持田 正覚寺 三十石 -...

38
1 VOL52 仏教 中編 目次 仏教 中編 1 御朱印寺 2 長久寺 3 清善寺 4 遍照院 5 正覚寺 6 龍淵時 7 熊谷寺 8 真観寺 9 東竹院 10 浄泉寺 11 照岩寺 12 法性寺 1 御朱印寺 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。 朱印状に依って所有権を確認された土地を御朱印地と云った。 今川とか武田とか北條とかの武将も用いたが、勢力圏が限定された関係で或る地方だけに限ら れたが、織田信長に至りその勢力が広大であったのでその効力も偉大であった。 豊臣秀吉が一度天下を統一するや、その用いた御朱印の威力は全国的である。 徳川家康は浜松城主時代から用いたが、将軍となってからはその朱印の威力は全国に及んだ。 以来歴代の将軍皆公文書に朱印を用いたのである。 江戸時代、社寺の確認された領地には御朱印状が下付されたので、専ら社寺領を御朱印と呼 んだ。 社寺の御朱印地はその土地から生ずる租は社寺に納入し、山林の竹木は社寺で伐採し、又人 夫の徴発も出来た。 但し徴収の租にも制限があり、社寺以外に使用は禁止された。 又、売買質 入れも禁制であった。 徳川時代、黒印もあってこれを、御墨付きと云った。 御朱印状も将軍代替えには一々書き改め たものである。 行田市内の御朱印寺は四ケ寺であって、 長野 長久寺 三十石 佐間 清善寺 三十石

Upload: others

Post on 15-Jul-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

1

VOL52 仏教 中編

目次

仏教 中編

1 御朱印寺

2 長久寺

3 清善寺

4 遍照院

5 正覚寺

6 龍淵時

7 熊谷寺

8 真観寺

9 東竹院

10 浄泉寺

11 照岩寺

12 法性寺

1 御朱印寺

御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

朱印状に依って所有権を確認された土地を御朱印地と云った。

今川とか武田とか北條とかの武将も用いたが、勢力圏が限定された関係で或る地方だけに限ら

れたが、織田信長に至りその勢力が広大であったのでその効力も偉大であった。

豊臣秀吉が一度天下を統一するや、その用いた御朱印の威力は全国的である。

徳川家康は浜松城主時代から用いたが、将軍となってからはその朱印の威力は全国に及んだ。

以来歴代の将軍皆公文書に朱印を用いたのである。

江戸時代、社寺の確認された領地には御朱印状が下付されたので、専ら社寺領を御朱印と呼

んだ。

社寺の御朱印地はその土地から生ずる租は社寺に納入し、山林の竹木は社寺で伐採し、又人

夫の徴発も出来た。 但し徴収の租にも制限があり、社寺以外に使用は禁止された。 又、売買質

入れも禁制であった。

徳川時代、黒印もあってこれを、御墨付きと云った。 御朱印状も将軍代替えには一々書き改め

たものである。

行田市内の御朱印寺は四ケ寺であって、

長野 長久寺 三十石

佐間 清善寺 三十石

Page 2: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

2

持田 正覚寺 三十石

下忍 遍照院 二十石

忍領内としては

上之 龍淵寺 百石

熊谷 熊谷寺 三十石

久下 東竹院 三十石

下川上 浄泉寺 二十石

上新郷 法性寺 十五石

小見 真観寺 十石

神社としては

上之 久伊豆神社 二十石

熊谷 高城神社 十石

以上である。 その朱印地の面積及び収入等に就いては所領の土地関係で多少の相違はあるが、

持田村正覚寺の記録によると、三十石で

一、田二町七反七畝十八歩

一、畑一反七畝六歩

合計 二町九反四畝二十四歩

であって 小作人が16人である。 これで見ると大体は十石が一町であるから百石で十町と云う

勘定である。

2 長野 長久寺

応珠山擁護院長久寺は、新義真言宗である。 寺領三十石の御朱印寺である。 関東十一談

林(古来からつづく格式である寺格)の一つであった。将軍代替りには、帝鑑の間で住職は将軍に

謁し時服二領(そろい)を賜うのであった。

創立は文明年間で、成田下総守顕泰が開基し、開山は通伝である。 通伝は文明七年(1475)

の遷化である。

顕泰は忍築城の志望があって、鬼門鎮護の道場を建立し武運長久を祈り、寺名も長久とした。

長久寺の旧記に応永年中成田五郎家時建立とあり大壇那顕泰とある。 この旧記は宝暦十二年

(1762)九月に原島沙門宝冑が記すものである。 察するに、これは成田家中興の英主であり祖父

である家時に、開基の功績を譲って顕泰は大壇那となったものと思われる。

寺院を建立することは、大功徳があるとされたのであるから、これが祖父家時に対する供養の

大であった。 それでかかる事は多く珍しくないのである。

長久寺の本堂は、天正十八年(1590)石田三成が忍城水攻めの時兵火に焼けたが、忍が開城し

て後に忍城主となられた徳川家の御連枝である松平忠吉は天正二十年から九ヶ年在城した。

当時長久寺の住職は四世重敒(じゅうちん)であった。 重敒は名僧であって忠吉の帰依殊に厚く

寺堂の再建も成就した。 慶長五年(1600)忠吉が清州へ移封に際し、重敒は召されてお伴し清州

に長久寺を建てた。 後名古屋に転封したので長久寺もまた名古屋に移った。 現に名古屋市東

区長久寺町にある。 徳川御三家尾州侯の菩提寺であった。 重敒は元和五年(1619)六月十九

Page 3: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

3

日の遷化である。

松平伊豆守信綱は寛永十年(1633)忍城主となり、十六年まで在城した。 信綱の長子を輝綱と

云う。 輝綱の男を信輝と云った。 この信輝は長久寺五世宗吽(そうおん)の甥に当った。 この故

で梵鐘を寄進した。 梵鐘に元禄七(1694)年、施主江戸吉野喜兵衛、鋳物師佐野半澤とあったそ

うであるが、信輝寄進のものは大破したので、再鋳したとあるからこの文字は再鋳の時のものであ

ろう。(吉野氏は後に長野村に居住した。) 惜しいことに太平洋戦争時に金属が不足し供出したの

で今は無い。

延享元年(1744)三月八日の夜、本堂、客殿、庫裡が残らず焼け、ただ阿弥陀堂と門と土蔵だけ

残った。 梵鐘は幸いに免れた。

宝暦四年(1754)二月十七日に再建した。 この事は仏殿建立供養塔が現存している。

この再建は十三世光浄の代である。 師は光如で名僧動潮の兄弟子であった。 光浄の再建努

力は非常なもので、自ら土を運び石を運んでの労力奉仕である。 加うるに光浄の代には境内地

境界の訴訟が起こり、光浄が心血を注いでの訴状もむなしく敗訴に帰した。 光浄は土地を失った

Page 4: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

4

ことを恥じ縊死(いし)したのである。

また天保十一年(1840)十月三日の朝五時に出火し、本堂、客殿、庫裡、護摩堂、鐘楼皆々焼失

し、残るは、門、土蔵、長屋だけであった。

再建は弘化五年(1848)一月十三日で、二十一世英如の代である。 これが現今の堂宇である。

明治二十八年瓦葺きとなし、大修理を加えた。 猶近時増築しよく清掃してある。

旧幕時代、長久寺門前は桜の名所であった。 門前に土手があり桜があった。 藩中の歌人・加

藤古風(ひさかぜ)の門人で大熊一杖の自撰歌集杖郷百首に 「御仏の 光をそへて 庭桜 長

く久しき さかりあらませ 」 とある。

(参考 第六節 松平家の制度その他 歌人と詩人)

(史跡)

藩儒 芳川波山と近藤棠軒の墓石がある。

(寺宝)

一、 白檀仏眼菩薩座像

(写真を入れること)

忍松平侯の祭祀する東照宮の守護寺金剛寺の本尊であったもの。 明治6年取り崩しとなり長

久寺に移したものである。 仏眼菩薩は開眼の時には無くてならぬ定めである。 製作年代は徳

川初期の優秀なものだ。 天祥寺達磨像と同一人の作でないだろうか。

一、 写経大般若経

(大般若経 奥書の所を写真として入れる)

奥書に「武州児玉郡塩谷郷阿那志村(現美里町)円福寺に於いてこれを書写す。当住持祐重、

聖釈氏徳梁監寺。

本願壇那桜沢雅樂助(うたのすけ)入道沙弥(しゃみ)性善、同内方(うちかた=奥さん)楠子。大塚

次郎左衛門尉(じょう)貞能、各々檀那にこれあり。干時(ときに)明応七年(1498)戊午(つちのえうま)

七月二十五日敬白。石川入道沙弥道慶。」とある。

今を去ること四百五十四年前のもので十五世紀の終わりである。

写経も我国の初期は筆生を養成して掛ったものであるから、実に能筆で謹厳な筆致である。 中

世高貴な人の写経は 初だけが自筆で、大部分は代筆であるから実に美事なものである。 時

代が降って鎌倉殊に室町時代ともなれば、いく度もの火災にも罹(かか)らず仕合せ(好運)であっ

た。

一、 兆(ちょう)殿司(でんす=仏殿の事を司る役僧)筆 羅漢像二幅対

Page 5: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

5

(兆殿司羅漢像二幅写真二枚入れる)

箱に「京都東福寺殿司明兆筆。谷郷清水宗寿居士。元文年間寄進。」とある。

明兆は画僧である。 淡路の人で東福寺の大道禅師に学んだ。 応永年間東福寺の南明院に

住し本寺の殿司となったので、人呼んで兆殿司と云うのである。

画風は李龍眠の流れを汲み、彩色した仏画が多く全然趣が異なり、早書(はやがき)となり文字の

上手よりも大部の写経を完了すればよいのである。 而して硯の水を聖地等に求め、又筆を選ぶ

などに力を注いだ。 長久寺の般若経はこの時代色がよく現れている。 文字は多人数で書いたも

のであるが、然しなかなか達筆である。

現在折本であるが、以前は巻物であったということである。 惜しいことに初巻が失われた。 長

久寺四世重敒が購入したもので、今は無い。 永享三年(1431)の遷化で享年八十であった。

兆殿司は涅槃像を画かんとしたが、依るべきものが無い。 大陸に渡らんと志し、稲荷橋まで行く

と一人の僧が「何れへ行かる」と問う。 殿司は実を語る。 時に僧一軸を取出し、「これ涅槃像なり、

万里の波濤を超ゆる労を省くべくこれを献ず」という。 殿司は大いに悦び五色の石を磨って岩絵

の具を製し、縦三丈九尺、横二丈六尺の大涅槃像を完成した。 これ、我国の涅槃像の 初であ

る。 これから殿司の名声頗る高い。

東福寺所蔵のものも伝兆殿司筆と云うもののみである。 旧制国宝に指定されたものもある。

近年同寺所蔵の紙本墨画聖一国師像の伝明兆筆が重要文化財に指定された。

長久寺のものも伝兆殿司筆である。 とにかく室町時代のもので、珍とすべきである。

一、 動潮僧正墨蹟

楽邦殿の扁額がある。 僧正八十二史動潮書とある。 忍名所図会には、擁護院とある扁額と

あるが現今は楽邦殿とあるものが揚げてある。 両方の墨蹟は現存する。 又大日経の「不捨於

此身、如実知自心、逮得神境通」の三幅対がある。 流石(さすが)動潮僧正と、私は感嘆し少しく

座を離れなかった。 誠に名筆である。 動潮僧正の伝は沙門伝中に掲げて置いた。

一、 秀誓方丈雨乞いの龍と鉢

秀誓は長久寺十世である。 天沼に於いて雨乞いをなし、雨を降らし農民を悦ばしめた時の器

具である。 方丈の伝は、沙門伝中に掲げてある。 就ては見られたい。

一、 両界大曼荼羅 二幅

(両界曼荼羅二枚の写真を入れる)

大幅精巧であって、明人(みんじん)の筆と伝えられる。 元亀三年(1572)壬申三月二十一日忍

城中手嶋佐渡守道範寄進とある。 佐渡守は成田下総守の家臣で三千貫の大身である。 石高

にすると一万二千石である。 妻沼郷を領有し聖天様も佐渡守の寄進で堂宇は造営されたので

Page 6: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

6

ある。

この位の曼荼羅は、全国でも少ないものであって頗る貴重なものである。

一、 不動五大尊八大童子像

絹地極彩色密画、和州生駒山大徳宝山港海比丘開眼。安永六年(1777)三月十八日奥州岩瀬

村下小屋村多門山正福寺隠居尊映寄進。

一、 十二天

これは越後国上田荘泉田の人菅原氏、紺(ママ)中納言阿闍梨(あじゃり)愛厳二十歳初心の染

筆。

東寺西院末葉である武州那珂郡中沢郷秋山村宝光寺宊禅院の本尊地蔵菩薩の宝前に奉納。

願主愛尊法印。 永正十二年(1515)乙亥八月時正、享保七(1722)壬寅年迄凡そ二百五年也。

この年忍長野村長久寺第十二世光如これを修復。

この染筆は一双の屏風であって、前記の通り裏面に記されてある。

一、 涅槃像

御絵所法橋了琢筆。延宝七(1679)未年三月。施主行田町堀越氏快俊

一、 墨画観音像 三幅対

中央観音、左右は昇龍に降龍である。 狩野常信筆。 私の見るのに正しいものである。 忍城

主阿部豊後守正武が厄年であるので、元禄二年(1689)十月寄進。

一、 弥陀来迎三尊

これは恵心僧都筆。 寛文年中行田古橋吉兵衛寄進。

一、 釈迦文殊普賢三尊

狩野探幽筆。 万治三(1660)庚子年三月。 忍城中久野九門寄進。

(伝説)

