羅 戯 彼 た を 陽 て 震 る 上 汝 曲 情 は し 師 明 有 宏 詩 湯 ... · 2018. 7....

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Page 1: 羅 戯 彼 た を 陽 て 震 る 上 汝 曲 情 は し 師 明 有 宏 詩 湯 ... · 2018. 7. 9. · と し て 至 り 、 思 わ ず し て 至 る 。 怪 怪 奇 奇

湯顕祖の戯曲観

-

情の重視ー

(字義彷、

一字義少。号若

士、別号清遠道人、繭翁。江西臨川県の人。

一五五〇ー

一六

一六)

は、

文学

、衰宏

(字中郎、号石公、公安

の人。

一五六八-

一六

一〇)

公安

の反

運動

の先

して位置

づけ

る詩文、戯

曲作家

であ

る。

(近人郭紹虞著

『中国文学批評史』には、

「公安派的前駆与羽翼」中の人物に入れる。)彼が

震宏道

同様

に模擬を否定

して独創

を尊び、自然

な情趣を重

んじた

のは、周知

のように、人が生まれながら

にし

て有する良

知良能

であ

る所

「赤子

の心」

「童

心」を説く、陽明学

の影響があ

ったからである。実際蓑宏道

明学

の李

(字卓吾、蕾江の人。)と

しか

ったし、

顕祖

は羅

汝芳

(字惟徳、号近渓。

一五

一五ー

一五八五)

を師と

し、李賛を慕

っていた。

しかしながら湯顕祖

は衷宏道

とは異なり、ただ詩文を論ず

るだけ

ではなく、好

んで世

を論

論じもし

た。

の結果剛毅な気性が災

いして、官位

は上らず、左遷

の憂き

目に会

った

のであ

る。またそ

の気性

ゆえに、

は陽明学者

の影響

を受けなが

らも、

一方

「学人弱

し」

いって講学を嫌

い、

の心

にお

いて

「性」

よりも

「情」

を重

視し、天下

「情」

によ

って動

いて

いると考え、天下

の人

々の情

を文芸、特

に士庶

とも

に楽

しめる

戯曲

によ

って養

おうと企

てた

のである。

こう

した彼

の教育活動

には講学

にょり天下

に仁学

を及ぼそうとした師

羅汝芳

に勝

るとも劣らな

い真摯

さが認

められ、彼

の文人と

して

の面

目を窺う

ことが

でき

る。

1

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第五十九輯

本論

では

「天下を己が任

とす

る」

と評される湯顕祖

にと

って、戯曲創

作がどれ

ほど重大

な意義を持

って

いた

かについて考

察したい。

さて湯顕祖

の文章

論は、同郷

の丘兆麟

(字毛伯、

一五七ニー

エハニ九)

の著作

に寄

せた序文

「合奇序」(『湯顕祖

集』、中華書局、一九六二、詩文集巻三二)に最

も簡潔

に述べられて

いる。

世間、惟

だ拘儒老生

のみ与

に文

を言うべからず。耳多く未だ聞

かず

、目多く未だ見ず

して、其

の鄙委牽拘

の識

を出だ

し、天下

の文章

を相

る。寧ぞ復

文章有ら

んや。

予謂う

に、

文章

の妙

は歩趨形似

の間

に在ら

ず。自然

の霊気

、悦惚として至

り、思

わず

して至

る。怪怪奇奇

とし

て名状すべき莫

し。物

として尋常

に以

かえ

て之

に合わすを得

るに非ず。蘇

子謄

(載)

枯株竹石を画

いて絶

えて古今

の画格

に異

なるも、乃

って愈

よ奇

はか

なり。

し画格

を以て之

を程れば、幾ど格

に入らず。米家

(帝)

の山水人物

、多

くは意を用

いず、略ぽ

数筆

を施

して形像

宛然たり。正

に有意

に之を為さ

しめば、亦復佳

ならず。故

に夫れ筆墨小技

は、神

に入る

を以

て聖を証す

べし。通人

に非ざ

るよりは、誰

か与

に此を解

さん。

彼は、書画同様

に文章

には言葉

では表現

し難

「自然

の霊気」が必要だと説き、徒ら

に格套

に拘

り模擬

を尊

ぶ学者諸生

の卑俗な文章

をおとし

めるのであ

る。

しかし

こう

した彼

の持論

は、彼独自

のも

のではなく、例えば同時代

の詩

文随筆・作家

であ

る蓑宏道

の説と

おお

むね合致

するも

のであ

った。嚢宏道もまた、

の得難き所

の者

は唯だ趣

のみ。趣

はたとえば

山上

の色、水中

の味、花中

の光、女中

の態

の如

し。善

く者と難も

一語を下す能わず、唯だ心に会する者

のみ之を知

る。

……夫れ趣は之を自

に得

たる者

は深

2

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を学

に得

る者

は浅

し。

(技陳正甫会心集)

おおむね

(小修は)大都独り性霊を拝

べ、

格套

に拘

らず、

己の胸臆中

より流出す

るに非ざれば肯

て筆

を下

さず。

(肢小修詩)

