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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title エンロン, ワールドコム事件の倫理的側面 : Gibson (2007) Ethics and Businessのエピローグより(Ethical Aspects of the Scandals at Enron and WorldCom : From the Epilogue in Gibson (2007) Ethics and Business) 著者 Author(s) 堀口, 真司 掲載誌・巻号・ページ Citation 国民経済雑誌,206(4):115-129 刊行日 Issue date 2012-10 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81008440 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81008440 PDF issue: 2019-04-30

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

エンロン, ワールドコム事件の倫理的側面 : Gibson (2007) Ethics andBusinessのエピローグより(Ethical Aspects of the Scandals at Enronand WorldCom : From the Epilogue in Gibson (2007) Ethics andBusiness)

著者Author(s) 堀口, 真司

掲載誌・巻号・ページCitat ion 国民経済雑誌,206(4):115-129

刊行日Issue date 2012-10

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81008440

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81008440

PDF issue: 2019-04-30

Page 2: エンロン,ワールドコム事件の倫理的側面 University Repository : Kernel タイトル Title エンロン, ワールドコム事件の倫理的側面 : Gibson (2007)

堀 口 真 司

国民経済雑誌 第 206 巻 第 4号 抜刷

平 成 24 年 10 月

エンロン,ワールドコム事件の倫理的側面Gibson (2007) Ethics and Business のエピローグより

Page 3: エンロン,ワールドコム事件の倫理的側面 University Repository : Kernel タイトル Title エンロン, ワールドコム事件の倫理的側面 : Gibson (2007)

1 は じ め に

2001年12月 2 日,エネルギー会社エンロンが倒産した。そのわずか数ヵ月後2002年 7 月21

日に,今度はテレコミュニケーション会社ワールドコムが倒産した。株主重視を公然と掲げ,

企業経営を執行する経営者,彼らを内部で監督する社外取締役を中心とする取締役会,こう

した企業統治の実態をその外側から監視する監査法人。アメリカ型の株主資本主義を支えて

きた諸制度に対する疑念が一気に膨張し,その後,立て続けに制度改革が行われたことは,

今でも記憶に新しい。実際,制度の不備を是正すべく,さまざまな議論が交わされ,各種法

規が新設された。

人為的な制度の中に不備があることは,仕方のないことのように思われる。しかしながら,

これらの議論や制度改革を通じてたびたび登場した,倫理規定や1)倫理教育と

2)は,一体何を意

味しているのであろうか。人為を越えた領域を背負わされているのであろうか。

経営者や担当者,監査人は,適切な倫理観を持って対応することが求められるとよく言わ

れるようになった。しかしながら,エンロンの経営者が,社会貢献活動に積極的であった事

実を思い返せば,その意味はとても曖昧なものとなってくる。そもそも適切な倫理観とは何

なのか。それは,ビジネスの現場に適用できるものなのか。これらの問い全てに明確に答え

るには, より深い考察が必要となるであろうが, 本稿では, ビジネス倫理を専門とするK.ギ

ブソンの議論を参考にしながら,一つの道筋を提供してみたい。

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堀 口 真 司

本稿では,エンロン,ワールドコム事件に関わった人々の視点を契機として,ビ

ジネスの世界において,倫理観を有することの意味について考察する。まず,エン

ロン,ワールドコムの事件を概観し,次に,ビジネスの世界で哲学をすることの必

要性を示し,その上で,倫理観の一例として,美徳の哲学を提唱したマッキンタイ

アのフレームワークを紹介している。最後に,そうしたフレームワークが現実のビ

ジネスの世界でどのように適用されうるのかについて検討し,合わせて今後の課題

を提示している。

キーワード ビジネス倫理,美徳,制度―実践,クラフツマンシップ

エンロン,ワールドコム事件の倫理的側面Gibson (2007) Ethics and Business のエピローグより

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2 エンロン,ワールドコム事件の概要

2001年12月 2 日,エンロンが連邦破産法の適用を申請した。同年10月16日には,CFO で

あったファストウ氏によって管理されていた LJM2 Co-Investment, L. P. との取引に関連し

て, 5 億4,400万ドルの税引後利益の減額修正,および12億ドルの資本金の減額修正を発表

していた。その後 1 ヶ月もたたないうちに,同じくファストウ氏によって管理されていた

LJM1 Cayman, L. P. および,彼の部下コッパー氏によって管理されていた Chewco Invest-

ments, L. P. との取引に関連して,1997年から2001年にかけての利益額について,大幅な過

年度減額修正を発表した。また,ファストウ氏が LJM1 および LJM2 から3,000万ドル以上

取得していたことも同時に公表され,同社は完全に市場からの信頼を失うことになった。

2002年 8 月21日にはコッパー氏が連邦地裁に対し,詐欺および資金洗浄についての有罪を認

め,不正に取得した1,200万ドルの資産を放棄するとともに,捜査に協力することを約した。

また,同年10月 2 日には,ファストウ氏が連邦捜査局に詐欺,資金洗浄等の疑いで逮捕され

ることになった。3)

