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Title 遊びによる人間形成 Author(s) 藤田, 博子; 田中, 潤一 Citation 大阪大学教育学年報. 10 P.173-P.184 Issue Date 2005-03 Text Version publisher URL https://doi.org/10.18910/4899 DOI 10.18910/4899 rights Note Osaka University Knowledge Archive : OUKA Osaka University Knowledge Archive : OUKA https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/ Osaka University

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Title 遊びによる人間形成

Author(s) 藤田, 博子; 田中, 潤一

Citation 大阪大学教育学年報. 10 P.173-P.184

Issue Date 2005-03

Text Version publisher

URL https://doi.org/10.18910/4899

DOI 10.18910/4899

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Note

Osaka University Knowledge Archive : OUKAOsaka University Knowledge Archive : OUKA

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大 阪 大 学 教 育 学 年 報 第10号(2005年)

Aη舩1∫ofEdロcaε'ona1∫ 加d'θ∫VoLlo

173

遊びによる人間形成

藤 田 博 子 田 中 潤 一

【要 旨 】

本論文で は遊び と人間形成 との内的関係性 を、フ レーベ ルとプラ トンにおける教育論 を中心 に考察す る。 まず遊

びを近代美学が考え るような概念 としてではな く、具体 的な現実世界の活動 として捉 える。ガ ダマーは遊 びを主客

の対 立が消失 した真剣な活動 であ ると考 え、 シラーの ような現実世界 を超えた仮想の世界の活動 ではな く、 まさに

現実 世界の活動である と考えた。本論では ガダマーの考 えか ら自己表現 と自己超越 とい う視点に着 目 し、 この側面

か ら考察す る。 まず フレーベ ルで は遊びは単に子 どもの活動であるだけではな く、大人の労作活動 の基礎 を形作る

活動 で もあ る。 この活動は子 どもの内面 を外化する という意味で 自己表現 であ る。 また子 どもが遊 びの中で神的生.

命を感 じるとい うフレーベルの主張 は、 自己超越 に もつ なが る。一方プラ トンの魂の育成論 は単 に個人の特性 を伸

ばす だけで な く、国家の中に生 きる公民育成 とい う要素 を担 っていた。魂 の育成や正義の観念が 間主観的意味 を有

していた点で 自己表現 であ り、またイデア論 の ように現実の現象知の中においてイデ アを観る という点で 自己超越

とい う側面 を有 している。このよ うにプラ トンとフレーベ ルは遊び に関する近代美学批判 に耐える思想性 を有 して

いる。

第1章 遊びと人間形成をめぐる一つの新たな視座

第1節 主観 主 義 的 抽 象 化 と して の 「遊 び 」 概 念 とそ の 反 駁

遊 びが 人 間形 成 に果 たす役 割 に関 して古 来 よ り様 々 な見解 が 出 され て きた。特 にル ネサ ンス 以降 の人 文

主義 的教 育観 の 下 で エ ラス ム ス(DesiderlusErasmus,1469-1536)が 、 そ して市 民 革 命 の影 響 下で ロ ッ ク

(JohnLocke,1632-1704)が 独 自の教 育論 を展 開 しその 中 で遊 びの 重 要性 につ い て述べ て い る こ とは、教 育

史上 大 変意 義 深 い こ と と思 われ る。 しか し就 中遊 び と人 間形 成 との 内的 関係 性 を詳 細 に述 べ た シ ラ ー

(JohannChdstophFriedrichvonSchi韮ler,1759-1805)の 説 が 、教 育史 上大 変 重要 な位 置 を有 して い る ことは

疑い ない 。 まず 、本 章で は シ ラーの美 的教 育論 を概 観 し、次 にシ ラー を批 判 した ガ ダマ ー の遊 び論 を取 り

上 げ る。 そ の 中で ガ ダマ ー(Hans-GeorgGadaIぬeLl900-2002)が シ ラー とは 異 な る遊 び論 、つ ま り遊 びは シ

ラーの言 うよ うな 「仮 象」で は な く、そ れ 自体独 自の精 神 を有 す る経験 で あ る と提 示 して い るこ とを示 す。

そ こか ら本論 文 の課題 設 定 を行 う。

さて周 知 の よ うにシ ラー は当代 の 人間 の有 り様 が感 性 と理性 とに分 裂 して い る こと を嘆 い てい る。特 に、

理 性 の発 達 は人 間の 本性 を著 しく引 き裂 い た と考 え られて い る。 シ ラーは この分 裂 の 回復 、そ して 入 間の

調 和 的成 長 を訴 え る.。まず シ ラーは感 性 と理 性 が各 々独 自の領域 を有 して い る こと を認 め 、両 者 は各 々相

反す る力 を作 用 させ てい る とす る。 感性 的 な衝 動 の対 象 は 「生 命」 で あ り 「質料 衝動 」(Stofftrieb)と呼 ば

れ、理 性 的 な衝 動の 対 象 は 「形 態」 であ り 「形相 衝 動」(Formtrieb)と 呼 ばれ る。更 に シラ ーは この 質料 衝

動 と形成 衝動 の及 ぼ す両 領域 は 各 々.独自の もの であ り、相 互 に侵 入す る こ とはで きな.いと考 え る。 この二

つの衝 動 こそが 当代 の人 間性 分裂 の 原 因 とみ なす シ ラー は、両 者の 調和 の ため に第三 の衝 動 を考 え る。 そ

れが 「遊 戯衝 動」(Spielt配b)で あ る。 それ ゆ え 「人 間が 純粋 に遊 ぶ 時 に こそ人 間性 が 回復 され る、」 とい う

のが シラ ーの所 論 で あ る。遊 戯 衝動 に よっ て感性 と理性 とが 調和 され とい うので あ る。 シ ラー に従 えば、

人間 が美 的 な気 分 を体 験 す る② は決 して感性 的 な ・理 性 的 な体 験 の謂 で は な く、現 実 か ら離 れ たい わ ゆ る

「美 的仮 象」 に於 いて で あ る。 つ ま り、現 実 的世 界 か ら遊 離 した 「仮 象」 の世 界 にお い て想像 と して遊 ぶ

こ とが美 的教 養 なの であ る6前 田博 もこの よ うな美 的世 界 を 「悟 性 や意 志 では な く想像 力 が独 自の 法則 に

従 って は た ら く世界 」Dと 述 べ て い る よ う.に、 想像 力 が遊 び にお い て重 要 な役 割 を果 たす 。前 田 は次 の

よう に も言 って い る。 「想 像 力 は 現実 に依 存せ ず 、 現実 に密 着 す る ので は な く、 む しろ現 実 か ら離 れ る。

現 実 に しば られ てい て は想像 力 は は た らか ない。 想 像 力が 大 きな働 きをす る芸術 の世 界 は[想 像 力 の 国]