長久寺に屋根のある門がある。 これは左甚五郎が建てたもので、今に少しのくるいも無いと言

い伝える。 新郷村の漆原氏の門も同じく左甚五郎の建てたものと云われている。

日光裏街道なので色々な人の通行があったのでかかる話ができたものか。

(長久寺末寺二十四ヶ寺)

小見 真観寺

仝 専蔵寺 廃寺

Page 7: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

7

荒木 東照寺

上新郷 勝軍寺 廃寺

若小玉 遍性寺

仝 恵日寺 廃寺

小針 大福寺 仝

下須戸 医王寺

谷郷 宝積寺

中里 万福寺

行田 慶性寺 廃寺

仝 長徳寺 仝

長野 多福寺 仝

仝 林泉寺 仝

仝 明王院 仝

仝 吉祥院 仝

仝 成就院

埼玉 長永寺 廃寺

仝 延命寺 仝

仝 盛徳寺

野村 満願寺

屈巣 真福寺

斎条 宝泉寺

白川戸 西明寺

以上二十四ヶ寺で内半数の十二ヶ寺が廃寺となった。

長野村は一口に三千石と云われた大村であった。 同村中には、長久寺の下寺の外一ヶ寺もな

かった。 以下順を追って述べる。

2—1 成就院

長久寺末の寺で、小針沼に近い新田に成就院はある。 珍しくこの寺には朱塗りの三重塔が聳

えている。 実に行田の名所で家族連れのハイキングに好適である。 県内に三重塔としては西

吉見黒岩の光明院と北足立戸塚の西福寺の二つで、外に児玉の金鑚神社に国宝の多宝塔と川

越喜多院とに一基あるくらいである。

成就院の三重塔の年代は、偶然扁額の裏の文字から享保十三年(1728)三月当山五代法印芳

宥の建立と判明した。 今を去る二百二十年前の建造である。 同じく額裏に、流(ながれ)新田開

発元亀三年(1572)、天正元年(1573)、当所住居新井重左衛門とある。 元亀は三年で天正となっ

ているからこの二ヶ年間に新田開墾をしたものと思われる。

(三重塔の写真を入れる)

Page 8: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

8

又扁額の一首は当所開発の人、新井重左衛門政信より八代の孫、新井金左衛門官道辞世也。

明和三年(1766)戌正月吉日とある。

ふかくとも まいりておがめ 観世音

つみはながれて 諸願成就す

とある。 この額は百八十年も以前のものである。

この土地は小針沼に近く、昔は沼沢地であったらしい。 流新田の語がこれを証明している。 増

水すると田が動き流れるのである。 それでその名がある。 現在でも館林の沼には流田がある。

増水期には田の位置が変わるのである。

元亀・天正年間は戦国時代の中心である。 新井重左衛門は何所(いずく)の人か知れないが、

戦を避けてこの地に来り開墾に精根を傾けたものと思う。 今から丁度三百七十年も前のことであ

る。 この新田開墾の恩人である重左衛門の墓を探したが見当たらなかった。 聞けばこの付近の

叢林(荒れた林)の中に数個の古碑があって新田で一番古い人の墓だと云っていたと、古老は語る

がその墓も今はない。 昔のものは上部に梵字を彫り下部に慈父慈母の菩提の為とあるだけの供

養塔だから、当地開発の恩人のものと知らず近代に至り取り捨てたらしい。

この重左衛門と同年代に敒宥(ちょうゆう)と云う僧侶がいて、五智山成就院と云う寺を建立した。

これが当寺の開山である。 而して敒宥は慶長九年(1604)三月十四日の遷化である。 重左衛門

の帰依僧であったらしい。 戦国時代の宗教界は神道も仏道も遺利(いり)を開発し利用厚生に重

点を置いて 民人(たみびと)の困苦を救済するに力を尽したから、この両人は僧俗共々力を協(あ

わ)せて開発に努力したものらしい。 僧階も法印で、 上位で今の僧正に該当するから、立派な

僧侶である。

成就院はその後天明年間(1781~1789)に火災に罹った。 幸いに三重の塔は無事であった。

境内に大きな樫の木があって、人の出入り自由な大きなウロ(洞)がある。 天明の火災に焼けた

跡であると古老は教えてくれた。 確かに樹齢三百年位と思われた。

三重塔下に立てば新材を以て補修されているのは一抹のわびしさを感じさせる。 奈良の古塔

は上層へ行くに隨て(したがって)つまって居るが、徳川期のものであるので各階層皆同じである。

軒は繊細な繁棰(はんすい)である。 斗栱(ますぐみ)は各重とも三手先、二重三重に匂蘭(ゆうら

ん)がある。 屋根は当初は杮(こけら)板葺きであったが、今は銅色に塗ったトタン板になっている。

これは改修する必要がある。 今後は銅板にしたい。 屋上に聳える相輪は無事である。 正面の

開き戸上部の檽(うだち)窓は見事である。 三層に補陀閣(ふだかく)と麗しい文字の額がある。

塔内下層に安置してある被葉衣(ひようえ)観音は、寛永十六年(1639)正月阿部豊後守忠秋公

が下野国壬生から武州忍城へ移られた時、この地に疫病流行する由を聞かれ、常に護持せる観

音をここに祀られたのである。 それから流行病跡を絶ち民庶(=庶民)は心を安んじたのである。

この事を感謝する和讃(わさん)の一節に

壬生より招来したまへる観音菩薩を安置なし、平癒を祈らせたまいけり。 七日七夜の御祈念

に利生あらたに現れて、さしもはげしき、いたつきも、いつしか絶へし不思議さよ。

とあるのを見ても当時の事が偲ばれるのである。

それから近郷近在の信仰を集めたのであった。 今も参詣する人は少なくない。

Page 9: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

9

その外に白衣観音が安置されてある。 白衣とは一般俗人のことで、俗人姿の観音と云うことに

なる。 人々は子育観音として信仰の厚いものがある。 製作年代は鎌倉期のものと思われる。

鎌倉時代に見られる人間的なもの、我意的なものが感ぜられる。 仏の姿と云うよりは仏道修行中

の人間という印象を受ける立派な作で、支那服で子を抱いている様が面白いと思う。 行田市とし

ては、珍重すべきものである。

(白衣観音の写真を入れる)