エンロンは,1985年 7 月に,天然ガス・パイプライン会社ヒューストンナチュラルガスと

インターノース・オブ・オマハが合併して設立された,地方のエネルギー会社であった。そ

の後,同社はエネルギー市場の規制緩和の波に乗り,89年には天然ガス,94年には電力商品,

97年には天候デリバティブ商品へと,その取扱業務を多角化させていった。エンロンの売上

高,総資産は急激に拡大し,2000年には売上高が1,000億ドルを突破,全米第 7 位の巨大企

業となっていた。その継続的なハイリターンのために,同社はウォールストリートのアナリ

ストの間でも人気の選択肢の一つとなり,フォーチュン誌でも,先進的なビジネスモデルを

確立した超優良企業として高く評価され,「最もイノベーティブな企業」として 5年連続で

選ばれていた。4)

しかしながら,その高い報告利益の裏側では,ある複雑な不正取引があった。例えば,エ

ンロンが保有していた有価証券の価値をヘッジするために,上記のような特別目的会社

(SPE) からデリバティブを購入していたが,その SPE の主な資産は設立時に現物出資され

たエンロン株式であり,実質的には,自社株の評価益で他社株投資をヘッジするという形に

なっていた。こうした会計上のヘッジは,エンロンの株価が上昇している限りは機能しそう

に思えるが,そもそも自己株式の時価上昇分を損益計算書に利益として計上することは会計

の原則に反し,またそれらの SPE の多くが連結対象から外されていたことも,不正な会計

処理であった。その間にも,社内ではアグレッシブな行動が評価され,目標を達成した者に

は,気前良くインセンティブやストックオプションが浪費されていた。5)

一方でエンロンは,政治的にも社会的にも,積極的に貢献していた。ブッシュ両政権やそ

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の間のクリントン政権に対して政治献金を続け,また天然ガスは環境にやさしいと考えられ

ていたため,大統領選で敗れたゴア陣営にも選挙資金を提供していた。6)従業員に対する福利

厚生も充実させており,健康施設,体育館,カフェテリア,保育施設が敷地内に併設され,

また専属のコンシェルジュまでもが提供されていた。7)エンロンはまた,市民精神を持った組

織でもあり,毎年1,000万ドルもの予算をヒューストンの地域社会活動に割り当てていた。

例えば1997年には,前ソ連大統領ゴルバチョフ氏を招いたパーティを主催し,その優れた公

共精神を祝してエンロン賞および 5万ドルの報奨金を授けていた。8)その他には,ヒュースト

ンの野球場に,エンロンの名が付されていたことでも有名であった。

2001年 2 月に,15年に亘ってエンロンを指揮してきたレイ氏が CEO を退き,スキリング

氏に交代し,しかしながらそのわずか数ヶ月後に今度はスキリング氏自らが辞任を要請した

頃から,ウォールストリートの間で,一気に同社に対する疑念が膨らんでいった。2000年 8

月に 1株90ドルをつけていたエンロン株が,スキリング氏の辞任後には31ドルにまで下落し

ていた。9)その後の捜査で明らかになったことは,多くの経営陣が,投資家に対して株価の回

復を吹聴しながら,自分たちは株を売却していた事実や,ヒューストンのアーサーアンダー

セン会計事務所でも,エンロンに関連する書類の破棄が指示されていたなど,エンロン事件

の隠蔽に深く関わっていたという事実であった。10)結果的には,エンロンに関わる多くの経営

陣が,罪を問われることになったのである。

エンロンの倒産によって揺れ動いた市場のすぐ後に,大手テレコミュニケーション会社で

あったワールドコムもまた倒産した。望ましい報告利益を捻出するために,不正経理によっ

て計上されていた利益額は90億ドル以上であった。またその倒産に際して,およそ17,000人

の従業員が仕事を失うことになった。ワールドコムは1983年にエバース氏によって設立され

た通信会社であった。1990年代を通じて M & Aを繰り返し,その規模を急拡大させてきた。

急成長する統合型テレコミュニケーションのプロバイダー業者としての地位が,非常に高い

株価をもたらし,それ自体がさらなる買収のための強力な原資を提供していたのである。

1998年 9 月には,最もアグレッシブな買収劇を仕掛け,当時の収入額では同社よりも遥かに

大きかった MCI を400億ドル近くで取得することに成功した。11)

しかしながら,1990年代の終わりには,当該産業は,設備過剰や新技術による競争に直面

し,市場を獲得するために,各社は厳しい競争環境の中を生きぬかなければならず,23の通

信会社が廃業を余儀なくされ,およそ60万人が職を失ったと言われている。12)

AT & Tに次い

で,当時全米で 2番目に大きかった通信会社ワールドコムの倒産もその一つであったが,当

時,2,000万人の顧客を抱え,300億ドルの収益を報告し, 6万人以上が働いていた,世界最

大の倒産となった。13)2002年に入った頃に,創業者エバース氏に対する約 4億ドルの不透明な

融資が発覚し,それを契機に SEC が調査を開始したことによって,同社の株価が急落する

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ことになった。社内において最初に不正経理を発見したのは,内部監査部門の女性スタッフ,

クーパー氏であった。彼女は,2002年 5 月に資本的支出に関わる帳簿の精査作業に取り掛か

り,数百万ドルもの不正経理が行われていることを発見した(通信回線維持料 (line costs)