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で あ る」2)。

しか しなが ら、 この ような芸術 論 に対 して哲 学 的解釈 学 の泰 斗 ・ガ ダマ ー は疑義 をは さむ。 ガ ダマ ー に

よれ ば シラー は感性 と理性 との対 立 に代 わ って別 の対 立構 造 を、即 ち現 実 と仮 象 とい う対立 を結 果 的 に生

み 出 して しまっ てい る 。 「芸術 は独 自の立 場 とな り、 そ れ に基 づ い て 自律 的 な支 配権 を要 求す る に至 る。

芸術 が 支配 す る と ころで は美 の法 則が 妥 当 し、現 実の 限界 を遥 か に超 えて しま うの であ る」3)。 周知 の と

お りシラ ーは カ ン ト(lmmanuelKant,17244804)の 論 を前提 と し、 カ ン トに由来 す る二 つの 世界 の分 裂 は

美 的遊 び に よって一 見 克服 された ように見 え るが、 今度 は芸術 が現 実 か ら分 化 して しま う とい う問題 が 生

じた。 そ れゆ え美的 遊 びの 自由は単 に想 像 の世 界 にの み狭 隆化 されて しまい、現 実 世界 の 自由 とは無 縁 な

もの とな って し まった 。 これ が ガ ダマ ーの指 摘 す る シ ラーの難 点 で あ る。 「美 と芸 術 は現 実 に対 して単 に

美化 す る だけ の束 の間 の ほの かな光 を与 える もの で しか な くなっ たの であ る。 そ して 、美 と芸術 はわ れわ

れ を心情 の 自由へ と高 めて くれ るの で あ るが 、 その 自由 とは、美 的 国家 におい ての み可 能で しか な く、現

実 にお け る 自由で は ない ので あ る」4)。 ガ ダマ ーは美 的 な遊 び とは決 して現 実か ら遊 離 した 想像 の 世界 の

体験 で は な く、現 実 に おい て経験 され るべ き もの と考 え る。 現 実 か ら分 離 した仮 象 世界 を想 定す るの は主

観主 義化 、 つ ま り主 体 と客 体 とを分 け て考 え る思 考 の結 果 で あ り、 ガダマ ー は この 考 えの背 後 に 自然科学

的 な認識 モ デ ルが影 響 を及 ぼ して いる と考 え る。即 ちカ ン ト哲 学 に よって趣 味 や判 断力 は主 観 の領域 へ と

狭 阻化 され た のだが 、 ガ ダマ ーの指 摘 で は趣 味 と判 断力 の 両概 念 は人文 主義 の伝 統 にお い て単 に主 観的 意

味 合 いで は な く、共 同的 ・社 会 的 な意味 合 い を有 して いた。 近代 の 美学 によ って、元 来 間主 観的 意味 を担

っ てい た諸概 念が 主 観的 意味 へ と転 化 して しまった 。 ガ ダマ ーは 「遊 び」 を シラー の よ うに現 実 か ら切 り

離 した抽 象 的 な形 で捉 え るので は な く、 歴史 的 で具 体的 な現 実世 界 の 内で捉 え よう とす る。 その た め にガ

ダマ ー は 「遊 び」 を定義 し直 す。

第2節 「遊 び 」 概 念 の再 検 討 と本 論 文 の課 題 設 定 の 射 程

ガ ダマ ーは シ ラーの如 き近代 美学 か ら離 れ て、新 し く遊 び を定義 す る。 まず ガ ダマ ーは遊 ぶ主 体 と遊 ば

れ る対 象 とい う主観 客観 関係 にお いて は、遊 びの真 の姿 を捉 える こ とはで きない と考 え る。 遊 びの独 自性

は 別の 次元 で 思惟 され るべ きであ る。 ガ ダマー 曰 く、 「遊 び とは創 作 者 な い し享受 者 の態 度 ない し心 の 状

態 な どを指 してい るの で もな けれ ば、 あ るい は遊 びの 中で働 いて いる 主観性 の 自由の こ とで もな く、芸術

作 品そ の もの のあ りよ うを意味 して い るので あ る」5)。 遊 び とは芸術 作 品 それ 自体 で あ る とい うの が ガ ダ

マ ーの所 論 であ る のだ が、 これ は一 体何 を意味 してい るの であ ろ うか。 まず、 ガ ダマ ーは遊 びを 「運動 の

遂行 その もの」6>と 考 え る。 逆 に も し遊 び を、遊 ぶ 主 体 の意 識上 の想像 にす ぎな い と考 え るな らば、 ど

の ような不都 合 が生 じるの であ ろ うか。 ガ ダマ ー に従 え ば、遊 ぶ者 が 自分 自身遊 んで いる こ とを意識 して

い る時 、その者 は遊 びに真 剣 に取 り組 んで い ない。遊 びは単 なる空 想 や気晴 ら しに既 め られ て はな らな い。

遊 び に参加 す る者 は遊 び に真 剣 で あ らね ばな らな い。真 剣 に遊 ば ない者 は遊 びを台 無 しに して しま う。遊

ぶ者 が遊 び に真 剣 に没頭 す る時 、遊 び にお け る主体 客 体 の対 立 構造 は消 失 す る。 そ こにあ るの は ただ遊 ぶ

とい う活 動 だ けで あ る 。「そ こで は誰 が 、 あ るい は何 が 、 この運 動 を遂行 して い るの か は どうで も よい 。

遊 びの運 動 その ものは 、い わ ばそ れ を担 う基 体 を 欠い た もので あ る。 それ は演 じられ、 あ るい は起 こ る も

の であ り、そ こで は遊 んで い る主 体 を確 定 す る こ とはで きない 。遊 びは運 動 の遂 行 そ の もの で ある」71。

ここか ら我 々 は遊 び につい て新 しい視座 を得 る こ とが で きる。 先 に遊 び とは芸術 作 品 その もの とされて い

た が、 ここか らガ ダマ ーの 言 う遊 びの本 質 を明 らか にす る こ とが で きる。遊 びにお け る主体 は遊 ぶ 者の 主

体 では な い。遊 ぶ者 の 主体 は消 失 して しまっ てい る。遊 びに おけ る主体 は遊 びそ の もの なので あ る。芸術

経 験 にお ける主 体 は、経 験 す る者 自身 の主体 で は な く芸 術作 品 その もので あ る。 遊 ぶ者 は遊 び を意識 して

行 うの で は な く、遊 び とい う運 動 に誘 わ れ 、 と らえ られ てい る。 「す べ ての遊 び は遊 ばれ る こ とだ とい う

こ とで あ る。遊 び の魅力 、遊 びが引 き起 こす 魅惑 の本 質 は、遊 びが 遊ぶ 者 を その支 配下 におい て しまう と

い う点 にあ る」8)。

我 々は こ こか ら新 しく定義 され た 「遊 び」 論 に基 づ く教 育論 を考 え ね ばな らな い。 シ ラー におい て美 的

教 育 は現 実世 界 を離 れ た仮 象 の世 界 にお い て為 され る もの と され、 「美 しい仮 象 の国土 は … 各 の美 は

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しい調子 の魂 の 中 に存 す る」9)と され て い た。前 田博 は シ ラ ー にお ける 美的 教 育 の意 義 を次 の よ うに語

った 。「教 育 は 自然 や道徳 の世 界 とは別 な この ような第三 の世界 へ 、人 間 を解 放す るの でな けれ ばな らない。

教 育 は芸術 の世 界 、想 像力 の世 界 に 目を開 かせ る こ とを目標 の一 つ とす る。 これが美 への教 育 で ある」10)。

しか し今 や我 々 は ガ ダマ ー と共 に新 しい 遊 び論 を歩 まね ばな ら ない。 さて 、 ガ ダマ ー の遊 び論 は教 育学 の

問題 と して如 何 に受 け取 られ るべ きであ ろ うか。 二 つの帰 結 が挙 げ られ得 る。.

一 つは 自己表現 で あ る。 ガ ダマー は 「遊 びは事 実 自己 を表 現 す る こ と以外 の 何物 で もない。'つま り、 自

己表現 が そ の あ りよ うな ので あ る」IDと 述 べ 、遊 びの 目的 が単 な る想像 や気 晴 ら しにす ぎない ので は な

く、 自分 自身 を表現 す る こ とにあ る と考 えてい る。 遊 ぶ者 は単 な る主 観 の戯 れで遊 んで い るの で はな い。

遊 び は表現 で あ り誰 か他 の人 に よっ て見 られ る こ とを前提 と して い る。

ガ ダマ ーの遊 び論 の も う一 つ の特徴 と して 「超 越」 とい う点 が挙 げ られ る。確 か に シ ラーの遊 び論 も現

実 か ら超 え出 た仮相 の世界 に遊 び を位 置づ ける とい う点 で 「超越 」 とい う観 点 を有 して は いる。 しか しガ

ダマ ーは これ とは全 く違 っ た意 味 で 「超越 」 を位 置づ け て いる。 ガ ダマ ー は現 実 世界 の 中で遊 び とい う活

動 に没 頭 し、 い わば忘 我 的状 態 とな る こ とに よって現 実 世実 にい なが ら超越 の世 界 に入 る こ とがで きる ど

す る。 「忘 我 は 、』な にか あ る もの にす っか り参 与 してい る とい う積 極 的 な可 能性 で あ る。 … 自己 忘却

は、 こ こで は決 して 欠如 的 な状 態 で はな い。 とい うのは 、 それ は、観 客 が 自分 自身 の積極 的 な働 きかけ と

して行 って い る事柄 へ の 関与 か ら生 じて くるか らで あ る」12)。「祭祀 的演技 や演 劇 は、 表現 を 自己 目的 と

してい る わけで は な く、 自己 自身 を越 えた もの に同時 につ なが って い る」13)。

さて我 々 は既 述 の如 くガ ダマ ー と共 に 「遊 び」 を新 た に見 直す 作業 を行 って きた。 今 や我 々 は本論 文 に'

