日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - meiji...

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Page 1: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

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 「日本映画オーラルヒストリープロジェクト」は日本映画の分野に携わってきた方々にインタヴ

ューを行い口述資料として収集保存することを目的に言語文化研究所の活動の一環として芸術学

科の映像研究の教員が中心となり計画され第一回として映画プロデューサーの田口寧さん(『言語文化』

三二号)第二回として映画監督の篠田正浩さん(『言語文化』三三号)のインタヴューを掲載した今回

掲載する第三弾は徳島県美馬郡つるぎ町にて長年にわたり貞光劇場を経営されてこられた藤本一二三さ

んのインタヴューである

 

古い映画館が続々と消えていく昨今日本映画の全盛期の映画興行に関する証言が将来ますます重要

度を高めていくだろうとの思いから今回は映画興行師を選んだ映画館および映画興行は近年日本

でも注目を集めつつある研究テーマとなっている映画館への学術的社会的な関心が近年の日本でも

高まりをみせている背景には都市と地方で同時並行的に「ミニシアター」「名画座」等の独立系映画館

日本映画オーラルヒストリープロジェクト

斉 

藤 

綾 

ローランドドメーニグ

門 

間 

貴 

115

日本映画オーラルヒストリープロジェクト

が閉館しその存在が失われているという状況があるそうした関心の高まりにもかかわらずこの分野

に関する先行研究が日本で必ずしも蓄積されていない要因として興行関連の非公刊のノンフィルム

資料が既存のフィルムアーカイブ等において保存の対象になりにくく分析すべき一次資料の整理調

査が不足しているという課題が存在しているこのことを鑑み今回インタヴューした藤本さんの追想談

は貴重な証言となっている

 

なおここで公開するオーラルヒストリーはあくまでも語り手が個々の記憶にもとづいて口述した

歴史である方言のままなので読みづらい所もあるかもしれないが「記憶を歴史にする」というオーラ

ヒストリーの主旨にもとづいて語り手の発言を尊重することを読者諸氏にはご理解いただければ幸い

である

116

戦前の貞光劇場

―藤本さんは山田洋次さんと同じ年に生まれたんです

か藤

本 

同じ年ほやで馬が合うねん会った瞬間から

―昭和六年(一九三一)ですよね

藤本 

昭和六年

―貞さだみつ光劇場が開館したのはその翌年の昭和七年

(一九三二)ですね

藤本 

はい

―子供のころから常にこういう劇場があって育てら

れたわけですね

藤本 

そうそう(写真を見ながら)これだってね劇場の

中で私は何歳ぐらいだったろうか劇場の中で寝てねそ

れで私が寝とるのを知らんもんじゃけん従業員もそのまま

戸締まりして往い

んでしもたそれで私が「おらん」「おらん」

言うて家の人が捜したってそしたら劇場で私が寝よった

って(笑)それぐらいもう劇場の中に馴染んでしもうとんね

ん(笑)

日本映画オーラルヒストリーensp

第三回

「藤本一ひ

二三」

聞き手 

ローランドドメーニグ(明治学院大学准教授)

スザンネシェアマン(明治大学教授)

上田 

学(早稲田大学演劇博物館招聘研究員)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

117

―一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね

藤本 

そうさね演劇じゃね演劇でもいろいろしたんです

よ浪曲な漫才な歌舞伎それから何でもしたことある

んですよあれ梶原というんかなあれ何ていうんかな露

天商みたいのが大勢集まってこうするやつ

―ヴァラエティ的なもの

藤本 

梶原というんでちゃうな何とか言うねサーカス

サーカスまではいかんけどなそんなんしたことあんねんで

あの舞台にね車を入れたことあるんですよ自動車それで

何したかといったらね花道あったら花道を通らんで横へ

付けてねそれでその車を上げてねその舞台でなそれを口

で引っ張るというやつをしたそんな芸当をした戦前はそん

なんがあった

―この劇場はここの地域貞光で初めての劇場だっ

たのですかその前にも劇場があったのですか1

藤本 

その前は私は記憶がないね

―ここに来た劇団というのは地元の劇団ですか

藤本 

地元ですここには春子太夫というのとねそれから

もう一つ何とかという地元のやつやねその春子太夫という

のは徳島に石井という町があるわねそこの出身の人だった

よう受けたんですよというのは歌舞伎でいつも男の人が女

役をしよってこう尻まくりというのがある歌舞伎である

んですよこう尻をぱっとまくってなそれで膝を組む石川

五右衛門という知りませんか

―五右衛門は分かります

藤本 

そういう役をする人がね徳島の石井にね劇団をつ

くったのそれはもう戦前じゃわね戦後は来なんだです春

子太夫といってねよう受けとったんですそれはもう正月と

か盆とかその人がやっぱり来よった

―それは徳島の中で活躍されていた劇団ですねその

ほかに例えば大阪とか京都とかの劇団が巡回していました

か藤

本 

ああ巡回するやつも来たのは来たわねうちに入っ

てみたら木の額があるねその額を見たら昭和七年八年

九年ごろによそから来たやつの額を書いとるのがありますわ

それは有名なのが来てますよ春野百合子2

とかもう一つ何

とかいうのがある

―戦前の貞光劇場は芝居小屋で演劇が中心でしたが

映画も上映しましたか

藤本 

映画は少ない映画は無声映画だったけんな無声映

画では動員がでけん

―ではその弁士さんもよそから来て

藤本 

無声映画をしよった九州の人ですわあれは遅うま

でしよったですわ私が汽車に乗って行ってたときにもそこ

にあったん知っとるぐらいじゃけ私は大きくなっとるわな

そこがうちへ売り付けに来た

118

青春時代と父親の経営時代

―ちょっと確認したいのですがこの『昭和三十一年

版全国映画興行配給業界紳士録』(一九五六年)に載っている方

は多分お父さんだと思います

藤本 

藤本伝助うちのおやじ

―もともと貞光の牧場主だったと書いてあるのですが

藤本 

うちのおやじはね映画は無頓着それで他人任せで

私が学校に上がってからな私が主役になった伝助は名前だ

けで牧場というのはねうちのおやじがこっちの山の出身

本当に若くしてねこう言うたら怒られるけど無学の方で勉

強もせずにな一生懸命に働いた人それでこういう牧場と

いうのはこっちに美馬橋という橋があるでしょう貞光川か

ら河川敷を全部県知事の原菊太郎が買ってねうちが占有しと

ったのごく最近まで昭和何年だろうかだいぶうちが権利

持っとったんですよその権利私が建設省へ戻した県がこ

の川の権利を持っとったですよそれをそのときに建設省に取

り上げた県に許可証を取り上げられたただみたいに取り上

げられた国が取り上げるちゅうだけんだからそれまで県

が持っとった河川敷の力を吉野川も皆建設省が管理する

ようになっただから今は国になっとるんですよ

―お父さまは映画に関心なかったのですか

藤本 

なかったうちが牧場しよったんでな牛をようけ飼

いよったんですよそうしたら牛の飼料として河川敷の草を

刈らないかんそれで権利をもろうてね牛をようけ飼いよっ

た―

なぜお父さんは劇場を造ったのですか 

つまり牧

場だけ経営していれば

藤本 

これはねうちのおやじとね津司さんという人が共

同で造った敷地はみんなうちのおやじが手に入れたうちの

おやじとその前のオオモトさんといううちのおやじの兄弟

が養子に行ったところの人でその家の人が持っとったそれ

をおやじが回収したそれでうちのおやじが土地を持っとった

けん場所はここがええだろうというんで造った

 

そやけどうちのおやじは映画には関心がなかったという

のは牧場や農業やいうのは頭は別に使わんでええやないです

かこう言いよったら農業や牛飼いよる人らに怒られるけど

もな大体が牛なら牛を大事にしてやりゃ飼料やってやりゃ

牛は大きくなるほんじゃけんあそこでうちのおやじは牧場

それから竹林というのがあそこの竹があったんですよ河

川敷全体それは町が持っとったそれをうちのおやじが買っ

たりしてね竹の商売もしとるそしてこの辺はみんな桑地

でこの劇場から向こうは全部桑地今は町になった貞光は

桑地の町カイコ製糸があったんですよ貞光は製糸で生活

をしとった

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

119

―カイコの町は裕福だったという印象があるのですが

藤本 

脇町も製糸があった筒井製絲3貞光は何とか製糸

というのがあったんですよ製糸はみんなつぶれたけどね筒

井もつぶれたけどね私がいたときは筒井製絲はあった今は

キョーエイさんとか何とかというスーパーができとるでしょう

私が行ったときは製糸があったあの町は私が行ってからで

きたんだそれまで町はなかった私が脇町に行きよったとき

は竹やぶの淵を通って行きよっただから脇町に関して私

は一番よう分かる中学校の十代から脇町からだいたい十キロ

歩いたり汽車で行ってあの付近から歩いたりしたんで私

は脇町から土曜日は歩いてますけん高校の一年二年のとき

は脇町から歩いて戻って来よったんですよというのは土

曜日は汽車がなかった朝八時に行ったらね帰りは四時半ま

で汽車がない土曜日は昼で終わるでしょう四時まで待たな

いかん私はあの遠い所から歩いて戻って来よったそれで三

年くらいになって汽車が一時ごろもできた汽車がなかった

(笑)―

学生のころ学校でも頻繁に映画上映会がありまし

たか

藤本 

それはなかったよ私が中学校のときは全然なかった

無声映画の上映について

―子供のころに映画を観る機会は貞光でもあった

のですか

藤本 

私の頭の中にあるのはな無声映画その無声映画と

いうのはどんなんがあったかというとこっちに弁士がおるん

ですよ机置いてそれでそっちに楽団の人がおるんよ囃

す人がそれでこっちで無声で映写機を廻すそうしたらこ

っちの人弁士が画面を見てそれで台本というのがあって

それ見ながら泣くところは泣いたりしてこうするんそれで早

くする駆け足みたいになったら映写機が早く回るそれに合

わせて弁士がやる

―それはここ貞光での無声映画上映会の記憶ですか

それとも徳島の市内やどこかで無声映画を観た記憶ですか

藤本 

私はここでしたのを言いよんのよ徳島では観たこ

とない徳島でも無声映画というものは戦後もあったんです

よその無声映画をしよった人が駄目になって高知か九州

か引き揚げていったそのときにうちに売り込みがあったんよ

その館を買わんかと言うてというのはうちが売れとったけん

な地方でも残っとってもな残ると思って売り込みに来た

それが無声映画のねわし台本を持っとったんやその台本

ね今のここの骨董品を開いとる人になその人に見せたら

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「売ってくれ」「売ってくれ」と言って私が去年かしら売った

台本文部省の印を押してそれは『瀧の白糸』(一九三三年)

かな有名でしょうその台本だけあったそれでフィルムは

ね私は『瀧の白糸』と思ったんだそのフィルムそうした

ら徳島新聞の人でな出身が関大か知らんでな関大の先生

がそういうのを捜しよるという「ほな藤本さん関大の先生

がおるけんなそれ見せてくれるだろ」と言うんやそうした

ら私は見てみなんだらなそれで見てみたら台本は『瀧の

白糸』だったけどなフィルムが違うんよ今でもあるけどな

台本とフィルムが違う

 

というのは私ねうちに買うたときにそのフィルムも来と

ったと思うまたそれね戦後うちが買うてからね鴨島に

岩本さんという人があったんよその人がね十六ミリの映写

機も私が買うとったけんなそれが徳島で遅うまであった昭

和三〇年の初めぐらいまでか無声映画のな徳島の新町橋あ

るでしょうあれを渡ってこっちにあった無声映画館という

のが専門で4もう人気があったんですよそやけどそれ

が始末していくときにうちに売りに来た映写機とフィルム

と台本やそれで買うとったのをまた鴨島の岩本というのが

来てねその十六ミリの映写機を売ってくれってそれでフィ

ルムを付けて売ってくれと言ってそのフィルムを付けたのは

台本とフィルムとが違うて

―では戦後もまだ無声映画だけをやっている映画館が

あったのですか

藤本 

あったんですよ徳島にあったんですよ無声映画は

あったんですよそれが引き揚げていくときになうちにいろ

いろな資料を売り付けて九州かしら行ったんだよ

映画への目覚め

―藤本さんが映画に魅了されたのはいつごろですか

戦後になってからですか

藤本 

私が高校を卒業したのは昭和二五年かな二四年にね

『青い山脈』(一九四九年)という映画があった誰だったかな

今井正監督池部良と原節子主演かあれは私昭和二四年に

うちの劇場でなしに封切館徳島まで行って観た感動を受

けたね私はあれには涙が出たええ映画だったけんねそれ

で二五年に私高校を卒業したでしょうこりゃ映画がいいっ

ておやじは「おまえ大学行かんのか」と「いや大学行かん

私は映画にすぐ行く」と二四年に学区制になってね川向

こうは脇町高校川のこっちは穴吹高校と分けられた穴吹は

女子高だった脇町は男子校それで戦後初めて男女共学と

いうのができたんですよそのためには女子の方に男子が行か

ないかんでしょう脇町から行かないかんでしょうだから

私は穴吹高校に一年行った穴吹高校第一回生脇町高校第二

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

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回生私がおるときに高校ができたけんだから両方の卒業

生だから寄付のことが来たらね第一期生の穴吹高校から

寄付それで第二回の脇町高校から寄付両方から来るうち

の子供もね次女は脇町長女は穴吹に行った穴吹に行った

ら英語科があってな次女の方は理系の方がいいけんと薬剤

師になるけんと脇町に行った両方から来るんですよ(笑)

―昭和二四年に『青い山脈』が大ヒットして昔の映

画年鑑によるとその年に貞光劇場が映画館としてスタートし

たと記録されているのですが

藤本 

いや映画はもっと前からしよったよ昭和二〇年ご

ろからね『君の名は』(大庭秀雄監督一九五三年)とかな5

映写技師の免許取得

藤本 

私が二五年に高校を上がってすぐに映画館に入った

ですよほんじゃけん二五年に私あのころは映写技師の免

許が要った国の私も持っとるけんな見せてあげますわ

(資料を取り出す)これは一級と二級があるけんこれは一級

の免許を取った徳島で受けたそれで労働基準局がくれよ

った―

その免許を取るにはどのぐらいかかったのです

か 

そういう訓練とか

藤本 

うちので慣れてるでしょうそうしたら徳島の封切館

で試験官がおるんですよそれでその人がね「はい時間

で行きますよはいフィルムかけて映して」ってこう映

すんだそれでその動作を見よって「よろしい」とそれで

学科試験があります学科試験がそれで通るか通らんかが決

まって後から通知が来る

―すぐ取れたわけですね

藤本 

取れた一発でいった

―ご自分の劇場で訓練しましたか

藤本 

そうそう訓練してね6うちの劇場に前香川県の

何とか劇場で一流どころでね無声映画のところから来よっ

た技師さんがおったんですよヒラマツとかいう人がうちの

劇場が機械を作ってしだしたらちょっとの間その人が教え

にきてくれたその後また貞光の出身の人で徳島の何とか封

切館にいた人が私を教えてくれたよそれでよかったのはね

その貞光の出身の人が徳島の封切館に支配人でおった「藤本

さんな前の日に来ない」と「教えてあげるけん」そうし

たら泊まりがけで行ってその人がその試験する映写機で

うちの映写機と向こうの映写機は違うでしょう迷う皆び

っくりしてでけんねそやけど私は前の日泊まり込みで行って

からね試験官がびっくりしてる大体みんな初めてで私は

一人だけ知らん顔して始めてなそれでぱっぱっぱっぱとこう

やったそうしたらびっくりしてるの試験官どうしたの

122

こんなにうまいそれでぱっぱっぱっぱっとしてぱーとした

らな「はいよろしい」って(笑)

 

ここの出身者の映写技師が二人おったんよ一人は徳島の鴨

島の封切館におってその人が体を悪くして貞光に戻ってき

たそれでうちに来てくれてすぐ死んだけどな教えてくれ

たそうしたら今度は徳島のなこっからまた徳島ジョウ

トクさんという人が徳島の封切館におったんやそれでその

人が「そこで試験するけんな藤本さん来てな教えてあげる

けん泊まり込みで来ない」と

―最初ここで映画を上映するようになったとき自

分で映写技師を務めたのですか

藤本 

そうそう

―映写機はいつ

藤本 

うちには買うてありました『君の名は』をするころ

に買った大阪にね映写機屋がおってねそこで買うた武

仲さん7こんなものじっと置いとってもな値打ちがないね

ん(笑)

貞光劇場の経営者に

―これも昔の映画年鑑の資料なのですが一九六一年

に初めて藤本一二三さんが責任者として名前が出てくるのです

六〇年までオーナーはお父さんの藤本伝助ですがもう一人

藤本茂という支配人がいます8

藤本 

それはいっときだけこれはもう済んだことじゃけん

税金の関係茂さんは義理の兄私の姉の婿だったというの

はねそこには子供が大勢おったあれを引く申請して扶養

家族を引くでしょうそうしたらその人には子供が五人ぐら

いおったんやそうしたらわが夫婦で七人もなるでしょう

そうしたら税金がかからんそんなのでこれは名前だけだっ

たんでこれのそうしたら税務署の申告で怒られた実際は

藤本がしとるでと言うて怒られた

―それは一九五〇年代でも実際には藤本さんがやって

いたのですか

藤本 

そうこの人はせえへん

―記録の上ではお父さんと

藤本 

おやじが許可をもろてずっと営業しよった営業の名

前私らがしたって別にかまわへんのだからうちのおやじ

が死んだらおやじは昭和五十何年に死んだそれまでずっと

おやじの名前で私がしよったそれで税務署に言われたんや

「藤本さん名前も変えないかん」と「へえすんまへん」と

それで私の名前に変えたんや

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

123

貞光劇場の観客

―今貞光はつるぎ町になっていますが戦前の劇場

ができたころ貞光の人口はどのぐらいだったのですか

藤本 

人口は六千ぐらい

―それで大体劇場に来た人は貞光の地元の人が中

心だったのですか 

周りの町からも来たのですか

藤本 

違うんですよ山田洋次さんの映画祭をしてもね百

人入るとしたら八〇まではよその人貞光は二〇そんなん

ですどの辺の人が来るかといったらね川向こうの郡こおざと里に

うちがしよった郡こおざと里

劇場があったそこの町の人それから

合併してつるぎ町になっとるけど半田の人その向こうは東ひがし

美みよし好になっとる三み

も加茂の人それでその川向こうの三み

の野こ

れだけの範囲から来たんでよその人がようけ来よる

―それは昔からそうだったのですか

藤本 

それは昔からそうです東からは来ないそれという

のは向こう9

は私は文化の町言うねん大きな町やとうち

は六千で向こうは一万かなっとるやろ違うわけやあそこ

の高等学校私もあそこの高等学校にお世話になったんやあ

そこに五年もいたんで向こうはまあいうたら偉ぶっとるわ

けやなほんじゃけん町民もそういう感じで全然来なんだ

私は両方で出しとるから分かるんじゃけん全然来んなそれ

はねおかしいもんそやけんどやね売上げは貞光が十万だ

ったらあそこは三万ぐらい上がる

 

ただあそこで貞光に勝ったのはね吉永小百合の『愛と死

をみつめて』(斎藤武市監督一九六四年)かあれは内容が

ねちょっと高尚なんですけどなあれはものすごい入った

これはねおかしいもんですよ許可映画というもんがなか

ったら子供は入れなんだそれで『愛と死をみつめて』だった

ら大体小学校の生徒は観るもんでないと思うでしょう中学

校やまあ高校の上やと思うでしょう違うんですよ私はあ

れはびっくりした私が脇町劇場で座っとったらな10切符売

り場でそうしたらいつもいる先生がね「藤本さんもう

『ドラえもん』とか『ゴジラ』やいうんはなもう子供は席を立

った」って言うんじゃって「ああいうもん観せてくれと言う

『愛と死をみつめて』は許可するけんな」と私はそんな許可す

るなんて思ってない逆らえへん「そうですか先生」そ

うしたら入場料は五〇円だったあのとき「この映画高い

けん先生七〇円にしてよ」と「藤本さん七〇円高いな」

「ほんならまあどうにも」と「藤本さん七〇円で許可したけ

んな」とようけ来ました

 

それで私の友人がね江原中学校で先生しよるのがおる

江原中学はうちの劇場から脇町劇場からだったら四キロあ

る今高校中学生やったら自転車でしょう当時は歩いて

来たんだよそれが日曜日なんやノノムラという私の友人が

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 2: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

115

日本映画オーラルヒストリープロジェクト

が閉館しその存在が失われているという状況があるそうした関心の高まりにもかかわらずこの分野

に関する先行研究が日本で必ずしも蓄積されていない要因として興行関連の非公刊のノンフィルム

資料が既存のフィルムアーカイブ等において保存の対象になりにくく分析すべき一次資料の整理調

査が不足しているという課題が存在しているこのことを鑑み今回インタヴューした藤本さんの追想談

は貴重な証言となっている

 

なおここで公開するオーラルヒストリーはあくまでも語り手が個々の記憶にもとづいて口述した

歴史である方言のままなので読みづらい所もあるかもしれないが「記憶を歴史にする」というオーラ

ヒストリーの主旨にもとづいて語り手の発言を尊重することを読者諸氏にはご理解いただければ幸い

である

116

戦前の貞光劇場

―藤本さんは山田洋次さんと同じ年に生まれたんです

か藤

本 

同じ年ほやで馬が合うねん会った瞬間から

―昭和六年(一九三一)ですよね

藤本 

昭和六年

―貞さだみつ光劇場が開館したのはその翌年の昭和七年

(一九三二)ですね

藤本 

はい

―子供のころから常にこういう劇場があって育てら

れたわけですね

藤本 

そうそう(写真を見ながら)これだってね劇場の

中で私は何歳ぐらいだったろうか劇場の中で寝てねそ

れで私が寝とるのを知らんもんじゃけん従業員もそのまま

戸締まりして往い

んでしもたそれで私が「おらん」「おらん」

言うて家の人が捜したってそしたら劇場で私が寝よった

って(笑)それぐらいもう劇場の中に馴染んでしもうとんね

ん(笑)

日本映画オーラルヒストリーensp

第三回

「藤本一ひ

二三」

聞き手 

ローランドドメーニグ(明治学院大学准教授)

スザンネシェアマン(明治大学教授)

上田 

学(早稲田大学演劇博物館招聘研究員)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

117

―一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね

藤本 

そうさね演劇じゃね演劇でもいろいろしたんです

よ浪曲な漫才な歌舞伎それから何でもしたことある

んですよあれ梶原というんかなあれ何ていうんかな露

天商みたいのが大勢集まってこうするやつ

―ヴァラエティ的なもの

藤本 

梶原というんでちゃうな何とか言うねサーカス

サーカスまではいかんけどなそんなんしたことあんねんで

あの舞台にね車を入れたことあるんですよ自動車それで

何したかといったらね花道あったら花道を通らんで横へ

付けてねそれでその車を上げてねその舞台でなそれを口

で引っ張るというやつをしたそんな芸当をした戦前はそん

なんがあった

―この劇場はここの地域貞光で初めての劇場だっ

たのですかその前にも劇場があったのですか1

藤本 

その前は私は記憶がないね

―ここに来た劇団というのは地元の劇団ですか

藤本 

地元ですここには春子太夫というのとねそれから

もう一つ何とかという地元のやつやねその春子太夫という

のは徳島に石井という町があるわねそこの出身の人だった

よう受けたんですよというのは歌舞伎でいつも男の人が女

役をしよってこう尻まくりというのがある歌舞伎である

んですよこう尻をぱっとまくってなそれで膝を組む石川

五右衛門という知りませんか

―五右衛門は分かります

藤本 

そういう役をする人がね徳島の石井にね劇団をつ

くったのそれはもう戦前じゃわね戦後は来なんだです春

子太夫といってねよう受けとったんですそれはもう正月と

か盆とかその人がやっぱり来よった

―それは徳島の中で活躍されていた劇団ですねその

ほかに例えば大阪とか京都とかの劇団が巡回していました

か藤

本 

ああ巡回するやつも来たのは来たわねうちに入っ

てみたら木の額があるねその額を見たら昭和七年八年

九年ごろによそから来たやつの額を書いとるのがありますわ

それは有名なのが来てますよ春野百合子2

とかもう一つ何

とかいうのがある

―戦前の貞光劇場は芝居小屋で演劇が中心でしたが

映画も上映しましたか

藤本 

映画は少ない映画は無声映画だったけんな無声映

画では動員がでけん

―ではその弁士さんもよそから来て

藤本 

無声映画をしよった九州の人ですわあれは遅うま

でしよったですわ私が汽車に乗って行ってたときにもそこ

にあったん知っとるぐらいじゃけ私は大きくなっとるわな

そこがうちへ売り付けに来た

118

青春時代と父親の経営時代

―ちょっと確認したいのですがこの『昭和三十一年

版全国映画興行配給業界紳士録』(一九五六年)に載っている方

は多分お父さんだと思います

藤本 

藤本伝助うちのおやじ

―もともと貞光の牧場主だったと書いてあるのですが

藤本 

うちのおやじはね映画は無頓着それで他人任せで

私が学校に上がってからな私が主役になった伝助は名前だ

けで牧場というのはねうちのおやじがこっちの山の出身

本当に若くしてねこう言うたら怒られるけど無学の方で勉

強もせずにな一生懸命に働いた人それでこういう牧場と

いうのはこっちに美馬橋という橋があるでしょう貞光川か

ら河川敷を全部県知事の原菊太郎が買ってねうちが占有しと

ったのごく最近まで昭和何年だろうかだいぶうちが権利

持っとったんですよその権利私が建設省へ戻した県がこ

の川の権利を持っとったですよそれをそのときに建設省に取

り上げた県に許可証を取り上げられたただみたいに取り上

げられた国が取り上げるちゅうだけんだからそれまで県

が持っとった河川敷の力を吉野川も皆建設省が管理する

ようになっただから今は国になっとるんですよ

―お父さまは映画に関心なかったのですか

藤本 

なかったうちが牧場しよったんでな牛をようけ飼

いよったんですよそうしたら牛の飼料として河川敷の草を

刈らないかんそれで権利をもろうてね牛をようけ飼いよっ

た―

なぜお父さんは劇場を造ったのですか 

つまり牧

場だけ経営していれば

藤本 

これはねうちのおやじとね津司さんという人が共

同で造った敷地はみんなうちのおやじが手に入れたうちの

おやじとその前のオオモトさんといううちのおやじの兄弟

が養子に行ったところの人でその家の人が持っとったそれ

をおやじが回収したそれでうちのおやじが土地を持っとった

けん場所はここがええだろうというんで造った

 

