岑參の邉塞詩についての覺書 - huscap ·...

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Instructions for use Title 岑參の邉塞詩についての覺書 Author(s) 野澤, 俊敬 Citation 北海道大学人文科学論集, 15, 23-54 Issue Date 1978-03-30 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/34337 Type bulletin (article) Additional Information There are other files related to this item in HUSCAP. Check the above URL. File Information 15_PR23-54.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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Instructions for use

Title 岑參の邉塞詩についての覺書

Author(s) 野澤, 俊敬

Citation 北海道大学人文科学論集, 15, 23-54

Issue Date 1978-03-30

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/34337

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Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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序章

第一章

第二章

第三事

第四章

移章

序章

山今参の漫塞詩に

し五

〈銀山積西館〉について

二つの鍛門閥と一一つの輪畳

もう一つの塞外時代

〈胡叶加歌迭顔異卿赴河瀧〉の鐙験

本詩を評して「奇」とするは、早くは唐の殿議が『河山獄英霊集』

に於いて「参詩、語奇憧峻、意亦奇を遣す」と述べたのに始まる。

の感がある。

宋代に奇とする評は見ないが、

明代に至りその評はほぼ定着したか

正徳年間に刻印された『山今嘉州詩集』に附した「刻本

詩成題其後」なる一文に、建貢は段璃の許を承け、更に宋の巌槍浪

の許を加えて、「夫れ俊なり、逸なり、奇なり、悲なり、牡なり。

五者は李杜も能く粂ねざるか。

而して山今詩近し」と述べている。ま

j畢

f変

た、胡遮曳の編んだ『唐音焚畿』には、徐献忠の「本嘉州参は風骨

を以て主と矯す、故に韓裁峻整にして、語多く奇を遣す」なる評と、

王世貞の「山今尤も随健、歌行は奈落奇俊なり」なる評とを見ること

下って清代に至り、洪亮士口の『北江詩話』、王土棋の「漁

ができる。

洋詩話』・「師友詩偉績録」その他に奇という評語は継承されてゆ

十 23-

これらの評は特に本参の謹塞詩に限って充てられたものでは恐

らくない。

しかし、

異彩を放つその漣塞詩の存在が、山今詩全体に奇

なる印象を添えるに至ったことは否定できまい。

u

,戸、

徳潜が「参詩能く奇語を作す、尤も遁塞に長る」と述べ、

話』に翁方綱が「嘉州の奇崎、唐に入りて以来未だ有らざる所なり、

又加ふるに遁塞の作を以て、奇気盆ます出つ」と評し、『唄傭詑詩』

に施補華が「本嘉州の七士口、勤骨奇異なり、霜天の一鵠の如し、故

に之を漣塞に施すに最も宜し」と設くことなどから推しても、山今詩

「唐詩別裁」に沈

「石州詩

を奇とする許と遁塞詩は切り離せない。

では、本参の逼塞詩の何が奇とされたのか。殿璃をはじめ徐献忠、

洪亮士口、沈徳潜が奇語の多いこと、或は語奇なることを指摘してい

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人文科学論3主主義

ることから

い込まれることのなかった

協の詩人の詩にほとん

凶域漣境の地名や風物め名が、先ずそれ自鰻寄異なる印象を蹴例えた

ことは懇像に難くないが、そ

だ勾や封句

ならさ

壮大且つ強然なるイメージの

には詩全殺か

ら醸し出さ

ヱキゾチツ

た時の

奇なる

評一絡を喚起したのであろう。

の濠期せぬことであっ

そtL

たかも知れない。彼にしてみれば、漫境の地にぬ坊を窪いて瞬時伐され

た新鮮な感動を可詫な限り忠繁に撃かな表現カ

の詩に結晶さ

せたにすぎないとすれば、そ

されても、それは作者の

り知らぬことマあるだろう。

関より奇なる評は、殺なる珍しさに充て

ではない。しかし

言要み

つては多分に

の謹塞詩の

に止まる鑑賞は

つの宿命であるかも知れない。幾時代を隔てた議

の未知なる

世界が詠われてい

先ず珍しい

め路山血究

であろうが、詩に託された作者の心情に患いそ馳せる前に、その珍

しさだけで揃足してしまいかねない。果して後代の

のどれほど

がその珍しきの奥にある彼の詩的世界を味わい得たかの

f旦し

思内侍代の人々はかなり身近

の浅案一詩を受けとめてい

たト品、っ

る。彼の

どし

め詩集を編ん

に、削ち人人簿へ潟し、関塁の土庶、戎

と記している。

その序に

爽轡給と離も、

人や庶民、

、恐らく彼の議塞

にも愛議さ

さらに

ったろう。彼らにとっては、後代め

で容参の

であった

れる。何故なら、彼らめ

生まれ故郷の、或は僻慈の任地の吉排出や風物・堂本参のよう

は、嘗て幾人もいなかったの

詠いあげ

から。

いわゆ

の中には、作者が駕擦に塞外の地

いての作江

かりではなく

た詩も多い。援に上尾龍

によっ

介氏が指摘したよ、7に

王昌齢、

般に浸寒一詩人と呼ばれている高議、

玉之漁らにしても、少なく

玉門閥辺西め

際城に関する限り、

の詩

の耀験を騒

まえたものではない

竹本股周詩話』に

の中戦に従ふ、支(の世間域の悶共

3走

l?

家を成す、

事を記すること甘憾だ多し」

の辛文房が

子傍』に「参は戎幕を累生し、

征行離到の情を極め、域障墾径一経行せが

の問問を往来すること十鈴載、

と傍えるが捺く、

24

山々参は部域漣境での

建験し

々な見簡を文撃的表現

に昇華し得た稀有な詩人であり、その逼塞詩の党繁は唐代ばかりで

なく歴代の鈍

の遁障を許さぬものがある。

選」などと

グ〉

の「嘉

ぺて界点舎の

った

外|

尤も濁歩縫っ」なる言葉は

つ正意である。現

は、錦、ぇ迂鄭綴錦が「唐の詩人

った詩は非

常に多いが

みな雲を掴むようなものばかりだ。だが、彼の場

ら、経験から出たものである。ぞれ故、彼

一句一匂が

は高識と誌と僚慨壮烈の滋格を備えるともに、高過以上

る〕)と、

であり

る趣と新鮮な情感に富んでいるの

やはり

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高く許債している。

しかし、濁創的であり、奇なるが故に、却って彼の遁塞詩の讃み

が混乱したまま放置されてきたと言えなくもない。先人が奇とした

批評を踏襲した歴代の詩話人には、敢えて奇の賓瞳を解明せんとす

る姿勢は必ずしも認められない。

そして現在もなお事情はそれほど

饗わっていないのではあるまいか。山今参の漫塞詩を前にして、我々

はどれほど確かなイメージを結び得ると言うのか。答は悲観的でし

かない。甘粛や新彊の気候や自然を知らぬためもある。地園や駕異

や文章を頼りに想像力をかき立ててみても、日本という箱庭的風土

きない。

ついにその砂や風や月や雲を肌に感じとることはで

だが、それはそれでなお仕方ないとしても、作者本参が何時

に育った者は

何慮で、何故それらの詩を詠ったかについても、確貰なことはさして掌

握できていないのである。その結果様々に推測を還しくする他ないが、

勢い時には超現賓的なイメージでその詩を包み込むことになりかね

ない。本参の遁塞詩には確かに讃む者の心を西域の未知なる世界へ

野j畢

と誘う魅力がある。

とりわけその遁塞詩に頻出する西域の地名、例

えば赤亭、

火山、銀山、熱海、織門などは、

それぞれが想像力の飛

皇子参の遁塞詩についての覚書

朔を促す語感を帯びていると言えまいか。

だが、本参は奇を街った

同早なる思いつきからそれらの地名を詠い込んだのでは恐らくない。

自ら塞外の地を経行して得た見聞を踏まえ、

その現賓的経験の強烈

さを徐すことなく表現せんとして、場合によっては詩的誇張を纏わ

せつつ遁一境の地名を駆使したのであろう。

なかには彼が行ったはず

がないと思われる地名もあるが、既に詩語として用例の多いものを

除けば、

その数は少ない。

それらの地名にしても、長安で小耳に挟

んで詩に詠い込んだ場合とは鈴程存在感に差があったはずだ。

同時代人、なかでも塞外に赴いた官吏や将兵、

そして異民族にと

つては聞き慣れていて親しみのあったそれらの地名は、{女史の乱以

降、唐が西域に於ける政治的支配力を急速に失ってゆくにつれて次

第に忘れ去られ、詩語としてほぽ完全に死語と化す。本参が西域に

赴いた時期は、玄宗の治下まさに唐の勢力が最も西へ及んだ時代で

あり、唐代にあってもひときわ異彩を放つ彼の濯塞詩は、稀有な時

代と稀有な詩オとの避遁による産物と言えよう。

そこに詠いこまれ

た地名を後代の護者が奇異に感じたとしても無理からぬところがあ

る。また、彼の遁塞詩に作られた場所の未だに定まっていないもの

FD

のム

があるのも不思議ではない。

一首の作詩の場所や地名についての混乱が、その詩の

讃みを左右するばかりではなく、本参の遁塞詩全瞳が構成する地理

とはいえ、

的空間の庚狭にも関わることがある。

と同時に、

ただでさえ不明瞭

な彼の塞外時代の行跡を、

一層謎に導くことにもなりかねない。

その塞外時代に限らず、本参の侍記的研究は、唐代の他の代表的

詩人のそれと較べて進んでいるとは言えない。比較的まとまったも

のとしては、頼義輝の「山今参年譜V3)

と聞一多の「山今嘉州繋年考詮V4)

があり、山今参の詩の編年考誼としては聞一多の研究に基づいて李嘉

言がまとめた「山今詩繋年ベ)がある。小論はそれらの労作の成果を踏

まえて、本参の数首の遁塞詩の成立の背景を探りつつ、彼の塞外時

代の足跡をいくらかなりとも明らかにするものであるが、後に述べ

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人文科学論文楽

るよ、っ

つかの修正を必袈とするc

本参の

σ〉

けに限つでも従来め本参についての簿記考謹は

助)-

しでそれらを指摘しておきたい。

返す持、これま

そうした修正の後に、改め

れてきたその詩的世界がいか

ような饗貌を示すかが

の綾終的な関心事である。

第一章

出随一回舘〉

につい

め議黙とも一一一罰うべ

は何時に詰まるのか。また、彼が何綾

の源泉となった

ったのか。

こととし、関

多は天蜜八裁

のこ1y山

調和義輝が

多が開元一一

グ〉の議塞行

〈七一八)とす

ていることから、一一人によ

るのに釘し

るとしても、頼幾潔より生年を…一

に定めた居間一多に

る侍記考謹に於いてに一歳の年齢差が個々の経懸について罷るのは理

iま

の逼塞行が頼義輝より却って

のことになるの

は何故か。

い見解

、静〕

の年斡差は町それぞれの

に微妙な議い

あろうと議測される。

〈銀出礎的館〉と題す

てみよう。

銀山映口嵐似箭

j乳

箭に制似たり

銀山挟ロ

観丹磁茜月如練

畿内穏芭

の如し

機札機民愁涙泊馬毛

る愁涙

年のずれ

総閣制胡沙迭人一線

楓楓た

人面に逸る

丈夫三十

安能移日守筆硯

ぞ能く終

んや

は初め

の泌名を冠した

によって異境

いあげ、次に郷愁に苛まれながらも砂漠を強行する日れの

では、結ぴの

勾をどう譲むかο

地註と名胸部局を手に入

れずして老けこむにはまだ若い

十の自分を自ら勧ましているのか。

それとも、

い男の焦りの吐露なの

三十になっても未だ

カミ

の丈夫にとって然りは

どちら

都で文書に壊れて軒ち果てるよりは、出世の機会の多い-塞外へ段ら

求めてやっ

26

こめた結びである。

ところで、同じ

ムi

の特に作られた

に第ニ席で及第する。

その後、初めて得た官は右内率府兵曹参軍とい

の侍衡をつか

さどる役所の

であったc

その

ら関もない頃の作である。

…一十祐一命

Lコる

白ら隣む

不敬恥徴官

敢へて徴官を恥じず

潟水呑樵路

湖水

樵路を呑み

出花酔薬欄

山花

薬欄に欝ふ

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祇縁五斗米

祇五斗米に繰り

一漁竿に孤負く

孤負一漁竿

授官した喜ぴなどは全く認められない。

むしろ後悔の色が濃い。

僅か五斗米のために心安まる渓澗で釣糸をたらす楽しみを捨てたこ

とを悔んでいるのである。詩の表面には、初めて就いた職務に対す

る特に深い失望も、強い出世欲も現われていない。

だが、彼は本嘗

に微官を恥じていなかったかどうか。前野直彬氏は、本参は第二席

で進士に合格したものの吏部の選考ではあまりよい許債が奥えられ

ず、科翠に合格していない杜甫に奥えられたのと似たような官に充

てられたことから推して、多分彼は失望しながら辞令を受け取った

と推測しておられ話。恐らくその逼りであったと思われ

であろ、7、

る。冒頭の一句に既に失望が潜んでいる。「三十始一命」には、己

れの不甲斐無さに封する嘆息が聞きとれる。三十歳とは、本参にと

つてはようやく授官に漕ぎ着ける年齢であってはならなかったよう

だ。彼はもっと以前に科奉に合格していなければならなかったし、

野j畢

もっと満足のゆく官職に就くはずであったのだ。後に彼が塞外に赴

本参の漣塞詩についての覚書

いたのは、無論微官を恥ずる三十の自分を抑えきれなくなったがた

めに他ならない。

初めて官に就いた時に自ら宥めた焦りと功名心が、現賓的打開策

として漫塞行を選揮するまでには、果してどれほどの時間を要した

であろうか。

二つの詩に詠われている心情にはなお隔たりが認めら

れるとは言うものの、

その決断は或は意外と早かったかも知れない。

の序で、「参年三十、

授官前の作〈感奮賦〉(『全唐文』巻三五八)