お け る課題 設定 を行 い たい 。 まず 本論 の一 つ の柱 は 、フ レーベ ル(FhedrichFr6be1,1782-1852)の 「遊 び」

論 を上 述 の新 し く見 直 された 「遊 び論 」 の観点 か ら見 直す こ とにあ る。周 知 の通 りフ セーベ ル はロマ ン主

義 の影響 を大 き く受 けて 自 らの教育 思 想 を構築 した。 しか しフ レーベ ル の遊 び論 は シ ラー と異 なる点 が多

い 。 シラ ーが現 実 を超 え た仮象 の世 界 で遊 び を位置 づ け るの に対 して、 フ レーベ ル はあ くま・で も現 実 世界

に依 拠 す る遊 び論 を展 開 して い る。一 これは フ レーベ ル が神 を世 界 か ら超 え出 た と ころ に位 置づ ける外

在的 な神 観 に反対 して 、 自然の 森羅 万 象 に神 が 宿 って い る とす る内在 的 な神観 を有 して いる こ とに も繋 が

る 。我 々は本論 にお いて フ レ.一ベ ルの遊 び論 を ガ ダマ ーが提 示 した遊 び論… 「自己表現」 と 「超 越」

とい う二 点.に 則 して新 た に考 え直 し、そ の ア クチ ュア リテ ィー を考 え直す 。本論 の二 つ.目の柱 は 、 フ

レーベ ルの遊 び論 に繋 が る もの と して プラ トン(rlλατωv、427-347B℃.)あ 教 育論 を取 り上 げる。 一 見 フ

レーベ ル とプ ラ トンは全 く関係 が無 い よ うに思 わ れ るか もしれ ない。 しか し両 者 の接 点 として プラ トンの

教 育論 、特 に[魂 の 育成 επΨελε1ατη⊆ Ψuxη⊆]に つ いて考 えて みた い。 プ ラ トンの教 育論 は近 代 の人

間 中心 主義 的 な教 育 学 とは異 な り、 個 人 に過 剰 に重 点 が置 かれ た もの で はな か った。特 に我 々は魂 の 育成

につ い て取 り上 げ るの だが 、 プ ラ トンに とって魂 の 育成 は単 に個 人の 才能 や能 力 を伸 ばす とい う個 人 主義

的 な教 育 のみ を意 味 してい たの では な かった 。魂 の 育 成は その ような 私秘 的 な もので は な く、 公民 育 成 と

い う意味 を担 っ てい た。 我 々 は こ こか ら、 「自己表現 」、 「自己超 越」 とい う観 点 を新 た に見 出 し、 プラ ト

ンの教 育論 を フ レーベ ル に繋 が る もの と して位.置づ けてみ た い。我 々 は近代 美 学、 特 に カ ン トや シ ラー に

よって主 観 に狭 隆化 された 「遊 び」論 とは異 なる別 の 「遊 び」 を探 求 す る。 プ ラ トンか ら フ レーベ ル を繋

ぐ遊 び論 を、 ガ ダマ ー の所 説 を基 に見 出 し、西 洋教 育 思想 史 に おけ る新 た な観点 に光 を当 て る一 以上 が

本 論 の課題 で あ る。

第2章 フレーベルの遊び論

第1節 遊 び の 根 底 と して の 「労 作 」

周知 の通 りフ レー ベ ルは幼 児期 にお ける遊 びの有 す る意 義 を非常 に重視 してい るの で あ るが 、何 ゆえ フ

レー ベル は遊 び を重 ん じる ので あ ろ うか。 一般 に言 わ れて い る、子 ど もの 素質 の 自発 的 ・連続 的 な発展 成

長 とい う通 説 は こ こで は一旦 度外 視 して、本論 で は 「自己 表現」、 「労作 」 とい う観 点 か ら フ レーベ ル の遊

び論 を捉 え直 してみ たい 。 フ レーベ ル に よれば遊 び とは単 な る戯 れで も架 空の 世界 の 空想 で もな く、真 剣

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な 出来事 なの であ る。 「遊 戯 は … 単 な る遊 び ご とで は ない 。 それ は 、 きわ めて 真剣 な もので あ り、 深

い意 味 を持 つ もの で あ る」14)。「遊 戯 す る こ とな い し遊戯 は、幼 児 の発 達 つ ま りこの時 期 の 人間 の発 達 の

最 高 の段 階で あ る」!5)。この よ うに フ レーベ ルは遊 び におい て幼 児 の活動 の 本 質 を見 出す の だが、 これ は

決 して単 に幼児 に限定 され る所 論 で は ない。子 ど もに限 らず 成 人 に至 る まで 人 間の 活動 全 ての基 礎 を形作

る もの と して 、遊 び を捉 えて い る。 もちろん 成人 の社 会 活動 が遊 び と言 わ れ るこ とは まず ない。 我 々 は こ

こで フ レーベ ルの 中心 的思 惟 を為 してい る もの を 「労作 」(Arbeit)と 特 徴づ けたい 。実 際 フ レーベ ル は と

りわ け労作 とい う活動 を重視 してい る。労 作 は 自己 の本 質 を認識 す る活 動で あ り、 生計 の ため の手段 に既

め られ て はな らない。 「入間 が 、労作 した り、活動 した り、創 造 した りす るの は、 単 に 身体 つ ま り精 神 の

外 皮 を保持 す る ため だけ 、す な わ ち衣 食 住 を確保 す る ため だ けであ る とい う思想 、 とい う よ り妄 想 は 、人

間の 品位 を汚 す もの」16)で あ る。 労作 の意 義 は別 の点 に求 め られ ねば な らない。 「人間 が創 造作 用 を営 む

のは 、 も と もとは、 また 本来 の姿 か ら見 れ ば、 ひ とえ に、 人間 の 中に あ る精 神 的 な ものや神 的 な もの を 自

己の外 に形作 る ため 、及 び その こ とに よ って、 自己独 自の精 神 的 な神的 な本 質 や、 神 の本 質 を認識 す る た

め だ け なので あ る」17}。フ レーベ ルは 人間 一 人一 人の 内 には神 か ら与 え られ た神 的 本性 が生 まれ なが ら具

わっ てい る と考 える のだ が、 た だ単 に子 どもが気 ま まに育 てば 良い と考 え てい るの で は「な い。子 ど もは 自

己 の 内面 を労作 に よって外 化 し、表現 しな けれ ばな らな い。自己表現 に よって 自己 の内面 は客観 化 され る。

自己 の内 面 は単 に私 秘 的 な もの で は な く、 他 人 に よっ て も理 解 され うる公共 的 な意 義 を担 う よ うに なる。

また労 作 が重 要で あ るの は労作 に よって 作 られ る作 品か とい うこ とだ けで は な く、 そ の作 品 におい て表 現

され た 自己 を再認 識 す る ことにあ る。つ ま り労作 とは一 人一 人 の人 間が 自己の 内面 的精 神 を現実 世 界 に客

観 化 し、 その よう に表現 され た作 品 を通 して 自己の 内面 を深 化 させ る営 み に他 な らな い。 この ように フ レ

ーベ ル は労作 をあ らゆ る人 間的活 動 の根 本 に据 えて い るの だが 、 この労 作活 動 の基 礎 は幼児 期 に育 まね ば

な らな い と考 えて い る。 そ して この幼 児期 の 労作 活動 の萌 芽が 「遊 び」 で あ る と される 。 「労作 を通 して

の、 及 び労働 にお け る学 習、 す なわ ち生 活 を通 して の、 及 び生活 か らの学習 こそ、 何 もの に も増 して遥 か'

に力 強い 学習 で あ り、最 も具 体的 な学 習 で あ って、 そ れ 自身 にお いて も、 またそ れ を受 ける もの に とって

もます ます生 き生 き と発展 し続 ける学 習 であ る」 董8}。

この よ うに フ レーベ ルの労 作或 い は遊 び は、決 して現 実世 界 を遊 離 した架 空世 界 にお ける活動 の謂 で は

な く、あ くまで現 実 世界 の 人間 的活動 を支 え る もの な ので あ る。 また 内面 的精神 は客観 的世 界 に外 化 され

る こ とに よって、 他 の人 に も理解 され うる 「表現」 と なる。 ボル ノー(OttoBollnow,1903-1991)は この フ

レー ベ ル の 「労 作 」 を デ ィ ル タイ 的 な 「表 現 」 と重 ね 合 わせ て い る。 有 名 な デ ィル タ イ(Wi量helm

Dilthy,1833-1911>の 「体 験 ・表 現 ・理解 」 の循 環構 造 にお い て は、我 々 の様 々 な 「体 験」(Erlebnis)は 外

