これが現代企業
の行動と考えられたのである。こうしたケインズの在庫調整による企3)
業行動は、ヒックスの伸縮価格モデルと固定価格モデルの先駆的認識
と考えられる。では、ケインズ時代と現代の相違はどこにみられるか。
その第1は、製造業における適正在庫の意義が異なってきたことで
ある。かつては、流通が不確実であったこともあり、倉庫が重要な意
味をもっていたが、現在は情報化の進展により、適正在庫を節約する
動向が一般的となってきた。いまや運搬されている財の在庫といわれ
ているトラックは、動く倉庫なのである。こうして製造業の適正在庫
の節約がすすむ中では、在庫調整の評価をする場合、注意が必要であ
る。過去のデータだけでは、適正在庫なのか、過剰(過少)在庫なの
かわからないからである。もし新しい適正在庫への調整なのに、過少
在庫と考えるならば、景気判断をあやまらせることになるだろう。
その第2は、公共財もしくは準公共財の在庫の意義が大きくなって
いることである。たとえば、国家安全の重要な課題になってきた石油
備蓄や食料品備蓄などはいうまでもない。そのほか住宅や工場等のよ
うな固定設備のようなものは、在庫調整がかなり難しいのである。微
調整がうまくゆかず、超過需要・超過供給が繰り返されてきた。不動
産に関わるものだけに調整は困難なことはわかるが、いろいろな観点
より資産流動化をはかって、こうした不動産関連の財についても、製
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造業並みになることが望ましいのである。
その第3は、これと関連して、ストック(資産)問題が新しく視界
に入ってこざるをえなくなったことである。ケインズは、貨幣の価値4)
を貨幣の購買力の逆数と考え、フローの観点からの物価を対象とした
けれども、資産価格の上昇は、それが地代や家賃を上昇させる限りに
おいて、フローインフレとして顕現することになるが、それが上昇し
なければインフレとは考えられなかったといえよう。それだけストッ
クのもつ経済的意義は小さくしか理解されていなかったと考えられる。
日銀は、今回の資産価格の上昇において、フローの物価が安定して
いた故に、インフレではないと考え、ストックインフレが発生してい
たにもかかわらず、マネーサプライを増加させ、ストックインフレを
悪化させたと考えられる。また、これがわが国におけるバブル形成の
条件となったのである。逆に、資産価格が下降し、ストックデフレが
発生した時にも、日銀の金融緩和政策が遅れたようにみえる。これは
物価水準をレベルで考え、変化率で考えなかった為かもしれない。こ
の間題は、一つは物価指数の問題であり、物価指数に資産価格を導入
することによって是正されるかもしれない。しかし、指数の修正とい
うよりも、考え方がより重要なのであり、ストックインフレ・デフレ
も重要なインフレ・デフレ形態であるという認識が大事である。
もちろん、今回の資産インフレ・デフレにおける日銀の政策対応の
遅れは、やむをえない点がなかったわけではない。すなわち、財政再
建下の円高不況の救済のために行われた金融緩和政策であり、ストッ
クインフレが生じても、金融引き締めにより金利が上昇すれば資金が
国内に流入し、円高を加速する怖れがあり、金融引き締め政策は困難
とされたかもしれない。また今回の不況においても、資産デフレを緩
和するために金融緩和政策をとれば、金利を低下させ、資金を流出さ
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せて円安が生じ、経常収支の黒字をさらに増加させる怖れがあったの
で、資産デフレは無視されたのかもしれない。そこには国内均衡と国
際均衡の対立という構図がみえるのだが、いずれにしても、ストック
の要因がケインズ時代よりも重要となってきたことを指摘しておこう。
さらに、経済政策についての相違について付け加えておこう。
経済政策の有効性を信じたケインズではあるが、より具体的に考察
しよう。金融政策については次節にゆずり、ここでは財政政策につい
て考えよう。財政政策についても、税率を動かす政策と財政支出を増
減する政策があるが、ケインズは、税率よりも財政支出を動かす方を