が費用ではなく固定資産に計上されていた)。彼女は,自分の発見を,CFO サリバン氏を含

む上位の経営陣に持ちかけたが,彼らは,その内部監査の延期を指示した。しかし彼女は継

続し,その結果を監査委員会委員長ボビット氏に報告し,最終的には 6月25日に対外公表さ

れることになったのである。同社が倒産したのは,そのしばらく後の2002年 7 月21日であっ

た。14)その後の捜査で分かったことは,エバース氏がありありと責任逃れ経営をとっており,

不正経理には全く気付いていなかったと主張していたが,2005年 7 月13日には不正と共謀の

罪を発見され,25年の禁固刑の判決を下されることとなった。15)

これらの両方のケースでは,物事は明らかに悪い方向へ流れた。それはある意味,信頼に

関わる問題であった。株式の価値は度重なる買収によって供給されたものである。市場が報

告利益に基づいて会社に価値があると信じ続ける限り,株式はその価値を保持することがで

きる。別の角度から見れば,皆がうまくしている限り,会社の内部的な業務については盲目

的になる傾向があった。成功していることに対して文句をつけることは難しい。『裸の王様』

の物語の中で,馬鹿には見えず,分別や眼識を持つ者には見えると言われた王様の衣装を,

誰もが着ていると信じていた。つまり,彼らは真実を自分たちで否定していたのである。最

終的に,そのトリックは,見たものを正直に話した小さな少年の一声によって暴かれたので

ある。しかしながら,外部的な現実性を認めることと,その少年を愚かで人を惑わせる者で

あると主張することの間の境界線は微妙である。真実はおそらく目に見えたものの通りであ

るが,現実社会では,たいてい私たちの知覚はコンテクストによって形成されており,多く

の場合それらは他者の声によって修正されることになる。

3 ビジネスの現場で哲学をする

これらの事件はドラマチックであり,壮観であり,しばしば大きな権力を持った人々が堕

落して他人の信頼を悪用していることを示唆している。これらの事例はしばしば道徳的な物

語のように読まれ,そこでは悪い人々が悪いことを行い,私たちはそうした事例に従うべき

ではないという教訓が結果的に付されることになる。しかしながら,こうしたスキャンダル

な物語の最も興味深い特徴は,しばしば見落とされやすい。つまり,これらは,樽の中から

腐ったりんごを取り除くような悪者についての物語ではなく,どのようにして,きちんとし

た人々が,従うべき基礎的な原則や,適切な分析の枠組みを持たずに,倫理的な苦境に巻き

込まれていくのか,という魅力的な物語 (saga) なのである。なぜなら,これらの個々人が

大きな影響力を持つようなコンテクストが現に存在しうるからであり,また彼らの行いを評

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価するような企業文化も存在しうるからである。組織には,多くの権威階層があり,その中

では,例えばボトムラインという価値観の外側で物事を見たり考えたりする感覚はしばしば

薄れやすいものとなる。多くの人々が,その組織階層の中に取り込まれ,異を唱える声は押

しつぶされていく。

こうした物語に対する規制的な対応は法の増強である。つまるところ,それこそ,私たち

が法設定者に期待していることであろう。このようにして,2002年のサーベンス=オックス

リー法が,市場に対する投資家からの信頼を取り戻すために,さらなる透明性とアカウンタ

ビリティを求めて創設された。16)それでも法には限界がある。あるコンサルタントは,会社が

新たな法規制に直面したとき,最初に発する二つの質問があると述べている。�最低限の要

請は何ですか?と�抜け穴はどこにありますか?である。17)規制はおそらくコンプライアンス

を強制するが,会社運営の方法を変えるにはほとんど何もすることができないであろう。

私たちは,法規制を単に設定して条文にするよりも,実際に強制することがずっと難しい

ことを知っている。例えば,大手医療サービス会社ヘルスサウスの CEO であったスクルー

シー氏のケースでは,彼が明らかに部下に対して,会社がおよそ30億ドルの利益を水増しし

ていたときに,会計数値の調整を指示した証拠があったにもかかわらず,起訴が有罪の陪審

評決を獲得することに失敗した。18)このようにケースの適法性がどのようなものであれ,それ

でも,哲学が提供するはずのツールを利用して何が起こっていたのかを批判的に評価するこ

とは有益である。

議論をドラマチックな事件に制限するようなビジネス倫理は,馬が走り去った後で馬小屋

のドアに鍵をかけるようなものである。またそこには,腐敗というものが主として巨大ビジ

ネスの悪事に関する問題であることが暗示されている。しかしながら,その問題の真実は,

私たちは皆が,日々,道徳的な妥協に直面しており,また一見取るに足りないような問題が,

極めて重大な結末をもたらしているということである。例えば,一日にプレス加工した鉄板

の枚数によって給料を得ている作業員には,スピードをダウンする安全規格を回避するイン

センティブがある。ある工場が海外へ移転するとき,小さな町は荒廃するかもしれない。ファ

ストフードのレストランがコストを度外視して,高コレステロールを回避するために,オイ

ルの少ない調理を選択するかもしれない。あるいは,ある中間管理職は,「使うか失うか」

という主義の下で稼いだお金は,どのような種類の必要性であっても,その次の日に消費し

てしまうべきであると教えられているかもしれない。私たちのほとんどが巨大企業を経営し

ているわけではないが,それでも私たちは現実的な当座のジレンマに直面している。どのよ

うな環境であれ,何かがおかしいという最初の兆しは,たいてい,個々人の個人的な懸念か

ら生まれるものである。何が起こっているのかについて倫理的な次元に気付いた鋭い洞察力

を持っていた,ワールドコムのクーパー氏のように。つまり,ビジネス倫理とは,経営者に

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とっての問題であるだけでなく,多かれ少なかれそうした組織に関わって生きている私たち

