愛国心をはぐくむ教育に関する研究 - 兵庫教育大学|hyogo...

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平成19年度 学位論文 愛国心をはぐくむ教育に関する研究 一多文化主義の開かれた公共性の観点から一 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 学校教育専攻 教育コミュニケーションコース MO5016G 前田泰資 主任指導教員 杉尾 宏 指導教員 大関達也

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  • 平成19年度 学位論文

    愛国心をはぐくむ教育に関する研究

    一多文化主義の開かれた公共性の観点から一

    兵庫教育大学大学院学校教育研究科 学校教育専攻教育コミュニケーションコース

    MO5016G 前田泰資

    主任指導教員 杉尾 宏 指導教員 大関達也

  • 1.論文題目

    愛国心をはぐくむ教育に関する研究

    一多文化主義の開かれた公共性の観点から一

    II。論文目次

    序章 本研究の課題

    1.問題の所在

    2.先行研究の検討と本研究の特色

    3.論文構成

    第1章 公権力はどこまで個人の心に介入しうるか一

    第1節愛国心とは何か

    第2節 日本人の国家意識について

    第3節 国民の歴史とは何なのか

    第2章 国民国家の限界を超えて

    第1節戦後日本という問題

    第2節 国家とは何か

    第3節 国民共同体論の限界

    第3章 多文化主義における国家の問題

    第1節多文化主義とは何か’