ゃっ

未だ一命に及ばず。昔は一に何ぞ柴えたるかな、今は一に何ぞ惇れ

たるかな」と、彼は嘆いている。本参は、父親は吾州の刺史に終わっ

たとはいえ、なかなかの名門の出である。その序に自ら「相門の子」

と述べ、「国家六葉、吾が門三相」と誇らしげに記す逼り、高租か

ら玄宗までの六代に本丈本、本長筒、山今義と三人の宰相を出した一

族の子弟である。

その彼が三十にして未だに官位も得ていなかった

とすれば、心中間々たるものであったと思われる。三十歳前後で進

士及第、授官というのは、早いとは言えないが、嘗時としては遅く

もなかったであろう。しかし、名門意識に出世欲を煽られていた本

参にしてみれば、三十歳はそれより逢か以前に将来の出世が約束さ

れた官に就いていなければならぬ年齢であったのだ。彼はこの賦が

-27←

作られてきして時を隔てずに授官したものと思われる。

だが、待望

の官職が白分の望みを託すに足らぬものであったならば、焦りと功

名心とが彼をより可能性の秘められた場所、塞外へ赴かしめるのは、

時聞の問題であったと言えよう。本参の浸塞行を初めて授官してか

らかなり後のことと珠測すべきではあるまい。

さて、頼義輝は〈銀山積西館〉〈初授官題高冠草堂〉〈感蓄賦〉

グ〉

三篇を全て天賓六載、山今参三十歳の作とする。彼によれば、本参は

授官して直ちに塞外に赴いたことになる。

だが、彼は三篇に表われ

た三十という年齢を示す数字から機械的な判断を下したにすぎない。

俄かには信じ難い。賓際、後に述べるが、〈銀山積西館〉

の詩が他

の二篇と同じ年に作られることは物理的に不可能なのである。

聞一多は〈感奮賦〉を天賓二年の作、〈初授官題高冠草堂〉を天賓

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人文科学論文集

三載の作、〈銀山積西館〉を天賓八載、三十五歳の作とする。郎座

に抵抗を費えるのは、果して本参が三十五歳の自分を三十と詩に詠

ったかどうかである。聞一多は塞外での作を細かに検討しておらず、

彼の考謹に従った場合、李嘉言の主張するように天賓九載、三十六

歳の作となり

一層抵抗が強まる。もしも三十六歳の本参が「丈夫

三十未富貴」と自らを詠ったとすれば、

それはただの焦り、或は白

噸めいた強がりとしてしか響かない。

天賓三載の不本意な授官以来

六年間も彼は長安に爆っていたのであろうか。〈銀山積西館〉の詩

には何かしら若い気負いのようなものが感ぜられるのであるが。彼

が自らを三十と構した三篇に、六歳から七歳の年齢の隔たりを想定

する他ないのであろうか。固より韻文に於いては端数を切り捨てた

だが、この場合の聞一多

概数が頻りに用いられることは承知する。

の主張には先の布陣測からしでも同意することはできない。

結局〈銀山積西館〉の作詩とその時の年齢については、疑問のま

ま暫く保留する他ない。

ただ、この詩が初めて塞外に赴いてからあ

まり時を経ていない頃の作であるという点では頼義輝と聞一多も一

致しており、この詩の作時を定めることによって、本参の最初の漫

塞行が何時に始まるのかが推定できよう。更にこの詩を退って行き

‘,-、。

宇hLV

第二章

二つの織門闘と二つの輪牽

〈銀山積西館〉の詩に関する限り、頼義輝と聞一多の二人の考詮

をあてにするわけにはいかない。頼義輝の根擦は三十という数字の

みである。聞一多は逆にその数字を軽視し、安西四鎮節度使高仙芝

が天賓八載に入朝していることに本参の逼塞行をいささか強引に結

ぴつけ、更にその推定にこの詩を短絡的に繋いだにすぎない。二人

-とも他の遁塞詩との相互関係を検討していない。その結果、

この詩

は長安附近での作から遊離しているばかりでなく、塞外での諸篇の

中にあっても孤立しており、この詩を詠うまでの本参の行跡は、内

面的にも外面的にも不明瞭である。先ず個々の漫塞詩が詠われた場

所と背景を検討し、互いに関聯させ組合わせ、より可能性の大きい

作時を割り出してゆく必要がある。本参の塞外時代の行跡を辿るの

は外面的にせよ困難なことに重いないが、しかし行動のスケールが

大きければ却って推定し易いと言えなくもないのだ。中圏西部の庚

-28

大な砂漠に貼々と散在する彼の作詩の跡を線で繋いでゆくのは一見

無謀なことのようではあるが、長安附近で作られた幾多の類似した

詩の作時を比定するよりは蓋然性が高いと思われる。李嘉言が〈銀

山積西館〉

の詩を天賓九載に比定したのも前後に配した遁塞詩との

閥聯からであり、彼が従った聞一多の天資八載に初めて塞外に赴い

たとの説を保件にする限りに於いてそれは正しいと言える。

〈経火山〉と題する五言古詩に先ず着目したい。

火山今始見

火山

今始めて見る

突冗蒲昌東

突冗たり

蒲昌の東

と冒頭にある。

火山とは

一名火焔山ともいい、唐の西州(現在の

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吐魯番、吋日吉田)

の治が置かれたトルファン盆地の北に沿って走る

隆起した断屠からなる山を指し、砂岩と喋岩に被われた赤い山肌か

らその名が付けられたという。蒲昌は、湖の蒲昌海ととる意見もあ

るカず

ここでは西州に層する五勝の一つ蒲昌牒(都善∞

ZZER2・

宮口)を指すのであろう。詩は撞く四句で初めて目にした火山の異

態を幾分誇張した表現を以て詠いあげ、更に次の四句に逗なる。

我来巌冬時

我来たるは巌冬の時なるも

山下多炎風

山下

炎風多し

人馬墨汗流

蓋く汗流る

人馬

札口告一七力

量寸主〈

JLJ11

執か知らん

造化の功を

火山の麓、トルファン盆地の巌冬とは思われぬ異常な暖気に出舎っ

た驚きを遁べ、改めて火山の存在の奇異なるを印象づけて詩は結ば

れる。

ところで、巌冬に火山の麓に着いたというからには、長安を

護ったのは早ければ秋、遅ければ初冬の頃か。恐らく山今参は、臨山

野i畢

を越えて河西回廊を西北に辿り、瓜州(安西〉ロ岡山)或は沙州(敦燈

そこから北上して伊州(暗密出回呂町)に行き、

SEEm)に至り、

本参の主量塞詩についての覚書

更に西に進んでこの地に至ったのであろう。嘗時の西域に遁ずる最

も主要な街道であり、初めて西行した本参がこの街道を遁ったであ

ろうことはほぼ疑いない。彼の詩に赤古?という地名が四度詠い込ま

れており、例えば〈火山雲歌迭別〉と題する七言古詩には、

突冗たり赤亭口」とある。〈迭李副使赴碩西宮軍〉なる七言律詩に

赤亭這口行人絶ゆ」とある。

「火山

も、「火山六月麿に更に熱かるべし

火山から連想されるやはり印象深い地名であったようだ。

この赤亭

が現在の七克量(密室

5)にあたることは、山今仲勉によって明らか

にされてい記。『新唐書』地理志第四の伊州の項に見える道理記に

は、伊州と西州の州界に赤亭守捉として出てくる。本参はここを経

て火山の麓に至り、

その異様な姿に目を見張ったのであろう。

長安を護って西州に至るまでに詠まれたと思われる詩は幾つかあ

るが、巌冬という季節にこだわれば白と限られて来る。李嘉言は

〈玉闘寄長安李主簿〉と〈歳暮積外寄元据〉の二首をこの途次の作

としているが、それぞれ歳除、歳暮の作である。嘗時瓜州にあった

玉門閥、或は漢が陽闘を置いた沙州のあたりをその時期に遁過した

とすれば、

火山で巌冬というのは少し矛盾する。「元和郡牒圃志』

瓜州から莫賀積路を、通って伊州を経て西州まで千六百三

十里、沙州から伊州を経て西州まで千四百三十里、

Qd

nノム】

によれば、

いずれの場合も

砂漠を越えねばならぬ。〈経火山〉

の詩から推定する限り、

この二

首は初めて塞外へ赴く途次の作でない可能性が強い。また、〈題首稽

蜂寄家人〉と題する七言絶句を同じくこの途次の作とする見解もあ

るカf

この詩は立春の作であり、

玉門闘を出て首葎燦で立春を迎え、

更に千五百里以上も進んで巌冬に火山に着くというのはおかしい。

但し、間厳冬とは言っても暦の上では既に年を越えており、気候の巌

寒なるをそのように表現したのむととれば、これら三首を安西への

途次の作とするのは必ずしも矛盾しないが、なお疑問が残る。

この

時期の作とするのは保留すべきであろう。

山今参のこの時の目的地が蛍時安西都護府が置かれていた亀草(庫

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人文科学論文集

であったことは、

車問ロ宮)

