『政経かながわ』視点論点 - big-netyabuki/new/1990-2002kanagawa.pdf ·...

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『政経かながわ』視点論点 そろそろ対中制裁解除を 1990 7 月号 保守派一辺倒脱する中国 1990 8 月号 競技会水面下の権力闘争 1990 9 月号 東アジアでも冷戦が崩壊 1990 10 月号 保革対立し混迷する中国 1990 11 月号 ポスト鄧小平のはじまり 1990 12 月号 捏造記事の裏側を読む 1991 1 月号 逆戻りする中国の経済改革 1991 2 月号 赤字激増の中国国有企業 1991 3 月号 ポスト鄧小平の綱引き激化 1991 4 月号 冷戦体制解体に動く中国 1991 5 月号 動き始めた朝鮮半島情勢 1991 6 月号 大攻勢に出る中国改革派 1991 7 月号 中国の香港政策に暗雲が 1991 8 月号 ソ連政変に動揺する中国 1991 9 月号 ソ連の革命に揺れる中国 1991 10 月号 台湾の動きにあせる中国 1991 11 月号 終焉を迎える鄧小平時代 1991 12 月号 目標は若返りと改革開放 1992 1 月号 鄧小平が挑む最後の闘争 1992 2 月号 マスコミ使い鄧小平反撃 1992 3 月号 まだ続く中国の保革対決 1992 4 月号 鄧小平「重要談話」の行方 1992 5 月号 赤字多発の中国国有企業 1992 6 月号 李鵬後めぐって改革競争 1992 7 月号 胡論文から見る保革抗争 1992 8 月号 既定方針だった中韓国交 1992 9 月号 自助努力促す対中協力を 1992 10 月号 両極切った中国の党人事 1992 11 月号 楊家将めぐる軍の人事 1992 12 月号 市場経済が本格化の中国 1993 1 月号 世界の孤児ベトナムの顔 1993 2 月号 Yabuki Susumu—Kanagawa 1

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『政経かながわ』視点論点 そろそろ対中制裁解除を 1990 年 7 月号 保守派一辺倒脱する中国 1990 年 8 月号 競技会水面下の権力闘争 1990 年 9 月号 東アジアでも冷戦が崩壊 1990 年 10 月号 保革対立し混迷する中国 1990 年 11 月号 ポスト鄧小平のはじまり 1990 年 12 月号 捏造記事の裏側を読む 1991 年 1 月号 逆戻りする中国の経済改革 1991 年 2 月号 赤字激増の中国国有企業 1991 年 3 月号 ポスト鄧小平の綱引き激化 1991 年 4 月号 冷戦体制解体に動く中国 1991 年 5 月号 動き始めた朝鮮半島情勢 1991 年 6 月号 大攻勢に出る中国改革派 1991 年 7 月号 中国の香港政策に暗雲が 1991 年 8 月号 ソ連政変に動揺する中国 1991 年 9 月号 ソ連の革命に揺れる中国 1991 年 10 月号 台湾の動きにあせる中国 1991 年 11 月号 終焉を迎える鄧小平時代 1991 年 12 月号 目標は若返りと改革開放 1992 年 1 月号 鄧小平が挑む最後の闘争 1992 年 2 月号 マスコミ使い鄧小平反撃 1992 年 3 月号 まだ続く中国の保革対決 1992 年 4 月号 鄧小平「重要談話」の行方 1992 年 5 月号 赤字多発の中国国有企業 1992 年 6 月号 李鵬後めぐって改革競争 1992 年 7 月号 胡論文から見る保革抗争 1992 年 8 月号 既定方針だった中韓国交 1992 年 9 月号 自助努力促す対中協力を 1992 年 10 月号 両極切った中国の党人事 1992 年 11 月号 楊家将めぐる軍の人事 1992 年 12 月号 市場経済が本格化の中国 1993 年 1 月号 世界の孤児ベトナムの顔 1993 年 2 月号

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波乱避けられる米中関係 1993 年 3 月号 中国流の政経分離の矛盾 1993 年 4 月号 現実味ない中国経済展望 1993 年 5 月号 甘え許されぬ中国の成長 1993 年 6 月号 楊の護衛船団が江に一矢 1993 年 7 月号 完成近い貿易基地・図們江 1993 年 8 月号 中国金融混乱に約法 3 章 1993 年 9 月号 中国に送ろう開放の陽光 1993 年 10 月号 不幸招く中国の報道規制 1993 年 11 月号 完成期の中国・脱社会主義 1993 年 12 月号 中国成長率は 9-10%へ 1994 年 1 月号 朱が約法 3 章に新 3 カ条 1994 年 2 月号 経済安定しポスト楽観 1994 年 3 月号 中国の前途を学ぶ副読本 1994 年 4 月号 中国の焦点「中央対地方 1994 年 5 月号 米・中華圏の活力を認知 1994 年 6 月号 教訓もとにした中国の発展 1994 年 7 月号 中国近代化刺激する台湾 1994 年 8 月号 中国転換期経済に新腐敗 1994 年 9 月号 人事面で強化計る江体制 1994 年 10 月号 悪化する中国の資源需給 1994 年 11 月号 インフレ抑制より成長率を 1994 年 12 月号 新年中国の課題は三改革 1995 年1月号 鄧小平はすでに引退、大乱なし 1995 年2月号 順調に後継固める江体制 1995 年3月号 改革中国への三つのカギ 1995 年4月号 統一も独立もできない台湾 1995 年5月号 陳雲死去と天安門事件 1995 年6月号 世界的視点でみる中国は 1995 年7月号 中国、金融引き締め効くか 1995 年8月号 九五計画で所得4倍増へ 1995 年9月号 21世紀の中国像描く 1995 年 10 月号 示唆に富んだ李登輝総統懇談 1995 年 11 月号 中国の人権再考を 1995 年 12 月号

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集約型成長をめざす中国 1996 年1月号 中央の権威に頼る江沢民体制 1996 年2月号 中国経済の牽引力は上海 1996 年3月号 まず中国自身の難問解決 1996 年4月号 中国情報の解説は慎重に 1996 年5月号 一年後に迫った香港返還 1996 年6月号 中国が抱く危機と核開発 1996 年7月号 中国からの輸出減に注目 1996 年8月号 成長する天津技術開発区 1996 年9月号 中国の食糧危機、実は過剰 1996 年 10 月号 党政首脳ポストの争奪戦 1996 年 11 月号 関係改善進む米国・中国 1996 年 12 月号 「香港人による香港の統治」 1997 年 1 月 15 日号 6-7 ページ 「軟着陸」成功の中国経済 1997 年 2 月 15 日号 6-7 ページ 「見事な引き際の鄧小平氏」 1997 年 3 月 15 日号 6-7 ページ 「江沢民集団指導部の実力」 1997 年 4 月 15 日号 6-7 ページ 「香港化が急速な大陸経済」 1997 年 5 月 15 日号 6-7 ページ 「中国成長を支えた技術移転」 1997 年 6 月 15 日号 6-7 ページ 「中国の市場経済化導く香港」 1997 年 7 月 15 日号 6-7 ページ 「台湾省廃止でゆれた台湾」 1997 年 8 月 15 日号 6-7 ページ 「台湾海峡に日本の出番ない」 1997 年 9 月 15 日号 6-7 ページ 「新世紀へつなぐ江沢民体制」 1997 年 10 月 15 日号 6-7 ページ 「争点は残しての米中協調」 1997 年 11 月 15 日号 6-7 ページ 「民は食を以て天と為す」 1997 年 12 月 15 日号 6-7 ページ 「発育期で丈夫な中国経済」 1998 年 1 月 15 日号 6-7 ページ 「変わる上海経済の産業構造」 1998 年 2 月 15 日号 6-7 ページ 「逆風の中で朱鎔基内閣発足」 1998 年 3 月 15 日号 6-7 ページ 「絶大な信頼もつ朱鎔基総理」 1998 年 4 月 15 日号 6-7 ページ 「後継体制に力を入れる中国」 1998 年 5 月 15 日号 6-7 ページ 「朱鎔基の改革作戦始まる」 1998 年 6 月 15 日号 6-7 ページ 「缶詰特訓中の査察特派員」 1998 年 7 月 15 日号 6-7 ページ 「内需で発展する中国経済」 1998 年 8 月 15 日号 6-7 ページ 「米中のミサイル照準問題」 1998 年 9 月 15 日号 6-7 ページ

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「見え始めた中国経済の底力」 1998 年 10 月 15 日号 6-7 ページ 「伸び悩み脱し上向きの中国経済」 1998 年 11 月 15 日号 6-7 ページ 「江沢民訪日の失敗」 1998 年 12 月 15 日号 6-7 ページ 「灰色市場」の理論--論理的整合性よりも実現可能性を 1999 年 1 月 15 日号 6-7 ページ 鉄面宰相朱鎔基の密輸摘発 1999 年 2 月 15 日号 6-7 ページ 広東省 GITIC 閉鎖問題 1999 年 3 月 15 日号 6-7 ページ 朱鎔基総理就任から 1 年 1999 年 4 月 15 日号 6-7 ページ 朱鎔基訪米 1999 年 4 月 25 日号 6-7 ページ NATO軍の中国大使館「誤爆」のウラを読む 1999 年 6 月 15 日号 6-7 ページ 反米運動に苦慮する中国指導部 1999 年 7 月 15/25 日号 6-7 ページ 朱鎔基のデフレ対策が本格始動 1999 年 8 月 15/25 日号 6-7 ページ 李登輝「国と国」発言の波紋 1999 年 9 月 15 日号 6-7 ページ 中国指導部が注目のハンガリー改革 1999 年 10 月 15 日号 6-7 ページ 底を打った中国の景気 1999 年 11月 15 日号 6-7 ページ 中国のWTO加盟と日本の報道 1999 年 12 月 15-25 日号 6-7 ページ 中国経済展望 2000 2000 年 1 月 5-15 日号 8-9 ページ 朱鎔基 3300 人講話 2000 年 2 月 15 日号 8-9 ページ 「過熱する台湾総統選」 2000 年 3 月 15 日 6-7 頁 「李登輝神話の崩壊」 2000 年 4 月 15-25 日 6-7 頁 「中国の資本逃避」 2000 年 5 月 05/15 日 6-7 頁 「台湾総統選挙の真の争点」 2000 年 6 月 15 日 6-7 頁 「朝鮮半島の緊張緩和と中国」 2000 年 7 月 5 日 6-7 頁 「三つの代表」の狙いはなにか 2000 年 8 月 15 日 6-7 頁 映画「生死をかけた選択」 2000 年 9 月 15 日 6-7 頁 北京・上海間「新幹線」はどうなるか 2000 年 10 月 15 日 6-7 頁 朱鎔基訪日の成果 2000 年 11 月 15 日 6-7 頁 第 10 次5カ年計画の建議 2000 年 12 月 05 日 6-7 頁 「21 世紀の日中関係」 2001 年 01 月 05 日 「金正日"秘密訪中"の舞台裏」 2001 年 02 月 15 日 「二つの江沢民発言」 2001 年 03 月 15 日 「米中関係の構図」 2001 年 04 月 15 日 「小泉政権の対中政策は」 2001 年 05 月 15 日 「小泉・田中外交をどうみるか」 2001 年 06 月 15 日

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「中国共産党が資本家の入党を認めた意味」 2001 年 07 月 15 日 「北京五輪開催決定から見えるもの」 2001 年 08 月 05 日 「小泉首相の靖国参拝を考える」 2001 年 09 月 05 日 「米国同時テロ事件から考えること」 2001 年 10 月 15 日 「外交的配慮が欠けている小泉首相の揮毫」 2001 年 11 月 15 日 WTO 対応型の中国の経済方針」 「 2001 年 12 月 15 日 2002 年 1 月 5 日 日中国交正常化から 30 年 2 月 15 日 中国経済脅威論批判 3 月 15 日 アジア経済の相互依存急進展 4 月 25 日 日中国交正常化 30 周年 5 月 25 日 中国首脳人事の読み方 7 月 5 日 中国 Geely Motor Cars Co. 講演・鄧小平後の中国はどうなるか 1996 年2月号 講演・どうなるこれからの中国 1993 年 3 月号 講演・中国でなにが起きつつあるか講演 1990 年 10 月号 『政経かながわ』 そろそろ対中制裁解除を 1990 年 7 月号 保守派一辺倒脱する中国 1990 年 8 月号 競技会水面下の権力闘争 1990 年 9 月号 東アジアでも冷戦が崩壊 1990 年 10 月号 保革対立し混迷する中国 1990 年 11 月号 ポスト鄧小平のはじまり 1990 年 12 月号

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そろそろ対中制裁解除を

『政経かながわ』90 年 7 月 25 日

七月二日、香港の株式相場が急騰した。ハンセン指数は三三一九・四七にはね

上がり、戒厳令施行直前の高値(八九年五月一五日、三三〇九・六四)を上回

った。これは八七年一〇月の「ブラック・マンデー」以来二年九カ月ぶりの高

値である。反体制物理学者方励之の釈放を契機として、ヒューストン・サミッ

トで対中制裁が解除されようとの観測に基づくものであることは、いうまでも

ない。中国当局が方励之・李淑嫻夫妻を「病気治療」を名目として出国を認め

たのは、六月二五日である。方励之は今後ケンブリッジ大学天文研究所で研究

を続けることになった。

夫妻が出国に際してアメリカ大使館を通じて発表した声明の文言は、意味深長

である。「1)私が中国憲法の前文の四つの基本原則に反対したのは、その〔原

則の〕目的が階級闘争的政治制度を維持することにあるからである。私は上述

の政治的主張が憲法の前文に違反したことに注目している。2)海外の親友を訪

ね、必要な医薬治療を得るために、私は出国旅行を申請した。私は中国政府が

人道的に考慮するよう希望する。3)出国の目的は学術交流と研究に集中される。

われわれは中国社会の進歩の利益に符合するあらゆる活動を賞賛し歓迎すると

ともに、中国に反対することを動機としたあらゆる行為に参加することを拒絶

する」。

新華社や中国中央電視台など当局側発表は「方励之が誤りを認め、反省した」

ので、出国を許可したとしているが、この声明はいわば「玉虫色」である。1)

を注意深く読むと、方励之は四つの基本原則に反対した事実を書くことによっ

て、自らの政治的主張を明言している。政府は方励之が憲法に違反した事実を

認めたもの、反省したものと受け取っている。3)では「中国反対を動機とする

行為」と書かれているが、方励之の基本的立場は「中国共産党の政策への反対」

であり「中国反対」ではない。彼は中国共産党への批判の自由を留保している。

政府にとっては中国共産党=中国であるから、「愛国」の枠で縛ったつもりで

ある。2)の「病気治療」については、ロンドンでの記者会見で「私の健康状態

は良好だ」と明言する始末。方励之が口実はともかく出国できたこと、方励之

は当面は研究生活に集中し政治活動は行わないこと、しかし自らの政治的信念

を捨てたわけではないこと、が核心である。中国政府と方励之の妥協は、中国

政府とアメリカ政府との妥協であり、米中間の喉元の骨を取り除いた。

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中国側の事情をみると、政治・経済ともに累卵の危機である。天安門事件一周

年を無事に乗り切ったものの、内外の累積する難題はまことに深刻であり、こ

れ以上強硬路線を堅持することは、不可能になってきた。

経済の実勢、特に失業問題の深刻化は一刻も猶予を許さないところまできてい

る。この問題を直截的に採り上げて鄧小平は、最近「老朋友の資格」で訪中し

た海外賓客、華人同胞につぎのような「恫喝メッセージ」を繰り返した。この

発言は、恫喝であるとともに、老いた指導者の悲鳴とも読める。

「中国が不安定になれば、世界が不安定になる。中国で内戦が始まったらどう

なるか?中国で内戦が始まったら停められない。誰にも停められない。中国が

乱れたら、人口の海外流出が大問題となり、誰にも管理できなくなる」。「〔た

とえば〕千万がタイに流れ、一億がインドネシアに流れる。香港に五〇万人が

押し寄せたら大乱になるではないか。しかも乱れたら、彼らは武装することに

なるのだ」。「したがって、この意味では、香港人はわれわれ〔大陸〕が安定

を保つことを最も擁護すべきなのである。双手を挙げて、双脚で擁護すべきで

ある」。「世界・中国・地球に対して責任感をもつ政治家はわれわれ〔の立場〕

を理解すべきである」(香港『文匯報』一九九〇年六月一六日)。

この鄧小平発言は、いささか八方破れのやつ当たりの観もあるが、危惧される

危険性を率直に認めた点では評価されてよい。自らの「失政」によってもたら

された異常事態を逆手にとって制裁解除の切札にしようというのであるから、

大国の指導者の発想はユニークである。とはいえ、天安門事件以後一年目の深

刻な事態をここまで冷静に見極めているからには、希望が生まれてきたともい

える。西側としてはヒューストン・サミットで、制裁解除に踏み切るべきであ

ろう。

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保守派一辺倒脱する中国

政懇ホット情報、『政経かながわ』90 年 8 月 15 日

李鵬総理の辞任説が消えては浮かび、他方で趙紫陽復活説が話題になっていた

が、七月二七日、李瑞環(政治局常務委員、イデオロギー担当)が自民党の宮

沢派代表団に対して「軟禁解除説」を強く否定した。つまり当面は趙紫陽の軟

禁状態が続くわけだが、ポスト鄧小平期においてか、あるいはその前にか、遅

かれ早かれ、何らかの形での復活は時間の問題とみられる。いま重要なのは、

改革派李瑞環が復活説を否定した事実のもつ政治的意味であろう。天安門事件

以後の保守派片肺飛行のなかで、李瑞環は大胆にその軌道修正に努めてきた。

しかし六月二六日、保守派の牛耳る『中国文化報』が「全党は中央に服従せよ」

と題する社説を掲げて「いわゆる新精神」を批判した。これは名指しではない

が、明らかに李瑞環が標的である。同紙は「イデオロギー問題についての指示」

と題して、鄧小平、江沢民、李鵬ら指導者の語録四九句を掲載したが、このな

かに、イデオロギー担当常務委員李瑞環のものが一つも含まれていないのは、

異様である。これは八九年六月以来九〇年六月までの演説からサワリを抜き書

きしたものだ。反革命暴乱の基本規定や「平和的変質」問題などについての党

中央の考え方の核心がこの語録によって示されている。

語録の内訳は 1)党決議から五句、2)鄧小平の八九年六月九日講話から六句、3)

李鵬の全人代三次会議報告(九〇年三月二〇日) から九句、4)江沢民のもの二

九句で最も多い。語録という形式は、文化大革命時代の『毛沢東語録』を想起

させる。こういう手口を用いて、イデオロギー統制を図ろうとする発想はいか

にも保守派らしい。保守派の攻撃に対して、李瑞環は七月九日『中国文化報』

に対して「工作組」を進駐させ、文化部系統の保守派退治に乗り出した。李瑞

環の反撃を支持しているのは、鄧小平であり、「党内の健康な勢力」の代表と

しての李瑞環を用いて、李鵬・姚依林らの保守派の跋扈を牽制していると伝え

られる。安定団結という表看板の下で、権力闘争は激化しつつあるように見え

る。

ところで、七月六日から十日まで四川省成都で国防教育研討会が開かれた。こ

のセミナーは北京国際戦略基金会、解放軍報社など十三単位が発起して開いた

ものであり、人民大衆の「愛国意識」「国家利益意識」「国防意識」「国際意

識」を増強することを中心テーマとするものであった。成都開催の理由を「四

川省は国防の大後方」であり、「国防教育工作が全国の先頭にある」からだと

秦基偉(国防部長)が説明している。開会式は陳楚(国際戦略研究基金会会長)

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が主持し、姫鵬飛(中央顧問委員会常務委員、国際戦略研究基金会名誉会長)

が開会の辞を述べた。

地元四川省担当の政治局委員楊汝岱(省委員会書記)が講話を行い、こう述べ

て注目された。「国防教育は外からの武装侵略に反対するだけでなく、“平和

的変質”〔原文=和平演変〕にも反対し、プロレタリア独裁を強化し、社会主

義近代化建設を促進するためである」「〔西側敵対勢力は〕社会主義危機論、

社会主義失敗論を撒き散らし、社会主義と共産党への不満と敵対感情を煽って

いる。この手段の実質は心理戦争であり、人心をばらばらにし、人心をかちと

り、ブルジョア階級の後継者を養成しようとうするものである」「“平和的変

質”の戦略がすでに一部の社会主義国家で成功したことは、この戦略の現実的

危険性と重大性を示している」(『四川日報』七月八日二面)。ここでは東欧

の平和革命を「西側敵対勢力」の陰謀に帰している。そして中国においても、

社会主義の「危機論、失敗論」が存在することを「現実的危険性」と認識して

いるわけだ。楊汝岱の社会主義危機論はオクターブが高いが、これは成都での

武力鎮圧の当事者であることが関係していよう。楊汝岱講話に対して秦基偉(国

防部長、政治局委員)の祝電は、きわめて冷静な判断を示したのが注目される。

「現在、国際情勢の主題は平和と発展である。しかし国際的反動勢力は平和的

転化の戦略を推進している」「今のわれわれの主な任務は精力を集中して経済

建設を行い、生産力を発展させることである。国防建設は経済建設の大局に従

属しなければならない」(『四川日報』九〇年七月七日)。ここで秦基偉が「平

和と発展」が主流だとし、「国防建設は経済建設に従属すべきだ」と述べてい

るのは、穏健派の見解が天安門事件以前のものに戻りつつあることを象徴する

ものとして重要であろう。

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競技会水面下の権力闘争

勤務先の夏休みの一カ月を中国、香港の旅に費やし、さまざまの人 (々中国人、

日本人、その他の外国人)と話し合う機会を得た。概して、中国の行方に対す

る悲観論を聞くことが多かった。天安門事件の後遺症の深さを改めて実感した。

アジア競技大会を一カ月後に控えた八月二二日江沢民総書記が点火した聖火は

ハルピン、ラサ、ウルムチ、三亜(海南省) に運ばれ、聖火リレーがスタート

した。大会開始までいよいよ秒読みの段階に入った。この大会の招致を決めた

時点での目論見としては、西暦二〇〇〇〇年の「北京オリンピック」のための

リハーサルとして位置づけられ、スポーツを通じて国民的統合、愛国心発揚を

図るとともに、経済発展への大きな役割を期待されていた。

しかし、昨年の天安門事件によって当初の夢は大きく崩れることになった。す

べてが裏目に出た。なによりもまず、大会を通じた景気拡大構想の失敗である。

一九六四年の東京五輪、一九八八年のソウル五輪は、それぞれの経済成長の成

果を世界に示す絶好の機会となり、その後の経済発展の跳躍台となったことは

よく知られている。中国は日本と韓国の例にあやかろうとしたが、天安門事件

の衝撃がすべてをだいなしにしてしまった。

西側の拒否反応と東側の平和革命という二つの圧力のなかで、孤立した中国は

政治面でも経済面でもひたすら引き締めを堅持して、体制の維持に汲々とせざ

るをえなくなった。いまやアジア大会は雇用拡大の機会となるどころか、重荷

にさえなっている。たとえば、大会予算は六億人民元だが八月末の時点で実際

に集まったのは四億元強であり、目標の三分の二にすぎない。大会の財政担当

スポークスマンは「目標達成に自信あり」としているが、状況はかなり厳しい。

資金不足の最大の要因は、西側企業からの寄付が思うように集まらなかったこ

とであろう。ひとり韓国のみは中国に食い込む絶好の機会として、三星グルー

プを始めとして、企業広告が北京の街角で目立ったが、日本や他の西側企業は、

寄付や広告にきわめて消極的であった。このため、当局は資金集めを全国市民

の浄財に頼るほかなくなった。各単位を通じて寄付割当(「亜運会基金奨券」

という名の宝くじ作戦) が行われており、これに対する市民の協力はいま一つ

盛り上がらない(私はたまたま南京で一枚一元也を買い求めた)。北京市の場

合、アジア大会のために市民生活が犠牲にされているとの話を少なからず聞い

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た。とはいえ、こうした悪条件のもとにありながら、中国当局はいま大会の成

功に向けて必死の努力を続けており、大会が無事に終わるならば、当初の目論

見通りではないとしても、いちおう事態を糊塗することはできるかもしれない。

問題はアジア大会以後である。現在は政治、経済ともに「大会以後にむけて凍

結」されている。ここでいわば「ケンカ預かり」の形になっている水面下の権

力闘争は、一一月に予定されている一三期七中全会で一挙に火を吹く可能性が

ある。

一三期七中全会の主な議題は 1)「第八次五カ年計画」の決定、2)天安門事件以

後の諸政策の承認、3)人事異動、の三つであろう。現在、起草作業が進められ

ている八五計画の骨子となるのは、国務院経済発展研究中心(馬洪グループ)

と中国社会科学院(劉国光グループ)が提出した二つの報告である。これら二

つのシンクタンクが原案を作り、両者をもとに国家計画委員会レベルで刷り合

わせをやって計画を作成する段取りであるとある北京で会ったあるエコノミス

トが教示してくれた。

表向きの議題は八五計画だが、舞台裏では人事をめぐるポスト争奪が熾烈をき

わめるであろう。穏健派(改革派)は天安門事件における武力鎮圧の当否をめ

ぐる微妙な評価の違い、それを遠因とするアジア大会の「失敗」という結果を

踏まえて、保守強硬路線の転換を要求する兆候が見える。これに対して、保守・

強硬派はアジア大会を「成功」と総括して現状維持、ヘゲモニーの強化を要求

し、抗争はポスト鄧小平期へ向けて波乱含みの展開となろう。

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東アジアでも冷戦が崩壊

九月三〇日、韓国の崔浩中外相とソ連のシェワルナゼ外相がニューヨークの国

連本部で会談し、共同声明を発表し、両国はついに国交関係を樹立した。韓国

側から見れば、八八年のソウル・オリンピック以来精力的に続けてきた「北方

外交」の一つが実を結んだことになる。

韓国の「北方外交」のもう一つの成果は、中国との間で貿易事務所開設でほぼ

合意したとみられることである。韓国の有力紙『朝鮮日報』九月三〇日は、「中

韓双方は一〇月中旬にも民間レベルの貿易事務所の相互開設に合意するであろ

う」「この事務所は領事機能をもつことになる」と報じた。韓国側事務所は北

京のほか、韓国から見て最短距離にある山東省や遼東半島にも設けられる予定

だとも伝えている。要するに単なる貿易事務所を越えており、ビザの発給業務

なども行えるわけであり、事実上の「大使館」であろう。

他方、ソ連側から見れば、ゴルバチョフのペレストロイカが東欧を一巡して、

ついにアジアにまで及んできたことを意味している。ソウル・オリンピックの

時点では、中国・ソ連が競ってソウルとの関係改善のために「スポーツ外交」

を展開していた。こうしたなかで経済交流の実績の面では、中国が一歩進んで

いた。経済交流先行の点では今回のアジア大会における状況も似ており、大会

を中継する北京からのテレビ画面には決まってラッキー・ゴールドスターやサ

ムソンなど韓国の有力企業の広告が登場し、この大会はソウルが行われている

のではないかと時に錯覚させるほどであった。しかし、中国とソ連との間には

やや条件の違いもないではない。中国の場合は台湾との統一問題を抱えている

ことのほかに、天安門事件以後中国政治の行方がきわめて不透明だという事情

もあって、結局国交正常化競争ではソ連が先行することになった。

しかしソ連が道を開いたからには、中国に対して強い影響を与えないわけには

いかない。こうして戦後の冷戦体制は東アジア全体においても確実に崩壊し、

新たな秩序作りへの模索が実際に始まった。北朝鮮は八六年にソウルで開かれ

たアジア大会および八八年のソウル・オリンピックをともにボイコットしたが、

今回の北京大会では六〇〇人を越す選手団、二〇〇〇人の応援団を派遣し(韓

国はそれぞれ七〇〇人、五〇〇〇人)、外国との試合に際しては、韓国との共

同応援団まで結成して、朝鮮は一つをアピールしたのを初めとして、終始積極

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的な取り組みを行った。そこに外交的孤立から脱却しようとする強い意欲を見

い出すことができよう。

周知のように、九月下旬の金丸・田辺訪朝団を契機として、日本と北朝鮮との

関係も大きな動きを見せ始めた。これは何よりもまず北朝鮮の態度の変化によ

るところが大きいと見てよい。北朝鮮の変化に最も直接的に影響しているのが

ソ連と韓国との国交回復であることはいうまでもあるまい。このままでは世界

の潮流から取り残されるという強い危機感のもとで、従来のかたくなな姿勢を

転換する必要に迫られたことは明らかであろう。

日本としては過去の不幸な歴史の清算という面からばかりでなく、むしろ二一

世紀への新しい東アジア世界の秩序をどう構築すべきかという前向きの視点か

ら問題に取り組んでほしいものである。問題の焦点は、アジア大会以後の北京

の政治情勢に移った。中国は金メダル獲得では圧勝し、大いに面目を施したも

のの、天安門事件の後遺症はこれで消えるほどに小さなものではない。表向き

は開放政策を掲げているが、保守派は内心で開放政策が「平和的変質」(原文

=和平演変)につながることに恐怖している。西側と経済交流は拡大したいが、

「帝国主義の害毒が怖い」というわけだ。かくて改革派と保守派の綱引きは激

烈である。

▲訂正とお詫び

先月のコラムでアジア大会の予算を六億元(約五・四億ドル)と書いたのは予

算の一部たる「民間からの募集額」の誤りで、大会の予算総額は二五億元でし

た(ちなみに、民間以外の分担金は、中央政府からの補助八・五億元、北京市

からの補助五・七億元、財政部からの支出一・九七億元、宝くじ売上げ三・二

七億元計一九億元強となっている)。

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保革対立し混迷する中国

当初はアジア大会直後に開かれる予定だと伝えられた中国共産党の一三期七中

全会(中央委員会総会)の開催が遅れている。この会議の最大の課題は第八次

五カ年計画の基本構想を決定することだが、そのほかにも趙紫陽前総書記の処

分問題、天安門事件によって生じた政治局委員の空席を補充する問題(現在は

失脚した趙紫陽、胡啓立、死亡した胡耀邦合わせて三つのポストが空いている)

など扱いのやっかいな懸案がある。

天安門事件以後すでに一年半を経たが、これまでは事件の責任問題、政治局の

空席補充問題など改革派と保守派の利害関係が激突する争点については、ケン

カ預かりの形で糊塗してきたのであった。第八次五カ年計画の基本的な考え方

をどうするかは、さしあたりは純粋な経済問題にすぎないが、扱いによっては

高度に政治的な課題になる。というのは、計画経済と商品経済の位置づけの在

り方によっては、社会主義を守るのか否かというイデオロギー論争に発展する

からである。

鄧小平時代の改革と開放の一〇年のうち、前半は計画経済のなかに市場調節を

どれほど加えるかという形で改革が進んだが、これは「鳥籠経済」論であり、

保守派の長老陳雲の年来の主張と同じであった。しかし八四年秋に「経済体制

改革についての決定」を行い、「計画的商品経済」論を採用した時点から、改

革が大いに進展し、それまでの「鳥籠経済」論は旧式のものとして乗り越えら

れた。この積極的改革案は第一三回党大会では「国家が市場をコントロールし、

市場が企業を誘導する」モデルとして総括された。

しかし、この積極的改革案のもとでインフレが生じたところから、保守派の巻

き返しが始まった。鄧小平は天安門事件以後も第一三回党大会の基本路線を変

えないと繰り返し指示してきたが、実際には改革と開放は全面的に停滞してい

るのが実情である。これが天安門事件の一時的後遺症対策にすぎないならば、

問題ない。しかし保守派は天安門事件の反省から、旧来の計画経済体制を守る

ことこそが社会主義体制を守ることにほかならないとして、経済建設の基調を

「鳥籠経済」論まで戻そうとしている形跡がある。たとえば『人民日報』九月

一四日号に改革派のリーダーの一人である中国社会科学院副院長劉国光までが

「鳥籠経済」論礼讃を書いているのは、現在の政治的潮流のなかで保守派がイ

ニシャティブをとっていることをよく示している。

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この春から夏にかけて国務院政策研究室の所轄となった『経済日報』が「計画

経済と市場調節をいかに結合するか」をめぐって紙上討論を展開したが、そこ

では趙紫陽時代のような積極改革論は影をひそめ、計画経済の意義を強調する

議論が目立っていた。

第八次五カ年計画は九〇~九五を対象としているが、この五カ年計画のなかで

計画経済の比重をどれほどのものとすべきかは、単なる経済問題の域を越えて

今や社会主義制度を守るのか守らないのかという保守派主導のイデオロギー論

争に変質している。しかも保守派は天安門事件以後のソ連東欧の平和革命を「和

平演変」論で説明しようとしている。「和平演変」論とは、帝国主義者が「和

平」という手段で社会主義を資本主義に変質させる陰謀が行われているとする

時代錯誤的な認識である。

こうして経済問題でさえもイデオロギー問題として扱われる雰囲気のなかに、

趙紫陽の処分問題、政治局の補充問題が加わるのであるから、改革派と保守派

の対立は容易なものではない。

趙紫陽は九月初めにゴルフ場に姿を現し、処分問題に決着がついたかに見えた

が、最終決定は七中全会であり、これは政治局の補充人事ともからんで依然大

きな論点として残っている。欠員の補充問題は改革派と保守派の際どいバラン

スを崩すために、綱引きのなかで大きな問題となることはいうまでもない。加

えて、最高指導者鄧小平氏の健康問題がある。鄧小平氏は金丸、竹下両氏だけ

でなく、キシンジャー氏、シンガポールのリークワンユー氏にも会っていない。

鄧小平氏の支持を得て保守派路線の軌道修正に乗り出したかに見えた李瑞環氏

が保守派の包囲によって活躍を制約されていることと合わせて、注目を要する

点である。Xデー問題も含めて、当面中南海から目を離せない。

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『政経かながわ』平成 2 年 12 月 15 日 ポスト鄧小平の始まり 十一月二十日、香港で鄧小平死亡説が流れた。翌々日、中国当局はこれをきっばり否定し

た。鄧小平が健在で、舞台裏から依然、重要な指示を与えていることは確かである。たと

えば国家体制改革委員会主任のポストに、陳錦華を据えたのは鄧小平らしい。四人の副主

任はいずれも陳錦華よりもキャリアが上だが、これらを飛び越す人事ができるのは、鄧小

平以外には考えられない。最近は王兆国(福建省長)を台湾弁公室主任に据え、また丁関

根を党中央統一戦線部長に選んだ。いずれも鄧小平人事の色彩が濃厚である。それだけで

はない。アジア大会以後、鄧小平はいくつかの「内部指示」を行ったが、それを香港『鏡

報』(11 月号)がスクープした。鄧小平談話の要旨は次のようなものである。 「改革開放の政策は中国の十年来の実践を経て、その正しさが繰り返し証明されている。

改革開放は建国以来の建設における大革命である。私はもう一度述べておきたいが、改革

開放政策は私個人が考え出したものではなく、わが党が建国三十年来の実践のなかで得た

真の知識であり、巨大な代価を払って得たものである」 今後数十年、改革開放政策を変えるな 「われわれはいま八・五計画(一九九一~九五年)と、今世紀の最もカギになる経済発展

計画(九一~二〇〇〇年)を制定しようとしているが、改革開放の歩みをいかに速め、完

全にするかが全体の指導方針たるべきである。改革開放を″もっと速く、もっと立派に、

もっと実績を挙げるようにしなければならない″。今後数十年、改革開放政策は変えては

ならない」。 「前の段階で、 一部の部門、 一部の地方で、治理整とんをもって改革開放

を抑えつけ、改革開放を否定する現象が現れたが、これは正しくない。われわれが整とん

を語るのは、改革開放に符合しない不利な、あるいは妨げになる問題を解決するためであ

る。整とんの目的は改革開放を続けるため、改革開放を不断に改善するためである」 「改革の進展につれて、カギは社会主義建設に不利なすべての上部構造を、改革すること

にある」(『鏡報』編者注。ここで鄧小平は再度政治体制改革の重要性を提起した)。 (天安門事件以後の指導部不信について)われわれは下部を責めてはならない。問題はや

はり上部にある。人民は改革開放に反対していないことは、人民がわれわれを信任し、希

望を託していることを説明している」 李鵬の軌道修正は対外的なポーズ これら一連の鄧小平談話について、 一部では改革派の願望を込めた創作と見る説が行わ

れているが、その観測は正しくない。というのは、鄧小平談話を裏付ける資料を、公式報

道の中に発見できるからである。国家体制改革委員会主任の陳錦華は、こう引用している。

「中国は改革開放を引き続き堅持するだけでなく、鄧小平同志が要求したように、改革開

放を″もっと立派に、もっと速く、もっと実績を挙げるようにしなければならない」(『人

民日報・海外版』10 月 23 日付一面)。傍線部分が『鏡報』の伝える鄧小平語録と同じであ

る。鄧小平談話のあと、李鵬も軌道修正した観がある。十一月八日にスーダンのパシル副

議長と会見したが、その際に「三カ条の最も基本的なもの」として「①鄧小平同志の提唱

した改革開放の路線を変えないこと②国民経済の持続的、安定的、協調発展の方針を変え

ないこと」を強調している(『人民日報』海外版 11 月 9 日)。 ここでわざわざ「鄧小平同志の提唱した改革開放」と断っていることが注目される。いか

にも唐突な変身だが『鏡報』の伝えるように、鄧小平が最近、改めて経済体制改革の意義

を強調した背景を考えれば、理解できる発言である。ここでの問題は、李鵬が本当に軌道

修正したのか、それとも修正のポーズを示しただけなのかであろう。というのは『人民日

報』国内版では、陳錦華発言、李鵬発言ともに報道されていないのである。これは何を意

味するのか。一つの解釈は「内と外との使い分け説」である。国内では引き締めを堅持し、

対外的にのみ微笑を振りまく形である。もう一つの解釈は『人民日報・海外版』でまず軌

道修正を行ったとする見方である。おそらくは前者であろう。つまり鄧小平はすでに「死

に体」、神通力を失ったのではないか。ポスト鄧小平はすでに始まっている。

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捏造記事の裏側を読む 1991 年 1 月号 逆戻りする中国の経済改革 1991 年 2 月号 赤字激増の中国国有企業 1991 年 3 月号 ポスト鄧小平の綱引き激化 1991 年 4 月号 冷戦体制解体に動く中国 1991 年 5 月号 動き始めた朝鮮半島情勢 1991 年 6 月号 大攻勢に出る中国改革派 1991 年 7 月号 中国の香港政策に暗雲が 1991 年 8 月号 ソ連政変に動揺する中国 1991 年 9 月号 ソ連の革命に揺れる中国 1991 年 10 月号 台湾の動きにあせる中国 1991 年 11 月号 終焉を迎える鄧小平時代 1991 年 12 月号

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捏造記事の裏側を読む

「犬も歩けば棒に当たる」は、確かに真実である。私は昨年八月の夏休みに北

京を旅行し、さまざまな人々とポスト鄧小平問題を語り合ったが、そのなかに

棍棒があろうとは予想だにできなかった。八月一六日午前一〇時三五分から一

二時五分前までの約一時間二〇分、私は共同通信北京支局長の勧めで「李鵬の

ブレーン」を自称する何新なる人物と北京長富宮飯店ロビーで会った。彼は一

年来の国際情勢の激変を研究しており、近く日本へも訪問したいとのことであ

った。共同支局長のほか『読売新聞』北京支局長を含めて四人で雑談した。北

京語で世間話をすることを「聊天儿」と言うが、まさにこの種の雑談であった。

一一月末になって『北京週報』(四七~四九号)が「中国の学者何新氏と横浜

市立大学矢吹晋教授との対談(上・中・下)」なる捏造対談を連載したのを知

ったとき、私は唖然とするのみであった。あまりにもばかばかしいし、私の本

を少しでも読んだことのある読者にとっては、私の発言と異なることは明白だ

と思われたので、放置しようと思った。しかし、少なからぬ友人の示唆で一二

月六日付の抗議書を作り、八日に『北京週報』日本支局にファックスで送った。

この抗議書はただちに北京の本社に転送された。

ところが『北京週報』および何新氏は私の記事撤回、謝罪要求に対して、なん

ら返答することなく、あまつさえこれを一二月一一日付『人民日報』(一面半

分および二、三面全ページ)に転載した。転載に際して、私の抗議書を踏まえ

て小さな訂正を行っている。一つは、横浜市立大学矢吹晋教授」を「S教授」

と改めている(矢吹を北京語読みにするとSで始まる)。さらに『NOといえ

る日本人』の箇所やラビ・バトラ、マルラス、ヒックスなどについての箇所を

何新氏自らの発言に改めている。

私が要求したのは、これらの部分的訂正ではない。記事全文の取消を要求した

ものである。なぜなら、これは「対談」などではなく、何新氏自身の「自問自

答」にすぎない虚構だからである。一二月一一日付で何新氏は『北京週報』編

集部を通じて、矢吹宛てに奇妙な弁解の手紙を寄せた。私は一〇日間待った末

に、『人民日報』編集部、『北京週報』編集部および何新氏へ再度の抗議書を

送った(一二月二〇日)。同時に、この抗議書コピーを東京の中国大使館楊振

亜大使にも送った。事柄の経緯は以上のごとく簡単なものである。しかし、か

くもばかばかしい異常な出来事がなぜ発生したのかを考えて見ると、そこには

容易ならぬ陰謀がすけて見える。

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鄧小平はすでに死に体であり、ポスト鄧小平をめぐって、中南海の権力闘争は

激化している。とりわけ一二月末の七中全会における改革派と保守派の綱引き

は予断を許さない情勢になっている。何新氏の内容から見ても、形式から見て

も異常としかいいようのない「対談」は、改革派に対する保守派による先制攻

撃であろう。資本主義の危機を強調し、社会主義の優位性を語る何新氏の論調

は、天安門事件以後の体制的危機のなかでの保守派の対応を最もよく示すもの

である。

外国人の名を用いて、「青年学者」の権威を高め、それを皮切りに世論作りを

やろうとする発想は、毛沢東が文化大革命を始めた際に、姚文元を用いて「海

瑞罷官」批判の論文を始めた経緯と似たところがある。この意味で、私の「冤

罪事件」は、中国の政治危機と深くかかわっており、注目を要する出来事であ

る。にもかかわらず、この事件についての日本の報道はいささかズッコケてい

る。『読売新聞』一二月一二日付朝刊が私の抗議談話を報道し同日付『信濃毎

日新聞』が共同北京特派員電で、私の抗議書に言及したのみである。日本の新

聞は私の抗議よりも、『北京週報』や『人民日報』の立場を重視しているので

あろうか。理解に苦しむ。ところで香港の各紙は一斉にこの問題を報じている。

『経済日報』は私の抗議書の全文を掲載している(一二月一三日付)。『サウ

スチャイナ・モーニング・ポスト』は香港から電話取材で、私の抗議を紹介し

ている(一二月一三日)。日本がらみの事件を香港紙で知るとは情ないではな

いか。

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逆戻りする中国経済改革

中国共産党の一三期七中全会は昨年の一二月二五~三〇日に開かれた。会議直

後には簡単な公報しか発表されなかったが、およそ一カ月を経て一月二九日付

『人民日報』はこの会議で採択された「中共中央の国民経済、社会発展一〇カ

年規画と第八次五カ年計画の制定についての建議」を公表した。

この建議は『人民日報』一~四面のほとんど全頁を埋めるほどの長大なもので

あり(全文三万余字)、全七章七二節から成っている。七章のタイトルから、

概要はうかがうことができる。

一、主要奮闘目標と基本的指導方針、二、経済発展の産業的重点と地域的配置、

三、科学技術教育文化事業の任務と政策、四、人民生活の改善と社会保障の健

全化、五、経済体制改革を深化させる方向、任務、措置、六、対外開放政策の

拡大、七、規画と計画の実現のために奮闘しよう

原案段階から採択されるまでに二百箇所以上修正されたと香港『広角鏡』(九

一年一月号)が伝えている。これは保守派主導で起草された原案に対して、改

革派がクレイムをつける形で政策論争が行われ、結局保守派と改革派の折衷案

になったものと見ることができよう。肝心の課題、経済体制の改革を推進する

のか、それとも棚上げするのか。この点を論じた第五十節のサブ・タイトルは

こうなっている。すなわち「社会主義の計画的商品経済(A)を発展させる要

求に照らして、計画経済と市場調節を結合する経済運行メカニズム(B)を樹

立することは、経済体制改革の深化の基本的方向である」。

この文章で(A)の部分は第一三回党大会で決定されたものである。当時、こ

の規定は「計画的」に重きを置いて読む保守派の読み方と「商品経済」に重き

を置く改革派の読み方との二様の解釈が行われたが、社会主義経済=計画経済

論を否定したところが新鮮であった。しかし、今回はその部分をいわばマクラ

言葉に棚上げして、(B)の部分すなわち「計画経済と市場調節」を結合する

ことこそが基本的方向だとしている。

ここでは、二つの意味での折衷が行われている。一つは、党大会の決議につけ

たしを加え、前者を骨抜きにするという意味での折衷である。大会決議を一見

尊重したかに見せつつ敬してこれを遠ざけ、後半の保守派の主張する「計画経

済プラス市場調節」論を強調する仕掛けになっている。もう一つは従来と同じ

く「計画経済」と「市場調節」との折衷である。ただし、ここで「計画経済」

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という用語が要注意である。党大会当時は「社会主義=計画経済」論を斥けて、

「社会主義=商品経済」論を導入する観点から、「計画経済」という用語を避

けて、「計画管理」「計画工作」「計画調節」などの表現を用いたのであった。

したがって、この部分は仮りに改革派主導で描くならば、「商品経済プラス計

画調節」となるべきところである。つまり、主と従の位置関係が逆転している。

路線の基調は、第一三回党大会の基調と鳥籠経済論との中間に位置するものと

解釈できる(鳥籠経済論そのまでは戻っていない)。

計画調整すべき分野は、「総量コントロール、経済構造、経済配置」に属する

もの、および「全局にかかわる重大な経済活動」である。そして「企業の日常

の生産経営、一般的な技術改造、小型建設などの経済活動」は市場調節による

としている。

趙紫陽時代には郷鎮企業の活力をもって停滞している国営企業にカツを入れよ

うとする迂回的戦略が採られたが、今回は「国営大中企業の活力を強めること

が経済体制改革深化の中心」だとしているが、手段たるや企業の請負責任制、

企業管理体制の強化など一般的な措置にとどまり、具体性に乏しい。「リース

制」や「株式制」の試行も続けると一行だけ書かれているのは、いかにもリッ

プ・サービスの匂いがする。

産業政策としては「傾斜生産」として農業の発展が強調されている。さらに基

礎工業、インフラ建設、エネルギー部門、交通運輸、郵電、通信、原材料部門

などボトルネックへの重点的投資がうたわれている。この「傾斜生産」論は地

域的にも適用されているが、かつての沿海地区優先路線への反発もあって地域

格差拡大防止に重点が置かれている。

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赤字激増の中国国営企業

中国経済は依然低迷状態を続けている。二月末に公表された国家統計局の「一九九〇年国

民経済と社会発展統計公報」(『人民日報』二月二三日付)から経済の実情を読むことに

したい。

1)九〇年のGNPは一兆七千四百億元(一元=約二五円)であり、年間成長率は約五%で

あった。五%という数字は西側先進国と比べると悪くない数字だが、中国は過去四〇年平

均して約一〇%であったことを考えると、低空飛行であることが分かる。2)農業総生産額

は対前年比六・九%増で、このうち食糧生産量は四億三千五百万トンで史上最高を記録し

た。「史上最高」であるにもかかわらず、人口爆発のゆえに、一人当り食糧で見ると、八

四年水準(四〇〇キログラム)を回復していない事実に注目する必要がある。3)工業総生

産額は対前年比七・六%の伸びである。過去四〇年の平均は十数%台であり、半分にすぎ

ない。4)小売物価上昇率は二・一%にとどまり、八八年の一八・五%、八九年の一七・八%

と比べて、様変わりの様相を見せている。5)国営大型企業の「税引き前利益」(原文=利

税) は一二七一億元(約三兆三千億円)であり、対前年比一八・五%の大幅減少である。

大型企業一万余について見ると、約三割が赤字を計上した。

こうした実績を踏まえて、国家統計局は次のように警告している。「製品在庫が増え、経

済効率が悪化し、財政困難が激化し、潜在的インフレ圧力が強まっている」と。

国家統計局公報を読むと、中国経済の実態が容易ならぬものであることが分かる。物価上

昇率が急降下したのは、インフレ対策が効を奏したわけだが、このような引締めのもとで

「潜在的インフレ圧力が強まっている」事実は重大である。八八~八九年の場合は、いわ

ば需要超過型インフレであったが、今度は国営企業の業績悪化や政府の財政赤字に現れた

ようなコスト・プッシュ型圧力が強まっているわけである。これは、景気低迷下のインフ

レ懸念であり、好況下のインフレよりもはるかに深刻な、中国的スタグネーションの危機

である。

ある内部資料(厳聞広「国有企業の重大な欠損の原因)は、中国国営企業に占める赤字企

業の比率は拡大の一途をたどっている事実を暴露している。これによると、八六年の国営

工業企業の赤字率(企業総数に占める赤字企業の数) は一四%であったが、八七年一六%、

八八年一九%、八九年二〇%とうなぎ上りに増え、九〇年上期は三四%に達している。国

営企業のうち三つに一つが赤字だというわけである。赤字企業の増加につれて、赤字額も

増えている。七九年の赤字額は三〇億元であったが、八五年は四〇億元、八六年七二億元、

八七年七六億元、八八年一〇五億元、八九年一三六億元と増え、九〇年は上期だけで一〇

〇億元の大台を突破しており、これを単純に二倍すれば九〇年の年間赤字は二〇〇億元を

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超えることになる。しかも、一部企業の赤字から一業種全体が赤字に転落するなど、赤字

企業が蔓延している。

この結果、赤字企業への補助金は工業利潤の半分に匹敵するほどの規模に膨れている。国

営企業への政府財政からの補助金は八〇年代初頭には七〇億元であったが、八七年には二

〇〇億元に増え、八八年には四〇〇億元に膨れ上がった。この補助金四〇〇億元は、八八

年の工業利潤総額の半分に相当するほどの金額である。九〇年に国営企業の赤字を補填す

るために政府から支出された補助金は六〇〇億元に上り、国家財政にとって大きな荷物と

なりつつある。

国営企業の赤字はなぜ生じたのか。一因は、原材料価格の大幅な値上がりであり、これが

企業の製品コストの七割以上を占めている。もう一つの要素は職員労働者の賃金、ボーナ

スなど人件費である。これらの費用は下方硬直的であり、赤字企業においても、賃金やボ

ーナスは従来通り支払われている。こうして、少なからぬ企業の賃金の増加率が労働生産

性の伸びを上回り、企業赤字を増大させている。資源、エネルギー不足のゆえに「週四日

操業、三日休業」の企業が増えているのも問題だ。「実際の赤字」はこれらの「報告され

た赤字」の約二・五倍と見る推計も行われており、親方日の丸の国営企業に対する大ナタ

は不可欠だが、保守派は国営企業擁護=社会主義擁護と錯覚している。

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ポスト鄧小平の綱引きが激化

三月二五日~四月九日の一六日間にわたって開かれる七期全人代四次会議(日本の国会に

相当する) の冒頭、李鵬総理は「国民経済、社会発展十カ年計画および第八次五カ年計画

要綱についての報告」を行った。李鵬報告は全文約三・三万字(四百字八三枚) であり、

七中全会で採択された「国民経済、社会発展十カ年計画および第八次五カ年計画について

の中共中央の建議」よりも、およそ一割方長い。全体の構成を見ると、1)十カ年計画と八

五計画要綱制定の立脚点、2)主な奮闘目標と基本的指導方針、3)経済建設について、4)社

会発展について、5)経済体制改革と対外開放について、6)国際情勢と外交工作について、

の六章から成っている。

この「要綱」は、七中全会で採択された中共中央の「建議」を受けて、行政府としての国

務院が「建議」を具体化するためにまとめたものである。したがって、基本的には党の設

けた枠にしたがう形になっている。たとえば 2)の基本的指導方針として、「中国的特色を

もつ社会主義の建設」を挙げ、その内容として、人民民主主義独裁、共産党の指導の堅持、

など一二カ条を列挙している点は「建議」と全く同じである。3)の経済建設では、1)経済

の総量バランスの保持、2)産業構造の調整、3)地域的分業の促進、4)経済効率の向上、5)

科学技術、教育の発展、6)人民生活の改善、を挙げているが、4)の経済効率の向上などよ

りも 1)の総量バランスを強調しているところに、改革慎重派(保守派)としての李鵬グル

ープの考え方がよく現れている。

同じ傾向は、4)の社会発展についてもいえる。1)精神文明の建設、2)民主と法制の健全化、

3)政法工作の強化、4)腐敗反対、廉政建設( 清潔な政治) 、5)計画出産と環境保護、6)各

民族の団結、の六項目からなるが、なによりもまず精神文明の建設といったイデオロギー

教育を前面に出しているところに李鵬色が見られる。天安門事件前に、改革派が腐敗反対、

廉政建設(清潔な政治)を主張し、その手段として民主と法制の健全化を求めたことはよ

く知られていよう。この李鵬報告では、それらの前に精神文明の建設を押し出しており、

イデオロギー教育を強調していることが分かる。改革派主導ならば、経済改革に対応した

政治の民主化、政治の民主化と法制化を促進するためのイデオロギー教育となるはずであ

り、このような形でイデオロギー教育が押し出されることはあるまい。

李鵬による『要綱(草案) 』の説明は、七中全会で決定された枠を基本的には守りながら

も、随所で保守派寄り、改革慎重派寄りの解釈が行われていることに気づく。つまり、ポ

スト鄧小平をにらんだ改革派と保守派の「綱引き」はいぜん続いており、ますます激しく

なっているように見える。

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それを示唆する一つは、朱鎔基(上海市長)と鄒家華(国家計画委員会主任)の副総理昇

格、銭其シン(外相)の国務委員昇格の人事である。朱鎔基が上海市長として江沢民党書

記を助けたことはよく知られている。したがって、このコンビが中央で実現すれば、江沢

民の指導体制は大幅に強化されよう。鄒家華は李鵬と同じくモスクワ留学帰りだが、同時

に広東を基盤とする地方改革派葉選平(今回、政協委員に転出)の義弟、故葉剣英の女婿

である。

もう一つは、本来なら九二年に開かれるべき第一四回党大会の年内「繰上げ開催」説であ

る。天安門事件直後に二階級特進して総書記になった江沢民としては、鄧小平の元気なう

ちに党大会を開いて、後継体制を固めておきたいところであろう。すでに一部の地方で党

大会代表選出が始まったとか、党大会で審議する政治報告の起草に着手したとか、「繰上

げ開催」説を伝える「小道消息」(ウワサ)が絶えない。江沢民や李瑞環ら鄧小平の支持

に依拠する改革派にとって、早期開催が有利なことは確かであろう。問題は大量引退、大

幅入れ替えになる指導部人事について改革派・保守派の調整がうまくつくかどうかである。

最後に、三月二六日鄒家華(国家計画委員会主任) が行った「九〇年実績と九一年計画」

によると、九一年のGNP成長率は九〇年実績と同じ四・五%、農業、工業の総生産額も

九〇年と同じくそれぞれ三・五%、六・〇%である。中国としてはかなり控え目な目標で

ある。インフレ再燃を警戒したものであろう。

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冷戦体制解体に動く中国

黄金週間中、政治家諸氏の「中国詣で」が目立った。中曾根元総理が北京釣魚

台国賓館八号楼に宿をとれば、竹下元総理はすぐそばの十一号楼に宿をとると

いった具合だ。中国側の会談相手も、江沢民総書記、李鵬総理、王震国家副主

席、銭其琛外交部長とまったく同じで、中国側の気配りがうかがわれる。

さて、竹下元総理と同じフライトで田辺社会党副委員長が訪中し、同じく釣魚

台国賓館内に宿をとり、中共中央対外連絡部長朱良と会談した(五月二日夕刻)。

朱良部長は田辺氏との会談に先立って、即席の会見の形で「韓国の国連単独加

盟支持せず」と述べた。とはいえ、朱良部長は朝鮮民主主義人民共和国(北朝

鮮)が主張している「単一議席による南北加盟」案の是非には触れなかった。

朱良発言の言外のニュアンスを北京からの報道はさまざまに読み取った。五月

二日夜のNHKニュースは、ずばり「中国は拒否権を行使せず」と速報した。

翌日の『読売新聞』は「これは韓国が単独加盟申請に踏み切った場合、中国が

拒否権を発動せず、棄権することに含みを残したとも受け取られている」(五

月三日、大野岩雄特派員電)と解釈し、また『朝日新聞』は「中国の不支持表

明は、ただちに国連安保理の常任理事国として中国が拒否権を行使することと

は必ずしもそのままつながらない」「単独加盟は支持しないとの意思表示をし

つつ、棄権または欠席という行動に出る可能性も消えたわけではない」(五月

三日、横堀克己特派員電)と解釈した。

朱良発言は李鵬総理の北朝鮮訪問直前のものであった。おそらく「単独加盟支

持せず」報道の世界に対する強い衝撃を和らげるためと推測されるが、江沢民

総書記は五月四日、田辺副委員長らに対して単独加盟問題についての言及を控

え、「深く申し上げたくない」と軌道修正した。

ちなみに韓国は九〇年秋にソ連と国交を正常化し、九一年春には中国と貿易事

務所を相互に開いた。ゴルバチョフ大統領は訪日の帰途、韓国済州島に立ち寄

り、韓国の単独加盟を支持を表明した。五月一日ブッシュ大統領はワシントン

を訪れた李相玉韓国外相との会談で単独加盟全面支持を表明した。韓国訪問中

のロカール仏首相も五月二日、単独加盟支持を表明している。韓国はいま三六

カ国に特使を派遣し、単独加盟への支持を求めるため活発な外交活動を展開し

ている。現在、韓国を承認している国家は一四八カ国であり、北朝鮮を承認し

ている一〇五カ国を大きく上回っており、また南北同時承認国は九〇に達して

いる。こうした潮流から見て、中国が仮りに「拒否権」を行使しなければ(棄

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権あるいは欠席するならば)、今秋の国連総会において韓国の加盟が実現する

可能性はきわめて強い。

ここで誰もが想起するのは、湾岸戦争における「武力行使容認決議」の際に中

国がとった態度である。中国はこのとき、拒否権を行使せず、「棄権」した。

一方でアラブ世界との従来からの友好関係に配慮しつつ、他方で、西側の経済

制裁緩和を求める観点から西側世界との国際協調を重視したい。このジレンマ

のなかで中国の選んだ道が「棄権」という態度なのであった。

中国から見て、韓国の加盟問題を扱う観点は二つであるとこれまで見られてき

た。一つは台湾問題であり、もう一つが北朝鮮問題である。台湾では四月二二

日の国民大会臨時大会での決定を踏まえて、三〇日に李登輝総統が記者会見し、

「反乱平定時期」の終了を宣言し、大陸との「内戦状態」が終焉したとする認

識を公式に表明した。台湾は今後、「大陸当局」を「一つの政治実体」と認識

し、「一つの中国、二つの政府」の考え方にしたがって大陸との交流を続けて

いく方針である。鄧小平流の「一国両制」(一つの中国、二つの経済体制)と

は、むろん距離があるが、平和共存への大きな歩みの一歩であることは疑いな

い。現在、東アジアにおける冷戦体制解体の最後の問題はただ一つ、北朝鮮の

動向にかかってきた。中国としては国際原子力機関(IAEA)の核査察を受

け入れている事実を指摘することによって、北朝鮮の査察受け入れを中国が間

接的に要望していることを示唆している。また北朝鮮の核開発について中国は

協力関係にないことも明らかにしている。南北朝鮮と日中米ソとの駆け引きは

国連総会へ向けてますます激化しよう。なかでも日朝国交正常化交渉は大きな

要素の一つである。

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動き始めた朝鮮半島情勢

政懇ホット情報『政経かながわ』91 年 6 月 15 日

ゴルバチョフの登場を契機として戦後の冷戦体制が音を立てて崩れ始め、八九

年の東欧の激動をもたらしたことはわれわれの記憶に新しい。こうした潮流は

東アジアに対してもボディブローのような深く静かな衝撃を与えつつあること

はいうまでもない。

本誌前号で韓国の国連単独加盟問題に触れて「中国が仮りに“拒否権”を行使

しなければ(棄権あるいは欠席するならば)、今秋の国連総会において韓国の

加盟が実現する可能性はきわめて強い」と観測した。私は朝鮮半島の情勢につ

いては特別な勉強をしているわけではない。ただ中国の韓国・北朝鮮(朝鮮民

主主義人民共和国)政策を注視してきただけである。私の素人評論に対して、

専門家筋からは「あまりにも楽観的」とする批評の声も聞こえていたが、どう

やら素人の直観の方が的中する場合もあるようだ。

五月二七日、私は『読売新聞』主催の七カ国専門家会議(日中米ソおよび韓国・

北朝鮮・モンゴル)に出席し、中国情勢についての私見を報告したさいに、前

号で書いた趣旨を述べた。韓国・北朝鮮および北朝鮮と密接な関わりを保持し

ている中国の友人の前で、素人が発言することにはかなりの躊躇と心理的圧力

を感じたが、そこは素人の強み、思い切ってカマをかけてみた。

案の定、中国の友人から厳しい反発があった。「第一に、南北双方が同意でき

る解決でなければならない。二番目に、いかなる大国も何らかの決定をして、

それを南北朝鮮に押しつけることはできない。三番目に、過去の経緯から反日

感情があり、日本が問題提起するのは逆効果だ」。この友人は私にとって老朋

友である部分だけ、遠慮がなく、厳しい口調であった。

私は少し軽率であったかと反省したが、もともと本音を探るのが目的である。

この反発から、今の段階で苦しい立場に陥っているのは北朝鮮だけでなく、中

国も同じであることを痛感した。前号で書いたように、中曾根、竹下、田辺各

氏から「拒否権行使の有無」を問われることはたいへんな心理的圧力であった

わけだ。「使う」といえば、韓国を初めとして、西側全体と衝突するし「使わ

ない」といえば、朝鮮戦争の盟友を裏切ることになる。中国はこの板挟みに悩

んでいた。

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ただし、黄金週間の時点で中国の基本的態度は決定済みのごとくであり、李鵬

総理の北朝鮮訪問は「拒否権は使えない」と引導を渡しに行ったようなもので

はなかったか。この通告を踏まえて、江沢民総書記はモスクワを訪問し、ゴル

バチョフとの会談で韓国問題についての中国側態度を通告し、両者の情勢認識

は一致したごとくである。つまり、モスクワは韓国加盟を積極的に支持し、中

国はそれに反対しないという形で消極的に支持する。いまや北朝鮮の国際的孤

立は決定的になった。ここまで追い詰められて、ピョンヤンは清水の舞台から

飛び下りる決意を固めたのではないか。

私が中国の友人から厳しく批判された翌朝、『朝鮮通信』は北朝鮮の国連加盟

申請の発表を伝えた。このニュースに接して、会議の政治的気温は一気に上昇

した。議長はこのニュースを午後のセッションで扱うことにし、活発な討論が

続いた。

最終二九日の朝、別の中国友人が私の顔を見るなり、つぶやいた。「われわれ

も読みが外れた」と。海千山千のこの老外交官のつぶやき、真意がどこにある

かはよく分からない。ただ、私の直観では、ピョンヤンの豹変ぶりを指してい

たはずである。そう理解して私は、「良い方向への変化じゃありませんか。今

後は南北対話だけでなく、国連の場で皆の前で対話を続けて欲しいものですね」

と述べた。中国の友人はニコニコした。忖度するに、肩の荷が下りたように、

ホッとしたのではないか。この会議で、中国代表の北朝鮮寄りの姿勢は明確で

あり、韓国側から抗議が出たほどである。中国側は北朝鮮との内輪の対話にお

いては、北朝鮮の頑なな態度を批判し、国際的孤立を避けるように説得を続け

たはずである。しかし、国際舞台では、韓国が単独加盟のための多数派工作を

行い、北朝鮮をいっそう孤立に追い込むような態度に明らさまな不快感を示し

ていた。いずれにせよ、ここで舞台は一つ回った。こうして日朝正常化交渉の

意義はますます深いものになりつつある。

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大攻勢に出る中国改革派

政懇ホット情報『政経かながわ』91 年 7 月 15 日

最近、第一四回党大会の九二年六月繰上げ開催説が有力になってきた。ポスト

鄧小平体制を固めようとする江沢民ら改革派とそれに抵抗する李鵬ら保守派の

権力闘争はいよいよ熾烈である。

二月一五日春節、上海党委員会機関紙『解放日報』に皇甫平署名「改革開放の

“導きの羊”たれ」と題する評論が載った。皇甫平とは、上海市党委宣伝部執

筆グループの筆名。その一人は周瑞金で最近香港『大公報』副社長兼編集長に

起用された。周瑞金は朱鎔基に重用されていた記者で、これは鄧小平の「上海

談話」を解説したもの。筆名は上海の代名詞である黄埔江と鄧小平にちなむ。

ここから鄧小平──江沢民・朱鎔基──皇甫平の人脈が浮かび上がる。三月二

日付『解放日報』は「改革開放には新思考をもつべき」と題する皇甫平第二評

論を掲げ、計画と市場の関係を対立させる考え方を「新たな思想的停滞」と断

じた。計画と市場についてこう述べている。「一部の同志は計画経済=社会主

義経済、市場経済=資本主義経済とすることに慣れ、市場調節の背後に資本主

義の幽霊が必ず隠れているとみなしている」「ますます多くの同志が、計画と

市場は単に資源配置の二つの手段、形式にすぎないのであって、社会主義と資

本主義を区分するメルクマールではないことを理解し始めた。資本主義に計画

はあるし、社会主義に市場がある」「社会主義商品経済と社会主義市場を発展

させることを資本主義と単純に同一視し、市場調節といえば資本主義だとみな

してはならない。外資の利用と自力更生とを対立させ、外資利用の問題で小心

翼々であってはならない」。「計画と市場」を「資源配置の手段、形式にすぎ

ない」と断定したのは、大胆な主張であり、七中全会公報にいう「〔体制とし

ての〕計画経済と〔方法としての〕市場調節の結合」論を一歩踏み越えたもの。

おそらく鄧小平の言葉そのものであり、俗に「新猫論」ともいわれる。

この評論が発表されるや、保守派の牛耳る中央宣伝部は早速調査に乗り出した。

黒幕が鄧小平であり、評論の多くの部分が鄧小平語録であることを了解した後

で、なおかつ皇甫平論評の批判を図り、「ブルジョア自由化反対」が欠けてい

ると非難した。

三月二二日皇甫平は「開放拡大の意識をさらに強めよ」として、外資導入にか

かわるさまざまの保守派思想を系統的に批判した。これは名指しは避けたもの

の事実上、何新“対談”(『人民日報』九〇年一二月一日)の基調を論駁した

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ものである(『鏡報』五月号)。捏造対談騒動で悩まされた私としては、痛快

極まりない。何新が「先進国は多国籍会社を発明し、続いて外債型経済を発明

し、発展途上国の肥えた富を外に流した」と論じた箇所は、誤りだと真向から

否定されている。三~四月の政協、全人代において、葉選平の政協副主席昇格、

朱鎔基、鄒家華の副総理昇格人事が決定され、胡啓立、閻明復、ゼイ杏文の復

活人事が六月一日に公表されたが、一連の異例の人事の背景も皇甫平評論は「人

事の登用において大胆であれ」とその意義を解説している。

さて皇甫平キャンペーンの狙いをどう読むべきか。1)新上海グループ(江沢民、

朱鎔基、陳錦華、芮杏文など上海市での党務・政務経験をもつ者。必ずしも旧

来の第三野戦軍人脈とは関係なし)にテコ入れして、保守的な北京を恫喝する。

それによって政局全体に改革開放ムードを盛り上げる。2)趙紫陽流の「広東モ

デル」とは別の、それを上回る開放度をもつ「浦東モデル」を実行することに

よって、上海市の地盤沈下を防ぐとともに、中国経済全体の活性化(特に国営

企業)を図る。3)鄧小平としては(胡耀邦、趙紫陽なき後)力不足とはいえ、

江沢民を中心とした体制を守り立てていくほかない。その後継体制作りの上で、

李鵬を棚上げし、江沢民の女房役朱鎔基を据えることはカナメの一石となろう。

4)保守派の重鎮陳雲は朱鎔基を二回呼びつけ、三つの注文をつけた。1)浦東開

発に賛成だが、社会主義体制の枠内での開発たるべし。2)改革開放は重要だが、

社会主義信念の堅持はもっと重要である。3)改革開放を提起した途端に、社会

主義の核心・計画経済に留意しなくなるのはよくない──。鄧小平のアクセル

と陳雲のブレーキとが党大会へ向けてどう作動するか、中国政局は当分目を離

せない。

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中国の香港政策に暗雲が

政懇ホット情報『政経かながわ』91 年 8 月 15 日

このところ、台湾・香港と北京との関係がギクシャクしている。台湾の一部に

ある国連再加盟提案構想に北京が神経をとがらしている。台湾にとってはおそ

らく現状維持が最善であり、いたずらに北京の神経を逆撫ですることは得策で

はない。

もう一つは香港と北京との関係である。鄧小平氏の「一国両制」を揺るがすよ

うな危険な動きが北京保守派の一部にみられる。

鄧小平氏が「一国両制」を提起したのは一九八四年六~七月のことである(『建

設有中国特色的社会主義(増訂本)』所収)。このきわめてユニークな発想は

プチグマチスト鄧小平の面目躍如たるものであり、その知恵の深さは最大級の

賞讃に値する。鄧小平曰く、「中国政府は一九九七年に香港に対する主権を回

復した後、香港の現行の社会、経済制度を変えず、法律の基本を変えず、生活

方式を変えず、香港の自由港としての地位と国際貿易、金融センターとしての

地位を変えない。香港は引続きその他の国家と地域と経済関係を保持し発展さ

せることを続けてよい」「北京は軍隊を派遣するのを除けば、香港特区政府に

幹部を派遣しない。これば変えるはずはない。われわれが軍隊を派遣するのは

国家の安全を維持するためであり、香港の内部事務に干渉するものではない」

「中国の香港に対する政策は五〇年変えない」(四六頁)。

「一国両制の構想は中国自身の情況から出発して考えたものだが、いまや国際

的に注目される問題になっている。中国には香港問題、台湾問題があるが、こ

の問題を解決する道はどこにあるのか? 社会主義が台湾の呑み込むのか、そ

れとも台湾が大陸を呑み込むのか? いずれも呑み込めない」「この問題をど

う解決するのか。私は一国両制しかないと思う」(四八頁)。

イギリスとの間で香港返還協定を結んだ際に、香港人やイギリスだけでなく、

全世界に対して行った約束の原点がこれである。

しかし、この原則に疑問を抱かせるような事態が生じ、衣の下から鎧がチラチ

ラし始めた。さる五月二八日、新米の政協委員何新氏(筆者矢吹との対談を捏

造して売り出した「新保守主義」のインスタント政論家。本誌一月号「捏造記

事の裏側を読む」参照)が二〇〇〇人の委員を前にして、香港マスコミは何新

氏および中国の老世代の指導者たちに対して「侮辱、誹謗、人身攻撃」を行っ

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たと訴えるとともに、「九七年返還」が成った後、香港マスコミに対して報復・

粛清する(原文=秋後算帳)と宣言した。何新氏は北京で七月一〇日、身分不

相応の、異例の内外記者会見までやる始末である。

当然のことながら香港マスコミは一斉に猛反発した。香港マスコミ人たちは矢

吹との「対談」を捏造して保守派イデオロギーを宣伝するような国際慣行を無

視したやり方に対して非を鳴らしたにすぎない。

実は筆者の手元にも香港『鏡報』編集部からの手紙と社長徐四民氏(香港代表

の政協委員)の書簡コピーが届いて、騒ぎの大きさを知った次第である。何新

氏が香港マスコミへの報復宣言を名望家徐四民氏にも送り付けたのに対して、

同氏はこれを厳しく斥ける返書を書き、その写しを私にも送り、感想があれば

聞きたいとのことであった。

私の見解は、1)捏造問題について未だ何新氏から誠意ある回答がないこと、2)

捏造問題の本質をすり替えて香港マスコミを逆恨みするのは筋違いであること、

3)この種の恫喝は「厚黒学者」(ハッタリ学者)、「政治流氓」(政治ゴロ)

のやり口である、4)これでは九七年以後の香港が憂慮される、というものであ

った。私の見るところ、何新氏の香港マスコミに対する恫喝は明らかに中国政

府の対香港政策に根本的に背馳している。鄧小平氏の香港政策に異論をもつ中

国人がいたとしてもやむをえないが、政協委員のような公的な立場にある者が

このような恫喝を行うことは許されない。衣の下から鎧がチラチラしたのでは

香港の繁栄と安定はおぼつかない。この種の危惧を払拭する道はただ一つ─

ることである。もし暴論を放置し、是認するならば全世界の人々は、「一国両

制」をペテンとしか受け取らなくなるであろう。このようなイデオローグに依

拠するようでは李鵬政権の将来は暗い。二一世紀の中国は暗い。

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ソ連政変に動揺する中国

政懇ホット情報『政経かながわ』91 年 9 月 25 日

ソ連八月革命の中国に与えた衝撃の大きさを端的に示すものは『人民日報』報

道の豹変ぶりである。

まず八月二〇日付『人民日報』は一面右肩の目立つ位置に「ソ連副大統領ヤナ

ーエフがゴルバチョフの大統領職務停止を命令」とタス通信一九日早朝のクー

デタを大きく伝えた。ヤナーエフが大統領の職務につき、国家非常事態委員会

が成立し、国家の全権力を掌握したこと、この委員会は大統領代行ヤナーエフ

以下八人で構成されていること、などを報道し、非常事態委が一九日に発表し

た「ソ連人民に告げる書」のなかから「ゴルバチョフのペレストロイカが袋小

路に陥り、国家と人民の運命がきわめて危険な秋にあたり」、ソ連公民は委員

会の危機からの脱出努力を支持するよう呼びかけたと報じている。

これらは「客観報道」のスタンスであり、中国側のコメントは一切ないが、ク

ーデタをきわめて好意的に見ていることは、明らかだ。この報道はクーデタの

首謀者側の主張を「客観的」に報道したものにほかならない。

翌二一日付『人民日報』は、一面に、中国外交部スポークスマンの談話を掲げ

た。「ソ連で発生した変化は、ソ連内部の事柄である。中国政府は外国の内政

干渉に反対し、各国人民の選択を尊重し、ソ連人民がみずからの問題をみずか

ら解決するものと信ずる。中ソ関係が引続き発展するうえで影響はない」。六

面では、クーデタ関連ニュースを詳報している。

ところが保守派の喜びはヌカ喜びに終わった。二二日に紙面の流れが変わる。

一面右肩に「ゴルバチョフが情勢をコントロールしたと宣言、ソ連国防部は緊

急状態地区の部隊の撤兵を決定した」と報道して、クーデタの失敗を伝えた。

二三日付『人民日報』第一面に「銭其シン外交部長がソ連大使ソロビヨフにゴ

ルバチョフが大統領に復帰したあとも、両国関係の発展を信じる、と語った」

と報道。六面では、クーデタ失敗を確認する報道を行っている。二四日以降、

一面からソ連ニュースが消えた。以後、ソ連関係ニュースは国際ニュースを扱

う六面にしか載らなくなった。

私は八月下旬北京を旅行したが、人民大会堂で一連の政治局会議を断続的に開

いていること、三環路と建国門立体交差点では、夜間天安門周辺へ向かう車両

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を検問している事実を確認した。中国の当面の対応は「引締め堅持」の一語に