    第2節 開かれた国家について

    第3節開かれた公共性について

    一国民共同体論と多文化主義の比較一

    終章 開かれた愛国心の創造に向けて

    第1節 独善に陥らない愛国心について

    第2節 これからの愛国心教育

    〈引用・参考文献一覧〉

    1~4

    5~7

    8~8

    9~10

    11~18

    19~26

    27~29

    30~35

    36~44

    45~53

    54~54

    55~56

  • 序章 本研究の課題

    1.問題の所在

    本研究の課題は、多文化主義の観点から国家間のあり方について再考し、理想的な愛国

    心教育を模索することにある。

    今日、愛国心教育については様々に語られる。一方では愛国心=忠君愛国の精神、お国

    のために命を捧げるナショナリズムという根強いイメージから、愛国心教育に対する拒否

    反応がある。他方では「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国

    のために命をささげた人があって今ここに祖国があるということを子どもたちに教える。

    これに尽きる。」(西村眞悟・元民主党議員)といったような発言が教育基本法改正問題に

    おいて見られるように愛国心教育支持の動きも根強い。

    愛国心教育反対派にとっての問題は心の統制であり、公権力はどこまで個人の心に介入

    しうるかという問題である。教育基本法改正論争において、彼らは愛国心の表記に関して、

    「法律で心を律するべきではない」としている(市川2003、70頁)。中教審答申には公共

    の精神、道徳心、自立心の酒養、日本の伝統や文化の尊重、郷土や国を愛する心など、そ

    の種の徳目を盛り込むべきだとする叙述がある。そうした徳目自体が悪いというのではな

    いが、道徳律や徳目などを法律に規定することには問題がある。今から約200年前のフラ

    ンスでは、コンドルセが行為と精神とを区別する必要を力説して次のように述べていた。

    「自由な憲法においては、たとえ権力が国民によって選ばれ、またしばしば改選されるよ

    うな人々の手中にあるにしても、またこの権力がその後世論と混同されるように思われる

    にしても、法律は行為に関してしかその支配力を及ぼしてはならないのであり、権力はこ

    の限界を超えて、法律を、精神に関する規範として与えてはならないのである。1」

    このように法律は道徳律や宗教上の戒律などとは異なり、あくまで人々の行為を律する

    ものであって、人々の心を律するものではないとされている。このことから、公教育もま

    た個人の心に介入することはできないと言える。

    愛国心教育賛成派にとっての問題は公共性の再構築であり、国家を引き受ける個人、国

    家を引き受ける主体としての日本人を育成することが目標である。そのため支持派の間で

    1コンドルセ1962、44頁

    1

  • はもう一度観念としての国民共同体を創造・共有することによって、公共性を新しく組み

    立てなおそう、そのために学校を利用しようという動きがある(佐伯1998、120頁)。中

    教審答申を初めとする教育基本法改正論の公共性、改正論者のスタンスはこのような国民

    共同体(再生)論と同様に明確である。国民、国家という境界線を日本人としての自覚や

    国を愛する心で再強化し、社会秩序の安定化と国際競争に対応していこうとする道である。

    このように教育基本法改正論者は公、私の境界線の引きなおしの問題、国内、国際の変容

    への対応の問題に対して1つの解答を示している。しかし国家を単位とする共同体への帰

    属意識で束ねてしまおうとする図式は分かりやすいが、そこには二つの大きな問題がある。

    一つは日本人としての自覚という語に端的に示されているように、多様なアイデンティ

    ティを承認し、多様な生の共約不可能性を理解するような、寛容さに欠けているというこ

    とである。国民共同体の公共性は非一排除性(公開性)という点でも、非一等質性(複数

    性)という点でも公共性の条件を完全に欠いている(斉藤2002、108頁)という点で大き

    な問題をはらんでいる。たとえ、「国家至上主義や全体主義的なものになってはならない(中

    教審答申)」と但し書きがつけられたとしても、強制的同一化や排除・差別を構造的に作り

    出すものになるだろう。

    もう一つは長期的に見て、本当に愛国心強化の道がこれからの教育や日本社会にとって

    望ましい解答なのか、という問題である。学校での愛国心の強調は在留外国人への差別感

    覚、人権軽視を増幅することにならないか、そうしたことが国際化・グローバル化の状況

    の中で日本にとって望ましいことなのかどうか、よく考えてみなければならないだろう。

    中教審の言う、国を愛する心を強調することが他国の人々に対する差別感を育ててしまい、

    国際化への対応にマイナスを生じないかどうか慎重に検討する必要がある(熊谷2003)。

    これら様々な議論が飛び交う中で大切なのは、敵は味方であるという思考、対立を超え

    た先にある、国にとって真の利益を考えているのは誰かということである。一見思想的に

    対立する者同士が通底性を持っているということは大いにありえる。われわれは戦後思想

    の中でかつてあった民主と愛国の両立、共存状態が崩壊した今こそ民主と愛国の両視点を

    持ち、国家のあるべき姿について高い関心を抱き真剣に考えるべきだ(広田2005、小熊

    2002)。本研究では以上のような観点から、従来の国家間のあり方と愛国心教育を再考す

    るために多文化主義を取り上げる。

    2.先行研究の検討と本研究の特色

    従来、多文化主義という理念は、論者による差異はあるものの、大まかには、ひとつの

    2

  • 社会の中に併存する複数の文化の間の不平等を是正する(森2005、111頁)ものとして注

    目されてきた。つまりマイノリティの不利を是正し、マジョリティの行動様式を当然とみ

    なすあり方を批判するものである。

    しかしながら,従来の多文化主義研究において、理念としての多文化主義に対してはさ

    まざまな批判が突きつけられている。まず、多文化主義は文化相対主義に陥るという批判

    がある。すなわち文化の複数性を承認するならば、多文化を調停する場はもはや存在しな

    くなってしまうというのである。さらに多文化主義は実践的・政治的領域における理論的

    論拠として機能することによって現実の問題も生み出してしまう。多文化主義という理論

    は分離主義をもたらし、かえって、社会の中での孤立を深めてしまう危険性をもたらすと

    いうものである。多文化主義はマジョリティへの同化を拒否し、その中で独自な文化を維

    持することを主張するが、それはマジョリティの側もまた自分たちの文化を維持すること

    をも正当化するものであり、それはマジョリティの文化を脅かすマイノリティの排除もや

    むなしとする危険性をはらんでいる(森、2005、112頁)。今教育に求められている愛国

    心とは、一部のマイノリティが抑圧を受けるような排他的なものではなく、あくまでも違

    いを認め合う思想の上に立った開かれた公共性を持った愛国心である。そのため、これら

    の問題に関しては、これまでの多文化主義では十分に論じられていない開かれた公共性に

    ついて再考する必要がある。

    3.論文構成

    そこで、本研究では次のような論文構成を採ることにする。まず、第1章「公権力はど

    こまで個人の心に介入しうるか」では、これまで日本において愛国心や愛国心教育がどの

    ように扱われてきたのかを検証し、愛国心を教育することの是非を問う。国家共同体から

    の個人の自立は、戦後日本社会特有の課題であり、いまや日本人の国家意識は深いシニシ

    ズムとでもいうべきものである。性急な国家主義はその反動として起こっているともいえ

    る。しかし、だからといって教育を日本人としての国家意識を洒養する装置ととらえ、物

    語り歴史教育を行うことは果たして正しいのだろうか。また、そもそも個人が国家という

    共同体から離れることは可能なのだろうか。これらの問題について考察しながら、ここで

    は心を教育することの問題点について指摘する。

    第2章「国民国家の限界を超えて」では、国民国家の形成過程や限界について考察し、

    国家とは何かという問いに答えていく。愛国心を考えるうえでまず重要なのは、国家とは

    何かを定義することである。愛国心は国家がなければ発生しえないし、国家がどういう理

    3

  • 由で存在し、どのような過程を経て形成されるのかを理解することは、愛国心とは何かを

    理解することにもつながるはずだ。国家という不可視の共同体について考察し、さらには

    国民共同体論やナショナリズムの限界に迫る。

    第3章「多文化主義における国家の問題」では、多文化主義の観点から開かれた国家や

    開かれた公共性について考察し、国民共同体論と多文化主義を比較する。多文化主義は、

    ひとつの社会の中に併存する複数の文化の中で、マイノリティの不利を是正し、マジョリ

    ティの行動様式を当然とみなすあり方を批判するものであり、国民共同体論の限界に一つ

    の解答を示すものである。しかし、マイノリティの側からは自らの文化を維持するために

    マジョリティや他のマイノリティの文化を排除しようとする主張があり、マジョリティの

    側からも同様の主張がある。多文化主義社会では、複数の文化や言語、民族がそれぞれを

    尊重し、共存するという目的は達成されておらず、孤立や排除の危険性をはらんでいる(森

    2005、112頁)。このことから、多文化主義は愛国心教育と相容れないものではなく、多

    文化主義に対する「排他的」であるという批判は、今日の愛国心教育に対する批判と重な

    る部分があるのではないかと考えられる。

    開かれた公共性の観点とバトリオティズムの思想はこの問題を克服するうえで有効で

    ある。テイラー(Taylo鴨C.,1931一)は『承認をめぐる政治』の中で、多文化主義における

    対話とそれによって形成される対話的アイデンティティの重要性を訴えている。アイデン