そやけどうちのおやじは映画には関心がなかったという

のは牧場や農業やいうのは頭は別に使わんでええやないです

かこう言いよったら農業や牛飼いよる人らに怒られるけど

もな大体が牛なら牛を大事にしてやりゃ飼料やってやりゃ

牛は大きくなるほんじゃけんあそこでうちのおやじは牧場

それから竹林というのがあそこの竹があったんですよ河

川敷全体それは町が持っとったそれをうちのおやじが買っ

たりしてね竹の商売もしとるそしてこの辺はみんな桑地

でこの劇場から向こうは全部桑地今は町になった貞光は

桑地の町カイコ製糸があったんですよ貞光は製糸で生活

をしとった

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

119

―カイコの町は裕福だったという印象があるのですが

藤本 

脇町も製糸があった筒井製絲3貞光は何とか製糸

というのがあったんですよ製糸はみんなつぶれたけどね筒

井もつぶれたけどね私がいたときは筒井製絲はあった今は

キョーエイさんとか何とかというスーパーができとるでしょう

私が行ったときは製糸があったあの町は私が行ってからで

きたんだそれまで町はなかった私が脇町に行きよったとき

は竹やぶの淵を通って行きよっただから脇町に関して私

は一番よう分かる中学校の十代から脇町からだいたい十キロ

歩いたり汽車で行ってあの付近から歩いたりしたんで私

は脇町から土曜日は歩いてますけん高校の一年二年のとき

は脇町から歩いて戻って来よったんですよというのは土

曜日は汽車がなかった朝八時に行ったらね帰りは四時半ま

で汽車がない土曜日は昼で終わるでしょう四時まで待たな

いかん私はあの遠い所から歩いて戻って来よったそれで三

年くらいになって汽車が一時ごろもできた汽車がなかった

(笑)―

学生のころ学校でも頻繁に映画上映会がありまし

たか

藤本 

それはなかったよ私が中学校のときは全然なかった

無声映画の上映について

―子供のころに映画を観る機会は貞光でもあった

のですか

藤本 

私の頭の中にあるのはな無声映画その無声映画と

いうのはどんなんがあったかというとこっちに弁士がおるん

ですよ机置いてそれでそっちに楽団の人がおるんよ囃

す人がそれでこっちで無声で映写機を廻すそうしたらこ

っちの人弁士が画面を見てそれで台本というのがあって

それ見ながら泣くところは泣いたりしてこうするんそれで早

くする駆け足みたいになったら映写機が早く回るそれに合

わせて弁士がやる

―それはここ貞光での無声映画上映会の記憶ですか

それとも徳島の市内やどこかで無声映画を観た記憶ですか

藤本 

私はここでしたのを言いよんのよ徳島では観たこ

とない徳島でも無声映画というものは戦後もあったんです

よその無声映画をしよった人が駄目になって高知か九州

か引き揚げていったそのときにうちに売り込みがあったんよ

その館を買わんかと言うてというのはうちが売れとったけん

な地方でも残っとってもな残ると思って売り込みに来た

それが無声映画のねわし台本を持っとったんやその台本

ね今のここの骨董品を開いとる人になその人に見せたら

120

「売ってくれ」「売ってくれ」と言って私が去年かしら売った

台本文部省の印を押してそれは『瀧の白糸』(一九三三年)

かな有名でしょうその台本だけあったそれでフィルムは

ね私は『瀧の白糸』と思ったんだそのフィルムそうした

ら徳島新聞の人でな出身が関大か知らんでな関大の先生

がそういうのを捜しよるという「ほな藤本さん関大の先生

がおるけんなそれ見せてくれるだろ」と言うんやそうした

ら私は見てみなんだらなそれで見てみたら台本は『瀧の

白糸』だったけどなフィルムが違うんよ今でもあるけどな

台本とフィルムが違う

 

というのは私ねうちに買うたときにそのフィルムも来と

ったと思うまたそれね戦後うちが買うてからね鴨島に

岩本さんという人があったんよその人がね十六ミリの映写

機も私が買うとったけんなそれが徳島で遅うまであった昭

和三〇年の初めぐらいまでか無声映画のな徳島の新町橋あ

るでしょうあれを渡ってこっちにあった無声映画館という

のが専門で4もう人気があったんですよそやけどそれ

が始末していくときにうちに売りに来た映写機とフィルム

と台本やそれで買うとったのをまた鴨島の岩本というのが

来てねその十六ミリの映写機を売ってくれってそれでフィ

ルムを付けて売ってくれと言ってそのフィルムを付けたのは

台本とフィルムとが違うて

―では戦後もまだ無声映画だけをやっている映画館が

あったのですか

藤本 

あったんですよ徳島にあったんですよ無声映画は

あったんですよそれが引き揚げていくときになうちにいろ

いろな資料を売り付けて九州かしら行ったんだよ

映画への目覚め

―藤本さんが映画に魅了されたのはいつごろですか

戦後になってからですか

藤本 

私が高校を卒業したのは昭和二五年かな二四年にね

『青い山脈』(一九四九年)という映画があった誰だったかな

今井正監督池部良と原節子主演かあれは私昭和二四年に

うちの劇場でなしに封切館徳島まで行って観た感動を受

けたね私はあれには涙が出たええ映画だったけんねそれ

で二五年に私高校を卒業したでしょうこりゃ映画がいいっ

ておやじは「おまえ大学行かんのか」と「いや大学行かん

私は映画にすぐ行く」と二四年に学区制になってね川向

こうは脇町高校川のこっちは穴吹高校と分けられた穴吹は

女子高だった脇町は男子校それで戦後初めて男女共学と

いうのができたんですよそのためには女子の方に男子が行か

ないかんでしょう脇町から行かないかんでしょうだから

私は穴吹高校に一年行った穴吹高校第一回生脇町高校第二

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

121

回生私がおるときに高校ができたけんだから両方の卒業

生だから寄付のことが来たらね第一期生の穴吹高校から

寄付それで第二回の脇町高校から寄付両方から来るうち

の子供もね次女は脇町長女は穴吹に行った穴吹に行った

ら英語科があってな次女の方は理系の方がいいけんと薬剤

師になるけんと脇町に行った両方から来るんですよ(笑)

―昭和二四年に『青い山脈』が大ヒットして昔の映

画年鑑によるとその年に貞光劇場が映画館としてスタートし

たと記録されているのですが

藤本 

いや映画はもっと前からしよったよ昭和二〇年ご

ろからね『君の名は』(大庭秀雄監督一九五三年)とかな5

映写技師の免許取得

藤本 

私が二五年に高校を上がってすぐに映画館に入った

ですよほんじゃけん二五年に私あのころは映写技師の免

許が要った国の私も持っとるけんな見せてあげますわ

(資料を取り出す)これは一級と二級があるけんこれは一級

の免許を取った徳島で受けたそれで労働基準局がくれよ

った―

その免許を取るにはどのぐらいかかったのです

か 

そういう訓練とか

藤本 

うちので慣れてるでしょうそうしたら徳島の封切館

で試験官がおるんですよそれでその人がね「はい時間

で行きますよはいフィルムかけて映して」ってこう映

すんだそれでその動作を見よって「よろしい」とそれで

学科試験があります学科試験がそれで通るか通らんかが決

まって後から通知が来る

―すぐ取れたわけですね

藤本 

取れた一発でいった

―ご自分の劇場で訓練しましたか

藤本 

そうそう訓練してね6うちの劇場に前香川県の

何とか劇場で一流どころでね無声映画のところから来よっ

た技師さんがおったんですよヒラマツとかいう人がうちの

劇場が機械を作ってしだしたらちょっとの間その人が教え

にきてくれたその後また貞光の出身の人で徳島の何とか封

切館にいた人が私を教えてくれたよそれでよかったのはね

その貞光の出身の人が徳島の封切館に支配人でおった「藤本

さんな前の日に来ない」と「教えてあげるけん」そうし

たら泊まりがけで行ってその人がその試験する映写機で

うちの映写機と向こうの映写機は違うでしょう迷う皆び

っくりしてでけんねそやけど私は前の日泊まり込みで行って

からね試験官がびっくりしてる大体みんな初めてで私は

一人だけ知らん顔して始めてなそれでぱっぱっぱっぱとこう

やったそうしたらびっくりしてるの試験官どうしたの

122

こんなにうまいそれでぱっぱっぱっぱっとしてぱーとした

らな「はいよろしい」って(笑)

 

ここの出身者の映写技師が二人おったんよ一人は徳島の鴨

島の封切館におってその人が体を悪くして貞光に戻ってき

たそれでうちに来てくれてすぐ死んだけどな教えてくれ

たそうしたら今度は徳島のなこっからまた徳島ジョウ

トクさんという人が徳島の封切館におったんやそれでその

人が「そこで試験するけんな藤本さん来てな教えてあげる

けん泊まり込みで来ない」と

―最初ここで映画を上映するようになったとき自

分で映写技師を務めたのですか

藤本 

そうそう

―映写機はいつ

藤本 

うちには買うてありました『君の名は』をするころ

に買った大阪にね映写機屋がおってねそこで買うた武

仲さん7こんなものじっと置いとってもな値打ちがないね

ん(笑)

貞光劇場の経営者に

―これも昔の映画年鑑の資料なのですが一九六一年

に初めて藤本一二三さんが責任者として名前が出てくるのです

六〇年までオーナーはお父さんの藤本伝助ですがもう一人

藤本茂という支配人がいます8

藤本 

それはいっときだけこれはもう済んだことじゃけん

税金の関係茂さんは義理の兄私の姉の婿だったというの

はねそこには子供が大勢おったあれを引く申請して扶養

家族を引くでしょうそうしたらその人には子供が五人ぐら

いおったんやそうしたらわが夫婦で七人もなるでしょう

そうしたら税金がかからんそんなのでこれは名前だけだっ

たんでこれのそうしたら税務署の申告で怒られた実際は

藤本がしとるでと言うて怒られた

―それは一九五〇年代でも実際には藤本さんがやって

いたのですか

藤本 

そうこの人はせえへん

―記録の上ではお父さんと

藤本 

おやじが許可をもろてずっと営業しよった営業の名

前私らがしたって別にかまわへんのだからうちのおやじ

が死んだらおやじは昭和五十何年に死んだそれまでずっと

おやじの名前で私がしよったそれで税務署に言われたんや

「藤本さん名前も変えないかん」と「へえすんまへん」と

それで私の名前に変えたんや

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

123

貞光劇場の観客

―今貞光はつるぎ町になっていますが戦前の劇場

ができたころ貞光の人口はどのぐらいだったのですか

藤本 

人口は六千ぐらい

―それで大体劇場に来た人は貞光の地元の人が中

心だったのですか 

周りの町からも来たのですか

藤本 

違うんですよ山田洋次さんの映画祭をしてもね百

人入るとしたら八〇まではよその人貞光は二〇そんなん

ですどの辺の人が来るかといったらね川向こうの郡こおざと里に

うちがしよった郡こおざと里

劇場があったそこの町の人それから

合併してつるぎ町になっとるけど半田の人その向こうは東ひがし

美みよし好になっとる三み

も加茂の人それでその川向こうの三み

の野こ

れだけの範囲から来たんでよその人がようけ来よる

―それは昔からそうだったのですか

藤本 

それは昔からそうです東からは来ないそれという

のは向こう9

は私は文化の町言うねん大きな町やとうち

は六千で向こうは一万かなっとるやろ違うわけやあそこ

の高等学校私もあそこの高等学校にお世話になったんやあ

そこに五年もいたんで向こうはまあいうたら偉ぶっとるわ

けやなほんじゃけん町民もそういう感じで全然来なんだ

私は両方で出しとるから分かるんじゃけん全然来んなそれ

はねおかしいもんそやけんどやね売上げは貞光が十万だ

ったらあそこは三万ぐらい上がる

 

ただあそこで貞光に勝ったのはね吉永小百合の『愛と死

をみつめて』(斎藤武市監督一九六四年)かあれは内容が

ねちょっと高尚なんですけどなあれはものすごい入った

これはねおかしいもんですよ許可映画というもんがなか

ったら子供は入れなんだそれで『愛と死をみつめて』だった

ら大体小学校の生徒は観るもんでないと思うでしょう中学

校やまあ高校の上やと思うでしょう違うんですよ私はあ

れはびっくりした私が脇町劇場で座っとったらな10切符売

り場でそうしたらいつもいる先生がね「藤本さんもう

『ドラえもん』とか『ゴジラ』やいうんはなもう子供は席を立

った」って言うんじゃって「ああいうもん観せてくれと言う

『愛と死をみつめて』は許可するけんな」と私はそんな許可す

るなんて思ってない逆らえへん「そうですか先生」そ

うしたら入場料は五〇円だったあのとき「この映画高い

けん先生七〇円にしてよ」と「藤本さん七〇円高いな」

「ほんならまあどうにも」と「藤本さん七〇円で許可したけ

んな」とようけ来ました

 

それで私の友人がね江原中学校で先生しよるのがおる

江原中学はうちの劇場から脇町劇場からだったら四キロあ

る今高校中学生やったら自転車でしょう当時は歩いて

来たんだよそれが日曜日なんやノノムラという私の友人が

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

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7co

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yco

mpan

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tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 3: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

116

戦前の貞光劇場

―藤本さんは山田洋次さんと同じ年に生まれたんです

か藤

本 

同じ年ほやで馬が合うねん会った瞬間から

―昭和六年(一九三一)ですよね

藤本 

昭和六年

―貞さだみつ光劇場が開館したのはその翌年の昭和七年

(一九三二)ですね

藤本 

はい

―子供のころから常にこういう劇場があって育てら

れたわけですね

藤本 

そうそう(写真を見ながら)これだってね劇場の

中で私は何歳ぐらいだったろうか劇場の中で寝てねそ

れで私が寝とるのを知らんもんじゃけん従業員もそのまま

戸締まりして往い

んでしもたそれで私が「おらん」「おらん」

言うて家の人が捜したってそしたら劇場で私が寝よった

って(笑)それぐらいもう劇場の中に馴染んでしもうとんね

ん(笑)

日本映画オーラルヒストリーensp

第三回

「藤本一ひ

二三」

聞き手 

ローランドドメーニグ(明治学院大学准教授)

スザンネシェアマン(明治大学教授)

上田 

学(早稲田大学演劇博物館招聘研究員)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

117

―一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね

藤本 

そうさね演劇じゃね演劇でもいろいろしたんです

よ浪曲な漫才な歌舞伎それから何でもしたことある

んですよあれ梶原というんかなあれ何ていうんかな露

天商みたいのが大勢集まってこうするやつ

―ヴァラエティ的なもの

藤本 

梶原というんでちゃうな何とか言うねサーカス

サーカスまではいかんけどなそんなんしたことあんねんで

あの舞台にね車を入れたことあるんですよ自動車それで

何したかといったらね花道あったら花道を通らんで横へ

付けてねそれでその車を上げてねその舞台でなそれを口

で引っ張るというやつをしたそんな芸当をした戦前はそん

なんがあった

―この劇場はここの地域貞光で初めての劇場だっ

たのですかその前にも劇場があったのですか1

藤本 

その前は私は記憶がないね

―ここに来た劇団というのは地元の劇団ですか

藤本 

地元ですここには春子太夫というのとねそれから

もう一つ何とかという地元のやつやねその春子太夫という

のは徳島に石井という町があるわねそこの出身の人だった

よう受けたんですよというのは歌舞伎でいつも男の人が女

役をしよってこう尻まくりというのがある歌舞伎である

んですよこう尻をぱっとまくってなそれで膝を組む石川

五右衛門という知りませんか

―五右衛門は分かります

藤本 

そういう役をする人がね徳島の石井にね劇団をつ

くったのそれはもう戦前じゃわね戦後は来なんだです春

子太夫といってねよう受けとったんですそれはもう正月と

か盆とかその人がやっぱり来よった

―それは徳島の中で活躍されていた劇団ですねその

ほかに例えば大阪とか京都とかの劇団が巡回していました

か藤

本 

ああ巡回するやつも来たのは来たわねうちに入っ

てみたら木の額があるねその額を見たら昭和七年八年

九年ごろによそから来たやつの額を書いとるのがありますわ

それは有名なのが来てますよ春野百合子2

とかもう一つ何

とかいうのがある

―戦前の貞光劇場は芝居小屋で演劇が中心でしたが

映画も上映しましたか

藤本 

映画は少ない映画は無声映画だったけんな無声映

画では動員がでけん

―ではその弁士さんもよそから来て

藤本 

無声映画をしよった九州の人ですわあれは遅うま

でしよったですわ私が汽車に乗って行ってたときにもそこ

にあったん知っとるぐらいじゃけ私は大きくなっとるわな

そこがうちへ売り付けに来た

118

青春時代と父親の経営時代

―ちょっと確認したいのですがこの『昭和三十一年

版全国映画興行配給業界紳士録』(一九五六年)に載っている方

は多分お父さんだと思います

藤本 

藤本伝助うちのおやじ

―もともと貞光の牧場主だったと書いてあるのですが

藤本 

うちのおやじはね映画は無頓着それで他人任せで

私が学校に上がってからな私が主役になった伝助は名前だ

けで牧場というのはねうちのおやじがこっちの山の出身

本当に若くしてねこう言うたら怒られるけど無学の方で勉

強もせずにな一生懸命に働いた人それでこういう牧場と

いうのはこっちに美馬橋という橋があるでしょう貞光川か

ら河川敷を全部県知事の原菊太郎が買ってねうちが占有しと

ったのごく最近まで昭和何年だろうかだいぶうちが権利

持っとったんですよその権利私が建設省へ戻した県がこ

の川の権利を持っとったですよそれをそのときに建設省に取

り上げた県に許可証を取り上げられたただみたいに取り上

げられた国が取り上げるちゅうだけんだからそれまで県

が持っとった河川敷の力を吉野川も皆建設省が管理する

ようになっただから今は国になっとるんですよ

―お父さまは映画に関心なかったのですか

藤本 

なかったうちが牧場しよったんでな牛をようけ飼

いよったんですよそうしたら牛の飼料として河川敷の草を

刈らないかんそれで権利をもろうてね牛をようけ飼いよっ

た―

なぜお父さんは劇場を造ったのですか 

つまり牧

場だけ経営していれば

藤本 

これはねうちのおやじとね津司さんという人が共

同で造った敷地はみんなうちのおやじが手に入れたうちの

おやじとその前のオオモトさんといううちのおやじの兄弟

が養子に行ったところの人でその家の人が持っとったそれ

をおやじが回収したそれでうちのおやじが土地を持っとった

けん場所はここがええだろうというんで造った

 

そやけどうちのおやじは映画には関心がなかったという

のは牧場や農業やいうのは頭は別に使わんでええやないです

かこう言いよったら農業や牛飼いよる人らに怒られるけど

もな大体が牛なら牛を大事にしてやりゃ飼料やってやりゃ

牛は大きくなるほんじゃけんあそこでうちのおやじは牧場

それから竹林というのがあそこの竹があったんですよ河

川敷全体それは町が持っとったそれをうちのおやじが買っ

たりしてね竹の商売もしとるそしてこの辺はみんな桑地

でこの劇場から向こうは全部桑地今は町になった貞光は

桑地の町カイコ製糸があったんですよ貞光は製糸で生活

をしとった

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

119

―カイコの町は裕福だったという印象があるのですが

藤本 

脇町も製糸があった筒井製絲3貞光は何とか製糸

というのがあったんですよ製糸はみんなつぶれたけどね筒

井もつぶれたけどね私がいたときは筒井製絲はあった今は

キョーエイさんとか何とかというスーパーができとるでしょう

私が行ったときは製糸があったあの町は私が行ってからで

きたんだそれまで町はなかった私が脇町に行きよったとき

は竹やぶの淵を通って行きよっただから脇町に関して私

は一番よう分かる中学校の十代から脇町からだいたい十キロ

歩いたり汽車で行ってあの付近から歩いたりしたんで私

は脇町から土曜日は歩いてますけん高校の一年二年のとき

は脇町から歩いて戻って来よったんですよというのは土

曜日は汽車がなかった朝八時に行ったらね帰りは四時半ま

で汽車がない土曜日は昼で終わるでしょう四時まで待たな

いかん私はあの遠い所から歩いて戻って来よったそれで三

年くらいになって汽車が一時ごろもできた汽車がなかった

(笑)―

学生のころ学校でも頻繁に映画上映会がありまし

たか

藤本 

それはなかったよ私が中学校のときは全然なかった

無声映画の上映について

―子供のころに映画を観る機会は貞光でもあった

のですか

藤本 

私の頭の中にあるのはな無声映画その無声映画と

いうのはどんなんがあったかというとこっちに弁士がおるん

ですよ机置いてそれでそっちに楽団の人がおるんよ囃

す人がそれでこっちで無声で映写機を廻すそうしたらこ

っちの人弁士が画面を見てそれで台本というのがあって

それ見ながら泣くところは泣いたりしてこうするんそれで早

くする駆け足みたいになったら映写機が早く回るそれに合

わせて弁士がやる

―それはここ貞光での無声映画上映会の記憶ですか

それとも徳島の市内やどこかで無声映画を観た記憶ですか

藤本 

私はここでしたのを言いよんのよ徳島では観たこ

とない徳島でも無声映画というものは戦後もあったんです

よその無声映画をしよった人が駄目になって高知か九州

か引き揚げていったそのときにうちに売り込みがあったんよ

その館を買わんかと言うてというのはうちが売れとったけん

な地方でも残っとってもな残ると思って売り込みに来た

それが無声映画のねわし台本を持っとったんやその台本

ね今のここの骨董品を開いとる人になその人に見せたら

120

「売ってくれ」「売ってくれ」と言って私が去年かしら売った

台本文部省の印を押してそれは『瀧の白糸』(一九三三年)

かな有名でしょうその台本だけあったそれでフィルムは

ね私は『瀧の白糸』と思ったんだそのフィルムそうした

ら徳島新聞の人でな出身が関大か知らんでな関大の先生

がそういうのを捜しよるという「ほな藤本さん関大の先生

がおるけんなそれ見せてくれるだろ」と言うんやそうした

ら私は見てみなんだらなそれで見てみたら台本は『瀧の

白糸』だったけどなフィルムが違うんよ今でもあるけどな

台本とフィルムが違う

 