成就院は真言宗だから元来なれば多宝塔であるべきだが、三重五重の塔が真言宗にもあるに

はあるが少ないのである。

昔は小針沼が近くまで来ていて、一望際涯(さいがい)なく水波を畳み、朱塗りの三重塔が輝いて

いたそうである。さもありなんと思われる。

猶成就院が支配するものに弁財天と稲荷社とがある。 弁財天は古墳上で除地(租税免除地)二

十一歩、稲荷は社地五畝歩、境内には観音堂があった。

2—2 多福寺

田幡にあった。 除地一反歩。 明治二年廃寺となる。

2—3 玉蔵院

橋場にあって、除地二反五畝歩。 薬師堂を支配した。 薬師堂の除地一反一畝二十四歩あっ

た。 同院はどうも薬師堂の守護寺と思われる。 又道祖神があって除地十四歩。 明治九年廃寺

となる。

2—4 林泉坊

所在地は林(長野のはやし地区)、除地一反歩。 支配下に白山社と木の宮とある。

白山社は社地一反八畝歩。古墳上に社殿があり、石段、石の鳥居があった。

木の宮は社地二十七歩。

このほか薬師堂があり、堂下一畝十歩。 これも明治二年廃寺となる。

2—5 明王院

所在は万願寺である。 長久寺の隠居寺で田が三町もあったと云う。 除地三反歩。 支配下の

社が九つ、仏堂一つあった。

天神社 万願寺所在、社地二反三畝十歩

天神社 大下(おおしも)所在、社地一反三畝二十五歩

白山社 白山組所在、社地一反九畝一歩

東権現 吾妻所在。徳川家康鷹野の折りに小便をされた所と言い伝える。

社地一畝二十一歩

神明社 神明耕地所在、社地二畝二十歩

Page 10: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

10

弁財天 新田忍川落川床に在る。 社地一反八畝一歩

神明社 新田所在 社地二畝二十四歩

善光寺社 新田所在 社地二畝二十八歩

稲荷社 新田所在 社地二畝二十歩

阿弥陀堂 現今は林に在る 堂地九歩。 旧地明王院境内。

明王院は明治初年長野村の学校を置いた。 明治六年廃寺となる

2—6 吉祥院

大下(おおしも)に在った。除地一反歩。 支配下に毘沙門があって、除地六畝二十七歩。 明治

六年廃寺となるも半棟が残っている。

この外長野村には、愛宕社があって、社地一畝二十九歩あった。 神主の高木信濃守が預かっ

ていた。 高木は城鎮守諏訪の神主である。

又馬医の又四朗が祀った天王様がある。 社地二畝十八歩あった。

2—7 田幡阿弥陀堂疣(いぼ)地蔵尊

享保三年(1718)九月十日建立。法印秀敒(ちん)とある。現在は地蔵尊だけ立っている。 線香を

あげるものが絶えない。 この線香の炭を貰って来て疣に付けると、何時とはなしに落ちるとて有

名である。

3 佐間 清善寺

成田顕忠(あきただ)の父、五郎左衛門資員(すけかず)は永享年間に死去したが、この時未だ胎

内に在って父の顔を知らないのであった。 幼名を六郎次郎と云い、兄の顕泰(あきやす)も幼稚で

あって従臣に助けられていた。 顕忠は生まれつき聡明であって兄の顕泰を父の如くに敬うので

ある。 顕泰も弟の顕忠を深く愛した。 後に顕忠は任官して刑部大輔となり、下総守顕泰の弟で

もあるし器量もあるところから、ある時は陣代として出陣し、又或る時には城代として守備を固め、

度々の戦功があった。 顕泰死去の時は嫡男親泰(ちかやす)が相続した。 この親泰が殆ど父の

如くに顕忠を重んじたのである。 顕忠は忍城の南方に館を構えた。 これを出城(でじろ)と云った。

深田を埋め立てた所なので平田廓ともいった。家中のものが顕忠を平田(ひらた)殿と尊敬して居

た。

この顕忠は深く仏法に帰依し、不犯で内食は一切しないし女は一人も使わなかった。 全くの禁

欲生活である。 だから時人は平田精舎(ひらたしょうじゃ)と云ったのである。 実にお寺様の如く

であったのだ。 六十三歳の時、身に墨染の衣をつけ清善斎全忠と号し、日常供仏読経の外余念

がなかった。

清善斎もだんだん年を取って九十才に近き時、もはや死期迫りしとて城主親泰を始めとし家門の

者及び老臣を招き寄せて申すのに、「吾は胎内にあって父に別れ、又二才で母に別れた。 だか

ら孝というはただ名だけで一度も孝養を捧げたことがない。 せめて出家得度して父母の菩提を

弔わんとも思ったが、亡兄顕泰の深き情にほだされて俗人として世を送った。 その故は大将の戦

陣に臨むや、城の守り堅くなければ敵の謀略にかかる事もあるし、又外に在って内が心配の様で

Page 11: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

11

は鉾先が鈍るものである。 さて又戦争の習いとて大将に不慮の禍あるとか、幼主をいただくとか

の場合、不肖と雖も主を補(たす)け参らせんと心に誓った為である。 幸いに現今当城主親泰は

健将であり、まことに仕合せである。 この故に枝葉血類は大切であるので止むを得ず在俗はした

が、心は法身に比して、女犯肉食を禁戒とした。 然れども戦場では若干の人を亡した。 行いと

言葉と相違する所はあるが、独身だから後の子孫の上を思わず、しかしその家に生まれ禄を食

(は)めば、武士として主と云い兄と云い忠孝の道は守らなければならぬ。 在俗しては忠孝の二道

を全うし、出家しては仏に仕えた。 一生涯の思いは足りた。 吾が死後の望みにはこの館を寺と

なし、年頃念じ奉る薬師如来を本尊とされるなれば、幸いこれに過ぐるものはない」と。 一座の

面々皆感涙を流したのであった。

永正十六年(1519)五月八日、清善斎は斎戒沐浴し座禅を組み眠るがごとくに命終わった。

下総守親泰は大いに哀惜し遺言の通り新たに一寺を造立し、平田山清善寺と号した。 これが

清善寺創立の由来である。

成田家は代々深い仏教信者であったが、特に顕泰の子に篤信者が多いのである。 清善寺の

開基顕忠は前述の如く顕泰の弟であるが、その長女の三庭尼は一生独身であって常慶院と云う

一寺を造立し、又庶子である妙寿丸は出家して大潮宗賀和尚と云われた名僧で、世間では賀蔵

主と呼んでその徳を慕ったのである。 又長泰の子内匠助泰蔵は永禄十二年(1569)に泰蔵院を

建立している。 何れも曹洞禅である。 禅風一家を覆うの概(おもむき)がある。 しかし翻って(ひ

るがえって)考察すると隆盛な成田一家にも無常を感ぜしむるものがあったのである。 関東の名

家である成田家も必ずしも幸福な生活ではなく、戦国の習いとは言いながら、この葛藤の娑姿(し

ゃば)を厭離せんとする強い心が動いていたものと思われるのである。

さて清善寺の開山としては龍淵寺の五世大翁宗佐和尚を請ぜんとしたが、和尚の都合がつか

ず止む得ず日頃清善斎の傍らにあった僧令鸞(れいらん)を仮に住せしめて置いた。 その内に城

主親泰が亡くなったので 令鸞は驕慢の心を懐(いだ)き自ら開山と称し弟子の班鏡を第二世と称

せしめた。 このことが城主長泰の耳に入ったので、長泰大いに怒り令鸞と班鏡とは寺を追われた。

これ天文元年(1532)のことである。 翌二年長泰大いに寺塔を再興し、天文三年に宗佐和尚を迎

えて開山とした。 それで龍淵寺末となった。

宗佐和尚天正五年八月の手記によると、当地内東西七十三間、南北八十五間、東南から西北

へ掛けて余地があり、西北から東南へ即ち北方から東へ構堀(総構えの堀)を廻らしていた。 堀

の幅は二間半あったとある。

成田氏没後のことは家忠日記によると、天正二十年(1593)一月十九日伊奈熊蔵が忍領上川上

まで入られ二十一日長野に来られ、二月九日清善寺に来られた。 七月には龍淵寺、清善寺、深

谷の善久坊が振舞(ふるまい)をしたとある。 伊奈熊蔵は有名な忠次のことである。 関東の寺社

の旧貫を検査したのであるから、それで来たものである。 この時龍淵寺と清善寺と善久坊とでは

慰労の宴を開いたとあるから、これを以て察するに清善寺は石田三成の忍城攻めの戦火に罹(か

か)らなかったらしい。 戦火に罹っては到底これらの人々を招待できるものでないからである。

龍淵寺も善久坊も戦火に罹らない寺である。

松平忠吉が忍城主となられてから清善寺に寺領として二十七石を寄進された。 慶長十九年

(1614) 徳川家康から三石を加増せられて三十石の御朱印を賜ったのである。

Page 12: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

12

慶長五年(1600)忠吉尾州清州に転封を命ぜらるるや、数年後の慶長十二年に病死した。 忠吉

は嗣子が無く弟の義直を養子とした。 慶長十五年名古屋城に移った。 これが徳川御三家の尾

州侯である。

ここに掲げた忍名所図会の清善寺の図を見ると、顕忠の持仏薬師如来の堂が正面に在る。 而

してその右側に円通堂がある。 これは円通大応国師を祀ったものである。 国師は入唐して虚

堂に学んだ人で大灯国師の師である。 而して大灯国師に学んだのが妙心寺開山の関山和尚で

ある。 そうするとこれは同じ禅宗でも臨済宗である。 清善寺は曹洞宗である。 古老の言による

と、松平下総守が桑名より忍に移封した時藩祖忠明の為に埼玉村に天祥寺を造立した。 しかし

城外の遠いところに在るのでその出張所ともいうべきところを清善寺に置いた。 それで広大な庫

裡があった。 このために天祥寺が妙心寺派の故を以て、その始祖とも見るべき円道国師の為に

円通堂を建てたものと思われる。 石に刻した国師の肖像があったとのことである。 今は薬師堂

も円通堂もない。

清善寺の寺記は乏しいのでその沿革は明らかでないが、天文三年(1534)に宗佐和尚を聘(へい)

して開山としたのは先述の通りであるが、三世雄及は紫衣勅賜(ちょくし)されたし、次で乗察も紫衣

を勅賜されている。 七世大庵の時、慶長三年徳川家康が忍領に鷹野され、清善寺に休憩し住寺

と宗意の問答があった。 この時小笠原三郎左に命じて佐間郷で三十石のお墨付を下された。

Page 13: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

13

後、慶長十九年十一月三日 御朱印を賜うた。

天正二十年松平忠吉が忍城主となるや深く六世明嶺和尚に帰依し度々参禅修道された。 忠

吉は清善寺の戦争中堂宇の大破せるを悉く再建した。

慶長五年忠吉清州に移封に際し龍淵時の僧 叱澗を召し連れ雲問寺にて参禅されたが、いつま

でも龍淵寺を留守にできないので清善寺の明嶺和尚を推挙した。 この明嶺和尚は後に忠吉の

法名大光院殿という所から、興国山大光院を創立し自ら開山となった。 封地が名古屋へ移る時、

寺も移って現存する。 百石の御朱印である。

元禄九年(1696)十二世洲幡の時 堂宇悉く焼亡した。 十五世良宅に至り忍城主阿部正喬の助

力を得て漸く再建したのである。

現在の山門もこの時の築造らしい。 それは指月和尚の筆拈華林の扁額から見てそう考えられ

る。 再建は宝永年間である。 指月は近代の名僧である。

旧藩時代は三ヶ年目に城主に見参する恒例であったとのことだ。

佐間割役山崎家の記録によると、梵鐘があって高さ四尺五寸、径二尺二寸とある。 又門前百

姓七軒あったとある。

宝筐印塔に吉羽氏とあり、堅剛院寿雲全勝居士、寛永十葵酉年九月二十四日と歿年を記し鐘

鋳旦那也とあるから吉羽図書が寛永頃に鋳た梵鐘と思われる。

3—1 呉道子観音像碑

清善寺入口左手にある高さ七尺位の根府川石の碑であって、関東でも屈指のものである。 表

面には呉道子の画いた観音像を彫刻し、裏面には山本北山の撰文である法華経一千部読誦碑

となっている。

呉道子は呉道玄ともいう。 唐代の画聖と崇められる人である。 玄宗皇帝に重く用いられた。

その細勁均一の用筆は実に美事であって、一度筆を下せば筆端に神助ありとまで人々が感嘆し

たものである。 玄宗の世、洛陽長安の堂宇寺観装飾ことごとく呉道子の指導のものである。 風

景画もよくするが特に仏画に妙を得た。 も観音像の妙手と云われる。 呉道子が魚籃(ぎょらん

=びく)を携えた老女の請いによって画き与えたのが有名な魚籃観音(ぎょらんかんのん)である。

時人その老女は実は観音の化身であって、呉道子に拝写させたものと世に喧伝されている。

呉道子は時代が古いので真蹟は非常に少ない。 東坡集(とうばしゅう=北宋時代を代表する文

人蘇軾の詩文集)にも世に真なるもの罕(まれ)なりとある位である。 我国では京都東福寺の釈迦

三尊の三幅対が呉道子だと云われて、国宝に指定されたものだけである。

碑には寛政庚申大沢英之が重ねて模書とあるが、庚申は十二年だから建碑の前年に当る。 実

際は英之と極めて親しかった酒井抱一の模写と思われる。 英之に花を持たせたものである。

この原画は南海補陀山鎮海寺立石と碑面に明記してあるので知れる。

補陀山は天竺即ちインドであって、 南端にある観音の霊場である。 南海補陀山は支那にあ

って唐末五代のころから山西の五台山、四川の峨眉山と並んで支那大陸仏教の三大霊場である。

その位置は浙江省海中にある舟山列島の主島東方二キロほどにある周囲五、六キロの小島であ

って、観音の霊地として名高い。 島中の普済寺、法雨寺、慧済寺、隠秀寺などの名刹が相並ん

で全島大小の寺閣堂宇僧房碑碣で充ちている。 鎮海寺もまたこの内にある。

Page 14: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

14

澤田東江は大沢英之の書の先生であるし有名な拓本蒐集家で、あるところから入手したもので

あるらしい。

以上の様なわけで、呉道子の観音像は珍しいものである。

(呉道子観音像と裏面の法華経一千部読誦碑記の石摺を寺田君の所にあるから写真としていれ

る)

碑陰には

法華経一千部読誦碑記

江戸北山 山本信有撰 東里源千之集

晋王義之 献之、唐虞世南 褚遂良

李邕(りよう)等書

西方に波利支多天樹(はりしつたてんじゅ)なる者あり、順風逆風皆その香を聞くべし、香一たび

人に着くれば、即ち終身余芳有り。 法華功徳また猶斯くの如く也。順縁逆縁苟(いやしく)も能くこ

の経を誦(ず)し、若しくはこれを聴き、若しくはこれを看る者、皆以って三途八難を免るべし、而し

て二世共に安穏なり。一部尚然り、况(いわん)や百千部、利益(りやく)それ測るべきか。 一善居士

これを奉ずること深し、僧に請うて読誦法施すること既に積んで一千部に満つ。大沢英之文華な

る者これが為にその碑を武蔵国佐間村清善寺境内に於いて立つ、盖(けだ)し衆生の碑記を観る

者をして この経に結縁し感発(かんぽつ)信心せしめんと欲す。若しそれ良香の身体に染み而し

て、悪臭を排除し然して読経善根を植ゆる固く深し。 碑を立つまた人と共に善を為す者なり。

享和改元年辛酉(かのととり)に在り 三月十五日大澤英之建つ。中慶雲刻。(原漢文)

江戸で刻ったものらしく、佐間村清善寺の文字は当地へ来てからの挿入文字で字体も刻り方も雑

である。

先ずこの碑文を見て感ずることは、撰文者の名を普通には 後に書くものであるのに、真先に山

本信有撰とあることである。

山本北山は幕府の士であるが、終世職には就かなかった。 名は信有、号を北山と云った。 家

が富んでいたので大蔵書家である。 大体独学で一派を為した人である。 学派と云えば折衷学

派中に数えるべきである。 非常に博学な人で一派にとらわれず自由な立場で経学を研究した人

である。 経学は孝経を中心とすべきことを唱導した。 当時紫野栗山が幕府に召され大いに学

制を改め、程朱の学にあらずんば悉く異端視した時代にあって、山本北山、市川鳴鶴、豊島豊洲、

塚田大峯、亀田鵬斎の五人は断然自説を主張して抂(ま)げなかった。 北山の名声が高いので諸

侯が招聘せんとしたが応じなかった。 ただ秋田侯と高田侯が礼を厚くして時事を諮ったのに過ぎ

ない。 この碑文は能く書いてくれたと思う。 大澤英之と特に親交のある亀田鵬斎からの依頼で

応じたものらしい。 北山は仏典をも読破した人であるので仏者も及ばぬ撰文である。

北山の君子自重と云う性格が 初に署名したのに表れていて微笑ましいものがある。

次に東里、源千之とあるのは有名な書家 沢田東江の子である。 東江は姓は源、名は麟(リン)