自身の問題である。こうした意味において,現在のビジネスについて哲学的考察を深めるこ

とは,全ての人に開かれたものと言うことができるだろう。

したがって,ビジネス倫理を勉強することの現実的な利点は,ドラマチックな悪事から結

論を導くことができるようになることではなく,私たちの思考の根底にある基礎的な原則や

概念を思案することができるようになることである。その意味において,ビジネス倫理とは

第一に訓練である。それは,従業員として消費者として,常識として私たちの生活の中に組

み込むべきこと,そして会社の使命の根本的な一部とすることである。これは,ビジネス倫

理が,悪者を善人へ,複雑な問題をシンプルにしてくれるような魔法の杖であると言ってい

るのではない。他方で,それは今まで以上の規制を加えるよりも,ずっと有意義なアプロー

チである。これまでにも何度か,ビジネスとはアモラル (amoral),つまり道徳的でも不道

徳的でもなく,消費者の需要を反映した完全に中立的な仕組みであると言われてきた。しか

しながら,これは完全に間違っているようである。ビジネスは私たちの生活の細部に浸透し

ており,私たちの存在の意味を説明する物語の一部となっている。そのために,それは必然

的に最も深い倫理的問題,私たちが正義や公平をどのように理解しているのか,またどのよ

うに善悪を区別しているのか,と密接に関わることになる。言い換えれば,私たちの生き方

そのものに厳密的な意味において中立的な地点など存在しない以上,ビジネスもまたアモラ

ルではいられないのである。では一体ビジネスとは,どのような倫理観と関わっているので

あろうか。

4 美徳の哲学 実践と制度の区別

ビジネス倫理を専門とする学者である G.ムーアは,現代的な哲学者である A.マッキンタ

イアによって打ち立てられた美徳 (virtue) の哲学を修正し,現在のビジネス社会への応用

を試みている。ムーアは,マッキンタイアにならって,美徳 (virtue) と価値 (value) を峻

別し,美徳ではなく,価値によって評価されつつある傾向の中に,現代社会の病理を読み取

ろうとしている。こうした病理の意味を理解するためには,マッキンタイアによって提示さ

れた,実践 (practice) と制度 (institution) を区別する見方を正確に理解する必要がある。マッ

キンタイアによれば,実践とは,時に一貫し時に錯綜するような,人々の間で繰り広げられ

るある種の共同作業に注目することであり,他方で制度とは,そうした実践が社会的に(人々

の間で共有されるような形で)体現した形式である。例えば,チェス,物理学,医療は実践

であるが,チェスクラブ,研究所,病院は,制度である。そして,制度はその特徴として必

然的に,実践に「内生的な善」(internal goods) ではなく,彼が「外形的な善」(external

goods) と呼ぶものと関わることになる。ここで内生的な善とは,実践そのものの内から生

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まれるものであって,それは例えば,芸術や科学,政治を実践するために私たちが心に抱く

志を達成する上で育まれるような性格である。それに対して外形的な善とは,制度を成り立

たせるものであって,具体的には,名声 (fame),権力 (power),利益 (profit) のような価

値であり,これらは多かれ少なかれ,人々にとっての財産であり,所有されうるようなもの

である。したがって,「制度は,金銭やその他の利福の獲得を目指し,権力や地位に基づい

て組織化され,その金銭や権力や地位を報酬として配分することに関わっている。というの

も,制度はもとより,その制度として体現される実践そのものも,そうする以外には存続す

ることができないからである。つまり,制度によって維持されなければ,どのような実践も

一定の期間存続することができないのである」(MacIntyre, 1985, p. 194)。結果として,実

践は絶えずある種の問題に直面することになる。19)

