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Title <論説>マレーシア・サラワク州における環境改変と「環 境問題」 (特集 : 環境) Author(s) 祖田, 亮次 Citation 史林 (2009), 92(1): 130-160 Issue Date 2009-01-31 URL https://doi.org/10.14989/shirin_92_130 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」 (特集 : 環境)

    Author(s) 祖田, 亮次

    Citation 史林 (2009), 92(1): 130-160

    Issue Date 2009-01-31

    URL https://doi.org/10.14989/shirin_92_130

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • マレーシア

    0

    サラワク州における環境改変と「環境問題」

    ユ30 (130)

    【要約】 ボルネオ島北西部に位置するマレーシア・サラワク州では、二〇世紀を通じて大規模な環境改変が行われてきた。本稿で

    は、二〇世紀前半~半ばの小農によるゴムの植栽ブーム、一九六〇年代~二〇世紀末の商業的木材伐採、一九九〇年代~現在のプ

    ランテーションおよび商業植林という環境改変の歴史とその問題点を、土地利用・土地行政の観点から概観する。その上で、一九

    八○年代末から九〇年代初頭にかけて、サラワクの森林破壊が世界的なメディアによって紹介され、地球規模の環境問題として頻

    繁に取り上げられながらも、その後、現場レベルにおける土地問題が終息に向かわないまま、世界的な甲屋を失った背景について

    考察を行う。                                   史林九二巻一号 二〇〇九年[月

    は じ め に

    ボルネオ島北西部に位置するマレーシア・サラワク州(以下、サラワク)は、一九八○年代後半に、商業的木材伐採によ

    る森林破壊の最前線として欧米や日本のマスメディアによって報道され、世界中に「環境問題」を喚起する象徴的存在と

    なった。ところが、一九九〇年代後半以降は、世界各地でさまざまな「環境問題」が顕在化したこともあり、サラワクに

    おける森林破壊が与えるインパクトは相対的に弱くなったように思われる。

  •  サラワクにおける大規模な環境改変のプロセスは、実際には二〇世紀初頭から始まっている。また、報道が少なくなっ

    た一九九〇年代後半以降も、木材伐採に変わる形での森林開発が加速しており、環境をめぐる問題は終息したわけではな

    い。本稿では、二〇世紀初頭から現在までのサラワクにおける環境改変の歴史を、土地利用・土地行政の観点から概観し

    た上で、一九八○年代末から九〇年代初頭にかけて一時的に世界の注目を浴びながらも、問題の本質が解決されないまま、

    その注目を失っていった背景と意味について考察する。

    サラワクの環境改変前史

    マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

     サラワクは、東南アジアの他の植民地と比較すると異色の歴史的背景を持つ。~九世紀前半までボルネオ島北西部にお

    ける支配権を持っていたのはブルネイのスルタンであったが、度重なる土候の反乱に手を焼いて、イギリス人の冒険家ジ

    ェームズ・ブルックに内乱平定を依頼した。それが成功した見返りとして、現在の州都クチン市付近の土地がブルックに

    譲渡された。こうして、一八四一年にサラワクで初めての白人王(ラジャ)となったブルックは、その後、先住民との戦

    争およびブルネイ・スルタンとの交渉を繰り返す中で領土を拡大していき、}九〇五年に現在のサラワク州の領域を得る

    に至った。

     ジェームズをはじめとするブルック家三代によるサラワク支配は、第二次世界大戦中の日本占領期を含めて一〇〇年以

    上にわたったが、あくまでも個人の植民地であったという点に大きな特徴があった。しかし、第二次世界大戦が終了した

    直後の一九四六年、第三代ラジャのヴァイナi・ブルックはその支配権を手放し、サラワクはイギリスの直轄植民地とな

    った。その後、一九六三年にイギリスから独立したサラワクは、マレーシア連邦に加盟して、行政的にはマレーシア・サ

               ①

    ラワク州となった(図一参照)。

     このような植民地の歴史を持つサラワクだが、東南アジアの山地民や焼畑罠の多くがそうであったように、植民地化さ

    131 (ユ31)

  • ノ China r

                          侮

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       LaoS

    図1 マレーシア・サラワク州の位置

    Myanmar

         9

    8σ6 ㌔

    「、

    かも

    O 500 1000km

    れるはるか以前から、交易を通じた外部社会との関係

         ②

    を持っていた。一八~一九世紀の交易において、サラ

    ワクの内陸先住民にとって最も重要な位置を占めてい

    たのは、非木材森林産物であった。十九世紀当時すで

    に交易の島と呼ばれていたボルネオでは、内陸先住民

    と、華人やマレー人、ブギス人などの商人とのあいだ

    で、すでに物々交換あるいは現金との交換が頻繁に行

    われており、内陸先住民は、一般に考えられているほ

    ど孤立した社会に生きていたわけではない。ただ、ブ

    ルックの到来が、そうした森林産物の輸出に拍車をか

    けたということは確かであろう。

     たとえば一九世紀後半の段階で、サラワクの官報に

    は、輸出目的の採集による特定森林産物の枯渇を懸念

               ③

    する報告も掲載されており、その意味では、ある種の

    「環境問題」が浮上していたと考えることもできる。し

    かし、それは、特定地域における特定森林産物の問題

    であり、きわめて局地的で限定的な「環境問題」であ

    ったと考えてよいであろう。ボルネオの先住民は、基

    本的には、熱帯雨林のバイオマスの高さに依存した形

    132 (132)

  • マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

    で資源収奪的な土地利用を行い、特定領域における資源が枯渇したり、土地が脆弱になったりした場合は、新たな場所を

                              ④

    求めて移動を繰り返してきたという歴史を持つ。市川が言うように、森林から特定産物を採集する活動は、従来の先住民

    の森林利用を踏襲するものであり、そうした生業の歴史を考えれば、局地的な環境の変化は、ボルネオ全体あるいはサラ

    ワク全体としては、特に大きな問題になったとは考えにくい。少なくとも、限定的な森林産物の採集が、森林景観そのも

    のを大きく変化させるということはなかった。

     ところが、二〇世紀に入り、各種商品作物の導入が進むにつれて、大規模な森林環境の改変が見られるようになる。以

    下では、二〇世紀以降の、環境改変と呼びうる大規模な森林景観の変化を概観する。具体的には、ゴムの植栽(第二章)、

    木材伐採(第三章)、オイルパーム・プランテーションとアカシア植林(第四章)といった人為的な環境改変である。そし

    て、第五章において、それらが「環境問題」として認知されるに至った経緯について、マクロ的な視点から考察する。

    ①マレ…シア連邦全体の面積は、三十三・○万平方キロメートルで、

     日本の国土面積のおよそ八七%である。マレーシアは、半島部(マ

     レー半島)と島転部(ボルネオ島)に二分される国土を持つ。そのう

     ちサラワク州は、ボルネオ島の北西部に位置し、一二・四万平方キロ

     メートルの面積を占め、マレーシア国内で最大の州である。これは、

     半島部全体の諏積(一三・二万平方キロメ…トル)に匹敵する広さで

     もある。サラワクの先住民としては、二〇以上のエスニック集団が存

     在するといわれる。そのうち最大多数はイバン人で、サラワクの総人

     口二〇七万一千五〇今入の約二九・一%を占め、ついで華入(二五・

     九%)、マレー人(二二・三%)、ビダユ人(八・○%)、ムラナウ人

     (五・五%)といったエスニック集団が続く。

    ②ボルネオ北西部の現地住民と華人との交易の歴史は紀元前にまで遡

     るとさえ琶われている。ボルネオをめぐる交易の歴史については、次

     の文献を参照。↓品蕾8NNρ国■鱒OO90馨。チ①8餌ω冨。⇒傷葺Qひ。

     h9①ω量鑓巨{ざ塾8ωo{チΦ○油墨欝号象簿①Φ8一〇αq一。紘鉱6。εqo{

     き答7語雪ゆ。ヨΦρ89一800団.H昌芝巴一Φざ即r巴‘§琳。譜恥駄

     馬書じロミ謹s§ミ、・§ミ馬、ド串O⑩.

    ③勺。竃さピ』08.O。ヨヨa圃受餌巳①遷ぎ目羅馨ぎ8一。巳巴bヴ。旨①g

     oooき巳。毒冨①獄9Φ。。[。o霧Φ『く巴。器p裁oop8旨{oHoo房2く聾op

     }。。ざ∴逡ρぎ≦感興2幻■い■。ら・ミ隔§蛍駄§ヒロ§Ns§鼠ミ§§昏

     一〇りIHωω.

