怪奇のゆくえ : 歐陽脩と蘇舜欽における韓 門文学の受容について ·...

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Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 怪奇のゆくえ : 歐陽脩と蘇舜欽における韓 門文学の受容について The whereabouts of the grotesque : A study on the acceptance of literature of Han Yu and his pupils in the poetical works of Ou Yangshu and Su Shunqin 湯浅, 陽子 Yuasa, Yoko 人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要. 2008, 25, p. 13-27. http://hdl.handle.net/10076/9747

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Page 1: 怪奇のゆくえ : 歐陽脩と蘇舜欽における韓 門文学の受容について · 人文論叢(三重大学) 第25号 2008怪 奇 の l ゆ 霞ま 情 と 蘇 舜 欽 に

Departmental Bulletin Paper / 紀要論文

怪奇のゆくえ : 歐陽脩と蘇舜欽における韓

門文学の受容についてThe whereabouts of the grotesque : A study on the

acceptance of literature of Han Yu and his pupils in the

poetical works of Ou Yangshu and Su Shunqin

湯浅, 陽子Yuasa, Yoko

人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要. 2008, 25, p. 13-27.

http://hdl.handle.net/10076/9747

Page 2: 怪奇のゆくえ : 歐陽脩と蘇舜欽における韓 門文学の受容について · 人文論叢(三重大学) 第25号 2008怪 奇 の l ゆ 霞ま 情 と 蘇 舜 欽 に

人文論叢 ( 三 重大学) 第2 5 号 2 0 0 8

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人文論叢 (三重大学)第25号 2008

怪奇のゆ-え

ー欧陽情と蘇舜欽における韓門文学の受容について-

【要旨】北

宋中期

の欧陽修と蘇舜欽、および梅毒臣

は、

その交遊

の初期

制作された応酬詩

にお

いて、

しばしば中庸期

の韓愈

「隻烏詩」を意

識した表現を繰り返し'自分たち

の詩作を韓愈およびそ

の門人

の所

に擬し

ている。また彼らは擬韓愈詩を含む

い-

つも

の作品

の中

で、

韓門

の詩風

のスケールの大きさとその怪奇性

に注目する表現を繰り

返し

ており'彼らが

これらを韓門文学

の特色と考え、またひと

つの

理想とし

ていた

ことを示し

ている。

その後、欧陽情

は知除州左遷中

に二首

の怪石を題材とする長編詩

を蘇舜欽と応酬Lt奇怪な石を表現する

こと

の困難さを述

べて、韓

門詩風

の継承者と目した蘇舜欽

にこれを充分

に表現する

ことを期待

ている。しかしそれ

に対する蘇舜欽

の答詩

は、対象

の怪奇性を表

現する

こと

の困難さ

ついて同意し

っつも、

それを表現し得

る者と

しての韓門

の文学

へ関心

には言及しな

い等'両者

の視線

には

一致し

い部分が存在する。

また欧陽修

この二詩

で'水中

の石

に月

の精髄が内包される過程

を夢想する等、硬質な清澄さを持

つイメージを展開し

ているが'

のようなイメージは'蘇舜欽

の詩なか

にも時折現れ

ている。また欧

陽情が蘇舜欽

の没後

に彼を追想した作品

にも'磨き込まれた鏡

や金

・壇塊と

った輝きを放

つ金属

や宝玉

の硬質なイメージは繰り返

し登場しており、

これらは欧陽修

の抱-蘇舜欽

の詩文

に対するイメー

ジを反映するも

のと思われる。

そこには韓門

の怪奇志向を超えた、

彼ら独自

の志向を見ることが

できるのではな

いか。

はじめに

北宋初期から中期にかけての詩風の変遷については、

一般的におよそ

このように認識されているのではないだろうか。まず王南僻

(九五四~

一〇〇一)らをその代表とする自居易風詩体の流行があり'その後、楊

(九七四~一〇二〇)らを中心とする西尾体の一世風廓、及び晩唐風

詩体の流行があり、その後、欧陽情

(一〇〇七~一〇七二)を中心とす

る梅義臣

(一〇〇二~一〇六

〇)・蘇舜欽

(一〇〇八~一〇四八)

・石

延年

(九九四-一〇四

一)らのグループにおいて'盛

・中唐詩の影響を

強-受けた新しい詩風が模索され、その結果、従来は題材とされること

の少なかった日常的な事柄、とりわけ卑小な対象までもが詩に表現され

るようになり、また詩の中で議論を展開する傾向を強め'それによって

詩の表現内容を散文に近づけることにもなったtと。

欧陽情らのグループの詩風のこのような傾向は'ひとつ後の世代の、

王安石

(一〇二

一~一〇八六)

