満州事変勃発から太平洋戦争にいたる日本の 対外膨 …...ノモンハン事件...

4
〈『図説日本史通覧』東アジア全図を活用して〉  六甲学院高等学校 小林信三 日本史かわら版 第4号(2017年11 月発行) はじめに 本稿は『図説日本史通覧』(以下,『通覧』)を活 用して,満州事変から太平洋戦争開戦にいたる時 期の日本の対外膨張とそれに対するアメリカの対 応について,生徒に地理的な背景にもとづいて考 察・把握させることを目的とするものである。 1931年の満州事変以降,1945年の敗戦にい たるまで日本は15年にわたって断続的に戦争を 展開する。関東軍は満蒙の領有を企て,柳条湖事 件を引きおこして満州に軍事侵攻し,1937年の 盧溝橋事件をきっかけに日中全面戦争に突入する。 これに対してアメリカをはじめ列国は強く反発し, 日本に対する経済制裁を実施する。資源の確保を めざす日本は南方への進出を進めるが,これがさ らにアメリカ・イギリスとの対立を激化させ,ア メリカ・イギリスとの戦争が開始される。こうした 情勢の展開には,実はアジアやヨーロッパの地理 的な問題が背景に存在している。これを地図を用 いて生徒に把握させることが本稿のねらいである。 1. 石原莞爾はなぜ満蒙の領有を企てたのか 1931年9月18日に起こった柳条湖事件を企 てたのが当時関東軍の参謀であった石原莞爾と板 垣征四郎であった。彼らは満蒙の日本による領有 を企ててこの事件を引き起こしたとされる。 ではなぜ関東軍は満蒙の領有を企てたのか,こ の点について石原莞爾の思想にもとづいて考察を 進める。 まず満蒙とは何かについて確認する。満蒙とは 満州(満洲)と東部内蒙古,現在の中国東北部と 内モンゴル自治区一帯に該当する。『通覧』p.20 の満州国の範囲がそれにあたる。まず生徒にはこ の満蒙が南は植民地であった朝鮮半島に,北はソ 連との国境線に接していることを確認させる。 次に石原の唱えた世界最終戦論を教科書で確認 させる。石原の世界最終戦論とは,東西両文明の •石原の「世界最終戦」にとって,なぜ満蒙領有は不可 欠だったのか 満州事変勃発から太平洋戦争にいたる日本の 対外膨張を地理的な背景から考える 東アジアへつながる日本史 !                選手権者となった日米両国で飛行機を用いた最終 的な殲滅戦争が展開されるとするもので,石原は それに備えるために満蒙を領有すべきだとした。 ではなぜ石原は世界最終戦に備えて満蒙を領有 すべきだとしたのか。 まず石原は日本が東洋において指導的地位を確 立することが必要と説く。そのために満蒙を領有し て北からのソ連の侵入を阻止する。当初石原は満 州とソ連の境にある大興安嶺山脈を天然の要害と してソ連の侵入を防ぎ,北方に対する軍事的負担 を軽減しようと構想していたことを紹介し,『通覧』 p.22 の地図で大興安嶺山脈の位置を確認させる。 こうして北方の脅威を取り除いたうえで南に接 する植民地朝鮮の統治を安定させ,中国に対する 影響力を拡大させようとしていたことを,地図を 見ながらイメージさせる。また石原は鉄・石炭な どの資源を日本本土に供給させ,国内重工業の基 礎を確立させ,国力を増強しようと考えていたこ とも紹介する。 このように石原にとって満蒙の領有は将来の世 界最終戦にとって必要不可欠なものであったが, 蔣介石率いる国民政府による北伐が完了し,中国 が満州における権益の回収運動にのりだしたこと に危機感を強め,柳条湖事件を引き起こすことに なる。 2. 石原莞爾はなぜ日中戦争の不拡大を主 張したのか 1937年7月7日に盧溝橋事件が起こると,第 1次近衛文麿内閣は軍部の圧力によって当初の不 拡大方針を改め,大規模な派兵を実施して全面 戦争に突入する。しかし当時参謀本部作戦部長で あった石原莞爾は派兵に反対し,派兵を主張する 9