律詩に、「一身遠使に従ひ

過鹿山途中呈字文判官〉と題する五言古詩の中で、臨山を越える途

〈積西頭迭李判官入京〉と題する七言

蔦里安西に向かふ」とあり、また〈初

いることから明らかである。

中で出舎った安西から東臨する旅人の言葉を次のように書き留めて

西来誰家子

自道新封侯

自ら道ふ

前月護安西

前月

路上無停留

路上

都護猶未到

来都時護

来時在西州

十日過沙積

終朝風不休

西来するは誰が家の子ぞ

新たに侯に封ぜられたり

安西を護し

停留する無し

猶ほ未だ到らず

西州に在り

十日

沙積を過ぎ

終朝

風休まず

山今参が安西節度使高仙芝の率いる軍園とともに西行したとする設も

あるが、この詩がそれを否定している。

この時都議は西州にあり

まだ安西に着いていなかった。山今参は都護を追うかたちで西へ急い

だのであろう。恐らく同行者は少なかったと思われる。有名な〈碩

中作〉や、やはり最初の遁塞行での作と思われる〈日没賀延積作〉に

t

、。手

Ld-ν見られる寂客感は、大軍固とともに砂漠を渡る時の感慨とは思われ

さて、長安から西州までは五千絵里、馬を駆って砂漠を強行して

来た本参は、西州を殻ち更に西の安西に赴く。火山の威容を目にし

た驚きも醒めやらぬうちに、罵4A目

(

J

g企)への途次の難所である

稽石積と銀山積にさしかかる。『新唐書』地理志第四の西州の項に

引かれている道里記に次のようにある。

州より商南に南平、安邑の雨城有り、

百二十里にして天山に

至り、西南して谷に入り、宿石積を経、二百二十里にして銀

山積に至り

又四十里にして罵者との界呂光館に至る。

巻二の西州から意書への行程を述べた箇所には

阿ア 2日1い 口

長ル城

署プま覧;言豊かわ

又南に折れて西に進むと庫穆什大山中

百五十里。庫穆什とは回語で銀を謂ふなり。故に唐人は之を銀山と

謂ふ」と記されている。現在の庫米什(関口ECM)の南側に沿う山地

を銀山、

-30

その一帯の砂磯地帯を銀山積と呼んだのであろう。聞一多

は罵警との界にある呂光館を銀山積西館ではあるまいかとしている

が、そうだとすれば今の検樹溝

(JP田Emoz)のあたりか。

ところで、本参が〈銀山積函館〉の詩を詠んだのは銀山という美し

い地名に魅かれたためでは恐らくない。

むしろ地名の美しさとは裏

腹のこのあたりの荒地での忌わしい髄験によると推定したほうがよ

さそうだ。「銀山峡口風似箭

織門闘西月如練」

の聯から推して

この詩は往路の作ではない。何故なら識門闘は吾墨田の更に西にあり、

往路のその時貼では未見の地であるからである。詩は安西に着いて

後、再ぴ銀山積にさしかかった時の作であろう。

となれば、長安を

護った同じ年にこの詩が作られた可能性はない。この附近の悪路に

ついては、例えば一九三五年にここを通過したイギリス人タイクマ

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カミ

「宿命的な托克遜峡谷と寂しい庫米什よ|||私は何という不

除快な記憶をおまえに封して持っていることかノ

新一彊の沙漠はゴ

ビ沙漠よりもっと荒涼としていて、気味が悪い。私のアジア遁歴の

クムンユ

すべてを逼じて、汚らしい庫米什ほど、気の重くなる宿泊地を思い

出すことは出来ない」と、吐き捨てるように語っている。天山南路

最大の難所といわれる銀山積と稽石積(トクスン陳谷)を前路に控

え、山今参は往路の苦労を思い起こし、自らを鼓舞して「丈夫三十未

出向田且目(

安能移日守筆硯」と詠ったのではあるまいか。

後に彼はもう一度だけ銀山を詠う。

七言古詩〈天山雲歌迭議治時

京〉に於いて。

能兼漢月照銀山

ル匂JU

能く漢月と乗に銀山を照らし

復逐胡風過織閲

復た胡風を逐ひて蟻闘を遁ぐ

この詩は後の北庭時代の作と思われ、実際に銀山や織門闘を見てか

ら既にかなりの年月を隔てており、詠われているのは賓際に見た情

野j畢

景とは限らない。嘗て銀山の風の凄じさと錨門闘の月の美しきを詠

った彼が、

ここでは逆に銀山を照らす月と織門闘を吹き過ぎる風を

詠う。銭円闘の月は、初めてそれを目にした時の作〈宿蟻闘西館〉

本参の漫塞詩についての覚書

那知故園月

也E那織 ん闘 ぞの 知西らにん到 放れ園るの

を月

也到織閥西

と詠われていた。

その故園の月、漢月が彼の想像力の中で轄じて銀

山を照らすに至ったのが、

天山の雲の白さ、月の光、

そして白銀に

照り映える山というイメージの連鎖によることは容易に察しがつく。

その結果、銀山の封偶である蟻門闘に風が吹かねばならなかったの

でふめる。

この時、二つの地名は既に現賓的韓験から切り離され、

j局

立した語感とイメージを伴った詩語として彼の逼塞詩に駆使されて

いたのである。

〈銀山積西館〉の作詩の背景をより明らかにするために、ここで

銀山の針偶である鍛門闘についても知る必要があろう。場所は甚だ

『新唐書』地理志第七下の罵警から安西都議府

はっきりしている。

までの道程を述べた箇所に、「罵誉より西し五十里にして織門闘を

過ぐ」とある。また、『西域水道記』巻二にも「今の庫爾勅より北

し、二十里にて巌口に至る。所謂遮留谷なり。山に入り、径路崎幅

-31-

下に海都河逼る。地の要害の慮、

或は闘を置くなり。唐の山今参に題錨門闘棲及び宿銭関西館の詩有り」

たり。三十里にして大石嶺を越ゆ。

とある。現在の地固にも、罵香の西南、庫爾勅(同ハミ目白

の北にそ

の地名が見られる。『回一日書」四夷停の吾局者園の項にも鍛門の名が見

えるので、唐以前より名の知られた要害の地であったようである。

日本人では第一次大谷探検隊が一九

O三年の秋にここを遁過して

いづhv

。山今参の詩に閲する限り

この地名はこれまでしばしばもう一つの

識門闘に充てられて詠まれてきた。

そのもう一つの織門閥とは、玄

壮大がインドに赴く途次に逼過した現在のソビエト聯邦ウズベク共和

園のシャフル・イ・サブズ(∞

zrzam与N)

南方の山中のデルベン

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人文科学論文集

ド(ロ

2rgLにあたる。『大唐西域記』巻一には

「此(褐霜那

園)より南に行くこと二百里にして山に入る。

山路崎幅として、絡

径危険なり。既に人里を絶ち、

又水草少なし。東南に山行すること

三百絵里にして織門に入る」とある。

やはり要害の地にあり、中園

から見ればまさしく西の涯である。上尾龍介氏は山今参の塞外に於け

る足跡の西限をこの地に定め、「天山を横断して北路に出るコ

lス

は、玄突が辿った道であり、

タラス↓夕、ンュケント↓サマルカンド

↓織門閥↓パクトリア↓カブ

lルと槙いているが、山A

寸参が歌った

『熱海亘織門』の一句が、この地理的な配置と一致していることは、

彼の足も亦、嘗ての日、玄笑が歩いたであろう同じ道を、西方へと

辿ったことを思わせるのであるマと述べている。

上尾氏の誤解も無理からぬところがある。織門閥という地名が唐

詩に詠われているのは、山今参以外では李白に一例を見るのみで、

〈従軍行〉と題する五言律詩の結ぴに

願斬章子首

願はくは草子の首を斬り

長埴静銭関

長駆して鍛闘を静めん

とある。李白の詩は多分西域での瞳験にもとづくものではなく、遁

境の地名を用いて勇壮な夢をふくらませたにすぎない。

元代の『長

春異人西遊記』

の中でも詩に詠いこまれているが、

その錨門闘はデ

ルベンドのそれである。賓際に庫爾勅の北の織門闘に至り、

それを

詩に詠った詩人は恐らく本参ただ一人であろう。詩語としての用例

が稀なるが故に、極めて特異な龍験を記したよりポピュラーな書

ったとさえ思われる。しかも、

『大唐西域記』に書き留められた識門閥との後代の混同は避け難か

本参自身が果してその混同から逃れ

得ていたかも疑わしいのである。

山今詩に錨門闘は七度詠われている。銭円、鍛聞と詠われることも

ある。先に〈銀山積西館〉〈天山雲歌迭粛治蹄京〉〈宿織関西館〉の

二首の例を引いてあるので

練緩斜呑蟻門閥

気軍宇掩交河成

〈火山雲歌遠別〉

識門天西涯

極目少行客

〈題織門閥棲〉

織闘控天涯

寓里何遼哉

〈使交河郡〉

熱海亘錨門

火山赫金方

ここでは残りの四例を示す。

練緯として斜めに呑む錨闘の樹

気孟として宇ば掩ふ交河の成

織門

行天客のを西少か涯

つムηペリ

極目

裁凋

ハ包ψてトトわ

RU

天涯に控へ

蔦里

何ぞ遼かなる

童九

識門に亘なり

〈武威迭劉皐判官赴安西行管便呈高開府〉

火山

金方に赫たり

A口は、

七例のうち鍛門闘に銀山、交河が封語とされている七言の三首の場

地理的に見てもバランスのとれた無理のない表現と言、えよう。

〈題織門閥楼〉と〈宿銭関西館〉の二首は、多分初めて織門闘に至

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った時の作であろうが、表現がいささか大袈裟だと言えなくもない。

それぞれの詩には、「試みに西楼に登りて望めば

一望頭白くならん

と欲す」「雲中地角を行き

火慮天侃に宿る」ともある。

これを謹

境の景物に欄れての驚きの表現とだけとるのはどうか。むしろ銭円

闘という地名に封して地の角、天の侃という先入観が本参にあって、

それに慮じた感慨を詠ったのだと言えまいか。それは〈使交河郡〉

の詩に於いても変わらない。

この詩は天資十四載頃の作であろうと

思われるが、既に庫爾勅の北の識門闘を逼り過ぎて更に西の安西亀

革まで至った経験があるにもかかわらず、「識閥控天崖」と噺く。

理由は二つ考えられる。先ず彼の地理的認識の混乱である。

何故か。

次に二つの銭円闘の意識的な混用である。〈武威迭割問早判官赴安西

行皆便呈高開府〉の詩の封句をどう解すかに鍵がある。

熱海とはイシック湖(岡田∞ユ

-E-)、ソビエト聯邦カザック共和国

に属する天山山脈中の不凍湖である。山今参は〈熱海行迭崖侍御還京〉

なる七言古詩に於いて「側聞す陰山間見の語を」と冒頭にことわっ

野津

て、空想を存分に巡らして熱海を詠いあげている。賓際にその地に

赴いたことはなかったと推定される。

火山と同様、熱海も強烈なイ

本参の遁塞詩についての覚書

lジを苧んだ地名であり、この二語の針偶は不自然ではない。織

門と金方はどうか。金方とは西方のこと。

五行設によれば金は方位

で西にあたる。

どちらの識門闘がより金方に似つかわしいか。一言う

までもなくデルベンドの鍛門闘である。庫爾勅の北の織門閥ととっ

と讃めなくもないが、詩の構成す

この詩は天賓十載の作、こ

て、熱海は織門から西に

Eなる、

る地理的空間は一気に狭まってしまう。

れから大食(サラセン帝園)との一大決戦に馳せ参じようとしてい

る劉車判官を涼州武威で遺る詩である。その戦場は熱海の更に西、

この歴史的な戦いは、前年に高仙芝が石

タラス川の近くであった。

国(夕、ンユケント)を攻めてその園王を殺したことに端を費してお

り、石園の王子が高仙芝の暴虐を周遁諸国に訴え、

そろって西アジ

アの雄大食に奔り

ついに唐と大食との針決に稜展したものである。

結局高仙芝率いる唐軍は大敗を喫したが、もし勝っていれば唐は西

域覇康州の支配を改めて確立するはずであった。とすれば、劉阜の

西征を送った詩に詠われたのは、熱海↓叩一羅斯↓石園↓康国(サマ

ルカンドプ↓史園(キシュ。シャフル・イ・サブズ)

その次に連

なるデルベンドの織門闘であったに蓮いない。

-33-

山今参は二つの織門闘を詠っていたのである。初めて庫爾勤の北で

この地名に出合った時、或は彼は玄突が旅行記に-書き留めた熱海の

更に西の識門閥と錯覚していたのではあるまいか。

そのためにいき

さか大袈裟な感慨が詩に詠われたのではあるまいか。彼がいつまで

も錯覚したままでいたとは思えない。しかし、更に西の錨門闘の存

在に気付いた後も、逢か西の地の涯を想起さ・せる語感を纏ったこの

地名を捨てず、詩語として好んで自らの遁塞詩に詠い込んだのだと

思われる。

デルベンドの識門闘を本参はついに見ることはなかった。

reA町、、

犬、刀

その地名を詩に詠い込む時、彼の想いは庫爾勅の北の錨門閥

を越えて這か西の織門闘に及んでいたのではあるまいか。その想い

その結果引き起こされる後代の讃者の錯

は自ら詩に現われている。

費や混乱などは、無論作者の奥かり知らぬことであった。

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人文科学論文集

〈銀山積西館〉の山今参の遁塞詩全程に於ける位置を明確にするた

めには、しかし、もう一つの地名の混乱についても述べねばならない。

李嘉言によれば、先に引いた〈題織門閥楼〉と〈宿織闘西館〉の

二首は、

天賓十三載から始まる北庭時代の作であるという。根擦は

何か。恐らく輪壷というその時の赴任地を庫爾勅の北の銭円闘に近

い現在の輪差

(FEZ-)の地に定めたためであろうと思われる。

布古爾(回露骨)

