生命倫理の問題点と課題(ー〉 - hiroshima...

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生命倫理の問題点と課題(ー〉 和佐谷 仕件 。市小 る例 あ事 で的 定体 予目六 郎一 らにう かめ扱 成た題題を 構る問課で の探ののま 下を理理川 以点倫倫節 は題命命2 論間生生は 小で の節節節論 こ序 123 最近の新聞雑誌は毎日・毎号のように医の倫理また生命倫理に関する記 事・論説を掲載しているかの観がある。こうした事態は従来の倫理学に対 して多大のインパクトを与えずにはおかないだろうし、そういう影響は実 際みられるのである。例えば、ここ十年間に発行された日本倫理学会編 「倫理学年報Jl 多くは概して伝統的な倫理問題を扱っているのであるが、第36 集において はじめて生命倫理の問題を正面からとりあげごた論文が登場するのである九 このことは、同年報に報告される会員業績報告目録に関しでも L 、し、うるこ とである。会員業績は 1980 年刊行の第29 集から報告されるようになったの であるが、第33 集(1 984) に至るまでには生命倫理に関すると思われる論 文はきわめて数少ない。しかし第34 (1985) に至ってはじめて十件近い 論文が報告されていて、この傾向は第36 (1987) まで続いている 2) 1 )森岡正博「パーソン論の射程一一生命倫理学と人格概念、ー一一」 2) もっとも報告されている個々の論文にあたってみたわけではなく、題名に生命倫 理が明らかに示されているものもあれば、生命倫理が扱われているだろうと私が推 〈次頁へつづく〉

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Page 1: 生命倫理の問題点と課題(ー〉 - Hiroshima Universityharp.lib.hiroshima-u.ac.jp/onomichi-u/file/1645...生命倫理の問題点と課題(ー〉 和佐谷。市小仕件 昭

生命倫理の問題点と課題(ー〉

和佐谷 仕件

。市小 昭

事で

2

1

2

3

最近の新聞雑誌は毎日・毎号のように医の倫理また生命倫理に関する記

事・論説を掲載しているかの観がある。こうした事態は従来の倫理学に対

して多大のインパクトを与えずにはおかないだろうし、そういう影響は実

際みられるのである。例えば、ここ十年間に発行された日本倫理学会編

「倫理学年報Jl (第27集、 1978~第36集、 1987) の目次をみると、それらの

多くは概して伝統的な倫理問題を扱っているのであるが、第36集において

はじめて生命倫理の問題を正面からとりあげごた論文が登場するのである九

このことは、同年報に報告される会員業績報告目録に関しでも L、し、うるこ

とである。会員業績は1980年刊行の第29集から報告されるようになったの

であるが、第33集(1984)に至るまでには生命倫理に関すると思われる論

文はきわめて数少ない。しかし第34集 (1985)に至ってはじめて十件近い

論文が報告されていて、この傾向は第36集 (1987) まで続いている2)。

1 )森岡正博「パーソン論の射程一一生命倫理学と人格概念、ー一一」

2)もっとも報告されている個々の論文にあたってみたわけではなく、題名に生命倫

理が明らかに示されているものもあれば、生命倫理が扱われているだろうと私が推

〈次頁へつづく〉

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このように、医の倫理・生命倫理の諸問題は、幾分遅れながらも倫理学

の現状に影響を与えつつあり、このような影響が将来どのように結果とし

て結実するかは興味あるところである。ホアン・マシア氏は、 「生命現象

の研究においてもっとも不思議なことの一つは、生命の流れに備わってい

る創造力です。それは生命力のあるところに創造力があると言えるほどの

ものです。それならば、生命に関する問題を取り上げる倫理も創造力に富

んでいなければ間に合わないことになります」と述べ、そして、伝統的倫

理を消極的倫理とし、それに対して創造的な倫理を積極的倫理とした上で、

それぞれの倫理のアプローチの仕方を列挙しているの。 それを任意にみて

みると、前者については義務と提を強調、規則と規律が支配的、抽象的原

則と普遍的原理を強調、個人の自己完成を重視、前後関係から離れた個々

の行為を取りあげ分析する、人間の成長の過程に無関心、不変性の強調な

どが挙げられている。後者についてはそれらのアプローチの仕方に相対応

するものが挙げられている。生命倫理の問題はこうした倫理学の在り方の

検討をも要求することになるだろうペ

1節 問題点を探るためにー一一具体的事例一一、

まず生命倫理の問題点と課題を問うにあたって、医の倫理と生命倫理の

区別なく具体的な事例を拾い挙げてみよう九

(1) カレン事件 カレン事件をめぐる一連の裁判とそこで陳述された再

測したものもある。また、刊行された著作の分担執筆者がその分担部分を独立した

論文として報告されているものも含まれている。なお、日本倫理学会は第34回大会

(1984)の共通課題を「死Jとしている。

3) ホアン・マシア Tパイオエシックスの話一一体外受精から脳死まで一一-~、南窓、

社、 79-80頁。

4)ちなみに、第38回日本倫理学会 (1987年10月)の共通課題は「倫理学とは何か」

である。

5) 以下、 (2)~(5)については朝日新聞大阪本社版に掲載の、主として1986年度中の記

事による。

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親や医師の考えは、この穫の問題を考えるに際 Lてその後に大きな影響を