例えば,私たちは子供に何かをおとりにピアノレッスンを受けさせることはできるであろ

うが(おそらく),それが有効であるのはある限界点までである。もし内生的な報酬がなけ

れば,彼女は外形的な報酬が途切れると,すぐにレッスンをやめてしまいそうである。おそ

らくこれと同じことが,医療という実践の場合にも言えるだろう。人の病を和らげたり癒し

たりする気持ちはおそらく誰の心にも芽生えるものであるだろうが,身近なところに病人が

いなくなると,すぐにそうした気持ちは消えてしまいそうである。それを病院という制度と

して継続するためには,給与や地位などさまざまな外形的要素が必要となるが,人が医者の

代わりに弁護士になることによって,同程度の外形的報酬を得ることができることを考える

と,結果として実践は,絶えずある種の問題に直面することが想像に難くない。

もし,こうした内生的な報酬と外形的な報酬という緊張関係をビジネスの世界に応用する

なら,私たちは,会社というものが必然的に外形的な報酬によって動かされている可能性が

あることを感じ取ることができるだろう。マッキンタイアによれば,現在ビジネスの世界に

生きる人々は,ある種の目標を所与の前提と思い込み,ある非常に大きな制約の中で,それ

らの目標を達成するために,目の前の資源を最も経済的に,最も効率的に配分することを考

えなければならなくなっており,そうした中に倫理的な問題が潜んでいると指摘している。

そこでは,もし彼らが,子供の親であったり,ある商品の消費者であったり,ある政体の市

民であったりした場合に,当然感じるはずの感覚を,考慮する必要がなく,あるいは考慮し

てはいけないことにすらなっているからである。したがって,例えば,彼らが所属する家庭

から会社の領域へと移動するとき,そこにはある種の感覚の喪失が伴うことになる。別の言

い方をすれば,現在のビジネス社会で生きるためには,何らかのマスクを被り,衣装を羽織

りながらある種の役割を演じるかのように,彼らはさまざまな舞台の上で,異なる役割を演

じなければならず,そこでは少なくとも家庭と職場という二つ以上の人格を持つことが強制

され,マッキンタイアは,ここに倫理観の喪失を読み取ろうとしているのである。20)すなわち,

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倫理観の喪失とは,外形的な善を求めて様々な役割を演じる上で,その人が本来的に有する

統一的な感覚を隠し,結果的に誠実でいられなくなる傾向であることが示されている。

こうしたフレームワークに基づけば,エンロンやワールドコムによる事例は,経済的な報

酬(すなわち外形的な善)によって惑わされ,誠実でいられなくなった人々(統一的な感覚

(integrity) を喪失した人々)に関する教訓として読むことができるだろう。しかしながらこ

うした結論は,ビジネス世界の過酷な現実に比べ,一見,素朴で古風なもののように思われ

るかもしれない。というのも,昔からお金に執着したり細かくなることは卑しく思われてき

た経緯があり,また対照的に,誠実や正直さといった感覚は道徳的に善いものとされてきた

からである。そこでは,誰の目にも善悪がはっきりとしているように思われ,おそらくエン

ロンやワールドコムの事件に関わっていた人々も,こうした常識的な感覚を知っていたはず

である。ではなぜ,これらの人々がこうした単純な倫理的問題に躓くことになるのだろうか。

この問いにこそ,哲学的な考察を深めることの意味がある。すなわち,経済的な報酬を外形

的な善と言い換え,誠実でいられなくなることを統一的な感覚 (integrity) の喪失と読み替

えることの意味は,こうした問いに答えることにある。以下では,マッキンタイアによって

示されたフレームワークの利点について,より詳細に検討してみたい。

マッキンタイアによって示された分析フレームワークの利点として,第一に,名声,権力,

利益など,すでにある程度制度化されている善が外側にあるもの (external) として分類さ

れている点を挙げることができるだろう。一般に,例えば経済学では,市場で取引されなかっ

たものを「外部性」(externality) と表現し,そうした外部不経済を内部化するという発想の

下で社会や環境に関わる問題に取り組む方向が目指されているが,経済的な善を外側にある

ものの一つと位置づけることによって,必ずしも経済学というフレームワークの中で,社会

や環境に関わる目的を考察する必要がないことを思い出させてくれている点である。こうし

た内外の視角的な逆転は,経済的な発想が広く行き渡っている現在では,特に意味がある。

例えば,外部不経済の内部化という論理では,必然的にその立論の中心に市場が置かれ,経

済活動と社会や環境に関わる目的のバランスが図られるとき,現在の経済活動を維持しなが

らそれ以外の目的も達成するという論理展開へといたるが(例えば,CSR に取り組むこと

は収益性を損なうことがないだけでなく,収益性に貢献する可能性もあるという発想),内

外の視点を逆転して見れば,バランスを図るとは,両者には衝突する可能性があり,時には

社会や環境に関わるものが優勢となる時期もあることを疑いなく受け入れられることとなる。

したがって,例えば営利病院のような組織を想定する場合,医療というミッションの名誉の

ために,困窮した人々に診療を提供することもあるかもしれず,そのときには,たとえそれ

が財務的な負担となり,PRの観点からしても有意義なベネフィットを生み出さないもので

あったとしても,実施されることになるはずである。

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5 クラフツマンシップ 現在のビジネス社会を生きる美徳として