より重視したのである。税率を換える政策は、確かに「他の条件が等
しき限り」、効果はあると考えられるが、他の条件が等しいことはめっ
たにないのである。たとえば、今回の不況について、所得税減税が論
議されているけれども、所得不安や雇用不安がある中での所得税減税
では消費増になるとは考えられない。わが国においては、とくになが
らく年功序列的終身雇用型の雇用・賃金形態であったのに、このとこ
ろ急速にその見直しが叫ばれていることから、中高年に雇用不安が発
生し、たとえ所得税が減税されても、消費へ与える効果は小さいと思
われる。むしろ不足している住宅形成のための住宅減税や企業の投資
減税の方が大きいだろう。また円高差益還元の一つとして、電気料金
が値下げされるようであるが、これについても、各家庭での消費支出
効果は小さいであろう。むしろ電線を地中に埋める工事を、財政支出
とタイアップして行うメカニズムを考えることの方が大事なのではな
かろうか。
注3)J.R.Hicks,AMarketTheoryofMoney1989.chap3.花輪俊哉・小川英治訳
「貨幣と市場経済」1993年東洋経済新報社第3章
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4)J.M.Keynes,ATrietiseonMoney,1930.chapl.小泉明・長澤惟恭訳『貨幣
論」第1章
第3節 金融面における相違点
ケインズは、偉大な金融学者と言われるようになったが、その背景
には大きな金融環境の変化があり、その解決に努力したためである。
その一は、資本主義経済初期から続いた金本位制が、ケインズによ
り過去の遺物として批判され、管理通貨制に転換されたことである。
ケインズは、インフレのない完全雇用の達成維持のためには、金本位
制のように貨幣供給量を一国の金保有量に制限させるという枠組では
困難であり、貨幣量を弾力的に供給できるような管理通貨制度の確立
が必要であるとしたのである。
その二は、資本主義経済の成熟化とともに、金融資産の累積がすす
み、従来の経済主体である生産者や消費者のほかに、投資家(インベ
スター)が重要な存在となってきた。ケインズは、「所有と経営の分
離」の中で、そうした投資家の流動性選好が慢性的失業を生むことを
指摘したのであった。
こうしたケインズの分析は、現代にも妥当する優れたものであるが、
極めて単純化されたために、現代の問題を考察するためには、修正す
る必要がある。第一に、ケインズは、金融政策の担当者として当然中
央銀行を考えたが、民間銀行の行動については十分分析をしなかった。
1930年の『貨幣論』ではともかく、とくに『一般理論』では、そうで
あったように思われる。現代においては、民間銀行の行動を考慮しな5)
いわけにはいかないであろう。第二に、投資家の選択対象としては、
利子の付かない貨幣と利子の付く長期債券しか考えていなかったので
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ある。しかし、単純化するにしても、ケインズの選択対象資産に加え
て、現代では少なくとも利子の付く短期債券を考慮に入れなければな6)
らないだろう。場合によっては、短期債券の利回りが長期債券の利回
りよりも高くなることがみられたのである。
また第三に、ケインズの選択論では、貨幣は流動的資産と考えられ
ていたが、これは非金融部門を中心に考えたためであり、銀行を考察
の対象に入れると、銀行保有の貨幣は、必ずしも流動的な資産である
とはいえないのである。なぜなら、そのかなりの部分は、経常的取引
のためのものであるから、運転資産と考えられるべきものである。銀
行の流動資産的のものは、支払準備の中に存在すると考えられる。ま
た国民経済全体の中で考えると、銀行は非金融部門に対して、金融的7)
仲介者として、流動性を供給する役割を果していると考えられる。
現在、銀行は、バブル崩壊による不良資産の拡大により、またBI
S規制の高まりによって貸し渋りが生じていると主張されている。も
ちろん、貸し渋りがないという主張もあるが、この不況過程の中で、
政府系金融機関の貸出が増えていることからみると、やはり借りたい
のに借れない企業が多いということなのではなかろうか。