    ティティの不承認や歪められた承認は、害を与え抑圧の一形態となりうるため、社会的位

    置や名誉などの優位性からではなく、真正さの理念(直感的感情や内なる声)からアイデ

    ンティティを捉えなおすことが必要である。

    また、バトリオティズムは、愛国心がナショナリズムと混同され、拒絶される今、両者

    を明確に区別するために概念整理しておくべきことである。バトリオティズムという言葉

    は何世紀にもわたり、一つの集団の共同の自由を支える政治制度と生活様式への愛、つま

    りは共和政体への愛を強めたり喚起したりする目的で使われてきた。パトリオットは、共

    和政体とそれが認める自由な生き方を最も重要な価値とし、バトリオティズムという言葉

    は、ナショナリズムの統一性、独自性、同質性とは本質的に異なり、公共の自由を指すも

    のである。

    以上の考察を通して結章では、開かれた愛国心の創造に向けて、愛国心を教育すること

    の意義と方法を探っていく。

    4

  • 第1章 公権力はどこまで個人の心に介入しうるか

    第1節愛国心とは何か

    愛国心とは戦後日本においてさまざまな議論がなされてきた言葉であり、愛国心を理解

    するうえで今、教育基本法改正の問題を考えるとよい。改正反対派の問題点は、愛国心教

    育が合法化され、国家主義の教育につながるという点である。自分の生まれ育った共同体

    に愛着を持つこと自体は自然な感情だが、そこには我々とは違うものとして、他者を排除

    するという要素がどうしても出てくる。教育基本法の改正によって愛国心教育がこの側面

    を強調すると、他者の排除や暴力を正当化し、愛国心の名のもとに国民が戦争に動員され

    る恐れがある2。改正賛成派の根拠としては、現代教育の腐敗を解決するための社会的ショ

    ック療法としての改正、画一的で個性の尊重がないという点や日本国民、国家への愛、伝

    統を大事にすることが書かれていないという点についての批判があげられる。「基本法には

    国家、郷土、家庭、文化、歴史という言葉が出てこない。マッカーサーと第一次教育使節

    団による押し付け基本法である。日本の味、共同体という概念、民族が持つ歴史、伝統、

    文化、家庭などの背景がない。」と中曽根元首相は主張している。新しい教育基本法を求め

    る会では、基本法では個人、家庭、集団、地域社会、国家、世界の相関関係がおろそかに

    なっているため、公共に対する奉仕の精神が失われ、欲望放恣社会の醸成を見るにいたっ

    ているという考えのもと、基本法がもたらした負の遺産を清算し、明るい未来を目指す教

    育の基礎固めをするため、新しく盛り込まれるべき点として第一に伝統の尊重と愛国心の

    酒養が挙げられている。

    しかし一方では、歴史教科書における民族の誇りを強調し、アジア・太平洋戦争を美化

    する独善的ナショナリズム復活への危惧や靖国問題に見られるような国家としての歴史認

    識への疑問から、憲法改正ならびに教育基本法改正に関しては慎重な見方をすべきだとい

    2市川2003、81頁

    改正論者が早急な改正を求める理由として市川は次のように述べている。

    「根源に存在するのは憲法改正の必要性である。国際情勢の変化に伴って憲法改正の機運

    は次第に熟しては来ているものの、なお反対勢力も強く、その前途は予断を許さない。そ

    のためまず基本法を改正し、それを契機に憲法改正の機運をいっそう高めようという考え

    方が出てきても不思議ではない。基本法改正それ自体は不可欠ではないが、憲法改正の踏

    み石にしょうとする戦略である。」

    5

  • う声もある。強い国家のためには国防費の増強とともに、教育を日本人としての国家意識

    を溜養する装置ととらえて、物語り歴史教育と道徳教育さらには奉仕活動が重視される。

    ナショナリズムを前提とする競争、選択の自由という新自由主義の側面は、教育の領域に

    同時的に盛り込まれるだけに教育の内部の矛盾は拡大せざるを得ない。またそこには国際

    的な視野が欠落しており、人権思想や教育条理の国際的発展については触れられていない。

    教育基本法は世界の平和と人類の福祉に貢献しようとするものであるから、日本の国家と

    しての強さを求めるあまり、偏った愛国心教育を行うことは避けるべきである。基本法第

    1条では、教育の目的として平和的な国家および社会の形成者としての国民の育成があげ

    られている。また2条では、文化の創造と発展への貢献があげられている。これを見るに、

    改正賛成派の「愛国心が含まれていない」という主張ははたして正しいのだろうか。愛国

    心教育は基本法改正の問題ではなく、国際的視野に立った教育課程や教育方法の問題であ

    ると考えられる。愛の法制化や強制による愛国心教育は、愛国心を育てようという立場か

    ら見ても矛盾したものであり、押し付けの愛国心は本当の愛国心とは言えないのではない

    だろうか。

    「愛国心を持ちたいという人に、それを禁止する権利は誰にもありません。人によっては、

    公明党が嫌っている統治機構としての国を愛する人だっているかもしれない。権力志向の

    人は国家権力者になって、その政府を愛する人だっているかもしれない。それは『愛』な

    のですから、その愛を禁止するということは原理的に出来ないのです。国家からの強制で

    はなく、自分自身で愛国心を持ちたいと言っている以上は否定することは出来ません。一

    大切なのは、同時に、自分は愛国心を持ちたくない、あるいはそういう教育を押し付けら

    れたくない人の自由権も認めるべきだということです。近代民主主義国家においては、人々

    の愛をrこれを愛せ』という形で法制化することは間違いです。何を愛するかは一人一人

    が決めることで、例え対象が何であったとしても、国家が、私が何を愛するかを強制する

    ことが出来るはずはないのです。」3

    この意味で、日の丸や君が代の強制は愛国心教育としても拙劣だと言わざるを得ない。

    日本で、なぜそれが罷り通っているのかというと、日本の場合国家=お上の意思に背かな

    3高橋2004、170頁

    6

  • い、あるいは自分が属する組織の上意に反しないことが自分の利益にもなり、また保身に

    もなるという、いわばアイヒマン的な精神が現場を動かしているのである。

    「アイヒマンはナチのユダヤ人絶滅機構で辣腕を振るった官僚ですが、絶対悪あるいは極

    限悪一数百万に及ぶユダヤ人大量殺獄の下手人の一人にしては、ひどく凡庸なドイツ人だ

    ったということがよく強調されています。『普通の人』が組織のなかで自分の立場を維持す

    るために、あるいは出世したいがために、お上の意向を進んで実現しようとした結果、恐

    ろしい悪事に無自覚なまま手を染めていく。それと構造としては同じことが、今の日本社

    会にもあるのではないでしょうか。4」

    愛や心を教育するということは、特定の価値を強制することであるが、この問題は、国

    家と教育の関係はいかにあるべきかという原理的課題にまで広がる射程を持っている。果

    たして愛国心を教育することは可能なのだろうか。そのためには押し付けでない、本当の

    愛国心とは何なのかを明らかにすることが課題である。

    4高橋2004、171頁

    7

  • 第2節 日本人の国家意識について

    愛国心という言葉は、戦後の日本ではネガティブなイメージをもった言葉で、国民にと

    っては愛国心を持たないように生きていくことが最も都合がよかった。国家とは何か、日

    本はどんな国家であるべきか、個人と国家との関係はいかにあるべきかと真剣に考えるこ

    とに特別な関心を持たずともよかった。それは、日本が日米安全保障条約においてアメリ

    カの被保護i国になったからであり、近隣諸国と、ある種地政学的な安全保障の体制がつく

    れなかったためである。つくれない分、日米安保に依存せざるを得ない。戦後日本では、

    日米安保体制を盲目的に維持し、憲法改正問題や国家意識という幾分イデオロギー的な問

    題を封じ込めさせるために、愛国心と同様に国家意識や国防についての論議をタブー化し、

    国家意識を封じ込めるということが行われてきた。

    また、日本は諸外国に比べ、愛国心が低い国家であると言えるが、これは戦後アメリカ

    から輸入された民主主義の影響によるものである。フランスやイギリス、アメリカでは、

    いわば民主主義と愛国心は見事に重なっているが、日本においては民主主義と愛国心が結

    びついているということはない。戦後日本の民主主義思想は、世界や国際、市民といった

    概念に重きを置くあまり、国家というものに対する意識を薄れさせたためである。日本人

    が愛国心を素直に感じられない理由として、そこには天皇の存在がある。「お国のために、

    天皇陛下のために生命を捨てることが当然」それが愛国心を意味していた時代があったた

    めである。日本においては、戦前の国家主義思想、公を重視する思想から戦後の民主主義

    思想、個に重きをおく思想へと180度転換したといってもよい。

    市民と称せられることとなった普通の人の政治的自覚は、ありとあらゆる私的事情を政

    治化し、政治的権利や運動がさまざまな私的事情の混ぜ合わせとなっている。個人の事情

    や欲求が社会の権利として主題化され、公共的問題とされていく。現代人は、「私」の欲望

    は基本的に解消されるべきだと考えており、それらを政治的に主題化することによって実

    現しようとする。個人中心的な社会観においては、私的な欲望が権利とされ、私的な不都

    合が社会的差別と述べ立てられ、それらが政治的な冷笑主義、あるいは反権力主義と重な

    り合って、いわば反権力的な政治家というものが生み出される。

    このように戦後日本の思想は、民主主義を国家主義に対する市民の主権として受け入れ、

    個を重視し、公を軽視するというものであった。その後の国家主義や国民共同体論は、こ

    のような国家に対する冷笑主義や愛国心のタブー化といった戦後思想の反動として登場し

    てきたと考えられる。

    8

  • 第3節 国民の歴史とは何なのか

    歴史教育は、国民概念や国民形成と深くかかわっているため、決して事実のみを伝達す