マッキンタイアによって示されたフレームワークのもう一つの利点は,現代社会の倫理的

な問題の本質が,外形的な評価を強制されることによって,一つの人格の中に複数の価値規

準を取り入れることから来る,いわば統合失調症のようなものであると診断されている点で

ある。先ほど述べたとおり,道徳的な寓話とは異なり,現実のビジネスの世界では私たちの

知覚はしばしばコンテクストによって規定され,そこでの善悪の判断は極めて困難なものと

なることが予想される。では一体どのような行いが道徳的に善いこと,すなわち美徳とみな

されるのであろうか。正直や誠実であることとは,どのような性格なのであろうか。

ビジネスは人間的経験の一部である。私たちの多くが雇用されることになり,多くの者に

とってその雇用が,目が覚めている時間の大部分を占めることになる。最も基本的な地点で,

私たちは自分たちの生活に意味を探し求め,その中で仕事の占める位置について考えている。

そうした疑問に答えるために,二つの対照的な見方を挙げることができるだろう。一つ目は,

区分化された見方であり,その中で私たちは,例えばオンとオフを分け,職場ではある役割

を引き受けながら,それ以外の時間にプライベートな生活を持とうとする。そうした区分に

よって,私たちは職場で全く別なふうに振舞うことができ,そこで行っていることから心理

的な距離感を得ることができる。実際,もし自分たちに裁量があるなら決して行わないよう

なことにも従事することができ,自分たちの生活はプライベートな時間の中で家族や友達と

の間で起こると信じているのである。これとは対照的に,家庭での行為から,あるいはその

他の生活領域から,職場での行いを切り離してしまうことをしないような捉え方をすること

も可能である。例えば,私たちが自分たちの存在に意味を見出そうとするとき,それぞれが

自分自身についてのストーリーを思い描いたり,また社会やその歴史を形成するより大きな

物語の中にしばしば居場所を探し求めようとする。そこでは,必然的に職場での生活も,そ

うしたストーリーを構成する一要素となってくるだろう。

マッキンタイアによって提示された美徳の哲学の特徴は,ある文脈ではある人を演じ,別

の文脈では別の人を演じるような生き方をすれば,人間としての統一的な生を全うすること

ができず,結果としてある種の倫理観を喪失することになるというものであったが,それは

一体どのような種類の倫理観なのであろうか。これについて彼は,近代を形成する諸制度に

結びつけて論じられてきた道徳は,その大部分が伝統的な一連の道徳哲学を断片的に利用し

たものに過ぎず,そうした伝統的な道徳哲学の意味を理解するためには,例えばアリストテ

レスの目的論に見られるような,人間の生を統一体と捉えることが不可欠であると主張する。

すなわち,前近代的な生き方を否定しながら,その伝統と密接に結びついていた道徳哲学を

近代世界に応用しようとしてきた点に,無視できない論理矛盾があったと指摘したのであ

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る。21)アリストテレスの目的論的な枠組みでは,�偶然そうであるところの人間〉と〈自らの

テロス(究極目的)を実現したならば可能となるところの人間本性〉との間に根本的な対照

があり,倫理学とは,前者の状態から後者の状態への移行の仕方を人々に理解させることで

あった。したがって,そこでの統一的な生とは,ある人がそのテロスを実現するために歩ん

だ一つの物語として生きることであって,彼によれば,現在の道徳言語の無秩序は,人間の

生の統一性に対する物語的理解が近代文化の周縁へと追放されたことの必然的帰結なのであっ

た。

先に述べたとおり,ビジネス倫理の専門家であるムーアは,このようにして示されたマッ

キンタイアのフレームワークをビジネスの領域へと応用し,現実的な組織の中で統一的な生

を全うする人々が持つ精神を,クラフツマンシップという概念で捉えようとしている。彼に

よれば,クラフツマンシップとは,ブルーカラーだけでなくホワイトカラーにも適用可能な

ものであり,例えばマーケティングマネジャーは,単にあるマーケティングプランを執行す

るだけでなく,利用可能な最善のマーケティングプランを開発する上で,内生的な善を獲得

することができると主張される。

「人々は,ビジネス組織を多々ある実践のうちの一つとして,しかし特に重要なものと

して認識しなければならない。その中では,クラフツマンとして働いている他の人々と

関わり合いながら美徳を鍛え,それによって取得可能な内生的な善を獲得し,それぞれ

のテロスへ向けた物語の探求が可能となる。そのように概念化し直すことによって,統

一的な生 (integrity) への潜在的な脅威や,共同体の潜在的損傷を克服することができ,

人々はもはや複数の性格を使い分けたり,職場で本当のアイデンティティを隠しながら

マスクを被ったりすることに直面することはなくなるだろう。」(Moore, 2005, p. 252)

では,現代のビジネス社会において,統一的な生を全うしようとするクラフツマンシップ

とは,具体的にどのような精神なのであろうか。次節では最後に,ある身近な例を引きなが

ら,この点について見ておきたい。

6 日本企業のクラフツマンシップ

2012年 6 月16日号のエコノミスト誌の「シュンペーター」(Schumpeter) という記事の中

で,日本企業はクラフツマンシップを備えていることで知られているが,同時にショーマン

シップも習得する必要があるという内容の論説が掲載されていた。22)同誌によれば,多くの日

本企業の間で共有されてきたものは,永年勤続 (longevity),一貫性 (consistency),高潔さ

(integrity) であり,日本では,利益を追求することそれ自体が卑しいことであると一般的に

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思われてきた。結果として,ものづくりが,それらを売ることよりも,美徳があるものとさ