銀行の貸し渋りが、個別銀行にとって利潤極大行動にかなったもの
であるならば、止むをえない事と考えられる。わが国の銀行貸出が有
担保貸出の中で、審査がいい加減となってきたので、不良資産の累増
をもたらし、これが貸出の審査規準を厳しくしたと考えられるととも
に、有担保貸出から無担保貸出を導入するとしたために、リスク管理
上、審査基準がさらに厳しくなり、貸し渋りが生じても不思議ではな
い。中央銀行の政策意志と独立に、民間銀行が貸出しに慎重な態度を
とる可能性を考慮できるようになったことは、大きな進歩といえよう。
また投資家についても、金融機構の発展の中で機関投資家が現われ、
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小口投資家と異なった大口投資家として、その特色をあきらかにする
ようになった。すなわち、小口投資家は、利用可能な情報を得ても、
取引費用を考慮してポートフォリオの組み換えを断念する方が割りに8)
合うと考える者であり、ヒックスは、彼らを固定的投資家と呼んだの
である。それに対し、ケインズが分析対象としていた投資家は、利用
可能な情報を得るたびに、資産選択をやり直しつつ、ポートフォリオ
を管理する流動的投資家である。彼らは一般に大口投資家であり、取
引費用も規模の経済で縮小でき、専門化した組織をもつことによって、
ポートフォリオの絶えざる管理が割りに合うと考えられるところから、
たとえある時、貨幣保有によって利子が得られないとしても、取引期
間全体にわたって利得を得ることができるならば、利子の付かない貨
幣を保有することがあると考えられた。現在、流動的投資家は、機関
投資家として発展している。かつてケインズの流動性選好説は、英米
の現象と考えられていたが、現在では、わが国でも十分理解しうるも
のとなってきた。「カジノ経済化」の危険は、今後ともわが国金融界
として心すべき事である。
さて最後に、金融部門の意味がケインズ時代と現代で変ってきたと
思われる。すなわち、ケインズ時代では、雇用問題であろうと、付加
価値形成であろうと、金融部門以外の産業が中心であったから、金融
部門は裏方的存在であったといってよいだろう。しかし、いまや金融
部門は、雇用量においても、付加価値形成においても、最重要の部門
となりつつある。もはや裏方的存在と言ってはいられず、それ自体の
発展が重要性をもってきたと考えられるのである。したがって、金融
政策の効果も、実物部門へ与える効果のみならず、金融部門自体に与
える効果も十分重要視されなければならないだろう。今回の不況対策
においても、その意味で、実物部門のみならず、金融部門が良くなら
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なければ、本格的な回復とはいえないのである。それ程金融部門は、
いまや重要な存在となったといえよう。
現代において、重要性を増してきた金融部門は、今回のバブル経済
の形成に大きな力を貸したことによって、その責任が問われているし、
またその結果、自らも膨大な不良資産を保有することによって経営的
危機にさらされているところは多い。自分で播いた種は自分で刈りと
るという原則はわかりやすいのであるが、この自律性は、ともすると、
価格機構といった経済原則にすべてをゆだねるという自由放任思想に
回帰してしまうおそれがないわけではない。金融部門の責任は責任と
して、金融部門のもつ国民経済的重要性を考えるならば、はやく金融
部門の活動が正常に戻ることが必要なのである。そのためには公的資
金の投入による金融部門への挺子入れをも積極的に実施することが望
ましいのである。このことは国民経済的観点からして、円滑に金融機
構が作用するようになることが、国民経済の安定的成長に役立つと考
えられるからであって、個別金融機関の経営責任は別に明確化される
必要がある。そうでなければ、金融機関経営のモラル・ハザードが起
きてしまうからである。このように通常の財政・金融政策を越えた金
融機構の安定対策が必要とされるようになってきた。
もちろん通常の金融政策についても効果がないわけではないが、現
代においては、よりきめ細かく対応しなければならなくなっている。