・蘇拭

(一〇三六~一一〇一)らをはじ

めとする詩人たちにも継承されへ宋詩に特徴的な詩風となっていったと

考えられるが、このような認識に立つならば、北宋期さらには末代全体

における詩という文学形式のありかたについて探-考察するには、その

ひとつの転換点となった欧陽情らのグループの詩作についての、詳細吃

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人文論叢 ( 三重大 学) 第25 号 2 00 8

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人文論叢 (三重大学)第25号 2008

検討が不可欠となるだろう。

そこでここでは、欧陽僑らが、盛

・中庸期の詩文のなかでもとりわけ

古文の継承という点でも結びつきの強い、韓愈とその門下の人々の詩作

をどのように受容しそれをさらにどのように変容させていくのかについ

て検討してみたい。このような検討においては様々な視点を設けること

が可能であろうが、ここではひとつのサンプルとして、欧陽情と蘇舜欽

が長期にわたる交遊のなかで応酬した詩を取りあげて考察することとす

る。考察の中では'彼らとともにひとつのグループを形成していた梅義

臣の作品に言及することも必要になるだろう。

なお、ここでの検討は特に詩を対象として行うが、欧陽情は皇祐三年

(一〇五

一)に著した

「蘇氏文集序」(居士集巻四十

四部叢刊所収本

作品の制作年代は同書の注記による。以下同。)のなかで'世の中が

安定した後、文章が古の正しい状態に復すまでには百年はどの時間差が

生じるのか通例であり'蘇舜欽は宋代

(九六〇~)において'古に復し

た正しい状態の文章

(古文)を制作した者であると述べており、蘇舜欽

を古文の継承者としても高-評価していたと思われる。

衆奇子美貌

堂堂千人英

我濁疑其宵

浩浩包漁浜

槍浜産龍蜜

百怪不可名

是以子美辞

吐出人轍驚

其於詩最蒙

奔放何縦横

衆絃排律呂

金石次第鳴

間以険絶句

非時震雷窪

両耳不及掩

古癖寛之醒

子美の貌を奇とす

堂堂として千人の英なりと

濁り其の宵を疑ふのみ

浩浩として槍漠を包むかと

槍浜

龍塵を産し

百怪

名づ-るべからず

是れ子美の辞を以て

吐き出だすに

轍ち驚-

其の詩の最も豪なるに於いては

奔放にして何ぞ縦横なる

衆絃

律呂を排べ

金石

次第に鳴る

間に険絶の句を以て

時に非ずして雷蓬を震はす

両耳

掩ふに及ばず

古癖

之が烏に醍む

召亘

隻鳥

慶暦二年

(一〇四二)に、母の喪に服すために都を離れる蘇舜欽が

「出京後舟中有作寄文韓二兄弟永叔欧陽九和叔杜二」(蘇学士文集巻二

四部叢刊所収本

作品の制作年代は博平壌

・胡間陶校注

『蘇舜欽集編年

校注』巴萄書杜

一九九

〇年による。以下同。)を贈

って'都での知己

と別れる不安を述べたのに対し、欧陽情は

「答蘇子美離京見寄」(居士

外集巻三)を返して、次のように蘇舜欽を励ましている。

冒頭の部分ではまず、世間では蘇舜欽の容貌の評判が高いが'むしろ

自分が驚いているのは'その胸懐の広さから生み出される詩風の豪放さ

であると述べ'以下ではそれを具体的なイメージを挙げて説明している。

まず初めに'彼の詩句が大海原さえ包み込み、その中の数多の龍や怪物

たちを吐き出して人々を驚かせると述べて、スケールの大きさと怪奇な

ものの描写に秀でていることに言及Lt続いてその奔放自在さについて、

数多-の弦楽器と金属製の打楽器の秩序立

った演奏の中で、突然に極め

て険しい句によ

って雷鳴を轟かせるようだと述べている。当時の欧陽情

が蘇舜欽の詩に対して抱いていた、このような豪放さ'スケールの大き

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湯浅陽子 怪奇の ゆくえ

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制 三

作年 景代 祐は 元未 年

湯浅陽子 怪奇のゆくえ

さへ怪奇性'奔放さという印

は'どれも既存の認識や表現の枠から溢

れ出そうとする力強さを持つ点で共通すると思われるが、このような印

象は晩年の

『六

一詩話』(『歴代詩話』

中華書局

一九八

一年)の

「子美筆力豪筒、以超遺構絶馬奇。(子美は筆力豪寓にして、超過横絶を

以て奇と為す。)」に至るまで継承されている。

この

「答蘇子美離京見寄」詩ではこの後'蘇舜欽の書の豪快さを褒め'

朝廷で高位につけられるべき人物であると極めて高-評価しっつ、それ

と比べた現在の不遇を傷み、さらにそれを受けて末尾部分を次のように

締め--

っている。

退之序古物

共鳴由不平

天万苦君心

欲使費其聾

嵯我非驚驚

徒思和哩喫

因風幸数寄

警我聾輿盲

欧陽情はここで'

退之

古物に序するに

其の鳴るは平らかならざるによると

天は方に君が心を苦しめ

其の撃を費せしめんと欲す

我は驚鷺に非ざるに

徒らに喫喫たるに和せんと思ふ

風に因りて幸ひに赦しば寄せ

我が聾と盲とを警めよ

韓愈が門弟の孟郊に寄せた

「送孟東野序」(馬其和

校注

『韓昌繁文集校注』巻四

上海古籍出版社

中国古典文学叢書

1

九八六年)の

「大凡物不得其平則鳴。(大凡

物は其の平らかなるを得

ざれば則ち鳴る。)」を引用し、韓愈が不遇の孟郊を慰めた言葉に沿いな

がら、不遇の蘇舜欽を慰めている。さらにまた韓愈

「隻鳥詩」(鏡仲聯

集樺

『韓昌翠詩繋年集樺』巻七

上海古籍出版社

中国古典文学叢書

一九八四年)に登場する'その鳴き交わす声によって自然の秩序立

った

運行にまで甚大な影響を与える二羽の怪鳥を踏まえて、蘇舜欽がその内

の1羽であ

っても自分はもう

l羽の鳥ではないと謙遜してみせている。

韓愈

「隻鳥詩」に措かれた怪鳥の寓意については諸説があるが、この詩

の表現するところによると'欧陽情は

「隻烏詩」を韓愈と孟郊の避蓮の

寓意と捉え'この詩では自己と蘇舜欽の避蓮を韓

・孟のそれに擬えよう

と試みているらしい。

また

「隻烏詩」の鳴き交わす二羽の怪鳥を意識すると思われる表現は、

慶暦四年

(一〇四四)に欧陽情が蘇舜欽

・梅重臣の詩風を評した

「水谷

夜行寄子美聖愈」(居士集巻二)にも現れている。この詩は蘇舜欽と梅

重臣の詩風を対比しっつ、その双方を高-評価したものだが、ここで欧

陽情は'「二子隻鳳風'百烏之嘉瑞。雲煙

一掬期、羽翻

一推鍛。安得相

従遊、終日鳴職職。(二子は隻鳳風にして、百烏の嘉瑞たり。雲煙

たび朝期するに'羽翻

lたび推鍛す。安-んぞ相ひ従ひて遊ぶを得'

終日鳴-こと職職たらん。)」と、蘇舜欽

・梅重臣の詩作を'「隻烏詩」

を意識した鳴き交わすつがいの鳳風に喰えている。さらにこの詩もまた

『六

一詩話』に引用されており、両者に対するこのような評価は晩年に

至るまで基本的に変わらなか

ったと思われる。欧陽情は'「隻烏詩」に

表現された韓愈と孟郊の詩作のイメージを踏まえつつ'彼らを継承して

梅重臣

・蘇舜欽とともに世界の自然の秩序にまで働きかける力を持

った

詩を制作することを理想とLt自ら韓愈

「隻烏詩」に言う

「還た三千秋

に嘗たりて'更に起ち鳴きて相い酬」う者たらんと望んだのだろう。

韓門の詩風をどうとらえるか

梅重臣の

「余居御橋南夜聞扶鳥場数昌窄髄」(宛陵集巻三

景祐元年

(一〇三四))四部叢刊所収

『宛陵先生集』による。作品の制作年代は朱

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人 文論叢 ( 三重大 学) 第2 5号 2 00 8

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暮雪妻 警誓く

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人文論叢 (三重大学)第25号 2008

東潤校注

『梅義臣集編年校注』上海古籍出版社

1九八

〇年による。以

下同。)は、韓愈の詩風の模倣を意図して制作された作品だが、ここに

も妖鳥が登場し、その鳴き声から怪奇な想像が展開されてい-。冒頭の

部分を挙げてみよう。

都城夜半陰雲黒

忽聞樽穀聾噺吻

嘗憶楚郷有扶烏

l身九首如賛症

或時月暗週間里

緩音低語若有求

小鬼戒頑婦滅火

閉門雑犬不爾留

都城

夜半

陰雲果し

忽ち聞-

穀を輯ずるごと-聾噺吻たるを

嘗て憶

へら-

楚郷に扶鳥有り

一身

九首

賛症の如し

或時

月暗-して閲里に過ぐるに

緩昔

低語

求むる有るが若し

小鬼は頑を威し

婦は火を滅す

門を閉じ

雑犬も爾留せず

一六

曾遭弾射況泥坑

曾て弾射に遭ひて泥坑に況む

ここには夜陰を飛び回る怪鳥が描かれており'これら二つの詩からは、

梅重臣が韓愈らしい詩として想起するのか怪鳥を描-ものであ

ったこと

が窺われるが'これらもまた韓愈

「讐鳥詩」に描かれた怪鳥のイメージ

が投影されたものと考えてよいだろう。

梅重臣はまた'前掲の

「水谷夜行」詩等での欧陽情の評を踏まえ、慶

都の市街に夜半'暗い雲が立ち込めると'穀を回すような異様な鳴き

声が聞こえて-る。そこで想起されるのは、以前楚の田舎で聞いた九頭

の妖烏の話である。

また梅重臣には、もう

一首の擬韓愈詩

「擬韓吏部射訓狐」(同巻十二

慶暦八年

(一〇四八))があるが、ここにもやはり妖烏は姿を見せてい

る。これも冒頭のみを次に挙げる。

黄昏月暗妖烏鳴

超然鈍質虚豪聾

想凶日異立屋角

潜事背物欲我驚

山豆知慣聞此醜校

呼集鬼物考陰棒

夕盗鶏雛無畏避

黄昏

月暗-して妖烏鳴き

忽然たる鈍質

感豪の聾

凶に悪きて

自ら異として

屋角に立ち

事に潜みて

背吻もて我を驚かさんと欲す

豊に知らんや

此の醜校を聞-に慣れて

鬼物を呼び集めて

陰棒に寄るを

夕べに鶏雛を盗むも畏れ避-ること無-

暦四年

(一〇四四)

君詩牡且苛

君筆工復妙

二者世共膏

一得亦難料

我今或盈軸

髄逸思益特

有如秋空鷹

気堅城雀鶴

又如飲巨鍾

一撃不能蘭

既蘭心己酔

顔倒視両曜

吾交有永叔

勤正語多要

嘗評吾二人

放倫不同調

其於文字間

苦硬輿悪少

「偶書寄蘇子美」(宛陵集巻十

一)で、

君が詩は壮んにして且つ苛

君が筆は工みにして復た妙

二者は

世に

共に賓とせられ

一たび得るは

亦た料り難し

或ひは軸を盈たすに

髄は逸れ思ひは益ます略し

秋空の鷹の如き有り

気は城の雀鶴を壁す

又た巨錘を飲むが如-

一たび拳ぐるも醸す能はず

既に醸すに心は巳に酔ひ

願倒して両曙を視る

吾が交に永叔有り

勤正にして

多-要す

吾ら二人を評するに嘗たり

故と倹と調を同じくせず

其の文字の間に於いて

硬さに苦しむと少なさを恵むと

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湯浅陽子 怪奇 の ゆくえ

蓋吾妻曇蓋悪童哲慧 握 触

る や と

重量董重量襲董蔓畠重要

萱芋肇撃雪雲?