れている。しかしながら,グローバルなブランド戦略の中ではそうした発想は誤りであり,

日本のビジネスはもっとマーケティングに力を入れ,物を作るよりも,物を語る術をマスター

する必要があると説かれている。

トヨタ自動車のスポークスマンは,同誌のインタビューに応えて,Lexus GS450 の新し

いステアリングホイールの開発過程について説明する際に, 8世紀の禅宗に話が及び,古来

のクラフツマンシップがいかに日本文化の中に根付いており,それがまたトヨタの精神の中

に息づいているかを示そうとしている。同誌は,確かに,こうしたものづくり精神に代表さ

れる日本企業による高品質で低価格な製品は,1970年代にアメリカやヨーロッパの市場を開

拓することには成功したと認めながら,しかし近年では,国内市場の縮小に合わせて,隣国

韓国からの競合企業の台頭など,苦境に立たされるようになっている状況を解説している。

同誌は,新興市場である中国において,日本の製品が,しばしば普通の人々にとっては作

り込まれ過ぎ (over-engineered) であると思われており,また新しい富裕層に好まれる安価

できらびやかな商品への配慮が不足しているという話を引きながら,「多くの日本企業に欠

けているものは消費者の声を聴く習慣であり,彼らが所有したいと望んでいるものを正確に

販売する能力である」(p. 66) と唱えている。こうした目標を実現するためには,まず旧式

の詰め込み過ぎのビジネスを終わらせ,イノベーションを促進すること,またこれまでしば

しば瑣末なことと考えられ,電通などの広告会社にアウトソーシングされてきたブランド戦

略に,もっと力を入れることであると提案している。すなわち,クラフツマンシップから,

ショーマンシップ (showmanship) への移行が,喫緊の課題であると説かれていたのである。

さて,本稿の議論を振り返りながら,こうした論説をどのように解釈することができるだ

ろうか。クラフツマンシップからショーマンシップへ移行することが重要な課題なのであろ

うか。あるいはそもそも日本企業はクラフツマンシップを備えていたのであろうか。ここで,

先に見たムーアによって示された倫理的観点からすれば,同誌によって解説されていたクラ

フツマンシップとショーマンシップが,そもそも二者択一的なものではないことに留意する

ことが重要であろう。

ムーアによれば,クラフツマンシップとは実践に内生する善を重んじる性格であって,そ

うした精神はエンジニアだけでなく,マーケティングマネジャーにも等しく応用可能なもの

である。それは外形的な制度に依存せず,実践における絶え間ない試行錯誤を通じて,自ら

の統一的な生の意味を見出していくことであり,そこでは制度の刷新(どのような種類のも

のであれ)を経験することはその必然であって,殊更イノベーションなどという表現を強調

することは無意味にすら映ることになる。また,日本企業に対して物を語る術をマスターす

ることが薦められているが,物語化は何もブランド戦略に特有の性格ではなく,あらゆる実

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践者が自らの統一的な生について作り上げるものである。トヨタ自動車のスポークスマンが,

インタビューに応えて,禅宗の精神がものづくり精神の中に息づいていることを語っていた

のは,その一例であろう。

おそらく,ムーアによって示されていたクラフツマンシップとは,自動車の製造業者であ

れ,またブランド戦略に関わるマーケティングマネジャーであれ,その実践者として生きる

のであれば,稼得利益の有無にかかわらずその実践に内生する善を追求し,そこに自らの生

の意味を見出していくような生き方のことであろう。そこでは,時には外形的な善が度外視

されることもあり,その実践者の人生をかけた物語とともに,素晴らしい自動車が開発され,

また素晴らしいブランド戦略が考案されることになるはずである。

7 お わ り に

本稿では,エンロン,ワールドコム事件に触れながら,そこに付随する倫理的問題が,単

にそうしたケースに特有のものではなく,ビジネスという世界に関わって生きている人々全

てに開かれた問題であることを指摘してきた。本文でも述べたとおり,私たちは,日々,当

座の倫理的なジレンマに直面しており,また何かがおかしいという最初の兆しは,たいてい,

個々人の個人的な懸念から生まれるものである。本稿で紹介したマッキンタイアのフレーム

ワークは,それらの小さな疑問に答えるための筋道の一つであり,ある理想像へ向けて努力

する人々の姿の中に,西洋における伝統的な倫理観が見出されていた。ムーアは,クラフツ

マンシップという概念を用いながら,こうした倫理観を現実的なビジネスの世界へ応用する

ことを試みており,前節では,日本企業という身近な例を用いて,その可能性を検討した。

こうした筋道は,今後,様々な観点から考察を深めていくための契機を提供してくれるだろ

うが,ここでは最後に,このように西洋において伝統的な倫理観が,私たち日本人の目にど

のように映るのかについて簡単に付言し,本稿の議論を終えることにしたい。

果たして,こうした倫理観は,私たち日本人の精神に,あるいは日本という風土に本当に

馴染み得るのであろうか。マッキンタイア自身が,日本語版への序文(「『美徳なき時代』を

読まれる日本の方々へ」)23)

の中で書き記していたように,西洋の伝統的な道徳観を日本人に

適用することができるのかどうかが問われていた。厳密には,アリストテレス的な思想と,

日本人が有する儒学思想がどのように異なり,両者の文化横断的な「対話」は可能なのであ

ろうかと(もちろんの彼の中心的なテーマは,啓蒙主義の影響を受けた思想の下で近代化を

果たしてきた日本人の道徳的な治療として,西洋の伝統を適用することは可能なのかどうか

であったが)。

しかしながら,日本人であれば必ずしも誰もが儒学を重んじながら生きているわけではな

いのと同様に,「文化」間の関係が,必ずしも「対話」によって共通理解が得られるとも限

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らない点に留意しておくことは重要であろう。マッキンタイアは,近代的な人が前近代的な