というのは私ねうちに買うたときにそのフィルムも来と

ったと思うまたそれね戦後うちが買うてからね鴨島に

岩本さんという人があったんよその人がね十六ミリの映写

機も私が買うとったけんなそれが徳島で遅うまであった昭

和三〇年の初めぐらいまでか無声映画のな徳島の新町橋あ

るでしょうあれを渡ってこっちにあった無声映画館という

のが専門で4もう人気があったんですよそやけどそれ

が始末していくときにうちに売りに来た映写機とフィルム

と台本やそれで買うとったのをまた鴨島の岩本というのが

来てねその十六ミリの映写機を売ってくれってそれでフィ

ルムを付けて売ってくれと言ってそのフィルムを付けたのは

台本とフィルムとが違うて

―では戦後もまだ無声映画だけをやっている映画館が

あったのですか

藤本 

あったんですよ徳島にあったんですよ無声映画は

あったんですよそれが引き揚げていくときになうちにいろ

いろな資料を売り付けて九州かしら行ったんだよ

映画への目覚め

―藤本さんが映画に魅了されたのはいつごろですか

戦後になってからですか

藤本 

私が高校を卒業したのは昭和二五年かな二四年にね

『青い山脈』(一九四九年)という映画があった誰だったかな

今井正監督池部良と原節子主演かあれは私昭和二四年に

うちの劇場でなしに封切館徳島まで行って観た感動を受

けたね私はあれには涙が出たええ映画だったけんねそれ

で二五年に私高校を卒業したでしょうこりゃ映画がいいっ

ておやじは「おまえ大学行かんのか」と「いや大学行かん

私は映画にすぐ行く」と二四年に学区制になってね川向

こうは脇町高校川のこっちは穴吹高校と分けられた穴吹は

女子高だった脇町は男子校それで戦後初めて男女共学と

いうのができたんですよそのためには女子の方に男子が行か

ないかんでしょう脇町から行かないかんでしょうだから

私は穴吹高校に一年行った穴吹高校第一回生脇町高校第二

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

121

回生私がおるときに高校ができたけんだから両方の卒業

生だから寄付のことが来たらね第一期生の穴吹高校から

寄付それで第二回の脇町高校から寄付両方から来るうち

の子供もね次女は脇町長女は穴吹に行った穴吹に行った

ら英語科があってな次女の方は理系の方がいいけんと薬剤

師になるけんと脇町に行った両方から来るんですよ(笑)

―昭和二四年に『青い山脈』が大ヒットして昔の映

画年鑑によるとその年に貞光劇場が映画館としてスタートし

たと記録されているのですが

藤本 

いや映画はもっと前からしよったよ昭和二〇年ご

ろからね『君の名は』(大庭秀雄監督一九五三年)とかな5

映写技師の免許取得

藤本 

私が二五年に高校を上がってすぐに映画館に入った

ですよほんじゃけん二五年に私あのころは映写技師の免

許が要った国の私も持っとるけんな見せてあげますわ

(資料を取り出す)これは一級と二級があるけんこれは一級

の免許を取った徳島で受けたそれで労働基準局がくれよ

った―

その免許を取るにはどのぐらいかかったのです

か 

そういう訓練とか

藤本 

うちので慣れてるでしょうそうしたら徳島の封切館

で試験官がおるんですよそれでその人がね「はい時間

で行きますよはいフィルムかけて映して」ってこう映

すんだそれでその動作を見よって「よろしい」とそれで

学科試験があります学科試験がそれで通るか通らんかが決

まって後から通知が来る

―すぐ取れたわけですね

藤本 

取れた一発でいった

―ご自分の劇場で訓練しましたか

藤本 

そうそう訓練してね6うちの劇場に前香川県の

何とか劇場で一流どころでね無声映画のところから来よっ

た技師さんがおったんですよヒラマツとかいう人がうちの

劇場が機械を作ってしだしたらちょっとの間その人が教え

にきてくれたその後また貞光の出身の人で徳島の何とか封

切館にいた人が私を教えてくれたよそれでよかったのはね

その貞光の出身の人が徳島の封切館に支配人でおった「藤本

さんな前の日に来ない」と「教えてあげるけん」そうし

たら泊まりがけで行ってその人がその試験する映写機で

うちの映写機と向こうの映写機は違うでしょう迷う皆び

っくりしてでけんねそやけど私は前の日泊まり込みで行って

からね試験官がびっくりしてる大体みんな初めてで私は

一人だけ知らん顔して始めてなそれでぱっぱっぱっぱとこう

やったそうしたらびっくりしてるの試験官どうしたの

122

こんなにうまいそれでぱっぱっぱっぱっとしてぱーとした

らな「はいよろしい」って(笑)

 

ここの出身者の映写技師が二人おったんよ一人は徳島の鴨

島の封切館におってその人が体を悪くして貞光に戻ってき

たそれでうちに来てくれてすぐ死んだけどな教えてくれ

たそうしたら今度は徳島のなこっからまた徳島ジョウ

トクさんという人が徳島の封切館におったんやそれでその

人が「そこで試験するけんな藤本さん来てな教えてあげる

けん泊まり込みで来ない」と

―最初ここで映画を上映するようになったとき自

分で映写技師を務めたのですか

藤本 

そうそう

―映写機はいつ

藤本 

うちには買うてありました『君の名は』をするころ

に買った大阪にね映写機屋がおってねそこで買うた武

仲さん7こんなものじっと置いとってもな値打ちがないね

ん(笑)

貞光劇場の経営者に

―これも昔の映画年鑑の資料なのですが一九六一年

に初めて藤本一二三さんが責任者として名前が出てくるのです

六〇年までオーナーはお父さんの藤本伝助ですがもう一人

藤本茂という支配人がいます8

藤本 

それはいっときだけこれはもう済んだことじゃけん

税金の関係茂さんは義理の兄私の姉の婿だったというの

はねそこには子供が大勢おったあれを引く申請して扶養

家族を引くでしょうそうしたらその人には子供が五人ぐら

いおったんやそうしたらわが夫婦で七人もなるでしょう

そうしたら税金がかからんそんなのでこれは名前だけだっ

たんでこれのそうしたら税務署の申告で怒られた実際は

藤本がしとるでと言うて怒られた

―それは一九五〇年代でも実際には藤本さんがやって

いたのですか

藤本 

そうこの人はせえへん

―記録の上ではお父さんと

藤本 

おやじが許可をもろてずっと営業しよった営業の名

前私らがしたって別にかまわへんのだからうちのおやじ

が死んだらおやじは昭和五十何年に死んだそれまでずっと

おやじの名前で私がしよったそれで税務署に言われたんや

「藤本さん名前も変えないかん」と「へえすんまへん」と

それで私の名前に変えたんや

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

123

貞光劇場の観客

―今貞光はつるぎ町になっていますが戦前の劇場

ができたころ貞光の人口はどのぐらいだったのですか

藤本 

人口は六千ぐらい

―それで大体劇場に来た人は貞光の地元の人が中

心だったのですか 

周りの町からも来たのですか

藤本 

違うんですよ山田洋次さんの映画祭をしてもね百

人入るとしたら八〇まではよその人貞光は二〇そんなん

ですどの辺の人が来るかといったらね川向こうの郡こおざと里に

うちがしよった郡こおざと里

劇場があったそこの町の人それから

合併してつるぎ町になっとるけど半田の人その向こうは東ひがし

美みよし好になっとる三み

も加茂の人それでその川向こうの三み

の野こ

れだけの範囲から来たんでよその人がようけ来よる

―それは昔からそうだったのですか

藤本 

それは昔からそうです東からは来ないそれという

のは向こう9

は私は文化の町言うねん大きな町やとうち

は六千で向こうは一万かなっとるやろ違うわけやあそこ

の高等学校私もあそこの高等学校にお世話になったんやあ

そこに五年もいたんで向こうはまあいうたら偉ぶっとるわ

けやなほんじゃけん町民もそういう感じで全然来なんだ

私は両方で出しとるから分かるんじゃけん全然来んなそれ

はねおかしいもんそやけんどやね売上げは貞光が十万だ

ったらあそこは三万ぐらい上がる

 

ただあそこで貞光に勝ったのはね吉永小百合の『愛と死

をみつめて』(斎藤武市監督一九六四年)かあれは内容が

ねちょっと高尚なんですけどなあれはものすごい入った

これはねおかしいもんですよ許可映画というもんがなか

ったら子供は入れなんだそれで『愛と死をみつめて』だった

ら大体小学校の生徒は観るもんでないと思うでしょう中学

校やまあ高校の上やと思うでしょう違うんですよ私はあ

れはびっくりした私が脇町劇場で座っとったらな10切符売

り場でそうしたらいつもいる先生がね「藤本さんもう

『ドラえもん』とか『ゴジラ』やいうんはなもう子供は席を立

った」って言うんじゃって「ああいうもん観せてくれと言う

『愛と死をみつめて』は許可するけんな」と私はそんな許可す

るなんて思ってない逆らえへん「そうですか先生」そ

うしたら入場料は五〇円だったあのとき「この映画高い

けん先生七〇円にしてよ」と「藤本さん七〇円高いな」

「ほんならまあどうにも」と「藤本さん七〇円で許可したけ

んな」とようけ来ました

 

それで私の友人がね江原中学校で先生しよるのがおる

江原中学はうちの劇場から脇町劇場からだったら四キロあ

る今高校中学生やったら自転車でしょう当時は歩いて

来たんだよそれが日曜日なんやノノムラという私の友人が

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 4: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

117

―一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね

藤本 

そうさね演劇じゃね演劇でもいろいろしたんです

よ浪曲な漫才な歌舞伎それから何でもしたことある

んですよあれ梶原というんかなあれ何ていうんかな露

天商みたいのが大勢集まってこうするやつ

―ヴァラエティ的なもの

藤本 

梶原というんでちゃうな何とか言うねサーカス

サーカスまではいかんけどなそんなんしたことあんねんで

あの舞台にね車を入れたことあるんですよ自動車それで

何したかといったらね花道あったら花道を通らんで横へ

付けてねそれでその車を上げてねその舞台でなそれを口

で引っ張るというやつをしたそんな芸当をした戦前はそん

なんがあった

―この劇場はここの地域貞光で初めての劇場だっ

たのですかその前にも劇場があったのですか1

藤本 

その前は私は記憶がないね

―ここに来た劇団というのは地元の劇団ですか

藤本 

地元ですここには春子太夫というのとねそれから

もう一つ何とかという地元のやつやねその春子太夫という

のは徳島に石井という町があるわねそこの出身の人だった

よう受けたんですよというのは歌舞伎でいつも男の人が女

役をしよってこう尻まくりというのがある歌舞伎である

んですよこう尻をぱっとまくってなそれで膝を組む石川

五右衛門という知りませんか

―五右衛門は分かります

藤本 

そういう役をする人がね徳島の石井にね劇団をつ

くったのそれはもう戦前じゃわね戦後は来なんだです春

子太夫といってねよう受けとったんですそれはもう正月と

か盆とかその人がやっぱり来よった

―それは徳島の中で活躍されていた劇団ですねその

ほかに例えば大阪とか京都とかの劇団が巡回していました

か藤

本 

ああ巡回するやつも来たのは来たわねうちに入っ

てみたら木の額があるねその額を見たら昭和七年八年

九年ごろによそから来たやつの額を書いとるのがありますわ

それは有名なのが来てますよ春野百合子2

とかもう一つ何

とかいうのがある

―戦前の貞光劇場は芝居小屋で演劇が中心でしたが

映画も上映しましたか

藤本 

映画は少ない映画は無声映画だったけんな無声映

画では動員がでけん

―ではその弁士さんもよそから来て

藤本 

無声映画をしよった九州の人ですわあれは遅うま

でしよったですわ私が汽車に乗って行ってたときにもそこ

にあったん知っとるぐらいじゃけ私は大きくなっとるわな

そこがうちへ売り付けに来た

118

青春時代と父親の経営時代

―ちょっと確認したいのですがこの『昭和三十一年

版全国映画興行配給業界紳士録』(一九五六年)に載っている方

は多分お父さんだと思います

藤本 

藤本伝助うちのおやじ

―もともと貞光の牧場主だったと書いてあるのですが

藤本 

うちのおやじはね映画は無頓着それで他人任せで

私が学校に上がってからな私が主役になった伝助は名前だ

けで牧場というのはねうちのおやじがこっちの山の出身

本当に若くしてねこう言うたら怒られるけど無学の方で勉

強もせずにな一生懸命に働いた人それでこういう牧場と

いうのはこっちに美馬橋という橋があるでしょう貞光川か

ら河川敷を全部県知事の原菊太郎が買ってねうちが占有しと

ったのごく最近まで昭和何年だろうかだいぶうちが権利

持っとったんですよその権利私が建設省へ戻した県がこ

の川の権利を持っとったですよそれをそのときに建設省に取

り上げた県に許可証を取り上げられたただみたいに取り上

げられた国が取り上げるちゅうだけんだからそれまで県

が持っとった河川敷の力を吉野川も皆建設省が管理する

ようになっただから今は国になっとるんですよ

―お父さまは映画に関心なかったのですか

藤本 

なかったうちが牧場しよったんでな牛をようけ飼

いよったんですよそうしたら牛の飼料として河川敷の草を

刈らないかんそれで権利をもろうてね牛をようけ飼いよっ

た―

なぜお父さんは劇場を造ったのですか 

つまり牧

場だけ経営していれば

藤本 

これはねうちのおやじとね津司さんという人が共

同で造った敷地はみんなうちのおやじが手に入れたうちの

おやじとその前のオオモトさんといううちのおやじの兄弟

が養子に行ったところの人でその家の人が持っとったそれ

をおやじが回収したそれでうちのおやじが土地を持っとった

けん場所はここがええだろうというんで造った

 

そやけどうちのおやじは映画には関心がなかったという

のは牧場や農業やいうのは頭は別に使わんでええやないです

かこう言いよったら農業や牛飼いよる人らに怒られるけど

もな大体が牛なら牛を大事にしてやりゃ飼料やってやりゃ

牛は大きくなるほんじゃけんあそこでうちのおやじは牧場

それから竹林というのがあそこの竹があったんですよ河

川敷全体それは町が持っとったそれをうちのおやじが買っ

たりしてね竹の商売もしとるそしてこの辺はみんな桑地

でこの劇場から向こうは全部桑地今は町になった貞光は

桑地の町カイコ製糸があったんですよ貞光は製糸で生活

をしとった

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

119

―カイコの町は裕福だったという印象があるのですが

藤本 

脇町も製糸があった筒井製絲3貞光は何とか製糸

というのがあったんですよ製糸はみんなつぶれたけどね筒

井もつぶれたけどね私がいたときは筒井製絲はあった今は

キョーエイさんとか何とかというスーパーができとるでしょう

私が行ったときは製糸があったあの町は私が行ってからで

きたんだそれまで町はなかった私が脇町に行きよったとき

は竹やぶの淵を通って行きよっただから脇町に関して私

は一番よう分かる中学校の十代から脇町からだいたい十キロ

歩いたり汽車で行ってあの付近から歩いたりしたんで私

は脇町から土曜日は歩いてますけん高校の一年二年のとき

は脇町から歩いて戻って来よったんですよというのは土

曜日は汽車がなかった朝八時に行ったらね帰りは四時半ま

で汽車がない土曜日は昼で終わるでしょう四時まで待たな

いかん私はあの遠い所から歩いて戻って来よったそれで三

年くらいになって汽車が一時ごろもできた汽車がなかった

(笑)―

学生のころ学校でも頻繁に映画上映会がありまし

たか

藤本 

それはなかったよ私が中学校のときは全然なかった

無声映画の上映について

―子供のころに映画を観る機会は貞光でもあった

のですか

藤本 

私の頭の中にあるのはな無声映画その無声映画と

いうのはどんなんがあったかというとこっちに弁士がおるん

ですよ机置いてそれでそっちに楽団の人がおるんよ囃

す人がそれでこっちで無声で映写機を廻すそうしたらこ

っちの人弁士が画面を見てそれで台本というのがあって

それ見ながら泣くところは泣いたりしてこうするんそれで早

くする駆け足みたいになったら映写機が早く回るそれに合

わせて弁士がやる

―それはここ貞光での無声映画上映会の記憶ですか

それとも徳島の市内やどこかで無声映画を観た記憶ですか

藤本 

私はここでしたのを言いよんのよ徳島では観たこ

とない徳島でも無声映画というものは戦後もあったんです

よその無声映画をしよった人が駄目になって高知か九州

か引き揚げていったそのときにうちに売り込みがあったんよ

その館を買わんかと言うてというのはうちが売れとったけん

な地方でも残っとってもな残ると思って売り込みに来た

それが無声映画のねわし台本を持っとったんやその台本

ね今のここの骨董品を開いとる人になその人に見せたら

120

「売ってくれ」「売ってくれ」と言って私が去年かしら売った

台本文部省の印を押してそれは『瀧の白糸』(一九三三年)

かな有名でしょうその台本だけあったそれでフィルムは

ね私は『瀧の白糸』と思ったんだそのフィルムそうした

ら徳島新聞の人でな出身が関大か知らんでな関大の先生

がそういうのを捜しよるという「ほな藤本さん関大の先生

がおるけんなそれ見せてくれるだろ」と言うんやそうした

ら私は見てみなんだらなそれで見てみたら台本は『瀧の

白糸』だったけどなフィルムが違うんよ今でもあるけどな

台本とフィルムが違う

 

というのは私ねうちに買うたときにそのフィルムも来と

ったと思うまたそれね戦後うちが買うてからね鴨島に

岩本さんという人があったんよその人がね十六ミリの映写

機も私が買うとったけんなそれが徳島で遅うまであった昭

和三〇年の初めぐらいまでか無声映画のな徳島の新町橋あ

るでしょうあれを渡ってこっちにあった無声映画館という

のが専門で4もう人気があったんですよそやけどそれ

が始末していくときにうちに売りに来た映写機とフィルム

と台本やそれで買うとったのをまた鴨島の岩本というのが

来てねその十六ミリの映写機を売ってくれってそれでフィ

ルムを付けて売ってくれと言ってそのフィルムを付けたのは

台本とフィルムとが違うて

―では戦後もまだ無声映画だけをやっている映画館が

あったのですか

藤本 

あったんですよ徳島にあったんですよ無声映画は

あったんですよそれが引き揚げていくときになうちにいろ

いろな資料を売り付けて九州かしら行ったんだよ

映画への目覚め

―藤本さんが映画に魅了されたのはいつごろですか

戦後になってからですか

藤本 

私が高校を卒業したのは昭和二五年かな二四年にね

『青い山脈』(一九四九年)という映画があった誰だったかな

今井正監督池部良と原節子主演かあれは私昭和二四年に

うちの劇場でなしに封切館徳島まで行って観た感動を受

けたね私はあれには涙が出たええ映画だったけんねそれ

で二五年に私高校を卒業したでしょうこりゃ映画がいいっ

ておやじは「おまえ大学行かんのか」と「いや大学行かん

私は映画にすぐ行く」と二四年に学区制になってね川向

こうは脇町高校川のこっちは穴吹高校と分けられた穴吹は

女子高だった脇町は男子校それで戦後初めて男女共学と

いうのができたんですよそのためには女子の方に男子が行か

ないかんでしょう脇町から行かないかんでしょうだから

私は穴吹高校に一年行った穴吹高校第一回生脇町高校第二

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

121

回生私がおるときに高校ができたけんだから両方の卒業

生だから寄付のことが来たらね第一期生の穴吹高校から

寄付それで第二回の脇町高校から寄付両方から来るうち

の子供もね次女は脇町長女は穴吹に行った穴吹に行った

ら英語科があってな次女の方は理系の方がいいけんと薬剤

師になるけんと脇町に行った両方から来るんですよ(笑)

―昭和二四年に『青い山脈』が大ヒットして昔の映

画年鑑によるとその年に貞光劇場が映画館としてスタートし

たと記録されているのですが

藤本 

いや映画はもっと前からしよったよ昭和二〇年ご

ろからね『君の名は』(大庭秀雄監督一九五三年)とかな5

映写技師の免許取得

藤本 

私が二五年に高校を上がってすぐに映画館に入った

ですよほんじゃけん二五年に私あのころは映写技師の免

許が要った国の私も持っとるけんな見せてあげますわ

(資料を取り出す)これは一級と二級があるけんこれは一級

の免許を取った徳島で受けたそれで労働基準局がくれよ

った―

その免許を取るにはどのぐらいかかったのです

か 

そういう訓練とか

藤本 

うちので慣れてるでしょうそうしたら徳島の封切館

で試験官がおるんですよそれでその人がね「はい時間

で行きますよはいフィルムかけて映して」ってこう映

すんだそれでその動作を見よって「よろしい」とそれで

学科試験があります学科試験がそれで通るか通らんかが決

まって後から通知が来る

―すぐ取れたわけですね

藤本 

取れた一発でいった

―ご自分の劇場で訓練しましたか

藤本 

そうそう訓練してね6うちの劇場に前香川県の

何とか劇場で一流どころでね無声映画のところから来よっ

た技師さんがおったんですよヒラマツとかいう人がうちの

劇場が機械を作ってしだしたらちょっとの間その人が教え

にきてくれたその後また貞光の出身の人で徳島の何とか封

切館にいた人が私を教えてくれたよそれでよかったのはね

その貞光の出身の人が徳島の封切館に支配人でおった「藤本

さんな前の日に来ない」と「教えてあげるけん」そうし

たら泊まりがけで行ってその人がその試験する映写機で

うちの映写機と向こうの映写機は違うでしょう迷う皆び

っくりしてでけんねそやけど私は前の日泊まり込みで行って

からね試験官がびっくりしてる大体みんな初めてで私は

一人だけ知らん顔して始めてなそれでぱっぱっぱっぱとこう

やったそうしたらびっくりしてるの試験官どうしたの

122

こんなにうまいそれでぱっぱっぱっぱっとしてぱーとした

らな「はいよろしい」って(笑)

 

ここの出身者の映写技師が二人おったんよ一人は徳島の鴨

島の封切館におってその人が体を悪くして貞光に戻ってき

たそれでうちに来てくれてすぐ死んだけどな教えてくれ

たそうしたら今度は徳島のなこっからまた徳島ジョウ

トクさんという人が徳島の封切館におったんやそれでその

人が「そこで試験するけんな藤本さん来てな教えてあげる

けん泊まり込みで来ない」と

―最初ここで映画を上映するようになったとき自

分で映写技師を務めたのですか

藤本 

そうそう

―映写機はいつ

藤本 

うちには買うてありました『君の名は』をするころ

に買った大阪にね映写機屋がおってねそこで買うた武

仲さん7こんなものじっと置いとってもな値打ちがないね

ん(笑)

貞光劇場の経営者に

―これも昔の映画年鑑の資料なのですが一九六一年

に初めて藤本一二三さんが責任者として名前が出てくるのです

六〇年までオーナーはお父さんの藤本伝助ですがもう一人

藤本茂という支配人がいます8

藤本 

それはいっときだけこれはもう済んだことじゃけん

税金の関係茂さんは義理の兄私の姉の婿だったというの

はねそこには子供が大勢おったあれを引く申請して扶養

家族を引くでしょうそうしたらその人には子供が五人ぐら

いおったんやそうしたらわが夫婦で七人もなるでしょう

そうしたら税金がかからんそんなのでこれは名前だけだっ

たんでこれのそうしたら税務署の申告で怒られた実際は

藤本がしとるでと言うて怒られた

―それは一九五〇年代でも実際には藤本さんがやって

いたのですか

藤本 

そうこの人はせえへん

―記録の上ではお父さんと

藤本 

おやじが許可をもろてずっと営業しよった営業の名

前私らがしたって別にかまわへんのだからうちのおやじ

が死んだらおやじは昭和五十何年に死んだそれまでずっと

おやじの名前で私がしよったそれで税務署に言われたんや

「藤本さん名前も変えないかん」と「へえすんまへん」と

それで私の名前に変えたんや

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

123

貞光劇場の観客

―今貞光はつるぎ町になっていますが戦前の劇場

ができたころ貞光の人口はどのぐらいだったのですか

藤本 

人口は六千ぐらい

―それで大体劇場に来た人は貞光の地元の人が中

心だったのですか 

周りの町からも来たのですか

藤本 

違うんですよ山田洋次さんの映画祭をしてもね百

人入るとしたら八〇まではよその人貞光は二〇そんなん

ですどの辺の人が来るかといったらね川向こうの郡こおざと里に

うちがしよった郡こおざと里

劇場があったそこの町の人それから

合併してつるぎ町になっとるけど半田の人その向こうは東ひがし

美みよし好になっとる三み

も加茂の人それでその川向こうの三み

の野こ

れだけの範囲から来たんでよその人がようけ来よる

―それは昔からそうだったのですか

藤本 

それは昔からそうです東からは来ないそれという

のは向こう9

は私は文化の町言うねん大きな町やとうち

は六千で向こうは一万かなっとるやろ違うわけやあそこ

の高等学校私もあそこの高等学校にお世話になったんやあ

そこに五年もいたんで向こうはまあいうたら偉ぶっとるわ

けやなほんじゃけん町民もそういう感じで全然来なんだ

私は両方で出しとるから分かるんじゃけん全然来んなそれ

はねおかしいもんそやけんどやね売上げは貞光が十万だ

ったらあそこは三万ぐらい上がる

 