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合 二 撃 馨 富 窮 韓 孟 鳴 衆 雷 篇 両 韓

奏 律 欽 生 め す は は 鳳 烏 電 章 雄 孟

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前 所 勉 其 自 飽 飢 難 愈 毛 競 不 其 篤 無 官 可 苛

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但 誠 力 坑 更 我 終 玉 清 霜 孤 世 聖 郊 至 寂 世 天だ に 壷 を に 歳 山 響 寒 吟 を 愈 死 賓 客 に の

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湯浅陽子 怪奇のゆくえ

雛然趣尚殊

然りと雛も趣きは殊なれるを尚ぶ

握手宰相笑

手を握りて幸ひに相ひ笑はん

と述べ、自己の詩風と対比しっつ'蘇舜欽の雄壮精惇な詩風及び書風を、

やはり猛禽に喰えているが、これらの表現にも

「隻鳥詩」の影を指摘す

ることができるだろう。

慶暦四年秋に、蘇舜欽は進奏院の紀神の宴で反故紙を売却して得た公

費を流用した罪を問われて官位を剥奪され、翌五年

(一〇四五)春に都

を離れて四月に蘇州に到着した。この年の欧陽情の作品に

「讃

(一本に

「聖愈」の字有り)幡桃詩寄子美」(居士集巻二)があるが、欧陽情はこ

こでもまた

「隻烏詩」のイメージを踏まえつつ'蘇舜欽と梅重臣におけ

る韓愈とその門下の詩風の継承について次のように述べている。

韓孟於文詞

両雄力相嘗

篇章綴談笑

雷電撃幽荒

衆烏誰敢和

鳴鳳呼其皇

孟窮苦索索

韓富浩穣穣

窮者啄其精

富者欄文章

発生

l為宮

肇赦

一馬商

二律雄不同

合奏乃鏑錦

韓孟は文詞に於いて

両雄

力相ひ嘗たる

篇章

談笑に綴り

雷電

幽荒を撃つ

衆烏

誰か散

へて和さん

鳴鳳は其の皇を呼ぶ

孟は窮して苦しむこと愛東たり

韓は富みて活きこと穣穣たり

窮する者は其の精を啄み

富める者は文章を欄にす

発生して一は宮と為り

撃赦してlは商と為る

二律は同じからざると雄も

合奏して乃ち銘鏑たり

天之産苛性

希世不可常

寂参二百年

至賓埋無光

郊死不馬島

聖愈費其戒

患世愈不出

孤吟夜来霜

霜寒人毛骨

清響哀愈長

玉山禾難熟

終歳苦飢腸

我不能飽之

更欲不日量

引坑和其音

力壷猶勉彊

誠知非所敵

但欲縫前芳

天の苛性を産むは

世に希にして常なるべからず

寂参たり二百年

至賓

埋もれて光無し

郊死して

島為らず

聖愈は其の戒を費-

世を患ひて愈いよ出でず

孤吟して

霜に碗ぶ

霜寒くして毛骨に入り

清響

哀しみて愈いよ長し

玉山

熟し難-

終歳

飢腸に苦しむ

之に飽-能はず

更に自ら量らざらんと欲す

坑を引きて其の音を和し

力壷-るも猶は勉彊す

誠に敵ふ所に非ざるを知り

但だ前芳を継がんと欲するのみ

ここでの欧陽情は、全-異な

った個性を持

った韓孟の詩作をつかいの

鳳風に喰え、梅重臣を孟郊の詩風の継承者と見なしている。なお四部叢

刊所収本の

『居士集』テクストに附された注は'「一本」には'「両雄力

相嘗」と

「篇章綴談笑」の間に、

偶以催自戯

偶たま帳を以て自ら戯れ

作詩驚有唐

詩を作りて有唐を驚かす

の両句が、また

「力壷猶勉彊」と

「誠知非所敵」の間には'

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人文論 叢 (三 重大 学) 第2 5 号 2 0 0 8