    ④市川昌広、二〇〇八、うつろいゆくサラワクの森の一〇〇年一多

     様な資源利用の単純化、秋道智彌・市川晶広編『東南アジアの森に何

     が起こっているか一熱帯竪林とモンスーン林からの報告㎞人文書院、

     四五一六四頁。

    133 (133)

  • ニ ゴムの普及と先住民社会

    (一

    j サラワクにおけるゴムの導入

     東南アジアは二〇世紀を通じて、世界のゴム生産の中心であった。一九九〇年代半ばの時点で、東南アジア全体では約

                         ①

    一九〇万ヘクタールにゴムの木が植えられており、このうち、サラワクだけでも約二三万ヘクタールのゴム面積を有して

     ②

    いた。

     東南アジアのゴム栽培の歴史は一九世紀末にさかのぼる。それは、アメリカにおいて自動車産業が急成長した時期とも

    重なり、タイヤ需要の拡大が東南アジアにおけるゴムの普及に拍車をかけた。サラワクにおいても、マレー半島にやや遅

                                    ③

    れて一九〇五年にゴムが導入されて以降、その面積は徐々に拡大していった。ここにおいて、サラワクにおける大規模な

    人為的環境改変の歴史が始まったと考えて差し支えないだろう。

     しかし、サラワクにおけるゴム園拡大の最大の特徴は、小農(その多くは内陸焼畑先住民)による小規模栽培が中心とな

    っていたことである。当時サラワクを支配していたブルック政府は、ヨーロッパからの資本の流入を警戒し、大規模なプ

                       ④                              ⑤

    ランテーションの造成を厳しく制限していた。その~方で、焼畑を中心的な生業としてきた内陸先住民が、キリスト教会

    や農業局からの補助を受けてゴム栽培を始めるようになった。また、華人が経営するゴム園で自然発芽した苗木を無料で

                              ⑥

    もらい受けて、自分の土地に移植することも少なくなかった。

     このように、サラワクでは、内陸で焼畑を営む先住民によってゴムの植栽・生産が拡大していったが、このことは、内

    陸先住民の生活変化の面で、いくつかの重要な意昧を持っていた。

    134 (134)

  • (二) ゴムをめぐる社会関係

    マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問・題」(祖田)

     サラワクにおけるゴム生産は、焼畑を中心的な生業とする内陸先住民によって行われた。彼らにとって、二〇世紀初頭

    以降、ゴムが最も重要な商品作物であり現金収入源となったことは間違いないが、それは逆に言えば、ゴムの国際価格の

    変動が内陸先住民の生活に直接的に影響することをも意味した。一九二〇~三〇年代においては、世界的なゴム・ブーム

                                          ⑦

    の中で、年によっては供給過剰に陥ることも多く、しばしば国際的な生産調整が行われた。サラワクにおいても、国際協

    定を受けて、ブルック政府が先住民のゴム生産を厳しくコントロールした時期があったことを、古老たちは記憶している。

    また、ゴムの市場価格が高騰した時期には、稲作を中断してまでゴムの樹液採取に明け暮れる人々もいたが、価格が急落

             ⑧

    することも頻繁にあり、ゴム生産から得られる現金収入に頼って主食のコメを作っていなかった先住民たちが、結果とし

    て貧困に苦しむという事態もしばしば起こっていた。

     ゴム栽培は、内陸先住民にとって、社会的な意味でも変化をもたらすものであった。それは、町の華人商店主と内陸先

    住民とのあいだのパトロンークライアント関係の成立である。先住民が生産するゴムは、多くの場合、近隣の町の華人商

    店が買い取ってきた。

     サラワクでは、人ロ千人にも満たない内陸の小さな町でさえ、華人経営の雑貨店がいくつも存在している。そこでは、

    石鹸や缶詰、調味料、乾燥食品、農薬、肥料、タバコ、大工道具など、B常生活で必要な商品の大部分がそろっている。

    このような雑貨店が小さな町にいくつも存在しており、扱っている商品もほとんど同じで、なおかつ、どの店もゴムの取

    引を行っている。サラワクの内陸の町を初めて訪れた人の多くは、なぜ同じ業態の小規模な店舗が潰れることなくいくつ

    も存在していられるのかという疑問を持つであろう。その背景には、二〇世紀前半に華人と先住民とのあいだに築かれた

    パトロンークライアント関係がある。

    ユ35 (135)

  •  先住民たちが町で買い物をするとき、あるいはゴムをはじめとする農産物を売却するときには、特定の店での売買を決

    めている場合が多い。それは、華入商人による「掛け売り」のルール(「ツケ」の容認)が存在しているからである。かつ

    て、現金収入の限られていた先住民は、町でコーヒーや砂糖、塩などの日用品を買うにも十分な現金を持ち合わせていな

    い場合が多かった。そこで商店主は、「ツケ」による商品購入を許容する代わりに、彼らの生産するゴムをその店以外で

    は売らない、何かを買う場合も他の店には行かない、という約束をさせたのである。こうして、多くの先住民は、商品の

    代金を後日ゴムで返すというシステムに組み込まれていくことになった。ある華人商店主は、「先住民を絹手に商売を始

                               ⑨

    める場合に、現金なんて必要ない」とさえ語っていたのである。

     こうして先住民たちは、「ツケ」による日用品購入と、借金返済としてのゴムの持ち込みというサイクルの中で、町の

    特定の華人商店に縛られることになり、その関係は世代を超えて受け継がれることになった。商店主だちのあいだでは、

    それぞれの「顧客」の奪い合いをしないという暗黙のルールがあった。また、町に降りてきた自分の「顧客」には時々食

    事を出したり、日帰りで帰れない人たちには夜の軒下を提供したりして、先住罠たちとの個人的関係の維持にも配慮して

    いた。こうして華人商店主だちは、=疋の「顧客」を確保し、その関係を維持することで、いくつもの雑貨店が小さな町

    で共存できる仕組みを作り上げていったのである。つまりゴムは、華人商店主に対する、内陸先住民の緩やかな従属性を

    もたらす契機となったのである。こうした傾向は、現金での取引が盛んになると同時に薄れてきたが、多くの先住民は、

    現在でも行きつけの雑貨店というものをもっており、掛け売りや農産物取引の関係を維持している。

     移動式焼畑農業を基本的生業としてきたサラワクの内陸先住民たちは、植昆地髪以前は、十年~数十年単位での集落移

    転を頻繁に繰り返してきた。しかし、ブルック政府による移住の制限に加え、ゴムという永年性の商品作物の導入によっ

    て、特定の土地に執着する形での永住生活へと移行していくことになった。それと同時に、町の華人商人との世代を超え

    た関係が構築され、そのことも先住民の移動を抑制する重要な要素として働いたのである。

    136 (136)

  • (三) 放置されるゴム

    マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

     サラワクの内陸先住民の多くは、古くから焼畑による陸稲栽培を行ってきた。ゴムの導入は彼らの生活に大きな変化を

    もたらしたが、焼畑を完全に放棄するということはなかった。むしろ、焼畑のサイクルの中に、ゴムの栽培・生産がうま

    く取り入れられたといえる。東南アジア島撰部の小農によるゴム栽培は、多くの場合、いわゆる移動式焼畑農業と}体化

                     ⑩                     ⑪

    したものとして成立していたとされるが、サラワクにおいてもそれは該当した。サラワクで通常の焼畑を行う場合、十分

    に休閑期間をおいた二次林を開き、陸稲栽培に一~ニシーズン利用した後は、数年から数十年放置して植生の圓復を待つ。

    しかし、先住民のあいだにゴムが浸透してからは、陸稲の収穫が終わった焼畑跡地(休閑地)に次々とゴムが植えられて

    いったのである。こうした動きがもっとも活発化したのは、朝鮮戦争によって需要が拡大した一九五〇年代初頭であった

    が、この時期以降も一九九〇年代後半まで、サラワクにおけるゴム園の面積は緩やかな拡大を続けた。

     先述のとおり、これまで、世界のゴム生産・輸出の大半は東南アジア諸国が担ってきたが、一九九〇年代半ばの時点で

    は、策南アジア全体におけるゴムの植栽面積(約}九〇万ヘクタール)のうち、サラワクのゴム園が一〇パーセント以上

    (約二三万ヘクタール)を占めていた。ところが、生産量でいえば、サラワクのシェアはわずか一パーセントにも満たない

    状態が続いてきた。つまり、サラワクは、その広大な植栽面積に比して、きわめて低い生産性しかもっていなかったとい

    うことになる。実際、サラワクには、先住民が植えたゴム園のうち、何十年ものあいだ、一度も樹液採取されたことのな

    いゴム園がかなりの広さで存在している。村の農業労働人口を考えても、明らかに過剰なゴム園が広がっていることが多

    い。このアンバランスは、何を意味するのだろうか。

     実は、サラワクにおけるゴム園の拡大は、先住民の土地保有認識とも関係していた。焼畑跡地にゴムを植えることは、

    自分の土地の境界を明示するという効果をも持っていたのである。たとえば、焼畑に利用した土地を休閑させて十数年が

    137 (137)