ただあそこで貞光に勝ったのはね吉永小百合の『愛と死

をみつめて』(斎藤武市監督一九六四年)かあれは内容が

ねちょっと高尚なんですけどなあれはものすごい入った

これはねおかしいもんですよ許可映画というもんがなか

ったら子供は入れなんだそれで『愛と死をみつめて』だった

ら大体小学校の生徒は観るもんでないと思うでしょう中学

校やまあ高校の上やと思うでしょう違うんですよ私はあ

れはびっくりした私が脇町劇場で座っとったらな10切符売

り場でそうしたらいつもいる先生がね「藤本さんもう

『ドラえもん』とか『ゴジラ』やいうんはなもう子供は席を立

った」って言うんじゃって「ああいうもん観せてくれと言う

『愛と死をみつめて』は許可するけんな」と私はそんな許可す

るなんて思ってない逆らえへん「そうですか先生」そ

うしたら入場料は五〇円だったあのとき「この映画高い

けん先生七〇円にしてよ」と「藤本さん七〇円高いな」

「ほんならまあどうにも」と「藤本さん七〇円で許可したけ

んな」とようけ来ました

 

それで私の友人がね江原中学校で先生しよるのがおる

江原中学はうちの劇場から脇町劇場からだったら四キロあ

る今高校中学生やったら自転車でしょう当時は歩いて

来たんだよそれが日曜日なんやノノムラという私の友人が

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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enak

a-coco

jp0

7co

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yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

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貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 5: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

118

青春時代と父親の経営時代

―ちょっと確認したいのですがこの『昭和三十一年

版全国映画興行配給業界紳士録』(一九五六年)に載っている方

は多分お父さんだと思います

藤本 

藤本伝助うちのおやじ

―もともと貞光の牧場主だったと書いてあるのですが

藤本 

うちのおやじはね映画は無頓着それで他人任せで

私が学校に上がってからな私が主役になった伝助は名前だ

けで牧場というのはねうちのおやじがこっちの山の出身

本当に若くしてねこう言うたら怒られるけど無学の方で勉

強もせずにな一生懸命に働いた人それでこういう牧場と

いうのはこっちに美馬橋という橋があるでしょう貞光川か

ら河川敷を全部県知事の原菊太郎が買ってねうちが占有しと

ったのごく最近まで昭和何年だろうかだいぶうちが権利

持っとったんですよその権利私が建設省へ戻した県がこ

の川の権利を持っとったですよそれをそのときに建設省に取

り上げた県に許可証を取り上げられたただみたいに取り上

げられた国が取り上げるちゅうだけんだからそれまで県

が持っとった河川敷の力を吉野川も皆建設省が管理する

ようになっただから今は国になっとるんですよ

―お父さまは映画に関心なかったのですか

藤本 

なかったうちが牧場しよったんでな牛をようけ飼

いよったんですよそうしたら牛の飼料として河川敷の草を

刈らないかんそれで権利をもろうてね牛をようけ飼いよっ

た―

なぜお父さんは劇場を造ったのですか 

つまり牧

場だけ経営していれば

藤本 

これはねうちのおやじとね津司さんという人が共

同で造った敷地はみんなうちのおやじが手に入れたうちの

おやじとその前のオオモトさんといううちのおやじの兄弟

が養子に行ったところの人でその家の人が持っとったそれ

をおやじが回収したそれでうちのおやじが土地を持っとった

けん場所はここがええだろうというんで造った

 

そやけどうちのおやじは映画には関心がなかったという

のは牧場や農業やいうのは頭は別に使わんでええやないです

かこう言いよったら農業や牛飼いよる人らに怒られるけど

もな大体が牛なら牛を大事にしてやりゃ飼料やってやりゃ

牛は大きくなるほんじゃけんあそこでうちのおやじは牧場

それから竹林というのがあそこの竹があったんですよ河

川敷全体それは町が持っとったそれをうちのおやじが買っ

たりしてね竹の商売もしとるそしてこの辺はみんな桑地

でこの劇場から向こうは全部桑地今は町になった貞光は

桑地の町カイコ製糸があったんですよ貞光は製糸で生活

をしとった

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

119

―カイコの町は裕福だったという印象があるのですが

藤本 

脇町も製糸があった筒井製絲3貞光は何とか製糸

というのがあったんですよ製糸はみんなつぶれたけどね筒

井もつぶれたけどね私がいたときは筒井製絲はあった今は

キョーエイさんとか何とかというスーパーができとるでしょう

私が行ったときは製糸があったあの町は私が行ってからで

きたんだそれまで町はなかった私が脇町に行きよったとき

は竹やぶの淵を通って行きよっただから脇町に関して私

は一番よう分かる中学校の十代から脇町からだいたい十キロ

歩いたり汽車で行ってあの付近から歩いたりしたんで私

は脇町から土曜日は歩いてますけん高校の一年二年のとき

は脇町から歩いて戻って来よったんですよというのは土

曜日は汽車がなかった朝八時に行ったらね帰りは四時半ま

で汽車がない土曜日は昼で終わるでしょう四時まで待たな

いかん私はあの遠い所から歩いて戻って来よったそれで三

年くらいになって汽車が一時ごろもできた汽車がなかった

(笑)―

学生のころ学校でも頻繁に映画上映会がありまし

たか

藤本 

それはなかったよ私が中学校のときは全然なかった

無声映画の上映について

―子供のころに映画を観る機会は貞光でもあった

のですか

藤本 

私の頭の中にあるのはな無声映画その無声映画と

いうのはどんなんがあったかというとこっちに弁士がおるん

ですよ机置いてそれでそっちに楽団の人がおるんよ囃

す人がそれでこっちで無声で映写機を廻すそうしたらこ

っちの人弁士が画面を見てそれで台本というのがあって

それ見ながら泣くところは泣いたりしてこうするんそれで早

くする駆け足みたいになったら映写機が早く回るそれに合

わせて弁士がやる

―それはここ貞光での無声映画上映会の記憶ですか

それとも徳島の市内やどこかで無声映画を観た記憶ですか

藤本 

私はここでしたのを言いよんのよ徳島では観たこ

とない徳島でも無声映画というものは戦後もあったんです

よその無声映画をしよった人が駄目になって高知か九州

か引き揚げていったそのときにうちに売り込みがあったんよ

その館を買わんかと言うてというのはうちが売れとったけん

な地方でも残っとってもな残ると思って売り込みに来た

それが無声映画のねわし台本を持っとったんやその台本

ね今のここの骨董品を開いとる人になその人に見せたら

120

「売ってくれ」「売ってくれ」と言って私が去年かしら売った

台本文部省の印を押してそれは『瀧の白糸』(一九三三年)

かな有名でしょうその台本だけあったそれでフィルムは

ね私は『瀧の白糸』と思ったんだそのフィルムそうした

ら徳島新聞の人でな出身が関大か知らんでな関大の先生

がそういうのを捜しよるという「ほな藤本さん関大の先生

がおるけんなそれ見せてくれるだろ」と言うんやそうした

ら私は見てみなんだらなそれで見てみたら台本は『瀧の

白糸』だったけどなフィルムが違うんよ今でもあるけどな

台本とフィルムが違う

 

というのは私ねうちに買うたときにそのフィルムも来と

ったと思うまたそれね戦後うちが買うてからね鴨島に

岩本さんという人があったんよその人がね十六ミリの映写

機も私が買うとったけんなそれが徳島で遅うまであった昭

和三〇年の初めぐらいまでか無声映画のな徳島の新町橋あ

るでしょうあれを渡ってこっちにあった無声映画館という

のが専門で4もう人気があったんですよそやけどそれ

が始末していくときにうちに売りに来た映写機とフィルム

と台本やそれで買うとったのをまた鴨島の岩本というのが

来てねその十六ミリの映写機を売ってくれってそれでフィ

ルムを付けて売ってくれと言ってそのフィルムを付けたのは

台本とフィルムとが違うて

―では戦後もまだ無声映画だけをやっている映画館が

あったのですか

藤本 

あったんですよ徳島にあったんですよ無声映画は

あったんですよそれが引き揚げていくときになうちにいろ

いろな資料を売り付けて九州かしら行ったんだよ

映画への目覚め

―藤本さんが映画に魅了されたのはいつごろですか

戦後になってからですか

藤本 

私が高校を卒業したのは昭和二五年かな二四年にね

『青い山脈』(一九四九年)という映画があった誰だったかな

今井正監督池部良と原節子主演かあれは私昭和二四年に

うちの劇場でなしに封切館徳島まで行って観た感動を受

けたね私はあれには涙が出たええ映画だったけんねそれ

で二五年に私高校を卒業したでしょうこりゃ映画がいいっ

ておやじは「おまえ大学行かんのか」と「いや大学行かん

私は映画にすぐ行く」と二四年に学区制になってね川向

こうは脇町高校川のこっちは穴吹高校と分けられた穴吹は

女子高だった脇町は男子校それで戦後初めて男女共学と

いうのができたんですよそのためには女子の方に男子が行か

ないかんでしょう脇町から行かないかんでしょうだから

私は穴吹高校に一年行った穴吹高校第一回生脇町高校第二

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

121

回生私がおるときに高校ができたけんだから両方の卒業

生だから寄付のことが来たらね第一期生の穴吹高校から

寄付それで第二回の脇町高校から寄付両方から来るうち

の子供もね次女は脇町長女は穴吹に行った穴吹に行った

ら英語科があってな次女の方は理系の方がいいけんと薬剤

師になるけんと脇町に行った両方から来るんですよ(笑)

―昭和二四年に『青い山脈』が大ヒットして昔の映

画年鑑によるとその年に貞光劇場が映画館としてスタートし

たと記録されているのですが

藤本 

いや映画はもっと前からしよったよ昭和二〇年ご

ろからね『君の名は』(大庭秀雄監督一九五三年)とかな5

映写技師の免許取得

藤本 

私が二五年に高校を上がってすぐに映画館に入った

ですよほんじゃけん二五年に私あのころは映写技師の免

許が要った国の私も持っとるけんな見せてあげますわ

(資料を取り出す)これは一級と二級があるけんこれは一級

の免許を取った徳島で受けたそれで労働基準局がくれよ

った―

その免許を取るにはどのぐらいかかったのです

か 

そういう訓練とか

藤本 

うちので慣れてるでしょうそうしたら徳島の封切館

で試験官がおるんですよそれでその人がね「はい時間

で行きますよはいフィルムかけて映して」ってこう映

すんだそれでその動作を見よって「よろしい」とそれで

学科試験があります学科試験がそれで通るか通らんかが決

まって後から通知が来る

―すぐ取れたわけですね

藤本 

取れた一発でいった

―ご自分の劇場で訓練しましたか

藤本 

そうそう訓練してね6うちの劇場に前香川県の

何とか劇場で一流どころでね無声映画のところから来よっ

た技師さんがおったんですよヒラマツとかいう人がうちの

劇場が機械を作ってしだしたらちょっとの間その人が教え

にきてくれたその後また貞光の出身の人で徳島の何とか封

切館にいた人が私を教えてくれたよそれでよかったのはね

その貞光の出身の人が徳島の封切館に支配人でおった「藤本

さんな前の日に来ない」と「教えてあげるけん」そうし

たら泊まりがけで行ってその人がその試験する映写機で

うちの映写機と向こうの映写機は違うでしょう迷う皆び

っくりしてでけんねそやけど私は前の日泊まり込みで行って

からね試験官がびっくりしてる大体みんな初めてで私は

一人だけ知らん顔して始めてなそれでぱっぱっぱっぱとこう

やったそうしたらびっくりしてるの試験官どうしたの

122

こんなにうまいそれでぱっぱっぱっぱっとしてぱーとした

らな「はいよろしい」って(笑)

 

ここの出身者の映写技師が二人おったんよ一人は徳島の鴨

島の封切館におってその人が体を悪くして貞光に戻ってき

たそれでうちに来てくれてすぐ死んだけどな教えてくれ

たそうしたら今度は徳島のなこっからまた徳島ジョウ

トクさんという人が徳島の封切館におったんやそれでその

人が「そこで試験するけんな藤本さん来てな教えてあげる

けん泊まり込みで来ない」と

―最初ここで映画を上映するようになったとき自

分で映写技師を務めたのですか

藤本 

そうそう

―映写機はいつ

藤本 

うちには買うてありました『君の名は』をするころ

に買った大阪にね映写機屋がおってねそこで買うた武

仲さん7こんなものじっと置いとってもな値打ちがないね

ん(笑)

貞光劇場の経営者に

―これも昔の映画年鑑の資料なのですが一九六一年

に初めて藤本一二三さんが責任者として名前が出てくるのです

六〇年までオーナーはお父さんの藤本伝助ですがもう一人

藤本茂という支配人がいます8

藤本 

それはいっときだけこれはもう済んだことじゃけん

税金の関係茂さんは義理の兄私の姉の婿だったというの

はねそこには子供が大勢おったあれを引く申請して扶養

家族を引くでしょうそうしたらその人には子供が五人ぐら

いおったんやそうしたらわが夫婦で七人もなるでしょう

そうしたら税金がかからんそんなのでこれは名前だけだっ

たんでこれのそうしたら税務署の申告で怒られた実際は

藤本がしとるでと言うて怒られた

―それは一九五〇年代でも実際には藤本さんがやって

いたのですか

藤本 

そうこの人はせえへん

―記録の上ではお父さんと

藤本 

おやじが許可をもろてずっと営業しよった営業の名

前私らがしたって別にかまわへんのだからうちのおやじ

が死んだらおやじは昭和五十何年に死んだそれまでずっと

おやじの名前で私がしよったそれで税務署に言われたんや

「藤本さん名前も変えないかん」と「へえすんまへん」と

それで私の名前に変えたんや

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

123

貞光劇場の観客

―今貞光はつるぎ町になっていますが戦前の劇場

ができたころ貞光の人口はどのぐらいだったのですか

藤本 

人口は六千ぐらい

―それで大体劇場に来た人は貞光の地元の人が中

心だったのですか 

周りの町からも来たのですか

藤本 

違うんですよ山田洋次さんの映画祭をしてもね百

人入るとしたら八〇まではよその人貞光は二〇そんなん

ですどの辺の人が来るかといったらね川向こうの郡こおざと里に

うちがしよった郡こおざと里

劇場があったそこの町の人それから

合併してつるぎ町になっとるけど半田の人その向こうは東ひがし

美みよし好になっとる三み

も加茂の人それでその川向こうの三み

の野こ

れだけの範囲から来たんでよその人がようけ来よる

―それは昔からそうだったのですか

藤本 

それは昔からそうです東からは来ないそれという

のは向こう9

は私は文化の町言うねん大きな町やとうち

は六千で向こうは一万かなっとるやろ違うわけやあそこ

の高等学校私もあそこの高等学校にお世話になったんやあ

そこに五年もいたんで向こうはまあいうたら偉ぶっとるわ

けやなほんじゃけん町民もそういう感じで全然来なんだ

私は両方で出しとるから分かるんじゃけん全然来んなそれ

はねおかしいもんそやけんどやね売上げは貞光が十万だ

ったらあそこは三万ぐらい上がる

 

ただあそこで貞光に勝ったのはね吉永小百合の『愛と死

をみつめて』(斎藤武市監督一九六四年)かあれは内容が

ねちょっと高尚なんですけどなあれはものすごい入った

これはねおかしいもんですよ許可映画というもんがなか

ったら子供は入れなんだそれで『愛と死をみつめて』だった

ら大体小学校の生徒は観るもんでないと思うでしょう中学

校やまあ高校の上やと思うでしょう違うんですよ私はあ

れはびっくりした私が脇町劇場で座っとったらな10切符売

り場でそうしたらいつもいる先生がね「藤本さんもう

『ドラえもん』とか『ゴジラ』やいうんはなもう子供は席を立

った」って言うんじゃって「ああいうもん観せてくれと言う

『愛と死をみつめて』は許可するけんな」と私はそんな許可す

るなんて思ってない逆らえへん「そうですか先生」そ

うしたら入場料は五〇円だったあのとき「この映画高い

けん先生七〇円にしてよ」と「藤本さん七〇円高いな」

「ほんならまあどうにも」と「藤本さん七〇円で許可したけ

んな」とようけ来ました

 

それで私の友人がね江原中学校で先生しよるのがおる

江原中学はうちの劇場から脇町劇場からだったら四キロあ

る今高校中学生やったら自転車でしょう当時は歩いて

来たんだよそれが日曜日なんやノノムラという私の友人が

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 6: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

119

―カイコの町は裕福だったという印象があるのですが

藤本 

脇町も製糸があった筒井製絲3貞光は何とか製糸

というのがあったんですよ製糸はみんなつぶれたけどね筒

井もつぶれたけどね私がいたときは筒井製絲はあった今は

キョーエイさんとか何とかというスーパーができとるでしょう

私が行ったときは製糸があったあの町は私が行ってからで

きたんだそれまで町はなかった私が脇町に行きよったとき

は竹やぶの淵を通って行きよっただから脇町に関して私

は一番よう分かる中学校の十代から脇町からだいたい十キロ

歩いたり汽車で行ってあの付近から歩いたりしたんで私

は脇町から土曜日は歩いてますけん高校の一年二年のとき

は脇町から歩いて戻って来よったんですよというのは土

曜日は汽車がなかった朝八時に行ったらね帰りは四時半ま

で汽車がない土曜日は昼で終わるでしょう四時まで待たな

いかん私はあの遠い所から歩いて戻って来よったそれで三

年くらいになって汽車が一時ごろもできた汽車がなかった

(笑)―

学生のころ学校でも頻繁に映画上映会がありまし

たか

藤本 

それはなかったよ私が中学校のときは全然なかった

無声映画の上映について

―子供のころに映画を観る機会は貞光でもあった

のですか

藤本 

私の頭の中にあるのはな無声映画その無声映画と

いうのはどんなんがあったかというとこっちに弁士がおるん

ですよ机置いてそれでそっちに楽団の人がおるんよ囃

す人がそれでこっちで無声で映写機を廻すそうしたらこ

っちの人弁士が画面を見てそれで台本というのがあって

それ見ながら泣くところは泣いたりしてこうするんそれで早

くする駆け足みたいになったら映写機が早く回るそれに合

わせて弁士がやる

―それはここ貞光での無声映画上映会の記憶ですか

それとも徳島の市内やどこかで無声映画を観た記憶ですか

藤本 

私はここでしたのを言いよんのよ徳島では観たこ

とない徳島でも無声映画というものは戦後もあったんです

よその無声映画をしよった人が駄目になって高知か九州

か引き揚げていったそのときにうちに売り込みがあったんよ

その館を買わんかと言うてというのはうちが売れとったけん

な地方でも残っとってもな残ると思って売り込みに来た

それが無声映画のねわし台本を持っとったんやその台本

ね今のここの骨董品を開いとる人になその人に見せたら

120

「売ってくれ」「売ってくれ」と言って私が去年かしら売った

台本文部省の印を押してそれは『瀧の白糸』(一九三三年)

かな有名でしょうその台本だけあったそれでフィルムは

ね私は『瀧の白糸』と思ったんだそのフィルムそうした

ら徳島新聞の人でな出身が関大か知らんでな関大の先生

がそういうのを捜しよるという「ほな藤本さん関大の先生

がおるけんなそれ見せてくれるだろ」と言うんやそうした

ら私は見てみなんだらなそれで見てみたら台本は『瀧の

白糸』だったけどなフィルムが違うんよ今でもあるけどな

台本とフィルムが違う

 

というのは私ねうちに買うたときにそのフィルムも来と

ったと思うまたそれね戦後うちが買うてからね鴨島に

岩本さんという人があったんよその人がね十六ミリの映写

機も私が買うとったけんなそれが徳島で遅うまであった昭

和三〇年の初めぐらいまでか無声映画のな徳島の新町橋あ

るでしょうあれを渡ってこっちにあった無声映画館という

のが専門で4もう人気があったんですよそやけどそれ

が始末していくときにうちに売りに来た映写機とフィルム

と台本やそれで買うとったのをまた鴨島の岩本というのが

来てねその十六ミリの映写機を売ってくれってそれでフィ

ルムを付けて売ってくれと言ってそのフィルムを付けたのは

台本とフィルムとが違うて

―では戦後もまだ無声映画だけをやっている映画館が

あったのですか

藤本 

あったんですよ徳島にあったんですよ無声映画は

あったんですよそれが引き揚げていくときになうちにいろ

いろな資料を売り付けて九州かしら行ったんだよ

映画への目覚め

―藤本さんが映画に魅了されたのはいつごろですか

戦後になってからですか

藤本 

私が高校を卒業したのは昭和二五年かな二四年にね

『青い山脈』(一九四九年)という映画があった誰だったかな

今井正監督池部良と原節子主演かあれは私昭和二四年に

うちの劇場でなしに封切館徳島まで行って観た感動を受

けたね私はあれには涙が出たええ映画だったけんねそれ

で二五年に私高校を卒業したでしょうこりゃ映画がいいっ

ておやじは「おまえ大学行かんのか」と「いや大学行かん

私は映画にすぐ行く」と二四年に学区制になってね川向

こうは脇町高校川のこっちは穴吹高校と分けられた穴吹は

女子高だった脇町は男子校それで戦後初めて男女共学と

いうのができたんですよそのためには女子の方に男子が行か

ないかんでしょう脇町から行かないかんでしょうだから

私は穴吹高校に一年行った穴吹高校第一回生脇町高校第二

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

121

回生私がおるときに高校ができたけんだから両方の卒業

生だから寄付のことが来たらね第一期生の穴吹高校から

寄付それで第二回の脇町高校から寄付両方から来るうち

の子供もね次女は脇町長女は穴吹に行った穴吹に行った

ら英語科があってな次女の方は理系の方がいいけんと薬剤

師になるけんと脇町に行った両方から来るんですよ(笑)

―昭和二四年に『青い山脈』が大ヒットして昔の映

画年鑑によるとその年に貞光劇場が映画館としてスタートし

たと記録されているのですが

藤本 

いや映画はもっと前からしよったよ昭和二〇年ご

ろからね『君の名は』(大庭秀雄監督一九五三年)とかな5

映写技師の免許取得

藤本 

私が二五年に高校を上がってすぐに映画館に入った

ですよほんじゃけん二五年に私あのころは映写技師の免

許が要った国の私も持っとるけんな見せてあげますわ

(資料を取り出す)これは一級と二級があるけんこれは一級

の免許を取った徳島で受けたそれで労働基準局がくれよ

った―

その免許を取るにはどのぐらいかかったのです

か 

そういう訓練とか

藤本 

うちので慣れてるでしょうそうしたら徳島の封切館

で試験官がおるんですよそれでその人がね「はい時間

で行きますよはいフィルムかけて映して」ってこう映

すんだそれでその動作を見よって「よろしい」とそれで

学科試験があります学科試験がそれで通るか通らんかが決

まって後から通知が来る

―すぐ取れたわけですね

藤本 

取れた一発でいった

―ご自分の劇場で訓練しましたか

藤本 

そうそう訓練してね6うちの劇場に前香川県の

何とか劇場で一流どころでね無声映画のところから来よっ

た技師さんがおったんですよヒラマツとかいう人がうちの

劇場が機械を作ってしだしたらちょっとの間その人が教え

にきてくれたその後また貞光の出身の人で徳島の何とか封

切館にいた人が私を教えてくれたよそれでよかったのはね

その貞光の出身の人が徳島の封切館に支配人でおった「藤本

さんな前の日に来ない」と「教えてあげるけん」そうし

たら泊まりがけで行ってその人がその試験する映写機で

うちの映写機と向こうの映写機は違うでしょう迷う皆び

っくりしてでけんねそやけど私は前の日泊まり込みで行って

からね試験官がびっくりしてる大体みんな初めてで私は

一人だけ知らん顔して始めてなそれでぱっぱっぱっぱとこう

やったそうしたらびっくりしてるの試験官どうしたの

122

こんなにうまいそれでぱっぱっぱっぱっとしてぱーとした

らな「はいよろしい」って(笑)

 

ここの出身者の映写技師が二人おったんよ一人は徳島の鴨

島の封切館におってその人が体を悪くして貞光に戻ってき

たそれでうちに来てくれてすぐ死んだけどな教えてくれ

たそうしたら今度は徳島のなこっからまた徳島ジョウ

トクさんという人が徳島の封切館におったんやそれでその

人が「そこで試験するけんな藤本さん来てな教えてあげる

けん泊まり込みで来ない」と

―最初ここで映画を上映するようになったとき自

分で映写技師を務めたのですか

藤本 

そうそう

―映写機はいつ

藤本 

うちには買うてありました『君の名は』をするころ

に買った大阪にね映写機屋がおってねそこで買うた武

仲さん7こんなものじっと置いとってもな値打ちがないね

ん(笑)

