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『原色茶道大辞典』の「御本(ごほん)」 ように説明されている。 の項をみると、 御本すなわち御手本(おてほん)の意で手本の切形を与えてつ くらせた陶器の総称といっていいが、一般には江戸時代初期か ら、朝鮮釜山の和(倭)館に付属する婚造所(釜山窯)でつく らせたものをいう。〔()内は筆者注〕 と、簡にして要をえた記述である。つまり「御本」とは釜山倭館内 の窯の作品、いわゆる「釜山御本」がその代表なのである。 文禄・慶長の役後、日本・朝鮮間に国交が回復すると、茶の湯界 では、かつて天文年間ごろよりよく使われるようになった高麗茶碗 を求めるようになった。そのはじめは徳川将軍家からの要求であっ たといわれている。 これについて、この分野では唯一のまとまった研究業績といって 江戸時代の日朝交流(上) つぎの ー釜山窯の御本焼物をめぐってー_ 江戸時代の日朝 (昭和五年刊)は、 よい浅川伯教氏の窯業史書『釜山窯と対州窯』 つぎのようにのべている。 初め将軍家では宗家(対馬藩主)をして朝鮮から客碗即 を求めさせた。併し朝鮮のこの時代の作風の傾向としては 磁の厚手の物となって、適当に茶に用ひ得られるものは少かっ た。それで遂に見本を作って朝鮮に注文することになった。 かくして寛永十六年、将軍家光の命をうけた宗義成(藩主)は、 江戸からの茶碗の見本を朝鮮の東莱府(釜山にあった外交担当の役 所)へ送り、製作を依頼した。翌年も使者が派遣され、寛永十八年 に作陶された。 こうして注文がつづくようになると、対馬藩でほ倭館(釜山にあ った対馬藩の外務出張所兼商館)内に窯をもうけ、対馬から陶工を 差遣して作陶をするようになった。正保元年(一六四四)、渡釜し た橋倉忠助がそのはじめといわれる。以後、享保二年(一七一七)、 廃窯となるまで、多くの陶エが釜山へ渡り、御本をもとに作陶には

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Page 1: 江戸時代の日朝交流 - kansai-u.ac.jp · 日本では折しも土・柴薪の供給、また陶工の応援をうけ、対馬藩は茶碗のみならげんだ。釜山窯の歴史はわずか七十余年だが、その間、朝鮮から陶

『原色茶道大辞典』の「御本(ごほん)」

ように説明されている。

の項をみると、

御本すなわち御手本(おてほん)の意で手本の切形を与えてつ

くらせた陶器の総称といっていいが、一般には江戸時代初期か

ら、朝鮮釜山の和(倭)館に付属する婚造所(釜山窯)でつく

らせたものをいう。〔()内は筆者注〕

と、簡にして要をえた記述である。つまり「御本」とは釜山倭館内

の窯の作品、いわゆる「釜山御本」がその代表なのである。

文禄・慶長の役後、日本・朝鮮間に国交が回復すると、茶の湯界

では、かつて天文年間ごろよりよく使われるようになった高麗茶碗

を求めるようになった。そのはじめは徳川将軍家からの要求であっ

たといわれている。

これについて、この分野では唯一のまとまった研究業績といって

江戸時代の日朝交流(上)

つぎの

_

(昭和五年刊)は、

よい浅川伯教氏の窯業史書『釜山窯と対州窯』

つぎのようにのべている。

初め将軍家では宗家(対馬藩主)をして朝鮮から客碗即ち茶碗

を求めさせた。併し朝鮮のこの時代の作風の傾向としては、白

磁の厚手の物となって、適当に茶に用ひ得られるものは少かっ

た。それで遂に見本を作って朝鮮に注文することになった。

かくして寛永十六年、将軍家光の命をうけた宗義成(藩主)は、

江戸からの茶碗の見本を朝鮮の東莱府(釜山にあった外交担当の役

所)へ送り、製作を依頼した。翌年も使者が派遣され、寛永十八年

に作陶された。

こうして注文がつづくようになると、対馬藩でほ倭館(釜山にあ

った対馬藩の外務出張所兼商館)内に窯をもうけ、対馬から陶工を

差遣して作陶をするようになった。正保元年(一六四四)、渡釜し

た橋倉忠助がそのはじめといわれる。以後、享保二年(一七一七)、

廃窯となるまで、多くの陶エが釜山へ渡り、御本をもとに作陶には

(上)