    るものではないし、決して価値中立的なわけではない。そのため歴史教育は、政府による

    検定制度を見てもわかるように、その時代ごとの支配的な価値観の統制化におかれること

    は避けられない。すると現代のように国家主義と民主主義が対比され、国家と人権が対立

    させられ、国民に対して市民が擁護される時代となれば、歴史教育は、国家や国民概念を

    解体する方向に作用するのも当然のことである。ここにあるのは左翼主義というよりも、

    個人的自由、民主主義、人権、戦後憲法のもとでの平和主義という戦後日本に広がった支

    配的な価値観そのものなのである。つまり、戦前の社会体制のほぼ全面的な否定の上に戦

    後理念の優位が説かれる。言い換えれば、平和主義と民主主義という戦後理念の優位を訴

    えるために、暗黒の戦前、戦中が描かれるということになる。

    国家主義者や国民共同体論者にとって、「問題はこのような戦後思想そのものにある。

    国家よりも世界や国際が上位におかれ、国民より市民の自覚のほうが必要だと言われるよ

    うになった。民主主義と国家主義を対立させることによってあらかじめ国家=悪という否

    定的前提に自らを誘い込んでしまうのである。国家や国民概念を脱色しようとする市民主

    義者は、民主主義と平和主義の側に立つ戦後思想の優等生であった。一方、これを懐疑す

    るものは戦中の危険思想の後継者か、もしくはその復活をひそかにたくらむファシズムの

    デマゴーグということになる。これが戦後の支配的な思想の布陣であった。あらゆる歴史

    は一つの価値観を持つ、というより、歴史を語ることは必然的に、ある価値観を伴わざる

    を得ない。問題は果たしてこのような脱国家的、脱国民的な思想的インプリケーションを

    持った価値を、歴史教育の根本にすえることができるのか、ということである。国民概念

    を形成するために存在するのが歴史教育であるが、果たして国民概念を脱色しようとする

    歴史教育は成立しうるのだろうか。公教育そのものが国家意識や国民概念の解体に手を貸

    す奇妙な公教育の出現である。これこそ、戦後日本的なる光景というべきものである。

    歴史を物語ることは国家の結束を高め、国家の内を特徴づけるが、国民に共有されるの

    は民族でも言語でも文化でもなく、共同の経験の継続あるいはその想起でしかない。厳密

    な意味で、歴史を捏造するなどということはありえない。ここで歴史と呼んでいるものは、

    それをいかにうまく探り当て、表現の上に乗せるかという技術についてなのである。国家

    や国民の経験をいかに物語るかは歴史教育の大きな課題である。むろん、このことは国家

    や国民を賛美し、美化することではない。残虐の歴史事実を織り込むことも必要なことで

    9

  • ある。しかし、そうであればこそ、近代史における我々のもっとも悲惨かっ決定的な体験

    であったあの戦争へ、なぜ、我々の国家が追い込まれていったのかを、ある種の共感を秘

    めつつ、物語ることはやはり必要なのではないだろうか。共感を秘めつっとは賛美すると

    いう意味ではないし、合理化することでもない。それを過ぎ去った死者たちの犯した誤り

    として、現在を生きる我々の外部に放り出して、あたかも悪人たちの所業を映画でも見る

    ように眺めるのではなく、我々が、あたかもその時代の登場人物であるかのように、戦争

    に至る道筋を理解できるように、という意味なのである。軍国主義者という彼らの悪行と、

    民主主義によって再建された我々の戦後、という図式は、決してそれ自体客観的なもので

    はないが、それにもかかわらず共感もない。つまり、我々と彼らをつなぐものが何もない

    のである。歴史は我々の外にある過去ではない。その時代の心象を我々のものとして理解

    できなければ歴史などには価値はない。だから、歴史を物語るには過去の経験に対する想

    像力がなければならないことだけは事実である。

    国民の歴史とは国家のためにつくられ、教育されるものである。次章では国家とは何か

    について考える。

    10

  • 第2章国民国家の限界を超えて

    第1節 戦後日本という問題

    90年代半ば以降の、政治、経済、社会、文化のほぼあらゆる部分に見られる秩序の崩壊

    感、あるいはより意図的な秩序破壊、それは戦後日本社会の帰結のように見える。戦後日

    本の経済発展や民主主義、平和主義という理念そのものの中に、現代日本の崩壊感をもた

    らすことになる何かがあるのではないか。

    例えば神戸の小学生連続殺傷事件が暗示するものは現代日本のあり方であり、今「なぜ

    人を殺してはいけないのですか?」というような問いかけを何の躊躇もなく発する子供た

    ちに、社会は答える義務を負っているということだ。自分を透明な存在だという意識、自

    由を履き違えた少年たちの内面的な意識に事件の深刻性がある。

    それでは少年の狂気化に対し、社会は何ができたのか。両親はことさら家族ぐるみの三

    二や結束を試みたが少年の非行を止めることは出来なかった。学校は、人格教育や道徳教

    育などをとっくに放棄した現在の中学教育からすれば、規格から著しくはみ出す子どもを

    中学校というシステムの中につなぎ留めておくシステムなどないのが現状だった。また、

    児童相談所は出来るだけ子供を自由に放置しろというだけだった。つまり何もが機能しな

    かった。

    もしも教育のせいだというならば、道徳教育、人格教育、そして教師の権威を全て否定

    し去った戦後教育の方向そのものの問題である。家族のせいだというならば、典型的なニ

    ュータウン、中流サラリーマンの核家族を生み出していった戦後社会そのものの問題であ

    る。つまり、悪いといえば全てが悪いのである。全てがうまく機能する力を失ってしまっ

    たのだ。

    戦後教育の中で教えられてきた人権や平等、他人にやさしくといったことは虚構として

    子供たちには映る。とくにいじめられた子供や成績が悪かった子供、極度の競争主義の中

    で育つ子供たちにとっては人権、平等、優しさ全てが虚構以外の何物でもなかろう。

    現実とは、信頼できる虚構である。これは現代日本社会に真の虚構、信頼できる虚構、

    共通の物語(神話的であれ、伝心的であれ、歴史的であれ、社会的であれ、ともかくもあ

    らゆる種類の共有された物語)がなくなってしまったことを意味する。必要とされるもの

    は、我々の生活の実感とある種の健全性(常識)を表現できるような物語を創造する力なの

    である。

    合意にもとつく禁止以外に個人の自由という原則を阻止できるものはないし、個人の自

    11

  • 由の絶対性から出発する近代社会の外に出なければならない。つまり社会には絶対的な禁

    止があるということ、絶対的な何か(例えば神という観念を生み出した西欧やイスラム世

    界における聖なる物語)が存在することを教師が子どもたちに身を持って示さねばならな

    い。絶対的な何かは社会の礼儀や習慣、ある種の権威の内に伏在していたというべきであ

    り、日常生活の我々の秩序を組み立てる非公式(インフォーマル)な人間関係や社交様式の

    中に存在する。個人の自由や民主主義や人権といった公式的価値を唱えるだけが、教師の

    役割ではない。非公式の価値を伝達すること、相手に語る態度やしぐさ、顔つき、抑揚と

    いった身体的なる物を媒介にしてようやく伝達される、という種類のものなのである。

    国家とは何か。①法体系と公権力を行使する政治的集合体。②文化なり歴史なり民族な

    りを媒体として、ある範囲の人々に紐帯(ちゅうたい:社会の構成員を結びつけて、社会

    をつくりあげている条件。血縁、地縁、利害など。)をもたらすもの。とりわけ後者の側面

    に関心の焦点をあわせたとき、国家論はひとつの大きな問いかけの前に立たされることに

    なる。それは、ほかでもない。単に「私」に過ぎないはずの無数の個人の集まりが、ただ集

    まりというだけでどうして「我々」という意識に変換されるのか、というものである。つま

    り国家というものの共同性を成り立たせている事情とは一体何なのかということだ。

    国家の共同性を成り立たせているのは共通の祖先を持った民族や人種ではない。(もし

    も共通の祖先や民族、人種が国家の共同性形成に不可欠だとするならば、アメリカや中国

    にはそれだけで国家形成はありえないことになる。)確かに19世紀のナショナリズムの時

    代にあっては、民族や人種が三三の基礎として喧伝された。20世紀においてはこの流れは

    民族自決主義として国際法上の正当性を与えられたことは事実である。しかしそれでもな

    お、民族や人種が普遍的に国家形成の支柱でなければならないとする理由はどこにもない。

    国家とは、共通のルールや慣習に従って生きている人々の集団である。慣習やルールは

    私に命令を発するものである。例えば交通巡査はルールを体現した存在であるが、その命

    令を発しているのは国家である。国家は権力を独占し、父のように禁止する主体であるこ

    とがわかる。だが国家は人格ではないので国家が命令を発するということはありえない。

    つまりルールや慣習は誰でもない誰か、匿名の我々の力で成り立っているのだ。確かに、

    国家の権力的側面を取り出し、ここに父のアナロジーを押し付けることはどことなく我々

    の安易な了解に道を開いてくれる。しかし、国家を家族モデルとして理解することには何

    の意味もないのであり、だからまた、国家というテーマを即、国家主義からナショナリズ

    ム、あるいは民族主義、人種主義へと結び付けてゆく論争およびそれに対する批判も、と

    12

  • もに的が外れているといわねばならない。

    西欧の近代が生み出した国民国家においても、血や言語や文化の同一性があったから国

    民国家が形成されたわけではない。国民国家という観念が血や言語や文化の水準化、同質

    化を要求したわけである。国家の本質は想像力であり、我々が作り上げてゆく運動体だ。

    国家の意味は、その歴史性を未来に向けていかに保持し、またいかに有効に組織してゆく

    か、という点にある。それは絶えず過去と未来をつなぐものとして意味を持つ。

    ではこの想像力を生み出すものは何なのか。あるいはこの上縁力をどのような形に結晶