与えることになった。木村利人博士は次のように述べている。

f本来、人の生死を決定するのは、自分自身のはずです。なのに高度医

療社会の中でわたしらは、あまりにも医師の考えに支配されてきました。

その世界的風潮を覆したのがカレンさんの両親でした。医師の価値中心の

医療ではなく、患者の意思を尊重する医療へ、という変革の流れをつくっ

たので、す。夫妻はまた、裁判も、ホスピスも、人間性を確立する社会づく

りの運動として展開してきました。そのことに深い感銘を受けましたペ」

カレン事件とは、 1974年4月、カレン・アン・グインラン (KarenAn

Quinlan当時19歳)が友人の誕生パーティで、急性薬物中毒で倒れ、病院に

かつぎ込まれたけれどもいわゆる植物状態に陥った。両親は自然な死を求

めてレスピレーターを取り外すことを医師に求めたが医師側はそれに応ぜ

ず、裁判に持ち込まれたというものである。ニュージャージー州高等裁判

所 (SuperiorCourt) では両親の主張が退けられ (1975年11月判決)、 同

最高裁判所 (SupremeCourt)では条件付で認められたのである。それで、

ここに示されているさまざまな問題点をみてみよう7)。

li) 最初にプライパシー権 (rightof privacy) の問題である C この間

題に刻する見方は、カレンの原審判決後の病状の進行も関係して、原審と

最高裁とでは異なっている。原告ヨセフ・グインラン(土、州憲法上の権利

としてずべての人はプライパシー権をもち、それは、 「通常外の医療処置

の無益な使用」を打ち切る決定まで含む自己決定権と同義であると主張す

る。原審では、カレンは無能力者ではあるが医師の診断では回復の見込み

がなレとは言い切れないのであって、 「無能力者の最善のためにつくすべ

き司法的権能は生命の継続を選ぶのであれそうすることが憲法上の権利

6 )朝日新聞、 1984年12月6臼付。

7)唄 孝一「解題・カレン事件一一シュピリア・コートの場合一-J、「ジュリス

ト~ 616号所収、 1976年 7月、及び同「続・解題カレン事件一一シュプリーム・コ

ートの場合一一」、「ジュリストJl622号所収、 1976年10月、に主としてよる。

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を侵害するものではな¥,,8) Jと判断する。そして、 「親が無能力の成人の

子に代わって主張L得る死ぬ権利というものは憲法上存在しな¥,,9) J とも

L 、う。

この判断に対し、カレンの病状が回復にむかうどころかむしろいっそう

進行Lてきているという認識に立った、約五ヶ月後に出された最高裁判所

の判決では、このプライパシー権の見方がかわってきている。カレンは捜

性的・持続的植物状態にあるが、 「彼女が認識ある生命、または知性ある

生命にまで回復することは決Lてあり得まL、JL、 「彼女が一年以上生き

うるという意見を賭けた医師は一人もなく、実際、もっとずっと早く死ぬ

かもしれない附j といわれ、この条件の下に最高裁判所はプライパシー権

について次のように示す。

「身体的侵襲の程度が増すにつれて、そして予後(の見込み)がうすく

なるにつれて対抗物たる州のインタレストが弱くなり、個人のプライノミシ

ー権が増大すると、われわれは思う。 cその増大につれて〉っし汁こは、個

人の権利が州のインタレストを圧倒する点が到来する印。」

すなわち最高裁判所は、その結果として死を招来する治療を拒否する権

利をプライパシー権に含ませる判決を下したのである。

ここで、若干の注意すべきと思われる点があるのでつけ加えておこう。

一つは、自己決定権と自殺や殺人との関係である。原審も最高裁判所も法

的に自殺を認めてはいないし、殺人に関 Lても同様で、ある O 最高裁判所の

見解は、 「われわれとしては、致命的な傷害を自己;こ課することと不可逆

的で苦痛にみち確実に切迫している死iこ直面 Lて人工的生命維持や過激な

手術に反対の自己決定をすることとの聞にはリアノレな区別を認めようとす

る12)Jというものである。また殺人につしても、最高裁判所の示すところ

8)唄「解題・カレン事件」、 66頁。

9)同。

10)唄「続・解題カレン事件」、 63頁。

11)同、 68真。

12)同、 69頁。

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は、レスピレーターを取り外すという治療の打ち切りがカレンの死を早め

るにしても、それはプライパシー権に基づく治療停止の結果の死であり、

「結果として生ずる死は殺人ではなくて、むしろ現存の自然的原因からの

寿命の到来であると信ずるよ さらに、 「殺人とみなされるにしても、そ

れは違法ではない13)Jというものである。

「他人の生命の不法な奪取と自己決定の問題として人工生命維持システ

ムを終了させることとの聞にはりアルな、そしてこのケースにおいては決

定的な区別があるのである凶。 1

注意すべき二つ目の点はカレンの意志表示の問題である。原告の主張は

以下のようである O すなわち、カレンはかつておばや友人の父が癌で、重態

となり激しい苦痛にみまわれるのをみたとき、また友人が脳腫疹で、死に瀕

しているのをみたとき、自分はレスピレーターにつながれてまで生きょう

とは思わなし¥そのことを理由に、カレンにもし意識があれば彼女はレス

ピレーターを取り外してくれというであろう、と。この主張に対し原審は、

「彼女がむしろ死を選ぶだろうということを裁判所に説得するに足りる証

拠力をもつほど十分に明白な基準に達するだけの証明はなされてレない」

と述べ、 「無能力者の最善のためにつくすべき司法的権能は生命の継続を

選ぶのであれそうすることが憲法上の権利(プライバシー権、引用者)