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人文論叢 (三重大学)第25号 2008

嵯我於韓徒

足末及其椿

而子得孟骨

英塞空北部

我は韓の徒に於いて

未だ其の椿に及ぼざるに足る

而るに子は孟の骨を得

英震

北印に空し

の四句があると記しているが'これらの句を詩の本文に含めるならば、

韓門の詩風が

「怪」をその特色としていたことを強調し、また欧陽備自

身は韓愈らに遠-及ばないが、蘇舜欽と梅義臣が孟郊詩の本質を会得し

ていると述べていることになる。この詩のテクストにはこれ以外にも混

乱があり、同じ詩が

「讃播桃詩寄子美

・永叔」と題されて

『宛陵集』巻

二十四にも収められているが'内容から'梅毒臣の作とは考えに-い。

このように慶暦四㌧五年頃の欧陽情は、中庸期の韓愈及びその門人た

ちの詩風の継承を志し'その世界の自然の秩序にまで働きかけるよう吃

甚大な力強さの具体的なイメージとして、特に

「隻鳥詩」の表現を好ん

で用いている。その怪鳥の姿は'韓愈の詩風の怪奇

への志向を象徴する

ものとして捉えられており、その志向は梅重臣

・蘇舜欽にも共有されて

いたと思われる。韓愈及びその一門の詩風の特色をその怪奇性にありと

する認識は'例えば羅宗強氏

『惰唐五代文学思想史』(中華書局

一九

九九年)第八章

「中庸文学思想」下編

「尚怪奇

・垂主観的詩歌思想」等

のように'現代の文学研究においてかなり普遍的なものであろうが'本

章で既に見た諸例は、北宋中期の欧陽僑らも、すでに同様の認識を持

ていたことを示しているだろう。

ノヽ

二つの怪石

慶暦六年

(一〇四六)から翌年に'知徐州に左遷中であ

った欧陽情は、

怪石を題材とする二首の長編詩をすでに蘇州に在

った蘇舜欽に贈

ってい

る。このように長編の古詩のスタイルを用いて議論を展開し、それを友

人たちの間で応酬しあうということそのものが'韓愈と慮仝

・孟郊らの

方法を踏襲するものと言うことができるだろう。慶暦六年の七言二十三

韻からなる

「菱渓大石」詩

(居士集巻三)は'源州菱漠の大石を題材と

したものであり'詩の半ばまでの部分では、自分の気に入

った苔むした

大石を菱漢から運んで来て庭石とした経緯を述べ'その石の姿が軒端に

千万の峯が連な

っているかのようであるのを喜び、さらにその来歴をさ

まざまに想像している。そこでは'女姐が天を補

った石の余りか、また

太古の魅入氏の用いたものか、あるいは漢の使節が崖沓山の果てから持

ち帰

ったものかと、来歴を厳密に検討するのではな-'自由に想像を広

げることそのものを楽しんでいる。次に韓門の詩風

への言及を含む、こ

の詩の末尾部分を掲げてみよう。

沙磨水激自穿穴

所以端整無職痕

嵯予有口実能妨

歎息但以両手刑

慮仝韓愈不在世

弾壁百催無雄文

学奇聞異各取勝

遂至荒誕無根原

天高地厚顔不有

抄は磨き水は激し自ら穴を穿ち

以て鏑整する所なるも畷痕無し

口有るも能-排ずる莫-

歎息し但だ両手を以て刑むのみ

慮仝

・韓愈

世に在らざれば

百帳を弾璽するに雄文無し

苛を寧ひ異を闇はせて各おの勝るるを取り

遂に荒誕して梶原無きに至る

天高く地厚く有らざるなく

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湯浅陽子 怪奇の ゆくえ

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雪 害ん

湯浅陽子 怪奇のゆくえ

醜好商状英足諭

醜好寓状は葵んぞ論ずるに足らん

惟嘗掃雪席其側

惟だ首に掃雪して其の側らに席し

日輿嘉客陳清縛

日びに嘉客と清縛を陳ねん

ここで欧陽修は、この石の著しい怪奇を表現しあぐねて、これを表覗

し得る者として韓愈と盛岡とを想起しっつ、彼らがすでに世を去

った覗

在においては、諸々の怪奇なるものを鎮め抑えるべき

「雄文」はな-、

むやみに奇をてら

った文章が制作されるばかりで'物事の本源をつかみ

取ることができない状況にあると述べている。ここには当時の詩風に対

する批判を読み取ることもできるだろう。

この詩の末尾で欧陽情は

「嘉客」たるべき友人の共感に期待している

が、蘇舜欽にはこの詩に唱和した

「和菱硲石歌」(蘇学士文集巻五

暦六年)が残されており、欧陽修が想定した

「嘉客」が彼であ

ったこと

が推測される。蘇舜欽の詩では'まず冒頭部分で欧陽情から贈られた菱

渓石の詩と図とを目にした時の驚きを次のように綴

っている。

ると述べていたのを踏まえて'この詩がこの石の素晴らしさをこの上な

-鋭いことばを用い長編詩に表現したものであり'後の者に何も表現す

ることを無-させるものだとかえ

って高-評している。またこの時に

緒に贈られた図像について'その

「突先としてまた頗る怪しき」姿に肝

をつぶしたと述べ、この石が怪奇なものであることに同意している。ま

た続-部分で蘇舜欽は自分が嘗て大潮石を採取した時の体験を述べ'雨

と波に打たれた大潮石は千株に万もの穴がある異様な姿であり、自分の

力量の貧弱さゆえこれを文章に描きとれなか

ったと述べているが'この

ような表現もまた、もとの詩で欧陽情が石の著しい怪奇さを表現しあぐ

ねると述べていたのを踏まえて'自らの同様の体験を挙げて共感を示し

たものであろう。

しかし、欧陽情と違

って'この詩の後半部分での蘇

舜欽の関心は'怪奇を表現し得る者としての中庸の韓門の詩人たちのほ

へは向か

っていかない。末尾の部分を見てみよう。

除州信至詫隻石

云初得自菱水潰

長篇稀考語険絶

欲使来者不復言

重囲突冗亦頗怪

張之屋壁驚心魂

戯麟才生頭角異

混沌錐死薮整存

娘邪之郡偏且僻

得石固可骸衆観

糠州より信至りて隻石を詫び

初めて菱水の演に得たりと云ふ

長篇もて稀零し

語は除絶にして

乗たる者をして復た言はざらしめんと欲す

重囲は突九として亦た頗る怪し-

之を屋壁に張るに心魂を驚かす

麟麟は才めて生るるに頭角異なれり

混沌は死すと難も薮整は存す

娘邪の郡たるや

偏りて且つ僻なれば

石を得れば固より衆観を骸かすべし

ここでは贈られてきた詩で欧陽俺が石の著しい怪奇さを表現しあぐね

況玄出産極易致

郷俗見慣不甚尊

彼以至少合貴重

胡鳥久棄如障倫

偶逢積識見奨抜

衆目今乃構奇珍

百人擁持大車載

城市観走風涛翻

立於新亭面幽谷

共馬操刷泥沙痕

涼泉下照嘉樹陰

翠影澄港留煙雲

況んや玄れ出産して極めて致し易-

郷俗

見慣れて甚だし-は尊ばざるをや

彼は至少を以て合に貴重すべく

胡為れぞ久し-棄てて障冷するが如からんや

偶たま積識に逢ひて奨抜せらるれば

衆目

乃ち奇珍と稀す

百人

擁持して

大事載せ

城市

観て走り風涛翻る

新事に立て幽谷に面し

共に泥抄の痕を操刷するを為す

涼泉

下照して

樹陰を嘉し

翠影

澄港して

煙雲を留む

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人文論叢 (三 重大学) 第2 5 号 2 0 0 8

使 世 終 萄 墳 褒

我 人 古 非 歳 以

吟 愛 棄 高 洞 篇

歎 憎 臥 賢 没 章

傷 逐 於 濁一

精 輿 窮 賞 旦 嫌

神 麿 津 激 伸 素

我 世 終 萄 積 褒を 人 古 し 歳 む

し の く 泊 る

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吟 憎 て 高 し 篇歎 は ら 賢 た 章し 興 れ の る をて 麿 て 濁 も 以精 を 窮 り

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天 月 此 月 倒 揮 下 正 行 月に の の 光 影 心 り に き は

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か 入 来 は に 照 上 り

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て し り 浄 る は す三 よ て 動つ り 中 か

と に ず

篤 潜れ む

に の の 巌 面よ こ 石 光 に の 海つ の の は 射 中 底て 石 申 分 し 心 か

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好 の 入 れ り 射 上

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贈 で し つ は 澄 月

答 あ ま に 月 ん が

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月 た、

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劉 て 夢 備 に は 光兎 は 想 は 秘 つ が

錫 既 し、

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月 で 清 淵が に の 天 ら の

詩 文-

上 か 静を 人 部 の な か

制 た が 日 紫 な

作 ち こ 月 石 水

人文論叢 (三重大学)第25号 2008

褒以篇章姶嫌素

墳歳相投

一旦伸

萄非高賢濁賞激

終古棄臥於窮津

世人愛憎逐興廃

使我吟歎傷精神

褒むるに篇章を以てし嫌素に槍けば

積歳相投したるも

一旦伸ぶ

萄し-も高賢の濁り賞激するに非ざれば

終古

棄てられて窮津に臥さん

世人の愛憎は興麿を逐ひ

我をして吟歎して精神を傷めしむ

ここでは先の自己と大潮石の場合と対比して'この菱渓石を土地の人

たちは見慣れていたので珍重しなかったのだが'たまたま

「横識」たる

欧陽情がその価値を兄いだしたために、これを見直して珍重するように

なったのだと述べている。その上でさらに

「苛も高賢の濁り賞激するに

非ざれば、終古棄てられて窮津に臥せん。」と重ねて述べ、物の価値は

優れた鑑賞眼を持

った人物の評価を得ることによって、初めて世間に認

められるものであり'世の人の好き嫌いは興廃を逐

って変化するという

ことが、自分の心を傷めさせると結んでいる。蘇舜欽がこのように述べ

るのは、優れた目利きである欧陽情によってその価値を兄いだされ、こ

の石のように正当な評価を得られるようになりたいということが'すで

に蘇州に流されていた彼自身の願いでもあるからだろう。欧陽情らとほ

ぼ同時代の劉敗

(一〇二三~一〇八九)『中山詩話』(歴代詩話本)には'