とも呼ばれる、庫爾勅の西、亀蕊へ向かう途中の

町である。李嘉言に限らず、現在では封常清に従っていた時代のヰ

参の赴任地をこの地とする意見が大勢を占める。例えば、最近刊行

された中園社舎科学院文撃研究所編『唐詩選』上では、〈輪壷歌奉

は、唐代に庭州に層し、

迭封大夫出師西征〉なる詩の注に「『輪畳』

北庭都護府に所属し、今の新彊ウイグル自治匿庫車牒の東にある」

とあ封。その逼りであるとすれば、李嘉言の主張は根援が充分であ

る。しかし

ここにも錯覚、或は本参本人も含めての混乱がある。

正しく次のように指摘していた。「北庭は庭州に治す、

輪壷は庭州の西三百二十里にあり」と。この部分は、『新唐書』地

理志第四の北庭大都護府の項に見える道里記に擦っていると思われ

聞一多は、

る。次のようにある。

庭州西延城より西し六十里にして沙鉢城守捉有り、又鴻洛{寸

捉有り、又八十里にして耶勅城守捉有り、又八十里にして倶

六城守捉有り、

又百里にして輪差牒に至る。

ここに示された里数を合わせると三百二十里になる。

但し、

西延

城より西し六十里の部分を、西延城より百六十里と惇えているテキ

ストもあるらしいが、

それによれば四百二十里となる。松田蕎男氏

は、「唐の庭州の領鯨を論ず』と題する論文に於いて輪車室町脚の位置

だいたい今の烏魯木膏(口昌自色)の附近であろうとし、

を検討し、

更にウルムチという地名は、輪壷の二字の詑轄ではあるまいかと

述べておられる屯『西域水道記』巻三にも「唐の輪壷牒の治は嘗に

今の迫化州の治の柑東に在るべし」とある。長春異人の旅行記や耶

律楚材の『西遊録』から推しても、ほほ今の烏魯木膏附近に唐の輪

畳を定めることができる。『新唐書』西域停上には、

詔して、耳局者、亀革、疏勤、子聞は西城の賀を征し、各おの

其の征を食ひ、北道に由る者は輪差に之を征せしむ。

-34

とあり、同じく西域停の賛には次のようにある。

開一瓦の盛時、西城の商胡に税して以て四鎮に供し、北道を出

づる者は輪壷に賦を納む。

これらの記載より輪壷が経漕的にかなり重要な役割を持った町であ

ったことが推定される。唐代の庭州は、松田氏によれば、ただ少数

の中国人官吏や軍隊が外族の聞に孤島にも似た姿で駐屯していたにす

ぎなかったらし吋。

Lかし、輪畳は交遁上の要地でもあり比

的安

定した統治がなされていたと思われる。本参が赴任したのはこの地

であった。彼の北庭時代の詩に、北庭での作として輪畳が詠いこま

れているのは、賓際の勤務地が庭州の州治であった金満牒ではなく

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て輪車室鯨であったためであろう。

では、それが庫車の東の輪量と誤解されたのは何故か。恐らく次

のような詩のためである。〈輪壷歌奉還封大夫出師西征〉なる古詩。

輪壷城頭夜吹角

輪壷城北施頭落

羽書昨夜過渠繋

草子己在金山西

成楼西望煙塵里…

漠兵屯在輪畳北

上特擁施西出征

平明吹笛大軍行

四遁伐鼓雲海涌

三軍大呼陰山動

輪古室城頭

角を吹く

輪量城北

施頭落つ

初判書

昨夜

渠裂を過ぎ

草子己に金山の西に在り

成棲

西に望めば煙塵黒く

漢兵屯して輪壷の北に在り

上勝

施を擁して西に出征し

卒明

笛を吹きて大軍行く

四漫鼓を伐てば

雲海涌き

二軍大呼すれば

陰山動く

詩はなお撞くが、最後は「古床青史誰か見ざらん

今見る功名古人

野j畢

に勝るを」と結ぼれている。遁塞の情景、或は西征の模様を漢の時

この詩に

代にオーバーラップして詠った詩が北庭時代に特に多い。

若手参の漫塞詩についての覚書

於いては輪畳という地名が核となって、他の漢代の遁塞のイメージ

て名が知られていた。

を湛えた言葉を導き出している。輪豊は、漢の西域経営の援点とし

「漢書』西域侍上には次のように出て来る。

武師将軍の大宛を伐ちてより後、西域震憧し、多く使を遣は

して来りて貢献し、漢の西域に使する者は盆ます職を得る。

是に於いて敦燈より西は盟津に至るまで、往往にして亭を起

こし、輪畳、渠裂に皆目卒数百人有り、使者校尉を置きて領

護せしめ、以て外国に使する者に給す。

ほぽ閉じ記載が『史記』大宛停にもあり、輪盲室は命頭の名で出て来

る。現在の新彊ウイグル自治匝輪壷牒の地にあたる。

では、唐代に

於いてこの地はどう呼ばれていたのか。『新唐書』地理志第七下の

駕4

脅から安西都議府亀蕊への道程を述べた部分を引いてみる。

駕岩田より西し五十里にして錨門闘を遁ぐ、

又二十里にして子

術守捉城に至り、

又二百里にして検林守捉に至り、

又五十里

にして龍泉守捉に至り、

又た六十里にして東夷偲守捉に至り、

又七十里にして西夷偲守捉に至り、

又六十里にして赤岸守捉

-35-

に至り

又二百里にして安西都議府に至る。

里程の計算から、ここに言う龍泉守捉が漠代の、そして現在の輪壷

であろうと思われる。龍泉は輪差と音も近い。漢の西域都護府が置

かれた鳥長城がこの地にあったといわれる。『漢書』西域停では、

渠繋は烏国型の南三百三十里の地にあるとするが、唐代にどう呼ばれ

ていたかは不明である。

賓際にこの龍泉{寸捉を経て亀蕊に行ったことのある山今参であるが、

幾世紀を隔てた古塞を嘗ての輪壷であると知り得たかどうか。彼が

唐の輪吉霊を漢のそれと混同していなかったとは言い切れない。

この

詩に於いて輪車室という地名は草に塞外の雰園気を殻呆的に侍える現

賓の地名として用いられているだけでなく、歴史的背景を持った地

名として用いられている。

だが、

その結果明らかな地理的矛盾を抱

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人文科学論文集

え込むに至っている。渠繋は地名としては既に死語であったが、そ

れを匙らせたのはしばしば史書に併記されて表われる輪壷という

生き残った地名であった。『蓄唐書』地理志第三の北庭都護府輪墨

牒の僚には、「漢の輪壷を取りて名と矯す」とある。もともと政治

臭の強い命名を受けた町である。その輪差に居て本参が渠繋を匙

らせて詩に詠い込んだのは、

きして不思議ではない。

だが、次に単

子と金山が詠われるのは何故か。金山は烏魯木賓の北に庚がるジユ

ンガリア平原の東北に連なるアルタイ山脈。

そこに旬奴の王、草子

が居るのも漢のこととして極めて自然である。しかし、同じ漢のこ

とではあるが、渠繋と金山が閥聯づけられて同時に詠い込まれるの

は、あまりにも不自然である。

ここで本参は、唐の輪壷にあって

つの歴史的背景を持った地名を強引に結びつけたのであるが、

そグ〉

強引きは或は漢の輪豊の位置に釘する認識不足によるのではあるま

、、‘O

L,刀

そして、唐の輪差は漢よりの古塞、渠裂は輪曇の近くにある

いま輪富震の遥か北に連なる金山は漢代の皐子の地、といった

連想で渠繋と金山と草子が繋がったのであろう。本参が唐と漢の輪

はず

宮室を混同していたなら、

そうした連想は大いに有り得ることである。

〈登北庭北楼呈幕中諸公〉と題する五言古詩からも、輪壷につい

ての本参の混同を推測することができる。初めの四句を引いてみる。

嘗譲西域停

漢家得輪壷

嘗て譲む

西域侍

漢家

輪差を得たるを

古塞千年空

古塞

千年空し

陰山濁山佳鬼

陰山

濁り山佳鬼たり

嘗て讃んだことのある『漢書』西域停、

その中に出て来る輪壷にい

ま自分が居るのだ、彼の言葉をそのまま信じてもいいのではあるま

いか。先に引いた部分も嘗然讃んでいたであろうし、

その請書瞳験

が先の詩に於いては渠繋という死語と化していた地名を呼び起こし

たのであろう。

だが、この北庭で作られた詩に於いて、輪壷と陰山が同時に詠い

込まれているのは何故か。

ここに言う陰山は内蒙古自治州の陰山山

では、ジュン

脈のことであろうか。それではあまりにも蓮すぎる。

ガリア平原の西北に連なるタルパガタイ山脈であろうか。松田幸町男

氏によれば、『奮唐書』廻紘停に「大いに賀魯を陰山にて破る」と

タルパガタイ山脈であるとい一円。それならば唐の輪牽

-36

ある陰山は、

で詠われる可能性は充分にある。しかし、〈首秋輪量〉

と題する五

日律詩では

異域陰山外

異域

陰山の外

孤城雲海浸

孤城

雲海の遁

とある。先の〈輪差歌〉にも「四遁伐鼓雲海涌

三軍大呼陰山動」

とあった。輪差の地勢に陰山は深く係わっており

これらの詩句から

判断する限り、陰山は烏魯木斉の南をかすめて東西に連なる天山山

脈でなければならない。もし山今参が天山山脈を陰山と呼ぶこともあ

ったとすれば、彼の遁塞詩に於ける地理的矛盾の一つが解決する。

〈北庭西郊候封大夫受降回軍献上〉なる詩に「陰山の燦火滅寸」と

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一詠い、熱滋のことを

できる。

グ〉

い出しためも納

であり

だが

での作である。

天山山紙

しか

山と呼んだ例を龍に知らない。

ているのは

ととっていいのではあるまい

の出?で本参は天山

〈熱海行v

の場合は

側関陰山胡兇諾

西頭熱海水如煮

側聞すグ〉

し、

(J)

州内だけであり、他の

い分けていたのではあるまいか。

除山胡兇の

が知しと

と詠って、陰山に熱海があることを示瞬して

…酔天山郭

正見夕陽権法務

野i暴

熱海炎気銭之簿

岩手毒事の没後音寺についての受欝

熱海の

〉ザふめハr

の勝る天山の町が想像の

ら、結びの

つるを

ぴ〉

つけられて

いる。陰山と天山が別の地であるととるより、

やはりい

では

山脈を指すのだととるべ品川、ではあるまいか。

し、

iJ{

の脅威は勾奴

恐らく次めような連想からではなかったか。

グ〉

その旬奴の地

グ〉

てユ

鳴の点wu

宮崎

dι,ゃ

z

征馬紀ゆ

前月

とあり

結びつけら

この

れている。

てこの

粧うじて結びつき

かれたものと思われる。

好んで詠った理由

グ〉

つはこの地名が持つ

に魅かれていたためであろうの

て殻念

-37一

ムt様、

京痛の

'?

wm

,ヵ

JJ

ているが、公的な場での幾篇かに於いて、出品寸参は

明らか

の照り迭しゃ」この地名に託している。

と現実

ぴ〕

れたとすれば、厚

れる地理的矛盾は、恐らく彼自

のせいでもある。

L 、。ったことにより本参の塞外での足跡の

ったことにより彼の他の寒

明らかになった。これにより〈銀山鶴岡館〉の詩の

が出制と

され、そで

はこ

が含まれる最初め

とも明らかにしてみたい。

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人文科学論火災

もう'一

つの率一外時校

いて、本参の最初め漣塞行に於ける

詩を次

一一十一首

,wo

ナh

-〈拐過隈山識や盤字文判官〉

2〈襲離脱分水〉

3〈判問調滑川見清水思索川〉

4〈題金城鞠河騨棲〉

5〈暮秋山一位〉

6〈過燕支寄桂依〉

8〈34翻寄長安李主簿〉

叩〈歳暮積外寄一瓦揖〉

7〈逢入京使〉

事〈激媛大守後庭歌〉

11

ぽ〈積中作〉

aA》悶

〈安西館中思…耐火安〉ぽ同〈寄山一十文封宮〉

げ〈億長安曲二章寄附叩〈平協紋為者懐終南開業〉

問問〈武威暮暮開字文科{阪商使選己到署員〉

は門〈経火山〉

20

21 お〈凶便器初美人舞如議花北鍵歌〉

位〈戯開花関川溜家翁〉

制〈武威迭器開平判官赴安西行管使呈高鵠府〉

お八武威議劉剣宮赴援活行中幕〉路〈涼耕舘中胤ハ諸判官夜集〉

認〈迭掌侍御先鱒京〉

幻〈迭問鎮静侍制御東舘阿〉

mm〈臨泌客会務別総悶〉鉛〈臨泌総興寺玄上人箆符詠脅木香叢v

別〈選李割問使赴積商寝中感〉

これ以外

の作となるの

るが

のほとんど

二十九首を北成時代の作としている。しかし、彼

開明らかにそうでない

代の作とした謡篇の中には、

が含まれている。

先、ず既に取り上げた〈題議内龍機〉と〈窮議関関館〉め

一首は、最初め往路の作として、同〈緩火山〉とは凶〈安

一首である。

グ〉

べきでみる。また、〈積密議透十拍子

グ〉ように安西への投路の作であり、

話〈積中作〉三郎

後に配すべきである。北庭に赴く途次の作と思われ

ふ八築総海亭納涼〉がゐり、「吾大夫の

〈賠封大

に詫ひて

とある。本参が

主庭都議代理策伊西節度使に除せられた際に

して北庭・総畿に赴いたとすれば、「核問果に出向かひて米たるを龍ゆ

功名是れ持物ぞ」と五言繰句〈日没資延積作〉

一載に入朝していた安西節度使封常治が

38

してその途次の作ではない。これも安西へ向かう途次の

であろう。また、〈過酒泉憶利低陵開業v

べき

「昨夜都議

に宿り

今制新潟泉を過ぐ」とある。郁漣とは泌漆浅のことであろうむ

粛州…臨藤森め

にある。姉連山を指すのかも知れないが

いずれにしても瀬泉め

の地。問問一は

主庭への こ

の詩を北獲から

の作とするが

一寸グ〉

愁作ひとは し義Zたりがで言央日りに で消 あしる難 。

ほ年を痛つるならん」とある

翌年来揮を深山花した西行の途次の作であり、少なくとも北庭

グ〉

の作ではない。

s

への往路の作とすれば

社仏法〉の後に配される。

の作としたが

そうでな

Page 18: 岑參の邉塞詩についての覺書 - HUSCAP · みな雲を掴むようなものばかりだ。だが、彼の場 ら、経験から出たものである。ぞれ故、彼 一句一匂が