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碗)」げんだ。釜山窯の歴史はわずか七十余年だが、その間、朝鮮から陶

土・柴薪の供給、また陶工の応援をうけ、対馬藩は茶碗のみなら

ず、各種の数多い製品を作って日本国内へ送った。日本では折しも

武家茶道の発展期に当たり、釜山窯の作品は異色のものとしておお

いに好まれ、求められた。『釜山窯と対州窯』にこの間の事情を語

ってもらおう。

文禄・慶長役後茶会が諸藩に行はれ、御用窯が起る。戦国の素

朴の美に比して、太平の世では次第に優美なものを要求する。

期節々々に従ひ場所に応じて用ふる茶碗の格好や種類が変り、

各種の茶碗が必要になってきた。

寛永から元禄に至る約百年間は、各方面に名人の出た時代で、

天下一とか名人とか云ふ語の許に、徳川の工芸を築き始めた。

……そして鍋賞の態度も亦此方面へと進んだ。そこで矢張り本

場である朝鮮の茶碗を求めた。此希望が将軍を初め諸藩から対

馬の手によって朝鮮に繋がれた。

^ッス

「茶会記」によって「今高麗茶碗(釜山窯の御本茶碗・半使茶

R

の使用回数を調べられた林屋晴一二氏によると、正保三年以後

は、前代とは比較にならぬほど、その使用回数が多くなっているとい

う。これは正保元年から対馬の陶エが渡釜し、作陶しはじめたこと

と関連があるのか、とも思われる。しかし、この「茶会記」に記録

された茶碗がすぺて「御本茶碗」であったかどうかはわからない。

後述するように、釜山窯では注文品のみを作っていたのではない。

今日知ら

先述のように、朝鮮人陶工の応援をえて、のちには一年に万単位の

数の陶磁器を焼いていた。多くは商品として出していたらしい。

「釜山御本」の代表として、

御本立鶴・絵御本•砂(手)御本・御本雲謳・御本呉器・御本

半使・御本三嶋・御本刷毛目

など、主として茶碗があげられているが、茶碗のほかにも御本は多

い。今日、御本茶碗は多く美術書にも掲載され、作品も目にふれる

機会が多い。しかし、対馬にのこる釜山窯の作品を調ぺられた吉田

宏志氏によると、作者の明らかなものは極めて少ないという。氏は

それについて、つぎのような理由をあげておられる。

一、釜山窯の作品は全て宗家の御用品であったため、作品には款

記がないこと。

一、宗家の御蔵にあった時は、作者名・焼成年月などを記した紙

片が作品に添えられてあったが、それが混乱したまま民間に散

逸してしまったこと。

私はこのほかに、より根本的な理由を考えているが、それについ

てはのちに考察しよう。ともかく、今日諸書に紹介されている「釜

山御本」といわれるものは、多く作者・年代とも不明確で、しかも

「御本」をもとに作られたものかどうかも明らかでない。また、そ

もそも作陶のもとになった「御本(手本)」そのものが、

れていない。これまでの「釜山御本」の研究は、浅川氏をはじめと

して、作品をもとにした研究がほとんどで「御本」の史料にかかわ

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御誂物

る研究は、管見の限り見当たらない。それはひとつに関係の史料が

本稿では対馬の「宗家文庫」に所蔵される

本」の控帳を中心に、「釜山御本」をめぐる諸問題を考えてみたい

と思う。江戸時代の日朝間にあって、「焼物」だけは数少ない両国

文化交流のひとつであり、その実態の一部でも、ここに明らかにす

註①淡交社刊、昭和五十年。

p1210

③前註同書plHo

p1670

⑤陶磁大系32『高麗茶碗』平凡社、

P960

⑥『対馬の美術』西日本文化協会、p2310

⑦浅川氏は「御本」そのものを実見しているらしい記述をしている。

『釜山窯と対州窯』p1260

つぎに紹介する宗家文庫蔵『自元禄十四年至宝永弐年

控』は、数少ない釜山窯関係の史料の中でも「御本」そのものの実

態などを知りうる貴重な史料である。今日、宗家文庫には藩政時代

の史料が収蔵されるが、その中心は藩庁の「毎日記」(約六千点)