    するのか。例えば、これは国家を形作る理念や時には国益といった概念である。そしてこ

    の理念や国益の観念が政治的次元に対して有効性を供給して、同時に国民統合をある程度

    可能にする。したがって、現在の国家について論じようとすればどうしても我々は国家の

    持つ理念や国益の観念に関心を払わざるを得ないのである。これは決してナショナリズム

    という次元の問題ではない。国家が常に未来に向けての共同の投企(とうき:実存主義の

    用語。自己の存在の可能性を未来に向かって投げ、企てること。現存製が常にすでに事故

    の可能性に開かれている構造において、能動的な側面(了解)を言う。)と定義できるよう

    な運動である限りで必然的な課題なのである。

    共同体という言葉は、戦後日本においては多くの場合マイナスイメージを付与されてき

    た。共同体は個人と対立する、近代的な自我なるもの、個人という主体なるもの、いかな

    る呼びかたをされようと、個的なものは共同体とは相容れないという理解であり、これが

    近代文学から近代社会科学そして社会主義運動までを貫くモチーフであった。

    しかし今、改めてこうした近代化論を振り返ってみた場合、例えば、共同体からの個人

    の解放が自我の確立である、というような思考様式が仮にある段階である役割を果たした

    のだとしても、もはやほとんど有効性を失っていることに気づかざるを得ない。

    第一に家族や村落共同体からの個人の解放はもはやこれ以上ないところまで進展した。

    そしてその結果、自我の確立した「主体的個人」なるものが出現したのかというと、どう

    見てもそうは思えないのである。むしろ援助交際の女子高生たちに近代的な自我の確立を

    見るなどという珍妙な議論を押し出さねばならぬほど、近代的自我なるものは衰弱してい

    る。価値や規範、ルールから切り離された個人などというものがいかに不便でいびつなも

    のかは、ほとんど論理的に帰結することであろう。ルールの共有がなければ、かくも大勢

    の個人たちの自由がいたるところで衝突し、確執を起こすことを避けるわけにはいかない。

    したがって、ここで改めて衝突を調整するような、共有されうる価値の再確認が生じるで

    13

  • あろう。これは共同体の価値の再確認にほかならないのである。つまり個人の自由とはそ

    の範囲や様式を定める共有された価値、規範を前提とするのだ。もしも、この価値や規範

    を誰かが強引に決めてしまうのでないとすれば、それは歴史的に生成するものであるほか

    ない。これはまさに共同体の形成なのである。共同体と個人の自由を対立させることはさ

    して意味を持たない。文字通りの家父三二封建的社会というものがあればそこでは確かに

    個人と共同体は対立するだろう。しかし、少なくとも現代日本はそうではない。

    現代日本において、個人の自立というそれ自体極めて不安定な持ち場から共同体を批判

    することは、むしろ個人そのものを一層不安定な存在として、やがては個人の空中分解を

    引き起こしてしまうだろう。個人性は共同性を離れてはありえない、あるいは個人性と共

    同性は人間の社会的存在の不可分の二面であることをまずは確認しておかねばならないの

    である。

    そして第二に一層重要なことだが個人の自由や自立が唱えられる現代社会にあって実

    際には共同体は解体されているどころか、むしろその逆に、個人は意識することなくある

    種の共同性の罠の中に捕らわれていきっつあるように見える。

    例えば、端的に個の確立ということを主題化し、そこにオピニオンや思想の方向性がで

    きること自体がある種の共同性を前提とし、また共同体を作り出しているのである。この

    確立といったことはひとつのスローガンであり、また言語的に象徴化された記号である。

    問題は、このような記号による何らかの主題化、そして、それがメディア的媒体を通す限

    り、ある種の共同体が否応なくそこに作動するということである。この意味では、現代社

    会ほど、メディアによる共同化作用が絶え間なく生じている社会は存在しないのであり、

    あらゆる事柄がメディアによって主題化されたとき、ある種の共同体が常に作られ、また

    作り直されていく。したがって、奇妙なことに、「共同体を解体せよ」、あるいは「個人と

    いう主体をつくろう」という市民主義的議論そのものが、メディアを媒介に主題化される

    や否や、そこにこの議論をめぐる共同化された言説の空間が出来上がってしまうのだ。

    なぜなら第一に、これは端的に、日本語という言語表現を持ち、日本におけるメディア

    的環境あるいはメディアを巡る市場世界の共有を前提とし、しかも、このような議論が主

    題化されうるような日本社会の歴史的、文化的文脈を共有していなければならない。そし

    てさらにこの種の主題を自己のものとして論議できるあるグループや階層という共同体を

    実際には想定しているのである。

    しかも、この種の主題はそれ自体が共同化の作用を果たす。なぜなら、ここでメディア

    14

  • 的に提示された主題について、これまでは全く見たこともなく、何の相互につながりもな

    い人が共通の主題の元で一定の思考の規範を共有するようになるからだ。人々は、こうし

    て「私」の共同体からの解放を問題とするのではなく、「我々」の共同体からの解放を問題

    とするのである。

    メディアが媒介した主題の無名的な拡散があらゆる人々の主体を同時的に関連付け、都

    会と地方、さまざまな職業、男と女、さまざまな個性の持つ特質を限りなく脱色して、ひ

    とつの主題の元に登場する「共同化された個人」としての「我々」という奇妙なものを生

    み出すのである。我々とは日本国民以外の何者でもない。

    ここで、我々はひとつの新たな、しかも重要な問題に到達したといってよいだろう。国

    民という共同体の不可避性という問題がそれである。

    これは、いささか奇妙な自体である。国家共同体からの個人の自立といった、戦後日本

    社会に特有の課題そのものが実は国民的共同性を作り出し、またそれを確認することにな

    る。個人の確立が戦後日本社会の課題だという表現そのものが、いかに日本という共同体

    の文脈を前提に提起されているかは明らかだろう。この課題が、日本語という表現様式を

    持って日本の読者に提起されるとき、ある種の歴史と文化を共有して来た特定の共同体が

    想定されている。ここで個人はまず無名的なものとして立ち上げられ、続いて、それはこ

    のような問題を共有できる文脈の中の「我々」に拡張され、そしてそれはすなわち、日本

    人という存在を意味することになるのである。

    では、今わが国で、国家に理念や国益を定義できる政治的な想像力が果たしてあるだろ

    うか。人はここで官僚制度の問題を持ち出し、官僚政治の独断に崩壊の源泉を見ようとす

    る。だが重要な点は、国家と官僚制や大衆民主主義はイコールではない、ということだ。

    官僚制や大衆民主主義が国家への信頼を失わせている、と一応いうことは可能かもしれな

    いが、その意味は、官僚制や大衆民主主義の中で、国家を造形する創造力がほとんど失わ

    れていったということである。大事なことは官僚制や大衆民主主義そのものではなく、国

    家への意信頼を失わせることになる、政治的想像力の衰退ということなのだ。

    そしてこの点においてこそ、我々はきわめて悲観的にならざるを得ない。今日本に氾濫

    しているのは、むしろ反国家主義とでも言って良いような、国家なるものへの深いシニシ

    ズム(冷笑主義)である。むろん一部には性急な国家主義の復権を求める動きもなくはな

    いにせよ、性急な国家主義そのものが、国家へのシニシズムに対する反動として起こって

    いるというべきだろう。現代のこの国を特徴付ける言論は、明瞭に国家に対するシニシズ

    15

  • ムであるといってよい。つまり我々にとって、国家はまず禁止という命令を発する主体と

    なって立ち現れてくる、と考えられている。考えてみればこれもまた当然で、戦後日本を

    覆った個人の自由という原則を無限定で受け入れれば、国家は何よりまず個人の活動への

    禁止の主体となって現れざるを得ないからだ。こうして規制緩和を軸とするグローバリズ

    ムが唱えられ、国民ではなく市民という呼び方が流行し、インターネットがさらにそれを

    地球化するというネティズンなどという妖怪まで現れたわけである。

    このように国家への深いシニシズムや反国家主義が横行しているが、より子細に見れば、

    これらの言説そのものが実に日本的という以外の何物でもないような、ある閉塞感と独断

    に覆われているようにも見えてくるからである。

    例えば、中学校の歴史教科書を考える新しい歴史教科書を作る会が提起した一連の問題

    があった。この問題の提起者たちは、日本人としての誇りを可能とするような歴史教科書

    の必要性を訴えるという意味で、日本主義者あるいは時にはナショナリストというレッテ

    ルを貼られたりもした。このレッテル貼りは適切だとは思わないが、今問題にしたいのは、

    歴史教科書を作る会のほうではなく、その敵対者たちである。会に対してナショナリスト

    というレッテルを張った勢力は明らかに、自らを反国家主義と歓呼して言うことになる。

    日本国家の犯した侵略を改めてアジア諸国に謝罪し、慰安婦たちに対する国家補償を求め

    る。しかし、そもそも自分たちとはまったくかかわりのない戦争に対する罪責感をどうし

    て持ち、なぜ責任を取らねばならないのか、という戦後の若い世代が出ているのであり、

    戦後民主主義の建前からすれば、そのほうが当然のレスポンスだとも言える。この立場か

    らすれば、国家補償とはいうものの、それは国民による補償であり、この限りで、国民全

    体を巻き込む、つまり戦争には無関係だと考えている者にまで強制されることとなる。現

    時点での国家補償という考え方こそが、国民主義という一種の全体性を含んでおり、民主

    主義に反する、ということとなろう。これは明白に強烈な言い分を含んでいるのだ。それ

    にもかかわらず、謝罪と補償を要求するためには、国家なるものの世代を超えた継続性、