  • 経過すると、二次林が成長し、隣接する他人の土地(休閑二次林)との境界があいまいになる。そうすると、気づかない

    うちに境界を越えて、他人が新たな焼畑地を開いてしまうということも起こりうる。ゴムを植えることは、副次的に自分

    の土地の範囲を主張し、他人の侵入から守ることにもつながつたのである。測量も登記もなされていない内陸の地におい

    て、土地に対する記憶を保持する手段としてゴムが利用されたといえるだろう。

     こうして、既存のゴム園の広さや、ゴム市場価格の状況とは無関係に、焼畑を行った後にゴムを植えるという作業が、

    二〇世紀半ば以降、先住民のあいだで一般的なことなっていった。朝鮮戦争特需を背景とする一九五〇年代のゴム・ブー

    ムが過ぎ、六〇年代初頭の合成ゴムの出現により、天然ゴムの価格はいっそう下落したが、そうした時期においてもサラ

    ワクのゴム園面積は拡大を続け、内陸の遥々で過剰なゴム園が存在することになった。先住民のあいだでは「ゴムはコメ

    を追いかける」という表現も使われ、二〇世紀を通じて、焼畑に利用された土地の多くは、ゴム園に変貌していったので

    ある。

     ゴムは永年性の樹木で、それほど手入れをせずに放置しておいても、いつでも樹液採取を再開することが出来る。こう

    した特長から・ゴム園を「ゴム銀行」と呼ぶこともあ勧・先住民たちは・市場価格が良くなれば樹液採取に精を出し・悪

    くなればゴムは放置したまま、他の労働に時間を割くという形で、都合よくゴム園を利用することができた。そして、放

    置されたゴム園は、下草や低木が育って馨そうとした雰囲気を持っているため、「ゴム林」とでも呼ぶほうが適切だとい

         ⑬

    う指摘もある。つまり、サラワクにおけるゴムの面積は、生産面積ではなく、放置された「ゴム林」の面積がかなりの部

    分を占めているのである。

     ゴムは、サラワクにおける緩やかではあるが大規模な環境改変のきっかけを作った。しかし、そうしたゴム植栽による

    環境改変は、その面積の大きさにもかかわらず、今旦一琴つところの「環境問題」を引き起こすものではなかった。サラワ

    クでのゴム栽培は小農(内陸先住民)によるものが中心で、焼畑跡地にパッチ状に広がっていった「ゴム林」は、単一植

    138 (ユ38)

  • マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

    物で面的に土地を覆ってしまうようなプランテーションとは、根本的に異なる景観を作り出していたのである。また、市

    場価格の変動に翻弄されたりすることはあっても、「ゴム銀行」は次の価格回復まで放置しておけばよかった。土地に対

    する権利主張という点を考慮すれば、放置しておくだけでも重要な意味を持っていた。そして、このように放置され林地

    化したゴム園は、各種動植物の生息地となり、狩猟や採集も行われるなど、ある意味では休閑二次林に近い重要な機能を

    果たすことさえあったのである。

     ①阿部健一、一九九七、ゴム林の拡大、京都大学東南アジア研究セン

      ター編『事典東南アジアー風土・生態・環境㎞弘文堂、三三ニー三

      一二三頁。

     ②UΦ冨詳留馨。{ω[蝕巴。ψ冒ω費睾界卜⊃OOρ寄ミぽ幕駄§翫ミ窮

      象藝竃§穿菖』§「冨⑦暑hω雪ω葺ω飴「塁貯

     ③サラワク全土のゴム園面積について、一九五〇年代以前の信頼でき

      るデータはないが、一九六〇年には、すでに一四・五葉ヘクタールの

      面積があったことが、農業局の資料で確認できる。その後、一九七二

      年に~九・三蓋ヘクタール、八二年に二〇・四万ヘクタール、九四年に

      二二・七万ヘクタールと、~貫して増加してきたが、一九九〇年代後

      半以降は漸減傾向にある。なお、ここ数年の原抽価格の高騰によって

      合成ゴムの緬格が上がっているため、天然ゴムに対する需要が再び高

      まっている。たとえば、一九九六年時点で一キログラムあたり7二

      ~7七リンギット程度(五〇円前後)であったサラワクのゴム価格

      が、二〇〇七年末の時点では五・五~六・五リンギット(二〇〇円前

      後)となっている。

     ④石川登、一九九七、境界の社会史ーボルネオ西部国境地帯とゴ

      ム・ブ…ム、民族学研究六一一四、五八五-六一五頁。

     ⑤サラワクの内陸焼畑民を先住民と呼んでよいかどうかは議論の余地

      があるが、ここではサラワク州の法律等で使用される雷口く①という

     諾に対して、便宜的に先住民という言葉を使う。

    ⑥華人にとっても、落下した種子から自然発芽したゴムの若木を抜く

     ことは農園整備上重要な作業だったが、そうした若木を先住民が抜い

     て持ち帰ってくれることで、農園整備作業の手間が省けて歓迎すべき

     ことであったという。ωoαρ即卜。OO圃.審魯紺§き恥ミ。竃」ミミN褻さミ四

     討ミミ翫。誠§象ミ鑓寒.丙団。浄。き住竃㊦旨。霞器H囚《08dぼく曾5・一曙

     勺お。励ω四p傷↓鑓拐℃鷲一{ざ勺お。。。。■

    ⑦前掲・石川( 九九七)。祖田亮次、一九九九、サラワク・イバン

     人社会における私的土地所有観念の形成、人文地理五一-四、三二九

     一三五一頁。

    ⑧前掲・祖困(一九九九)。

    ⑨田黛g即ρおお.さ、さ起静§。§¢§9ミ防貼ら§ミ§昼註しロミ・

     ミ9d⇒冨窪目げω傷℃劉U.偶一ωω鐙耳ざ類(d嫁くΦ邑浄鴫。{℃雪霧凱く磐一帥).

    ⑩じd仁。ま~06民事島醇邑p梓。.δ。。坤穿Φ窪ぴげ⑳ニヨ既一ぎ罷Φ噌Φ8-

     ぎヨざbσミミ討駄冒さ、N跨馬§肉§No註ら勲§禽一〇。”c。①-=P

    ⑪前掲・祖田(一九九九)。

    ⑫Oo象Φρ≦図.6㎝艀.§恥貯、ミbδ寒硫ミ象ミ§沖田琴ぼ昌σq“国⑦同

     ζa霧受、ωω翼δ器蔓○黙8.

    ⑬前掲・阿部(一九九七)。

    !39 (139)

  • 三 商業的木材伐採と土地・森林行政

    (ご 「環境問題」の顕在化

     サラワクにおける環境破壊としては、熱帯雨林における商業的木材伐採のイメージが強い。実際、サラワクにおいて、

    いわゆる「環境問題」が顕在化するのは、商業的木材伐採が各国のメディアを通じて世界に紹介されるようになってから

    であった。

     先述のとおり、ボルネオは古くから交易の島と呼ばれており、木材の伐採と輸出の歴史も長い。とくに~九世紀後半に

                                           ①

    は、インドにおける鉄道の枕木の材料として、相当量のボルネオ盤木が輸出されていたという。また、二〇世紀前半の段

    階でも、主要河川下流域の湿地林において、各種の木材が伐採されていた。そうした伐採現場で賃金労働を体験した先住

    民も少なくない。しかし、当時はチェーンソーも普及しておらず、また湿地帯では林道建設もままならないため、基本的

    に人力での伐採・運搬作業が中心であった。こうした湿地林での伐採に代わって、一九六〇年代以降は、主に内陸山間部

    で重機を用いた伐採が行われるようになり、本格的な商業的木材伐採の時代に入った。

     こうした「伐採の時代」への移行は、サラワクのイギリスからの「独立」、およびマレーシア連邦への加盟(一九六三

    年)時期と重なる。第二次世界大戦までのブルック時代は、欧米企業によるサラワクの森林開発は抑制され、戦後のイギ

    リス直轄統治時代は、近い将来独立させるべき、経済的価値の低い辺境植民地とみなされていた。それが、マレーシア連

    邦への加盟を契機に、サラワクの森は外貨獲得のための資源として重要視され、州政府主導の森林開発が活発化した。そ

    の意味で、サラワクの独立とマレーシア連邦への加盟は、サラワクの森林空間の政治化を促すことにもなった。

     さらに、サラワクがマレーシア連邦に加盟するにあたっては、いくつかのサラワク州独自の権限が付与された。そのう

    ユ40 (140)

  • マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

    ちの一つが、森林や土地に関する税収をサラワク州政府が直接徴収・管理できるというものであった。石油や天然ガスの

                                                        ②

    税が連邦政府によって管轄されたことを考えれば、サラワク州政府にとっての木材産業や土地行政の重要性が認識できる。

                                        ③

    そして、こうした優遇措置が、連邦加盟後の積極的な森林開発につながったといえる。サラワクは州独自の土地行政・森

    林行政を整備しつつ森林開発を推し進めた。実際、サラワクの丸太生産量は、一九六三年の一七〇立方メートルから、一

    九八五年には…千二二〇万立方メートルへと大幅に増加し、同じ時期に、州の森林面積の三〇パーセントにあたる二八二

                  ④

    万ヘクタールが伐採されたという。

     こうしたサラワクにおける森林伐採が問題視されるようになったのは、一九八○年代後半である。その要因の~つとし

    て、一九六〇~七〇年代にフィリピンやマレーシア半島部、一九七〇~八○年代にマレーシア・サバ州において、伐採可

    能な森林が激減したことに伴い、一九八○年代には熱帯材の主産地がサラワクに移り、世界的な関心を集めやすかったと

    いう点がある。また、別の要因として、サラワクでは一九八○年代前半から、ラジャン川やバラム川などの大河川の上流

                                       ⑤

    域において、木材伐採企業と先住民とのあいだで衝突が頻発したことが挙げられる。先住民が当然の権利と考えていた森

    林や土地の利用権が無視される形で開発が進められることも少なくなかったからである。そのうち、もっとも有名なもの

    が、伐採企業とブナン人との闘争であろう。

     一九八○年代になって、バラム川上流地域で伐採活動が盛んになると、その地域で狩猟採集生活を営んできたブナン人

    やその他の焼畑民にも大きな被害が及んだ。しかし、伐採企業や政府への再三の異議申し立てば無視されたため、ブナン

    人を中心とする複数の先住民が、森林開発を阻止しようと、伐採用の林道を封鎖するという実力行使に訴えた。こうした

    林道封鎖活動を後方から支援し、その顛末を海外マスメディアに伝えたスイス人男性、ブルーノ・マンサーの存在は重要

    である。彼は、ブナン人社会のなかで数年間生活したのち、一九八○年代後半からサラワクの木材伐採の実態について西

    欧や日本で広報活動を行ったほか、ヨーロッパ議会などに働きかけてサラワク産木材の不買宣言を発表させるなど、熱帯

    141 (ユ41)

  • 環境についての問題意識を世界的に喚起するという役割を果たしたのである。これ以降、サラワクは

    線としての認知を受け、多くの国際的環境NGOがサラワクを拠点に活動を開始することになった。

    「環境問題」の最前

    142 (142)

    (二) サラワクの土地法と森林法

     ここでは、サラワクの土地法と森林法について簡単に紹介し、先住民にとっての伐採とは何が問題であったのかを再考

    したい。

     サラワクの土地法や森林法は、イギリス直轄植民地時代にその基礎が作られ、幾度も改正が加えられてきた。なかでも

    重要とされるのが、一九五八年土地法と一九五三年森林法の制定である。これらの法律に共通する点として、先住昆の慣

    習的な土地利用を制限するという目的があり、森林開発を推し進める上で、両者は相互補完的な…機能を果たす。まずは、

    土地法から見ていこう。

     一九五八年の土地法によって、サラワクの土地は以下のように区分され、これは基本的に現在でも引き継がれている。

    (一

    j混合地”先住民であるか否かを問わず、誰でも所有権を取得できる土地、(二)先住専一先住民に限って所有権を

    取得できる土地、(三)先住慣習地”共有か私有かを問わず、一九五八年までに先住毘の慣習的権利が設定された土地、

    (四)保留地 政府がさまざまな目的で利用するために保留する土地、(五)内陸地一章寒地、先住地、先住慣習地、な

    いし保留地のいずれの土地分類にも属さないすべての土地。

     これらの土地カテゴリーのうち、近代的な意味での土地権利証が発行されるのは、「混合地」と「先住地」のみであり、

    それ以外の土地の多くは、登記も測量もなされていない。そこでは、私的所有権が設定されておらず、近代法的には「州

    有地」となっている。「混合地」と「先住地」がいわゆる近代法に則った私有地にあたるものである一方で、「先住慣習

    地」は「州有地」でありながらも、先住民の慣習法に従った利用・管理が認められている。このように、サラワクの土地

  • マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

    行政は、近代法と慣習法が並存している状況にある。こうした法的な重層性(一①σq緯覚霞巴δヨ)は、土地利用の際に混乱を

            ⑥

    招く要因になりやすい。

     一方、森林政策を規律する主な法律として、~九五三年森林法がある。これも何回かの改正を経ているが、現行の森林

    法の基礎となっているものである。現行の森林法では、「州有地」の森林部分を大きく三つに分類している。つまり、

    (一

    j永久林、(二)完全保護区(国立公園・自然保護帽)、(三)州有林の三つである。このうち「永久林」とは、その名

                                           ⑦

    から受けるイメージとは異なり、「永続的な木材生産」を行えるように設定された区域であって、アカシアなどの人工林

    に転換されることもある。人工林への転換型の「永久林」では択伐が採用されており、一応持続的な林業が意図されてい

                       ⑧

    るのに対して、「州有林」については「自由放任」の状態で、皆伐された後にオイルパームなどのプランテーションに転

    換されることも多い。

     商業的木材伐採が先住民にとって問題であったのは、自分たちの土地あるいは森林と思っていた場所が、突然伐採によ

    って荒らされるという状況が頻繁に起こったからである。これには、主として二つの要因があったと考えられる。一つは、

    土地・森林カテゴリーのオーバーラップである。たとえば、一九五八年以前に祖父が焼畑のために開拓した土地があった

    としよう。その後、当該の土地が焼畑に利用されることなく休閑状態におかれているとすれば、数十年後には伐採対象に

    値する十分な森林にまで回復しているであろう。その土地は、一九五八年土地法に従えば、「先住慣習地」であり、同時

    に「州有地」でもある。さらに、一九五三年森林法に従えば「州有林」でもあり、また、伐採のためのコンセッション・

    エリアとして指定できる場所でもある。一筆の土地が、いくつものカテゴリーを併せ持つ場所になりうるのである。

     もう一つの要因としては、土地・森林カテゴリーの変更が挙げられる。たとえば「共有林」が、実質的な事前通達もな

    しに「保護林」に変更され伐採の対象となったり、あるいは、先住民が慣習的に使ってきた森林(つまり「先住慣習地」で

    あり「買食地」でもある森林)が、彼らの知らないあいだに「永久林」になっていたりすることが挙げられる。これらの土

    ユ43 (143)

  • 地や森林のカテゴリー変更が行われる際には、事前に政府官報に掲載され、一定期間内であれば異議申し立てができるこ

    とにはなっている。しかし、密報が先住民の目に触れる機会はまずないと考えてよい。そのため、その土地を利用してき

    た先住民が、「自分たちの土地に突然ブルドーザーが侵入してきた」という感覚を持っても不思議ではない。

     このようなことが、サラワクでは過去数十年にわたって頻繁に繰り返されてきた。サラワクの内陸地においては、「こ

    の土地は誰のものか?」と問うてみたところで、それを判断するための統~的な指標が存在しない場合が多く、さらにカ

    テゴリーの頻繁な変更は先住民の立場をいっそう不利にしてしまう。狩猟採集を中心的な生業としてきた遊動民にとって

    は、森林は利用するものであっても、その土地を「保有」あるいは「占有」するという概念さえ持っていなかったので、

    なおさらである。これらの点が、木材伐採をめぐる土地問題を複雑にする大きな要因となってきた。政府にせよ、伐採企

    業にせよ、先住民にせよ、それぞれにとって都合のよい解釈で土地や森林の利用に対する権利の主張を行うが、資本力も

    権力もなく、また、そもそも近代法という盾さえも持たない先住民にとっては、法的な手段に訴えたとしても、不利な立

    場に置かれるだけである。また、州政府は度重なる法改正によって、先住民の対抗手段をさまざまな形で封じ込めようと

       ⑨

    してきた。土地の権利を主張する先住民が州政府や企業に対抗しようとした場合に、林道封鎖という実力行使に訴えたの

    は、結果として必然だったといえるかもしれない。

    ①前掲・市川(二〇〇八)。

    ②田嵩①戸↓’ω』08■9象一。富ヨ℃。鼠帥超8房○=雪曇自⑦。巳♂巳

     8くΦ「oげ睾σqΦ。。ぎ誓Φ賭貯げ。騨07露㊦艮”ω雰。瓦毛鋤ぎ竃既爵。。一騨9M悪。℃、鴨

     §ミ謹N駄§、愚跨ミ勲§,§ずb⊃①(トっ)昌刈O∴りP

    ③奥野克巳、二〇〇三a、サラワク先住民ブナン社会における疾病、

     林道房、NGO、経済学雑誌一〇四-二、三七-五二頁。

    ④E・ホン(北井丁原後雄太訳)、一九八九、噸サラワクの先住民

     …消えゆく森に生きる』法政大学出版局。(国8σq”国.一⑩QQNミ§題

     駄象ミ鑓幕よミ巴§こ謡しdoミsげ§、誉ミ、Nαq誉、二二閉轟}曽い信ヨ陰5H亭

     ω聾濡鼠脅嚇日量[.)