王向

(字子直

嘉祐二年

(一〇五七)進士)の、「韓

(愈)輿庭土作牙

人商度物債也。(韓

(愈)は庭土の輿に牙人と作りて物債を商度するな

り。)」という言葉が記録されているが、この言葉は、多-の門人を擁し

彼らを官界へ送りだそうとした

一面を持つ韓愈を、北宋中期の士大夫た

ちが'無官の人物の持つ価値を目利きし仲介することに長けた人物と捉

えることもあ

った、ということを示しているだろう。うかった見方をす

るなら'蘇舜欽が'韓愈の後継者たらんとする欧陽修に期待したのは~

二〇

むしろこういった

一面なのかもしれない。

また、翌慶暦七年

(一〇四七)に'欧陽修は

「紫右岸歌」(居士集巻

四)という作品を制作し、再び蘇舜欽に贈

っている。なお四部叢刊本の

テクストでは題下に

「一本作月石硯犀歌寄蘇子美」との注記を附してい

る。ここで言う

「右岸」とは、硯の側に立てて風や塵を防ぐ、多-玉

・漆塗りの木等で作られた小さな衝立を指し、「硯犀」とも称される。

ではこの欧陽修

「紫石犀歌」の内容を検討してみよう。これもかなり

の長編なのでい-つかに区切

って見てい-ことにする。

月従海底乗

行上天東南

正普天中時

下照千丈浮

薄心無風月不動

倒影射入紫石巌

月光水潔石堂浄

感此陰塊来中滞

日従月入此石中

天有南曜分馬三

月は海底より来たり

行きて天の東南に上る

正に天中に嘗る時

下りて千丈の淳を照らす

浮心

風無-して

月は動かず

倒影

射て紫石巌に入る

月光

水潔-

石は登浄

此の陰塊に感じて来たりて中に潜む

月の此の石の中に入りLより

天に有る両曙は分かれて三つと為れり

海底から上

った月が天心に至

った時'その光が千丈の深淵の静かな水

面の中心を射た。澄んだ水の中を通

った月光はつややかで清らかな紫石

巌に射し入り、石は月の光に感応して月を中に秘め'そこで天上の日月

の光は分かれて三つになってしまった。欧陽情は'天上の月の一部がこ

の石の中に入ってしまった経緯をこのように夢想している。

この右岸の素材である

「紫石」は、硯としては既に中庸期に文人たち

によって愛好され贈答の対象となっており、劉兎錫

・李賓等が詩を制作

Page 10: 怪奇のゆくえ : 歐陽脩と蘇舜欽における韓 門文学の受容について · 人文論叢(三重大学) 第25号 2008怪 奇 の l ゆ 霞ま 情 と 蘇 舜 欽 に

湯浅 陽子 怪奇 の ゆく え

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隠 天し 地て の

お 至く 穿こ た

湯浅陽子 怪奇のゆくえ

している。いわゆる端渓硯のなかでも'特に高-評価されたものらしい。

また欧陽情は後年'『硯譜』(居士外集巻二十二)の端渓硯の項で、こ

の紫石硯に言及している。

端石、出端渓、色理豊潤、本以子石馬上。子石者、在大石中生'蓋

精石也。而流俗侍靴'遂以紫石馬上。又以貯水不耗馬任、有鶴鶴眼

為貴。眼、看病也'然惟此巌石'則有之。端石非徒重於流俗'官司

歳以鳥貢'亦在他硯上。

端石、端渓より出で'色理は豊潤にして、本と子石を以て上と為す。

子石なる者は、大石の中に在りて生ず'蓋し精石ならん。而るに流

俗は博

へ耽りて'遂に紫石を以て上と為す。又た水を貯

へて耗せざ

るを以て任と為し'鶴鶴眼有るを貴Lと為す。眼は、石の病なり、

然るに惟だ此の巌石なれば'則ち之有り。端石は徒らに流俗に於い

て重んぜらるるに非ず、宮司は歳に以て貢と為し、亦た他硯の上に

在り。

ここで欧陽情は、世間ではこの

「紫石」が端渓硯のうち最上のものと

評されるのに対して'大石のなかに生じる

「精石」'つまり石の精髄で

ある

「子石」をより高-評価しており'世間が

「紫石」を上であるとす

るのは誤伝であろうとしている。この欧陽修の評価は、大きな石の中に

内包された精髄として子石を珍重することによるものだが'その発想は

「紫石犀歌」で展開されている'大きな紫石巌のなかに天上の月の一部

分が秘められているという空想と類似のものである。また欧陽情は嘉袷

元年

(l〇五六)にも、翰林学士知制話の呉杢

(1010-l〇六七)

から贈られた石犀に寄せた

「呉学士石犀歌」(居士集巻六)(題下に

「一

作和張生鵡樹犀

一無和字」の注記あり。)を制作しているが、ここでも'

借間此景誰固寓

借間す

此の景

誰の囲寓せしか

乃是呉家右岸者

覗工劉山取山骨

朝鐘暮断非

一日

寓象皆従石申出

と述べ、石犀が

「山骨」

乃ち是れ

呉家の石犀なる者なり

城工

山を到りて山骨を取るに

朝に鐘し

暮れに断ちて

一日に非ず

寓象は皆な

石中より出づ

つまり原石である山塊の核心や本質とも言うベ

き部分をつかみ取

っていることにより'万象がそこから生み出されると

表現しており、「紫石犀歌」等と共通する。これらの例から見て、欧陽

修が石犀や硯等の石製の文房具の愛好において'それらが原石の核と吃

る部分を含んでいることを特に意識しているようだ。

では

「紫右岸歌」の月を秘めた石はその後どうなるのだろうか。続き

を見てみよう。

清光寓古不磨滅

天地至賓難戒械

天公呼雷公

夜持巨斧栗薪巌

堕此

一片落千侃

瞭然寒鏡在玉匪

蝦裏白免走天上

空留桂影猶杉杉

景山得之惜不得

贈我意輿千金兼

自云毎到月満時

石在暗室光出奮

清光

寓古

磨滅せず

天地

至膏

戒繊すること難し

天公は雷公を呼び

夜に巨斧を持ちて薪巌を栄らしむ

此の一片を堕して千伐を落とし

瞭然たる寒鏡は玉庭に在り

蝦暮

自免

天上に走り

空し-桂影を留めて猶は杉杉たり

景山は之を得て得ざるを惜しみ

我に贈りて意は千金と兼ぬ

自ら云へら-

毎に月の満つる時に到るに

石は暗室に在りて光は管より出づと

空想はさらに広がってい-。石のなかに封じ込められた天地の至資た

る月の放つ澄んだ光は永久に磨滅することな-、封印して隠してお-こ

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人文 論叢 ( 三 重大 学) 第2 5号 2 00 8

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人文論叢 (三重大学)第25号 2008

とは難しい。そこで天公が雷公に巨大な斧で岩山を穀させ、そのかけら

のひとひらが千尋を落下し'それが今作者の手許にあ

って'白々と明る

-輝-鏡のように玉の箱のなかに納ま

っているのだと言う。さらに欧陽

情は'眼前にあるこの石にかつて月であ

った痕跡を見つけようと試み'