尽きる。まず第一にイデオロギー面での引締めであり、第二に治安取締りの強

化である。後者には民主化運動に対する容赦ない弾圧や、民主化運動に影響を

与える西側報道および中国在住西側社会に厳しい監視の目を向けることが含ま

れる。北京市内の外国人用アパートへの中国人の出入りに対するチェック体制

の強化などは、その一例である。当面の政治の焦点は、一〇月末あるいは一一

月初めの一三期八中全会であるが、早くもホットな鍔迫り合いが始まっている。

八月三一日付上海『解放日報』は、評論員論文を掲げて、旧套墨守ではなく、

壮士が腕を断つような英断で改革開放を進めよと論じた。これはソ連の衝撃に

乗じて、中国社会主義の危機を大いにあおり、改革開放を大幅に後退させよう

とする保守派の目論見に反発したものである(これは本誌七月一五日号で紹介

した皇甫平論文の続編にあたる)。

他方、保守派の長老陳雲は「エリツィンのような人物が中国に現れるのを阻止

せよ」と側近に指示したと『サウスチャイナ・モーニングポスト』(香港、九

月四日付)がスッパ抜いた。「エリツィンのような人物」とは、朱鎔基副総理

を指すと同紙は解説している。八中全会で朱鎔基が政治局委員に昇格し、いず

れは李鵬後継の総理ポストに据えようとする鄧小平人事を牽制したものとみて

よい。来るべき八中全会では、来年に予定されている第一四回党大会の開催に

ついて、人事候補を含めて、その段取りが決定される。

中国は天安門事件を通じて、「保守派主導のもとでの改革開放」の構造ができ

ているので、当面は現行体制堅持ですむ。しかし、政治的引締めと経済発展の

矛盾は広がり深まる。鄧小平が健在なうちは矛盾を糊塗できようが、ポスト鄧

小平を無事に乗り切れるかどうかは誰にも分からない。長期的にみれば、中国

もまた東欧、ソ連の道を歩むことは確実である、と私は見ている。

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『政経かながわ』1991 年 10 月 25 日 ソ連革命に揺れる中国 中国共産党の十三期八中全会(中央委員会全体会議)が十一月に開かれる予定だが、改革

派と保守派の綱引きはこれまでになく激化しており、成り行きは予断を許さない。八中全

会の準備会議ともいうべき中央工作会議が九月二十三~二十七日に開かれており、本来な

らこの工作会議に引き続いて、直ちに八中全会が開かれるはずであった。しかし工作会議

の議題としては国営大中型企業の活性化問題だけが公表され、他のより重要なテ―マにつ

いては一切発表されなかった。会議の主な出席者は、江沢民、李鵬のほか、楊尚昆、万里、

喬石、姚依林、李瑞環、王震、田紀雲、李鉄映、李錫銘、呉学謙、秦基偉、丁関根、鄒家

華、朱鎔基、薄一波、宋仁窮、劉華清、楊白冰、温家宝、倪志福、陳慕華、王丙乾、王芳、

李貴鮮、陳希同、陳俊生、任建新、劉復之、王任重、胡縄である。 この顔触れから察せられるのは「カゲの主題」すなわち「ソ連八月革命」への対応という

隠されたテーマである。経済問題だけの会議ならば、楊尚昆、王震、秦基偉、薄一波、宋

仁窮、劉華清、楊白冰、任建新、劉復之、王任重、胡縄などが出席する必要はまったくな

いであろう。 依然として進展がない国営企業の活性化 表向きの議題たる「国営企業の活性化」については、十二カ条の措置を決定した。 1. 1. 企業の技術改造への投入増加 2. 2. 国営大中型企業の指令性指標の減少 3. 3. 企業の減価償却率の引き上げ 4. 4. .新産品開発基金の増加、 5. 5. 企業の流動資金の補充、 6. 6. 貸出利率に対する再度の調整、 7. 7. 一部企業の対外貿易自主権拡大、 8. 8. 大中型基幹企業への原材料保証と製品買上げ保証、 9. 9. 三角債の整理、 10. 10. 大型の企業集団結成への試点工作の継続、などである。 数年来の国営企業の経済効率の悪化傾向は、いぜんとして続いている。国家財政赤字は解

消の見通しが立たず、三角債は圧縮への努力にもかかわらず増え続けている。しかし、会

議を通じてうちだされた十二カ条には、目新しい措置は見当たらない。ただし、十月十日

に公表された李鵬演説が「調整政策の終結」を宣言したのは、改革開放への再転換を示唆

するものとして注目される。ソ連の衝撃波によって、鄧小平の「趙紫陽なき趙紫陽路線」

の復活構想は、大きなカベにぶつかっている。鄧小平は一九九二年の第十回党大会におい

て趙紫陽路線を復活させるために、年初以来努力してきた。イデオロギー面では「科学技

術は第一生産力論」を提起し、経済改車の面では新猫論(本紙七月十五日号)、人事構想で

は朱鎔基の抜てき、胡啓立・閣明復・ゼイ杏文の復活などを断行してきた。あとは趙紫陽

の処遇問題だけが残された形であった。 ソ連の政変で鄧小平構想に強い抵抗が しかしソ連のクーデター失敗に驚いた保守派は、鄧小平構想に対して従来にもまして強く

抵抗するようになった。イデオロギー面では「和平演変」反対論、「改革開放は社会主義的

なものか資本主義的なものか、本質を間うべし」という形での改革反対論、「中国のゴルバ

チョフ、エリツィン」の登場を防げという形での人事批判が保守派の立場である。 たとえば保守派の論客を集めた「首都理論界座談会」(『人民日報』九月十二日)では ① ① 人民民主主義独裁の堅持 ② ② 西方の議会主義反対 ③ ③ 共産党の指導の堅持、複数政党制反対という主張が繰り返されている。 改革派エコノミストを集めた「首都経済学界座談会」(『人民日報』九月十一日)では、第

十三回党大会で提起された「一つの中心、二つの基本点」論が再登場している。これこそ

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趨紫陽路練復活を示唆するキーワードの一つである。またここでは「思想の解放」が繰り

返されている。これは改革派のもう一つのキーワードである。 改革開放路線の復活に努力する鄧小平 すでに八十七歳の誕生日が過ぎた鄧小平は、 一方で保守派の長老をなだめつつ、改革開

放路線の復活に努力している。鄧小平一流の「共産党・社会主義延命策」にほかならない。

しかし、これは同時に鄧小平一流の「脱社会主義への道」でもある。中国には古来「羊頭

狗(く)肉」の作風(苦肉の策というべきか)がある。「社会主義の旗を高らかに掲げつつ、

ひそかに資本主義への道を歩む」鄧小平戦略はしたたかである。

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『政経かながわ』平成 3 年 11 月 15 日 台湾の動きにあせる中国 ソ連政変の結果、バルト三カ国が独立し、さらに南北朝鮮が九月十七日、国連に加盟した。

この二つは合湾の独立運動に大きな刺激を与え、北京は台湾の独立運動に神経過敏になっ

ている。九月七、八の両日、台湾の野党民進党をはじめとする「台湾独立団体」が「公民

投票促進会」なる組織を作り、民進党党曇、万仏会、基督教長老派教会、台湾教授学生憲

法制定運盟、台湾人公共事務協会など十余団体の数千人を動員して、合北市で大デモを行

った。彼らは「台湾の名義で国連加盟を申請すること」、合湾の民衆が「公民による投票」

の形で、この目標を達成することを呼びかけた。「バルト三国が独立でき、国連に加盟でき

るのならば、合湾はなぜ加盟できないのか?」「南北朝鮮が加盟できるのに、なぜ台湾はで

きないのか?与いまこそ国連加盟の絶好のチャンスである」 「台湾は中国の一部ではない与ソ連人民が怒号するとき、台湾人民よ目覚めよ!」といっ

たスローガンが叫ばれた。当局は三万人の機動隊や警宮、放水専を用意して警戒し、八日

深夜にようやくデモ隊が解散した。この集会にアメリカのクラーク前司法部長がかけつけ

て、国連加盟を支持するメッセージを述べたことも注目された。 北京は台湾の動きに人民日報で不快感を これに先立ち八月にはアメリカのリリー前中国大使も合湾を訪れ「中共当局が台湾に主権

観念を強いる時代は過ぎた」と批判している。十月十五日に民進党は第五回党大会を開き、

党綱領のなかに「独立自主の台湾共和国の建設」を盛り込んだ。しかし、二十五日に高雄

市で行われたデモは、参加者は約二万人にとどまり、動員目標十万人を大きく下回った。

これは当局の縮め付けのために、急進派組織が参加を見送ったこと、民進党が与党国民党

との対決姿勢を弱めるよう軌道修正したためであろう。こうした台湾独立の動きに対して、

北京は相当に神経をとがらせている。五月七日に離任したばかりのアメリカのリリー前中

国大使が八月に台湾を訪れ、一連の発言を行ったことについて『人民日報』八月十五日付

は肖西署名論文「ジミー・リリー先生の言行に警戒せよ」を掲げて、不快感を表明した。 『人民日報』十月十七日付評論員論文「国家、民族を分裂させる陰謀は断じて許さない」

は、民進党が前述の党綱領を採択した事実について「国家を分裂させ、民族を裏切る分か

れ道において、はるかに遠くまで来てしまった」と厳しく批判するとともに「国民党当局

の反共・和平拒否の態度、台湾内の台湾独立に対するあいまいな態度」にも、非難の矛先

を向けている。 表の警告だけてなく武力介入という恫喝も いわく「台湾当局は国共両党会談を拒絶し、両岸の直接的「三通」(通信、通商、通航)

を頑固に阻上し″弾力的外交″ソ一重承認″(北京と台北の双方を外交上承認すること)

を極力推進し″対等の政治的実体″なるもので、二つの中国、 一中一台をデッチ上げよう

としている。国民党のなかには″台湾はすでに中華民国の名義で独立している″とか″国

連に実質的に加盟できれば、名義は重要ではない″などと述べる者もある。この種の議論

が、台独分子の気炎を上げるのを助長している」。 表の警告だけではなく、解放軍が台湾

への武力介入のための準備を整えているといった恫喝も意図的に流しており、台湾海峡の

両岸は久方ぶりにとげとげしくなっている。 国民党の李登輝総統は九月十七日、『サンケイ新聞』に対して(北京側の)「いかなる統一

日程も受け入れていない」と答えるとともに「台湾が政治的実体であることを認めない、

武力使用を放棄しない」という北京の原則の変更可能性についてはこう答えている。 「変化する可能性はある。いま海峡交流基金会を通じて、合湾海峡で発生した密輸や密出

国事件を大陸と共同で処理している」「違反者の処理に際しては、相手側の法律を認めなけ

ればならない。すなわち①自主権②対等の立場③相互の合作―が必要だ。問題の処理を通

じて、互いに相手側の実体を承認することになる」一こうして対等の関係が生まれ、主権

尊重の雰囲気が醸し出される」。台湾当局が国際的地位を実質的に固めていることに対して、

北京は「一方で交流をやりながら、他方で台独をやるのは許せない」とあせりを隠さない。

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ソ連政変におびえる北京保守派の過敏な神経を逆なでしないことを、特に台湾当局に望み

たい。

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神奈川政経懇話会、1991 年 12 月 15 日

終焉迎える鄧小平時代

中国共産党の一三期八中全会が一一月二五~二九日の五日間にわたって開かれ

た。コミュニケによると、1)農業と農村工作をより強化することについての中

共中央の決定、2)九二年秋に第一四回党大会を開催すること、などが決定され

たが、3)懸案の政治局人事は先送りされた。1)の農業問題が主要な議題として

浮上したのは、夏の大水害を契機としている。死者三千人以上、被害金額八百

億元(約二兆円) を超えただけでなく、揚子江の荊江堤防決壊され実際に危惧

される状況のもとで、鄧小平路線のもとで推進されてきた個別農家への生産請

負制は大きな軌道修正を迫られた形である。生産請負制の導入によって農民の

意欲を引出すことに成功し、それが大幅な生産増をもたらした功績は大きいが、

生産請負制にはもう一つの負の側面がある。無秩序な埋め立てや養魚池の設定、

共同作業なくしては不可能な水路補修の怠慢などが水害を深刻なものにした理

由であることは、つとに指摘されていた。こうした問題を解決するために、一

方では生産請負制の方向の正しさを確認するとともに、他方で人民公社時代の

集団農業の長所をも一部取り入れる方向を決定したものである。これは政治の

文脈で読むと、二つの意味がある。一つは鄧小平改革路線(集団農業解体によ

る個別農家経営方式) に対する保守派の不満を取り入れて、改革路線を軌道修

正したものであり、鄧小平時代の限界あるいは終焉の始まりを示唆したことで

ある。もう一つは、いまや孤塁を守るほかない「中国社会主義」の最後の拠点

が農村であり、中国共産党が農村を確保している限り、一党独裁を継続できる

ので、農村の安定化にあらゆる努力を払う姿勢を示したものである。具体的な

農業政策としては、科学技術を利用した増産、灌漑ダム建設などの治水事業の

強化、共産党の末端組織の強化と社会主義教育の徹底などが挙げられているが、

いずれも近年強調されているものの焼直しにすぎない。

2)で党大会開催問題を正式に提起し、3)のように人事が先送されたことは、密

接に連関している。元来、党大会で正式に決定すべき人事問題が浮上すること

自体が中国共産党の抱えている政治危機の深刻さを浮き彫りにしたものだ。つ

まり、天安門事件によって生じた政治局メンバーの欠員を事件から二年半過ぎ

た今でも補充できておらず、今回も補充に失敗した。実際には工作の必要上抜

擢した朱鎔基副総理(中央委員候補) 、鄒家華副総理(中央委員) が政治局会

議にオブザーバーとして列席し、議事に参加していると伝えられる。具体的な

重要実務にすでに従事している者が形式的には権限を持たないという奇妙な形

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が続いている。八中全会ではこうした「宙ぶらりん」状態の解決が期待された

が、遂に実現しなかった。

人事先送り決定は、鄧小平の指導力、影響力の減退を示唆するものではないか。

鄧小平は年初から改革開放路線への再転換のために、いくつかの配置を行って

きた。一つが、人事である。すなわち朱鎔基の抜擢および胡啓立、閻明復、ゼ

イ杏文三羽烏の復活である。二つはイデオロギー攻勢である。すなわち科学技

術=第一生産力論の提起と新猫論(計画経済と商品経済は経済体制に関わるも

のではなく、経済運営の方法の問題にすぎない)である。人事とイデオロギー

を通じて、鄧小平は改革開放路線の復活に死力を尽くしてきたが、ソ連八月政

変に由来する中国への国際的圧力と内外からの圧力のもとで社会主義体制崩壊

への危機感をつのらせる保守派の思惑に挟撃されて、努力は大きく挫折した。

大きく分ければ、保守派対改革派の綱引きの構図になるが、細かくみると、さ

まざまな思惑が交錯している。たとえば、朱鎔基、鄒家華と並んで、楊白冰(軍

事委員会秘書長、総政治部主任、中央書記処書記) の政治局入りも阻まれたが、

これは保守派の反対というよりは、解放軍内部で楊尚昆・楊白冰ファミリーの

勢力増大に対する反発が大きかったためではないか。やはり、党大会を待って

楊尚昆引退、楊白冰昇格の取引きにならざるをえまい。鄧小平人事構想とは、

第一四回党大会でのスムースな若返りのために、改革開放ムードを盛り上げて

おこうとする作戦である。この人事構想が挫折した結果、問題はすべて来年の

党大会に持ち越された。保革間の権力闘争は、ポスト鄧小平への過渡期を控え

て、ますます広がり深まりつつある。

目標は若返りと改革開放 1992 年 1 月号 鄧小平が挑む最後の闘争 1992 年 2 月号 マスコミ使い鄧小平反撃 1992 年 3 月号 まだ続く中国の保革対決 1992 年 4 月号 鄧小平「重要談話」の行方 1992 年 5 月号 赤字多発の中国国有企業 1992 年 6 月号 李鵬後めぐって改革競争 1992 年 7 月号 胡論文から見る保革抗争 1992 年 8 月号 既定方針だった中韓国交 1992 年 9 月号 自助努力促す対中協力を 1992 年 10 月号 両極切った中国の党人事 1992 年 11 月号 楊家将めぐる軍の人事 1992 年 12 月号

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神奈川政経懇話会、1992 年 01 月 15 日

目標は若返りと改革開放

新年を迎えて、中国はどこへいくのかを考えてみたい。旧年の中国の動きをみ

ると、改革開放路線復活への潮流とその逆流が激突した一年であった。

改革開放路線復活の潮流とは、内外の情勢を踏まえつつ、鄧小平が提起したも

のである。すなわち天安門事件以後二年をメドとして、経済引締めは限度に達

しており、インフレ退治から失業対策、雇用拡大へと転換が求められていた。

対外的には、西側の制裁も基本的に解除され、今後はふたたび西側との経済協

力を基軸としつつ、積極的な開放政策の推進による中国経済の生き残り策が模

索されていた。

こうした転換を図るために、鄧小平は人事調整とイデオロギー攻勢を計画した。

人事調整の核心とは、胡啓立、閻明復、ゼイ杏文ら旧趙紫陽人脈の復活と上海

市長朱鎔基の副総理への抜擢であった。イデオロギー攻勢の核心とは「和平演

変」反対一辺倒を排して、経済建設を中心に据えること、科学技術の立ち遅れ

克服のために、「科学技術=第一生産力論」を提起することであった。

こうした鄧小平の「最高指示」は、保守派の抵抗に遭遇しながらも、着々と実

現しつつあるかに見えた。だが好事、魔多しであった。ソ連八月革命は、鄧小

平構想に大きな打撃を与えた。ソ連共産党解体、ソ連邦解体は中国共産党の一

党独裁体制を根底から震撼させた。その恐怖感を背景として、中国にはふたた

び「和平演変」一辺倒が横行し、ひいては鄧小平改革路線の本質は「社会主義

的なものか、資本主義的なものか、それを問うべし」とする保守派の議論が浮

上した。曰く「政権が手中になければ、経済がうまくいったとしても、その成

果は他人のものになってしまうではないか」。

こうした逆流のなかで、鄧小平は十一月末の十三期八中全会で辛うじて、みず

からの主要テーゼを守り切った。それは中国の主要課題が階級闘争にあるので

はなく、生産力の立ち遅れの克服にあるという考え方である。

これが旧年の二大潮流のなかで、老いた鄧小平が辛うじて、みずからの路線の

正当性を守り切った姿である。

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では、九二年の中国の見所はなにか。最大の課題は、秋に予定されている第一

四回党大会の行方であり、その課題は人事の若返りと改革開放路線の定着化で

あろう。

人事の核心は、満七〇歳を超える人々、すなわち姚依林、宋平、万里、楊尚昆、

呉学謙、秦基偉の六人が政治局から引退問題である。仮りに六人が引退する場

合に、欠員三名分(趙紫陽、胡啓立、胡耀邦)とあわせて、一〇人前後が政治

局入りすることになるが、その可能性のあるのは次の人々であろう。

朱鎔基六二歳(副総理)、鄒家華六四歳(副総理)、楊白冰七一歳(軍総政治

部主任)、銭其シン五八歳(外交部部長)、宋健六〇歳(国家科学技術委員会

主任)、遅浩田六二歳(軍総参謀長)、陳俊生六四歳(国務委員)、葉選平六

七歳(政協副主席、前広東省省長)、王兆国五〇歳(元福建省省長)、温家宝

四九歳(中共中央弁公庁主任)など。

このうち、朱鎔基、鄒家華の二人は常務委員に昇格する可能性が強い。楊白冰

が年齢のゆえに選出されない場合は、于永波六〇歳(総政治部副主任)が代わ

りに昇格するかもしれない。

若返り問題のもう一つのポイントは顧問委員会が鄧小平の公約通り廃止できる

かどうかである。長老支配によっては激変する内外情勢にほとんど対応できな

い。最大限に柔軟な指導部を構成して、臨機応変に対応することなしに、中国

の脱社会主義の「軟着陸」はありえない。この意味で、第一四回党大会の帰趨

は東アジア情勢全体に大きな影響を与えることにならざるをえない。

ポスト鄧小平時代への移行は、すでに始まっているとみてよい。後継指導体制

作りと路線の定着化は、時間との厳しい勝負になっている。国際環境を見ると、

米中摩擦の拡大、韓国との国交回復、中台問題、日中国交正常化二〇周年記念、

中ソ関係、中朝関係、中越関係など課題は山積しているが、中国指導部が改革

開放路線を定着化できるならば、その大部分は解決のメドがつくはずである。

かくて問題のポイントは、改革開放路線の動揺にある。基本姿勢が明確にでき

れば、解決の方向はおのずから出てくる。

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平成 4 字 2 月 15 日『政経かながわ』 鄧小平の南巡講話 今年の香節(二月四日)の直前、最高実力者鄧小平がほぼ一年ぶりに健在を誇示して、大

きな話題を呼んだ。八月二十二日の誕生日で八十八歳になる高齢だが、二人の娘に伴われ

て元気な姿を印象づけた。香港誌「争鳴」(九九二年二月号)によると、鄧小平は昨年十二

月中旬から地方巡回を行っており、すでに天津、上海など六都市の視察を終えたという。

また香港の中国系夕刊『新晩報』(一月二十七日付)は、春節前後に広州で党・政・軍の指

導老を交じえた重要会議を開く予定だと伝えている。 一月二十八日付の香港『文匯報』『大

公報』は、次のような鄧小平語録を報道している。 「改革開放は中国の唯一の活路であり、改革をやらない者はだれであろうと辞職するしか

ない」「証券取引は資本主義だという者があるが、上海、深センでテストした結果、成功す

ることが証朗された。資本主義のものでも、社会主義制度のもとで導入してかまわない」 かつての白猫黒猫論そのものにほかならない。また『鏡報』二月号(一月二十九日発売)

によると、鄧小平はこのほど人民解放軍の改革について、二つの重要指示を出したという。 人民解放軍の兵力削減と人事異動を指示 一つは人民解放軍の兵力削減であり、三百万の現有兵力から三分の一、すなわち百万を削

減する計画である(八〇年代の半ばに、四百万から三百万に百万削減しており、今回は二

固目の大削減である)。もう一つは各天軍区を調整し、人事異動を行う方針である。こうし

た鄧小平の一連の「最高指示」は、きわめて注目される。なぜなら今秋の第十四回党大会

に向けて、中国の政局がいよいよ始動したように見えるからである。九一年十一月の十三

期八中全会を経て、思想教育や政治引き締めを優先させる保守派の考え方を退けることに

成功し、鄧小平一流の新たな攻勢が、水面下から浮上してきたわけだ。旧ソ連の混乱状況

が、中国当局にある種の自信を与えたことも確かである。 ゴルバチョフの「政治改革先行」論の失敗は、鄧小平の「経済改革先行」論の現実的有効

性を、裏書きした面もある。たとえば中ソ国境貿易における人民元の優位性は、中国人に

すくなからぬ自信を与えた。とはいえ、鄧小平路線のもつジレンマも大きい。第一は内政

と外交の分裂だが、国際的には開放政策を主張しつつ、国内的には「和平演変」(西側が平

和的手段によって、社会主義の転覆を図っているとする考え方)反対を説くのは自家撞着

(どうちゃく)である。 九一年十月初めの揚尚昆講話以後、「和平演変」反対は努めてトーンを落とそうとしてい

るが、この考え方自体を放棄したわけではない。 失業保険制度整え破産法の適用へ移行 第二は、政治体制と経済体制の矛盾である。市場経済化を進めていけば、共産党独裁政治

の種格(しっこく)に突き当たらざるをえない。おそらくは中期的、長期的にみて、中国

の直面する最大の課題はここにある。脱社会主義の政治体制へ、いかに「軟着陸」できる

かが問題である。大きな混乱を経ることなしに、いわば「なし崩し」的な形で変身できれ

ば、それが最善であるが、そうなるかどうかはだれにも分からない。九一年春以来、国務

院生産弁公室でこの問題に取り組んできた朱鎔基主任は、九二年一月上旬に開いた「経済

体制改革工作会議」で「累積赤字が企業の資産総額を上回った企業は、破産させる」とい

う「倒産基準」を提起した。中国では八六年に「破産法」を施行したものの、失業者が政

治問題化するのを恐れて、国営企業には例外的にしか適用してこなかった。しかし、九一

年度の国家の財政赤字が約五百億元を超える状況のもとで、もはや一刻の猶予も許されな

い段階に立ち至った。 これまでは天安門事件以後の政治不安のなかで「失業を顕在化させないために、企業赤字

を補てんしてきた」が、いまや「不良企業を倒産させて、失業保険を給付する方法」が、

赤字補てんよりも合理的だと判断するに至ったわけである。こうした考え方から、 一方で

は失業保険制度を整えつつ、他方で破産法の適用へ移行することにし、二月の全国人民代

表大会での条例制定に乗り出した。冒頭に述べた鄧小平のパフォーマンスは、今年秋に予

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定されている第十四回党大会を意識したものであり「改革開放の復活」を名実ともに果た

すために、鄧小平はいま最後の闘争に乗り出したと私は読む。

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神奈川政経懇話会

鄧小平が挑む最後の闘争

今年の春節(二月四日)の直前、最高実力者鄧小平がほぼ一年ぶりに健在を誇

示して、大きな話題を呼んだ。八月二二日の誕生日で八八歳になる高齢だが、

二人の娘に伴われて元気な姿を印象づけた。香港誌『争鳴』(九二年二月号)

によると、鄧小平は昨年一二月中旬から地方巡回を行っており、すでに天津、

上海など六都市の視察を終えたという。また香港の中国系夕刊『新晩報』(一

月二七日付)は、春節前後に広州で党・政・軍の指導者を交えた重要会議を開

く予定だと伝えている。一月二八日付の香港『文匯報』『大公報』は次のよう

な鄧小平語録を報道している。

「改革開放は中国の唯一の活路であり、改革をやらない者は誰であろうと辞職

するしかない」「証券取引は資本主義だという者があるが、上海、深センでテ

ストした結果、成功することが証明された。資本主義のものでも、社会主義制

度のもとで導入してかまわない」と。かつての白猫黒猫論そのものにほかなら

ない。また『鏡報』二月号(一月二九日発売)によると、鄧小平はこのほど人

民解放軍の改革について二つの重要指示を出したという。一つは人民解放軍の

兵力削減であり、三〇〇万の現有兵力から三分の一、すなわち一〇〇万を削減

する計画である(八〇年代の半ばに、四〇〇万から三〇〇万に百万削減してお

り、今回は二回目の第削減である。もう一つは各第軍区を調整し、人事異動を

行う方針である。

こうした鄧小平の一連の「最高指示」はきわめて注目される。なぜなら今秋の

第一四回党大会に向けて、中国の政局がいよいよ始動したように見えるからで

ある。

九一年一一月の一三期八中全会を経て、思想教育や政治引締めを優先させる保

守派の考え方を斥けることに成功し、鄧小平一流の新たな攻勢が水面下から浮

上してきたわけだ。旧ソ連の混乱状況が中国当局にある種の自信を与えたこと

も確かである。ゴルバチョフの「政治改革先行」論の失敗は、鄧小平の「経済

改革先行」論の現実的有効性を裏書きした面もある。たとえば中ソ国境貿易に

おける人民元の優位勢は、中国人にすくなららぬ自信を与えた。

とはいえ、鄧小平路線のもつジレンマも大きい。第一は内政と外交の分裂だが、

国際的には開放政策を主張しつつ、国内的には「和平演変」(西側が平和的手

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段によって社会主義の転覆を図っているとする考え方)反対を説くのは自家撞

着である。九一年一〇月初めの楊尚昆講話以後、「和平演変」反対は努めてト

ーンを落とそうとしているが、この考え方自体を放棄したわけではない。

第二は、政治体制と経済体制の矛盾である。市場経済化を進めていけば、共産

党独裁政治の桎梏に突き当たらざるをえない。おそらくは、中期的、長期的に

みて中国の直面する最大の課題はここにある。脱社会主義の政治体制へいかに

「軟着陸」できるかが問題である。大きな混乱を経ることなしに、いわば「な

し崩し」的な形で変身できれば、それが最善であるが、そうなるかどうかは誰

にも分からない。

九一年春以来、国務院生産弁公室でこの問題に取り組んできた朱鎔基主任は、

九二年一月上旬に開いた「経済体制改革工作会議」で、「累積赤字が企業の資

産総額を上回った企業は破産させる」という「倒産基準」を提起した。中国で

は八六年に「破産法」を施行したものの、失業者が政治問題化するのを恐れて、

国営企業には例外的にしか適用してこなかった。しかし、九一年度の国家の財

政赤字が約五〇〇億元を超える状況のもとで、もはや一刻の猶予も許されない

段階に立ち至った。これまでは天安門事件以後の政治不安のなかで、「失業を

顕在化させないために、企業赤字を補填してきた」が、いまや「不良企業を倒

産させて失業保険を給付する方法」が赤字補填よりも合理的だと判断するに至

ったわけである。こうした考え方から、一方では失業保険制度を整えつつ、他

方で破産法の適用へ移行することにし、三月に開かれる全国人民代表大会での

条例制定に乗り出した。

冒頭に述べた鄧小平のパフォーマンスは、今年秋に予定されている第一四回党

大会を意識したものであり、「改革開放の復活」を名実ともに果たすために鄧

小平はいま最後の闘争に乗り出したと私は読む。

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神奈川政経懇話会、1992 年 04 月 15 日

まだ続く中国の保革対決

日本の国会にあたる中国の全国人民代表大会は四月三日、李鵬「政府工作報告」

を一五〇箇所を修正し、また懸案の三峡ダム建設問題では三分の一近い反対票

が出るという異例の幕切れとなった。こうして鄧小平の重要談話(「中共中央

二号文件」)を受けて、保守派主導体制から改革派主導への軌道修正が進んで

いる。今回の中国の政治劇は、旧ソ連解体に衝撃を受けた保守派長老たちが鄧

小平路線の軌道修正を迫り、これに対して鄧小平が逆襲したものである。鄧小

平パフォーマンス(一連の視察旅行および談話通達による政治の表舞台への直

接的介入)は、保守派から売られたケンカを買い、これに乗じて中央顧問委員

会を基盤とする保守派粉砕へ乗り出したものにほかならない。重要談話は「要

点」であり、しかもかなり丁寧に文言が整えられているが、鄧小平路線の正当

性への自己弁明が全体の基調となっている。

談話の核心は(二)の最後の節である。「中国では主として、“左”を防がな

ければならない」「改革開放を資本主義を導入し発展させるものだと見なし、

和平演変の主な危険は経済領域から来ると見なす」思想が“左”の思想である。

“左”への鄧小平の反発は、かなり感情的であり、「“左”のものはわが党史

において何とおそるべきであったことか。好いものが一挙に彼によってやられ

てしまった」と弾劾している。(六)で「20 年をムダにした」と 1966~76 年の

失敗を指摘しているところから、これはおそらく毛沢東批判であり、保守派長

老の回帰地点を爆撃したものであろう。鄧小平路線の内実は、毛沢東路線の極

左偏向を是正したもので、「経済は資本主義的に、政治は社会主義の枠内で」

という折衷論である。こうした政経分離の矛盾を“左”から衝くのが保守派で

あり、右から衝いたのが趙紫陽路線である。鄧小平は左右に敵をもっている。

問題の焦点は“左”批判がいまなぜ必要かである。

鄧小平路線を“左”から批判し、路線転換を主張する有力なグループが存在し

たからだと見るのが妥当であろう。「基本路線の百年堅持」「生産請負制の堅

持」「都市農村改革の基本政策の維持」「経済特区批判、株式市場批判への反

批判」──要するに、「一つの中心、二つの基本点」論( 経済建設を中心とし、

改革開放と四つの基本原則を基本とする)を変えるな、と彼は繰り返している。

これは「変えようとする」側の勢力が無視できないほど大きく、変えられる危

険性を自覚しての発言と読める。鄧小平の経済建設中心論に対して、保守派は

「もう一つの中心」すなわち、イデオロギー、思想建設を対置した。そしてイ

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デオロギーの比重を高めれば、このイデオロギーに照らして、「経済領域から

の和平演変」論を用いて、鄧小平路線を「修正主義」と断罪できるという構図

になる。

当面は鳥籠経済論へ、最終的には毛沢東時代への懐旧にひたる保守派の論理と

心情は、改革開放の十年の過程で時代遅れになった感があったが、旧ソ連の解

体という衝撃のなかで、特に保守派長老の間で亡霊のごとく復活した。彼らは

胡耀邦、趙紫陽批判の名において、事実上鄧小平を批判し、特にその「生産力

論」「新猫論」を標的にした( たとえば『人民日報』九一年九月一日陳野萍論

文、九月七日胡喬木論文) 。九一年一二月に開かれた全国組織部長会議は保守

派主導で開かれた。つまり、中央宣伝部と中央組織部が保守派ペースで運営さ

れ、鄧小平路線の軌道修正を底流として第一四回党大会への準備が始動した。

鄧小平が逆襲に出ることを余儀なくされたのは、ある意味で当然であったと私

は読む。鄧小平の問題意識を端的に示すのは、八四~八八年の経済的成功を自

賛し、天安門事件以後三年間の「治理整頓」(八九~九一年) を「単に安定の

功績にとどまる」と酷評した箇所である。 これは保守派が行き過ぎた改革開放

がインフレをもたらし、天安門事件の引金になった、保守派主導の治理整頓の

もとでようやく安定したと見る評価への反駁である。鄧小平は「安定と協調は

相対的なもの」にすぎぬ、「発展こそが硬い道理」だと説く。この発展優先論

の根拠として、「日本、南朝鮮、東南アジアの一部の国家は地域」の高度成長

を挙げていると指摘し、保守派の時代錯誤を衝いている。党大会へ向けて保革

の権力闘争は第一ランドが終わったばかりである。

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神奈川政経懇話会、1992 年 05 月 15 日

鄧小平「重要談話」のゆくえ

鄧小平の重要談話(「中共中央二号文件」)から三カ月余、中国の政治経済は

どう動いているのか。保守派主導体制から改革派主導への軌道修正が進んでい

るようにも見えるが、他方保守派として攻撃された人々は誰一人辞任していな

いし、解任されていない。五月一日夜の中国中央テレビは保守派の長老陳雲が

上海市党委員会書記呉邦国、上海市長黄菊らに対して、浦東開発問題で指示を

与える姿を伝えた。陳雲は浦東開発支持を語るとともに、社会主義の枠内での

開発を指摘しており、これは昨年四~五月に朱鎔基、呉邦国、黄菊らに対して

行った談話と同じ趣旨である。改革開放加速の鄧小平指示に対抗して、「社会

主義の枠内で」とクギを刺した形である。鄧小平の地方視察から陳雲のテレビ

登場までの政治劇を見ていると、竜頭蛇尾を想起させる。つまり、鄧小平の叱

咤激励は、いつのまにか雲散霧消とまではいわないとしても、そのインパクト

をだいぶ減殺してしまったようである。あたかもショック・アブソーバーに吸

収されてしまったごとくである。

これには二つの理由があろう。一つは、鄧小平指示は元気がよいわりには中身

がないこと、もう一つは保守派の面従腹背、体制維持に汲々とする官僚機構の

カベである。鄧小平談話を老人の繰り言と酷評した向きがあるが、確かにツジ

ツマの合わない箇所が散見される。深セン経済特区が社会主義である根拠を説

明して、「公有制が主体であり、外資は四分の一にすぎない」と指摘したが、

いかなる意味で四分の一なのか。実は「企業数」(あるいは「労働者数」)で

ある。正確にいえば、深センの工業に占める外資系企業の比率は二四・三%(労

働者数は二八・五%)だ。四分の一弱の企業が「工業生産額」では六六・三%

を占め、「工業製品輸出額」では七八・一%を占めている。つまり企業数では

四分の一を占めるにすぎない外資系企業が生産額の六割強、輸出額の四分の三

を占める──これが深センの実情である。この現実から四分の一という数字だ

けを挙げて、四分の三は非外資系すなわち公有制と論理を飛躍させるのは、ほ

とんど詭弁に近い。これでは保守派に対してほとんど説得力をもちえないので

はないか。鄧小平の論理はまことにセコイのである。

もし積極的な論理を展開するのならば、わずか四分の一の企業が輸出額の四分

の三を占める現実に着目せよ。これは彼らが市場のニーズに合致したものを生

産しているからだ。さらに外資系の一人当り生産額は八・六万元なのに対して、

公有制部分(全人民所有制と集団所有制)は三・一万元にすぎず、半分に達し

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ていないではないか、と事実を挙げて「公有制に固執していたのでは、生産力

発展が遅れる」と保守派の主張を論駁すべきなのである。

社会主義堅持、その核心として公有制堅持を掲げながら、資本主義を密輸入し

ようとするので、あちこちでボロを出す。そもそも、このような大問題につい

ての基本方針の決定を八八歳の老人の判断に委ねているところに老害中国の姿

が象徴されている。鄧小平老の衰弱ぶりがそのまま社会主義の衰弱を象徴して

いる形である。

鄧小平時代の前期たる八〇年代前半に、中国共産党は、1)生産手段の所有制に

おける「公有制」、2)労働に応じた分配(原文=按労分配)を社会主義の基準

としていた。これは毛沢東の階級闘争至上主義、生産関係変革至上主義を批判

して成立したものである。八〇年代後半になると、鄧小平は1)と 2)の代わりに、

社会主義の原則とは、3)生産を発展させること、4)共同富裕(共同で豊かにな

ること)、だと強調するようになったしかも、この共同富裕は長期的目標であ

り、先富論すなわち先に豊かになる人々が現れるのを許す方針なのであった。

彼はなによりも中国の生産力の立ち遅れを痛切に自覚し、基準として、つぎの

三つを挙げたのである。すなわち生産力の発展に有利なこと、綜合国力の強化

に有利なこと、人民の生活水準の向上に有利なこと、である。鄧小平時代、鄧

小平路線とは矛盾に満ちた過渡期の路線である。一方では破産した旧イデオロ

ギーを半ば放棄しながら、他方でこれを完全に放棄することはせず、旧イデオ

ロギーによって新しい事実を説明しようとするために、ボロを出す。公有制主

体、鳥籠経済論の保守派を左派として批判する論理がかくも脆弱では前途が危

ぶまれる。

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神奈川政経懇話会、1992 年 06 月 15 日

赤字多発の中国国営企業

江沢民総書記の来日のあと、日本側から竹下元首相が訪中し、ついで五月末に

万里全人代委員長(日本の国会議長に当たる)が来日した。「礼は往来を尊ぶ」

という。そろそろ秋の天皇訪中問題について決着を出さなければならない時期

が迫ってきたようである。私自身の個人的意見をいえば、やはり秋にご訪中さ

れるのがよいと判断している。日中国交正常化二〇周年を契機として、訪中さ

れることは、二〇世紀の日中関係に一つの区切りをつけ、二一世紀の日中関係

を構築するうえで、かけがえのない役割を果たすことができると考えるからで

ある。私の感触では、どうやらご訪中実現の方向へ向かって動いているような

ので(政治には素人の観測だが)、いまホットな論争になっているこの問題に

ついて、愚見を開陳することは控えておく。

ここでは国営企業改革の動向を紹介したい。春節に深センを訪れて、改革開放

の加速を訴えた鄧小平氏は、五月二二日、北京の首都鉄鋼公司(北京最大の鉄

鋼コンビナートで、国営企業改革のモデル企業の一つ)を訪れ、改革に面従腹

背の保守派を批判するとともに、「国営企業改革は思想解放から」と呼びかけ

た。鄧小平いわく、「多くの幹部の改革開放に対する支持はポーズにすぎず、

ほんのわずかな人々しか熱心に取り組んでいない」(香港『明報』五月二八日)。

この報道は、春節パフォーマンスにもかかわらず、保守派の強い地域では企業

改革が実際にはあまり進んでいないために、老鄧小平が追い打ちをかけたもの

と見られる(むろん、広東省や大連市などのように、数年前から改革開放が進

んでいる地域では、鄧小平談話を追い風としてますます勢いをつけていること

はいうまでもない)。

東北地区の工業の地盤沈下を揶揄して「東北現象」という芳しくない呼称が広

く話題になったのは九一年後半のことだが、東北現象の解決のため、いかなる

努力が払われてきたのか。『遼寧日報』(四月二〇日付)の馮大明記者のリポ

ートによると、九一年の遼寧省の国営企業(予算内企業) の赤字は、企業数の

四六%におよび、赤字額は約二〇億元である。これは赤字企業比率においても、

赤字額においても、全国最大である。

たとえば瀋陽市の二つの鋳造企業の場合、企業規模、技術水準、設備、産品な

どは基本的に同じく、また製品の価格など市場の条件も同じであるにもかかわ

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らず、A社は毎年赤字を出して、累計赤字は数千万元に達しているのに、B社

は毎年利益を上げている例がある。またC社は毎年赤字を出しているにもかか

わらず、ボーナスを出しつづけ、昨年のボーナスは全瀋陽企業の平均額よりも

高かった例がある。これらを挙げて、馮大明記者は「経営メカニズム不良シン

ドローム」に犯されていると訴えた。

四月二三日付『遼寧日報』で李大洪記者は、赤字退治に成功したケースを紹介

した。瀋陽華光電球工場の第五製造工程(原文=車間) の九〇年の赤字は二五

九万元であり、全工場の赤字の三分の二を占めていた。

昨年四月、退職していた技術者方志達が請負制に応募し、この第五製造工程の

責任者になるや、合理化を断行した。たとえば車間の管理幹部を三分の一に減

らし、また補助工程の人員を八人から二人に減らし、一人がいくつもの仕事を

担当するようにした。かつては二八五人の工場を二二八人に減らしたが、生産

量は倍増し、産品合格率は二一%高まり、原材料コストは二〇〇万元余低下し

た。こうして当初の計画目標以上に赤字を削減でき、九二年は黒字に転換する

見通しになった。

遼寧省の赤字企業ワースト百社のうち、指導部が権力の私物化(原文=以権謀

私) を図り、作風不潔な者が五割以上を占めていた。遼陽市の赤字企業三九社

のうち企業管理が混乱しているために、赤字がもたらされているケースが三割

を占めていた。

四月二六日付『遼寧日報』の楊集才記者の記事は官僚主義を告発した。瀋陽の

D社が外資との合弁企業プロジェクトをやろうとして数カ月費やして百余のハ

ンコを得たが、外国のパートナーは待ちきれず、断念した。

国営企業の病根を示す言葉は、「三鉄」(鉄飯碗、鉄工資、鉄交椅)である。

これを打破し「経営メカニズム」を転換せよという。国営企業は計画経済の核

心であり、改革の成否は決定的に重要な意味をもつことになる。

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神奈川政経懇話会、1992 年 07 月 25 日

李鵬後めぐって改革競争

中共中央は五月一六日に政治局拡大会議を開いて「中共中央四号文件」を採択

し、五月末に党内に正式に下達した。この四号文件は、鄧小平南方談話(中共

中央二号文件) の精神を具体化したものといわれる。香港『大公報』(六月一

三日)によると、四号文件の舞台裏をこうである。四月初め江沢民総書記は日

本を訪問したが、出発に先立って国務院総理李鵬に置き手紙をした。それは鄧

小平の南方談話で提起した「改革開放の歩みを加速し、数年内に中国の経済建

設を新たな段階に引き上げる目標」を実現するため、国務院が速やかに方策を

作成するよう指示したものであった。この提案を受けて、四月上~中旬に中南

海で一連の会議が開かれた。この方策を設計した実際の責任者は朱鎔基副総理

だという。この文件は国務院常務会議で二回討論されたのち、各国務委員に渡

され詳細な修正が行われ、五月一六日の政治局拡大会議で採択されたのは第四

稿である。この文件は四つの部分に分かれているが、第二部では「全方位開放

の新構造」という考え方が提起されている。このキャッチフレーズの提唱者は

田紀雲副総理であった。国務院常務会議で討論した際に、田紀雲は四つのレベ

ルの構想を提起した。第一は沿海地区の開放であり、特区と開放都市を指して

いる。第二は沿辺開放であり、東北、西北、西南辺境の省区でも特区を作り、

貿易を多元化することを指している。第三は沿江開放であり、浦東を龍頭とし

て揚子江全体の対外開放を引っ張るものである。第四は内陸省区でも特区の実

験地を行うものである。

田紀雲は四月二五日に中共中央党校で報告を行った際にこの考え方を比較的詳

細に説明した。この報告のなかで田紀雲は左派(保守派) の態度を厳しく批判

した。「指導部が左の思想の呪縛から脱却することは重大な課題である。もし

これに触れなければ、改革開放は空語になる。この問題を徹底的に解決しなけ

れば改革開放を継続できるかどうか疑問である」。この田紀雲報告は熱烈な拍

手のゆえにしばしば中断されるほどであった。その録音テープは洛陽の紙価さ

ながら、一箱一五〇元のヤミ値がついたほどだという(香港『大公報』六月一

三日付)。

四号文件の下達と連動して『人民日報』は一連のキャンペーンを展開している。

たとえば六月九日に江沢民総書記が中央党校で左派(保守派) 批判を行ったこ

ともキャンペーンの一貫である(『人民日報』六月一五日トップ記事) 。また

六月九日付社説は「中国の改革開放の新段階」を論じて、その特徴は「沿海か

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ら沿江(揚子江に沿って) 、沿辺(国境に沿って) へ」と広がりをもたせるこ

と、また「全方位、多元化した対外開放の構造」だと説明している。「東部と

西部の発展のギャップが増大していることは、民族団結の大局に影響し、国境

防衛の強化に影響するからだ」とその狙いを説明している。要するに、沿海地

区で試行された開放政策が成功したとの認識に基づいて、これを「全方位」に

拡大しようという目論見である。

改革の深化の面では、最大の課題は企業の経営メカニズムの転換であるが、こ

れを断行するために、社会保障制度の改革を並行させ、企業改革の援軍にしよ

うとしている。『人民日報』評論員論文(五月二九日) は「社会保障制度の改

革は必至だ」と論じ、労働者の「生老病死住宅」から「子弟の入学、就職」ま

で企業に請負わせることをやめよ、企業の資金は住宅や福利費ではなく、設備

投資に向かうような企業環境、個人の貯蓄が住宅や社会保険などに向かうよう

な経済システムを構築せよと訴えている。第三のポイントは第三次産業の強調

である。ここではこの分野に外資を積極的に導入する方針が核心である。これ

までは輸出による外貨獲得の観点から製造業を優遇してきたが、これからは金

融や国内の流通、不動産業を含めて、ほとんどすべての分野(防衛を除く)に

外資歓迎を掲げたことが特徴的である。すでに日系の流通グループの進出がい

くつか決定しているが、これもその一環であろう。改革開放の発展に対応して

国務院経済貿易委員会設立や農業委員会の設立構想などが浮上してきた。前者

は朱鎔基の、後者は田紀雲の勢力拡大につながり、国家計画委員会(鄒家華主

任)の地盤沈下を意味する。いまや総理のポストを目指して副総理の「改革競

争」が始まった観がある。

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平成 4 年 8 月 15 日、『政経かながわ』 胡績偉論文に読む保革抗争 いずこも同じだが、権力闘争はふだんは水面下に暦行している。潜行しているものは見え

ない。しかし、火山が爆発し、あるいは鯨が潮を吹くように、はっきり目に見える場合が

ある。そこで見た時の形をもとに、見えない部分を推量しなければならない。最近の例で

いえば、中国共産党の権力闘争は天安門事件で爆発したあと、きわめて隠微な形で行われ

てきた。もはや闘争はなくなった、改革開放のテンポをめぐる小さな争いにすぎなくなっ

た、と見る向きが少なくなかった。そうしたなかで私は権力闘争激化論を唱え、昨年はズ

バリ『保守派 VS 改革派――中国の権力闘争』を出して、 一部のひんしゅくを買った。 しかし、最近になって、私などが観測してきたスジが当たっていたことを示す資料が届き、

大いに自信を強めることになった。その証拠とは『歴史的潮流』(中国人民大学出版社、九

二年四月)という本にほかならない(『読売新聞』6月 3 日)。 この本の胡績偉論文は積極的改革派の保守派に対する弾劾文であり、舞台裏の事情が手に

取るように分かる。胡績偉は一九一六年生まれの七十六歳。 胡績偉が見た保守派主導の宣伝の数々 文化大革命前に『人民日報』副編集長、文革後の七七~八二年同編集長、八二十八三年社

長を務め、天安門事件以後、全国人民代表大会常務委員を解任された人物である。胡績偉

はマスコミ人であるから、新聞編集のプロである。そのプロの批判する保守派主導の宣伝

の手口はこうであった。 1.胡績偉ら全人代常務委員たちが提唱して「破産法」や「企業法」を作ったときに、保守

派から「社会主義経済の大黒柱を崩すもの」と非難された。 2.保守派は「社会主義の平和的転覆は経済領域から起こる」として、経済改革に反対し続

けた。 3.昨年春節に鄧小平が上海の「皇甫平論文」を起用して改革開放の加速を図った際に、保

守派は『求是』(九一年九期、十六期)などで「ブルジョア思想の政治上の代表者」の言い方

で鄧小平その人を弾劾しようとした(私は趙紫陽批判の文脈に鄧小平批判を読みとったこ

とがある)。 4.『人民日報』九一年九月二日社説に保守派は「姓資姓社」を挿入した。 5.非公開の『内部情況』(九二年二月十八日号)で、「姓資姓社」論をあいまいにする者は「ゴ

ルバチョフ・エリツィン派のイエスマンだ」とこきおろした。 5.中央委員会理論誌『求是』の広告(九二年二月十五日付)は一段四分の一にすぎないが、

天安門事件以後保守派の作った『当代思潮』のそれ(二月二十日)は、『求是」の三倍のス

ペースであった(たしかに調べて見ると、胡績偉の指摘する通りである)。 6.鄧小平の深セン視察のルボは、改革派の牛耳る『深セン特区報』(一月二十六日付)に掲載

されたが、北京の多くの新聞は三十日にこれを転載した。しかし『人民日報』がこれを転

載したのは翌三十一日であった。 メディアがいまやイデオロギー闘争の場に 胡績偉論文からいくつかの事実を挙げた。これら一つひとつは、小さな措置にすぎないが、

この種の積み上げが「イデオロギー戦線」の日常の仕事である。胡績偉ら改革派なきあと、

保守派主導のもとでいかなる紙面作りがあったかを『人民日報』OB は見ている。 胡積偉は保守派を非難する際に、「左翼の権威」「あの理論家」などと書いており、名指し

して非難してはいない。しかし、「あの理論家」は『人民日報』九一年十月二十三日の論文

で、などと書いているところから、これが Deng 力群を指すことは明らかだ。私は胡績偉

論文を読んで、天安門事件以後の保革抗争という分析視角が正しかったことに自信をもつ

とともに、改めてチャイナ・ウォッチャーの観察ポイントを教えられた気がする。 それはあまりにも平凡だが、最も基本的な事柄である。たとえば雑誌の内容だけでなく、

たとえば「広告の大きさ」まで読むこと、改車派のルポが載ったら、それをどの新聞が何

日遅れで転載したかを調べること、云々といった実にさまつな事実にまで目を光らせるこ

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とである。これらの観察がいつも役に立つとは限らないが、これら一つひとつがイデオロ

ギー闘争の決戦の場になっていることを胡績偉論文は教えてくれた。こうした作風こそが

いまやほとんど形骸化・空洞化した「社会主義を守る」守り方であり、展望なき社会主義

のありようを最もよく示しているわけだ。

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『政経かながわ』1992 年 9 月 15 日

規定方針だった中韓国交

中国と韓国の国交樹立ほど意外性に乏しいものはない──これがニュースに接

した際の私の実感であった。こうした冷たい受け止め方はマスコミのはしゃぎ

ぶりと対照的だが、一つは私自身の認識の問題、もう一つはマスコミのあり方

である。

私はソウルオリンピック直前の一九八八年六月、韓国の某財閥系企業に招かれ、

中国問題と日中経済協力について講演をした。スポンサー側は、こう謝辞を述

べた。「あなたの話は面白かったので、韓国政府当局者にも伝えておきましょ

う」。官民一体で「北方外交」に取り組んでいることの一端がよく理解できた。

翌一九八九年九月、私は別の財閥系企業に招かれ、ふたたび韓国で講演をやり、

懇談した。翌九〇年の北京アジア競技大会における中韓両国の友好ぶりは、す

でに国交寸前であった。このとき(九〇年九月)韓国は旧ソ連と国交を樹立し、

中国との間でも貿易代表部の相互設置を決めた。

九〇年一二月、私は韓国の初代貿易代表部代表として赴任する直前の盧載源大

使と都内で懇談した。同氏はカナダ大使まで務めた生粋の外交官であることが

分かった。貿易代表部は事実上の「大使館」であろうという私の推測は裏付け

られた。旧ソ連と中国との違いはなにか。中国は台湾問題を抱えていること、

また北朝鮮への義理立てから正式国交を延ばしていたにすぎまい、と私は分析

した。しかし、九一年秋に南北朝鮮が国連に同時加盟したことによって、もは

や北朝鮮への義理立ては不要になった。

──私は一年前から潮流をこのように見ていたので、ニュースに接して、地下

水脈が単に浮上したと感じたにすぎなっか。

マスコミもむろん、私がいま書いた程度のことは、折りに触れて報道してきた。

だから東アジア担当者にとっては、常識の属する類のものであろう。しかし、

ここがマスコミの特徴なのだが、この種の「大事件」の場合には、なるべく「大

事件」として扱った方が読者からも、社内的にも歓迎されるらしい。

「大事件」への兆候を細かくフォローし、丹念に報道するよりは、「大事件」

に便乗して、大いに紙面を賑やかにする煽情主義の方が「商品としてのマスコ

ミ」にとって求められる姿であるらしい。

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平常の丹念な報道における怠慢、大事に際しての煽情主義──これら二つの点

でマスコミには問題がある。しかし、いささか自嘲すれば、マスコミがもし過

不足なく国際問題を報道しているのならば、私のようにな研究者の出番はなく

なるはず。つまり、もちつもたれつのくされ縁かもしれない。

外交関係に先立って韓国の大企業は、各社揃って中国事務所を設けていたが、

当初は「アメリカの市民権を得た韓国人」を派遣したことがある。トラブルが

生じた際の対策として、中国政府が認知していない「韓国公民」の代わりに「ア

メリカ公民」の立場で権利を保護しようとしたものである。外交関係が樹立さ

れた以上はこの種の懸念はもはや不要である。今後、韓国の対岸山東省との経

済協力は、急速に展開されていたことはいうまでもない。

要するに、私はあまりにも早くから韓国側の北方外交の一端に触れていたため

に、それが現実化したときには、もう新鮮さを感じなくなっていたのであろう。

問題はつぎの展開である。東アジアの冷戦構造の解体はいよいよ最終局面に入

り、日朝国交樹立によって完成するまであと一歩である。

こうした環渤海経済圏の動向を横目でにらみながら、私はさる八月に広州市で

開かれた「華南経済圏と日本」と題するシンポジウムに出席し、珠江デルタ地

区の経済発展の実情を調査、見聞した。ほとんどバブル経済的活況ぶりは八月

初めの深市の株式申し込み騒ぎにその一端がよく現れている。鄧小平の視察コ

ースを逆行して、私は広州から珠海経済特区までハイヤーを飛ばした。珠海ロ

ード一三〇キロの沿線風景は、印象深いものであった。九七年の香港返還が間

近になり、「大香港圏」構想が浮上している。「香港・深・珠海の三者」を経

済的、金融的に一体化し、この大香港と珠江デルタの間に境界を設けるのが適

当だという考え方である。一方で香港ドルの通貨価値を保持しつつ、他方で香

港ドルの流通圏を拡大するには、経済活動の実態に見合った境界が必要だから

だ。

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神奈川政経懇話会、1992 年 10 月 15 日

自助努力促す対中協力を

日中国交正常化二〇周年に当たり、さまざまの形の記念行事が行われている。

ここでは国交正常化に先立つ二〇周年を加えた日中四〇周年の経済成長を比較

してみよう。日本と中国の貿易総額を比較すると、五〇年代すなわち日本がま

だ高度成長段階に入らず、中国が建国の意欲に燃えて奮闘していた時期には、

中国の貿易額は日本を一〇〇として六〇の水準にあった。しかし、中国はその

後大躍進政策、人民公社化に失敗し、経済危機に陥った。この経済危機は政治

危機に転化し、まもなく文化大革命が始まった。こうして中国の貿易規模は六

〇年代平均で見ると、日本の五分の一に激減し、七〇年代には実に十分の一程

度にまで激減した。いうまでもなく、日本が高度成長するなかで、中国経済は

停滞していたために、両者の格差が極端に開いたものである。一方は高度成長、

他方は経済危機と戦争準備体制という明暗のなかで、両者の差が決定的に開い

たわけである。

鄧小平時代になると平和経済に転換し開放政策が行われ、中国の貿易規模は八

〇年代前半は日本の五分の一弱、後半は五分の一強に回復した。

現在の時点で日本にとって対中国貿易は四%台を占めるにすぎないが、中国か

ら見ると、対日本貿易のシェアは二割台である。

つぎに日本と中国のGNPを比較してみよう。中国当局は一九七八年以降のG

NPは公表しているが、それ以前については公式数字が得られない。そこで、

独自に試算してみた。『中国統計年鑑』にはGNPと国民収入(中国流の国民

所得概念)の双方が示されているので、両者の関係を調べて見ると、GNPは

国民収入と比べて、一・一九~一・二三倍である。これをパラメーターとして

中国の国民収入からGNPを推計すると、人民元表示の推計数字が得られる。

これを元・米ドル交換レートで換算すると、米ドル表示の数字がえられる。比

較数字はさまざまの事実を物語る。

日本が敗戦で焼け野原になった当時は、中国のGNPを百として日本のそれは

六割程度にすぎなかった。しかし、日本の戦後復興は速やかで六〇年ごろには

中国の規模に近づいた。ここで明暗が分かれる。日本は高度成長を続けたのに

対して、中国は前述のような混乱が続いた。その結果、六八年に日本は中国の

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二倍になり、二〇年前の日中国交正常化当時は約三倍、七七年四倍、八五年五

倍と格差が開き、現在は約一〇倍である。

二〇年前、中国が賠償放棄を宣言したとき、今日のように経済力格差が開くこ

とを予想した者は、おそらく日中双方を通じて皆無ではなかったか。周恩来は

ソ連「社会帝国主義」との戦争の脅威から、対米緊張緩和、日中国交正常化を

急いだわけだが、その「社会帝国主義」はすでに崩壊している。

歴史の非情さを痛感しないわけにはいかない。

周知のように、日中国交正常化行事、とりわけ天皇訪中をめぐってさまざまの

議論が行われているが、戦争の傷跡は百年、すなわち三世代は消えないと観念

したほうがよい。さまざまな後遺症は不可避である。ここで肝要なことは、い

たずらに傷跡をほじくるよりは、前向きのビジョンを構想することであろう。

二一世紀の日中関係、東アジア世界の経済発展と経済協力のための具体的方策

が必要である。日中両国の経済力格差がこのように大きく開いたままでは、良

き隣人関係を作ることはきわめて困難である。

日本として積極的な経済協力を行うことは当然必要だが、何よりも自助努力が

第一である。この意味で中国側が大いに発憤して、経済発展を図ることを期待

しないわけにはいかない。幸い春の鄧小平「南方談話」以後、改革開放の加速

は進んでおり、いまはむしろ経済の過熱が懸念されるほどである。むろん一方

では過熱なのに、他方ではまだ天安門事件以後の底冷えから脱却していないと

ころもある。大国の舵取りはまことに難しい。いま保守派の策定した六%成長

論を否定し、一〇%高度成長への軌道修正が行われており、また行政機構の簡

素化も試みられている。第一四回党大会の市場経済論、改革派中心の指導体制

が望まれるのは、以上のような文脈においてのことである。

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神奈川政経懇話会、1992 年 11 月 15 日

両極切った中国の党人事

党大会が終わった機会に政治局と中央委員会の新指導部人事を分析してみよう。

第一の特徴は左右の両極を切り落としたことである。すなわち経済改革に最も

積極的であった趙紫陽グループ(趙紫陽、胡啓立、閻明復、ゼイ杏文)の名誉

回復はならなかった。天安門事件で失脚した四名のうち、胡啓立が中央委員に

なっただけで、他の三名は政治局、中央書記処はむろんのこと、中央委員にさ

え選ばれなかった。これは保守派が趙紫陽グループの復権に猛烈に反対したた

めと見られる。同時に天安門事件以後の引締めムードのなかで、保守派を代表

してきたイデオローグたちも排除された。たとえば高狄(人民日報社長)、王

忍之(中央宣伝部部長)、賀敬之(文化部部長代理)、何東昌(国家教育委員

会副主任)らである。これらのイデオローグを改革派が猛烈に攻撃した。こう

して両極を左右から相互に切り合った結果、まんなかが残った形である。人事

は往々このケースが起こりがちである。第二の特徴は、中央委員会に占める解

放軍勢力の台頭である。中央委員一八九名のうち、解放軍の中将、少将は四四

名含まれ、全体の二三・三%を占める。一三期と比べて約四割強増えている。

三総部など解放軍中央から二三名、各大軍区から二一名選ばれている。北京軍

区、瀋陽軍区、広州軍区など重要軍区からは各四名、蘭州軍区から三名、済南

軍区、南京軍区、成都軍区から各二名という構成である。鄧小平時代の一〇余

年、ほぼ一貫して解放軍勢力を押さえて、経済建設優先の人事を進めてきたが、

今回の「最後の人事」で、解放軍が勢力を誇示するようになったことは、なに

を意味するのか。ポスト鄧小平に備えて、解放軍による秩序維持を図ろうとし

ていることを示唆するのかもしれない。政治局には常務委員として劉華清(軍

事委員会副主席)が、ヒラの政治局委員として楊白冰が入った。劉華清は解放

軍の軍令部門の代表である。楊尚昆の実弟楊白冰をしりぞけて常務委員会入り

したのは、楊兄弟に対する解放軍主流派の反発を示していよう。つまり、武力

鎮圧は楊尚昆兄弟による総政治部系統に頼り、今後の近代化は軍令部門でとい

う両刀使いが鄧小平の操縦術かもしれない。特に、楊白冰が軍事委員会のポス

トを失った事実が注目される。しかし、その意味はいま一つよく分からない。

第三は地方勢力の大幅な進出である。各省レベルを代表する中央委員は平均各

二名(概して、省書記と省長)である。省レベルの一級行政区は三〇あり、こ

れで六〇名になる計算だが、一部の地域には三~四名の中央委員をもつところ

もあり、結局省レベルを代表する中央委員は六四名(三三・八%)になる。政

治局入りしたのは、北京市長陳希同、天津市書記譚紹文、上海市書記呉邦国の

ほか、広東省書記謝非、山東省書記姜春雲である。北京、天津、上海の三大直

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轄市から政治局に入ることは、ほぼ慣例化しているが、広東省と山東省から政

治局入りしたのは、今回が初めてである。両省とも、経済改革を積極的に進め、

経済発展において目ざましい成果を示しており、その治績が評価されたもので

あろう。こうして解放軍パワーと地方パワーが際立っている。第四に国務院各

部・委員会は四一あるが、その部長、委員会主任はほとんどが中央委員である

点は、慣例と変わらない。国務院関係の中央委員は四五名(二三・八%)であ

る。第五に、中共中央の直属機関代表をみると、中央書記処書記、中央宣伝部

部長、中央組織部長など党中央の関係者が一七名(九・〇%)である。党政を

兼ねている人物をどちらで数えるかによって、人数は異なるが、おおまかに分

類すると、以上のようになる。そして最後に、全人代、科学者などその他グル

ープが一九名(一〇%)になる。

結局、江沢民・李鵬体制は動かさず、改革派および中間派を大幅に加えること

によって、活性化させる戦術を選んだ。二〇名の政治局メンバーのうち新顔が

七割を占める。二〇名のうち、七名が常務委員会メンバーであるが、新顔は朱

鎔基、劉華清、胡錦涛の三名である。朱鎔基は鄧小平の強力な推挽によるもの、

胡錦涛は宋平の組織担当を継承する。ところで、国家主席、全人代委員長、政

協主席、これら三ポストは九三年春の全人代で埋めなければならない。ポスト

鄧小平人事はまだ半分しか終わっていない。

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神奈川政経懇話会、1992 年 12 月 15 日

楊家将めぐる軍の人事

中共中央軍事委員会のポストを剥奪された楊白冰(前軍委秘書長、現政治局委

員)がクーデタを準備か、といった物騒なニュースが紙面に躍った。これはむ

ろん、香港一流の観測気球にほかならない。鬼面人を驚かす記事を掲げれば、

中南海は当然それを否定する。その否定のやり方から、問題の所在を探ろうと

するお決まりの作風である。私は本誌前号でこう書いた。「政治局には常務委

員として劉華清(軍事委員会副主席)が、ヒラの政治局委員として楊白冰が入

った。劉華清は解放軍の軍令部門の代表である。楊尚昆の実弟楊白冰をしりぞ

けて常務委員会入りしたのは、楊兄弟に対する解放軍主流派の反発を示してい

よう。つまり、武力鎮圧は楊尚昆兄弟による総政治部系統に頼り、今後の近代

化は軍令部門でという両刀使いが鄧小平の操縦術かもしれない。特に、楊白冰

が軍事委員会のポストを失った事実が注目される」と。

楊白冰なきあと、中共中央軍事委員会がどのように変化したのかを見てみよう。

軍委主席は江沢民だが、これは党の総書記としてトップを兼任しているだけで

あり、実権はまったくない。したがって、軍委の事実上のトップは劉華清であ

る。抗日戦争期には鄧小平が政治委員を務めた一二九師団(第二野戦軍の前身)

に属していた。建国後は旧ソ連海軍学院に留学し、中国海軍の近代化に務めて

きた。ナンパー・ツー張震は新四軍、華東野戦軍、第三野戦軍に属し、最近は

国防大学校長として後継者養成に当たっていた。つまり軍委のトップ二人は第

二、第三野戦軍代表というわけである。軍委委員は遅浩田、張万年、于永波、

傅全有の四人である。遅浩田は第三野戦軍のある中隊指導員を務め、「四人組」

粉砕当時、北京軍区副政治委員、八七年すなわち天安門事件前に総参謀長にな

り、同時に軍委委員に昇格した。今回は国防部長候補である。張万年は第四野

戦軍を経て、天安門事件当時広州軍区司令員であったが、戒厳令支持表明が遅

く、事件後済南軍区司令員に格下げされていた。于永波は第四野戦軍、抗米援

朝志願軍を経て、八四年総政治部副主任、天安門事件以後は楊白冰主任のもと

で働いてきた。傅全有は第一野戦軍、抗米援朝志願軍を経て、成都軍区司令員

であったが、天安門事件以後蘭州軍区司令員に格下げされていた。四人の軍委

委員のなかで、特に注目されるのは、張万年、傅全有の返り咲きである。副総

参謀長のうち楊白冰に近いと見られた王海(空軍司令員)が解任され、劉華清

の腹心・李景海軍副司令員が抜擢されている。もう一つ注目されるのは、総政

治部に王瑞林が副主任として入ったことの意味である。王瑞林は副総理弁公室

秘書、軍委主席弁公室主任、中共中央弁公庁副主任として一貫して鄧小平秘書

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を務め、現在も鄧小平弁公室主任、解放軍紀律検査委員会書記を兼ねている。

鄧小平のお目付け役である。

一連の人事から、解放軍は天安門事件以後の総政治部主導による「治安回復、

改革開放の護衛船団路線」から、総参謀部主導の「装備の近代化による解放軍

の近代化路線」に戻ろうとしているように見える。解放軍はすでにポスト天安

門事件体制から離脱しつつあるわけだ。この点で党中央がまだ江沢民・李鵬体

制から脱却しえていないのと対照的である。解放軍の変身の契機は、一つは湾

岸戦争である。軍令部門の指導者にとって湾岸戦争の教訓はきわめて深刻であ

った。彼らは経済の近代化を通じてしか実現できない軍の近代化の必要性を痛

感させられた。もう一つは、天安門事件以後、軍の主流に躍り出た楊尚昆・楊

白冰兄弟のいわゆる「楊家将」への反発である。「七人の上将」による書簡が

戒厳令に反対したのはよく知られているが、今回の党大会人事に際しては、「一

二人の上将」が書簡を書いて、楊家将パージを主張したと伝えられる。人脈と

しては、楊ファミリーの排除だが、その政治的主張は「解放軍は本来の任務に

帰れ」である。党軍体制の強化よりは、軍の近代化を急げ、である。問題は、

鄧小平と楊尚昆・楊白冰兄弟の関係であろう。楊尚昆は所詮鄧小平家の大番頭

にすぎず、ポスト鄧小平期に権力を振えるような器ではない。しかし、楊白冰

はまだ若く野心があろう。今回の楊白冰問題は、ポスト毛沢東期の林彪事件を

想起させるが、真相はまだまだヤミの中である。

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市場経済が本格化の中国 1993 年 1 月号 世界の孤児ベトナムの顔 1993 年 2 月号 波乱避けられる米中関係 1993 年 3 月号 中国流の政経分離の矛盾 1993 年 4 月号 現実味ない中国経済展望 1993 年 5 月号 甘え許されぬ中国の成長 1993 年 6 月号 楊の護衛船団が江に一矢 1993 年 7 月号 完成近い貿易基地・図們江 1993 年 8 月号 中国金融混乱に約法 3 章 1993 年 9 月号 中国に送ろう開放の陽光 1993 年 10 月号 不幸招く中国の報道規制 1993 年 11 月号 完成期の中国・脱社会主義 1993 年 12 月号

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神奈川政経懇話会、1993 年 1 月 25 日

市場経済化が本格化する中国

一九九三年は中国のいわゆる社会主義市場経済が本格的にスタートする年であ

る。年頭に当たり、中国経済の実情を見ておこう。まず一九九二年のパフォー

マンスはどうか。中国国家統計局の試算によると、九二年のGNPは二兆三四

〇〇億元であり、実質成長率で一二%の伸びであった。鄧小平の成長加速論も

あずかって、かなりの高度成長である。社会の総需要と総供給は基本的に均衡

しているものの、「消費財の供給は需要を上回り、一部の生産手段の供給は不

足気味である」と過熱傾向が指摘されている。第一次産業の実績を見ると、つ

ぎのごとくである。農業の付加価値(原文=増加値)は、五六〇〇億元で九一

年よりも三%増え、安定成長を示した。食糧は四・四二五億トンで九一年より

七三〇万トン増えた。綿花は干害や虫害のために一割程度減産した。油料作物

はやや減産したが、製糖作物(サトウキビやビート)、葉煙草、麻類、果物、

野菜は増加した。肉類(豚、牛、羊)は二八六〇万トンで約五%増、水産物は

一四六〇万トンで八%増である。第二次産業(工業、建築業)の付加価値は一

兆一〇〇〇億元を超えて、九一年よりも約一九%成長した。第二次産業の付加

価値はGNPの六割以上を占めている。第三次産業の付加価値は六六〇〇億元

であり、九一年よりも九%以上増えた。内訳を見ると、商業、飲食業、郵電通

信、金融保険、不動産なども発展した(『人民日報』一九九二年一二月三一日)。

九二年の実績は全体として満足すべきものと評価できる。では九三年の見通し

はどうか。国家計画委員会のエコノミストは、九三年の中国経済は「いぜん高

度成長するが、マクロ経済の環境はよりいっそう過熱傾向に向かう」と予測し

ている。その根拠はこうである。まず市場の需要動向について。1)九三年の国

内投資需要はいぜん相当に旺盛だと予想される。九三年に着工される新規プロ

ジェクトが多く、建設中のプロジェクトの総規模はいっそう拡大し、繰越しプ

ロジェクト量も増えよう。一部のインフラ建設の速度を速める必要はあるが、

建設資金の需給は逼迫する可能性がある。2)消費需要は安定的に伸びよう。経

済成長につれて、都市農村の住民貨幣所得が増え、購買力は高まるが、都市の

市場では消費品の生産構造が消費需要の変化に適応できないために、購買力を

大量に吸収できる新たな消費品が登場していない。農民の収入増は相対的に農

村市場での販売難はますます広がろう。3)外国市場を見ると、輸出拡大の機会

や潜在力は大きいが、比較的厳しい要素もある。中国はすでに全方位の対外開

放の構造を形成しており、沿海地区の外向型経済と外資系企業の発展は速く、

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中国の中級以下の商品は一定の市場を確保し、輸出競争力をもっている。しか

