№28 - 公益財団法人周南市ふるさと振興...
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【目次】ふるさと探訪 7不思議の太陽寺 P2~31枚の絵 興元寺 杉氏墓所 P4ふるさとの食 つしま P4甦れ若山城防長の3武将物語 第14幕(完)P5活動紹介 若山城悠久の歴史をつなぐ P6~7山陽道エピソード 温田のかぶと伝説ほか P8昔の遊び手まり唄⑵ P9ふるさと旬の料理 トマトスープ P10
平成21年秋号№28
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太陽寺にまつわるものとして、次のような伝説が残っています。
和尚が弟子を従えて奥関屋を過ぎ、八代に向けて九つ づ ら お
十九折りの急な小道をかき分けながら登り、ちょうど峠付近にさしかかった時、今まで晴れていたものが、さっと曇り、雷が轟
とどろ
き、現在でいうゲリラ豪雨となりました。樹陰に雨宿りしていると、程なく雨は上がり、日が射し始めました。 空を見ると、7色の虹が遥か西方の彼方から八代の村にかかっていて、その虹の橋を竜が渡って来るのが見えました。和尚はこれをみ仏
4 4
のお導きと見て山に分け入り、竜の降り立った岩を見つけて、ここに堂を建てることにしました。
旧熊毛町は、昭和31年に八代・高水・勝間・三丘の4か村が合併し、町制を施行したものです。史跡や文化財などが数多く点在しており、地名やその他にまつわる伝説や民話なども豊富にあります。 その内の八代地区は昔、この地を開墾して田畑を切り拓き、村を作った時に五穀豊穣を祈願し宇治神様を村内8か所に社を建てて祀ったところから、8つの社
やしろ
、このことから八代というようになったと言い伝えられているそうです。今回は、その八代地区にある太陽寺をご紹介します。
太陽寺 曹洞宗水上山太陽寺は、南北朝時代の貞和3年(1347年)に天徳禅師が創建した歴史の古いお寺です。火災により江戸時代焼失し(中期)安永年間(1771年~1781年 ) に再建されて現在に至っています。 中世は、内藤氏の領内でしたが、内藤氏のあと毛利氏一門の宍戸氏の領地となり、宍戸家代々の牌所となりました。 本堂には、お釈迦様の弟子の中でも優れた16人を指す16羅漢様が順番に並んでいます。その中でも賓
びんずるそんじゃ
頭盧尊者は、自己の悩む箇所を触ることにより癒すとされて、多くの方々が訪れています。
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それが、今の太陽寺です。
和尚は、堂が完成するまでの数年間、最初に竜を見た峠に小庵を営み、そこで道行く人々に仏法を説き聞かせました。それから誰言うともなしに、この坂を法説坂と呼ぶようになり、後に、仏坂と改まりました。なお、当時の庵の門柱石一対の内の1棹
さお
は現存し、峠の頂上県道脇に移し立てられています。 また、裏庭に心字の形をした池と岩の間から湧き出る清水があり、これが「雷の水」伝説となっています。
堂が完成した当時は、お寺には水が出なくて、山門から1町(約109m)ほど下の池まで毎朝水を汲みに行かなくてはなりませんでした。 ある時、雷様が空から寺の庭に落ち、腰を抜かしてしまいました。療養の傍ら和尚の教えを受けながら仕えること3年、日々水を汲みに行くのは大変な仕事で苦労をしていました。雷の腰も治り和尚のお許しを得て、妻子の待つ天上へ帰ることになり別れを告げて寺の後の岩壁を駆け登って行きました。その爪の跡からこんこんと清水が湧き始めました。これが恩返しの雷の水です。 最初この岩に降り立った竜が吹き出しているのであろうと言うことで、竜水とも呼ばれますが、その清