Upload: others

Post on 21-Aug-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 満州事変勃発から太平洋戦争にいたる日本の 対外膨 …...ノモンハン事件 援蔣ルート 米・英は 蔣介石政 権に物資 を援助 p.279 ちょう

〈『図説日本史通覧』東アジア全図を活用して〉 

六甲学院高等学校 小林信三

日本史かわら版 第4号(2017年11月発行)

 はじめに

 本稿は『図説日本史通覧』(以下,『通覧』)を活用して,満州事変から太平洋戦争開戦にいたる時期の日本の対外膨張とそれに対するアメリカの対応について,生徒に地理的な背景にもとづいて考察・把握させることを目的とするものである。 1931年の満州事変以降,1945年の敗戦にいたるまで日本は15年にわたって断続的に戦争を展開する。関東軍は満蒙の領有を企て,柳条湖事件を引きおこして満州に軍事侵攻し,1937年の盧溝橋事件をきっかけに日中全面戦争に突入する。これに対してアメリカをはじめ列国は強く反発し,日本に対する経済制裁を実施する。資源の確保をめざす日本は南方への進出を進めるが,これがさらにアメリカ・イギリスとの対立を激化させ,アメリカ・イギリスとの戦争が開始される。こうした情勢の展開には,実はアジアやヨーロッパの地理的な問題が背景に存在している。これを地図を用いて生徒に把握させることが本稿のねらいである。

 1. 石原莞爾はなぜ満蒙の領有を企てたのか

 1931年9月18日に起こった柳条湖事件を企てたのが当時関東軍の参謀であった石原莞爾と板垣征四郎であった。彼らは満蒙の日本による領有を企ててこの事件を引き起こしたとされる。 ではなぜ関東軍は満蒙の領有を企てたのか,この点について石原莞爾の思想にもとづいて考察を進める。 まず満蒙とは何かについて確認する。満蒙とは満州(満洲)と東部内蒙古,現在の中国東北部と内モンゴル自治区一帯に該当する。『通覧』p.20の満州国の範囲がそれにあたる。まず生徒にはこの満蒙が南は植民地であった朝鮮半島に,北はソ連との国境線に接していることを確認させる。 次に石原の唱えた世界最終戦論を教科書で確認させる。石原の世界最終戦論とは,東西両文明の

• 石原の「世界最終戦」にとって,なぜ満蒙領有は不可欠だったのか

満州事変勃発から太平洋戦争にいたる日本の対外膨張を地理的な背景から考える

東アジアへつながる日本史!                

選手権者となった日米両国で飛行機を用いた最終的な殲滅戦争が展開されるとするもので,石原はそれに備えるために満蒙を領有すべきだとした。 ではなぜ石原は世界最終戦に備えて満蒙を領有すべきだとしたのか。 まず石原は日本が東洋において指導的地位を確立することが必要と説く。そのために満蒙を領有して北からのソ連の侵入を阻止する。当初石原は満州とソ連の境にある大興安嶺山脈を天然の要害としてソ連の侵入を防ぎ,北方に対する軍事的負担を軽減しようと構想していたことを紹介し,『通覧』p.22の地図で大興安嶺山脈の位置を確認させる。 こうして北方の脅威を取り除いたうえで南に接する植民地朝鮮の統治を安定させ,中国に対する影響力を拡大させようとしていたことを,地図を見ながらイメージさせる。また石原は鉄・石炭などの資源を日本本土に供給させ,国内重工業の基礎を確立させ,国力を増強しようと考えていたことも紹介する。

 このように石原にとって満蒙の領有は将来の世界最終戦にとって必要不可欠なものであったが,蔣介石率いる国民政府による北伐が完了し,中国が満州における権益の回収運動にのりだしたことに危機感を強め,柳条湖事件を引き起こすことになる。

 2. 石原莞爾はなぜ日中戦争の不拡大を主張したのか

 1937年7月7日に盧溝橋事件が起こると,第1次近衛文麿内閣は軍部の圧力によって当初の不拡大方針を改め,大規模な派兵を実施して全面戦争に突入する。しかし当時参謀本部作戦部長であった石原莞爾は派兵に反対し,派兵を主張する