    ⑤前掲・ホン(一九八九)。

    ⑥前掲・祖田(一九九九)。

    ⑦実際には、この「永久林」は、さらに「保護林」、「保存林」、「共有

     林」の三つの下位区分に分けられる。門保護林」と「保存林」の違い

     は、先住民が森林内に立ち入って狩猟や採集をできるかどうかの違い

     と考えてよい。また、「共有林」は地域共同体による登録申請が認め

    144 (144)

  •  られた場合に、県庁の管轄のもとで共同体利用が可能になる森林であ

     るが、実際には、「永久林」のうちの○・一一○・ニパーセント程度を

     占めるにすぎず、その面積も縮小傾向にある。

    ⑧前掲・ホン(一九八九)。

    ⑨前掲・ホン(一九八九)。金沢謙太郎、二〇〇五、サラワクの森林

     伐採と先住民ブナンの現在、池谷和信編『熱帯アジアの森の民ll-資

     源利用の環境人類学』人文轡院、二七三-三〇一。

    四 プランテーション開発と商業植林

    マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

             (一) オイルパーム・プランテーションをめぐる「環境問題」

                                   ①

     サラワクの商業的木材伐採に関する報道は、近年大幅に減少している。実際、丸太生産量は一九九〇年代以降、減少の

    一途をたどり、最近では、合板やベニヤの製造を目的とした小径木の伐採が、最奥の地で細々と行われているというのが

    実情である。にもかかわらず、伐採企業と先住民とのあいだでの小競り合いがなくなったわけではない。ただし、近年の

    林道封鎖等は、かつてのような「自分たちの森を守る」ための実力行使というよりは、補償内容の改善や公共サービスの

                                        ②

    充実を要求するなど、生活の向上・安定化を志向したものに変化しつつあるという。こうしたネゴシエーションのあり方

    は、外国メディアにとっても「環境問題」として報道する価値が減じたものと映るであろう。

     ~九九〇年代半ば以降、サラワクの商業的木材伐採が「環境問題」としてのインパクトを失ってきた一方、この時期に

    問題化され始めたのは、オイルパーム・プランテーションであった。オイルパーム産業は、斜陽傾向にある木材産業に代

                   ③

    わる税収源として、期待されている。オイルパームから取れる植物油脂は、食品や化粧品、洗剤、医薬品などの各種工業

    製品に使われる。日本でパーム油が一般にも認識されるようになったのは、~九九〇年代初頭のことである。当時、「地

    球にやさしい」とか「環境にやさしい」というキャッチコピーとともに多くの「エコ商品」や「健康商品」が開発・販売

    され始めたが、パーム油を原料とした製品は、これらの新商品の代表格としての位置を占めていた。そして、近年では、

    ユ45  (145)

  • バイオ燃料の原料としても注目を集めるようになり、その需要はますます拡大する傾向にある。

     マレーシアは、一九七〇年代以降、パーム油の生産・輸出量ともに他国を圧倒し、世界第一位の座を占めてきた。一九

    九〇年代以降は、半島部におけるオイルパームの面積拡大が鈍化する一方で、サラワクでのオイルパーム面積が急激に拡

    大し、マレーシア内におけるサラワクのパーム油生産の比率は順調に増大している。サラワク州政府は、今後もオイル

    パームの需要が拡大すると期待しており、積極的な増産を計画している。実際、統計局および農業局の資料によると、一

    九九〇年に五・五万ヘクタールだった面積が、~九九八年には二五万ヘクタールとゴムの面積を上回り、二〇〇四年には

    五〇万ヘクタールを超えた。そして、数年内に、少なくとも一〇〇万ヘクタールまで面積を拡大していく方針であり、そ

                                     ④

    れに見合った面積の土地が、土地測量局によって農園開発許可を受けている。

     多くのエコ商品の原料となっているオイルパームではあるが、その生産の現場においては、環境に多大な影響を及ぼし

    ているということが、いまや多くの日本人に知られている。オイルパームはゴムとは異なり小農による生産は困難で、利

                                      ⑤

    益を確保するためには一ヶ所につき最低三千ヘクタールの農地が必要とされる。つまり、オイルパームの生産は、大規模

    なプランテーション経営が中心となっている。このようなプランテーションの造成に際しては、数千・数万ヘクタールの

    規模で森林(焼畑後の休閑二次林や伐採による翠雲的撹乱を受けた劣化森林が中心である)を切り開き、丘陵地をテラス状に整地

    して、そこに人海戦術で苗木を植えていく。これらの過程で環境面から問題にされていることは、既存の森林の皆伐によ

                                    ⑥

    る生態系破壊のほか、伐採後の火入れによる煙害と隣接する森林への延焼、大規模な開拓・整地による土壌流出、森林の

    保水力低下による水害の頻発、農薬・化学肥料の過剰投与による土壌汚染・水質汚濁と健康被害など、多岐にわたる。

     このようなサラワクのオイルパーム・プランテーション開発が「環境問題」として提示され、認知されてきた背景には、

    いくつかの要因があると思われる。まず、一九八○年代までのマレーシア半島部における急速な面積拡大は、既存のゴ

                                   ⑦

    ム・プランテーションからオイルパームへの転換が中心に行われてきたのに対して、一九九〇年代以降に開発が進んだサ

    146 (146)

  • マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

    ラワクでは、残存森林(休閑二次林や劣化森林が中心)の新規開拓(または再開発)による造園が中心になっており、森林消

    失という問題意識を喚起しやすかった点を指摘できる。また、一九九七年にボルネオ島(とくに、インドネシア領カリマン

    タン)で大規模な森林火災が発生し、それがカリマンタンのオイルパーム・プランテーション造園過程での火入れによる

    延焼が一因とされたことも、オイルパームをめぐる「環境問題」が国際的に認知されるきっかけを作ったといえる。

     サラワク州経済企画庁の職員へのインタビュー(二〇〇八年三月)によると、近年、ヨーロッパの環境NGOが行ってい

    る批判の対象が、商業的木材伐採からオイルパーム・プランテーションへとシフトしており、州政府としても情報管理を

    厳しくするなど、警戒を強めているという。このことは、サラワクのオイルパーム・プランテーションをめぐる問題は、

    単に現象レベルにおける問題というだけではなく、むしろ、特定の現象を「問題化」する主体の動向が「環境問題」のあ

    り方を規定する一つの事例であることを示している。

     このようなプランテーション開発が、近年では、沿岸地域から内陸山間部へと拡大する傾向にあり、焼畑先住民の居住

    地域でも開発が進みつつある。次週では、内陸における開発に関連して、現場レベルで何が問題になっているかについて

    検討する。

    (二) オイルパーム・プランテーションをめぐる土地問題

     プランテーションによる土地利用は、木材伐採のそれとは根本的に異なる。サラワクでは「永久林」で伐採が行われる

    場合、基本的には択抜方式を採用してきた。天然林の伐採は資源収奪的な土地利用であり、森林の多様性やバイオマスは

    損なわれるものの、島抜の場合は、その後も 応森林が残される。そうした森林において、先住民が狩猟採集を行ったり、

    政府の目を盗んで焼畑に利用したりすることもある。その一方で、プランテーションの場合は、残存する森林を皆伐した

    後、新たな作物を植えて管理し、土地に投資したものを回収するという経済活動である。その投資を守るために、結果と

    147 (147)