貞光劇場の経営者に

―これも昔の映画年鑑の資料なのですが一九六一年

に初めて藤本一二三さんが責任者として名前が出てくるのです

六〇年までオーナーはお父さんの藤本伝助ですがもう一人

藤本茂という支配人がいます8

藤本 

それはいっときだけこれはもう済んだことじゃけん

税金の関係茂さんは義理の兄私の姉の婿だったというの

はねそこには子供が大勢おったあれを引く申請して扶養

家族を引くでしょうそうしたらその人には子供が五人ぐら

いおったんやそうしたらわが夫婦で七人もなるでしょう

そうしたら税金がかからんそんなのでこれは名前だけだっ

たんでこれのそうしたら税務署の申告で怒られた実際は

藤本がしとるでと言うて怒られた

―それは一九五〇年代でも実際には藤本さんがやって

いたのですか

藤本 

そうこの人はせえへん

―記録の上ではお父さんと

藤本 

おやじが許可をもろてずっと営業しよった営業の名

前私らがしたって別にかまわへんのだからうちのおやじ

が死んだらおやじは昭和五十何年に死んだそれまでずっと

おやじの名前で私がしよったそれで税務署に言われたんや

「藤本さん名前も変えないかん」と「へえすんまへん」と

それで私の名前に変えたんや

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

123

貞光劇場の観客

―今貞光はつるぎ町になっていますが戦前の劇場

ができたころ貞光の人口はどのぐらいだったのですか

藤本 

人口は六千ぐらい

―それで大体劇場に来た人は貞光の地元の人が中

心だったのですか 

周りの町からも来たのですか

藤本 

違うんですよ山田洋次さんの映画祭をしてもね百

人入るとしたら八〇まではよその人貞光は二〇そんなん

ですどの辺の人が来るかといったらね川向こうの郡こおざと里に

うちがしよった郡こおざと里

劇場があったそこの町の人それから

合併してつるぎ町になっとるけど半田の人その向こうは東ひがし

美みよし好になっとる三み

も加茂の人それでその川向こうの三み

の野こ

れだけの範囲から来たんでよその人がようけ来よる

―それは昔からそうだったのですか

藤本 

それは昔からそうです東からは来ないそれという

のは向こう9

は私は文化の町言うねん大きな町やとうち

は六千で向こうは一万かなっとるやろ違うわけやあそこ

の高等学校私もあそこの高等学校にお世話になったんやあ

そこに五年もいたんで向こうはまあいうたら偉ぶっとるわ

けやなほんじゃけん町民もそういう感じで全然来なんだ

私は両方で出しとるから分かるんじゃけん全然来んなそれ

はねおかしいもんそやけんどやね売上げは貞光が十万だ

ったらあそこは三万ぐらい上がる

 

ただあそこで貞光に勝ったのはね吉永小百合の『愛と死

をみつめて』(斎藤武市監督一九六四年)かあれは内容が

ねちょっと高尚なんですけどなあれはものすごい入った

これはねおかしいもんですよ許可映画というもんがなか

ったら子供は入れなんだそれで『愛と死をみつめて』だった

ら大体小学校の生徒は観るもんでないと思うでしょう中学

校やまあ高校の上やと思うでしょう違うんですよ私はあ

れはびっくりした私が脇町劇場で座っとったらな10切符売

り場でそうしたらいつもいる先生がね「藤本さんもう

『ドラえもん』とか『ゴジラ』やいうんはなもう子供は席を立

った」って言うんじゃって「ああいうもん観せてくれと言う

『愛と死をみつめて』は許可するけんな」と私はそんな許可す

るなんて思ってない逆らえへん「そうですか先生」そ

うしたら入場料は五〇円だったあのとき「この映画高い

けん先生七〇円にしてよ」と「藤本さん七〇円高いな」

「ほんならまあどうにも」と「藤本さん七〇円で許可したけ

んな」とようけ来ました

 

それで私の友人がね江原中学校で先生しよるのがおる

江原中学はうちの劇場から脇町劇場からだったら四キロあ

る今高校中学生やったら自転車でしょう当時は歩いて

来たんだよそれが日曜日なんやノノムラという私の友人が

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 7: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

120

「売ってくれ」「売ってくれ」と言って私が去年かしら売った

台本文部省の印を押してそれは『瀧の白糸』(一九三三年)

かな有名でしょうその台本だけあったそれでフィルムは

ね私は『瀧の白糸』と思ったんだそのフィルムそうした

ら徳島新聞の人でな出身が関大か知らんでな関大の先生

がそういうのを捜しよるという「ほな藤本さん関大の先生

がおるけんなそれ見せてくれるだろ」と言うんやそうした

ら私は見てみなんだらなそれで見てみたら台本は『瀧の

白糸』だったけどなフィルムが違うんよ今でもあるけどな

台本とフィルムが違う

 

というのは私ねうちに買うたときにそのフィルムも来と

ったと思うまたそれね戦後うちが買うてからね鴨島に

岩本さんという人があったんよその人がね十六ミリの映写

機も私が買うとったけんなそれが徳島で遅うまであった昭

和三〇年の初めぐらいまでか無声映画のな徳島の新町橋あ

るでしょうあれを渡ってこっちにあった無声映画館という

のが専門で4もう人気があったんですよそやけどそれ

が始末していくときにうちに売りに来た映写機とフィルム

と台本やそれで買うとったのをまた鴨島の岩本というのが

来てねその十六ミリの映写機を売ってくれってそれでフィ

ルムを付けて売ってくれと言ってそのフィルムを付けたのは

台本とフィルムとが違うて

―では戦後もまだ無声映画だけをやっている映画館が

あったのですか

藤本 

あったんですよ徳島にあったんですよ無声映画は

あったんですよそれが引き揚げていくときになうちにいろ

いろな資料を売り付けて九州かしら行ったんだよ

映画への目覚め

―藤本さんが映画に魅了されたのはいつごろですか

戦後になってからですか

藤本 

私が高校を卒業したのは昭和二五年かな二四年にね

『青い山脈』(一九四九年)という映画があった誰だったかな

今井正監督池部良と原節子主演かあれは私昭和二四年に

うちの劇場でなしに封切館徳島まで行って観た感動を受

けたね私はあれには涙が出たええ映画だったけんねそれ

で二五年に私高校を卒業したでしょうこりゃ映画がいいっ

ておやじは「おまえ大学行かんのか」と「いや大学行かん

私は映画にすぐ行く」と二四年に学区制になってね川向

こうは脇町高校川のこっちは穴吹高校と分けられた穴吹は

女子高だった脇町は男子校それで戦後初めて男女共学と

いうのができたんですよそのためには女子の方に男子が行か

ないかんでしょう脇町から行かないかんでしょうだから

私は穴吹高校に一年行った穴吹高校第一回生脇町高校第二

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

121

回生私がおるときに高校ができたけんだから両方の卒業

生だから寄付のことが来たらね第一期生の穴吹高校から

寄付それで第二回の脇町高校から寄付両方から来るうち

の子供もね次女は脇町長女は穴吹に行った穴吹に行った

ら英語科があってな次女の方は理系の方がいいけんと薬剤

師になるけんと脇町に行った両方から来るんですよ(笑)

―昭和二四年に『青い山脈』が大ヒットして昔の映

画年鑑によるとその年に貞光劇場が映画館としてスタートし

たと記録されているのですが

藤本 

いや映画はもっと前からしよったよ昭和二〇年ご

ろからね『君の名は』(大庭秀雄監督一九五三年)とかな5

映写技師の免許取得

藤本 

私が二五年に高校を上がってすぐに映画館に入った

ですよほんじゃけん二五年に私あのころは映写技師の免

許が要った国の私も持っとるけんな見せてあげますわ

(資料を取り出す)これは一級と二級があるけんこれは一級

の免許を取った徳島で受けたそれで労働基準局がくれよ

った―

その免許を取るにはどのぐらいかかったのです

か 

そういう訓練とか

藤本 

うちので慣れてるでしょうそうしたら徳島の封切館

で試験官がおるんですよそれでその人がね「はい時間

で行きますよはいフィルムかけて映して」ってこう映

すんだそれでその動作を見よって「よろしい」とそれで

学科試験があります学科試験がそれで通るか通らんかが決

まって後から通知が来る

―すぐ取れたわけですね

藤本 

取れた一発でいった

―ご自分の劇場で訓練しましたか

藤本 

そうそう訓練してね6うちの劇場に前香川県の

何とか劇場で一流どころでね無声映画のところから来よっ

た技師さんがおったんですよヒラマツとかいう人がうちの

劇場が機械を作ってしだしたらちょっとの間その人が教え

にきてくれたその後また貞光の出身の人で徳島の何とか封

切館にいた人が私を教えてくれたよそれでよかったのはね

その貞光の出身の人が徳島の封切館に支配人でおった「藤本

さんな前の日に来ない」と「教えてあげるけん」そうし

たら泊まりがけで行ってその人がその試験する映写機で

うちの映写機と向こうの映写機は違うでしょう迷う皆び

っくりしてでけんねそやけど私は前の日泊まり込みで行って

からね試験官がびっくりしてる大体みんな初めてで私は

一人だけ知らん顔して始めてなそれでぱっぱっぱっぱとこう

やったそうしたらびっくりしてるの試験官どうしたの

122

こんなにうまいそれでぱっぱっぱっぱっとしてぱーとした

らな「はいよろしい」って(笑)

 

ここの出身者の映写技師が二人おったんよ一人は徳島の鴨

島の封切館におってその人が体を悪くして貞光に戻ってき

たそれでうちに来てくれてすぐ死んだけどな教えてくれ

たそうしたら今度は徳島のなこっからまた徳島ジョウ

トクさんという人が徳島の封切館におったんやそれでその

人が「そこで試験するけんな藤本さん来てな教えてあげる

けん泊まり込みで来ない」と

―最初ここで映画を上映するようになったとき自

分で映写技師を務めたのですか

藤本 

そうそう

―映写機はいつ

藤本 

うちには買うてありました『君の名は』をするころ

に買った大阪にね映写機屋がおってねそこで買うた武

仲さん7こんなものじっと置いとってもな値打ちがないね

ん(笑)

貞光劇場の経営者に

―これも昔の映画年鑑の資料なのですが一九六一年

に初めて藤本一二三さんが責任者として名前が出てくるのです

六〇年までオーナーはお父さんの藤本伝助ですがもう一人

藤本茂という支配人がいます8

藤本 

それはいっときだけこれはもう済んだことじゃけん

税金の関係茂さんは義理の兄私の姉の婿だったというの

はねそこには子供が大勢おったあれを引く申請して扶養

家族を引くでしょうそうしたらその人には子供が五人ぐら

いおったんやそうしたらわが夫婦で七人もなるでしょう

そうしたら税金がかからんそんなのでこれは名前だけだっ

たんでこれのそうしたら税務署の申告で怒られた実際は

藤本がしとるでと言うて怒られた

―それは一九五〇年代でも実際には藤本さんがやって

いたのですか

藤本 

そうこの人はせえへん

―記録の上ではお父さんと

藤本 

おやじが許可をもろてずっと営業しよった営業の名

前私らがしたって別にかまわへんのだからうちのおやじ

が死んだらおやじは昭和五十何年に死んだそれまでずっと

おやじの名前で私がしよったそれで税務署に言われたんや

「藤本さん名前も変えないかん」と「へえすんまへん」と

それで私の名前に変えたんや

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

123

貞光劇場の観客

―今貞光はつるぎ町になっていますが戦前の劇場

ができたころ貞光の人口はどのぐらいだったのですか

藤本 

人口は六千ぐらい

―それで大体劇場に来た人は貞光の地元の人が中

心だったのですか 

周りの町からも来たのですか

藤本 

違うんですよ山田洋次さんの映画祭をしてもね百

人入るとしたら八〇まではよその人貞光は二〇そんなん

ですどの辺の人が来るかといったらね川向こうの郡こおざと里に

うちがしよった郡こおざと里

劇場があったそこの町の人それから

合併してつるぎ町になっとるけど半田の人その向こうは東ひがし

美みよし好になっとる三み

も加茂の人それでその川向こうの三み

の野こ

れだけの範囲から来たんでよその人がようけ来よる

―それは昔からそうだったのですか

藤本 

それは昔からそうです東からは来ないそれという

のは向こう9

は私は文化の町言うねん大きな町やとうち

は六千で向こうは一万かなっとるやろ違うわけやあそこ

の高等学校私もあそこの高等学校にお世話になったんやあ

そこに五年もいたんで向こうはまあいうたら偉ぶっとるわ

けやなほんじゃけん町民もそういう感じで全然来なんだ

私は両方で出しとるから分かるんじゃけん全然来んなそれ

はねおかしいもんそやけんどやね売上げは貞光が十万だ

ったらあそこは三万ぐらい上がる

 

ただあそこで貞光に勝ったのはね吉永小百合の『愛と死

をみつめて』(斎藤武市監督一九六四年)かあれは内容が

ねちょっと高尚なんですけどなあれはものすごい入った

これはねおかしいもんですよ許可映画というもんがなか

ったら子供は入れなんだそれで『愛と死をみつめて』だった

ら大体小学校の生徒は観るもんでないと思うでしょう中学

校やまあ高校の上やと思うでしょう違うんですよ私はあ

れはびっくりした私が脇町劇場で座っとったらな10切符売

り場でそうしたらいつもいる先生がね「藤本さんもう

『ドラえもん』とか『ゴジラ』やいうんはなもう子供は席を立

った」って言うんじゃって「ああいうもん観せてくれと言う

『愛と死をみつめて』は許可するけんな」と私はそんな許可す

るなんて思ってない逆らえへん「そうですか先生」そ

うしたら入場料は五〇円だったあのとき「この映画高い

けん先生七〇円にしてよ」と「藤本さん七〇円高いな」

「ほんならまあどうにも」と「藤本さん七〇円で許可したけ

んな」とようけ来ました

 

それで私の友人がね江原中学校で先生しよるのがおる

江原中学はうちの劇場から脇町劇場からだったら四キロあ

る今高校中学生やったら自転車でしょう当時は歩いて

来たんだよそれが日曜日なんやノノムラという私の友人が

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 8: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

121

回生私がおるときに高校ができたけんだから両方の卒業

生だから寄付のことが来たらね第一期生の穴吹高校から

寄付それで第二回の脇町高校から寄付両方から来るうち

の子供もね次女は脇町長女は穴吹に行った穴吹に行った

ら英語科があってな次女の方は理系の方がいいけんと薬剤

師になるけんと脇町に行った両方から来るんですよ(笑)

―昭和二四年に『青い山脈』が大ヒットして昔の映

画年鑑によるとその年に貞光劇場が映画館としてスタートし

たと記録されているのですが

藤本 

いや映画はもっと前からしよったよ昭和二〇年ご

ろからね『君の名は』(大庭秀雄監督一九五三年)とかな5

映写技師の免許取得

藤本 

私が二五年に高校を上がってすぐに映画館に入った

ですよほんじゃけん二五年に私あのころは映写技師の免

許が要った国の私も持っとるけんな見せてあげますわ

(資料を取り出す)これは一級と二級があるけんこれは一級

の免許を取った徳島で受けたそれで労働基準局がくれよ

った―

その免許を取るにはどのぐらいかかったのです

か 

そういう訓練とか

藤本 

うちので慣れてるでしょうそうしたら徳島の封切館

で試験官がおるんですよそれでその人がね「はい時間

で行きますよはいフィルムかけて映して」ってこう映

すんだそれでその動作を見よって「よろしい」とそれで

学科試験があります学科試験がそれで通るか通らんかが決

まって後から通知が来る

―すぐ取れたわけですね

藤本 

取れた一発でいった

―ご自分の劇場で訓練しましたか

藤本 

そうそう訓練してね6うちの劇場に前香川県の

何とか劇場で一流どころでね無声映画のところから来よっ

た技師さんがおったんですよヒラマツとかいう人がうちの

劇場が機械を作ってしだしたらちょっとの間その人が教え

にきてくれたその後また貞光の出身の人で徳島の何とか封

切館にいた人が私を教えてくれたよそれでよかったのはね

その貞光の出身の人が徳島の封切館に支配人でおった「藤本

さんな前の日に来ない」と「教えてあげるけん」そうし

たら泊まりがけで行ってその人がその試験する映写機で

うちの映写機と向こうの映写機は違うでしょう迷う皆び

っくりしてでけんねそやけど私は前の日泊まり込みで行って

からね試験官がびっくりしてる大体みんな初めてで私は

一人だけ知らん顔して始めてなそれでぱっぱっぱっぱとこう

やったそうしたらびっくりしてるの試験官どうしたの

122

こんなにうまいそれでぱっぱっぱっぱっとしてぱーとした

らな「はいよろしい」って(笑)

 

ここの出身者の映写技師が二人おったんよ一人は徳島の鴨

島の封切館におってその人が体を悪くして貞光に戻ってき

たそれでうちに来てくれてすぐ死んだけどな教えてくれ

たそうしたら今度は徳島のなこっからまた徳島ジョウ

トクさんという人が徳島の封切館におったんやそれでその

人が「そこで試験するけんな藤本さん来てな教えてあげる

けん泊まり込みで来ない」と

―最初ここで映画を上映するようになったとき自

分で映写技師を務めたのですか

藤本 

そうそう

―映写機はいつ

藤本 

うちには買うてありました『君の名は』をするころ

に買った大阪にね映写機屋がおってねそこで買うた武

仲さん7こんなものじっと置いとってもな値打ちがないね

ん(笑)

貞光劇場の経営者に

―これも昔の映画年鑑の資料なのですが一九六一年

に初めて藤本一二三さんが責任者として名前が出てくるのです

六〇年までオーナーはお父さんの藤本伝助ですがもう一人

藤本茂という支配人がいます8

藤本 

それはいっときだけこれはもう済んだことじゃけん

税金の関係茂さんは義理の兄私の姉の婿だったというの

はねそこには子供が大勢おったあれを引く申請して扶養

家族を引くでしょうそうしたらその人には子供が五人ぐら

いおったんやそうしたらわが夫婦で七人もなるでしょう

そうしたら税金がかからんそんなのでこれは名前だけだっ

たんでこれのそうしたら税務署の申告で怒られた実際は

藤本がしとるでと言うて怒られた

―それは一九五〇年代でも実際には藤本さんがやって

いたのですか

藤本 

そうこの人はせえへん

―記録の上ではお父さんと

藤本 

おやじが許可をもろてずっと営業しよった営業の名

前私らがしたって別にかまわへんのだからうちのおやじ

が死んだらおやじは昭和五十何年に死んだそれまでずっと

おやじの名前で私がしよったそれで税務署に言われたんや

「藤本さん名前も変えないかん」と「へえすんまへん」と

それで私の名前に変えたんや

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

123

貞光劇場の観客

―今貞光はつるぎ町になっていますが戦前の劇場

ができたころ貞光の人口はどのぐらいだったのですか

藤本 

人口は六千ぐらい

―それで大体劇場に来た人は貞光の地元の人が中

心だったのですか 

周りの町からも来たのですか

藤本 

違うんですよ山田洋次さんの映画祭をしてもね百

人入るとしたら八〇まではよその人貞光は二〇そんなん

ですどの辺の人が来るかといったらね川向こうの郡こおざと里に

うちがしよった郡こおざと里

劇場があったそこの町の人それから

合併してつるぎ町になっとるけど半田の人その向こうは東ひがし

美みよし好になっとる三み

も加茂の人それでその川向こうの三み

の野こ

れだけの範囲から来たんでよその人がようけ来よる

―それは昔からそうだったのですか

藤本 

それは昔からそうです東からは来ないそれという

のは向こう9

は私は文化の町言うねん大きな町やとうち

は六千で向こうは一万かなっとるやろ違うわけやあそこ

の高等学校私もあそこの高等学校にお世話になったんやあ

そこに五年もいたんで向こうはまあいうたら偉ぶっとるわ

けやなほんじゃけん町民もそういう感じで全然来なんだ

私は両方で出しとるから分かるんじゃけん全然来んなそれ

はねおかしいもんそやけんどやね売上げは貞光が十万だ

ったらあそこは三万ぐらい上がる

 

ただあそこで貞光に勝ったのはね吉永小百合の『愛と死

をみつめて』(斎藤武市監督一九六四年)かあれは内容が

ねちょっと高尚なんですけどなあれはものすごい入った

これはねおかしいもんですよ許可映画というもんがなか

ったら子供は入れなんだそれで『愛と死をみつめて』だった

ら大体小学校の生徒は観るもんでないと思うでしょう中学

校やまあ高校の上やと思うでしょう違うんですよ私はあ

れはびっくりした私が脇町劇場で座っとったらな10切符売

り場でそうしたらいつもいる先生がね「藤本さんもう

『ドラえもん』とか『ゴジラ』やいうんはなもう子供は席を立

った」って言うんじゃって「ああいうもん観せてくれと言う

『愛と死をみつめて』は許可するけんな」と私はそんな許可す

るなんて思ってない逆らえへん「そうですか先生」そ

うしたら入場料は五〇円だったあのとき「この映画高い

けん先生七〇円にしてよ」と「藤本さん七〇円高いな」

「ほんならまあどうにも」と「藤本さん七〇円で許可したけ

んな」とようけ来ました

 

それで私の友人がね江原中学校で先生しよるのがおる

江原中学はうちの劇場から脇町劇場からだったら四キロあ

る今高校中学生やったら自転車でしょう当時は歩いて

来たんだよそれが日曜日なんやノノムラという私の友人が

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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mpan

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tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 9: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

122

こんなにうまいそれでぱっぱっぱっぱっとしてぱーとした

らな「はいよろしい」って(笑)

 

ここの出身者の映写技師が二人おったんよ一人は徳島の鴨

島の封切館におってその人が体を悪くして貞光に戻ってき

たそれでうちに来てくれてすぐ死んだけどな教えてくれ

たそうしたら今度は徳島のなこっからまた徳島ジョウ

トクさんという人が徳島の封切館におったんやそれでその

人が「そこで試験するけんな藤本さん来てな教えてあげる

けん泊まり込みで来ない」と

―最初ここで映画を上映するようになったとき自

分で映写技師を務めたのですか

藤本 

そうそう

―映写機はいつ

藤本 

うちには買うてありました『君の名は』をするころ

に買った大阪にね映写機屋がおってねそこで買うた武

仲さん7こんなものじっと置いとってもな値打ちがないね

ん(笑)

貞光劇場の経営者に

―これも昔の映画年鑑の資料なのですが一九六一年

に初めて藤本一二三さんが責任者として名前が出てくるのです

六〇年までオーナーはお父さんの藤本伝助ですがもう一人

藤本茂という支配人がいます8

藤本 

それはいっときだけこれはもう済んだことじゃけん

税金の関係茂さんは義理の兄私の姉の婿だったというの

はねそこには子供が大勢おったあれを引く申請して扶養

家族を引くでしょうそうしたらその人には子供が五人ぐら

いおったんやそうしたらわが夫婦で七人もなるでしょう

そうしたら税金がかからんそんなのでこれは名前だけだっ

たんでこれのそうしたら税務署の申告で怒られた実際は

藤本がしとるでと言うて怒られた

―それは一九五〇年代でも実際には藤本さんがやって

いたのですか

藤本 

そうこの人はせえへん

―記録の上ではお父さんと

藤本 

おやじが許可をもろてずっと営業しよった営業の名

前私らがしたって別にかまわへんのだからうちのおやじ

が死んだらおやじは昭和五十何年に死んだそれまでずっと

おやじの名前で私がしよったそれで税務署に言われたんや

「藤本さん名前も変えないかん」と「へえすんまへん」と

それで私の名前に変えたんや

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

123

貞光劇場の観客

―今貞光はつるぎ町になっていますが戦前の劇場

ができたころ貞光の人口はどのぐらいだったのですか

藤本 

人口は六千ぐらい

―それで大体劇場に来た人は貞光の地元の人が中

心だったのですか 

周りの町からも来たのですか

藤本 

違うんですよ山田洋次さんの映画祭をしてもね百

人入るとしたら八〇まではよその人貞光は二〇そんなん

ですどの辺の人が来るかといったらね川向こうの郡こおざと里に

うちがしよった郡こおざと里

劇場があったそこの町の人それから

合併してつるぎ町になっとるけど半田の人その向こうは東ひがし

美みよし好になっとる三み

も加茂の人それでその川向こうの三み

の野こ

れだけの範囲から来たんでよその人がようけ来よる

―それは昔からそうだったのですか

藤本 

それは昔からそうです東からは来ないそれという

のは向こう9

は私は文化の町言うねん大きな町やとうち

は六千で向こうは一万かなっとるやろ違うわけやあそこ

の高等学校私もあそこの高等学校にお世話になったんやあ

そこに五年もいたんで向こうはまあいうたら偉ぶっとるわ

けやなほんじゃけん町民もそういう感じで全然来なんだ

私は両方で出しとるから分かるんじゃけん全然来んなそれ

はねおかしいもんそやけんどやね売上げは貞光が十万だ

ったらあそこは三万ぐらい上がる

 