いと思われる詩が、後に遮べるように他に少なくとも二篇ある。

なると、概算ではあるが二年に満たない最初の塞外時代の作が三十

八首、二年半以上に及ぶと推定される北庭時代の作が逆に三十二首

と少なくなる。

河西回廊での作にはどちらとも決めかねる詩がある

ので、直ちに結論的なことは言えないが、比較的安定した生活が営

まれた、ように窺われる北庭時代より、動きの激しい最初の塞外時代

のほうが多作であったということは注目すべきことである。しかも、

安西で作られたと断定できる詩は日〈安西館中思長安〉

一首のみで

あり、最初の遁塞行に於ける詩のほぼ三分の二が河西回廊での作で

あることも記憶に留めておきたい。

とはいえ、紹介した李嘉言の見解には疑問な賠が少なくない。既

に述べたように川〈経火山〉の詩が巌冬の作であるので、歳除の作

である

8〈玉闘寄長安李主簿〉と歳暮の作である叩〈歳暮積外寄元

野i畢

掲〉の二首は安西への往路の作でない可能性が強い。また、〈日没

賀延積作〉が安西への往路の詩とすれば、瓜州より北上して伊州へ

向かう途次の作であろうから、抄州での作8

〈歳暮積外寄元捕〉と

9〈敗燈大守後庭歌〉はこの時期の作でない可能性がある。更に日

本参の浸塞詩についての覚書

〈銀山積西館〉は叩〈早護正局者懐終南別業〉の後に配すべきであろ

ぅ。また部〈涼州館中血(諸判官夜集〉の詩に「河西幕中故人多し

故人別来三五春」とある。山今参が河西節度使の幕下に友人を多く得

た時期は天賓十載頃のことではあるまいか。

とすれば、この詩は北

庭への往路に涼州に立ち寄った時の作とすべきであろう。

他にも疑問があるが、李嘉言の考詮が破綻しているのは同〈寄宇 と

文判官〉

の詩に於いて決定的となる。しかもこの詩は、李嘉言が従

ここで、字

った聞一多の考詮をも疑わしめる問題黙を含んでいる。

文判官なる人物に注目したい。彼は本詩に三度登場する。最初

1

〈初過臨山途中呈字文判官〉では、本参は彼に次のように呼びかけ

て詩を結んでいる。

別家頼踊夢

山塞多離憂

奥子且揖手

不肯前路倫

別家

麗夢に頼り

山塞

離憂多し

肯子へとて且前 〈路手を を倫手揖し えとせざり

この詩が安西に赴く途次の作であることは既に述べた。

ら判断する限り、彼が字文判官と一緒に安西を目指したことは疑い

この詩句か

-39-

ない。聞一多も字文判官を安西都護高仙芝の幕僚の一人としている。

しかし、李嘉言が安西在任中の作とした同〈寄字文判官〉の詩では、

蓮く離れた宇文判官に本参は次のように書き透っている。

西行

殊に未だ己まず

西行殊未己

東望何時還

終日風奥雲

連天沙復山

二年領公事

雨度過陽闘

相憶不可見

別来頭巳斑

東望すれど何れの時にか還らん

終日

風と雲

連天

沙復た山

公事を領け

雨度

陽闘を過る

相憶ふも見ゆ可からず

思Jj来

頭己に斑たり

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人文科学論文集

二人が安西に着いた後にどのような事情で別れたのかは知りょうも

ない。李嘉言はこの詩について、「蓋し本参は安西に着いて二年の

うちに、公務によって二度陽闘を出入りしたのである」と述べてい

る。だが、彼の推定は皐純な誤解の上に成りたっている。彼は〈遁

積〉と題する七言絶句に注解を附し、「『新唐書』地理志によれば、

伊州西州には砂漠がある。

で、それ故この詩に『行きて安西に到り更に西に向かふ』

伊州と西州はいずれも安西の西にあるの

と言って

いるのである」と述べている。李嘉言が暗密と吐魯番の東に安西を

定めていることが明らかである。

つまり現在の甘粛省安西(〉ロ包

を唐代にあてているのである。

この地が安西と呼ばれるのは清代か

らであり、唐の安西都議府の治亀蕊と全く別の地であること言、つま

でもない。李嘉言が安西(〉富山)と敦埠あたりを二年に二度往復す

ることを可能だと考えたのは、その誤解に基づいている。

だが、亀

亙と敦燈の往復は容易なことではない。聞一多によるにせよ、李嘉

言によるにせよ、

天賓十載の春に涼州武威まで戻っていた本参が、

八載の冬からその時までの一年宇に満たない期間に、再び敦也以東

まで蹄り、再び西に赴いてまた東還したとは考えられない。しかも、

日〈早護鷲走目懐終南別業〉の詩に「秋山印馬蹄に鳴く」とあり、場所

と季節から推して亀蕊からの時途の作と思われるが、この詩からも

亀五と敦燈以東の二度の往復はあり得なかったと云守えよう。

もともと「二年領公事

雨度遁陽闘」の聯は、陽闘より東の塞外

の地から、例えば涼州武威のあたりから二年に二度敦燈のあたり、

或は敦煙以西まで使したと考えるのが自然であろう。それ故この詩

を北庭時代の作とすることにも難がある。しかも北庭時代に彼が敦

燈以東まで踊った形跡は、数多く残された詩に全くない。

とすれば、

この字文判官に宛てた詩は何時の作なのか。

五言律詩である。

最後の一首は叩〈武威春暮聞宇文判官西使還巳到晋昌〉と題する

片雲遁城頭

貫一鵬上成棲

塞花瓶客涙

法樹控郷愁

白髪悲明鏡

青春換弊裏

君従蔦里使

聞巳到瓜州

片雲

城頭を遁ぎ

責融

成楼に上る

塞花に客涙瓢ひ

遁樹に郷愁控かる

白髪

明鏡に悲し

青春

弊哀を換ふ

-40一

君は蔦里の使に従ひ

聞けば己に瓜州に到れり

この詩の作時年は聞一多によれば天賓十載である。その年の正月、

高仙芝が入朝し、三月に一旦武威の太守、河西節度使に除せられる。

とい、っ。

それに伴って安西から彼の幕僚が武威に移り、その中に本参もいた

では、やはり同じく高仙芝の幕僚と聞一多自身が推定した

{子文判官を、彼が武威で迎えるというのはどういうことであるのか。

彼自身その少し前に瓜州を経て武威に着いたばかりなのに字文判官

を寓里の使と呼ぶのは何故か。また、「白髪悲明鏡

青春換弊蓑」

とは、若い頃共に辛苦を分かちあった二人が別れてから長い年月が

たち、今再び舎える時が巡ってきたが、既に老いて白髪になってい

Page 20: 岑參の邉塞詩についての覺書 - HUSCAP · みな雲を掴むようなものばかりだ。だが、彼の場 ら、経験から出たものである。ぞれ故、彼 一句一匂が

る日が身を慨嘆しているめであろう。弊袈を換えた時とは、

の冬に手を議、えて安西に旅したことを指すのであろう。しかし、

それでは青春め友情から白髭め犠きまでの開があまりにも短かすぎ

る。或はそれ以前の長安での交遊を指すのであろうか。だが、たと

としても、天繋八載冬か

し、

での僅か

人の副総離をこ

の背景とすることはできない。

では

ら北庭へ

の作とすべ

裁の

きか。

一一ロバ

入制約していた安際部鎮節度使の

議代理策伊西節度使に詑ぜられており、本多が北ぃ胞に赴いたのは

月以後のことであろう。春暮に

っていたとは恩われない。

また、詩の前中Tは懇一外に長く客となっている設が身の不識を嘆いて

いるのであり、これから北賎に赴く諜の詩でないことは、それだけ

できる。また、蹄路の作でもない。何設なら

かり

一一九によれ誌、至徳三載正月十七日に河西兵路線以議庭倫が

叛乱を超こし、九姓の商説安門物らと謀って河西節度使閥泌を殺し、

聖子j祭

涼州大城中の七つめ小城

つを占領するという事件が起こっ

れたが、その騒然

ているからである。その叛乱は十七日慌

たる涼wm武威に本参が北震から跨つ

界選去の遁塞誇についての覚書

えた詩を一詠うわけがない。また、字文興宮が開一多

他芝の幕僚の…人であったならば、高仙芝

の戦いに大敗し

の五月に

に語た可能性は少ない。

威にいたことは、

た後にな

斜〈武威迭劉車対宮赴安西行皆便是{問問問問府〉の詩

多の考誼は全く疑いがない。

から開明らかであり、この詩に闘する悶

五月

いたのであれば、

にもいた可能珪は非常に大気回い

哉の涼州武威で作られた詩の中に鵠〈河西春暮億泰中〉と引

いずれも泰暮の作である。以上よ

〈登山派州安曇寺〉のニ設があり、

り、叩〈武威泰暮期間字文判官西稜議己到菅田昌〉

来賓十載の作

であるという開一多の裁がやはり正しいと替えようむしかし、

そグ〉

間一多の本参

の塞外時代に鞠ずる考詮全穫が、

って

非常に疑わしいものとなる。

つまり、本参は字文判官と一絡に初めて安西

その途中で

〈知制調附剛山途中呈字文判官〉の詩を一作った。その後二人は別れ別れに

なった。容参は

一度赴くことがあっ

一変自の時に〈努字文針官〉

ご人はかなりのお十月を経て存食することになった

その時本参は

~ 41

〈武威容幕開字文科宮西使建一む判的誉回目〉の詩を作った。仮に

裁に本参が初め

の内容

いたことにすると、後の二つ

に矛盾を生ずる。それ故、彼の最初

べきである。そして、安西持究、北成時弐の他に、もう一つめ河西

を中心とした塞外生活があったと推測せざ

し、。

の推測に却の角震からアブロ;チしてみるむ間関一多及

に徒つ

〈殻酒泉韓大守〉と題する古詩についても疑

聞が起こる。

義政有り

議開加古人

識かに覇きて宙人の如し

俸銭議供容

俸銭

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人文科学論文集

溜泉西胡一品五閥道

酒泉商壊す

平山蔦噴皆白慾

子山蔦議

続殺走潟麗長安

思君鵠恕令人老

辞して馬を走ら

へば侠忽人をし

し、

この詩が

め寓仙芝の河函館邸度使轄任に仲げなっ

人として安西から武威に赴く途次に詠まれたものでないことは、

最後の一一匂から明らかである。不参が哨刊に鐸らんとしているのは長

では、議徳元裁の暮れか強

からの東障の際の作であろうか。

安である。

載初め頃と推定される北庭

めように考えている。

だがしかし、害時首都一長紫は安繰山箪の棋盤下にあり、玄宗は慨に

萄に逃がれ、代わって即位した競京も遁か北方め議武に本陣を蓋い

て首都奪回を計っていた。至譲二裁の…一月にようやく…日筑紫西方の鳳

繍に符在所を定めるが、長安を奪回するまでには更に半年以上の月

本来~

っていたこと

のふハ月までには胤淵

は、その月の

一日に杜甫が偽のmm名の向僚と漣饗した「篤遺補薦

巻三六

O〉より知り得る。詩はそれ以前の作

不参紋」(吋

でなけれぜならぬが、

の二匂は、

に針する儀鵡的な表現と

も受けとれるが、富待の切迫した政情にはあまりにもそぐわない0

2

業時の作とすれば、いきさか削税率で不謹慎な一言葉とも受けとられよ

、つ/AM

では、何時の時期に比定ずべきであるのか。簡一多の

内でこの

多は、本参の塞外時代

いに答えることはできない。溜問

が天資八載か

での問に

或は

ったとしている

ぞれ以外にも本参

いたことがあっ

その揮塗にこの

は作られたのではあるまいか。

一載以降の

の行跡は比較的

明らかであり、議外に赴いた形跡はない。

とすれば、

め蓬奉行

は天資八載以前のことであらねばなら

グ〕

だが、本参が安西

いたのが天賓八戦以前であるとすれば、彼

が十載

拘留に居たのは舟故か。聞

の幕僚として

武威に居たとするが、山今参に贈った詩はただ

劉犠判官赴安西…行禁使皇一恵一関府〉のみ、それも安商に赴く鱗墜に託

たもので、

〈武威還

ぃ。後の北庭時代には

の詩を献じてい

たもの

に董か

どの簡に

参が、

ほ詰問ヒ州知閉幕僚とし

ていないというのをどう説明するかむ推湖を、悲しくすれ江読

42

の詩も蓋

という高総芝に

間引できなくもないが、勝間

多が劉翠に託した…首のみを根擦として

出今参を高仙芝の幕下に加えたのは、もともとかなり強引な解糟であ

った。また、彼が十載に高仙芝

でありなが

の戦季に

加わらなかったのは惚守謡嫁じいたためであるとされるが、それも

説得力がない。本参が

った諮問学は、安西副都議であっ

仙芝

に小勃律を討った特に既にその配下にあった。それは、

ら知り得る。高仙芝は

吋遊間唐書』

月に夫蒙

って安閉閉鎖節度使となるが、制部寧はその

ったのであろう。その劉皐は、

で進士に及第しているから

進士になった

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本参よりはいくらか昇進が早かったかも知れぬが、幕僚としての地