せいれつ
冽な湧水は1年中絶えることがなく水に不自由することはなくなりました。
太陽寺の7不思議太陽寺には、次の有名な7不思議も伝えられています。1 どんなひでりでも雷の水は絶えることがない2 山内では、きじや山鳥がほろろをうたない(鳴かない)3 心字の池では、蛙が鳴かない4 山内では、はみ(まむし)が人をかまない5 門内には、蚊が住まない6 大雨でも高い屋根だが、軒の雨だれが地面を掘ることがない7 心字池の水は濁ることがない。もし赤く濁ったらお寺に何か異変が起こる
参考資料:「山代の民俗」「ふるさと探訪熊毛町」【取材協力:太陽寺】
清水 延命水かけ地蔵心字の池
←県道脇にあります
↓門柱石
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興元寺 ( 上一ノ井手)には、杉元もとすけ
相・元もとのぶ
宣親子の墓があり、2基の宝
ほうきょう
篋印塔が並んでいます。周南市に関係ある領主の墓としては古いもので、元相の塔は150㎝あり、元宣の塔が123㎝あります。このお寺は、天正2年(1574年 ) に元相が自らの菩提寺として建立し、開山は長穂にある龍文寺の和尚です。 中世の徳山は野上庄といわれ、しばらくの間、陶氏がこの地方を治めていましたが、陶氏の後、杉氏が20数年間領主になりました。杉氏は、大内氏に仕えていましたが、毛利氏が防長に進出すると、やがて毛利氏に仕えるようになりました。毛利輝元の時、元宣に嫁ぐことが決まっていた大変美人なお姫様がおり、輝元はその姫をあきらめられず、元宣は、毛利氏に謀られて非業の最期を遂げたと伝えられています。 なお、徳山動物園第1駐車場出入口脇には、杉家跡の標があります。
【写真・資料提供:周南市教育委員会】
つしま
― わたしたちは、ふるさとづくりを応援しています。―
興元寺・杉氏墓所
ぜひ、ご家庭で作ってみてください。
【資料提供:周南市職員自主研究グループ 「まなびピア」】
材料10人分豆腐…………………… 1丁人参……………………100g生しいたけ…………… 5枚サラダオイル………… 少々きゅうり……………… 1本調味料酢……………………大さじ5砂糖…………………大さじ4塩……………………小さじ1しょうゆ……………小さじ1
つ し ま
作り方①豆腐は塩小さじ1を入れて、お湯の中でくずして茹で、 ザルに上げてさます。
②調味料を合わせておく。
③人参・生しいたけは せん切りにして サラダオイル少々で炒め、 熱いうちに調味料につける。
④冷めた豆腐・せん切りしたきゅうりを ③の野菜と混ぜる。
一口メモ 「つしま」は、つしま漬けともいい、櫛浜に古くから伝わる精進料理です。豆腐と人参 ・ 生しいたけ ・ きゅうりを三杯酢であえます。徳山で残っている唯一ともいえる独得の料理です。
豆腐
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第 14幕「蘇れ若山城」
若山城は、陶家の先祖、周防富田保領主、陶弘政が1396年に築城したものと言われている。(いろんな説がある。)時代背景から山城であったと思われる。―― ところで、我々が若山城なり、陶晴賢の存在と知ったのは、遠く小学生の時であった。―― 陶晴賢は「主君へ謀反を働いた者」と教えられ又、福川中学校の応援歌の一節に「…歴史に深かき若山の」と、あった。当時としては、何となく過去の出来事であったのだ…くらいであった。ところが昭和43年の元旦。福川青年団が始めた新春登山が引き金となって、以来、若山城跡の公園化、明治100年記念本丸跡への桜の植樹、登山道の開設、県文化財の指定、同保存会の設立、登山道への全国の桜の植樹等々、官民で取り組んできた。…時も昭和から平成へと移り、この「物語」を通じて老若男女が郷土愛に燃え、郷土に誇りを持って、「陶晴賢」ら先人が夢と希望を持って築いた。―― この若山城の歴史的文化遺産を生かし、「甦れ若山城」という紙芝居にロマンを求めて、英知を結集し、21世紀を展望したい。 新しい新南陽市(現、周南市)のイメージづくりと、地域の活性化のために、「平成の若山城」を皆んなで築こうではないか。…ありがとうございました。(完)