石の表面ある枝状のすじめを月の桂に見立てている。またこの部分の莱

尾では、贈

って-れた謝景山に好意に感謝しっつ'彼の言葉を記す形で、

この石はもと月であ

った名残として満ち欠けする光を放

つとも述べてい

る。大

地や岩山の核となる部分を含んだ石や玉を'文房具に仕立てて自ら

の机上に載せることは'その所有者に世界の根源を手中にしているよう

な感覚を味わわせるだろうLtさらにそれを用いて作品を制作すること

は、世界の根源に触れる作品を生み出すような気分をも味わわせるだろ

う。さらに言うならばそのような感覚には、詩作と世界創造に相似性を

見出だす中庸期の韓愈らから継承された感覚

が'文人的志向の対象であ

る文房具をその可視的

・具象的な象徴として展開された姿を見ることが

できるのではないだろうか。

ではさらに続-部分を見ていこう。ここから詩は後半に入り、今度は

この不思議な石を表現することの困難が吐露される。

日月尤尊厳

若令下輿物鳥比

擾擾菌類将誰晴

不然此石尭何物

有口欲説嵯如紺

日月は尤も尊厳なり

若し下して物と比を篤さしめは

擾擾たる寓類

将た誰か晴ん

然らざれば

此石は寛に

何物ならん

口有りて説かんと欲するに

紺の如-なるを嵯-

大我天地間

寓怪難悉談

嵯予不度量

毎事思窮探

欲将両耳目所及

而輿造化学童繊

塩焼三辰行

大なるかな天地の間

寓怪

悉-は談じ難し

予は度量せず

毎に窮探せんと思ふを事とす

欲すら-は

両耳日の及ぶ所を将て

而して造化と毒織を挙はんと

塩焼たる三辰行

この部分では、広大な天地の間にある幾多の怪奇を前にした

一人の表

現者の無力感が吐露されている。しかしその

一方で欧陽情は'それらの

怪奇を語り尽-すことは難しいが'自分は身のほど知らずにも何時でも

それらを探り尽-すことに専念し、自分の限られた耳目の範囲のことで

造物主に肉薄することを願

っているのだと、自らの表現者としての強い

意欲をも表白している。ここでは'万象を表現する詩人の営為を造物者

と功を争うものとして認識し、また優れた詩人は詩を制作することによっ

て万物創造の機密に迫ろうとする、という考え方を示しているが'欧陽

情はこれ以前の

「聖愈舎飲」(居士集巻

慶暦元年

(一〇四

一))でも、

梅義臣の詩作について

「詩工鐘刻露天骨

(詩工

鐘刻して

天骨を露は

す)」と述べて同様の発想を展開しており'中庸期の韓愈及びその門人

たちの詩に表現された詩人の役割についての認識が'彼に与えた影響の

強さを示している。

しかし'そのような強い詩人としての自負を持

つ彼をしても、この天

上から来た月の石の有する怪奇を表現することは難しいのだという。こ

の石はつまるところ何物なのかを口で説明しようとしても、首かせをは

められた囚人のように何も言えないと、彼は無力感を表明する。これは

既に見た

「菱渓石」詩の場合と類似の表現だが'この詩の続-部分では、

菱渓石の場合と同様に、やはりこの石をうま-表現することを蘇舜欽に

託している。

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湯浅陽子 怪奇の ゆく え

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幸 工 有 老 未 吾 屡 惟 寓 吾は を 手 匠 だ の し だ 象く 呼 を 蘇 此 ば 宵 を 蘇は び 誰 経 子 石 言 寛 羅 子

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湯浅陽子 怪奇のゆくえ

吾奇蘇子宵

羅列寓象中包含

不惟宵寛膿亦大

屠出言語驚愚凡

自書得此石

未見蘇子心懐漸

不経老匠先指決

有手誰敢施鏑鐘

呼工重石持寄似

幸子留意其無謙

蘇子の宵を奇とす

寓象を羅列して中に包含す

惟だ宵寛く臆亦た大なるのみにあらず

屡しぼ言語を出して愚凡を驚かす

吾の此石を得Lより

未だ蘇子に見えざれば心は懐漸す

老匠を経ずして先づ指決し

有手

誰か敢

へて鏑を施さん

工を呼び石を童かしめ持て寄似す

幸は-は

留意して其れ謙ること無かれ

石犀歌」の月が石に入る過程を想像した表現は、月光と水と鉱物によ

て構成された清澄な美しさを持

っているが'この蘇舜欽の答詩ではその

ような清澄さはそれほど強調されず'欧陽情の作品で表現していた、月

の精髄を自己の机上のものとすることの喜びも示されない。本章で見た

怪石をめぐる二詩ではいずれも'欧陽借と蘇舜欽の視線はぴ

ったりとは

一致していなか

ったが、ここからは両者の好みの違いを窺うこともでき

るだろう。

つまり蘇舜欽が石の怪奇性にこだわるのに対して'欧陽情は

蘇舜欽に韓門詩風の怪奇志向の継承を期待しっつ、同時により落ち着い

た清澄なものへの志向を暗示しているのではないだろうか。⑨

欧陽情は、森羅万象を内包している蘇舜欽の心が'愚昧な凡人たちを

驚かすことばをそこから生み出すと賞賛し、この石を詩に表現すること

を熟練した職人たる蘇舜欽に依頼している。ここで欧陽情が蘇舜欽の広

い胸の内に世界の万象が内包されると評しているのは、既に

「答蘇子美

離京見寄」

「水谷夜行」等と同じ-、韓愈らの表現を意識しっつ'そ

の継承者としての蘇舜欽の、スケールの大きな詩風を高-評価し期待す

るものである。

蘇舜欽かこの詩に答えた

「永叔石月犀囲」永叔月石硯犀歌

(蘇学士文

集巻五

慶暦八年)は、欧陽情が展開した想像を踏まえて雑言体五十

句の長編でそれをさらに拡大し'怪奇の解釈を様々に試みている。ここ

では紙幅の制限もあるので引用しての検討は控えるが'詩全体は、石の

来歴についての答えを究明することよりも'むしろ想像力を存分に働か

せて様々な説を立ててみることを楽しむ気分を感じさせる。また月を愛

でた人物として韓門の慮全に言及し、この作品がその

「月蝕詩」(全唐

詩巻三百八十七)等を意識していることを示している。また欧陽僑

「紫

蘇舜欽を悼む

慶暦八年

(一〇四八)十二月に蘇舜欽は蘇州で病死した。四十

一歳で

った。この年の秋、亡-なる数ヶ月前の蘇舜欽が制作した詩に、次の

「中秋松江新橋封月和柳令之作」(蘇学士文集巻七)がある。

月晃長江上下同

画橋横絶冷光中

雲頑艶艶開金餅

水面沈沈童綜虹

俳氏解鳥銀色界

仙家多住玉華宮

地雄景勝言不壷

但欲追随乗暁風

月は長江に晃かにして

上下同じ-

画橋

横絶す

冷光の中

雲頑

艶艶として金餅を開き

水面

沈沈として綜虹を蓋-

悌氏

解して銀色界と為し

仙家

多-玉華宮に住まふ

地は雄

景は勝れ

言は壷-さず

但だ追随して暁風に乗らんと欲するのみ

中秋の満月が長江の上に明る-輝いて水面にもそっ-りそのままの姿

を映し、冷たい光に照らされた鮮やかに彩られた橋が二つの月の間を横

岩だ

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人文論叢 ( 三 重大学) 第2 5号 2 00 8

じ に 措 き 現 い す 色 澄 し 切

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重要藁葺章蓋≡牽芸萱壷宣誓垂表裏書芸;o

賢要墓裏芸士

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筆写

言責誓去三

豊蓋蓋墓墓斬牽雲貰董蔓ご 詠 品 る し と

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界 を 酬 で、

た く 銀 く 現

瞭 白月 煙

嘗 覆天 地尺 澄壁 江

「 孤 関宿華厳 鮫 自

( 寺 月 煙

同 輿巻 友 天 地六 生 に を

禽 嘗 覆景 話 た ひ

祐」

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上 江 排 長

下 平 排 空

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上 江 排 長下 は 排 空

平括 ら 漸 項撒 か 漸 無に に と くし し

て 寓 て 表隻 頃 真壁 寒 を浮 正 光 露か に 流 は

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中秋夜呉

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慶 子暦 野元 及年 寄( 君一

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灘 石光 勢和 向月 人潟 森壇 叙塊 戟

灘 石光 勢

月 人に に

和 向し か

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壇塊 鍵を 戟潟 をす 森

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七 た 表 ら 的 れ 六 れ 月 池)