とい

って、詩文

にお

いては作老

の心

の霊妙

はたらきが

肝要だと説

のである。

加えて貢宏道

は、作者が創作す

るに当

って、聞見

に迷

わされる

ことの少な

い童

の心を模範とすべきだと主

張する。

の童

子たるに当

っては、

趣有

るを知

らず、

然れども往く

として趣

に非ざ

るは無

し。

……夫

れ年漸く長

あしかせ

いばら

漸く高

品漸

く大

れば

、身

るも

し如

るも

し如

、毛

骨節

、倶

知識

の縛

る所

り、

に入

こと愈

よ深

し。

ども

の趣

を去

こと愈

よ遠

し。

(救陳正甫会心集)

これ

と殆

んど同

じ内

の発

は、

に湯

にも

めら

る。

かえ

みた

童子

の心は虚明

にして化すべき

に、乃

って実す

に俗師

の講説、薄士

の制義

を以

てす。

一たび其

の中

に入れ

たのしみ

ば復

た出ず

るべからず

、人

をして冷冷

たるの

を見ず、純純

たるの音

を聴

かざ

らしむ。

(詩文集巻三十、

光舞亭草救)

彼等は

いずれも

このよう

に創作

において

は、童子

の純真な心を保

ち、狭

い聞見

に惑わされてはならな

いと説

のであ

るが、と

ころ

でこうした考え方は、陽明学

「致良知」説

に基づ

いて

いると思われる。

たとえば

湯顕祖

の師羅汝芳

によれば

、「赤子

の心、渾然として天理なり。

の知必ず

しも慮らず、

の能必

しも学ば

ず。」(『旺壇直詮』、上)と

いって

「赤子

の心」

を強調

し、

また王陽明

の説

をうけ

て、

明先

生の所謂

「個

々の人心

に仲尼有

るも、

自ら聞見

を将

って遮迷

に苦

しむ」(『王陽明全集』巻二+、外集

二、

「詠良知四首示諸生」の

一)なり。蓋

し人は幼時

より読書

し、便

『集説』等

の講解を用う。其

の支離

湯顕祖の戯曲観

-情の重視1

(阿部)

3

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第五十九輯

甚だ鄙笑すべし。

(同、上)

と、心を問題

としな

い読書

の弊害

を説

いて

いるし、同様

に李

賛も

また

「童

心説」

(『焚書』巻三)にお

いて、

れ童

心とは真心

なり、其

の長ず

るや道

理の聞見

より入

る有

り、以

て其

の内

に主と為

りて童

心失

わる。

さわ

…夫れ学ぶ者

は既

に多く読

し、義理を識

るを以

て其

の童

心に障

るなり。

と、聞見

「童心」

に障害ありとして否定

して

いる。嚢宏道や湯顕祖

の文学

主張が、

これら陽

明学者

の思想

影響下

にあ

った

ことは明白

であろう。

に李蟄

の詩文論

は、

褒宏道や湯顕祖に極

めて近

った

ことが

わかる。

李賛

曰く、「蓋

し声色

の来

るは、情

に発

し自然

に由

る。

是れ牽合矯強

を以

て致すべけ

んや」

と。(『焚書』巻三、読律膚説)

そして湯顕祖

の文章

はそ

の戯

曲創作

にも反映

して

いるよう

であ

る。

は生まれ故郷

戯曲

メロデ

ィー

(宜黄調)に乗せた作品、

すなわち

『紫叙記』

『牡丹亭還魂記』

『南村

記』『榔邸記』を作

った。

して自

ら俳優を養成

し、

の曲

を歌わせた

のであ

るが

、そ

の際

い手

立場

(唱曲)よりも作者

の立場

(作曲)を重

んじ、そ

の結果、曲韻、調格を必ず

しも守らな

ったため、当時唱曲

理論が盛

んであ

った呉地方

の毘曲作家

たちから非難を浴

びた

ことは、誰

しも知

ると

ころであ

ろう。と

ころ

で彼

がそ

の非難

に答え

たつぎ

のことば

には、前

の文章

論に見えた情趣尊重

の主張

を再び認

める

ことが

でき

る。

呉中

の曲論を寄

せしは良

に是なり。

「唱曲当

に知

るべきも、作曲尽く

は当

に知るべからず。」、

この語

は大

いに軒渠すべ

し。凡そ文

は意趣神色を以て主と為す。四者

到る時、或

は麗詞、俊音

の用う

べき有

り。

時能く

一一九宮四声を顧

みるや否。如

し必ず字に按じ声を模

せば

、即

ち窒滞

送捜

の苦有

り、恐らく

は句を

4

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す能

わざら

ん。

この

一文は餓挑

の人

で、彼

同年

士として交遊

のあ

った呂允昌

(字玉縄、

一字麟趾。)に宛

てた書簡

であ

り、呂允昌は湯顕祖

『牡丹亭還魂記』を毘曲

ロデ

ィ!に乗

るように改作

した人

でもあ

る。

(詩文集巻四七、

尺績四、「答凌初成」参照。)