と云った。江戸豪商の子である。 大いに学に志し書道に名がある。 東江の子東里も書法を父に

学んで書を能くした。

Page 15: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

15

東里が晋の王義之、王献之、唐の虞世南、褚遂良、李邕(よう)の書を法帖から集めたのである。

何れも支那一流の書道大家であるので非常に面白い試みである。 ただ文字に大小があるが止

むを得ないことである。 東江は二王即ち王義之と王献之に心酔していたのである。 私が見ると

ころでは、まず二王の筆跡を集め足らない所を他の者で補ったと思われるのである。

それから碑文に入って、 初の波利支多天樹(はりしつたてんじゅ)は波利耶怛羅拘羅(はりやた

らくら)を略したもので、訳して香遍樹とする。 忉利(とり)天上の樹名である。 忉利とは三十三の

ことである。 仏説では須弥山(しゅみせん)上に三十三の天界がある。 その中に帝釈天王の居城

喜見城がある。 城中に波利支多天樹がある。 樹の根、茎、枝、葉、華、実等悉く妙香を放って

天界に薫すると云うのである。

建碑の享和元年(1801)は今から約百五十年前で、忍藩主阿部正由(まさより)公の時代である。

大澤英之に就いては茶人伝に詳記してある。

3—2 清善寺開基顕忠の墓

この墓石は墓地の中央にあって、高さ約二メートル余の宝篋印塔である。 台座正面に当寺開

基、雄功院殿信圃全忠大居士、永正六年五月八日とあり、左面に大職冠鎌足大連公十一代摂

政太政大臣伊尹(これただ)謙徳公十五代成田とあって裏面に続いて、五郎家時長子五郎左衛門

尉資員之二男刑部少輔顕忠と記されてある。

この宝篋印塔を見ると、宝珠の光頭が細長く棒状に突き出し請花など甚だしく誇張され、九輪

はただ装飾となっている。 蓋の四方突起は甚だしく外部へ傾斜して、全く江戸中期時代のものと

しか思われない。 当地にある慶長年間のものを見るとまだ古制を失わないのである。 又大職冠

鎌足云々の文字を見ても、私は江戸時代に入って後世の製作であると思う。 龍淵寺にある成田

氏の墓石もまた悉く江戸中期のものである。

Page 16: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

16

3—3 小見古墳の青石

小見の観音堂の背後に、車塚で高さ二丈余、周囲三町もある大古墳を、寛永十一年(1634)に発

掘した。 上下四方八尺からあって、何れも秩父青石の一枚岩である。 明治十三年の春にその

東南に又一棺を発掘したのである。 その青石の大石が清善寺門前の石橋となっていた。 小見

村観音山岩窟の扉なりと忍名所図会にある。

現在 清善寺前庭一隅雑草中に横たわるが、実に見事な青石で長さ三メートル七十八センチ、

幅二メートル五センチ余あって、厚さは大体二十八センチ位でほんとに平らな岩石である。

古昔これを運搬するには、秩父石であるから荒川の川原でこの大石の上に結び付けて,大なる

筏を組み置き、増水期に浮き上がるのを待って運んだものと思うのである。いずれにしても大事業

である。

3—4 行田市に楠氏の後裔

清善寺の無縁塚に多数の墓石を発見

楠氏の後裔はよく分らないのであるが、奥州白河の関川寺に楠氏の後裔の墓碑が発見され、行

田市の清善寺に又発見された。 四百年の歴史を持つ古刹清善寺には沢山の無縁となった墓石

があった。 大澤龍次郎氏はこれ等無縁の墓が乱雑に放棄されてあるのを遺憾として,無縁の墓

石を梵鐘形に積み上げてその頂に新兵衛地蔵尊を安置して供養会を開いた。 新兵衛とは大沢

氏の父祖の名である。 毎年の供養会は奇特のことである。

この仏縁で楠氏後裔の墓石が多く発見されたのである。 その墓碑を記せば

万治三年 楠五郎兵衛尉次成

延宝七年 楠五郎兵衛お袋

寛永五年 楠唯右衛門尉親父

延享元年 楠五郎兵衛殿母儀

安永三年 楠治郎左衛門殿父

安永九年 楠治郎左衛門殿子

寛政九年 楠次房妻

享和二年 楠成尭娘

更に清善寺過去帳を調査すると

瑚室理珊信女 楠五郎兵衛内儀

日山妙恵信女 楠五郎兵衛御袋

初覚秋心童女 楠五郎兵衛子女

寂翁休閑居士 楠五郎兵衛父

従教了韻居士 楠唯右衛門親父

幼驚童子 楠五郎兵衛子

函汀慈経大姉 楠五郎兵衛母

秋清夢居士 楠治郎左衛門父

玄昭童子 楠治郎左衛門子

Page 17: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

17

この年代から見ると忍城主阿部豊後守忠秋の時代となる。 それで阿部家の分限帳によると、墓

石にある楠五郎兵衛尉次成の父五郎兵衛は、大阪城七組の番頭(ばんがしら)伊藤丹後守の旗下

であったが、大阪落城の後は二君に仕えることを潔しとせず、道圓と改名し医者となって諸所を

転々として歩いていたが、たまたま阿部豊後守忠秋の知遇を得て知行三百石を貰い客分として

召し抱えられた。 爾来その子々孫々阿部家十四代に連続して仕えた。

その概略を述べれば、二代楠五郎兵衛は御者番頭(おんものばんがしら)で三百石頂戴し、承応

六年(1652)六月江戸紅葉山の御宮及び仏殿の造営に下奉行(したぶぎょう)として、功績を認めら

れ幕府から褒章を受け、その上百石の加増に預かった。

三代目の五郎兵衛は御者番頭及び鉄砲組頭として四百石を受けた。

四代目五郎兵衛は弟太右衛門に五十石を分知(ぶんち)して三百五十石を領して御者番頭と鉄

砲組頭を勤めた。

五代目五郎兵衛は三百五十石と御者番頭と鉄砲組頭は元の通りで、その外御持筒(おんもちづ

つ)組頭及び御城番頭となり御旗奉行を兼ね又京都御所詰を勤めた。

六代目五郎兵衛は三百五十石と御者番頭と鉄砲組頭は先代と同じであったが、阿部八代目の

殿様正敏の不興を蒙って家禄五十石を減ぜられ無役となった。

七代目の五郎兵衛は三百石で取手目付(とりてめつけ)となり次いで御者番頭と鉄砲組頭に進ん

だ。 阿部十一代正権が文政六年(1823)奥州白河へ転封となったので、桑名から忍へ来た松平

下総守忠尭へ城引渡しの大役を果たした。

八代目五郎兵衛は同じく三百石で弓組頭から使番(つかいばん)となり肩衣(かたぎぬ)御免となっ

た。相次いで御者番頭と鉄砲組頭は祖先の通りであった。 天保十五年(1844)磐城海岸へ外国

船が来た際には、浜手御固(はまておんかため)に出役した。

九代目は御近習(ごきんじゅ)として百八十石を頂戴し、季之丞(すえのじょう)と云って父祖の名に

改めない内に明治維新となった。

序(つい)でに奥州白河関川寺の碑文を揚げる。 原文は漢文だが訳してみると

文政癸未(みずのとひつじ 1823)の春、君侯命を奉じてこの地に移封す。 臣等眷族これに従う。

将に忍陽を発せんとするに臨み、先考(せんこう)朝霜君佐間村清善寺中租先累世の墳墓の土一

塊を奉し来たり 成尭に謂(いい)て曰く 我死せばまさにこの土を棺上において葬るべし。 千里を

分け隔つと雖も、猶地下祖先の側に待するなり。 今年四月病に寝(ふ)して奄然(えんぜん)として

逝く、その遺命を逐奉して寺に葬る。 今より後祖先に拝謁せんと欲せば当に先考の墓に登るべし。

豈(あに)忍陽に在りて親謁すると 何ぞ異ならんや。 慎んでこれを碑陰に記して 以て子孫に告

男 成尭識

励砲院星寿朝霜居士 年七十九

これは八代目の楠五郎兵衛が亡父の為に建立したものである。 常に祖先を懐(おも)い家名を恥

かしめざるの心境が伺われて奥ゆかしいものがある。 尚清善寺にある成尭の娘の墓及び関川寺

にある二碑を見ると、十三弁の菊花紋章は菊水の紋に因んだものであろう。

この外に美濃国苗木町に楠氏の後裔が旧家として現存する由である。

Page 18: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

18

3—5 (うはちきゅう 読みは“たん”、左は八の下に臼、右は烏)字の宝篋印塔

新兵衛地蔵を囲む古塔群の東方にある蓮華座に 字が円形中にある。 正面ばかりでなく左

右同形である。 下部に間宮善馬妻女為菩提也とあって、裏面下部に花翁妙日禅定とあって寛

文丙午(ひのえうま 1666)とある。 他にも文字があるが読めない。

ただ問題となるのはこの 字である。 真言を意味する種字である。 多く種字は梵字であるの

にこれは漢字的である。 詳しく云うと大随求陀羅尼の種字である。 この経を一見すると非常に

長い名前で「普遍光明清浄熾盛如意宝印心無能勝大明王随求陀羅尼」とあって、梵字で書かれ

ている部分が相当多いのである。

この大随求陀羅尼(ずいぐだらに)に就いては岸澤惟安和尚から聞いた面白い話がある。 曽我

兄弟の五郎が死亡して 何年かの後のことである。 伊豆の修禅寺に行く途に大仁(おおひと)と云

う駅がある。 そこの名主に四五郎と云う者があった。 病身で然も永く苦しみぬいている。 ある

時廻国の僧が一夜の宿を借りて主人の病を聞き、これは昔の曽我五郎が生れ代ってきたのであ

る。 富士の巻狩りの時、親の仇討と云うので多数の人を殺した。 その報いである。 この真言を

写して御墓に埋めてやりなされと云う。 それでその通りにすると病気は全快した。 その後感謝の

意味から写して人に施した。 求める人が多いので板刻して施した。 代替りとなって これを民家

に置くのは、もったいないとて修善寺に納めた。修善寺では版木が磨滅したので今から百五十年

程前に新たに版木を造り施している。 清善寺近辺では血脈の代わりに大随求陀羅尼を持たせて

やる習慣になっているとのことだ。

随求咒(ずいぐじゅ)の功徳に就いては平康頼の見聞随筆である宝物集に、「大地獄に落ちて苦

患を受くるに、随求陀羅尼の文字一つ風に吹かれて来たり彼の墓所にかかりけるに、その功徳に

よりて地獄の鼎(かなえ)俄かに破れて、忽ち涼しき池となれり」とある。

又僧無住の著した沙石集にも、「随求陀羅尼の一字、風に吹かれて 屍に触れたる故に 婆羅

門(ばらもん)地獄より出でて、天に生ず。 如来の等流変化の分身の字として仏の化身なり。 い

かでか、その徳、空(むな)しからん」とある。

以上でその功徳の大なることは知れるのであるが、 字に就いては説明がない。 ただ山崎美

成の筆になる世事百談に、禅宗の寺院に延宝元禄の頃なる石塔の上の方に、或いは 、

などの文字を彫りたるあり、彼の宗旨の僧などに問えど知るもの無く、昔より 烏八臼(うはちきゅう)

と称え来れるのみ、何の義と云うこと詳ならず。 予が弱冠の頃聞きける梅塢(ばいう荻野八百吉)

先生の説に、「こは随求咒の中なる (ちしゅたん)という文の の字を訳して

(たん)と書けり、その 字を誤り書けるなるべし。 さて 字に勝れたる功徳あるよしは、曹洞引

導集というものに見ゆと云はれたり」とある。

まあ以上より知れないのであるが、各地に散在する所よりみると相当広まったものらしい。 清善

寺には一灯源心信士、文化六年とある小さな石塔にも戒名の上部にこの文字がある。 行田市内

Page 19: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

19

には見当たらないようである。 好事者の間に問題となってること故、いささかか物した(書いた)。

3—6 新兵衛地蔵尊

本堂の側に多くの無縁石塔を積み重ねてその上に地蔵尊を安置してある。これを新兵衛地蔵

と云うのである。 昭和六年大澤龍次郎氏が独力で建設したものである。 新兵衛地蔵尊奉安縁

起碑にその由来を明記してある。 その要を掲げると「故大澤新兵衛翁は上州太田の人、少壯郷

を出て忍町に居住する。多年純情にして侠気あり、多感にして慈心に富む、廔荒廃(ろうこうはい)

の城址に先賢の遺徳をい、報恩の至情抑へ難きものありしも、忍町を退転し憾(うら)みを遺して長

逝す。 翁逝いて十三年、嗣子龍次郎氏先考(せんこう)の遺志を継ぎ、当山に無縁塚を建て先人

無拠(せんじんむきょ)の霊を弔慰す。 後九年当山現童鳳一和尚開創以来一千無縁の精霊を勧

請して一大無縁塚を造立し、地蔵菩薩を奉安するの発願あり。 龍次郎氏先考の遺命を完(まっ

と)うするの機到れるを悦び、独力投資してその工を助け事業既に成りて 余に法要の事を諮る。

余は壮年より翁と交わりを深くし翁の東都僑寓(きょうぐう)に及んで来往殊に繁を加う。 一日翁余

に示すに延命地蔵菩薩の一小像を以てす。 曰く曩日(のうじつ=昔)暴風雨の翌朝後庭を清掃し

て、この尊像を発見せり。 惟(おも)うに天授の尊像、願わくば貴僧に託して永く供養し子孫長久の

祈願を求めんと、余直ちに信受拝戴して、持仏堂に奉安し名づけて、新兵衛地蔵尊と称し恭敬三

十年、一には大澤家の繁栄に報答し、二には自己の法運を祈願したるも翁の宿志ここに就(な)り

て 秘仏奉安の処を得たるを懌(よろこ)び、これを寄贈して無縁塚地蔵尊の胎内に蔵(おさ)め、迷

衢(めいく)の衆生を抜済(ばっさい)し、現世の善男善女を擁護して、二世安楽の善果を得せしめん

と冀(こいねが)う。 聊(いささか)新兵衛地蔵尊の来由を記して後鑑となす。

時維昭和六年辛未秋彼岸功徳日

東都妙亀山総泉寺主董大石観法謹誌

とあるのでその由来は明らかである。

Page 20: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

20

4 下忍 医王山遍照院(へんじょういん)