化 され 、構造 的 な連 関 を持 っ た 「表 現」(Ausdruck)と して客 観 化 ざれ 、 「理解 」(Verstehen)の 対 象 とな

る。 ボ ル ノー は 「体験 ・表現 ・理 解 」 の循環 構造 を踏 まえて 、 フ レー ベ ル教 育 思想 にお ける 人間 の使 命 を

二 つ 設定 してい る。 一つ は、 内的 な もの を外 的 な もの にす る、即 ち外面 化 であ り、 も う一 つ は外 的な もの

を内 的 にす る、即 ち内面 化で あ る。前 者 は 「体験 」 を'「表現 」 に もた らす こ とで あ り、後 者 は 「表 現」 を

「理解 」 す る こ とであ る。 即 ち 「人 間 が外 界 に見 出 す もの 全 て を外 面 的 な もの に とどめず 、 内面 的 に体 得

し、 自己 に取 り込 む」19)こ とが大 切 なので あ る 。 この よ うにボ ル ノ ーは フ レーベ ル を 「体験 ・表現 ・理

解 」 の枠 組 み の中 で捉 えた の だが 、 この プ ロセ ス は労作 に よっ て実現 され ね ば な らない 。 「人 間 は 自己 の

内的 本 質 をば外 的 仕事 、つ ま り自己 を取 り囲 む世 界 の 中で の行 為 に よっ て のみ 実現 す る」20)。「労 作 の必

然 性 は経 済 的 側面 か ら根 拠 づ け られ るの で は な ぐて、 人 間 の 自由 な 自己 形成 と して」21)見 られ るべ きで

あ る。 この よ うに我 々は フ レーベ ル の労 作 ・遊 び を、 「表 現 」 とい う観 点 か ら特 徴づ け る こ とがで きる 。

こ こで は労作 ・遊 びは主 観 に狭陸 化 され るこ とな く、他 の 人 の理解 に対 して 開か れて お り、 間主 観的 な意

義 を有 してい る。

第2節 自 己 表 現 と しての 「恩 物 」

この よ うに フ レー ベル教 育 思想 で は遊 び の重 要性 が、 そ の根底 にあ る労作 に まで 遡 って認 め られて い る

の で あ る。 また、 フ レー ベ ルは特 に子 ど もの 遊 び には彼 らの創造 活 動が 理想 的 ・健 全 に育 まれる ため の特

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遊 びによる人間形成 i77

別 な遊 具 が用 意 され ねば な らない とす る。 この特 別 な遊 具 を フ レーベ ル は 「恩物 」(Gabe)と 名づ けて い る。

子 ど もが 「恩 物」 を使 って遊 ぶ こ とに よ って創造 意 欲が 育 まれ、 連続 的 な成 長が 可 能 にな る とされ る。 フ

レーベ ル は 『幼 稚 園教 育 学 』 にお い て次 の よ うに語 っ てい る。 「彼(一 引 用 者注 一 大人)は 遊 び と 自

己作 業 につ いて 、 また遊 具 と作業 遊 具 につい て次 の ような考 えを持 って い なけ れば な らない ので あ る。 す

な わち、 子 ど もが 彼 の内 の世 界 をそ れ らの遊 びや遊 具 に よって外 の世 界 に表 現 し、外 の世 界 の諸現 象 を も

っ と自分 に身 近 な もの に し、 こう して内界 と外 界 の両 方 につ いて の認 識 を媒 介す る の にそれ らの遊 びや遊

具 が役 立 つ とい う考 えで ある」22}。

さて こ'のよ うに恩物 は子 ど もが遊 び を通 して 自己 の内 面 を外 へ 表現 す る最 も有 効 な遊 具 で あ る と位置 づ

け られ るのだ が、我 々は彼 の提 示 す る恩物 か ら第 一恩 物 のボ ー ル を取 り上 げ てみ よう。 ボー ルは 、 フ レー

ベ ル の神秘 主義 的 な世 界観 、特 に 「球 体法 則」 を基 に論 じられ る ことが 多い。 本論 で は と りあ えず 神秘 主

義 的思 惟 を「 旦度 外 視 して、 ボ ー ルを 自己 表現 と して捉 え る。 「ボ ー ルそ れ 自身 が もと もと一 つの 全体 で

あ る と同時 に、 また ひ とつ ひ とつ の全 体 のい わば代 表 者 であ り、 そ れ らの~般 的 な表 現で もあ るか らで あ

る。 … 子 ど もは ボー ルか らい わ ば ひ とつ ひ とつ の全 体 とひ とつ ひ とつの対 象 物 とを作 り出 し、 その作

った もの に 自己 自身 の姿 を種 々様 々 に刻 印 し、 この よ うに して 自分 を 自分 自身 と を対 置 させ る こ とが で き

るの であ る」23>。子 ど もは ボ ール を媒 介 と した遊 び に よって活 動 し、 さま ざ まな認 識 や知 覚 を身 に付 け て

ゆ く。母 親 は ボー ル を使 い子 ど もに様 々 な こ とを教 え る。例 えば 、母 親が ボ ー ル をひ もで持 ち上 げ た り、

下 げ た りす る こ とに よっ て、 空 間 に関す る知覚(「 上 」 や 「下」、 「右」 や 「左 」 な ど)を 教 える こ とがで

きる 。 ま たボ ー ル を手 の 中 に し まった り、 また再 び見 せ た りす る こ とで 、「現 存 」 や 「消 失」 や 「再 現」

とい う概 念 の萌 芽 を子 ど も達 の うち に育 てる こ とがで きる。 ただ 、 こ こで 注意 せ ね ばな らな いの は、 この

よ うな教 育 が決 して母 親 の一方 的 な詰 め込 み では な く、子 ど もの 自己活 動 が大 前提 と されて いる こ とであ

る。つ ま り、子 ど もはボ ール遊 び に夢 中 にな って い る こ とが前 提 とされ てい る。 フ レーベ ル教 育学 におい

て は神 か ら与 え られ た素質 は既 に子 ど もの うちに存 して いる。 子 どもは この素 質 を遊 び を通 して伸 ば して

ゆ くの だが 、単 に自分 の 内だ けで伸 ばすの で はな い。子 ど もは絶 えず 自己 を表 現 しなが ら、 自分 の素 質 を

伸 ば して い る。子 どもは ボー ル遊 びをす る 中で 自分 自身 を表 現 して い るの で あ る。 「活動 や行 動 も また子

ど もの 目覚 めつ つ あ る生 命 の最 初 のあ らわれで あ る。 しか もその活 動 や行動 は、 内的 な もの、 最 も内的 な

ものの独 特 の表 現 を伴 った活 動 であ り行 動で あ る。す なわ ち、ま さに この 内的 な もの 、最 も内 的 な もの を、

外 的 な もの を通 じて、 また外 的 な もの にお い て知 らせ た りあ らわ した りす る ため の内 的 な活 動 で あ り、内

的 な行動 で あ る」24)。ここで我 々が着 目すべ きは、 フ レーベ ル の遊 びが遊 ぶ 者(つ ま り子 ど も)の 仮想 に

す ぎないの で はな いので はない とい うこ とであ る。 子 どもは想 像力 を駆使 して架空 の 国 におい て遊 んで い

る の で は な い。 子 ど もは遊 び に お い て遊 具 に支 配 され て い る。 子 ど もは ボ ー ル 遊 び に無 我 夢 中(Sich-

Beschaftlgen)に な り支 配 され て いる 。遊 びの 中で 子 ど もは 自己の 内面 を表現 し、 自己の 内面 を客観 化 す

る。 ボル ノーは 、 シラー とフ レー ベ ル との共 通 点 を指 摘 す る25)の に反 して、 我 々 は こ こに フ レーベ ル と

シラ ーの相違 点 を 、そ して フ レーベ ル とガダマ ー との類似 点 を認 め得 るであ ろ う。

第3節 遊 び に お け る 自 己 超 越

この ように フ レーベ ルの遊 び を通 じた人 間形 成 に は 「表現 」 とい う客 観 的側 面 が伴 うのだが 、 同時 に遊

び は 自己超越 とい う側面 を併 せ 持 って い る。 フ レーベ ル に とって子 ど もの遊 びは単 に子 ど も一 人 の問題 に