これ

にょると、曲韻

に合

わせて字

を択

んでいた

のでは自然な情趣あ

ふれる曲

はできな

い、と

いう

のが湯顕祖

の立場

であ

り、彼が戯曲

においても

、形式

より情趣を重

んじ

ている

ことが

わかる。

して彼

こうした情趣尊重

の立場を、さら

に古典

にょり正当化

しようと

して

いる。すなわち

『玉茗堂評花

間集』

の評語中には、前

「酒泉子」

に評

して、

填詞

は平灰断句皆な定数あ

るも、詞人

の語意

の到

る所、時として参差有

り。

古詩

にも亦

た此

の法有

りて、

詞中尤も多

し。此

の詞中

の字

の多少

、句の長短

に即

きても、更換

して

一ならず、豊

に専

ら歌者

に侍

みて上

下縦横

に協

を取らんや。

と述

べ、前

人の詞

の中

に語意

にょ

って詞

韻、詞格が必ず

しも守られず、

「歌者」

の便

よりも

「詞人」

の便

を優

した詞例があ

ることに注目する

のであ

る。

このよう

に彼は

「詞人」優先を主

張したため、実際湯

顕祖

の曲を歌える呉地方

の俳優

は少

なか

ったらしく、

徽宣

の友

、梅

(字禺金、

一五四九-

一六

一八)は

、湯

の書

つぎ

よう

に答

いる。

さき

なんじら

宜伶三戸

の邑、三家

の村

に来るも、.愛助すべき無

し。

然れども呉越

の楽部往

に至り

し者、未だ若曹

の盛行

おむ

るが如き有らず。

『牡丹』

『還魂』伝を以て重き

のみ。而

るに皆

な什

の三を演ず

る能わず、此

中唯だ陳上枝

一人を得

るのみ。

って其

の徒時時騎

駝と

して休

まざ

るは笑う

べき

なり。

(『鹿装石室集』書

膜巻十三

「答湯義傍」)

因に梅鼎柞は戯曲

『玉合記』

の作者

で、湯顕祖がそ

の俳優を奪

ってい

った

こともあ

るほど親交

のあ

った友人

湯顕祖の裁曲観

-晴の重視1

(珂部)

5

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第五十九輯

であ

る。

(同、詩巻八、「座有歌者、為

(龍)身之

(湯)義傍奪去、却寄」。)

しか

しなが

ら梅

鼎柞

は、

「南

を頃

るは

かならず

かならず

必須呉

士、南詞を唱うは必須呉児」

(同、文、

『長命楼記序』)と

いう主張を持

っており、呂允昌とも親

しく、呂

にそ

の著

『古楽苑』

の序文

めている

(同、詩巻十

一、「奉寄左司馬注長公八首、兼為呂吏部請

『古楽苑』序」)

こと

からしても、呉歌

(毘曲)に乗

らな

い湯顕祖

の戯曲

を絶讃

したとは思えず

、鯉右

に引用

した言

をも

って、

彼が湯

顕祖

の作者優先

の創作法を認

めていたとは考え難

い。ま

た反対

に湯顕祖も

「玉合記題詞」

(詩文集巻三三)にお

いて梅

『玉合記』

の内

容に殆

んど触れず

、ただ

「予其

の詞

を観

るに、多半

『韓薪

王伝』中なり。予が為り

し所

『窪小

玉伝』(すなわち

『紫篇記』)に視ぶれば、其

の沈麗

の思を並べ、

の穰長

の累を滅ず。」(この部分錯

簡あり、今訂す。)と

いう

のみ

であ

り、両者

は互

いにそ

の創作

にどれ

ほど理解

を示

したか疑わ

しい。

かく孤立

した状態

で湯

顕祖

は宜黄調と

いう地方劇

の育成を図

ったのであ

る。

しかし

『臨川県志』(同治元年重

修)巻十

二上、地理志

によると、

元来彼

の郷里

「呉

謳越吹、

の僻

なるを以て到

ること牢

にして、

土伶皆な

農瞭

に之

を学

ぶ。拝揖

の語言、拙訥にして笑うべし。」と言われる

ほど辺僻な地方

であり、讃論

(字子理、撫州宜

黄県の人、

一五二〇-

一五七七)が海塩戯

を導入

し、調格を持

つ戯曲

を育

てた

ことは、地方文化

の発展

に大ぎく 

こと

であ

ろう

れ故

の後

た湯

の俳

育成

の意気

みも

ひと

であ

ったと

われ

る。

(詩文集巻三四、「宜黄県戯神清源師廟記」に

「諸生旦其れ之に勉め、

(諏)大司馬をして夜台に長嘆して、奈何せん我死して

の道絶えたりと日わしむる無

かれ。」とある。)そ

の上

人凌

(字初成、呉興

の人)が

「江

西ざ陽

の土曲

は、

調

の長

の高

て心

に随

って腔

に入

し。

て必

も調

に合

わざ

も終

に悟

らず

。」

(『調曲雑割』)と

いう

よう

に、

黄調

の音律

が寛

であ

った

こと

は、

に作

の創意

を重

んじ

る湯

顕祖

の創作

に適

であ

った。

しな

、自

の主

を貫徹

でき

た理由

こにあ

ろう。

ごろ

に彼

は元来呉

地方

のメ

ロデ

ィを好

まず

、「近者海塩、毘山

一に繊靡

を意とす。」(『玉茗堂評花間集』毛熈震洗渓

6

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沙評語』)

って、

の繊

ロデ

ィーを嫌

って

いたし

た呉地

の俳優

に対

ても

「呉

を善

す。

……其

の微

に入

って

は……亦

た巳

に人

し。文

に至

って

は、

に其

の然

るを

るも、

る能

わず

。」(詩文

 

集巻四四、「答劉子威侍御論楽」)と

って、

の文

を歌

い稚

な歌

唱力

に不

も抱

いて

いた。

ころで湯顕祖は単

に文趣

を求

める

こと

にのみ心を奪われていたわけ

ではな

い。彼

『撫州府志』

(巻五九)