を侵害するものではない15)Jという O この原審の判断に対し最高裁判所の

判断は次のようであるこの認識なき植物的な生存を自然力により終止

するにまかせるというカレンの推定的決断が、彼女のプライパシー権の価

値ある付帯物とみなされるのならば一一一われわれはそう信ずるのだが一一、

単に彼女の状況が選択の意識的行使を妨げるという理由だけで、それは見

捨てられるべきではない」とし、もし家族がカレンのこのような病状に陥

ったとすれば、家族もやはりこのカレンと同じ選択・意志表示を行うであ

13)唄「続・解題カレン事件」、 72頁。

14)同。もっとも私自身は自殺と自殺ではないこととの聞の、また殺人(安楽死)と

殺人て、ないこととの聞の、 リアノレな区別がどの程度可能かについて疑問をもっ。

15) I解題・カレン事件」、 66頁。

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ろうという制約の下に、カレンのプライパシー権は「彼女に代わって彼女

の後見人と家族とにより主張される削」と。

(ii) 次に宗教の問題である。原告は、宗教の信仰の自由行使を保障する

憲法上の権利に基づいて、ローマ・カトリッグの道徳観に立ち、 「娘の自

然の身体機能がレスピレーターから自由に営まれるにまかせられるべl.J、

「もし彼女の生命をとってしまうことが神の意志であるなら、彼女は死後

の生命に到達することができるだろう 17)Jと主張する。レスビレーターの

使用(取り外し)が問題になっているのであるが、原審は、この時点では

カレンは回復の可能性は少ないにしても全く見込みがないと断定する医師

はなく、従って、担当医の意見一一一医療の伝統からしてレスピレーターを

取り外すべきではない一一ーに従うべきである、と判示した。ところが最高

裁判所ではそれが異なってくる。前述したように、カレンの病状は脳死に

は至らぬまでも「彼女が認識ある生命、または知性ある生命にまで回復す

ることは決してあり得まい」といわれるほどに悪化し、そういう状態にあ

る患者にレスピレーターをなおつけて生かし続けることの是非が当然関わ

れることになる。すなわち、最高裁判所は、原告側の法廷助言者であるニ

ュージャージー・カトリック会議の意見(これは1957年のローマ法王の声

明に基づく)を受け入れるのであるが、その意見とは次のようである。

「権能を有する医学的証言が証明するところによると、利用可能の医療

処置を用いることにより昏睡状態から回復するという相当の希望はカレン

にはなL、。彼女の肉体的諸機能と生命の継続を維持するための機能的な

(心臓性呼吸の)支持的諸措置の継続は、通常外の治療方法となる O した

がって、この治療の打ち切りを要請するというヨセフ・クインランの決定

16) r続・解題カレン事件」、 68頁。この州最高裁判所の判断に対しても、精神能力

のないものの推定的判断をどのようにして把握するか、最も私的なプライバシー権

の代理主張が認められうるかという疑問が投げかけられている(唄、向、 74頁参照ふ

こうした疑問点そのものをどう評価するかは、カレンの病状の進展などには無関係

で、むしろ裁判官の立場を反映するものと思われる。

17) r解題・カレン事件J、62頁。

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は、カトザック教会の教義によると、道徳的に正しい決定である18〉。」

レスピレーターをつけることは治療初期の段階では「通常」の治療であ

ったが、その後の患者の病状の如何によりそれは「通常外」の治療ともな

りうるのである。 I通常」の治療と[通常外」の治療という区別は実際に

医療の現場で行われていると L、う証言(コライン博士)もあるが、こうし

た区別は自然死の考え方に重なってもいるのである。つまり、 「通常外」

の治療を停止して患者の死がたとえ早まることがあっても、それは殺した

のでは毛頭なくて、患者の病状が進捗した結果医療過剰となり「通常外」

となってしまった治療を自然な身体機能の営みに戻すということにすぎな

L 、。それは自然死なのである O これを原告のことばに置きかえれば「神の

意志」にまかせるということである。こうしたローマ・カトリッグの考えは、

高度医療技術の時代に対応しようとする現実的な選択であると思われる。

Ijii) さらに、宗教・倫理(道徳)・法・医療の相互関係は如何にあるべき

か、の問題である。いうまでもなくこの問題は原審の段階からすでに論じ

られているが、まず倫理(道徳)についてみておこう。

ここで倫理(道徳)というのは、周知の医(師)の倫理のみならず「司法上

の良心と道徳」が含まれている。さて、原告はレスピレーターをカレンか

ら取り外すことを衡平法 (equity) 上の原理の下に裁判所に求めているの

であり、この衡平法はその歴史的な成り立ちからいって良心と道徳に従っ

て運用されねばならないのである。すなわち、衡平法は歴史的にはコモン

.ローを補完し時にはそれに対立する役割をになって発展してきた。イギ

リスでは、原告は救済を求めて国王の裁判所に訴えて訴訟開始令状を大法

官から受けたのであるが、その令状の類型化がコモン・ローへと発展した。

ところが、一三世紀頃になるとそのコモン・ローの形式化が進み社会の変

化に対応できなくなってくる。そこで訴訟人は「国王の良心の保管者Jで

ある大法官に救済を求めたのである 19)。このような歴史的背景をもっ衡平

18) r続・解題カレン事件」、 65頁。

19)砂田卓士・新井正男編『英米法講義J、青林書院新社、第2章参照。

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法は、コモン・ローが一般的で万人を対象とするのに対し、 「自然的正義