9

Page 2: 満州事変勃発から太平洋戦争にいたる日本の 対外膨 …...ノモンハン事件 援蔣ルート 米・英は 蔣介石政 権に物資 を援助 p.279 ちょう

日本海

イ ン ド 洋

黄河

メコン川

バイカル湖黒竜江

アムル川ー

南満州鉄道

泰緬鉄道たいめん

樺太

台湾

チベット

熱河省

沖縄島おきなわじま

ガダルカナル島

ブーゲンヴィル島

硫黄島い お うとう

南鳥島

択捉島

占守島ロパトカ岬

みなみとりしま

沖ノ鳥島おき の とりしま

アグリハン島

サイパン島テニアン島

グアム島(米)

クリスマス島(英)1942.3

コロール島(南洋庁)

ポナペ島

ニューブリテン島ニューギニア島

ルソン島

レイテ島

コレヒドール島

パラワン島

ミンダナオ島

ティモール島

モルッカ諸島

ボルネオ島

セレベス島

スマトラ島

ジャワ島

パラオ諸島

カ ロ リン 諸 島

千島列島

ビスマルク諸島

ソロモン   諸島

沖縄島おきなわじま

ガダルカナル島

ブーゲンヴィル島

硫黄島い お うとう

南鳥島

択捉島

占守島ロパトカ岬

みなみとりしま

沖ノ鳥島おき の とりしま

アグリハン島

サイパン島テニアン島

グアム島(米)

クリスマス島(英)1942.3

コロール島(南洋庁)

ポナペ島

ニューブリテン島ニューギニア島

ルソン島

レイテ島

コレヒドール島

パラワン島

ミンダナオ島

ティモール島

モルッカ諸島

ボルネオ島

セレベス島

スマトラ島

ジャワ島

パラオ諸島

カ ロ リン 諸 島

千島列島

ビスマルク諸島

ソロモン   諸島

1936.12西安事件せいあん

1937.7盧溝橋事件ろ こうきょう

1945.3.10 ほか東京大空襲

1941.11.26単冠湾出発ひとかっぷひとかっぷ

1938.7張鼓峰事件

1931.9柳条湖事件

1937.12南京事件

1945.3.13 ほか大阪大空襲

1945.8.6広島原爆投下

1945.8.9長崎原爆投下

1945.3.26~.6.23沖縄戦

1940.3汪兆銘政権

1940.9北部仏印進駐

1941.7南部仏印進駐

1942.1マニラ占領

1944.7守備隊全滅

1945.8日本への原爆搭載機テニアン島から発進

1945.3守備隊全滅

1941.12.8日本軍,マレー上陸

1942.2シンガポール占領

1937.11国民政府移動

1933.3「満州国」に編入

1939.5~.9ノモンハン事件

援蔣ルート米・英は蔣介石政権に物資を援助

p.279

ちょう こ ほう

りゅうじょう こ

しょうかいせき

えんしょう

おうちょうめい

ふついんしんちゅう

しゃだん援蔣ルート遮断

長江

長江

延安

鄭州

呉起鎮

北京大同

釜山

天津塘沽

大連

奉天

新京(長春)

南京

杭州

上海

瑞金ずいきん

開封

済南徐州西安

成都万県

昆明遵義 長沙

大冶たい や

重慶

広州

香港1941.12

武漢

萍郷ひょうきょう

京城

安東

東京

敷香

豊原

大阪

長崎

広島

マニラマニラ

サイゴン

コタバル

バンコク

シンガポール

ジャカルタ(バタヴィア)

パレンバン1942.2

スラバヤ 1942.2

マカッサル

メナド1942.1

アンボイナ1942.1

ダヴァオ

ポートモレスビー

ラバウル

澳門マカオ

ラサ

レド

チタ

ウルムチ

イルクーツク

ハバロフスク

ウラジオストク

ウランバートル

ハルビンチチハル

ラングーン1942.3

マンダレー1942.5

ラーショウハノイ

0 500km

日本

ホニアラ

タ ク砂 漠ラ マ ンカ

ヒマラ ヤ山脈

延安

鄭州

呉起鎮

北京大同

釜山

天津塘沽

大連

奉天

新京(長春)