が伝えるように、「天下

を以

て己が任と為す」

器量

の人

であ

った。

つぎ

に彼

の人となりに

ついて考えてみょう。

彼は

「秀才説」

(詩文集巻三七)にお

いて、自ら過去

を振り返

って、

つぎ

のよう

に語

っている。

三歳

の時

、明徳羅

(汝芳)先生

に従

って遊

ぶ。

血気未だ定

まらず、非

の書を読む。

遊ぶ所

の四方、軌

ち其

の気義

の士

に交

わり、躇属靡術

し、幾

んど其

の性

を失う。中途

に復

た明徳先生

に見う

に、嘆じ

て問うお

て曰く

「子天

の士と

日に洋換悲

歌す

るは、何を為

さんと意う者ぞ。究寛性命

に於

て如何、何

の時

か了

るべけ

ん」と。夜

に此

の言を思

い、枕

に安

んず

る能わず、久

しうして省みる

こと有り。知

る、生

の性

たる

は是な

り、

食色性

なり

(『孟子』告子上)

の生に非ず。

豪傑

の士は是なり、

聖賢

の豪

を迂

視す

るに非ざ

を。

(類似した言は詩文集巻四四

「答管東冥」にも見える。)

これ

によ

ると、彼

は諸生

一時期陽明学者

の羅汝芳

に学

んでおり、そ

の後

も師

から教

えを受げる

こと大

であ

ったら

しい。羅汝芳

の人物

については、李

賛が極めて称讃

している。

『大学

』の

一書

は専ら大人

の学

を言う。庶人

と難も亦

た未だ嘗

て明徳

を天下

に明ら

かにせず

んばあ

らず。

此れ則ち吾が夫子

の独特

の学

にして、千古聖人

の同じくする能わざ

る者

なり。(『肝壇直詮』下)

このよう

に羅汝芳

は、李賛が彼

『大学

に基づ

いた簡易明快

な仁学が、庶

にもゆきわた

った

ことを高く

湯顕祖

の戯曲観

ー情

の重視ー

(阿部)

7

Page 8: 羅 戯 彼 た を 陽 て 震 る 上 汝 曲 情 は し 師 明 有 宏 詩 湯 ... · 2018. 7. 9. · と し て 至 り 、 思 わ ず し て 至 る 。 怪 怪 奇 奇

第五十九輯

評価す

る人物

であ

り、同じく湯顕祖もそ

の人柄

を認

めて、

「真風」

「仁

趣」あ

りと讃

える学者

であ

った。(詩文

集巻十四、「奉贈観察潭浦疎公三十韻序」)

湯顕祖が十

三歳

以後

再び羅汝芳

に出会

ったと

いう

のは、三十七歳南京

太常

博士

の時

であ

る。

この時彼

は羅汝

の性命

の学

を理解

し、従来

の軽薄な行動を反省

したと

いう。確

にこの時期

に彼

の視野は広くなり、さら

深く世間

のでき事

に関心を持

つよう

にな

ったと思

われ

る。

それ

は例えば

「劉大司成文集序」(詩文集巻二九)

に、

「南都

に官

し、…

…世俗

の嗜好

に干て

一切当

る所無く、天下

の事と天下

の賢人

を談ず

るを好む

のみ」と自

ら述

べると

ころから推測

でき

ょう。(詩文集巻四七、「答諸景陽」)

しかしながら彼

の生来

の気質が、羅汝芳

の出会

いによ

って根本的

に変革

され

たとは考え

にく

い。なぜ

なら

、彼

はそ

の後

葱学

(字君典、宣城人。

一五三九-

一五八二)、龍

(字君揚、泰和人。一五四二ー

一六〇九)

「気義

の士」

(豪傑)と

の交際

を止めて

いな

いし、また

「非聖

の書」を読

ことも止

めて

いな

いから

であ

る。

(彼は

『続虞初志』という小説集に序を載せ、評を加えている。)それど

ころか、「江東

の豪傑」諸景陽

をたたえ

ては、

「最も勝

る処は講学

に在

らず、

聞く

人多く弱

しと」

いって、

学者

の柔弱

さを批判さえして

いる

のであ

る。

(詩文集巻四七、「答諸景陽」)

また

「湯許

二会元制義点閲題詞」

(詩文集巻三三)によると、門彼

は二十

一歳

の郷試合格以来、

陞進

にあく

せく

せず

「詞賦

の間

に流宕して」、進

士合格

の前年三十三歳

に至るまで

「制義十

に盈る能わざ

る」怠慢さ

のた

め、

士に合格

できなか

ったと

いう。

しかし進

士合格が遅れ

たのは、制義文

に興味

を示さなか

ったためば

かり

では

なく、また首輔

張居正

の招聰

に応じな

った

ことも災

いして

いた。彼

は張居正

敗退した後進

合格

する

が、再び輔

臣申時行、張四維

の招き

に応じず、正七品と

いう官位

の低

い南京

太常博士

に任官す

る。

さら

に四十

二歳

のとき、「輔

臣科臣

を論ず

る疏」

により、

申時行が私臣を信じ

て言路

を閉ざ

して

いると上奏

したため、

8

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徐聞

の典史におとされ、そ

の後

漸江遂昌知県

に量移され

るが、四十

九歳

で棄官

して帰郷す

る。彼が遂昌知県

のとき滅虎桐を建

てて民を虎

の被害

から守

ったり、正月

に囚人を解放

して観燈

させたりした決断力

に富

む行動

かな

 