    言い換えれば個人を超えた存在としての国家を前提としなければならない。例えばこのよ

    うな形で反国家主義といえども、実際には、日本という国家を前提とし、まさにその国家

    に対する暗黙の信頼感の上に立って語っているといわねばならない。

    あるいはまた、経済の世界的拡張の中でいわゆるグローバリズムが進展している。これ

    はまた別のタイプの反国家主義を形成する。国家や国境の枠組みに固執するものは時代遅

    れの守旧派だ、というのが彼らの議論である。しかし、この半国家主義的なグローバリス

    16

  • トの議論は、このグローバルな情報化の世界では、ともかくも急進的な改革を断行しなけ

    れば日本は世界における地位を失う、という方向へ進む。企業の世界市場での自由な活動

    という議論から出発したはずの議論はまた日本の強さといった文脈に回収されてしまうの

    である。彼らは決して自覚的なナショナリストというわけではない。むしろ、グローバリ

    ストと呼ぶべき国際派を自称しているわけである。それにもかかわらず、国家という文脈

    を隠し持っていることを暴露する。

    あるいは近年、しばしば市民、とくに地球市民などという言い方が新聞にも登場するし、

    社会科学者も使用する。政治家もことさらにこの言葉を強調したりする。ここには国家や

    国民という概念から自由になりたいという願望があることは明らかである。だが、そもそ

    も何を意味しているのか不明であることは別にしても、日本の国内で、我々は地球市民と

    しての自覚を持とうなどと、いくら大きな声で唱えてみてもただ滑稽なだけであろう。こ

    こには日本にはまだ地球的市民意識が育っていないという思いがある。言い換えれば、地

    球的市民を日本人意識より優れたもの、あるいは進歩したものとみなし、自らをその進歩

    した意識のそばに置くことによって、遅れた日本人を啓蒙しようという構図になる。この

    ような特権化された構図そのものが、日本という国家の文脈に依存しているわけである。

    経済のグローバリズムをめぐる改革派と、いわゆる守旧派の対立は何だったのか。戦争

    責任をめぐる謝罪派と靖国派の対立は何だったのか。護憲派と改憲派の対立は何だったの

    か。地球市民主義と国民主義の対立はなんだったのか。

    結局、どこにも真の意味でのコスモポリタニストもいなければ絶対平和主義者もいなか

    った。インターナショナリストやコスモポリタニストのたいていは、この言葉を、日本と

    いういささか閉ざされた言語空間の中でうまく操作し、自らの立場を特権化するために使

    用するだけである。彼らの精神の多くは、日本の言語空間、従って日本という文脈にむし

    ろ強く捕捉されていることもしばしばである。

    一方の絶対平和主義者が、アメリカの軍事的保護下におかれた日本独特の平和主義であ

    ることは論を待たない。したがって彼らは、彼らが呪文のように唱えた平和主義がいかに

    日本という文脈に寄りかかったものであるかをただ言表しなかっただけである。グローバ

    リズムやインターナショナリズムやコスモポリタニズムの背後には明らかに国家が隠され

    ており、その言論自体が日本という閉ざされた言説空間へ捕捉されていたわけである。

    では一方これに対抗するに足る国家意識やナショナリズムが存在するかというと、これ

    もいささか怪しい。多くのナショナリズム(らしきもの)は、せいぜい戦後の民主主義や

    17

  • 戦争断罪に対する感情的な反発から発しており、ここに国家論や国民論への社会科学的な

    まなざしがあったとは思われない。実際、戦後の言説空間の中では公式に、あるいはある

    程度の社会科学や哲学社会科学や哲学、思想を踏まえたうえで、国家主義やナショナリズ

    ムを唱えることは不可能であった。これゆえナショナリズムは思想とは離れて一種の狂信

    的な行動様式へ向かうか、あるいは、内向し、断片化した表現の末葉に散らばるというこ

    とになったわけである。いわゆる戦後はやりの日本論は、良くも悪しくもナショナリズム

    という次元のものではない。また、歴史教科書見直しも、これも良くも悪しくもナショナ

    リズムというようなものではない。端的にいえば、ナショナリズムの方も戦後ほとんど体

    をなしてはいないのだ。

    こうして戦後の言説空間の中では、コスモポリタニズムもナショナリズムもともに、不

    完全燃焼であり、どことなく独りよがりであり、他方に対する非難の応酬の中であたかも

    コスモポリタニズム(グローバリズム)やナショナリズムと呼ばれるものが存在するかの

    ような虚構を生み出したといったほうがよい。つまり我々はごっこの世界にいたわけであ

    る。

    こうした閉ざされた言説空間を生み出したもの、それは戦後日本でほぼ国家というもの

    に対する考察が欠落してしまったことに起因するのではないだろうか。国家について論じ

    ることがあらかじめある種の警戒心を引き起こし、政治イデオロギーの付置の上にたちど

    ころに配属されてしまうという不幸がこの間の事情であった。

    国家意識とナショナリズムの区別、またこの両者と民族主義は別物であるということ、

    あるいは国家は家族共同体の延長で理解できるものではない。この程度のごく当然のこと

    さえもほとんど等閑視されてきたのが戦後日本の言説空間であった。そしてその帰結が、

    グローバリズム的改革論や、市民主義の践雇なのである。

    18

  • 第2節国家とは何か

    ここで重要なのは、国家とは何かを概念的に定義することである。愛国心は国家がなけ

    れば発生しえないし、国家がどういう理由で存在し、どのような過程を経て形成されるの

    かを理解することは、愛国心とは何かを理解することにもつながるはずだ。

    rr国家とは人間共同体が持つ政治機構である』というテーゼは、国民国家という現在の国

    家のあり方を自明の前提とすることで初めて成り立つものだ。国民国家においては、国民

    という共同体と国家が一少なくとも建前のうえでは一一致する。そこでは、r国家とは国民

    が持つ政治機構である』というテーゼが、あたかも国家の基本原理であるかのように見な

    される。しかし歴史的に見れば、こうした国家のあり方は決して自明なものではない。共

    同体に基づかない国家というのは昔も今も数多く存在する。5」

    国民国家においては、国家とは人間共同体が持つ政治機構であるが、歴史的に見れば共

    同体に基づかない国家は多数存在する。国家を思考するためには今の国民国家のあり方か

    ら決別することが必要だ。つまり国民国家においては少なくとも納税の見返りとして、国

    家は住民を外敵から保護してくれるが、必ずしもすべての国家が住民の安全を守るために

    形成されるわけではない。例えば北朝鮮のような独裁国家では支配者の一方的な搾取によ

    り、住民は貧困に喘ぎ、内乱があいつぐ国々においては、住民たちは常に略奪や死の危険

    にさらされている。住民の安全を守るためにつくられるのが国家ならば、これらの国々に

    おける国家概念をどう説明すればよいのだろうか。より根本的な概念としての国家とはな

    にか。

    「国家について言えば、しばしば次のように問われてきた。それは実体なのか、それとも

    人々の問に打ち立てられる関係なのか、と。しかし国家は実態でもなければ関係でもない。

    では何なのか。さしあたってこう言っておこう。国家はひとつの運動である、暴力にかか

    わる運動である、と。6」

    国家は暴力にかかわる運動である。自分たちの身を守るための組織であるはずの国家が

    5萱野2005、15頁6萱野2005、6頁

    19

  • どのように暴力にかかわっているのか。ここではウェーバーによる国家の定義が参照でき

    る。

    「国家も含めて、政治団体というものは、その団体行為のr目的』をあげて定義すること

    は出来ない。なぜなら、食料の供給から芸術にいたるまで、政治団体が追求しなかった目

    的はないし、また人身保護から判決にいたるまで、すべての政治団体が追求した目的とい

    うのも無いからである。7」

    ウェーバーは、国家を目的によってではなく手段によって定義すべきである、としてい

    る。これは、国家が暴力行為という手段に共通性をもっている、ということを意味してい

    る。目的によって国家を定義しようとすればあらゆる国家に当てはまるような普遍的な目

    的が存在していなくてはならないがそのような目的は存在しない。また国家はこれまでい

    ろいろな目的を追求してきたので特定の目的を持って国家を特徴づけることは出来ない。

    唯一あらゆる国家に共通してみられるのは、手段として用いられる暴力行為だというのだ。

    むしろ近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家を含めたすべての政治団体に固有な・

    特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目して初めて可能となる。

    こうしたウェーバーの考え方は妥当なものである。事実、さまざまな社会集団の中で国

    家だけが暴力を行使することが出来る。戦争にせよ、犯罪者の逮捕や処罰にせよ、暴力を

    行使する権限を持っているのは国家だけだ。目的のために暴力を手段として用いることが

    出来るのは国家だけであり、国家は暴力権を独占し、唯一のエージェント(行為主体)と

    して存在している。だとすれば暴力のない国家というものは存在しないことになる。要す

    るに、国家がまずあるのではなく、暴力の行使が国家に先行するのだ。あらかじめ存在す

    る国家が、あらかじめ合法化された暴力を独占すると考えてはならない。そうではなく、

    暴力のヘゲモニー争いに勝利しているという事態が国家を構成していると考えなくてはな

    らない。国家を思考することは、暴力が組織化され、集団的に行使されるメカニズムを考

    察することにほかならない。

    つまり国家は自らの暴力を正当化するために法律をつくり、自らの暴力の合法性を正当

    性とすり替えて住民にインプットする。道徳的に正しいこと(正当性)と法にかなってい

    7ウェー六一1972、89頁

    20