  •                                    ⑧

    して、焼畑先住民たちを排除する「排他的土地利用」という性格を持つことになる。

     サラワクのオイルパームについては、「永久林」以外の「州有林」(「先住慣習地」を含む)で、プランテーション開発が

    行われることが多い。一九九〇年代以降、こうした形での土地利用が拡大していく過程において、政府や企業と現地住民

    とのあいだでの土地問題が各地で発生してきた。先述のとおり、小農の参入障壁が大きいオイルパーム生産は、必然的に

    大規模なプランテーション経営が中心となる。サラワクはマレーシアの中でも人口希薄な州とはいえ、数千・数万ヘク

    タールの面積を持つプランテーションは、複数の先住民村落を含みこむことになる。そのため、政府や企業と当該地域の

    先住民とのあいだで、しばしば土地の利用権などをめぐる軋礫が生じることになる。

     サラワクの内陸部では、土地の登記・測量がなされているところは少ない。また、未測量・未登記の土地は基本的に

    「州有地」とされる一方で、先住民自身による慣習的利用法の運用が認められている場所も多く、近代法に基づく土地法

    と先住民の慣習法に基づく土地法が並存している。こうした状況のもとで、商業的木材伐採の場合と同様に、「先住慣習

    地」が政府によって認められなかったり、土地カテゴリーの一方的な変更がなされたりすると、先住民と政府・企業との

          ⑨

    対立が激化する。また、政府や企業が「先住慣習地」を認知している場所でも、そこに、近代的土地法を必要とする商業

    的大規模農業が計画され、地元住民との交渉が行われる段階において、土地の利用法や保有形態に関する矛盾が顕在化す

            ⑩

    ることも頻繁にある。

     ここでは、「先住慣習地」の利用をめぐる草藤を紹介しておこう。サラワク州政府は、プランテーション開発の促進を

    目的として一九九四年に「新構想」という土地行政の方針を発表した。これは、「先住慣習地」をプランテーション企業

    が一定期間(現行では六〇年間)「リース」し、プランテーション経営から得られる利益の一部を先住民に還元するという

    ものである。そして、六〇年間の契約が過ぎれば、その土地は先住民に返還され、同時に、近代法に基づく土地の権利証

                 ⑪

    が発行されることになっている。

    148 (148)

  • マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

     しかし、先住民のなかには、こうした計画に疑念を抱くものが少なくない。まず、六〇年間という契約期間の長さが問

    題となる。オイルパームの生産期間は通常二五~三〇年並なので、六〇年契約というのは、~回の植え替えを含めた二期

    間の一括契約を意味する。また、プランテーション企業が土地を「リース」する六〇年のあいだ、その土地は実際には企

    業名義で登記されることになっている。先住民のなかには、あいまいな土地管理形態のもとで開発が進められることによ

    って、それが既成事実化し、自分たちの慣習地がいずれ企業や州政府によって不当に取り上げられてしまうのではないか、

    という疑念を持つ人が少なくないのである。プランテーション開発地に隣接する多くの地域で先住民が主張してきたのは、

    先住民が慣習的に使ってきた土地は、まず先住民自身の名義で登記して、その上で企業とリース契約をすべきだという明

    快なものであるが、政府はそうした主張を認めていない。

     その~方で、政府との対立を鮮明にすることを避けたいと考える人々もいる。現在のプランテーション開発芋酒に賛同

    する人々は、利用していない二次林やゴム林を生産性の高いプランテーションに転換したいという積極的な姿勢を持つと

    同時に、政府プロジェクトに協力しなければ、当面の生活向上もままならないという消極的な意図も持っている。という

    のも、反政府的な動きの目立つ地域では、生活基盤の整備をはじめとする各種の政府補助金が懲罰的に削減・停止される

    ことが多いため、こうした点をも考慮してプランテーション開発を肯定する人が多い。

     興味深いことは、現在プランテーションが計画されている地域においては、多くの場合、プランテーションそのものに

    反対する声は少ないという点である。プランテーション反対派とされる人々でも、土地の所有権や利益配分のあり方が明

                                        ⑫

    確化されるのであればプランテーション開発を歓迎するという人々が多数を占める。そして、このような地域においては、

    筆者の知る限り、オイルパームをめぐる「環境問題」が議論されることはなく、基本的に土地の権利問題の議論に終始し

    てきた。その意味で、現場レベルでの土地闘争と、グローバル・レベルで語られる「環境問題」とのあいだには大きなギ

    ヤツプが存在しているといえる。

    149 (149)

  • (三) アカシア植林

     オイルパーム・プランテーションの開発にやや遅れて、一九九〇年代末以降、積極的に進められている森林開発として、

    アカシア・マンギウムの商業植林事業がある。アカシアは、酸性度の強い痩せた土地でも育つマメ科の早生樹種で、七~

    一〇年程度でパルプ材として利用できるほどに成長する。植林というと緑化や森林再生を想像する人も多いが、この植林

    は、「州有地」の二次林を皆伐した上で行うもので、主目的は森林再生ではなくパルプ原料の安定的確保にある。この商

    業植林事業は、オイルパーム・プランテーション事業を上回る、非常に大規模な環境改変になると考えられる。

                                  ⑬

     サラワクでアカシア植林事業が始まったのは、~九九〇年代末である。これは、州内の木材資源の枯渇を視野に入れた

    上で、従来の天然林の伐採から人工林の造成・伐採へと移行することで、木材産業のあり方を根本的に転換しようとする

                                            ⑭

    ものである。これまでのところ、ピントゥル地区での四九万ヘクタールのプロジェクトのほか、カノウイット地区で九万

    ヘクタール、カピット地区で二万五千ヘクタールの大規模なアカシア植林事業が進んでおり、それ以外にも、各地で小規

    模(といっても、数千ヘクタールの規模)の植林事業が進行中または計画中である。サラワク州政府は、将来的には州全体で

                                 ⑮

    一〇〇万ヘクタールのアカシア植林地を造成する計画であるという。

     現在進行中の最大の植林プロジェクトの背景には、実はやや生臭い背景がある。この地域では、一九九〇年代末に、あ

    る民間企業がアカシアの植林を始めたが、その開発の過程で、企業が「先住慣習地」に不当に侵入し開発を強行したとし

    て、一九九九年に当該地域の焼畑先住民(イバン人)が裁判に訴えたのである。二〇〇一年にサバ・サラワク高等裁判所

    が下した判決は、原告側のイバン人が勝訴するという、それまでにない画期的なものであった。その判決文においては、

    「イバン人とは何か」、「村の領域とは何か」といった、エスニシティ概念や領域概念の検討を周到に行っただけでなく、

    植民地期以降の土地制度と先住民の慣習法的土地利用との整合性を確認し、さらに「先住怪漢の権利に関する国際連合宣

    150 (150)

  • マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

    言」(草案)にも照らし合わせた上で、当該地域における企業の土地開発、およびそれに許可を与えた土地測量局の判断

                ⑯

    に誤りがあったと結論付けた。

     この裁判のあと、敗訴した企業は倒産したが、人工林による木材産業の将来性を重視した州政府がこのプロジェクトを

    引き継ぎ、さらに計画面積を拡大して、より大規模な植林事業を推進することになったのである。州政府および州の委託

    を受けた開発企業は、先住民との土地をめぐるトラブルを極力避けるために、~九六〇年代前半に撮影された空中写真を

    もとに、「先住慣習地」とそれ以外の「州有地」との境界を判定する作業を行い、「先住慣習地」は基本的に利用しないと

    いう姿勢をとっているが、一部地域ではそうした境界線設定が未だ解決しておらず、プロジェクト地区内では先住民と開

    発企業とのあいだで散発的に衝突が起こっている。

     アカシア植林事業が「先住慣習地」を利用しないとしている点では、「先住慣習地」をも利用してきたオイルパーム・

    プランテーションと大きな違いがあるといえるが、既存の森林を皆伐し、そこに単一の樹種を植えて、排他的な土地利用

    を行うという点では、両者は同様の性格も持っている。このような排他的土地利用は、境界設定の厳密さを要求するため

    に、「先住慣習地」付近においては、土地問題を喚起することになる。このように、アカシア植林をめぐる問題も、現場

    レベルにおいては、基本的に、土地の境界設定の方法、あるいは土地カテゴリーの解釈をめぐる争いが中心であり続けた。

     アカシア植林事業が始まって約一〇年を経たが、この事業をめぐる問題に関しては、これまでのところ一部の環境NG

    Oによる散発的な報告は見られるものの、国際的な「環境問題」として報道される機会はほとんどないと考えてよい。

    ①前掲・金沢(二〇〇五)。祖田亮次、二〇〇八、サラワクにおける

     プランテーションの拡大、秋道智彌・市川昌広編『東南アジアの森に

     何が起こっているか一熱帯雨林とモンスーン林からの報告㎞人文書

     院、二二三-二五一頁。

    ②前掲・金沢(二〇〇五)。奥野克巳、二〇〇三b、ブルーノ・マン

     サーの死とブナン人の闘いの変貌、旨》竃ω賭㊦≦も・(日本マレーシア研

     究A罫Aム墨継) 一工ハ、⊥バー九頁。

    ③前掲・閏磐。。魯(卜⊃OOO)。

    ④前掲・欝霧魯(笛OO⊂。)。前掲・祖田(二〇〇入)。

    ⑤オイルパームの実は採取後の劣化が速く、二四時間以内に搾油工場

    151 (151)

  •  に運搬する必要がある。この搾油工場の操業が経営的に可能になる農

     地面積が三千ヘクタ…ルとされている。

    ⑥サラワクでは、プランテーション造成のための火入れは法律で禁止

     されているが、それが十分に守られていなかった。しかし、一九九七

     年のボルネオの大規模な森林火災を契機に火入れ作業への監視が厳し

     くなり、現在はプランテーション造成を目的とした火入れはほとんど

     ないと思われる。

    ⑦加治佐敬、一九九六、「余剰のはけ口」理論の再考と半島部マレー

     シアへの適用.アジア経済三七1 、二⊥二。押尾秀一、一九九九、

     マレイシアにおける油ヤシ副産物の資料化に技術開発協力、畜産技術

     一九九九年一二月号、一二九-四~。Oo議①ざ菊.国.<.p巳円ぎ片㊦H”℃.