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要重奏責苦喜牽蔓璽蛋琴琴肇

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よ ( 覚 る

う- し 清

人文論叢 (三重大学)第25号 2008

っている。雲の突端には水に映じた月の光が丸-平たい金塊の姿を現

し、水には探-沈み込むように美しい彩りの虹が描かれている。冷た-

澄んだ光を放つ金の月が静かな水面に映じるこの光景は'仏教で言う銀

色界か、また仙人の住む玉華宮かとも思われ、作者は言葉で表現し尽-

すことの不可能を感じると同時に'その景物の中に溶け込んでしまいた

いという思いをも述べている。ここには、失意の蘇舜欽が抱いていた、

現実から離れた清澄な光に満たされた世界への怪傑を読みとることもで

きるのではないだろうか。

ここでの

「言不義」の自覚

への言及は'前章で見た怪石をめぐる応酬

詩で'欧陽修が自分の詩人としての力量の限界を感じて蘇舜欽に作詩杏

求めた表現を連想させるが、いずれも、詩人としての自己の能力の限罪

に苦悩しっつも、なおそれを超克しようとする姿勢を示すものである。

もっとも、欧陽情は

『六

一詩話』のなかでこの詩の

「雲頑艶艶聞金餅、

水面沈沈臥彩虹。」の二句について'「時謂此橋非此句雄偉不能栴也。

(時に謂へら-此の橋は此の句の雄偉に非ざれば栴する能はざるなりと。)」

と述べており、作者の苦悩とはうらはらにこの新しい橋を巧みに表現し

たものとして世間で評判になったらしいが。

この詩の表現は'蘇舜欽が雄壮な力強さとともに、無機的ですらある

清澄な美しさへの志向を抱いていたことを示すものだが、蘇舜欽の作品

にはこの他にも、月を金属や玉に見立て'またそれが水に映じる姿を詠

じた'この詩と類似の表現を見ることができる。

銀堂通夜白

銀堂

夜を通じて自-

金餅隔林明

金餅

林を隔てて明かなり

「和解生中秋月」

(蘇学士文集巻六

天聖六年

(一〇二八))

白煙覆地澄江閥

白煙

地を覆ひて

澄江閲-

鮫月嘗天尺壁孤

鮫月

天に嘗たりて

尺壁孤なり

「宿華厳寺輿友生食話」

(同巻六

景祐二~四年

(一〇三五~三七))

長空無職露表裏

排排漸漸寒光流

江平寓頃正碧色

上下清徹隻壁浮

長空

堀無-

表裏を露はし

排排

漸漸として

寒光流る

江は平らかに

寓頃

正に碧色にして

上下

清徹にして隻壁浮かぶ

「中秋夜呉江亭上封月懐前宰張子野及寄君謀察大」

(同巻二

慶暦元年

(一〇四

一))

石勢向人森赦戟

灘光和月潟壇塊

石勢

人に向かひて

叡戦を森にし

灘光

月に和して

壇塊を潟す

「晩泊亀山」(同巻八

慶暦三年

(一〇四三))

地平不動天探碧

地平かにして動かず

天は深碧にして

月色無情人濁愁

月色

無-

人は濁り愁ふのみ

「秋夕懐南中故人」

(同巻八

慶暦五年

(一〇四五))

これらの例には松江新橋の場合と同様に秋の月を詠じたものが多いが、

天聖六年から慶暦五年までの十七年間に及ぶ作品に類似した表現が繰り

返されていることからは'このような志向が晩年のみのものではな-、

持続的に存在していたことを知ることができる。

さらに、このように金属や玉に見立てた月が水に映じる姿を詠じる清

澄な表現が'蘇舜欽に特徴的なものであることを'蘇舜欽自身が自覚し

ていたかどうか不明だが、欧陽情は意識していたらし-、慶暦七年

(一

〇四七)に蘇州の蘇舜欽に寄せた

「槍浪亭」(居士集巻三)の次のよう

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湯浅陽子 怪奇 の ゆく え

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風士 疑 惜 風 見 光 片 高惟 此 概 明 空 不 豊 月俸 境 責 月 碧 耕 浮 自天 天 四 本 潜 水 鋪 最鷹 乞 寓 無 瀦 輿 壇 宜憐 輿 銭 債 漣 月 田 夜

牡 又 惜 清 但 清一

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さ 情

寓 徐 鮫 乃 上 澄 始 雲 水 天

物 曙 鮫 於 下 光 見 収 徳 形皆 所 掛 其 相 輿 天 風 本 積鮮 照 寒 雨 滴 枠 水 波 虚 軽豊 耀 鏡 間 映 容 性 止 静 清

寓 徐 肢 乃 上 澄 始 雲 水 天物 嘩 瞭 ち 下 光 め 収 徳 形

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静か

水に

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月杏

白く

光る

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湯浅陽子 怪奇のゆくえ

な表現にそれを窺うことができる。

風高月自最宜夜

一片豊浮鋪塩田

清光不排水輿月

但見空碧滴瀦漣

清風明月本無償

可惜概要四寓銭

又疑此境天乞輿

壮士惟俸天魔憐

欧陽情はここで'

風高く

月日-

最も夜に宜し-

一片

登浄たり

理を鋪ける田

清光は水と月とを妨ぜず

但だ空碧の騎漣を滴すを見るのみ

清風

明月

本と債ひ無し

惜しむべし

枕だ四蔦鏡に要れることを

又た疑ふ

此の境

乞輿するかと

壮士

惟俸するを

魔に憐れむべし

蘇舜欽が好んで用いる月と水と澄んだ光からなる情

景を、苦衷のなかにある彼が慰めを求めた姶浪事の景観として'ことさ

ら描いているようだ。

また後年、知穎州であ

った皇祐元年

(一〇四九)の

「飛蓋橋玩月」

(居士集四)で、欧陽情は次のような表現もしている。

天形積軽清

水徳本虚静

雲収風波止

始見天水性

澄光輿枠容

上下相滴映

乃於其雨間

鮫鮫掛寒鏡

徐曙所照耀

寓物皆鮮豊

天形

軽清を積み

水徳

本と虚静なり

雲収まり

風波止み

始めて

水の性を見はす

澄光

枠容を輿にし

上下

相に滴し映ず

乃ち其の両つの間に於いて

鮫鮫として

寒鏡を掛-

徐噂の照耀する所

寓物

皆な鮮豊たり

ここでは静かな水に映る月を白-光る冷ややかな鏡に喰えているが、

「上下」が照らしあう等、既に見た蘇舜欽の諸作品を連想させる表現が

多-、題材が橋と月の取り合わせであることからも'前掲の

「中秋松江

新橋封月和柳令之作」を意識したものではないかと思われる。前章で見

た'蘇舜欽に寄せた二詩で'欧陽修が月と水と光から構成される清澄な

情景を措いたのにも、蘇舜欽の詩のこのような情景に対する意識が存荏

したためかもしれない。

さらに欧陽修は蘇舜欽に関わ

って、これとは別の金属や宝玉のイメー

ジを抱いている。それは次に掲げる蘇舜欽の没後に著された詩文に現れ

る、彼の才能や詩文を土の中でも腐食されることのない金属や宝玉に癒

えたものである。

金石離堅、尚可破壊。子於窮達、始終仁義。惟人不知、乃窮至此。

蕗而不見'遂以没地。濁留文章、照耀後世。嵯世之愚、掩抑穀傷。

誓如磨鑑'不滅愈光。

金石は堅きと錐も、尚は破壊すべし。子は窮達に於いて、仁義に始

終す。惟れ人知らず、乃ち窮して此に至る。蕗みて見れず、遂に以

て地に没す。濁り文章を留め'後世に照耀するのみ。嵯

世の愚か

なる、掩抑し穀傷す。筈

へは磨鑑の如-'滅せずして愈いよ光る。

「祭蘇子美文」(居士集巻四十九)慶暦八年

(一〇四八)

予友蘇子美之亡後四年、始得其平生文章遺藁於太子太博杜公之家、

而集録之以馬十巻。子美、杜氏之婿也。遂以其集蹄之、而告子公日、

「斯文、金玉也。秀衡埋没糞土不能錆蝕。其見遣千

一時、必有収而

賓之干後世者。雑埋没而未出、其精気光怪、巳能常自費見而物亦不

能玲也。

予が友

蘇子美の亡き後四年、始めて其の平生の文章遺藁を太子太

博杜公の家に得、而して之を集録し以て十巻と為す。子美は'杜氏

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人文論叢 (三 重大学) 第2 5 号 2 0 0 8

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麦藁恵三苦寒妻妾裏芸芸等量九 に 表 分 儒 が う 表 る 韓 後)