に対

して、

『撫州府志

(巻五九)は

「誠

は物

に及び、翁

然と

して循吏

に称う」とたたえる。

このよう

に見

てく

ると、

『撫州府志』が

「顕祖意気慷慨あり、天下を以

て己が任と為す。執政

の抑うる所と

るに因り、天下之を惜

しむ。」と評価

るよう

に、

の豪傑

の気慨

は生来

のも

のであ

り、

また生涯変

わら

のであ

ったと考えた方が

よさそう

であ

る。

に彼は文章論

では褒宏道と

ほぼ主張を同じくして

いたが

「予前

に長安

に在りて、嘗

て詞林

の褒

(宏道)、

いし

よう

(其昌)二君

に謂

いて

日く

は道

の善

固な

らざ

に苦

しむ。

は奇抜

に過

黄閣

こと有

んや

と。」

(詩文集巻

二九、「睡奄文集序」)と

たり

いる所

から見

ると

、必ず

しも真

の器量

に満

いな

ったら

い。

に、

よく

知ら

いる

よう

に、彼

は明

の宋

(字景漂、漸江金華

の人。

=三

〇1

一三八

一)を尊敬

ていたが、それ

は宋演

の時代

への偉大な功績ゆえ

であ

った。彼

いう、

おおい

僕館閣

(李夢陽等)の文を観

るに、大

いに是れ文

て徳

を撚

にす。第だ稽や規局有

て、其

の才を尽く

す能わず。

久しく

して才亦

た尽く。

れども作老

をし

て能く国初

の宋龍門

(廉)の如

く、

の時

の経制葬

のば

の盛を極めしむれば、此

に後

るる者

も亦

た能く其

の文

の如くす

る莫

し。習

いて之を讐

せば

、道宏く

して

て遠

から

ん。(詩文集巻四九、

「答李乃始」)

と。宋漁

『明史』本伝

に、

「朝

に在

って、郊社宗廟山川百神

の典

、朝会宴享律暦衣冠

の制、四畜貢賦賞

あまね

儀、労く元勲巨卿

の碑記刻石

の辞

に及ぶ

で、威

な以

て濾

に委

ね、屡ば推

て開国文

の首

為す。」と称

る大人物

であ

る。

褒宏

に対す

る批判は嚢が文趣だけ

を追

して人柄が軽薄

であ

ったためであ

り、

一方宋濠

に対す

る尊敬

は、

顔阻

り践曲観

i青

D重院ー

へ呵部

4

9

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第五十九輯

宋が時代

の精神文化を支え

ていたから

であ

る。

これ

にょ

って湯顕祖が文人

に対して、単

に遊戯的な文章を作る

だけ

ではなく、時代

の文化

に対

て貢献すべき

ことを求

めていた

ことが

わかるが、

これも彼

「天下を以

て己

が任と為す」気質

の表

われと見

ことが

できよう。

それでは湯顕祖

の文章

は、

いかに彼

の豪傑

の気質

を反映

して、実際

に天下

に貢献

しえ

たのであ

ろう

か。

は詩文を論じ

る際

に、感情

を人間生活

の根本

とし

て考え

ており、「耳伯麻姑遊詩序

」(詩文集巻三

一)

には、

は総

て情と為す。情

は詩

に生じ

て神

に行く。天

の声音、笑貌、大小、生死

は是

を出

でず。

因りて以

って人意を権蕩

し、鬼神、風雨、鳥獣を歓楽舞踏

し、悲壮哀感

せしめ、草木を揺動

し、金石を洞裂す。

と、詩歌

によ

って、人間を含

めた天下

の万物が、そ

「情」

を揺す

ぶられ、活動

し始

めると述

べて

いる。

このよう

に彼

「世

は総

て情

と為す」

とい

って日常生活

での感情

の役割を絶対視す

のであるが、

これ

は講

学者

の見解

とは些

か異なるも

のであ

る。なぜならば

、学者

例えば羅汝芳

は、

これ

夫れ情な

る者

は、性

の由

って生ずる所

の者

なり。情

は人

に習

いて、至らざ

る所

しと雛も、性諸

を天

に本

づけば、則

ち固

より或

は偽な

る者

を容れず。情を反

して以

て性

に帰

し、靡を率

いて以

て朴

に還せば、其

惟だ之を教

るの功、大

と為す

のみ。

(『近渓子文集』巻

一、

「湘陰還朴編序」)