し、西側経済の回復力は弱いので、輸入はあまり期待できない。世界経済の地

域化、グループ化の趨勢が発展し、保護貿易主義も強まるので、国際的政治経

済には不確定の要素があり、中国の輸出がどのような影響を受けるのか予測し

がたい。

次に供給側の条件については次のように分析している。1)九一~九二年の農業

生産は比較的安定していた。食糧、綿花、食用油の在庫は比較的余裕がある。

もし大きな自然災害が発生しないならば、主要農産物の供給は経済全体の成長

に対応できるであろう。2)エネルギーの供給は増えるであろう。石炭はいま在

庫がやや多く、九三年の成長も期待できる。電力発電量は九二年と比べて八%

以上増える見通しである。原油の生産量はほぼ九二年並みであろう。3)鋼材、

非鉄金属など重要原材料の生産は引続き増えるものとみられる。しかし、在庫

は減少しているので、需給調整の余地は小さくなりつつある。外国の資源の利

用、すなわちエネルギーの輸入を増やそうとする場合は、手持ち外貨の制約と

国際市場価格の制約を受けることになる。4)交通運輸とりわけ鉄道輸送のボト

ルネックは突出している。九三年は鉄道新線が投入される予定はなく、現有の

路線を利用するしかないので、困難は増すであろう。特に、山西省石炭を東部

に移出する能力を欠いているために、東部の石炭電力不足がもたらされている。

輸出需要面でも、エネルギー輸入源としても、外国の動向に眼が向いている。

すなわち市場経済と開放経済とは深く連動していることが分かる。

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神奈川政経懇話会、1993 年 2 月 25 日

世界の孤児・ベトナムの顔

旧臘ベトナムを訪れる機会を得た。一二月一日、ハノイ空港に着いたとき、滑

走路には李鵬専用機が駐機し、ベトナム国旗と中国国旗が並んで掲げられてい

た。偶然だが、李鵬訪越(一一月三〇日~一二月四日)と重なった。ベトナム

にとって中国の影は、由来とてつもなく大きいのだが、今回は否応なしに中越

関係の一端を垣間見ることになった。空港からハノイ市内への入口でまずソン

コイ河(紅河)にかかる大きな橋を渡る。出迎えた同研究所の所長代理氏がさ

りげなく言う。「昇竜橋です。李鵬首相も渡りました。元来は中国援助で作り

始めたものですが、中国が援助を中止したので、ロシアから援助を受けて完成

しました」。李鵬を迎えるベトナム側の態度は、あくまでもクールであり、中

国の意図に警戒しつつ、表向き歓迎といった態度であった。李鵬のホーチミン

市訪問の目的は元来は、中国総領事館開設(ベトナム側は広州を予定)のため

であったが、ベトナム側の警戒心のゆえに、相互開設が先送りされたことは今

回の李鵬訪越の限界を何よりも雄弁に物語っている。

ベトナム外務省付属の国際関係研究所を訪問した際、ベトナム側はまず越中関

係を説明した。九一年一一月に国家関係を正常化した。一定の成果はあったが、

困難もある。たとえば国境での密輸は大きな問題だ。トンキン湾、西沙、南沙

諸島の国境問題は歴史が残した問題だが、最近、ネガティブな出来事が発生し

ている。これはむろん、中国がベトナム領海との係争地域に跨がる石油鉱区を

米クレストン社に譲渡したことを指すが、この問題に対するベトナム側の表情

はきわめて厳しく、国境での密輸問題と合わせて、中国への不信感を露骨に示

した。

ついで越米関係。米国と正常化が遅れているのは、いくつかの要因による。米

国の保守派指導部はベトナム・シンドロームに患っている。行方不明米兵や戦

争捕虜の問題がある。ベトナム問題が米国の政治的課題のなかで小さな位置し

か占めていないことも要因の一つだ。クリントン政権は米国の産業界の利益の

ために対越政策をより積極化する可能性があるが、他方国内問題に忙しく、ベ

トナムというセンシティブな問題には手をつけない可能性もある。越日関係。

九一年の越日貿易は八・七億ドルである。輸出品目は原油、米、冷凍エビでど、

輸入品目は機械設備などである。直接投資はECのシェアが一五%であるのに

対して、日本のシェアは五%で小さい。当方の質問に対して、対ロシアの経済

関係は最も低調、九一年には貿易協定も実施されなかったと指摘するとともに、

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カンボジア問題については、早く「悪夢」を忘れたいといった趣旨の説明があ

った。

科学アカデミー・アジア太平洋研究所では、ファン・フウ・バオ日本研究課課

長、グェン・ドック・スー教授と会った。ファン博士はモスクワ滞在一〇年と

いう、いかにも有能な党員官僚の風貌。その有能さを買われて新設の日本研究

組(研究所の創立は八三年、日本組の創設は九一年)の責任者になったようだ

が、日本語はできない。日本学の専門家が早く養成されることを望みたい。博

士は研究所の概要、日本研究の課題と問題点を説明したが、特に興味深かった

のは、地政学(ゲオボリティーク) を強調したことである。

いわく、ベトナムは歴史的、文化的に東アジア文化圏に属しているので、第一

に日本、香港、台湾、韓国、中国との交流を深めたい。第二に東南アジアに属

し、それゆえ東アジアと東南アジアの橋渡しができる──。東アジア文化圏と

は、漢字文化圏、箸使用文化圏にほかならない。ベトナムが一方で、漢字と漢

語起因の語彙を排斥することによって、ベトナムの主体性を確保しつつ、アジ

ア経済圏への帰属感を主張するのは面白い。漢字、漢語排斥については朝鮮半

島でも類似の現象がみられることが想起される。アセアンとの関係についてベ

トナムは当面オブザーバー参加の地位が最も望ましいと感じているようだ。ア

セアンの正式メンバーになり、親しいつきあいをやると、一党独裁体制が維持

できなくなるおそれがある。つまり体制の異なるアセアンとは、距離をへだて

た関係を構築せざるをえないし、体制の似ている中国とは国益の点から距離を

保たなければならない。これが「世界の孤児」ベトナムの今日的位相であるら

しい。

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神奈川政経懇話会、1993 年 3 月 25 日

波乱避けられる米中関係

クリントン政権下でアジア太平洋地区担当国務次官補に任命されたウィンスト

ン・ロードは、レーガン政権下で中国大使(一九八五年一一月~八九年四月)

を務めた中国通の職業外交官である。中国系米市民たるベティ・パオ・ロード

夫人との「おしどり外交」が有名であった。天安門事件当時「中国のサハロフ」

と呼ばれた方励之夫妻が北京の米大使館に匿われたが、これはロード夫人の交

遊関係でできた「友達の輪」によるところが大きかった。クリントン政権が中

国通をそのスタッフに選び、しかも国内的には経済再建を第一の課題として、

今後の政策を構築するとすれば、米中関係も基本的には波瀾を避けることがで

きると思われる。北京側はクリントン人権外交に対処するために、天安門事件

関係の投獄者をつぎつぎに釈放したし、貿易関係においても、ガット加盟を目

指して、二二%程度の関税率を一三%台まで引き下げる方向へ向かって努力す

る方針を示しており、米中は相互に相手を強く意識して布陣している。

ところでロード夫人は作家としても知られ、最新刊『中国の悲しい遺産』(早

思社、一九九二年刊)は、革命後にアメリカに亡命した著者が家族や親戚を訪

ねた経緯を描いたノン・フィクションである。亡命者が大使夫人として、昔の

母国に赴任するのは、いかにも人種のるつぼアメリカらしいやり方ではあった。

かつて旧中国ではイスラム圏には原則的に回教徒の外交官を派遣する伝統があ

った。「郷に入っては郷にしたがえ」というが、これを宗教まで含めて徹底で

きるわけだから、外交にとって最強の布陣であろう。国際関係を巧みに処理す

るには、孫子の説いたように、敵=相手をよく知るに越したことはない。そこ

で迂遠だが、二冊の本を紹介しておきたい。

一つは、ユン・チャン著『ワイルド・スワン』(講談社)である。一九七八年

秋、四川省初の欧米向け留学生としてイギリスへ旅立ち、いまも同地に住む張

戎が描いた家族三代の物語である。才色兼備の語り手によって、愛と革命の悲

劇が分析的理性的に語られており、読物として人を飽かせない。フィクション

かと思わせるほどの波乱万丈、そのまま映画の脚本になる。父の無実を母が周

恩来に直訴して「覚書」をもらい、それを一一年間も布鞋の甲に縫いつけて隠

したエピソードが際立つ。嫉妬や怨恨といった人間のどうにも止まらない弱さ

を極力利用した全体主義的権力支配の断面が白日のもとに暴かれる。

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清末から民国、満洲国、四九年革命、文化大革命を経て今日に至るまで、愛と

絶望、革命と動乱に翻弄された人々の生きざまは、中国現代史の恰好の副読本

である。現代中国の暗黒面を告発した書物は少なくないが、家族史を縦糸に、

社会主義の現実を横糸にしつつ、著者は見事な作品にまとめあげており、推奨

に値する。

達意の訳文だが、中国語音のルビには改善の余地がある。一例を挙げると、著

者の名はピンイン方式 Zhang Rong ではなく、トマス・ウェード式 Chang Jung

で表記されているから、訳書のチャン・ユンは誤りで、むしろチャン・ロンと

するのがよい。

『最後の龍──鄧小平伝』(パトリック・サバティエ著、中嶋嶺雄監訳)は、

最新の鄧小平伝として読み応えのある一冊である。惜しいことに邦訳がまずい。

鄧小平の本名は鄧先聖だが、学名は鄧希賢である。今日の「就学生」と酷似し

た「勤工倹学生」としてフランスへ旅立った際に、鄧希賢を四川語発音で Teng Hi

Hien と表記してビザを得て以後(帰国してから地下活動用として鄧小平の名を

用いるまで)、一貫してこう表記した。『最後の龍』では、原著者が「鄧希賢」

と書いた箇所がすべて「鄧先聖」と誤訳され、訳書に鄧希賢がまったく登場し

ないのは腑に落ちない。初めての外国人登録を描写した箇所では、 Hi Hien に

フランス語読みで「イー・イアン」とルビがふられている。漢字(鄧希賢)→

四川語読みローマ字(Teng Hi Hien)→フランス語読みの発音という「三段飛

び」で、鄧希賢はついに「トン・イーイアン」にされてしまった。誕生日を一

九〇四年七月一二日と記入したのは旧暦による。この日付が太陽暦八月二二日

に相当する旨の注釈も不可欠だ。手抜き翻訳、手抜き監修の見本であり、誤解

を増幅する恐れがある。

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神奈川政経懇話会、1993 年 4 月 25 日

中国流の政経分離の矛盾

さる三月中旬にオックスフォード郊外に設けられているある財団の本部で開か

れた国際会議に招かれた。これは「西側と中国との関係」を政治と経済、外交

と安全保障などあらゆる角度から検討するために、英米のほか、独、仏、伊、

カナダ、ニュージーランド、旧ソ連、韓国、日本の専門家が出席して開かれた

ものである。会議の基調報告となったのは、アメリカのアトランティック・カ

ウンシルと米中関係全国委員会が合同でまとめた「岐路に立つ米中関係」であ

る。このポリシー・レポートは、クリントン政権の発足に際して米中関係の現

状と問題点を分析し、アメリカがいかなる対中政策をとるべきか、について問

題提起を行ったものである。

この報告は実に興味深い(アメリカの外交専門季刊誌『フォーリン・アフェア

ズ』一九九三年冬号に掲載された世界銀行名誉総裁コナブル氏と米中関係全国

委員会代表ランプトン氏の共同論文『中国:未来の大国』は、このレポートの

要約である)。この報告の直接的責任者であるコナブル氏やランプトン氏の問

題提起を受けて、活発な議論が行われたわけであり、実に印象的な会議であっ

た。

中国流の政経分離の矛盾については「経済改革が政治改革に先行する」のは、

経済改革が政治改革の条件を用意するものであり、いわば「アジア型の経済発

展」モデルかもしれない、と肯定的に評価している。つまり、韓国や台湾の歩

んだ「開発独裁」の道が中国にとっても、脱計画経済、市場経済への移行の道

筋として現実的に有効かもしれぬと示唆しているわけだ。この認識の背後にあ

るのは、かつて西側が高く評価したゴルバチョフ流のペレストロイカの帰結で

ある。天安門事件当時、西側はこぞってペレストロイカを礼讃し、天安門事件

を非難した。しかし、四年後の今日、旧ソ連は混乱につぐ混乱を重ねているの

に対して、「明日はない」と予想された中国経済が活気に満ちている。この現

実を直視せよ、というのが報告の基本的状況認識にほかならない。

もう一つのポイントは、香港、台湾を含めた「大中華経済圏」の可能性を見極

めようとする態度である。もしアメリカが自国経済の再建に本格的に取り組も

うとするのならば、強い成長力をもつこの地域との積極的な経済協力が不可避

だと見るものである。現にアメリカ側の統計によると、米中貿易は昨年三〇〇

億ドルを超えて、日中貿易の二八九億ドルを上回っている(中国側統計によれ

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ば、日中貿易が米中貿易よりも大きいが、これは香港経由のアメリカ向け再輸

出を中国の輸出分から除いたことによる)。直接投資の累計額も日本の四一億

ドルに対して、アメリカは四九億ドルと上回っている。これに台湾、香港を含

めた三角関係全体とアメリカとの経済関係を含めると、ざっとこの二~三倍の

規模になる。この活発な経済圏にアメリカが積極的に参加しない理由はないは

ずだと報告は指摘する。

経済の現実を重んずる立場からすれば、「人権外交よりも経済外交を」という

優先順位にならざるをえない。つまり、人権外交が中国の政治的経済的混乱を

招けば、中国の人権状況は、意図とは逆にかえって悪化する危険さえありうる

のだ。しかし会議では少数であったが、欧米では「経済超大国・中国」への警

戒感を危惧する声も少なくない。

香港問題、台湾問題に対する強硬姿勢や国防予算の増額に対する反発は、こと

のほか強いことを中国当局は的確に認識してほしい。冷戦構造の解体以後、中

国を見る西側の目は、大きく分けて、北風派(タカ派、力の均衡論派)と太陽

派(ハト派、融合論派)の二つの潮流になるが、中国当局が北風派との対決に

傾斜するのは愚策であろう。経済協力発展のチャンスを見逃さないよう望みた

い。

会議のチェアマンをつとめたのは、元香港総督W氏であった。ラウンドテーブ

ルにならんだ四〇名弱の出席者の顔色を見渡しながら、発言時間を制限したり、

発言者の趣旨を確認したり、テーマにふさわしい者に発言を求めたり、実に見

事な采配ぶり。私はエリート階級の「知的格闘技」の一端に触れて、ノブレス・

オブリージ(貴族の義務)の意味を実感した。

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神奈川政経懇話会、1993 年 5 月 25 日

現実味ない中国経済展望

前号で中国大陸、台湾、香港からなる「中華経済圏」に触れたが、その後、関

連情報が相次いだ。一つは、世界銀行の一九九三年報告「グローバル経済展望

と発展途上国」である。この報告は、いまから一〇年後すなわち西暦二〇〇二

年に中華経済圏(CHINESE ECONOMIC AREA)のGNPが日本はむろんのこと、ア

メリカのそれを超えて世界第一位になるというきわめて挑戦的な展望を示した。

その基準は現行の為替レートによるGNP比較よりは、購買力平価を用いたG

NP比較がより妥当であるというものである。

一九九一年時点の世界の四大経済圏のGNPは、通常世界銀行によって現行市

場価格にもとづいて、アメリカ五・五兆ドル、日本三・四兆ドル、ドイツ一・

七兆ドル、中華経済圏〇・六兆ドルとされている。現在の成長率で今後二〇年

間成長するとすれば、西暦二〇〇二年のGNPはアメリカ九・九兆ドル、日本

七・〇兆ドル、ドイツ三・四兆ドル、中華経済圏二・五兆ドルになる計算であ

る。周知のように、近年の中国人民元の値下がりは著しいものがある。そこで

為替レートによる換算の代わりに、もっと適当なモノサシとして世界銀行が提

起した基準がICPすなわち International Comparison Project である。この

ICP(国際比較のための標準価格)をベースとして四大経済圏のGNPを評

価すると、つぎのような数字が得られる。すなわち九〇年の時点でアメリカ五・

四兆ドル、中華経済圏二・五兆ドル、日本二・一兆ドル、ドイツ一・三兆ドル

となる。つまり現在の時点で、中華経済圏はすでに日本を上回っていると見て

いる。なぜこのような数字になるのか。一つは、中国大陸のGNPに対しては

実質購買力を考えて三~四倍に評価する反面、日本のGNPに対しては、同じ

く実質購買力を考えて割り引くからである。ここで推論の一つの根拠になって

いるのは、日本と中華経済圏の輸入額である。すなわち中国、台湾、香港の輸

入額はそれぞれ七〇〇~一〇〇〇億ドルの規模であり、合計すると日本の輸入

規模の三分の二程度に迫っている。そして輸入の伸び率から推論すると、一〇

年後には、これら三者の輸入規模が日本のそれに追いつくというものである。

このモノサシを一〇年後にあてはめると、中華経済圏九・八兆ドル、アメリカ

九・七兆ドル、日本四・九兆ドル、ドイツ三・一兆ドルという予測が得られる。

つまり二一世紀の初頭にはすでに中華経済圏のGNPが実質的な意味で世界一

になるという展望である。

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この見通しはどの程度に現実性があるだろうか。先進国の相対的に低い成長率

と中華経済圏の高い成長率という現在の成長率格差をそのまま延長すれば、こ

のような数字が得られるという話であり、このような見通しを展開するのは、

この地域の経済の活力に注意を向けさせようとする者の誇張した表現であるこ

とは明らかである。この展望が実際に実現されるためには、経済の分野におい

ても、政治の分野においても大きな課題がいくつもある。しかし、かりにこの

見通しがほぼ実現されるような状況が生まれたとしたら、アジアや世界はどう

なるであろうか。アジアにおいては、中華経済圏と日本経済圏の関係、両者と

他のアジア地域との関係がどうなるかが問題であり、世界的には、北アメリカ

経済圏(米国・カナダ・メキシコ)とEC経済圏との関係がどうなるか、とい

う問題がある。

後発の中華経済圏が先進地域に追いつくというだけの単純な形にはおそらくな

らない。先進地域は追いつかれまいと努力して、さらに前進するはずであり、

そこでは先進・後進の複雑な競争と協調が展開されよう。

四月末にシンガポールでリー・クワンユー前首相の斡旋で中国の海峡両岸関係

協会会長汪道涵と台湾の海峡交流基金会会長辜振甫との会談が行われた。これ

は政治体制のカベを越えて、事実上形成されつつある中華経済圏の実務レベル

の協力関係をよりスムーズに行うための障害除去にねらいがある。このような

形での経済的基盤を整えたうえでの政治的交渉だけが台湾問題解決への着実な

道筋になろう。いま香港九七年問題で英中双方が激しく対立しているが、もし

経済発展を前提として問題を考えるならば、解決は困難ではないはずである。

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神奈川政経懇話会、1993 年 6 月 15 日

甘え許されぬ中国の成長

世界銀行の一九九三年報告「グローバル経済展望と発展途上国」が中国・台湾・

香港からなる中華経済圏が一〇年後すなわち西暦二〇〇二年にアメリカのGN

Pを超えて世界第一位になるというきわめて挑戦的な展望を示したことは、先

月紹介したが、IMFの『世界経済展望』(ワールド・エコノミック・アウト

ルック)も、この世界銀行の見解を受入れ、購買力平価(PPPすなわち

purchasing-power parities )に基づいた再評価を試みている。この購買力平

価方式によれば、世界のGNPに占める発展途上国のシェアは、為替レート方

式による場合の一八%から三四%に増える。旧ソ連と東欧のそれは九%から一

一%へ増えるが、増え方は小さい。他方、世界経済に占める先進国のシェアは、

為替レート方式の七三%から五四%に縮小する。こうして九〇年の世界のGD

Pシェアは、先進国五四%、発展途上国三四%、旧ソ連東欧一一%という構造

になる。

実は購買力平価方式の元祖は、国連の「国際比較プログラム」(ICP

International Comparison Program)である。世界銀行もIMFの国連方式を

援用したにすぎない。なぜ購買力平価が急に浮上したかについて、イギリスの

『エコノミスト』(九三年五月一五日号)は、つぎのようなエピソードを紹介

している。為替レートによって計算したところ、日本を除くアジア経済のGN

Pが世界経済に占めるシェアは八五年には七・九%であったが、九〇年には七・

二%に縮小していた。八〇年代後半は、アジア経済がいちじるしい高度成長を

示したにもかかわらず、そのシェアが逆に小さくなるのは為替レート方式の矛

盾を示すという。いうまでもなく、これは主として中国の人民元の対米ドル交

換レートがこの間に急激に安くなったからである。もし貿易される工業産品の

価格がどの国でも同じだとすれば、各国の賃金は生産性によってきまるから、

生産性の低い国では賃金も低くなる。ここで工業製品の賃金の低い国では、貿

易されざる商品の生産者の賃金も低く計算されてしまう。貿易されざる商品は

概して貿易商品よりも、国ごとの生産性格差は小さい傾向がある。現実に貿易

が行なわれる商品については為替レートによって比較することに意味があるけ

れども、非貿易商品に対して為替レートというモノサシを適用することは妥当

ではなく、過少評価を避けるモノサシが必要だというのである。

こうした考え方に基づいて、IMFは九二年の中国GDP二兆ドル、一人当り

一七〇〇ドルと評価し、世界銀行は九二年の中国GDP二・八七兆ドル、一人

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当り二四六〇ドルと評価し直したわけである。中国はIMF推計では三七〇ド

ルから一七〇〇ドルへと四・六倍に増え、世界銀行推計では三七〇ドルから二

四六〇ドルへと一挙に六・六倍に増えたことになる。ちなみにタイの一人当り

GDPは為替レート方式の一七八〇ドルから五五八〇ドルへと三倍に増えてお

り、マレーシアは二九八〇ドルから七一一〇ドルへ二・四倍になった。韓国は

六七九〇ドルから八六三五ドルへと一・三倍にとどまる。フィリピンは八二〇

ドルから二四〇〇ドルへ二・九倍である。IMFのこのような発表に対して、

中国外交部スポークスマンは五月二四日、「中国のGDPを高く計算しすぎて

いる」とするコメントを発表し、「一人当りGDPを中進国レベルにするには、

まだ長期の努力が必要だ」と説明した。顧みると、天安門事件当時は、中国の

立ち遅れに危機意識が集中し、「球籍」が危ういとする議論がにぎやかだった。

いまや、この貧困コンプレックスから脱却できるのは、晴れがましいかぎりだ

が、他方、とまどいも隠せない。

これは一種の「ほめ殺し」ではないかという気分が中国側に残るようである。

一つは、中国の一人当りGDPが中進国になったのならば、援助対象国から外

そうという議論にならざるをえない。またGNP大国であるからには、特に公

害問題などで大国としての応分の責任を果たしてもらう必要がある。現に中国

はすでに核大国であり、国連安全保障理事会の常任理事国(拒否権をもつ)で

ある。これまでは政治的には大国として行動しつつも、経済面ではGNP小国

として援助受入れ国であった。そろそろ援助受入れ国からの卒業が近いわけだ。

GATT加盟は、経済大国中国を世界市場にビルトインするうえできわめて重

要なステップになろう。

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神奈川政経懇話会、1993 年 7 月 15 日

楊の護衛船団が江に一矢

鄧小平氏は八月二二日に満八九歳になる。「マルクスに会う」時期がいつ来た

としても不思議ではない状況である。そういう段階なので、アテコスリの「影

射史学」がはびこることになる。その一つを紹介したい(『読売新聞』六月二

七日原義明特派員電参照)。

中国共産党北京市党委員会の機関紙『北京日報』(九三年六月二三日付)が呉

宗国・北京大学歴史系教授の「玄宗皇帝の治国の策と唐朝の盛衰」と題したエ

ッセイを発表した。開元、天宝時代(七一三~七五六年)は中国古代の黄金時

代と呼ばれる。大量の開墾が行なわれ、一戸当り四ヘクタールの耕地になり、

戸数は一三〇〇万戸、人口は約八〇〇〇万人になった。一人当り食糧は約三五

〇キロになった。これは天の時、地の利、人の和によるが、とりわけ玄宗皇帝

の役割が大きい──これは鄧小平の改革開放の一〇余年時代をイメージさせる。

つまり、ここで「玄宗」とは、鄧小平である。以下、隠喩の箇所にはアテコス

リの人名を入れて読んでみよう。

〔玄宗は〕即位前に韋后党羽〔四人組〕を滅ぼし、即位以後は大平公主の党〔華

国鋒派〕を除き、ついに武則天〔毛沢東〕末年以来の頻繁な政変の局面を終わ

らせた。〔中略〕〔玄宗の抜擢した〕宰相李林甫〔江沢民〕は経学歴史の知識

に乏しく、重要な措置を実行するうえで理論的導きを欠き、歴史から教訓を学

ぶこともしなかったので、重大な誤りを招いた。特に重大なのは軍事制度上の

措置である。ここで「軍事制度」を論じている点が問題の核心であろう。いわ

く──

唐初には府兵制を実行し、兵府の大部分を長安と洛陽付近に集中し、中央政府

は地方政府を有効に統制し、対外戦争を行なうことができた。開元初年に国境

防衛のため、節度使を設けたが、兵士は府兵が交替して担当した。開元二六(七

三八)年に、国境防衛兵を召募に改めたので、徴兵制度から職業兵に変わった。

節度使手下の兵力は四九万人に増えたが、中央近衛軍は七、八万人にすぎなか

った。玄宗皇帝と李林甫は国境防衛力を高めるために、「兼任、重任禁止」の

やり方を改めたので、安禄山は平廬節度使になってから一〇余年そのポストを

続け、范陽(現在の北京市)、河東(現在の山西省太原)節度使も兼任し、現

在の山西、河北、東北の広大な地区の軍隊をコントロールした。節度使に対し

てかくも大きな権力を与えながら、権力を制限する措置を講じなかったので、

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安禄山はついに反乱を起こした。これは李林甫〔江沢民〕ら中央指導者が統治

理論を欠き、歴史知識を欠いていたことと関わる。玄宗〔鄧小平〕の人材抜擢

の誤りは、安史の乱によく現れている。人事の誤りが安史の乱という悲劇をも

たらしたのだ。玄宗本人〔鄧小平〕は天宝〔天安門事件〕以後、天下太平と考

え、政治を宰相〔江沢民〕にゆだね、国防を節度使〔劉華清、張震ら〕にゆだ

ね、長生享楽を追求した。覚めた思想を保持せず、建言の道を閉ざし、独断専

行であったことが誤りを必然化させたのだ。

鄧小平が無能な江沢民を抜擢した誤りを批判し、特に軍事制度の面で節度使の

地域割拠を許したと批判する立場に立つ人物とは誰か。いうまでもなく、九二

年秋の第一四回党大会で政治局常務委員昇格の下馬評がありながら、土壇場で

覆され、党中央軍事委員会から追放され、ヒラの政治局委員の名目的ポストを

保持するのみとなった楊白冰その人であろう。

楊白冰が軍事委員会でなぜ浮いたのか、その詳しい背景は不明だが、楊白冰が

改革開放路線の「護衛船団」のスローガンを掲げて、何をしようとしていたか

を考えると、その背景が読めてくる。すなわち楊白冰は、七大軍区(北京、瀋

陽、南京、済南、広州、成都、蘭州)を解体し、これを中央軍事委員会が直接

的に集団軍をコントロールする中央集権的軍事体制を構築することによって、

ポスト鄧小平期の政治的混乱を乗り切ろうとしていたとみられる。楊白冰のこ

の「護衛船団」構想は、楊白冰の突出を危惧する解放軍内部の反対と江沢民の

反対の前につぶれた。そして最近は、楊白冰系の『解放軍報』社長、編集長が

更迭された。こうした中で、楊白冰側が江沢民に一矢報いたのがこの論文であ

ろう。

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神奈川政経懇話会、1993 年 8 月 25 日

図們江開発を現地に見る

神奈川県日中友好協会(桶本正夫会長)の組織した環日本海経済圏視察団に参

加して、得がたい体験をした。中国・ロシア・北朝鮮にまたがる図們江開発計

画が広く知られるようになったのは、九一年一〇月に、UNDPがニューヨー

クの本部で記者会見を行い、「二〇年の時間をかけ、三〇〇億ドルを調達して」

この地域を開発する計画を発表して以来のことである。計画の推進力が中国(と

りわけ海港を持たない吉林省)であることは、周知の通りだ。北朝鮮も(真意

はともかく)雄基、羅津に六二一平方キロメートルの経済貿易区を設け、人口

百万、荷役量一億トンの港湾都市を建設する構想を明らかにし、ロシアはウラ

ジオストク地区全体の対外開放でこれに呼応した。内陸国家モンゴルも、日本

海に出るルートの開拓に期待を表明した。われわれはまず大連開発区で日系企

業「大連日清製油」「東芝大連」を、ついで中国最大の国有企業の一つたる鞍

山鋼鉄公司を見学し、遼寧省瀋陽で姉妹提携一〇周年の記念行事に参加したあ

と、長春発の夜行寝台「図們江号」で延吉に向かった。そこでは延辺対外経済

貿易委員会副主任・鄭成吉氏から概況説明を受け、さらに延辺大学を訪問し、

朴文一校長と会見した。七月一八日、延吉からバス三時間で琿春に入り、午後

は片道三時間四〇分を費やして中国国境の東端防川まで足を伸ばした。広大な

中国大陸もここでは北朝鮮とロシア沿海州に挟まれた道一筋といった狭い突端

になる。防川から一五キロ図們江を下ると、もう日本海だ。その防川には国境

を示す「土字牌」すなわち「光緒一二年四月立」の八文字を刻んだ小さな石碑

が立てられていた。朝からの強行軍にもかかわらず、夕食前に中国琿春図們江

開放開発弁公室副主任・金鉄氏から開発の現状についてヒアリングし、ついで

吉林省東北亜鉄路港口集団公司副総経理・石成相氏から鉄道建設の現状を聞い

た。

説明によると、延吉~図們は国家の鉄道としてすでに建設済みだ。図們~琿春

間六五キロは今年の九月に貫通の予定、来年すなわち九四年六月にはロシア領

のマハリノ駅(村の名はクラスキノ)まで四〇キロに鉄道がつながる。さらに

一年半、すなわち九六年末にはザルビノ港まで三一キロに鉄道がつながる。中

国側とロシア側の軌道幅は異なるので、双方が乗り入れする琿春国際貨物駅の

積替えターミナルには四本の軌道が敷設される形になる。中国ロシアの合弁会

社(出資は双方五〇%、期間五〇年、資本金一億ドル)がそれぞれの領内に建

設する。ザルビノ港建設の合弁会社は資本金一・六億ドルをロシア五一%、中

国四九%ずつ出資し、期間七〇年という。五〇年代初頭、旧ソ連は旅順租借を

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強要したが、いまは中国がロシアに租借を迫った形だから歴史は面白い。確か

に図們~琿春間はすでに敷設されており、いまは琿春から国境の長嶺子までの

建設に全力を傾注している。また琿春の経済合作区すなわち工場団地の建設も

急ピッチであり、その活気は、一〇年前の深セン経済特区の姿を彷彿させるも

のがある。われわれは長嶺子からロシア領に入る計画が挫折し、立ち往生のハ

プニングに見舞われた。中国側国境警備副隊長は「ロシア側から迎えの連絡が

あれば通すが、まだ連絡がない」という。数時間後に「迎えはきたが、もう帰

った」とロシア側からのつれない電話。この間、旅行を斡旋したジューロの宮

本社長は北京・ハバロフスク・東京に副隊長室から電話をかけて状況把握と打

開策に全力。わずか数百米先にいる出迎え担当(ロシア側)との連絡をとるた

めに、このような国際電話を幾度もかけたのであった。初日のドッキング失敗

後、翌日再度の挑戦。悪路に耐えて長嶺子に着いたところ、ロシア側の事情(停

電?)により、今日は国境閉鎖の由。万事休す。再び夜行寝台図們号にゆられ、

長春~ハルピンをチャーター・バスで急行し、アエロフロートでハバロフスク

へ飛んだ。そして夜行寝台「オケアン号」でウラジオストクまで南下後、小型

バスでスラビヤンカ港、ザルビノ港、マハリノ駅(クラスキノ)、ポシェット

湾まで足を伸ばした。今度はロシア側から中国領を望んだわけだ。「極東最大

の税関を作る」吉林省側の意欲によって、この国境が第三国を含めた国境貿易

と観光コースとして整備されるのは時間の問題だろう。そのとき今回の苦労話

は昔話になるはずだ。

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平成 5 年 9月 15 日、『政経かながわ』

金融混乱に「約法三章」

全人代常務委員会八期二次会議で中国人民銀行行長の李貴鮮を解任し、朱鎔基副総理が兼

任する人事を発令したのは七月二日である。周正慶が第一副行長兼党委員会書記に昇格し、

朱鎔基を補佐し、金融混乱の是正を行なうことになった。金融秩序が再建され、朱鎔基の

兼任が解かれるとき、行長への昇格含みであろう。郭振乾、童贈銀の両副行長は金融混乱

の責任をとって解任され、それぞれ国家審計署副審計長、国家証券委員会副主任に配転さ

れた。代わって抜てきされたのは戴相龍(前中国交通銀行総経理)、王岐山(前中国人民建

設銀行副行長、保守派の指導者眺依林の女婿)、朱小華(新華社香港分社経済部副部長)の

三名である。

特に目立つのは朱小華の抜てきである。朱鎔基の上海市長当時、人民銀行上海分行副行長

として知遇を得た。朱鎔基のはからいで国際通貨基金(ニューヨーク)で一年間研修し、

さらに香港において国際金融の実務を学んだ。朱鎔基の手足となり金融政策を執行するも

のとみられる。

混乱は不法な貸出、高金利が原因

人民銀行の指導部を一新した朱鎔基は七月一七日、全国金融工作会議を主催し、会議の総

括として「約法三章」を提起した。

①すべての不法な貸出を直ちに停止し、真剣に清算せよ。不法な貸出は期限内に回収せよ。

②いかなる金融機関も預金、貸出金利を形を変えて引き上げ(原文=変相提高)てはなら

ない。預金金利を引き上げるやり方を用いて、預金獲得戦争(原文=儲蓄大戦)をやって

はならない。貸出先からリベート(原文=回扣)を受け取ってはならない。

③銀行がみずから設立した各種経済実体(原文=各種経済実体)に貸出を行なうことをた

だちに停止せよ。銀行はみずから設立した各種経済実体と徹底的に縁切りを行なえ(『人民

日報』九二年七月十日)。

朱鎔基のこの「約法三章」から、現在の金融秩序の混乱の所在が分かる。①は「不法な貸

出」の停止と回収である。コネや職権を悪用して、銀行から短期資金を借りて、株式を買

ったり、不動産を買ったり、はては商品の先物取引をやったりする事例が昨年来急増した

ことに対する措置である。

②は預金金利、貸出金利を安定させることによって不当な競争をやめさせるとともに、高

金利によって預金を獲得し、貸出を抑制するものである。このため五月十五日に金利を引

き上げて普通預金二・一六%、一年定期九・一八%、貸出金利九・三六%としたのに続い

て七月十日、普通預金三・一五%、 一年定期一〇・九八%、貸出金利一〇・九八%に再引

き上げした。

①は天安門事件以後、停とんしていた金融改革の間隙に乗じて、銀行自身が子会社を作り、

そこに資金を流して、事業に乗り出したり、私腹をこやそうとする動きに対する処断であ

る。「各種経済実体」とは、ベーパー・カンパニーから投機会社までさまざまだが、機構改

革ブームに便乗して、会社をデッチ上げ、銀行の資金を食いものにする動きである。

マクロ統制が不動産、開発区を抑える

さて、朱鎔基の果断な人事異動と「約法三章」を好感して、人民元の交換レートは、下げ

止まり、安定化に向かった。ついで七月二十日~二十三日、全国財政工作会議と全国税務

工作会議を北京で開き、当面の緊急措置として、財政、税務部門に対しても「約法三章」

を命じた。

①税収の減免を厳格に統制すべし。勝手に減免した場合は、当時者および責任者の責任を

追及する。②財政支出を厳格に統制し、銀行へのツケ回し(原文=向銀行掛帳)を停止す

る。財政赤字は国債発行で解決すべきであり、銀行引き受けの方法を用いてはならない。 ③

財政、税務部門は今後人民銀行の許可を受けることなしに、商業的な金融業務に従事して

はならない。財政部門のもうけた各種公司、とりわけ金融的性格の公司は期限内に財政部

門と縁切りを行なえ(『人民日報』九二年七月二十四日)。

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朱鎔基の陣頭指揮下のマクロ統制によって、七月の工業生産高は対前年同月比で二五・

一%にとどまり、六月と比べて五・一ポイント落ちた。固定資産投資のプロジェクト数も

減少し、不動産や開発区ブームも熱さましが効き始めた(『人民日報』九二年八月二十日、

国家統計局報告)。年末までには過熱局画を一変させ、そこで改革開放を決定した十一期三

中全会以来十五周年の鄧小平路線の勝利を祝うもくろみである。

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神奈川政経懇話会、1993 年 10 月 15 日

中国に送ろう開放の陽光

九月二三日のIOC総会で西暦二〇〇〇年のオリンピック(五輪)開催地がシ

ドニーに決まった。国を挙げて、開催への強い意欲を示してきた中国の落胆ぶ

りは否めない。私自身は、五輪に特別の関心があるわけではないが、一九六四

年の「東京五輪」と八八年の「ソウル五輪」がそれぞれの経済の離陸(テイク・

オフ)を象徴する意味をもった過去の経験にかんがみて、二〇〇〇年に「北京

五輪」を成功できるならば、その意義は大きい。東アジアの経済発展を象徴す

るイベントとして祝賀に値すると考え、それを希望してきたのであった(小著

『鄧小平』のむすび)。

実は、五輪開催に反対する声は、中国の友人たちの間にも少なくなかった。費

用がかかりすぎるから、中国にはまだ開催国になる資格がない。競技者や観光

客を迎えるのに十分なインフラができていないから、時期尚早だなどが主な根

拠である。しかし、五輪を目標にして施設その他を整えようとする目標設定効

果や、五輪ビジネスのもつ計り知れないほどの波及効果の大きさはいずこも同

じであり、だからこそ各都市が誘致合戦に熱意を示してきたのであった。北京

開催に真先に異論を称えたのは、アメリカの議会である。中国の人権状況から

して「北京には開催資格なし」と断じたものである。中国の人権状況に問題が

あり、中国政府として努力すべき点が数々あるとみる認識では私も同じである。

問題はそこから先だ。ならば、どのような対中国政策が望ましいのか。

欧米の人権外交派の人びとは、北京五輪を妨げたことを「人権外交の勝利」と

自賛しているらしい。中国の人権状況の問題点に世界の目を向けさせることが

できたから成功だと総括しているらしい。私のみるところ、これは先進白人国

の思い上がりでなければ、東アジアの目ざましい経済発展に対する嫉妬に起因

したものであり、きわめて狭量な態度だと思う。目的と戦略を誤っているので

はないか。

第一に、貧困や餓死と背中合わせの発展途上国に対して、欧米流の人権や民主

主義を求めるのは「木によって魚を求める」の愚行である。アメリカはまだベ

トナム戦争の教訓を総括できていないようだ。人権や民主主義のためには、や

はりそれを支えるに足る経済的基盤が必要なのだ。韓国や台湾の民主化は高度

成長によって条件を整えてから行なったために順調であるのに対して、旧ソ連

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のそれは藪医者の「ショック療法」に依拠したために混迷に陥っている。いま

こそ鄧小平路線に対する見直し、肯定的評価が必要だ。経済発展を通じて民衆

の生活水準が向上し、一定量の中産階級が形成されることなしに民主化を追求

するならば、カタチだけの民主政に堕落することは必至であり、空想論に陥る。

第二に、中国の人権状況を真に改善し、民主化を促進することを望むならば、

できるだけ早く、広範に、中国の人びとを国際社会に巻き込むことが近道であ

る。五輪は世界中の人びとに中国の現実を知らせ、中国の人びとが世界を知る

うえで最も有効な催しの一つであるからこそ、迂回的な方法だが、結果的には、

政治の民主化を加速することになるのである。中国のようにみずから「脱社会

主義の道」を急いでいる国に対しては、西側は「封じ込めという北風」よりは

「開放政策の加速という陽光」を送ることが有効なのだ。

旧ソ連の崩壊後、いわゆるチャイナ・カードが不要になったからといって、中

国脅威論をデッチ上げたり、日本異質論を中国異質論にシフトさせるやり方は

いかにも安直であり、世界の秩序に責任をもつ大国にふさわしい器量とはいえ

ない。貿易摩擦を解決する能力をもたない人びとが「江戸の仇を長崎で討つ」

に似ている。アメリカに求めたいのは「人権外交よりは経済外交を」のスタン

スである。

他方、中国に望みたいのは、二〇〇四年の五輪を目指して地道な努力を続ける

ことである。魏京生の突然の釈放や天然ガス・パイプラインによる北京市の大

気汚染対策案などはいかにも場あたり的対策であった。これから一〇年の時間

があれば、より着実な準備をできるはずである。この一〇年間の政治的安定を

確保できるならば、中国は確実に離陸できるよう。禍を転じて福としてほしい

ところである。

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1993 年 11 月 5 日 衛星テレビ管理規定 中国は十月五日に「衛星テレビ放送受信管理規定」を公布し「金融や外国貿易機関および

外国人専用施設」は例外として、それ以外の中国の一般企業や機関が衛星テレビを試聴す

るのを禁止した。外国の「拝金主義」「享楽主義」に汚染されるのを防ぐためと説明。 開放政策を真に深化するためには、このような禁止措置は有害だが、しかし現在の中国社会

の混乱ぶりを見ると、この管理規定は現状ではやはり必要、妥当なものと判断できよう。

中国の政治的安定がなによりも優先されなければならないからだ。しかし、中国政府が香

港のマスコミに聞接的に介入しはじめたかに見える事件は気になる。香港を代表する英字

紙の一つである『サウスチャイナ・モーエングポスト』(SCMP)が最近、誤報事件を起こ

した。 『SCMP』が 3 週間後に誤報謝罪 同紙が八月二十二、二十四日の両日にわたって報道した「大陸の銀行幹部が三百八十億ド

ルを横領して外国に逃亡した」というニュースは、日本でも転載され、折からの金融整頓、

幹部の腐敗問題とからんで話題になったことはご記憶の方もあろう。ところが、同紙は報

道から三週間後、九月十二日付第一面に「この報道は真実ではなく、いささかの根拠もな

かった」と謝罪する声明文を掲げた。その舞台裏を、同紙ではなく、北京の『人民日報』

が解説している。いわく…中国人民銀行、中国銀行、中国農業銀行および関係者の名誉に

かかわるので、中国の関係銀行の責任者は相次いで声明と談話を発表してデッチ上げを非

難し、『SCMP』紙に謝罪と賠償を求めた。さらに今後、類似の事件が起こらないとの保証

を含めて、同紙の誤報についての法律的責任を追及する全権限を中国銀行香港支店に委託

した。 双方の代理を務める弁護士が接触した結果『SCMP』は報道の誤りを認め、関係者に謝罪

することを表明した。さらに三百五十万香港ドルを慰謝料として払うことになったが、そ

の金は慈善事業の団体に寄付されることになった(『人民日報』九月十四日付)。 『SCMP』が誤報の謝罪を行った翌日、すなわち九月十三日付の一面トップ記事はマレー

シア華人ロバート・コック(郭鶴年)が『SCMP』の三四・九%の株式を二十七億香港がで

買収した事実を報道した。 愛国的華僑の買収の行方 ロバート・コックは、福建出身であり、父とともに一九四七年にマレー半島ジョホールパ

ールに移民した。シンガポールの名門ラッフルズ・インステイチュートに学んだとき、の

ちのシンガポール首相リー・クワンユーと同級であった話は有名だ。マレーシアでは不動

産、プランテーション、製糖、鉱業、化学、保険、小売、ホテル、錫、製粉など各分野に

わたるコンツェルンを保有している。たとえばシャングリラ・ホテルは、そのグループで

あり、アセアン各国や四小龍にそのチェーンをもっていることは、よく知られていよう。 香港ではシャングリラ・アジアのほかに、ケリー・グループとして、その傘下にケリー不動

産、ケリー貿易、ケリー財務サービス、アバディーン・マリナ、ウェスタン・ハーバー海

底トンネル融資団(一五%)、TVB 社(三二%)、CITIC パシフィック(一〇%)に資本参

加している。 注目されるのは、彼は近年対中国投資を積極的に進めていることである。たとえば①マン

ション、ホテル、オフィスからなるコンプレツクスである北京世界貿易中心の五〇%を出

資している②アパート、ホテル、オフィスからなるコンプレックスである不夜城中心に対

しては、四五%を出資している③四川、深セン、武漢に工場をもつケリー飲料品公司は一

二・五%がコカコーラ社の出資、ケリー側は八七・五%の出資、などだ。 ロバート・コックの中国に対する積極的姿勢は、タイ華人謝国民(潮州出身)の率いる正

大集団公司とそれと似ている。中国に対する貢献を評価されて、両氏ともに「港事顧問」

に選ばれた。法的にはタイ人である謝国民と、法的にはマレーシア人である郭鶴年が選ば

れたことの「法的背景」はよくわからないが、要するに「愛国的華僑」である。親北京派

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による買収と「謝罪声明」との関連が気になる。報道の自由が失われるならば、権力者が

対香港政策において誤りを犯す可能性が大きくなる。香港の人びとにとっての不幸である

ばかりでなく、大陸自身の利益を損なうと見るのは取り越し苦労であろうか。

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神奈川政経懇話会、1993 年 12 月 15 日

完成期の中国・脱社会主義作戦

鄧小平の脱社会主義作戦のプログラムは、いまようやく完成段階に至った。中

国共産党はさる一一月一一~一四日、北京で一四期三中全会を開き、「社会主

義市場経済体制の樹立の若干の問題についての中共中央の決定」を採択したが、

鄧小平路線は満一五周年にしてよやく、計画経済体制のなかに商品経済を一歩

一歩「密輸入」する作戦を体系化できたことになる。全体の構成は、全一〇部、

五〇カ条からなる。これは市場経済への中国的道筋の総括であることからして

総花的だが、その中心は、第二部国有企業の改革(その核心は、株式化)と第

四部マクロ・コントロール体系の樹立(その核心は財政、税制改革と金融体制

改革)であるとみてよい。

株式化構想とは、国有企業を会社化し、行政と企業を分離する試みである。こ

こで公司は、投資主体が単一の独資公司、投資主体が複数の有限責任公司ある

いは股(人分)有限公司になる。上場する株式会社は当面は少数に限り、厳格に

審査する。国家の保有株式を何%とするかは、産業ごとに、そして株式の分散

程度によって異なるので、一律の制限は設けない。「支柱産業」と「基礎産業

のなかの骨幹企業」は、国家が株式をコントロールできるようにする。ただし、

会社化は単なる名称の変更ではなく、単なる資金集めでもなく、経営メカニズ

ムの転換に重きをおく、という。

金融体制改革はどうか。中国人民銀行を中央銀行化することはかねての懸案で

あるが、今回はその課題を、1)預金準備率と中央銀行からの貸出利率の運用、

2)公開市場操作により貨幣供給量を調整し、通貨価値の安定を図ること、と明

記された。また通貨政策委員会をもうけ、中央銀行はその直轄とし、独立性の

保持を意図している。政策銀行と商業銀行の分離を目指し、政策銀行として新

たに国家開発銀行、輸出入銀行をもうけ、既存の中国農業銀行は農業への政策

金融を行なうために改組する。既存の専業銀行 (中国工商銀行、中国投資銀行、

中国交通銀行、中国人民建設銀行など)は逐次、商業銀行の機能だけに転換し、

さらに農村合作銀行、城市合作銀行のような無尽組織を発展させる。中央銀行

は資金の需給状況に応じてプライムレートを調整し、商業銀行は規定の範囲内

で貸出金利を変動させることを容認する。外貨の管理体制を改善し、市場を基

礎とする為替フロート制度を確立し、外貨市場を統一し、逐次人民元を交換性

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のある通貨にする。銀行のオンライン化を進めるとともに、クレジットカード

を積極的に導入し、現金流通量を減少させる、などである。

肝心の財政、税制改革の重点は分税制である。中央と地方がそれぞれの行政事

務に応じて、中央税と地方税に分けて徴収し、分けて使う。マクロ・コントロ

ールに必要な税は「中央税」とし、地方の充実に用いる税は「地方税」とする。

経済発展と直接的に関わるがゆえに増減の大きい税は、中央と地方の「共有税」

とし、その分け方のルールを作る。

GNPに占める財政収入の比重を高め、中央財政収入と地方財政収入の四対六

の比例をいずれは六対四とし、経済の未発達の地域と旧工業基地の改造に役立

てる。さらに付加価値税を主体とする流通税に改めていく。一部の商品から消

費税をとり、大部分の非商品経営部分からは営業税をとる。財政改革の核心は、

「分税制」の導入によって「弱い中央政府と強い地方政府」の問題を解決しよ

うとする試みであろう。

九月にAFP電が「ポスト鄧小平の中国はユーゴの分裂の道か」と報じて話題

を呼んだことがある。在米のある中国人学者の「政策提言書」を紹介したもの

であった。いわく、GNPに占める中央財政の比率が一割以下の水準にあるの

は、ユーゴと中国だけだ。中央政府の役割がユーゴ並みに小さくなると、国家

が分裂の危機に見舞われる。

なるほど、中央政府があまりにも弱すぎては、政治的安定を確保しにくいであ

ろう。しかし、ユーゴ分裂は、民族、宗教問題が原因である。中国の場合、民

族問題のあり方は旧ソ連やユーゴの形とは大きく異なる。漢民族が圧倒的な多

数派だからだ。「弱い中央政府」を強くするために、朱鎔基はいま地方の「成

り金」勢力との調整に忙殺されている。過渡期においては、「強い中央政府」

が必要である。

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中国成長率は 9-10%へ 1994 年 1 月号 朱が約法 3 章に新 3 カ条 1994 年 2 月号 経済安定しポスト楽観 1994 年 3 月号 中国の前途を学ぶ副読本 1994 年 4 月号 中国の焦点「中央対地方 1994 年 5 月号 米・中華圏の活力を認知 1994 年 6 月号 教訓もとにした中国の発展 1994 年 7 月号 中国近代化刺激する台湾 1994 年 8 月号 中国転換期経済に新腐敗 1994 年 9 月号 人事面で強化計る江体制 1994 年 10 月号 悪化する中国の資源需給 1994 年 11 月号 インフレ抑制より成長率を 1994 年 12 月号

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神奈川政経懇話会、1994 年 1 月 15 日

中国成長率は 9~10%へ

中国国家統計局は旧臘一二月二八日に旧九三年の中国経済の実績見通しを発表

した。これによると、九三年の実質成長率は一三%であり、九二年とほぼ同じ

水準を維持した。さらに今年すなわち九四年の成長率は九~一〇程度と見込ん

でいる。一言でいえば、GDPも高度成長、物価も高度成長している。全国レ

ベルでは「双十三」のスローガンが示すように、GDPも一三%、物価上昇率

も一三%だが、都市では一四・五%であり、三五の主要都市では一九・五%と

いう高い水準にある。

主要都市の物価水準が二割台に迫ったのは、鄧小平時代の一五年間において、

買い溜め、売惜しみのため「狂乱物価」的現象が演じられた八八年、すなわち

天安門事件の前年だけである。このことから、誰もがいま五年前の事件を想起

し、危惧を語るわけだが、当時の中国と現在の中国では大きな違いがある。

なによりもまず、食糧生産量が「史上最高」の四・五六億トンと発表されてい

ることが象徴的に示すように、消費財の供給余力があることだ。農村ではむし

ろ「豊作貧乏」が語られている。農産物の供給は、豊作のために価格が安くな

り、農民の所得減少を招いている。ただ、マクロ状況においては供給に余裕が

あるにもかかわらず、主要都市で値上がりしているのは、流通面の問題や高度

成長に伴う構造摩擦のためである。

食糧だけでなく、その他の消費財も供給面にゆとりがある。しかし、消費生活

の高度化、サービス業における賃金上昇を繁栄したコスト・プッシュ要因など、

複合的要素のゆえに大都市での消費財の値上がりが目立つ。インフレを軽視す

ることは、許されないが、全体的状況は天安門事件前の需要過多的局面と様変

わりしている。しかもインフレ対策への取組みには真剣なものがあると観察さ

れるので、基本的には楽観してよいと思われる。

高度成長の主役が設備投資にあることは「固定資産投資」の対前年伸び率が名

目で五割に迫るという数字から明らかである。ただし一一月段階での国家計画

委員会の説明では「実質二六%」としていることから分かるように、投資財の

値上がり分を控除しなければならない。さらにこれらの固定資産投資が中国経

済のボトルネックといわれて久しいエネルギー部門や原材料部門に向かってい

ないことも問題である。

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三中全会で決定した「市場経済化への五〇カ条決定」には、開発銀行の設立が

うたわれているが、ボトルネック部門への「政策金融」は喫緊の課題である。

所得の伸び率が都市部では一割であるのに対して、農村部では二%にとどまっ

ていることも問題である。

人民公社の解体当時は、農民個人の「戸別農業への意欲」によって増産できた

が、この効果は消えて久しい。郷鎮企業が発展し、副業の機会がふえた地域で

は農民の生活に問題はないが、農耕を主とする地域で、化学肥料や投入財が値

上がりしたにもかかわらず、豊作のゆえに農産物の市場価格が安くなっている

事態は農民の生活を直撃している。かくて農村対策も急務である。「五〇カ条

決定」で打ち出された農業銀行の改組による農村、農業への政策金融の道を開

くことも大きな課題の一つだ。

さて九四年の展望だが、GNP成長率は九~一〇%と見込んでいる。九二~九

三年のように一三%を維持することはむずかしいが、一割程度は問題なし、と

するのが中国の大方の機関やエコノミストの見通しである。中国経済は今年も

高度成長を維持しながら、物価水準は成長率の範囲内に押さえ込もうという目

論見である。つまり「高度成長と物価安定の綱渡り」を続けることになる。し

かも、ここでの物価安定は、供給拡大をはかる積極路線による物価安定策であ

る。中国の経済改革は消費財の分野から、川下から着手され、消費財の分野は

基本的に市場経済化に成功した。高度成長を継続できるかどうかのカギはエネ

ルギー、原材料など川上の生産財、インフラの供給余力の有無にこそある。国

有企業の改革はまだ始まったばかりである。インフラ部門、川上部門への重点

的投資による「傾斜生産方式」を通じて投資財の供給余力をつけることが今後

の経済運営のカナメだ。朱鎔基の手腕が問われるのは、まさにこの点であろう。

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神奈川政経懇話会、1994 年 2 月 15 日

朱鎔基の約法 3 章に新 3 カ条

北京で全国金融工作会議(一月一二日から一五日)が開かれ、朱鎔基(副総理

兼中国人民銀行総裁) が「重要講話」を行なった。昨年六月に金融秩序の整頓

を突破口として国民経済のマクロ・コントロールを強化する決定を行い、「約

法三章」を執行した結果、つぎの効果が現れた。1)国家重点プロジェクトの九

九%に資金が向かった。2)農産物買付けにおいて「カラ手形」を切る現象がな

くなった。3)重点生産と貿易企業における流動資金不足は基本的に緩和された。

4)通貨の過大な発行が抑制され、九三年の通貨発行は予定通りのマクロ・コン

トロールの範囲内に抑えることができた。5)為替レートは安定し、国家の外貨

準備が増えた。朱鎔基は九三年の金融情勢をこのように総括したあと、九三年

七月の全国金融工作会議で提起した「約法三章」を、九四年も貫徹せよと次の

ように述べた。1)過大な固定資産投資を拘束するメカニズムおよびリスクに関

わるメカニズムはまだできていない。2)このために、インフレ圧力は、随時強

まる危険性がある。3)それゆえ九四年の金融政策は、a)金融秩序の整頓の継続、

b)金融改革の穏歩前進、c)貸出総量の厳格な規制、であると強調し、旧年来の

「約法三章」に加えて、次のように新たな「三カ条」を提起した。

1)今年の貸出規模の総量を厳しく統制する。カギは各級銀行の固定資産投資資

金の貸出規制にある。今年からインフラや基礎工業の重点プロジェクトへの貸

出は、新たに設立される「国家開発銀行」が統一的に行なう。たの銀行は他の

投資プロジェクト資金を流用してはならない。とりわけ流動資金を基本建設に

流用してはならない。批准を得ていないプロジェクトに貸出したり、プロジェ

クトを細切れにして部分的に貸出を受けることを厳禁する。正当ならざる手段

で貸出総量を突破した者は、誰であろうとその責任を追求し、一元たりとも枠

を超えてはならない。2)「政策金融」は政策銀行に委ねたのち、各専業銀行は

商業銀行に移行する。九四年は大胆にその一歩を進めるものとする。いま国有

企業は経営メカニズムの転換過程にあるが、各専業銀行はまず貸出限度額統制

を実行して「資産負債比例管理」を行い、「自己拘束」と「リスク責任」のメ

カニズムを樹立する。「破産法」の適用に対応して、今年から「貸倒れ準備金」

を増やす。3)人民銀行の各級支店は、その職能を確実に転換して、地域金融の

監督の面で主導作用を発揮しなければならない。当面はみだりに資金集めを行

なうことを防がなければならない。つまり、みだりに貸出を行い、みだりに資

金を集めることを防いでこそ、固定資産の投資規模を抑えることができ、イン

フレ圧力を軽減できると説明した。要するに、銀行が「通貨発行公司」であり、

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「カギのない金庫」である状態を改めて、「銀行をして真に銀行たらしめよ」

( 『鄧小平文選』第三巻) というのが、朱鎔基講話の骨子であった(『人民日

報』九四年一月二〇日) 。 朱鎔基の経済政策については、内外でさまざまな

見方が行なわれているが、『ビジネス・ウィーク』(九四年一月三一日号) は、

年初にインタビューして、朱鎔基の「肉声」を生き生きと伝えている。たとえ

ば、中国側通訳が financial と訳したのを聞いて、banking と訂正するなどイ

ンタビュー途中でしばしば「誤訳あるいは不正確な英訳」を直したエピソード

を伝えている。

どのような経済体制を作ろうとしているのか、と問われて「市場経済が機能す

るメカニズム」と答え、それはアメリカのそれと同じだと説明した。唯一の違

いは、アメリカでは私有制に基づいているのに対して、中国は公有制に基づい

ていることだ。「改革への強い抵抗の有無」を問われていわく。長い準備を経

てきたので「中央政府と地方政府、政府と企業の間でコンセンサス」ができて

いる。しかし「予想もしなかった問題が現れた」として、旧年一二月二九日付

の兌換券廃止通達の欠陥を認めた。すなわち兌換券は今後も引続き、「八・七

元=一ドルではなく、五・八元=一ドルという人民元切下げ前のレート」で換

算できる。この説明を怠ったために、貴金属などを買い漁る現象が現れたと反

省した。通達の欠陥を率直に認め、直ちに訂正した機敏性はなかなかのもので

あり、信頼できる。

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神奈川政経懇話会、1994 年 3 月 25 日

ポスト鄧小平を楽観させる経済の安定

戌年の春節は二月一〇日であった。大晦日の中央電視台に鄧小平と陳雲が登場

したことは、日本のテレビも中継されたが、ここで春節をめぐる長老政治の含

意を整理しておきたい。二月一〇日付『人民日報』は新華社上海発で「長老情

報」をこう伝えた。

まず、鄧小平について。九四年春節は鄧小平にとって八八年以来上海で迎える

新年の七回目のものである。鄧小平同志は「精神煥発、歩履穏健」(ルビ、せ

いしんかんぱつ、あゆみはおだやか)、笑みを浮かべて上海同志の前に歩み、

呉邦国(政治局委員、上海市委書記) 、黄菊(上海市長) らの祝福を受けた。

鄧小平同志は「江沢民同志を核心とする中央の指導的同志の春節が愉快であり、

身体が健康であるようを祈る。全国人民が春節が愉快であり、家庭が幸福であ

り、人民が団結し、新たな一年により大きな勝利を勝ち取るよう祈る。私は年

に一度上海に来て上海人民の春節が愉快であるよう祈る」と語った。呉邦国の

挨拶に対しては「あなた方の上海の工作はほんとうに立派だ」と嬉しそうに語

った。「上海の工作が立派にできたのは、上海には特殊な素質、特殊な品格が

あるからだ」と述べた。昨九三年一二月一三日、上海は寒風細雨で風力は六級

に達し、気温は摂氏零度前後であった。この日午前、鄧小平同志は呉邦国、黄

菊らのお供で浦東を視察し、楊浦大橋に上り、熱気あふれる浦東建設の光景を

眺望した。九三年に建設された「内環線浦東区間および羅山路と龍陽路の二つ

の立体交差橋を視察して「今日、嬉しく路を見るのは、百年、書を読むのに勝

る。これは私の心からの実感だ」と述べ、「これは上海の労働者階級の勝利で

ある。上海の労働者階級に挨拶を送る」と賞賛した。元日の夜は新錦江大酒店

のトップフロアに上り、灯光燦然と輝く上海の不夜城を見下ろし、「上海は変

わった」と述べた──テレビで見た鄧小平老はすっかり老い込んだ感じだが、

いまや生きているだけで中国の安定に貢献しているわけだ。

ついで陳雲について。呉邦国、黄菊同志は二月九日上海にいる陳雲同志に新年

の挨拶をした。呉邦国が昨年の上海の改革開放、経済発展と社会的安定の保持

などの面での工作を報告したところ、陳雲同志は「上海の工作は立派である。

一般的によいというのではなく、とてもよい」と語った。陳雲同志いわく「七

八年の一一期三中全会以来、全国の経済発展はとてもはやく、人民の生活水準

は大いに高まった。これは誰もが見ている事実である。むろん、いま少なから

ぬ困難と問題が存在している。これらの困難と問題を解決するには、まず江沢

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民同志を核心とする党中央の権威を維持し強化しなければならない。もし中央

の権威がなければ、大事をなしとげられない。社会は安定させられない。中央

は今年から分税制を実行し、必要な財力を逐次中央に集中するよう決定した。

あなた方の上海も他の各地でも賛成を表明していることは、みなが大局を見て

いることを意味しており、私はとても嬉しい。全国からみると、当面の経済工

作で特に注意を要する一つの問題は建設規模は必ず国力に相応しなければなら

ず、余地を残さなければならないことである。同時に、注意力を経済効率を高

めることに集中しなければならない。現在の中央指導グループは堅強、有能で

あり、工作は立派である。全国が上から下まで心を合わせて、団結一致して着

実に党中央と国務院の一連のマクロ・コントロール政策、措置を貫徹し、中国

経済をやっていけば大いに希望がある。社会主義中国には大いなる希望がある。

上記の二つのニュースを伝えた『人民日報』元旦号は、興味津々である。第一

に、『人民日報』のタイトルと「鄧小平が上海人民とともに新春を迎える」「陳

雲が上海で春節を楽しく過ごす」はともに赤色で印刷されている。第二にこれ

ら二つの記事を書いたのは、ともに新華社の陳毛弟記者である。第三に両者の

コラム・スペースを図って見ると、鄧小平六三%対陳雲三七%の占拠率である。

第四に、写真は鄧小平側二枚、陳雲側一枚である。鄧小平と陳雲の近年の関係

は、まさにこのコラム・スペースが象徴するような形で共存している。改革開

放路線がここまで定着してくると、鄧小平と陳雲がマルクスに会う順序は、も

はや問題ではなくなってきた。経済に問題がない限り「ポスト鄧小平」は楽観

してよい。そして朱鎔基が舵取りを続けるかぎり、経済は成長路線を維持でき

よう。

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神奈川政経懇話会、1994 年 4 月 15 日

中国を学ぶ副読本

三月初めに『わが父・鄧小平』を書いた鄧小平の三女蕭榕(筆名は毛毛、旧名

は Deng 榕)が邦訳出版記念のために来日した。鄧小平の健康問題はいまや「存

命のニュースだけで中国政治の安定に貢献する」といわれるほどである。これ

は彼自身望まないところであり、後継者の養成に意を用いてきたが、事志とち

がって、最後まで政治の采配を振るわざるをえない立場にある。最近は、遅浩

田国防部長を中共中央軍事委員会副主席に、王瑞林総政治部副主任を軍事委員

会秘書長に昇格させ、江沢民軍事委員会主席を補佐させるよう指示したと伝え

られる(香港『鏡報』九四年四月号)。ポスト鄧小平期の政治的安定を確保す

るうえで、解放軍の支持が決定的に重要なことはいうまでもない。

私は毛毛の本に「解説」(『わが父・鄧小平』II 巻)を書いた縁で、ある雑誌

のために対談した(『サンサーラ』五月号)。鄧小平ファミリーのスポークス

マン格であるから、周辺がピリピリしていたが、才色兼備、両親の血を継いで

(母親は北京大学物理学科卒、雲南ハムの経営者の娘)、しっかりした娘さん

であった。一九五〇年生まれの四二歳である。三月末に世界的なベストセラー

『ワイルド・スワン』の著者張戎が来日し、私も同じ書店に縁があり、その社

の週刊誌(『週刊現代』四月一六日号)の求めに応じて対談した。彼女も聞き

しに勝る才色兼備、現代中国の政治的嵐に翻弄されながら成長し、大地に根を

張ったしっかりした女性と見た。一九五二年生まれの四二歳。文化大革命のな

かで「親が反動派なら、子供も反動派」すなわち「実権派の娘」として扱われ、

苦痛を味わった点では共通している。

前者はいまや「生きているだけで勝利」と見られ、その安否が株価に直ちに反

映するほどの影響力をもっている中国の最高実力者の前半生の伝記である。今

回出たのは上巻であり、一九四九年の建国までの時期を扱っている。鄧小平が

毛沢東路線を掲げつつ、事実上それを否定して鄧小平路線を提起するのは、毛

沢東死後のことである。ナポレオンよりは少し背の高いこの人物のほんとうの

面白さは下巻にこそある。天安門事件なども含めて、そのあたりをどこまで描

ききれるか、興味津々である。「自伝」を書かない鄧小平に代わって書いた「欽

定版」でである。中共中央文献研究室の専門家が事実関係をチェックしている

ので、少なくともこの点では信頼できる。後者『ワイルド・スワン』は、戦争

と革命、動乱の中国現代史の過程で翻弄されてきた中国の庶民の姿を祖母・母・

娘三代の女性の生きざまを縦糸として描いた物語である。悲劇のヒロインたち

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の波乱万丈の体験は、ほとんど創作かと思わせるほどだ。歴史学者であるイギ

リス人の夫ジョン・ハリディが協力してくれた結果であろうが、そのままドラ

マの脚本になるように巧みに構成されており、中国現代史の最良の副読本たり

うる(この趣旨の書評を私は訳書の刊行当時に書いたが、その後一年で百万部

単位の超ベストセラーになるとは、予想だにできなかった)。

二冊の本が世界中でベストセラーになった事実にも、現在の「中国ブーム」の

一端が反映されていよう。世界中が不景気な中で、ひとり中国だけは九二~九

三年に年率一三%の成長を続け、今年も一〇%程度の成長率を見込んでいる。

世界の目は中国に向けられ、その解説を求めている。彼女たちの本はその需要

に応えているわけだ。

下世話だが、二人に印税の使い途を聞いてみた。蕭榕は娘の羊羊をアメリカに

留学させたい、自分も夫も公務員であり、月給が安いので(彼女は解放軍選出

の全国人民代表、すなわち国会議員。夫賀平は人民解放軍総参謀部装備部部長)、

この印税を留学費用に当てたいと語った。張戎は、母親や家族、そして親戚を

助けたい。ご承知のようにこれは中国人の慣習であると答え、さらにこう付け

加えた。この印税のおかげで、いま準備している次作『毛沢東伝』の取材を十

分にできるようになったのは、たいへんありがたい。必要なだけいくどでも中

国旅行ができますからと微笑した。張戎には、毛沢東の女性スキャンダルにつ

いて、愛人といわれる張玉鳳、孟錦雲、謝静宜などをインタビューしたかと尋

ねてみた。いまはお話できません。ノーコメント(無可奉告)の一語であった。

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神奈川政経懇話会、1994 年 5 月 5 日

中国の焦点は中央対地方

中国の動向について、いささか神経過敏な報道が目立つ。インフレと腐敗、「盲

流」、民主化運動の再燃といった類の記事である。中国の政治経済がざまざま

な問題を抱えていることは確かだが、ポスト鄧小平がらみでいたずらに悲観的

なシナリオを描くのは、ピント外れであり、オオカミ少年の愚行に似ている。

第一に市場経済化の成功は見込みがついた。工業生産量に占める国有企業のシ

ェアは、すでに五割を切り、計画経済から市場経済への転換は基本的に道筋を

固めることができている。鄧小平は「国有企業の改革」をいきなり提起するこ

とをせず、迂回作戦をとった。まず合弁企業法をつくり、経済特区をもうけて

外資との合弁企業を作らせ、効率的、近代的な企業の手本を示した。これと同

じ時期に郷鎮企業の育成を図り、農村に中小企業をたくさん作らせ、雇用を吸

収するとともに、消費生活に役立たせた。非国有企業の育成を一〇数年続ける

ことによって、国有企業の地位をマイナーなものとした。かりに最初から国有

企業の改革を提起したとしたら、既得利益に基盤をもつ保守派によって扼殺さ

れてしまったであろう。また、合弁企業や郷鎮企業という手本なしに国有企業

への手術を成功させることも覚束ない。国有企業改革への迂回作戦は、巧みな

戦略であった。

第二は、農村の動向である。昨年の食糧生産量は四・五六億トンで史上最高の

豊作である。このため食糧価格が弱含みで、農民にとっては「豊作貧乏」であ

る。そのうえ、一部の地区では農村幹部が農民を搾取し、私腹をこやす例があ

り、ここに不満はあるものの、端的に言って、メシを食えるかぎり中国の農民

は騒ぎを起こさない(「民は食を以て天となす」)。いわゆる「盲流」の本質

は、都市への出稼ぎであり、これは労働力需要を満たすとともに、農村への所

得移転の役割を果たしており、積極的に評価すべきものだ。

第三に、これらの例から分かるように、中国をいま動かしているのは、市場メ

カニズムそのものである。鄧小平の真の意味での「後継者」は江沢民ら政治局

のメンバーというよりは、「市場メカニズム」なのだ。中国はすでに階級闘争

の舞台から経済発展優先の局面に転換しており、もはや保守派もこの潮流に乗

るほかない。後戻りはない。

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第四は、後継体制作りである。いまは江沢民総書記を国家主席と中共中央軍事

委員会主席を兼任させ、集団指導の核心とする後継指導体制作りを進めている。

鄧小平亡きあと、江沢民を核心とする指導部が中国全体をまとめていけるかど

うか不安がないといえばウソになる。ただ、私は楽観している。経済発展が続

く限り、中国指導部を決定的に分裂させるような矛盾が生まれないと考えられ

るからである。中国指導部は一方では、江沢民に権限を集中して団結を図り、

他方で、喬石の全人代や李瑞環の政協は、ガス抜きの役割を果たすことになろ

う。ストロングマン亡きあと、ドングリの背比べ的な弱体指導部は、肩を寄せ

合うほかないと予想される。

第五は鄧小平路線の残した政治的置き土産である。鄧小平は毛沢東路線と社会

主義の堅持を掲げて、事実上毛路線を転換させ社会主義を骨抜きにしてきた。

鄧小平は根っからの「白猫黒猫」論者であり、社会主義か資本主義かに関心は

ない。あえていえば、西側で高度成長を実現した資本主義に強い魅力を感じて

いる。にもかかわらず、毛沢東路線や社会主義の堅持を語るために中途半端な

改革派のイメージが作られ易いし、また保守派はこれに依拠して、鄧小平路線

の逸脱を批判してきた。鄧小平時代を通じて相対的に弱い改革派は、保守派の

攻撃を避けるために、毛沢東と社会主義の旗を掲げ続けてきた。鄧小平はこの

マヌーバーを用いて保守派を籠絡してきた。しかしポスト鄧小平期を迎えたい

ま、改革派は完全に多数派であり、いまや政治の焦点は、改革派対保守派の構

図よりは、中央対地方に移りつつある。中国も開発独裁の時期が過ぎて、政治

的民主化の受け皿ができるならば、一党独裁をやめることになろう。この場合、

二つの教訓がある。一方に政治的民主化を急ぎすぎて混乱している旧ソ連の悪

例がある。他方に韓国や台湾のように成功した教訓がある。中国は市場経済と

世界経済への二つのソフトランディングの見極めがつくまでは、一党独裁下で

政治的安定を確保しなければなるまい。

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神奈川政経懇話会、1994 年 6 月 15 日

米国、中華経済圏の活力を認知

五月二七日、クリントン政権は中国に対する最恵国待遇(MFN)の更新を決

定したが、これは米国が人権と貿易を切り離す現実的な中国政策に転換したも

ので、大いに歓迎してよい。ここには二つの意味づけが考えられる。一つは、

中国経済がすでに大きく成長しており、今後ますます成長する可能性を秘めて

いる以上、米国としても中国経済をパートナーとして認知せざるをえない点で

ある。この文脈においていわゆる「人権外交」は阻害要因である。もう一つは、

経済交流の政治的含意である。MFNと人権改善をリンクさせる昨年の決定は、

人権外交と経済外交の分裂をもたらし、米中関係をいたずらに緊張させただけ

に終わった。軌道修正は当然の成り行きであった。

近年の中国の高度成長によってどれほど多くの雇用が創出され、消費生活が改

善されたかを想起したい。人権外交ではなく、経済発展が人権状況を着実に改

善している。人権概念は幅が広い。飢餓からの自由のような生存権のレベルか

ら良心の自由に至るまでさまざまの内容を含む。中国の多くの人びとの物質生

活が改善されたことは、中国の人びとの人権状況を改善するうえで大きく貢献

している。逆に経済的条件の許容範囲を超えた不適切な民主化は政治的混乱を

もたらすことによって、結果的には人びとの経済生活を悪化させる。旧ソ連の

解体に伴う混乱状況は悪しき教訓にほかならない。他方、東アジアには良き先

例がある。朴正煕時代の韓国と蒋経国時代の台湾の経験である。両者ともに政

治的には強権政治を行いながら、経済成長に努めた。そこで生まれた中産階級

を基盤として、いま政治的民主化を着々と進めている。つまり、中国は旧ソ連

の教訓を反面教師とし、韓国や台湾の経験を正面教師として学ぶことができる。

それを人は「開発独裁」といい、「権威主義的政権」によぶ。あるいは「シス

テムとしての開発主義」と名付けた論者もある。いずれにせよ、日本に始まり、

アジア四小龍に及び、ついでアセアンの「三匹の虎」(タイ・マレーシア・イ

ンドネシア)に波及した高度成長の波は、いま中国に根づきつつある。これが

長期的にみて中国の人権状況を根底的に改善する、現実的な道であることをク

リントン政権が率直に認めた点に今回の決定の意味である、と私は解釈してい

る。

米国側の統計によると、一九九三年の米中貿易は往復で約四〇〇億ドル、うち

米国の対中輸出は八〇億ドルであるから、残りの約三〇〇億ドル余は中国の対

米輸出だ。対中貿易赤字の大きさがよく分かる。中国海関統計によると、中国

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の対米輸入は、一〇七億ドルである。米国の数字よりも二七億ドルも大きい。

他方、中国の対米輸出は一七〇億ドルで、米国側数字より一〇〇億ドル以上も

小さい。米国が原産地主義をとっているからだ。米国の対中貿易赤字は米国側

統計によれば、二〇〇億ドル以上になり、中国側統計ではわずか六三億ドルに

すぎない。両国とも食い違いの原因が香港経由部分の処理にあることは熟知し

ながら、みずからに都合のよい数字だけを挙げている。ただし、九三年以来、

再輸出分は仕向け地の統計に入れるようになった。九三年の日中貿易が香港貿

易を超えた一因である。直接投資をみると、九三年の米国の投資は実行ベース

で二一億ドル、日本は一三億ドルである。これに対して台湾は三一億ドルであ

り、米国と日本の合計に等しい。過去一五年間累計で、米国の直接投資は実行

ベースで五二・四億ドル、日本は五二億ドル、台湾五〇・六億ドルである。米

国と日本は肩を並べてきたが、いまや台湾が肉薄している。香港の大陸投資は

同期間の累計で三八五億ドルであり、全体の六割強に当たる。大陸経済と香港

経済の一体化は急進展している。香港への大陸投資は累計で約二〇〇億ドルと

推計され、日本の一一五億ドル、米国の八五億ドルを超えてすでに第一位であ

る。大陸は香港から四〇〇億ドル弱の投資を受入れ、香港に対して二〇〇億ド

ルを投資している。香港と大陸との貿易は九三年のばあい三二五億ドルである。

大陸・香港・台湾三者の対外貿易額を合計し、世界貿易全体に占めるシェアを

見ると、九二年七・四%、九三年八・五%である。日本のシェアは九二年七・

六%、九三年八・〇%であるから、九三年に中華経済圏(大陸・香港・台湾)