す ぎない ので は ない 。遊 びは子 ど もを超 え た もの につ なが って い る。 「遊 び は、 この段 階の 人 問の 最 も純

粋 な精神 的所 産 であ り、同 時 に人 間の生 命全 体 の、人 間及 び全 て の事 物 の 中 に潜 む ところ の内 的 な もの や、

秘め られた 自然 の生 命 の、原 形 であ り、模写 で あ る。 … あ らゆ る善 の 源泉 は、 遊 びの 中 にあ る し、 ま

た遊 び か ら生 じて くる」2暢 つ ま りフ レーベ ル に従 えば 、遊 び は人 間の 本性 的衝 動 で あ るのみ な らず、 人

間 を包み 込 む大 い なる生 命 の本性 で もあ る。 そ して 「善 」 とい う、 主観 に限定 されて考 え られ るべ きで は

な く、 間主観 性 を担 うべ き概 念 につ い て も、遊 び と関連 させ て い る。つ ま り遊 び は人 間 を超 えた次 元 に通

じて いる 。 「この発 達段 階(一 引用 者注 少 年 期)の 遊 び は、 実 際行 われ る場 合 に は、 い つ も共 同で

行 われ る し、従 っ て、共 同 の もの に対す る、 また共 同 な もの の法則 や 要求 に対 す る、感 覚 や感 情 を、発 達

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玉78 藤 田 博 子 田 中 潤 一

させ るか らで あ る。 … これ らの遊 び こそ、 直接 に生 命 に働 きか け、 生命 を形 成 す る と共 に、 市民 と し

て の、 また道徳 上 の、 数 々の徳 を目・覚め させ 、そ れ を培 って ゆ くので あ る」27)。つ ま り遊 びは個 人的 私的

な活 動 だ けで は な く、共 同 的 問主 観 的 な諸 概 念(特 に道 徳 的善)の 基 礎 を形 作 る根 源 的活動 なの で あ る。

しか しフ レーベ ル は この よ うな個人 的領 域 と問 主観 的領 域 とが どの よう に して繋 が りあ うとい うの であ ろ

うか。 も し個 人的活 動 に過 度 に重点 が置 か れ るな らば、 相対 主義 に陥 りか ね ない し、 また共 同性 に過 度 に

重点 が置 かれ る な らば 、個 人個 人 を省み ない絶 対主 義 に陥 りか ね ない。 個 人の活 動 が生 か され なが ら、且

つ共 同的 な意味 を有 す る こ とが 可能 で あ る とす れ ば、両 者 の問 に共 通の 地盤 が なけ れば な る まい。我 々 は

フ レーベ ル教育 思想 の 中か ら、rこの 共通 基盤 を 「神 性」 にあ る と考 え る。蓋 し一人 一人 の子 ど もの 自己活

動 は神性 の宿 った もので あ り、 また我 々の生 を営 む 自然 的 世界 も神 の作 品 とい う意味 で神 性 を有 してい る

か らで あ る。即 ち人 間の 活動 は 、神 的生 命 の宿 る 自然 界 におい て調和 的 に生 きる こ とを目指 して い る。 こ

こに至 って我 々 は、子 ど も一人 一人 の活動 は単 な る 自己表現 で は な く、 自己 を超 越 した もの に対 して も視

野 を有 して いな けれ ば な らない と言 い得 る。

「自然 の事 物 を、 その 生 命 に従 って、 そ の意味 に従 って 、従 って また神 の精神 に従 って学 び取 る よ う努

力す べ きで あ る」28}。フ レーベ ルは、 神 の純粋 な精 神 は 人 間の生 命 にお いて よ りも、 自然 の 中 に よ り純粋

に現 れ る と考 える。 人 間は 自然 を観 察 し認識 す る こ とに よって 、 自 らの 神的 本 質 を見 て取 るので あ る。例

え ば草木 や樹 木 の観 察 を通 じて我 々は、 沈黙 や思 慮 深 さ を感 じ取 り感 動 す る。神 は 自らの作 品で あ る 自然

の 中 に、肉 眼で は見 え ない が心 の内 で見 える もの と して我 々の前 に顕 現 す る。確 か に野外 を駆 け回 って い

る幼 児や 少 年 は、 自然美 や その 中で現 れ る神 の 力 に気付 くこ とは全 くない。 しか し彼 らは 自然 の中 で 自然

と共 に生 きてい るの で あ り、 自然 に対 す る感 受性 が 高 まれ ば高 まる程 、神 の精神 を一層 身近 に感 じる よ う

にな る。 また子 ど もは 自 らが感 じ取 った こ とを大人 が認 め て くれ る よう要 求す る。 だか ら親子 が 共 同で 自

然 の生 命 や精 神 を観 察す るこ とが望 まれ る。 「だか らこそ 、少 年 と大 人 とが 、 自然 の生 命 と精 神 を、 自己

の なか に と りいれ 、 自 らの なか で、 生か し、働 かせ よう と、互 い に共 同の努 力 を重 ね なが ら、行 な うあ の

野外 の散 歩 が重 要 なの で ある」29>。自然 の観 察 は、子 ど もに とって最 も身近 な環 境 か ら出発 し、次 第 にそ

れ を 自分 自身の 身 の回 りへ と関係 づ け、 統 一的連 関 に組 み込 む よう に位 置づ け る。 その よう に して 人間 は

自然 の個 々の事 物 を観察 す る こ とに よって 、 自然の 多様 な形態 を統 一へ と もた ら し、そ の統 一 の中 で働 い

て い る神 の力 を認 識 す る とと もに、我 々 自身の 中 にあ る神 的 本質 を も認 識す る。 「人 間は 、 自然 の なか に

純粋 に現 われて い る この神 の精神 の なか に こそ 、人 間 の本 質や 品位 や高貴 さを、明 鏡 を映 して.みる よ うに、

全 く明 瞭 にかつ 純粋 に、 また全 く根 源的 な姿 に おい て、観 るので あ る」30)。

我 々は フ レーベ ルの遊 び論 にお いて 、 自己超 越 とい う観 点が 存 してい るこ と を認 め得 る。 もちろ ん 「超

越」 と言 って も現実 世界 を遊 離 した架 空世 界へ の超 越 で はな く、人 間一 人 一人 が生 を営 ん でい る具体 的実

世界 の 中 にお いて超 越 な視点 を有 してい る とい う意味 に於 いてで あ る。

第3章 プラ トンの遊び論と魂の自己形成

第1節 『国 家 』 に お け る魂 の 育 成

プ ラ トンは 主著 『国家 』 に おい て イデ ア論 と共 に魂 の 三分 説 につ いて 述べ てい る。 人 間の魂 は、 「理知

的部 分 τoλoγ牝στ1κov」、「気概 の 部分 τ000μoε1δε⊆」、 「欲望 的部 分 τoεπ10μητ1Kov」 とに分 け られ、

前二 者 に よっ て欲望 的部 分 を適 切 に コ ン トロ ールす る ように教 育せ られ るべ きであ る。 プ ラ トンは理 知 的

部分 の養 成 の ため には音 楽 ・文 芸教 育が 有 効で あ り、気概 の部 分の 養成 の ため に は体育教 育 が 有効 であ る

と考 えて い る 。「教 育 のあ り方 と して は 、 身体 の た め には体 育 が 、魂 の た め に は音 楽 ・文 芸 が あ る」3i)。

と、 プラ トンは音楽 ・文 芸(μOUσ1Kη)と 体育(四 μVαστしκη)の 教 育 の重 要性 を説 いて い る。 だが 、 これ

は単 に人 間の個 性 を伸 ばす とい う意 味 にす ぎない ので は ない。 プラ トンに とって教 育 は、個性 の伸張 と共

に公民教 育 とい う意 義 を担 っ てい た。 まず音 楽 ・文 芸教 育 を見 れ ば、 人の魂 は音 楽 ・文 芸 に よって調 和 を

身に付 ける。 「リズム(ρ10μo⊆)と 調べ(αpドOVtα)と い う もの は、何 に も ま して魂 の内 奥へ と深 くしみ

こんで行 き、何 に もま して力強 く魂 をつか む もの なの であ っ て、 人が正 しく育 て られ る場合 には、気 品 あ