ただあそこで貞光に勝ったのはね吉永小百合の『愛と死

をみつめて』(斎藤武市監督一九六四年)かあれは内容が

ねちょっと高尚なんですけどなあれはものすごい入った

これはねおかしいもんですよ許可映画というもんがなか

ったら子供は入れなんだそれで『愛と死をみつめて』だった

ら大体小学校の生徒は観るもんでないと思うでしょう中学

校やまあ高校の上やと思うでしょう違うんですよ私はあ

れはびっくりした私が脇町劇場で座っとったらな10切符売

り場でそうしたらいつもいる先生がね「藤本さんもう

『ドラえもん』とか『ゴジラ』やいうんはなもう子供は席を立

った」って言うんじゃって「ああいうもん観せてくれと言う

『愛と死をみつめて』は許可するけんな」と私はそんな許可す

るなんて思ってない逆らえへん「そうですか先生」そ

うしたら入場料は五〇円だったあのとき「この映画高い

けん先生七〇円にしてよ」と「藤本さん七〇円高いな」

「ほんならまあどうにも」と「藤本さん七〇円で許可したけ

んな」とようけ来ました

 

それで私の友人がね江原中学校で先生しよるのがおる

江原中学はうちの劇場から脇町劇場からだったら四キロあ

る今高校中学生やったら自転車でしょう当時は歩いて

来たんだよそれが日曜日なんやノノムラという私の友人が

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 10: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

123

貞光劇場の観客

―今貞光はつるぎ町になっていますが戦前の劇場

ができたころ貞光の人口はどのぐらいだったのですか

藤本 

人口は六千ぐらい

―それで大体劇場に来た人は貞光の地元の人が中

心だったのですか 

周りの町からも来たのですか

藤本 

違うんですよ山田洋次さんの映画祭をしてもね百

人入るとしたら八〇まではよその人貞光は二〇そんなん

ですどの辺の人が来るかといったらね川向こうの郡こおざと里に

うちがしよった郡こおざと里

劇場があったそこの町の人それから

合併してつるぎ町になっとるけど半田の人その向こうは東ひがし

美みよし好になっとる三み

も加茂の人それでその川向こうの三み

の野こ

れだけの範囲から来たんでよその人がようけ来よる

―それは昔からそうだったのですか

藤本 

それは昔からそうです東からは来ないそれという

のは向こう9

は私は文化の町言うねん大きな町やとうち

は六千で向こうは一万かなっとるやろ違うわけやあそこ

の高等学校私もあそこの高等学校にお世話になったんやあ

そこに五年もいたんで向こうはまあいうたら偉ぶっとるわ

けやなほんじゃけん町民もそういう感じで全然来なんだ

私は両方で出しとるから分かるんじゃけん全然来んなそれ

はねおかしいもんそやけんどやね売上げは貞光が十万だ

ったらあそこは三万ぐらい上がる

 

ただあそこで貞光に勝ったのはね吉永小百合の『愛と死

をみつめて』(斎藤武市監督一九六四年)かあれは内容が

ねちょっと高尚なんですけどなあれはものすごい入った

これはねおかしいもんですよ許可映画というもんがなか

ったら子供は入れなんだそれで『愛と死をみつめて』だった

ら大体小学校の生徒は観るもんでないと思うでしょう中学

校やまあ高校の上やと思うでしょう違うんですよ私はあ

れはびっくりした私が脇町劇場で座っとったらな10切符売

り場でそうしたらいつもいる先生がね「藤本さんもう

『ドラえもん』とか『ゴジラ』やいうんはなもう子供は席を立

った」って言うんじゃって「ああいうもん観せてくれと言う

『愛と死をみつめて』は許可するけんな」と私はそんな許可す

るなんて思ってない逆らえへん「そうですか先生」そ

うしたら入場料は五〇円だったあのとき「この映画高い

けん先生七〇円にしてよ」と「藤本さん七〇円高いな」

「ほんならまあどうにも」と「藤本さん七〇円で許可したけ

んな」とようけ来ました

 

それで私の友人がね江原中学校で先生しよるのがおる

江原中学はうちの劇場から脇町劇場からだったら四キロあ

る今高校中学生やったら自転車でしょう当時は歩いて

来たんだよそれが日曜日なんやノノムラという私の友人が

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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enak

a-coco

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7co

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yco

mpan

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tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 11: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

124

脇町中学の同級生がね「藤本さん久しぶりじゃなあわし

な『愛と死をみつめて』は生徒連れて行くけんな」と言うん

や「ほー遠いのに来るんかおまえいつや」と言った

ら日曜日「へー」と「ほんなら待ちよるけんな」と何

ぼ来たと思います 

三百名映画してからこれがもう私の

一生の思い出「へー四キロもあるよあれ」と歩いて来た

私はそれにびっくりしたもう涙が出たその友人がな当時

なそれも歩いてですよ今の中学校やったら皆すぐに電車で

さーっと来るやろそれを歩いて三百名もよう連れて来たわ

と思ってもうそれには感謝した私は大大感謝や

貞光劇場の定員数

―定員数というのも書いてあるのですがこの六五〇

人定員というのは 

多分大きさは変わっていないと思うので

すが六百人も入れたのでしょうか

藤本 

それは上と二階とあるけ

―これは立見席があったのですか

藤本 

そうね二階というのも何ぼ入るか分からんですよ

下というのは決まるけどね二階というのは畳でしょうそれ

で通路は板間でしょう何ぼでもOK普通三百というこ

とはあれは大きな定員にしよったらな規則があってね規

則が難しいだからところでは少ないやつに言うてところ

では高い方で普通三百人の定員と書いてあると思う

―六五〇人というのはすごいですね

藤本 

いやそれが心配ナイトショーというのがはやった

んです戦後八時から一回というのがそれで十円で一万

円上がったってどういうこと千人でしょうとにかく入れに

入れそうしたらね二階だったら手すりのところだけは観え

るんだね後ろになったら観えませんでは変でしょう観え

るはずがないんでそれでもはめるだけはめとったらな順

番に観えるけんそれで皆がな「貞光劇場は二階が落ちる

落ちる」と二階が落ちるのじゃないお客さんが落ちるん

だ(笑)反対やって「劇場が落ちる落ちる」と言って警察

が来てな「二階が落ちる落ちるとやかましいんじゃおま

えようけ入れたらいかんぞ」と二階が落ちるんじゃないん

でお客さんが落ちるんで

―そういう事故があったのですか 

実際にお客さん

が落ちたという

藤本 

そんなん全然ないないけんどなお客さん波打つん

ですから後ろの人はこうのぞき見をするやろほんなら

こう真正面でしょう二階の横の方の人だったら観えんので

まともにこう観たらなほんじゃけんこう前に寄って観ると

―危ないですね一番前は

藤本 

危ない危ない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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tak

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a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 12: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

125

―なるほど落ちるという話が出てきて

藤本 

そうそうそれでみんな一般の人や何やわなうち

の映画祭というのが昭和六〇年ごろから山田洋次さんでしたで

しょう五〜六年そうしたら「落ちる落ちる」言うけん

「二階は上げんよな」「うん上げへんで」言うてそれで百人

に決めるかと二階は百人に決めとったそれで下は三百と

かいうてな平均三百でいっとった

貞光周辺の映画館

―一九五〇年代は日本映画の最盛期でまだテレビが

普及するまではやはり人が映画館に観に行ったのですね

藤本 

映画というのはね昭和三〇年前後にテレビが出たで

しょうそれで落ちてしもたこれは激しいこの美み

ま馬郡には

映画館が十館あったんですよそれが三〇年前後にテレビが出

たでしょう昭和四〇年まで私がやっていたところだけが残っ

てみんなつぶれた全部

―昭和三〇年にもう一つ貞光会館という劇場がありま

したね

藤本 

会館があったんですよこれが問題これはうちが手

広くするでしょうはやるというんで貞光会館というのができ

たそれは昭和三〇年ぐらいで昭和四〇年でなくなったそ

れは株主が十人ぐらいで十人というのは貞光の銭持ちばっか

りそれがうちに対抗して集まったそれが大垣さんという土

建屋さんが先取りでそれで今でも長者番付に入っている村

雲さん今は違うことしよるけんどなこの人らが入って十人

ぐらいで始めたそれが三〜四年しても入らんで内輪もめし

てやめてしもてなあと一人大垣さんだけが残ったその大垣

さんもしまいに半田会館というところを一つ造ったんだよ土

建屋さんじゃけん建物を造ってそれで同様に始めたそれ

が駄目で半田会館は参ったそれで貞光会館が残ってそれ

も駄目になってねしまいはどうだったのか火災が起こっ

たそれが問題火災が起こってね警察やら消防がうちに調

べにきたんや「こういうところが火災が出るんだよ藤本さ

ん火災起こるね」と「いやあれはコンクリの中にあるの

は火災が起こらんな」とそれが起こっとんねやとそうした

らちょうどそのときにその大垣さんは火災保険に入っとった

―ああ怪しい話ですね(笑)

藤本 

それでねその大垣さんももう経営せずにね甥に当

たる脇町の裏手の通りにある何とかいう洋服の裁断をしよっ

た人が来てしよった汽車に乗って来てしよったその人のと

きに火災が起こってなこの人は夜逃げしたドロンしたそ

れでおしまいというのはな映画というのは儲かると思てね

してみたら儲からんけ皆お手上げになる

 

脇町にでも脇町会館とか江原会館とかそれから岩倉劇

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 13: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

126

場とかほいから穴吹の相生座とかこういう劇場は皆四〇

年までには参ってしもたそれでその年齢層の人はね皆

私のお父さんぐらいの年齢層だった私が三〇でみんな六〇

ぐらいだったそうしたら皆さん方組合員が集まったらな

「藤本さんと勝負しても駄目じゃあの人は若い」と皆やめ

てしもた六〇の人はな若い者は無鉄砲に儲からんで一生懸

命に行くで私や家内や一生懸命に行くでほんなら皆は二

本立てうちは三本立てで行くねんそれでみんなやめてしも

た藤本さんと勝負してはいかんと

貞光劇場と配給システム

―その三本立ていうのは夜の上映も入れてというこ

とですか

藤本 

ああナイトショーナイトショーは題名変えるんで

すよ晩のやつはな映画会社に頼んでな私は東映を買いよ

ったんよ東映に言うてなこれ一本普通の正式は一万円と

するでしょうナイトショー用再映みたいなものをもろてこ

れを三千円にせえとか五千円にせえとそれに東映さんが協力

してくれた東映さんばっかり他は使わなんだ他はナイト

ショーだけするフィルムがない東映さんの場合は第一東映

と第二東映というのがあったんですよそれで本数もあそこは

二本立てでいきよった東宝は一本立て松竹も一本それか

ら日活は二本もしよったんが東映だけオール二本だから

第一と第二で四本あったわけや本数がいっぱいあるだから

うちが買えたそれで救われた

―そのとき貞光劇場は東映とか東宝とか松竹

日活とそれぞれ契約があったのですか

藤本 

そうそうそうしよったんや

―それはどのように計算して歩合制ではなくて

藤本 

歩合と違う最初はね徳島県に権利を持った人がお

るんですよ今はもう東映や東宝系といっても会社が全部直

営ですよ昭和二〇年三〇年代というのはね映画会社が直

接それを見つけても相手が信用でけへんけん劇場が信用で

けへんけん誰か徳島県下でそれを任そうとその人が貸して

いく徳島の鴨島には何とかいう貸す人がおったんですよそ

れから徳島の小松島にそういう人がおったそれでそう

いう人が県下の封切館以外のところへね会社から買って貸し

ていきよった

―ではフィルムごとにそういう契約をしたのですか

藤本 

それは昭和の三〇年代のいつからぐらいからねもう

映画会社から直接になったセールスさんが回ってくるように

なった―

ちなみにその中で日活は入っていたのですか 

五社協定で

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 14: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

127

藤本 

日活は直接会社としました

―他はその徳島のところを通じて

藤本 

東映とかねそういうところから借りていった徳島

とか鴨島とかにおったんやねそれからブロック屋という

てね外国映画とかね昭和の二〇年代後半にシネマスコープ

ができたときは普通の映画でシネマスコープあれは東映が

一番に始めたわなシネマスコープというのはレンズがあの

当時で安いやつで十何万したけんな昭和二〇年代にほんじ

ゃけんあれができたときに映画館はよう買わなんだ

 

高いけそうしたらそのブロック屋がそれを買うてね全

部次々回していったそれでブロック屋からフィルムを買っ

てそれでそのレンズを買ってそやけどそんなもの一年も

せんうちにみんな買うたですよというのはブロック屋に頭

使われてなこれは一万円としたら一万五千円にレンズが付

いとるけんな一万五千円こんなことしよったらもうからん

じゃないかともうみんなが買うた安いんで一万何ぼで高

いのはねわしのが高かった

―そのとき映画は一本で幾らという計算だったのです

か 

あるいは興行収入の何割というのではなくて

藤本 

いや歩合はないそれは封切館だけそこまで信用

してくれなんだ一般館はそうでしょう現金を握っとって

「くれ」なんて言わんでいい話やほんじゃけん直営館だけ

その歩合は

―でも日活だけは直接

藤本 

いやいや歩合じゃないうちらは

―日活は違うのですか

藤本 

うん何ぼと買うやつ石原裕次郎のこのフィルムは

何ぼこれは何ぼと直接買いよるわけそれで他の会社は

最初のうちはブロック館があってねブロック館から買いよっ

たそれも一般の劇場とすればばからしい会社に直接の方

が安いじゃないかブロック館になったら一万円で買うても

一万二千円とか取られるでなそれでいじめられるでなこれ

欲しいと言ったら「余計くれ」と言われるじゃ(笑)

―それも最盛期だから大手会社の競争もかなり激し

い時期だったと思うのですがセールスマンとかは他会社で

はなくてうちのものにしてくれその分安くしてやるとかとい

う話はなかったのですか

藤本 

最初はセールスさんがずっと毎月毎月回って来よった

そうしたらしまいはねセールスさんがそう回ったんで会

社も悪くなったんですよ経費が損するじゃないかとそれで

もう会社がね電話でセールスさんと電話でこれは何ぼと

―なるほど昭和三〇年ぐらいに活躍したセールスマ

ンから話を聞いたことがあったのですが映画館から賄賂が

いっぱいあったと

藤本 

それはあったですよそれはある

―普通はセールスマンが売り込むのだと思っていたの

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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a-coco

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7co

mpan

yco

mpan

y_h

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tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 15: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

128

ですがそうではなくて映画館の方から「売ってくれ」「売っ

てくれ」とセールスマンに賄賂を渡していたと聞いたのですが

藤本 

売ってくれってなセールスが回って来るんです

よそうしたらセールスがな「藤本さんこれ十万円じゃ

十万円じゃけ」そうしたら十万円「一万円渡すけ八万円

でせえ」とかなこう言うたらいかんけんどねそれが特に多

かったのは東映映画会社で一番面倒かったのは東宝さん

今でも面倒ですよ東宝は融通が利かんのほんで高い東

宝は涙もないほんま「こっちは実はこれだけ上がらんのや

けそれだけ出したら損すんやけ」「ほんならやめとけや」って

それに対して一番良かったのは松竹さんこれはもう伝統が古

いで松竹さんはね昭和三〇年代つぶれそうなときがあっ

たそんなときの写真をさっと出せへんけどね全国大会を松

竹さんはしてね京都の南座へ全国の松竹の封切館を皆集めた

そのときに何ぼくれたと思います 

昭和三〇年代で私が昭

和三〇何年に行ったのはね二万円くれたんですよというの

はな旅館代というので私は泊まらんと二万円持って帰った

(笑)―

それは集まった人全員に配ったわけですか

藤本 

全部くれた後から送ってきたと思う何で全国大会

を開いたかといったらね徳島県に封切館がなくなったんです

よというのは第二東映ができたでしょうそうしたら松

竹は入らんけんみんな他のやつが入らんで東宝は入らんで

普通の東映と第二東映とみんな第二東映になったわけそう

したら徳島県に封切館がなくなったそれで第二東映の封

切館ができた徳島県で松竹しよったらね私とねそれと脇

町に脇町会館というのがあったそれから徳島にごく最近ま

で生きとった私がよう知っていたそれはそのときいた人三

人二流館ばっかりや封切館は皆やめたほな会社が丁

重にしてくれた松竹というところはな竹次郎松次郎で

代々古くから歌舞伎やらしよるところでしょうそやけ人情が

厚い弱いところは助けてやれと松竹がつぶれるって封切館

はみんななくなったんだよそれでも私が頑張ってあげたで

松竹をやめて二カ月おったそれでも二万円くれて招待を受け

てたでそのやつが四国大会と何とか大会というやつな写真

やって私は写っとるんですよセールスやったで女優さん

誰か忘れたけどなそれで京都の南座ではめかちんの歌

手がおったでしょう田端義夫か上手な人がおったでしょう

それから男前の何とか言いよったね松竹の高田浩吉あの

人らが出てな当時のナンバーワンだわな歌を歌ったですよ

それもう私感動したわそやけど松竹は弱ったあの南座と

いったら一流ですわ京都にあるそれが冬やのに暖房が

かかってない経費節約しとるもう儲からんというわけで

「寒いな」と言ってもな「辛抱してよ」ってそやけど二万

円くれたけんな映画会社のつらいときやな悲しいときとい

うのを皆知ってきとんだようれしいときもな

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 16: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

129

―新東宝はどうだったのですか新東宝の映画も上映

したのですか

藤本 

新東宝もしました新東宝はしまいの方は政治映画

になったけんどな最初は新東宝は割と変わった映画をしたか

ら入ったんですよ

―昔はフィルムを買ったとおっしゃったのですがで

も後で返しましたよね

藤本 

そうそう一週間を二回に分けてうちと脇町は脇

町で一週間またうちと鴨島で一週間それでそれを三日と

四日に割って使うそれはもう後先使うところでもめるで

わしが先使いたいとかそれで会社もうちらももうこんなこ

とやめてと一週間交代にしてとそれで一週間になった一

週間したら替わり一週間したら替わりそれで一カ月では四

本じゃわな五週あるときは五本でな

―順番でもめるのですよね誰が先どの映画館が先

藤本 

その先というのはな順番が決まっとんよ徳島の封

切館がするでしょうそうしたら徳島県で二番館というた

らな小松島とか阿南とか鳴門が二番館その次は鴨島と

か池田その間はうちらみたいなところや11封切館をのけて

そういうところが先に使おうとしたらなそこが十万としたら

な十万円余計出さなんだら貸してくれん

洋画と邦画

―洋画も劇場で上映されていたのですか邦画だけで

すか邦画洋画という両方をやったのですか

藤本 

あったけど洋画はね『地上最大のショウ』(T

he

Greatest Sh

ow

on E

arth

セシルBデミル監督一九五二

年)というのが戦後できたのを知らんですかサーカスの映画

これが一番問題の映画よう入ったんですよこれはね会社

が無茶振りしよる銭出そうが貸さんというんで『地上最大

のショウ』というのはその当時しとるのは徳島県でうちが一

番か二番かというぐらいというのはね洋画のあれはどこ

の洋画だったかなとにかく高いところへ売るそれでそれ

は徳島県ではうちは佐さ

こ古あたりにブロックしよるところがあっ

たブロックというのは配給をしよるところがあってそれが

洋画のフィルムを買いよったんですよそれが無理して買って

それで売るやつをしよったそうしたら私らは洋画はもう高

いと思とるでしょうそれで買わなんだそうしたらブロー

カーというのがあって昭和二〇年代ですよそのブローカー

がうちに二〇年代で五万円するけん先に二万五千円くれと

言ってね二万五千円渡したそれは『地上最大のショウ』と

いう話題の映画でねもうようけ入ったあのポスターがあっ

たら値打ちあるけんどなうちは二万五千円出してそれだけ

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 17: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

130

入ったそのときの二万五千円じゃけん銭大きいそれで

そのブローカーというのは先々でそうやってたそれでどこへ

行ったか分かれへんようになったそうしたら会社にすれば

だよブローカーに逃げられてそれで損したそれであと

で買うてしたけんどねそれはすごいいい映画ですよよう入

ったですよ洋画ではもうあれだけ

―そのころ昭和二〜三〇年代は日本の映画の最盛

期ですね

藤本 

日本の映画の最盛期じゃけんな無理に洋画せんでも

な日本映画が勝っとったけん

―そうですよね三〇年代に入ると劇場の数もどんど

ん増えていくのですがあとはテレビが普及することによって

また一気に

藤本 

あれはね増えるのは二〇年代後半から増えてい

たそれは『君の名は』とか『この世の花』(穂積利昌監督

一九五五年)とかそれから『喜びも悲しみも幾年月』(木下

恵介監督一九五七年)という松竹です大体二〇年代は松

竹が全盛というのはな戦争で皆男性とか何ももういらだっ

とったでそこへ松竹さんだとおとなしい映画でしょう受け

たわけです女性にも受けたわけそれで女性がぱっと行き

男性は少ないで八割は女性

―それは意外ですね貞光に来る観客は女性が多かっ

たんですか

藤本 

そういう松竹の全盛のときはやけどそれで松竹さん

が一段落ついたそうしたら東映の東映スコープが出て第一

第二が出て客がもう東映に移ってしもたそれで松竹は駄目

になったそれでテレビが出たでしょうもう全然駄目にな

ったそれでオリンピックとかそれから万博ができたでし

ょうこれも映画駄目これに取られるけ

 

それでねこれは余談だけどね万博ができたときには映画

技師が足らなんだというのはこういう免許証を持っとらな

でけんけそうしたら万博のときに三カ月は百万円で集ま

りやった技師を雇って大阪万博は外国の建物ばっかりだっ

た日本の建物は全然駄目だったもう来とったのは英国や米

国やソ連やそういう国の建物ばっかりだったそれでそう

いうところも技師さんが欲しかったわけやな免許がいるけ

んな

映画館の売り上げ

―全体的に見ると貞光劇場が一番儲かった時期はい

つごろですか

藤本 

儲かった時期というのはそんなにないよな二〇年代

の後半から三〇年代の初めまでやほんま短かったあとはな

私と家内との苦労で儲けた私が働いたことによって収入があ

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 18: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

131

ったというだけ

―当時の資料を調査すると最盛期と言われているこ

ろ日本の観客動員のピークになっている昭和三三年のデータ

で八割の劇場が赤字を出したというかなり驚いた数字がみ

られました

藤本 

そうです徳島も一緒でした徳島東映といって一

番威張っとったところがやめるときどう言うたと思うね

「八〇万赤字が出たけんなもう映画がロマンだった」って

それで「もう私はやめます」とそう言うたら東映が

―そういう大体の映画館は売店をやったりとか喫茶

店の経営をしたりボーリング場をやったりして何とかお金を

やったのですが映画だけでは儲からないという

藤本 

そうですみんな映画だけだったらどうしても駄目

どうしても駄目ほなけんどな徳島東宝ってところがスーパ

ーと一緒になっとったスーパーがやめたらついでやめたそ

こも儲かってそこは一番ええ場所だった徳島東宝を持っと

った人は四国銀行の浜田さんという頭取しよったそこの親

戚ではな浜田さんといったら徳島の一等地で土地を持って

たそれで貸しとったそれを徳島東宝というところの直営館

にしとったのがやめてな自分で経営しだした12そうした

ら儲からんのにビルの改修をしてなとうとう土地も皆取ら

れた建物はもう取り壊しやそれもいけよったのは親戚が

頭取だったけな四国銀行の頭取になった浜田さん徳島でも

歌舞伎座ってな何とかという社長やそれが徳島でも三館持

ちそれから阿南でも一館持ち小松島でも一館ようけ持

ってるでしょう13しまいはなドロンどこへ行ったか分か

らへんようになった借金しとって哀れなもんじゃ私だけ

残ってくる(笑)皆哀れなことばっかりこの三好郡でもな

池田に春日座というのがあった14それも製材しよった製材

を売って映画館したってビルが建ったそのビルは自分の銭か

と思ったら違う借金でしとったそうしたら借金で取られた

そのビル取られたそれで自分も映画館しよっても駄目じゃ

けん逃げるように往い

た土地もその人のかとわしは思とっ

た土地が違う騙されてしもたもう映画館って皆そんなん

で哀れなんばっかりほんままあ私だけというのは私

はそんな無茶せんけんな家内と二人でただ努力しよるとい

うんで儲けてない家内と二人が働くだけ

―貞光劇場以外にも脇町劇場で

藤本 

脇町もしたですよ三〇年したそれでもう一つ脇町

会館が二〇年ぐらいしたそれでわがの土地になっとったけ

んどな私はこっちへ引き揚げさせて売ってきた脇町劇場を

私は買っとったけんなほんでもう売ってきた売ってきた銭

も今持っとったら大金だよそれでも皆映画に入れてし

もたこんなこと言うたらいかんけんどな映画に入れてしも

た―

脇町劇場は現在オデオン座になっていますね

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 19: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