     じd・卜。OOω・§こ織鷺§魯Nミ訪§§ミ○臥。噌卿bd鑓屋≦㊦一ピもちろん、

     森林の新規開拓によるオイルパーム造園があったことも事実である。

     ゴムからオイルパームへの土地利用転換と森林の新規開拓の比率を数

     値化することはきわめて困難ではあるが、次の文献は甲事例研究とし

     て参考になるだろう。永田淳嗣、一九九四、ジョホール・マラッカ海

     峡沿岸におけるある在地権力者の農園経営、東南アジア研究三一 ⊥二、

     三五七-三八四頁。〉ぴ匹巳『rψ}き傷累爵騨σqo筈押累』OOメ悶。冨。。[

     {鎚αq導Φ糞帥自葺き幽静oo隣Φご江88ゲ賃上磐鼠aβ。。Φ無きαq①ぎ験Φ

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     ミミ§琳bσ恥げωOI軽GQ’

    ⑧∪。くρζしΦ。。0■瞠琶翼博8恥Φ<鉱。℃§艮ぎ≦婁囚鋤}登簿薄きり

     ①×欝簿唱。娼巳9δμ\冨げσ騨一9きΦ。・・bσミ、謹。淘塁肉ミ惑buミミ§一刈(悼Y⑩9

     δ伊U。<ρζ」O。。◎霧雪幻象8傷①く①ざ冒①三ぎ≦Φωけ円農ヨ磐齢貰

     同H”爵Φ需H8℃二〇霧。{僧ザ⑦冨象αq露。霧燭。℃巳p賦。昌.booミs六戸§、惑

     bUミミ§一。。(一Yω山メ佐々木英之、一九九九、転換期にあるカリマン

     タンー「森林伐採フロンティア」から「土地開発フロンティア」へ、

     孚奪駐九…一、七三-八二頁。

    ⑨岡本幸江編、二〇〇二、『アブラヤシ・プランテーション開発の

     影ーインドネシアとマレーシアで何が起こっているか』日本インド

     ネシアNGOネットワークQ

    ⑩O。げ冨ω叶g冨.甲℃轡αQ▼≦諺.“9。F≦ζ⇔巳琶。口σq》円■昏。OON

     卜§叙縁N欝」Nミ貰篭αqミ防織謡蹴ミN噂ミミ譜q瓢信ミ§琳日工象ミ建亀ひゆ。σqo憎

     ℃2ざヨ℃巳きωm毛留≦讐。ず.によると、現在、裁判で係争されている

     サラワク州内の土地問題は約一五〇件あり、著者たちの調査により資

     料を確認できた一〇〇件のうち四〇件がオイルパーム・プランテーシ

     ョン開発に関わる土地問題であったという。

    ⑪ω。鼠菊.80ω.UΦ〈巴εヨ①目ε集2帥巳ゴ暴⇔導。黛一尊ぎg号-

     くΦδ営pσqoo暮貫罵く9ヨσqω茸象Φαq《o{昏ΦHげきヨω四N9≦四ぎζ巴曙。ウ罫

     象ミ譜窺筆工鴇斜謡9§題膳O(軽)H膳㎝甲轟QOω.

    ⑫前掲・祖田(二〇〇八)。

    ⑬》鴇§§惹§ζ錯H8刈も.鱒心.

    ⑭もちろん、それらの計画地は多くの彬々や町をも含みこんでいるの

     で、すべてがアカシアで埋め尽くされるというわけではない。具体的

     には、保全区域が一五万ヘクタール、「先住慣習地」が一一万ヘク

     タールなどとなっており、実際にアカシアが植え付けられる面積は、

     全体の計画地の半分弱にあたる一 一二万ヘクタールである。しかし、そ

     れでも、ひとつのプロジェクトで、一〇〇年間かけて植栽されてきた

     ゴムの面積を上回る土地がアカシア 色になるのである。

    ⑮O冨pじd‘写p℃.O.ψ磐山いΦρ頃.ω9a。・」りり。。.卸唐望薄嵩鷺駄

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     ∪Φ<①δでヨΦ韓H器三富Φ.

    ⑯この裁判は、被告側の控訴により、最高裁で継続して争われること

    (152)!52

  • になったが、基本的には、土地カテゴリーの解釈をめぐる争いが続け

    られることになった。

    五 ローカルな土地問題から「地球環境間題」へ

    (}

    j サラワクの環境改変と土地問題

    マレーシア・サラワク州における環境改変とf環境問題」(祖醸)

     これまで見てきたように、サラワクにおける環境改変の歴史は、いくつかの時期に分けることができる。つまり、

    (~

    j二〇世紀初頭から後半に至るゴム園の拡大一小農による緩やかではあるが広範囲にわたる環境改変、(二)一九六

    〇年代から一九九〇年代初頭の商業的木材伐採の加速”資源収奪的な環境改変ではあるが、択伐による劣化森林の残存、

    (三)~九九〇年代以降のオイルパーム・プランテーションとアカシア商業植林一排他的な土地境界設定、残存森林の皆

    伐、および単一作物の植栽による劇的な環境改変、という区分である。

     このように、二〇世紀初頭以降、サラワクの森林をめぐる環境は大規模に改変されてきたが、木材伐採、プランテーシ

    ョン、商業植林など、開発が企業的に行われ、その規模と速度が増大していくなかで、さまざまな問題が顕在化すること

    になった。ただ、それらの問題は、現場レベルにおいては、基本的に土地問題に還元されうるものであった。

     サラワクは、マレーシア半島部や他の東南アジア諸国と比較しても、土地をめぐる問題が顕在化しやすい要素を持って

    いる。サラワクにおいて土地問題を喚起する要因はいくつかあると考えられるが、ここでは三点指摘しておきたい。

     第一に、これまでも述べたように、内陸のほとんどの土地が登記も測量もなされていないため、土地の境界画定が困難

    であるという点が挙げられる。「先住慣習地」の新規設定が禁止されたのは一九五八年のことであったが、それから五〇

    年を経た現在でも、どこからどこまでが「先住慣習地」なのかという点については、確定されているわけではない。もち

    ろん、州政府によって、「先住慣習地」の境界設定に関する調査は行われてきたが、内陸の広大な二次林をすべて調査す

    153 (153)

  • るだけの資金と人材を欠いており、作業は進んでいない。そのため、先住民自身による環境改変の場合は大きな問題にな

    らない巾政府や企業などの外部アクターが内陸で開発を行つ場合は・これらの土地の境界をめぐる問題が高い頻度で発

    生する。これらの問題を解消するために、一九九〇年代に一部のNGOがGPSを使うなどして、先住民自身による村落

    地図作成の作業を支援した。ところがサラワク州政府は、二〇〇一年に、政府の許可を受けた者以外が地図を作ることを

                                      ②

    禁止したため、これ以降、NGOや住罠自身による地図作成は違法行為となった。彼らが先住慣習権を明確に「証明」で

    きる土地は、ゴムのような永年性農作物が存在している場所や、何十年にもわたって継続的な農業活動を行っている場所

    など、ごく限られてしまっているのが現状である。

     第二に、連邦国家の中におけるサラワク州の位置づけと独自の土地行政が関係している。東南アジアでは、どの国にお

    いても、先住民の慣習的権利を制限してきた歴史がある。国家運営の名のもとに、先住民の権利が完全に封じ込められた

    場合も少なくない。サラワクにおいても、イギリス直轄植民地時代に、先住民の権利を制限する土地法や森林法が作られ

    たが、そのなかでも一定程度の先住慣習権が認められた。そして、独立およびマレーシア連邦加盟の際に、サラワクの歴

    史的経緯や森林資源の重要性等を考慮して、土地行政や森林行政は州の管轄として認められたため、植民地時代の土地

    法・森林法がそのまま引き継がれ、先住慣習権も維持された。このことは、現在でも州政府が住民を完全には押さえ込め

    ない大きな要因となっている。その意味では、州政府にとって現行法は「厄介な遺産」かもしれないし、逆に先住民にと

    ってはせめてもの幸いかもしれない。いずれにせよ、連邦制の中で、半島部の諸州と比較して高いオートノミーを獲得し

    たことによる矛盾や歪が、土地問題に強く反映されているといえる。

     第三に、エスニック構成の特殊性がある。東南アジア各国において、内陸焼畑民は基本的にマイノリティである。それ

    は、国全体で見ればマレーシアも同様である。しかし、サラワク州というレベルにおいては、焼畑を行ってきたエスニッ

    ク集団(その多くは非ムスリム先住民)が州人口全体の四〇数パーセントを占めている。彼らは、政治的・経済的・宗教的

    lro4 (154)

  • マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

    にはマージナルな位置づけに甘んじていながらも、数の上でマジョリティなのである。先述のとおり、サラワク州は独自

    のオートノミーを持つため、州の人ロ構成は政策決定上も重要な要素となる。ただ、焼畑を主要な生業としてきた人々は、

    かつては十年~数十年単位で、集落の移転を繰り返し、土地への帰属は希薄であったとされる。植民地政府の政策や、ゴ

    ムのような永年性農作物の生産、町の華入商人との社会的ネットワークの形成などを通じて、二〇世紀初頭には定住化が

          ③

    相当進んでいたとはいえ、こうした人びとにとって、近代的な土地法は必ずしも馴染みやすいわけではない。また、数の

    上ではごくわずかとはいえ、土地所有の概念すら持っていなかった狩猟採集の遊動民にとっては、なおさら理解しにくい

    ものであった。こうした先住民と政府や開発企業とのあいだで、土地の所有や利用・占有といった概念の把握に、微妙な

    ズレが生じることは不思議ではない。これが土地問題をいっそう複雑にする要素となっている。

    (二) 「地球環境問題」としてのサラワクの森林破壊

     本稿で見たようなサラワクの環境改変は、基本的に輸出品の生産に関わる資源利用・土地利用の結果として生じたもの

    であり、経済現象という観点から見れば、古くからグローバル・イシューに深く関わるものであったといえる。そうした

    経済のグローバル化の流れのなかで、森林資源を利用してきた先住民たちの生活は大きな影響を受けてきた。とくに、輸

    出品の生産が民間企業によって行われるようになってからは、各地で深刻な土地問題が噴出するようになった。研究者の

    多くは、サラワクにおける森林資源の劣化を、政治構造や土地・森林行政、エスニック構成などとの関係から指摘し、ま

    た、先住民の権利問題に言及することも少なくなかった。ところが、一九八○年代末以降、サラワクの森林破壊をめぐる

    問題が世界的に報道されるようになったとき、単なる局地的な土地の権利闘争ではなく、生物多様性の減少やオゾン層の

    破壊、地球温暖化等に関わるグローバル・レベルの「環境問題」、すなわち「地球環境問題」に格上げされることになっ

    た。そのことの意味を、よりマクロ的な環境問題認識の流れの中で捉えなおしてみよう。

    155 (155)

  •  サラワクの森林環境の改変が、国際的に問題化された~九八○年代末から一九九〇年代初頭というのは、「環境問題」

                      ④

    をめぐる認識の転換期であったといわれる。もちろん、たとえば地球温暖化の理論はすでに一九世紀後半に示され、一九

                        ⑤

    五八年には具体的なデータで確認されていたし、レイテェル・カーソンの『沈黙の春』(一九六二年)やローマ・クラブの

    『成長の限界』(一九七二年)などは、人類に脅威を与える環境の悪化・汚染を指摘し、世界に大きなインパクトを与えた。

     しかし、~九八○年代末から九〇年代初頭にかけて浮上した「地球環境問題」は、圏際安全保障や国際経済とならぶ、

                                 ⑥                          ⑦

    主要な国際政治の問題になってきたという点に、最大の特徴がある。これが、「認識論的転換」と呼ばれる所以である。

                         ⑧

    同じ時期、「環境問題」は広く一般にも浸透し始め、圏際世論の形成にも影響を与えるようになった。そして、一九九二

    年頃地球サミットによって、「環境問題」が、従来の東西冷戦に代わる国際政治の枠組みとなりうることに、世界中の

    人々が気づき始めた。つまり、一九八○年代末~九〇年代初頭というのは、いわゆる「地球環境問題の政治化」の時期だ

         ⑨

    つたのである。

     サラワクの森林破壊は、こうした動向と軌を}にして、欧米や日本に紹介されるようになった。そこでは、国際的なマ

    スメディアを通じて、チェーンソーで大木が切り倒されるシーンや、ブルドーザーが丸太を引いて赤茶けた土壌が露出し

    ている状況などが映像として伝えられ、地球温暖化や生物多様性消失への最大の脅威として、人々に強烈なインパクトを

    与えることになった。それまで、なんとなく不安に思われていた「環境問題」が、具体的な森林破壊の映像を通じて、よ

    り深刻で緊急な地球規模の問題として認知されたといってもよいだろう。そして、圏際政治の場で熱帯林の破壊と保全が

    議論され、途上国(熱帯材輸出国)対先進国(輸入国)の対立構図がより明瞭になるなかで、これらの問題は伝統的な「南

    北問題」でもあることが確認されることになった。逆にいえば、そうした「環境問題」のグローバル化および政治化の過

    程で、ローカルな土地権利闘争の問題は隅に追いやられることになったのである。

     ①もちろん、土地の利用権をめぐって、村落間や世帯間でもめごとが  発生することはあり、それらは村落内や村落間での話し合いで解決さ

    156 (156)

  • マレーシア・サラワク州における環境改変と「環境問題」(祖田)

    る れ

    。る  場

      合

      も

      あ

      れ

      ば

    「先住民裁判所」等での争いに発展する場合もあ

    ②前掲・金沢(二〇〇五)。

    ③前掲・⑦。紆(も。OO刈)。

    ④米本昌平、一九九四、『地球環境問題とは何か㎞岩波書店。

    ⑤丹下博文編、二〇〇七、『地球環境辞典(第二版)』中央経済社。

    ⑥前掲・米本(~九九四)。G・ポーター、J・W・ブラウン(細田

     衛士監訳・村上朝子・児矢野マリ・城山英明・西久保裕彦訳)、一九

     九八、魍入門地球環境政治』有斐閣。(勺。ぽさ○■雪山ゆδ≦P一.芝層

    お わ り に

     60◎Oξ富N§鼠℃、§ミ§ミ』㌧o、ミ撰偽馬ら§栽§翫§.じヴ〇三畠①霊芝Φω零δ毛

     軍①。。。・.)

    ⑦この時期に、中立を堅持する立場を疑問視し、積極的な発雷や政策

     提雷を行うべきであると考えた、一部の科学者の態度変更も深く関わ

     っている。前掲・米本(~九九四)。

    ⑧淺野敏久、二〇〇八、環境運動の地理学、肉盲§~ミO肉〇三1一、

     一八-二四。

    ⑨前掲・米本(~九九四)。

     一九八七年、あるイギリス人の少年と、当時のマレーシア首相マハティールとの書簡のやり取りが話題になった。少年

                                              ①

    は、マハティールとサラワク州主席大臣のタイプに対して、次のような手紙を送った。

     ぼくは一〇歳です。大きくなったら熱帯雨漏に住む動物のことを勉強したいと思っています。しかし、木材会社がこ

    のまま木を切り続けるのを許したら、熱帯雨垂もなくなってしまいます。何百万の動物も死んでしまいます。一人の金

    持ちに何百万ポンドも儲けさせるために、このようなことが行われてもよいと思いますか。ぼくは、恥ずかしいことだ

    と思います。

    それに対して、マハティールの返信はかなりの長文になったが、要約すると次のようになる。

    157 (157)

  • ・金持ちは多額の税金を納めており、それが重要な税収となって、貧困層にも公共サービスを提供できるようになって

    いる。伐採を停止すれば、多くの貧困層が失業し、公共サービスも受けられなくなる。君の勉強のために、貧しい

    人々の生活やマレーシアの経済を犠牲にすべきなのか。

    ・イギリスがマレーシアを支配していた頃、ゴム園造成のために広大な森林が破壊され、多くの動物が死んだ。しかも、

    ゴムによって得られた利益は、イギリスに持っていかれた。こうした歴史的事実をもつと知るべきである。

    ・イギリスのような豊かな国が木材を安く買い叩くから、マレーシアは伐採量を増やさざるを得ない。伐採量を減らせ

    というなら、豊かな国がより高価で木材を買うべきである。

    ・君は大人たちに利用されているだけである。動物の勉強をしたければ、イギリスの田舎で、動物の住めるような森林

    を再生すればよい。

    158  (ユ58)

     つまり、マハティールは、森林破壊の問題や国内・州内の貧富の問題(あるいは、一部のマレー人政治家および華人企業家

                                                        ②

    と内陸先住民とのあいだのエスニック問題