に追い抜かれた。中華経済圏の活力はすさまじく、米国もそれを認めざるをえ

なかった形だ。

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神奈川政経懇話会、1994 年 7 月 15 日

旧ソ連解体と韓国・台湾の教訓

このところポスト鄧小平問題についての問い合わせが多い。本誌ではすでに繰

り返し分析してきたので重複は避けたいところだが、世の中はいぜんオオカミ

少年あるいは中年オオカミが多く、人びとを惑わせている。鄧小平は一九〇四

年八月二二日生まれであり、誕生日には満九〇歳を迎える。春節のさいにテレ

ビ画面に登場したが、めっきり老いていた。その後重体説や死亡説が繰り返さ

れる。そのたびに報道を否定するコメントが鄧小平ファミリーや中国政府によ

って行なわれるパターンが続いている。ただ、最近の誤報事件は少し性格を異

にしている。香港の中国系紙『文匯報』(六月二三日付)は「北京の権威筋」

の話として、鄧小平氏は劉華清(中共中央軍事委員会副主席)を伴って山東省

の景勝地青島市を参観し、こう語ったと伝えた。1)経済建設を中心とする路線

と改革開放の政策は絶対に変わらないし、党の基本路線は百年間堅持する。2)

国家が解体した旧ソ連の教訓を総括し、中央と地方の関係をしっかりと処理す

る。3)共産党の指導を堅持し、複数政党制は行なわない、などである。青島市

は青島ビールで有名な海浜の保養地である。海軍の基地もあるから、元海軍司

令員の劉華清が伴ってこの地を訪れたとしても不思議はない。三カ条の発言は、

かねて繰り返し語られている鄧小平語録でもあり、そのような内容が繰り返さ

れたとしてもおかしくはない。

中国の外務省スポークスマンは、同二三日の記者会見で、「この情報は正しく

ない。こうしたことはない」と言下に否定した。香港にはいわゆる中国系紙と

して、『文匯報』と『大公報』の二紙がある。『文匯報』のほうがより共産党

の中枢に近い。その『文匯報』が誤報事件を引き起こしたのはなぜか。

背景には、香港のマスコミ界の再編成問題がある。三年後すなわち九七年七月

一日に香港の主権は中国に返還される。返還を間近に控えてマスコミ界は百鬼

夜行である。英字紙『サウスチャイナ・モーニングポスト』(発行部数一一万)

は、マレーシア華人で中国に大きな投資を展開しているロバート・コック(漢

字名=郭鶴年)に買収された。六〇万という最大の発行部数をもつ華字紙『東

方日報』は英字紙『イースタン・エクスプレス』(発行部数六万)を発行した。

香港選出の全国政治協商会議委員徐四民の主宰する月刊誌『鏡報』は香港の経

済界の大物数名の出資を仰いで董事会を改組した。月刊誌に加えて日刊紙に乗

り出す態勢作りのためだ。勢力地図の塗り替えが進むなかで記者のスカウト合

戦があり、スクープ競争がある。国際的金融都市、情報都市香港は、さまざま

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の早耳情報が飛び交っているが、情報分析においては、情報の内容とともに、

どのメディアの誰の情報かが信憑性を占うカナメである。マスコミ界の分析は

欠かせない。

さてポスト鄧小平の問題は、ポスト毛沢東とは本質的に異なる事態である。毛

沢東は党主席や軍事委員会主席のポストを保持したまま死去したので、ポスト

継承の権力闘争が避けられなかった。さらに毛沢東路線は世界の市場経済の潮

流に背を向けていた。これに対してポスト鄧小平の江沢民体制はすでに基礎を

固めつつあり、その市場経済路線は世界の潮流に合致している。天安門事件五

周年がなにごともなく過ぎたのは、中国政治の安定を示す一例である。天安門

事件は「テレビ・カメラの前の惨劇」として、局部が誇張して道され、中国社

会の現状理解をミスリードした観が深い。テレビ画面で強く印象づけられた「流

血の北京」像と躍進する中国経済の現実の姿はあまりにもかけ離れており、人

びとはいま中国像の修正を迫られている。中国の発展と旧ソ連の混迷は鮮やか

な対照をなしている。経済発展を通じて中産階級を形成し、それを受け皿とし

て民主化を構想しようとする中国の道は、急激な民主化が政治的混乱を招き、

経済発展を妨げている旧ソ連の道よりもはるかに現実的な、正しい選択である。

一方に旧ソ連の解体という「負の教訓」があり、他方に強権のもとでの経済発

展を経て政治的民主化へ、という韓国や台湾の「良き教訓」がある。両者から

深く学ぼうとする中国の戦略は、内外の多くの人びとの共感を得ている。これ

こそ中国ブームの底流であることを見失ってはなるまい。

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神奈川政経懇話会、1994 年 8 月 5 日

中国の近代化を促す台湾の発展

中国の高度成長のなかで、所得格差が拡大しているが、その実態はどうか。あ

る論者はこの問題をつぎのように論じている(朱光磊「わが国の目前の貧富の

格差を全面的歴史的に扱うべし」『人民日報』九四年六月二〇日)。月給階層

(原文=工薪階層)と比べて個人経営者(原文=個体戸)の貨幣収入は三~五

倍にのぼるが、前者には福利手当でどの現物支給部分があるので、実際の所得

格差は一対二程度である。むろん私営企業主は経営規模も業種もさまざまであ

り、普通の労働者の一〇倍以上のケースもありうる。全国のサンプル調査によ

り都市の高所得層二〇%の平均所得と低所得層二〇%の平均所得を比べると、

一九八一年には前者は後者の一・七倍であったが、一九九二年には二・八倍に

格差が拡大している。農民のばあいは、一九七八年には二・九倍であったが、

九二年には五倍前後に拡大している。

では都市と農村の格差はどうか。八〇年代前半は農業の生産請負制により農民

の所得が伸びたために格差は縮小しつづけ、一九八八年には農村を一として都

市は二・〇五の水準まで縮小した。しかし、その後農村経済が伸び悩み、他方

都市の発展が続いたので九二年には一対二・三三へと格差は拡大した。九〇年

代に入って以後、都市と農村を問わず、貧富の格差は拡大しているが、これは

フローの所得ではなく、ストックのためである。家電や自動車などの耐久消費

財は減価する資産だが、住宅や金融資産は価値が増える性質をもっている。た

とえば台湾で最も豊かな二〇%の家庭の住宅保有率は九九%であり、貧しい二

〇%層のばあいは三四%の保有率である。前者の金融資産は三八二万元(人民

元)であり、後者のそれは二〇万元である。台湾のばあい、九二年の所得(フ

ロー)格差は一対五・二であり、資産(ストック)格差は一対一六・八であっ

た。これらと比べて、中国の格差はまだ小さい、とこの論者は指摘している。

都市と農村の所得格差の一因は、家族数によるところも大きい。都市では基本

的に一人っ子政策が貫徹されており、夫婦共働きで子ども一人であるから、余

裕がある。しかし農村では二人、三人の子どもをもつ家庭も少なくない。四川

省における九二年の調査によると、これらの「非一人っ子家庭」(原文=超生

戸)では、一人っ子家庭と比べて、一人当り所得は六五%、一人当り食糧は二

〇・五%、消費水準は四六%、固定資産保有量は六二%の水準にとどまってい

る(朱光磊論文)。

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「先に豊かになる」ことを許すこと、毛沢東時代の悪平等主義に反対すること、

これが中国の現在の所得政策の方向であり、今後も格差の拡大は容認する方針

である。しかし、私営企業に対する課税は強化される可能性もある。現在登録

済みの私営企業は二一万企業にすぎない。しかし、表向きは集団所有制企業だ

が実際には集団所有制企業ではなく、私営企業であるもの(これは「赤い帽子

の企業」と呼ばれる。集団という隠れ蓑を着た企業の意味である)、私営企業

は七人以上を雇ってはならないという制限枠を超えているものを加えると、事

実上の私営企業は五〇万をはるかに超えるものと推計されている。

このような論文を読むと、話は変わるが、中国の当局者が台湾の経験に学んで、

高度成長を遂げようとしている心理の一端がよく読みとれる。われわれの想像

以上に台湾は中国の近代化の牽引力を果たしているわけだ。司馬遼太郎との対

談(『週刊朝日』九四年五月六-一三日号)における李登輝台湾総統の発言に、

大陸側は猛反発している。李登輝が「台湾独立の本心」を暴露したものと攻撃

している。中国系の香港『文匯報』が社説(六月一六日付)で怒り、李家泉(中

国社会科学院台湾研究所研究員)の声高な評論を載せたのを皮切りに、大陸側

メディアも一斉に攻撃に乗り出した。大陸側の怒りをよそに「これで李登輝の

総統再選は確実なものとなった」というのが台湾内外の大方の見方である。中

国は「台湾独立」の潮流や日本要人と台湾との交流に焦りを感じているようだ

が、これはいささか大人気ない。経済発展を大いに進めて、政治的民主化の条

件を作ること、それこそが台湾独立を未然に防ぐ王道ではないか。

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神奈川政経懇話会、1994 年 9 月 5 日

転換期経済に新たな腐敗

中国経済は過熱状態が続いていたが、このところ調整効果が現れ、工業生産な

どの面で落着きを見せてきた。これは九二年春以来の経済情勢がようやく後退

の局面に入りはじめた前兆であろう。もっとも後退局面に入るとはいっても、

このまま落ち込むとはかぎらない。若干の短い調整を経て、ふたたび過熱に向

かう可能性が強い。

暑い夏には一服の清涼剤が欲しいところだ。心地好い清涼剤とはいえまいが、

汚職バブル、腐敗バブルに酔っている官僚や経済人たちは、いま反腐敗キャン

ペーンのなかで首をヒヤリとさせているらしい。中共中央紀律検査委員会が派

遣した「中央調査組」がいま各地に赴き、腐敗撲滅闘争に力を入れている。

一例を挙げると、『四川日報』(九四年七月二一日付)は、一~五月に四川省

検察機関は二六七一件を審査に回し(原文=立案)、一八八二件について結審

した(原文=結案)。これによって党紀処分、行政処分を受けた者は一九五九

人であり、うち県の処長級レベル以上の幹部が四四人含まれていた。汚職金額

一万元以上の「大事件」は五七一件であり、経済的損失四六九二万元を回収し

た。共産党の一党独裁は秩序の維持には好都合だが、メダルの反面はチェック

機能の欠如である。腐敗は政権の命取りになるおそれがあり、断じてゆるがせ

にはできない。

若手エコノミスト胡鞍剛(中国科学院国情分析小組)が「腐敗根絶」に対する

問題提起を行なったのは、今年初めのことであった。「制度改革によって腐敗

を根絶せよ」と題したこの「国情報告」は、二人の連名で発表されたが、もう

一人の論客の名は康暁光(三一歳、大連工学院応用数学系卒業ののち、中国科

学院生態環境研究センター理論生態学修士課程で修士号をとる。代表作は『農

業と発展:中国農業の若干の問題の研究』北京大学出版社、一九九三年)であ

る。この報告書は早速中共中央のトップ指導部に「参考資料」として届けられ

た。このニュースを聞きつけた香港『明報』の劉露記者が両者をインタビュー

した(『明報』九四年一月三一日~二月六日)。

天安門事件の直後に、鄧小平が腐敗を懲らしめること、とりわけ党内の高層の

腐敗を懲らしめることの必要性を強調したことがある。あれから五年後の今日、

「全党、全軍、全国範囲の腐敗の風は、抑制されないばかりか、ますますひど

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くなり、普遍的な社会現象になっている」。「中国大陸の腐敗の程度はすでに

一種の悪性ガンのように急速に全社会に広がりつつある。腐敗はすでに中国で

最大の社会的汚染になっている。今後、中国の改革と現代化の歩みは、中共党

内の悪性腐敗によって中断される危険がある」というのが、胡鞍剛らの基本的

認識である。

彼らはさらにこう警告する。大衆はいま、一部の幹部を「貪官汚吏」「土豪劣

紳」と非難している。腐敗、とくに「党内の高層の問題」を解決しなければ、

共産党は「統治の正統性」の基礎を失うであろう、と。

「水は舟を載せるが、水はまた舟を覆す」(原文=水可載舟、亦可覆舟)とい

われるように、共産党が制度的腐敗のゆえに、崩れることはあり得ないことで

はない。この「制度的腐敗」という認識こそ、胡鞍剛らの考え方の核心である。

中国社会において、官僚の腐敗は伝統的問題であるが、今日の構造的腐敗現象

には今日的特徴がある。つまり、計画経済体制から市場経済体制への過渡期に

おいて、市場価格と公定価格の乖離が大きいために、公定のものをヤミ市場に

回そうとして贈賄の余地が生まれるという。これが第一の特徴である。腐敗反

対に対する抵抗は、中共内部こそにある。これが第二の特徴である。党内にさ

まざまの「特殊な利益集団」が生まれている。これらの集団は、当該集団の利

益の極大化を目標として行動する。彼ら「当該集団の利益」には関心をもつが、

社会全体の富や損失は顧みることをしない。

わが国の「各省あって国家なし」「省益あれど、国益なし」に似たところがあ

るが、制度的腐敗、構造的腐敗退治がお茶を濁して終わらないことを切に望む。

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神奈川政経懇話会、1994 年 10 月 15 日

人事面で強化を図る江体制

中国は一〇月一日に建国四五周年の国慶節を地味な形で祝った。一〇年前の建

国三五周年(一九八四年)に際しては天安門広場で軍事パレードが行なわれ、

鄧小平が三軍を閲兵し、鄧小平路線の確立を内外に誇示した。五年前の建国四

〇周年は天安門事件の直後で厳戒体制のもとにあった。今年は江沢民が軍事パ

レードを閲兵することなども当初は考えられたようだが、鄧小平の指示で比較

的地味な記念行事になったと伝えられる。五年後の建国五〇周年に向けて、体

制を整えること、三年後に迫った香港返還に備えること、同じく三年後に予定

されている第一五回党大会を乗り切ること、これら中期的課題をにらんでのこ

とであろう。国慶節に先立って、一四期四中全会、すなわち中央委員会が開か

れ、江沢民体制の強化のために人事の手直しが行なわれた。一つは、姜春雲政

治局委員(山東省党委員会書記兼任)が中央書記処書記を兼任することになっ

たことである。姜春雲は近年、山東省の経済発展を指導するうえで大きな功績

をあげ、それが評価されて、九二年秋に政治局入りした。今回はさらに中央書

記処書記を兼任することになったものである。山東省は韓国の対岸にあり、韓

国との国交回復以後わずか二年余で韓国との貿易、直接投資受入れの面でも大

きな成果を挙げている。そのような指導者に中央の日常活動を兼務させること

になった。もう一つは呉邦国政治局委員の中央書記処書記兼任である。呉邦国

は一九四一年生まれの五三歳、政治局委員二〇名のなかでは、胡錦涛常務委員

五二歳に次ぐ若さである。「次の次」の指導者養成の意味も兼ねて、日常の党

務工作に専念するものとみられる。呂楓に代わって党中央組織部長も兼ねると

の観測も行なわれている。

今回の人事は、この二つが眼目である。呉邦国が上海市を離れ、中央入りする

のに対応して、上海市担当の政治局委員のポストを埋めなければならない。黄

菊上海市長が政治局入りしたのは、呉邦国の身代わりとしてであり、呉邦国が

占めていた上海市党書記のポストを兼任したからにほかならない。したがって

「上海市から二人の政治局委員」という言い方は妥当ではない。上海市担当は、

かつては呉邦国、今回は黄菊になったわけである。今回の人事配置の結果、政

治局常務委員レベルでは、江沢民(元上海市書記、市長)と朱鎔基(元上海市

書記、市長)、政治局委員レベルでは、呉邦国(前上海市書記)、黄菊(上海

市長、書記)と「上海四人組」が目立つようになった。

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さらに喬石(政治局常務委員、全人代委員長)と銭其シン(政治局委員、外交

部長)は、かつて上海市の学生運動の指導者であった。そして丁関根(政治局

委員、党中央宣伝部長)と李嵐清(政治局委員、副総理)は、それぞれ上海市

の名門大学たる上海交通大学および復旦大学の卒業生である。この四人を加え

ると、政治局委員二〇名のうち、上海市に関わりをもつ者は八名、すなわち三

分の一以上になる。ここから江沢民は「上海組で指導部を固めようとしている」

と見る見方がある。これはある意味では正しいが、別の意味ではあまり当たら

ない。

今回抜擢された呉邦国、黄菊の二人が上海時代の江沢民、朱鎔基の部下であっ

たことは確かだが、江沢民と朱鎔基は一枚岩ではなく、それほど仲がいいわけ

ではない。喬石と銭其シンは学生運動の仲間であり近い。しかし丁関根と李嵐

清は江蘇省生まれ、上海市でそれぞれ鉄道管理系と企業管理系の大学教育を受

けたが、その後はあまり接点がない。これらの条件を考えると、上海幇(パン)

と呼ぶのは、必ずしも適当ではない。人口一三〇〇万をもつ中国最大の工業都

市上海市は、単なる一地方ではなく、いわば全国区なのである。中国最大の都

市上海で行政能力、政治的実務能力を試された者が中央の指導部入りしたもの

と解釈したほうがよい。ただし、江沢民人脈と呼べる者は、はっきりしている。

顧問格として汪道涵元上海市長、助手として呉邦国、秘書格として曽慶紅(党

中央弁公室主任、元上海市副書記)、(龍共)心瀚(党中央宣伝部副部長、元上

海市宣伝部副部長)、周瑞金(『人民日報』副編集長、元『解放日報』編集長)、

巴忠(人炎)(武装警察部隊司令員)などであり、彼らは江沢民の手足であろう。

江沢民体制は固まりつつある。

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神奈川政経懇話会、1994 年 11 月 15 日

悪化する中国のエネルギー需給

中国のエネルギー需給をみると、一九九〇年までは一次エネルギーの生産量が

消費量を四〇〇〇~五〇〇〇万トン上回っていた。しかし、九二~九四年の一

〇%台成長のなかで、消費需要の激増に対して生産の伸び率は鈍化したために、

九〇年のエネルギー剰余は一〇〇〇万トンに急減し、九二年には消費が生産を

約一五〇〇万トン上回り、中国は一次エネルギーのベースで純輸入国に転じた。

九三年には原油においても純輸入国に転換した。なぜこのような事態がもたら

されたのか。第七次五カ年計画期(一九八六~一九九〇年)に原油の消費需要

は毎年約五〇〇万トンずつふえ、毎年約五〇〇万トンずつ増産が可能であり、

一九九〇年の原油生産は約一・五億トンになるとみていた。現実の原油生産量

は一九九〇年に一・三八億トンであり、予想よりも一二〇〇万トン不足、九三

年の生産実績は一・四五億トンであり、なお予想よりも五〇〇万トン足りなか

った。八八~九〇年までは約三〇〇〇万トン程度輸出していたが、九二年には

二四〇〇万トンと輸出がしだいに減少し、九三年にはついに二〇〇〇万トンの

大台を割り、他方で輸入は九〇年七〇〇万トンから九二年一七〇〇万トン、と

ふえ続けて、九三年には二〇〇〇万トンの大台に乗せて、中国は原油の純輸入

国となったのである。九三年の石炭生産量は一一・四一億トンで対前年二・二%

の増加であるが、その内訳をみると、「統配炭坑」(国有の重点炭坑)や「地

方国営」の炭坑生産量は伸び悩んでおり、生産量を伸ばしているのは、郷鎮炭

坑である。統配炭坑のシェアは八五年の四六・六%から九二年の四三・三%へ

と三・三ポイント減少している。地方国営も八五年の二六・一%から九二年の

二四・六%へと一・五ポイント減少している。これらの減少分をカバーしたの

は、郷鎮炭坑であり、八五年の二七・三%から九二年の三二・一%へとシェア

を四・八ポイントふやしている。中央国営、地方国営の炭坑が経営不振に陥り、

民間に狸掘りにも近い郷鎮炭坑が石炭増産の役割を担っているわけだ。その理

由の一つは、石炭価格が安すぎて、コストを償えないためである。政府が石炭

への固定資産投資を怠ってきたことも一因である。石炭不足を辛うじてカバー

してきたのが、狸掘りの郷鎮炭坑だが、これは鉱山事故を多発させ、また資源

を浪費させる形での生産増をもたらした点で望ましいものではなかった。さら

に「洗炭」の比率も小さいので、輸送の点でエネルギーを浪費させるばかりで

なく、都市への環境負担を大きくした点でも問題であった。電力不足は八〇年

には四〇〇億キロワット時、不足容量一〇〇〇万キロワットであったが、八九

年には八五〇億キロワット時、不足容量二〇〇〇万キロワットへと需給ギャッ

プはいっそう拡大している。これらの不足を補うために、小型火力発電所や小

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型ジーゼル発電所の建設があとを絶たない。これらは大型の火力発電所や水力

発電所と比べて効率が悪いので、しばしば禁止しているが、禁令は実行されな

い始末である。九〇年の単位発電所の容量が、わずか四・二万キロワットとい

う数字から分かるように、規模が小さく、発電・送電・配電のうえでムダをも

たらしている。七〇年代初頭の世界的な石油危機の過程で、中国が原油生産へ

の楽観的な見通しのもとに、「石炭から原油へ」のエネルギー転換を進めたこ

とも愚策であった。八〇年代の後半に火力発電所のために用いられる原油は約

一五〇〇~一六〇〇万トンであった。水力発電所と火力発電所の発電容量の構

成比は七〇年代には、三〇%対七〇%であったが、九二年には二四・四%対七

五・六%と水力の比重が減少し、輸送と環境への圧力を加えている。1)石炭の

増産が郷鎮炭坑に依拠していること、2)水力発電の比重が減少していること、

3)石油の輸出が減少し、輸入が増加しつつあること、4)原油価格が安すぎるた

めに、石油開発のコストを償えないこと、5)国有企業向けの安い電力価格で買

った電力を合弁企業に対して高価で転売すること、6)合弁企業向けに石炭や原

油の小型火力発電所が勝手に建設されていること、などエネルギー政策の貧困

が中国のエネルギー事情をいっそう悪化させているのは軽視できない。西暦二

〇〇〇年には五〇〇〇万トン、二〇一〇年には一億トンの原油を輸入すること

になると予想されている。これは日本のエネルギー事情にも大きな影響を与え

ることは確実である。

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平成 6 年 12 月 15 日 マネーサプライ統計の公表 中国人民銀行は今年第三・四半期から、国際的な枠組みに基づいた通貨供給量を定期的に

公表することになり、十月二十一日に最初の発表が行われた。これによると、九月末現在

の現金通貨M0は六千四百十二億九千万元であり、対前年同期二六。四%の伸びである。現

金通貨に当座預金、並日通預金(両者を合わせて「要求払い預金」と呼ぶ)を加えたM1は

一兆九千九百億元であり、同三二・五%の伸びである。M1に定期預金を加えたM2は四兆三

千五百億元で同三七・一%の伸びである。この数字からわかるように、中国の通貨構成は

現金通貨六千三百億元、要求払い預金は一兆二千六百億元、定期預金二兆四千五百億元で

あり、要求払い預金は現金通貨の約二倍、定期預金は現金通貨の約四倍である。つまり現

金通貨を一として、要求払い預金は三倍、定期預金は四倍という構造である。 中国のGDPは約三兆元だから、通貨総量M2はGDPの約一・五倍である。国家財政収入は

約五千億元であるから、現金通貨は歳入よりも三割程度大きい規模となる。現行の通貨供

給が過大か、過小かは成長率や市場経済化の程度とかかわっており一概には言えない。た

だ今後は中央銀行としての人民銀行の基準金剰や手形割引率、公開市場操作、中央銀行融

資などを通じて、通貨供給量のコントロールを行う予定だが、現在は金融システム自体の

制度作りの最中である。 前年の 2 倍、史上最高の外貨準備高 九月末の外貨準備高は三百九十八億四千万ドルであり、対前年同期の三倍、史上最高の水

準にある。 一~九月の輸出が二九・七%増、輸入が一五・二%増(輸出入で三二・一%増)

という貿易の順調さによる。今年初に断行された外貨見換券の廃止による交換レートの一

本化はひとまず成功し、人民元の対ドル・レートは一アメリカが八・五元程度で安定して

いる。設備投資の動向ほどうか。固定資産投資(国有部門)を見ると、 一~九月で五千八

百六十億元であり、前年同期四三・九%の伸びである。伸び率は対前年同期と比べ三二・

五β減少したものの、依然高い水準である。これは投資抑制措置にもかかわらず、中国経

済が強い成長力を示すものと言えよう。 要するにブレーキを踏んでも投資意欲が抑えきれないのであり、中国経済はいま発育盛り

なのだ。エネルギー分野、運輸・郵便通信事業などの基礎産業、インフラ部門への投資も

一千億元を突破し、投資構造にも改善が見られたと国家統計局では分析している。 手当支給で労働者は高所得水準 国民収入(国民所得)を見ると、 一~九月の都市部の一人当たり月間生活費収入は二百

五十五元であり、対前年同期三四・六%増、物価上昇分を除いた実質伸び率では八・三%

増となった。高いインフレ率にもかかわらず、実質消費が八%合の伸び率を維持している

ことは、企業が物価手当などさまざまな手当を支給することによって、労働者の可処分所

得の伸びが高い水準を維持できていることを意味している。つまり中国経済は悪性インフ

レに陥っているのではなく、高度成長に伴う価格体系の構造変化、構造摩擦や消費生活の

高度化を伴う値上がりだと見る必要があろう。実収入の増加で生活水準が向上し、食費の

割合が低下し、衣類消費は量から質へ転換しつつある。 食費は月一人当たり百十二元であり、総支出に占める比重は四九・三%である。衣類消費

は三六・五%増である。家庭設備用品は四四・五%増え、交通、通信費支出は四・七%に

なった。農村部の一十九月の現金収入は一人当たり対前年同期三百十一元多い八百三十

八・四元になり、物価上昇分を除いた実質伸び率は一〇%である。収入の伸びをもたらし

たのは、農産物価格の買い付価格の引き上げや郷鎮企業の発展によるものである。農村住

民が郷鎮企業などから得た労働報酬は一人当たり百四十七・五元で対前年同期三八・五%

増である。インフレが年金生活者や低所得層の生活困難をもたらしていることは確かだが、

実質消費は都市で八%、農村で一〇%の伸びを示している以上、過度に警戒しなければな

らないような性格のものではない。むしろ社会保障の課題なのだ。 中国経済全体からすると、予想される新規の労働力人口の供給に備えて、むしろ雇用の拡

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大こそ急務だ。この分脈でインフレ抑制よりも、成長に力点を置く経済政策は基本的に正

しいと考えるべきである。

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新年中国の課題は三改革 1995 年1月号 鄧小平はすでに引退、大乱なし 1995 年2月号 順調に後継固める江体制 1995 年3月号 改革中国への三つのカギ 1995 年4月号 統一も独立もできない台湾 1995 年5月号 陳雲死去と天安門事件 1995 年6月号 世界的視点でみる中国は 1995 年7月号 中国、金融引き締め効くか 1995 年8月号 九五計画で所得4倍増へ 1995 年9月号 21世紀の中国像描く 1995 年 10 月号 示唆に富んだ李登輝総統懇談 1995 年 11 月号 中国の人権再考を 1995 年 12 月号

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『政経かながわ』、1995(平成 7)年 1 月 5 日 新年の課題は 3 大改革 一九九五年の中国を展望してみたい。おおかたの強い関心を呼んでいるのは、X デー、す

なわち「鄧小平がマルクスに会う日」であろうが、これは基本的にはすでに織り込み済み

である。九四年九月に開かれた十四期四中全会で江沢民を中核とする中国共産党の第二代

の指導体制がすでにスタートしているからである。中南海において新指導部が実質的に新

たなスタートを切ったのに対応し、党組織の再建にも力を入れている。 江沢民はいう。「複雑で変化の多い国際情勢のもとで、社会主義市場経済を樹立する過程

において、中国共産党は新たな試練に直面しなければならない。十四期四中全会では党の

建設を全面的に強化し、改善するために方向が明示された。党の建設を立派に行い、党の

戦闘力、創造力、党の指導水準、執政の水準を大いに高めてこそ不敗の地に立つことがで

きる」 九五年の中国経済の課題は、第一に国有企業の改革、第二に失業保険や医療保険など社会

保障体制の改革、第二に金融財政制度のさらなる改革であろう。国有企業の改革とは、実

質的には赤字企業に対する破産処理と優秀企業の株式化である。破産措置は失業対策とセ

ットで行うほかないので、これまで繰り延べされてきたが、すでに失業保険法のモデルな

どもできており、新年から試点都市において逐次断行されることになろう。すでに上海で

は最長二十四カ月まで月当り百五十元支給するひな型ができている。 10%成長ならばインフレ心配ない GNP の成長率は九四年の一一・五%をさらにスローダウンさせて九~一〇%に抑える意

向である。成長率をこの程度に抑えることができれば、成長に伴う成長インフレも一段落

し、 一〇%合の半ばに落ち着くはずである。九四年のインフレの最大の要因は相対価格の

調整によるものである。すなわち値上がり分の六割は食料品の値上がりと関わっていた。

食管財政の赤字解消には生産者価格と消費者価格の逆ずヤを改善するほかない。九四年の

消費者価格の値上がりをもたらしだ要因の過半は一過性のものである。九五年の食糧生産

量が平年作を確保できるならば、この部分については落ち着くはずである。 中国ではいま市場経済の大波に洗われて拝金主義と利己主義が横行し、汚職やゆすり、た

かりがまん延している。ホテルのボーイに 1~2 元のチップを渡したとする。五~一〇元を

期待している彼らは、露骨に少ないといった表情をみせる。タクシーの運転手は領収書を

書かず、売り上げをごまかそうとする場合が少なくない。役人は通常の許認可を通常の手

続きでは行わない。その権限をいわゆる「翻牌公司」に委ねて法外な手数料をとる。翻牌

公司とは、名前だけの公司で、実は役所そのものである。許可証の高額販売のための仕掛

けにほかならない。こうして下から上まで、プレゼントや会食、リベートや袖の下なしで

は何も進まない。 ゆすり、たかりの経費の原価編入を 合弁企業の渉外担当者はこれらの費用をコストとして用意しておかないことには、うまく

管理できないし、金銭支払いのもつれから監禁され、脅迫されるといった事態さえ珍しく

ない。こうした社会風潮のもとで社会の秩序維持に責任をもつ共産党としては、県レベル

以上のポストについている中級、高級幹部の再教育に取り組もうとしている。中央の部級、

地方の省級幹部は、時期を分けて順を追って北京の中央党校に送って学習させる。また処

長級(日本の課長に相当する)以上の幹部は五年内に各省の党校で順々に学習させようと

しているが、泥縄の感がしないでもない。 一部の地方、 一部の部門では、徒党を組んで、役人のポストを金銭で売買する悪習も横

行している。役人の汚職がエスカレートし、個々の許認可証明書の売買段階から、ポスト

自体の売買に発展しているわけだ。中国では出来、買宮、猟官現象は珍しくない。ある詐

歎グループは解放軍の階級章を大量に売りさばき、選捕された。通し番号つきの領収書や

消費税用の領収証の売買だけでなく、最近は偽札の売買さえ行われ、広東省では流通現金

の一%は偽札だとみる推定も行われている。

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共産党独裁は秩序の維持には好適だが、独裁体制の落とし穴は権力の腐敗である。腐敗対

策をなおざりにすると民心は政治から離れる。庶民という水は幹部という船を浮かべるが、

船を覆すのも水なのだ。こうした紀律の緩みを建て直し、社会秩序の安定を確保すること

はいまや江沢民指導部にとって緊急の課題である。

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『政経かながわ』、平成 7 年 2 月 15 日 鄧小平はすでに引退、大乱なし 鄧小平の老衰情報がマスコミを騒がせた。発端は三女の蕭榕が『ニューヨーク・タイムズ』

紙の記者に語った談話である。彼女は昨年三月に日本を訪問した際に「父は毎日三十分歩

く」と説明して話題になったことがある。今回は、一年前の談話の軌道修正に狙いがあり

「一年前と比べて衰えた、だれかの支えがなければ、 一人では立てない、車椅子には一度

乗ると足腰が弱くなるといって乗ろうとしない、しかし九十歳の老人としては元気なほう

だ」といった趣旨の発言をした。およそ一週間後、香港の『エイシァン・ウオールストリ

ート・ジャーナル』紙が鄧小平「昏睡状態説」を流し、香港の株価を下げる騒ぎとなった。

この香港情報は日本でも騒がれ、 一面トップに掲げる新聞さえあった。だが、鄧小平情報

の扱い方は「万犬、虚にほえるこのたぐいではないか。 噴飯物の鄧小平重体の報道 蕭榕はなぜ記者会見に応じたのか。彼女の書いた『わが父鄧小平』は日本では昨年二月に

翻訳が出たが、今春はアメリカとフランスでそれぞれ英語版と仏語版が出るので、その出

版記念パーティーのために彼女が春節明けに欧米に行くという次第なのである。したがっ

て当面は、容体の変化はないと判断してのことであろう。 つまり蕭榕の発言にもし疑間があれば、アメリカやフランスの出版社に問い合わせて、彼

女の旅行がキャンセルされたのかどうかを確認することが先決であったはずだ。各社がそ

の種の取材、確認をまったく怠り、蕭榕発言を単に「重体」「危篤」「植物人間状態」など

と書き変えただけの記事を「中国筋」「消息筋」のニュースとして流したのは、まことに噴

飯物であった。特派員やデスク諸氏の猛省を促したい。 鄧小平の健康にかかわる情報は、むろんトップシークレットであり、その真相を知ってい

るのは、鄧小平ファミリーとその周辺だけのはずだ。しかも真相を知りうる立場にある人

びとはまず絶対にそれを語らない。二女の蕭榕が「鄧小平家の外交宮」「鄧小平ファミリー

のスポークスパーソン」とあだなされるのは、彼女が対外的に説明する役割を与えられて

いるからである。 早い話「わが父鄧小平」は自伝を書かない父に代わって、いわば「皇帝の伝記」を書いた

欽定版なのである。私はたまたまこの日本語版(徳間書店)の「解説」を書き、来日した

彼女と対談したことがあり(『サンサーラ』九四年五月号)、鄧小平情報の伝達者としての

彼女の役割に直接触れる機会があったので、彼女の発言の合意を誤解なく受け止めること

ができたつもりである。 鄧小平引退を受けた呉邦国らの人事 実は、昨年九月に開かれた十四期四中全会を契機に、鄧小平は最高実力者の地位から引退

したことが『人民日報』(九四年九月二十九日付)の一面トップで報じられている。もはや

政治に関与しないことを公式に表明したのであるから、いまや鄧小平は″元″最高実力者、

いまはただの老人にすぎない立場なのだ。情報公開の不十分な中国側にも一半の責任があ

るとはいえ、いぜんとして最高実力者扱いし、その死去とともに中国で権力闘争が始まり、

大乱に陥るといったたぐいの無責任きわまる言説がマスコミを賑わすのは、憂慮に堪えな

い。 この種の質の悪い情報が外国語に翻訳され、日本発のデマ情報が世界をかけめぐるのは、

日本のマスコミ界の名誉を著しく傷つける結果になるからだ。鄧小平は一九九四年八月二

十二日に満九十歳の誕生日を迎え、これを機に″黒幕引退″を決意したようである。表舞

合からの引退は一九八九年十一月九日に中央軍事委員会主席を引退したことで終わってい

る。いまや″舞合裏からの引退″なのだ。鄧小平のこの申し出を受けて、十四期四中全会

は会議の主題を経済問題から後継問題に一転させることを余儀なくされた。 鄧小平の黒幕引退の提案を受けて、予定した議題を棚上げし党の建設問題を集中的に討論

し「党の建設を強化するいくつかの重大問題についての中共中央の決定」を行った(『人民

日報』九四年九月二十九日付)。このとき、呉邦国(上海市書記)と姜春雲(山東省書記)

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の両政治局委員の中央書記処入りと黄菊(上海市長)の政治局入りが決定された。この人

事についてはマスコミは報道したが、肝心の″主題変更の意味″についての解説はきわめ

て不十分であった。これが今回の揣摩憶測狂騒曲の発端であろう。

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平成 7 年 3 月 15 日 後継体制を固める江沢民 北京では二月五日、日本の国会に相当する全国人民代表大会(第八期第二回会議)が開会

された。この会議は十八日に人事を決めて閉会する予定である。国務院の李鵬総理は過去

一年の政府活動を総括し、 一九九五年の施政方針を明らかにした。これによると、九四年

の GDP 成長率は 11.8%であり、中国の GDP は初めて四兆元の大台を超えた。九二年以来、

3 年続きの2ケタの成長のもとで、インフレが亢進し、サービスを含めた消費者物価上昇率

は前年比 24.1%に達した。九五年の GDP 成長率の目標は八~九%、インフレ抑制の目標は

一三%とされている。政府は過熱対策、インフレ対策に必死であり、控え目な目標を掲げ

ているが、中国の成長力は極めて強く、また地方経済に対するマクロ・コントロールは容

易に浸透しないので、今年の成長率もおそらくは目標を上回る可能性が強い。 今年は高度成長のあとの景気の踊り場 つまり、控え目な目標を設定して、実際にはこれを上回るケースがほとんどパターン化し

ている。九五年は三カ年の高度成長のあとの一種の″景気の踊り場″的な局面にある。上

期にインフレ対策に力を入れ、農業、とりわけ食糧増産などの措置が採られ、物価が安定

するならば、後半からは再度、高度成長への軌道修正も不可能ではない。 昨年の消費者物価値上がりの過半は、農産物価格の値上がりを直接、間接、の要因とする

ものであった。不作という自然環境の問題と生産者価格と消費者価格の逆ザヤ解消のため

の相対価格の調整措置が裏目に出て、投機資本の介入を許した結果、異常な値上がりに見

舞われたものである。九五年はその対策に力を入れているので、安定するはずである。 とはいえ、GDP の成長率を上回るものとみられる。目標は中期的にみて GDP 成長率の範

囲内に抑えることだが、現在は相対価格の調整を進めている途中なので、 一時的には成長

率を超える局面も続く。ただし、郵小平時代の十五年間を通してみれば、GDP は三・八倍

になったのに対して、物価指数は二・五倍にとどまっており、生活水準の向上は明らかで

ある(拙著「鄧小平なき中国経済」四〇ベージ)。 ところで鄧小平氏の健康問題とからんでポスト鄧小平の亡霊に脅えるような論評が後を

絶たない。たとえば、首都鉄鋼公司が香港に設けた子会社の首都鉄鋼特持株有限公司(香

港)の周北方・童事長が経済犯罪の容疑で逮捕され、父親の周冠五会長が引責辞任する事

件が二月中旬に発生した。周冠五と鄧小平の親密な交際はかねて有名であるため、江沢民

が鄧小平側近グループに対して挑戦を始めた、といったたぐいの権力闘争説がにぎやかで

ある。 汚職を計さぬ江も鄧小平ファミリーは保護 腐敗・汚職問題の放置は、体制をゆるがしかねない。その場合、スケープ・ゴートが必要

だが、鄧小平周辺の人脈でも容赦しないというメッセージを出すことは、汚職分子に対す

る警告としても、処分を断行する江沢民の権威確立の観点からしても、 一石二鳥の妙手で

ある。これはかつて鄧小平が長男 Deng 樸方の「康復公司」に対して大ナタを振るったの

と似ている。江沢民のこの措置は威しであるから、鄧小平ファミリーそのものに対しては、

むしろ徹底して保護する措置をとるであろう。娘の蕭榕(Deng 榕。毛毛)がアメリカで「私

の父ではなく、現在の指導者である江沢民を見てほしい」と語っているのは、示唆的であ

る。江沢民は鄧小平人脈の周辺は公憤を静めるためにやり玉に挙げるが、鄧小平ファミリ

ーに手をつけることはできないし、ありえないのだ。全人代では呉邦国(前上海市書記)、

姜春雲(前山東省書記)が国務院副総理に昇格し、それぞれ工業と農業を担当するものと

みられている。これは江沢民執行部を強化することになろう。人事としては、このほかに

鄭斯林(江蘇省長)、蒋祝平(湖北省長)、聞世震(遼寧省長)、李長春(山東省長)、楊正

午(湖南省長)、回良玉(安微省長)などの省長人事が進む。 さらに解放軍では杜鉄環中将(済南軍区政治委員)、隗福臨中将(成都軍区司令員)とい

ういずれも五十七歳の若さで抜てきされた軍区級幹部が示すように、大十五歳定年の厳守、

第一線の若返りが着々と進んでいる。最後に、全国政治協商会議では天安門事件で矢脚し

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ていた改革派の銭李仁(元「人民日報」社長)が大会スポークスマンとして復活した。江

沢民体制は順調に後継体制を固めているとみてよい。

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『政経かながわ』、平成 7 年 4 月 15 日 改革中国への三つのカギ 日本の国会に相当する全国人民代表大会(二月五日~一八日)が終わった。中国の最高実

力者と呼ばれていた鄧小平が政活生活からの引退を公表したのは昨年九月であり、ポスト

鄧小平の時代はこのときに事実上、スタートした。今回は江沢民体制が実質的にスタート

してから初めての全国人民代表大会であった。会議では李鵬首相の「政府活動報告」のほ

か陳錦華国家計画委員会主任の経済報告、劉仲藜財政部部長の九四年決算、九五年予算報

告が行われ、さらにいくつかの法律が制定され、指道部の人事補充が行われた。 李鵬首相は今年の経済の運営の課題を″改革・発展・安定″の三つのキーワードで示しイ

ンフレ対策がすべてのカギになると指摘した。昨年の物価上昇率は二割を超えたが、今年

は一五%程度に押さえる方針である。昨年の値上がりの約半分は農産物の価格改定と不作

のためであった。価格改定は一過性の要因であり今年は農業対策に力を入れているので、

よほどの天候不順にならない限り食糧価格は安定すると予想される。 経済発展、汚職追放で支持を獲得 インフレ対策の第二は通貨供給量のコントロールである。このため政府の財政赤字をこれ

以上増やさない方針が提起されている。インフレ対策の第三は固定資産の投資規模を押さ

え、過度な消費を押さえること。第四に流通体制の改革があげられている。GNP の成長率

は昨年は一一・八%であった。九二年以来、三年続きの二けた成長だ。今年は八~九%と

いう目標を示している。慎重な方針を出しても実績がこれを上回るというのが通例であり

恐らく一〇%前後になろう。 インフレ対策と並ぶ第二の課題は農村経済の発展である。昨年の食糧生産量はおよそ四億

四千五百万ントであり、九二年よりも千三百万ント減産となった。これは作付面積の減少

と一部地域での干ばつと水害のためである。この対策として農業投資の増加や化学肥料、

農薬、農業機械の増産、そして農業用生産手段の流通チャネルの整とんが考えられている。 第三の大きな課題は国有企業の改革である。国有企業の三分の一が赤字といわれて久しい。

赤字の国有企業を破産させるとなると、失業対策が必要だ。失業保険制度や年金制度は手

直し中で、問題が残っている。しかし、赤字企業を温存することは社会的無駄であり今年

は朱鉛基、呉邦国両副首相の指揮のもとで国有企業にメスを入れることになろう。中国に

は「民は食をもって天となす」ということわざがある。何よりもまず経済を発展させ、さ

らに汚職追放、腐敗退治をやり抜くならば民衆の支持が得られ、江沢民体制は安定するも

のと見られる。 全人代反対票の意味するものは 全人代は立法機関であり、法律を制定する役割をもっている。今回制定された″中国人民

銀行法″はこの一銀行の中央銀行としての位置づけを明確にするものであり、地方の支店

に集中的な管理ができるようになる。このことは逆にいえば、地方政府の指導者たちが地

方の支店に対して勝手な干渉をやりにくくなることを意味する。こうした事情のためと思

われるが採決の結果は賛成千七百八十一票、反対・棄権八百九十七票となり約三分の一の

事実上の反対票が出た。教育法は二五%の反対・棄権票があり、九五年予算には三百十八

票の反対・棄権票が出た。 最後に、人事問題では安定団結を維持する立場から、増やすだけで、減らさない方針をと

り呉邦国、姜春雲氏の副首相人事だけが行われた。呉邦国の得票は賛成二千三百六十六票、

反対・棄権三百七十一票であり、不支持率は一四%であった。姜春雲は賛成千七百四十六

票、反対・棄権九百九十九票であり、不支持率が三分の一を超えた。「上海閥」などと反発

の伝えられた呉邦国への反対票が割合少なく、山東省での農業増産で指導力を発揮して中

央入りした姜春雲への反対が多かったのは意外だった〔これは汚職に対する反発〕。これで

李鵬首相を六人の副首相が支える体制ができたことになる。 呉邦国は工業担当、姜春雲は農業担当である。留任の副首相は四人だが筆頭は経済を総括

する朱鉛基、そして計画を担当する郎家華、貿易と教育を担当する李嵐清、外交を担当す

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る銭其シンである。全人代の反対票は何を意味するか。議会が党や中央政府のやり方に対

して不満の意思を表明したもの、政治の民主化の底流を示すものと解釈してよい。民主化

を促進する上で全人代の役割は今後大きくなろう。

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平成 7 年 5 月 15 日 統一も独立もできない台湾 台湾の李登輝総統は四月八日、中台統一に関する総統の諮問機関、国家統一委員会の席上、

対中国政策について演説し、台湾に対する武力行使の放棄を明確に宣言するよう中国側に

呼びかけた。この李登輝演説は江沢民中国国家主席が春節を期して台湾向けに発表した八

項目提案に対して、回答する形で行われたものである。李登輝演説の骨子は、台湾海峡の

両岸に二つの政治実体が存在している現実のうえに立って、中国統一を追求する。平等な

立場で国際組織に参加し、指導者同士が自然な形で会談する、などである。江沢民の八項

目提案は中国の従来の合湾政策を踏まえつつ「中国人同士は戦わない」など微妙な言い回

しで対話を呼びかけたものであった。これに対する李登輝総統の回答も従来の立場を確認

しつつ、指導者同士の会談を逆提案している。 興味深い原則も踏まえた対話の模索 双方ともに従来の原則を踏襲しつつも、前向きに対話の方向を模索しようとしている点が

興味深い。大陸側からすれば、ポスト鄧小平期の諸問題を抱えて、合湾問題に有効に対処

できないあせりがあろう。他方、台湾側は年末の立法委員選挙(国会議員に相当)や、来

年の総統直接選挙を控えて、対中政策は慎重を要する。 独立を主張して武力介入を招く愚は避けたいし、さりとて現状では大陸との統一に賛成す

る台湾人は皆無に近いであろう。大陸側からすれば、台湾の選挙前後に合湾独立を主張す

る勢力に牽制球を投げておき、時期や方法は棚上げしてもともかく、統一の枠組みのなか

で対話のチャネルを維持しておけばよい。 要するに、現段階では「統一もできず、独立もできない」のが内外の諸条件なのである。

このような状況を双方ともに冷静に認識しつつ、それぞれの国内情勢を強く意識しつつ、

対話攻勢を行っているのである。虚々実々の駆け引きの展開であり、日本人が口を出す余

地は全くない。日本としては台湾海峡の波を荒立てるような愚を避けるのが賢明であろう。

政治的には厳しい駆け引きが続いているが、大陸と台湾の経済関係はますます深まりつつ

ある。昨年の海峡両岸の貿易は往復百六十二億ドル、香港と大陸との貿易は往復四百二十

六億が、両者で五百九十億ドルになる。この金額は日中貿易の四百七十九億がより三割以

上大きい。台湾だけでも日中貿易の三分の一以上に相当する規模になっているところであ

る。 政治的民主化を牽引するもの 中国への直接投資をみると、 一九九四年の実績は対前年二二・八%増の三百三十八億が

であった。その内訳をみてみると、香港マカオ二百二億が、台湾二十二億九千万が、アメ

リカ二十四億九千万が、日本二十億八千万がである。合澄の直接投資はすでに日本よりも

五割も多いのだ。私は昨年訪れた江蘇省昆山市開発区の合湾企業群をいま想起している。

貿易であれ、直接投資であれ、合湾海峡両岸の経済的結合の深まりは、すでに後戻りので

きないほどのものになっている。今後はさらに進展する見通しである。 私は招かれて二月末に合北を訪れ、あるシンポジウムに出席し、こう発言した(ち大陸が

計画経済を放棄し市場経済に転換する上で、台湾の経済発展の成功は大きな牽引力となっ

た。今後は台湾の政治的民主化の成功が大陸全体の民主化の牽引力となることを期待した

い)と。合湾の独立派も大陸の保守派も、私の意見に反対するはずだが、私はこの可能性

を確信している。台湾訪間で最大の収穫は、辜振甫氏と会見できたことであった。同氏は

いうまでもなく台湾海峡基金会(略称・海基会)董事長であり、江道涵海峡両岸関係協会

(略称・海協会)会長と二年前にシンガポールで第一次江道酒・辜振甫会談を行ったこと

は、よく知られていよう。この夏には辜振甫氏は新中国以後初めての訪中を行い、両岸の

経済問題について江道涵氏と北京で会談するつもりだと説明してくれた。辜振甫氏が人品

優れた大人物であるという風評はかねて耳にしていたが、お会いして、まことに大人物と

の印象を得た。第二次会談は当然のごとく、江道涵氏が台北を訪れてやることになろう。

両岸関係はそこまできているのである。

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『政経かながわ』平成 7 年 6 月 15 日 陳雲死去と天安門事件 中国の長老指導者の一人、陳雲は四月十日午後二時四分に北京で死去した。日本の共同通

信がこのニュースを報じたのは、死後九時間を経た十一日午前零時前であった。中国のテ

レビがこの死去を初めて流したのは、十一日夜七時の中央電視合ニュース番組で訃告を全

文読み上げることによってであった。死去二十九時間後のことである。陳雲の訃報はなぜ

こんなに遅れたのか。訃報の中で天安門事件に触れた個所があり、その文言に陳元(長男、

中国人民銀行副総裁)ら遺族がクレームをつけたからだという。このクチコミ情報はどう

やら真相に近いようである。訃報における文言の異同を確認してみよう。 新華社が配信した追悼分「陳雲同志の偉大な、光輝く一生」(『人民日報』四月十七日付)はこう述べている。「第十三回党大会以後、陳雲同志は党中央の指導工作を退き、中央顧問

委員会主任を担当した。鄧小平同志を核心とする第二代の中央指導グループから、江沢民

同志を核心とする第二代の中央指導グループに順調に移行し、党と国家の安定を保持する

重大な意志決定の中で、陳雲同志は非常に重要な役割を果たした。 一九八九年の動乱反対

の中で、陳雲同志は旗幟鮮明に党と人民の根本的利益のために大量の工作を行った。党の

第十四回党大会以後、彼は引退の生活を送った」 強硬鎮圧派のイメージぬぐう 天安門事件当時の陳雲の態度を示す下線の個所が正式の訃告(すなわち中共中央、全国人

民代表大会常務委員会、国務院、全国政治協商会議、中央軍事委員会の五つの名義で出さ

れたもの。『人民日報』四月十二日付)では削除されている。訃告は八七~九二年の陳雲に

ついてこう述べている。「第十三回党大会以後、陳雲同志は党中央の指導工作を退き、中央

顧問委員会主任を担当した。鄧小平同志を核心とする第二代の中央指導グループから、江

沢民同志を核心とする第二代の中央指導グループに順調に移行し、党と国家の安定を保持

する重大な意志決定の中で、陳雲同志は非常に重要な役割を果たした。党の第十四回党大

会以後、彼は引退の生活を送った」 もう一つの資料は保守派の長老宋平の追悼文である(『人民日報』九五年五月二十三日付)。 「一九八九年に動乱反対のカギになる時にあたり、陳雲同志は中央顧問委員会常務委員会

を開き、老同志が断固として鄧小平同志を核心とする中国共産党を擁護し、動乱を制止す

る党中央の正しい決定を断固として擁護することを求めた」。 風当たり避けようとするファミリー これら二つの文献を比較すると、正式の訃告が他のものと異なっており、動乱対策におい

て陳雲が強硬派のリーダーの一人であった事実を薄めようとしているものと解釈できるわ

けだ。しかも、それを強く主張したのが陳雲ファミリーであったというクチコミ情報(い

わゆる小道消息)を裏付ける形になっている。風説によると、陳雲ファミリーの遺族たち

は、ポスト鄧小平期における天安門事件評価の変化、すなわち名誉回復を予期して風圧を

避けるために、このような扱いを要求し、江沢民指導部はこの遺族側の要請をいれた文言

を認めたという。 このエピソードは中国の政治の現実について、いくつかの事実を教えてくれる興味深い材

料である。まず第一に、葬儀は死者のためではなく生者のために行われること。陳元たち

の二代目は中国では太子党と呼ばれ、風当たりが強いが自らの安全保証のために父親の功

績をあいまいにするとは、政治的見識が疑われる。ただし、その程度の人物なのであろう。 第二に、保守派の長老の子弟たちがこのように浮き足だっているとすれば、ポスト鄧小平

期について、さまざまな予測が流れるのも自然な成り行きであろう。ただし、彼らは最悪

の事態に備えて保険をかけているのであり、必ずしも天安門事件の名誉回復がただちに行

われるものとは思えない。中国の政治の民主化、多元化は不可避だがそれは経済の発展を

踏まえて、それをさらに促進するものでなければなるまい。 第三は、追悼式や告別式をやめたことである。陳雲と鄧小平は党内序列はほぼ同格である

から、鄧小平の場合もこれらの式を省略する可能性が強まった。となると、ポスト鄧小平

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とはまさに現在の姿そのものということになる。ポスト鄧小平は昨年九月からすでに始ま

っているのだ。

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『政経かながわ』平成 7 年 7 月 15 日 中国はユーゴの二の舞か 最近、中国の論客たちと議論する機会が増えた。『読売新聞』が東アジア国際会議のために、

招いた二人の中国人エコノミストおよび経団連がオーストラリア国立大学とのシンポジウ

ムのために招いた客のなかに含まれていた中国人エコノミストの計二人である。 まずは旧知の呉敬(王連)教授(国務院発展研究センター研究員)だが、呉教授は過去十余年、

終始一貫、市場経済化の旗振り役を務めてきた。あまりにも市場を強調するので″市場の

呉″″呉市場″のエックネームをもつ。私は小著『中国のベレストロイカ』で、改革派の

群像を描いたときに、同氏を紹介した。その縁で後日二回ほど対談し、昨年は神奈川サイ

エンス・パークのシンポジウムで顔を合わせ、今年もまた対話の機会を得たわけである(「中

国・安定成長への課題」『読売新聞』九二年六月六日付)。 読売が招いたもう一人の論客は、胡鞍鋼氏(中国科学院国情分析小組研究員)である。同

氏は八九年に出版した『生存と発展』(科学出版社)および『人口と発展』(浙江人民出版

社、八九年十二月)で注目された。私は早速、二冊の本を取り寄せ、人口と食糧問題、環

境問題について同氏の見解を小著「図説・中国の経済」に引用した。 中国はユーゴスラビアの二の舞か 九二年九月二十一日、北京発の AFP 時事が「中国はユーゴスラビアの二の舞か」と題す

る胡鞍鋼発言を伝えたことがある。中国の GNP に占める中央財政の比率がいまや肉戦で混

迷を深めるユーゴと同じレベルだ。この比率を上げて中央政府の指導力を強化しなければ、

ポスト鄧小平の中国は分裂必至だという警告であつた。 いささかオオカミ少年的な話だが、中央の財政を強化するために、税制を改革せよ、とい

う主張は国税と地方税を分けることによって、中央税の比率を高めようと意図していた朱

鎔基副総理にとって絶好の援軍となった。朱鎔基らはこのイデオローグの警世の言を極力

利用して九四年元旦から、曲がりなりにも分税制を導入することに成功した。 私がかねて目をつけていた胡鞍鋼は、いまや有名人となった。昨年六月には中共中央党校

に招かれ、省レベルの書記などを相手に「地域格差の拡大」の問題を講義している(香港

『明報』九五年四月二十五日)。ただし、彼の地域格差拡大論に私は異論があり、その討論

の概要は前掲の『読売』に載っている。彼の最新の著作は『中国国家能力報告』である。

彼の説く国家能力の核心が税制なのである。彼は五三年生まれの工学博士、当然のことな

がら数学や数字に極めて強い。 研究者のアメリカ留学帰りが目立つ 六月十二日、経団連会館である国際シンポジウムが開かれ、私も招かれて報告した。主催

者はオーストラリア国立大学内にもうけられたオーストラリア・日本リサーチ・センター

と経団連であり、テーマは「東アジアの経済発展の展望――中国経済の未来」である。オ

ーストラリア国立大学の P・ドライスデール教授、R・ガーノウ教授(前中国大使)が来ら

れたのは、主催者だから驚くには当たらない。私がいそいそと出かけたのは、同大学の客

員教授をも兼任している中国からの参加者、北京大学中国経済研究中心主任林毅夫教授の

名をリストに見いだしてのことであった。農業経済学者・林毅夫の名は、いくつかの論文

を通じておなじみだが、お会いするのは初めてであった。 林教授は五二年、台湾の宜蘭県生まれである。七八年に台湾の政治大学企業管理研究所を

卒業し、企業管理の分野で修士号を得た。その後、台湾海峡を渡り、七九年に北京大学経

済学部に学び、八二年に経済学修士号を得た点がユニークである。その後、アメリカのシ

カゴ大学経済学部に留学し、ノーベル賞エコノミストのシュルツ教授のもとで農業経済学

を学び、八六年に博士号を得た。さらにエール大学で一年研究を続け、八七年に帰国し、

北京大学教授となった。林教授は中国エコノミストの芥川賞ともいうべき孫治方賞を九二

年に得ている。署名付きの近著『中国の奇跡――発展戦略と経済改革』(上海人民出版社、

九四年)をプレゼントしていただいたのは思わぬ収穫であった。アメリカ留学帰り研究者

の活躍が目立つが、彼らは、視野がきわめて広い。たえず、グローバルな視点から中国経

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済を眺めている。

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平成 7 年 8 月 15 日『政経かながわ』 中国の金融引締め 朱鎔基副総理は金融改革の陣頭指揮を続けてきたが、人民銀行の中央銀行化の目途が立ち、

商業銀行法が七月一日から施行される段取りになったことを踏まえて、人民銀行の総裁の

地位を退いた。後任の新総裁には、戴相龍副総裁が昇格した。戴相龍は上海の交通銀行の

総経理であった二年前に、朱鎔基によって抜てきされた。以後、マクロ経済のコントロー

ルを担当していた。現在の金融体制改革は、 一九九二年秋に決定された五十力条プログラ

ムに基づいて実行されているが、九四年元旦以来の改革の主な内容は、以下の六カ条であ

る。まず中国人民銀行を中央銀行に改組し、中央銀行としての機能を強化すること。これ

は今春の全人代で立法化された。 二つの政策融資専門銀行を設立すること。このタイプの政策銀行としては、国家開発銀行、

中国輸出入銀行、中国農業発展銀行がある。開発銀行や輸出入銀行は日本のそれをモデル

としたといわれる。農業発展銀行のモデルも農林中金や農林漁業金融公庫であろう。 旧「疑

似政策銀行」を「商業銀行」化すること。これらのなかには中国工商銀行、中国農業銀行、

中国銀行、中国人民建設銀行などが含まれる。既存の商業銀行を全国レベルのものと地方

レベルのものに区分し、商業銀行としての体制を整えること。ここで全国的商業銀行とし

ては、旧「疑似政策銀行」のほかに、交通銀行、中信実業銀行、中国光大銀行、華夏銀行

などが含まれる。他方、地方レベルの商業銀行としては、広東発展銀行、深セン発展銀行、

福建興業銀行、上海浦東発展銀行、海南発展銀行など含まれる。このほかノンバンク系の

金融機関の設立がある。信託投資公司、証券公司、財務公司、リース公司、農村信用合作

社、都市信用合作社、中国人民保険公司など。 外為改革で金融の対外開放進む さらに九四年一月以来、外国為替管理体制が改革され、金融の対外開放も進展している。

外国銀行の支店や駐在員事務所が激増し、全国の主な都市に配置。 このような改革のもとで、金融情勢はどうか。突出した問題はやはリインフレである。九

五年上期の卸売物価は三割台を切り、 一八%まで鎮静した。しかし、消費者物価はまだ三

割台にあり、日標からは遠い。そこで、人民銀行は七月一日を期して、公定歩合の○・二

四%引き上げを決定した。この結果、期間一年ものの貸出金利は 11.16%(0.96%の引き上

げ)となった。さらに人民銀行は上海や広州など沿海部大都市の商業銀行に対して、今年

の融資量を対前年一〇~一五%削減するよう指示するとともに、人民銀行各支店に対し、

外貨預金を担保の貸出を禁止する通達を出した。 国有企業も市場経済の荒波に これら一連の金融引き締めはいかなる影響を与えるであろうか。経営の苦しい国有企業に

とってますます厳しい状況になることはいうまでもない。ちなみに国家経済体制改革委員

会は六月二十日、今後五年間で国有企業の倒産に伴う失業者が延べ千八百万人発生すると

いう見通しを発表している。九四年に新たに失業した者は百八十七万人であるから、今後

はこの三倍程度の者が毎年失業することになる。景気引き締めの過程で優勝劣敗が進行す

る市場経済の荒波に中国の国有企業も投げ出されることになる。このような荒療治のもと

でのみ市場経済への最終的移行が行われるよう。 外貨資金を担保とする貸出への規制は、外際系企業の人民元の調達をも困難にするであろ

う。しかし、この場合もインフレ沈静化までの辛抱であり、その試練に耐え得ない企業は、

整理されるほかない。すでに物価は沈静化に向かっており、引き締めが長期にわたるとは

考えにくい。中国経済のファンダメンタルスは、基本的に「成長率の範囲ならばインフレ

を許容せよ」「経済のテイクオフ期には高度成長、高いインフレ率が避けられない」という

高度成長体質をもつからだ。労働力人口の爆発的な増加を考えると、インフレ抑制よりは

高度成長による新規一屋用の創出が求められている。とはいえ、ポスト鄧小平期の過渡期

にインフレが政治不安を招くような事態は避けなければならない。この意味で、中国当局

がインフレ対策に意を用いるのは当然なのだが、中央当局が金融引き締めという政策を提

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起しても、地方や企業が対策を講じて引き締めをすり抜け、結果として、事実上の引き締

め緩和、つまりはインフレ含みの高度成長に落ちつくであろう。

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『政経かながわ』平成 7 年 9 月 15 日 第9次5カ年計画 北京の夏も東京や京都の夏に劣らず猛暑であり、指導者たちは海浜の避暑地・北戴河に集

まり、会議を開くのが恒例である。今年の北戴河会議の主な課題は、来年から始まる第九

次五カ年計画(一九九六―二〇〇○年、中国では九五計画と略称する)の策定であった。

九五年計画は今世紀最後の五カ年計画であり、中国の目指す所得四倍増計画の最後の段階

でもある。中国の四倍増計画は一九八〇年から二〇〇〇年までの二十年間に、 一人当たり

GNP を四倍に増やそうとするものであった。人民元の価値もドルの価値も変動しているの

で、物価値上がり分を除いた実質指数で見ると、昨九四年の GNP は八〇年当時の三・六五

倍。二〇〇〇年までの大年間の成長を計算に入れると、四倍増という目標は達成できると

みてよさそうである。この間、人口は年率一・四%程度の伸びであったから、人口増加分

を割り引いた一人当たりの GNP で見ても、四倍増の達成は堅いとみてよい。実は所得四倍

増という数字自体よりも、中国がこの高度成長を通じてようやく経済的離陸に成功し、日

本、四小龍(台湾・韓国・香港・シンガポール)、アセアンの三匹の虎(タイ・マレーシア・

インドネシア)に伍して東アジアの経済成長の隊列に加わったことの意味が大きいであろ

う。 ハイテク化で経済のけん引力に 北戴河会議はいわば非公式の経済工作会議である。ここで九五計画の骨格を固めたのち、

秋には中央委員会(十四期五中全会)で党レベルの審議が行われ、さらに九六年春の全国

人民代表大会において、政府案として正式に決定される段取りである。この九五計画にお

いて、沿海地区は工業の基礎に依拠して、海岸線と港湾を活用してハイテク化を目指し、

輸出産業に力を入れ、中国の経済成長のけん引力と位置づけられよう。長江一帯は九〇年

代の重点開発地区であり、一一十一世紀にはもう一つのけん引力となろう。 渤海から黄河一帯は技術力、エネルギー、鉱産物資源に恵まれており、沿海地区と長江地

区に次いで第三のけん引力と想定されている。これらの地域での市場経済化が進展すれば、

中国は広州、上海、北京、ハルピン、ウルムチ、昆明の六都市を中核とする六大地域経済

圏に生まれ変わるであろう。中国は建国当時から、この六大経済圏に分けていたのであっ

た。今春の全人代においては、中部や西部地区の省代表から沿海地区との格差拡大を解決

するために、中西部地区に傾斜した投資を行うべしとする強い要求が出た。しかし、九五

計画の構想段階でこれらの声は押さえられつつある。 沿海・沿江・沿河を基軸に盛り返し というのは、現在の資金不足の状況のもとで、中西部傾斜は投資効率が悪い。輸送の戦線

が長く、コストが高く、大量の滞貨という苦い結果が生み出されることは明らかだ。やは

り投資効率を最も重視し、沿海・沿江・沿河の三大基軸を中心とする発展戦略論が盛り返

していると伝えられる。懸案の国有企業改革については、公有制の主体的地位と国有経済

の主導作用を重んじ、そのメルクマールとしては、国有資産と集団所有資産の社会総資産

に占める優勢的地位を確保することによって、社会主義市場経済体制を樹立するとの論調

が目立つ。 これは社会主義か、資本主義かを論ずることをやめよ、という鄧小平流の大胆な主張と比

べて若千の後退ムードを感じさせるが、インフレと失業問題に挟撃されて国有企業改革に、

慎重になったものとみられる。保守派イデオローグたちの巻き返しと見る向きもある。た

だし、国有企業改革が停滞すればするほど、合弁企業や私営企業との経営格差は開くはず

であり、次の段階では国有企業は一層追い込まれることになるはずである。 鄧小平が舞台裏からの引退を断行したのは、昨年八月二十二日の満九十歳誕生日を契機と

してであった。あれから一年が過ぎて、鄧小平は満九十一歳を数えた。過去一年間、江沢

民を中心とするポスト鄧小平体制は、内外の多事多難な課題を一つ一つ解決しつつ、体制

を固めてきた。ポスト鄧小平期への転換は既になし崩しに進んでいるのであり、ある日突

然に中国が大混乱に陥ったり、解体するといった類の狼少年もどきの中国論の虚妄は次第

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に明らかになりつつある。核実験や台湾海峡に向けたミサイル演習など強引な姿勢が際立

つが、江沢民はナショナリズムを利用して体制固めを急いでいる。

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『政経かながわ』平成 7 年 10 月 15 日 21 世紀の中国経済イメージ 中国共産党は九月二十五~二十八日、十四期五中全会を開いて「第九次五カ年計画(一九

九六~二〇〇〇年とおよび「十五年長期計画(九大~二〇一〇年)についての「建議」を

決定した。それは次の六項目からなっている。①中国国民経済と社会発展の重要な時期。

②主な奮闘目標と指導方針。①経済建設の主な任務と基本政策。④改革開放の主な任務と

配置。①社会発展の主な任務と基本政策。③九五計画と二〇一〇年長期目標のために奮闘

しよう。この「建議」は、改革開放以来、とりわけ八五計画期(一九九一~九五)の経済

建設の成果を踏まえて、中国を二十一世紀に導く方針を提起したものである。 中国はかねて二〇〇〇年までに一人当たり GNP を四倍にふやす「所得四倍増」計画を実行

してきた。これは八〇年を基準年として、二〇〇〇年までに人口が三億人程度増えること

を前提としたうえで、 一人当たり GNP を三百五十が(八〇年価格)から一千が(同年価

格)にふやし、これをもって「小康の水準」(まずまずの生活水準)とみる構想であった。 九五期はこの四倍増計画の仕上げの時期である。この四倍増計画は「現代化建設の第一歩

の戦略配置」ともよばれる。これにつづく「現代化建設の第二歩の戦略配置」とは、二〇

〇〇~二〇一〇年の十年間に GNP レベルで倍増することである(これは一人当たりではな

く、GNP 三倍増構想である)。要するに、今後二〇一〇年までの十五年間にこのような経

済成長を実現することによって、社会的生産力、総合国力、人民生活の水準を大きく飛躍

させ、二十一世紀半ばの「第二歩の戦略目標」の基礎作りを意図しているわけだ。 経済成長「粗放型」から「集約型」 この構想を実現するための一つのカギが計回経済から市場経済への転換にあることはい

うまでもないが、もう一つ今回新たに強調されているのは「粗放型経済成長」から「集約

型経済成長」への転換である。これは一人当たり GNP 四倍増計画が基本的に超過達成でき

る見通しを踏まえて「量から質への転換」を強く意識したものである。 中国経済はいぜん量的拡大を旨とする側面が多いとはいえ、経済のさまざまな局面で質的

転換に移行する傾向は、生産・流通・消費のどの分野においても顕著に現れている。改革

はなによりもまず生産面での合理化から始まったが、それを前提とした衣食住の消費には

著しい改善がみられるし、最近は流通面の近代化も著しい。 拡大一途、成長率 10%超えるか こうした変化を踏まえて、九五期の方針は、つぎのごとくである。①国民経済の持続的、

快速、健康な発展を保持すること。②粗放型経済成長から集約型経済成長への転換を積極

的に推進し、経済効率を経済工作の中心とすること。③科学と教育による建国戦略を行い、

科学技術と、教育と経済を結合すること。④国民経済の発展の首位に農業をおくこと。①

国有企業改革を経済体制改革の中心環節とすること。①対外開放を揺るぎなく実行するこ

と。①市場メカエズムとマクロ・コントロールの有機的結合を実現し、各方面の積極性を

導き、保護し、発展させること。①地域経済の協調発展を堅持し、地域発展の格差を逐次

橋小すること。③物質文化と精神文化の共同進歩を堅持し、経済と社会の協調発展をはか

ること、である。 ポイントは次のニカ条であろう。 一つは、高度成長を狙う戦略だという点である。 一部

では量から質への転換も呼び掛けられているが、中国経済はいま発育盛りであり、なによ

りも量的拡大の道をひた走りしている。もう一つ、目立つのは「地域経済の協調発展」「地

域の発展格差の縮小」である。成長率は八十九%を目標としているが、この数字は控えめ

にすぎるであろう。中央政府は控えめな数字を提起することによって安定成長を狙う。し

かし、地方当局はそれぞれの「対策」を講じて、投資の拡大に努めるはずである。綱引き

の結果、中国経済はおそらく一〇%を超える経済成長になるものと私は予想している。 九月に中国の西部地区のいくつかの都市を訪問して、改革開放の波がこれらの辺地にまで

及びつつある姿を目撃した。西部都市の現在の姿は、経済開発区がもうけられ、合弁企業

が動きはじめたばかりの十年前の沿海地区の姿を行彿(ほうふつ)させる。いまや大西部

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が目覚め始めたのであり、今後の経済成長をけん引するもう一つのエンジンが生まれた。

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『政経かながわ』平成 7 年 11 月 15 日 李登輝総統会見記 十月中旬、台湾大学の日本研究総合センターが開いた「文明史上における台湾」と題する

国際シンポジウムに招かれ「ポスト鄧小平期における海峡両岸の経済関係の展望」につい

て報告した。会議後、李登輝総統がシンポジウム参加者約二十名を接見し、二時間にわた

って懇談する機会を得て、はなはだ社有益であった、結論をいえば、台湾発の情報がきわ

めて一面的に日本に伝えられているのではないかと感じた次第であった。話は昨年九月に

李登輝総統は日本の司馬遼太郎氏と対談し「台湾人に生まれた恋哀」を語り、旧約聖書の

「モーゼの出エジプト記」の故事に触れたことに始まる(『週刊朝日』一九九四年五月六日

号)。 この対談以後「現代のモーゼ」とは李登輝総統であり、彼の語る「出エジプト」とは、ほ

かならぬ「中国大陸からのエクソダス」と受け取られた。この発言に接して台湾の多くの

人々は喜び、大陸側は「事実上の台湾独立路線」と警戒を強めたことはいうまでもない。

その後、李登輝総統が九五年六月に農業経済学の学位を得た母校コーネル大学を訪間する

に及んだ北京はこれに猛反発した。 中国の核実験は一つの威嚇行為 五月と八月に核実験を行ったことは、 一つの威嚇行為である。さらに七月二十四日~二

十七日、四回にわたり『人民日報』および新華社運名の評論員論文を掲げ、続けて新華社

は八月二、五、七、九日の四回にわたって独自の評論員論文を掲げた。追い打ちは七月二

十一~二十六日、台湾海峡に向けて発射した六発のミサイルであり、八月五~二十五日に

は、再度ミサイルとロケット砲弾を台湾海峡に打ち込んだ。海峡両岸の緊張が一挙に高ま

ったことはいうまでもない。 私は三月末にも台湾を訪問し、辜振甫海峡交流基金会(海基会)代表と会っている。その

とき同氏は、秋には北京へ行き北京オペラを楽しみたいと語っていた。氏のオペラ好きは

有名である。辜振甫氏が北京へ行けば、次は当然、汪道涵海峡交流基金会(海協会)代表

が台北を訪問することになるはずであった。李登輝訪米を契機として辜振甫氏の訪中は延

期されたものの、これは条件が整えば、いつでも復活可能である。 こうした中で私は李登輝総統が、どのような発言を行うかをきわめて注視していた。李登

輝総統は一時間の会見の約束を二時間に延長し、いかにも愉快そうに懇談を続けた。 カオス理論、フアジー理論など、話は縦横無尽で、あたかも大学における李登輝教授のゼ

ミナールのごとき雰囲気であった。 台湾人民は思い上がってはいない 核心の重要発言はこうであった。「ある日本の学者」がモーゼとは私かと聞いたことがあ

る。総統は敬けんなキリスト者ではあるが「モーゼにみずからをなぞらえるほど思い上が

ってはいない」と繰り返した。モーゼとは台湾人民であり、出エジプトとは新たな「十戒」

を守る国作り運動である、と敷延した。では「ミルクと蜂蜜の流れる約束の地」とはどこ

か。シンポジウムで提起された福建省永定県にある李登輝総統の「祖父の地」かとの解釈

を意識しつつこれを語ったのは、まことに意味深長であった。 李登輝総統はまた大台湾を経営し「新たな中原」(ちゅうげん)を建設しよう、というス

ローガンも提起している。「中原に鹿を追う」であり、これも意味深長である。日本ではこ

れまで台湾独立のキーワードでもあるかのごとく理解されてきたこの言葉は、別の解釈も

可能なのだ。中原とは本来、黄河文明の発祥の地(河南省一帯)である。これは台湾の民

主化を成功させ、その力に依拠して、旧中原を新中原に改革しようというメッセージとも

理解できる。もしそうならば、蒋介石の大陸反攻とは別の意味で″一つの中国″であり、

大陸側の長期目標とも一致するわけだ。この高度に政治的な暗喩を示唆されて、台湾海峡

両岸問題の複雑さを改めてかみしめた次第であった。台湾・大陸問題は夫婦げんかの類で

あり、犬も食わない。海峡両岸にゆだねるのが最良の解決策だと私はこれまで一貫して主

張してきたが、やはりこの立場しか日本はとりえないことを改めて確認した次第であった。

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1995 年 12 月 15 日、『政経かながわ』 日米カウンシル米国会議・人権問題についての私見 十月末に日米カウンシル米国会議に出席する機会を与えられ、快適なアメリカ旅行を楽し