4-1 薬師堂と秀衡松

医王山遍照院常福寺は真言宗で京都仁和寺末で、御朱印二十五石を徳川から貰っていた。

地方では珍しい大寺で坊を梅本坊と云った。 配下に六供(ろっく)とて観音寺、中の坊、東福寺、

西の坊、正蓮寺、東の坊とあった。 時鐘があって鐘つきが四人も居たと云うことである。

境内に有名な薬師堂がある。 この薬師堂はその昔藤原秀衡が建立したと伝えられる。 この事

に就いては口碑がまちまちであるが秀衡の造営には一つも異説がない。 本尊は薬師如来で左

右の脇立ちは日月の二菩薩で外に十二神将がある。 立派なものだが惜しいことには度々の修繕

で昔の姿を失った。 寺伝には行基菩薩の作とあるが各所によくある例で信は置けない。 しかし

藤原氏建立にかかる毛越寺の事など考え合わせると相当のものと思われる。

薬師堂建立のいわれは、忍名所図会にある。 その縁起一篇はこうである。 平泉の城主である

鎮守府将軍藤原秀衡が仁安元年(1166)の春のことであった。 ふと眼病に罹り少しも見えなくなっ

てしまった。 色々と医薬を求めたが効果がない。 この事を伝え聞いた南部の城主盛岡信濃守

は同国の三之戸崎見の次郎、出羽の城主山形帯刀と語らい、心を合わせて秀衡の盲目となった

のを幸いとし、この虚に乗じ一戦して秀衡を打ち亡ぼし奥州を手に入れんものと軍勢を催す。 高

舘次郎これを聞き急ぎ秀衡に注進に及ぶ。

秀衡は直ぐに子息三人に命じて衣川の関に防戦の用意を怠りない。

一方秀衡は守り本尊である信夫郷の薬師如来に心願を立て、十七日の断食を為し心を籠めて

の祈りに、あら不思議、満願の日となると眼中の雲一時に晴れて、夜の明けた如くである。 秀衡

の喜びは譬(たとえ)るにものなく勇みに勇んで衣川の関に至り、南部の大敵を追い散らし大勝を得

たのである。 秀衡はお礼として御堂の建立を思い立った。 時に仁安二年(1167)四月八日暁の

御夢に如来からのお告げを蒙った。それは辰巳の方に当って、鎌倉街道の中程、忍の郷に有縁

の地があるからその地へ祀れとあったのである。 すぐさま薬師尊像を神輿に乗せ奉り秀衡が籠

愛する牛に引かせ、家臣栗原五郎秀時に命じて御伴させた。 旅の日を重ねて八月八日忍の郷

遍照院に着いた。 不思議なことにはその夜神輿を引いてきた牛はぽっくら死んでしまった。 又

その夜、住持の円慶と御伴の栗原五郎とは、この地こそ有縁の所である、との御夢で両人共に同

じお告げなのに驚いた。 定めて御心にかなう場所に相違ないと薬師の尊像をこの寺に安置し参

らせたのであった。 死んだ牛はお寺の南方へ埋め、印として若松を植えた。 これが後の秀衡松

である。

(本尊薬師如来の写真を入れる)

栗原五郎は立ち返って、この旨を秀衡に言上した。 秀衡は大いに喜び本堂、客殿、庫裡、鐘楼、

仁王門、大塔、山門と立て連ねたのであった。 彼の牛の姿絵も送られて、永く寺宝としてあった

が今はない。 当時参詣の諸人群集し賑わったのであったが、永禄二年(1559)上杉謙信が忍城に

攻め入った時、兵火に焼亡したのである。 この時法印慶儀は如来の尊像だけは無事に出すこと

が出来たが、火の廻りが早くて境内に火が移る。 法印は十二神将は如何にしたかと思う途端に

大樹の陰に厳然と立っているではないか。 法印はあまりの霊験に驚きの目を見張ったのであっ

Page 21: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

21

た。

この物語は一種の夢物語ではあるが当時の人は尊いあらたかなこととしたのである。 決してお

ろそかにしない。 今日天狗の話など一つもないが、昔は各地にいろいろ不思議なことがあったの

である。 人が斯く信じると実際にそれが現れるものなのである。 だから時代に依って人々の見る

夢が違って来るものなのである。 又一つの現象も解釈によって判断に相違を生ずることを承知し

て、昔の事は昔の人の心になって考えないとその時代の真相は掴めないものである。

秀衡は嘉応三年(1171)鎮守府将軍になり、文治三年(1187)に死んでいるから、秀衡造営とすれ

ば文治以前となるのである西暦十二世紀の後半鎌倉時代の建立となる。

秀衡を中興開基となし僧円慶が七堂伽藍を立てたのである。 今日現存する秀衡の護持仏薬

師如来の尊像は丈(たけ)三尺余りで藤原期の作であって、当時草創の伝説と一致している。 薬

師は座像であって、容姿端麗行田市第一の古仏である。 秀衡は父祖からの熱心な薬師信仰で

あるから、全然根拠のないものではない。 又境内から建長三年(1251)の記年銘がある板碑も出

土しているから、鎌倉時代の存在を示している。

慶長九年(1604)宝印永儀の時、徳川家康が御鷹野の折りに当寺に立ち寄られた。 住持は薬師

の由来と先年兵火に焼けたことを詳しく申し上げたところ即座に御朱印二十五石を賜わった。 こ

れで御朱印寺となったのである。

Page 22: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

22

薬師如来を奉安した大塔並に六坊までも永禄二年(1559)の頃上杉謙信の焼く所となった。 後

世之を天正十八年(1590)の石田三成の兵火に焼失したと誤られているのである。 この事は清水

雪翁撰文の修薬師堂記碑に明記されている。

慶長九年永儀の代に家康から二十五石の朱印状を下付された。 その朱印状は、

一、拾六石 遍照院

一、一石五斗 宝蔵坊

一、 仝 中坊

一、 仝 西坊

一、 仝 東坊

一、 仝 東福坊

一、 仝 観音堂

合 二十五石

右武蔵国埼玉郡持田村の内に於いて寄付する所なり。 ならびに寺廻りの竹木諸役併せて免

除し訖(おわ)んぬ。 者(ていれば=されば)仏事勤行を修むるなど倦怠すべからず、これ件(くだん)

の如し

慶長九年十一月三日。 御朱印

とある。 享保六年(1721)七月勘定所へ提出した書面によると薬師堂の反別は二町七反六畝歩

である。

この御朱印で再興の機運に向かい良慶の代に延宝三年(1675)御室(おむろ)の仁和寺の直末寺

となり殿堂旧観に復した。 それで良慶を中興開山と称している。 正徳年中、又々火災に罹り堂

宇残らず焼亡した。

半世紀以上を経過して海眼の代に至り、再興を計った。 その資金として天明元年(1781)に御

開帳をなし三十両を得、又、下忍村から十四両の寄進を受け、これを基本として勧化(かんげ)に

務め天明九年には合計百三十三両余りを集めた。 なお忍領内から米穀の寄進を受けて寛政五

年(1793)六月二十四日に上棟を見た。 これが現今の薬師堂である。

当寺十五世秀音は仁和寺の宮から院室永兼帯(寺院の格式)を命ぜられ、慶応二年四月秀啓の

代となって談林格となったが、明治五年に朱印及び除地若干を上地し、更に九年に上地したので

境内地のみとなってしまった。

その後明治二十八年大修理をしたのである。 この事は寺側の修薬師堂記の碑に明らかであ

る。

修薬師堂記碑

凡そ世に霊徳あるものは久し、而して益々顕(あらわれ)る。 伝へ云う。 武蔵埼玉郡下忍村薬

師如来は鎮守府将軍藤原秀衡の奉置する所なりと、東鑑を按ずるに、秀衡の父基衡は人を京師

(京都)に遣わし、仏工運慶をして薬師如来丈六(じょうろく)の像並びに十二神将を刻ましめ、堂宇

頗る壮麗を極む。 常(當⋰当?)藩史に曰く、清衡は六郡の地を領す。 人称して御館と云う。 子

基衡は奥羽押領使と為りその勢いは国衙(こくが)に過ぐ。 孫秀衡沈毅にして度量あり、鎮守府将

軍に任じ闔国(こうこく)を奄有(えんゆう)すと、まさにこの時王政式微し源右大将尚未だ雲驤の勢い

Page 23: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

23

を得ず、而して平氏権を擅(ほしいまま)にすと雖(いえども)、その政令覃(およ)ぶ所坂以西に過ぎず。

而して止むのみ。 即ち秀衡の威力施して分国に及び更に此に移るか。 况(いわ)んや三世の富

彊(ふきょう)安(いずく)んぞ其の非是を知らんや。 乃ち口碑に伝る所徴(しるし)無しと為さざる也。

その後永禄二年の比(ころ)、上杉謙信の火する所と為る。 世人以て謂(おも)へらく、石田三成の

兵燹(せん)に罹(かか)るとするは謬(あやま)りなり。 今の堂宇は寛政年間の建立する所也。 驪幹

(れいかん)推遷し瓦破れ屋漏り棟楹(とうえい)腐撓して将に頽廃に属せんとす。 且つ明治維新に

は幕府より曾(かつ)て賜う所の朱印二十五石を收(おさ)む。 是を以て修営に其の資無きに苦しむ。

主僧御人とこれを慮(おもんばか)り、胥(あい)議して大いに義捐金を募る者葢(けだ)し浮屠氏(ふと

し=僧侶のこと)の所謂(いわゆる)功徳浄財なり。 これに於いて遐邇(かじ)にして翕然(おうぜん)と

してこれに応え、立(たちどころ)に一千余金を獲たり。 匠を雇い工を召し破漏を補い腐撓を易へ

頓(とみ)に苗観(びょうかん)を復す。 嗚呼霊徳久しく而して益々顕る。 豈尊崇せざるべけんや。

工既に訖(おわ)り、余をしてこれを記さしむ。 亦この邑(むら)に住する者、乃ち辞せずして而して

記す。 以て後にこの堂を管する者に告ぐ。

明治二十八年九月日

成蹊書院教授清水雪翁撰文

従七位 島崎廣太郎書

薬師堂扁額に梅村先生対妙光寺和尚の図がある。 この図に坂本浜五郎の題辞がある。 浜

五郎君は延方と云い尊円流の書を善くし、兼て和歌に長じた。

境内には和算の大家田中算翁の墓碑がある。 寺寶として大蔵経四百巻が十六函に納めてあ

る。 寛延四年(1751)黄檗山宝蔵院一切経印房のものである。

4—2 秀衡松の碑

この古松は小さな古墳上にあったと云われる。 今のものは二代目のものである。 樹の下に碑

がある。 其の文に、

土人伝えて云う、忍城の東遍照院は陸奥の秀衡の建つる所なり。 ある人疑って奥の鎮守府此を

距つる数百里、その力の能く及ぶ所に非ざる也と、東鑑を按ずるに秀衡数世之資に拠り羽奥の押

領使と為り殷富尊栄当時比無し、鎌倉の源右大将と雖、猶隣好を脩するを要す。 三世相継で浮

屠氏(ふとし)を信じその経営する所の仏寺甚だ多し、苟(いやしく)も意(こころ)を興造に挙(そぞ)ぐ、

豈遠きを憚らんや。然り而して院の興る所以の者は蓋し松樹に在り。 土人又伝う。 一年秀衡此

を過ぎて道の辺の松の根に憩う。 愛玩去る能わず、乃ち樹辺に於いて一寺を建立し安ずるにそ

の所懐せる護身の薬師像以てす。以来六百有余年、樹は益々森欝(しんうつ)し人呼んで秀衡松

と謂う。 盲医鍼的なる者、沈静頴敏(えいびん)にして常の人に非ざる也。 一鍼の術は以て百疾

を療するに足る。 嘗 (かつ) て樹下を過ぎて忽ち涛聲を聞きて感悟する所有。 後三歳享和癸

亥(みずのとい)(享和三年(1803))の夏六月、樹に雷震し枝幹尽(ことごと)く焚(や)く。 是に於いて

鍼的松聲の起こるを追念す。 予因て工に命じその全形を彫し、之を薬師堂の楣(なげし)に扁(か

か)ぐ。 而して木の猶朽ち易きを恐るる成り。 碑を建て之を無窮に伝えんと欲し来りて銘を乞う。

銘に曰く。

Page 24: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

24

孤松鬱々、已(すで)に六百年、鸞鳳(らんおう)翼を張り、虯龍(きゅうりょう?)天に騰(のぼ)る、四

時翠を含み、百廛(てん)に垂加す、陸侯昔日、此に留連す。 枝葉東に靡く、遣愛の延(およ)ぶ所、

何ぞ図らん一朝にして、化して灰盡と為る。 濤聲感有り、的也震を恨む、天藾(らい)予を牖(みち

び)く、恩父母の如し、その憔悴を傷(いた)んで、忘れず負(そむ)かず。 鍼術救い難く、医王守ら

ず、嗚呼命なるかな、復(ま)た孰(いずくん)か咎めん、豈千歳の寿、地久しく天長し、松や朽ちず。

(原漢文)