【平成二年三月創作】
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「コラッ、中村ッ、『陶晴賢のようになるぞ』」―。 中村さんが福川小学校5年生の時、朝礼で列を乱した折、隣組の男先生に注意された、そのひと言が胸に残り、陶氏は「悪い例で使われる」イメージがしたそうです。それが、「紙芝居を創作された原点」です。 それから13年…昭和43年に中村さんは、福川青年団長として「第1回新春登山」を開催しました。当時の登山道は、うさぎ道で本丸跡は荒れ放題でした。青年団OBから「ここを公園にしたら町民が喜ぶぞ」とアドバイスがあり、新年度総会で「城跡公園化事業」の提案をしたものの、大多数が反対し、それを説得。5月から山道の整備や本丸跡、標識、トイレ等の設置に取り組み始めました。また、本丸跡に明治100年記念桜の植樹を行いました。 ここから、中村さんの若山城に関わる本格的な活動が始まりました。
【出来事あれこれ】1973年(昭和48年)南陽町が登山道を開設1987年(昭和62年) 若山城跡が県指定文化財(史跡)に指定される。…観月会を開催。1988年(昭和63年)文化財指定記念として、登山道に「全国の桜」363本を植樹。 セレモニーは、大河ドラマ「武田信玄」のヨロイ、カブトを借用して行 う。(陶氏末裔も植樹)1990年(平成2年) 「七人の侍の会」を結成し「晴賢公」没後435年を記念して大紙芝居 「甦れ若山城!防長の3武将物語」を創作。1991年(平成3年) 「夢の実戦」として、「第1回・若山城サミット」を開催し、「NHK大 河ドラマ誘致」運動に取り組む。ゆかりの地から900名が参加。以後、 吉田町・廿日市市・長門市・山口市・厳島で開催。 この年に、登山道から本丸跡にかけ、ごみ拾い開始。「ゴミ拾う人、捨 てない人もボランティア」の標語ができる。
活動紹介若山城悠久の歴史をつなぐ
1968年若山城公園化事業(青年団時代)
陶の道を発展させる会 中村秀昭さん
守護大名・大内弘世の命を受け、1352 年ごろ陶村(山口市)から「陶弘政」が富田保(下上武井)に入部。目的は、下松方面に勢力を張っていた鷲頭氏に対峙するためだった。以来約200 年間、地頭や周防守護代を務め、政治はもとより、多くの寺社を建立する。若山城は文明 2 年(1470 年)築城され、1557 年 3 月、毛利軍に攻められ落城する。来年、2010 年が築城 540 年にあたる。
1551年9月 陶晴賢が大寧寺(長門市)で主君・大 内義隆を滅ぼす。1551年10月 陶晴賢が毛利元就との「厳島合戦」に 敗れる。 (同) 亡晴賢に恨みを持っていた杉重輔兄弟
が若山城を急襲する。(陶長房らが龍 文寺で自刃する。)1557年3月 毛利軍の長州進攻に伴い、若山城が落 城する。
陶氏と若山城 主な合戦
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1992年(平成4年) 「3武将行列」開催。「紙芝居の主要な場面」の合戦を福川本陣や寺社で開催。この模様をNHKが全国放映して、「七人の侍の会」の活動に関心を持つ。