132

いつからオデオン座になったのですか

藤本 

あれは山田洋次さんが映画を作ってからだあれは平

成十一年かしらいや違うもっと遅い

山田洋次監督との出会い

藤本 

山田洋次さんうちで撮りたい言うんじゃけど町は

ノーだった一銭も出さんそれではいかんな山田洋次さん

の奥さんの里は鳥取ですよ鳥取でロケしたときにな新聞に

何ぼやな七百万とか奥さんの里の方に出すと載っとったで

すよここはゼロやそれではでけへん山田洋次さんはうち

にロケハンに来たそれで山田洋次さんが気に入ったそれで

貞光町の連中は「脇町の映画館も藤本さんがしよってたけん

見にいこう」と言ったそうしたら脇町の映画館は景色はえ

えんよ前に柳があってきれいになそれを山田洋次さんは

気に入った脇町の映画館の中は気に入らん

―『虹をつかむ男』(一九九六年)ですね

藤本 

ヒットせんでな中身が大事中身が山田洋次さん

あれはつらかったというのは貞光町は銭出さんだろそれ

で山田洋次さんはふらりふらりしよってな東京から「藤本

さん中身はおたくを使わしてくれ」と電話がかかったんです

よ映画館の外観は脇町でええってほんじゃけん中身をこ

こでロケさせてくれと私はそれに反対したなあそうでし

ょう―

そうですね

藤本 

外観を向こうで撮られて中身だけ私はばかみたい

なもんですそれで私に東京から課長何とかから電話かかって

きてな関西社長かどなたか電話がかかってきて「藤本さ

ん頼むわ」と「ああ私はそんなの嫌いじゃけん脇町でし

てきてかまわんけん」ってそうしたらね中身は東京かどっ

かの劇場を映してきたほんで脇町じゃあ人気が悪かったみ

んなあれは「トリックじゃ」「トリックじゃ」と違う私が見

たら分かる中身はどっかの映画館のなちょっと古手のやつ

を持ってきて使うとる

映画はここで封切って私が映したんですよだからよく知

っとるだけど全然入らなんだ脇町は脇町劇場で上映でけ

んでホテルでしたがらがらそれでうちでしたらうちは

うちの貞光劇場が気に入ったお客さんが観にきたからいっぱ

い四〜五百ぐらいやったロケしたところで映せばいいのに

それがでけんそれでホテルでね全然駄目どこでしても全

然駄目うちだけ入ったあれはうちで一週間しましたほん

なあんなん観たって駄目一時間四十分のうち一時間二十分

はまあまあで後の二十分はね寅さんのあちこちしたやつを

引っ付けとんねん映画が一時間撮れんの内容はもうあれ

はな私も山田さんに気の毒したと思うたんだよそれよう乗

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

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二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 20: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

133

らなんだけんなそれと町が銭を出すっていうんだったら初

めから乗ってくる山田さんはそのときの新聞ではな脇町

は一千万と言った山田洋次さんは鳥取出身ではない鳥取で

は撮影しましたねそのとき七百万ぐらい出すと言ったって

それは新聞には出ないと知らないけどな脇町は一千万だ貞

光はゼロやそれにはなあ

―ちょっとそれは

藤本 

それで私はなとにかくこの町でもな私を除けよ

うとするというのは山田洋次さんは私を好いて来とるけん

な私が出たらなそれ泣き言みたいになって役場が弱るけ

んね私を山田洋次さんと会うときに出さんの山田洋次さん

には直接言うんですよマネージャーの人がお金を二百万ほ

ど出してくれ何でかといったら前の日にちょっと木を植

えたりねちょっとして細工するけんその費用が要るけん

二百万出してくれとそれは私は知らんですよ私はそんな席

へ呼んでくれんのやけんそれは私以外の貞光にふるさと探

偵団というのがあったんですよそういうような行政するのに

そんな人は集めるんやな私はそれに入れんのそういう集ま

りの中にはそれで又聞き「藤本さんな山田洋次さんの

何とかいうマネージャーがな二百万ほど要ると出してくれ

と言うけん」二百万も出すんだったらな映画作ってもらわ

んとなあちょっとな

―山田監督はその映画以前からお知り合いでしたか

藤本 

知らないそれはね町の職員がね私がこういうし

よるというのを写真であれはね今から二十何年前役場の

職員が来て「藤本さんおまえとこの映画館写すぞ」という

て来るけんねあれは七月だったそうしたらその男も私は

初めて知った役場の職員をそれがねカメラマンみたいに

カメラを二つ持ってね外へ周り回るような格好で来たんで

すよそれも私分からんでその人は「藤本さんなおまえ

のところの劇場を映して何とかの展覧会に出す」とその人が

言うてきた「ほんなら撮んないだ」とそれは七月の月はな

それで出した

 

そうしたら九月にその人にぱったり会うたわざわざ来

んのやその人も妙なもんでな「藤本さん山田洋次さんが

な気に入った」って言うねん「あんたの劇場が気に入った」

ってほなけんな山田洋次さんを「呼びなさい」と言うやん

ほんなら十一月に呼ぼうとそうしたら「ただ呼んだだけ

ではいかんでよ貞光劇場で寅さんの映画を五本しなさい」と

私は言った「それええな」というて決めたそれでまた「藤

本さんな十二月に山田洋次さんに交渉しとんじゃけんどな

十二月は駄目じゃと言う」「もっとええ月にしない」と私は言う

たそうしたら二月じゃて二月も駄目じゃ三月も駄目じゃ

そうしたら山田洋次さんも話せんでも分かっているここ

でしよったら二月や三月や一二月に入りますがな四月にし

ようと四月の二十何日からしようと

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 21: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

134

―よく覚えていますね

藤本 

ちょうどそれを私が覚えとんのはなうちの子供の子

のちょうど結婚式の前だった山田洋次さんを招待しとるとき

はな四月の二十何日ってなそれで山田洋次さんここまで

来たんだよそのときの写真がそこにちょっとあるけんどね

それで山田洋次さんが来たらほんなら私も昭和六年生まれ

で山田洋次さんともぴったり合うねんやその感じは六年同

士やけんな(笑)それで山田洋次さんの映画をしようという

ことになったそれが受けたんですよようけ来ました

 

そうしたらその次は山田洋次さんが気に入ったわね全国

封切の『息子』(一九九一年)を貞光劇場でしたいとなった全

国封切なんだよ第一をうちでするって日本全国あるのに

山田洋次さんは気に入ってした五千人から集めたそらもう

わんさわんさいうて徳島の封切館が貞光の婦人会が徳島

の映画館貞光劇場がようけ入っているんで見にいった二五

人か入った貞光でしたら満員それでな電話が徳島から

かかってくるんですよ「それ今松竹でやってますよ」と言

う「いや貞光劇場で観たいんです」「ああそうですかほ

んなら来てうち」五千人から動員したそうしたら私に

表彰状は来んのみんな役場とかなそれで国からの方も文

部大臣賞かしらん役場はもらいましたそういう頑張って町

興ししよるというんでねそれで松竹の社長さんからも招待が

あって町長は喜んで行きましたそうしたら感謝状をもろた

けど役場へとなるだけそうしたら読売新聞の記者がな

「けしからん藤本さんの名前が全然出んな」とそういうお

かしな何とかハシモトさんか何とかその人がね「藤本さ

んな私がなあんたの名前を挙げてな私と映画祭やろう

や」と「いいな」とそれで往い

んだこれも妙なもんでね十

日経ってその人頓死した死んだ読売から電話がかかってき

た「藤本さんなおまえに力入れとったハシモトあの子が

死んだんやで」と言ってつらいなあ向こうの読売の新聞記

者の人も泣き声私も泣き声になった「私がな映画祭やる」

と言って「おまえの名前が全然出なんだ」出るのは貞光のふ

るさと団長阿佐哲也もうその人の名前ばかり出るのは

私の名前は一つも出んの15

 

ほなけんなNHKやそんな人がな「藤本さんの名前出ん

といかんな」と言うてこういうのがあったそういう映画が止

まったときがあったんで私の反対で止まったときがあった

それはどうして止まったかなというんでな藤本さんから聞こ

うというんでな全国にNHKが流さないかんけんというてな

私を劇場の席に一人座らせてそれでNHKの人が私に対して

質問するそうしたら私はそれに対して答えていくそうし

たら私は泣きよったんですよ涙出してそうしたら皆

が違うと「藤本さんは感動しとって目がきらきら光っとっ

たなあれはきれいに観えたでよ」と違うんで私はつらく

て泣いて泣いて涙が出てなそやろそれをNHKが流し

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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a-coco

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yco

mpan

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二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 22: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

135

た藤本さんはこういう理由でその映画を断ったじゃと何で

かといったらな私はな貞光を売るんだったら協力しましょ

う脇町を売るために私は出られませんと私はな脇町を売

るのに私が出てしよったら貞光の者に嫌われるでだから貞

光に嫌われるということは使わんけどな貞光のためにな私

は世話になりよねんけんな生活はここで受けとんねんけんな

貞光に助けられよんねんけんだから脇町には協力できんそ

れがテレビになったそうしたら今度は脇町に嫌われた脇

町の町民に

脇町劇場︵現オデオン座︶について

―その山田洋次の『虹をつかむ男』の話は昭和六二

〜三年だと思いますがそのときは脇町劇場をされていました

か藤

本 

いや私はやめとった

―やめていたのですかやっていたのは大体いつか

らいつごろまでですか

藤本 

私がしたのは昭和四〇年から昭和でいったら七〇

年ってということは平成にして何年 

とにかく私はね

昭和にして七〇年とそう覚えとるなので三〇年しとるけん

な七〇と覚えとる

―山田洋次がその映画を撮るちょっと前にやめたとい

う感じですね

藤本 

そうだ一年か二年だろう

―以前は脇町劇場貞光劇場以外にもう一つの劇場を

やっていたのですね

藤本 

脇町会館ほなけんどあれ合併した江原に江原会館

と穴吹のところに相生座というのがあった

―一番多いときは四つの劇場をお持ちでしたね

藤本 

私がしよったん 

この向こうに私しよった郡こおざと里

劇場って昭和二五年からね私は脇町に昭和三六年に行った

けんねその間で辞めた私小さい町やけんね入らんけん

ねもう見限ってそれで昭和三五年に脇町会館に行った

―昭和三五年というと日本で劇場の数が一番多かっ

たといわれる年ですね

藤本 

まあまあええときじゃわな

映画界の危機

―テレビの普及によってどんどん斜陽時代に入るので

しょうけれども

藤本 

大体なくなったね私が脇町会館に行ったときも私

の前の人三人倒れとるんじゃけんなということは映画は悪

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 23: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

136

いけん―

昭和三〇年後半になるとどんどん観客動員が減っ

ていきますが特に地方の劇場の助け舟といわれたのはピン

ク映画の登場ですよねなぜなら成人映画が普通の映画より

ずっと安かったから

藤本 

安かったというのではなしにな普通の映画ではな

お客さんが切れてしまう山田洋次さんの『家族はつらいよ』

(二〇一六年)という今封切っとるでしょうそれはですよ

あそこに友達と行ったのがなちょっと一時間ぐらい待ちよっ

て出てきた人間は何ぼと思うね 

三〜四人が出てきただけ

 

そやけんどね私が北島のシネコンに観にいったらあんな

立派な劇場をしているでしょう広い建物であそこは階段な

いんや普通はみんな階段あるでな段々になってあそこは

階段ないんですよ坂はずっと滑らんようにしてね階段を作

ってない滑るけんこれはこんな勾配になっとるで四五度

階段なしや滑らんようにお金を掛けとるでしょうそんな

北島でも私が五時に行ってたった六人儲かれへんであそ

この経営資本はね佐々木興業って東京にあるでしょう佐々

木興業というて全国の興行の会長しよるところですよ映画

年鑑では載っとる日本一の興行師ですわああいうような六

スクリーンあるような建物を全国で何十館持っとるそれがそ

んなようけしよるけんな田舎のあそこで入らんでも東京や

どこやらでよう入るけ行きよる

 

それであそこのシネコンシネマサンシャイン北島は六

七スクリーンあるんですよ今はやりのやつにな一二三

四五六館までかそうしたら一二三四はお客さんが出

てこんねん五六は「ドラえもん」か何かしよったんやそこ

は五〜六人が出てきたそれで六のところに入ったのは私二

人と他は四人じゃそれも女の人ばっかり男一人もそれ

じゃ駄目じゃやっぱり男も入らんでは女だけその女の人

も見たらなもう六〇か以上の人ばっかり若い人一人もおら

 

それで私と友達が入ったとき二人じゃわー私らのため

「おい藤本君どこにでも座ってといっても番号が付いと

る席が決まっとる」「誰ちゃおらんのにどこへでもええわ」と

いうて座っとったらなその席はやっぱりよかったけんその

四人来た人がそばへ来たで番号の人が「あらすんまへん

な」と退の

いたそれで見たら私入れて六人それではあの

映画は入ってない普通の日土曜や日曜だったらな大体朝

から夕方まで入るわな普通の日だったら朝や昼は来ません

皆職を持っとるけん五時か六時ぐらいになったら職が済んだ

人が来るようになるほんじゃけん五〜六時ごろが一番よう

け入らないかんねんそれが私を入れて六人

―ちょっと寂しい状況ですね貞光劇場では興行と

いうのは多分平日はみんな働いていたと思いますけれども

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

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mpan

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二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 24: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

137

大体最初の興行は昼の十二時ですか

藤本 

最初のときはねこんなのがあったんですよ戦後は

ね労働者が職がなかったでしょうほんじゃけんとにかく

職のない者は助けないかんというんでね役場に雇っていたん

があるのですよ無理に雇ってやるとそれが映画に来てくれ

たんですよそれが朝の八〜五時と働くんでなしに役場はみ

んな仕事ないでしょうそういう者を気の毒なというんで六

時間とか五時間三時間で雇うてくれた日給取りみたいな

そういう人が来てくれたんですよ戦後とな三〇年代の初め

ぐらいまでそんなんが来るけんそういう人がなくなったら

な正式雇用になったらなもう朝の八時から五時までやっぱ

り映画に来れんで

―そうですよね

藤本 

そうでしょうそれで戦後三〇年代の初めというの

はご婦人方はな昔は就職しとる私も家内も一緒だけどな

私が家内をもろたときはな勤め人間は嫁さんにもらわない

少なかったんですよ

―どうしてですか

藤本 

就職してはもらわんというのはな就職しとる女性

は嫁さんとして似合わん就職しとる者は駄目うちの家内も

な学校上がって主に県職みたいなところに入っとったそ

れで嫁さんに行けんぞというんでそれで徳島のドレメって

洋裁学校に行ったそれでそれを上がってな今度は和裁

嫁入り道具やそんな人しか売れなんだ戦後ずっと今は反

対今は就職しとらん子は嫁にもらわん反対になった

―そうですね

藤本 

ほなけんな映画はなみんなの働きによってな駄

目になってきた

―ちなみにそういう時代で昼間に映画を観に来る人は

どういう人ですか

藤本 

それはね成人映画はねまあ言うたらねそういう

職にも就けんそういうような人が来てくれた

―なるほど

藤本 

そうしたらね一般映画だったら切れるんですよう

ちは大体子供映画は朝の十時から晩の五時まで連続で行く一

般映画は一時に決めとる一時に行ったら普通の映画だったら

な一人も来んときある

藤本 

成人映画は大入りというのがないよ大入りはないけ

ど成人映画の場合だったらな必ず一人か二人来るそれは

どういう人がこんなことは言うたらいかんけどな体の不自

由な人とかどっちかというと今で言うたら認知症そうい

うような者がな親からちょっと銭をもろてな「映画館でも

行っとけ」とそういう人が来てくれた一般の映画の場合だ

ったらなそれはないんよ成人映画の場合だったらな嫁さ

んのもらえん人がようけおったでしょう男性でも今は男性

でちゃんとした体の人でも嫁さんもらわん人はようけおるです

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

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tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 25: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

138

よ今はここの役場でも副町長も嫁さんない

試写会と映画会社の支援

藤本 

それで『息子』という映画が封切したときに先行

封切があったんです先行封切につけたあれまた私もすぐ出

んけんど一般の人に無料で観せるやつがあるね何というん

かな―

試写会ですか

藤本 

試写会か試写会するでしょうそれを徳島で試写会

したんですよそれでその試写会のときにある人から言わ

れたんやけどな「山田洋次さんの『息子』という映画な先行

封切を頼まれたんじゃけどおまえどうするね」その先行封

切のときに山田さんも来て挨拶してそれで私に山田洋次さ

んから「藤本さんな成功させてください」という葉書が私に

来とるんですよこれは木工会館16でしたときもないや生

きとる人のもんを展示するわけにいかんから展示せなんだけど

な山田洋次さんから直筆のペンで書いたやつがな「藤本さ

んこの先行封切を成功させてください」と私に出した葉書が

ある

 

山田洋次さんはその試写会のときに言うたんじゃそれに

対して新聞記者がな私を当てた私がどう言うかと思って

私も座席から壇上に出た私が当たると思わなんだじゃろそ

うしたら新聞記者がな「藤本さんな山田洋次さんや皆来

とるんじゃおまえ何て言うじゃ」とじゃけんな私は立っ

て「『息子』ちゅう映画を観ました」とそれと「『青い山脈』

も観ました」『青い山脈』も田舎の映画で私は感動したこの

『息子』もちょうど私の子供は東京におっておらなんだん

やここらな私と家内だけみたいな感じで私の境遇とよく

似とるし『青い山脈』は感動したけん「この映画にも私は感

動しましたぜひこれを成功させないけません」それで私

が立って皆もここの町長も「ぜひ町長さん成功させてく

ださい」と私は泣いてな今も涙が出とるけどそうやって私

はお辞儀した皆の前で町長さんなそのときどう言うたか

知らんそうしたら皆がな成功ささないかんちゅうでわ

いわいわいわい言うて助役さんや皆がな学校周りからな

昔ここに貞光食糧という県下で何番という食糧の会社があるん

だよそこは従業員が三百人おるそれに行って入場券千円

で売ったやろ三〇万だろ「三〇万寄付して」と言ったら寄

付してくれたそれで後から券を渡す美馬商業は六百何ぼ

や来いとそれも来ましたもうそんな団体になそういう

人がな半強制というかそれは皆もあんた信じて貞光食糧

だって「三〇万寄付して」と言ったら「はい」と三百人の従

業員にそれで後から前売り券三〇枚美馬商業が来てくれた

六百人で入場料何ぼじゃでもそんなんは私に報告がない

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 26: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

139

んや入場料の話それはそういうグループが計算してなそ

れであのとき全部松竹が取った先行封切じゃけん松竹が

全部取るそれで手数料を何ぼか渡すこれは松竹が全部取

ったわけじゃ

 

私はあのとき私のその涙を皆が受けたそうしたら社会

福祉協議大会というのがあるんじゃな年に一遍それには数

百人の町民が集まるんで町長は全部それに招待券を渡して

招待券というのは無料の招待券だよそれはお金が要るんだよ

招待券を全部こうやってそれでもお金が集まるでしょう何

百人に全部やるんでそうしたら町会議員もまた感動して町

会議員が受け持って二〇人か三〇人の町会議員皆が百枚とか

何十枚受け持って私が全部銭出してどこそこの部落部落

に全部配り同窓に全部配りほんじゃけん五千人からほ

んじゃけん私の涙が効いたで大勢の者が何百人が県下の

者が集まっとるところで私が泣いてやるもんじゃけな町長に

こうやってお辞儀したらええ格好になっとるわな皆から見

たら(笑)

―教育機関例えば学校は昔よく劇場と提携して教

育映画を上映することが都会にはあったのですがここでは

あまりなかったのですか

藤本 

それはなかったねただ許可映画といってね私ら

がその許可映画願ったらね当時は五〇円ぐらいになった入

場料がな「許可映画でしますからお願いします」と言ったら

ほんなら「許可はい渡しましょう」と言ったら割引券

で来て七〇円のやつを五〇円ぐらいで入ったわけそれは安

定していませんよ許可でいってもよいというだけのことであ

って何人来るやら分からんこれはな前売りでないけんね

じゃけんね映画というのはね苦労しました苦労だけ

映画館の日常風景

―昔は何の映画を上映するかどこで宣伝したのです

か 

新聞に広告を出しましたか

藤本 

うちは新聞に載せません一遍も載せんそれは新聞

社が皆面倒くさい新聞社からやな誘いがあったけど載せな

んだうちだけじゃ載せてなかったのは

―それには理由があるのですか

藤本 

それじゃってな考えてみなさいよあれは一カ月

に五万円も要るんですよ今は何ぼ要るか知らんですよ前

確認してな誰それ劇場何と月五万やうちらの劇場でな

五万も払いよったらすぐに参ってしまうほんじゃけんし

まいがたになったら徳島でも封切館がみんな載せんようにな

ったで前はちゃんと絵入りでな日付もちゃんと入いって

どこそこの劇場というのがはっきり分かっとった今新聞の

記事にちょっと書いてあるようなんで分からんで広告は全然

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 27: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

140

もう経費が皆余計にうちは新聞には全然載せなんだ

―では自分で何か週報などを出したのですか

藤本 

うんチラシもなもう最初だけだった今新聞の

折り込みといったら新聞社は新聞でなしにチラシでもうかり

よるほなけんな新聞は全然販売店は利益ないんだよ新聞

社に握られとるそれでチラシで儲かるその代わりチラシは

毎日十万ぐらいもうかる毎日ですよあれ一点入る私はな

昭和三〇年代というたらチラシは映画館がなかったんや一

般の商店やそんなん入れん

―ではどのように宣伝したのですか

藤本 

宣伝は私はね一般の映画はポスターだけでいきよっ

たポスターはようけ貼る子供映画はねこれは「藤本さん

あんたがモデルでやって」そういう何の映画最後作ったで

しょう山田洋次さんが作った脇町でそう『虹をつかむ

男』かな

あれ私がモデルみんながそう言うというのはな

山田洋次さんがなあの何とかいうのポスター貼りよんねん

それで宣伝はマイクでしよるそれを皆が「藤本さんと一緒

じゃ」と言うんじゃ私は子供映画大体こう美馬郡私がポ

スターを貼るのは広いのですよこの美馬郡全体に貼るんだよ

私がポスターをそれでチラシを二千枚それは放るんじゃ

ないんですよ配っていく生徒が土曜日は早じまいするでし

ょうそれから昼からだったら三時四時に終わるでしょう

それを家内と私が配るんや

―子供相手に配るのですか

藤本 

子供映画一般の大人はしない一般の大人にそんな

ことをしたって来んのそれは駄目一般の大人はなどこそ

こにポスターがあるというのが分かったらなそれを見てくる

もう子供だけチラシというのは子供だけ私はそれをしよっ

たわけよしまいはね私は宣伝してチラシを配る片一方は

マイクで宣伝車でしたで朝の八時からね

―今晩こういう映画をやりますと

藤本 「映画を何時から何時までしますから来てください」

と言ってそれをずっと回るそれがね「藤本さんなあん

たの声はきれいわよう分かるわ」と言うて(笑)そうしたら

山田さんが『虹をつかむ男』でそれを実施したんでマイクで

宣伝するそれでポスター貼りしよる「それは藤本さんの仕

方と一緒じゃ」と言うねん

―確かに声はすごく通りますよね電話でお話しした

ときもっと若いと思っていました

藤本 

私ね女性の声に聞こえませんか

―最初出たときは女性の方だと思って「藤本さんに

取り次いでください」と

藤本 

それで私ね今老人になってきたらね売り込み

いろいろな電話がかかってくるんですよよく効く薬とか栄

養剤とかいろいろなものそんなんね電話やチラシみたいな

無料で一カ月あげますよいうてかかってくるのそれで私

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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a-coco

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yco

mpan

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istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 28: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

141

が出るでしょう「奥さんですか」とこう言うの「いや違い

ますよ」と「ご主人さんですか」と

ほんじゃけん私は女

性の声に聞こえるのかなと思て

 