  • ること(合法性)は必ずしも一致しない。例えば死刑は暴力の合法性には適っているが暴

    力の正当性という意味では道徳的には間違った行為である。国家は暴力をふるうために法

    をつくり、自らを正当化する。そしてまた国家は国家のなかに他の暴力が存在することを

    認めない。それは決して正義を目指すからではなく、他の暴力を取り締まることで自らの

    正当性を訴えるためである。国家は圧倒的な暴力(法、軍事力)の保持により他の暴力を

    抑圧し、暴力の合法化をはかる。

    国家が暴力という運動であるならば、国家が暴力をふるう動機は何なのか。それは秩序

    と支配を保証するためである。つまり自らの富を守るためと国家の内に自らの支配を脅か

    すような他の暴力が現れるのを防ぐためである。スピノザによると、国家の成立基盤は、

    富を獲得しようとする運動である。

    「かくて自然の支配の元にのみあると見られる限りの各人は、自分に有益であると判断す

    る…所の一切を最高の自然権に基づいて欲求しうるのであり、またこれをあらゆる方法で

    一暴力によって、あるいは欺隔によって、あるいは懇願によって、あるいはもっと容易に

    思われる何らかの手段によって一自分の手に入れてよいのであり、したがってまた各人は

    自分の意図の達成を妨げようとするものを自分の敵とみなしていいのである。」8

    これらのことから結論づけられる国家概念とは、国家の基盤となっているのは暴力を背

    景として他者を服従させながら、富を徴収するという運動である、というものである。つ

    まり国家の成立基盤=富の我有化+暴力の組織化ということになる。

    一方、国家の根本概念として、国家とは(暴力に対する)安全と富の確保のために作ら

    れる集団だという考えも有効であると思われる。

    自然状態において人間は「各人の各人に対する戦争」状態にある、とホッブズは言う。

    自然状態にあって人と人が信頼し得るのは、そこに外敵がいるからである。富を奪うため

    に結束する人(賊)から身を守るために、人々は(最初は「仕方なく」という程度かもし

    れないが)結束し、抵抗する。そしてそのようなつながりから徐々に信頼関係が生まれる

    のではないか。萱野は自然状態(各人の各人に対する戦争状態)にあるにもかかわらず、

    8スピノザ1944、166頁

    21

  • 人が人を信約することにひどく疑問を抱いている。なぜ人々は自然状態にあるにも関わら

    ず、特定の人格を自らの力を委譲することを互いに申し合わせ、信約することが出来るの

    か。近代的な国家理論として社会契約論を練り上げたホッブズによれば、国家が出来る以

    前の自然状態においては、人々を威圧する共通権力がないため、人々は自分自身の力を頼

    りに生きて行かなくてはならず、またそのためにどんなことをしてもよい。自然状態とは、

    人々が自分自身の強さと自分自身の工夫とが与えるものの他には、何の保証もなしに生き

    ている状態のことだ。その結果、自然状態においては、人々は互いに継続的な恐怖と暴力

    による死の危険にさらされることになる。しかしそうした恐怖と危険はそれがもたらす悲

    惨さによって、逆に、平和と安全を保証するような共通権力を樹立するよう、人々を促す。

    「人々を平和に向かわせる諸情念は、死への恐怖である」として、人は死の恐怖から自ら

    の身の安全や自らの富を守るために共通権力(国家)をうみだすことを示している。

    カール・シュミットは真の政治理論には人間の本性を悪とみなす思考が不可欠だと述べ

    ており、人間本性を悪と見なす人間学に基づいてこそ、国家を正面から理論化できるので

    あり、人間は本性敵に善であると考える人間学的楽観論では、政治的なものの固有性を捉

    えることは出来ないとしている。ホッブズもまた一方では「設立によるコモンーウェルス」

    の対抗概念として「獲得によるコモンーウェルス」という概念を置いている。後者はスピ

    ノザや萱野に支持されている国家概念であり、いわゆる「国家=暴力に関わる運動」とい

    う人間の本質を悪と見なす説である。

    どちらの説が正しいのか、萱野は「設立によるコモンーウェルス」のアポリアを提示し

    て、「獲得によるコモンーウェルス」を支持している。

    「自然状態とは各人の各人に対する戦争が常に存在する状態に他ならない。そこでは相互

    不信が人々を支配している。そうした状態の中で、人々がみずからの力を勝手に行使する

    ことをやめ、第三者にその力を委譲することを申し合わせるということはいかにも起こり

    にくい。たとえ申し合わせがなされたとしても、そこには常に不履行や破棄のおそれがあ

    る。申し合わせや旧約に必要な相互信頼は、自然状態からは生まれようがないからだ。」9

    果たしてそうだろうか。相互不信も自分一人の手に負えない大きな暴力に直面した際、

    9萱野、2005、108頁

    22

  • 生死がかかった抜き差しならない状況では(最初はやむをえずという形でも)結束を生む。

    それが自分たちの安全と富を守るために有効な手段だと気づいたとき、人は集団で自分た

    ちを守ることを覚え、共同体をつくり出す。そのような国家の形も有りえなくは無いので

    はないか。人間の本性を悪とみなすか善とみなすかで、国家に対する考察は全く異なって

    くる。また萱野は次のようにも述べている。

    「人々を超越する「共通権力』がないところでなされた旧約は、そもそも旧約ではない。

    というのもそこでは、いずれの当事者にとっても『履行の保証』がないからだ。このよう

    なとき、契約論のアポリァが露呈する。つまりそもそもr共通権力』を樹立するためにな

    される信約は、その共通権力を背景としてしか有効なものとはならない。国家を創設する

    はずの信約そのものが国家を前提としなくてはならないのだ。」10

    ここで萱野は、「信約が国家(共通権力)をつくるはずなのに、信約が(単なる約束では

    なく)信約であるためには履行の保証(国家や共通権力によって与えられるもの)が必要

    である」という矛盾点を指摘している。このことに関して、ホッブズは次のように述べて

    いる。

    「すなわち、信約は言葉であり息であるにすぎないから、それが『公共の剣』から得るも

    ののほかには、どんな人を義務づけ抑制し強制しあるいは保護する力も持たない。」11

    すなわち問題は、約束する当事者たちのうえに樹立された政治権力がない場合のように、

    どちらの側にも「履行の保証」がないところでの、相互の約束についてのものではないか

    らである。なぜなら、そういう約束は、信約ではないからだ。たしかに国家(共通権力)

    の建設に、各人対各人の信約が必要だとするならば、設立によるコモンーウェルスは大き

    な矛盾、アポリアを抱えていることになる。では国家の形成に果たして信約は必要なのか。

    履行の保証は権力によって与えられるのではなく、各人の善性、詰問をかけた各人対各人

    の信頼関係によるのではないだろうか。自然状態が、各人対各人の戦争であったとしても

    彼らを取り囲む状況によって、その性質は変わってくるのではないだろうか。我々が、グ

    lo萱野、2005、109頁11トマス・ホッブズ「リヴァイアサン(2)」39頁

    23

  • ローバリゼーション(国民国家の解体)に直面してやるべきことは、国民国家を国家の根

    本概念として考えないこと、そしてあらためて国家とはなにかを哲学的に考察することで

    ある。

    ここまで、国家とはなにかという問いについて、国家とは暴力に関わる運動であり、支

    配者による暴力の組織化と富の三三化を基にして成立するものだ、という理解を示した。

    つまり国家とは、暴力に基づく支配関係(主従関係)によって構成される人間の集合体の

    ことであり、近代以前は無数の暴力の集合体、組織化された暴力(国家権力のこと)が互

    いにぶつかり合い、より大きな富と暴力を求めて絶えず闘争を繰り返していた。暴力の無

    い歴史など存在しなかったという歴史的事実から、萱野は人間の本性を悪とみなし、国家

    を理論化した。人は人を支配しようとする、また富を二二化しようとする「本質的に悪」

    な存在であるどいうことだ。

    では、人と人との信頼関係や国民的アイデンティティ、同胞感情などはどこから生まれ

    るのか。それは国家が誕生してから形成されるものであり、決して信頼関係や同胞感情か

    ら国家が生まれるわけではない。まず支配と富を目的として生まれた国家が住民をコント

    ロールして、あくまでも支配者自らのために形成されるものだということを理解しなけれ

    ばならない。同胞感情、愛国心などのアイデンティティがどのように生まれるのかは、主

    権の成立の過程と国民国家の形成過程を見ることによって明らかになるはずだ。主権の成

    立と国民国家の形成は支配者にとってどんな利益をもたらすものなのか。また、どのよう

    な流れで成立したものなのかを考察する。

    現在の国家(主権国家体制)が形成されたプロセスはどのようなものだろうか。まず主

    権とは何かを定義することから始めよう。主権国家体制とは、近代における国家のあり方

    を特徴づけるもっとも基本的な枠組みに他ならない。近代における国家は主権を持つとい

    う点でそれ以前の国家から区別される。現在では、主権があるかどうかということが、国

    家が存在するかどうかの根本的な指標となっている。したがって問われるべきは、主権と

    は何か、主権の成立によって国家のあり方はどのように変容したのかということになる。

    主権とは至上の超越的権力であり、「暴力の一元化」を意味する。近代以前の国家形態

    では、暴力は社会の中で一元化されてはいなかった(ホッブズのいう「自然状態、各人の

    各人に対する闘争状態」にあった)。つまり人はそれぞれ自己の強さと技巧に頼り、略奪す

    ることが生業、名誉となっていた。だが、主権が存在することによって暴力はひとつにま

    とまり、ここで不要な権力争いは大きく減少する。主権の存在は、不要な権力争いが無く

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  • なり、支配者にとっても住民にとってよいものだということになる。では、どのようにし