1994年(平成6年) 若山城登山道に「俳句碑」65句を設置。 第6回・厳島サミット(最終回)で、延べ 3, 500人が参加。1995年(平成7年) 登山道入口に「城門及び歴史看板」設置。 勝栄寺に「毛利元就の三子教訓状」扁額寄贈。1996年(平成8年) 第1回「陶の道ウオーク」開催。 福川小学校6年生のふるさと学習に導入。 勝栄寺に市民募金で「三子教訓状石碑」寄贈。1997年(平成9年) 大河ドラマ「毛利元就」が放映。第34話「闇 に舞う般若」で若山城が舞台となる。(晴賢が主君を打倒に立ち上がる シーン)ちなみに厳島へ史上最高の観光客があったとのこと。2000年(平成12年)陶晴賢公没後445年、新南陽市制30周年記念事業として、「若山一 夜城」築城。3, 500人が見学する。その後福川駅西の空地に移築。2003年(平成14年)登山道に「アジサイ」植樹。 ―― 「天守なきアジサイ城」の創造。2004年(平成16年)「陶の道・若山城登城のみち」が「美しい日本の歩きたくなる道500選」 に選ばれる。 「七人の侍の会」から「陶の道を発展 させる会」と改称する。2005年(平成17年)「陶晴賢公450年忌・復権祭」開催。2006年(平成18年)富田中学校1年生が「陶の道」を「ふ るさと学習」に導入。2007年(平成19年)市民募金で登山道入口に「若山城跡顕 彰碑」を建立。2008年(平成20年)㈳周南青年会議所が「周南路まるごと2days ウオーク」を開催し、 コースに陶の道が選定される。 最後に中村さんは「悠久の歴史をもとに、新しい歴史を皆でつくり、次代につなげることが我々の『使命』。」と話されていました。
2010年(平成22年)
若山城築城540年記念事業1月 「若山城築城540年記念」横断幕設置(若山登山道入口)3月 「若山城540年記念碑」及び全国500選の 「陶の道・若山城登城のみち」石碑建立 「祝・若山城築城540年祭」開催 (新南陽ふれあいセンター) 諸資料・写真・新聞記事の展示、ジャンボ紙芝居の上演、 小・中学生の研究展示、舞踊、歌謡など5月・10月 「築城540年記念ウオーク」開催
【連絡先:☎0834-63-1983(中村さん)】
毎年5/3に開催される陶の道ウオーク
(JR福川駅前)
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山陽道エピソード
≪温おんだ
田のかぶと伝説≫ 福川と富田の間に温田峠という小さな峠がありました。今の南陽工高の近くです。峠から眺める黒髪島を浮かべた海の景色がいっときの涼を与えてくれます。ここには萩本藩の御水茶屋所や温田観音がありました。また三浦茶屋もありました。 室町時代の頃といいます。この三浦茶屋に身なりの悪い疲れ果てた1人の武士が現れ、「おい、酒だ。酒だ。」とさんざん酒をあおった挙句、寝込んでしまいました。夕刻になって、「金はない。代わりにこのカブトを置いてゆく」と言って立ち去っていきました。若山城の陶氏の家来だったといいます。その兜は今も三浦家に伝わっています。
第2回
≪早さ お と め
乙女の悲劇≫ 早乙女たちの田植えは久
く め
米ケ瀬戸地区の風物詩でした。ある日、早乙女の1人が通りがかった九州からの飛脚に早苗を投げつけたのです。この地域では、苗を投げつけてご祝儀をもらう「早苗打ち」という風習がありました。 「無礼」と激怒した飛脚はその早乙女を刺し殺して、その場を立ち去りました。近所の者たちはその早乙女を哀れみ、塚を造り、松を植えて、ねんごろにとむらってやりました。やがて土地ではその松を「早乙女の松」と呼び慣わすようになりました。昭和11年に「早乙女の碑」が建てられましたが、現在は遠石の千
せ ん に ち じ
日寺の境内に移されています。
新南陽民俗資料展示室 西村 修一
今も篤い信仰を集める温田観音 三浦家所蔵の伝説のかぶと峠からの眺め