むことができた。今回はインディアン・サマー(小春日和)のワシントン郊外のドライプ

を満喫した。アスペン研究所のあるワイ・リバー・プランテーションまで車で約九十分、

紅葉が日一日と鮮やかに色づいていく風景は実に楽しかった。この会議は日本の国際経済

交流財団と米国アスペン研究所が共催して交互に日本と米国で日米対話を行うもので、今

年は十二回目とのことである。今回の会議では三つのセッションが用意された。すなわち

―― セッション 1. APEC の発展とアジア太平洋自由貿易地域(モデレーターはアスペン研究所

ディビッド ・マクローリン会長、スピーカーは対外関係協会のプルース・ストークス氏お

よび岡松壮二郎カリフォルニア大学サンディエゴ校客員教授) セッション 2. 変貌する中国の経済・政治およびその戦略的役割(モデレーターは小島明

日本経済新聞論説副主幹、スピーカーはランドコーポレーションのグレゴリー・トレバー

トン氏および矢吹晋) セッション 3. 世界経済の持続的発展における日米の役割(モデレーターはマクローリン

会長、スピーカーはプルース・ストークス氏および小島明氏) 以上三つのセッションであった。開会、閉会のあいさつは、それぞれ米国側はマクロー

リン会長、日本側は増田実国際経済交流財団会長であった。 中台関係はしょせんは夫婦げんか セッション 2 において私は二十分の報告時間を与えられたので、三つのトピックに話を

しぼった。第一のトピックは中国経済の高度成長である。高度成長が中国社会を大きく変

ぽうさせており、これは将来の政治的民主化の基盤を用意するはずであり、好ましい傾向

として受け止めるべきである。第二のトピックは中国と台湾の関係である。李登輝総統の

訪米以後、海峡両岸関係は少し緊張しているが、しょせんは夫婦げんかの類であり、外国

勢力の介入は避けて、当事者向士の話し合いにゆだねるのが賢明であろう。 第三のトピックは米中関係である。米中関係の改善のイエシアチブは米国側が握っており、

共産主義のマントをゆっくり脱ごうとしている中国にはイソップ物語の寓話(ぐうわ)で

結んだ。 私の発言がどのように受け取られたかまるで自信はないが、同席された五百旗頭教授は後

日、『読売新聞』(大阪版、十月二十日付)の論壇時評でこう書かれた。 基本的には国連人権宣言を基調 ・「日米関係にも、APEC の行方にも、濃い影を落としているのが中国問題である。リーク

された北京側の台湾武力解放プランを紹介しつつ、実は台湾独立も武力統一もありえず、

平和共存の方途しかないことを『諸君―』十一月号に論じた矢吹晋氏が、会議における報

告者であった。氏はこの二十年の中国の市場経済化を軸とする大変化を評価し、韓国・台

湾と同じくそれが、やがては政事的変化をも不可避とする展望を語って、″北風″よりも″

太陽″の対中アプローチを求めた」 なお、司会者に促されて、最後にいくつか浦捉した。例えば、NHK スペシャル「十二億

人の改革開放」の最終回で紹介された米中ビジネス談判は興味深かった。アメリカ側の発

言に留飲を下げた日本ビジネスマンが少なくなかったことを私はこの番組の打ち上げパ―

ティーの席上、担当ディレクターからつぶさに聞いていた。このエピソードを紹介しつつ、

日米が中国を国際経済社会に仲間入りさせるために、それぞれの立場で努力することが効

果的だと指摘した。とはいえ、アメリカのいわゆる人権外交には違和感を感じざるを得な

い。人権観念には飢餓からの自由という生存レベルの人権と良心の自由、言論の自白とい

った高度のものもある。「人はパンのみにて生きるに非ず」という格言は正しいが、これは

パンが保証されての話ではないか。中国の人権白書から明らかなことは、彼らの人権概念

も基本的には国連人権宣言を基調としたものであることだ。中国における人権状況を真に

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改善するためには経済的条件が必要である。産児制限をとらえて人権侵害と非難するよう

な観点は中国の実情に対する理解を欠いており、妥当ではない。

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集約型成長をめざす中国 1996 年1月号 中央の権威に頼る江沢民体制 1996 年2月号 中国経済の牽引力は上海 1996 年3月号 まず中国自身の難問解決 1996 年4月号 中国情報の解説は慎重に 1996 年5月号 一年後に迫った香港返還 1996 年6月号 中国が抱く危機と核開発 1996 年7月号 中国からの輸出減に注目 1996 年8月号 成長する天津技術開発区 1996 年9月号 中国の食糧危機、実は過剰 1996 年 10 月号 党政首脳ポストの争奪戦 1996 年 11 月号 関係改善進む米国・中国 1996 年 12 月号

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1996(平成 8)年 1 月 15 日、『政経かながわ』 集約型成長をめざす中国経済 九六年は中国にとって第九次五カ年計画をスタートの年である。その基本方針は昨年開か

れた十四期五中全会(九月二十五~二十八日)において決定済みであり、その細目を話め

る中央経済工作会議(十二月五~七日)も既に開かれている。この工作会議には政治局常

務委員のうち劉華清上将と李瑞環を除く江沢民、李鵬、喬石、朱鎔基、胡錦濤の五名が出

席し、江沢民、李鵬の二人が重要講話を行い、朱鎔基が総括講話を行った。工作会議で確

認されたのは、まず二つの転換すなわち、市場経済への転換と経済成長方式の転換である。

前者は自明だが後者は粗放型成長から集約型成長への転換、すなわち単なる量的拡大から

質的改善への転換の意味である。具体的な内容としては、次の四点が指摘されている。第

一に農業と農村の発展、第二に国有企業の改革、第三にマクロ・コントロールの改善、第

四に対外開放の水準の向上である。 まず農業だが中国経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)を考える上で、農業問題と人

日問題は決定的に重要な位置を占めている。厳しい一人っ子政策にもかかわらず、十二億

人という母数が大きいために、毎年千三百~千四百万人ずつ、つまり東京都の人口を上回

るほどの数が毎年増えている。このように爆発的に増える人口の食糧を確保するのは並大

抵のことではない。 農業に力を入れ食糧事情に展望 しかし、近年は市場経済化への転換のなかで、食糧生産よりは郷鎮企業などの副業を、副

業よりは手っとり早く現金収入の得られる出稼ぎを、といった風潮が強く食糧生産が疎か

にされた。停滞気味の食糧生産に対して、九四年の自然災害は追い打ちとなり、食糧不足

から農産物価格の急騰がもたらされた。実は九四年の四億四千五百万ントといぅ数字は食

糧の絶対量として現在の食糧消費水準のもとでかろうじて間に合う量なのだが、折から食

糧需給もまた市場経済化を急ぐべきだとする流通政策の矢策もあずかって、農産物価格の

急騰を許してしまった。その反省のうえに九五年は農業に力を入れて、前年比一千万ント

増、すなわち四億五千五百万ントの食糧を確保できる見通しである。食糧の輸出入をみる

と、九五年一~九月期までの数字だが、輸出を九四年同期よりも九百六万ント減少させ、

輸入は七百六十五万ント増加させている。 96 年から国有企業改革に手形法 つまり生産面で一千万ント増、輸出入で約千六百万ント増、計二千六百万ントの供給増に

なっている。これだけ余力があれば、九六年の食糧事情に問題はあり得ない。第二の国有

企業改革は古くして新しい問題である。国有企業は二十五万~二十六万社あるが、中国経

済に決定的な役割を果たしている重要な企業は約一千社である。これがいわゆる大中型企

業である。この大中型企業が国有資産の五割、税収の七割を占めている。これまで十八都

市の一千企業を対象として、国有企業改革の実験を試みてきたが、九六年はこれをさらに

展開する年になるはずである。この場合に、手形法が九六年から施行されることは重要な

意味をもつであろう。実は旧年十二月の訪中で確認したのだが、手形法は正式な施行に先

立って、石炭、電力、化学工業、冶金などの業種で導入の実験を行い、三角債の整理に大

きな役割を果たしたという。国有企業改革のモデルとしては、先進的な合弁企業や郷鎮企

業の例があり、また企業倒産によりはきだされる失業者対策についても、さまざまな社会

保障制度の構築が模索されている。 第二の課題はマクロ・コントロールの改善だが、物価の安定はコントロールが効いてきた

ことを何よりもよく示している。むろん、市場経済を前提としたマクロ・コントロールは

まだまだ初期の段階にあり、今後の改善が待たれることはいうまでもない。 最後に開放政策だが、これは外資側との間でさまざまな軋轢をもたらしている。設備輸入

関税の免税措置を撤廃する問題、増値税の輸出遠付税率の引き下げ問題、委託加工に対す

る保証金制度の問題、外資側の人民元調達の困難などである。WTO 加盟を踏まえた「政策

の統一」という大義名分のもとで、実際には「外資系企業からしばれるだけ税金をしぼろ

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うということか」と反発を抱かせるような朝令暮改が目立つのは遺憾である。

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『政経かながわ』平成 8 年 2 月 15 日 江沢民流の体制固めの知恵 今年の春節は二月十九日である。昨年は鄧小平重体説、はては死亡説で大騒ぎしたが、あ

れから一年、江沢民は着々と後継体制を固めつつあるように見える。一月十七日の人民日

報は「指導幹部は必ず政治を重んじよ」と題する十四期五中全会(九五年九月二十七日)

当時の講話を公表した。この講話の前半は反腐敗闘争、すなわち汚職退治の呼びかけであ

る。北京市の大ボス陳希同書記を汚職の罪状で引きずり降ろし、江沢民の権威を無視する

地方指導者を伺(どう)喝したのは昨年の大きな出来事だが、江沢民はやはり権威と実力

が十分でないため、その指示を無視する地方指導者が少なくない。これは「中央の権威」

確立の点では由々しい事態だが、必ずしもマイナスばかりではない。毛沢東や鄧小平のよ

うな実力者の時代でも、やはり鶴の一声ですべてが決まったわけではなく、アメとムチで

統制してきたのであった。 毛沢東や鄧小平でさえ、時にはそうであったのだから、いわや威厳が十分でない中央の指

導者は地方の指導者の言い分を聞いた上で、その要求を一部とり込みつつ、緩やかな統制

を進めていくほかないのは当然である。 迷路のような各集団の利害調整 そのような妥協的、折哀的やり方こそが民主化の過程に連なるものであり、中国のような

とてつもない大国をまとめていく上ではむしろ望ましいとさえ言ってよいのである。ちな

みに一九八七年の第十三回党大会で超紫陽(当時総書記)が打ち出した各利益集団による

「社会協商」という考え方は、まさにそれであった。しかし、趙紫陽はその調整に乗り出

す前に天安門事件で失脚した。あれから九年になる。中国の市場経済化は急ピッチであり、

各利益集団の利害調整はますます複雑に入り組んできている。端的な一例は中国の WTO 加

盟問題である。加盟によって利益を得る競争力に富んだ業界と打撃を受け果ては存亡が危

機にさらされる業界との利害調整の困難さは容易に推察できよう。 広東省のように改革開放に成功した地方、いま広東省に肉薄しようとしている上海市な

どのような沿海地区とようやく開放政策、市場経済化が定着し始めた内陸地区との矛盾も

大きい。このような現実を踏まえて江沢民はいう。「わが高級幹部、まず省委員会書記、省

長、国務院部長(閣僚)、中央委員、政治局委員は、必ず政治を重んじなければならない。

私がここでいう政治には政治の方向、政治的立場、政治的観点、政治紀律、政治的識別力、

政治的鋭敏性である。政治問題においては、必ず頭脳を明晰(せき)にしておくべきであ

る。西側の敵対勢力は中国を西欧化させ、分裂化させようとしている。民主化と自由化を

強要している。警戒せず、闘争しない、ということでよいだろうか」。 米中関係、台湾問題で内政固め 江沢民がいう民主化とは無論、アメリカの人権外交などを指す。また分裂化とは台湾独

立を西側が支持する傾向に対する危惧(ぐ)である。このような外圧を強調することによ

って外圧に対抗しつつ、中国の経済発展路線を堅持するためには、中央の権威のもとで一

致団結し、中央の政策基調に地方が歩調を合わせよ、という要求になる。 このように見てくると、江沢民はいま巧みにアメリ力流の民主主義の押し売りと台湾から

の独立騒ぎを内政固めに利用していることが分かる。ポスト鄧小平期に向かう弱体な指導

部にとって米中関係も台湾問題も大きな試練ではあるが、どうやら中国に対する揺さぶり

は江沢民体制を固める役割しか果たしていないと思われる。一月二十七日に北京で開いた

中共中央紀律検査委員会では、地方の党・政府幹部に対して、江沢民総書記を中核とする

中央指導部の権威を重んじ、その指導に忠実に従うよう要求するとともに、中央から紀律

検査のためのお目付け役を地方に派遣することを決定した。二月二十二日に行われる選挙

での李登輝総統再選を予想し、台湾問題の現状維持をいかに図るか、香港特別区準備委員

会(主任=銭其シン外相)はだれを行政長官に選ぶか、の課題もあり江沢民体制の直面す

る課題は並々ならぬものである。しかし、離陸途上の中国の経済力がすべての難問を解く

カギになろう。経済がうまくいけば、政治はついてくる。

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『政経かながわ』平成 8 年 3 月 15 日 牽引力としての上海 東アジア経済のけん引力が中国であるとすれば、中国経済のけん引力の一つが上海である。

上海は九二年の鄧小平南巡講話以後、四年連続一四%以上の高度成長を続けている。昨年

は過熱抑制のために中国の GNP は一〇・八%に抑えられたが、上海は一四・一%であり、

三・三ポイント高かった。この結果、上海市の八九計画(九一~九五)は、計画を十分に

達成し「建国以来最良の五カ年計画」となった、と上海の新聞「解放日報」が成果を誇ら

しがに伝えている。インフラ建設の面でも顕著な成果があり、地下鉄一号線、南北高架道

路(内環状線は九四年完成)、秦浦大橋の開通によって、既存の南浦大橋、楊浦大橋とあわ

せて市内の交通混維は大いに改善された。電話加入数が三百二十二万戸に増大に対応して

番号はすべて八ケタに変わった。家庭用都市ガスの普及率は八五%に達した。九五年に調

印した直接投資のうち、投資額が一千万アレド以上の大型プロジェクトは二百九十八件(七

四・八)を占め、金額は七十八・二億ドル(契約ベース)であった。 年末の預金残高は千三百九十六億元に達し、九五年に竣工(しゅんこう)した住宅面積は

千十五万平方キロであり、 一人当たりの居住面積も増加した。こうした戦果を踏まえて、

上海市人民代表大会(日本の市議会あるいは県議会に相当する)が開かれ、二月二日徐匡

迪市長が「九五計画と二〇一〇年長期目標要綱」を報告した(『解放日報』二月十一日付)。 ―年で様変わり 3 年で面目一新 八五計画期は浦東開発により上海を「国際経済、金融、貿易センターの一つ」にする戦略

的意志決定の重要な時期であったと徐匡迪は強調した。上海ではいま「一年で様変わり、

三年で面目一新」が合言葉になっているが、徐匡迪はこのキーワードを引いて、上海市の

大いなる変ぼうを説いている。経済改革の面でも大きな進展があり、いまや指令性計画部

分は三%までに減少し、八割以上の生産手段が市場経済によって生産を調節するに至った。

社会保障のシステムも逐次形成されつつあり、既に九割の職員労働者が養老保険に参加し

ている。住宅制度の改革も進んでおり、住宅積立に参加する職員労働者は九八%に達して

いる。企業改革の面では百四十社の国有企業が現代企業制度の改革試点として、企業改革

の方向を模索している。金融、財政税制、外為、外国貿易の新体制も整備されつつある。

浦東地区では陸家嘴、金橋、外高橋、張江の四つの任務のそれぞれ異なる開発区が初歩的

な形を整え始めた。 2000 年にハイテクシェア拡大 対外貿易では五カ年の輸出入総額が六百五十四億ドルに達した。年平均二〇・七%の成長

率である。直接投資の受け入れ額は契約ベースで三百十四億ドル、実行ベ―スで百五十一

億ドルである。多国籍会社は二百社余り、外国金融機関百五十四社が上海に事務所を持つ

に至った。では、今後の目標は何か。第一は市場経済指向により一次、一一次、一二次産

業の構造を調整することである。なかでも二次産業が重視されており、国際的航空輸送セ

ンターの建設、現代的コンテナ基地の建設、郵便通信事業の発展がうたわれている。加え

て情報、コンサルティング、会計、法律関係などのサービス業の発展も目標とされている。 二次産業では支柱産業およびハイテク産業である。すなわち自動車、通信設備、発電プラ

ント、大型機械電機設備、家電、石油科学、精密化学工業、鉄鋼業などである。これらの

産業は二〇〇〇年までに集約化を進め市場シェアを拡大、五百億元以上の販売規模をもつ

ように育成し、六大支柱産業の生産学の上海市工業生産額に占める比重を五割以上に高め

るものとする。ハイテクの分野では集積回路とコンピューター、遺伝子工学と新薬、新素

材の三大産業および航空宇宙産業を積極的に発展させる。 一次産業では都市近郊型農業を

都市型農業に転換し、上海における農業現代化を全国の前列に立たせる。各産業が農業を

支持して、模範的な「野菜かごプロジェクト」「米びつプロジエクト」を推進したい。 二〇〇〇年には研究開発予算を上海市 GNP の二・五五%まで増やしたい。また科学技術

の経済成長率に対する貢献度を五割以上に増やし、ハイテクの工業総生産額に占める比重

を三割まで高め、 ハイテク輸出品の輸出総額に占める比重を一割五分まで高める――上海

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経済はいまや午前八時の太陽のごとく勢いがよい。

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『政経かながわ』平成8年 4 月 15 日 日本の国会に当たる中国の人民代表大会が終わった。今年から始まる第九次五カ年計画を

討議すべき会議であったが、ミサイル演習や実弾訓練にかき消されてしまった。台湾の総

統選挙に対する乱暴きわまりない恫喝は、中国の国際社会における信用を大きく傷つけ、

経済建設にも跳ね返る恐れがある。「四十余年来、中国統一の追求は、われわれの一貫した

不変の目標である。その間、主観的、客観的条件の変化によって、用語や戦略に若千の相

違が出てきたとしても、中国統一の目標にいささかも改変はない」「台湾の将来の発展の基

盤は大陸にある。台湾独立は行き止まりの道である」。 これはだれの発言であろうか。統一を求める大陸側の見解と受け取られるかもしれないが、

実は台湾の李登輝総統の一九九二年十月二十八日の発言である(『李登輝総統の言論選集』

行政院新聞局、九五年四月、123 ページ)。 「中国の分裂、分治は中国人の不幸である。中国の統一を求めることもまた、われわれの

変わらざる目標である。われわれが四十数年来努力してきたのは、将来の中国統一のため

であり、その範を示すためであった」、 「国際社会は既に対立を放棄し、合作を求める時

代に入っている。誤った苦難の古い時代を捨て去り、新たな局面を開拓するため、無駄な

対抗意識を捨て去り、海峡両岸に平和競争の時代をもたらし、共に時間を惜しみ、各種資

源を活用し、将来の中国の自由、民主、均富、統一のために、共同で努力するよう呼びか

けるものである」(同上、 159 ページ)。 なによりも経済発展成功させること この発言もまた李登輝のものだが、同じ内容を江沢民総書記が語ったとしても少しも不自

然ではない。大陸側の李膿総理は今春の講話令人民日報」一月二十一日付)で「台湾問題

を解決する最母根本的条件は中国自身の事柄を立派に処理することである」と述べた。 「中国自身の事柄を立派に処理する」とはいかなる意味か。なによりもまず経済発展であ

ろう。 一人当たり GNP はいま、大陸と台湾では一ケタ違うほどの差がある。また、民主

化を急速に進めつつある台湾と、先送りし権威主義的体制のもとで″開発独裁″を進める

大陸では政治体制上の垣根も高い。李鵬はこのあたりの事情を示唆しているはずだ。つま

り「香港問題は来年片づくから次は台湾統一だ」とか「台湾問題をいつまでも先送りする

わけにはいかない」といったスケジュール論など、議論を意識しつつ、条件を欠いた統一

論議の前に大陸の経済発展を成功させること、政治的民主化の条件(例えば識字率の向上)

を作ることが先決だと李鵬は明確に指摘しているわけであり、これは極めて穏当な見解で

ある。 江沢民は台湾海峡緊張で体制固め 中国側のこのような恫喝の結果、だれが得をしたのかを考えてみよう。李登輝は同情票を

集め、得票の過半数に達するものと予想されている。李登輝が足場を固めることができれ

ば、自信をもって大陸政策を発表できるであろう。大陸側はナショナリズムをあおること

によって国内統一が強化された。ポスト鄧小平期の江沢民は人民解放軍との共同作戦によ

って、新指導者としての地位を固めたと思われる。あえて対比すれば、毛沢東が朝鮮戦争

で体制を固め、鄧小平が中越戦争で体制を固めたのに対して、江沢民は台湾海峡での緊張

をつくり出すことによって体制を固めたことになる。偶発的な事件が起これば、大変危険

な事態も予想される冒険的手段だが、台湾問題なら危険を犯しても差し支えないと判断し

てのことであろう。アメリカのクリントン政権およびペンタゴンも第七艦隊を台湾海峡に

派遣することによって軍事力を示威することができたのは大統領選挙にプラスであろう。

三者ともに主として国内事情で動いているのが困る。 大陸側の武力行使はありうるのか。台湾が独立に動かない限り大陸側の武力行使はないこ

とは、大陸側がしばしば示唆している事実である。では台湾は独立に動くのか。李登輝が

いかに統一路線を堅持しているかは既に指摘した。李登輝の立場を″独立派″として攻撃

するのは大陸側の作戦か、疑心暗鬼のいずれかである。再選後の李登輝は緊張緩和を呼び

かけるはずである。米国も日本も緊張緩和の環境作りに動くのが望ましい。対立をあおる

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ような行為は避けるべきであろう。

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『政経かながわ』平成 8 年 5 月 15 日 NHK「突然の撤退勧告」への疑問 台湾の総統選挙に対する中国の威嚇は、日本人に少なからぬショックを与えた。連日の一

触即発かといった一扇動的報道のなかで「中国脅威論」は大手をふってまかり通った。こ

うなると、この中国脅威論に便乗し迎合した新たなテレビ番組があらわれるから厄介だ。

このところ日中経済関係者の間で話題になっている″スフエー問題″はその端的な一例で

ある。二月十日夜、NHK スペシャル「突然の撤退勧告」が放映された。いまや台湾との合

弁企業で活況をきわめる昆山(江蘇省)に進出した四国の中小企業のトラブルを描いたも

のである。この手袋会社はかつて韓国馬山に進出し、石をもて追われるごとく撤退し、つ

いで昆山に進出したという。そのような不幸な過去を持つ「気の毒な中小企業」が今回は

悪役・昆山市役所にいびられる筋書きは同情を買った。ところが、この話はうまくできす

ぎていた。私はこの番組をみて、強い違和感を感じて、ビデオを丁寧に見直した。かなり

臭い。 一種の「やらせ」ではないか。少なくとも紛争を起こした双方の見解を公平に扱っ

たものではないと思われる箇所が目立つ、といった印象をあるコラムに書いた。 まずタイトルだが、スワニー側が同省内の他県への移転を申し入れたのに対して、昆山市

側が市内の他地区への移転を反対提案し、交渉中、というのが報道時点での現状であった。

とすれば「撤退勧告」ではなく「移転提案」であろう。しかもこれは「突然」提起された

ものではない。 誤解というよりは悪意の″曲解″ . 第二にスワニー側が人件費の高騰(年率二〇%)を理由として、赤字転落を予想し、賃金

の安い濯南県ヘの移転を提案した。これに対して、人員整理の対象となる労働組合は猛反

対した。解雇される側としては当然の対応であろう。ここで仮に工場が閉鎖されるならば

それは競売にかけて、移転費用などを支出することになるが、なんとその個所の字幕は「没

収」と解説された。 「没収」と「競売」は大違いだ。前者は公権力が行うものだが、後者は市場経済の論理に

基づいて行われる経済行為である。「競売」を「没収」と解説するのは、誤解というよりも

悪意ある曲解ではないか。第三は3項費用」(年金、住宅基金、失業保険)の扱いである。

賃金が高騰したからといって、その削減を「突然」提起されたのでは、労働省は困るであ

ろう。 善玉と悪玉が逆転のあざとい商法 この種の提案が常識的でないのは、日本も中国も同じである。この費用は契約では賃金の

五六%とされていたが、三六%に減額する措置を講じていた。それをめぐって契約書より

もまけていた部分をさかのぼって支払えとか、契約書をひっぱりだしてみせたり、それを

結んだ社長が契約書の文言を知らないふりをしてみたり、素人芝居じみたドタバタ騒ぎは

面白いといえば面白いが、あとで真相を知ると、シラケルほどはなはだしい。 極め付きは、中国スワニーの董事長の宣炳龍が工場の移転提案を一方的に発表し、台湾資

本家に敷地を見学させるシーンである。実は、これはスフエー側と協議したうえで、敷地

を売却した場合の資産価値を明らかにするために行ったものであった。双方が納得したう

えで見積もりをとる話と「寝耳に水の敷地売却話」とはまるで異なる。ここまでくると、

この番組は善玉・悪玉がアベコベになっているごとくである。この会社はこの番組で企業

イメージを売り、それを利用して放映翌日に日本経済新聞に一大広告を掲げるというあざ

とい商法までやってみせた。最近届いた『国際貿易』(4 月 16 日号)の解説記事「合弁撤退

TV 放映、望まれる公平な報道」によると、東京の中国大使館商務参賛処は、ただちに昆山

開発区管理委員会、江蘇省 TV 放送庁と連絡をとり、調査した。 「中国側が台湾の客を案内する場面」がある。視聴者には日本側メーカーを追い出そうと

の印象を与えた。これは「実際は日本側が工場を売却することに同意したのが先で、台湾

の客を案内したのが後」。また「実際の発言」と「字幕の違い」も数多く指摘されている。

中国側の抗議に、NHK は中国に責任者を派遣し、謝罪したという。中国情報を批判的に読

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む努力を怠ると歪曲報道、誇大報道に振り回される。NHK はよい番組もつくるが、このよ

うなひどい番組もある。私は一昨年昆山を訪問していたので、現地の事情を推測でき、幸

いだまされずに済んだ。

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『政経かながわ』平成 8 年 6 月 15 日 香港返還迫る 香港返還がいよいよ一年後に追った。マスコミ界は最も敏感な領域であり、最近は特別行

政区準備委員会が香港電台(公共放送局)に放送枠提供を求めたことをめぐって「大陸側

のメディアに対する干渉」の不満も出ている。記者が大陸の香港政策を支持するか否か、

踏み絵を踏まされるような事態が生まれているとの不満も聞こえる。こうした声を声一向

に伝えるのはマスコミの使命かもしれないが、香港は元来、経済都市、中継貿易都市であ

り、民主化騒動が香港のすべてではあるまい。香港経済と中国経済の一体化は、九七年七

月一日に向けて日々進展しつつある。例えば香港の九五年の貿易統計は一体化の現実をよ

く示している。香港の地場輸出は二百九十七億ドル、再輸出は千四百二十六億ドル、輸出

合計で千七百三十二億ドルであり、輸入は千九百十二億ドル。貿易バランスは百八十八億

ドルの赤字になる。輸出相手を国(地域)別にみると上位七カ国は、中国五百七十四億ド

ル(三二と一%)、アメリカ三百七十五億ドル公一丁七%)、EU 三百五十七億ドル(一四・

九%)、日本百五億ドル(六・一%)、シンガポール四十九億が(二・八%)、台湾四十六億

ルド(二・七%)、韓国二十八億ドル(一.六%)である。 いまや米経済支配の面影ない 主な輸出品をみるとエレクトロニクス製品、縫製品、繊維類、坑具ゲーム機、靴、時計、

旅行用品などである。再輸出千四百二十六億ドルのうち、中国向けのシェアは三四・五%

を占める。中国を原産地とする商品のシェアは五七。三%を占める。経済都市。香港の素

顔はこの貿易統計から明らかであろう。かつてはアメリカがくしゃみをすれば、香港は肺

炎になると評されたものだが、香港経済はいまやアメリカと運動する経済ではなく、圧倒

的に中国シフトが進んでいる。輸出総額や再輸出のシェアでは中国向けが三分の一を占め、

再輸出のうち中国を原産地とする部分の比重が六割に迫りつつあるわけだ。かつてはアメ

リカ経済に従属する香港経済であったが、いまや昔日の面影はない。 年初に香港特別行政区準備委員会が発足したが、主任委員は銭其シン外相である。副主任

委員は工漢斌(全人代副委員長、政治局候補)、安子介(南聯実業童事長、政協副主席)、

霍英東(香港有栄公司董事長、政協副主席)、魯平(国務院香港マカオ弁公室主任、中央委

員)、周南(新華社香港社長、中央委員)、董建華(香港東方海外董事長、香港行政局議長)、

李福善(前香港高等法院副裁判長)、王英凡(外交部副部長)、梁振英(香港測量行董事長)

の九名である。 年内にも行政長官を中国が任命 準備委員会委員は百五十名だが内訳は香港側九十四名、大陸側五十六名である。香港側は

工商界三十六名、専業界(学長教授など)二十六名、宗教界十二名、政界十名からなる。

大陸側は外交部関係十名、国務院弁公室六名、中国共産党政法委員会系十二名、軍からは

晩福臨副参課長、許和震総参謀部弁公室副主任の二名が、さらに経済界九名、新華社香港

八名、その他九名の顔ぶれだ。委員のうち、港事顧問は七十一名を占める。香港を基盤と

する全国人民代表大会代表(国会議員に相当)の六名、全国政治協商会議委員六名を加え

ると、総数九十四名中の八十八人を占める。政党社団別にみると「一国両経済研究中心」

の委員八名「新港聯」七名「港進聯」五名「自民聯」五名「民建聯」五名「自民党」四名

「民主自由協進会」二名である。パツテン総督の民主化提案と運動しつつ活躍している民

主化派の民主党からは一人も選ばれていない。今後のスケジュールは次の通りだ。まず四

百名からなる推薦委員会を成立させ、年内には香港特区行政長官を推薦する。この推薦を

踏まえて年末には行政長官を北京政府が任命。そして九七年上期には臨時立法会および行

政会議を成立させて、七月一日の香港返還を迎え、ユニオン・ジャックを降ろし、五星紅

旗を掲げる。 九七年以後の香港の行方を香港の人々がなにがしかの不安を抱いて暮らしていることは

明らかだ。懸念や危惧(きぐ)は抱いて当然であろう。外国の旅券を既に得て、いざとな

れば脱出という保険を用意しつつ生活する者、あるいは夫人や子女を既に外国に住まわせ、

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香港で単身赴任的生活を営む人々もある。だが、大部分の人々は、やはり香港にとどまる

ほかない。マスコミはいつも例外派、少数派を誇張する傾きがあり、ミスリーデイングで

ある。

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『政経かながわ』1996 年 7 月 15 日 中国の核実験 六月八日、中国は新彊自治区ロプノールで第四十四回目の核実験を行い、国際世論の袋だ

たきにあっている。六四年に初めて核実験を行い、六〇年代を通じて計十回の実験を行っ

た。七〇年代には計十六回の実験が行われたが、その大部分は戦術核兵器の実験であり、

しかも大気圏での実験であった。八〇年代には計八日の地下核実験しか行われず、解放軍

百万削減に象徴される「軍備よりも経済を」の潮流を反映している。九〇年代に入り、既

に十回の実験を重ねた。八九年の天安門事件、九一年初の湾岸戦争、九一年暮れの旧ソ連

解体といった一連の衝撃のなかで、中国当局の抱いた危機感が実験回数に反映していると

みてよい。昨年の二回の実験には日本政府は抗議の意思を表明し、日中経済協力のうち無

償供与部分の停止を決めた。九五年にはフランスが太平洋タヒチ島で実験を行い悪役フラ

ンスが前面に出ていたが、その後実験停止を明言した。いまや中国がただ一人悪役を演じ

ている。今回の実験以後、日本政府は「無償供与の停止は続けるが、円借款の停止までは

踏み込まない」態度を表明したが穏当な決断であろう。 一部に円借款を前面停止すること

によって強い抗議の意思を表明すべきだとする対中強硬論があることはいうまでもない。 中国には米国の核は脅威そのもの しかし、そうした強硬措置によって中国を国際社会から締め出すよりも、むしろ陰陽さま

ざまのチャネルを通じて、中国の改革解放を支援することが結局は、日中関係の歴史的経

緯や東アジアの国際環境、そして世界経済の発展にとっても望ましいとするより常識的な

政策に落ち着いたごとくである。いくつかの論点を整理しておきたい。日本が唯一の被爆

国としてあらゆる核実験に反対の立場を表明することは必要なことであろう。とはいえ戦

後五十年を経た今日、日本が依然アメリカの核の傘の下にあることは明らかな事実である。

アメリカの核は日本にとっては頼みの傘だが、人権問題や貿易摩擦などでアメリカと時に

激しく敵対している中国からすると、アメリカの核は脅威そのものである。包括的核実験

禁止条約の発効以後は中国も核実験を停止する意向を示しており、焦点は「駆け込み実験」

にある。アメリカなど核実験先進国は既に大量の実験データを蓄積しており、実験を停止

した後も、コンピューターによるシミュレーションを通じて小型核弾頭の開発を続けてい

る。核兵器の開発競争は続いている。中国が駆け込み実験に力を入れるゆえんである。 台湾独立に対する不安と危機感 つまり、現在の協議は今後の核実験を停止しようという話であり、既に開発した核兵器を

全面廃棄する段階には及んでいない。今後、核実験を停止したしても、大国間の核兵器の

保有量格差は厳然と残っている。中国のような核兵器後進国からすると、現在の議論の進

め方は保有量格差を是認したまま、途上国の開発の手を縛るものにほかならず、もう一つ

の先進国エゴイズムである。ここまでは核兵器の性能と保有量をめぐる先進国・途上国の

利害関係の論理だが、核兵器とは実際には使えない兵器であり、政治・外交の手段にすぎ

ないことは周知の事実である。中国が核兵器の開発を急ぐのは、当局が強い危機感を抱い

ているからである。世界には中国を脅威とみる向きが少なくないが、中国自身は何を脅威

とみているのか。第一に台湾独立の恐れである。中国革命の目標は中国の統一であり、そ

れが妨げられると感じている。第二に仮に台湾独立があれば、それはチベット自治区や新

彊ウィグル自治区など少数民族地区の分離傾向に波及し、ひいては広東省など各省の自主

権拡大要求ヘも波及すると危惧(きぐ)する。こうなると中国はバラバラになり、統一が

不可能になる。第三にポスト鄧小平時代への過渡期を控えて、江沢民指導部は体制固めを

急いでいる。ナショナリズムの宣揚が最も安易な引き締め強化策であることは古今東西の

真理である。ここから中国の核実験に反対し停止させるよりよき方法が浮かびあがる。な

によりもまず中国側の感ずる脅威を除去する努力が肝要である。 一方で、中国に脅威を感じさせつつ(日米安保の再定義など)、他方で中国から受ける脅

威を声高に語るのは、マッチ・ポンプ式の愚行であろう。日中双方が互いに相手を脅威と

認識するのは、由々しい事態であり外交の行方不明現象である。

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神奈川政経懇話会、1996 年 8 月 15 日

中国の輸出減に注目

今年の一~五月期の中国の輸出が七・一%減とマイナス成長となったことが注

目される。すなわち輸出額は五一八億ドルで昨年同期比の七・一%減、輸入は

五二三億ドルで昨年同期比の一四・五%増である。その輸出減の理由を呉儀対

外貿易経済合作部長は次のように説明している。

1輸出税還付率の引下げで、輸出コストが上昇し、競争力が低下した。2輸出

企業の経営メカニズム転換がまだ十分でない。3WTO(世界貿易機構) 未加

盟のため、国際競争で不利な立場にある。4ブロック化の潮流のなかで貿易保

護主義が台頭している。5一部の大口輸出商品が内外の市場の変化の影響を受

けた、などである。こうして「輸出情勢は楽観できないが、中国の対外貿易の

全般的情勢は良好であり、今年の輸出入任務、すなわち総額二八〇〇億ドル目

標の実現は達成できる」と言明した(全国対外貿易輸出懇談会での発言『国際

貿易』九六 96 年七月一六日付) 。

懸念されていた「輸出税還付率の引下げ」が響いたことは確かであろう。ただ、

呉儀部長が敢えて触れなかった要因を考えてみたい。輸出が減少したのは、香

港三二・一%減、台湾一二・八%減、イタリア一〇・五%減、オーストラリア

三・八%減、アメリカ二・八%減である。このうちイタリア、オーストラリア

はもともと金額が小さい。輸出減少に響いたのは、香港、アメリカ、台湾向け

の輸出減少である。これらの国・地域は九五年後半から九六年初にかけての台

湾海峡の緊張と大いにかかわっていよう。だが、それだけが理由のすべてでは

あるまい。中国の全方位戦略が透けて見える。中国の輸出入相手のうち上位一

二カ国・地域の順位をみると、日本のシェアは三割台に迫っている。輸出入は

バランスがとれている。日中経済関係には強い補完性があり、その発展は重要

である。しかし、中国からみてあまりにも日中経済関係が深まりすぎることは

国際政治のバランス上、一考を要する。そこで日中貿易のシェアについて、バ

ランスを考えることになる。

アメリカとの関係は二割台に迫っているが、中国側の出超、アメリカ側の入超

である。中国海関統計でみるかぎり、出超は大きくはないが、アメリカ側統計

は「原産地主義」であるから、香港経由でアメリカに輸出された部分をも含め

ており、アメリカ側統計では、九六年の対中赤字は、対日赤字を超えるほどの

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大きさである。したがって、中国としてはアメリカからの輸入を増やすことが

望ましい。それによって米中貿易のバランスを改善するとともに、米中経済関

係を深めることができれば、一石二鳥である。この文脈で人権外交や安全保障

問題など米中間のさまざまな問題にもかかわらず、相互に修復の可能性を追求

しつつ、対峙しているのが現段階である。

次は東アジアの隣人、同胞たちである。来年七月、香港の主権は中国に返還さ

れるが、これはほとんど政治の分野での話であり、経済の現実は、主権がイギ

リスにあろうが、中国にあろうが、ほとんど関係ない話であろう。小さなトラ

ブルはありうるとしても、それが香港の経済的繁栄を根底から覆すことになる

可能性は小さい。輸出基地としての香港、輸入相手としての台湾の地位はます

ます強化される可能性が強い。韓国との貿易も急増しており(特に中国の輸入)、

往復では台湾を超える数字になっている。いずれにせよ、これらアジアニーズ

(シンガポールを除く)の合計額が全体の三分の一を超える数字を示している

ことは象徴的である。日米とアジアニーズ三カ国・地域で中国の貿易全体の約

八割を占める。残りの二割を占めるのが欧州連合(EU)とロシアである。こ

れらは貿易のシェア自体についてみるかぎり大きなものではないが、国際政治

や中国の安全保障からみて無視できない要素である。過去一年、米中関係が特

に台湾問題をめぐってギクシャクするなかで、際立ったのは中国ロシア関係の

発展である。北京は大統領選挙でエリツィンが辛うじて勝利した事実をも含め

てロシア情勢の成行きには重大な関心を懐いている。それは現実に中ロ関係の

安定が中国の安全保障からみて肝要だからである。過去一年、中国ロシア関係

の改善が目立ったが、中国側輸入の六割増にもそれが反映しているとみてよい。

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『政経かながわ』平成 8 年 9 月 15 日 天津開発区の発展 夏休みを利用して北京と天津を訪ねた。天津では天津市人民政府のシンクタンク経済技術

発展センターの研究員たちとアジア太平洋協力関係会議(APEC)や日中経済協力の諸問題

について意見を交換し、経済技術開発区や唐浩新港のコンテナ埠頭を参観した。天津経済

技術開発区の発足は一九八四年であり、十四の沿海地区開放都市の一つとしてだが、実際

に動き出したのは八六年八月二十二日に鄧小平氏が現地を訪れ「開発区には大いに希望が

ある」と揮ごうして以来のことである。今年は鄧小平揮ごう満十周年に当たるので、これ

を記念する会議を準備中であった。顧みると、鄧小平氏は自らの満八十二歳の誕生日にこ

こを訪れ、叱咤(しった)激励したわけだ。 経済技術開発区の九五年の実績は、GNP、工業総生産額、利潤および納税総額、輸出額な

どの対前年比でいずれも五割から八割増の好成績である。ン」の結果、天津市の経済全体

に占める開発区の比重は GNP ベースで九四年の七%から九五年の九%に増えた。ちなみに

工業総生産額ベースでは一一・七%から一六・五%へ、輸出額ベースでは二三%から三〇%

まで増えた。経済技術開発区が天津市の経済全体をけん引するようになったのは、特に開

発区からの輸出が同市輸出の三割を占めるに至った事実に端的に示される。 最優良のモトローラは売り上げ 3 倍増 開発区の最優良企業はおなじみ携帯電話の雄・アメリカのモトローラ社である。九五年の

売上額は八十二億千七百万元であり、対前年比一九二%増、すなわち三倍増である。つい

で台湾資本「頂益国際食品」の二十二億九千九百万元である(対前年比四七%増)。この会

社名はさほど有名ではないが、この会社の作る「康師傅(カンシーフ)麺」というインス

タント・ラーメンを知らない中国人はまずいない。モトローラ式携帯電話とラーメンを代

表とする台湾食品企業の売り上げだけで、大連の開発区全体を上回るというから、その力

の大きさがうかがわれよう。 国務院発展センターは毎年「中国の売上額ベスト企業五百社」を選んでいるが、モトロー

ラ社は六位、頂益国際食品は二十七位。開発区の工業全体をみると、電子、電気、食品、

金属製品、機械、化学工業、縫製、プラスチックの「八大産業」が支柱産業となっており、

その売上額は三百三十八億元だ。なかでも電子、電気のシェアが約五割を占め、食品は三

割弱である。九五年の主な投資国をみると、アメリカ八億四千四吉万ドル(四六上ハ%)、

香港二億五千五百万ドル(一四・一%)、イギリス一億四千五百万ドル(八・〇%)、韓国

一億七百万ドル(五・九二%)、日本九千三百万ドル(五・二%)、シンガポール五千八百

万ドル(三・二%)、オラシダ四千六百万ドル(二・六%)、ドイツ四千四百万ドル+(二。

四%)、カナグ四千三百万ドル(二・四%)、台湾三千三百万ルド(一.八%)である。 日本のパツケージ企業も順調に操業 概況の説明を受けたあと、私は日系の包装品メーカヽ―天津福助工業有限公司(本社は愛

媛県伊予三島市。年商五百億円、従業員二千名)を参観し、細川博総経理(副萱事長)の

話を聞いた。一同社は九二年に企業化調査(FS)を始めて、九四年二月に許可を得た。 一①O%独資企業であり、パー一ナーがいなかったために勝手が分からず、この段階で時間を

要したが「現在はすべてうまくいっており、大変満足している」とエコエコ顔であった。 九五年五月に建物が完成した。同年十一月に機械の試運転を始め、九六年二月操業を開始

した。主な産品はショツピング袋とラミネート袋である。産品の三割を中国で国内販売、

七割を日本、アメリカ、オーストラリアなどに輸出している。従業員は百五十七名だが、

これは第二期工事に備えて五割増やした数で、現在は作業の訓練を主として行っている。

秋には第二期工事をスタートさせる予定だ。日本人スタッフは、工場立ち上げの時は十二

名いたが、いまは総経理の細川博氏本人と副総理のみである。ポリエチレンのチップをタ

イなどから輸入し、帯状に引き延ばすが、それはコンドームよりも薄い。それで袋を作リ

プリント印刷する過程は、インゴットから薄板のコイルを作る製鋼所のミニチュアに似て

いる。一見、簡単な技術に見えて、実はそうでもないし、低賃金利用型企業ではない。細

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川氏自身は「すき間産業」と低姿勢だが、パッケージ産業はやはり近代化にとって不可欠

だ。すぐ破れる中国製のビニール袋に閉口させられている私は大いに期待して同社を辞し

た。

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神奈川政経懇話会、1996 年 10 月 15 日

中国の食糧危機、実は過剰

九月中旬に中国の食糧事情を調査した。ワールド・ウォッチ研究所のレスター・

ブラウン氏の問題提起が妥当な見方なのかどうかを検証するためである。北京

では国務院農業部(農水省に相当)、国務院直属国家食糧備蓄局などを訪ねた

が、先方が異口同音に答えたのは「食糧供給に問題なし、むしろ過剰気味」と

いう話であった。私にとってはむろん予想通りの答えであったが、マスコミの

虚報をインプットされている読者にとっては理解に苦しむ答えかもしれないの

で、くわしく説明してみたい。話は一九九四年のインフレ騒ぎに始まる。この

年、消費者物価は二割以上高騰し、大きな社会問題となった。自然災害による

食糧不足によるものと説明された。すなわち九四年の食糧生産量は四億四五一

〇万トンであり、九三年の四億五六四九万トンと比べて一一三九万トン減産し

た。一一三九万トンという減産量は小さな数字ではないが、中国の食糧生産全

体からみると二・五%にすぎない。しかも中国の需要からすると、絶対量とし

ては十分に間に合う数量なのであった。ではなぜインフレを招いたのか。この

年一部の地区で自然災害が起こり、当該地区での供給不足が生まれ、値上がり

した。当時、中国当局は食糧管理制度においても市場経済化を進めようとして

いた。値上がりは需給状況によるもの、値上がりがあれば供給はふえよう。い

ずれは市場価格で安定するはず、と流通関係者(国内貿易部)は楽観していた。

「神の見えざる手」に委ねるのが最善と教科書通りの需給一致論を信じていた

国内貿易部が気づいたときは遅すぎた。一部地域で発生したボトルネックによ

る値上がりが全国に蔓延していた。中国は流通体制が不備なので、この機に乗

じて商業資本が食糧を買い占めて暴利を得たのである。長春で吉林省農業庁の

関係者によれば、九四年後半には、トウモロコシを買いつける南方の業者が跋

扈していたという。ここで食糧輸出入の経緯を整理しておくと、九一年は純輸

入量二五九万トン、九二年は純輸出量一八九万トン、九三年は純輸出量七八三

万トン、九四年は純輸出量三四八万トンであった。このように、九〇年代には

いって以後、中国はむしろ純輸出国の地位にあった。しかし、九四年の食糧不

足に驚愕した当局は九五年には輸出をストップし、二〇四〇万トンを輸入した。

こうして九五年の純輸入量一九七六万トンとなった(『中国農業発展報告一九

九六』一九一頁)。

九四年時点で基本的に需給は間に合うはずであったから、九五年の輸入分約二

〇〇〇万トンはそっくり備蓄に回った。そこで今年の収穫の話になるが、豊作

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の九五年と比べて小麦、早稲は約五〇〇万トン増産であり、秋作を含めると、

少なくとも七五〇万トン程度増産になる。すなわち、九五年に輸入した約二〇

〇〇万トンに九六年の増産分を加えたものが余剰食糧である。この食糧過剰に

当惑しているのが農民である。九四年の食糧不足騒ぎにかんがみて政府は買い

付け価格を四割引き上げた。このため政府価格と市場価格の差は、キロ当たり

〇・二~〇・一六元(二・四~一・九二円)に縮小した。備蓄は十分なために、

政府は買い付けをふやしたがらないし、他方、市場価格のうま味の小さくなっ

たことが農民を失望させている。私は長春・公主嶺のトウモロコシ主産地区で

輸出を強く望む農民の声をたくさん聞いた。トウモロコシをせっかく増産した

のに、買い手がなくて農民は困っている、これが中国の「食糧危機」なるもの

の実情なのだ。中国当局はどうやら政策ミスを続けているようだ。九四年に食

糧管理改革を急ぎすぎたこと、九五年に大量の食糧を輸入したこと、九六年に

輸出をいぜん禁じたままであること。要するに三カ年にわたってミスを続けて

いる。この事実は、市場経済化に必要な生産・流通対策に行政が対応できてい

ないことを示している。農業部は生産のみ、国内流通は国内貿易部、輸出入は

対外貿易部の担当というバラバラ行政のために、後手後手に回っている。農業

部は生産量は重視するが農民の立場は無視しやすい。国内貿易部、対外貿易部

は、いずれも流通や貿易によってみずからの系列公司がもうかるかどうかに関

心がある。これでは「省益あって国益なし」の非難を免れない。このような欠

陥行政によって人為的に作られたのが中国の食糧不足騒動である。間違いだら

けのブラウン論文がうけたのは、当局の政策ミスのためだ。

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『政経かながわ』平成 8 年 11 月 15 日 一四期六中全会 十月七日から十日にかけて、北京で中国共産党の十四期六中全会が開かれた。この会議は

「社会主義精神文明の建設を強化する若干の重要問題についての中共中央の決議」という、

長たらしい題名の決議を採択するとともに、第十五回党大会の開催についての決議を採択

した(「人民日報」九六年十月十一日)。前者の決議の全文は「人民日報」十月十四日付の

一~二面全ページに掲載されている。七節二十項からなる長大なもので、その狙いは第九

次五カ年計画と二〇一〇年の長期目標の実現に呼応した「思想道徳」と「文化建設」にあ

る、としている。つまり、九二年の鄧小平「南方講話」以後、改革開放は新たな段階を切

り開いた。 しかし、 一部の地方や部門では思想教育、精神文明が軽視されている。一部

の領域では道徳規範が失われ、拝金主義、亨楽主義、個人主義が行われている。また封建

的迷信活動やポルノ・賭博(とばく)・麻薬などの現象がみられる、と最近の風潮を憂えて

いる。 「私有化」「議会民主主義」は認めない 二十六項ではキャンペーンの核心部分をこう説明している。「社会主義公有制を主体とし、

多種の経済セクターをともに発展させる」方針を進めるが、私有化は避ける。「社会主義的

民主主義」は発揚するが「西側の議会主義的民主主義」はとらない。「社会主義の思想文化」

は発展させるが「封建主義、資本主義の腐敗文化」は否定する。要するに、改革開放は進

めるが「私有化」を避け「議会民主主義」を避け「資本主義文化」を批判する、というの

が基本的立場である。長い論文は往々、つまらないが、この決議も例外ではない。改革開

放の過程で経済発展にみられるように「物質文明」の建設は進んだが「精神文明」の方が

おろそかになっているから、これを強化せよ、という呼びかけである。 この決議は全体として保守派ムードのお説教調である。改革開放こそが拝金主義、亨楽主

義、個人主義を生み、封建的迷信活動やポルノ・賭博・麻薬などを生み出したといわんば

かりの現状認識が底流にある。にもかかわらず、改革開放の国是をやめるわけにはいかな

いので、いきおい歯切れが悪くなる。他方、改革派からすると問題点は別のところにある。

改革開放の「不徹底さ」「中途半端さ」にこそ、これらの負の現象の根本的原因が隠されて

いる。従ってその解決のためには、改革開放をいっそう進める以外にはない。 江沢民指導部は鄧小平路線を継承しつつ、他方で若千の軌道修正を試みようとしている。

この決議は江沢民指導部のスタンスをよく示したものとみてよい。保守派的危機感と改革

派的立場の両者を折哀したものである。その背景をより具体的に知るには、保守派のアピ

ール、すなわち一般に「万言書」として知られている「わが国の国家安全に影響する若干

の要素」(香港『亜洲週刊』九六年一月十四日号)と改革派のアピール「革命よさらば」を

対比させて読むとよい。前者は鄧 力群の子息鄧 英陶らが書いたとする説や、保守派のシ

ンクタンク当代中国研究所が書いたとする説などさまざまだが、黒幕が鄧 力群(元中共中

央宣伝部長、中央書記処書記)であるとは衆知の通りだ。改革開放の中で国有企業のシェ

アが減少し私有制が復活した。階級関係が変わり、社会意識が変わり、共産党が変質し、

八九年天安門事件の名誉回復を図ろうとしていると危機感を強調している。左派からこの

ような先制攻撃に対して天安門事件以後、アメリカに出国した李沢厚、劉再復の対話録「告

別革命」は、中国共産党が「革命信仰」から脱却し、改良の道を歩むことを示唆している。

これに対して中共中央の理論誌『求是』(九六年十五期、谷方論文)は「社会主義への決別」

を使嫉(しそう)するものとキメつけ、厳しい論難を行っている。いわく、中国社会主義

を「ユートピア」論と呼び、毛沢東を「農民の皇帝」「大空想家」と呼ぶのは許されない、

などだ。これらのイデオロギー論争あるいはイデオロギー引き締めの真の標的はいうまで

もなく、九七年秋に予定されている第十五回党大会である。敵は本能寺にあり。大会へ向

けて、党政首脳ポスト争奪戦の一環なのである。

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平成 8 年 12 月 15 日 米中関係の改善 再選されたクリントン大統領が十一月二十日オーストラリア国会で演説し、対中国外交の

軌道修正を明確に打ち出した。「今後、数年間、中国が進む方向や、同国が将来、大国とし

ての姿勢をどう示すかこそが二十一世紀がどうなるかのカギだ。アメリカの利益にかなう

のは安定し、開かれ、繁栄し、世界における自国の立場に自信を持ち、大国としての責任

を果たす中国の出現である」「アメリカは中国と緊密な協議を行い、核拡散防止条約の延長

や核実験全面禁止条約の成立を目指す号米中両国には、今後も人権問題などで重要な考え

方の相違が生じるであろうが、率直な協議を続ける。来週、フイリピンで江沢民主席と四

回目の会談を行う際に、この姿勢で臨みたい」。同じ日にクリストファー国務長官は北京を

訪れ米中外相会談を行い、高官の定期的交流など関係改善の枠組み作りで合意し、来年一

月に辞任する直前にようやく米中関係を安定的軌道に乗せる見通しをつけた。 「台湾」で演出した疑似緊張状態 アメリカも中国も共に大国であり、小回りがきかない。ボクシングに例えれば、ジャプの

応酬に四年間を要した。中国はミサイル演習で台湾を威嚇(いかく)し、アメリカは空母

インデイペンデンスとニミッツを台湾沖に派遣して中国を恫喝するといった疑似緊張状態

を演出することによって、ようやく双方が話し合いのテーブルについた形である。クリン

トンは前回の選挙でブッシュ前大統領の対中国政策を弱腰と非難することによって当選し

た。天安門事件以後、浮き彫りにされた中国の人権問題を批判し、民主化を求める政策を

打ち出した。旧ソ連解体のあとで、もう一つの社会主義大国に対して、北風を吹かせるこ

とによって旅人のマントを脱がせる作戦であり「関与政策」(エンゲイジメント・ポリシー)

と名付けられた。アメリカの高姿勢は、議会が二〇〇〇年北京五輪開催案に反対決議をし

たり、貨物船「銀河号」を臨検したものの疑惑の化学物資を発見できないという醜態を含

めて勇み足が多かった。中国はこれに強く反発した。九二年十一月のシアトル APEC 会議

はクリントンと江沢民の初顔合わせの場となったが、極めてぎこちない会談に終わった。 米中が一致した北朝鮮への軟着陸戦略 翌九四年五月、クリントンは人権問題と切り離して対中最恵国待退(MFN)を更新し、事

態の悪化を防いだが、九月には対台湾関係の高官交流の「格上げ」を決定。これは九五年

六月の李登輝総統訪米につながり、米中関係の緊張度を高めた。九五年十月、江沢民の国

連絡会出席の場をとらえて米中首脳会談が行われたが、関係改善の必要性を確認するだけ

に終わった。九六年二月、台湾の総統直接選挙を前にして中国はミサイル演習を繰り返し、

アメリカは空母を出動させることによって、緊張は一挙に高まった(かに見えた)。私の見

るところ、これはほとんどお芝居であった。このパフオーマンスによって双方とも、 一方

でそれぞれ国内態勢、すなわち国内での政治的リーダーシップ一を固め、他方で交渉相手

のスタンスを確認したのであり、瀬踏みにほかならない。 むろん、いまや対日赤字を超えつつあるアメリカの対中赤字問題はますます拡大する基調

にあるし、中国の人権問題もアメリカ側が深追い回避を図るだけである。これらの問題を

棚上げして協調を図るのはなぜか。米中関係改善の核心は北朝鮮問題において米中両国の

相互理解が完全に一致したことであろう。アメリカが構想した北朝鮮の軟着陸(ソフト・

ランデイング)戦略を推進する上で、真に実力のあるパートナーは中国しかありえない。

中国の力を借りて対北朝鮮「安楽死」作戦を進めつつある。それは二十一世紀の米中協調

関係の行方を示唆するものである。 米中両国の和戦両様にみせかけた演出意図を読みきれない向きは「一触即発の危機」を煽

(あお)り、中国脅威論をはやし立て、中国市場からの投資引き上げ、はては尖閣列島防

衛を声高に論じた。これらは時代錯誤の妄言であろう。バブルがはじけて数年、ゼロ成長

が続く中で生じた自信喪失、疑心暗鬼が生み出したものだ。枯れ尾花を幽霊と間違えて戦々

恐々とする構図であろう。橋本内閣のスタートにより、政治には一つの方向が見えてきた。

経済も早く自信を回復し、二十一世紀を見据えた活動に取り組む必要があるのではないか。

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「香港人による香港の統治」 1997 年 1 月 15 日号 6-7 ページ 「軟着陸」成功の中国経済 1997 年 2 月 15 日号 6-7 ページ 「見事な引き際の鄧小平氏」 1997 年 3 月 15 日号 6-7 ページ 「江沢民集団指導部の実力」 1997 年 4 月 15 日号 6-7 ページ 「香港化が急速な大陸経済」 1997 年 5 月 15 日号 6-7 ページ 「中国成長を支えた技術移転」 1997 年 6 月 15 日号 6-7 ページ 「中国の市場経済化導く香港」 1997 年 7 月 15 日号 6-7 ページ 「台湾省廃止でゆれた台湾」 1997 年 8 月 15 日号 6-7 ページ 「台湾海峡に日本の出番ない」 1997 年 9 月 15 日号 6-7 ページ 「新世紀へつなぐ江沢民体制」 1997 年 10 月 15 日号 6-7 ページ 「争点は残しての米中協調」 1997 年 11 月 15 日号 6-7 ページ 「民は食を以て天と為す」 1997 年 12 月 15 日号 6-7 ページ

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1997 年 1 月 15 日 8 ~9 ページ

香港人による香港の統治

香港返還はいよいよ半年後に迫った。私の見方では、香港の将来は決して暗く

はない。予想できることはほとんど折込み済みで経済は動いている。董建華氏

を初代行政長官に選んだのもその一つである。内外のマスコミの懸念はほとん

ど杞憂ではないか。十二月十一日夜のNHK衛星放送が「パッテン総督の改革」

と題して放映したイギリス・チャネル4のドキュメンタリーは、問題の所在を

抉りだす興味深いものであった。中国問題を「悲しいほどに何も知らない政治

家」がパッテン氏であり、そのような人物によって英中関係がこじれた経緯を

分析してあますところがなかった。つまり、パッテン氏が民主化カードをふり

まわし、北京がこれにコワモテで対処する過程で香港問題がことさら誇張され

た傾きが強いのである。こうして生まれた香港市民のモヤモヤが爆発したのが

尖閣問題であった。香港では日本領事館に乱入するまでに対日批判が拡大した。

その背景を最も巧みに解説したのは香港『九十年代』編集長李怡である。香港

で「保釣運動」(保衛釣魚台の略)が盛り上がったのは、「愛国競争」のため

だ、というのが彼はいう。返還後の香港は「港人治港」すなわち「香港人によ

る香港統治」が行われると北京は約束した。ここで「香港人」の含意が問題だ。

北京は「愛国愛香港」の人物によるべきだとし、「愛国」を強調した。香港の

民主派は天安門事件前後、「中国の愛国民主運動を支援する香港聨合会」を組

織してデモを繰り返した。かくて、香港人の考える「愛国」と北京(中南海)

の主張する「愛国」とは、同床異夢であった。

香港の民主派(マーティン・リー=李柱銘議員などがその代表)は、パッテン

香港総督の動きに呼応して、立法評議会の一般選挙議員数の増枠など、いわゆ

る民主化を進めた。これに対して北京は強い姿勢をとり、この議会を九七年以

降は「解散する」ものとした。民主化派の試みは、一つ一つ北京によってつぶ

され、香港社会には欲求不満が蓄積された。このとき、尖閣問題というリトマ

ス紙が現れた。尖閣は中国のものだ、実力で奪い取るのが真の愛国主義者では

ないか。錦の御旗を掲げた煽動は強い。大陸支持の香港左派はむろんのこと、

中間派も反対する理由はない。こうして「愛国」とはすなわち「愛領土」なり、

とするキャンペーンはまたたくまに香港社会を覆う。「愛国」の看板は、もと

もとは北京が提起したものだが、香港民主派はそれを逆手にとり、北京の愛国

はニセモノと切り返した。その証拠に「保釣運動」に熱心なのはわれわれでは

ないか。「愛国競争」には大義名分があり、コストがかからない。香港人がと

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びついたのはそのためだというわけだ。香港の日系デパートで日本商品ボイコ

ットをやり、日本総領事館におしかけ、日本・香港関係が危機にさらされたと

しても、香港・大陸関係あるいは香港・台湾関係ほど大きな経済的痛手を受け

ることはない。「保釣運動」は「安全な運動」であり、コストがかからず、し

かも返還を間近に控えてモヤモヤした欲求不満を解消できる妙薬であった。

私は八月と九月、続けて中国を旅行した。八月には『ノーといえる中国』を早

速読んだが、あまりの幼稚さにあきれた。この安直な本が版を重ね、五人の若

者が金儲けできたのは市場経済下の出版界の一面を示す。その後、続編『中国

はやはりノーといえる』(原文=『中国還是能説不』)だけでなく、類書も出

たのは、「元祖」石原氏らの批判に反撃したものである。一連のナショナリズ

ム煽動本が後を絶たない。一部の中国人のもつこのような情緒を在米の華人歴

史学者余英時は、西側文明に対する羨望と憎悪のないまぜになったルサンチマ

ン・コンプレックスと表現している。「二一世紀は中国の世紀だ」とか「中国

は科学技術大国になる」といった議論は、現状に対するコンプレックスの裏返

しだと喝破するわけだ。余英時はまた中国のいわゆるナショナリズムを「民族

主義」と呼ぶことに異議を唱えている。むしろ「民」を「国」と置き換えて、

「国族主義」と呼ぶのがふさわしいという。尖閣問題は香港市民のモヤモヤが

爆発した一種のガス抜きとなった。中南海はここから教訓をくみ取り、より慎

重に対処するであろう。香港過渡期の混乱を回避できる可能性がいっそう強ま

ったと私がみるのはこのためである。

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1997 年 2 月 15 日 6~7 ページ

「軟着陸」成功の中国経済

いま中国で「軟着陸」というキーワードが流行り言葉になっている。たとえば

経済学界の大御所であり、中国社会科学院顧問の地位にある劉国光氏の「軟着

陸を論ず」(『人民日報』九七年一月七日付)などがその一例である。九三年

下期以来続けてきた「八~一〇パーセントの高度成長を続けながら、物価を六

パーセント程度に押さえる」ことが「軟着陸」の目標であり、それにほぼ成功

したと自信を深めているわけだ。桔弌峠氏の「南巡講話」を起爆剤として中国

経済は九二年に一四・二パーセント成長を記録し、九三~九五年は二桁成長を

維持してきたが、九六年にはようやく九・七パーセントと「二桁に近い一桁」

に押さえることができたことを「軟着陸」の成果としているわけである。この

間、インフレ率は九四年の二一・七パーセントから九六年の六パーセントまで

一五・七ポイント落ちた。九二年に始まった中国の好景気は、いわば「桔弌峠

景気」とも呼べるものだが、その特徴は「四熱、四高、四緊、一乱」で説明で

きるという。「四熱」とは、不動産熱、開発区熱、資金集め熱、株式熱である。

「四高」とは、高い投資率、高い工業成長率、高い通貨発行水準と貸出率、高

いインフレである。「四緊」とは、輸送の逼迫、エネルギーの逼迫、原材料の

逼迫、資金の逼迫である。「一乱」とは、経済秩序とりわけ金融秩序の混乱で

ある。

この「四熱、四高、四緊、一乱」のキャッチフレーズで説明できるような中国

式高度成長狂騒劇から「安定的、持続的な高度成長」路線へ導くことが「軟着

陸」の課題であり、それに成功したのが九六年の成果とみてよい。経済担当の

朱鎔基副総理は「すでに持続的な、快速の、健康な高速道路を走っているとい

える」といった趣旨を年初の「全国金融工作会議」(一月一三日~一六日)で

繰り返しているが、これは経済のマクロ・コントロールについて自信を抱いて

いることの現れであろう。彼が特に強調しているのは、通貨の大量発行の悪循

環をすでに押さえたことである。すなわち、九四年は一四〇〇億元を発行し、

インフレ率は前述のように二〇数パーセントであった。九五年は前年の三分の

一カット、すなわち九五〇億元に押さえ、インフレ率を一四・八パーセントに

押さえた。九六年の通貨発行量は、九一七億元であり、計画目標一〇〇〇億元

を達成した。ちなみに、九七年の目標は一二〇〇億元とされており、この目標

が堅持されるならば、インフレ再燃は避けられよう。外貨準備高が一〇五〇億

ドルの大台を突破したことも、九六年の明るい話題である。これによって日本

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に次いで世界第二の外貨保有国になったばかりではなく、この実力を背景とし

てIMF八条国に移行したことは彼らの自信を支えるものであろう。

国有企業の改革は、過去二、三年、足踏みを続けていたが、今年からいよいよ

実質的な改革に向けて動き出さざるをえない状況に追い込まれてきている。全

国計画会議では計画経済から市場経済への転換という「経済体制の転換」と、

外延的経済成長から集約的な経済成長への「経済成長の方式の転換」という「二

つの転換」の推進がキーワードとして強調された。「二つの転換」は第九次五

カ年計画全体の課題でもあるが、その方向での二年目の経済運営が始まること

になる。国有企業の赤字とこれに起因する三角債、中央の財政赤字、そうした

状況のもとでの固定資産投資の量的拡大一辺倒路線の問題点について、これま

では単に問題が列挙されるだけの傾向が目立ったが、これらの諸問題をシステ

ム工学的に関連づけて認識しようとする傾向が最近は著しい。経済の動きは因

果関係で結ばれているものが多い。これらの要因を全体として認識し、システ

ムとして扱う姿勢が出てきたのは、中国経済の市場経済化がそこまで進展して

きたことの反映にほかならない。経済の方法で経済を管理するやり方がいよい

よスローガンから実際の経済政策レベルまで浸透してきたことになる。今年の

目標成長率は一〇・五パーセントである。中国経済の活力からエネルギーを汲

み取り、日本経済の活性化に努めてほしいところである。

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1997 年 3 月 15 日 6~7 ページ

見事な引き際の鄧小平氏

鄧小平氏がついに死去した。二月一九日夜九時八分と発表された。死因はパー

キンソン病プラス肺感染症と説明されたが、九二歳五カ月の高齢であるから、

むしろ老衰そのものであろう。私は二月二〇日午前二時半にNHKのディレク

ターの電話でたたき起こされた。目下確認中なので、三時にもう一度電話する

由である。寝入りばなを起こされたのではもう寝つけない。しばらくして再度

電話が入り、まだ中国当局は公表していないが、死去はほとんど確実であるか

ら、直ちにNHKへご足労願いたい。いまからハイヤーを差し向ける、とのこ

とである。五時前にNHKに着き、六時半からの衛星放送「おはよう世界のト

ップニュースで解説した。当日、午前は勤務先の大学院に新設の博士課程の面

接を行い、午後は合否の判定会議に出席し、夕刻の教員組合執行委員長として

任務引継ぎの最後の仕事を書記長にゆだねて再度NHKへ。一八時からの「特

番」で解説し、二二時からの「プライム・タイム・ニュース」で解説し、若干

の打合せを経て帰宅したのは午前一時前であった。この日約二三時間、働かさ

れるはめになった。私自身のスケジュールからみると、最悪の日に死去したこ

とになるが、時間がきつかっただけのことである。古来、「蓋棺論定」、棺を

蓋って初めて評価が定まるというが、鄧小平のばあい引き際は実に見事であっ

たと私は評価している。毛沢東のばあいは、中国共産党主席、中共中央軍事委

員会主席という現代中国において最も重要なポストを保持した現役のまま死去

した。それゆえ死去の前後、激しい権力闘争が避けられなかった。この権力闘

争の過程で鄧小平は敗れた。鄧小平路線のスタートは、二~三年遅れただけで

なく、その後華国鋒体制を崩して実質的に鄧小平体 制を固めるまでには数年を

ムダにした。みずからもその直接的被害者としてこの事実を強く意識する鄧小

平は後継体制作りには特に意を用いてきた。八九年の秋、天安門事件の処理が

済んだ段階で軍事委員会主席の地位を江沢民に譲った。それ以後、「特別に大

きな問題」は別として、政治に関与しないと言明し(引退の手紙を政治局宛て

に書いて、その趣旨を説明したときの談話『鄧小平文選』第三巻三一七ページ)、

それを実行したのであった。さらに一九九四年夏には満九〇歳の誕生日を迎え

たのを期して、「舞台裏からの引退」を改めて提起した。すなわち、今後は「特

別に大きな問題」も含めて一切関与しないので、江沢民指導部が独自に判断せ

よとの趣旨である。こうして鄧小平は正式引退から七年余、舞台裏からの引退

以後二年半、政治権力からまったく離れた一人の老人として死去したのであっ

た。

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この経緯を私は注視し、後継体制作りにこれだけ意を用いてきた点はポスト毛

沢東期とまるで違うと説いてきた。さらに改革開放、すなわち市場経済化の路

線のもとで中国経済は繁栄し、大方の中国人は現在の生活を楽しむようになっ

てきているので、この文脈でも改革開放の路線は堅持されるはずである、とも

説いてきた。軽佻浮薄なわがマスコミは、ポスト毛沢東期の政変と旧ソ連解体

のイメージを重ね合わせて、オオカミ少年もどきの「中国解体論」「中国崩壊

論」を垂れ流してきたが、現実の推移は、基本的に私の予想通りであったから、

鄧小平死去の解説においても、その核心部分はすべては織込済みであった。マ

スコミはいわば肩透かしをくわされた形であろう。二五日の追悼大会の当時は

同じくNHKの衛星放送で中国中央電視台の中継画像をみながら同時解説した。

さらに同日夜の「プライム・タイム・ニュース」でも同じ趣旨を繰り返した。

こうして私は「鄧小平時代の終焉」を確認したのであった。顧みると、二一年

前、ポスト毛沢東の政変に際しては、私は観測をまるで誤ったことをいまでも

恥じている。以後その失敗を繰り返すまいと決意して、チャイナ・ウオッチャ

ーとして努力してきた。チャイナ・ウオッチングという言葉をはやらせた一人

は私だと自負しているが、現在相当な数に膨れ上がった自称、他称のチャイナ・

ウオッチャーのなかで、プロフェッショナルな訓練に心掛けているものは寥々

たることに気づき愕然とすることが多い。情報化の進展する現代において、氾

濫する不確かな情報が少数の正確な情報を食い散らしているように思えてなら

ない。

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1997 平成 9 年 4 月 15 日『政経かながわ』 江沢民指導部の実力 二月一日から十四日まで行われた恒例の全国人民代表大会は無事に終わった。会期中に北

京市内の繁華街でバスに爆弾をしかけたテロがあり、 一時は緊張したが、大過なくポスト

鄧小平時代が始まった。実は、これはあらかじめ慎重に配置されてきたものであり、当然

の成行きにすぎない。今年七月の香港返還を経て、秋には第十五回党大会が予定されてい

る。江沢民の続投体制はほぼ固まったとみてよい。人事問題の一つは、国務院総理を憲法

の二選禁止規定のゆえに引退する李鵬の名誉職をどうするかである。巷間さまざまな人事

構想が下馬評に上っている。例えば、党の主席・副主府制を復活させ、李鵬、喬石が副主

席になり、江沢民が主席になる案がある。しかし、主席制を廃止したのは一九八二年の第

十二回党大会であり、これが鄧小平時代の幕開けのことであったことを想起すると、非鄧

小平化の象徴になりかねず、異論が多いであろう。 果たして国家主席は喬石となるのか 現行制度のもとでポストの配分を行う案としては、喬石(全人代委員長)が国家主席に昇

格し、李鵬(国務院総理)が喬石の後を襲って全人代委員長に就任する案が急浮上してい

るという。しかし、これにも難点がある。訪米を予定している江沢民にとってプレジデン

トと英訳される「国家主席」の肩書は最も好ましいはずだ。その内実は別として「共産党

総書記」や「軍事委員会主席」よりはるかによいイメージを与えることは確かであろう。

そのメリットを犠牲にして、喬石、李鵬に花をもたせることが江沢民を核心とする集団指

導制の内実を示すことになるかもしれない。 鄧小平の葬儀委員会リストを点検すると、いくつかの興味深い事実に気付く。主任が江沢

民であるのは当然として委員の筆頭は李鵬である。李鵬は追悼大会で司会役を務め、江沢

民体制の重要な柱であることを示唆した。次いで喬石、李瑞環と続き、彰真(全人代元委

員長)が超長老として番外挿入、朱鎔基、劉華清、胡錦濤までは政治局常務委員の序列に

したがう。彭真の高い順位が一部で話題にされたが、これは以前に長老を位置づけた慣例

を踏襲するものである。 次いで栄毅仁(国家副主席)が番外挿入される。次は政治局委員の丁関根、田紀雲、李嵐

清、李鉄映、楊白冰、呉邦国、鄒家華、姜春雲、銭其琛、黄菊、尉建行、謝非の順である。

その後に温家宝、王漢斌候補が続く。次いで楊尚昆、万里、宋平、薄一波、宋仁窮、張震

が顧問格である。 カリスマの時代は終わり官僚の時代ヘ 政治的影響力を行使する可能性をもつ長老は、彭真九十五歳、楊尚昆九十歳、万里九十一

歳、宋平八十歳、薄一波八十九歳、宋仁窮九十一歳、張震八十二歳の六名である。天安門

事件当時、「八老」と呼ばれたのは、鄧小平、楊尚昆、陳雲、王震、李先念、薄一波、宋仁

窮、彭真である。このうち四名が既に逝き、存命は楊尚昆、薄一波、宋仁窮、彭真の「四

老」に半減し、しがも八歳齢を増した。実は常務委員会メンバーの一部が年齢的には既に

長老なのであり、もはや「元」長老の出番はほとんどあるまい。たかだか文字通りの相談

役として相談に応ずる程度であろう。顧問委員会という「屋上屋」が現役の政治局の意志

決定を妨げることを防ぐための措置は十分なのである。鄧小平は長生きすることによって、

長老たちの雑音を封鎖したことになる 政治局内部の力関係および政治局レベルと長老たちとの人間関係を眺めると、毛沢東や鄧

小平といった「カリスマの時代」は終焉したことが分かる。戦争と革命の時代にこそ、カ

リスマ性をもった指導者が生まれる。いまや官僚としての階段を一歩一歩上り詰めるテク

ノクラートの時代なのだ。そのような時代の指導者の資質について「カリスマ性」の有無

を論じ、そこから「政治力が未知数である号政治的安定が維持できるかどうか危うい」な

どと論評する評論家たちは、「比丘尼に魔羅出せ」と追る愚行を演じているわけだ。 ここから分かるように、鄧小平の死去前に吹聴された「オオカミ中年」の議論は、死去後

は「政治力未知数論」「安定化動乱か懐疑論」と姿を変えて、人々を迷わせている。秋の第

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十五回党大会に向けて、権力の再配分、再調整の動きは活発化するであろう。しかし、ポ