に基づく具体的妥当性を重視する20)Jのであり、それゆえ、衡平法ばコモ

ン・ローに沿いながらもより具体的な社会の良心・道徳を考慮して判断す

るのである。

さらに、倫理(道徳)は、 「進歩した技術と職業的倫理21lJとし、う友現に

もみられるように、医(師)の倫理とも分かち難く結びついている。原審に

おいて、セント・グレア病院の医師モース博士は、 「レスピレーターを打

ち切ることは医学的伝統からの実質的意離であり、それは「生命の質」

“quality of li鳥"の確認にかかわることになり、自分はそのようなことを

したくなし、と結論した22)Jと表明したといわれる。ここで「医学的伝統J

とはヒポグラテスの誓詞に代表される医(師)の倫理の伝統であろう O 医師

は、患者の生命維持のためには全力を尽す義務を負っていて、そのために

は現代の科学的水準にふさわしい専門技術でもって治療にあたらね(王なら

ない。なおかつ現代の医師は、患者の治療の質に否定的にしろ肯定的にし

ろかかわらざるを得ない状況に置かれてレて、まさにカレン事件はその点

が問われたので、あった。

このように、宗教・倫理(道徳ト法・医療の相互関係の問題は、 「司法

上の良心と道徳」および医(師)の倫理を前提にしているが、その問題は、

最高裁判所の判決では、原告側の法廷助言者ケイシイ僧正の次のことばに

端的に示されている。 i自然死に対する権利は、神学・法・医療の各規律

が相重なりあう一つの顕著な領域である。換言すれば、それはこれら三つ

の分野が相集まる領域ともいえる23)0 Jでは神学は何を教えうるか、それ

は自然死を受容することを教える。宗教の問題に言及した際に述べたよう

に、自然死とは自然の身体機能の営みに従うということで、ローマ・カト

リックの立場では神の意志にまかぜることである。法はどうであろうか。

20) if'社会科学大事典JI(7),鹿島出版会。

21) 1"続・解題カレン事件」、 65頁。

22) 1"解題・カレン事件」、 62頁。

23) 1"続・解題カレン事件」、 65頁。

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法はこのような信仰白体は勿論のこと、事情によってはその信仰に基づく

実践を否定するものではなし。つまり、医療の教えるところに従って生命

の回復の希望がなL、と認められた場合には、それゆえ、 レスピレーターの

使用が 1通常外」の方法と見倣される場合には、法はそのレスピレーター

を取り外しても刑法上の罪を必ずしも間わなしのである。

(然るべき医療の権威により望みなしと判断されるケースにおいて、患

持の明示・黙示の志向にしたがって、同時に安楽死に対し門戸を開くこと

なく、通常外の治療を打ち切り主たはひかえるという決定に対し自由を与

える法と倫Jlg的規準とを社会がもつことは可能で、もあり必要でもある問。」

宗教・倫理・法・医療の相互関係を論ずるとき、なお注目すべき点を二

点つけ加えておこう。その一つには医療の慣行ということである O 前述 L

f二、ある条件の下では法および倫理は、レスピレーターを装着した治療に

ついて、 :ー通常外!と見倣Lてそれを取り外すことを認めうるとの判決に

みられる考えは、医学的伝統にもかかわらず、すでにかかる慣行があるこ

とを前提としている。もっとも、原審ではレスピレーターを取り外さない

ことが医療の慣行であると認められたし、最高裁判所では、カレンの病状

の悪化があっで、それを取り外すことがその慣行であると認められたので

あるから、 「司法上の良心と道徳 jはきわめて大きな役割を演じているこ

とになる。だから、倫理(道徳)といっても医師および家族(当事者)の道徳、

それを支持し受け入れる社会の道徳、さらに可法上の道徳と、多領域の道

徳が重なり合い、その判断はきわめてむずかしいといえよう。

その二つには病院の「倫理委員会」の役割の積極的な評価である。最高

裁判所の認めるところでは、医師は医学的判断のみならず場合によれば倫

理的判断を下さねぽならず、その結果、法的責任を引き受けねばならない

といろ危険な状態におかれることもある O かかる責任を緩和し、ぎた個人

的;こ偏った判断を除き複数の多様な見解のなかから妥当な判断を導出する

ことは有益であるというのである。それとともに、この見解l土、倫理委員

24) I統・解題カレン事f'T~、 65頁。

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会の同意を必要とすると Lたことによってこの問題における司法の限界を

認めたのである。

最後の問題点として病状の医学的診断の正確さの問題が挙げられよ

う。カレンは持続的植物状態にあって、法的にも医学的にも生きていると

診断されたが、 レスピレーターを取り外すと死亡するとみられていた。 L

かし、最高裁判所の判決 (1976年 3月)の二ヶ月後それは取り外されたに

もかかわらず、彼女は1985年 6月まで生き続けたので、ある。後述もするが、

脳死判定の困難さ、死の定義の問題等々は当然のことと Lても、すでに

「医療の慣行j にさえなっている領域のことがらでも、その正確な医学的

診断を下すことはむずかしいといえる O

以上、カレン事件を例としてそこに存命する問題点を四点列挙し素描した。

(2) 厚生省「脳死に関する研究班|報告書について 次に特筆されるの

は、 1985年12月6日に厚生省に提出された上記研究班の報告書「脳死の判

定指針・判定基準Jである。この報告書は1974年に日本脳波学会が作成L

Tこ脳死判定基準を新たに見直し、さらに修正した内容になっている O こう

した報告書が提出されたことにも主た若干の問題点を見出すことができよ

うO

、i) まず、新たにこの報告書が出されたその背景である。腎移植は別と

Lて、心・肝・醇臓などの臓器移植は、特別な場合は別にして、日本では

まだ為されてはいない。それを必要とする患者ーがありしかも技術的には可

能だとされながらも、それを受け容れる法的・倫理的条件、社会的合意が

成立していないからである。それゆえ、この報告書が作成されて提出され

たということは、新たな指針を出すことにより医学界および社会に一石を

投じ社会的合意を促そうという役割をになっていたといえる。実際、この

報告書が出されると、脳死は厚生省が認めたのだから社会的に容認された

とかなり意図的と思われる見解が早速述べられるという情勢なのである問。

25)なお、この研究班は1983年に、厚生省により、将来の脳死導入の是非を議論する

ためのワンステップとして設置された。

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また、その背景には脳死すなわち人間の死と法的・倫理的に必ずしもまだ