山﨑八幡宮のお田植え祭の早乙女たち 前田麦二画の早乙女の塚
千日寺境内の早乙女の碑第3回は「呼坂本陣は資料館」「周南の孝女たち」です。お楽しみに。
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童わらべうた
唄に合わせての遊びは、お手玉遊びより、まりつき遊びの方が多く、また多種多様であった。1から10まで順番に繰り返すものが多く、10までで上がり、1巻の終わりでもあった。 【米蔵納めの唄】♪ 1匁の一助さん、1の字が嫌いで、1万1千1百億、1斗、1斗、1等米のお蔵納め
て、2匁に渡した。 2匁の二助さん、2の字が嫌いで、2万2千2百億、2斗、2斗、2等米のお蔵納め
て、3匁に渡した。 3匁の三助さん、…… ♪ と繰り返し10匁まで続けて、1巻の上がりであった。
【芋、人参の唄】♪ 1 いいも、いいも。いいもいも。 2 にんじん。人参。芋、人参。 3 さかな、魚。芋、人参、魚。 4 しいたけ、椎茸。芋、人参、魚、椎茸。 5 ごんぼ、牛蒡。芋、人参、魚、椎茸、牛蒡。 6 ろうそく、蠟燭。芋、人参、魚、椎茸、牛蒡、蠟燭。 7 しちりん、七輪。芋、人参、魚、椎茸、牛蒡、蠟燭、七輪。 8 はがま、羽釜。芋、人参、魚、椎茸、牛蒡、蠟燭、七輪、羽釜。 9 くじら、鯨。芋、人参、魚、椎茸、牛蒡、蠟燭、七輪、羽釜、鯨。 10 とうがき、唐柿(いちじく)。芋、人参、魚、椎茸、牛蒡、蠟燭、七輪、羽釜、鯨、 唐柿で止めた。♪
「芋、人参の唄」は、家庭のなかでも台所にある食材や道具であった。10まで数が増していくごとに、その物の名前は早口で唱えるので、早口ことばでもあった。
「私が子どもだった昭和の初め頃、今から80 年ほどの前の山里の遊びです。」
文 と 絵 : 倉 冨 良 枝
~ 手まり唄 ⑵ ~
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トマトスープ
《 作 り 方 》① トマトは皮とへたをとり、くし型に切る。
② 鶏肉は薄いそぎ切り4 4 4 4
にしておく
③ にんにく、玉ねぎは薄切りにしておく。
④ キャベツもざく切りにしておく。
⑤ ナスは、ひと口大の乱切りにする。
⑥ 鍋にサラダ油を熱し、③のにんにく、玉ねぎを炒め、次
に②の鶏肉を炒める。
⑦ ⑥に水4カップを入れ、④のキャベツ、⑤のナス、①の
トマトを入れ10分くらい煮込む。
⑧ ⑦に塩、こしょうで味を整え、千切りしたピーマンを入
れ、ひと煮する。
(4 人分)
完熟トマト …2個玉ねぎ …1/2 個にんにく …1片鶏肉 …100gナス …1/2 本キャベツ …200gピーマン …1個サラダ油 …適量塩 …小さじ1こしょう …少々水 …4カップ
材 料
真っ赤に熟れたトマトは、煮込み料理によく合います。 トマトを煮込むと酸味だけでなく、まろやかなうまみ
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が生まれます。うまみ4 4 4
成分のグルタミン酸が多く含まれているようです。 あり合わせの野菜と一緒に煮込むと、簡単でおいしいスープができます。
「ふるさとかわら版」編集委員:内山洋子/倉冨良枝/徳本 仁/中村秀昭(�0音順、敬称略)
かわら版に関するお問合せ先:ふるさと産品の店 “ こあ ” ☎ 0���-��-��1�財団法人周南市ふるさと振興財団 〒 745-0034 周南市御幸通 2 - 28 周南市市民交流センター 2 階 ☎ 0834 - 33 - 7701 FAX 0834 - 31 - 3655 Eメール:[email protected] URL:http://www.city.shunan.yamaguchi.jp/furusato/