と、「記録類」(約一万三千点)で、いずれも第一級の史料である。

これまでの釜山窯および釜山御本にかかわる研究は、どういうわけ

江戸時代の日朝交流(上)

ることができればと思う。

少ないからだが、

「御

・年代ともに推定しかねるが、

「一番」

このどちらが

新酉十二月日

判(朱)諸記録二番

延宝九歳

か、ほとんど、この宗家文庫の史料を用いていない。『御誂物控』

は「記録類」の中の一冊で、「御本」および注文の控えである。表

紙とも墨付四十五枚。たて二十六X

よこ二十一センチ。体裁は一冊

になっているが、国元(対馬)控えと、江戸(藩邸)控えとが、ど

ういうわけか合帳になっている。江戸控えの方は、内容が国元控え

と同一なので省略した。

表紙には朱書で「諸記録九番」、墨書で「此帳宝永二年之所二入」

と記入されている。おそらく連続する関係の記録が何冊かまとめら

れていたものと思う。現在、朱書で「諸記録二番」と記入されるつ

ぎのような表紙の二冊の記録がある。

御茶碗焼入目帳

璧四月吉日

天和元年

(朱)諸記録二番

『御誂物控』につながっているのか即断しかねる

が、ともに釜山窒~に関連はある。また「一番」に当たる記録の内容

コ一番」の年代からみて、

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一鉢参枚

右者狩野養朴望元禄十四辛巳年八月七日杉村三郎左衛門方ふ弥

此帳宝永二年之所ニ

九番

(朱)諸記録

ほ寛永・正保・慶安・承応・明暦ごろ、つまり初期のものではない

と思われる。いずれにせよ、この控帳は釜山窯の後半期に当たる時

代のもので、これによって前半期の釜山御本を考えることはむずか

しい。従って、本稿では、釜山窯後半期の「御本」および作品、ま

註①宗家文庫の史料のうち「毎日記」はすでに調査が終わり、長崎県立対

馬歴史民俗資料館へ移され、目下「記録類」が調査されている。

自元禄十四年至宝永弐年

た陶工などについて論考を進めていきたい。

一銘々菓子盆十ヲ

一大花入壱

一花入 平

太へ書付二而申渡

_色二而数ニッ

三ッ程ッツ

但手本二日本焼之水次壱ッ

来ル井蓋之紋形一枚相蔀

但絵形一枚井土形壱ッ相添来ル注文

ニハ香炉与有之候へ共小壺二而候

右者狩野養朴望元禄十四年平田直右衛門方か弥平太方へ書状相

添来ル

但余計共廿五内十白薬同十五薄柿

一猪口五

右者池嶋立作望五ッニ而候元禄十四年十二月五日之書状二而杉

村一一一郎左衛門方力松村弥平太申遣ス尤弥平太方ヘハ樋口孫左衛

門望之由申遣ス

浅黄薬地紋彫上ヶ絵図之通

白手地紋彫上ヶ絵図之通

柿手地紋彫上ヶ白薬ニメ

(朱)内浅黄手花入壱出来参リ候付宝永三年戌正月以酎

庵迎イ高勢宅兵衛乗リ船住吉丸便二江戸江差越也

一小壺

一水次

但浅黄白柿見合

一宝尽筒茶碗廿

右者高山伝右衛門殿望元禄十四年十一月廿八日之書状二而大浦

忠左衛門方力松村弥平太方へ申遣ス

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右者永井讃岐守様御望元禄十五年十二月平田直右衛門方ふ松村

弥平太方へ申遣ス

一里うこ形水指

一水こほし

一盃台弐ツ

土形有り惣体五器手之通

土形有り地色浅黄濃キ柿薬三分一程かけて

とうらん形浅黄色と柿色と薬替り二

一こかし入

右者土屋相模守様御望元禄十六年五月二平田直右衛門樋口佐左

衛門方ふ書状相添松村弥乎太方へ申遣ス

(朱)右之内御水指一一御焦し入五右之土形共二頃日相達候付宝永三年

戌正月以酎庵迎イ高勢宅兵衛乗リ船住吉丸便二江戸表江差越之

右者大嶋伊勢守様御望元禄十六年江戸表杉村一―一郎左衛門大浦忠

左衛門方ふ申来候付同年八月平田直右衛門方ふ松村弥平太方へ

申遣ス

一茶碗壱青湖ノ文字

右者金地院役者玉隠和尚望元禄十六年杉村一ー一郎左衛門方か弥平

太方へ申遣ス

(朱)右茶碗五ッ丙戌二月廿四日御迎縣知磯

ニ江戸江差越内三ツ先様江者遣之

一茶碗形―――

一水指形弐

但余計共ニッ宛

但余計共ニニッ宛

江戸時代の日朝交流(上)