それは、不況期における金利引下げ政策である。金利引下げにより投
資を刺戟することは大切であるが、流動的投資家だけでなく、固定的
投資家の存在がある以上、それに与える利子率変動の効果を考えてお
かなければならない。ケインズ時代では、利子率変動の効果は、企業
と流動的投資家を考えればよく、個人はフローの所得で生活している
と考えられたから、利子率変動の影響は無視してもよかった。しかし、
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現代では個人でも定年後の生活の意味は大きくなっている。また定年
前であっても、金融資産蓄積の意義は大きくなっている。ただ流動的
投資家程ポートフォリオの組み換えをひんばんに行わないというだけ
である。低所得層に対しては、財政政策で対処するというのは、一つ
の考えである。しかし、流動的投資家と固定的投資家の区別が厳然と
してあるのだから、低所得層に対する財政的措置とは別に、固定的投
資家のために、新金融商品が考慮されてもよいだろう。すべての投資
家を、同一の価格メカニズムにおくことは、取引費用の存在が大きい
故に、まちがいである。
注5)J.R.Hicks,AMarketTheoryofMoney.1989chap.7花輪俊哉・小川英治訳
「貨幣と市場蹄削東洋経済新報社.第7章
6)J.R.Hicks,ibid.,Chap.8
7)J.R.Hicks,ibid.,Chap.8
8)J.R.Hicks,ibid.,Chap.8
第四節 外国為替をめぐる問題について
最後に、外国為替をめぐる問題について一言付け加えておきたい。
ケインズ時代において、金本位制から離脱したイギリスは、国際金融
の中心としてのロンドン・シティの地位が低下したことにより、イギ
リス経済は停滞したと考えたのである。それは第一次大戦終了後すぐ
に金本位制に復帰したアメリカのドルは、国際通貨としての力を増し
つつあったのをみれば、当然のことと考えられたかもしれない。そし
て、チャーチル大蔵大臣の下、1925年5月13日に、イギリスは金本位
制に復帰した。これは1ポンド4.86ドルという戦前平価での復帰であっ
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たが、ポンドの実力は1ポンド4.40ドルと10パーセントもポンド高で
あった。それ故、とくに国際競争の激しい産業であった石炭産業が危
機にさらされたのである。ケインズは、イギリス経済のデフレを救済
し、国内産業の効率化を考え、新平価での復帰を主張したのであった
が、受け入れられなかった。
同じ時期、わが国も同様の苦しみを受けていた。わが国の金本位復
帰は、世界の趨勢に遅れて1930年であった。そして、イギリスと同様
に過大評価での復帰であったので、デフレの苦しみがおそった。石橋
湛山氏は、日本のケインズとして、東洋経済の下で健筆をふるい、経
済政策を国内産業の高度化に利用せよと説いていたのであるが、旧平
価での復帰をしたのだった。このように、通貨の切上げは、その国に
デフレ効果をひき起こすのである。
こうしたデフレ効果は、当然現在の円高傾向の中にもみられる。し
たがって、円高のデフレ効果を軽視することは許されないであろう。
ただケインズ時代のイギリスと、現代のわが国では状況が大きく異なっ
ているといえよう。すなわち、ケインズ時代では、イギリスの石炭業
は、すでに弱体化していたのであり、たとえポンド高がなくとも、い
ずれは競争に放けていったであろうと思われる。それに比べると、わ
が国の産業は、なお成長力は高いと考えられるので、円高傾向がゆっ
くりと進行する限り、それ程問題は生じないであろう。それ故、経常
黒字が累積しないように努めるべきである。たしかに、わが国の場合
には、ミクロ的には企業は大変ではあっても、円高効果を今迄のよう
に克服していく道がないわけではないだろう。しかし、マクロ的にみ
ると、こうした円高調整は、次第に国内の空洞化をもたらすかもしれ
ないのである。これが現在のわれわれにおかれている選択である。あ
まりに個別企業に頼った調整は好ましくないと考える。ケインズ時代
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