スト争奪がどんなに激しくなっても所詮はコップの中の嵐、コップを割るほどの体力はあ

るまい。それが江沢民集団指導部の実力であると私は読む。

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1997 年 5 月 15 日 6~7 ページ

香港化が急速な大陸経済

香港返還まで一カ月余に迫り、現地香港では返還式祝賀ムードにおおわらわで

ある。貧しい中国から豊かなイギリスに里子に出された小さな植民地ががいま

や宗主国であったイギリスよりも豊かな経済力を誇るようになったのだから、

歴史は皮肉である。一九九四年時点でイギリスは一・八万ドルだが、香港は二・

一万ドルである。香港の経済は、燦然と輝いている。かつて「一〇〇万ドルの

夜景」「東洋の真珠」と評されたが、いまや二一世紀に向けて躍進する中国経

済の牽引力として、ダイヤモンドにさえたとえることができるほどの異彩を放

っている。光と闇はメダルの表裏に似ている。このような経済的繁栄は、それ

ぞれの段階で、いわば「闇の部分」をみずから引き受けることによって、かち

得たものである。香港の誕生がアヘンの密輸基地としてであることはいうまで

もない。イギリスは中国産の紅茶を必要としたが、中国が必要とするイギリス

産品は見いだせなかった。そこで発見されたのがインド産のアヘンにほかなら

ない。香港はいわば東洋に拠点を求めるイギリスの陰謀から、いわば汚い取引

のなかから生まれたのだ。ジャーディン・マセソン商会の歴史は、香港史と同

義である。一二年前に本社をバミューダに移したが、最近は「これまで一六八

年香港で働いてきたジャーディン・マセソンは、これからの一六八年も香港人

とともに生きる」と猛烈なテレビ・コマーシャルを展開し、返還以後への意欲

を表明している。

卑近な例では、香港から大陸への直接投資が目立つが、その一部は「大陸起源

の人民元」のはずである。人民元が香港で「外資に変身」し、大陸に投資され

「外資としての優遇」を受けるのだ。大陸に眠っていたタンス預金は、こうし

て香港旅行を一度体験することによって、見事に「資本」に変身したわけであ

る。

麻薬のカネであれ、汚職のカネであれ、素性を問わず、洗浄してくれる社会的

機能は道徳の世界とは別に断固として存在している。香港はいわば「三不管」

(宗主国イギリスも、租借を許した中国も、植民地都市たる香港自身も、誰も

管理しない、の意)を逆手にとり、たくましく生きてきた。ブランド商品のコ

ピー問題(すなわちニセ・ブランド商品)もいかにも香港らしい現象である。

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江沢民指導部は今年七月一日前後の過渡期の波乱を防ぐために、細心の注意を

はらって対策を練りつつある。この時期を乗り越えれば、あとは秋の第一五回

党大会まで一瀉千里である。返還以後の香港はどうなるのか。香港の国際金融

市場としての機能が失われ、中国のローカルマーケットに変質するとみる悲観

論が罷り通っている。だが冷静に考えてみると、国際金融を支える条件はなに

一つ失われないことが分かる。ロンドンがイギリスにありながら、東京が日本

にありながら、国際金融市場であるのと同じように、返還後の香港は中華人民

共和国の主権下にあっても、その国際性が失われるはずはないのだ。中国が「金

の卵を生む鶏を絞め殺す」とみるのは、杞憂にすぎまい。外資が逃亡し、技術

者や管理者層が国外に脱出するならば、香港返還とは単に失業者六五〇万人を

抱える結果になる。香港人も大陸人もそのような失敗を演じるほどに愚かな

人々の群であるとみるのは、まるで見当違いというほかない。

かつての香港はイギリスが大いなる中国に設けた橋頭堡であったが、今後の香

港は中国の南玄関として、中国とASEAN、中国と西側を結ぶゲイトウェイ

になろう。中国が改革開放の政策に転換して以後、香港経済と大陸経済との相

互依存関係は日々強まってきた。この文脈で、香港経済はすでに大陸経済と切

り放ちがたく結びついている。「香港経済の大陸化」は必至である。しかし、

同時に、大陸の経済もまた香港経済や台湾経済の強い影響を受けて、「香港化」

が旧ピッチである。政治的にみると、香港は大陸に吸収される印象が強いが、

経済的にみると、むしろ大陸の経済こそが香港を呑み込むことによって「香港

化」しつつある。広東省の香港ドル圏化は、日々進んでいる。香港返還の歴史

的意味は、遠景から眺めることによってこそ、その含意を十分に理解できよう。

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1997 年 6 月 15 日 6~7 ページ

中国成長を支えた技術移転

旧聞だが、経済企画庁経済研究所は四月二二日、「中国の将来とアジア太平洋

経済」研究会の報告を発表した。これは金森久雄氏(日本経済研究センター会

長)を委員長とし、私をも含めた一二名の専門家が半年にわたって続けた研究

会の結果をまとめたものである。中国の過去一五年間の高度成長はいかなる要

因によってもたらされたのか。その成長率への寄与度をみると、年率一〇%の

成長率のうち、労働力の増加による部分が一・六%、資本の増加による部分が

三・二~三・六%である。残りの約五%が「全要素生産性」(TFP)による

ものである。ここで全要素生産性の意味について一言説明しておく。これは一

定の経済成長が行われた場合に、まず数量的に把握しやすい労働力と資本の増

加による部分を計算し、残りを「全要素」によるものと理解するわけである。

具体的には、技術進歩を指すことになる。つまり同じ労働力と資本を投入して

も、技術革新が行われるならば、より多くの成長をもたらすことになるが、こ

れを全要素の結合の仕方によるものと理解して、このように呼ぶことが行われ

ている。

経済企画庁のエコノミストによって全要素生産性の伸び率は約五%と推計され

たが、これは高度成長期の韓国や台湾よりも大きな数字である。この計算結果

のもつ意味は大きい。というのは、さきごろクルーグマン教授(アメリカ・マ

サチューセッツ工科大学)の「東アジア経済は技術進歩を欠いて単に労働力を

つぎ込んだだけの量的成長であるにすぎない。それゆえ、いずれ限界につきあ

たる」とする悲観論が話題になったが、この議論が少なくとも中国のケースに

ついてはあてはまらないことを実証したからである。

ではなぜ中国では、全要素生産性の伸び率が大きかったのか。報告書は(1)

中国経済に市場メカニズムが浸透したこと、(2)外国からの技術導入によっ

て生産効率の改善が行われたこと、(3)工業化が進む過程で労働力、資本が

高生産性部門に移動したこと、の三点を指摘している。(2)の外国からの技

術導入については、こう分析している。九三年の統計に基づいて外資系企業と

国有企業の全要素生産性の差を計算してみると、前者は後者よりも八割方大き

い。しかし九四年にはこの差は六割に縮小した。これらの事実は、なによりも

外資系企業が先進的な技術や経営ノウハウをもっていることを示している。そ

れだけではない。これらの先進技術は、技術者が外資系企業から国有企業に還

流するなどいくつかのルートを通じて先進技術が他の企業に流れている可能性

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を示唆している。つまり「直接投資による技術移転」が中国経済全体の全要素

生産性の上昇に大きく寄与していることをこの報告書は実証してみせたわけで

ある。

このような実証的分析を踏まえて、報告書はつぎのような展望を示した。すな

わち中国の高度成長はアジア太平洋地域にとって「脅威」とみるべきものでは

なく、むしろむしろダイナミックな発展につながるチャンスと理解すべきであ

る。そのような機会を巧みに活かすために、日本に期待されているものはなに

か。この問題について報告書は二つの課題を提起した。

一つは内陸開発のためのインフラ整備、農業の基盤整備、環境保護など市場経

済だけでは解決の困難な課題に対する協力である。もう一つはWTO加盟促進

や金融資本市場の整備など市場経済の枠組み作りに向けた協力である。こうし

た形での日中経済協力が進むことによって、中国の高度成長と工業化は「域内

の分業関係の高度化、緊密化」を通じて「アジア太平洋地域により一層ダイナ

ミックな経済発展をもたらすであろう」と報告書は結んでいる。

今年は国交正常化二五周年に当たる。中国では市場経済への舵取りを続けてき

た桔弌峠氏が死去し、秋には第一五回党大会が予定されている。このような中

国にとっても日中関係史にとっても記念すべき年に際して、金森報告が積極的

なメッセージを提言したことの含意は大きいと私は感じている。その結論は、

私の年来の主張とも基本的に合致しており、私としては大きな援軍を得た気分

でたいへん愉快である。

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1997 年 7 月 15 日 6~7 ページ

中国の市場経済化導く香港

いよいよ香港返還である。歴史的なイベントであるから、お祭騒ぎも理解でき

ないことはないが、木を見て森を見ない類の議論が多すぎると思われる。五月

の総選挙で敗北し、労働党に政権を譲ったメジャー前首相が最後の香港総督と

してパッテン氏を指名したのは五年前である。保守党の幹事長として選挙を勝

利に導きながらみずからは落選の憂き目をみた失意の政治家に対するメジャー

氏の思いやり人事であったとみてよい。就任以来、パッテン氏は「レイム・ダ

ック」(びっこのあひるの意、転じて影響力を失った政治家)になることを警

戒しつつ、さまざまのパフォーマンスを演じてきた。しかしそのほとんどが裏

目に出て、歴史の幕間劇の喜劇役クラウンの姿で舞台から消えようとしている

のは皮肉である。本来なら返還劇の一方の主役であるはずなのに、名誉ある撤

退劇の演出に失敗したのは、歴史の潮流を見誤った政治家の大きな誤算という

ほかない。パッテン総督についてこのように辛辣な評価を予告したBBC放送

チャネル4のドキュメンタリー「フロントライン香港」(九四年六月二二日。N

HK衛星放送九六年一二月一一日)の視点こそがイギリスの良識と私は読んで

いる。

イギリス人のキャスター氏曰く、「イギリス統治の終焉は不可避である。中国

を知る者は北京と対決するよりは、より分別のある和解がよいと感じている。

しかし一人の軽率な英議会政治家がすべてを変えてしまった」「無知と傲慢が

凝り固まったものによって武装されたクリス・パッテンが香港の協定に対して

全面的改革を求めたからだ」。キャスター氏はここでオースチン・コーツの『官

僚としての私自身』から結びの一句を引いて、ダウニング街(英首相官邸の所

在地) はその意味を理解していないように見える、とパッテン氏を香港総督に

任命したメジャー首相の不見識をも批判した点もこのドキュメントが三年前の

ものであることを考えると、予見性に満ちている。保守党は労働党に大敗し、

メジャー氏は官邸を去った。香港問題の処理が選挙に大きな影響を与えたとは

思えないが、英中対立がプラスに作用しなかったことだけは確かであろう。

コーツはこう書いた。「西洋人にとって、あるいは西側にとって、中国に影響

を与えることが可能であると信じるのは空想的である。西洋人が中国にやって

きたとき、いかなる高官であれ、これまでに達成できたことは、大海にわずか

の塩をまくことであった。中国は大海のごとく、磐石のごとく変化せざる存在

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だからだ」。最後の総督はどうであったか。「パッテン氏がナィーブなためか、

傲慢のせいか、あるいは正真正銘そう信じたのか、変えうると信じたところか

らトラブルは始まった」。キャスター氏がパッテン総督に鋭く切り込む。パッ

テン氏が苦虫をかみつぶしたような顔で「アダマンティーン」(磐石のような)

とつぶやく。その表情がきわめて印象的であった 。

返還後の香港では「一国両制」が行われる。両者は有刺鉄線で隔てられ、人々

の移動にはいぜん「査証」が必要だ。司法も通貨(香港ドル)も独立である。董

建華初代行政長官のもと、アンソン・チャン女史以下主な政庁幹部をそのまま

用いることによって行政の安定性、継続性を保持することなど、どこをみても

北京の意図は明確である。このような措置が貫徹されるかぎり、香港の国際金

融市場としての機能が失われ、中国のローカルマーケットに変質することはあ

りえまい。国際金融を支える条件はなに一つ失われないからだ。ロンドンや東

京、そしてシンガポールと同じく、返還後の香港は中華人民共和国の主権下に

あっても、その国際金融都市としての機能を果たし続けるであろう。人々は「香

港経済の大陸化」を危惧しているが、視線はむしろ大陸経済の「香港化」(市

場経済化)現象にこそ向けられるべきであろう。中国はすでに一八〇〇億ドル

近くの直接投資を受入れ、これをテコとして市場経済化への道を邁進している

がそのうち六割は香港資本である。中国の市場経済化を導く最も有力な牽引力

は、香港資本をおいてほかにはありえい。「一国両制」の内実とは、「市場経

済先進地域・香港」と「市場経済途上国・中国」との有刺鉄線に象徴される距

離を置いたままの連携なのである。もはや水と油の関係ではないのだ。

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1997 年 8 月 15 日 6~7 ページ

「台湾省廃止」で揺れた台湾

台湾の李登輝総統は昨年春の総統直接選挙での大勝利以後、行政院長(日本の

首相に相当)の任命についての立法院(日本の衆議院に相当)の拒否権問題を

めぐるトラブルや女優白暁燕の娘の惨殺事件などが続き、声望が大きくゆらい

でいた。しかし、七月一六日夜台湾の民主化を大きく進める憲法改正案が可決

されたことによって、威信は総統選挙直後のピークにまで回復したとみられる。

八月に予定されている国民党第一五回党大会で李登輝総統・連戦副総統の体制

を固め、一連の県市長レベル選挙、国民大会(いわば日本の参議院に総統)選

挙を乗り切れば、レイムダック(影響力を失った政治家)に陥る運命を回避で

きる可能性が高まっている。

憲法改正のカナメは「台湾省凍結案」すなわち廃止という行政改革案と立法院

の拒否権廃止案である。後者は総統権限の強化を意味する。会議に出席した国

民大会代表三一六名のうち二五九名が支持し(支持率八二%)、憲法改正に必

要な四分の三の規定(七五%)を超えて、この議題が採択されたわけである。

反対および棄権したのは新党の四六名と国民党党員のうち台湾省代表および軍

代表などであった。なぜ台湾省廃止なのか。一九四九年の中華人民共和国の成

立以後、南京にあった中華民国政府が台湾に亡命した結果、台湾には中華民国

政府の下に台湾省政府、県市レベル政府、鎮郷レベル政府という三つのレベル

の行政機関がおかれてきた。大陸にあった中華民国政府は日本植民地であった

台湾をのぞく地域の政府として存在したが、台湾に亡命して以後は、事実上台

湾政府でありながらも、大陸全体の政府であるとする虚構を主張してきた。現

実には、中華民国政府イコール台湾省政府であるから、屋上屋は不要である。

行政改革、民主化の一貫として台湾省政府を廃止しようというわけである。「台

湾省政府」という名称を廃止し、中華民国政府(行政院)のもとに、台北市、

高雄市という二つの直轄市は別として、地方自治体としての県市レベル政府と

同じく地方自治体としての郷鎮政府という二段階の地方行政機構によって台湾

の建設を図ろうとする試みは、現実に合わせて虚構を改める試みであり、台湾

化、民主化をよりいっそう進めるものにほかならない。これが台湾政局を揺る

がすような大きな政治的争点になったのは、その政治的影響がはかり知れない

からである。大陸との統一を主張する少数派の「新党」は「台湾省凍結とは台

湾独立であり、歴史の罪人である」(原文は凍省=台独、歴史罪人)とするプ

ラカードを掲げて採決に抗議した。台湾省の「省」をなくすことは、中国の一

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部としての「台湾省」を否定し、独立の政治実体としての台湾を強調し、台湾

独立をさらに進めるものと反発したわけである。

しかし、この問題が騒がれた真の要因は、おそらく独立か統一かのためという

よりは、他の要因がいくつもからんでいるからである。まず第一に、台湾省の

廃止によって省政府の公務員は失業するし、省議会の議員たちも来年末の任期

をもって議員でなくなるから生活問題に直結する。行政改革に対する役人と議

員の抵抗はいずこも同じである。しかも台湾省政府の宋楚瑜省長は、ポスト李

登輝の地位を狙う大物政治家であるから国民党の内部分裂の様相をみせて行方

が騒がれたのである。もし野党民進党が反対に回り、宋楚瑜の造反を支持する

者が増えたならば、台湾の政局は大混乱に陥る可能性が強かった。実際には宋

楚瑜は予想した四五票をはるかに下回る一四票の造反票しか集められなかった。

李登輝がみずから切り崩しに乗り出し、政局動乱の危機を回避できたわけであ

る。

この結果、国民党内部で造反を試みた宋楚瑜の政治生命は大きく傷つき、連戦

副総統兼行政院長の後継者としての地位は固まった。八月の党大会以後、連戦

は行政院長を辞任し副総統の任務に専念するが、行政院長の後継者には肅万長

(前行政院大陸委員会主任)が有力である。今回の政治劇の大きな特徴は、国

民党と民進党(許信良主席)が協力して多数を獲得したことである。七月一日

の香港返還で台湾はきわめて冷静な対応に終始した。みずからの政治体制を固

めたうえで、大陸側の統一戦線攻勢に対処しようとしていることがわかる。(台

北国際学舎にて)

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1997 年 9 月 15 日 6~7 ページ

台湾海峡に日本の出番ない

日中両国が国交を正常化したのは七二年であり、今年は正常化二五周年にあた

る。記念のイベントはいくつか予定されているが、ハイライトはやはり橋本龍

太郎首相の九月訪中、一一月の李鵬総理の来日である。この両者を盛り上げて、

日中のギクシャクした関係を修復する試みが双方の関係者によって年初から積

極的に行われてきた。たとえば廬溝橋事件の六〇周年がらみの中国側報道は控

え目であったし、尖閣列島(釣魚台)の領有権をめぐる問題の扱い方は日中双

方とも慎重である。とはいえ、カンボジア問題における自衛隊機のタイ派遣に

中国は危惧の念を示し、日米安保の再定義(いわゆるガイドライン)の範囲に

台湾海峡を含めるとする梶山官房長官の発言に中国が抗議している。

私は夏休みを利用して七月の一カ月を台湾で暮らし、海峡両岸の問題を調査し

たが、日本のマスコミも政治家も問題の根本をどこまで理解しているか疑問な

しとしない。日本の世論は、戦後五〇年が過ぎたから、もはや戦後は完全に終

わった。あらゆる戦後の事柄を整理し出直すべきだという。敗戦後「一億総懺

悔」と言われたが、昨今の基調は、いわば「戦後の総居直り」である。日本は

戦後五〇年の復興と繁栄のなかで、様変わりした。若者は戦後生まれの世代の

第二世代である。バブルがはじけて数年になるとはいえ、人々は食うに困るよ

うな事態ではない。個人の蓄えもあり、また社会保障が充実してきたからだ。

そのような繁栄の夢をむさぼる日本人にとって、台湾海峡でのミサイル演習は

晴天の霹靂と受け止められたようだが、これは平和ボケというほかない。

台湾海峡の「戦後」はどうであったか。一九四九年の中華人民共和国の成立直

後の一〇月二四~二八日に、中国は金門奪取作戦を展開し、失敗した。その後、

五八年八月二三日から一〇月六日にかけて福建前線部隊が金門に奇妙な砲撃を

加えたが、その舞台裏を毛沢東の執筆した「台湾同胞に告げる書」はこう説明

している。

〔台湾海峡両岸の〕われわれは中国人である。三十六計、和を上計とする。金

門への戦闘は懲罰性のものだ。あなたがたの指導者〔台湾政府〕が過去に長期

にわたって航空機を大陸に妄りに雲南、貴州、四川、青海まで飛来させ、伝単

を撒き、特務を下ろし、福州を爆撃し、江浙を攪乱したからだ。それゆえ若干

の砲撃を行い、あなたがたの注意を引こうとするものだ。あなたがたの指導者

は米国と軍事協定〔一九五四年の「共同防御条約」〕を結んだが、廃棄すべき

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である。米国はいつかはあなたがたを見捨てるであろう。あなたがたの立場か

らみて安心できることであろうか。一三万の金門の軍民は、供給に事欠き、飢

えと寒さが迫り、長期の計とはなしがたい。人道主義のために、私は福建前線

にこう命じた。「一〇月六日から七日間に限り砲撃を停止する。あなたがたは

自由に、十分に供給品を輸送してよい。ただし、米国人の護衛なしを条件とす

る」。あなたがたとわれわれの戦争は三〇年〔一九二七~五八年〕やっている

が、まだ終わらない。談判を行い、平和的に解決するよう提案したい。これは

米中両国に関わる問題ではない。米国が台湾、澎湖と台湾海峡を侵略している

のは米中双方に関わる問題だ。両国が談判で解決すべきであり、いまワルシャ

ワで行っている。中華人民共和国と米国の間には戦争はなく、停戦もない。台

湾の友人たちとわれわれには戦火があり、停止し、終わらせるべきである。こ

れには談判が必要だ。

その後十余年、七一年のニクソン訪中で米中関係は緩和に向かい、台湾は八七

年に戒厳令を解除し、まもなく海峡両岸の経済交流が活発化し、今日に至る。

私の見るところ、台湾には政治的にも経済的にも「独立」できる条件はないが、

「独立しない」との約束はしにくい。大陸には台湾を武力統一する意図はない

が、「武力行使をしない」との約束はしにくい。両者ともに交渉の最後の切り

札を残しておきたいだけだ。切り札を使う可能性はまずない。事柄はいわば夫

婦喧嘩の類なのだ。かけひき上手の中国人同士にまかせておけば、済む話であ

り、日本が容喙する余地はない。私は金門前線のトーチカをめぐりながら、こ

のことを確認したわけである。

Yabuki Susumu—Kanagawa 183

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1997 年 10 月 15 日 6~7 ページ

新世紀へつなぐ江沢民体制

中国共産党の第一五回党大会で自前の体制を固めた江沢民は、一〇月末に訪米

し、クリントン大統領と米中首脳会談を行う予定だが、この会談に臨む中国の

スタンスはどのようなものであろうか。九月二六日に江沢民は「現在、中米関

係の全体的雰囲気はよい。中米関係をよりいっそう改善し、発展させるよい機

会に直面している」と語った。

中国側が有利な要素とみているのは、香港返還を無事に乗り切り、党大会も無

事に終わり、中国の政治が安定し、経済発展の展望も明るいことである。この

結果、中国の国際政治における地位も、国際経済における地位も速やかに向上

しつつあり、アメリカは中国との関係を発展させることの意味を重視せざるを

えなくなったとみている。

しかし中国側はアメリカに対する警戒感を隠さない。アメリカは政治的、軍事

的、経済的に中国封じ込めを行う意図をまったく放棄したわけではない。中国

に対してたえず「内に浸透し、外は塞ぐ」戦略を用いているとみているのであ

る。

中国からみて有利な要素と不利な要素をハカリにかけつつ、米中首脳会談に臨

む中国側の総方針は「中国に有利な当面の国際情勢を十分に利用し、タイミン

グをつかみ、主導権をかちとり、全方位外交のために新局面を打開する」もの

である。

アメリカのオルブライト国務長官は、米中首脳会談の議題を「人権、環境、エ

ネルギー、貿易摩擦、核兵器の不拡散問題」であると指摘しており、中国側は

これらの議題についての対応策をかねて慎重につめてきた。たとえば熱凪茵外

交部長は九月二四日に国連総会の席上、中国側の原則的な立場を表明している。

この発言は党大会以後に江沢民が確認した「全方位外交戦略」に基づいたもの

とされている。

実は党大会に先立ち、九六年から九七年にかけて、中国はアメリカとの戦略的

対話のためにさまざまな努力を積み重ねてきている。たとえばロシアとの間で

首脳間の往来を重ねて「中ロ間の戦略的パートナーシップ」を固め、そのうえ

でロシア、カザフスタン、キルギス、カジクスタン諸国との国境問題の解決を

急いできた。ASEANとは九六年に全面的対話をはじめ、九六年八月には李

Yabuki Susumu—Kanagawa 184

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鵬総理がマレーシア、シンガポールを訪問し、ASEANとの関係を深めた。

九六年に江沢民がインド、パキスタン、ネパールを訪問して以後、中国は南ア

ジアとの関係改善にも力を用いて国境問題を一部解決し、九七年にはインドの

与党の大会にも中国共産党代表団を派遣している。

対アフリカ外交では、九六年に江沢民が六カ国を訪問し、二一世紀に向けての

中国アフリカ関係についての五項目の提案を行った。対ラテンアメリカ外交で

は、李鵬総理が三カ国を訪問し、経済協力の拡大をアピールしたこともあって、

パナマ運河国際会議では台湾の李登輝総統は、ほとんどやっかいもの扱いされ

るに至った。中国側の働きかけの結果、主要国が大物代表の派遣をためらい、

この国際会議がきわめて淋しいものとなったことは周知の通りである。こうし

た周到な準備をふまえて江沢民はクリントン大統領と会談するが、今回の江沢

民訪中で、米中関係が一挙に改善されることはないであろう。というのは、江

沢民訪米は来年のクリントン大統領の訪中のためのいわば露払いにすぎないか

らである。クリントン大統領は来年中国を訪問して、懸案の大きな問題を解決

する。それによって有能な大統領クリントンのイメージをアメリカの世論に植

えつけ、中間選挙に臨む意向とみられる。すべてはこのクリントン陣営の中間

選挙対策を標的として動いているのではないかと私は米中関係を分析している。

こうしたクリントン大統領側のスケジュールを中国側は十分に分析し、妥協で

きるところで妥協するが、人権問題や台湾問題など中国の現行体制を危うくす

るようなアメリカの内政干渉は断固としてはねつけるであろう。こうして米中

関係は一方で争点を残しながらも、大枠としては、二一世紀へ向けての米中協

調体制あるいは米中結託体制の構築へ向けて、ゆるやかに歩むものと私は読む。

防衛協力のガイドライン問題で右往左往するわが政治家たちには、米中双方の

カケヒキが読めていないのではないかと危惧せざるをえない。

Yabuki Susumu—Kanagawa 185

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1997 年 11 月 15 日 6~7 ページ、争点は残しての米中協調

中国共産党の第一五回党大会で自前の体制を固めた江沢民は、一〇月末に訪米

し、クリントン大統領と米中首脳会談を行う予定だが、この会談に臨む中国の

スタンスはどのようなものであろうか。九月二六日に江沢民は「現在、中米関

係の全体的雰囲気はよい。中米関係をよりいっそう改善し、発展させるよい機

会に直面している」と語った。

中国側が有利な要素とみているのは、香港返還を無事に乗り切り、党大会も無

事に終わり、中国の政治が安定し、経済発展の展望も明るいことである。この

結果、中国の国際政治における地位も、国際経済における地位も速やかに向上

しつつあり、アメリカは中国との関係を発展させることの意味を重視せざるを

えなくなったとみている。

しかし中国側はアメリカに対する警戒感を隠さない。アメリカは政治的、軍事

的、経済的に中国封じ込めを行う意図をまったく放棄したわけではない。中国

に対してたえず「内に浸透し、外は塞ぐ」戦略を用いているとみているのであ

る。

中国からみて有利な要素と不利な要素をハカリにかけつつ、米中首脳会談に臨

む中国側の総方針は「中国に有利な当面の国際情勢を十分に利用し、タイミン

グをつかみ、主導権をかちとり、全方位外交のために新局面を打開する」もの

である。

アメリカのオルブライト国務長官は、米中首脳会談の議題を「人権、環境、エ

ネルギー、貿易摩擦、核兵器の不拡散問題」であると指摘しており、中国側は

これらの議題についての対応策をかねて慎重につめてきた。たとえば熱凪茵外

交部長は九月二四日に国連総会の席上、中国側の原則的な立場を表明している。

この発言は党大会以後に江沢民が確認した「全方位外交戦略」に基づいたもの

とされている。

実は党大会に先立ち、九六年から九七年にかけて、中国はアメリカとの戦略的

対話のためにさまざまな努力を積み重ねてきている。たとえばロシアとの間で

首脳間の往来を重ねて「中ロ間の戦略的パートナーシップ」を固め、そのうえ

でロシア、カザフスタン、キルギス、カジクスタン諸国との国境問題の解決を

急いできた。ASEANとは九六年に全面的対話をはじめ、九六年八月には李

鵬総理がマレーシア、シンガポールを訪問し、ASEANとの関係を深めた。

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九六年に江沢民がインド、パキスタン、ネパールを訪問して以後、中国は南ア

ジアとの関係改善にも力を用いて国境問題を一部解決し、九七年にはインドの

与党の大会にも中国共産党代表団を派遣している。

対アフリカ外交では、九六年に江沢民が六カ国を訪問し、二一世紀に向けての

中国アフリカ関係についての五項目の提案を行った。対ラテンアメリカ外交で

は、李鵬総理が三カ国を訪問し、経済協力の拡大をアピールしたこともあって、

パナマ運河国際会議では台湾の李登輝総統は、ほとんどやっかいもの扱いされ

るに至った。中国側の働きかけの結果、主要国が大物代表の派遣をためらい、

この国際会議がきわめて淋しいものとなったことは周知の通りである。こうし

た周到な準備をふまえて江沢民はクリントン大統領と会談するが、今回の江沢

民訪中で、米中関係が一挙に改善されることはないであろう。というのは、江

沢民訪米は来年のクリントン大統領の訪中のためのいわば露払いにすぎないか

らである。クリントン大統領は来年中国を訪問して、懸案の大きな問題を解決

する。それによって有能な大統領クリントンのイメージをアメリカの世論に植

えつけ、中間選挙に臨む意向とみられる。すべてはこのクリントン陣営の中間

選挙対策を標的として動いているのではないかと私は米中関係を分析している。

こうしたクリントン大統領側のスケジュールを中国側は十分に分析し、妥協で

きるところで妥協するが、人権問題や台湾問題など中国の現行体制を危うくす

るようなアメリカの内政干渉は断固としてはねつけるであろう。こうして米中

関係は一方で争点を残しながらも、大枠としては、二一世紀へ向けての米中協

調体制あるいは米中結託体制の構築へ向けて、ゆるやかに歩むものと私は読む。

防衛協力のガイドライン問題で右往左往するわが政治家たちには、米中双方の

カケヒキが読めていないのではないかと危惧せざるをえない。

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1997 年 12 月 15 日 6~7 ページ

「民は食を以て天と為す」

カナダのバンクーバーで開かれたAPEC首脳会議は、アジアの通貨混乱に対

して協力して臨む方向を確認して終わった。タイのバーツの下落にはじまった

今回の嵐は、ついに韓国のウォンにまでおよび、日本の大手都市銀行や証券会

社の倒産ともからんで、世界恐慌の再来さえ、危惧されるほどの深刻さである。

香港の株式暴落が直ちにウォール街を直撃したように、万一、日本で信用不安

が現実化したら、その悪影響が香港以上の衝撃度をもってアメリカ経済にはね

かえることは明らかである。この意味で、世界経済の強い相互連関、相互依存

関係を認識させられる昨今である。

APEC首脳会議に先立ち、中国では「全国金融工作会議」(一九九七年一一

月一七日~一九日)を開いて、江沢民、李鵬、朱鎔基の三首脳がそろって「重

要講話」を行った。中国は以前の計画経済体制のもとでは、財政が中心であり、

金融の役割は無視できるほどに小さかった。しかし、過去一〇数年に急ピック

で進んだ市場経済化の過程で、財政よりは金融の役割のほうがより重要になっ

てきている。

中国共産党は第一五回党大会以後、「今後約三年で市場経済に適応した金融機

構体系・金融市場体系・金融コントロール体系を構築する」目標を掲げている。

具体的には、中国人民銀行の中央銀行化をより押し進めて、人民銀行を通じて

金融のコントロールを行うことが一つの柱であり、もう一つは国有の四大商業

銀行(中国工商銀行、中国建設銀行、中国農業銀行、中国銀行)の「商業銀行

性」をより強化して、国有企業改革と連動しつつ、経済改革と金融改革を牽引

していく目論見である。

九月の党大会で国有企業の株式化構想を打ち出した時点では、有望な国有企業

をまず株式会社化して、香港で上場することによって「外資」を調達し、国有

企業の事実上の「合弁企業化」を狙っていたが、アセアンの通貨動揺が香港ド

ルや香港の株式市場にも波及するにおよび、出鼻をくじかれた形である。とは

いえ、いまのところ、香港ドルや株式の動揺は比較的小さな段階にとどまって

いる。世界経済の行方に依存するだけに予断は許さないが、いまのところ、中

国経済の活力も、それと連動する香港経済の活力も失われたと見ることはでき

ない。

Yabuki Susumu—Kanagawa 188

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このような状況を踏まえて、中国の指導部はこの金融工作会議を開いて対策を

協議したわけである。中国経済は市場経済化への移行過程にあるから、国際的

な金融の動向に対して脆弱な側面をもつことは確かである。他方、メダルの反

面として、中国はまだ統制経済の側面を残しているので、国際的圧力を可能な

かぎり減殺するための「鎖国的手段」も残している。舵取りは難しいが、経済

の分かる男・朱鎔基の陣頭指揮のもとで、中国経済は迷走ではなく、着実な歩

みを進めている。

一九九七年の中国を総括すると、二月に桔弌峠が死去した。後継体制作りは万

全であり、江沢民へのスムーズな権力の移行が行われた。七月一日に香港返還

のセレモニーが行われたが、周到な準備を経て順調であった。二つの難問をク

リアして中国共産党の指導部は九月の第一五回党大会で再選され、自前の江沢

民体制がスタートした。これら三つの大きな出来事を順調に処理できた最大の

要因は、中国経済の活況にある。つまり景気がよく、人々が日々の生活に満足

し、明日はよりよい生活ができるであろうという見通しのもてることが最大の

安定要因である。「民は食を以て天と為す」。庶民にとって食べること、安定

した日常生活を送れることが大切だ。では為政者の本質とは何か。「王は民を

以て天と為す」。庶民にとっては、王様がいてもいなくても変わりはないが、

王は民がなくてはなりたたない。「王は民あってのもの」という哲理を教えて

いる。

一三億に近い巨大な人口を抱えて、経済的離陸を急ぐ中国には、難問が山積し

ている。しかし、問題の多いことが危機なのではない。問題の所在に対する正

しい認識を欠き、解決への意欲を欠くことにこそ真の危機がある。危機に対処

する意欲をもつ点で、中国の現在の指導部は世界的にみても最も安定した政権

であるとみてよい。

Yabuki Susumu—Kanagawa 189

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「発育期で丈夫な中国経済」 1998 年 1 月 15 日号 6-7 ページ 「変わる上海経済の産業構造」 1998 年 2 月 15 日号 6-7 ページ 「逆風の中で朱鎔基内閣発足」 1998 年 3 月 15 日号 6-7 ページ 「絶大な信頼もつ朱鎔基総理」 1998 年 4 月 15 日号 6-7 ページ 「後継体制に力を入れる中国」 1998 年 5 月 15 日号 6-7 ページ 「朱鎔基の改革作戦始まる」 1998 年 6 月 15 日号 6-7 ページ 「缶詰特訓中の査察特派員」 1998 年 7 月 15 日号 6-7 ページ 「内需で発展する中国経済」 1998 年 8 月 15 日号 6-7 ページ 「米中のミサイル照準問題」 1998 年 9 月 15 日号 6-7 ページ 「見え始めた中国経済の底力」 1998 年 10 月 15 日号 6-7 ページ 「伸び悩み脱し上向きの中国経済」 1998 年 11 月 15 日号 6-7 ページ 「江沢民訪日の失敗」 1998 年 12 月 15 日号 6-7 ページ

Yabuki Susumu—Kanagawa 190

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』政懇ホット情報、1998 年 1 月 15 日 6 ~7 ペ

ージ.

年頭に当たり、一九九七年の中国を総括し、九八年を展望してみたい。旧年は

二月に鄧小平が死去したが、後継体制作りは万全であり、江沢民へのスムーズ

な権力の移行が行われた。七月一日に香港返還が行われたが、周到な準備を経

て順調であった。二つの難問をクリアして中国共産党の指導部は九月の第一五

回党大会で再選され、自前の江沢民体制がスタートした。これら三つの大きな

出来事を順調に処理できた最大の要因は、中国経済の活況にある。つまり景気

がよく、人々が日々の生活に満足し、明日はよりよい生活ができるであろうと

いう見通しのもてることが最大の安定要因である。

一三億に近い巨大な人口を抱えて、経済的離陸を急ぐ中国には、難問が山積し

ている。とはいえ問題の多いことが危機なのではない。問題の所在に対する正

しい認識を欠き、解決への意欲を欠くことにこそ真の危機がある。この文脈で

中国の現在の指導部は西暦二〇〇二年までポストを保障されている世界的にみ

ても最も安定した政権であるとみてよい。

九七年夏から秋にかけて通貨危機がタイ、インドネシア、マレーシア、フィリ

ピン、韓国などの国々を襲ったが、中国はその影響からほとんど無傷であった。

これらの国では経常収支と対外純資産が大幅な赤字に陥り、国際的投機家が通

貨と金融市場とりわけ株式市場を攻撃した。遂には通貨切下げを余儀なくされ、

IMFに金融支援を求めた。「香港・中国発の第三波の可能性」という見方が

一部で行われているが(たとえば船橋洋一記者「アジア通貨危機と日本」『朝

日新聞』一二月一四日)、事実誤認も甚だしいものがある。中国経済のファン

ダメンタルズ(国際収支、外貨準備高、外債残高の水準)はIMFに救援を求

めた国々のそれとは比較にならないほどよい。また中国は国際金融システムに

対して貿易やサービスを通じて間接的にさらされているにすぎない。これらの

条件の違いは明確に認識されなければならない。

アセアン諸国は九四~九六年に慢性的な経常収支赤字に陥り、タイはGDPの

一五%に達しているが、中国は経常収支黒字を一貫して維持している。対外純

資産の差異はもっと大きく、九六年末までに対外純資産の赤字がマレーシアG

DPの二二%、タイGDPの四七%に達している。これに対して中国は九六年

末現在でGDPの一四%に相当する対外純資産黒字をもつ。中国の外貨準備高

は九七年末までに一四二六億ドルに達している。中国は外債を管理するうえで

Yabuki Susumu—Kanagawa 191

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とりわけ注意深く、九六年末にデット・サービス・レシオ(毎年の元利返済額

の経常収支受け取りに対する比率)は六・七%、GDPに対する外債の比率は

一四・三%、経常収支受け取りに対する外債の比率は七五・六%である。これ

らはすべて国際的警戒ラインのはるか下の水準である。短期債務の比率は、債

務全体の一五%以下である。今後五年間の展望においても各年とも返済は一〇

〇億ドル以下であり、輸出がかりに減少したとしても容易に支払いうる規模で

ある。

中国の金融システムは外国の証券市場と隔絶されている。人民元は資本取引勘

定において自由に交換できる通貨ではない。IMF八条国への移行によって「貿

易とサービスの決済」は自由化したが、これを除けば人民元の売買は国家外国

為替管理局による許可が必要であり、中国への証券投資(人民元表示の証券を

買うこと)は非居住者は許されない。国家外国為替管理局からの許可を得なけ

れば、中国の居住者が外国に口座をもち、外国証券を買うことは禁じられてい

る。外国通貨建ての借款は一般に人民元に交換できず、輸入取引を決済するた

めにのみ用いられる。外国の直接投資資金は人民元に交換してもよいが、厳格

に監視され、銀行の承認が必要である。これらの制限と規則はすべて人民元を

いかなる投機的圧力からも隔絶し、他の外国通貨、とりわけ対米ドルとの交換

レートを中国人民銀行によって「管理」するためである。九八年の展望はどう

か。中国の輸出はこれまでのように順調ではなくなり、直接投資も減少しよう。

GNPの成長率はいくらかダウンするであろう。しかし、中国経済はいま発育

盛りであり、マイナス要因の影響は軽微なものに止まると私は読んでいる。

Yabuki Susumu—Kanagawa 192

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』政懇ホット情報、1998 年 2 月 15 日 6 ~7 ペ

ージ.

変わる上海経済の産業構造

九七年九月に行われた第一五回党大会の決定をふまえて、全国各省の共産党組

織が省レベルの党大会を開いている。上海では一二月に開かれたが、そこで黄

菊(上海市党委員会書記、政治局委員)は、九二~九七年の経済建設の成果を

誇っている。中国経済は全国レベルでは九二年以来の高度成長の景気調整の局

面にあり、「売り手市場」から「買い手市場」への転換が語られ、一種のデフ

レ・ムードさえ現れている。しかし、上海市は少し遅れて経済成長の波に乗っ

た感があり、いまようやく経済成長が軌道に乗りはじめたごとくである。黄菊

の報告によると、九七年の上海市GDPは三三六〇億元で九二年の三倍になり、

一人当たりGDPは現在の為替レート換算で三〇〇〇ドルを超えた。九二年か

ら九七年にかけて、上海の産業構造の戦略的調整は著しい成果を挙げた。金融、

商品流通、交通通信、不動産を主とする三次産業が迅速に発展し、上海市GD

Pに占める比重は三六%から四五%にふえ、新たな成長ポイントになりつつあ

る。第二次産業内の構造調整も進み、自動車、通信情報設備、発電プラント、

大型電機設備、家庭電器、石油化学工業、精密化学工業、鉄鋼業など「六大支

柱工業」(リーディング・インダストリー)の比重は上海市工業付加価値の五

割以上を占めるに至った。さらに集積回路、コンピューター、バイオテクノロ

ジー、新素材などのハイテク産業の上海市工業に占める比重は一五%以上にな

っている。一次産業(農業、漁業)は「野菜籠プロジェクト」「米びつプロジ

ェクト」を先導役として、大規模化、集約化した「施設農業」を推進し、都市

型農業へ発展しつつある。上海市の経済はすでに二次産業オンリーの段階から

二次産業プラス三次産業の時代にはいった。

確かに近年の上海市の大いなる変貌はまことに目を見張るものがある。この変

貌を上海紙『解放日報』(九七年一二月一一日)は、「基地型都市からの脱却」

「経済的中心都市への発展」と特徴づけた論評を行っているので、紹介してみ

よう。

かつて上海は中国の工業基地であった。全国から石炭、鉄鉱石、綿花などが鉄

道や船舶によって次々に運び込まれ、それが工作機械、自転車、繊維製品に形

を変えてふたたび全国に運ばれていった。今日の上海はどうか。雲をつく摩天

楼が立ち並び、そこに陣取るオフィスビルには世界中からやってきたビジネス

マンたちが地球の裏側まで瞬時につながるコンピューターを通じて、情報を交

Yabuki Susumu—Kanagawa 193

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換し、ビジネスを進めている。巨額の資金がキーボードをたたいた瞬間に世界

中をかけめぐる。かつての上海は「原材料の集散基地」であり、その「加工産

品を拡散する都市」であった。いまや「資金、情報の集散と拡散の都市」へと

わずか五年のうちに大転換した。すなわち、加工生産を主とする「基地型都市」

からサービス産業の機能を強くもつ「中心型都市」への歩みを速めている。一

九九一年に上海のGDPに占める工業付加価値の比重は五七・七%であり、ま

さに工業都市の姿であった。当時、上海と他の省、外国とのつながりは、「物

流」のレベルにとどまり、「資金」「情報」の流れは薄かった。ちなみに九一

年末までに上海が導入した外資は六八・六億ドルにすぎず、上海経済が国際的

大循環に参加する程度は限られていた。九二年以後、上海の都市機能に大きな

転機が訪れた。中国最大の工業基地から国際経済、金融、貿易基地への歩みで

ある。それを象徴するのがGDPに占める三次産業のシェアの増加である。九

一年当時は三次産業は三四・六%にすぎなかったが、九七年一~一〇月は四五・

三%にふえており、この間一〇・七ポイントの増加である。この報道が強調す

るように、上海経済の発展はたしかに著しいものがある。

さて九八年はどうか。中国の人民元切り下げに波及することはないと朱鎔基(副

総理、経済担当)が繰り返している。中国の輸出が伸び悩み、外資の流入が減

少する可能性は強いが、それが直ちに人民元の切り下げに直結するわけではな

い。朱鎔基はむしろこれを奇貨として国内金融体制の大手術を断行しようとし

ている。突破口は「広東の独立王国」をつぶし、中央のコントロールを強化す

ることである。

Yabuki Susumu—Kanagawa 194

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』政懇ホット情報、1998 年 3 月 15 日 6~7 ペ

ージ.

逆風の中で朱鎔基内閣発足

中国は三月五日から日本の国会に相当する全国人民代表大会を開く予定である。

この会議の最大の見どころは、経済通の朱鎔基副総理が総理に昇格し、朱鎔基

内閣が発足するこである。この新内閣の課題は、国有企業改革、金融改革、行

政改革などだが、朱鎔基はアジア通貨危機の後遺症という逆風のなかでこれら

の難問に挑戦することになる。朱鎔基は桔弌峠の真の後継者であるといってよ

いほど、実力のある指導者である。いま中国経済がアジア通貨危機のなかで風

圧に耐ええているのは、過去五年間に外貨準備高を一四〇〇億ドルにふやし、

輸出競争力を格段に増強したからである。これは主として朱鎔基の采配による

ものである。朱鎔基は一月一四日、「全国銀行、保険、証券系統の支店長、マ

ネージャー会議」で力強い檄をとばした(『人民日報』九八年一月一五日)。

これは事実上「総理朱鎔基の施政方針演説」と読んでよい。主題ごとに紹介し

てみたい。

1)金融風波の原因をどうみるか。世界経済の連係が日増しに緊密化しつつある

今日、「金融風波」の生まれる原因は錯綜し複雑である。その影響はグローバ

ルなものだ。これらの国・地域が金融危機を解決するために採る措置は必ずや

予期した効果を挙げて、アジアは依然として世界において最も経済的活力を備

えた地域になるであろう。

2)香港に対する衝撃はどう回避したか。香港特別行政区政府はタイミングよく

有力な措置を採り、総体としては経済と金融の安定を保持した。香港は比較的

合理的な経済構造と厳格な金融監督制度、そして十分な外貨準備を備えており、

金融的リスクに抵抗する能力を十分にもっている。中国政府は香港特別行政区

政府が金融市場の安定のために採る措置を米ドル・ペッグ制を含めて支持する。

3)九八年の経済情勢はどうか。九八年の中国経済は高度成長を保持し、GDP

の成長率は八%以上を達成し、物価は引続き、低い水準を保持するであろう。

4)九七年の経済実績をどう評価するか。九七年は中国の改革開放以来、経済情

勢が最もよい一年であった。国民経済の運行方式はすでに「高度成長、高いイ

ンフレ」から「高度成長、物価安定」の軌道に転換した。商品市場は全体とし

てすでに「モノ不足経済」に別れを告げ、「買い手市場」になった。経済の実

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力は増強され、生産手段の供給は十分である。食糧準備と外貨準備はともに史

上最高の水準である。これらは今後の国民経済の持続的、快速、健康な発展に

とって頼りになる条件である。中国の経済発展の優勢は主として巨大な潜在的

国内市場に立脚できるところにある。中国はすでに国民経済の新たな成長点を

探りあて、いままさに育成しつつある。農林水利、交通運輸、市政建設、環境

保護などのインフラ建設が大規模に展開されつつある。人民大衆の住宅購買、

住宅建設の需要は日増しに伸びている。国家のハイテク、ニューテク産業に対

する政策と外国からの先進技術の導入政策はしだいに整いつつある。

5)人民元の切り下げはあるか。ASEAN国家の通貨切り下げは中国の輸出と

外資導入にとっては、厳しい挑戦である。しかし、中国の輸出産品は独自の競

争力をもっており、この挑戦に対処できる。すなわち中国は政治的安定が保た

れ、人民元は強い。投資環境の改善、輸入税率の引き下げに加えて、最近、輸

入設備についての関税と付加価値税免除の新政策も発表した。中国の外債構造

をみると、八五%以上は中長期借款である。デットサービス・レシオの警戒ラ

インは二〇%だが、中国の九六年段階の数字は六・七%であり、警戒水準のは

るか下にある。負債率(外債残高÷GDP)の警戒ラインは二五%だが、中国

は一四・三%である。債務率(外債残高÷経常収支)の警戒ラインは一〇〇%

だが、中国は七五・六%であり、ともに警戒ラインのはるか下にある。それゆ

え、人民元の切下げはありえない。

このように、中国経済の対外的ポジションを示す数字を具体的に挙げて、香港

ドルを防衛し、人民元の切下げを回避する方針を力説し、GDPの成長率八%

以上という強気の展望を打ち出した。これは根拠のある見通しだと私は判断し

ている。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』政懇ホット情報、1998 年 4 月 15 日 6~7 ペ

ージ.

絶大な信頼もつ朱鎔基総理

三月五日から一九日まで開かれた中国の全国人民代表大会が終わり、中国の政

策と人事が確定した。まず、行政改革だが、これは相当大胆かつ野心的なもの

である。これまでは四〇の役所があったが、これを二九に減らす。役所の数で

は二五%削減だが、人員は八万人から四万人への半減である。このような大手

術が反対わずか二%の圧倒的な数で採択されたことは、朱鎔基に対する絶大な

期待と信任を裏書きするものとみてよい。朱鎔基総理に続く副総理は六名から

四名(李嵐清六五歳、銭其琛七〇歳、呉邦国五六歳、温家宝五五歳)に減り、

国務委員は八名から五名(遅浩田六八歳、羅幹六二歳、呉儀五九歳、イスマイ

ル・アマット六二歳、王忠禹六五歳)に減った。朱鎔基総理が副総理四名と国

務委員五名を集めて開く会議が「国務院常務会議」である。これが事実上日本

の内閣に相当する。外交部や国防部など二九名の部長=大臣を加えて開かれる

のは、国務院全体会議であり、タテマエとしてはこれが閣議になるが、削減し

たとはいえまだ中国の役所は日本より多く、大臣の数も多いので、国務院全体

会議は正式決定の場、決定を確認する場ではあっても、政策のすり合わせなど

には適していない。これは国務院常務会議で行われる。この関係は党レベルに

おける政治局常務委員会(七名)と政治局全体会議(二四名)の関係に対応す

る。役所削減のポイントはいくつかあるが、最も注目すべきは国家計画委員会

の骨抜きである。国家計画委員会はこれまで計画経済を推進する役所として、

「小さな国務院」とよばれてきた。比喩的にいえば、日本の大蔵省が予算配分

の権限をもつゆえに、他の省調りも一段上にみられてきたのと似ている。いま

や市場経済への最後の段階に到達し、計画経済のシェアはネグリジブルなもの

になりつつある。この現実をふまえて、計画経済の推進機関たる国家計画委員

会を事実上解体し、市場経済の推進母体である国家経済貿易委員会を大幅に拡

充するのが行政改革案の核心である。名を替えた国家「発展」計画委員会は日

本の経済企画庁並みの権限なき官庁になる。石炭工業部、機械工業部、冶金工

業部など数多くの経済専業部門は国務院の直属機構に格下げされる。これらの

各工業部傘下の国有企業が改組されるなかで行政の任務は大幅に縮小するので、

たとえば国家石油化学工業局のような局レベルで処理すれば十分である。そし

てこれらの局レベルの行政を統括するのが拡充された国家経済貿易委員会であ

る。この主任は盛華仁(前中国石油化学総公司総経理)である。

Yabuki Susumu—Kanagawa 197

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さて閣僚をみると、副総理に温家宝五五歳(一九四二年生まれ)が抜擢された。

彼は呉邦国五六歳(一九四一年生まれ)とともに「次の総理候補」である。五

年後は両人のうちいずれかが総理になるはずである。党レベルでは胡錦濤五五

歳(一九四二年生まれ)が国家副主席に選ばれた。これまでは党務に専念して

いた胡錦濤を「中国の顔」として国際舞台に押し出すことになる。これは中国

共産党の「変身」の一つである。昨年江沢民は訪米したが、そのとき最もよく

使われた肩書は「中国共産党総書記」や「中共中央軍事委員会主席」ではなく、

「国家主席」すなわちプレジデントであった。国際社会に出ていくうえで、中

国の元首は国家主席であり、その代理が副主席である。胡錦濤は今回の人事に

よって、五年後に共産党の総書記と国家主席の地位に就くことを約束されたに

等しい。中国ではこのような形で意識的に後継者を養成している。これが共産

党独裁の強みである。もし西側のように選挙を通じて選ぶ方式ならば、五年先

の指導者をあらかじめ想定してこれに帝王学を学ばせることはできまい。中国

ではすでにここまで見えているのであり、この意味で中国の政権は世界で最も

安定した政権の一つである。朱鎔基は『タイム』誌記者の質問に答えて、地方

レベルの直接選挙が行われていること、その調査のためにフォード財団が五〇

万ドルの費用を出しているプロジェクトを肯定的に評価した。これは六月に予

定されているクリントン大統領への歓迎メッセージである。「民主化が草の根

レベルで進展している」事実は、大統領が議会を説得する有力な材料になるか

らである。朱鎔基総理のもとで米中関係はかなり進展する可能性が強い。

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『政経かながわ』政懇ホット情報、1998 年 5 月 15 日 6~7 ページ.

後継体制に力を入れる中国

四月二一日から二六日まで中国で新しく国家副主席に選ばれた胡錦濤氏が来日

した。胡錦濤は九二年一二月、五〇歳の若さで政治局常務委員(定数七名)に

選ばれ、「次の次」すなわちポスト江沢民の指導者として党務見習いを続けて

きた。それから五年を経て、昨年九月に開かれた第一五回党大会では政治局常

務委員に再選され、その地位は七名中の五位になった。そして三月の全国人民

代表大会で国家副主席に選ばれた。従来、国家副主席のポストは、お飾りであ

った。たとえば孫文未亡人の宋慶齢、ウランフ(モンゴル族)、栄毅仁(上海

の民族資本家)など、いずれも統一戦線を象徴するお飾りにすぎない存在であ

った。

しかし、今回胡錦濤が選ばれたことは、このポストの意味が変わりつつあるこ

とを示している。すなわちアメリカの副大統領のように、大統領に万一のこと

があったばあいに、それに代わるものである。鄧小平時代になってからまず李

先念、ついで楊尚昆が国家主席になったが、これはいずれも党の長老であった。

江沢民になってから、現役の総書記が兼任するようになったが、これは国際情

勢の変化を反映している。

アジア太平洋首脳会議やアジア・ヨーロッパ首脳会議など、「首脳外交」が大

きな役割を果たすようになってきたことが脱冷戦体制下の国際情勢の著しい変

化である。

この場合、中国のトップ江沢民が「共産党総書記」の肩書でこの種の国際会議

に出席するのは、ふさわしくないし、いわんや「軍事委員会主席」の肩書はも

っとふさわしくない。そこで「国家主席」すなわち「プレジデント」の肩書が

中国でも愛用されるようになった。この肩書が最も多用されたのは、昨年秋に

行われた江沢民訪米の際である。

要するに、外国首脳とのつきあいのために最もふさわしいポストが「国家主席」

の肩書なのである。こうして国家主席のポストは「中国の顔」となった。共産

主義青年団出身のエリート・胡錦濤は元来、江沢民総書記の後継者たるべく養

成されてきたが、今回国家副主席に昇格したことは、いまやいついかなる場合

においても、江沢民の代役が可能になったことを意味している。党務見習いに

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加えて国家主席見習いも始めたからである。こうして江沢民が最後まで手放さ

ないポストは軍事委員会主席だけになろう。

いまや江沢民は鄧小平がかつてやってきたことをそっくり真似ている形だ。鄧

小平は軍事委員会主席のポストは最後まで保持したが、総書記やその他のポス

トは若手に早い段階から譲り、後継体制の構築に力を投入してきた。総書記を

すでに一〇年近く務めた江沢民にとっていまやゆるぎのない後継体制をいかに

つくるかこそが最大の課題である。その成否によって、江沢民の器量の評価も

決まることになる。この文脈では、ポスト鄧小平は即ポスト江沢民なのである。

では「政務」の見習いはどうか。朱鎔基内閣では四名の副総理がいる。すなわ

ち李嵐清六五歳、銭其琛七〇歳、呉邦国五六歳、温家宝五五歳である。五年後

には、李嵐清と熱凪茵は引退すべき年齢である。したがって、呉邦国か、温家

宝かいずれかが国務院総理になるはずである。両者のいずれが総理の座を射止

めるかは、今後五年間の実績次第である。

党務であれ、政務であれ、五年後のトップ・リーダーをあらかじめ指名し、帝

王学を学ぶ十分な時間を与えるのは、中国のような大国を統治するためには、

そのような人材が必要なことを熟知し、そのために必要な手配りを十分に行っ

ているという話である。

ひるがえって、民主主義の制度を誇る国々では、選挙をやらないことには結果

が出てこない。この選挙たるもの、ほとんど衆愚政治に近く、政治的には実力

の疑わしいタレントや二世議員ばかりが幅をきかせる。クリントン大統領の女

性スキャンダルであれ、わが国の混迷を深める政治状況であれ、民主主義制度

がいかに形骸化し、衆愚政治に陥りやすいかをよく示している。中国のような

政治制度が優れていると主張するつもりは毛頭ないが、五年先のトップリーダ

ーを着実に選抜し訓練して確かな指導部を構築し、国家の安定と発展を確かな

ものとするために邁進している事実に注目すべきである。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』政懇ホット情報、1998 年 6 月 15 日 6~7 ペ

ージ.

朱鎔基の改革作戦始まる

国有企業改革にかかわる朱鎔基マシーンが動きはじめた。孫悟空が毛髪を利用

して数多のミニ孫悟空をつくり出し敵の目を攪乱し、打倒した『西遊記』の話

はよく知られていよう。今回の朱鎔基作戦はいわば多数のミニ朱鎔基、すなわ

ち「分身」をつくり出して、問題の多い国有企業に派遣し、改革を迫る戦略で

ある。四月二八日午後、中南海で重点大型の国有企業に対して派遣される「査

察員」(原文=稽察特派員)とその助手たちを前にして、朱鎔基は訓示を行っ

た(報道は『人民日報』九八年五月一一日)。

三年前後の時間を用いて「改革・改組・改造・管理強化」の手段により、「大

多数の国有大中型赤字企業を困難から脱却させ、現代的企業制度を樹立する」

という公約を実現するために、党中央と国務院は「査察員」を派遣することを

決定したと述べ、この制度の趣旨を説明した。

「行政と企業の分離」を実行し、国有企業に対して自主経営をうながすととも

に、政府の企業に対する監督を強化することが査察員制度の目的であり、査察

員は国務院から派遣され、国家を代表して「監督の権力」を行使する。ただし、

査察員は企業の生産経営活動には参加せず、関与せず、その主な職責は企業の

経営状況に対して財務監督を実施し、財務監督と経営成績の検査を通じて、企

業の指導部に対して評価を行う。査察員はその結果を国家経済貿易委員会、国

防科学技術工業委員会、対外貿易経済合作部など主観部門に報告する。国務院

はその査察結果に基づいて人事部を通じて企業幹部の賞罰や任免を行う。この

制度は一九九四年に国務院が公布した「国有企業財産監督管理条例」を発展さ

せたものであり、国有企業改革を進めるうえで重要な意義をもつ。

査察員は国務院の副部長級(次官クラス)以上の幹部が担当し、査察員一人に

つき専従の助手を四名つけ、査察員事務所とする。このチームで五つの企業を

担当して監督工作を行う。査察員の助手は財政、銀行、人事、会計監査、監察、

マクロ・コントロールなどの専門分野から局長、課長級(原文=司処長)の幹

部から選抜する。査察員の任免は国務院が行い、助手の任免は人事部が行う。

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査察員および助手の任期は三年とする。同一企業に対して再任してはならない。

査察員事務所のメンバーは企業で兼職をしてはならないし、企業からいかなる

報酬や福利も受けてはならない。招宴やプレゼントも厳禁する。

この場で朱鎔基総理は、助手呉邦国副総理、王忠禹国務院秘書長をしたがえて、

二一名の査察員に辞令を手渡した。すなわち張皓若(前経済体制改革改革委員

会副主任)、陸江(前国内貿易部副部長)、閻敦実(不詳)、余志華(中国科

学院副書記)、周道炯(前証券監督管理委員会主席)、傅立民(前中国軽工総

会副会長)、劉吉(中国社会科学院副院長?)、張延喜(前農業部副部長)、張

永一(前中国石油天然ガス総公司副総経理)、李士忠(前化学工業部副部長)、

陳順恒(前国務院特区弁公室副主任)、李志民(元河南省常務委員)、劉於鶴

(前林業部副部長)、何棟材(前広播電影電視部副部長)、白拝爾(前中国航

天工業総公司副総経理)、宋樹友(不詳)、朱元梁(前農業発展銀行行長)、

楊崇春(前国家税務総局副局長)、応文華(前国内貿易部副部長)、劉済民(前

国務院副秘書長)、丁貴明(不詳)である。

今回任命された二一名のうち三名は前職の調べがつかないが、判明している

人々はいずれも国務院の部長級あるいは副部長級の幹部として活躍してきた人

物である。たとえば張皓若は国務院の国内貿易部長を経て、前職は経済体制改

革委員会副主任だが、これは部長級のポストである。劉吉は上海出身で江沢民、

朱鎔基系列のチャンピオンとして改革開放のための論陣を張ってきた[別人の

誤り]。国務院の各分野から幅広く選ばれていることは、それぞれの分野の行

政のプロが専門分野の国有企業査察を担当することを示唆している。国務院の

行政改革により部長級副部長級のポストは大幅に削減される。その余剰人材を

使ってお目付役にしようというわけだから、ここでも「一石二鳥」を狙ってい

る。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』政懇ホット情報、1998 年 7 月 15 日 6~7 ペ

ージ.

缶詰特訓中の査察特派員

朱鎔基が国有企業改革への切り札として、みずからの分身たる「査察特派員」

(原文「稽察特派員)を派遣することは先月紹介したが、彼らはいま猛烈な特

訓を受けている。国務院財政部の主弁する『中国財経報』(九八年六月四日付)

が「稽察特派員」および「稽察特派員助理」の近況を紹介した。新華社が初め

て報じたのは五月一〇日であり、およそ千文字の短いものにすぎなかった。実

は朱鎔基は当日午後二時間余にわたって講話を行っている。朱鎔基の講話を聞

いたのは、任命された二一名の稽察特派員と特派員各一名につき、その助手と

して任命された四名の局長級幹部からなる「稽察特派員助理」計八四名、そし

て国有重点大型企業の「総会計師」九二名、および中央の関連部門責任者であ

った。

発足の嚆矢は、九七年八月の北戴河会議であった。このとき、朱鎔基は特派員

を派遣する形で企業に対して監督を強化するアイディアを提起した。その後九

七年一二月に、中央経済工作会議でもこの問題を再度提起した。こうした経緯

と準備を経て、九八年三月の全国人民代表大会における国務院機構改革案のな

かで「稽察特派員」という文字が二箇所に登場した。一つは、専業管理部門の

説明のなかで、「企業に向けて稽察特派員を派遣し、企業の資産運営と収益状

況を監督し、企業の指導幹部の考査や任免に責任を負う」という箇所である。

もう一つは、人事部の機能調整のなかに「人事部は国務院が大型企業に稽察特

派員を派遣するための管理工作を引き受ける」という箇所である。

全国人民代表大会の決定を受けて、国務院人事部は三月下旬から各部・委員会

の人事工作を主管する部局長会議を開き、国務院各部から一群の幹部名を出す

よう求めた。これらの名簿をもとに人事部の「中央国家機関機構編制管理司」

が全局をあげて約一カ月を費やして四月二七日までに各五名、二一チームから

なる稽察特派員第一陣のリストを確定した。朱鎔基の講話はこれらの準備を踏

まえて行われた。「稽察特派員」はすべて副部長級以上の幹部からなり、年齢

は六五歳以下である。二一名の稽察特派員は四〇数名の候補者のなかから選ば

れたものである。八四名の「稽察特派員助理」は、二〇〇余名の候補者から選

ばれた。ほとんどが財務、金融、会計監査などの専門家で、財政、銀行、人事、

会計監査などの部門から局長級、課長級幹部が選ばれている。船舶工業総公司

からは九〇余の応募があったが、最後に選ばれたのは四名である。兵器工業総

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公司からの応募は三〇~四〇名だが、最後に選ばれたのは、やはり四名にすぎ

なかった。財務、金融、会計監査、法律、技術などの専門的知識がなければ、

稽察特派員助理としての二カ月におよぶ訓練班に参加する資格がない。稽察特

派員に対する訓練は国家行政学院で行われ、稽察特派員助理に対する訓練は清

華大学経済管理学院で行われている。四月二七日から六月末まで二カ月にわた

って缶詰特訓が行われている最中である。週末しか帰宅は許されない。七時朝

食、直ちに教室へ行き、八時から一一時半まで午前の講義は三時間半におよぶ。

宿舎に戻り昼食。午後一時半に教室へ向かい、二時から五時半まで午後の講義

も三時間半である。月曜から金曜まで毎日七時間の講義を五日間、毎週三五時

間におよぶ講義は、若い大学生にとってさえも、ハードな超過密スケジュール

である。科目は八つだが、中心は財務、会計、会計監査である。教材は清華大

学の編集した MBA(Master of Business Administration)用教材である。四〇〇

頁ほどの『財務管理』教科書は、高等数学の公式に次ぐ公式の羅列であり、部

長たちを大いに悩ましている。宿舎は一人一部屋あるいは二人一部屋である。

相部屋の場合、一人が自室にいれば、もう一人は教室で自習する例が多く、テ

レビをみる余裕さえない。清華大学経済管理学院副院長の陳小悦教授はカナダ

で財務管理の MBA を得た。会計学科主任の夏冬林教授は会計と会計監査を担当

しているが、年若い博士である。国家行政学院は皇苑大酒店の対面にある。幹

部教育のための専門機関である。教室用ビルと宿舎がならんで建っている。二

一名の稽察特派員はここで学習している。稽察特派員の辞令を受けた部長たち

は、四名の助手を率いて国有重点大型企業の財政状況と経営管理状況を調べて

評価を行い、国務院に対してリストラの提案を行うことになっている。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』政懇ホット情報、1998 年 8 月 15 日 6~7 ペ

ージ.

内需で発展する中国経済

中国の国家統計局は七月一七日、九八年上期の経済実績を公表した。これによ

ると一1~六月のGDPは三・四七兆元であり、対前年同期比七%の伸び率で

ある。不況に悩む日本の現実からみると、七%という数字は輝いて見えるが、

これは中国政府の目標よりも一ポイント低い数字である。朱鎔基総理は三月の

総理就任記者会見で八%のGDP成長、インフレ率は三%以下を公約している

からだ。上期の成長率が七%にとどまったことは、年間を通じて八%の成長率

を確保するためには、下期の実績を九%まで引き上げる必要のあることを意味

する。これは可能であろうか。中国の九七年のGDPは約七・四七兆元である

が、固定資産投資(投資需要)は二・五八兆元でGDPの三三・八%に対応し、

商品小売総額(消費需要)は二・六八兆元でGDPの三五・八%に相当する。

それぞれ約三分の一に当たる。つまり概算では内需が約三分の二、外需が約三

分の一である。それぞれがおよそ八%目標を達成できないばあいには、他の部

門でカバーしなければならないことになる。上期の成長率は、貿易五・二%(う

ち輸出七・六%、輸入二・二%)、消費支出六 ・八%、設備投資一三・八%

(ただし国有部門のみ)である。ここから明らかなように、貿易部門は目標よ

りも二・八ポイント小さく、消費部門は一・二ポイント小さい。あわせて四ポ

イント落ちているので、設備投資部門で少なくとも八プラス四、すなわち一二%

の成長率を確保しなければならないわけだ。

中国経済が厳しい状況に直面していることは、明らかだが、八%成長という目

標は辛うじて達成できるというのが私の見方である。というのは、アジア経済

の混乱のなかで低迷する輸出入をカバーする切り札として想定されている設備

投資の計画は、一五の伸びを予定しており、これは政府の措置によって可能な

分野であるからだ。中西部地区や農村の開発のための鉄道建設に象徴されるイ

ンフラ整備や、公営住宅制度から持ち家制度へという住宅政策の変更にともな

う「住宅の商品化」に全力をあげており、「不動産開発」がいまや中国経済の

設備投資部門の有力な一翼になりつつある。このためには住宅ローン制度の確

立や購買予定の住宅に担保を設定するための法制度の整備などいくつもの課題

があるが、下期には、設備投資の拡大措置が本格的に動きだすものと予想して

よい。九八年元旦を期して行われた商業銀行に対する中央銀行の貸出規模規制

の廃止とそれに続く金利引下げに続いて、七月一日に重ねて行われた預金金利

および貸出金利の引き下げは、これらの投資を促進するためにほかならない。

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こうした現状分析を踏まえて、国家統計局のスポークスマン葉震は、「GDP

成長率八%の目標は実現できる」とコメントしたが(『人民日報』九八年七月

一八日)、これが中国政府公認のコメントである。

GDPの二大構成部門である輸出と消費の伸び率の減少を補うものとして、設

備投資(固定資産投資)を拡大する方針は、国家発展計画委員会の曽培炎主任

の論文(九八年六月二九日付『人民日報』)も明確に述べている。すなわち、

東南アジア、東アジアの金融危機の影響を受けて、九八年の中国輸出の伸び率

は著しく減少した。九〇年代以来、中国の従来からの「消費スポット」(原文=

消費熱点)はしだいに需要が満たされる反面、新たな「消費スポット」は、まだ

形成されるに至っていない。このため「消費需要の経済成長に対する貢献度」

はしだいに小さくなりつつある。こうした状況のもとでは、「固定資産投資(設

備投資)こそが内需拡大の主力」とならざるをえない、と。

ところで「人民元の切下げなし」の方針を堅持することは、クリントン大統領

の訪中(六月二五日~七月三日)時にも再確認されたが、それを裏付ける統計

数字になっている。上期の輸出は八七〇億ドル、輸入は六四四億ドルであり、

二二六億ドルの黒字である。上期の直接投資受入額は実行ベースで二〇五億ド

ル(対前年同期比一・三%減)であった。中国政府のシンクタンクが発表した

経済白書ともいうべき『中国・経済情勢と展望』(馬洪主編、中国発展出版社、

九八年四月)は、九八年の輸出入総額の伸びを約六%、貿易黒字を二〇〇億ド

ルと予想していた。伸び率こそ予想を下回ったものの、貿易黒字についてはす

でに年間目標を軽く達成したことになる。直接投資受入額もわずかしか減少し

ていない事実に注目すべきである。アジア経済の混乱を反映して、日本、韓国、

シンガポール(経由インドネシア、マレーシア)などへの輸出が低迷している

ことは確かだが、対米輸出や対EU輸出は堅調であり、中国の国際収支にはい

ささかの問題もない。これまでの経済実績から判断すると、人民元が切下げを

迫られる状況に陥っていないことは明らかだ。混迷の最中にある日本経済と中

国経済の活力は著しい対照をなしている。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』政懇ホット情報、1998 年 9 月 15 日 6~7 ペ

ージ.

米中のミサイル照準問題

八月三一日に北朝鮮のミサイル「テポドン」が三陸沖に落ちた。このニュース

に接して想起したのは、台湾海峡のミサイル危機とその後日談である。クリン

トン大統領の訪中(六月二五日~七月三日)における首脳会談して真っ先に報

道されたのは「戦略核ミサイルの照準解除」問題であった。この合意について

「核ミサイルは短時間で再照準できるもの」とあたかも合意が無意味であるか

のような弁解じみた解説が広く行われ、またこの合意は「米国が中国の対米核

攻撃能力を認めた」ものであり、「中国の核大国としての地位が認知されたこ

とを意味する」との解説も行われた。実はクリントン大統領を訪中へ導いた一

本の「赤い糸」まさに「ミサイルの照準問題」なのであったことを『ワシント

ン・ポスト』特約バートン・ゲルマン記者が抉っている(International Herald

Tribune June 22-23,1998 by Barton Gellman)。九五年六月、台湾の李登輝総

統が訪米した。米国は議会の決議にしたがい、中国との約束を反故にした。中

国政府外交部と米国のクリストファー国務長官との外交チャネルはほとんど崩

壊に瀕した。李登輝訪米の直後、中国はミサイル演習を行い、翌九六年三月に

は台湾海峡でミサイル演習をくり返した。これに対して米国が沖縄から空母イ

ンディペンデンスを、中東から原子力空母ニミッツを台湾沖に派遣し、わが国

ではガイドライン問題がにぎやかになった。

九六年三月七日夜、そして八日、ワシントンを秘密裡に訪問した中国の劉華秋

(国務院外事弁公室主任)と安全保障担当のレイク補佐官との間で丁々発止のや

りとりが行われた。「中国が万一台湾を攻撃したら」という米国の恫喝に対し

て、「いやソマリア、ハイチ、ボスニアをみれば、アメリカにやる気のないこ

とは明らかだ」と劉華秋が応酬する。さらにこう附加した。「米国は台北の安

全よりはロサンゼルスへの危険を心配してはどうか」。ホワイトハウスはこの

とき初めて、中国のミサイル・東風五号がアメリカ大陸まで届くことに思い至

った。熱凪茵外交部長とクリストファー国務長官の外交当局間のチャネルに代

わって、ホワイトハウスの安全保障担当者と国務院外事弁公室間の折衝チャネ

ルが形成された。ホワイトハウスは中国認識を改め始めた。中国を「人権問題

のテーマパーク」扱いすることをやめる方向に沿って、大統領は動きはじめた。

「世界で最大の人口をもち、経済が成長し、軍事大国になりつつある中国」を

直視したのであった。九六年三月一一日、バーガーは、台湾の国家安全会議秘

書長丁懋時をニューヨークに呼び、独立熱をさますよう求めた。九六年七月バ

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ーガー補佐官(レイク補佐官の後任)が訪中し、一一月にクリストファー国務

長官が訪中し、「三つの不支持」(台湾独立、国連などへの加盟、二つの中国)

を約束した。これによって中国外交部と米国務省とのチャネルが正常化した。

九六年一二月劉華秋主任が訪米し、クリントン大統領およびゴア副大統領に会

見した。こうして九六年三月の「ミサイル危機」は、年末までには米中信頼関

係への踏み石に転じていた。いまや九七年一〇月の江沢民訪米のために、いく

つかの措置がとられ始めた。たとえば中国は政治犯の釈放と人権条約の批准を

約束し(九七年一〇月A規約に調印、B規約も調印の方向)、議会が江沢民訪

問を受け入れやすいようにムード作りが行われた。九七年一〇月にバーガーの

招請により劉華秋が訪米したが、これは江沢民訪米の地ならしが目的であった。

江沢民訪米で米中間の「戦略的建設的パートナーシップ」がうたわれたことは

いうまでもない。その後八カ月を経て、九八年六月クリントンが訪中した。大

統領の訪中に先立ちバーガー補佐官が地ならし訪中を行っている。ゲルマン記

者のレポートから明らかなように、米中関係は基本的に中国外交部・米国国務

省間ではなく、ホワイトハウスと国務院外事弁公室間で折衝が行われた。これ

は問題の発端がそもそも台湾海峡の危機を契機とした安全保障問題が基石に置

かれたからである。米中関係には人権問題、貿易摩擦のほか、核拡散、台湾問

題の四大問題が存在するが、今回の米中関係の展開は極言すれば、九六年三月

の「核の照準」に始まり、九八年六月の「照準外し」で終わったことになる。

ではテポドンが何を意味するのか、注視が肝要である。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』視点論点 1998.October No.1441.p.6-7.