木形有之一枚ハ菊の絵様一枚ハ輻逼

一水次

一水指

但土薬青磁浅黄か

(朱)一牡丹花生二十鑑之形有之き白色ニメ文字も

右者日光御門主様御望宝永元申年江戸表二而大浦忠左衛門方へ

御使者を以被仰付候付則弥平太へ方申遣ス

(朱)右之内青磁手三本白手弐本都合五本出来参候付宝永二年酉ノ十月石田

甚右衛門便二江戸表へ差越之

右之内黒手五本白手二本柿手六本出来参候付宝永三年戌正月以酎庵迎

イ高勢宅兵衛乗り船御手荷船住吉丸便二江戸表江差越之

右之内白手柿手合拾本丙戌二月廿四日御迎縣船便阿比留伊右衛門江相

渡江戸表江差越

尤錫之御本形壱相添遣之

一松竹梅筒茶碗

一熊川作こまり成くわんにう入

一いらほ作内二白きはけめ

一すたれ筒茶碗ニッ鯉麟

一四角皿拾枚

右者安藤筑後守様御望宝永元年平田直右衛門方ふ松村弥乎太方

へ申遣ス.

認霜字渭

右者狩野養朴望同年杉村三郎左衛門方ふ弥平太方へ申遣ス

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一浅黄かた手茶碗壱ツ

一砂物鉢壱

右者中山平右衛門様御望宝永元年乎田直右衛門方ふ松村弥平太

方へ申遣ス

(朱)朱点ノ分相添

一根附五ッ函躍%望麟暉焼付候皿弐色

一何成共高サ六七寸くらいそれよりひくきも取ませ

一緒メ十ヲ卓香炉三ッ

一香炉壱一呻麟項製付拮校口水次壱

一花入壱云醤距年噸輝付恰好何にても不苦候

右者永井讃岐守様御望宝永弐年四月平田隼人杉村三郎左衛門方

ふ松村弥平太方へ申遣ス

(朱)内根付四緒i十ヲ出来参候付宝永三年四月町船便二遣之

其後朱点之分宝永五戊子四月ーー遣之

一薄柿茶碗壱

一金海茶碗壱

右者土屋相模守様御望宝永弐年六月杉村頼母便二松村弥平太方

へ申遣ス

(朱)蝕難鰐霞饂豆蹟翌臨匡畔罪翌酎庵迎高

一釜参ロ

一銘酒徳利参

右者以訂庵植長老御望彼方ふ御注文ハ無之候出来合候を右之員

数御所望被成度由被仰聞候へ共今程愛元へ右之品有合不申候付

宝永弐年十一月廿八日之書状二而平田隻人方i松村弥乎太方へ

申遣ス

(朱)右之通出来参候付宝永三年丙戌三月廿四日隼人方5手紙相添被遣之

(朱)

一御盃台弐木形共二御注文もの不残相済ム

右者稲葉丹後守様御好也旧冬弐出来参候付旧冬十一月十九日小

川与一兵衛便二江戸表江差越候得共又々今度出来参り殊焼色も

宜候付宝永三年戌正月以酎庵迎イ高勢宅兵衛乗リ船住吉丸便ニ

右之御盃台弐ッ同木形共二江戸表江差越之

是ふ跡一包

一香炉五内壱ッ^ふた香炉

一花入弐

•-ノ‘

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鋳遥

名酒

御猪巳一

名酒

御旛ロ三江

戸時代の日朝交流(上)

名酒御猪口一

白手六シ

青磁六シ

若松染付

牡丹浮彫

御香炉

柿ノ手

ツボ香炉拾ヲ

縄簾手

雲篭手

(写真1)