忍藩儒員 眉山 佐阪通恭撰

同退職 鹿鳴 秋山晴興篆

文化七年(1810)歳次(さいじ)庚午(ほし庚午にやどる) 四月甲申 八日辛卯 中野鍼的建立

又碑陰に

あらとふと 瑠璃の壹(いち)なる 松風は

病(わずら)ふの雪を 吹はらふ音 鍼的

佐阪通恭は阿部侯の儒臣であり、中野鍼的は盲医で同じく阿部侯の臣である。

この碑文と松とは現在薬師堂に向かって右方大蔵寺境内となっている。 松は真直ぐに立って高

く聳え、目通し一丈からある黒松である。 碑はその根元にある。

秀衡松を画いた大額は薬師堂にある美事な浮彫着色である。 又碑蔭にある和歌の扁額もあ

る。

秀衡松の額の写真を入れる

4—3 遍照院内 琴平神社

昔は金毘羅大権現と称し遍照院境内の西南の隅にあった。 その創建年代は詳らかでないが、

裏手の神木としての榧(かや)の木と、欅(けやき)や松などの大木、何れも三百年からのものと見受

けられた。 廟社も宏荘とは云えぬが拝殿、奥の院、絵馬堂、神楽殿などがあった。 昔は繁昌し

たもので祭日は毎月十日であるが、殊に正月の初金毘羅、三月の大大神楽、八月の相撲、十月

はお留守の神としてにぎわった。 十月は諸神皆出雲に集まると云われ、金毘羅様一人御留守さ

れると云い慣したからである。 十二月は押上げの金毘羅祭りと称して、その前夜から道は押合い

押合い、ただもう人の後について行くだけで独り先に出んとしても、とても出来るものではない雑踏

である。 煮売屋、玩具屋、又は見世物などは寺の境内は勿論薬師堂の境内まで並んで客を呼

び、又月々の例祭でもかなりの人出であった。

明治二年神仏混淆を禁ずることとなったので村の持ちとなり、初めは近所の飯島岩吉という者の

地内へ移した。 初は欲も手伝ってお祭りもしたが、人心は頓(とみ)に離れた。 私の子供のころ

にお参りしたことを覚えているが、先達が太鼓を叩きながらお経を読み、太鼓のばちを互いに投げ

ては受け、受けては投げ取り交わすのを面白いと思ったことであった。

明治二十六・七年の頃、又今の薬師堂前に移したところ益々衰微して社殿の維持すら困難とな

った。 神社合併の事あるを幸いに、明治四十三年一月十日下忍村鎮守久伊豆社境内に合祀し

た。 今は金毘羅様と云っても知る人もない。

Page 25: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

25

この外下忍に天神房とて小堂あり、天神様の木像を祀るが、威徳山長泉寺安養院とて遍照院

末である。

5 持田 正覚寺

星川の清流に囲まれた美しい正覚寺の敷地は、以前、真言宗の古刹の跡と云われる。

大雄山摂聚(せつじゅ)院正覚寺は浄土宗京都知恩院末で、開山は学徳の誉れある証蓮社明誉

上人智教和尚である。和尚は青年時代鎌倉光明寺で勉学した。 光明寺は乱橋材木座にあって、

後方に天照山を負い、前には相模灘を控え、長谷、江の島を眸(ひとみ)の内に収める景勝の地で

ある。 仁治元年(1250)執権北条経時の創立で、然阿(ねんあ)良忠が開山である。 その後天皇

の帰依もあって浄土宗関東第一の大寺である。

明誉上人は学業成って後元亀二年(1571)九月駿河国横内に一寺を開いた。 駿河は上人の生

国であった。 寺号を正覚寺とした。

元亀天正年間は朝に夕に合戦があり一日として安き日とてなかった。 横内の地も危険なので

何れへか疎開せんとした折に、武州忍の地の平和郷なのを聞き、僅かの弟子と共に忍に疎開した。

忍城主成田下総守氏長の帰依を得て、天正六年(1578)持田村に一宇の寺院を建立したのであ

る。 この時の本堂が現存する。 総欅造りで茅葺で竪(縦)九間半、横六間の大建築で

棟札 表

大檀那成田下総守氏長建立

主證蓮社明誉上人大和尚

Page 26: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

26

指南檀那野澤駿河守泰次

統領花村三左衛門

大工大塚与五右衛門尉

棟札 裏

寄進施主 成田肥前守 野澤駿河守

後藤民部少輔 野澤 隼人

竹内権左衛門 大屋淡路守

田山 隼人 神山与惣右衛門

内田出雲守 福岡越前守

青山和泉守 吉田 内記

神屋出羽守 山田四郎左衛門

関根 将監 清水下野守

久下刑部少輔 中村丹波守

天正六年三月七日

右は正覚寺由来記によるものである。 北武八志には、棟札の表で大工大塚与五右衛門尉の

名が無い。又裏で野澤駿河守の名が無い。 その他は同一である。 惜しいことに此の棟札を失

った。 同寺の総代大河原泰蔵翁は、棟札を見たというが、見当たらない。

北武八志は清水雪翁の著であり、雪翁は至って綿密な人であるから棟札を見て写したものと思

われる。 然し如何なものであろうか。

建物は、本堂の外に客殿九間半、大庫裡八間に六間、小庫裡七間に二間半、鐘楼九尺四方、

これは現存する。 表間三間四方、これは南部門と云われ、徳川家康鷹狩の折り正覚寺を休憩所

に当てられたので、南部侯が門が無くてはならぬとて寄進されたのである。 現在取り崩して本堂

の軒下に積んである。 この外に土蔵二間半に二間、寮舎二棟、摂受院、摂取院と云った。 長屋

七間に二間、鎮守堂一間四方などであった。 これ等本堂以外鐘楼を残して全部取り崩した。

Page 27: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

27

5-1 本尊 阿弥陀仏

明誉上人の頃一日(ある日)旅の仏師が来た。 一夜の宿を許すと、頗る実直の者である。 上人

も寺観の整った時とて、本尊仏がほしいと念願していた時なので、この仏師に頼むこととした。 丁

度良材が在ったので直に着手することとなった。 出来の上は一貫文進ぜんと約束した。 仏師も

悦び勇んで引受けた。 仏師はお寺に宿泊して身を清め、敬虔な態度(稿本の製本時に頁入違

い)で製作に精進したのである。 上人もこの様を見て大いに悦び無事尊像の出来を祈っておられ

た。 月日は早く過ぎて間もなく美事に尊像は出来上がった。 上人も仏師も飽かず尊像を眺め、

会心の笑をたたえていた。

上人は約束の一貫文を出さんとすると仏師は押止め、私はこれから熊谷に用事があるので一寸

行って参ります。 帰りましてから頂戴いたしたいという。 上人もそれではその時にと、何げなくい

た。 然るに何日過ぎても姿を見せない。

熊谷方面を尋ねたが行方がさらに知れない。 上人は仏師のことを思い出すのである。 弥陀の

慈悲を少し説いて聞かせた時に感動した面持ちが目の前に見えるのであった。 これは弥陀が御

遣わし下されたものであると心に銘し、至心(ししん)合掌し静かに念仏を唱え奉るのである。 上人

は金色に輝いた弥陀の尊像の前にひれ伏すのであった。

(本尊阿弥陀如来を写真として入れる)

この尊像は高さ三尺余りであるが、私が幾度拝しても丁度人の丈くらいに見えるのである。実に

不(稿本の製本時に頁入違い)思議でならない。

白隠禅師の宝鏡窟記を見ると、寛永の初め豆州賀茂郡手石村の一漁翁は常に信心深いもので

あるが、ある日海岸の岩窟中に弥陀の尊容を発見した。 岩窟内は大空の如くで紫磨金色の聖

容何千尺と云うことを知らない。 この事が村の人々に伝わり、遠近の者参詣ひきもきらずである。

伏して拝し喜ぶ者あり、又興ざめたる顔する者もある。 これ皆信心の浅深罪業の軽重に随うて、

所見まちまちなる故である、と書いてある。 すると私も信心深い者の一人であるらしい。 私この

尊像についての所見を述べると天正年間の作であることは確かである。 第一全体と比較して手

が少し小さい。 これは弥陀御自身として未だ衆生済度が充分でない。 更に拡大せねばならぬと

大慈悲を起こしておられる心証を表現したものと思う。

その手を仔細にみると、少し厚い感じである。これは慈悲の広大を表現したものと思う。

悠然と直立不動のお姿は弥陀の結定せる確(稿本の製本時に頁入違い)心を表現したものであ

る。

光背の透かし彫は珍しいもので、不動尊の如く大火炎は足下からものすごい勢いで渦を巻いて

いる。 これは煩悩の熾盛(しきじょう)を現し、これが頭上に至り燦(さん)とし光明化している。 これ

は煩悩則菩提の表現として実に巧妙を極めている。 これは当地方出色のものであって文化的優

位は高いと思うのである。 とにかく信仰厚い作品である。

当寺の古記によると、この尊像が出来て間もなく成田の家臣神屋与惣衛門尉が何か心願

があって祈願すると忽ち大願成就したとある。 光背の裏に本尊再興寄進檀那法名香樹天英大

菩提の為也。 忍住人神屋与惣衛門とある。 これは小破を修理したものである。

Page 28: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

28

5-2 本堂内陣荘厳(しょうごん)

(内陣の写真を入れる)

内陣は天井及び柱など極彩色を施してある。 これは徳川家康が三河の旗本小栗忠七郎に命

じて造営させたものである。 当時忍城主は松平下野守忠吉公であった。 忠吉は二代将軍秀忠

と同母弟である。

忠吉の母は愛の方と云い、又西郷の局(つぼね)ともいう。 戸塚五郎太夫忠春の女である。 忠

春は西郷弾正左衛門正勝の女を娶り一女を儲けた。 忠春は幾何(いくばく)も無く遠州大森の戦

に討死した。 そこで忠春の妻は一女を連れて実家に帰り、間も無く服部半大夫正尚に再婚した。

舅の左衛門佐(すけ)清貞はこの連れ子を養女にして育て家康の侍女に差上げた。 これが家康

のお気に入りの愛の方である。

愛の方は男子二人を生んだ。 即ち秀忠と忠吉である。 しかし惜しくも天正十七年(1589)五月

二十九日、三十八歳で死んだ。 駿府の龍泉寺に葬る。 法名を宝台院松譽貞樹大禅尼という。

その後龍泉寺を宝台院と改称し御朱印三百石を賜わった。 忍城主であった松平忠吉は、生母

宝台院の七回忌が文禄四年(1595)五月二十九日なので、御位牌を駿府の宝台院と同じ宗派の

浄土宗正覚寺に安置せんとした。 家康はこれを聞いて、近頃新たに旗本に取り立てた小栗忠七

郎に初の仕事として、正覚寺内陣の荘厳方を命じた。 家康が秀忠と忠吉の生母七回忌に心を

用いたのも当然と思われる。 小栗忠七郎も心を籠めて奉行した。 これが今日に残る内陣であ

る。 この事は小栗家文書によって明らかとなった。 小栗家では惜しいことに家康の御墨付きを

明治年間火災にかかり焼失した。

正覚寺由来記に此の事を記して、

「従三位左近衛中将兼薩摩守忠吉卿、又は下野守。 家康公之御四男也。 御母儀大樹秀忠

公之御同腹也。 天正十八年庚寅年より慶長五年庚子年迄忍城主為り。 然るに忍御在城之内

正覚寺を御菩提所となされ、御母儀宝台院松譽貞樹大禅尼御位牌を立置かせられ、月並(つき

なみ)之御参向之有り。 其節の御位牌唐机等今に当寺に之有り」とある。

右之内天正十八年より忍城主は、誤りで天正二十年からである。

(近年の学説では、天正十八年は家忠入城の年だが家忠は城主でなく城代なので、忠吉城主は

天正十八年で正しい。)

正覚寺内陣は、行田市内には類例のないものである。 県内でもこれに匹敵するのは、川越喜

多院だけである。 年代が喜多院より古い。

先年稲村担元氏と文部省建築技官乾兼松氏が詳細に視察されて、文化価値を高く評価された

という。 これは何人でも直に判明すると思う。

5-3 御朱印三十石

忍城主松平忠吉は、正覚寺明誉上人に帰依せられ寺領三十石を寄進された。 三十石の地は、

田二町七反七畝十八歩、畑一反七畝六歩、合計二町九反四畝二十四歩、小作百姓十六人であ

った。 これがそのまま御朱印地となった。

Page 29: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

29

又境内地は、東西百一間、南北八十八間でこの坪数九千四百八十一坪になる。

5−4 梅貞童子

これは忍城主松平下野守忠吉の第一子で、慶長三年(1598)正月二十六日早世した法名である。

その墓が正覚寺にある。 六地蔵塔の珍しい形である。 石塔婆考に詳記したので略す。

梅貞童子の遺品として、御守筒がある。 長さ一尺三寸三分、銅鍍金(ときん、めっき)製で、唐

草透かし彫、葵の紋が二十七もある美事なもので同寺の宝物である。

5−5 二十五菩薩

これは高さ一尺六寸で皆同じ寸法である。

梅貞童子早世を悼み、忠吉公の侍女が一体ずつを寄進したものである。 足利の仏師が彫刻と

云い伝えている。 現在本尊阿弥陀仏の上部左右に並べてある。

5−6 明誉上人遺留品

(明誉上人画像の写真を入れる)

当時開山明誉上人は、慶長六年(1601)十二月二日、七十七才を以て遷化された。 上人の木

像と画像が現存する。

木像は、高さ一尺四寸、天正十年二月二十五日彼岸結願(けちがん)に刻すとある。 上人五十

八歳の時のものである。

画像は彩色が施してよく出来ている。 上人自筆の頌(しょう)と辞世とがある。

紙上分身遊戯終

三心念仏一期中

朝々暮々頭々物

木馬噺時安楽風

辞世

春秋 年

端的脱因縁

莫思華開落

風清武野天

初句春秋の次に二文字を欠く、これは後人に入れさするものだった。

上人の墓は頗る美事な無縫塔である。

5−7 源道和尚

慶長五年松平下野守忠吉、清州(きよす)に移封を命ぜられる。 この時明誉上人の高弟を清州

に迎えた。 これが源道和尚である。 清州に正覚寺を開創した。

Page 30: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

30

持田正覚寺に二世となる人が無いので、鴻巣の勝願寺不残和尚の弟子祖芳を迎えて二世とし

たのである。

5−8 梵鐘

これは竪縦(たて)五尺、廻り七尺九寸、直径二尺五寸五分ある。

鐘楼は草葺である。

5−9 鐘銘(原漢文)

(鐘楼及鐘の全景写真を入れる)