位や職務は似かよったものであったろう。同じ幕僚でありながら高

仙芝自ら指揮する大食との徳力戦に本参だけが加えられなかったと

いうのは納得しかねる。

むしろ彼はこの時既に高仙芝の幕下にはな

く、河西節度使の下に身を寄せていたと考えるべきではあるまいか。

劉車との親交は以前に安西で結ぼれたものであろう。彼を詩を以て

透ったのはそのためである。

その詩を彼に託して高仙芝に献じたの

は、やはり安西時代に高仙芝の面識を得ていたがためと思われる。

山今参が天賓十載前に河西のあたりで塞外生活を透っていたとすれ

ば、彼が河西回廊で詠った詩の中の、安西や北庭との往還の途次の

作として設明のつかなかった詩に設明を輿、えることが可能になる。

巌密な考讃は後の機舎に試みるとして

一慮その時期の作と思しき

詩を列奉しておく。

〈玉闘寄長安李主簿〉

〈敗燈大守後庭歌〉

〈歳暮積外寄元据〉

〈題首稽蜂寄家人〉

野j畢

〈胡歌〉

〈玉門閥蓋将軍歌〉

〈寄字文判官〉

本参の漫塞詩についての覚書

〈回使君美人舞如蓮花北誕歌〉

〈戯問花門酒家翁〉

〈登涼州安曇寺〉

〈河西春暮憶秦中〉

〈武威春暮聞字文判官西使還己到菅昌〉

〈武威迭劉車判官赴安西行営便呈高開府〉

〈武威迭劉判官赴積西行軍〉〈迭李副使赴積西官軍〉

〈臨桃龍興寺玄上人院同詠青木香叢〉

〈臨泌客舎留別郁四〉

先にも述べたが、〈涼州館中奥諸判官夜集〉と題する七言古詩は、

天賓十三載に北庭への途次に涼州武威に立ち寄った時の作と思われ

るが、「河西幕中故人多し故人別来三五春」とあり、嘗ての河西

での幕僚仲間との交遊が窺われる。別来三五春とあるので、天賓十

載のうちには河西を去っていたのであろう。〈臨泌龍興寺玄上人院

同詠青木香叢〉と題する五言律詩には

移根白遠方

根を遠方より移し

種得在僧房

種ゑ得たりて僧房に在り

六月花新吐

花新たに吐き

六月

三春葉己長

葉己に長し

とある。

異域にある己れの境涯を重ねて詠んでいるのであるまいか。

43 -

また、同時期の作と思われる〈臨桃客含留別郁四〉なる五言律詩に

l土

無事向遁外

事無くして遁外に向かひ

至今伯不時

三年絶郷信

仰は蹄らず

今に至るも

郷信絶ゆ

六月未春衣

六月

未だ春衣ならず

この詩は恐らく河西からの蹄途の詩であろう。とすれば、

河西時代を天賓八載から十載までの三年間と定めることができよう。

とある。

きて、ここでこれまで述べてきた推論を簡単にまとめておく。

山今参は最初に安西に赴いた。

その時同行した字文判官と苦労を共

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人文科学論文集

にし、友情を深めた。途中、赤亭、

西亀蕊に着いた。

火山、銀山積、錨門闘を経て安

そこで劉皐判官と親交を結び、高仙芝の面識も得

た。その後山今参は彼らと別れて長安に踊った。〈銀山積西館〉

酒泉韓大守〉の二首は、その踊途の作である。長安に一旦戻った本

参は、天賓八載に再び塞外に赴き、河西に三年暮らした。その間二

度陽閥、或は陽関以西に使し、二度目に字文判官に詩を寄せた。天

賓十載春、高仙芝とその幕僚が武威に至り、山今参は字文判官や劉車

判官と再舎した。

その年の五月、高仙芝が大食との戦いに出征した。

劉草判官が安西の行営に赴く際に詩を託して高仙芝に献じた。

後、

そσ〉

河西から臨挑を経て長安に踊った。

天賓十三載に今度は封常清

に従っ

τ北庭に赴き、三年近く主に輪豊で暮らした。北庭からの東

時の時期ははっきりしないが、至徳二載の六月までには鳳朔の粛宗

その後山今参が西の漣寒一に赴くことはなかっ

の行在所に着いていた。

た。山今参の遁塞行が何時始まったのかはなお明らかではないが、右の

推論に従うならば、従来正しいとされてきた聞一多の天賓八載設が

否定されるのは無論のこと、

天賓八載より少なくとも三年は遡らせ、

天賓五載かそれ以前のこととしなければならない。何故なら聞一多

が明らかにしたように、山今参が天賓七載の秋に長安に居たことがは

っきりしているからである。

無意識のうちに聞一多による侍記考讃にこだわりすぎたかも知れ

ない。それは開一多の考謹が、彼に先立つ頼義輝のそれに較べて詳

細であり、やはり頼るべきであるからである。だが、彼の考謹に於い

ても、本参の幼少年期や二十代はともかくとして、三十代にもなお

空白の部分が蔑されている。進士に登第後も、山今参の行跡はあまり

はっきりしていない。特に天賓四載秋に長安で〈迭表校書従大夫泌

七載秋に長安で名作〈胡茄歌迭顔異

川親省〉なる詩を詠ってから、

卿赴河臨〉を詠うまでの三年間、山今参の行跡は不明とされている。

聞一多の考謹は

この部分以降は短期間の空白と幾つかの疑わしい

箇所があるものの、

かなり詳しく本参の後宇生を跡付けており、

れだけに一層この三年聞の空白が目につくのである。或はこの空白

の期間にもう一つの

つまり最初の浸塞行があったのではあるまい

か。もしそうであれば、疑問の護端となった〈銀山積西館〉の詩の

三十という数字は、

一気に賓年齢に近づく。

だが、臆測に酔う前に、

ここで〈胡茄歌遺顔異卿赴河臨〉の詩が遁塞耀験を経た後の作であ

ることを詮明する必要があろう。

-44

第四章

〈胡箱歌迭顔異卿赴河臨〉

の鰻験

君不問胡茄撃最悲

胡箔の聾最も悲しきを

君聞かずや

紫者緑眼胡人吹

紫者緑眼の胡人吹く

吹之一曲猶未了

之を吹きて一曲猶ほ未だ了らざるに

愁殺楼蘭征成見

愁殺す

棲蘭征成の児

涼秋八月斎闘遁

涼秋八月

粛闘の道

北風吹断天山草

北風吹断す

天山の草

山昆広岡山南月欲斜

昆山ム岡山南

月斜めならんと欲す

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誠人向月吹胡錨

詩人丹に向かひて拐筋を吹く

説箔怨今持法活

胡筋・砂川怨みて終に君を迭らん

泰山連か

龍山の雲

波域夜夜多愁夢

法城

愁夢多し

丹に向かひての競箆

夜夜

議か聞くを喜ばん

向同バ鵠箆誰喜聞

壁代の遁塞詩の中でも結唱と一夜われる名作である。それだけにこ

ており、詩句の

でに多〈の人によって様々な讃み

も一様でないが、何よりも先ず本参がこの時までに河障の地を踏ん

だことがあったかどうかが

、‘m

F

E

2しV

4

1

松枝葉夫氏はこのことにつ

「これは大関題である。なぜなら、もし踏んだ

この

つためだとみ守れば、この詩はすべて恕像の作となり

塞詩人の代表者と見られる本参め、法塞詩山?の代表作と見られるゆ

の詩に釣する一静僚なり見方なりが多少とも繁ってくるだろうからで

ある」と蓬べてい

結局、松枝氏は開

多に従っ

聖fi挙

多の停記考謹が

山今参の議築憾験が反映した作とするか、或は審外での作とする見方

が一般的であったが、近年の

る以前め作とした。謂

れる以前は、

に糊慨する論考のほとんど全てが蓬

の作としている。倒的えば

iま

静}れは天賓

七載{七郎八)西域に赴任する前年の、西方への憧需が

た頃の作である。まだ見ぬ

め夢幻が、繰眼の樹人の吹く胡結の

さそわれて妖しく燃え上ったのである」と述べてい

また

についてふれつつ、

域をうたうこの八首のうち、〈胡茄歌〉を除く七首は、

鈴木修次長は本参の欺行穫を用いた

いずれも本

参が車援に西域にあって見聞した

るが、〈誤

そうではない。そ

ふまえてうたうものである

、商域

歌V

のみは、

ノ¥

のあこがれ宏、

の世界において、

つつうたうものである。それとともに、〈拐

lまみずからも楽しみ

西域の風物

を利用しつつ、歌行謹を用いて議別のうたを作る不参の新しい趣向

の文撃作品の、

はしりをなすもの

と述べてい

に嫁つての見解であるが、しか

べたように、

グヲ

と鐙こはろ

掛同一多

箱歌〉が誌かれた前後の開一多め

しも堅毘なものではないのだ。

きて

この詩は何時作られたか。

簿は、彼が厳察御史とし

J ι

赴いたこ

翼離の

が、何年のことであるのかは議べていない。しかし、土笛唐寄』

民侍に、天賓ムハ裁に際右節度使帯都削翰に鉾召さ

いずれも

必ずし

っこ日目

R

JJ寅犀

Fhυ 4会

が、藍察御

史として縫右に至ったに寄針輪から将来節度使になる準才だ

と紹介された、というエピソードが記されている。「資治逼鑑

月十九日、

…五によれ誌、豆町箭輸が鶴'一色紙即藍佼に除せられたのは天賓六裁のふるさ

に着任し

いてやにある。部州

は多分年を越、えて七裁になっていたであろう。先め

ドは

いない。唐の

「顔魯公一行政」及び宋

ピゾ

のこと

Jコ

の留元輔の「額魯公年譜」のいずれもが六載に監察部史となり河

「西

f夜

顔箕郷が

L 、た

であることは確賞であり、しかも本参の詩のコ涼秋八

東朔方軍試覆屯交兵使に充てられ、欄兆七裁に

てられたこ

σ〉

のが

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人文科学論文集

月粛闘這」

の句より、彼が長安を渡ったのが仲秋であったことがわ

かる。だ

が、確かに長安での作なのか。

これについては従来幾つかの読

があったが、現在では長安、もしくは長安のあたりでの作というこ

とでほぼ意見が一致している。

これも確かめておく。

「秦山逼望臨山雲」とある。臨山については、

さして問題はないθ

快西省臨鯨から甘粛省清水鯨に跨がる山を指すと普逼言われるが、

『元和郡牒園志』によればそれは小臨山、或は臨坂と呼ばれ、臨山

とはその山を含めて更に北の田原のあたりまで連なる山地の線構で

あった。

この山を越えれば塞外の地であり、西へ向かう旅人の愁い

を改めて誘う慮である。山今参もここを遁り、〈初遁臨山途中呈字文

判官〉〈経陣頭分水〉〈赴北庭度臨思家〉と三篇の詩を残している。

引いた一句は

ここ秦山から逢か遠く雲のかかった臨山を望むと

見長閑であるが、臨山を眺めやる作者の心中は、初めて塞外に赴く

友を憂う思いで満ちているのだ。

秦山は、長安の南の修南山一帯の諸峰のこと。秦山をただ一峰の

固有名調とすべきでないことは、

七言絶句〈入蒲闘先寄秦中故人〉の

「秦山数貼青黛に似たり」

氏も指摘している料、

の句から知り得る。また、既に松枝茂夫

七言古詩〈酒泉太守席上酔後作〉に「奈何と

もする無し秦山の蹄夢を」とあり、秦山の時夢とは長安の近くの山

々への郷愁を言ったのである。山今参が長安の南郊終南山に別荘を持

っていたことは〈終南雨峯草堂〉〈太一石驚崖口澄奮宜招王皐士〉

〈初授官題高冠草堂〉などの詩から知り得る。

石禁崖口とは石頭驚

崎口のこと、高冠とは高冠河のことであろ旬。

いずれも終南山にあ

り、しかも場所を異にするので、山今参は少なくとも三つの別荘をこ

の山に所有していたのである。終南山一帯の自然の中で作られた詩

は多く、彼の心が伸びやかに表われた詩がほとんどである。

この山

を愛した詩人は多い。本参もまた心の故郷とした。遁境の町酒泉で

夢に闘ったのもここであったろう。

やはり塞外での作〈早護正局者懐

終南別業〉でも、「故山何慮に在りや

昨夜清渓を夢む」と詠って

いる。夢に見た故山、秦山が終南山であることは明白である。かく

て山今参が終南山、もしくは終南山の麓長安で〈胡茄歌〉を詠ったこ

とは疑いない。

きて、詩は全篇に亙って胡茄の調べの哀切極まりないことを詠う。

「君不聞」とあるのは、不定の相手への呼びかけてはなく

-46

いま将

に河院に赴かんとしている顔異卿その人を指すこと、既に松枝茂夫

氏が述べておられ封。「きあ君よ聞きたまえ」ととるより、

ここで

はむしろ「君は聞いたことがないか」と讃むべきであろう。

一設に

顔異卿を退る宴の席に紫存続眼の胡人が侍っていて胡茄を吹き、迄

か砂漠の彼方、漢代の古王園楼蘭のあたりに出征する若い兵士が同

席していたとするが、

かなり無理な想定と言えよう。

それが河西や

臨右の漫城でのことなら話は別である。

しかし、顔異卿を送ると題

しているところから推して、職務を通じてよりは詩文を通じての友

人、顔虞卿を送る長安での離別の宴に、遠征の注に就かんとする軍

園の兵士が同席していたとは思われない。また、「楼蘭征成見」を

顔異卿とする設もあるが、彼の職務、赴任先、年齢のいずれもそれ

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つまりこの部分、

の設前の迭別の

ている。

てはいないのである。事賞作者は胡筋の

ふさわしい情景を

露命山の南に丹が傾きかけるころ強入が月に向かって胡筋を吹く

と鮮やかに描き出しているではないか。山人「参は以隣に