柿白手手拾拾五五

桐四ツ目結御紋

松竹梅染付

白手拾ヲ

柿手拾

桐四ツ目結御紋

(写真2)

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松竹梅縄簾手

白手拾ヲ

柿手拾ヲ

(写真3)

青磁手参ツ

外二耳付参ツ耳見合

御花入

(写真4)

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御花入

+廟>'~苫菩:

青磁手ニメ参ソ

外二耳付ニメ参ッ耳見合

江戸時代の日朝交流(上)

(写真5)

御名酒徳利

l

是ふ跡一包

名酒徳利拾ヲ

内六ッハ松竹梅染付

同弐ッハ技菊

同弐ソハ牡丹折技

何茂白手ニメ

(写真6)

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内弐7

ハ耳附ニメ耳見合

青磁御花入五ツ同弐ッハ彫物見合

同壱ソハ無地

(写真7)

一茶釜壱

一水指弐

(朱)戊子年五月十二日佐左衛門方5手紙相添為持遣之

松村弥平太殿

右者九月九日朝鮮御横目鈴木少左衛門へ相渡遣也

右御幡御注文紙形左記之

一御茶碗紙形五枚

一御香炉紙形五枚

一御花入紙形四枚

一御名酒徳利紙形壱枚

一御名酒猪口紙形三枚

一御盃台紙形壱枚

樋口佐左衛門

右御幡紙形都合弐十枚相渡候来年御参勤前出来可被差渡候江戸

表へ御持越被遊候御用二候間可被得其意候以上

戌七月三日

一掛花入壱

一卓香炉壱

一独眼茶碗拾五

(朱)宝永四丁亥五月二出来参五月廿八日ニ

樋口佐左衛門方5手紙相添為持遣之

(朱)戊子年五月十二日佐左衛門方5

為持遣之

(朱)宝永四丁亥五月出来参五月廿八日

樋口佐左衛門方5手紙相添為持遣之

一御小天目紙形壱枚

10

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(写真8)

一袖香炉ノ蓋壱

右者以酌庵関仲和尚御誂御注文

右之模様等之義ハ彼方へ弥乎太被召寄委細被仰合候故此度ハ右

之書付斗差越ス

右同便二朝鮮弥平太方へ差越ス

講之内ノ

あミかさなり薬うす

浅黄ノ様二相見へ候

外之

捩様

(写真9)

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右弐色飯高七左衛門様御頼平田直右衛門奉り右之手本焼物弐シ

壱箱一一入戌八月八日松村弥平太方へ為持相渡ス

鰯鐵癩懲鰯蕊譲躍鍵霊蕊躍謹霧鰯溌湧鰯鰯鰯鰯溌

牢巨今さ蕩撚

一一一

(写真10)

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江戸時代の日朝交流(上)

(写真12) (写真11)

右大香炉御注文左記之

一獅子大香炉青磁十五

但絵様裏表二獅子弐疋彫上ニメ

一寿之字大香炉白薬十五

但丸か内惣白地寿之字彫上ヶおりいれ地紋浅黄薬寿之字朝鮮人

之内手跡宜を被致吟味真文字二為書用可被申候以上

九月三日

松村弥平太殿

右ハ九月九日朝鮮御横目鈴木少左衛門二相渡遣也

右之御燿以後之御替御用二被仰付事二候間随分念入微弱二無之成程

根冷出4古苺恨

高立ハ寸八分半

樋口佐左衛門

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御用御名酒

猪口形三枚

之内

此形二而外

三ッ入子

一通り

(写真13)

丈夫ニメ見掛花奢二有之候様二焼可被申候御急被成事二而者無之候

問先達而被仰付置候御急キ之御播被相仕廻候後焼可申候尤香炉之大

キサ紙形二相違無之様二焼候様二与申遣ス

(朱)一宝永一_一丙戌十一月木寺多吉便二松村弥平太方へ差越候紙形左記之

此形二而外ニ

三ッ入子

一通リ

御用御名酒得利形三枚之内

白薬

宝尽し

此形

1

一而五ッ宛

一四

(写真14)

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江戸時代の日朝交流(上)

(写真15)