と、人情

の作用

の大きさを認

めながらも

、窮極的

には理性

の優越

を説

かざる

にはいな

いからであ

る。

湯顕祖は羅汝芳

の性命

の学

を理解

したと前

「秀才説」

に言

っては

いたが、やはり

「至らざ

る所無き」情

方を重んじ

ていた

のであ

る。

ここに彼

の学者と

は相容れな

い文人

はだ

を見出す

ことが

でき

よう。

して詩文

におけ

る感情重

の論調

は、広範

囲にわたる鑑賞者

をも

つ戯曲

の方面

一層展開を遂げ

る。

10

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これ

あら

は生

まれなが

らにして情有り。思歓怒愁

、幽微

に感じ、囎歌

に流れ、諸を動揺

に形

わす。或

一往

して

尽き、或は積日

にして自ら休む能わず。蓋

し鳳鳳鳥獣

より以

て巴、楡

の夷鬼

に至

るまで、能

く舞

い能く歌

あい

わざ

る無く、霊機

を以

て相転活す。而

るに況

んや吾人をや。

奇な

るかな清源

(戯曲の神)、古先神聖

の八

能千瞥

の節

を演

じて、此

の道

を為す。……天

ひかを

レで故無く

して喜ば

しめ・故

無くして悲

しま

しむ。

だま

ただ

かたむ

わら

は語

り或

は喋り、或

は鼓

し或

は疲

る。或

は毘を端

して聴き、或

は弁を側け

て胎

い、或

は閣観

して笑

い、

なら

ゆる

は市湧して排

ぶ。乃至

は貴据傲を弛

め、貧巫回施を争う。啓者

は玩

でんと欲

し、聾者

は聴か

んと欲

し、唖

は嘆ぜ

んと欲

し、蹟者

は起き

んと欲す。情無き者

は情有らしむ

べく、声無き者

は声有らしむべし。寂

なら

しむべく、誼

は寂なら

しむべく、飢

は飽ならしむ

べく、酔

は醒なら

しむべし。

行く

は以て留

まらし

おこ

かたくな

べく

、臥

は以

て興

しむ

し。

しき者

は艶

と欲

し、

る者

は霊

んと欲

す。

て君

うる

の節

に合す

べく

、以

て父子

の恩

を挾

おす

べく、以

て長幼

の睦を増す

べく、以

て夫婦

の歓を動かす

べく、以

よしみ

つと

て賓友

の儀

を発す

べく、

て怨毒

の結

を釈くべく、

て愁

の疾を已む

べく、

以て庸鄙

の好

を渾うすべ

し。

らば則ち斯の道や、孝子は以

て其

の親

に仕

え、長を敬

して死を娯

しま

しむ。仁人

は此を以て其

の尊

を奉

じ、帝

に享

めて鬼

に事う。

老者

は此を以て終わり、少者

は此を以て長ず。外戸

は以

て閉

さざ

るべく、

おこ

嗜欲

は以て営む

こと少なかるべし。人

に此

の声有り、家

に此

の道有

れば

、疫属作らず、天下和平なり。豊

に人情

の大餐

を以

て名教

の至楽

と為す

に非ず

や。

これ

は宜黄県

に戯曲

の神清源

の廟を建

てた際

に著わ

した

『宜黄県戯神清源師廟記』

の前半部

であ

る。

彼は

戯曲が人情

をいかに動かすも

のであ

るかを際限

なく挙例して強調

し、戯曲

こそ人間

の精神生活を支える上

で不

可欠

の文芸

であると訴えるのであるが、

ここでも人情を人間生活

の根祇

をなすも

のと規定す

るのであ

る。当時

湯顕祖の戯曲観

-情の重視ー

(阿部)

11

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第五十九輯

戯曲

の盛行

ととも

に、戯曲

の人生と

の関わりが論

じられ

るよう

にな

るが、

これほど人情

の貴重さと戯曲

の効用

を強調

した論

は見られな

い。

そして最も注意すべき

ことは、彼が戯曲

の神

の功績

を、孔子、仏老

の功績

と比肩

しうるも

のと評価

して、戯

おのおの

神廟

を建

てた

こと

であ

る。

彼は

いう、「諸生は孔子を訥

法して在

らゆる所

に桐有

り、

仏老氏

の弟子

桐有

り。清源師は号して道を得

たりと為

し、弟子天下

に盈ち二氏

に減ぜざ

るに、桐無きは量

に非楽

の徒

、其

あい

の戯

たるを以

て相詣病

せしに非ず

や」

と。彼

は従来十分

に評価

されな

かった戯曲

に、始

めてれ

っき

とした人

やしな

間教育

一道

としての確固

たる地位

を与

えたのであ

る。そ

の上湯顕祖

育成

した地方劇

は、「其

の技

を食う者

さき

なんじら

んど千余人」

いい、

に梅

鼎柞が、「呉越

の楽部往

に至りし者

、未だ若曹

の盛行す

る如

有らず。」

と述

べた

よう

に、かなり

の勢

力を持

っていたと考えられ

る。従

って学者

が生来

「性」

を説

いて学問を庶民

にまで

めた

よう

に、戯曲作家湯顕祖が生来

「情」

を説

いて、

「戯曲」と

いう士大夫庶民

いずれも親

しめる文芸を

天下

の万民

に広

める

ことは恐

らく容易

であ

ったに違

いな

い。

朱療尊

『静志居詩

話』巻十五

によれば

、彼は講学

を勧

めた者

に対

し、

「諸公

の講ず

る所

の者

は性なり、僕

の言う所

の者

は情訟り。」と答えたと

いうが、

このことば

には湯顕祖

の文人、

とりわけ戯曲

作家と

して天下を

教化す

る自

信を看取する

ことが

でき

る。

このよう

に湯顕祖

においては、戯曲が

士大夫

の文学

として肯定され

る。

それは、人間

の価値が読書

の量

では

なく、情

の深さ

によ

って決定され

るからであ

った。さら

に作

品に検証すれば

、『紫銀記』

において、「雷小

玉は

おもむき

能く有情

の擬

と作り、黄衣

の客

は能く無名

の豪

と作る。余人微

に各

り。第だ李生

の如き者

は何ぞ道う

12

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に足ら

んや

。」

(「紫銭記題詞」)と作

よう

に、

知識

る李

よりも

、・却

って学

を授

いな

い女

、雀

や豪傑

の客

評価

たり

『旗

亭記

(鄭之文作、江西南城

の人。)