私はな宣伝に出かけて一時までに宣伝して上映のため

に戻って来ないかん十時からだったら十時までに戻ってこな

いかんでしょうほんじゃけん朝早うに起きてね八時に起

きてそれで十時まで二時間内でこの辺からばーっと回る

運転でこっちがマイク普通だったら怒られるで警察に

警察が来よったら止まってな走りもって宣伝いかんで止ま

って警察が来よっとる

―そしてその後は映画館に

藤本 

そう映画館で技師するんじゃ脇町に行くまではな

うちに技師もそういう従業員もおったけんな何人かおったけ

んな大体多いときは八人ぐらいおった技師さんでも常時三

人ぐらいおったけんな大体私が脇町に行くようになってぐら

いから技師さんがもうおらんようになった脇町に行くように

なったのは経営も悪くなっとるけんな技師さんは減らさな

いけんでな技師さんが大勢おったさかい多いときは四人ぐ

らいその技師さんの写っとる写真もあるけんど私入れて四

人ぐらい写っとる三人か四人常時おったけんな従業員の人

も三〇年代というのは車の時代でなかった自転車の時代

自転車ばっかりいっぱい来よった自転車預かりというのがお

った自転車預かりというのがいつもそれは預かって荷札

を付けてねそれで自転車の番するんそれから下足預かり

うちに皆土足で上げなんだ二〇年代は下足を預かって

下駄を預かるそんなんがあった昔はねほんじゃけん金

比羅さんもいまだにしよるで金丸座はいまだに下足預かりで

うちもあれだった

―では下は升席だったのですか

藤本 

うちは畳でね縦横に板間だったんですよそれで畳

だった―

椅子を置いたのはいつからですか

藤本 

あれはね『君の名は』が出たぐらいだから昭和

二五〜六年になったかならんぐらいじゃね七〜八年ぐらいじ

ゃね―

映画館になってから少し経っている

藤本 

映画はそうせなんだね下足預かりでは皆が嫌いだ

したんやほなけんどねよう考えたらね畳の方が得ですよ

椅子だったらもう定員も決まるしな畳だったらな入れ入

れ一遍ね貞光商工会がしたとき椅子では入りきれんけん

といって椅子を全部出したんだよ外へそれで下へむし

ろを敷いてした七〜八百から千近く入れたな(笑)

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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a-coco

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7co

mpan

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mpan

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二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 29: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

142

戦後の入場税

―昭和二〇年代戦後の映画館主にとって入場税が

非常に高かったことはかなり大きな悩みだったようです

藤本 

その入場税というのはね戦後からの昭和二〇年オ

リンピックというのはいつありましたかオリンピックは昭和

三八年かね

―三九年ですね一九六四年

藤本 

あのときまでね入場税が要ったんですよそれで

田舎の場合は入場料金五五円五円が要るな封切館は七五

円そのように決められたそやけんど東京オリンピックの

ときはねうちらは映画会社に協力するというんでね入場の

入っただけを税務署に申告したら入場税が無税になったその

特権があったそれは何でかといったらね『東京オリンピッ

ク』(市川崑監督一九六四年)という映画を作った業者とオ

リンピックと文部省か三会社がそういう入場料金ですかそ

れを分けるようになった国にとったらオリンピックが取るの

にな私らが映画して奉公するじゃろそれで税金を取られた

らかなわんでほなけんな何ぼ入りますというのを申告した

らな税務署は「ああよろしい」と

―具体的にはその入場税はどのように 

税務局は劇

場とどのように計算なさったのですか

藤本 

それは入場料の切符というのはね税務署で判子を押

してきよった税務署の許可が要ったんだ

―よくポスターにも印紙が貼ってあることがあります

けれども

藤本 

ポスターに貼っとるのはそれは割引券でしょう

―いやいやポスターに印紙が貼ってあってあれは

税金なのですか

藤本 

それはねこんなんがあったんですよそれは町によ

ってなポスターを貼らさんという時があったんですよ町

町でそういう広告税というものを取ったらええんやというん

でここはなかったけどねうちの隣の町でそんなことがちょ

っとあったですよそうしたらな私は異議を言うた「田舎

のもんになそんな広告税を取るんやいうてな無理じゃない

か」って「そんなことは無茶言うな」と言ってなもう取ら

さなんだそれは広告税といってな国がそんなポスターを貼

りますのな取ったらええじゃないかというんでなそれで

それは判子を押したら広告税を納めた印やて(笑)

―では入場税の場合はチケットに判子が押してある

ものでないと違法になるわけですね

藤本 

そう違法といったってそれは税務署で押してくれ

る入場券はこんなんでね

―昭和二六年ごろ入場税は一五〇でしたよね

藤本 

これは半券ですよ私は税務署の何が要らんときの判

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

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二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 30: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

143

子じゃからこういう入場券があったわけですよそうしたら

ここにねこれは私が千円とか二千円とか書いとるけんなこ

こに税務署が税務署と入れてある判子を押しよったそうした

ら使ったら分かるでな何枚というのがなこれ一冊が五百

と三百と二百というのがあるのだよな

―それは毎月計算して

藤本 

そうそうそう税務署に行ってなこの券を大体ば

っと入場者が分かるんでずっとしていきよったらなそうし

たら税務署へ行って入場券をくださいと私が持っていった

と思うそれでここに税務署の判子を押してる

―買うのですか

藤本 

いや私が買うたんを持っていって押してもらいよっ

たんや税務署では買えません

―昭和二〇年代は入場税というのがあったんですけど

その後は名前は確かに変わったと思います

藤本 

今の取り方とはどんなんなって

―今は多分普通の消費税のみになっているのではない

でしょうか

藤本 

私らのときはただ入場税というて必ずこの一枚に

何ぼ要るというのが使ったら要るんだよ五五円にしよった

というのは五円が入場税でというんでなこれに五五円の判

子を押してなそれで税務署の判子をもらいよったでそうし

たらこれは自分の切符みたいになって入場税は要らんけん

なこういうような式のもんを税務署へ二百綴っとるか五百

のやつを持っていってな「今月はこんだけあったらいけます

けん」と言ったらそうしたら税務署がぱんぱんと税務署の

判子を押す大体分かるで毎月要るのはそれで五百枚は

五百枚なそうしたらそれだけの申告をするわね毎月毎月

な月回ってから申告何ぼ入りましたけんそうしたら税

務署はこの券で分かるけんな券を持っていって見せよったで

―ああそれで向こうでチェックしたのですね

藤本 

うん券を持っていくねん「これだけ売れてますけ

ん」と

組合について

―映画館側は入場税にかなり抗議したそうでそれは

個人の館主などで抗議しても何もならないので大体は組合が

中心になっていたのですが徳島県の興行組合はどうでしたか

藤本 

あれは私だけ入ってなかった

―入らなかったのですか

藤本 

うんどうしてかといったらな組合は徳島市内で

よ地方におったのは私一人や入場券も差が付いて向こう

は千円も取りよったんじゃなそういうときに私は二百円

百五十円や取りよんがなそんなところのは売り上げが違う

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

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8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 31: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

144

売り上げに対して組合費を納めないかんそうしたらうちは

売り上げも少ないそれを少ないことを言うて払うのも少ない

では恥ずかしい分かるでしょう自慢にはならんの今

たばこは売り上げによって組合費を取られよるもうこれはし

ゃあない

―大手会社の映画を上映したときは問題にならなかっ

たのですか

藤本 

ならなんだ

―普通は映倫というか

藤本 

映倫があったって組合員と関係ない

―組合員でないと上映できないという規則になってい

るんですけど

藤本 

それはない

―それはなかったのですか

藤本 

うんそれはね私は一遍もな「組合員に藤本さん

入っとらんな入れ」と言う人は一人もなかったその映画界

でよ映画界というのはだよそれは東宝や松竹や何かのな

「藤本さん組合に入ってないな」と言う「うん私なあそ

この組合費を払いよったらな私一カ月の宣材ができるわ」

と言うねん組合に何万円を払わないかんでそうしたらそ

れでな私の一カ月のポスターや買ううちはみんな出るという

ねんそうしたらもう映画会社は何も言わんねん田舎の収

入は少ないけんな組合に組合費を納めよったらだよその納

めるだけで宣材が買えるというねんそれと新聞社に広告を

載せるでしょうそれに何万も払いよったらな一人でも人が

雇えるねんとそう言うたら言いようがない向こうはそう

でしょうそれだけ小さいうちの方は下番線というねんな

下番線の映画館は儲からん儲からんけんな無理は言えんっ

て―

それでは映写技師の免許さえあれば誰でも三五ミリ

の上映ができたのですか

藤本 

そうですよこの時代はな映写機を映せんというの

はね労働基準局が言いよった私も一級技師を後から取っと

るけんね一級技師がおらなんだらでけなんだ一級技師がお

って映写技師一般のほんじゃけん私は一級技師の免許

早い番号みんなびっくりしとる「藤本さん七一番って早

いなあんた」って

貞光劇場の休館

―貞光劇場が二〇〇六年に休館になったのは藤本さ

んの体調に理由があったのですか

藤本 

私は体が悪くなった

―悪くなって一時期には休館という

藤本 

うん私ね逆流性食道炎という胃が逆流するんね

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

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a-coco

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mpan

y_h

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二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 32: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

145

そうしたら酸っぱいのが口に出てくるんですよそれの薬をね

私今ちょっとそれをやめて違う薬に変えとるんやけどねも

う七〜八年飲むんですそうしたらね薬はね副作用という

のがある副作用というのは誰にでも出るもんじゃない人に

よって出るぐらいに思とったそうしたらこのごろ薬をもろ

たら必ず副作用目のちらつきふらつき目に異常出血

胸が苦しいといろいろあるんでな一番いけなんだのはな目

に異常というのがあったんですよ私は気にしてなかった妙

に運転がおかしくなるそれで辛抱してしよったら今度映

写機は二台あるでしょうそうしたらね二台あって妙なも

んですよ右側はコンクリがあるけんね倒れてもコンクリで

助かると思うんですよ壁に行ってそうしたら左側は真ん

中を通るけん倒れたらこっちの機械に噛まれるでしょうそ

れでこう持ち上げるのがね今までこれぐらいのフィルムで

七〜八分というフィルムだった最近はねフィルムの周りが

かなり大きいわねもう今それもなくなったけどそれを持ち

上げるのを私一人で上がらんようになったふらつくけんそ

のかけるときだけは家内と私は二人でかけよったそうしたら

やっぱり家内がおらなんだらでけんのでなもうこれではな

―仕事がたいへんですね

藤本 

これはやめた方がましやてそれと映写機は一カ月

前にそれをしよったのがね一台が調子悪くなってそれで

大阪のタケナカ17

に電話かけても一カ月もかかって「いや

今日は九州じゃ」「今日は沖縄じゃ」言うてな来なんだそれ

で一カ月後に来てな直してくれたもう遅いそのときはも

う私もくたびれてしもとるそれで直して一〇万円取られ

た(笑)それで家内と言うてもっと早よやめとったらよか

ったのに直してそのままじゃ

―もったいない

映画館の外見

―今青色に塗ってありますけれどもあれは昔から

あの色

藤本 

いやああいう色にしたあれね木造建築にはな

塗装せなんだらもたんのですよあれはうちのおやじのときで

ね昭和三〇年代に一遍替えただけ私が替えたのはね私で

三遍ぐらい替えとる今これは三回目ですよ山田洋次さんが

来たときは一番悪いときよ一番悪いときの塗装建物の写真

あるけん見たら分かるそれは一番悪いときそれから後

二回替えとるんですよ色もあれに近いような色だったけどね

どうしても濃い色でなかったらねすぐはげちょろになるんで

すよ黄色じみたとか白地じみたらもうもう銭放るんと一

緒ほんじゃけんちょっと濃く青い色にしてもろたあれは

ほなけん最終それでももう一〇年経っとるわね

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

ttpw

ww

tak

enak

a-coco

jp0

7co

mpan

yco

mpan

y_h

istoryh

tml

二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 33: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

146

―では一番最初はどういう色だったのですか

藤本 

どういう色ってね一番最初のやつは写真はないけど

な山田洋次さんの写しとるときは二番目ぐらいじゃけん分か

るわあれに近い色じゃけん一番最初のやつはねとにかく

白に近い黄色じみた色じゃそんな色はすぐにはげる

―ああなるほど

藤本 

こういう青いのは強いねほんじゃけん今のこれ見

て一〇年経ってもこれ

―きれいですね

藤本 

そうでしょう一〇年たってあれじゃけんみんなが

「まだきれい」と言うてくれる

―きれいです目立ちますし

藤本 

うん誰が来ても「きれいな」と言うねん私の友達

がね脇町中学を卒業して六〇年も五〇年もなるんだよそれ

が初めて見て「藤本さんきれい」とこう言うんだよなそ

の同級生が誰が見てもきれいと言うてくれる私がね「色

を濃い目にしてください」と言った塗り替えするといっても

すぐもう百万円ではならない塗り替えは足場して高いけんな

それであれの前にやぐらがあったんだけどねもうそのやぐ

らもなこの前するときのけた

―ではやぐらはつい最近まであったのですか

藤本 

最近といったってこれを塗り替えてもう一つ塗り

替えやからもう二〇年

―戦後に大きく変わったことはスクリーンとか劇

場の中がいろいろと変化しましたか

藤本 

ないね

―スクリーンぐらいは

藤本 

変化はね前にこう板であるでしょうあれだけ塗っ

た黄色かしら塗っとるそれと板がちょっと青に塗れとるわ

ねそれだけ他は全然いろてない

―あとはそのままになっている

藤本 

そのまま

―先ほど新聞の広告はあまり出さなかったとおっしゃ

っていたのですが

藤本 

新聞の広告はしない絶対一遍も

―プログラムとかそういう記録などは残っているの

ですか 

どういった映画が上映されたか大体昔の新聞の映

画欄を見ると調べることはできるのですがそういうものを出

さなかった場合は

藤本 

映画はようけしたどんなことを言われたって映画は

ようけしとるけんな大体東映映画は大方したわな

―藤本さんはそういう記録を残しているのですか

藤本 

残してない必要に感じなんだ大体したようなんは

ポスターはみんな私持っとるけん木工会館18

でしたときのな

展示したポスターでも私見せてあげてもええけんど

―藤本さんの記憶では一番客が入ったとか一番当

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

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二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 34: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

147

たった作品というのはあるのですか

藤本 

それはね私が一番ようけしたのは『君の名は』こ

れは最高じゃそれから『君の名は』と日本映画では吉永

と何が出た『愛と死をみつめて』ねちょっと古いやつばっか

り新しいのではね山田洋次さんの寅さんでは絶対入らなん

だ田舎に向いてなかったそれで寅さんの映画というけん

ね私は正月にかけたんですよ

―それは大体正月封切でしたね

藤本 

駄目入らなんだそれはね山田洋次さんは皆は

一般的に見て山田洋次さんの寅さんはね田舎向きでないん

よというのは寅さんの下町の田舎のことばっかりでしょう

―都会住まいの何か古き良き時代の

藤本 

そうでしょう格好にしたってズボンでもステテコ

みたいなのをはいてね田舎の人はあれだったんで私のおや

じはね徳島に行くのに着物で行っとった私のおやじは着物

ばっかりの人だったんですよ服はあまり着なんだ着物ばっ

かりほんじゃけん町会議員も行きよったけどな着物で行

ったで賞状をもらいに行くの賞状写真もあるけど当時

は着物でもらいよる

貞光劇場の将来

―将来的には貞光劇場はどうなるのでしょうか

藤本 

これね私もこのごろどうかせなんだら死にきれん

でそれは私も思っとる私の一番難題はねこの劇場をどう

して残すかということでそれが今一番私の頭に来とんねん

―重要文化財に指定されるべきだと思います

藤本 

それはみんなが思とるんですよ藤本さんどうするか

なって内々ではみんなそう思とる

―今つるぎ町ではそういう保存する動きがあるの

ですか

藤本 

これはないのですよだけれども私は無理にせんの

無理にせんでええと言うの登録文化財になった場合はな自

由に自分の権利がなくなるのこれを売ろうたってすぐ

―行政による保存の必要がありますね我々がこのイ

ンタビューを残すように劇場そのものを残すことが課題です

ね本日は長時間にわたってありがとうございました

(日時 

二〇一六年四月七日(木)徳島県美馬郡つるぎ町の藤本宅にて)

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

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jp0

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二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 35: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

148

註1

『貞光町史』(徳島県美馬郡貞光町役場一九六五年)に

以下の記述がある

映画館は駅東松尾神社より西一五〇米の所に在り貞光

劇場と称す本映画館はもと町収入役津司豊の経営で

あったが後現在の藤本伝助がこれを買いとり古くか

ら貞光町唯一の娯楽場として繁栄し今日に至ったもので

ある後年松尾神社東隣りに村雲松見大垣保夫大島

瑛などの共同によりて貞光会館が生まれたのである久

しく貞光にはただ一つの劇場だけであったが新しく誕

生したこの会館を併せて二つとなったものである(中

略)貞光会館は遂に昭和三八年三月から閉館のやむなき

に至った(一五二三頁)

2

浪曲師初代春野百合子は一九〇〇年福岡県博多に生ま

れ九歳で都花子の名で浪曲の道に入る一五歳で大阪へ出

て春野百合子と改名し関西浪曲界の女流看板として活躍した

戦時中は四国に疎開一九四六年に死去

3

筒井製絲は一九一〇年に創業戦後に吉野川市に移転した

4

一九四八年徳島市新町橋筋に開館した勤労クラブのこ

と(坂東悊夫『とくしま映画三代記』徳島県教育会出版部

一九六五年一二四頁)

5

『君の名は』の公開は映画館としての貞光劇場の開館後の

ためこれは藤本氏の思い違いと思われる

6

一九五三年に貞光劇場が設置していた映写機はミクニ四号

発声機はBCRビクター(『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』

時事通信社一九五三年一三二頁)

7

大阪の映像音響会社一九二六年に武仲清次郎が映写機の

販売をはじめ一九五八年に現在の社名株式会社タケナカ

となる(「株式会社タケナカについて 

沿革」h

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二〇一七年一月三一日アクセス)

8

『映画年鑑別冊 

全国映画館総覧』(時事通信社一九五三年

一三二頁)等に支配人として藤本茂の名前がみられる

9

徳島県美馬市脇町のこと

10

後述するように藤本氏は後年脇町劇場の興行も手掛け

ていた

11

『徳島県史』(徳島県一九六七年)に以下のような記述が

ある

昭和三十年(一九五五)徳島市内(旧市内人口約十二万)

常設館は第一東宝松映名劇シントミ徳島会

館の六封切館弐番館十一新市内を入れると人口九千

に一館の割合に乱立しこの趨勢は県下全町村におよび

いかなる僻村にも映画館が立ち中にはせまい村に多く

の映画館が生れたためその宣伝のために昼ごろから放

送するラウドスピーカーの高音響のために小中学校

の授業が妨げられたところも数多く聞えた(六九七―

六九八頁)

12

徳島東宝が閉館した二〇〇六年の経営は徳島興行株式会社

代表は浜田豊(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

二〇〇五年一七三頁)

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 36: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

149

13 徳島市内で徳島松竹(のちの歌舞伎座)徳島松映SY

松竹座小松島市で港東映港新劇を経営していた高瀬芳太

郎のことと思われる(『映画年鑑別冊 

映画便覧』時事通信社

一九六〇年二四三―二四四頁)

14

閉館は一九八八年経営会社は池田劇場株式会社代表

は三舟登(『映画年鑑別冊 

映画館名簿』時事映画通信社

一九八七年一二三頁)

15

『貞光町史 

二十年のあゆみ地域誌』(徳島県貞光町

二〇〇四年)に以下の記述がある

平成二年(一九九〇)に「自分たちのふるさとの歴史や

文化をよく知り誇りをもって暮らそう」と商工会青年

部と役場職員で構成された「ふるさと研究会」が発展し

さらに多くの仲間を結集した「貞光ふるさと探偵団」が

誕生した

 

平成三年四月に開催された「山田洋次映画祭」の感動は

今も町民の胸に刻み込まれている当日は山田洋次監督

を迎え昭和七年(一九三二)に建築された県下最古の

劇場である「貞光劇場」を舞台に寅さんシリーズなど

五本の同監督作品の上映他会場では講演会パネルトー

クも実施された劇場の櫓からは寅さんの主題歌が流れ

映画「幸せの黄色いハンカチ」にならい町内各商店の軒

先には黄色いハンカチがひるがえり徳島駅と貞光駅の

間では「寅さん列車」が運行されたこの映画祭がきっ

かけとなり同監督作品「息子」の全国に先駆けての先

行ロードショーや美馬郡がロケ地となった八年公開の

「虹をつかむ男」の誕生へとつながった(三〇五頁)

16

二〇一二年に徳島市の木工会館で企画展「貞光劇場展」

が開催され約九〇点のポスターなどが展示された(『広報つ

るぎ』八七号二〇一二年一五頁)

17

注7を参照のこと

18

注15を参照のこと

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 37: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

150

解説

 

藤本一二三氏が経営していた貞光劇場は徳島県美馬郡つる

ぎ町に立地する映画館であるその館名は二〇〇五年に半

田町一宇村と合併してつるぎ町が成立したことで消滅した

貞光町の地名に由来するものである貞光を含むつるぎ町は

讃岐山脈と四国山地に囲まれて東西に延びた徳島平野の中西部

にあるつるぎ町の北側は徳島平野の中心を流れる四国で

二番目に長い吉野川があり南側は同じく四国で二番目に高

い標高約二千メートルの剣山があって豊かな自然に囲まれ

た地域である貞光劇場は徳島市から50キロ西方に位置し

近傍の公共交通機関としてJR徳島線の貞光駅が存在している

 

映画年鑑によると美馬郡にもっとも多く映画館が存在した

のは一九六〇年で脇町会館岩倉劇場(ともに脇町)貞光

会館貞光劇場(ともに貞光町)相生座(穴吹町)が開館して

いたただしここには開館していたはずの脇町劇場(現オ

デオン座)が含まれておらず映画年鑑がかならずしも正確と

はいえない一九五三年の映画年鑑は美馬郡に脇町劇場脇

町会館貞光劇場の三館が開館していたと記載されている

 

都市の大規模な映画館はともかくこうした地方の小規模な

映画館の興行についてはこれまで研究が進んでおらず興行

の詳細は明らかにされてこなかった今回藤本氏のオーラ

ルヒストリーによって新たに解明されたいくつかの事実が

あったそのひとつが宣伝に関することである通常都市

の映画館においては正面に絵看板を出すことはもとより引

札や週報チラシを配布したり辻ビラやポスターを貼付した

り新聞に広告記事を出したりという方法が知られていた今

回のインタビューではポスターを除きそれらの方法は使わ

れておらずもっぱら宣伝車で周辺地域を回るという手段が

とられていたこれは『徳島県史』(徳島県一九六七年)の

「せまい村に多くの映画館が生まれたためその宣伝のために

昼ごろから放送するラウドスピーカーの高音響のために小

中学校の授業が妨げられたところも数多く聞えた」(六九七―

六九八頁)という記述とも合致するまた無声映画時代に地

方の映画興行で大きな役割を果たした巡回興行とも通じる手法

であるたとえば初期の興行師として知られる駒田好洋は

当時を回想して「十人のブラスバンド(中略)九時からこのバ

ンドは徒歩他に「いなり」と俗にいう旗を百本ばかり立てな

らべ馬鹿馬鹿しく大きな引札をくばりながら町回りした」

(『都新聞』一九三〇年五月五日)と語っているそのような興

行形態の関連性は研究テーマとして興味深いものだろう

 

なお一九三二年に竣工した貞光劇場の建築はすでに築後

八五年が経過している戦後に映画館となったため各所に改

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

152

貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

153

劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 38: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

151

修はされているものの劇場として使われていた戦前の名残も

数多くみられるたとえば回り舞台が舞台下の装置も含め

て現存しているほか藤本氏の談によれば天井に貼られた酒

屋等の引札の類は戦前のままの状態で残されているとのこと

であるまた畳敷きの桟敷席も劇場であった時代の様子を

色濃く残しているたとえば近隣の美馬市にある『虹をつか

む男』(山田洋次監督一九九六年)のロケ地となったオデオン

座(旧脇町劇場)が回り舞台の廃止など観光向けの改築

によって建築当時の面影がほとんど残されていないことに比

べると現存する映画館建築としての貞光劇場の重要性は際立

っている

 

二〇〇〇年代以降シネマコンプレックスの普及建築基準

法の改正による耐震基準の変更デジタル配信による映像コン

テンツ受容の変化高齢化にともなう地方の人口減少など日

本の多くの地域において映画館の経営はもとよりその建築

自体の存続もきわめて厳しい状況におかれている映画館の

アカデミックな研究を通じて映画研究者もその重要性を広

く社会に示し行政と協力しながら存続の方策を模索してい

く必要があるだろう映画研究者によって映画の保存が叫ば

れて久しい現在であるがフィルムの伝承が重要なのと同じく

映画館も失われた建築を取り戻すことは二度とできないので

ある

 

今回のインタビューをおこなったローランドドメーニグ

スザンネシェアマン上田学は早稲田大学演劇映像学連携

研究拠点公募研究「演劇博物館所蔵の映画館資料に関する複合

的カタロギング」(二〇一六年度)の研究プロジェクトを実行し

本インタビューの遂行に関連して助成を得たことを付言する

(ドメーニグシェアマン上田)

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貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

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劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

Page 39: 日本映画 オーラル ヒストリー プロジェクト - Meiji …...日本映画オーラル・ヒストリー 第三回 117 ― 一番最初は演劇の劇場として開館されたのですね。藤本

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貞光劇場の外観

ロビー 藤本一二三さん

日本映画オーラルヒストリーensp第三回

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劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室

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日本映画オーラルヒストリーensp第三回

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劇場内の天井パネル

劇場内真中は回り舞台

二階の畳席 一階の椅子席

映写室