世 現 た 既 家、

な 現 こ こ 愈 に

天 白 岐 黄 に を や ち に の 後 あ と と こ る 久 て 韓 而 雄 而 而 の「

地 従 山 河、

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は こ の

壷警び ー

芸蓋空言歪蓑新妻霊夢-

人文論叢 (三重大学)第25号 2008

の堵なり。遂に其の集を以て之に蹄し、而して公に告げて日-'斯

文は'金玉なり。寿都され糞土に埋没するも錆蝕する能はず。其の

一時に遺らるるも'必ず収めて之を後世に膏とする者有らん。埋没

して未だ出でざると錐も'其の精気光怪'巳に能-常に自ら発見し

て物は亦た玲ふ能はざるなり。

「蘇氏文集序」(居士集巻四十

一)皇祐三年

(一〇五

一)

君不見

鼻卿子美虞奇才

久巳零落埋黄填

子美生窮死愈貴

残章断稿如壇塊

見ざるや

鼻卿

子美

星に奇才にして

久し-己に零落して黄嘆に哩もる

子美

生きて窮するも

死して愈いよ貴-

残章

断稿

壇塊の如し

「和劉原父澄心紙」(居士集巻五)

至和二年

(一〇五五)

これらの詩文ではいずれも'不遇のままで人生を閉じた蘇舜欽が遺し

た詩文が、汚れた土の中に埋もれても腐食されることな-自ら輝きを発

しているとされ、それは磨き込まれた鏡や金玉

・壇塊といった輝きを放

つ金属や宝玉の硬質なイメージをも

って示されている。また各々の詩文

の制作時期は慶暦八年

(1〇四八)から至和二年

(一〇五五)までの八

年間に及んでおり、蘇舜欽の没後、欧陽修はこのようなイメージをある

期間持ち続けていたと推測される。このようなイメージは'先に見た'

金属や宝玉に見立てられた月が水に映じる情景とのつながりを感じさせ

るものであり、欧陽修の蘇舜欽の詩文に対するイメージを反映すると忠

われる。このようなイメージの重なりには韓門の怪奇を超えて、彼ら独

自のより清澄なものへ向かおうとする志向を見ることもできるのではな

いだろうか。

さらに、この埋もれても腐食されずに輝き続けるもののイメージは、

後に

「記者本尊文後」(居士外集巻二十三

嘉祐年間)では'かえって

韓愈の古文について用いられている。

而孔孟慢性於

一時、而師法於千寓世。韓氏之文'没而不見者二百年'

而後大施於今。此又非特好悪之所上下。蓋其久而愈明、不可磨滅'

錐蔽於暫而終種子無窮者、其道嘗然也。

而して孔孟は

一時に於いて慢性たるも、千寓世に於いて師法たり0

韓氏の文は、没して見れざること二百年、而る後に大ひに今に於い

ひと

て施さる。此れ又特

り好悪の上下する所なるのみに非ず。蓋し其れ

久し-して愈いよ明らかに、磨滅すべからず'暫しに干いて蔽はる

ると難も終に無窮に於いて耀-は、其の道

首に然るべきなり。

ここでは韓愈の古文が、

一時は覆い隠されても、「明らかに」「磨滅す

ることな-」「無窮に耀-」と述べられており'蘇舜欽の詩文に対する

表現と相い似たものとなっている。さらにここでは韓愈の古文のこのよ

うなあり方を、その生存中には不遇であ

った孔子や孟子の説いた

「道」

が、後には永遠に手本とされるに至

ったことに比況して、韓愈の古文が

儒家の理想である

「道」を載せるものであることを示そうとしている。

既に見たように、交遊の初期においては'欧陽情は梅重臣を交えた自

分たちを韓愈

一門の詩風の継承者として強-意識し、韓愈

「隻鳥詩」の

表現や発想を踏まえた表現を繰り返していたが'蘇舜欽

・梅尭臣とも既

に世を去

った嘉祐六年

(一〇六

一)に制作された

「感二子」(居士集巻

九)に'「隻鳥詩」を踏まえた表現が再び現れる。

黄河

1千年

1清

黄河

l千年にlたび清し

岐山鳩鳳不再鳴

岐山の鳴鳳

再び鳴かず

自従蘇梅二子死

蘇梅二子の死してより

天地寂黙収雷撃

天地は寂黙し雷撃を収む

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湯浅陽子 怪奇 の ゆく え

命 古 筆 及 天 二 喧 呈 高 石短 人 下 其 地 子 嚇 無 木 轟疑 謂 寓 放 鬼 精 終 百 逢 杯烏 此 物 筆 神 思 日 烏 春 戸天 敵 生 騎 無 極 無 解 不 不公 天 光 蒙 遁 捜 人 言 蓉 啓憎 巧 柴 俊 情 挟 聴 語 萌 塾

命 古 筆 其 天 二 喧 量 寓 百短 人 下 の 地 子 噺 に 木 島き の 筆 す 百は 謂 寓 を 鬼 精 る 鳥 春 戸

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湯浅陽子 怪奇のゆくえ

百品杯戸不啓塾

高木逢春不費萌

呈無百烏解言語

喧嚇終日無人聴

二子精思極捜挟

天地鬼神無遁情

及其放筆騎蒙俊

筆下寓物生光条

古人謂此戯天巧

命短疑馬天公憎

百島

戸を杯すも啓塾せず

高木

春に逢ふも登萌せず

量に育鳥の解-言語する無からんや

喧噺すること終日なるも人の聴-無し

二子

精思して捜扶を極め

天地

鬼神

情を遁すなし

其の筆を放ち豪俊を騎するに及びて

筆下の寓物は光条を生ず

古人

へら-

此れ天巧を戯ふと

命短さは

疑ふら-は天公の憎むところと馬らん

欧陽情はここで

「讐鳥詩」の表現を意識しっつ'蘇舜欽

・梅重臣を諸々

の烏に抜きん出た

「鳴鳳」に誓え、彼らの死後は天地の秩序が失われた

と述べ'さらにかつての作品と同様に韓愈ら中居期の発想を踏まえつつ、

・梅は天地や鬼神の有様を描き尽-し、それが造物者の枢密を捉える

ものであ

ったために憎まれ'短命に終わ

ったのであろうと述べている0

「讐烏詩」を意識した表現は、後年にはこの詩以外に見ることができ一な

いが'この詩の表現は、

一人生き残

った欧陽情がかつての彼らとの交遊

を回顧し、かつて自作の詩の表現を意識したものなのではないだろうか。

(注)

①欧陽情はまた

「突鼻卿」(居士集巻

慶暦元年

(一〇四

一))でも'「作詩幾

百篇'錦組聯理裾.時時出険語'意外研精虚。窮奇襲雲煙、捜催播鮫魚.」と

述べ、石延年の詩風を奇を窮め怪を捜すものと評しており'蘇舜欽詩に対する

評価に近似する。石延年の詩風にも韓門に近いものを見ていたと思われる。

②中唐期の詩作と世界創造の相似性に関する思考については、川合康三氏

「詩は

世界を創るか-中庸における詩と造物-」(中国文学報

第四十四冊

一九九

二年)を参照。

③熊寧二年

(一〇六九)に蘇拭は、既に穎州

(現河南省)に引退していた欧陽情

のもとを訪れ'「欧陽少師令賦所蓄石犀」(東披集巻二

古典籍研究舎叢書

籍之部

16

汲古書院

一九九

一年)を制作している。この時に蘇輔が目にし

た石犀が同

一のものか否かは不明だが、この詩で蘇輔は'不遇のまま死した童

人たちの神業の如き機知や巧みな構想が石の中に凝結していると考えており'

欧陽傍らの発想を踏まえていると思われる。