南無阿弥陀仏

天下和順にして、日月清明なり。 風雨時を以てし、災厲(れい)起らず。 国豊かにして民安く、

兵戈(か)用ゆる無く、徳を崇(たっと)び仁に興る。 務めて礼譲を修む。

仰ぎ願わくは、往生同行の人等此(かく)の如き善を得ん。 又願わくは、此の功徳大唐(広大なこ

と)皇帝に資益し、福基永く聖化の無窮を固めん。 又願わくは、皇后慈心平等にして大宮(宮中の

奥殿)を哀愍(あいみん)せん。 又願わくは、皇太子恩を承(う)くること、地より厚く山岳に同ぜん。

これ真(まこと)に福命を移し、唐々倉波に類せん。 而して尽ること無らん。 又願わくば、天曹地

府(てんそうちふ)閻羅(えんら)永命伺い、罪障を滅除し、善合を註記せん。 又願わくば、修羅戦

諍を息(や)め、餓鬼飢虚を除き、地獄と畜生倶時解脱(ぐじげだつ)を得、竪に三界を通じ、横に九

居に据(お)らん。 等しく娑婆(しゃば)を出でざる莫(な)く、同じく浄土に皈(かえ)らん。 敬白

法林院殿

永応三甲午年六月九日

智照院殿 貞誉文清信女

貞享元甲子年十月九日

立地院殿 生誉道順大禅定門

貞享五戊辰年六月七日

長寿院殿 栄誉善華大姉

貞享四丁卯年九月七日

須誉覚随信士 了光院

貞享五戊辰年八月二十九日

即到院殿 念誉一入信士 松樹院

誓教院殿 願誉定閑居士 戒香院

寛永十四丁丑年八月二日

静照院殿 月芳円心信女

寛永十四丁丑年十二月六日

願誉智誓

鋳造大檀那小栗弥助正豊

Page 31: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

31

武州埼玉郡忍持田村大雄山正覚寺常什物

当寺九世然蓮社廓誉上人大和尚

元禄二己巳(つちのとみ)年三月八日

治工

武州葛飾郡深河

藤原朝臣田中七右衛門正次

同名弥七郎 正重

同 埼玉郡忍行田本町

小島仁兵衛清重

同 勘兵衛清久

(鐘銘中行田本町小島仁兵衛の文字の所を写真に取り入れ)

この鐘銘に依って鋳工が行田本町の人であることが明らかとなった。 製作年代が元禄二年

(1689)である。 この時代は忍城主阿部正武の代であって、忍城大修築の大大的準備に熱中し

た時とて大工などの工匠を多数招致したので鋳物工も来ていたと思われる。

大東亜戦争で金物の供出盛んな際、村越源太郎翁は「鋳工が行田の人とは珍しい、是非保存

したい」と私に相談された。 私は行田の如き小さな町に鋳工の居るのは全国にも例がないと思う

から、県へ請願するのがよかろうと答えた。 県でも珍しいとて、供出を免れ保存されたのである。

行田の文字が金名文として残るのはこれが 古である。

鋳造大檀那小栗弥助正豊は、旗本小栗忠七郎の子を孫次右衛門という。 その長男が孫助正

重で次男が弥助正豊である。 小栗家は忠七郎が三河で旗本に取り立てられたのである。 正覚

寺内陣の造営奉行であったことは、前述の通りである。 三ヶ尻で三千石を頂戴していた。 忠七

郎は、関ヶ原の合戦に軍功があった。

代々正覚寺の檀那であった。 忠七郎の墓である大形の宝篋印塔がある。 小形の物十余基あ

る。 本堂屋根替えには、三ヶ尻から茅を送ったということである。

5−10 小栗家の租先は有名な小栗判官

小栗判官は劇で有名である。 伝説と劇の着色と史実と混同して分明せぬが、その大要は、

小栗氏の先は鎮守府将軍繁盛の曽孫(そうそん)繁幹の四子重義。 その子重成が頼朝に仕え、

世々常陸国真壁郡小栗の地に在り地頭となり、小栗の氏を称した。 その子満重が有名な小栗判

官である。 当時は室町時代の乱世で叛服(はんぷく)常なく、特に関東は、扇ヶ谷と山ノ内との両

家が相争った。 扇ヶ谷の上杉氏憲入道秀禅は、公方(くぼう)持氏に背き、勢い盛んである。 持

氏は逃げ、山ノ内憲基は越後に走る。

将軍義持は、持氏を援けるし、憲基は越後から大軍を率いて関東に進軍した。 関東の将士又

これに従った。

入道秀禅は相模川の一戦に敗れ自刃した。 秀禅入道に与した小栗判官は、相州藤澤に逃げ

Page 32: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

32

た。 ここで山賊の家で毒酒を呑まされる。 幸いに妓女照手(てるて)に危難を救われ、遊行寺に

扶け(たすけ)られるのである。

小栗判官は秀禅入道が今川家と結んでいたので、三州に至り今川氏を頼り京に上り、将軍に訴

えて本領安堵が叶った。

小栗判官は、そこで旧領に帰る途で、計らずも照手に邂逅(かいこう)するのである。 判官は子

息小次郎助重に家督を譲り、判官は応永三十三年(1426)三月十六日歿した。

助重は嘉吉年間(1441-1445)戦功があったが、康正元年(1455)持氏の遺子成氏に攻められ、小

栗城は陥落した。 助重は三河に逃れ今川氏を頼って土着した。 その後忠七郎に至り家康に旗

本に取り立てられたのである。

照手は判官歿後藤澤に来り、長照尼と云い、判官の菩提を弔った。 永享十二年(1440)十月十

四日に歿し、その跡を長照院という。 同寺に縁起があり照手のことが詳しい。

判官には多くの伝説があるが小栗家に残るものに、判官が藤澤で上人に助けられて後は農夫に

姿を扮(やつ)し、旅から旅を重ねた。 或る辻堂に一夜の夢を結んだ。 判官は画を巧みにしたの

で、自ら鶏の絵馬を作り奉納して去った。

主人の後を追った家来が又この辻堂に一宿した。 夜半に鶏が一声高く鳴いた。 目を覚ますと

又一声鳴く、東の空がしらじらと明けると主人判官の筆になる絵馬が目に止った。 懐かしいので

飽かず眺めた。 さてはこの鶏が知らせたのであると気付き、早速と鶏の声した方向へと急ぐと、

奇(く)しくも主人に再会できたのである。 これから小栗家では決して鶏を飼わない。 飼うと火災

になると云い伝えてきた。 現当主の祖父に当る人が明治となり養鶏をやった。 すると失火した。

又飼うと亦失火したので以後飼わぬことにしたそうだ。 世間には嘘のようなこともあるものだ。

小栗判官の劇的な一生は劇作家の着目する所となり、山本土佐の古浄瑠璃小栗の判官を初め

とし、歌舞伎では天和二年(1682)市村座で「小栗忠孝車」、貞享四年(1687)同じく市村座で「二人

照手姫」、元禄八年(1695)中村座で「小栗連理枝(れんりのえだ)」、元禄十六年市村座で「小栗鹿

目石(かなめいし)」、同年森田座で「小栗十二段」、など次々と興行した。

近松門左衛門が藤澤遊行寺の縁起によって書いた「当流小栗判官」が元禄十一年二月大阪竹

本座の操り(あやつり)浄瑠璃に上演された。 又これを文耕堂が改作して元文三年(1738)八月竹

本座で操り浄瑠璃に上演し「小栗判官車街道」と云った。 文化三年九月に市村座で並木五瓶作

「湖月照手松(にほのつきてるてまつ)」を上演し、嘉永四年(1851)四月中村座で三世瀬川如皐(せ

がわじょこう)補作「世界花(せかいをばな)小栗外伝」の上演など実にその数が多いのである。 従

って小栗判官の名は人々に親しまれた。

又小栗判官の遺跡も諸国に多い。 常陸真壁郡小栗村は小栗城の所在地で勿論のこと、相州

の藤澤遊行寺には墓がある。 小栗家の所伝では上人が鰶(このしろ)という魚を焼いて判官の死

骸を焼いたと、世を偽(いつわ)ったことになっている。 墓は供養塔である。

名古屋には小栗橋、大阪から堺に行く道に小栗橋があって何れも判官が通行したからの名だと

している。

静岡県富士郡原田村鑑石園内には鏡石というがあって、照手の化粧した所と言い伝える。 園

内には清冽な水が湧いている。 又この近所の藤澤山妙善寺には判官の愛馬鬼鹿毛の墓があ

る。

Page 33: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

33

小栗家が正覚寺の檀那なので小伝を揚げた次第である。

5−11 観音堂

(安産観音像の写真を入れる)

これは元林正寺に在ったものを正覚寺に移したものである。 林正寺は山号を補陀落山、院号

を福聚院と云うから、観音に因み(ちなみ)ある山号であり院号であるから、この林正寺は観音堂の

守護寺とも思えるのである。

この観音堂は内殿があり、観音像が祀ってある。 安産観音と云われ、蝋燭の燃え残りの五六分

位のものを頂いて行き、これを灯して祈願すると、この蝋燭の燃えきらぬ内に安産すると云い伝え

る。

観音像は珍しいもので、スカートが実に大きい。 これは腹の大きいのを隠してる姿であって、孕

(みごもり)観音と云うべきである。

5−12 板碑

正覚寺境内に在る板碑中、忍名所図会に所載せらるものがある。 これは小さいものである。

惜しいことに上部半分が欠けてしまった。 上部に地蔵菩薩の像があり、下部に文永十一年

(1274)、為慈父十三年忌、甲戌三月 日とある。 甲戌は十一年である。 これは宝永四年(1707)

七月下旬、忍城本丸から堀出したものという。

その外忍城から出土したものに、寛元二年(1244)、及び永徳三年(1383)、文禄四年(1595)の記

年銘あるものがある。

6 成田 龍淵寺

成田の太平山天釣院(てんちょういん)龍淵寺は禅宗曹洞の越前国南条郡宅良谷慈眼寺末で成

田氏の菩提寺であった。 開創は成田左京亮(すけ)家時である。 家時は応永二十七年(1420)三

月日に死んでいるから応永年間の創建であるらしい。 その後永享十二年(1440)に家時の孫に当

る下総守顕泰が再興している。 顕泰は文明十六年(1484)の死亡である。 それから永禄五年

(1562)に失火して本堂を焼いてしまった。 明くる六年に顕泰の孫である肥前守泰季が諸堂を再

建した。 天正十八年(1590)忍城が開城となり、成田氏没落の後天正十九年に徳川家康が忍城

に来り四方に鷹狩りに出でた際のこと、この龍淵寺に足を運ばれた。 時の住僧呑雪がお出迎え

すると、呑雪和尚は家康幼時手習いのお相手であったので、昔のことを思い起こされて懇談に時

を移されたのである。 当寺の山号をお尋ねられたので太平山と申すとお答えすると、太平とは目

出度き名であるとて大いに悦ばれ寺領百石の御朱印を賜った。

この家康が当寺に来られた名残が色々の伝説となって今に在る。 その一つに権現水というの

が寺側にある。 家康が指図して掘らせたものだと云う。 又昔は門前の道が直線であったのを、

家康が仏の尊像を馬上から見下ろすこと憚り(はばかり)ありとあって、今日の如くに曲がってる道

Page 34: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

34

にしたと云い伝えて、これを御鷹野道と呼んでいると忍名所図会に記されてある。

龍淵寺には創建当時に就いての伝説がある。 成田五郎が或る夜の夢に白い蓮華を見た。 怪

しいと思い夜が明けてから城下の四方を尋ね求めたが、それらしいものとて更に無い。 城の西に

阿弥陀堂がある。 これは皿尾の与昌庵という堂で、その縁の下に一人の異僧の手に白い花の蓮

華を持ち黙然として座っている。 その体が凢僧でない。 これを見たので急ぎ立ち帰りこの由を

申し上げた。 急ぎ召し連れよとのことなので、使者を以て招いたが承知する様子が無い。 余り

再三に及んだので漸くにして応じたのである。 成田五郎一見して実に普通の僧侶でないことを

知った。 五郎は言葉丁寧に、「貴僧願わくば今よりこの地に止まって永く国家の清平、五穀豊穣、

衆生利益の祈祷を頼みいる、是非ともご承諾下されたい。 御承諾とあれば堂塔伽藍を建立し参

らさん」とあったので、僧は欣然(きんぜん)として御受けした。 僧の重ねて言うには「堂塔建立の

敷地として、成田の大淵を賜りたい」と願った。 五郎は「その事は、いと易いことであるが彼の大

淵は古より毒龍潜み居り、人を害することが甚だしい。 他所に清浄の地もあろう」と云うと、「いや

彼の地は貧道(ひんどう)の化縁(けえん)の地であるから」と立って望まれたので、「されば」とて望み

に任された。 五郎が「彼の淵は深きこと数十尺だから容易には埋まるまい」と云うと、僧は「その事

なれば仔細は御座いません」と答えるのであった。 やがて大淵に赴くと多くの人々が御伴した。

僧は淵に至り水上を歩むこと平地に異ならない。 淵の中程にある大石の上に坐した。 送ってき

た人々は驚いて言葉もない。 急ぎこの由を五郎に申上げると、五郎も奇異の思いをせられ、「さ

ては仏菩薩の化身にてもあらん」と、直ちに伽藍を建立し永銭二百貫の地を寄せ、太平山龍淵寺

と名づけた。

この僧は和庵清順和尚という。 五郎は深く帰依した。 さしもの大淵を悉く埋め立て平地とした

のは、応永十八年(1411)七月七日の夜であった。 故に本堂の竣工はその後幾何(いくばく)も無い

ことと思われる。

清順和尚この所に在ること五十四年、容貌昔に変わることが無い。 弟子の旗雲和尚に譲って

忽然として姿をくらまし行く所を知らない。 これは面白い縁起である。 思うのに当時戦国の世は、

生民塗炭の苦しみに喘いだ。 為に宗教家はこれが救済策として遺利を求め、開発に努力した。

清順もこの一人で、寺院の敷地に良田を潰すことを嫌い、池沼を埋めてその用に供したらしい。

成田氏は、永くこの遺策を忘れず、寺院その他の敷地には、池沼を埋めて使用したのである。

古代の測量には、夜間提燈の火を目標にしたのである。 時人(じじん)その何為(なんのため)