南京

杭州

上海

瑞金ずいきん

開封

済南徐州西安

成都万県

昆明遵義 長沙

大冶たい や

重慶

広州

香港1941.12

武漢

萍郷ひょうきょう

京城

安東

東京

敷香

豊原

大阪

長崎

広島

マニラマニラ

サイゴン

コタバル

バンコク

シンガポール

ジャカルタ(バタヴィア)

パレンバン1942.2

スラバヤ 1942.2

マカッサル

メナド1942.1

アンボイナ1942.1

ダヴァオ

ポートモレスビー

ラバウル

澳門マカオ

ラサ

レド

チタ

ウルムチ

イルクーツク

ハバロフスク

ウラジオストク

ウランバートル

ハルビンチチハル

ラングーン1942.3

マンダレー1942.5

ラーショウハノイ

0 500km

日本

ホニアラ

タ ク砂 漠ラ マ ンカ

ヒマラ ヤ山脈

ソヴィエト社会主義共和国連邦

モンゴル人民共和国

中 華 民 国

「満州国」1932建国宣言

フランス領インドシナ(仏印)

タイ

イギリス領インド

アメリカ領フィリピン

日 本 委 任 統 治 領(1920~45年)

イギリス領マレー

オラ ン ダ 領 東 イ ン ド ( 蘭 印 )

ソヴィエト社会主義共和国連邦

モンゴル人民共和国

中 華 民 国

「満州国」1932建国宣言

フランス領インドシナ(仏印)

タイ

イギリス領インド

アメリカ領フィリピン

日 本 委 任 統 治 領(1920~45年)

イギリス領マレー

オラ ン ダ 領 東 イ ン ド ( 蘭 印 )

      太平洋戦争への      おもなできごと   日本の勢力範囲

   日本の最大勢力範囲

   日本が利権をもつ鉄道   日本軍が占領した年月

中国共産党の動き   共産党の自治地域    (1927~35年)   長征(1934~36年)

   援蔣ルート

   鉄鉱石   炭田   油田

(中国:1937年,南太平洋:1920年)

(1942年・夏)

1936.12西安事件

香港1941.12

ハワイ空襲部隊

105°

120° 135°

15°

150°

150°

165°

30°

北回帰線

赤道

45°

15°

105°

120° 135°

15°

150°

150°

165°

30°

北回帰線

赤道

45°

15°

日本史かわら版 第4号(2017年11月発行)

• 石原はなぜ中国への派兵より対ソ戦備の充実のほうが重要と考えたのか

 3. 日本の南部仏印進駐に対し,なぜアメリカは対日石油輸出禁止という措置をとったのか

 1941年7月,日本政府はフランス駐在大使を通じてフランス・ヴィシー政権に対して南部仏印(フランス領インドシナ,現在のベトナム南部・カンボジア一帯)における航空基地の建設,サイゴンなどの港湾整備,海軍基地としての使用,兵力の駐屯などを要求する。ヴィシー政権は受諾し,日本軍の進駐が開始された。この南部仏印進駐に対し,アメリカ政府は在米日本資産の凍結を発表し,日本に対する石油の輸出が全面的に停止された。石油必要量の7割をアメリカからの輸入にた

武藤章作戦課長らと激しく対立する。 ではなぜ石原は派兵に強く反対したのか。 その背景には極東ソ連軍の増強があったとされる。戦車や飛行機を中心にソ連軍の軍備が増強されたため,先述した大興安嶺山脈の防衛上の意義は低下し,日ソの軍事バランスは大きく崩れたと考えた。このため石原にとって,将来のアメリカとの持久的な戦争に備えるためにも対ソ戦備を充実させ,ソ連の侵攻を阻止することは不可欠であった。現状ではソ連の侵攻に備えて相当数の兵力をソ満国境に配備せざるをえず,十分な兵力を中国に投入することはできない,中国の領土は広大であり,民族意識も高まっており,戦争は長期にわたる持久戦となって収拾の見込みはたたなくなる,このように考えて石原は日中戦争の不拡大を強く主張したのである。こうした石原の考え方を『通覧』p.20の地図を用いてイメージさせる。これに対し武藤らは中国は国共内戦によって分裂状態にあり,蔣介石は日本が一撃を加えれば必ず屈服する,戦争は短期で終結することができるとして戦争の拡大を主張する。結局武藤らの主張が通り,日中戦争は長期化・泥沼化の道を歩むことになる。