御茶碗同同同同

一白手一浅黄手一柿手一白手鎌暦一浅黄二白暦

但シ模様〈松竹梅宝尽し花暦なわすたれ折入又〈寿ノ字を二方

ト三方二付候而大サ見合

右之外色々之手ニソ大振小振二奇麗成様二焼惣数百程

宝永四丁亥春以酊関仲和尚御誹之焼物紙形左記之

(朱)

一御袖香炉百程臓州伽臓砒期州職禍釧細州三

但シ模様右之通一一ソ

ひとへ口口よせ色ノ、足志ほらしく柿手白手浅黄手青磁又〈ほり

上地紋等可然

右之御焼物随分念入来夏中二出来可被差渡候上

十一月十九日

樋口佐左衛門

松村弥平太殿

右者表御茶湯方汐御用之由二而紙形差出候を木寺多吉へ相渡シ

樋口佐左衛門汐書状相添差越之

宝永三丙戌年御献上用之御焼物左記之

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地白くすり

竹ノ絵

長筒

口さし渡髻

高サ三寸五

子三月十四日造ス

入子茶碗

ロ地うすねすミ、

16斗

高サー守一分

少1

1割菊ノ

上二同

上二同

此滴ニツ

絵井文字

模様共元

御物数寄

次鋪

ニョ

i、

地うす

ロー101列

一,01

ン商サニ寸三分脈標

梅ノ絵

pI11ヤ

地白くすり

松ノ絵

筒高サ三寸

十里聞

風諜 子

三月十四日遣之

(写真16)

丁亥五月廿七日便二差渡ス

ー宝永四丁亥五月江戸表杉村三郎左衛門方汐樋口佐左衛門方へ申参

候松平陸奥守様御注文御焼物紙形七枚左記之

奈良風呂壱手本士形

さし渡し一尺七寸

高サセ寸五分足迄

(朱)此

風呂出来兼候由二而手本朝鮮方送返候付以酊庵へ差返ス

かめくすり

きめあらに

一一ハ

(写真17)

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数七

江戸時代の日朝交流(上)

獺》藤:《鐙

香台ヨリ上ニテノ

高二寸六分

香台高サニ分五リン

ロ指渡三寸七分半

香台指渡一寸二分

浅黄薬糸目一シ

浅黄薬三嶋一シ

青薬赤薬交テ

ーツ

数八

雲凶シ

ロ指渡三寸八分口より

下江七八分程下ヶそれより

下紙形のことくひつミなし

番台指渡壱寸二分

黒薬三嶋一シ

薄黒浅黄取合三シ

歸膳琴

(写真18)

数七

白薬糸同一シ

赤キ浅澁一シ

浅黄無地一ッ

喬台より上ニテ/

商二寸六分

間台滿サ八分

1上岨芝り1.、.j

rⅡIl4J、汁y、叩,『、Jノノノ

悉台指渡二寸川分

、より八分朧下ヶそれより

下丸ク

数七

薬三嶋一シ

、薬二青薬一シ

青薬二絵様一ッ

番台ヨリ上↑芋/

商二寸五分

番台商サ四分

口指渡凹寸九分

香台擶渡二寸二分半

ひつミ有り

(写真19)

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数五

香台ョ?上ニテ

高二寸七分半

香台高竺一分

口指渡四寸一分

香台指渡一寸分中

紙形のことく下江丸ク

ひつミ有へらめ

白薬

青薬

宝永六年五月十六日御国

出田船便二差登ス

香台共ニ

高二寸三分

口指渡四寸三四分

一方二ひつミ有

香台指渡二寸

数六

薬立赤と浅黄色

右ニッも一

1

一ツも

(写真20)

数七

香台ョリ上ニテ

高二寸六分

香台古四四分

口指渡三寸九分半

香台指渡一寸七分

少はたぞり

一八

(写真21)

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丁亥七月廿日村勢万右衛門江相渡松村弥平太方へ遣之

士屋相模守様御好焼物士形注文控左記

右宝永四丁亥五月廿七日佐須奈御横目頭志賀雲八便二弥平太方へ佐

左衛門方汐書状相添差越之

江戸時代の日朝交流(上)

(写真⑳の下段の朱注)

(朱)

