地域福祉の歴史(1)源流 - spiritssakata/class/community_welfare/pdf/history1.pdf ·...
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地域福祉の源流に関する二つの考え方
1. 一つは、産業革命以降の近代資本主義の発展とともに拡大した貧困問題
やスラムに対する、民間の活動家による地域を基盤とした先駆的な社会
福祉実践に源流を求める考え方である。それらは、公的な制度だけでは
対応が難しい問題に対し、先駆的・開発的に地域を基盤として取り組まれ
た実践としての特徴をもっていた。
2. 二つ目は、地域社会における相互扶助を地域福祉の源流とみなす考え
方である。「頼母子講」「結い」「もやい」など、古くからある相互扶助の諸
形態がそれにあたる。日本では近年、「公助、共助、互助、自助」が相互
に補完する福祉原理」の概念が提起されているが、この中の「互助」に相
当する部分を地域福祉の源流とみる考え方などがその例である。
• 救貧法改正(新救貧法)<1834> 劣等処遇(less eligibility)
院内救助原則(in-door relief)
イギリスの資本主義化と新救貧法
イギリスでは1601年(エリザベス1世の治下)に救貧法が制定さ
れていたが、その後の産業革命・資本主義の進展による社会変
化をうけて、同法は1834年に改正された。新救貧法とよばれる
が,それは貧困を個人の道徳的責任とし,被救済貧民の状態は
最低の独立労働者の状態以下にしなければならないという劣等
処遇の原則と、収容施設(労役場)の外での救済を禁じる院内
救助原則に基づいて、救済の厳格化を企図したものであった。
慈善事業の組織化
• 慈善事業の広がり、その調整が課題となる ロンドン慈善組織協会(1869年) (Charity Organization Society: COS)
• アメリカに伝播、バッファロー市COS( 1877年) COSは英米の各地に広がり、ソーシャルワークの発展の基となった。例えば、メアリー・リッチモンドはアメリカ東海岸の都市、ボルティモアのCOSの職員だった。
• 日本でも日清戦争、日露戦争を経て資本主義化が進み、社会問題の深刻化とともに慈善事業が行われるようになり、それらの組織化として、中央慈善協会(1908年(明治41年))が設立された。
テキストp. 3
ロンドンCOSの活動
• ロンドンCOSは、市をいくつかの小地域に分け、
地域ごとに篤志家の調査員をたのみ、地域内の要
救護者の調査をしてもらい、調査結果を世帯ごと
にカードに記録し、それを協会に登録してもらった。
この登録カードをもとに救済の重複を防ぎ、費用を
効率よく使うようになった(これがのちに、米国の
ケースワークへと発展した。COSが家庭ケース
ワークの発展の出発である。)
(参考)仲村優一『家庭の福祉』放送大学教材,1989.4, 第8,9章より
慈善組織化運動(19世紀半ば以降に英国で,それより遅れて米国で,慈善事業を地域単位で組織化しようとした運動)。そのころは貧困者救済活動がばらばらにおこなわれていて、濫給や漏給が多く見られ、協力者から批判されていた。そこで1869年にロンドンに慈善組織協会(COS)が作られ、貧困者の個別調査と連絡調整を主たる目的にした活動が始められた。
ロンドンCOSは、市をいくつかの小地域に分け、地域ごとに篤志家(トクシカ)の調査員をたのみ、地域内の要救護者の調査をしてもらい、調査結果を世帯ごとにカードに記録し、それを協会に登録してもらった。この登録カードをもとに救済の重複を防ぎ、費用を効率よく使うようになった(これがのちに、米国のケースワークへと発展した。COSが家庭ケースワークの発展の出発である。)
COSの初期には「施しではなく、友人を」が活動の標語であった。その当時の救済は単に物質的援助さえ行なえばよいという考えが強かった。しかしCOSは、それだけではかえって有害である、施しは友愛の精神に満ちた篤志家の人格的感化力を伴う援助でなければならないと考えた(そこで貧困家庭を訪問する人達は、友愛訪問員Friendly Visitor と呼ばれた)。この根底には、友愛
訪問員は人格的には一般の人々よりも優れていなければならず、人格的に劣った対象者を精神的にも指導し、人格的に「矯正」するものである、という思想があった(そこでアメリカのバージニア・ロビンソンはこの時期を矯正の時代と名付けた)。友愛訪問員ははじめは無給であったが、19世紀の終わりには仕事が複雑化し、専任者を必要とするようになり、有給化した。また初期の活動