よっていた日本はこれをきっかけに対米開戦へと進んでいく。 通説では日本側は南部仏印進駐に対してアメリカ側がこのような強硬的な措置に出るとは予想していなかったといわれる(近年の研究ではアメリカによる石油の禁輸を予想した陸軍関係者がいたことが明らかにされている)。ではなぜアメリカは石油の対日輸出を全面的に禁止したのか,この点について地図を用いながら生徒に考察させる。 まず『通覧』p.20の地図を見て,南部仏印の位置を確認させる。これより先,1940年9月に日本は北部仏印進駐を実施しているが,その目的はアメリカ・イギリスが蔣介石の国民政府を支援するための物資供給ルートである援蔣ルートを遮断するためであったことが地図に描かれているので,これを確認させる。 次に日本による南部仏印進駐の目的について考察させる。 『通覧』p.20の地図で南部仏印と蘭印(オランダ領東インド,現在のインドネシア)の距離が近いこと,また蘭印に油田の印があることに気づかせる。蘭印には石油のほか天然ゴム(軍用車のタイヤなどに使用),ボーキサイト(飛行機の機体などに用いるアルミニウムの原料)などの資源が豊富で,南部仏印進駐の一つの目的が蘭印に軍事的圧力をかけ,資源の入手を容易にしようとしたことにあったことを確認させる。 以上のことを確認したうえで,なぜアメリカが石油の対日輸出を全面的に停止したのか,についての考察に入る。 まず日本が南部仏印進駐を実施した1941年7

『図説日本史通覧』p.20

10

Page 3: 満州事変勃発から太平洋戦争にいたる日本の 対外膨 …...ノモンハン事件 援蔣ルート 米・英は 蔣介石政 権に物資 を援助 p.279 ちょう

日本史かわら版 第4号(2017年11月発行)

月のヨーロッパ戦線についてみてみる。 『通覧』p.21にある 1「第二次世界大戦-ヨーロッパ戦線」図を見る。ドイツ軍がヨーロッパのほぼ全体を占領し,東はソ連の首都モスクワ,西はイギリスに迫っていることを確認させる。1941年6月,ドイツ軍は独ソ不可侵条約を破って突如ソ連に侵攻し,首都モスクワに迫っていた。一方日本はドイツ軍の圧倒的優勢が伝えられると,関東軍特種演習(通称 関特演)と称して満州国とソ連との国境線に74万を超える大兵力を集結させ,情勢によってソ連攻撃に踏み切ろうとしていた(『通覧』p.20の地図でソ連・満州国の国境を見て,関特演による大兵力の集中をイメージさせる)。西からはドイツ軍がモスクワに迫っており,日本軍が東から攻め込めばソ連は崩壊すると考えられた。 一方ドイツ軍は1940年6月にフランスを降伏させてパリを占領し,ドーヴァー海峡を介してイギリスに迫った。9月からはロンドンに対して激しい空爆を実施していた。ソ連が崩壊すると,ドイツ軍はイギリスに本格的な侵攻を開始するとみられていた。 ここでもう一度『通覧』p.20の地図の,仏印の部分に目を向けさせる。日本が進駐した南部仏印から,イギリスのアジアにおける重要な根拠地であるシンガポールまで500kmしかないことに気づかせる。サイゴンに日本軍が飛行場を建設することによって,シンガポールは日本軍の空爆圏内に入ってしまうことを意識させる。南部仏印進駐のもう一つの目的はシンガポールを空爆圏内におさめることにより,イギリスに対する軍事的圧力を加えることであったことを理解させる。このころ太平洋において海軍力はアメリカに対して日本が優勢にたっており,南部仏印進駐が実施されると日本海軍によってオーストラリアやアジアのイギリス領植民地からシンガポールやイギリス本国への物資の輸送が遮断され,イギリスによるドイツとの戦闘継続が困難となり,窮地に追い込まれる危険性が生じていた。 このように日本が南部仏印進駐を実施した