宝永五戊子五月十日

右朱点之分出来候付京都御元方書付金

子九左衛門便二差登御望〈壱シ、与紙

形二有之候へ共道中損シ之儀も有之候

故余計共二弐シ、都合廿八差越余計之

分〈被扣置一シ、被遣候様二と采女殿

方へ三郎左衛門方方申越ス右之内二色

未拙来不申候重而到来之節遣之申筈也

;蕊出(朱)来

面取姥口水次壱

(榊晦鋸嶋上ノ廻り二

半等¥帥

砦呈上呈鼎和1J

壁士1 1 1余鶇壁士1 1 1余鶇

惣ノ高サ五寸五分

此間高サ三寸三分半

君至洲騨'八{くわ隅索フタト緯迄ノ間一寸八分

ブタ差渡二寸六分

ロ・r0o0od。d戟必P

F恥華秀,認

画①r●■■e■

宇粍・認・謎会

■●PかP■■の

企むいかかかか一

寺の

』。殆$皿

灘君霊ヨヤ<余

(写真22)

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菫(朱)

菱形水次壱

はけめか

古備前などの薬色か

杉苫

瓢策形水次壱

此-

但ン巴ひしのすかし

紋なし雲姦薬替りか

狂言はかまか

‘.l 朱(

出来 フ

タノ内二薬かけ候て卜書付有之

二0

~~· 屯蔀芦¥JIヽ 山界

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相模守様御好之半田十之図上卜横方見候図御注文二参り候手本写

水次注文

一菱形水次壱

はけめか古備前なとの薬辺か

(朱)

一面取姥口水次壱余計弐シ朝鮮方出来二付子四月江戸へ差越之

上へ二シ之水次出来参候付宝永

脇を三嶋上の廻り二折入紋四丁亥十二月中山平六吉野

儀衛門便二江戸表へ差上之

一瓢箪形水次壱

但蓋二菱のすかし

紋なし雲霞薬替りか

狂言はかまか

杉村三郎左衛門方方付紙二

瓢箪水次取手土形之通二而〈小ク候而惣躰之取合方ハ物弱ク相見へ候故

水一盃入候〈、損し候義も可有之哉と思召候間今少大キニン惣躰二取合

能様二但蓋薬掛ヶ候所士形書付置候蓋〈蓋置二御用被成候間其心得二而

薬掛可被申候

一惣躰右之士形より少小ぶり二

以上訪瑚鰍紺珊姻就臘庄晩撚噸談朏貯鮒昨加だか瓢紳蝦輔紺雌

江戸時代の日朝交流(上)

霧鰯睡鰯鍵鰯鍵躍蕊鍾鐘躍躍躍謹溌躍躍鰯F虎口・珀口抄。、・・ず,L●■●す

ダニューーー『、トヘペ、'''+〕余

上ヶ見候図 等

“v、こ毎Y郡

部一鉢

余索

》市シ州

e-ro一ド

ン川ヨヘ

キ魚く

領平トゴ

い望灘

、抑淵

便今、

鴬巨

半田壱

当余興K"'、r<=、、+熟』倖吾

高サアシトモニ

三寸四分

ねスミクスリ

ナタレ有之

一一一

脇合見候図

シ7.ン

漁両サハ

分余

(写真25)

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議霧

i御手本絵図之写

蕊聖駕"入遇'''、IE'I !卜隅ヤョボ

蕊 蕊譲蕊蕊鵜篭鰯

高サ弐寸壱分

三此ソ模様十之内

程、、

蕊燕舞鐸癖癖嬢鱗鐸嬢鱗癖耀罐鐸鑑舞織癖織鱗織癖鑑識癖

(写真26)

右半田十ヲ土鍋拾ヲ去年亥九月以来段々出来今度相残候分俵五郎左衛門便二

至来

半田土鍋御注文

(朱)

一半田拾ヲ剛鍬”弦岫朋細秤冊嵯蠅藤九郎便二差越ス

内三ツハ御本之形二無相違薬色ハ外半分〈薄茶薬掛

同内半分二薄茶薬掛内外薬掛分ニソなたれ薬〈鼠色濃柿薬

かめ薬ニソ残るセッハひづミニ所又〈一所一一も仕候而薬掛様

も色左|一ソ惣而此本寸法二至迄無違可被申付候

(朱)