にお

いて、

「世

の男

の奇

ただ

婦人

に如く能わざ

る者、亦

た何ぞ止

一董

元卿

のみならんや。」(「旗亭記題詞b

と、男

子よりも女

子が評価

され

るのは、情

の卓越

によ

ってであ

る。

かくて情

を写す戯曲

は、士大夫

の学

には不可欠

となるのであ

る。

彼は戯

が学

妨げ

とな

ると

いう学

に対

て答

る。「大

は全

に在

り。新

を聞

しめず

んば

、恐

く終

に呉

の阿蒙

(無知無学

の者)な

のみ。」

(詩文集巻四

一、「答郷爾購」)と。

こう

して情

たる人物

として、『牡丹亭還魂記』

の杜麗娘像が形成

される。

この作品

ではとりわけ理

では

解明

でき

い情

のはたらきを描出

しており、作者

は杜麗娘

還魂

について、「情

は起

こる所

を知らず、

一たび

往き

て深く、生老

は以て死す

べく、死ぬるは以

て生く

べし」

と述

べているが、

この言

は、ち

ょうど前

「戯

廟記」

に述

べられた

「情」を万能

とみる作者

の戯曲観

を彷彿させる。

つまり、『還魂記』

は、彼

情を至上と

る創作理念が最もよく反映

した作品だと

いう

ことが

できる。また、この作品が最も伝わり、話題

を呼

んだ

(張

大復

『梅花草堂集』巻七、「愈娘」項参照。)

こと

は、多

の人を啓蒙

しようとする作者

意を満足させた

ことであ

ろう。彼

『牡丹亭』を酷愛

して死

んだ愈娘

に対

して、「一時

の文字

業、天下

に有心

の人あ

り。」(詩文集巻十六、

「実婁江女子」)と詠

んで感動

している。

ころ

で作者

は児女

の情を

テー

マとした作

品を書

いたのち、方向

を変え

て欲情

をテー

マとした作

品『南桐記』

『郁邸記』

を書く。情

を人間

の行

の源

泉とす

る作者

にと

って、そ

の肯定的な面

を見

るば

かり

でなく、否定

な面を見

る必要も生じた

のであ

ろうが、

これ

によ

って、彼

はより

一層

世俗

の接近

を図る

こと

になる。

二記

は僧達観

(名真可、号紫栢。i

一六〇三)と

の出会

いの後

に書

かれたも

のであ

る。

この時期

の湯

顕祖

には

の思想

の影響

が認

められ、

達観がそ

「法語」(『紫栢老人集』巻九)において、

「飲食男女

は衆人皆な欲す。

湯顕祖の戯曲

観1情の重視i

(阿部)

13

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第五十九輯

かえ

ああ

ねぎら

して能く反

る者

は、終

に無欲

に至

る。噛、唯

だ無欲な

る者

のみ以

て天下を

い、以

て天下を安

んず。Lと

い、欲情

の認識とそ

の克服を説けば

、湯顕祖もまた

「訣世

語」

(詩文集巻+六)において、世俗

の葬儀

を拒

み、

かえ

へつらい

莫章

(祭文)の論読を辞

して、「人生

まれながら

にして偽

なり、誉を聞けば則

ち喜

ぶ。既

に反

りて真

なり、

かおあから

を聞けば

則ち

む。」と、や

はり欲情

の克服

を説

いているし、さら

にまた東林派

の学者高

墓龍

(字景逸、無錫の

とざ

人。

一五六二i

=ハニ六)

に対

て、

「千

古乾

を鎖

す者

は欲

…世

の紛

に至

って

は、

人生

まれながら

に欲有

るに坐

る。」(詩文集巻四七、「答高景逸」)と、世間

の紛

の根源

は人間

の欲情

にあ

ると説

ω

いるのであ

る。

このよう

に、彼が人間生来

「情」

から、人間生来

「欲」

へと関

心を転じ

てい

ったのは、仏教

の影響

によ

るわけだが、

また本来彼が真

なるも

のを追求

し、

偽な

るも

のを排除

して

いこうとする積極的姿勢

ってお

り、常

に天下を動

かす根源が何

であ

るかを探ろうとして

いたから

に他

ならない。

『南何記』

「居食

の事」

して、「細砕営営

として、

るに為す所を知らず、行く

に往く所を知らざ

る」(「南桐夢記題詞」)蟻

にも似

た人間

の妄昧ぶりを描き、『郁郷記』

においては、さらに

「寵辱、得喪

、生死

の情」

を写す

こと甚

しく

(「郡廓

夢記題詞」)、登場人物がすべて欲情

の虜

とな

っている。

いず

の劇

においても、

生来備わ

っているがゆえ

に平

生疑

ってみようとも

しな

「欲情」が

、人間をいかに非人間的な存在

に変

ているかを人物

に悟ら

せる

ことを

マと

いる。

「南

詞」

に曰く、

「夢

て覚

を成

し、情

て仏

る」

と。

「郁

邸夢

記題

詞」

に曰く、「回首

せし神仙

は、蓋し亦

た英雄

の大致なり」

と。

「真情」を求

める湯顕祖

にと

って、天下

を論じ

ようとす

ればす

るほど、世人

の存在が無視

できなくなり、

りわけ衆人を対象

どす

る戯曲

にお

いて

こそ欲情

の克服

を主題とす

る、

このような作品が作られなければ

ならな

ったも

のと考えられ

るQ

14

Page 15: 羅 戯 彼 た を 陽 て 震 る 上 汝 曲 情 は し 師 明 有 宏 詩 湯 ... · 2018. 7. 9. · と し て 至 り 、 思 わ ず し て 至 る 。 怪 怪 奇 奇