は個別調査と連絡調整であったが、自ら実験的なサービス提供を行なうようになると、適切な援助のための科学的な処遇技術が求められるようになった。
当時よく使われたケースの分類法は「価値のあるケース」「価値のないケース」。価値あるケースとは、良い人、まじめ、仲がよい、勤勉、よく働く、など倫理的な価値判断を基準にしていた。価値のないケースはこの逆。このような分類は主観的になりがちであった。このような判断を前提にした処遇は、今日のケースワーク(「対象者を対等の人格としてとらえて、外にあらわれた現象であるその人の行動や態度の背後にあるものを科学の光に照らして見きわめようとする」)とは、まだ程遠いものがあった。ここでの価値の有無とは、民間のCOSの救済に値する貧困者であるかどうかの区別になった。価値あるケースとは善良な性質、尊敬に値する、節約家、独立心のある、自立の意欲のある、夫婦仲がよい、酒飲みでない等のひとのことである。公的な救貧法に比べれば比較的条件がよい民間の自由な救済活動の対象として、主に、居宅保護による救済をした。価値のないケースとは、詐欺などの不行跡(フギョウセキ)のある、品性の悪い、浪費癖のある、無節操な、飲食癖のある、依存的な人達である。COSは救済を拒否し、条件の悪い公的救貧法の対象として救済された
また児童や家庭の処遇について、1870年代のCOSの文書の記録がある。
1)児童の利益を優先させる処遇は、両親の養育義務を怠らせる結果になるので好ましくない。
2)夫に遺棄された妻のケースは、夫の処罰が必要で、COSでなく、救貧法の適用を受けるべき。
3)寡婦のケースは、貯蓄をしなかったから困窮するのだから、COSの救済をしない。
4)子供の多いことは救済への積極的な理由にはならない。
セツルメント運動の源流
• 1884年:イギリス、ロンドンの貧困低所得者
が多く住むイーストエンドで開設されたトイン
ビーホールが最初。設置者はバーネット夫妻
(サミュエルとヘンリエッタ・ )。宗教家やオック
スフォード大学、ケンブリッジ大学の学生がそ
こに住みついて活動した。
• 1889年:アメリカでは、ジェーン・アダムス
(ノーベル平和賞受賞者)が、シカゴのスラム
街、ホルステッドでハル・ハウスを開設。利用
者は週2000人を数えた。
(アダムスはトインビーホールに滞在して影響を受けた。)
参考文献
ルーク・ケイガン(トインビーホール館長) 「トインビーホールとセツルメント」
Jane Adams Hull House
セツルメントの解説
一定地域に定住して,教育,育児,授産,医療など生活全般にわ
たり住民を援助する社会事業およびその施設。19世紀後半,従
来の慈善・博愛事業が金品を与えることで貧民救済としていたこ
とを批判し,住み込む(settle)ことによる社会改良事業が必要で
あるという考えが提示され,オックスフォードとケンブリッジの大学
生がロンドンのイースト・エンドにあるトインビー・ホール(1884年
建設)に住み,貧困な労働者の生活改善運動を行ったのが最初。
• セツルメント運動:アメリカの宣教師アダムスが岡山博愛会を設立<1891>、片山潜が東京神田三崎町にキングスレー・ホールを開設<1897>。
• 慈善事業の組織化としては、中央慈善協会設立<1908>:調査、団体相互の連絡、行政との
調整などの活動⇒現在の全国社会福祉協議会の源流。
日本の地域福祉の源流 教科書3頁
民生委員制度の源流 岡山県済世顧問制度の設置<1917> 大阪府方面委員制度の設置<1918> 方面委員令公布<1936>
なお、大阪府の方面委員制度は、ドイツ、エルバーフェルト制度を参考に小河滋次郎が考案したとされている。エルバーフェルト制度とは、同市の救貧制度として1852年の制定されたもので、扶助活動が地区長と区域ごとに置かれた貧民扶助員(いずれも無給の一般住民)によって担われた特徴をもっていた。 参考文献:加来祥男(1994), 「エルバーフェルト制度1853-1861年」『經濟學研究』43(4): 35-46,北海道大学.
方面委員は名誉職委員として小学校区を一方面とした地域を担当。商店主・工場
主・医師・住職など地域の実情に詳しい人々が委嘱され、生活相談・指導、戸籍整
理、金品給与などを行った。この制度が全道府県に広がり、救護法(1929年(昭和
4)制定1932年施行)の実現に際しては政府当局への働きかけを行った。1936年制
定の方面委員令により全国的な統一が図られ、同年の救護法施行令改正によって
救護事務の補助機関として位置づけられた。戦時厚生事業下では国家統制の一
翼をも担った。[池本美和子]