かを知らず不思議に思い、かかる伝説を生んだのではないか。

6−1 太平山龍淵寺碑 (原漢文)

忍城侯世を承(う)け来りて 三年采地を按行し民の愁苦を問う。 一日寺に入り旧事を尋訪す。

舟答えて曰く。 其の詳なることは悉く冊記に存せり、今要略を言わんに是地本(もと)激淵を為し蛟

龍(こうりゅう)有りて人を害す。 応永三(1396)始めて吾祖和庵禅師行化(ぎょうけ)し来て静処に

寓止す。 往時藤姓の支なる成田氏世々是地を食(は)む。 家時氏に当て師に真風を問う。 家

に請うて旦夕(たんせき)道を問い弥々これを高くす。 一日師に謂いて曰く吾師の為に梵宇を建

てんと欲す。 請う地を指せ。 師領して直ちに龍淵の下(もと)に往いて佇望すること久し、欻爾(く

つじ=突然)として蛟龍淵に出で 波を崩騰して師の前に至る。 告げて曰く、爾(なんじ) 已に能く

Page 35: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

35

大に又能く少とならんやと、龍退縮して小蛇の如し、師掌を伸ばし震怒を降ろす。 龍便(すなわ)

ち潜沕(せんふつ=深く沈む)し已に波浪沈静し中に一嶼(しょ=島)を見る。 師将に衣を揚げて而

して渉(わた)る。 忽ち一狐有りて前行す。 師是に従って嶼(しま)に上がるに狐を見ず。 宴座寂

黙暁に至る。 畴夕(ちゅうせき=昨夕)の淵尽(ことごと)く枯涸す。 唯一小井を餘すのみ。 実に

十八年辛卯七月七日なり。 成田氏大いに喜びて即日地界を結し劃(かく=画)して禅苑を造る。

その年十二月に成る。 乃ちその月十五日を以て師に請うて寺の開祖と為す。 山を太平と号し

て時の紛乱を極(おわ)り、寺を龍淵と名づくるはその事実に基づく。 師往して後、道価日に貴く、

四遠来輳(しえんらいそう)す。 家時の孫顕泰その祭祀を承け、家政に敏し、大いに龍淵の宇を増

崇(ぞうすう)し四時給賑す。 時に一州の冠たり。 寛正五(1465)年庚申(かのえさる)旗雲和尚遠

く風を見て趨(いた)る。 開祖一見して克(よ)き家子たることを知る。 十一月十五日後事を属して

門を出でて去る。 終わる所を知らず。 顕泰氏国事に功あり、中越富山城を加賞さる。 乃ちそ

の地に就く。 光巌を創し雲に請うて第一世と為す。 雲龍淵を以て惟通に属す。 後十世孤峯に

至る。 是時に成氏(成田氏)地を野の烏山に移す。天正の間東照神君忍城に在り、時日遊猟(ゆう

りょう)して孤窮を安撫し姦狂を検逐す。 十八年辛卯十月偶々(たまたま)寺に来りて孤峯を見て、

その御国を問う。 即ち実を以て答う。 神君驚き豈 子は吾が幼時、吾に侍従する者に非ずや。

悲喜甚だし、席上この州の洞宗(曹洞宗)僧司(都)を命ず。 辞して曰く、吾に八弟在りて猶和する

こと能わずば、正に况(いわん)や能く衆に於いてせんやと、又常邑を捨てて寺荘と為さんと、辞し

て曰く土地は吾が冝(この)む所にあらずと、乃ち百石を給う。 又将に辞せんとす。 神君曰う母

(なか)れ以て香華に充てよと、乃ち帳(しる)して曰く、仏法相続の為なりと、是に於いてか収めて招

提(しょうだい)と為す。 自後数々(しばしば)来て清談し或は屈偃し、松下に発語し、或は門径を転

じ、或は橋を移し一時伊奈氏に命じて庫院の東南に於いて 井を鑿(さく)し、甘泉玄(たちどころ)に

湧き、餘流荘田に及ぶ。 或は謙譲に憑(よつ)て以て暴威を靡(なびか)す。 実に仁善の基づく

所なり。 文禄三年(1594)七月神君叱澗和尚に命じて峰席を続がしむ。 澗住す。 後神君来て

陞堂(しょうどう=高い所)に請じ、その永く常恒法灯の地を為し餘寺と異なることを命ず。 司局を経

て乞請す。 尾州侯の祖薩州君(忠吉)忍城に居るに适(およん)で頻(しきり)に来り参禅す。 澗手

(てづ)から榜標を裁す。 濃洲の戦に先鋒す。 時に佩旗(はいき)の題を澗に請う。 澗直鋒の字

を以てす。 別(わかれ)に望みて法衣を贈る。 尾州侯となり澗に請うて雲門に居り道を語らしむ。

後雲門を以て明嶺に属し龍淵に帰る。 厥(その)後事に因りて寺門稍微し、大岑席を董(ただ)す

るに及び頽廃を復す。 過半開創已来 幾乎(ほとんど)三百五十年なり。 その間興衰更に今は

古に及ばずと雖も、余沢を稟(う)けて古蹟の存する者四五、その中安祥石独り寂として猶在るが

如し、尤も雄と為す。 城君歎じて曰く、戯(ああ)、昔事に於いて開祖の道徳洋々たり。 公侯外護

(げご)の昭々たり。 吾亦随喜す。 曷(いずくん)ぞ石に刻して旃(これ)を旌(あらわさ)ざる無からん

やと、唯諾して碑を止む。 辞に曰く。

道の通塞適(つね)無く莫(りらき)なし、君侯の命新に隣有り徳有り、松の奇古寒に凋落せず、淵

の深霊暑に乾涸せず、億萬斯年物と偽り則と作(な)る。

維時寛延四龍次辛未仲春二十四日現住円木舟建立。

この碑の撰文は、指月禅師と云われる。

Page 36: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

36

龍淵時には、成田市累代の墓石があるが、悉く江戸中期のものであるから、後世の人の建設で

ある。

又成田氏に関する古文書、成田分限帖、成田系図、成田記などがある。

頗る大なる本堂があったが、昭和二十五年一月三十一日焼失した。

7 熊谷 熊谷寺(ゆうこくじ)

蓮生山熊谷寺は浄土宗で京都の智恩院末である。 熊谷次郎直実、蓮生坊のお寺として名高

い。 本尊は阿弥陀如来、脇壇に蓮生法師の木像がある。 又蓮生法師の廟所と称するものがあ

る。

その廟所にある石塔は古き石塔の寄せ集めたものの如くに思われる。

天正年間幡随意上人の中興開基である。 蓮生坊時代は小さな草庵であった。

安政元年(1854)正月に焼失して後仮本堂であったのであるが、大正四年四月に竣工したのが

現下の建物である。

当寺に安置してある蓮生坊の木像に就いては一つの話がある。 それは昔、この木像を盗み出

したが、熊谷宿の中程までは来たが、どうしても熊谷の地を離れることが出来ないで、夜が明けた

ので、木像を捨て立ち去った。 この盗人後で懺悔して本堂に御籠りすること度々であったが、遂

に善人に立ち戻ったと云われる。

熊谷次郎直実即ち蓮生坊の伝記および墓所は沙門伝に述べて置いた。

7-1 寺寶

蓮生法師一代絵巻

(蓮生法師一代絵巻中よき場面のものを写真として入れる)

熊谷寺門前に和泉屋という呉服店があった。 主人の川辺清蔵は蓮生法師一代絵巻を熊谷寺

に奉納せんとして、南画の大家高隆古に製作を依頼した。 画伯も快諾し、暫く石原の松村楼に

滞在して完成したもの。 後故あって東京の骨董商にあったのを熊谷有志が醵金(きょきん)して買

い取り、明治二十六年に寄進したものである。 高隆古は、忍藩主阿部侯の家臣である。

8 小見 真観寺

蔭雲山真観寺は長野の長久寺末で御朱印十石を貰っていた。

当寺の縁起には推古天皇の朝に創建したとあるが、如何がなものか、一寸信じ兼ねることである。

その後非常に荒廃したのを順徳天皇の御代建保年間(1213-1219)に瀧憲阿闍梨が再建したとい

う。 これが創建なのであろうと思われる。 爾来三百余年を経て真言宗の道場となった。 元亀

年間(1570-1573)足利氏の為に兵火に罹り全焼した。 本尊の観世音菩薩の尊像は老松の枝に

懸りて難を免れた。 住僧程を経てこれを知り尊み敬いて堂舎を営みて安置し参らせた。 その後

天正十八年(1590)石田三成の忍城攻めに又兵火に罹り古の形を全く失いしところ、慶長九年

(1604)十一月に徳川家康公の御耳に達し、寺領十石を賜り爰(ここ)に堂塔を営むことを得たので

ある。

Page 37: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

37

忍名所図会によると観音堂の左手に寝釈迦堂があり、その中に唐銅の六尺ばかりの涅槃像が安

置され、又右手には阿弥陀堂があり、山門もあって仁王尊が左右にあったとある。

(本尊観音像の写真をいれる)

この観音堂の背後に古墳がある。 車塚(前方後円墳)であって高さ二間半、周囲三町ばかりで

ある。 内に石槨(せつかく)がある。 これは文化年中(1804-1818)に発掘したもので内から菊花章

のある金椀を出したという。 明治十三年の春にその東面した所に一棺を発見し内から骨瓶、鎧、

冑、葥鏃(やじり)、金環、金装刀などを出した。 骨瓶は瓦焼きであって高さ一尺六七寸、葥鏃は

腐食して数百枚が一塊となしていた。

本尊観音像は、美事である。

9 東竹院

久下の東竹院は御朱印三十石であって、境内地は、東西五十間三尺、南北二十三間の面積一

千百六十一坪である。 曹洞宗下総国結城孝顕寺末で、建久の頃久下次郎重光の開基である。

永保年間に至って深谷城主上杉三郎憲賢が中興した。 文久三年(1863)癸亥八月荒川洪水の

災いに罹って堂宇を流出した。現在のものは、その後のものである。

境内に久下次郎重光の墓があったが文久三年の水災で流失した。

その外に久下権守直光の墓と上杉三郎憲賢の墓及び同母の墓が在る。 久下の地には市田

太郎の居趾がある。 市田太郎は武蔵七党の一私党の支流であって、忍の城主成田下総守氏長

の甥にあたる。

10 浄泉寺

下川上村浄泉寺は、曹洞宗で成田龍淵寺末で慶長九年(1604)寺領二十石を賜っていた。 中

興開山は龍淵寺三世惟通圭懦である。 明応九年(1500)二月十三日当寺を中興した。 以前は

臨済宗であったと云われる。 龍淵寺は代々廃寺を復興して末寺を造立してるから惟通もこれに

依ったらしい。 惣門の棟札及び先住物山和尚の記に惟通中興のことがある。

当寺は明治の代に住職鈴木嶺道が書生に漢学を教授したので有名である。

寺域東西五十間七分、南北五十七間あった。

11 照岩寺

北河原村の照岩寺は臨済宗鎌倉円覚寺末であって、慶安二年(1649)に御朱印十二石余りを賜

ってる。 当寺は河原次郎盛直の家人森和泉入道道本が主人冥福の為に草創したと云い伝え

る。

両人の位牌が安置してある。 又この両人の法号の文字を採って山号としたという。

開山詞久和尚は嘉慶(1387-1389)二月九日遷化。 開基道本は、正治二年(1200)四月二日歿

している。村民森五右衛門は道本の子孫だと伝える。

寺域は一千二百四十五坪ある。

Page 38: 持田 正覚寺 三十石 - gyouda2012.cocolog-nifty.comgyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol52.pdf · 御朱印とは御朱印状のことで、室町時代末期に武将の公文書に朱印を用いたよりの名称である。

38

12 法性寺

上新郷の法性寺は、浄土宗で鴻巣勝願寺末である。 慶長の頃宗譽残徹(ざんてつ)和尚の開

山。 慶長九年十五石の御朱印を貰った。 残微和尚は、慶長十一年(1606)三月七日遷化であ

る。

風土記には開基は、成田下総守の家人内山加賀といい、法名を宗顔禅定門と云うとある。 成

田分限帳には見えないが、十八貫文以下家禄の人に内山姓の者が数ある。 法名から考えても

身分の高い人とは思えないから、或はこの内山氏の内の人であるらしい。

寺域は八百十二坪あった。