湯顕祖

に関する従来

の研究

では、そ

の詩文が公安派

の先駆をなす反擬

古的な性格

を持

ち、それ

と平

行して戯

曲創作

にお

いても「

曲韻を墨守す

る呉江派沈環等

と対立して、曲意

を重

んじる作風を示

した

ことが指摘され

いる。私

『撫州府志』

「天下を以

て己が任と為す」と

いう湯顕祖

対す

る評語と、『宜黄県戯神清源師廟

に述べられた彼

の情

を基調とす

る戯曲観

に注目

し、彼が官

吏として上

に屈服

せず、下

に同情す

る豪傑

の気

を生まれ

なが

して

いたため、「情」

をあくま

で生活

の根本

におき

、とりわけ

「戯曲」

いう

士庶

ともど

に楽

しめる文芸

によって、人

心を教化

しようと図

った

ことを述べた。湯顕祖

においては、

この文人

としての

こそ評価す

べき

であ

ろう。

彼は、講学者が人間が生来有す

「性」

を尊

んだ

のとは異なり、人間が生来有す

「情」

を尊び、自

の思

を戯曲

によ

って庶民

にまで及ぼ

した。彼が認識す

「情」とは、「性」

の束縛

を受けず自

ら活発

に躍動する。

しかしながら彼が人間

の精神構造

として

「情」

以外

のも

のを認

めな

い以上、そ

の不純な部分を除去

しなけ

れば

ならなくな

った。それは欲情

によ

って動

かされる世間を教化

せねば

なら

ぬと彼が意識

したとき

であ

った。そ

て彼は欲情

の処理を仏教

の悟

に求

めたのであ

る。

の創作が陽明学者

の主旨と似て非なる点

はここにあり、

それ

はまた

『南桐』『kドβ甘則軍』

二記

に関する彼自身

ことば

に端的

に表現されて

いる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宜伶

『二夢

を学

を愛

は、

道学

り。

に善

きも

は之

り。

に因

って夢

を成

し、夢

に因

って戯

を成

(詩文集巻四七、「復甘義麓」)

湯顕祖

の戯曲観

-情

の重視1

(阿部)

15

Page 16: 羅 戯 彼 た を 陽 て 震 る 上 汝 曲 情 は し 師 明 有 宏 詩 湯 ... · 2018. 7. 9. · と し て 至 り 、 思 わ ず し て 至 る 。 怪 怪 奇 奇

第五十九輯

ω②(4)(3)

⑤(6)(8) (7)

注原詩

「箇箇人心有仲尼、自将聞見苦遮迷。而今指与真頭面、只是良知更莫疑。」吉田公平氏

のこ指教にょれば、『福恵全

書』巻二五にこの良知

の歌が当時流行したことが記され、

この歌に励まされた学者

は多

いと

いう。

郷里

のメロデ

ィーは容易

に忘れられるも

のではないらしく、

例えば杜文換

(字朝武、毘山

の人。)は、

北方

に住んでも

南曲を好んでおり、「然家本呉人、

寄跡秦塞、

猶存積習、

不忘土風、故好南曲、弗喜北詞」(『太霞芸極』「詞曲」)と述

べている。湯顕祖

の宜黄調愛好

の理由も

こうしたも

のであ

っただろう。

劉鳳

『劉侍御集』巻五十、「寄湯博士」参照。

湯顕祖がよく天下を論じる例として、詩文集巻四九

「与朱象峯」

に、「昨誼江陵以下諸相、各成局段。兄憶其大略記之、

稽暇当為点定、可論相、亦可論世也。」と

いう

一文がある。

このほか徐聞での

『東莞県琶黄孝子特祠碑』(「詩文集」巻三五)は、無名

の黄孝子

の民衆

への教化力を、明初

の名臣何

真より大なりと称讃

しており、湯顕祖

の循吏ぶりがよく窺える。

例えば郷迫光

『欝儀楼集』巻四二

「観演戯説」は、

この世の万物

の変転を劇

にたとえ、虞淳熈

『虞徳園集』巻四

「解脱

集序」は、歴代詩人を各脚色にたとえる。合山究氏

のこ指教

によれば、やはり人生や人物を劇情

や脚色にたとえた文章

が、張大復

『梅花草堂集』、沈捷

『増訂心相百二十善』

ほか、『五雑姐』『紫栢老人集』等

に見えるという。

彼は仏教に帰依しており、六十五歳のとき、「続棲賢蓮社求友文」(詩文集巻三六)を著わしている。

郭紹虞

『中国文学批評史』、青木正児

『中国近世戯曲史』、岩城秀夫

『中国戯曲演劇研究』等。

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