容認されていないにもかかわらず、現実には脳死状態からの臓器移植が行

われつつあるという混乱した状態を解消させねばならなし、差し迫った事情

も考えられる。とりわけ医療に携わる側からすると殺人罪などの罪でしつ

告訴・告発されるかわからないのでは十分な医療行為も行L、えないからで

ある。さらに医療費の節約・効率化ということも考えられよう。脳死に至

った段階で、治療を打ち切り、無駄な医療費・医療設備やスタップを節約し

てその分回復可能な患者へまわすことができる。国家予算に占める医療費

の割合が年々増加する傾向にあり、また個人の家計費で、みてもこのような

考え方を一概に否定できないだろう 26)。さらに加えて、 L、わゆる尊厳をも

って死ぬ権利が主張される時代だとの背景もある O 前述したカレン事件が

その端絡を聞いたといわれるように、医療の主体が誰れて、ありまた高度医

療技術による生命管理の是非が問われるなど問題は多いが、尊厳死が主張

26)国民医療費の年度別の数値は次のようである。小泉 明・山中事編『医学統計

-数値表』、日本評論社、 1981、による。

1970

1971

1972

1973

1974

1975

1976

1977

1978

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52一

されるのは、基本的に、人間の中枢を司どる脳が機能を失っているのに機

械の助けを借りてまで生きるのは人間の生に値しない、というものである C

その I二に、こう Ltニ人権思想、と表裏一体を為Lて、人間にとって不要たも

のはーー切切り捨てるという世相も考えられる。心身 tのまずこ社会経済上の

苦しみ・負担などからの逃避という一般的傾向の蔓廷であるc これらの諸

事情を背景に、第一義的には勿論臓器移植の推進であろうが、報告書は提

出されたと思われる。

'ii) 次に技術的な問題である O ただそれについて論ずる力は私にはない

ので指摘されて(,る以下の点に言及するにとどめる。厚生省への報告「脳

死の判定指針・判定基準!にほ次のよろに述べられている i本指針は専

門家でなくても医師であれば誰でも照一解できる内容である O このことは反

面脳死がそのよろな形で判定できることを示Lている」、主た、「本脳死判

定基準には、明確に検査でき、結果を観察できるもののみを取り上げてあ

る。この基準より脳死判定は可能であり、基準を忠実に守れば脳死判定を

誤ることはなし27) i とO しかし、研究班がこの新基準をつ〈るに先立って

行った、日本脳波学会基準に基づく脳死の全国調査に依ると、集められた

症例に非常なばらつきが見られたというのである O 集計された、脳死と判

定される718例のうちに「瞳孔径の左右いずれかが四ミリ未満 l、 「脳波検

査が省略されているか、もしくは不明J、 「脳波活動の残存が示唆されるJ

frE例が合わせて302例もあったといろ。やや問題はあるに Lても基準を満

たしている188例を除外すると、「判定基準を充分に満たして脳死と判定さ

れたA群(活8例、引用者) より、判定基準を満たさずに脳死を判定され

てしまったB群 (302例、引用者)のほうが(土るかに多かったのである28)J

と指摘されている O 以上は a グuにすぎなしが、旧基準においてもその運用

がこのような実態であれば新基準においても同様に不十分な運用しか期待

できなし、のではあるま L、か。運用の問題と技術の問題とは異なるとしたな

27) r臼本医事新報2No. 3218 (1985)、109頁3

28)立花経 7脳死入 Ij"央公論社、 235頁。

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ら、 それば言い逃れであろう o :f.Jr某 i~,における純粋に技術的な問題一一例