1941年7月段階では,枢軸国であるドイツ・日本の攻勢によってソ連・イギリスに崩壊の危機が迫っていた。 これがアメリカの政策に大きな影響を与えることになる。 ヨーロッパにおいてソ連・イギリスが崩壊すると,ドイツ・イタリアの枢軸国に対抗するのはアメリカだけとなる。そこでアメリカはソ連,そして同じ自由主義を掲げるイギリスの崩壊は絶対に防がなければならなかった。そこでアメリカは南部仏印進駐に対して石油の輸出を停止し,在米日本資産を凍結することによってアメリカからの物資の輸入を不可能にさせ,日本の軍事行動を制約しようとした。石油・鉄などの重要な軍需物資をアメリカからの輸入にたよらざるをえなかった日本にとって,こうした措置は大きな打撃となった。日本によるソ連攻撃がなくなればソ連は日本の攻撃に備えて極東に配備していた兵力を対独戦にふり向けることができる(ただし,日本は独ソ戦が思ったように進捗しなかったため,1941年8月にはソ連攻撃を断念していた)。また石油の禁輸が日本の南進をも抑制することができ,イギリスも窮地から脱することができる。

• アメリカがイギリス・ソ連の崩壊を絶対に防ごうとした理由は何か

• 日本に対する石油輸出の全面的禁止が,なぜイギリス・ソ連の崩壊を防止することができると考えられたのか

 このようにしてアメリカは,イギリス・ソ連の崩壊を防ぐことによって自国の安全保障を確保するために,石油の対日輸出を全面的に禁止する措置に出たのである。このためそれまで開戦に消極的であった海軍も開戦の方向に転じ,この年12月にマレー半島上陸作戦と真珠湾攻撃に踏み切り,アメリカ・イギリスとの戦争に突入することになる。こうしたことを『通覧』p.20の地図を用いて展開を確認させたい。

【参考文献】川田稔『昭和陸軍全史』1~3(講談社,2015年)笠原十九司『日中戦争全史 上・下』(高文研,2017年)など

11

Page 4: 満州事変勃発から太平洋戦争にいたる日本の 対外膨 …...ノモンハン事件 援蔣ルート 米・英は 蔣介石政 権に物資 を援助 p.279 ちょう

日本史かわら版 第4号(2017年11月発行)

1. 例)�ソ連の侵入を防ぎ,植民地朝鮮の支配を安定させ,日本の食糧問題を解決し,重工業を発展させる。こうして国力を充実させ,中国・東南アジアにおける日本の指導的地位を確立させるうえで,満蒙の領有は必要であったから。

2. 例)�将来のアメリカとの持久的な戦争に備えるためにもソ連の極東戦力の増強に対し,対ソ戦備を充実させることは不可欠であるにもかかわらず,中国への派兵はこれを阻害することになるから。

3. 例)�アメリカにとってイギリス・ソ連の崩壊は,アメリカを孤立させドイツ・イタリア・日本の枢軸国の攻勢を一手に引き受けることになるから。

4. 例)�日本の軍事行動を大きく制限して対ソ侵攻を防ぎ,ソ連の極東兵力を対独戦にふり向け,日本が進駐した南部仏印からのシンガポール攻撃を防ぐことになるから。

ワークシート解 答

ワ ー ク シ ー ト満州事変勃発から太平洋戦争にいたる日本の対外膨張を地理的な背景から考える

1.石原莞爾の「世界最終戦」にとって,なぜ満蒙領有は不可欠だったのか考えてみよう。

2.�石原莞爾はなぜ中国への派兵より対ソ戦備の充実のほうが重要と考えたのかについて考察してみよう。

3.アメリカがイギリス・ソ連の崩壊を絶対に防ごうとした理由について考えてみよう。

4.�日本に対する石油輸出の全面的禁止が,なぜイギリス・ソ連の崩壊を防止することができると考えられたのかについて考察してみよう。

12