一土鍋拾ヲ内四シ亥九月江戸へ差越

内三ツハはたか焼一一ソひづミの所二茶薬又〈かめ薬濃柿薬なた

れ付可被申候

残るセッハ惣二薬掛候も又〈半分二掛候も色々二可被申付候惣

而半田小土鍋共一一白薬浅黄薬〈無用二可被成候

右之前士屋相模守様御好候条念入早を仕立テ来ル九月前二此許二

相届候様二急キ可被申候以上

亥五月廿三日

以上

一宝永四年丁亥八月江戸表杉村三郎左衛門方方樋口佐左衛門方へ申参候士屋

相模守様御注文之扇皿之絵図寸尺模様此図之通

一一一一

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江戸時代の日朝交流(上)

裏之図寸尺模様如此

(写真27)

(写真28)

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右扇皿之注文(朱)

戊子四月御手船上乗藤九郎便

ニ差越候余慶二十五差越也

扇皿数十枚

一大サ土形之通

一惣地薬玉子手之薬ニ

ー内二宝つくし紋五ツ程ツ、ちらし絵図之通

ー外ノ操二筋二筋絵図之通

右之通丁亥八月晦日江戸表杉村三郎左衛門方5申参ル

但注文ハ扇皿土形入候内箱之裏二書付有之

(虫喰)

右之御注文土形入候箱油紙包ニメ九月十日鰐浦村船戻り便村船々頭

七郎ニ

相渡鰐浦御横目方迄差下尤右油紙包土形入先便次第松村弥平太方へ被差渡候

様二与佐左衛門方5御横目中へ書状相添遣之

右子ノ四月相残ル分至来皆済

宝永四丁亥年十月朝鮮松村弥乎太方へ遣之

四方形天目図

澤戊子四月江戸へ六ツ

差越相済也

此舟ノ字

四方面ニ

一字ツ、

有之

ニ四

(写真29)

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宝永四丁亥十月江戸表ふ参候土屋相模守様御誂之御熔御注文左記之

七月廿九日

樋口佐左衛門殿

江戸時代の日朝交流(上)

一同形ニメ六ッ

浅黄手ニメ丸紋四方二付雲露之絵様惣二毛彫ニメ尤紋雲露ハ

白薬ニメ

一同形ニメ六ッ

白手惣二松竹梅染付ニメ但土形損シ候付ひづミ申候恰合宜焼立候

様二可被仰聞候

右^縣宗知好二而御座候間朝鮮江被仰越出来次第可被差越候以

(虫喰)

字紋稲妻筋共二白薬ニメ香台

内斗_一薬掛けず

一四方形天目壱ツ

柿手ニメ六ッ

(朱)相済

右縣宗知好之四方形天目土形之写注文左記之

杉村一―一郎左衛門

牡丹立筒之大サ

二五

(写真30)

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一花一輪立ニメ筒台共二丸ク数弐十

内拾ヲ赤柿薬

同拾ヲ白薬

右御好之御注文左記之

(朱)右之牡丹立余計共二ニ十二宝永六己丑正月浜田源衛門便二江戸表へ差越ス

但筒之大サ高サ台之寸法等紙形之通台_一絵図之通寿之字ヲ古文

字二而赤柿之薬ニハ白薬――而書白薬ニハ浅黄薬二而書文字之薬

濃ク候而ハいやしく可有之候間濃ク無之様二可被仕候

右之通当年中_一致出来侯様可被申越候以上

牡丹立台之大サ

(写真31)

府内八幡宮瓶子之形

一地色白成共青成共

一図ー一書付候八幡宮之一_一字を青色二焼付

一同様ニメニ対永代迄之神物之義二御座候間焼加減能様被成可被下

候以上

一菊か若松か鶴か之絵を青色―ー焼付

一各四合入ニメ

亥九月十六日

樋口佐左衛門殿

杉村三郎左衛門

二六

(写真32)

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藤内蔵助

右之通寺社奉行樋口内記を以願出候付被差免亥十二月五日松村弥乎太方江

申渡尤注文本書遣之

一水指壱

一筒茶碗一――

一三入子小茶碗三組

一焼釜―――

右者関仲和尚御注文之分頃日朝鮮表ふ出来参候付子ノ五月十二日

樋口佐左衛門方ふ手紙相添御徒使二而為持遣ス

江戸時代の日朝交流(上)

二七