のなかで胡什郊の哀音を糊附いて心打たれたことがあったのであろう。

その時には笹菌の兵女達も間出席しており、後らと共に愁いの換を落

したのであろう。

いま友人が

めを透るにあたってその時の

ことを思い出し、存に残っていた接結の撃が

のである。そし

中心に哀怨の情

やがて議域で判じ愁諜を落すであろ

う友のことを思い、惰弱の情に添えてその哀慈の情を仰はす銀筋への

怒みを述べ

ただひとつのはなむけとしたのである。

〉}ゆ」ヲつ

この葎か十一一句の詩の中に作者は閥度も揺節という一…山間

葉を詠い込み、執識なま℃に胡第の撃のげなるを強

〈鵡箆歌〉と題するとはゆ一一燃え、少しく奥常な用例であり、

な髄験を仲けつ

それ詰どの感銘は

やは

と推測祭れる。

野i撃

り塞外に於いて受けたものだろう。

外でめ作が果してあるのか。

では、そうした髄験を詠っ

海運まのi金書草詩についての覚書

ここで〈関節歌〉め飽にただ一首鵠務が吹かれる情景が

い込ま

れている詩、

守席上辞後作〉に注苦しだい。

酒泉太守山叩批判別舞

の太守

剣舞を能くす

董沼し

鼓を撃つ

鵠第一曲断人路

胡茄一曲

人グ〉

j長湯

を断つ

座上椋譲渡如雨

関の如し

産上棺

し、

務畿長笛出格由利

長室

発完鵠雛紙同唱歌

先見

占月雛

牽牛を海灸し

一…一史酔後筆中寝

加熱奈秦山時夢例

奈何ともする無し

め太守とは

韓太守と阿川

議泉韓太守〉

人物であろう。

め作であることは税

べたが

である。〈謄酒

〉の回目一照明の

人」から

ったの

と設を結んでいるの

47

あろ、7が、

遂ながらも心打ち解けた交わりに至った

由に相ひ和し

怒しく唱歌す

野騒を烹る

金匠羅

泰山の鰻夢を

ーいた〈姶溜泉韓太守v

の誇の

の漣塞一行の

この

その少し前に

匂「太守有能政

って揺れる少し前のことで

「俸銭盤供客んとあるの

f窪

されたらしい。

この

その宴の様子を生き生きと侍える。潜泉の

太守が見事な斜舞を舞、っ、大擦問に酒席が設けられ機予の太鼓は夜

更けてな

その時

ふと期間こえてきた紛誌の調べ、その哀し

座の客ははらはらと

人々のはらわたはちぎれんばかり

が和し

でられ

闘士(民族の

換を落す、見れば

人々の心に哀しい患いが、過る。

だが

れ、金め杯には交河童の美清がなみな

いの回つ

きに

す〆コ

カミ

がれる。

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人文科学論文集

たえる。

醒めれば哀しみが一屠増すことを知りながら、今夜もまた

故郷秦山へ踊る夢を見ることだろう。

〈胡筋歌〉が漫塞瞳験を経た後の詩であったとすれば、長安での

作詩の際に本参の脳裏に娃ったのはこの夜のことであったと推測さ

れる。二つの詩には幾つかの類似鮎がある。先ず語葉、次に情景、

そして場所。

共逼の言葉が三つある。

胡茄と秦山と夢である。既に述べたよう

に、本詩に於いて胡箱はこの二首以外には見られない。秦山は他に

二首だけに詠い込まれている。

この用例の稀な二つの言葉が、夢で

結ぼれるという内的構造を二首は共有する。〈酒泉太守席上酔後作〉

では、遁城酒泉にあって胡茄の調べに郷愁を誘われ、故郷秦山への

時夢を奈何ともし難いと詠う。〈胡節歌〉では、遁城ではただでさ

え夜毎に故郷を懐って愁夢に悩まされるというのに、ましていやま

しに郷愁を募らせる胡茄の哀音を誰が喜んで聞くであろうかと、秦

山にあって塞外に赴く友を思いやる。遁城で聞く胡茄↓蹄夢・愁夢

↓故郷である秦山と連なる構造は同一である。〈胡箔歌〉を想像の

世界に於いて現賓的瞳験を先取りした作とする設に従えばそれなり

に豊かな護みをこの詩は提供してくれそうな気もするが、しかし、

塞外での胡箔にまつわる痛切な耀験を踏まえた作であると推測する

のが、やはり最も自然ではあるまいか。まだ見ぬ西域への憧慢、或は

夢を詠った詩であるとする設があるが、少なくともこの詩に詠いこ

まれている夢は、現賓離れした甘夢ではない。

二つの詩に描かれた情景も似ている。粛州酒泉は河西国廊の重要

都市で、漢代も唐代も征西の軍園は必ずここを経て更に西に向かっ

た。「楼蘭征氏児」

は長安での顔異卿送別の宴には不自然だが、

J酉

泉での夜宴にはまさに似つかわしい。「揮灸翠午烹野施」とその折

の詩にあるから、兵士を加えての大酒宴である。兵士の中には様々

な異民族が混じっており、その中に一人胡箱の名手がいて、彼が夜

更けて吹く胡茄の音に人々は涙を誘われたのである。山今参が酔って

眠りについた同じ軍営内には

彼のように東踊する者ばかりが寝て

いたのではあるまい。「或は十五より北のかた河を防ぎ

ため

去る時里正輿に頭を衰む

便ち四十

踊り来たり

に至るも西のかた田を営む

て頭白きに還た謹を成る」と、杜甫が〈丘ハ車行〉に詠ったような兵

士達もいたに蓮いない。彼らも前夜あの切ない胡箔の音を耳にして

48ー

進かに故郷を思い出し、哀怨の涙を落したことであろう。本参の遁

塞詩には自分一人の郷愁、郷涙を詠ったものは多くある。

だが、

の二首はいずれも詩人一人の愁いと涙を詠ったものではない。

お持続眼胡人吹

愁殺棲蘭征成見」とは

やはり酒

吹之一曲猶未了

泉の夜宴の賓景ではあるまいか。

〈胡箱歌〉の最初のスタンザが遁塞で賓際に目にし耳にした情景

では次の四句をどう解するか。粛閥、

を踏まえているとして、

天山、

山昆山ム岡山という三つの地名が績けて詠い込まれている。

いては、中野美代子氏が、「斎閥、天山、官出荷この三つの地名は、

胡人が月に向かって胡茄を吹くというきわめて微視的な情景となる

には、あまりにもかけ離れた地名であるばかりでなく、また強いて

このことにつ

この三つの地名を結合させ、

そこに矛盾のない背景を設定しようと

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マクーロ

するならば、あまりにも巨視的な一大術轍園となってしまうであろ

う」と指摘している。

この三つの地名を同時的にイメージの中に構

成することには確かに無理があろう。

そこで考えるべきは、

この詩

が送別の詩であるということである。

迭別詩には、遺る相手が赴く

先やその途次の地が詠われることがしばしばある。例えば、先にも

引いたが〈迭李副使赴積西官軍〉なる詩には、「火山六月慮に更に

熱かるべし赤亭道口行人絶ゆ君の郁連の城を度るを慣れしを知

宣に能く輪墨の月を愁ひ見んや」と、四つの地名が詠い込まれ

るている。また、長安での作で前年の河朔遊歴を踏まえて友人を選る

〈迭郭父雑言〉なる七言古詩にも、「何れの時か東洛を過ぎ早晩

盟津を渡る朝歌城遁柳地に葬れ郡都道上花人を撲つ」とある。

これらの詩に於ける地名を同時的にとらえるべきでないことは、も

はや言、つまでもないが、〈胡箱歌〉

の場合も嘗然同じく見るべきで

あろう。

この時顔置(卿が赴く先は河西、臨右の地である。粛闘が詠

い込まれたのは地理的に言っても矛盾しない。長安から西の塞外へ

野i畢

赴くには、臨山を南の臨抵で越えるか、或は北の原州平涼鯨から西

して越えるか、或は更に北の原州から北縁を遁って舎州に向かうか

であったと言われる。「元和郡鯨圃志』による限り、臨右節度使の

本参の漫塞詩についての覚書

治部州までは原州、舎州を経るル

lトは臨抵を越えるル

lトより百

里ほど遠いが、涼州武威までは逆に三百里ほども近いのである。や

はり『元和郡牒園志』によれば、粛闘の故城は原州の東南三十里に

あり、粛闘に因んで命名された粛閥鯨が原州の北百八十里にあるc

〈胡筋歌〉の「粛闘道」とは、このあたりの街道を指すのであろう。

山今参が最初の漫塞からの蹄路、この街道を逼った可能性も充分にあ

次に天山が詠われるのは理解に苦しむ。既に新一誼の天山を

見、塞外の地を踏破して来ていたならば、地理的認識はそれなりに

rEf

ナ人,刀

あったはずだ。新一撞の天山山脈をそのまま詠ったのではあるまい。

では、内蒙古自治州の陰山山脈を指して詠ったのか。北庭時代の詩

に於いて天山と陰山がいずれも天山山脈を指して用いられているこ

とは既に示した。山今参に天山と陰山を明確に匝別する地理的認識は

なかったと見てよい。

とすれば、現在の陰山山脈を

つまり漢代

唐代の陰山を、彼が天山と呼んで詩に詠い込むことはあり得ないこ

とではない。しかし陰山は、

河院の地でも途次の地でもない。

では

郁遠山のことを指して詠ったのであろうか。

49ー

これは可能性がある。

唐代の碩皐顔師士口が、『漢書』武帝紀に見える天山に注して郁連山

となし、同じく霊去病停に見える郁遠山に天山と注したことは、既

に周知のことである。山今参が

「漢書』を讃んでいながら輪豊につい

て錯費し、陰山と天山を同一覗していたことは先に述べたが、彼が

P

顔師古注の『漢書』を讃んでいたならば、師連山を天山とすること

に興味を覚えても、抵抗はさほど感じなかったのではあるまいか。

二つの織門闘を混用したように、この時も逢か新一誼の天山のイメ|

ジを甘粛の「天山」にダブらせなかったとは言い切れない。

また、

『漢書」西域停に出てきた輪壷に固執したように、この時も『漢書』

の「天山」に執着したのではあるまいか。

白鳥庫土口氏は、郁連山を

天山とする謬設は既に唐のうちに勢力を得ていたらしいとして章懐

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人文科学論文集

太子の『後漢書』

の注稗を示し、また『奮唐書』地理志の例を引い

の著者及ぴ唐時代の人が、天山と郁遠山を混同し

た形跡は明瞭である」と遮べておられる。山守参の場合は、遁塞韓験

て、「『奮唐書』

以前なら混同もあり得たであろうが、貫際に甘州張披西南の郁連山

の裾を逼り新彊の天山の麓に宿った後に、混同は考えられない。

れでも敢えて郁連山を天山と詠ったとすれば、

それは詩語としての

イメージの豊かさを重んじたがためとしか考えられない。

さて、山今参は詩の中で顔異卿が赴く塞外の地を辿る。長安から粛

闘へ、粛闘から郁連山へ、そして更に西の昆高山へと。

それはあた

かも胡節の調べにふさわしい場所を求めての旅のようでもあり、ま

た以前に聞いた胡箔の音の遁憶に誘われての道行のようでもある。

この部分、送別詩に於ける常套的な表現であると同時に、本来の主

題である胡茄の哀音を導き出す情況設定の役割をも果しているので

ある。塞外の地名を織り込んだ聯を前置し異境の雰園気を醸成し

ておいて、詩人は「昌広岡山南月欲斜

胡人向月吹胡茄」と墨み掛け

るように詠う。或はかくも鮮明なる映像の故に却ってこの詩は想像

の産物と臆断されたのではあるまいか。

妖しくも美しい情景を、

の二句は我々の眼輸に百喚し、焼き附ける。否慮なしに想像力の飛

朔を促されるその時、詩人もまたかくあらんと、ふと奔放な想いが

脳裏を過る。詩の創造は鑑賞とはあくまで別の次元の営みであり、

詩人の作詩の渇程を我々は垣間見ることができるにすぎないことを

承知のうえで、なお奔放な想いに駆られるのだ。

とは言えいまは、

この詩を、

そしてこの二匂を全くの想像の所産とする見解に奥しな

し、。山昆広岡山とは、古来中園の西方にあると考えられた霊山で、西王母

の住む慮とされ、周の穆王がここに至って西王母と共に宴したとい

う侍設の地である。現賓の地名としては、

パミ|ル高原に始まり新

彊南部からチベット北部に虞がり、更に青海省全程を横に貫いて甘

粛省に達する中園最大の山脈を言、っ。賓に壮大な時間と空間を湛え

た地名である。本参が己れの詩にその地名を詠い込んだ時、

やはり

壮大なイメージの庚がりを期待したに蓮いない。

だが、問題は彼が

長安にあってその地名をいかにして獲得し、

胡人が月に向かって胡

箔を吹く背景に何故に用いたかであろう。般に既に遁塞樫験を経て

いたとすれば、彼が昆痛と一接し得たのは、多分甘粛省の西南に連な

るいまの郁蓮山脈に於いてのみであったと推定される。そこは山固定閉

山脈の西縁の支脈にすぎないのではあるが、しかしそれぞれの支脈

ハHV

Fhυ

を山昆忠聞と呼ぶこともあれば、より狭義には支脈中のピークを昆斎と

呼ぶ場合もある。

しかし時代によって一様でない。樺清澄は『唐詩

選』に採られた〈胡箔歌〉に注して、「山昆奇山脈は西裁と伊裂とを

界す、本部支那に入らんと欲するに二分して北に赴く、郁蓮と賀蘭

なり、更に進んで陰山山脈と偽る、河臨の地乃ち山昆南山脈に係かる

なり」と、述べ、河院に於ける自主冊、郎ち郁連山脈をこの詩にあてて

いる。また、前野直彬氏も、「大穂甘粛省を西域の方へ進むとき、

西方ないし西南方に見える山脈が昆街と考えられていたらしい」と

(出)