見え始めた中国経済の底力

最近、日中双方に相手側の事情についての大きな誤解が目立つように思われる。

円安についての中国側論評のなかには、日本の経済不況をまるで誤解し、意図

的に円安政策を進めているような見方があり、中国側の疑心暗鬼に驚かされる。

人民元についての日本側の報道にも憶測や曲解がきわめて多い。誤解は洪水の

被害のような一見して明らかな分野でも広く行われている。温家宝副総理が八

月二六日の全人代の会議で、死者三〇〇四人、被災者二億二三〇〇万人、経済

的損失額は少なくとも一六六六億元(GDPの約二%)と報告したこと、今回

の大洪水が一九五四年以来のものであったことなどは、よく知られているが、

その「実害」は意外に小さい。農作物の被災面積は二一二〇万ヘクタール、う

ち重大な被害を受けた面積一三〇七万ヘクタールと公表されたが、これは過去

一八年間の平均(被災面積四五〇五万ヘクタール、重大な被害面積二二四三万

ヘクタール)よりも小さい。こうして今年の食糧生産は四・九五億トンに達し、

九六年の五億トンに次ぐ史上第二位の豊作になるとする見通しを中国政府農業

部が明らかにしている(『国際貿易』九八年九月一五日号)。国家統計局の邱

暁華スポークスマンは九月三日、今回の洪水被害について「中国の経済成長に

とって挑戦であり、またチャンスでもある」と強調した。というのは被害救済

で大量の物資が必要となり、今後生産再開、家屋再建により、冶金、建材、食

品、紡績、化学、医薬などの業界の成長を後押しする。洪水対策と被害救済で

全国が一致団結した救援活動の精神的な力も今後の経済活動の発展を促すから

である。

江沢民訪日の延期決定以来、わがマスコミでは「大被害」についての報道ばか

りなので、「史上第二の豊作」とか、「経済成長のチャンス」という表現に対

して、なにか狐につままれた不可解な印象を抱く向きがあるかもしれない。報

道の一面性が与えた間違った印象によるものだ。中国農業は例年、播種面積の

約三割が水害あるいは干害を受け、収穫が三割以上減産となる「重大な被害面

積」が播種面積の約一割五分におよぶことを知るならば、「それと比べるとむ

しろ被害は小さい」ことに着目できるし、また世界の食糧需給見通しを反映す

る米国シカゴの穀物取引所の穀物相場も値を下げている事実があわせて報道さ

れてしかるべきであった。しかし、そのような複眼的な解説は欠けていた。

「中国が豊作」と書くと、江沢民が訪日を延期したのは「洪水対策のためでは

なかったのか」という疑問が提起されそうだが、やはり「洪水対策のため」で

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ある。江沢民が解放軍を指揮して洪水対策の第一線に立ち、奮闘したからこそ、

数十年来の洪水にもかかわらず、被害を最小限に食いとどめることができたわ

けである。このような臨機応変の対策によって人的物的被害を最小限に押さえ

ることができただけでなく、江沢民はもう一つの成果を得た。それはポスト鄧

小平期の指導者としてのイメージを固めることであった。古来、中国では「禹

の治水」神話などから明らかなように、治水は政治の要諦である。数年来、洪

水が問題になるたびに流れるウワサがある。それは「江沢民の名が悪い」とい

うものだ。「江」も「沢」もミズである。ミズが「民」の上にあるから「名が

悪い」というウワサである。バカバカしいといえばそれまでだが、その種の怪

しげなムードを一掃し、頼りになる指導者としてのイメージを固めることがで

きたのは、中国の指導部にとって望ましいことであった。アジア通貨危機のな

かで中国が人民元切下げせずの公約を守りきれるかどうか、また八%成長の公

約を守りきれるかどうか、世界の注目を集めているが、両者ともに守れるであ

ろうと私は分析している。九八年上期の輸出は二〇三億ドルの黒字であるし、

直接投資の受入も二〇〇億ドルを超えている。八月末には一〇〇〇億元の赤字

国債を発行して内需拡大に取りくむ方針を決定し、すでに動き出している。こ

のような中国経済の底力を直視すべきである。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』視点論点 1998.November No.1444.p.6-7.

伸び悩み脱して上向きの中国経済

中国は一〇月一日に建国四九周年を祝った。その前後、近年の経済発展に関す

る統計数字をもとに、中国では「一世代の努力で、外国では数世紀を要した成

果を達成した」と強調するキャンペーンが行われた。アジア通貨危機という外

圧は、中国にも厳しく押し寄せ、当局は対策に苦慮していたが、最近はようや

く明るさが見えてきたことも彼らの自身を深めている。一〇月一二日に国家統

計局が九八年九月の経済指標を公表し、ついで一〇月一六日、国家統計局スポ

ークスマン葉震が記者会見を行い、九八年第3四半期(一~九月)の経済実績

を公表した。GDPは五兆四四三五億元で、実質ベースで対前年同期比七・二%

増である。第3四半期だけをみると、七・六%であり、年初以来の伸び悩み傾

向を脱して、上向きに転じたことが分かる。これはインフラ建設が本格化した

こと、水害の復旧事業が加速されてきたことによると同スポークスマンは説明

している。農業の伸びは二・五%であり、秋作が良好なことを反映している。

ただし、綿花はやや減産である。工業は一~九月期の伸び率が八%であり、第

3四半期だけでは八・六%、九月だけをみると一〇・二%であり、二桁台に乗

せた。九月の工業生産をセクター別にみると、国有企業は五・八%増で、対前

月比二・七ポイント増えた。集団企業は一一・八%で三・一ポイント増、株式

制企業は一一・四%で一・二ポイント増、外資系企業は一三・七%で二・四ポ

イント増である。軽工業一〇・九%の伸びに対して、重工業は九・六%の伸び

である。工業産品の生産・売上げ率も九七・八%となり、前月よりも〇・九ポ

イント高まった。

固定資産投資の大きな伸びが経済回復を牽引する原動力になっていることはい

うまでもない。一~九月期の投資額は国有部門のみで五〇三六億元、対前年同

期比二八・二%の伸びである。このうち七月は二二・九%、八月は二六・九%、

九月は三三・八%と、月を追って伸び率が大きくなっている。一~九月期の固

定資産投資の内訳をみると、基本建設は二〇・九%増、更新改造は一八・七%

増、住宅不動産は一八・九%増となっている。他方、国内消費をみると、一~

九月期の社会消費品小売総額は二兆八三三億元で、対前年同期比六・三%の伸

びである。第3四半期だけをみると、七%であり、消費も回復基調にあること

がわかる。一~九月期の輸出入総額は二三二九億元対前年同期比の伸び率は

二・四%である。このうち輸出は一三四一億ドル(三・九%増)、輸入は九八

八億ドル(〇・四%増)である。こうして貿易黒字は三五三億ドル(一五%増)

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である。当面する問題として葉震は、国有企業の経営効率がいぜん悪いこと、

消費市場が冷えていることなどを指摘している。

では財政状況はどうか。『人民日報』記者が財政部から取材したところによる

と、一~九月期の財政収入(債務収入を含まず)は、六五九三億元であり、対

前年同期比一〇・四%の伸びである。財政支出(債務支出を含まず)は六五九

三億元で、一七・五%の伸びである。五四億元の赤字である。積極的な内需拡

大政策が財政収入にも関連していることは、六月から九月にかけて財政収入の

伸びが上向きに転じたことにも現れている。すなわち六月一四・八%、七月五・

八%、八月一一・二%、九月二三%であり、七月をボトムに八~九月から伸び

率が大きくなっている。一~九月の付加価値税(増値税)、消費税収入の伸び

は、それぞれ三・九%、八・二%であった。企業所得税の収入は一・四%から

一一・八%に伸びている。これは密輸摘発に力を入れることによって、輸入税

の減少傾向に歯止めをかけたものである。インフラ建設を主な対象とした内需

拡大政策のために、財政支出は増えて、一~九月期の財政支出の伸びは歳入の

伸びを七・一ポイント上回った(『人民日報』九八年一〇月一三日、一七日)。

これから年末にかけて、八%目標死守のための努力がつづくはずである。

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『政経かながわ』1447・1448 号、98 年 12 月 15~25 日 江沢民訪日の失敗 中国の江沢民国家主席が日本を訪問し、日中共同宣言が発表された。日中共同宣言は、歴

史問題と台湾問題が焦点になったが、全体の印象をいえば、あまりにも細部にこだわり日

中双方と壮界に不協和音を残した点で、遺憾であった。少なくとも成功とはみなしがたい。 共同宣言において「過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を

与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した」と明記したのは、村山首相の「戦

後五十年談話」(九五年八月十五日)および、これを継承した日韓共同宣言(九八年十月入

日)のラインである。他方、「心からのお詫び」については、小渕首相が「口頭」で述べる

形で処理した。中国側は韓国と同じく、共同宣言に書き署名することを求めたと伝えられ

るが、これは日韓関係と日中関係の差異を無視したものである。日中関係においては、九

二年十月二十三日の天皇訪中時の「お言葉」の中に「不幸な一時期」を「深く悲しみとす

るところ」とする表現があり、既に天皇訪中という形で戦後処理が基本的に片付いた形で

あった。 韓国との関係においては、天皇訪韓はいまだ実現するに至っていないし、対北朝鮮関係に

至っては戦後処理さえ終わっていない。対朝鮮半島の関係と対中国関係とは峻別されなけ

ればならない。このような「戦後史」を反映して、両者間でニュアンスの相追が生じても

おかしくない。この文脈で、「戦後史」の経緯を踏まえた結果になったのは、当然であった。 中国側が細部にこだわった例を指摘したい。まず到着時の江沢民声明で「過去」を強く強

調することによって「未来指向への基調」を薄めることになった。さらに共同宣言を読む

と、日本語では「一時期の不幸な関係」とされている部分の中国語部分では、「一時期」が

削除された。中国側はこれによって「日中十二年戦争」だけでなく、「台湾割譲以来」を意

識したものと思われるが、天皇の「お言葉」にいう「一時期」とは、「台湾割譲以来」と解

することもできるのであって、「一時期」にこだわるのは得策ではなかった。もう一つ。台

湾関係において、日本語では「日本は引き続き台湾と民間および地域的な往来を維持する」

と書かれた個所が、中国語では「民間および地域的な往来だけを維持する」と、あえて、「だ

け」(只有)が付加されている。これも無用の限定であった。 このような細部についてこだわり、発表が五時間余りも遅れたのは、日中関係の同床異夢

を浮き彫りにするばかりであった。このような細部へのこだわりが前面に躍り出た結果、

「平和と発展のための友好協カパートナーシップ」という大きな柱が後景に退いた印象を

否めない。台湾問題について、日本側は「日中共同声明の中で表明した台湾問題に関する

立場を引き続き遵守し、改めて中国は一つであるとの認識を表明」した。これは一九七二

年九月二十九日、田中角栄首相の訪中により国交正常化が行われたとの立場と同じである。

クリントン大統領の「三つの不支持」(一つの中国、台湾独立、台湾の国際機関加盟)表明

以後、中国側は日本に対しても米国と同じ立場の表明を求めた出である。日本がこれを拒

否したのは、「日本の成功、中国の失敗」を意味するとの解釈が一部に見られるが、これは

二重の意味で間違った見方である。まず第一に、今日の台湾問題の発端は日清戦争による

台湾割譲にあり、日本は当事者であるのに対して、米国はその種の経緯はない。台湾問題

における日米の立場はまるで異なる。中国が日本に対して米国と同じ立場を求めるのは、

自ら内政干渉を招くに等しい愚行である。この種の内政干渉を避けるのは日本として当然

である。この事実について「中国の要求を拒否した日本の勝利」と見る見方は、見当違い

も甚だしい。私は英米台湾のマスコミから取材を受け、彼らがいかに日本の立場を誤解、

曲解しているかを思い知らされた。日本政府の立場は、あまりにも誤解されている。外務

省の広報宣伝の重大な欠陥に猛省を促したい。

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「灰色市場」の理論--論理的整合性よりも実現可能性を 1999 年 1 月 15 日号 6-7 ページ 鉄面宰相朱鎔基の密輸摘発 1999 年 2 月 15 日号 6-7 ページ 広東省 GITIC 閉鎖問題 1999 年 3 月 15 日号 6-7 ページ 朱鎔基総理就任から 1 年 1999 年 4 月 15 日号 6-7 ページ 朱鎔基訪米 1999 年 4 月 25 日号 6-7 ページ NATO軍の中国大使館「誤爆」のウラを読む 1999 年 6 月 15 日号 6-7 ページ 反米運動に苦慮する中国指導部 1999 年 7 月 15/25 日号 6-7 ページ 朱鎔基のデフレ対策が本格始動 1999 年 8 月 15/25 日号 6-7 ページ 李登輝「国と国」発言の波紋 1999 年 9 月 15 日号 6-7 ページ 中国指導部が注目のハンガリー改革 1999 年 10 月 15 日号 6-7 ページ 底を打った中国の景気 1999 年 11月 15 日号 6-7 ページ 中国のWTO加盟と日本の報道 1999 年 12 月 15-25 日号 6-7 ページ

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』

1999.January No.1449/1450.p.8-9.

視点論点「グレイ市場」論---論理的整合性よりも現実的可能性を

●テキスト本文行方不明●

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』1999.February No.1453.p.6-7.

視点論点、鉄面宰相朱鎔基の密輸摘発

朱鎔基のニックネームはかつては「中国のゴルバチョフ」であったが、旧ソ連

の崩壊とその後の混乱のなかで、ゴルバチョフの名は歴史となった。いま、朱

鎔基をそのニックネームで呼ぶものはいない。朱鎔基が大方の予想を裏切って

国務院総理に就任して以後、新たなニックネームは「鉄面宰相」である。その

「鉄面」ぶりを密輸摘発のきびしさの点からみておきたい。昨年七月一三日~

一五日、中共中央と国務院が「全国打撃走私(密輸)工作会議」を開いた。こ

の会議をスタートラインとして、その後一連の密輸取締りが行われ、いくつか

の事件が摘発された。総政治部の看板を利用した投機公司(中天誠公司)がオ

ーストラリアに子会社を作り、委託加工の名で鉄鉱石を輸入し、脱税横領など

を行った事件はその一つである。また類似の密輸事件として、北京太子紡織公

司事件、華龍、戴安毛紡公司事件などがある。キャンペーンの始まった七月一

五日から九月一五日までに、密輸事件一二七六件、金額にして五〇億元が摘発

された。同じ期間に、全国海関(税関)が押収した密輸事件は三九九件、四〇・

一億元である。公安機関が摘発したものは六五六件、一六億元にのぼり、逮捕

者は三〇〇名である。

秋になって一〇月二〇日~二五日、朱鎔基は対外貿易担当の呉儀(国務委員)

らを率いて広東省、広西自治区を訪れた。このときに視察したのは、北海海関、

南寧海関、汕頭海関、広州の黄埔海関、そして中国人民銀行広東省支店、広東

省外国為替管理局などである。二五日に広州で遼寧省、山東省、江蘇省、浙江

省、福建省、広東省、広西自治区、海南省の指導者を呼び寄せ、八省区座談会

を開かせ、激烈な指示を行った。北海では密輸艇「大飛」号がが高性能のエン

ジンと武器を装備しているのを見て、「潜水艦はだめだが、巡洋艦なら与える

から、取締を強化せよ」と檄を飛ばした。北海海関のX線透視機器を見た際に

は、「海関には先進的検査設備が必要だ。すべての海関でX線検査を行い、一

網打尽とせよ」と檄を飛ばし、こう叱咤激励した。「密輸品は罰金で免除して

はならず、すべて没収し、厳罰に処せよ」。朱鎔基の強硬策の背景にあるのは、

なによりも外貨のヤミ流失への危惧である。つまり、九八年を通じて輸出は伸

び悩んだものの、貿易黒字が外貨準備増に結びつかないことへの危惧である。

これは輸入を装った外国為替サギ」の摘発も含まれる。具体的な措置としてこ

う指示した。九八年一二月から「外貨調整センター」を廃止する。一〇月七日、

国家外国為替管理局は「違法者は四八時間内に自首すれば寛大に扱う」と言明

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して米ドル七・七三億ドルおよび香港ドル四六五七万ドルを申告させた。その

後、一〇月三〇日まで延期して九五八社から約二〇億米ドル、九二五七香港ド

ルを確保した。これに先立ち、八月二八日には最高人民法院が「外国為替の不

法な売買についての法的運用の若干の問題についての解釈」を提示し、一〇月

二七日全人代常務委員会が「外国為替の不法な売買についての決定」を採択し

ている。密輸取締りは、密輸品の横行によって被害を受けていた製品の競争力

強化にも貢献した。たとえば金陵石油化学は在庫を一掃でき、北京化繊はレイ

オフ(下崗)労働者を呼び戻すほどの好況になった。対策の重点は、食用油と

ガソリン類(両油)、自動車とオートバイ(両車)、紡織原料と化学工業原料

(両料)である。上海のある日系商社員によると、取締のおかげで化学品を担

当している同氏の商売は急に大繁盛した由である。かくて朱鎔基に対して密輸

地区では怨嗟の声が絶えないが、毀誉褒貶、相半ばする状況である。年が明け

た一月一五日~二〇日には福建省の厦門海関などを視察し、摘発の手を緩める

なとハッパをかけた。摘発の対象が解放軍企業や武警部隊の企業にも向けられ

ているため、不穏な噂も絶えない。とはいえ、みずからの棺桶をあらかじめ用

意せよと指示した鉄面宰相に対して、脅迫は無用であろう。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』1999.March No.1456.p.6-7.

視点論点、広東省 GITIC 閉鎖問題

中国人民銀行が広東省政府直轄のノンバンク広東国際信託投資公司(GITIC)の

閉鎖を昨年一〇月に決定して以来三カ月にわたって清算工作を進めてきたが、

さる一月一一日、破産手続きに入った。三カ月前には、純資産一七・六億元の

黒字とされていたが、その後融資先企業の倒産や回収できない担保などのため、

結局一四七億元(一七・七億ドル、二二〇〇億円)の債務超過が明らかになった。

昨年七月に海南省発展銀行および中国新技術創業投資公司が閉鎖されたが、今

回の GITIC 破産はこれらと比較にならないほど大きな衝撃を関係者に与えてい

る。債務超過額が大きいだけでなく、三カ月前には「登録済みの外貨建て債権

は優先して返済する」と公示されていたものが、「内外債務は一視同仁」と方

針が変更されたからである。その結果、ある企業が債務不履行を行った場合に、

その国のカントリーリスクが高いと判断して債権者は同国の他の企業に対する

融資を回収してよい(これを「クロス・デフォルト条項」という)とする規定

に基づいた融資回収の動きが広東省に始まっており、信用収縮の連鎖反応が中

国全体に広がりかねない状況が生まれている。中国当局は速やかに、穏当な措

置を講ずべきであり、さもないとその帰結はきわめて憂慮される。

日系銀行などの債権は『サウスチャイナ・モーニングポスト』の報じたところ

では、八億ドル余(約一〇〇〇億円)だが、 全中国では二〇〇〇億円説などがあ

る。

中国人民銀行の戴相龍行長は、GITIC の対外債務は国内の一般債務と同様に法に

したがって処理する、中央政府は国内の金融機関の対外債務返済に責任を負わ

ない、融資者は融資対象自体のバランスシートと信用で融資の可否を判断すべ

きであり、政府に頼るべきではない、と述べた。しかし中央政府が「地方政府

の債務保証」を禁じたのは数年前の事であり、この禁止措置以前の融資に対し

ては、当局は債務保証に道義的責任があるとみなければならない。

過去において地方政府が融資プロジェクトに関係してきた事実も忘れてはなら

ない。中国政府は、豹変の理由を「外国債権者に全額返済したら、国内債権者

への返済資金がなくなることが判明したため」と説明しているが、説得性に欠

ける。中国企業は当時、バランスシートでも信用面でも、融資審査に耐えるも

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のではなかった。外銀側は担保法の未整備な条件のもとで、外資借入登記を「担

保に代わるべきもの」として受け入れた経緯がある。

これらの金融協力担当者たちがいま最も打撃を受けている。政府間における国

際借款の処理と市場経済のもとでの民間金融とは別物であり、慎重な対応が必

要である。中国企業に対する不信感から、香港株式取引所ではすでに珠江鋼管、

黒龍江北大荒農業、山東国際電源開発の三社が上場を中止しており、影響は出

始めている。日本の商社筋によると、信用収縮の結果として「支払いのリスケ

ジュール」を求める要請が出始め、これに対して一部の企業では、中国貿易全

般に対して「注意喚起の社内財務指示」が出たところもあると伝えられる。

GITIC の破産に続いて、広東省の窓口公司である「粤海企業集団」も業務の再編

成を迫られている。粤海企業集団は粤海投資など五つの香港上場企業をもつ。

なかでも粤海投資は香港株価指数(ハンセン指数)に含められるほどの有力企

業である。粤海企業集団は中国大陸から香港への日常生活品を供給する公司と

して、本体自身の業務内容はまったく問題がない。しかし、香港の株価下落に

際して、傘下の企業が大きな損失を被った。広東省の債務不履行(デフォルト)

問題が中国の今後の外資導入に対して、どの程度のマイナスの影響を与えるか、

予断は許さない。当面の焦点は四月に予定されている債権者会議だが、債権者

と債務者ともに納得する債務組み換え案がうまくまとまらないと、信用収縮は

避けられまい。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』1999.April No.1459.p.6-7.

視点論点、朱鎔基総理就任から 1 年

日本の国会に相当する中国の人民代表大会が終わり、三月一五日に朱鎔基総理

が記者会見を行った。総理就任以後一年間、「最も困難を感じたのは何か」と

いう中国中央電視台記者の質問に対して、対外面では「アジア金融危機の影響

がかくも大きいとは予想しなかった」と述べ、国内問題では「特大洪水が私の

予想を超えていた」と指摘した。これら内外の悪条件のもとでまずまずの成果

を挙げたことは周知の通りである。焦点はやはり経済問題だが、懸案の広東国

際信託投資公司(GITIC)破産問題についてはこう説明した。

(1)GITIC 破産は、中国の金融改革過程の個別事件であるが、この事件を通じ

て「中国政府は、各級政府が保証した(原文=担保)債務は別として、個々の

金融機関のために返済することはない」という情報を世界に発信した。「外資

の銀行や金融機関はリスクを分析し、慎重に融資しなければならない」。(2)

当該債権銀行や一部の金融機関はこの問題を過度に悲観し、「中国で金融危機

が発生したとか、支払能力がないとか、信用を重んじない」と見ているが、外

貨準備高は一四六五億ドルあり、国際収支は均衡しており、債務を支払う能力

はある。問題はこの債務を政府が支払うべきかどうかである。要するに、政府

に支払い能力がないわけではないが、企業の不始末の面倒はみない、という言

い分である。(3)ここで朱鎔基は中学で読んだシェークスピア『ベニスの商

人』の金貸しシャイロックと金を借りたアントニオの話を持ち出して、シャイ

ロックの側も甘んじて債権を放棄することはないと予想して、こう述べた。「思

うに、今後は多くの金融機関の破産はないかもしれない。ただし、その前提は

債権銀行側が返済を迫らないことだ。もしローンの期限前返済を迫るならば、

破産させるほかなくなる」「債務のリスケジュール(原文=資産重組)、資本

注入、債権の株式化などの方法で問題を解決できるならば、債務も返済され、

破産も避けられる」。(4)この事件については遺憾に感じており、みなでお

互いに努力すれば、今後はこのような事態の発生は避けられるであろう」。

朱鎔基の説明は、ほぼ以上のごとくだが、(3)の発言はいかにも歯切れが悪

い。「(広東省の GITIC は例外として)今後は多くの金融機関の破産はないか

もしれない」というが、これは GITIC 破産に端を発した信用収縮(クレジット・

クランチ)の衝撃に驚き、若干の軌道修正を模索していると読むことができよ

う。問題の深刻さにようやく気づいたのはよいが、対策を誤ると、そのマイナ

ス効果ははかり知れない。

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中国経済がいま直面している問題は、「カントリーリスクの小ささ」と「シス

テムリスクの大きさ」に分けて考えると理解しやすい。朱鎔基が力説したよう

に、たしかに中国は対外債務一三七〇億ドルに対して外貨準備高は一四六五億

ドルであり、対外的資金ポジションに問題はない。昨年の貿易黒字は四三六億

ドル、直接投資の受入れは四五六億ドルである。これらの条件からして、中国

の人民元が切下げを迫られる状況にないことは明らかであり、朱鎔基がこの事

実を強調するのは正しい。しかし、中国当局は、信用収縮(クレジット・クラ

ンチ)の恐さを軽視していたきらいがある。GITIC の破産問題をうまく処理しな

い場合には、外国銀行側は今後の資金供与を拒むばかりか、現在の貸出につい

ても期限前返済を迫る形で債権の保護に乗り出さざるをえなくなる。こうして、

中国への資金供給がとどまるならば、中国金融がいわば酸素欠乏にも似た状況

が陥ることは明らかである。つまり、中国政府としてはカントリーリスクをク

リアできる条件を備えているとしても、中国企業に対する信用が失われるなら

ば、市場経済はなりたたない。システムリスクはただちにカントリーリスクに

拡大し、連鎖するのである。この意味で四月に予定されている債権者会議の成

行きに注目したい。

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神神奈川政経懇話会『政経かながわ』1999.April/May No.1460/1461.p.8-9.

視点論点、朱鎔基訪米・中国のWTO加盟はどうなるか

中国の朱鎔基総理は四月六日、訪米に旅立った。九日間の予定であり、八日に

はクリントン大統領との首脳会談が予定されているほか、MIT(マサチュー

セッツ工科大学)での公開演説は全米にテレビ中継される予定である。中国の

総理としては、八四年一月に趙紫陽総理が訪米して以来、一五年ぶりである。

李鵬総理は八八年から九八年まで二期一〇年務めたが、就任してまもなく天安

門事件が起こり、そこで戒厳令に署名した責任者として、ついに訪米の機会は

なかった。

朱鎔基の訪米前夜、中国のWTO加盟問題をめぐって米中関係は急展開の様相

を見せている。米国のバシェフスキー通商部代表が北京に飛び、中国の WTO 加

入問題について中国側と話し合いを行ったことは、一つの兆候である。現在話

し合いは大詰めを迎えており、この話合いの行方が注目されたが、その結果は

朱鎔基・クリントン会談のなかで明らかにされよう。

中国側は「もし今年 WTO に加入できなければ、今後数年は加入を見送る」こと

を表明している。中国が WTO への加盟に成功すれば、米国は農産物、電信、保

険部門などについて中国の巨大な市場の開放を要求できる。一方中国は欧米向

けの貿易を増やすことが出来るし、現在冷え込んでいる海外直接投資を再び呼

び込むこともできよう。中国が昨年八%近い成長率を達成できた最大の要因は

政府が公共投資を積極的に実施したからである。中国が現在の景気停滞から脱

却するには、WTO 加盟をによって輸出を刺激し海外直接投資を呼び込む必要があ

る。この話合いが成功すれば米中双方にとって有益であるし、両国間の緊張状

態を緩和できることはいうまでもない。

とはいえ、米国の立場から見ると中国の人権問題、中国による米国のハイテク

技術盗作疑惑、対中貿易赤字、米国のユーゴスラビア、イラクに対する武力行

使問題などが米中関係を冷え込ませる原因となっている。さらに中国問題は来

年の米国大統領選の材料になっており、もしクリントン大統領が中国に対して

大きく譲歩するならば、農民やビジネス界に相当有利な条件を引き出さないと

すれば、同大統領はこれらの層の支持を得るのは難しくなる。

一方中国の立場からすれば、もし国や農民の利益を考えた場合に、電信、金融、

農業部門を開放したあと、果たして農民や関連する国有企業は競争に勝てるの

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か。中国政府もこれによって発生する経済損失や、社会不安などの問題につい

て考えざるを得ない立場にある。

米中双方とも国内の大きな政治的圧力を受けているため、この話し合いが合意

に達するのは決して容易なことではなかろう。仮に合意に達しなければ、米中

両国は相手方が誠意に欠けていたと主張し、両国関係が更に冷え込むおそれも

ないわけではない。ただし、私は楽観論に与する。朱鎔基は実力を備えた宰相

であり、アメリカでもブームを巻き起こし、米中関係を大きくさせる可能性が

強いと私は予想している。

米中関係の展開は香港経済など周辺地域の経済にも大きな影響を与える。中国

が WTO に加入し市場を開放してまた海外直接投資が増加すれば、これまで外国

が中国投資を行う際の案内役の役割また外国企業対し中国市場情報、法律や通

信面のサービス提供の役割を担ってきた香港は、これらの面から利益を得るこ

とが出来よう。ただし中国がより市場を開放し、外資がより容易に中国大陸に

進出出来るようになれば外国企業が香港企業の協力を必要としない事態も予想

しうる。中国企業も香港企業から中国と外国の橋渡しという役割を奪おうと必

死になって努力しているからだ。このような状況下で香港企業が中国市場開放

のメリットを享受するには、中国に積極的に投資を行い、外国企業や中国企業

と協力しビジネスチャンスを開拓し、市場プレゼンスを得るほかあるまい(4 月

6 日記)。

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神神奈川政経懇話会『政経かながわ』1999.June No.1465.p.6-7.

視点論点、NATO軍の中国大使館「誤爆」のウラを読む

NATO軍(実は米軍)によるベオグラードの中国大使館「誤爆」事件は、中

国の学生デモを誘発し、北京のアメリカ大使館は投石の嵐に襲われた。クリン

トン大統領の謝罪表明と米中ホットラインによる「悲劇的な過ち」という謝罪

を通じて、事態は一応沈静化に向かいつつある。中国の『晨報』(九九年五月

一三日付)は「誤爆」ではなく、意図的な攻撃である、として次のような軍事

専門家(国防大学戦略研究室李剛林副教授)の見方を紹介している。

(1)発射された空対地ミサイルは計五発ですべてが大使館敷地内に落ちた。

うち三発は大使館の五階建ての建物に命中し、一発は大使公邸で、一発は大使

館中庭で爆発した。これらのミサイルは同じ発射地点からのものではなく、同

じ弾道を経たものでもない。つまり、数機の爆撃機があらかじめ、中国大使館

を攻撃目標として設定し、爆撃したものにほかならない。NATO軍による空

爆は、まず爆撃目標を繰り返し点検しており、それらは地図上に明記されてい

るはずであり、目標の選定において誤りを犯すことはありえない。

(2)複数の弾頭を同じ目標に向けるためには、ミサイル内のコンピュータに

正確な情報をインプットしておかなければならない。湾岸戦争に際しては、ま

ず発電所の建物を狙い、ついで発電機自体に命中させるなど正確無比であった。

五発のミサイルにすべて間違ったデータをインプットすることはありえない。

複数の爆撃機による同一目標への攻撃は統一的指揮のもとでの統一的行動によ

るものであり、指揮面における誤りもありえない。

(3)「使用した三年前の地図に中国大使館の位置が書かれていなかった」と

アメリカのコーエン国防長官は弁解しているが、これもデタラメである。空爆

の始まる以前、ベオグラードは国際観光都市であり、どんなに安い旅行地図に

も、中国大使館の位置は明記されている。アメリカの情報担当者は、観光地図

に書いてあることさえ知らないのか。中国大使館は九五年に竣工し、移転した

が、その後いくどもパーティを開いており、アメリカの外交官も一再ならず訪

れている。それでも中国大使館の位置を知らないというのか。空爆の準備過程

で外国の大使館は絶対に攻撃してはならないものとして特別に明記されている

はずだ。

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「誤爆」ではなく、明らかに中国大使館を狙ったものと解釈する中国側の論理

は、以上のようなものである。そのような認識に基づいて、中国は国力が弱い

ために、アメリカから侮られ、悔しいというのが、中国ナショナリズムの原点

である。「地図の誤り」によって、「中国大使館」を「兵器調達庁」と誤認し、

「悲劇的なミス」を犯したというアメリカの弁明がもし正しいならば、「優れ

た性能のコンピュータ兵器」と、「杜撰きわまるお粗末な地図」の対照が浮か

びあがる。

空爆への反応うかがうために「意図的な誤爆」か

誤爆論の当否を判断するに十分な情報を与えられてはいるわけではないが、敢

えてこの段階でこの事件のウラを読んでみたい。空爆反対というロシアの立場

は明白だが、中国の場合、反対の立場は明らかだとしても、それがどのような

行動に結びつくのか、いまひとつはっきりしない。反米はどの程度なのか。反

米の程度をめぐって中南海の指導者間に濃淡はあるのか。そのあたりの反応を

うかがうために、あえて「意図的な誤爆」を行い、中国側の出方をテストした

のではないか。空爆が手詰まり状態のなかで、短期的には米国側の立場を不利

に導く冒険をクリントン大統領自身が決断したとは思えないが、クリントンが

すべてを掌握しているとは限らない。第一に、「二〇〇〇年問題」のために陳

腐化するコンピュータ兵器の在庫一掃を狙い、第二に、ハンガリー、ポーラン

ド、チェコを含めて拡大されたNATO陣営の忠誠心テストを行い、第三に、

二一世紀の軍事力秩序を模索する。その程度のシュミレーションを考える謀略

司令部があってもおかしくないというのが私の推測である。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』1999.July No.1468/1469.p.6-7.

視点論点、反米運動に苦慮する中国指導部

NATO(北大西洋条約機構)軍のユーゴスラビアに対する空爆は終わり、コソ

ボ問題は終戦処理の段階に移ったが、中国大使館「誤爆」問題で一挙に噴出し

た中国ナショナリズムはその沈静化に指導部自体が苦慮しているように見える。

ホワイトハウスは職業外交官のトマス・ピカリング国務次官(元インド、ロシ

ア、国連大使)を謝罪特使として北京に派遣し、誤爆の原因を説明したが、中

国側の納得するところまではいかなかった。「次官レベル」では役不足なのだ。

中国側はホワイトハウスの安全保障担当バーガー補佐官あたりの訪中を期待し

ていた。というのは、かつて熱凪茵・クリストファ国務長官のチャネルが台湾

の李登輝総統訪米によって断絶したときに、米中関係を再構築したのは安全保

障担当者ラインすなわちホワイトハウスのレイク補佐官、ついでバーガー補佐

官、中国側は国務院外事弁公室劉華秋主任であった。クリントン大統領直轄の

このパイプこそが行き詰まった米中関係をバイパスした。このチャネルによっ

て江沢民主席の一九九七年訪米とクリントン大統領の一九九八年訪中を準備し

たのであり、そこから中国側の信頼感が生まれていた。ところがバーガー補佐

官はコソボ問題対策に忙殺されており、そのうえ中国のいわゆる軍事情報スパ

イ疑惑問題についての報告(コックス報告書)を受けておりながら中国に対し

て強い態度をとらなかったと議会では共和党から追及されており、身動きがで

きない。資格からみてもう一人の適任者はオルブライト国務長官だが、彼女も

コソボ問題に忙殺されている。結局は、ピカリング次官にお鉢が回り、訪中し

たものの膠着状態の打開にはいたらなかった。この間の事情は『ニューヨーク・

タイムス』のディビッド・サンガー記者が六月九日付け紙面で予想した通りの

成行きになった。

誤爆問題で火を吹いた中国ナショナリズムは、改革開放二〇年の成果を吹き飛

ばしかねないほどの勢いをみせた。中国は一夜にして文化大革命期の荒れる中

国にタイムスリップしたような印象を与えた。投石を含む街頭デモは二~三日

間のみ許され、その後は規制されたものの、『人民日報』など各紙のホームペ

ージに設けられた掲示板への書込は、かつての壁新聞と酷似して、「鬼畜米英」

扱いであった。たとえば「NATO軍の暴行に強烈に抗議する」というタイト

ルのもとに、「網友の声」なる掲示板を主宰した王逸舟(中国社会科学院世界

経済・政治研究所副所長)の「王逸舟博士が網友の問いに答える」という頁の

内容は排外主義ムードに溢れていた。六月中旬にこの頁が消えるまでの一カ月

余、敵意と憎悪を煽りまくった感を否めない。甚だしきはNATO軍の暴行に

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抗議するために、「ハッカーのように、ホワイトハウスやペンタゴンのホーム

ページを破壊せよ」という非常識な意見も飛び出した。このいわゆるハッカー

問題(黒客問題)について、王逸舟はこう答えている。「法理上は提唱できな

いが、感情からいえば、理解できる」。事実上、ハッカーの愚行を容認するか

のごとき口調であった。さらに「中米直接的開戦の可能性を分析する」とか、

「”米軍=瓶の蓋論”のもとでの日本の新たな軍事的役割」など、キナくさい、

青臭い議論の横行には保守派の欲求不満が溢れていた。朱鎔基訪米によってよ

うやく糸口をつかんだWTO加盟問題は交渉再開の契機を見失った形である。

このような潮流のなかで、改革派の朱鎔基総理が「対米投降主義、売国奴、現

代の李鴻章」などと批判されているとの報道もみられる。朱鎔基への風圧が小

さなものだとは思わないが、結局のところ中国が市場経済への道を歩むにはW

TO加盟は避けて通れない道であり、交渉再開への契機を模索するほかないで

あろう。米国側も「中国の反米はポーズにすぎない。本音は年内加盟」とみる

向きが多い。かつての米ソ冷戦と今日の米中関係の緊張は決定的に異なる要素

がある。それは米中経済交流によって双方とも利益を得ており、これを放棄す

ることはできない点である。

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』1999.August No.1471/1472.p.6-7.

視点論点、朱鎔基のデフレ対策本格始動

朱鎔基のデフレ対策が本格的に始動した。中国人民銀行は六月一〇日に金利の

大幅引下げを行った。これにより一年定期もので、預金金利は二・二五%、貸

出金利は五・八五%となり、鄧小平時代始まって以来最低の預金金利となった。

貸出金利は八〇年初頭の五・〇四%より少し高く維持された。預金金利をこの

ように低い水準に切り下げた狙いは、高い水準を推移している貯蓄に水をかけ、

消費や別の形の投資に誘導するためである。預金金利の引下げと並行して行わ

れた印紙税の引下げと相俟って、中国の株式は値上がりし、取引高も増えて、

印紙税だけで一日四億元の収入がある。貸出金利を一ポイント下げると、企業

の利子負担は約五〇〇億元減少する。これまでの六度にわたる引下げ(九六年

五月、九六年八月、九七年一〇月、九八年三月、九八年七月、九八年一二月)

で二六三〇億元程度は減少した計算である。これが企業の経営状況をにらんだ

うえでの措置であることはいうまでもない。貸出金利と預金金利の利ざやは九

六年五月には一・八ポイントであったが、今回の引下げで三・六ポイントに拡

大した。貸出金利は小幅な引き下げにとどめ、利ざやを大きくしたのは金融機

関への優遇措置であり、貸し渋りを防ぐ措置である。

朱鎔基がバブル退治に着手したのは九三年七月のことだが、およそ三カ年でソ

フトランディングに成功した。九六年後半には卸売物価指数は対前年同期比で

四~五%増の線まで落ち着いた。九七年前半は物価は対前年同期比で一%以下

となり、九七年一〇月からは対前年同期比で一〇〇%ラインをきりはじめた。

以後二年近く、卸売物価水準は対前年同期比九六~九七%水準である。九八年

前半までは物価の安定を歓迎するムードであったが、まもなくデフレ問題とし

て騒がれ始めた。その契機は九八年春節以後、卸売物価だけでなく、小売物価

も対前年同期比で一〇〇%をきり、九七~九八%の水準となったことであった。

物価の値下がりは消費者にとって歓迎すべき事態だが、問題はそのような低物

価にもかかわらず、消費は伸びず、いわゆる消費冷え現象が目立つようになっ

たことである。マネーサプライをみると、M0(現金のみ、狭義の通貨)、M

1(要求払い預金を含む)、M2(定期預金を含む広義の通貨)、どの指標で

みても、九八年六月末までは対前年同期比で伸びが減少してきたが、九八年央

の政策転換を経て、マネーサプライは増勢に転じている。九八年八月には赤字

国債の一〇〇〇億元の増発による景気対策が行われたことも記憶に新しい。こ

うして九八年半ばには、金利引下げ、通貨増発への転換、赤字国債の発行とい

った景気刺激策が次々に採られたわけだが、その効果が目立つ形では現れず、

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デフレムードがより深刻化したのが九九年前半であった。その第一の要因は「消

費冷え」現象である。なによりもまず沿海地区を中心に展開された耐久消費財

の需要が一巡し、買替え需要だけが細々と続く状況になったことが一つである。

しかし、より大きな要因はリストラ公約による「不安心理が蔓延」したことで

ある。朱鎔基は三月に総理に就任するや、国有企業の大胆なリストラ方針を提

起し、皮切りに中央官庁の大胆な行政改革に着手した。同時に、広東省など沿

海地区の密輸退治に乗り出した。リストラ旋風は「明日は我が身」の不安心理

を招き、また広東省などに対して集中的に行われた密輸退治は、密輸がらみの

非合法な部分を含みながら発展してきた華南経済圏に大きな打撃を与えた。密

輸対策のおかげで息を吹き返したテレビ・メーカーなどの例もあるが、少なく

とも短期的には打撃のほうが大きかった。そして最後に、九八年後半から住宅

の商品化も始まり、庶民は住宅貯蓄のためにも他の消費を節約する現象も見ら

れた。第二の要因は輸出の伸び悩みだが、これはアジア経済の混乱に伴うもの

で、中国にとっては与件である。第三に内陸へのインフラ投資だけはほぼ政府

の思惑通りに進んだ。第四に九八年夏の揚子江大洪水もマイナスに働いた。

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1999.September No.1474.p.6-7.

視点論点、李登輝「国と国」発言の波紋

七月九日、台湾の李登輝総統は「ドイツの声」のインタビューに応じて、大陸

と台湾の関係を「国と国の関係」(state to state relationship)と言明し、

大陸側がこれに猛反発した。報道によると、「一年がかりで練りあげた苦心作

であり、ドイツの分断・統一史を踏まえて考えられたもの」だという。北京は

ただちに、「中国の領土と主権を分割し、台湾の分離を企てる李登輝の正体が

暴露された」と非難した。極端に情緒的な反応であり、冷静な対応とは言いが

たい。七月一五日には「中性子爆弾」の「技術保有」を明らかにした。これは

直接的には米国のコックス報告書に対する反駁の形をとっているが、台湾への

圧力をも意図していよう。台湾対岸の福建省の新聞(たとえば『泉州晩報』七

月一六日)が南京軍区副総参謀長、動員部長などの見守る中で、一〇〇余隻の民

間船の動員訓練が行われたと報じ、話題になった。李登輝訪米を契機とする九

五~九六年の台湾海峡の「作られた緊張」は、われわれの記憶に新しいので、

「すわ二の舞か」といった先入観で眺める向きが多い。だが、前回の騒動の後

遺症への反省があるので、あのような大騒ぎにはなるまいと私は読む。李登輝

発言の舞台裏はなにか。九六年三月の直接選挙で選ばれた李登輝の総統任期は

来年春までだ(国民党主席の任期は二〇〇一年まで)。肝腎の総統任期は、も

はや半年しかない。任期は残るが、政治的影響力を失う、いわゆる「レイム・

ダック化現象」は避けられない。その危険性を自覚し、後継総統を決めるキン

グメーカーとしてふるまうことによって影響力を残そうというのが彼のホンネ

であろう。つまりは李登輝一流の外向きに見せかけた「内向けパフォーマンス」

の色彩が濃厚である。いまや台湾政治はすべてが総統選挙へ向けて動きだした。

国民党主流派の連戦(六二歳)、反主流派の宋楚瑜(五七歳)、野党民主進歩

党の陳水扁(四八歳)、三つ巴の選挙戦はすでに始まっている。李登輝の押す

連戦が破れ、宋楚瑜が勝つ事態になったら、彼は面目まるつぶれだ。野党が勝

てば、与党国民党の歴史的敗北である。宋楚瑜は湖南省生まれの外省人である。

蒋経国前総統の秘書、行政院新聞局長、国民党秘書長などの要職を経て台湾省

長に当選し、台湾省政府機構の簡素化問題で李登輝と対立し、袂を分かった。

宋楚瑜の造反を李登輝が押さえきれるかどうか、鼎の軽重を問われる事態なの

である。日本の報道はあまりにも「李登輝びいき」が強すぎて、台湾政治およ

び海峡両岸問題の分析が不十分だ。マスコミ各紙はこぞって近刊の李登輝著『台

湾の主張』を書評で採り上げたが、批判的コメントは管見の限り皆無であり、

絶賛一色である。これは李登輝に対する贔屓の引き倒しになるか、あるいは台

湾海峡の風波を煽り立てるだけの愚行であり、その見識を疑わざるをえない。

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李登輝はドイツ現代史を意識して、「一民族に二国家」論を提起したが、ドイ

ツの「分断・統一」史と台湾海峡の現状は、似て非なるものである。まず冷戦

はすでに終わっている。中国は敗戦国ではなく、戦勝国だ。東西両ドイツは一

対三・六の人口比で拮抗したが、中台は一二億余対二〇〇〇万、サイズの差は

決定的だ。国連など外交面での勝負はすでについている。東西両ドイツは北大

西洋条約機構と旧ワルシャワ条約機構によって引き裂かれていたが、中台の経

済協力関係はいまや日中の経済協力を上回る(ちなみに近年の台湾の対中国直

接投資は日本の中国投資を上回っている)。中台は経済関係によって深く結ば

れており、これを破壊することは何人にも不可能である。政治的駆け引きは、

その経済的現実を踏まえたもの、誇張すればコトバの遊戯に近いやりとりなの

だ。海峡両岸の当局者が夫婦喧嘩もどきの騒ぎを再演するのはいいかげにして

ほしい。両者に猛省を促したい。訪中した小渕首相やクリントン政権がともに、

「一つの中国」政策をこれまで通り支持していく意向を明らかにし、双方に対

話と自制を呼びかけたのは、賢明なスタンスである。

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1999.October No.1477.p.6-7.

視点論点、中国指導部が注目のハンガリー改革

夏休みの四〇日をブダペストで暮らした。途中、ワルシャワとザグレブにそれ

ぞれ数日でかけたほかは、ハンガリー科学アカデミー世界経済研究所の日本・

東アジア・東南アジアセンターの研究者たちとの意見交換に用いた。私の研究

テーマは「ハンガリーと中国との経済改革の比較研究」である。人口一〇〇〇

万人のハンガリーと一二億五〇〇〇万人を超える中国とは、比較の対照として

不適当と思われるかもしれない。確かに両者は国土の大きさや地理的位置、経

済構造と社会構造、民族の構成、国家機関の構造、自前の革命を行った中国に

対して、ソ連から革命を輸出されたハンガリーといった具合で、どれをみても

安易な対比を許さないほどに違いは大きい。にもかかわらず、八九ー九〇年の

政治革命以前のハンガリーと現在の中国は、いわゆる現代社会主義国としての

共通の特徴を刻印されていた。それだからこそ八〇年代を通じて、中国の改革

派エコノミストたちは、ハンガリー・モデルの研究に大きな努力を注いだ。い

ま代表的な例を挙げれば、一つは于光遠ミッションである。于光遠(後に中国社

会科学院副院長)調査団は七九年一一日二五日から一二月二二日までハンガリ

ーを訪問し、経済改革を調査研究した。この視察団には劉国光(のち中国社会科

学院経済研究所所長)、蘇紹智(当時中国社会科学院マルクス・レーニン主義毛

沢東思想研究所所長、天安門事件後アメリカに亡命)も参加していた。これら三

人が中国の経済改革において大きな役割を果たしたエコノミスト群像のなかで

代表的人物であることはいうまでもない。もう一つの例を挙げよう。八四年三

月、朱鎔基もハンガリーを訪問している。当時の朱鎔基の地位は国務院国家経

済委員会の筆頭副主任であった。むろん、九八年以来国務院総理を務めている

ことは、いうまでもない。このような人事の往来を一瞥しただけでも、中国の

指導部がハンガリーの経済改革の行方に大きな注意を払っていたことの一端が

よく理解できるであろう。

八九年の春から初夏にかけて、中国では天安門事件が起こり、今年はその一〇

周年目である。中国では民主化運動が鎮圧されたのに対して、東欧ではこれと

はまるで対照的に民主化が成功した。そのシンボルは「ベルリンの壁」の崩壊

である。実はコンクリートの壁、チャーチルのいう「鉄のカーテン」は東西両

ドイツ間にのみ存在したのではない。その壁は、旧チェコスロバキア(現チェコ

とスロバキア)、ハンガリー、旧ユーゴスラビア(現スロベニア)まで六〇〇〇キ

ロに及ぶ有刺鉄線として両陣営を引き裂いていたのである。ベルリンの壁が八

九年一一月に崩壊する直接的契機となったのは、オーストリア国境に近いハン

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ガリーの町ショプロンで開かれた「ヨーロッパ・ピクニック」であった。ヨー

ロッパ・ピクニックとは、きわめて慎重に計画された奇策であった。ハンガリ

ーは東欧圏のなかでも西側への「ショーウインドウ」として、カダール体制の

もとでも、他の東欧圏には見られない自由を享受していた。この結果、バラト

ン湖周辺の避暑地に多くの旧東独市民が避暑にでかけ、そこへ同じく避暑にき

た西独市民との間で、国境を越えたデートの場をハンガリーは提供していた。

ハンガリーは東独からの観光客を兄弟国として受け入れる。しかし兄弟国とし

ての仁義から彼らを西独へ出国させることはしない。これが約束事であった。

当時ハンガリー国内には六万人のソ連軍が駐留、これらの軍隊が動けば、一九

五六年の「ハンガリー動乱」の二の舞である。三月に行われたミクローシュ・

ネーメト首相とゴルバチョフ大統領との会談で、ハンガリー側はオーストリア

との国境すなわち有刺鉄線を開けても、ソ連軍駐留部隊が黙認する意向だとい

うゴルバチョフの腹を読み抜いて、「ヨーロッパ・ピクニック」を決断する。

そしてこのピクニックこそが東独市民の越境を黙認し、ベルリンの壁を崩す契

機を作る。東の天安門事件と西のショプロン事件は現代史の鮮やかな対照のヒ

トコマである。

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1999.November No.1480.p.4-5.

視点論点「底を打った中国の景気」

今年 4~5 月が底で回復に転じる

中国では成長率が鈍化している中で、特に国有企業のリストラが進んでいるた

め、中国の人々は先行きに不安を持っている。その結果、預金はするが消費を

控えるという現象が非常に際立つ。このため、物価が下がり、デフレ現象が目

立っている。

たとえば月ごとに物価の対前年度比を見ると卸売物価のレベルでは九七年半ば

以後、丸々二年間前年度を下回っている。初めの一年、すなわち九八年半ばあ

たりまでは物価がようやく安定した、インフレが収束したということで当初は

喜んでいた。その後、事態はデフレに向かって急転換した。その後の一年間、

政府は景気刺激に転じたが、事態は変わらなかった。

物価のレベルで見ても、九八年の旧正月以降は対前年度比で一〇〇を切ってお

り、消費者物価レベルでも一年数力月対前年度を下回っている。しかし九九年

四~五月が底で、年央を境に回復に転じてごとくである。

近年の一年定期預金金利と貸出金利の動向を見ると、この六月一日に金利を思

い切って下げ、預金金利は一年定期で二%台まで下げた。これだけ金利を下げ

たのは、桔弌峠時代になってから初めてである。一方貸出金利は六%に保って

いる。その目的は二つである。預金に回っている金を何とか消費に回したいと

いうのが預金金利を下げた理由である。他方、貸出金利は割合高く据え置いた

のは、企業の業績、特に金融改革にからんで銀行の業績が悪化しているので、

銀行に利潤を与えるためである。銀行に利潤が与えられれば銀行にも余裕が出

てくる。それがまた貸出にも回るという二つの目的を持った金利政策である。

預金金利と貸出金利の利ざやが四ポイントも開いたのは、そういう理由による

ものだと考えていい。

消費低迷の一因は、住宅を去年後半から個人に売り渡すという政策をとってい

るためだ。新しい住宅だけではなく、いま現に住んでいる役所が提供している

公営住宅のようなものも、なるべく自分で買い取るよう誘導している。自宅を

買うためには相当な資金が要るので、それを買うためにも、他の消費を節約せ

ざるをえない。こうしてリストラを伴う雇用不安の外に、住宅を買うためには

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また預金しないといけないという事情も重なり、とにかく消費を抑える模様な

がめが続いていた。

マネーサプライの動きを見ると、中国政府がどういう政策を取ってきたかがよ

く分かる。去年の六月がボトムである。つまりインフレを抑えてソフトランデ

ィングということで、インフレ退治に頑張ってきたのが昨年後半で大体終わっ

て、八月に赤字財政一〇〇〇億元で内需拡大、インフラ建設を行い、その頃か

ら政策を緩和した。昨年の七月からはマネーサプライは伸びており基本的に金

融緩和で、金利も下げている。しかし、これまではなかなか実体経済がついて

こないうらみがあった。

対外的側面をみると、四半期でみた輸出の伸び率は下がっており、特に昨年の

第 4 四半期に大巾なマイナスになった。際立つのは華南経済である。これは朱

鎔基が密輸対策に非常に力を入れて大胆に摘発したことと関わっている。朱鎔

基の密輸対策というのはかなり大胆だった。しかし、その後、七~九月は勢い

を盛り返し、結局一~九月累計では一三七〇億ドルである。このまま延長すれ

ば、年間では一八〇〇億ドルを超える計算になる。一〇~一二月の三カ月で昨

年並みの水準まではいくものと予想される。

要するに、最悪の時期は越えたのではないか、と私は楽観している。直接投資

の受入額は実行ベースで一~八月二四七億ドル、このまま延長すると年間三七

〇億ドルになる。九七年は四五二億ドル、九八年は四五四億ドルなので、これ

らを下回る公算が強い。これは GITIC 破産問題が響いている。対外債務や外貨

準備高は、いずれも一四〇〇~一五〇〇億ドル前後で推移している。

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1999.December No.1483/1484.p.6-7.

視点論点「中国のWTO加盟と日本の報道」

WTOの中国語訳は「世界貿易組織」(略して「世貿」)だ。加盟は「入世」

と略称されるが、「入世」はWTOに対する中国の思惑を象徴している。この

語感が示すように、世間づきあいは避けては通れない。政治世界において国連

のメンバーであることが主権国家の証明書であるのと似て、WTOは「経済的

国連」への市民権を意味する。一一月一五日午後、訪中したバシェフスキー通

商代表はお目付役のスパーリング大統領補佐官(国家経済会議担当)の見守るな

かで、石広生部長(対外貿易経済合作部)と調印した。この報道において、北京

駐在の日本各紙特派員は見通しを全面的に誤り、世論を大きくミスリードした。

朱鎔基訪米は四月六日~一三日、五月八日ユーゴの大使館誤爆事件が発生した。

米国議会が部分的核実験禁止条約の批准を拒否したのは夏である。九月一一日

オークランドで開かれたAPEC会議でクリントン大統領と江沢民主席の会談が行

われて以来、クリントンは積極的になった。一〇月一六日江沢民に電話をかけ

た。一一月三日付『ニューヨークタイムス』は「大統領が一一月内に妥結させ

る」と報じた。報道を裏付けるように、一一月六日クリントンは再度江沢民に

電話をかけ、バシェフスキー、スパーリング派遣の意図を説明した。『毎日新

聞』(一一月九日付)はワシントン逸見義行特派員電をこう伝えた。「クリント

ン大統領は難航している中国のWTO加盟交渉を促進するため、バシェフスキ

ー代表とスパーリング補佐官を急遽中国に派遣した。一一月三〇日からシアト

ルで始まるWTO閣僚会議を前にした米中間の閣僚交渉で、中国加盟問題が大

きく進展する可能性が出てきた」「大統領補佐官も訪中する異例の展開で、米

側の交渉決着への決意を示すものと受けとられている」。この報道は実に的確

にクリントン大統領の決意を伝えていたが、この好球を北京駐在の日本報道陣

はまったくフォローできなかった。もう一つは、四月の米中トップ会談で妥結

に至らなかった事情に対する分析である。『ニューヨークタイムス』(四月一一

日 SANGER 記者)が報じたように、バシェフスキー代表、バーガー補佐官(安全保

障担当)などは当時すでに妥結賛成派であったが、ポデスタ補佐官が議会への根

回し不足を危惧して、ホワイトハウスの定例会議で時期尚早を結論した経緯が

ある。当時、大統領はコソボ問題に忙殺されていた。米中間の交渉としては、

まとまりかけていたが大統領の政治判断で妥結は見送られた。問題の所在は米

中間というよりは、大統領府と議会の間、ホワイトハウスの議会対策に移って

いた。朱鎔基の帰国以後、米国が一方的に発表した中国譲歩案に対して、中国

国内に譲歩反対の世論が燃え上がり、大使館誤爆問題で油を注がれた。こうし

て朱鎔基は窮地に立たされた。北京からの報道は、「朱鎔基辞任か」、「実権

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を奪われた朱鎔基」、「朱鎔基失脚か」といった憶測が繰り返し語られた。ク

リントン大統領が対中スタンスを変えて妥結を決意し、議会対策の見極め役と

してスパーリング補佐官を派遣したことの意味はまるで無視された。各紙は「妥

結はまずありえない」という予断と偏見に基づいて、朱鎔基はますます苦しく

なるだろうといった類の見当違いの憶測を書きまくった。四月の会談で交渉担

当者たるバシェフスキーが妥結を主張し、スパーリング補佐官は議会事情をも

とに妥結反対を主張した経緯を見極めることが第一である。第二は、CTBT 批准

が議会によって拒否され、「史上最低の大統領」の汚名をこうむる危険性が高

くなったこと、これこそ大統領が「加盟」問題決着を迫られた契機とみられる。

四月時点と一一月の妥結との異同について、バシェフスキー代表は、ノンバン

クへの自動車ローンの解禁、自動車関税の引下げ、インターネット事業への外

資解禁などを挙げて「前進」を強調した。『中国経済時報』(一一月一二日付)

は、「猫の鈴は、鈴をつけた者が外す」と予想記事を書いた。「秋の妥結」を

決断するのは、「春の妥結」を葬ったクリントンその人であると示唆したのだ。

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中国経済展望 2000 2000 年 1 月 5-15 日号 8-9 ページ 朱鎔基 3300 人講話 2000 年 2 月 15 日号 8-9 ページ 「過熱する台湾総統選」 2000 年 3 月 15 日 6-7 頁 「李登輝神話の崩壊」 2000 年 4 月 15-25 日 6-7 頁 「中国の資本逃避」 2000 年 5 月 05/15 日 6-7 頁 「台湾総統選挙の真の争点」 2000 年 6 月 15 日 6-7 頁 「朝鮮半島の緊張緩和と中国」 2000 年 7 月 5 日 6-7 頁 「三つの代表」の狙いはなにか 2000 年 8 月 15 日 6-7 頁 映画「生死をかけた選択」 2000 年 9 月 15 日 6-7 頁 北京・上海間「新幹線」はどうなるか 2000 年 10 月 15 日 6-7 頁 朱鎔基訪日の成果 2000 年 11 月 15 日 6-7 頁 第 10 次5カ年計画の建議 2000 年 12 月 05 日 6-7 頁

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神奈川政経懇話会『政経かながわ』2000.January,No.1485/1486.p.8-9.視点論

中国経済展望 2000

経済成長率は 99 年と同じプラス 7.6%に

中国のシンクタンクのトップに位置する中国社会科学院のなかに、「社会情勢

分析と予測」を行う研究グループが設けられて久しい。市場経済のもとでは、

市場の動向を占い、それに基づいて需要予測および生産予測を行うことが重要

であることはいうまでもない。この種の研究グループはそのようなニーズに応

えるために設立されたものだが、近年はその内容がかなり充実してきた。さて、

このチームは西暦二〇〇〇年の経済見通しを行ったが、その概要は次のような

ものである。

・GDP(国内総生産)の成長率は七・六%前後となろう。

・国有企業改革の進展が経済改革全体のカギとなろう。

・機構改革の面では、省レベルの改革が重点となる。

この研究グループはすでに一九九九年のGDP実績として七・六%という予想

数字を提起している。これは九八年の七・八%と比べて〇・二ポイント低い数

字である。九九年は前半までは四半期ごとの成長率が逓減傾向にあり、憂慮さ

れたが、後半からは輸出の急増など明るい材料もで始めた。これらの兆候を踏

まえて、「昨年比〇・二ポイント減」の数字を提起したものである。アジアの

経済回復は急ピッチであり、中国経済自体もデフレ不況の底は打ったので、二

〇〇〇年の実績が一九九九年を上回ることは容易に予想できる。この意味では、

この研究グループが「九九年と同じ」という数字を示したことは、かなり控え

目なものと評価してよい。九八年初に朱鎔基首相が「八%確保」を強調したに

もかかわらず、実績は七・八%にとどまった経緯に照らして、このところ目標

数字を控え目に抑えて、実績はこれを上回るという形をとろうとしていること

が数字に反映したものとみてよい。

国有企業改革については、国有企業の配置の調整、「構造の最適化」、産業の

高度化などを通じて、「生産力の発展を可能とする公有制の実現形態を模索す

ること」が高度成長のためにもぜひとも必要だとし、このためには、経営管理

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幹部の選抜、養成に力を入れることが肝要だとし、経営管理の改善による効率

の向上を強調している。

課題として省レベルの機構改革を挙げているが、これは本来は一九九八年に行

われた中央政府レベルの機構改革に続いて一九九九年から着手されたものだが、

「不況下でのリストラ」に大きな抵抗が巻起こり、加えて、WTO加盟交渉の

半年にわたる混乱やいわゆる「朱鎔基辞任騒動」など、改革派に対する強い風

圧のもとで、省レベルの機構改革は大幅に遅延した。二〇〇〇年はこの遅れを

取り戻し、市場経済化に対応した行政機構の再編成へのハズミをつけなければ

ならない。

懸案のWTOについての米中交渉が妥結したことによって、中国のWTO、す

なわち「経済国連」入りは時間の問題となり、中国経済が今後WTO体制のも

とでグローバルな経済体制の枠組みのなかで発展していく方向が明確になった。

加盟交渉で問題はなった争点は、ある意味では加盟後も引き続き存在する課題

であり、今後はWTO内部に場を移して、規則作りなどの過程で引き続き、形

を変えた交渉が行われることになる。政治の場での国連が「途上国という多数

派」の存在によって、大国の思惑通りには動かない構造になっているのと似て、

WTOという「経済国連」においても、いまや途上国の主張は大きな位置を占

めるに至っている。この文脈では、先進国対先進国、先進国対途上国の利害対

立がどのように調整されるか、行方を注視しなければならない。しかし、アジ

ア経済が回復し、世界経済が全体として拡大基調に入るならば、問題は比較的

解決しやすくなるとみてよい。中国の不良債権処理を行う「中国信達資産管理

公司」など四公司がスタートし、四大国有銀行の焦げつき問題処理は本格的に

スタートした。これも重要な一歩である。

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『政経かながわ』2000 年 2 月 15 日

「朱鎔基三三〇〇人講話」

二〇〇〇年一月七日、中共中央宣伝部、中央直属機関工作委員会、中央国家機

関工作委員会、解放軍総政治部、北京市委員会は北京人民大会堂で、情勢報告

会を開き、朱鎔基が当面の経済情勢を報告した。朱鎔基はこう述べた--。九

九年は一連のマクロ経済政策措置により、年初に確定された経済発展目標

(七%)を実現した。国有企業の改革、赤字脱却には重要な進展があり、対外

貿易輸出は大幅に回復した。財政収入が多く増加し、金融が安定的に運行し、

人民元為替レートが安定し、外貨準備が増加した。全体的な経済情勢は良い方

向に発展している。二〇〇〇年は世紀交替の一年であり、真面目に中央経済工

作会議の精神を貫かなければならない。すなわち内需を拡大、発展を促進する

マクロ経済政策をゆるぎなく執行し、積極的に輸出を拡大、外資を利用し、社

会保障体系の建設を加速し、各方面の経済業務の遂行である--。なお、会議

には北京の党政軍機関「部級、司局級」幹部、首都新聞単位の「責任者、一部

の省区市の党委宣伝部長」など三三〇〇人以上が参加する大講演会であったが、

このニュースを日本各紙はほとんど無視した。これまでの憶測の誤りが証明さ

れるのを恐れてかは皮肉をいいたくなる。朱鎔基演説は、中国がアジア通貨危

機という嵐を乗り切った勝利宣言とみてよい。中国経済の対外開放が「半開き」

状態であったことが幸いしたことはいうまでもない。しかし、中国経済がいつ

までも「半開き」状態にとどまることはできない。WTO加盟という大きな山

を越えた朱鎔基にとって、当面の課題は中国経済のテイクオフであり、人民元

のハードカレンシー化に象徴される中国経済の実力強化である。

昨年の朱鎔基の訪米は、アメリカ社会に朱鎔基という「新しい顔」を売り込む

点では成功したが、WTO交渉がまとまらなかった点では失敗に終わった。六

月中旬、朱鎔基への風圧はピークに達した。朱鎔基はぶり返した腰痛の治療を

かねて、浙江省杭州に静養にでかけた。一九日から二七日までの九日間の休暇

中に、国内で「朱鎔基、辞任か」のウワサが広まった。成行きに驚いて急遽帰

京した朱鎔基は六月二八日パキスタン首相と会見し、健在を示した。しかしウ

ワサはまず香港に飛び火、『サウスチャイナ・モーニングポスト』(六月三〇

日付)が辞任騒動を報じた。即日、香港やジャカルタの株式市場が下落し、翌

七月一日には辞任情報が中国に逆輸入され、上海 B 株は七・九%も大幅下落し

た。これを契機に、『ウォールストリート・ジャーナル』(七月二日付)が辞

任騒動を報道した。一方、朱鎔基は七月一日国防科技工業一〇大集団公司の成

立大会に現れて演説した。このニュースは朱鎔基の国有企業改革、とりわけ解

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放軍側の反発も予想される軍事工業関連部門の改革が朱鎔基のプログラム通り

に進展していることを示唆した。当局はこのニュースを流すことによって、朱

鎔基辞任の風評を沈静化しようとした。現実の朱鎔基辞任騒動はここで一件落

着である。しかし、北京駐在の日本記者諸氏にとっての辞任騒動はここから始

まり、一一月中旬まで続き、その後遺症は年が明けてからも続いている。いわ

く中央財経領導小組組長が朱鎔基から江沢民に「代わった」のは、朱鎔基の格

下げではないか。朱鎔基は国有企業「担当から外された」、「失脚寸前、指導

力の大幅低下だ」などである。私の見方では中央財経領導小組組長は当初から

江沢民、朱鎔基は副組長だ。交替説は憶測である。「三カ年で大型企業を赤字

から脱却させる」朱鎔基戦略が否定されたと日本各紙が書き立てた憶測もすで

に破産した。「二〇〇〇年までの三カ年」で大型企業整頓にメドをつける話と、

「二〇一〇年までに国有企業全体の再編成を行う」のは、別の話なのだ。故意

か無知か。憶測のみが闊歩し、これに洗脳されたかに見えるのは、滑稽極まる

成行きというほかない。北京発の中国報道がここまで低レベルになったのは憂

慮すべき事態である。

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「過熱する台湾総統戦」 『政経かながわ』視点論点 第 1492 号 2000 年 3 月 15 日号 6-7 ページ

台湾の総統選挙は、二〇〇〇年三月一八日に行われ、即日開票される予定だ。投票まで

一カ月の時点で、選挙戦は泥仕合の様相を深めて、その過熱ぶりはかなりのものがある。

有力三候補の顔触れはこうだ。宋楚瑜総統・張昭雄総統組=宋楚瑜は一九四二年三月一六

日生まれ、五八歳である。湖南省生れの「外省人」である。台湾の政治大学卒後、カリフ

ォルニア大学バークレイ校で修士号を得て、ジョージタウン大学から博士号を得た。台湾

の内閣に当たる「行政院」の新聞局長や国民党秘書長、台湾省主席を歴任した。特に国民

党秘書長(幹事長)のときに、李登輝総統を支えたことはよく知られている。副総統候補

の張昭雄は一九四二年二月三日高雄市生まれ、台湾大学医学部に学び(六〇~六七年)、大学

学長などを務めたあと現在は長庚記念医院院長である。 連戦総統・蕭萬長副総統組=連戦候補は一九三六年八月二七日生まれ、六三歳である。

祖籍は台南市だが、父親の仕事の関係で大陸の陜西省西安で生まれた。台湾大学卒後、シ

カゴ大学で博士の学位を得た。八八年に行政院外交部部長外相、九〇年台湾省主席、九三

年行政院長(首相)を経て、九六年五月副総統に就任した(当初は行政院長を兼務したが、

九七年九月、蕭萬長に行政院長を譲った。副総統候補の蕭萬長は一九三九年生まれ、六一

歳である。祖籍は嘉義市、台湾の政治大学卒。九〇年に行政院経済部長(通産相に相当)、

九三年経済建設委員会主任、九四年大陸委員会主任を経て、九七年以来行政院長(首相)

の地位にある。 陳水扁総統・呂秀蓮副総統組=陳水扁候補は一九五一年二月一八日生まれ、四九歳であ

る。台湾大学卒後、弁護士として活躍し、台湾初の野党民進党の創立に際して常務委員と

なった。その後、立法委員(日本の衆院議員に相当)を経て、台北市長を一期務めたが、

再選はならず馬英九(国民党)に敗れた。副総統候補は呂秀蓮(女性)であり、現在は桃園

県長である。 これら三組の支持率は、二~三割台で宋・陳・連の順位であり、「未定」が投票まで一カ

月の段階で三割以上というのが終盤までの状況であった。つまり、これら三割を超える「未

定票」あるいは「浮動票」の行方によって、帰趨が決まるわけだ。こうして、最後の段階

で登場したのがスキャンダル暴露合戦である。連戦側は豊富な資金力に物を言わせて一票

二〇〇〇~三〇〇〇元(一元三・五円だから七〇〇〇~一万円)の単価で買収作戦を始め

るとともに、宋楚瑜を国民党資金の私物化を理由に告訴した。これに対して宋楚瑜はこの

資金は李登輝訪米の準備のために用いたものであり、私物化ではないと反駁している。連

戦側は陳水扁に対してもその支持者に圧力を加える作戦に着手した。これらが効果を挙げ

れば、連戦が辛うじて当選する可能性があるが、こうした金権と司法権力まで動員したや

り方には,有権者の反発も目立つ。 ここで注目されるのは、アメリカの立場である。『ワシントン・ポスト』(二〇〇〇年二

月一二日付)が掲げた報道はその一例だ。どの候補が勝っても、台湾軍部は選挙結果を尊

重すると明言したと報道された。選挙過程で軍部が干渉したり、あるいは軍部の気に入ら

ない候補があったとしてもクーデタ騒ぎを起こすことはありえないと確約した形だ。まさ

に台湾当局に対するクリントン政権の基本的にスタンスと見るべきであろう。台湾の選挙

が過熱し、どんな結果になろうとも、軍部は中立の態度をとるという意思表明である。北

京政府は二月二一日に『台湾白書』を発表し、統一スケジュールを無期限に延ばすことは

できないと警告した。前回のようなミサイル演習で圧力をかけることの非を認識したのは、

歓迎すべきだ。大陸のホンネは、誰が当選するとしても李登輝よりはよいという安堵感で

はないか。どの候補が当選したとしても、選挙後には海峡両岸の対話が再開されることは

疑いない。李登輝流のパフォーマンスの時代は終わったのである。

Yabuki Susumu—Kanagawa 243

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李登輝神話の崩壊 政経かながわ 第 1495-1496 号 2000 年 4 月 15~25 日号、6-7 ページ 台湾の総統選挙(二〇〇〇年三月一八日)は、台湾政界に大地震なみの激震をもたらし、