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遊 びによる人間形成 179

る優美 さを もた ら してそ の 人 を気 品 あ る人 間 に形 作 り、そ うで な い場 合 には反 対 の人 間 にす る」32>。また

もう一 方 の体 育教 育 は身体 の健康 を保持 す るこ とに主眼 が 置 かれ て い る。 「体育 の 内容 をな すつ らい鍛 錬

そ の もの も、彼 は体 の 強 さを 目的 とす る よ りは む しろ 、 自分 の 素 質 の中 に あ る気 概 的 な要 素 に 目 を向 け、

そ れ を 目覚め させ る ため に こそ行 うであ ろ う」33)。この よ うに調和 の あ る魂 と健康 かつ勇 気 の ある人 間 を

育 て る ことが 、 プ ラ トンに よって 唱 え られて い る。 さて プ ラ トンの この教 育論 は単 に個 人の 問題 と して の

み考 え られて いる ので は ない 。適切 な教 育 に よって魂 の理 知 的部 分 と気概 の部 分 が養 わ れ るな らば、 そ の

人 は 「知 恵 σ0φ1α」 と 「勇 気 αVδρε1α」 の 「徳 αρετη 」 を身 に付 ける こ とが で きる。 「知 恵」 と

「勇 気 」 を 身 に付 け た者 は 自己 の欲 望 的部 分 を抑 え る こ とがで き、 「節制 σωφρoωv」 の 徳 を身 につ け る

こ とが で きる。 プ ラ トンは 「知 恵」 と 「勇 気 」 と 「節 制」 を身 につ け た人 の魂 を 「正 義 δ1Kα糠 」 が達

成 され た魂 と名付 けて い る。

我 々は こ こか らプ ラ トン にお け る魂 の 育成 を単 に個 人 の問 題 と して捉 え るので は な く、 「正義 」 とい う

万 人 に妥 当 す縛 き普 遍 的価 値 を含 んぢ 問題 と して思 惟 すべ きであ る。確 かに 、個 々人 の魂 の育 成 は一個 人

の問 題 と して考 え るべ きで あ るが 、 ここで は 「正義 」 とい う道 徳性 が含 まれ てお り、 これ は一個 人の 問題

に とど まら ない。 また プ ラ トンが 個人 の正 義 と国 家の 正義 を類 比 的 に考 えて い る こ とも見 逃 せ ない 。 「正

しい人(δtKα10⊆ αVηρ)も 正 しい 国家(δIKα1α ⊆ πOλεω⊆)と 比べ て、 そ のく 正義 〉(δIK煎0σDVη ⊆)

とい う特 性 に関 す る限 りは少 しも異 な る とこ ろが な く、似 てい る(0μOto⊆)」34)。 即 ち個 人 の正義 と国家

の正 義 とが 質 を同 じ くして い る こ とが説 か れ てい る。 もちろ ん個 人の場 合 とは異 な り、国 家 にお ける 三分

説(τ ρ慣 α γεvη φDσεωv)は 当時 の 階級社 会 を前 提 と して お り、現代 にお いて プ ラ トンの国家 正 義 をそ

の ま ま当 て はめ る こ とは錯誤 が あ る しナ ンセ ンスで あ る。 しか しプ ラ トンが 考 え た調和 の とれ た魂 とい う

.考えは人 間 にお いて のみ な らず 、国 家 に も当て は ま.るとい う考 え は、正 義が 一個 人 に限 定 され るの で はな

く、 万 入 に当 ては まる客 観性 を有 して い る とい う意 味 で省 み られ るべ き価値 を具 え てい る。 「我 々 が国 家

を建 設す るの にあた って 目標 と して い るの は、 … そ の 中の あ る一つ の 階層 だ けが特 別 に幸福 にな る よ

う に、 とい う ことで は な く、 国 の全 体が で きる だけ幸 福 にな る ように、 とい うこ となの だ。 … われ わ

れは その ような国 家 の中 に こそ、 最 も よ くく正 義 〉 を見出 す こ とが で きる」35)。

ここか ら我 々は プ ラ トン哲 学 で語 られて い る[魂 の育 成 επΨελε1ατη⊆ ΨDXη⊆]が 単 に個人 の 問題 で

はな く、 間主観 的 で客 観 的 な意義 を有 してい る ご とを認 め得 る。 つ ま り魂 の 育成 は私 秘 的 な領域 に限定 さ

れ る ので はな く、社 会全 体 にお い て妥 当す る もの として考 え られ ねば な らぬ の であ る。

またプ ラ トンの教 育論 にお いて は、哲 人王 の教 育課程 が述べ られ てい るの だが 、 プ ラ トンに よれ ば真 の

哲学 者(α ληOtvou⊆)と は 、「真 実 を観 る こ とを愛 す る 人た ち τη⊆ αληθεtα⊆,φ1λoeεαμovo⊆.」361で あ

る。 プ ラ トンは現 象界 の生 成消 滅 にと らわれ ず に、永 遠 に実 在す るイデ ア界 を認 識 で きる よ うにな らなけ

れ ば な らぬ と考 える。 つ ま り魂 の 育成 は単 に現 実 世界 を念 頭 にな され るので は な く、現象 を超越 した世界

に向 けて行 わ れるべ きで ある 。 しか しプラ トンは 同時 に哲 学 者 は イデ ア界 に安 住 しては な らず、現 実 世界

に絶 えず 視野 を向 け なけれ ば な らない と考 えて い る。

我 々は こ こか らプ ラ トン教 育 論 にお い て 「自己 表現」 と 「自己 超越」 とい う二 つ の契機 を取 り出す こ と

が で きる。つ まり育 成 され る魂 は私 的 な もので は な く、社 会的 に万 人 か ら認 知 され得 る 「表 現」 で もある。

また上記 の ように魂 の育 成 は超 越へ の視 点 も併 せ持 って な され る。 ,この よ うな プ ラ トンの魂 の育成 の根 元

には、 「遊 び」 とい う活 動が 存 して い る。

第2節 プ ラ トンの 教 育 論 に み る 「正 義 」 の 起 源

「公共 教育 の 観念 を得 たい と思 うな ら、 プ ラ トンの 『国家編 』 を読 むが い い。 これは書 物 を表題 だけ で

判断 す る人が 考 え てい る よ うな政治 につい ての 著作 で は ない。 い ままで に書 かれ た教 育論 の なか で いち ば

んす ぐれ た もの だ」37)と 、ル ソー(Jean-JacquesRousseau,17124778)を して、 『エ ミール 重mileoude

r6ducation,1762』 の 中 で 語 ら しめ て い る よ う に 、 プ ラ トン の 数 多 い 著 作 の う ち 、 と り わ け 『国 家

HOAITEIA』 と 『法 律NOMOI』 は、教 育 思 想が 最 も整 っ た形 で示 され て い る。 これ らの著 作 の う ち 『国

家』 の執 筆 は、 前3.75年 頃 を中心 と した、 プ ラ トン、50歳 か ら60歳 ころ まで の壮 年 期 に草 された も

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180 藤 田 博 子 田 中 潤 一

ので あ り、 『法律 』 は、前356年 以 降 に書 き始 め られ た晩年 最後 の絶 筆 的大 作 であ る とい われ る。前 者 、

『国家 』 と訳 され、 人 ロに謄 爽 されて い る著作 の題 、πoλ1捌α とい うギ リシ ア語 は 、正確 に は 「市 民 た る

こ と」 「市民 と しての あ り方 」 「政 治体 制 」 とい う意味 で あ るが 、後 に付 され た副 題 が あ り、."nOAITEIA

η περtδtKαtODπOλ慨KO⊆"『 国家 あ る いは正 義 につ いて 政 治的対 話 編』 とな ってい る。 この書 に は、

プ ヲ トンの理想 的国家 構築 の構 想 と 「正義 」(δtKη)探 求 の試論 、 公共教 育 の提 唱が 心血 を注 い で展 開 さ

れ てい る。

プ ラ トンが 『国家』 の 中で探 求 す る[正義]の概 念は 、ヘ シオ ドス(Hσ 己oδo⊆,前9世 紀 頃、生 没 年不 詳)