道徳を背負わされ,ニーチェ的な「超人」がジレンマに陥っている様子を嘆いていた。彼は,

そうした伝統的な道徳観の回復を目指して,アリストテレス的な目的論の枠組みの中で,超

越的な善を思い返し,そうした理想へ向けて語り合う人々の姿を思い描いていたのである・

(そこでは,必然的にある共有された人格を目指すために,物語 (narrative) や理解力 (in-

telligibility),説明力 (accountability) といった概念が鍵となる)。24)

しかしながら,ポリス的な

諸関係に必要となる能力を有しない人々について,アリストテレス自身が考察していなかっ

たことを「アリストテレスの盲目」と表現し,その道徳哲学の応用可能性を拡張させていこ

うとする発想の中には,25)超越的な善そのものもまた,ある種のジレンマに直面する可能性が

潜んでいることを見落としてはならないだろう。言い換えれば,道徳観が過大評価され,

「文化」的な相対性が周縁へと追いやられ続ける限り,「超人のジレンマ」ならず,「超善の・

ジレンマ」とでも呼ぶべきものが姿を現してくる可能性があることをどこか心に留めておく

必要がありそうである。

* 本稿は,科学研究費(課題番号:24730388)による研究成果の一部である。

1) 例えば,サーベンス=オックスリー法406条を参照されたい。

2) 例えば,Stuart and Stuart (2004) を参照されたい。

3) Powers, et al. (2002), pp. 2�3.

4) みずほ総合研究所 (2002),9�10頁。

5) Powers, et al. (2002); 中北・佐藤 (2003),15頁。

6) フサロ&ミラー (2002),13頁。

7) Markham (2006), p. 53.

8) その他の受賞者には,南アフリカ共和国大統領でノーベル平和賞受賞者であるネルソン・マン

デラ氏,元 FRB 議長のアラン・グリーンスパン氏がいた。グリーンスパン氏は,その受賞式典

の中で,ビジネスで成功するには高い倫理観が必要である旨の演説を行っていた (Markham,

2006, pp. 68�9 参照)。

9) Markham (2006), pp. 75�6.

10) フサロ&ミラー (2002),161�3 頁。

11) Beresford, et al. (2003), pp. 44�5.

12) Markham (2006), pp. 311�2.

13) Markham (2006), pp. 332�3.

14) Markham (2006), pp. 344�5 ; みずほ総合研究所 (2002),37頁。

15) Markham (2006), pp. 351�4.

16) アメリカおよびヨーロッパにおける,エンロン事件以後の会社法や証券規制に関する法改正に

ついては,Armour and McCahery (2006) を参照されたい。

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17) Gibson (2007), p. 231.

18) サーベンス=オックスリー法施行後,初の適用事例であった。詳しくは,Markham (2006), pp.

360�4 参照。

19) この点につき,マッキンタイアは次のように表現している。「そうした実践における種々の理

想や創造性は,絶えず制度の獲得志向 (aquisitiveness) によって悩まされ,そこでは,実践に関

わる人々にとって共通する善への協力的な配慮 (cooperative care) が,絶えず制度が持つ競争志

向 (competitiveness) によって脅かされることになる」(MacIntyre, 1985, p. 194)。

20) MacIntyre (1979), pp. 126�7.

21) マッキンタイアは,啓蒙主義以降,多くの哲学者が道徳の本性と地位について何らかの合理的

で非宗教的な説明を与えようと試みてきたが,これらの試みは全て事実上失敗してきたこと,ま

たその失敗をもっとも明瞭に察知したのがニーチェであったことを認めている。しかしながら,

ニーチェ的な人間(「超人」)が,現在まで自らの善をどこの世界にも見出せていないこと,また

その孤立的で自己陶酔的な道徳的権威が,かえって彼自身に重荷を押し付けていると指摘する。

すなわち「近代的な道徳が,功利や自然権といった擬似的な概念を背負わされているので,ニー

チェの強い意志のみがそうした概念による混乱から私たちを救い出してくれるように見えたので

ある。しかしながら今や明らかなことは,こうした解放のために支払うべき代価は別の一連の誤

りの中での混乱であるということである。ニーチェ的な「超人」という概念もまた擬似的な概念

だったのである。……それは,個人主義が自ら招いた諸帰結から逃れようとする最後の試みを表

している。そして,このニーチェ的な立場とは結局のところ,近代の自由主義的個人主義の概念

枠組みからの逃避様式でもなければそれに対する代替案でもなく,むしろその内部的な展開にお

けるいま一つの局面なのである」(MacIntyre, 1985, pp. 258�9)。

22) “Schumpeter : Zen and the art of carmaking”, The Economist, June 16th 2012, p. 66.

23) マッキンタイア (1993), vii頁。

24) MacIntyre (1985), p. 218.

25) MacIntyre (1985), pp. 158�9.

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