    て「主権」という従来の権力と強さを超越する権力が生まれることになったのか。主権の

    成立(暴力行使の独占、集中)はなぜ可能になったのか。ノルベルト・エリアスによれば

    ①貨幣経済の発達、②火器の発達がその要因であるという。

    「①家臣に対して俸給を土地で与えると家臣は支配されつつも独立(その土地を独立的に

    統治)することになる。これを税に変えることにより、権力が遠心化するのを防げる。

    ②兵力の変化。戦士貴族(重騎兵部隊)に頼り、土地を与えると権力が遠心化する。ま

    た彼らを武装解除することにもつながる。火器の発達により彼らに頼ることが無くなり、

    貨幣を与えることにより権力の分散を抑えることができるようになる。12」

    これらによって特定のエージェント(行為主体)のもとに暴力が集中することにより、

    「政治的なものの自律」が起こる。これは暴力や宗教的(超越的絶対者による)権威を用

    いずとも、決定や秩序形成がおこなわれるようになることを意味し、特定のエージェント

    はそれだけの力の優位性を持っているとことになる。その自律化した「政治的なもの」;

    主権である、とジャン・ボダンはいう。また主権はかっての中世的な身分規定(例えば士

    農工商のような身分制度)や職能団体への帰属を無効化するとバリバールは述べている。

    「主権は限定された領土内にて行使され、そこでは主権は、他のいかなる主権をも寄せ付

    けない。ボダンの一般的な命題も、彼が議論する実例も暗にこのことを言っている。だが

    そのことの中に彼はとりわけ、主権者と臣民との直接関係、媒介も分化もない権力関係が

    成り立つための条件を見ている。この条件を私は「脱団体化」と呼ぶよう提案する。主権

    者の本質的な特徴は、臣民=主体に呼びかけて、彼らを個人に変えることにある。つまり

    は中間「団体」を個人に個別的な身分証明を与える「帰属」を無視したり、無効化するこ

    と。13」

    個人個人が主権者の直接支配下に置かれることによって、主権者は住民の集団化を抑制

    する。主権者は住民たちの意思に基づいた契約によって(社会契約説)、主権を根拠づけ、

    12エリアス2004。

    13バリバール2002、181頁。

    25

  • 自らの主権を脅かす集団をつくらせない。それまでの王権神授説から社会契約説へ、神で

    はなく住民が支配の上下関係を決定することになるのである。特定エージェントの暴力の

    蓄積が大きくなり、権力が集中する(さらに貨幣経済、火器の発達がそれに拍車をかける)

    ことでく主権は彼にあってしかるべきものになる。その状態が続くと、主権は彼の元をは

    なれ(主権の自立化)、彼が暴力や権威を用いずとも決定や秩序形成が行われるようになる。

    住民たちはそこで国から生かされることを覚え、自らの意思に基づいた契約によって主権

    を根拠づける。

    26

  • 第3節 国民共同体論の限界

    市民の主体性は、共同体=国家の一員としての主体性であり、そうした国民共同体に同

    一化した市民をつくるために学校と言う装置を利用するということになる。中教審答申を

    初めとする教育基本法改正論の公共性、改正論者のスタンスは明確である。国民、国家と

    いう境界線を日本人としての自覚や国を愛する心で再強化し、社会秩序の安定化と国際競

    争に対応していこうとする道である。公共の精神とされるのは、法や社会の規範の意義や

    役割について学び道徳心や倫理観、規範意識をはぐくんだ個人が想定されていて、それは

    国民共同体の一員としての規範や価値を共有した、脱政治的な社会性なのである。

    教育基本法改正の方向が含んでいるのは公/私の境界線の引きなおしの問題、国内/国際

    の変容への対応の問題に対する、像としての一貫性を持った解答の一つである。国家を単

    位とする共同体への帰属意識で束ねてしまおうとする図式は分かりやすく、また不安にお

    びえる生活保守主義者たちには安心感を与える像かもしれない。とはいえ、そこには二つ

    の大きな問題がある。

    一つは日本人としての自覚という語に端的に示されているように、多様なアイデンティ

    ティを承認し、多様な生の二二不可能性を理解するような、寛容さに欠けているというこ

    とである。国民共同体の公共性は非一排除性(公開性)という点でも、非一等質性(複数

    性)という点でも公共性の条件を完全に欠いている(斉藤2002、108頁)という点で大き

    な問題をはらんでいる。たとえ、「国家至上主義や全体主義的なものになってはならない(中

    教審答申)」と但し書きがつけられたとしても、強制的同一化や排除・差別を構造的に作り

    出すものになるだろう。もう一つは長期的に見て、本当にそれがこれからの教育や日本社

    会にとって望ましい解答なのか、という問題である。

    また、一般にナショナリズムは一貫した論理や体系性を持たない。B.アンダーソンに言

    わせると、ナショナリズムは哲学的に貧困で支離滅裂であり、他のイズム(主義)とは違

    ってそのホッブズも、トクヴィルも、マルクスも、ウェーバーも、いかなる大思想家も生

    み出さなかった(アンダーソン1997、23頁)。また、近代における大戦の異常さは、人々

    が類例の無い規模で殺しあったということよりも、途方も無い数の人々が自らの命を投げ

    出そうとしたということにある。学校が本腰を入れて愛国心教育という名のナショナリズ

    ムを称揚するならば、それは情動的で過激な右翼運動に、フォーマルなお墨付きの正当性

    を与える機能を果たす。

    これら様々な議論が飛び交う中で大切なのは、敵は味方であるという思考、対立を超え

    27

  • た先にある、国にとって真の利益を考えているのは誰かということである。一見思想的に

    対立する者同士が通底性を持っているということは大いにありえる。戦後思想の中で、か

    つてあった民主と愛国の両立、共存状態は崩壊し、当初は一種のナショナリズムであった

    「国家に抗する市民」という表現もいまやナショナリズムを離れ、「国家に抗するナショナ

    リズム」という概念はなくなった。我々は民主と愛国の両視点を持った、国家のあるべき

    姿について高い関心を抱き真剣に考える国士であるべきだ。

    斉藤純一は愛国心を論じた論文の中で、愛国心を再定義してナショナリズムから切り離

    す興味深い論を展開している。すなわち、斉藤は愛国心を「自らの属する政治的空間に対

    する積極的な関心関与」あるいは、「同じ政治空間にともに属しているという感情、その空

    間を外部から隔てることなく、内外にわたる問題連関の認識に立ちながら、それが抱えて

    いる問題を民主的な意思形成・意思決定によって解決していこうとする思想と行動」と読み

    替えて、新たな定義づけを与えている。

    このように再定義された愛国心は国・国家に対して次のような逆説を含んでいる。

    ①愛国心は国家のみに向けられるものではない「国家が政治的空間を占有しているわけで

    はない」から。

    ②愛国的であろうとすると、視界を国境の内部に閉じ込めるわけには行かない。自分が属

    する政治的空間というのは、国家を越えるのであるし、自国の外の世界に関心を持ち、そ

    こでの問題解決を図ることが必要になってくるから。

    ③愛国心は、国民のみによって抱かれるような者であってはならない。日本国籍を持たな

    い人々でも、政治空間を共有しているのだから愛国心も共有しうるようなものでなければ

    ならない。

    ただし斉藤は、同じ政治的空間に属しているという感情の形成は、その空間における民

    主的な意思決定と意思決定のプロセスに参加する途が阻まれていないということを最低限

    の条件としており、同時に異論を封じない討議によって意思形成が行われることが必要だ

    と述べている(広田2005、154頁)。

    1990年代にはポストモダン論や想像の共同体論がしきりに言われ、アカデミズムの世界

    では国民国家はフィクションに過ぎないという見方が定着した。この議論は、実態として

    の国家、あるいは自然な存在としての国民国家に依拠する発想が持つ虚妄を鋭く衝き、境

    界はあいまいであり流動的であるとして、国民国家の脱神話化の役割を果たしたのは確か

    である。

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  • 例えば、歴史研究に注目すればそれは共振する二つの方向で展開していた。一つは伝統

    の発明、想像の共同体、ナショナリティの脱構築などに連想されるような、自明視されて

    きた国民や国民文化といった単位が様々な装置の登場と日常への埋め込みを通して、一種

    の共同幻想として歴史的に作られてきたものに過ぎないことを明らかにし、それによって、

    相互の境界を侵犯ないし無化することを目指す方向である。二つ目は、国家を構成するメ

    ンバーに事実上入っているにもかかわらず、国民としての十分な地位を与えられてこなか

    った被抑圧者一女性、エスニック・グループ、被差別集団一の歴史を国民国家との関係で

    明らかにし、それを通して、国民や国民文化を一枚岩で捉えるような旧来のイメージを解

    体しようとする諸研究もなされてきた。