が 『労働 と暦 日Eρ γαKαlHμ εραt』 の 中で 、最 も重 視 した概 念 で あ った。 ヘ シ オ ドス は常 に 「時宜 に

適 っ た仕 事 εργα ωρα鳳 」 をせ よ。 それ こそ が 「正 義 δtKηで あ る 。」 と説 い て い る。 彼 の 『神 統 記

0εOγOVしα』 に よれ ば、 「ωραtα」 は、農 耕 の時 機 を意味 す る と とも に、 人 間の適齢 を も意 味 す る』もので あ

り、 正義神 ・(δしKαtO⊆)と は、 ゼ ウス神(Zεu⊆)と 正 義 の女神(⑤ εμ1⊆)の 問 に生 まれた[季 節 の女神

た ち Ωρα司 の 一人 で あ る と され て い る。彼 は、 時 機 に適 っ た こ とこそ正 義 で.あり、時宜 の 欠如 の中 で

行 われ る こ と、す な わ ち、[反 時宜 性 παραKαtρtα]は 不 正:なこ とで あ る と し、 正義 の人 とは、 時宜 を

得 た手 順 正 しい労働 に励 む人で あ る と説 くので あ る。彼 の 説 く[時 宜 ωραtα]が 、農耕 に限 らず 、 人 間

の適 時 を も意味 す.ると と もに、 「気遣 い」、 「配慮 」 「関 心 」 を も含 め持 ち1[仕 事 εργov1が 「使 命 」 とい

う意味 を併 せ持 って い る こと を考 える と、そ れ は、育 児 や教 育へ の適 時性:重視 を も含 む普 遍 的真理 を説 く

もの であ る とい え よ う。,

「時機 の獲 得 は したが って 果 実が 熟 して落 ち るの を待 つ とい わ れ る よう に、 む しろ私 た ち は これ を待 た な

けれ ば な らない。 この[待 つ μΨvεtV]こ とは 、決 して消 極 的 な こ とで は ない」(Hes.Qp.630)。 「誰 で あ

れ、 正義 に適 うこ と を弁 え主 張 す るな ら、 その 者 にみ は るかす ゼ ウス は[豊 か な幸(oλ βo⊆).]を 与 え た

ま う」(Hes.Op.280-1)。 ここで語 られ る"oλ βo⊆"と は 、農作 物 の豊 か な稔 りの こ とだ けで は な く、 労働

を適 正 に行 う こ とに よって、 人 々は正 しい もの に成 り得 る とい った[正 義]の 概念 を基本 と しな が ら、育

児、 教育 を も含 む 日常 生 活全般 の規範 の律 を感 得 す る こ とへ の提 唱 であ る とい え よ う。 それ は、適 時性 を

欠 いた教 育 は稔 りを もた らす こ との ない不 正 な もの 、暴 力 に等 しい もので あ る とい う戒 め の言 葉 で あ る。

「ベ ル セ ス よ、 お まえ は この こ とを心 に と どめ るが よい 、そ して今 は正 義(δLKη ⊆).に 耳 を傾 け、暴 力

(β1η⊆)は 完全 に忘 れ るの だ」(Hμ εpαKαtEpγ α 、274-5)。 この戒 め の言 葉 を教 育論 に換言 す る な らば

「時機 に適 っ た教 育 は、神 の 大 い なる祝福 に満 ちた成 果 を もた ら して くれ る正 義 そ の もの で あ るが、 時宜

を得 ない 、未 熟 な うち に行 われ る教 育 は暴 力 に等 しい もので あ って 、時宜 を待 つ とい うこ とは決 して消 極

的 な こ とで は な く、正 義 で あ る。」 とい う こと にな る。 さ らに、勤 労 は、 時宜 に合致 した 正 しい手 順 に よ

って行 われ る こ とが肝 要 で あ る と説 い たヘ シ オ ドス は、 この適 時 を得 るため には、 的確 な洞 察 と予測 とが

要求 され るこ とを併 せ て説 いた ので あ った。 この こ とは、教 育 の根 本原 理 を示唆 してい ない だ ろ うか。教

育 は、子 ど もの発達 の適 時へ の的確 な洞察 と予 測 の もとに行 わ れ なけれ ば な らない ので あ る。 こ のωρ奴tα

(適時)とKαtρo⊆(時 機)、 そ の帰 結で あ るδIKη(正 義)を 、 プ ラ トンは教 育論 の 中で どの ように定義 す

るの であ ろ うか。

第3節 プ ラ トン の 教 育 論 に み る遊 び と人 間 形 成

プ ラ トンは 、 『国家 』 にお い て、 理想 的 国家 の 壮大 な構 築 を構 想 して、 第 一 に哲 学者 が 国家 を統 治 す る

とい う統 治者 の人 間形 成(0し φtλOσOφα βασしλεUσωσWεVτ α1⊆πOλεσIV)に つ い て熱心 に説 くので あ る

が、 第七 巻 にお い て幼 少 年時代 の教 育 の あ り方 につ い て、対 話 の形 式 で次 の.よう.に展 開す る。 「自由 人 に

ふ さわ しい者(ε λεDOερov)は 、 どの ような学 問 を学 ぶ に際 して も、奴 隷的 な状 態(δODλ εtαg)に お い

て学 ぶ とい うこ とが あ って は な らない 。何 故 な ら、.まさに、,これが 肉体 の苦 痛 な ら、 た とえ暴 力(β 乳α)