述べているが

この場合も郁連山脈を指していることは明瞭である。

山今点舎が郁連山脈を念頭に置いて昆寄を詠ったとするのはなお少数意

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見ではあるが、

河院に赴く顔異卿迭別の詩と見なす場合にも、山今参

自身の穫験を踏まえている詩とする場合にも、全く矛盾を生じない

解樺である。更にまた、中野美代子氏は第五、六句と第七、

八句が

韻を異にすることからそれぞれ意味上のまとまりを持っているので

はないかと珠測し、「第五句第六句は第八句胡人向月吹胡箱を導く

保件的な句とはならずにそれじしん濁立した情景となり、第七句に

巨大な山田笠岡山脈中にある一ピ

lク郁連山を指すの

(出)

かもしれない」と問、ったことがある。中野氏自身は結局それを否定

おける昆奇とは、

したが、しかしもし本参がいまの郁連山を官室岡山と呼んで〈胡箱歌〉

に詠い込んだのであれば、

この詩があの酒泉での夜宴に於ける瞳験

を踏まえて作られた可能性がいよいよ強まる。何故なら、郁遠山は

酒泉の南約五十キロに吃立する海抜五五四七メートルの峻峯だから

である。月の夜には酒泉からくっきりとその偉容が望まれるはずだ。

「元和郡牒園志』巻四十粛州酒泉牒の僚に確かに次のようにある。

野i宰

山固定岡山は牒の西南八十里に在り。周の穆王の西王母に見え、

楽しみて踊るを忘れしは、即ち此の山なり。

本参の漫塞詩についての覚書

『新唐書』地理志第四の同じ燥にも「山昆山命山有り」と見える。更

に「陪書」地理志上の張披郡一隅誠師柄、郎ち唐の粛州の僚にも、

連山、畦桐山、昆山ム岡山有り」とある。『元和郡牒園志』によれば、

郁遠山は甘州張披牒の西南二百里に、陛嗣山は粛州一幅旅牒の東南六

つまり現在の郁遠山脈中の最高峯郁連山は、少なくと

十里にある。

も惰唐の時代には昆広岡山と呼ばれていたのである。山今参が〈胡箔歌〉

の中で粛闘を過ぎ、

天山即ち唐代の郁連山を経て辿り着いたのは、

その山昆寄山の麓の遁城酒泉だったのである。彼を酒泉に導き寄せた

もの、

それは嘗て聞き、未だに耳の奥に残っていた胡筋の哀音であ

いや、

その哀しい音色で否感なしに郷涙と腸夢を促した胡茄へ

の怨みではなかったか。

かくて昆寄山を背景にして紫彰緑限の胡人が月に向かって胡筋を

吹く姿を、山今参は他ならぬあの酒泉での夜宴でその目に見たのだと

言い切ってもいいのではあるまいか。院山を越えて塞外の地に至つ

て以来その時までに、彼は既に幾度か似たような宴に身を置いてい

たであろうし、或は胡筋の音色も聞き知っていたかも知れない。

〈胡箔歌〉をそうした折々の髄験の凝縮された作品ととることもで

きょう。しかし、瞳験の蓄積のみで詩は生まれるものではない。ま

1i

D

た、たとい酷似した情況の下にあっても、

人は常に感銘を受けると

は限らない。

いや、似たような情況であれば却って、本吉に心に刻

みこまれていつまでも残る感動は一度きりのものではあるまいか。

酒泉での夜宴で奏でられた胡茄の調べは、まさしくそうした感動を

彼に輿えたのであり、その感銘の深さが後に長安での名作〈胡箔歌〉

を可能ならしめたのである。

終章

山今参は天賓七載の秋には最初の塞外生活を終えて長安に戻ヮてい

た。では、長安を護って初めて塞外に赴いたのは何時のことであっ

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人文科学論文集

たのか。聞一多の考誼によって〈透表校書従大夫楢川親省〉の詩が

天賓四載秋の作であることが明らかなので、それ以後のことである。

長安を護った季節は秋か初冬であったと思われるので、六載の可能

性はない。彼が罵香で作った〈早渡君者懐終南別業〉

の詩が秋の作

なので、同じ七載の秋に長安に蹄り着いていることは絶封に有り得

ないからである。残るのは四載か五載。もし山今参の安西時代が二年

だが、それほど長

以上の期間であったなら、必然的に四載になる。

い塞外生活であった形跡は見られない。安西で作られたと思われる

詩は僅かで、確かにそれと断定できるのは〈安西館中思長安〉の一

首のみである。また、彼はその詩も含めて往路でも蹄路でも頻りに

郷愁や時夢を詠うが、そのことは確たる生活の基盤を塞外に持って

いなかったことを示唆する。

この時期の詩は寒外での生活者の詩で

はなく、旅行者の詩である。初めての謹寒一行であったためもあろう

が、それにしても後の北庭時代のような気持の落ち着きが全く見ら

れない。また、北庭時代と異なって節度使夫蒙霊答一回に献じた詩は一

首も残っていない。安西に赴く際にも節度使に随行しておらず、節

度使を遣う形で西に赴いている。夫蒙霊警が天賓六載以前に入朝し

たことがあ勺たのは、王維に〈奉和聖製迭不蒙都護策鴻櫨卿蹄安西

慮制〉なる五三口古詩があることから明らかであるが、もし本参が使

者のような任務であったなら、随行しなかったのも納得できる。或

は天賓六載十二月に安西四鎮節度使が夫蒙霊径一一=一回から高仙芝に代わっ

たことに、山今参の進退が係わっていたかも知れない。断定はできな

いにしても、本参の最初の塞外生活はそれほど長くはなかったと思

となれば、建塞詩だけから本参の長安出稜の時期を決定す

ることは、容易にできそうにない。山今参の若い時代の詩を調べ上げ

われる。

る必要があるが、

いまはその用意も不十分である。従ってここでは

一聴の推論を述べておくに止める。

山A「参が進士に及第したのは天賓三載である。嘗時の通例から言つ

て二月に進士に及第してから、

四月に吏部で選考を受けたと思われ

る。順調に行けば夏のうちに授官したであろう。授官後の作に〈喜

韓樽相過〉なる七一言古詩があり、「三月覇陵春己に老ゆ」とあるの

で、この詩は四載春か五載春、長安での作である。また、

へら凡州川

LL

/持切

f三RAAI

華浪、上見贈策呈熊耀〉なる五言古詩に、「我は京師従り来たり

'vu

-昨日砂

に到りて相ひ見ゆるを喜ぶ

九断芥未の歳

共に論ず窮途の事

覚えず涙満面

吾兄江東自り

君の江湖の詩を得たるを」とある。

つJU

「D

焚未の歳とは天賢二年。

この詩はそれ以後の作である。更に「三月

猶ほ未だ還らず

客愁春草に満つ」とある。

天賓三載の三月は進士に

及第したばかりであり、窮途を論ずるはずがないし、浜水(河南省

法、牒の近くを流れる川)

のあたりにいるはずもない。窮途と言、っか

らには仕官の這を得ていなかったか、得ていても不遇であったので

あろう。仮に本参が天賓三載に授官できなかったとすれば、

この詩

は四載三月の作となる。

四載に授官したとすれば、〈初授官題高冠

草堂〉の詩は夏の作と思われるので、〈喜韓樽相遁〉

の詩は翌五載

三月の作となる。本参の遁塞行は五載に始まったことになる。また、

三載に授官して、

四載三月に〈喜韓樽相過〉の詩が作られ、

五載

月に〈敬訓社華浜上見贈粂呈熊耀〉の詩が作られた可能性もある。

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この場合も本参は五載に初めて塞外に赴いたことになる。

天賓五載、山今参は初めて塞外の地を踏む。唐の浸塞詩群の中にあ

って一際高い嶺を形成する本参の遁塞詩は、

中的に生み出される。

その後の十一年間に集

その数は七十首を越え、量的にも他の漫塞詩

人を堅倒する。集中的にとは言ったが、従来考、子われていたよりも

長い期間に亙って、しかも断横的に彼の謹塞詩は詠われていたので

ある。聞一多によるにせよ頼義輝によるにせよ、

これまで二度の塞

外時代に配されて混在していたそれらの漫塞詩は

いまや大まかに

ではあるが時代順と地域別に三つに分けることが可能となった。安

西、河西、北庭のそれぞれの塞外生活は、詩人に何を費したのであ

ろうか。本詩の円熟の過程に遁塞程験の蓄積はいかなる関わりを持

これら興味あるテ

lマに取り組むことがよ

っているのであろうか。

うやく緒に就いたと言えよう。奇と評されて来た本詩の世界は、

れらのテ

lマを遁求する過程でいかなる嬰貌を示すであろうか、

まはなお後日の課題とする他ない。

野i畢本参の主量塞詩についての覚書

〈一迂〉

(1)上尾龍介「本参の法塞詩」(『日加田誠博士還暦記念中園撃論集』所牧

大安一九六四年十一月刊)。

(2)鄭振鐸『揺園本中園文皐史』二(作家出版社一九五七年十二月刊)。

(3)頼義輝「本参年譜」(「嶺南挙報』第一巻第二期一九三

O年五月)。

(4)間一多「本嘉州繋年考詮」(『開一多全集』選刊之三「唐詩雑論』所牧

古籍出版社一九五六年六月刊)。

(5)李嘉圭一日「本詩繋年」(『文撃遺産』増刊二一輯一九五六年八月)。

(6)前野直彬『唐代の詩人達』(東京堂出出版一九七一年十二月刊)。

(7)本仲勉「吐魯番一帯漢園地名封詮」(『中外史地孜詮』下珊所牧太平書

局一九六六年五月刊)。また潟承鈎「高昌城鎮奥唐代蒲回国」(『西城南海

史地考語論著柔輯』所牧中華書局香港分局一九七穴年九月刊)でも同

様の指摘がなされている。

(8)エリック・タイクマン「トルキスタンへの旅』(紳近市子議岩波新書

一九四

O年三月刊)。なおスタインによって敦燈から稜見された所謂『西州

国経残巻』には、商州より正局者への街道が「銀山道右道出天山懸界、西

南向駕香園七百里。多沙積油、唯近蜂足水草、逼車馬行」と記されている。

アスターナ

(9)

一九七三年に吐魯番の阿斯塔那唐墓から後見された古文書のなかに、関

元二十年に瓜州が石染典なる安西から来た商人に出した通交手形があり、

それに「安西己来、上件人捧騒拾、今月日得牒格、従西来至此、市易事

了、今欲却往安西己来、路由鍛門閥、銭成守捉、不練行由、請改給者。依

勘来文同此、己剣給、幸依勘過」とある。これより、開元年間に安西への

途次に銭門闘があったことが明らかであり、天賓年間も同様であったこと

は疑いない。(玉仲筆「試樗吐魯番出土的幾件有関過所的唐代文書」『文

物』一九七五年第七期所牧を参照)。

(日)同

(1)。

(日)中園社舎科撃研究所編「唐詩選』上(人民文撃出版社一九七八年四月

刊)。また劉徳重・張柄隅「唐代漫塞詩選議」(「垣間文撃習』叢刊六一九

七八年十一月刊)も、現在の新一撞ウイグル自治匿の輪憂燃を本参の北庭時

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し、

Page 33: 岑參の邉塞詩についての覺書 - HUSCAP · みな雲を掴むようなものばかりだ。だが、彼の場 ら、経験から出たものである。ぞれ故、彼 一句一匂が

代の赴任地としている。

(ロ)松田寿男「唐の庭州の領懸を論ず」(「古代天山の歴史地理撃的研究』所

牧早稲田大撃出版部一九五六年十一月刊)。

(日)同(ロ)。

(MH)

松図書男「弓月についての考」(同前掲書)。

(日)松枝茂夫「ふたたび容参の『胡箔歌』について||附『君不見』『君不

聞』考」(東京都立大撃『人文筆報』第三六集所牧一九六三年八月)。

(国)同

(l)。

(η)鈴木修次「本参の生涯と社甫」(『唐代詩人論』上巻所牧鳳出版一

九七三年四月刊)。

(凶)同(日)。

(ω)平岡武夫編『唐代研究のしおり』第七「長安と洛陽||地園』解説八

O

頁「長安南郊園」(京都大肇人文科挙研究所索引編集委員舎一九五六年

二月)。

(初)同(日)。

(幻)中野美代子「本参の塞外詩ーーその後想の一類型」(「日本中図的学舎報』

第十一集一九六

O年十月)。

(幻)雨唐書の地理志と「元和郡勝国志』に擦り、他に青山定雄「唐宋時代の

交遁と地誌地国の研究』(古川弘文館一九六て一年三月刊)を参考にした。

(お)白鳥庫吉「烏孫に就いての考」(『西域史研究』上所牧岩波書庖一九

四一年九月刊)。

(M)蒋清濠注解「唐詩選』園誇漢文大成文附学部

一九二

O年七月刊)。

(お)前野直彬注解『唐詩選』上(岩波文庫

(お)同(幻)。

人文科学論文集

第五巻(園民文庫刊行舎

一九六一年五月刊)。

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要参京7