えば新基準は脳死判定の必要十分条件で、あるかーーとともに、 その技術が

十全に実行される運用面についても危供されるのである。

'lll 第三の問題点は脳死と人間の子Eとの関係である。 この報告にはこの

関係が混同されなしよう操:)返し二度にわたって断り書きが入れられてい

る。

「本稿はあくまで土述の f全脳死二の概念;二基づL、た脳死状態の判定指

針および基準であり、わが国において、脳死をもって死とするという新し

い 7死ブの概念を提唱してL、るのではない。本稿l士、 一死一 の概念に関 L

て(土改めて別の場で討議されるべきとの見解のもとに執筆されたものであ

る29)o l

「脳死はわれわれに生と死の問題、医学と人間存在、 ある L、l土人向性と

の問題を間レかけている。 このことにつt、ては、 手Eo)定義と関連 Lてl袋ど

以外に、倫理、法律、社会、経済、宗教、哲学などの幅広い分野での討議

が必要であろう O 治療を行う医師(土、死の判定にi笑1Lて最終的責任を負わ

なければならないが、生とは何か、死とは何かについて医師の判断を助け

るための医学関係以外からの意見は重要であるc L たがって、本指針では

脳死をもって人の死とは決 Lて定めていない30)c|

二の問題については後にとりあげるが、 この二度の強調にもかかわらず

報告書の公表により社会的に脳死が容認されたかのように見倣す意見が述

べられたり、 また脳死者からの臓器摘出手術が行われるところにも検討さ

るべき点がある O

(3) 再びアメリカ合衆国での裁判の例である。牛:}.1っき多くの障害乞持

ち、十数回の手術を受けなおそれ以上の手術をしなければならず、 Lかも

そのようにしても回復の見込みがないとレわれる生後三ヶ月の子供、 ての

子供の生命維持装置の停止等を求める裁判官両親がおこしたと L、うもので

29) 町日本医事新報 No.3217 (1985)、104真。

30)問、 No.3218 (1985)、109頁。

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区-54-

ある 31)。類似した裁判はやはりすでに同国で、行ーわれ、例えば、 1983年12月

に連邦最高裁判所で判決も出さわしている O それは、同じように重度の先天

異常を持って生まれてきた子供への手術を、手付¥fを受けさせても知恵遅れ

となったり二O代までしか生きられないとし、う診断ゆえに両親が拒否し、

最高裁判所がその両親の立場を認める判決を下Lたというものである。当

時の新聞は、 「両親に死なせる権利」という見出 Lで、それを報じている32)。

そしてこの判決を契機にアメリカ合衆国政府は、 「死なせる権利 lに反対

するこれまでの立場を変更し、 「治療するかどうかの決定は医師と両親に

任せるべき」と方向転換することになる。しか L、この「治療を受ける権

干しと i死なせる権利」をめぐる論議はいまなお続いている O

('1) 男女産み分けの技術が開発されその是非を問う問題が生じた制。男

fのみに発症する遺伝病を回避するためにこの技術が使われるのは是とし

ても、親の希望によって男女を産み分ければ社会に男女比のアンバランス

が牛ーじかねない。この技術を開発ltこ教授は、 「もともと男女産み分けの

対象になるのは、主として男あるいは女だけにしか症状が出ない伴性遺伝

病を考えている JとLながらも、また、 「女の子ばかり三人、四人という

家庭もある。この方がよつほどアンバランスだ。害がなくて、 L火、otみ分

け方法があれば、使っていいではないか。理由あるニーズがあるならこた

えるのが医の倫理だJとも述べている。しかし大学医学部倫理委員会およ

び日本医師会の生命倫理懇談会も、原則としてこのような親の希望を受け

31)朝日新聞、 1986年 1月10日。

32)同、 1983年12月14日。しかし、カレン事件のニュージャージー州最高裁判所判決

に関しでも、新聞は「死ぬ権利」が認められたという書き方をしていたが、それに

ぼ十分留意しなくてはならないだろう。 I注意すべきことは、 『死ぬ権利』につい

ては、 (最高裁判所判決における、引用者)引用文献の中でふれられただけで、ほ

とんど言及されていないことである。ただこの判決がく結果として死を招くこと必

定の治療拒否をも要請しうる権利〉を認めたことは肯認されても L斗、であろう。」

唄「続・解題カレン事件」、 74頁。

33)朝日新聞、 1986年 6月 1日。

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入れる産み分:tを否定した。似たような事例に多胎児妊娠とその減数手術

(中絶)があるだろう。これらの事例の場合は、親の側の希望がどこまで

倫理的・社会的にまた宗教的にも容認されるかが主として問題である。

(:;) 脳死をめぐ、る社会のさまざまな動きが報道されている。日本法医学

会総会での「脳死に関する委員会」は脳死を人の死と認める方向を打ち出

した(1986年 5月)、日本移植学会は脳死を前提と Ltニ臓器移植の推進を了

承 Ltこ(同年9月入日本弁護士連合会人権擁護大会で、のシンポジウムでは

脳死での移植に対しては慎重論が相次L、だ(同年10月)、日本医師会生命倫

理懇談会ば脳死と臓器移植について1987年春を目途に統-見解を::1¥すこと

に決め、同年3月25日に中間報告が出された。それによると、脳死を人間

の個体死と認め本人や家族が認めれば臓器移植も可能とずるものである。

主た、日本学術会議総会で(士、医療技術と人間の生命特別委員会が主とめ

た、条件付で脳死を認めるとする「脳死に関寸る見解J中間報告に女、JL、

時期尚早であるとして再検討されることになった(1987守:4月)。学会や社

会のこのような動勢をみる限り、脳死問題は学会の主導で宵定する方向へ

むかっているようではあるが、まだまだ解決の糸口どころかその端緒につ

いたぽかりという印象を否めないのである。

2節生命倫理の問題

さて、前述してきたことからいくつかの間題点をとり挙げることができ

るO この節ではそれらの問題点を参考にしながら、生命倫理の周辺的な問

題として時代背景を、きらに、生命倫理回有の諸問題をみることにしよう。

(1) 時代背景 これにはさまざまな面があると思われるが主として三側

面から考察する O

'i} 医学・医療技術の進歩 カレン事件にしても脳死その他の問題にし

ても医学・医療技術の高度な進歩なしには生じてこなかったといえる O た

とえば「脳死」の概念にしても1957年、たかだか30年前に R.L.テント

ラ一博士;こより「大脳皮質死 (corticaldeath) とl うことはがつくられ

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一部 ー

たにすぎない? さらに、 19671fケープムダウン大学の C.N.バーすード|手

士が世界で初めて交通事故による「脳死J者から心臓を摘出し、 55歳の男

性iこ移植、約三週間後にその男性は死亡Lたものの、 この手術により「脳

死 Ii土ー般的に知られるようになったのである3h日本では、 iiii述したよ

うに、 1974年に日本脳波学会の「脳死判定基準!がH-1された。

「横物人間 I (vegetative beingi ということ:まも同様にiil,、ものではな

く、 1972年、 ジェネヅトとブヲムによって初めて使われたとしわれる 35)。

日本では1972年に日本脳神経外科学会による、続物状態の患者(vegetative

state patientiにつL、ての定義が為されてしる。

このようにみると脳死者に Lても植物状態の人間に Lても、 -般的にii:

目されるようになったのはぜいぜいここ約20年前からであし その共通の

原因と Lては次のように指摘さAlるのである。

「この定義(植物状態患者の定義、引用者jが登場 Lてきた背景もまた、

脳死居、台と同じように、交通戦争の時代、それに伴う救急・救命医療の進

;歩・発達である。人工呼吸器もなかった時代なら、病院に運び込まれる前

lこ死んでしまったで、あろう重傷患者が、脳外科チームのおか:子で命だけば

とりとめたものの、意識がもどらないで、植物状態患者となって徐々にふ

えてきたので、ある36)。」

たとえば延命術としては次のようなものが挙げられるが、 それらは現代

の医療技術の進歩によりうみ出されたものであるc 人工呼吸器 (respira-

tor)、化学療法 (chemo・therapy)、人工透析、高カロリー静脈栄養法、集

中治療医学 (Intensiveand Critical Care Medicine)などである3n。

34)竹内一夫「脳死とは何か」、講談社、 54頁。同「脳死についての考え方」、

師会編『園民醤療年鑑~ (昭和58年版)、春秋社、所収、参照。

白木医

35)伺 F脳死じま何かJ、149頁。

36)藤田真一 11脳死Jの時代ム朝日新聞社、 33頁。また、米本昌平「仁0年代アメ

リカ医療思想革命」、 ?中央公論~ 1986年10月号所収、参照。

37)青地 修「延命術はどこまで許されるか」、高木健太郎編「現代の生と死J、

評論社、所収、参照。

日本

/

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脳死や植物状態と l''5問題;土、 L ずれも医療技術の進歩に伴うもので、