の苦 痛 で あ って も、 な ん ら悪 い 影響 を及 ぼす よう な こ とは ない けれ ど も、 しか し魂 の場 合 は 、暴 力 的

な(β1αtov)学 習 とい う もの は、 よ り厳 しい 苦痛 が いつ まで も魂 の中 に残 り続 け る に もかか わ らず 、学

習 の 成果 を魂 の中 に残 し続 ける こ とは決 して ない 。(省 略)し た が って 、子 ど もた ち を学 習 させ なが ら

育 て る に際 して は、決 して力ず くで暴 力 的 に行 うの では な く、 む しろ、 自由 に遊 ばせ なが ら行 わな けれ ば

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遊びに よる人間形成 181

な らな い」 【536E-537A】381。

こ こで提唱 され る 「子 ど もの学 習 は無 理 に強 い るの で はな く、 自由 な遊 び を通 して」 とい う主張 は、 ヘ

シオ ドス の ωρα1α(適 時〉、Kαtρ0⊆(時 機)、 δ1Kη(正 義)の テ ーゼ であ る。 ギ リシ アの言 葉 にお いて は、

[子 ど も πα1⊆]'と[遊 び πα1δ1α]と[教 育 πα1δεtα]は 姻 戚 関係 にあ る 。子 ども(π αこ⊆)の 教育 、

い わゆ る人 間形 成(π α1δε覧α)は 、遊 び を(π α{δ1α)通 して行 わ れ なけ れば な らな いの であ る6そ の こ

とが 「正 し さ δ1Kη」 の基 本 な ので あ る。

自由 な人 問 は、 いか な る学 問 であ っ て も、 自由人 にふ さわ し く、 自由 な遊 び を通 して教育 され なけ れば

な らな い。 それが 身 体 の労苦 の場 合 な らそ れ ほ ど悪 影響 が与 え られる こ とは無 い か も しれ ない が、 魂 の育

成 の 場合 には、 それ は暴 力 に等 しい 痛手 を被 るこ とに な ろ う。適 時 性 を欠 いた教 育 は暴 力 に等 し く不正 な

もの とな るの であ る。 「今 は正義 に耳 を傾 け 、暴 力 は一 切 忘 れ去 る のだ」 とい う、 ヘ シ オ ドスの 言葉 が 万

金 の 重 み を もって 迫 る。 プ ラ トンの 目指す 理 想 的国 家 の理 念 、 「正 義 」 に則 ρ た教 育 の方 法 こそ が 、遊 び

に よる人 間形 成 の提 唱 なので あ る。 その 方法 を貫 く、適 時 と時機 、 そ れ につ い て、 プ ラ トンは次 の よう に

提 唱 す る。 「私 た ちの 国 の子 ど もた ちは、 早 くか らで き るだ け法 に よ って定 め られ た 、合 法 的 な方 向の遊

び に加 わ らなけ れ ばな らな い。遊 びが法 に反 した性 格の もので あ るた め に、 子 どもた ちが その性 格 に 同化

され る な らば、大 人 に成長 してか ら法 を守 る立派 な 入間 にな る こ とは不 可 能で あ ろ うか ら」。

してみ れ ば、子 ど もた ちの遊 びが最 初 か ら精 神 的 に美 し く、正 し く、立派 な(Kα λω⊆)も の であ って、

音 楽 ・文 芸 を通 じて 良 き秩序 と法 を自分 た ちの 中 に受 け入 れた場 合 に は、 い ま言 った場 合 とまった く反対

に、 その 良 き秩序 と法 は、何 事 につ けて も彼 らか ら離 れ る こ とな く成長 し、 も しそ れ まで に国 の何 かが堕

落 して倒 れ てい る な らば、 そ れ を元 通 りに真 直 ぐに建 て直す こ とだろ う」[424E-425A]39)。 「子 ど もの と き

か ら直 ち に立 派 で美 しい こ との なかで 遊 び(π α1ζ01εVKα λ01⊆)、す べ て立 派 で美 しい励 み を追 求す る

(επ且τηδεuo1)の で なけ れば 、けっ して す ぐれた 人物(α 川 ρ αγαOo⊆)と はな らないで あ ろ う」[558B】40>。

プ ラ トンは、 子 どもの適 時 と時機 に適 った 自発 的 な表現 と して の美 しい遊 びの 中で 、遊 びそ の もの を励 み

追 求 す る こと こそ 、子 ど もの魂 を美 し く育み 、す ぐれた 人 間形成 をめ ざす手 段 であ る と説 くので あ る。 こ

の こ とは 、個 人の 人格 の 形成 への 指標 で あ る と ともに、 自己 を超 越 した す ぐれ た国 民の 育成 とい う指標 で

もあ る。

第4章 結語

プラ トンの遊 び によ る人間 形成論 は、 新 プ ラ トン主義 、 ルネサ ンスの 人文 主義 を経 て、 ドイッ ・ロマ ン

主 義 の教育 思想 家 た ち に手 渡 され る こ とに なるの で あ るが、 と りわ け、 フ レーベ ル の教 育思 想 の中 に色 濃

く反 映 され てい る とい え よう。 プ ラ トンは、 『法律 』 の 中 で 「この年 頃 の子 ど も(三 歳 、 四歳 、五 歳)た

ち にと って、遊 びは 自然発 生 的 な もので あ り、彼 らは集 まる と、 た いて い 自分 た ちで遊 び を発 明 す る もの

で す」[794A]41)と 、 子 ど もの 自発 的 な遊 戯 衝動 につ い て語 っ てい るが 、 フ レーベ ル も 『人 間の教 育 』 の

中で 「この時期 の 子 ど もの遊 び には大 変深 い 意味 が あ る。遊 び は この期 にお ける子 ど もの最 も純 粋 な精神

的 生 産で あ る。 遊 び はそ れ 自身 に おい て 喜 びで あ り、 自由で あ り満足 で あ る。 子 ど もの どの よう な遊

び も、全生 涯 のい わ ば子葉 で あ る。遊 びの 中に は、全 人 の最:も清 らか な素質 や その 最内 奥 の精神 が発 揮 さ

れ 示 され てい る」 と述 べ てい る。 とこ ろで フ レーベ ルが 『母 の歌 と愛 撫 の歌 』 の うち扉 に 「子 どもの遊 び

には い と高 い 意味 が あ る」 とい う シラー の詩 句 を冠 した ことは周 知 の と ころで あ る。 フ レーベ ルは シ ラー

を熱狂 的 に愛好 した のだ が、我 々は フ レーベ ル教 育思 想 が シ ラー を超 えた可 能性 を内包 してい た こ とを認

め得 るだ ろ う。 フ レーベ ル は、 「遊 戯 衝動 」(Spieltdeb)や 「創 造衝 動 」(Bildungstdeb)仁 つ い て独 自の考

え を表 明 して いた が 、 これ らは近 年 の近代 美学 批 判 に も耐 え得 る可 能性 を有 してい る。 プラ トン教 育論 に

お い て は、魂 の 育成 は単 に個 人 の育 成 で はな く、 国 家 を担 う人 間 の育 成 とい う公的 な意味 を持 って い た。

また フ レーベ ル教 育論 におい て は、遊 び は単 に子 ど もに狭隆 化 され る活 動で は な く、成 人 して か らの社 会

活動 に繋が る概 念 で あ り、 これ は労作 とい う大 きな意 味 を持 っ てい る。 いず れ も教 育が 公的 な意 味 を有 し

て お り、 「自己表 現」 とい う問主 観 的 な意味 を持 っ てい た。 また プ ラ トン教 育論 にお いて は魂 は現 実 界 に

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182 藤 田 博 子 田 中 潤

とど まらず イデ ア界 を 目指 し、 フ レーベ ル教育 論 におい ては神 的 本性 の 自覚化 とい う 目標 が あ った とい う

こ とか ら、 「自己超 越」 とい う意 義 が見 られ る。我 々は こ こか ら 「遊 び」 が主 観 に狭 阻 化 され ず問 主観 的

な活動 で あ り、現 実世 界 にお け る人 間形 成 を担 う もの であ る こ とを認め 得 るで あ ろ う。

<注>

1)前 田 博 『美 的 教 育 論 』pp.14-15東 信 堂1995年

2)前 田博 前 掲 書 、p.15

3)Gadamer,Hans-Georg。,W曲rheitundMelhωe,inGesa㎜el竃eWerkeBd.1,TUbing6n,1990,S.117.

4)Gadamer,Hans-Georg.,ibid.,S.118.

5)Gadamer,Hans-Georg,,ibid.,S.107.

6)Gadamer,Hans-Georg.,ibid.,S.109.

7)Gadamer,Hans-Georg.,ibid.,S.109.

8)Gadamer,Hans-Georg.,ibid.,S.112.

9)シ ラ ー 著 、 安 部 能 成 ・高 橋 健 二 訳 『美 的 教 育 論 』p,169岩 波 書 店 量942年

10)前 田博 、 前 掲 書 、p」6

11)Gadamer;Hans-Georg.,ibid.,S.113.

12)Gadamer,Hans-Georg.,孟bid.,S.131.

13)Gadamer,Hans-Georg.,ibid.,S.114.

14)フ レ ー ベ ル 著 荒 井 武 訳 『人 間 の 教 育(上)』p.71岩 波 文 庫1997年

15)フ レ ー ベ ル 著 『人 間 の 教 育(上 〉邊p.71

16)フ レ ー ベ ル 前 掲 書p51

17)フ レ ー ベ ル 前 掲 書p.51

18)フ レ ー ベ ル 前 掲 書p.55

19)ボ ル ノ ウ 著 岡 本 英 明 訳 『フ レ ー ベ ル の 教 育 学 』p.59理 想 社 、1973年

20)ボ ル ノ ウ 前 掲 書p.60

21)ボ ル ノ ウ 前 掲 書p.63

22)フ レ ー ベ ル 著 、 荘 司 雅 子 訳 『幼 稚 園 教 育 学 』(『 フ レ ー ベ ル 全 集 第 四 巻 』)p.268

玉 川 大 学 出 版 部 、 昭 和56年 第1刷 ・平 成3年 第4刷 、1991年

23)フ レ ー ベ ル著 『人 間 の 教 育(上)』p.60

24)フ レ ー ベ ル 前 掲 書p.46

25)ボ ル ノ ウ著 『フ レ ー ベ ル の 教 育 学 』pJ5L

26)フ レ ー ベ ル 著 、 荒 井 武 訳 『人 間 の 教 育(上)』p.71岩 波 文 庫1995年

27)フ レ ー ベ ル 前 掲 書p.149

28)フ レ ー ベ ル 前 掲 書p.212

29)フ レ ー ベ ル 前 掲 書p,220

30)フ レ ー ベ ル 前 掲 書p.213

3董)P1.resp.376E.(邦 訳 は 『プ ラ ト ン全 集11』 藤 沢 令 夫 訳 、 岩 波 書 店 、1976年 を 参 照)。

32)ibid401D-E

33)ibid410B

34)ibid435B

35)ibid420B

36)ibid475B

37)JeanJacquesRousseau,鯛Emi且eoude1'educaIion鱒

『エ ミ ー ル(上 〉』 今 野 一 雄 訳P.29岩 波 文 庫1990年

38)PLResp536E-537A

39)ibid424E425A』

40)ibid558B

41)PIJLeg.794A

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遊 びによる人間形成 183

AstudyofHuman-formation.byth母COnceptof.

"pl紐y":lnductionfromFr6beltoPlato

FUJITAHiroko TANAKAJunichi

ThispaperaimstoexaminetherelaUonshipbetweenplayandhuman一 鉤 ㎜ation.EspeciallyF甫bersand

Plato圏s.thoughtisfbcusedon玩.First,theconcepゼ'plaジis爬 一examined.Playisnotaactivityintheimagination

,butaactivityintherealworld.G.adamer.criticizedtheconceptof"plaジi血modemesthetics.Gadamernewly

presentsthattheconceptof'「plaジlncludesself-expressionandselnranscendence.Thispaper'saimisto阜mde憲take

Gadamer'scr孟ticismandnewlygiveadef蓋nitionoftheconcepビplaジ.Sosecondly,itisexaminedthatastandpoint

of"self-expression「'and"self-transcendence"isestablishe(1inFr6bersandPlato「sthoughしInFr6bersthoughtr

play(SpieDconstitutenotohlychi亜d'sactivity,buta蓋so母dult'activity,Arbeit(work)istheactivityinwh童chone's

innerlif6is.Mancanexpresshisinnerlif6byworking.SoArbgit(work)istheexpressionofman「sspidtandplay

fb㎜sthestructureofArbeiしBesideman'sworkincludesGω'senergy.SolnArbeit,§el卜transcendenceisalso

recognized.InPlato'sthought,educ3tionmeanstoextendindividualtalenしAUhesametime,Plato'sthoughtmeans

tocultivatecitizenship.Histhoughtincludesnbtonlyprivateissue,butalsopub蓋icissue.One'ssoulshallbe

consideredfrom-aninter-su切ectivestandpoint.Inas6nse,onemustexpresscommonjustic夢,whichhasvaHdityto

everyone.Moreover,Plaω'sthoughtabou巨deameansself-transcendence.SowecanrecognizethatFr6belandPlato

havecommonthought。

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