どちらかといえば医の倫理に属するものである。 LかLこう Ltニ問題群と

ともに、すでに1970年代から遺伝子仁I~~とと呼ばれる分野でも生命と科学技

令官をめぐる問題は発生Lていた。例えば、スダンフォード大学のポール・

ノミーグ博士らは晴乳類に腫務をひきおこす可能性のあるウイルスと人間の

腸内紛!蔚である大腸菌とを遺伝子操作Jこより結合させたのである O そこで、

もLこの腫場をひきおこす可能性のあるウイノLスと結合された大腸菌が増

殖して実験室から外へと拡がったらとし、う危険が指摘された。こうした操

iio(土、さら;こ、まったく新u 組み換え分子が発癌性能力をもっ危険性、

細菌に抗する抗生物質に対する抵抗力をもたらす遺伝子をつくり出す危険

性なとを生じきせることにもなりかねな¥, ..38)。

かかる生命科学、生命工学の進歩に伴って科学者自身ば自らを次のよう

な新たな問題群に直面せ Lめたのである。すなわち、科学的真理の探求は

科学者にとって当然、の権利か、科学に規制は必要であるか、ぞれは科学者

白身カゼつくるものかそれとも市民がつくるものか、研究計四には科学的価

値判断以外の新Lいものさ Lが必要か、どうすれば科学者に彼らの研究結

果生じた社会的倫理的ジレンマを気づかせうるか、市民は科学者の仕事を

どうすれば照骨子Lうるか、等々の問題群である39)。

医C!':i引の倫理と L火、生命倫理といい、 rilJj者の相違につL、ては後述するが

(2節(さり、いずれにも共通するのはころ Lた問題群ば科学技術が高度に進

歩 Ll.こどころにと主じてきたという点である O

H 人権思想の興隆 生命工学・医療技術の進歩に相応 Lて人権への要

求が盛りあがって tctこことが、生命倫理・医の倫理の問題をいっそう鮮明

にするヶたとえば、生命工学による生命操作(遺伝子操作)、医療を施す

側による、 Lかも結果と Lては医療機械による患者の一方的な管理(カレ

38) J.グッドフィーノレト¥中村桂子訳、同{を演ずる一一遺伝子工学と生命の操作一

-J、岩波書応、 41-3頁参照。

39)問、 11-2頁参照。

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回山

ン事件)、生物的生命に比重が置かれた生命観(先天異常を持つ新生児の

数度にわたるしかも見込みのない手術)、医師の論理の優先(臓器移植の

積極的な推進)、親の論理の優先(男女産み分け・多胎妊振と減数手術)。

このような科学や医療の環境ではプライパシー権に象徴されるさ主ざまな

権利が主張されるのも当然である。現代は、人権の側から生命科学や医学

.医療技術が問L、直される時代である。

「生物医学の研究が進んで、科学者が人間の自律性や権利の問題に近づ

いて行ったので、今度は逆にそうし、った問題が科学者の仕事の本質的価値

を間いはじめたのだ。分子生物学が進歩して科学者が新しい生命体を作り

出せるようになったことが必然、的に社会を刺激して、科学者の活動を云々

する動きをひきおこした40)oJ

こうして人権が主張されるようになった背景のうち最大のものは、前述

したように生命科学や医療技術の高度の発展によってもたらされた生命環

境であるが、それに附随してさらに次のようなことも考えられよう Q

まず第一に、 一般的にはすべての科学がそうであるが、科学の価値的中

立性ないしは科学的真理の探求は善である、とL、う信仰はもはや維持でき

ないことが挙げられる。原水爆の開発、自然環境破壊、遺伝子操作、科学

の国家管理ということになれば、純粋な知的好奇心に基づく科学的真理は

中立であるとか善であるということを無邪気には信じられなL、。医療の領

域では古典的な医の倫理を述べたものと見倣されている「ヒポクラテスの

誓い」も、その意味で具体的事例にあっては再検討・再解釈が要求されよ

う。医師としての能力と判断力を尽して、患者の身分によって差別するこ

となくまた不正な振舞いをすることなく「患者の福祉のために」医療を施

すことができた時代はよき時代だったといえよう。現代は、 「患者の福祉

40) J グッドフィーノレ人前掲書、 10頁。

しかし、科学と倫理の関係についてはすでに多くの先賢たちの指摘するところで

あり(ルソ一、マルクス、 トルストイ、湯JII秀樹)、生命科学が、人闘がより神に

近づいたという点で従来の科学とは異質であるとしても、そのことから人間が新た

に科学と倫理の関係を自覚しうるだろうか。

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一回一

のために」為された医療行為が訴えられる時代である。

第二iこ、人権が唱えられる側面と Lて合理主義的あるいは機能主義的な

思考が支配的となっていることも挙(ずられる。この思考はいろいろな面に

うかがわれるが、例えば人間観において然りである。視点を定めないまま

にここでカレン事件を例証とするのは混乱を生じさせるかも知れないが敢

えて試みる。養父ヨセフ・グインランは、娘カレンに装着された人工呼吸

器を「通常外」の処置だとしその取りはずしを医者に求めた。そ Lて、そ

のことによりカレンがもし死亡しでもそれは神に召されたのであって、自

然死だと主張したので-ある。自然とは神の被造物なのである。人聞は被造

物と Lて、その生死は勿論存在そのものを支配されその限りでこの世に存

する。いわぽ自然主義的な人間観である。 rわれわれは、自明の真理とし

て、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたし、天賦

の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれるこ

とを信ずる問。」

ところが、近世以降、 「我考える、ゆえに我あり」に象徴されるように、

人間の考える機能・能力を中心とする合理主義的・機能主義的人間観が支

配的となってきた。そして、この機能を喪失した人聞は社会から切り捨て

られてしまう。カレン事件は、視点をどこに据えるかに依るが、しかも単

純には決めつけられないが、上の自然主義的人間観と合理主義的・機能主

義的人間観が括抗L合っている事件だといえよう。ただ時代の流れとして

は後者の人間観が勢力を占めつつあるよう vこ思われる42)。

それから合理主義的・機能主義的思考はまた医療の効率化の面にもあら

われる。これは次に述べることだが、特定のしかもその顕著な効果が疑わ

れる部面に対するよりも、一般的なしかも医療に見合う効果が期待できる

41)斎藤真訳「アメリカ独立宣言J(1776)、 F人権宣言集』、岩波文庫、所収。

42)例えばきわめて単純な機能主義的人間観としては、人間の生から死への過程を、

受精、胎児、出産、嬰児、成人、痴呆性老人、植物状態、脳死、心停止と段階づけ

て、どの段階からどの段階までを人間 (person) とみることができるかとし、う議論

があることが紹介されている。森岡正博、前掲論文参照。

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一回一

部面に対ずる負担を行う方が合理的だと考える。これは医療の平等化でも

ある。例えば患者一人について月額500万円以上の医療費がかかったケー

スが昭和六一年度に367件あれ最高は1, 774万円だったとしわれると山、

何を基準にして適切な医療といえるか考えざるをえないだろう。人権が人

間関係・社会関係を抜きに Lて現実には成り立たなレ以上、医療の質と量

は相互にぜめぎ合うのである。

第三に、人権尊重が訴えられる側面と Lて、医療従事者と患者の関係の

変化が挙げられる。医者が増え医者に対する社会の評価の変化があり、啓

蒙活動により患者や市民が多くの医療上の知識を持つようになった。金銭

に対する感覚もかわってきた。それに医療側での意識の変化や医療のシス

テム化・機械化なども加わって、患者はそれだけ自分の立場を主張しやす

いあるL、はしなければならない状況になったといえる。

(iii) 社会経済的要因 生命倫理・医の倫理が問題になる時代背景の最後

の側面として社会経済的要因を挙げえよう。

まず、患者個人にしても国家財政の上でも医療費のその財政に占める割

合は年をおって増加し続けている44)。たとえば脳死をもって人間の個体死

と見倣そうとする考え方には、医療費の節約ということも入っていよう。

さらに、患者側の人間関係、なかでも家族関係の変化がある。核家族化

が進むなかでLかも隣人関係も形成されにくく、いったん病を得れば医療

機関に入院する他なく、経済的にもまた心身の上でもその家族は大きな負

43)健康保険組合連合会の調査による。朝日新聞、 1987年7月20目。また次のような設

間を行ってそれに回答者が答えるという記事さえある。1"現在、医療の高度技術化

に伴い、個人当りの医療費が急騰しています。一例では、ある大学病院に入院加療

中の血友病患者(老年)八年間九億円が投下されています。この医療費の国庫負担

(私たちの税金で、す)を妥当と思われますか?J U中央公論l1986年10月号、 119頁。

44) 注26) の表を参照。 u厚生白書~ (昭和60年版)では、医療費増大の要因として次

の五点を指摘する。ぐァJ高齢化の進展的疾病構造の変化(治療期間が一般に長い成

人病が増えている) (吟医学技術の進歩(高額医療機器の普及等j 仲需要と供給

のメカニズム(需給共に増加の傾向) 制診療報酬支払方式(医療費が保険者から

医療期間に支払われるため過剰診療になりがち)同書、 73~77頁。

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担を強しられることになる。そこに単に医療上の倫理的問題だけでなく、

それとからまって人間関係上の倫理問題が生じてくるのである。例えば、

患者の看病を誰が引き受けるかばスムーズに解決されなければ、それだけ

でも医の倫理へ暗しかけごを落すことになりかねないのである o 未完7

川旬、,l'iY:':'.l