政界の再編成は旧ピッチである。私は本誌の昨年九月号で李登輝総統の「レイム・ダック

化現象」を指摘するとともにこう書いた。「李登輝の押す連戦が破れ、宋楚瑜が勝つ事態に

なったら、彼は面目まるつぶれだ。野党民進党が勝てば、与党国民党の歴史的敗北である」

と。今回の総統選挙で李登輝は二重の意味で敗北した。当選したのは民進党陳水扁であり、

この意味で与党は野党に敗れた。国民党は半世紀にわたる与党の座から転落した。これが

一つの失敗である。もう一つは、李登輝の推した連戦候補は、その名にもかかわらず、惨

敗した。それは国民党を除名され、無所属で立候補した宋楚瑜からも二〇〇万票の大差を

つけられるという結果に終わった。李登輝の政治責任を問うデモのシュプレヒコールのな

かで李登輝は三月二四日国民党主席の地位を辞任することを余儀なくされた。一九八八年

一月、蒋経国の死去後、副総統から総統に昇格してまる一二年、李登輝時代は一挙に終焉

した。 いまや与党の地位に昇格した陳水扁の民進党は党綱領に含まれる「独立条項」について

の修正案の審議を始めるなど、政治姿勢の現実路線化に急ピッチである。かつて国民党の

独裁に苦しむ過程で提起された「独立願望」は、いまやみずからの手で台湾政治を動かし

うるという新たな条件のもとで、より現実的な道を模索し始めたわけだ。つまり単に「願

望を語る段階」から、大陸との「具体的な交渉を行う段階」に至り、いたずらに大陸側を

刺激するのではなく、実利を得る政策への転換が始まった。台湾出身の唯一のノーベル賞

受賞者李遠哲は、かつていくども大陸を訪問し、故桔弌峠とも会見して、大陸には太いパ

イプがある。李を看板にして、海峡交流基金会(海基会)の辜振甫董事長にも協力を仰ぐ

という大陸政策の輪郭が見えてきた。九四年に野党として初めて台北市長に当選した時、

陳水扁は実に現実的な人材配置を行ったことが想起される。四九歳の若さであり、対応は

実に柔軟だ。さて得票数第二位の宋楚瑜は「新台湾人民党」(略称「新民党」)の結成に向

けて活動を開始した。宋楚瑜自身とその側近は国民党を除名されたとはいえ、宋楚瑜支持

組は国民党にまだ多数残っており、これらを引き連れて独立し、さらにかつて国民党から

分裂した「新党」とも提携する方向を打ち出した。宋楚瑜支持グループが国民党を出たあ

との国民党は、敗軍の将連戦をトップに据えて「国民党改造委員会」をもうけ、三カ月以

内に臨時党大会を開いて、正式に党主席を選ぶ予定である。「党営企業」を擁して世界一金

持ちの政党といわれる国民党の再編成であるから、党資金の分配問題に関心が集まってい

る。いずれにせよ、巨大企業群の利潤がどんどん政治資金として国民党の金庫に入るとい

う現在の金権政治の構造は大整理されることになるはずである。今回の選挙を契機として、

台湾の内政と対大陸関係は大きな転換期を迎えている。李登輝の退陣に当り、李登輝の功

罪を評価しておきたい。李登輝がを八四年に蒋経国によって副総統に指名されたのは、モ

スクワ幽閉を体験した蒋経国ならではの人事である。八八年に蒋経国の死去に伴い、総統

に昇格したが、このとき犬馬の労をとったのは宋楚瑜である。総統に昇格した李登輝は、

党と政府の台湾化に努めた。すなわち国民党の中枢に台湾人を登用し、台湾化を図るとと

もに、中華民国が大陸を含めた政権であるとするフィクションを実態に合わせて修正した。

すなわち中華民国政府=台湾政府としたわけだ。この過程で九七年、台湾省政府をつぶし、

宋楚瑜台湾省長を放り出した。実は「李登輝神輿」を担いでいたキーパーソンが宋楚瑜な

のであった。李登輝の決定的失敗はここにある。総統に昇格できたのも、九六年総統選挙

で勝てたのも宋楚瑜の貢献が大きい。その担ぎ手を斬ったために李登輝神輿は地に落ちた。

九六年に当選して以来、李登輝は裸の王様になっていた。

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『政経かながわ』視点論点 中国の資本逃避の現状 2000 年 5 月 5/15 日号 8-9 ページ 中国の資本逃避の問題を分析した面白い論文を読んだ(韓継雲「中国資本逃避の現状、原

因、防止措置」『改革』第六期)。資本逃避額(capital flight)の推計方法はいくつかある。

第一は世界銀行モデルである。これは外国から流入した外資とその国で実際に使用された

外資との差額をその国の「資本逃避額」と見るものだ。すなわち[逃避額=(経常収入+直接

投資の純流入+外債収入)-外貨準備増]として計算するやり方である。これによると中国か

ら外国に逃避した資本は九六年二三六億ドル、九七年五一二億ドルと推計される。第二は

アメリカのモルガン・トラスト社が世界銀行方式に若干の修正を加えたもの。それは銀行

システム内部あるいは通貨当局の手元にある「短期の外貨資金」は、外貨の取引に備えた

ものであり、逃避のためではない。そこでこの部分を差し引いたものを「逃避」と見るや

り方だ。これによると、中国から外国に逃避した資本は九六年一五一億ドル、九七年四一

〇億ドルと推計される。第三はクラインによる方法である。経常収入のうち観光収入や国

境貿易収入、その他の資本収入は政府が捕捉しにくいのでこれは除外して逃避額を推計す

るやり方だ。これによると、中国から外国に逃避した資本は九六年二〇億ドル、九七年三

三三億ドルと推計される。第四は「国際収支表の誤差脱漏」を逃避額とみるものだ。これ

によると、中国から外国に逃避した資本は九六年一五六億ドル、九七年一七〇億ドルと推

計される。これら四つの方法によって中国の八九~九七年逃避額は、それぞれ、一九一五

億ドル、一四三五億ドル、六三四億ドル、八七六億ドルと推計される。年平均はそれぞれ、

二一三億ドル、一五九億ドル、七一億ドル、九七億ドルである。どれが真実に近いのか。

七一億ドルから二一三億ドルという数字の間をとって、仮に一四〇億ドル(=一一六二億

元)とすれば、九年間では一二六〇億ドル=一兆四五八億元が流出したことになる。これ

は同じ時期に受け入れた直接投資額一八五〇億ドルの七割弱に相当する。つまり、中国は

ベネズエラ、メキシコ、アルゼンチンに次いで「世界第四の資本逃避国」だという。では

どのような方法によって資本は逃避するのか。まず経常取引の場合は、次のような方法が

用いられる。(1)伝票を実際の取引額よりも小さく書いて、外貨を中国外に残しておくや

り方。(2)輸出代金を外国に残しておいて投資するやり方。(3)外国の資本家と結託して、

輸出信用状を偽造し、国から輸出戻し税をだまし取るやり方。(4)コミッションやリベー

トを外国に支払ったように見せかけるやり方。(5)実際の輸入が行われる前に輸入代金を

支払い、その資金で投機を行うやり方。(6)輸入伝票を偽造してだまし取った外貨を国外

に置くやり方。(7)中国企業が在外の子会社を利用して資本を持ち出すやり方。(8)輸入

を口実としてまず外貨を持出し、次いで輸出を口実として名目的に清算するやり方。(9)輸入品を実際よりも高く買った形にしてコミッションやリベートを国外におくやり方、な

どである。次に資本取引の場合はこうである。(1)外国資本家が中国で投資をした形をと

る。実際には資本金の払い込みはないにもかかわらず、配当を行う形で収益を国外に持ち

出す。(2)合作企業の名目を用いる。実際には資金は国外から来ていないにもかかわらず、

元利返済の名目で資金を国外に出す。(3)外国投資家が中国内に資金を移した後、「輸入代

金の支払い」あるいは「投資収益の送金」の名目で資本を逃避させるもの。(4)国外にお

ける資金調達の過程で「借入金」あるいは「証券による出資」の名目で、資金を国外に置

くもの。(5)国有企業の在外法人の名目で資本を国外に移し私腹に入れるもの。(6)国外

の中国企業が利潤送金の名目で国内に投資し、国内からの利潤送金の名目で資本を逃避さ

せるもの。さて、このように「逃避」の手口が判明したからには、対策も可能なはずだ。

資本逃避は市場経済の途上国としての中国経済の矛盾のありかをよく教えている。

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『政経かながわ』視点論点 2000 年 6 月 15 日 6~7 ページ 台湾総統選挙の真の争点 五月二〇日、台湾の陳水扁新総統の就任式が行われた。そこでの就任演説の内容如何では、

台湾海峡での武力行使さえ北京側が示唆していたために、世界中がその成行きを中止して

いた。演説の前半三分の二は、李登輝時代一二年の民主化を評価しつつ、残された「黒金

政治」の課題に取り組む決意を述べたものだ。「黒」とは、黒社会すなわち暴力団による汚

染である。国民党は大陸時代も、台湾に移ってからも、暴力団を極力用いることによって、

その支配を続けてきた。その結果、地方自治体レベルの議員のうちおよそ三割は暴力団関

係者とさえいわれる状況が生れた。これが国民党長期政権を支えた一つのマシーンである。

もう一つは「金」すなわち金権政治である。国民党はいわゆる「党営企業」を擁して、そ

こから政治資金を集めるパイプをもっており、世界一の金持ち政党といわれる。一説に、

その資産は二兆円ともいわれる。「国民党官僚資本」の存在は、大陸時代から知られていた。

台湾に移ってからは、まず日本統治時代の資産を接収したが、それは事実上、接収の主体

であった国民党の所有に帰した。これらの資産は、台湾経済の高度成長のなかで巧みな財

テクを通じて価値を増殖して、今日の金持ち政党が生れた。暴力団政治と金権政治、これ

ら二つが国民党の大きな特徴であった。日本のマスコミは、「李登輝総統一二年の治世下で

の民主化」をもちあげすぎた感がある。それは一つの側面だけを見て、反面を無視するも

のであった。もし李登輝のもとで台湾政治がそのように民主化に成功してきたのならば、

李登輝が「唯一推した候補者、国民党主流派の連戦候補」がなぜ敗れたのかを説明できま

い。李登輝は確かに民主化をある程度進めたし、それは評価に値いする。しかしそこには

大きな限界が存在したことも事実なのだ。彼は国民党主席として、みずからの依って立つ

国民党の改革には失敗した、あるいは著手できなかったのだ。陳水扁の勝因は、まさにそ

こにある。今回の総統選挙では、「さらば、黒金政治」を内容とする「清流共治」のスロー

ガンが支持されたのだ。「清流」とは、むろん「黒」と「金」を排して、その原則を支持す

る者は誰でも「治世」を「共にする」という意味だ。陳水扁はいわば「反暴力団、反金権

政治の統一戦線」を呼びかけて見事に成功した形だ。 これが今回の台湾総統選挙の真の課題、真の争点であった。とはいえ、九九年夏に李登

輝が「二国論」を提起して以後、台湾海峡の「擬似緊張」が一挙に高まり、あたかも海峡

両岸問題が内政問題以上の重みをもつかのごとき局面がつくり出されたのも事実である。

これは主として、陳水扁=民進党=独立という三段論法で大陸側が過度に警戒し、行き過

ぎた対応をした結果つくられた状況にほかならない。陳水扁は「大陸当局が武力を行使し

ないならば」と条件をつけつつ、以下の五カ条を約束した。すなわち、1.独立を宣言しない。

2.中華民国の国号を変えない。3.二国論を憲法に書き込まない。4.独立の可否を問う住民投

票を行わない。5.(国民党時代の)国家統一綱領を廃止しない。以上五カ条はいずれも大陸

側の疑心暗鬼を避けるための現状凍結案である。他方、大陸側の求める「一つの中国」構

想の承認要求については、「共同で、将来の『一つの中国』の問題を処理する」と応じた。

「共同で」とは、台湾・大陸が平等の立場で、の意味だ。「将来の」という限定は、現状で

は「統一問題」を交渉する条件が成熟していない。時期尚早だとする認識である。要する

に、大陸側を刺激することを避け、国民党時代の対大陸政策を基本的に継承しつつ、民進

党なりの主体性を留保した苦肉の策である。台湾や民進党のおかれた客観状況からして、

おそらくこれ以外の対応はありえない。選択の余地は限られている。大陸は不満を述べつ

つも基本的には安堵した。次の課題は、対話再開の模索であろう。対話により緊張を緩和

しないと台湾経済も大陸経済ももたない。これが台湾海峡の経済的現実である。

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『政経かながわ』視点論点 2000 年 7 月 5 日 6~7 頁 朝鮮半島の緊張緩和と中国 朝鮮半島で歴史的な南北会談が行われた。南北分断という二〇世紀の歴史的課題に終止符

を打つ模索が、今度こそはホンモノになった。中国の対韓国交正常化以後、朝中関係は冷

却していたが、金正日氏は訪中し足場を固めて韓国の金大中大統領との会談に臨んだ。北

京では「中国の改革開放路線の支持」を公言した。これはピョンヤン自身が類似の政策を

採用すると宣言したに等しく、実に深刻な含意をもつ。八四年の侮框経済特区訪問事件が

伏線になっているからだ。中国が深センに経済特区を設けたとき、鄧小平は秘密裡に金正

日を招待した。これを実地に見学した直後、「中国は修正主義に堕した」と断じて鄧小平を

激怒させる事件が起きた。鄧小平は当時、計画経済の行き詰まりから脱却するには、外資

を導入し、市場経済化への道を歩む以外にはない。経済特区の設立こそがその重要な手段

であることをまず金日成(金正日の父)に説いた。この忠告を容れて金日成は金正日に深

セン特区を視察させた。ところが金正日は帰国後、「経済特区は修正主義」と批判して、鄧

小平を激怒させたのであった。金日成は息子の不始末について謝罪したが、朝中関係は元

に戻らず、「ハードカレンシーによる普通の国と国」の貿易関係に転化した。中国は北朝鮮

説得を諦め、ソウル・オリンピックに参加し、ついに韓国との国交を正常化した。一連の

過程は、まさに中国と北朝鮮との冷却化、北朝鮮の孤立化の過程にほかならない。その後、

経済危機が深刻化したために、中国は北朝鮮に若干の緊急援助(食糧と原油)を行い、両

国関係は少し改善した。とはいえ、「危機対応のための援助」にすぎず、「友好関係の回復」

とは遠かった。現に今回の江沢民・金正日会見も「親しく友好的に」と表記されており、

日本の与党幹事長たちの会見と同じ「温度」なのである。ここを見極めることが肝要であ

ろう。 さて朝鮮半島の緊張緩和は、台湾海峡両岸の対話にとってもプラスのはずだ。冷えた日

中関係も朱鎔基訪日あたりを契機として、改善することが当面の課題である。小渕葬儀に

対する中国からの特使は、熱凪茵(国務院副総理、前外交部部長)であった。中国の場合は、

元首クラスが江沢民国家主席、首相クラスは朱鎔基総理、議会議長クラスは李鵬全人代委

員長である。銭副総理はこれらに次ぐ「副大統領、副総理」級にとどまる。現在の「冷え

た日中関係」を象徴する特使だ。八〇年の大平正芳葬の際は、当時のトップ華国鋒特使を

派遣した経緯がある。小渕葬儀の直前に与党幹事長三氏が訪中し、朱鎔基と会見した。朱

鎔基は野中広務幹事長(自民党)、冬柴鉄三幹事長(公明党)、野田毅幹事長(保守党)に

対して、五月二九日午後の会見でこう述べた。「中国経済に現れた最近の良い発展趨勢を紹

介し、中日双方が自国の経済を持続的安定的に推進する課題に直面している」「日本側の招

請を受けて一〇月に正式友好訪問を行い、両国の友好合作関係を新世紀に向かってよりい

っそう推進する」と。朱鎔基の訪日言明には、李登輝訪日棚上げという伏線がある。内外

の台湾ロビーたちは、年内の李登輝訪日計画実現のため活発に動き、北京を警戒させてい

た。中国側は、「万一李登輝訪日があれば、朱鎔基訪日はありえない」と警告していた。李

登輝訪日か、朱鎔基訪日か、両者をめぐって活発な駆け引きが行われ、それらがひとまず

決着したあとでの幹事長団の訪中となったとみてよい。すなわち、四月から五月にかけて、

江沢民の腹心である中共中央組織部部長曽慶紅と国務院外交部長唐家センが相次いで来日

し、訪日問題についての協議が行われた。結局、日本側(政府・自民党)は四月の時点で「年

内の李登輝訪日なし」を曽慶紅に約束したものと見られる。その後、唐家セン外交部長が

訪日し、朱鎔基訪日スケジュールが「一〇月一〇日前後」の線で固まった。朝鮮半島情勢

も、台湾海峡両岸関係も緊張から緩和へ動きつつある。日本の責務は大きい。「蚊帳の外」

では困る。(30 字 55 行)

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政経かながわ「視点論点」 2000 年 8 月 15~25 日 6~7 ページ 「三つの代表」の狙いはなにか?

今年の二月二六日、江沢民主席は広東省を視察した際に、「新たな歴史的条件のもとでの

党の建設についての見解を発表した。これが中国でいま展開されている「三つの代表」な

るキャンペーンの嚆矢である。中国共産党は何を目的とするのか。江沢民は、(1)「先進的

社会生産力」、(2)「先進文化」、(3)「人民の根本的利益」の三カ条を挙げた。曰く、中国共

産党は、これら「三つ」を代表する組織であり、そのために党の建設を行う。『人民日報』

のホームページに「三つの代表」の特集欄があり、七月一三日現在一五二カ条の『人民日

報』記事が掲げられている。これらの記事を読むと、『三つの代表』キャンペーンが鳴り物

入りで広範に展開されていることが理解できる。このキャンペーンの狙いはなにか。ズバ

リ江沢民の引退作戦と私は読む。中国共産党の理論家鄭必堅の論文(『人民日報』五月一八

日)はいう。「二〇世紀前半に世界の三分の一の諸国で社会主義が勝利した。しかし二〇世

紀後半には、社会主義は重大な挫折を味わった。わが党はいま新旧指導部の交代時期にあ

る。一部では信念が動揺し、組織がマヒしている。とりわけ腐敗問題は重大である」、「膨

大なレイオフ労働者と農村の過剰労働力問題をいかに解決するのか。幹部にはびこる官僚

主義と腐敗現象をいかに克服するのか。民主政治をいかに建設するのか。一連の新状況、

新問題が解決を迫っている」。要するに、社会主義の全面的に崩壊しつつある現代世界で中

国ではかろうじて「社会主義体制」を維持しているものの、内憂外患に挟撃されている実

情が明確に認識されている。特に問題なのは、「中国共産党の階級的基礎は労働者階級であ

る」とする共産党規約を堅持しつつ、「労働者の首切り、すなわちレイオフを展開すること」

の矛盾である。これはどうみても、資本の効率的使用を基準とした合理化にほかならない。

この矛盾に直面して、中国共産党の理論家が考えた解決策は、「最低綱領」と「最高綱領」

を峻別する考え方である。すなわち、いわゆる社会主義の理想は、これを「最高綱領」と

して限りなく未来におしやり、その最高綱領の実現のためにこそ、「最低綱領」としては、

矛盾する政策を推進することが許されるとする解釈である。一九八七年の第一三回党大会

で趙紫陽政治報告に「社会主義初級段階論」が盛り込まれて以来、すでに一〇余年が経た。

「初級段階」なるがゆえに許される「市場経済化」「資本主義化」の現実は、大量の「赤い

資本家」を生み出し、私営企業の発展はまことにめざましい。かつては雇用労働者七人ま

でを「個人企業」として容認してきたが、一九九九年春の憲法改正以来、雇用労働者八人

以上の「私営企業」も合法化された。これらの経営者は中国共産党に入党することが許さ

れるのか。彼らが労働者の解雇や搾取を行うことを共産党は、容認するのか、しないのか。

これらの具体的、現実的課題に答えが見いだせないまま、一方では国有企業のレイオフが

大量に行われている。それゆえ、末端の、現場の党員が何を目的として働き、党活動を行

うのかをめぐって深刻な懐疑と信念の危機に見舞われていることは、見やすい道理である。 このような混乱に指示を与え、党内をまとめて名誉ある引退を狙う。これが江沢民の作

戦であり、そのための党内結束キャンペーンと私は見るわけだ。中央組織部によると、九

九年末現在、中国共産党の党員は六三〇〇万余名、うち女性は一〇七四万名で一七%を占

める。少数民族の党員は三九三万人で六・二%を占める。年齢を見ると、三五歳以下の党

員が一四二五万人で二二・五%である。学歴を見ると、高校以上が三〇八一万人で四八・

七 7%である。このうち大学卒以上は一二一六万人で一九・二%、大学院以上は三六万人、

〇・六%を占める。学歴の高い若者が共産党の中心になりつつある。江沢民流の引退作戦、

すなわち後継者作りが効を奏するかどうか興味津々である。残された時間はあと二年、江

沢民が対岸の李登輝の引退失敗を繰り返すとは思えないが、楽観は許されない。

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政経かながわ第 1510 号、2000 年 9 月 15 日 6~7 頁 視点論点 現代中国を象徴する映画「生死をかけた選択」

夏休みを利用して、一年半ぶりに北京を訪れた。相変わらずの建設ラッシュが続いてお

り、街角の変貌ぶりも激しい。相も変わらぬもの、それは役人の汚職、幹部の腐敗である。

いま中国で『生死をかけた選択』(原作張平の長編小説は『抉択』群衆出版社、九七年)が大

評判だ。この映画は上海で作られ、北京ではようやく上映が始まったばかり。早起きして

友人と首都電影院に出かけた。架空のある海浜市における市長李高成の反腐敗闘争を描い

た映画で、なかなかのデキである。全体の構図にリアリティがある。 主人公の市長(五四歳)は高倉健に似た苦み走ったいい男、苦悩の末に、断固たる決断

をする話だから見ていて胸がすっきりする。党中央は党員に組織的な観賞活動を指示して

いるため、敬遠しがちな向きもあろうが、必ずしも当局ご推薦を狙った「御用映画」では

ない。中国を蝕む「構造汚職」、すなわち汚職のシステムを抉ってみせたものだ。かなりき

わどいところまで描いている。主人公はもともと、その市の有力な国有企業・中陽紡織集

団公司の幹部であったが、その有能さ、実行力を買われ、若手市長として抜擢された。 出身母体たる紡織工場は、近年本体が赤字で破産寸前だが、実はいくつもの傘下関連企

業を擁しており、これらの子会社を通じて、関係者が甘い汁を吸っている。国有企業改革

に便乗して子会社を作り、汚職を組織ぐるみでやる高級幹部たちの犯罪が暴かれる。市長

が研修のため北京の中央党校に出かけていた間に、この工場で労働争議が起こるところか

らドラマが始まる。月二〇〇元の退職者年金の支払いが滞ったためだ。古巣の工場のトラ

ブルであり、内部に詳しいと自負する市長が実情を調べると、経営を委ねた後輩たちが特

権を利用して私腹をこやす実情が次々に明らかになる。市長自身の妻でさえも、関連会社

のボーナスの名目で三〇万元賄賂を受取った、その妻は身障者の一人娘を抱えて、その養

育費の捻出などもあって誘惑されたなどなど。さもありなんといった描写が続く。その過

程で明らかになる、より深刻な事実は、実はこの工場の幹部たちが汚職資金を流用し、省

常務副書記厳陣(省級党組織のナンバーツー)に賄賂を贈ったために、主人公が市長に抜

擢された経緯である。つまりは構造汚職のなかで自分も、家族も完全にからめとられてい

る形だ。主人公は悩みに悩んだ挙句、この工場に対する合理化対策においては意見の対立

していた市党書記楊誠を信頼して闘うことを決意する。自分を市長に抜擢してくれた上司

厳陣の穏やかな懐柔策や恫喝にも屈せず、闘いを挑む。これに対して厳陣副書記を隠れ蓑

とし、紡織工場の現職総経理を筆頭とする構造汚職組は、市長夫人を汚職の罪で告発し、

市長への弾劾にも及ぶが、最後は共産党紀律検査委員会が市長の闘いを支持して、どんで

ん返しの結末になる。件の公司総経理は死刑、省副書記は懲役一五年、その他、汚職幹部

たちは懲役一〇~一五年、市長の妻は懲役三年である。市長は結局留任を認められ、妻の

出所を待つところでドラマは終わる。 この映画の見どころは、汚職が「構造化」している姿をリアルに描いたことだ。悪人個

人が賄賂を受けるのではなく、国有企業改革に便乗して子会社を作り、合弁企業を隠れ蓑

にして資金を引き出す。その金を上級機関の幹部に届け、人事を操作し、正義派の告発を

封殺する。そのような「汚職と腐敗の構造」を描ききったところに新味がある。江沢民指

導部はこれを教材として反汚職のキャンペーンを進めているが、キャンペーンで汚職がな

くなると信ずる者はあるまい。構造汚職を生み出す政治システムこそが問題であり、いま

や政治改革が必至であることをこの映画は教えている。

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政経かながわ 1513 号、2000 年 10 月 15 日 6-7 ページ 視点論点 北京-上海間「新幹線」はどうなるか

今年九月末に予定されていた十五期五中全会は、十月九~十一日

まで延びた。朱鎔基総理の訪日は十月十二~十七日に予定されてい

るから、朱鎔基はこの会議で「第十次五カ年計画についての基本方

針」が決定された直後に来日することになる。五カ年計画の基本方

針がどのようなものになるか、まだ分からないが、この計画の大き

な柱の一つが「西部大開発」であることは疑いない。この西部開発

構想のなかで、大型プロジェクトとして想定されているのは、長江

の三峡ダム、黄河の小浪底プロジェクト、南水北調プロジェクト、

チベットへの鉄道建設、北京・上海間の高速鉄道など、すでにスタ

ートしているもの、これからスタートするものなどさまざまである。

とりわけ大きなプロジェクトは新疆自治区ツァイダム盆地の天然ガ

スを上海まで運ぶパイプラインの建設、すなわち「西気東輸」プロ

ジェクトだ。「気」とは、「天然気」すなわち天然ガスである。これ

らの巨大プロジェクトを五カ年計画のなかにどう盛り込むかとなる

と、技術問題、資金問題、検討を要する課題が山積している。会議

が十月中旬までおよそ二週間ずれ込んだのは、その調整に手間取っ

たためとみられる。日本からみて、最も注目されるのは、北京・上

海間の高速鉄道であろう。このプロジェクトに対して日本の新幹線

を導入するならば、新たな日中経済協力の大きな目玉となる。では、

その周辺の事情はどうなっているのか。まず日本の新幹線技術と欧

州特にドイツの新幹線の比較になる。この比較においては、事故を

起こした「前科」をもつドイツ勢は旗色が悪い。国務院鉄道部の関

係者間では、日本の電車方式、あるいは自走式システムの優位性の

評価はほとんど常識である。機関車が牽引するドイツ方式よりは、

電車型の日本システムのほうが輸送量の面でも、加速・減速の調整

という技術面でもはるかに優れている。だから、もしいわゆる「高

速鉄道」が新幹線方式に決定されるのならば、日本勢はきわめて有

望である。ところが新幹線のライバルは、実はドイツの新幹線では

ない。伏兵はリニア・カーなのだ。朱鎔基がドイツを訪問した際に、

ドイツのリニア・カーに試乗したことは日本でも報道された。清華

大学出身のテクノクラートである朱鎔基は、リニアに代表されるよ

うなハイテクがお気に入りのようである。これはハイテク好きとい

う個人の趣味の問題ではない。二一世紀に活躍する輸送手段として、

新幹線は時代遅れではないか。すでにリニア時代になっているので

はないか、という予想に基づく判断である。リニアの実用化が順調

に進展するとすれば、新幹線が一昔前の技術になることは明らかで

ある。そこでリニアの実用化の見通しをどうみるか、これが核心問

題になる。ドイツでも、そして日本でも、リニア関係者は、リニア

の可能性を強調し、新幹線の「時代遅れ」を強調する。ここにもう

一つの事情がある。中国の鉄道は広軌であり、在来線でもすでに時

速二五〇キロは出せるようになっている。となると、いよいよ新幹

線の「時代遅れ説」が説得力をもつかに見える。たかだか五〇キロ

のスピードアップのために、莫大な投資を行うのはムダではないか。

「二一世紀の技術」としては、やはり実用性に若干の危惧はあった

としても、リニアを実験しながら実用化を図るべきだという議論に

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傾く。こうして、事柄は今後の潜在的可能性に関わるだけに、なか

なか決断を下せない状況にあるのが、現在の「決断迷走」状態の舞

台裏である。朱鎔基は日本でリニアを見学し、さらに東京から神戸

まで新幹線で移動する。この問題に責任を負う朱鎔基がリニアと新

幹線の比較論、ドイツと日本の比較論においてどのような結論を出

すか、興味津々だ。もう一つの要素は二〇〇八年のオリンピック招

致問題だ。ぜひとも二〇〇八年に北京五輪を開きたい。それまでに

完成させるという目標が設定されるならば、もはやリニアでは間に

合わない。中国の五カ年計画に盛り込む内容も朱鎔基訪日の決断課

題もおのずから決まることになる。

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『政経かながわ』2000 年 11 月 15 日号 6~7 ページ 視点論点 朱鎔基訪日の成果

朱鎔基総理が十月十二~十七日に来日した。朱鎔基訪日は江沢民訪日の失敗によって冷

却化していた日中関係を改善させるための努力が行われ、その努力はかなり実ったと見て

よい。だが、これは日中関係「改善への努力の始まり」であり、一挙にシコリの氷解まで

には至らなかったごとくである。朱鎔基訪日の成果を外務省は、こう説明している。一昨

年の江沢民主席訪日の際にまとめられた日中共同宣言で謳われた「平和と発展のための友

好協力パートナーシップ」の定着のため、(1)首脳間で日中両国間の相互理解の増進及び信

頼醸成の重要性を確認し、(2)今後更に協力関係を確立していくことで意見の一致をみた。

(3)朱総理は、対日関係重視の観点から、「本邦各界、一般国民にも幅広く接し、日本国民の

対中好感度増進に努める姿勢」を見せた。一〇月一三日に行われた首脳会談においては、

二一世紀に向け、日中間の友好協力パートナーシップを推進していくことを双方が再確認

するとともに、日中双方が関心を有する広範な問題について「忌憚のない意見交換」が行

われた。特に、海洋調査活動の相互事前通報の枠組みについては、早急に成果を得るべく

作業を更に加速することで一致した。対中 ODA については、日本側より、国民の理解と支

持の下に行われるべきである旨が伝えられ、同時に「対中 ODA の広報活動の促進」を促し

た。これに対し、中国側は、日本の対中 ODA を「高く評価し、今後は広報を強化する」旨

の発言があり、更に朱鎔基訪日に先立って一〇月一〇日に合意した特別円借款について感

謝の表明があった。この「特別円借款」は、アジア経済危機に際して日本が打ち出した緊

急支援の一環である。両国関係では、日中首脳ホットラインの開通、新しいトキの供与、

二〇〇二年における「中国年」「日本年」(仮称)の開催などで一致した。安保対話、防衛

交流の強化が合意され、特に「艦艇の相互訪問」について合意された。歴史認識について

は、朱総理より、「歴史を鑑とし、未来を拓く」(原文=以史為鑑、面向未来)を基礎とし、

将来にわたって日中間の友好を続けたい旨の発言があった。地域協力については「ASEANの枠組みにおける協力の推進」で一致し、今年一一月にシンガポールで予定されている

「ASEAN+3 首脳会議」において「日中韓の首脳会合」が昨年に引き続き本年も行われる

こととなった。以上、要するに「未来を拓く」ことが課題だが、まだ「歴史」に拘泥せざ

るをえないのが朱鎔基訪日の総括的印象である。 報道ぶりはどうか。首脳会談が行われた一三日夜七時のNHKニュースのトップは、金

大中ノーベル賞受賞、二番目は中東情勢、三番目は松坂投手の交通事故問題であった。朱

鎔基との首脳会談のニュースは、七時一五分ごろ、ようやく現れた。「ニュース性なし」と

政治部が判断した結果なのであろうが、冷えた日中関係を象徴するような扱いに思われた。

経済分野では、朱鎔基は一四日昼、経団連などが開いた講演会を通じて「西部大開発」構

想への支援と投資の呼びかけを行った。これに対し、わが国からは二〇〇一年前半に「現

地視察の官民合同訪中団」を派遣することになった。同時にわが国からは「ノンバンクの

債務問題、鉄鋼輸入規制、商工会設置、模倣品取締等の投資環境整備」について中国側の

努力を求め、中国側は「保険会社への営業免許」について、迅速な対応を約束した。朱鎔

基は、一四日夜中国の指導者として初めてTBSテレビでの一般市民との対話番組に参加

した。ここでは、さまざまな質問に率直に答えただけでなく、胡弓の一節をひいてみせる

サービスまで行った。これらのパフォーマンスによって、朱鎔基の個性の一端を示すこと

ができ、中国イメージの改善に役立ったと思われるが、惜しむらくは、その表情が少し固

すぎた。山梨では、ロボット工場を視察し、リニアに試乗した他、神戸への移動には新幹

線(のぞみ)を利用した。朱鎔基が「新幹線」技術をどう評価したのか。答えは五カ年計

画への導入問題として出るはずだ。

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政経かながわ 第 1518 号 2000 年 12 月 5 日 6-7 ページ 視点論点第 10 次 5 カ年計画の建議 目玉は西部大開発

15 期 5 中全会(2000 年 10 月)で採択された「第 10 次 5 カ年計画の策定についての中共

中央の建議」の核心部分の趣旨を説明した朱鎔基演説から、「建議」の中心を探ってみよう。

朱鎔基は「軽視できない矛盾と問題」として、つぎのものを挙げている。 1.産業構造が不合理で、経済発展が地域的に調和がとれていないこと。2.科学技術が遅れ

ており、企業体質が悪く競争力を欠いていること。 3.重要資源が不足しており、就業圧力

が大きく、生態環境が悪化していること。4.農民と一部都市の所得の伸びがのろく、所得格

差が拡大していること。 5.生産力の発展を阻害する体制的要素が重大であり、異なる所有

制間で公平な競争の条件を欠いていること。6.汚職腐敗浪費現象が深刻であり、一部で社会

の治安が悪いこと。現在の矛盾をこのようにとらえたうえで、第 10 次 5 カ年計画期の重要

な指導思想は「主題が発展である」と指摘した。WTO 加盟によって直面することになる多

くの新たな問題を「発展の過程」で解決していこうという問題意識である。「中華民族の偉

大な復興(ルネサンス)を実現する歴史的関頭」にあるいまこそ、「新たな機会、新たな挑戦」

の時機だと訴えている。平成バブルがはじけて自信喪失に陥っている日本とは、意気込み

がまるで異なる。この文脈で新興国中国の若いエネルギーを総動員して中国経済をテイク

オフさせ、人民元のハードカレンシー化を達成しようと意気込んでいる。『建議』にも、朱

鎔基の説明にも「人民元のトードカレンシー化」は書かれていないが、WTO 加盟後 5 年間

の「猶予期間」が過ぎたのちに、中国経済の市場経済化への移行完了を宣言するものは、

通貨の交換性の実現であることが目標として 明確に認識されているわけで、この行間を正

確に読み取るべきである。ちなみに日本経済は 1964 年にIMF(国際通貨基金)8 条国に

なったが、中国は 1996 年であるから 32 年の遅れである。日本円が完全に交換性を回復し

てハードカレンシーになったのは、それから 9 年後の 1973 年である。中国がもし 2005 年

に人民元のハードカレンシー化を実現できるとすれば、8 条国移行から 9 年後にあたる。こ

れも日本に遅れること 32 年である。 今次 5 カ年計画の「主線」は、経済効率を高めるために、「経済構造の戦略的調整」を行

う。これがもう一つの説明である。グローバルな世界経済のもとで生き抜くために、中国

経済全体の効率化を進める最後の機会ととらえている。産業構造の合理化としては、農業

の地位、工業化と情報化、インフラ建設と資源戦略の 3 カ条を挙げている。農業政策とし

ては、農民の所得を増やすこと、保護価格で農民の余剰食糧を買いつけて所得を保証する

こと、農村の行政機構を合理化し、農民に対する租税公課の軽減を挙げている。工業化と

情報化の問題では、「後発者の優勢」の条件を活かして、情報化によって工業化を導き、「飛

び越え式発展を実現せよ」と指摘している。中国経済の立ち遅れという不利な条件を有利

な条件に変えることも、デジタル化、ネットワーク化技術によって可能な局面も一部で現

れたとしている点が注目される。資源戦略として朱鎔基が特に強調しているのは、一つは

水資源、もう一つは石油である。北方大都市の水不足に対しては、水利建設とともに節水

と水資源保護を強調し、水質汚染問題に言及する。石油の大量輸入については、一方で石

油の節約をよびか け、他方で洗炭・選炭技術の改善などによる石炭の合理的利用を呼びか

ける。特に水力発電の拡充とならんで、坑口発電の役割を強調している。第 10 次 5 カ年計

画の目玉ともいうべき西部大開発についてはこう説明する。「重点は交通幹線に依拠して、

中心都市の役割を発揮させること」。「線をもって点を串刺し、点をもって面を導くこと」。

西部大開発のなかで特に言及しているのは「西気東輸」(西部の天然ガスを東部に輸送)、お

よび「西電東送」(西部の電力を東部に輸送)プロジェクトだ。訪日した朱鎔基の要請に基づ

き、日本側は視察団派遣には同意した。今後の行方に注目したい。

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「21 世紀の日中関係」 2001 年 01 月 05 日 「金正日"秘密訪中"の舞台裏」 2001 年 02 月 15 日 「二つの江沢民発言」 2001 年 03 月 15 日 「米中関係の構図」 2001 年 04 月 15 日 「小泉政権の対中政策は」 2001 年 05 月 15 日 「小泉・田中外交をどうみるか」 2001 年 06 月 15 日 「中国共産党が資本家の入党を認めた意味」 2001 年 07 月 15 日 「北京五輪開催決定から見えるもの」 2001 年 08 月 05 日 「小泉首相の靖国参拝を考える」 2001 年 09 月 05 日 「米国同時テロ事件から考えること」 2001 年 10 月 15 日 「外交的配慮が欠けている小泉首相の揮毫」 2001 年 11 月 15 日 WTO 対応型の中国の経済方針」 「 2001 年 12 月 15 日

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『政経かながわ』 2001 年 1 月 5 日-15 日号 8~9 頁、1521~1522 号 視点論点 21 世紀の日中関係を揺るぎないものとする

中国の悲願ともいうべき WTO への二〇〇〇年加盟は実現に至らず、二〇〇一年に持ちこ

されたが、いまや時間の問題となっている。このところ中国経済の運営はきわめて順調で

ある。『中国経済白書(二〇〇一)』によると、二〇〇〇年の経済成長率は七%目標をはる

かに超えて八%になる見通しであり、二〇〇一年の成長率は八・一%になると予想されてい

る。中国社科文献出版社から年一回出版されるこの経済白書は、最も権威のあるものと評

価されており、この数字は中国の経済成長が着実なことを物語る。

旧年晩秋、中国を訪れたが、青海省青海湖の水はあまりにも青く、空もまた限りなく青

かった。ツァイダム盆地から蘭州へのガスパイプラインの敷設は急ピッチであった。日月

峠(海抜三四〇〇米)近くの、パイプを埋め戻して小高くなっている箇所に立って、いわゆる

「管道」を初めて踏みしめた。この箇所は「西気東輸」プロジェクトの「幹線部分」では

なく、その「支線」である。このパイプを通って送られるクリーンなエネルギーが中国の

大気汚染を減らすという壮大なプロジェクトは、その完成図を想像するだけでも、気が晴々

する。西寧では市当局者から地元の白酒「酒覇」によるの宴会攻撃を受けた。お盆に載せ

た小さなグラス六個に白酒をなみなみ注ぎ、一杯ずつすべて呑み干した後、同じ杯で返杯

を求めるのがキマリだという。どうやら漢族の風習ではなさそうに思われる。夜の宴会で

は、四十余年前、大学に入り初めて中国語を学んだときに覚えた「歌唱二郎山」や「康定

情歌」まで飛び出したので、これに唱和した。これらの歌は、四川省とチベットを結ぶ「康

蔵公路」の貫通を祝う五十年代末のヒットメロデーだ。往時の「康蔵公路」は旧道と化し、

ゴルムートからラサに至る鉄道建設の最中である。青蔵高原のうち、チベット地区を「前

蔵」、青海省地区を「後蔵」と呼称することの含意も現地を訪れて初めて実感できた。二〇

世紀最後の二〇年間、沿海地区発展戦略に成功し、「中国人民は立ち上がった」。元来は毛

沢東が一九四九年一〇月一日に述べた言葉であったが、実際には五〇年代から七〇年代ま

での三〇年間、折からの冷戦体制に縛られて中国は立ち上がれなかった。過去二〇年間、「経

済特区」に始まり、「沿海都市の開放」が続き、次いで「点から面へ」と発展してきた市場

経済の波は、ついに奥深い西部地区へ本格的に波及し始めた。この時機をとらえて、「西部

大開発」の構想を打ち出したことは、東部地区の持続的発展にとっても、まことに時宜を

得たものである。これまでは、「平均主義の悪弊」が東部地区の活力を削ぎ、同時に西部地

区の人々をスポイルすることを危惧して、敢えて「先に豊かになる」政策を掲げてきた。

今回打ち出した西部大開発の基本的な考え方も、「先に豊かになる」政策を継承したものだ。

「大躍進政策」の誤りや、六〇年代後半から七〇年代初頭にかけての「国防三線建設」か

ら教訓を汲み取ることに意を用いている。 東部地区の市場経済化の成功を踏まえて中西部地区へこれを押し広めようという国づく

りのグランド・デザインを別の面から見ると、「中国経済の国際化」の過程と重なっている。

日本経済は一九六四年に IMF 八条国に移行し、経常取引レベルで円を自由化し、九年後の

一九七三年に円をハードカレンシー化し、ようやく世界経済の仲間入りした。中国が一九

九六年に八条国に移行したのは、日本より三二年遅れだ。では人民元のハードカレンシー

化はいつ実現できるか。アジア通貨危機の教訓に鑑みて、当局はかなり慎重なスタンスの

ようだ。私自身は二〇〇五年あたりに人民元をハードカレンシー化できるし、すべきだと

考えている。それならば八条国移行以後九年、日本のケースと似ている。WTO 加盟以後の

五年、第一〇次五カ年計画期はカナメの時機である。朱鎔基訪日以後、日中関係には明る

さが戻ってきた。二一世紀の日中関係をゆるぎないものとしていくための条件が整いつつ

あるのは、まことに喜ばしい。

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政経かながわ第 1525 号 2001 年 2 月 15 日号 6~7 ページ 視点論点 金正日「秘密訪中」の舞台裏

北朝鮮の金正日氏が一月一五日から二〇日まで中国を訪問した。

これは「秘密訪問」とされたが、「公然の秘密」訪問であったようだ。

帰国後直ちに発表しただけでなく、上海浦東開発区での工場訪問を

西側テレビ記者が追いかけるのを中国当局とともに容認していた形

跡がある。中国では表向きのマスコミ対策は、北朝鮮との約束を守

り、「非公開」であったが、インターネットでは西側の金正日情報が

かけめぐっていた。ブッシュ大統領の就任前夜に金正日を迎えるこ

とは、世界に向けて大いに吹聴したいニュースであったはずだ。こ

うして金正日訪中情報は、極言すれば「北朝鮮国内向けのみ情報非

公開」という形である。下世話にいう「知らぬは亭主ばかりなり」

か。香港『亜洲週刊』(二〇〇一年一月二八日号)の報じた舞台裏が

興味深い。 一月一二日、韓国現代グループが北朝鮮との間で新義州共同開発プロジェクト計画を調

印した直後の訪中である。これに対して中国側の支持をとりつけることが目的であったと

いう。昨年の南北朝鮮首脳会談以後、ソウルから新義州までの鉄道路線の修復計画が話題

になっていたことは周知の通りだ。さらに、昨年夏、現代グループの鄭周永会長は中国共

産党丹東市委員会の関永光前書記と会見し、同市のインフラ状況や治安体制に至るまでヒ

アリングした。中国の丹東市と北朝鮮の新義州市とは、鴨緑江を挟んで向かい合う街であ

る。 金正日は外資導入を狙う最初の本格的な開発区に新義州を選んだが、その思惑はなにか。

新義州と並ぶもう一つの候補地は三八度線地区であった。南北和解の本格的な促進のため

ならば、この地区に開発区を設けるのが実利的にも象徴的にも望ましいはずだ。それを敢

えて避けて、新義州を選んだところに、金正日流の改革開放路線の思惑が秘められている

と私は読む。つまり、三八度線地区に開発区を設けるならば、勢いの赴くところ、南北の

交流には歯止めがなくなる恐れがある。それは北朝鮮の政治体制に対して深刻な影響を及

ぼし、政権を瓦解させる恐れがある。これに対して、新義州開発区ならば、韓国から遠く、

中国との国境だ。韓国を敬遠しつつ、これとつきあおうといするスタンスがよく表れてい

る。北京はかねて鴨緑江に第二の大橋を建設することを提起していたが、これまで消極的

であった北朝鮮がこの提案に突如前向きになった。この新大橋建設について中国側の協力

をとりつけることも今回の訪中目的の一つとみられる。要するに、中国の改革開放政策の

成果に学びつつ、中国と韓国をあたかも弥次郎兵衛よろしくバランスをとりながら、「限定

的・部分的な開放政策」を展開しようとしているのではないか。ここで想起するのは一九

八三年の金正日による深セン経済特区訪問事件である。この訪問後に金正日は「中国は修

正主義に出した。帝国主義資本に屈服した。もはや中国に学ぶべきものはない」と豪語し、

鄧小平を激怒させた事件である。その後、中国・北朝鮮関係は極度に冷却化する反面、中

韓国交関係が樹立され、経済交流が活発になった。中国非難から一七年後、金正日が浦東

を訪問して、開放政策の成果を評価したことは、かつての非礼を詫び、中国を師と仰ぐ姿

勢を表明したに等しい。昨年五月の秘密訪中以後の北朝鮮の対中国政策にはこうして三つ

の目的のあることが分かる。第一は、中国と北朝鮮の「国家間関係」を改善すること。第

二は、中国の開放政策を学び、これを模倣した政策を北朝鮮で行うこと。これは北朝鮮に

とって建国路線の重大な軌道修正を意味する。第三は、上記の措置によって韓国、米国、

日本との交渉の足場を固めること、である。金正日の戦略は一言でいえば、現行体制を維

持しながら、外資導入を図り、経済発展を促すものであろう。現行の政治体制維持のため

の限定的部分的な開放政策である。中国では二〇年の試行錯誤を費やして、共産党独裁を

維持しつつ市場経済をここまで繁栄させることに成功し、いまや政治改革を待つ段階であ

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る。中国の大きな成果に刺激され、勇気づけられて金正日もようやく開放政策に踏み切っ

た。北朝鮮の世界経済へのソフトランディングにどれだけ時間がかかるか、順調な展開が

期待できるかどうか。すべては始まったばかりだ。

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『政経かながわ』2001 年 3 月 15 日号、6~7 ページ 視点論点 江沢民の二つの発言 中国共産党は二月十一日から十四日まで北京で「中央工作会議」を開いた。「中央工作会

議」の開催が公式に報道されたのは一九九一年九月以来のことだ。経済問題を扱う「中央

経済工作会議」や「中央金融工作会議」「中央財政工作会議」など、それぞれの専門分野に

関わる工作会議は例年開かれているから珍しくない。今回のように個別の分野ではなく、

共産党活動の根本にかかわる大きなテーマについての工作会議は珍しい。この会議がなぜ

開かれたかをめぐって香港『明報』は、大幅な人事異動説を流した。全国人民代表大会常

務委員会副委員長の増補、国務院副総理の増補説である。だが、単にこれら人事の話なら

ば、恒例の中央委員会で決定すればすむのであり、この観測はおそらく的はずれである。

珍しい会議であることは、恒例の会議では扱いにくいテーマを扱う会議であったことを示

唆する。問題はいくつか考えられるが、その一つは「私営企業家の共産党入党およびそれ

に関連する諸問題」である。現状ではどのように扱われているのか。もともと共産党員の

身分である者が私営企業家になり、雇用労働者を大いに雇い、大儲けしたとしても共産党

から除名されたり、あるいは離党を勧められることはない。すでに党員の資格を得ていた

「既成事実」が尊重されるわけだ。 問題は私営企業家として成功した者が「共産党への入党を申請した場合」にどのように

扱われるのかである。実はこれがいま大問題になっている。これまでは共産党への入党申

請書は、処理方針が決まっていないことを理由として、棚上げされるか、あるいは他の民

主諸党派への入党を勧められたりするケースが多かった。江沢民国家主席(共産党総書記)

は訪中した土井たか子日本社民党党首との一月九日の会談で、私営企業家がみな民主諸党

派に流れれば、「共産党は文無しになってしまう」と危機感を表明した。これでは共産党が

財政的にも人材的にも弱体になるおそれがあるので、「私営企業家の共産党入党解禁」を真

剣に検討している、というわけだ。 江沢民の第二発言は一月一六日、やはり日本客向けである。中国共産党は一九二一年七

月一日に結党されたので、今年の七月一日は建党八〇周年記念日である。これを記念して、

二一世紀の中国共産党の路線を見直す作業を進めていると説明した。訪中した日中関係七

団体と中国側一〇団体が人民大会堂で「新世紀の日中民間友好宣言」を発表したあと、江

沢民の接見を受けた。上機嫌の江沢民は、中南海で日本側代表を迎えて午後三時から五時

近くまで異例の長時間にわたって語り続けた。冒頭の約三〇分、江沢民は一九六五年の初

めての訪日から今日までの江沢民個人と日本との交流史を回想した。この「回想」から出

席者の受けた印象は、「いよいよ引退を決意したな」というものであった。「歴史問題」に

ついては、「歴史を鑑とし、未来に目を向ける」精神が大事だと一言述べただけで、その後

は一切ふれず、一九九八年秋の訪中で歴史問題を繰り返し強調したのと対照的であった。

さらに今年が共産党創立八〇周年にあたるので、「三つの代表」思想をさらに掘り下げた「重

要講話」を発表する。来年の第一六回党大会では「重要な意志決定を行なう」ことになる

と明言した。そして自分が現在のポストから退いたら、「どこかの大学へ入って分配論につ

いて講義をしたい」などと語った。この分配論は、前段で民営企業家の入党を認めるかど

うかに触れて、「新しい問題は新しい方法で解決する必要がある」と述べたこととも関係す

る。旧来のマルクス主義の教条的な「党建設理論」では解決できない。それゆえ「三つの

代表」論を掘り下げなければならないというわけだ。今回の日中共同宣言は、昨年五月の

江沢民の日中関係重視の「重要講話」を受けて中日友好協会が提案し、日本側もこの流れ

に乗って受けて立ったもの、いわば江沢民の対日関係重視路線への軌道修正のシンボルに

ほかならない。アメリカではブッシュ政権が誕生した。中国は WTO に加盟し、一〇月には

上海で APEC 会議を開く準備を進めている。そこへ北朝鮮を招待する計画も日程に上って

いる。海南省博鰲ではアジア・フォーラムも開かれた(二月二六日)。中国経済の国際化は

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いよいよ本格的に始動した。この中国とどうつきあうのか、日本のスタンスが定まってい

ないのは憂慮すべき事態である。

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政経かながわ 2001 年 4 月 15-25 日号、第 1531-32 号 6-7 ページ 視点論点 軍用機衝突事件に見る米中関係の構図 アメリカのスパイEP3機とこれを牽制する中国空軍F8機との衝突事件は、二一世紀初

頭の米中関係の構図を示唆するものだ。米機が海南島の陵水空軍基地に緊急着陸した直後

に、米軍は駆逐艦三隻を同島に向かわせたが、まもなく引き上げた。同じころ、中国当局

は北京アメリカ大使館の武官が拘留されている二四名の乗組員と面接するのを許した。事

件は武力のエスカレートによってではなく外交チャネルを通じて解決する方針が確認され、

双方の理解を示す文書の交換する形で目下調整が続いている。アメリカ側は「遺憾に思う

regret」までは述べたが、中国側は「謝罪 apologize」を求めている。両者の間にはまだ距

離があるが、ここまで煮詰まってきたからには妥結は時間の問題とみてよいであろう。[その後、very sorry で決着]

この事件は、二年前のユーゴ大使館「誤爆」事件とこれに対する北京のアメリカ大使館

への投石事件を想起させる。さらにその三年前の台湾海峡におけるミサイル演習と米軍空

母の派遣を想起させる。これら二つの事件の教訓を踏まえて、さる三月、全人代終了時の

記者会見で朱鎔基は中米関係についてこう展望した。「米国新政府の高官は、”建設的戦略的

パートナーシップ”は正しくない。”ライバル関係(競争対手)”に改めるべきだという。しかし

ライバルとは、必ずしも敵ではない」「中国の外交政策は従来から非同盟であり、第三者に

対するものではない。パートナーシップとライバルとは矛盾しない」「経済グローバル化の

なかで、国と国には競争もあれば合作もある。中米関係はライバルであるとともに、貿易

面ではパートナーである」。ついで朱鎔基は今秋一〇月二〇日上海で中国がホストを務める

「APEC上海会議にブッシュ大統領が参加することは相互理解の絶好の機会だ」と結んだ。 ブッシュ政権の掲げる「ライバル論」がクリントン政権の「パートナーシップ論」に対

置されたものであることはいうまでもない。ライバルとは「敵ではなく、競争相手ではな

いか」と解釈し、「パートナーとライバルとは、矛盾しない。たとえば貿易関係をみよ」と

経済的基盤に注意を向けさせたのが朱鎔基の論理である。事実、かつての米ソ冷戦と今日

の米中関係との根本的相違は、中国がすでに市場経済国として米国と深い経済関係を結ん

でいることだ。アメリカ商務省の統計から、米中貿易と日米貿易を一瞥すると、昨二〇〇

〇年のアメリカの対中輸出一六二億ドル、対中輸入は一〇〇〇億ドル、対中貿易赤字は八

三八億ドルである。ちなみにアメリカの対日輸出六五二億ドル、対日輸入は一四六五億ド

ル、対日貿易赤字は八一三億ドルである。わずか二五億ドルの差にすぎないが、二〇〇〇

年はアメリカから見て戦後初めて対中貿易赤字が対日貿易赤字を上回った年である。米中

貿易は往復一一六三億ドル、日米貿易の往復二一一八億ドルの約半分である。米中経済関

係と日米経済関係はその内容を異にしていることはいうまでもないが、相互依存関係の深

さは明らかである。もはやブロックをもうけて対峙した時代とはまるで異なる。米中関係

をかつての米ソ関係になぞらえるのは、根本から間違っている。 もう一つは米中の相互誤解を防ぐための外交要員の配置である。北京駐在のアメリカ大

使ジョゼフ・プルーア氏は、かつて太平洋艦隊司令官として台湾海峡に空母を派遣した責

任者である。当然、今回のスパイ機問題についても内容を熟知している。他方ワシントン

の中国大使楊傑箎氏はロンドン LSE 卒業、新中国生まれの若手外交官で ブッシュ大統領

の父親が大使館の前身貿易事務所の代表として中国を旅行した当時以来二〇数年のつきあ

いがあり、三月の赴任に際しては真っ先にヒューストンに同氏を表敬している。つまり米

中ともに万全の構えで、両国関係のトラブルに備えている。一見両者の緊張面が目立つが、

私は「米中軍事結託」構築という帰結を想定している。台湾問題はこの文脈で観察すべき

である。

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政経かながわ 視点論点 2001 年 5 月 5-15 日号 8-9 ページ第 1533-34 号 小泉政権の対中政策を研究する中国

小泉純一郎氏が自民党総裁選挙で勝利したことを中国のメディアはどうみているだろう

か。「変人」というあだ名は、「怪人」と訳され、「一匹狼」はそのまま「一匹野狼」である。

小泉氏はヘンジンからカイジンまで格上げされた感じだが、今回の選挙結果は中国にとっ

ても衝撃的であったはずだ。というのは、田中内閣で日中国交回復が行われ、その派閥を

継承した竹下内閣すなわち自民党主流派こそが長期にわたって日中のパイプをつないでき

た経緯があるからだ。その経世会から橋本内閣、小渕内閣が生まれた。小渕首相の急死を

経て非主流派から森内閣がうまれたものの、森(傀儡)内閣の生みの親は橋本派であった。

この文脈で、中国は橋本派には一定の安心感、信頼感をいだき、その役割に期待してきた。 最近の事態から一例をあげよう。李登輝訪日ビザ問題が日本政府をきりきり舞いさせ、

混乱に混乱を重ねていた最後の段階で、公明党はビザ発給反対の態度を表明した。これは

ビザ発給を拒否したい外務省当局が橋本派を通じて公明党に働きかけ、発給反対の世論を

つくろうとしたと受け取られている。結果的には「人道問題」を合言葉に、治療に専念し

政治活動を行わないことを条件としてビザが発給され、李登輝訪日が実現したことは周知

の通りである。 橋本派-公明党を通じた日中関係のチャネルがうまく機能しなかったことは、橋本派の

敗北を予想させるものであった。自民党の総裁選挙は都道府県の地方票の流れが小泉氏に

集中したことによって、これが国会議員票の流れにも決定的な影響を及ぼし、ついに小泉

圧勝の結果をもたらした。この選挙過程を中国のメディアは選挙のやり方や候補者の特徴、

その派閥力学などを含めて詳細に報道した。中国はいま「選挙学」「投票学」を学習中であ

り、台湾の選挙であれ、アメリカ大統領選であれ、自民党総裁戦挙であれ、実に真剣にそ

のシステムやその結果を研究している。 とはいえ選挙の実質や意味をどこまで真に理解しているかは疑わしいところがある。衆

愚政治という側面をも含めて民主主義制度や議会制度の学習は、まだ始まったばかりであ

り、いまは中国からみた対日関係の相手を見極めるための、いわば「敵情研究」の域を出

ない。これまで橋本派の勝利を予想し、勝利した橋本派との対話を基軸として日中関係の

再構築を想定して中国にとって、小泉勝利は予想外の事態であり、それゆえに今後、小泉

内閣の対中政策についての本格的な研究と対応が喫緊の課題となっている。小泉氏は靖国

神社参拝や憲法改正の問題などでタカ派的発言を行っている。しかし小泉氏の対中国スタ

ンスはまだ明確に表明されてはいないし、総理就任以後、小泉氏がタカ派のスタンスを貫

くのか、ハト派に軌道修正するのかもまだわからない。ちなみに福田官房長官は李登輝ビ

ザ問題などで実にバランスのとれた判断をしたように思うが、福田長官は留任の方針とも

伝えられる。 自民党の改革がどこまで進むのか。その改革の方向は中国や韓国からみて望ましい方向

なのかどうか。それを見極めるために中国の対日関係者は情報の収集と分析に力を入れて

いるはずだ。ここで中国に望みたいのは、冷静かつ大局的な視点から日本の政治を分析し、

現実を踏まえたうえで日本との関係を再構築することである。たとえば李登輝訪日を避難

したが、所詮は七八歳の引退した老人であり、その政治的影響力は限られている。依然と

してリモコンを続けるシンガポールの李光耀氏とは雲泥の差だ。非難のオクターブを高め

るのは李登輝氏を助勢するに等しい愚行だ。日中関係の山積する課題はそのような応酬の

いとまをゆるさない。一〇月の上海 APEC を成功させるためには、日本の協力は欠かせず、

いまから十分な準備が必要だ。農産物の輸入制限発動問題なども双方の協議により事態の

悪循環を防ぐ必要がある。WTO加盟をにらんでグローバル社会に参加するには、なによ

りもリージョナルな足場を固める必要がある。大事と小事とを混同してトラブルを拡大し

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てはならない。

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政経かながわ 2001 年 6 月 15 日 6~7 ページ。 小泉・田中外交をどうみるか

小泉政権の日中・日韓関係の行方に関心が集まる。小泉首相は五月三日、江沢民国家主

席、朱鎔基首相にメッセージを送 り、教科書問題や台湾の李登輝前総統の訪日などで悪化

した中日関係の修復、発展に 意欲を示し、年内訪中の意向を伝えた。「両国間では、いく

つかの 問題をめぐり、一部に憂慮の声もあるが、日中共同声明、日中平和友好条約、日中

共同 宣言で表明したわが国の立場には、いささかの変わりもない」と強調。 これを受け、田中外相は五月七日、唐家璇外相に電話をかけ、五月二四~二五日 に北京

でのASEM外相会合の際、中日外相会談を 行うことを決め、日本政府の立場を説明。李

氏来日問題について田中外相は「日本の台湾問題に対する立場は日中共同声明(七二年)

にある通り、『一つの中国』に変わり はない。台湾の独立を支持することはない。今後も

慎重に対応する」と述べ、中日共 同声明など諸原則の順守を強調。これに対して唐外相は

「田中外相が慎重な反応をしていることに留意している」と述べた。 教科書問題で田中外相は「困難な 状況を与え、胸を痛めている」とし「日本の歴史認識

は、日中共同声明、村山 首相談話(九五年)、日中共同宣言(九八年)と変わりはない」

と説明。唐外相は「教科書問題の本質は日本が侵略を認めるかどうかだ」と指摘、「李氏訪

日や教科書 問題で中日関係は後退したが、正常な軌道に戻るよう努力してほしい」と善処

を求めた。注目された田中初デビューは、中国から温かく迎えられた。故田中角栄は中国

から見ると、日中国交を樹立し、今日の友好関係を築いた恩人。いわゆる「井戸を掘った

人」だから、水を飲むときにはいつも忘れるな、これが中国流である。 田中外相はこの人脈を極力活かして日中対話のチャネル構築に成功した。が、帰国した

外相を待ち受けたのは、八・一五の靖国神社参拝を明言する小泉発言だ。五月三〇日の国

会で小泉が「私が靖国に参拝するのは、衷心から国家の犠牲になられた将兵たちに尊敬と

感謝の真心を捧げたいからだ」、「もし中国や韓国の国民が私の靖国参拝に反対するのなら

ば、日中、日韓関係を改善し、それによって友誼を深めて初めて彼らの不満をなくすこと

ができる」、「首相の靖国参拝と外交関係が混同されることのないことを希望する」と述べ

た。これらの発言は、中国や韓国のマスコミでも即座に報道されたが、小泉首相の「真意」

がどこまで理解されたかは疑問だ。 『中国青年報』(五月三一日)は、「五〇歳台以下の日本人は歴史の荷物から脱出する願望

をもっている」と分析して強い警戒感を示し集団的自衛権の容認問題などとからめて、「歴

史の荷物を捨てて、軍国 主義への歩むもの」といった固定観念で論評する。小泉政権は一

方で田中カードを使い、対中関係の改善を模索し、それは成功しつつあるように見えるが、

他方で靖国参拝の公言から「軍国主義路線の復活」との危惧をかきたてる。中国も韓国も

このような「二つの顔をもつ小泉政権」への対応に迷っているのが現状だ。「二つの顔の使

い分け」をいつまでも続けるわけにはいくまい。靖国問題は 中韓から見ると、侵略戦争の

象徴である。A級戦犯の合祀さえなければ、隣国の反対はなくなる。そのような手だてを

考えたうえでの小泉発言か。単にみずからの個人的信条を披瀝するだけで納得はえられな

いのは当然だ。 さて日米関係だが、アーミテージ国務副長官が、訪日した際、田中外相が予定されてい

た会談を「突然キャンセルした」として、日本では田中外相への非難が高まったが、当の

アメリカではこれに関する話題はほとんど出ておらず、田中外相への批判もない。日本の

新聞が「『心身ともにパニック状 態だった』と田中外相が釈明」と報じているのに対して、

『ウォールストリート・ ジャーナル』(五月一五日)は、「予定がいっぱいつまっており、

忙しすぎて会談する時間がなかった」「会談は、正式に決定されたものではないから、『キ

ャンセルし た』とは言えない」といった同外相の発言を紹介、周囲の非難に立ち向かって

いる印象を与える文面だ。また米国側も、「小泉首相や他の上級高官と会う機会があったの

で問題ない」と述べ、米紙の「田中外相びいき」がにじみ出 ていると『ギャラクシー・レ

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ポート』(五月一八日号)が伝える。これなら田中訪米もまずは安泰、外相失格論は雲散霧

消するだろう。

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政経かながわ 2001 年 7 月 15-25 日号 第 1540-41 号 6~7 ページ 視点論点 中国共産党が資本家の入党を認めた意味

中国共産党の創立は一九二一年であり、この七月一日は八〇周年記念日にあたる。この

日、江沢民国家主席(共産党総書記)は「建党八〇周年祝賀大会」で演説し、「社会の他の

優秀分子を党内に吸収しなければならない」と述べ、これまで禁止していた私営企業主な

どの入党を幅広く認める方針を打ち出した。これは数年前から水面下で着々と進めてきた

軌道修正を明言したものにすぎない。労働者と農民を中心とする「勤労者階級の政党」で

あったはずの中国共産党がついに資本家の入党を認めた。 もはや「階級政党」という枠が現実に符合しないので、この枠を外して「全人民の政党」

に衣替えしようという話であるから、少しも珍しいものではない。六〇年代の中ソ論争に

おいては、中国共産党はフルシチョフ流の「全人民の政党」論を声高に非難し、ついには

国境紛争までいきついた経緯もある。旧ソ連が崩壊して一〇年、中国共産党はかつてのフ

ルシチョフ流の「全人民の政党」よりも、はるかに資本家を優遇しており、この現実を共

産党への入党という形で政治的にも容認したわけだ。 この軌道修正の根本には、中国における市場経済の発展という経済的根拠がある。この

修正は市場経済の現実に合わせて、政治体制に若干の軌道修正を試みる努力にほかならな

い。こうした試みのいきつくところ、中国共産党の「改名問題」が浮上することは必至で

ある。証券市場を発展させ、経営者の創業利得を認め、株式配当を容認する市場経済にふ

さわしい政治体制が、「中国共産党」によって導かれる「社会主義的経済体制」ではありえ

ないことは、火を見るよりも明らかだからだ。中国共産党は「看板に偽りあり」、すでに「中

国開発党」あるいは「中国発展党」に変質している。そのリーダーや幹部たちは「プロレ

タリア階級の前衛」ではまったくなく、外国語や科学技術に堪能なテクノクラートたちで

ある。中国の市場経済が順調に発展している秘密はまさにそこにある。この現実を基準と

して考えると、江沢民指導部の今回の決定はいかにも腰だめ的であり、未来への観点に乏

しい。従来の枠から一歩を踏み出したことは確かだが、現実の中国社会はより大きな政治

体制改革を求めている。 同じ建党記念日のイベントとして、最高実力者だった鄧小平氏(九七年死去)と保守派

の重鎮だった陳雲・元党中央顧問委員会主任(九五年死去)の「革命業績記念館」が北京・

天安門広場の毛沢東主席記念堂内に設置され、一般開放された。これまで記念堂には、革

命第一世代の毛沢東(元主席)や周恩来(元首相)ら四氏の業績を展示していたが、今回

革命第二世代にあたる指導者の展示は初めて行ったわけだ。毛沢東路線を覆した鄧小平が

毛沢東記念堂入りすることによって、毛沢東の地位は相対化される。この相対化は毛沢東

イデオロギーの意識的な風化作戦の始まりではなく、むしろその完成を意味しているとみ

てよい。 共産党指導部が国内外の重要案件を協議する夏恒例の北戴河会議が、八月下旬に開かれ

る予定だと伝えられる。来年に予定される第十六回党大会に向け、中央組織部から提出さ

れている「革命化、若年化、専門化、知識化」という次世代の幹部に関する四つの基準に

ついての理論固めが行われるが、それは同時にこれらの基準に基づいて、具体的な人選を

行う過程と重なる。 中国が一一月九~一三日にカタールの首都ドーハで行われる世界貿易機関(WTO)に

加盟することはほぼ確定したが、WTO 加盟以後の中国の指導部には、ますますテクノクラ

ートとして有能な指導者が求められる。江沢民の後継者は胡錦濤(政治局常務委員、国家

副主席、軍事委員会副主席)、朱鎔基の後継者は温家宝(政治局委員、国務院副総理)にな

る可能性が強い。これら第四世代の後継体制作りは旧ピッチである。すべては「ポスト江

沢民の時代」へと中国社会は確実に舞台が回りつつある。

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政経かながわ 2001 年 8 月 5 日第 1542 号 6~7 ページ 北京五輪開催決定から見えるもの

七月一三日夜、二〇〇八年オリンピックの北京開催が決

定した。下馬評通り北京に落ち着くかどうか、投票の行わ

れる一一時前後(日本時間)、インターネットをサーフィン

した。大阪市のホームページの無気力ぶりと比べて、中国

側ホームページの熱の入れ方はすさまじかった。中国の報

道は日本のマスコミよりもワンステップ早かった。「第一回

投票で六票しかとれなかった大阪市がまず脱落」と画面に

出る。さて投票は何回か、ともつれ具合を懸念したのも束

の間、第二回の投票で北京は過半数を獲得して堂々と勝利

宣言。わずか六票を獲得するために大阪市がどれほど血税

を無駄遣いしたのか知らないが、五輪評価委員会の指摘を

待つまでもなく、財政事情を省みずに、負けることの分か

っている勝負に出るとは、通常の感覚では理解しがたい行

動であった。ここには精神状態まで衰弱してどうにもダメ

になった日本と、勢いのよい中国との対比が象徴的に現れ

ていた。ジャパンアズナンバーワンなどとおだてられて舞

い上がった奢れる日本は久しからず。苦節二〇年、痛みに

耐えて必至に脱社会主義を模索してきた中国の勝利であっ

た。

顧みると東京五輪は一九六四年、ソウル五輪は一九八八年、そして北京五輪二〇〇八年

という時間表になる。それぞれの経済のテイクオフと五輪開催が見事に符合している。こ

こには「歴史の狡智」さえ感じさせられる。五輪は途上国から中進国あるいは先進国への

過程を後押しする役割を果たしているわけだ。北京五輪決定の波及効果についてさまざま

の見通しが語られ、五輪ビジネスもいずれ流行語になるはずだが、私の見るところ、最大

のメリットは「台湾海峡の安定化効果」である。九〇年代後半は李登輝前総統の挑発的言

動に大陸の江沢民指導部が軽々と乗せられた結果として、大規模な「疑似緊張」が作り出

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された。ひとたび「疑似緊張」がビルトインされると、脅威は脅威を呼ぶ。東アジア世界

が疑心暗鬼の巷と化した一つの帰結は、日本の『防衛白書二〇〇一』版の中国脅威論にも

見られる。旧ソ連の解体によって東アジアから冷戦構造が解体し始めるなかで、敢えて新

たな「疑似緊張」を求めることによって内政を固めようとする、狭隘な愛国主義運動は、

たとえ人権問題や民主主義を錦の御旗にしようと、それへの反対を掲げようと、その底意

が透けて見える。一連の事実は台湾海峡両岸の指導者たちがいかに先見の明を欠いた凡庸

な政治家たちであるかを裏書きするものであったと評せざるをえない。韓国の金大中大統

領にノーベル賞が与えられた背景には、日本を巻き込んだ台湾海峡の疑似緊張騒ぎに対し

て国際世論が嫌悪の情を抱いたことがある。コソボ問題で揺れた一九九九年夏、私はハン

ガリーのブダペストで一夏を過ごして、東アジアを考え続けた。九七年の香港返還に先立

って香港経済は大陸経済と事実上一体化していた。香港に五星紅旗が翻ったとき、珠江デ

ルタでは人民元ではなく香港ドルが取引通貨になっていた。近年の台湾経済の大陸依存度

の強まりは著しい。GNPベースで日本の二〇分の一しかない台湾経済が日本と同じく二

五〇億ドルを大陸に投資しているのだから、台湾海峡の資金チャネルは日中間の二〇倍の

太さなのだと私はしばしば説明してきた。台湾のIT産業はいまや大陸での売り上げが台

湾地区での売り上げを上回り、台湾経済の「空洞化」は急ピッチだ。つまり、経済交流に

関するかぎり、いわゆる台湾問題なるものは存在しないのだ。見識を欠いた政治家たちに

よって作り出される疑似緊張という政治問題だけがあるにすぎない。今後八年間、台湾海

峡両岸の政治家たちは、軽挙妄動の手を縛られる。その間、両岸の交流は確実に広がり深

まる。これは台湾海峡問題の平和的解決にとって決定的に有利な条件の成熟を意味する。

当面は、今秋の上海APECや WTO 閣僚会議(カタール・ドーハ)が課題だが、すべては

北京五輪の枠組みのなかで進められる。北京五輪は、まことにすべてを包み込む大風呂敷

なのである。

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『政経かながわ』 視点論点 第 1545 号 2001 年 9 月 5 日 6-7 ページ 小泉首相の靖国参拝を考える

内外から注目されていた小泉首相の靖国神社参拝は、八月一五日を避けて一三日に「前

倒し参拝」が行われ、これに対して韓国や中国などアジア諸国から強い、かつ抑制された

抗議の声が届いた。靖国の戦後史は日本の戦争責任、戦後責任のとり方を写す鏡のように

思われる。顧みると、政府自民党が靖国神社の国営化を内容とする「靖国神社法案」を国

会に提出したのは一九六九年であり、以後毎年提出したが、四回にわたる審議未了を経て

七四年に廃案となった。これを機に自民党と推進勢力は方向を転換し、「首相・閣僚らの公

式参拝」による同神社の公的復権を当面の目標に設定した。一九七八年にいわゆるA級戦

犯一四名を含む戦死者二三〇万名余りを靖国神社に合祀したのは、既成事実作りの一環と

みてよい。中曾根首相が終戦記念日に靖国を参拝し、マスコミの話題となったのは八五年

のことであった。「これは戦犯を神と崇める行為である」と受け止めた中華人民共和国から

強硬な抗議があり、中曽根首相は翌年から公式参拝を断念した。「私は昨年の終戦記念日に、

首相として初めて靖国神社の公式参拝を致しました」「その目的は戦争や軍国主義の肯定と

は全く正反対のものであり、わが国の国民感情を尊重し、国のため犠牲となった一般戦没

者の追悼と国際平和を祈願するためでありました」「しかしながら、戦後四〇年たったとは

いえ不幸な歴史の傷痕はいまなおとりわけアジア近隣諸国民の心中深く残されており、侵

略戦争の責任を持つ特定の指導者が祀られている靖国神社に公式参拝することにより、貴

国をはじめとするアジア近隣諸国の国民感情を結果的に傷つけることは、避けなければな

らないと考え、今年は靖国神社の公式参拝を行わないという高度の政治決断を致しました」。

中曽根首相から当時の胡耀邦総書記に宛てられた書簡(八六年八月一五日付)の一部であ

る。この年の八月一五日、昭和天皇は「このとしの この日にもまた 靖国の みやしろ

のこと うれひはふかし」と心中を詠まれた。ちなみに戦後の昭和天皇の靖国参拝は、六

九年一〇月一九日(靖国百年記念大祭)および七五年一一月二一日(終戦三〇年記念)の

二回であり、いわゆる「A級戦犯合祀問題」発生以後は参拝していない。九六年夏橋本首

相は八月一五日を避けて、自らの誕生日に参拝したが、翌年は参拝を見送った。 この経緯がありながら、今回の小泉騒動とは情けない。公人か私人か、玉串料か、供花

料か、公費か私費か、御祓いを受けるか、二拝二拍一礼か否か、など、「神道形式」をどこ

まで守るか、排するか。歴代首相はこれらに頭を悩ましてきた。いずれも憲法の政教分離

に抵触するか否かという国内法レベルの争点であり、国内対策にすぎない。このような内

向きの「小手先」「姑息な」手段が、アジアの人々の心にまったく届かなかったのは当然で

ある。「痛みが定まってのち、痛みを想起する」という言葉は、後遺症に悩まされる人々の

日本軍国主義の亡霊への恐怖感であろう。 参拝推進派は、アジアの抗議に直面した後、あわてて転換した中曽根・橋本首相の教訓

を汲み取らないばかりか、これを「外圧」として排する風調が濃厚であった。曰く、靖国

参拝への批判は内政干渉である、外圧を排することこそが外国からのあなどりを防ぐ道で

ある、云々。 二一世紀最初の年に、教科書問題を含めて国際化に背を向ける日本の諸問題が浮かび上

がったのは、不幸中の幸い、禍福を転ずる好機と見るべきだ。これを機に、二一世紀にお

ける日本とアジアのつきあい方を改めて検討するのがよい。韓国との関係では、九八年の

日韓共同声明という政治的資産があるし、サッカー共催の課題がある。中国との関係では

WTO加盟や北京五輪協力の課題がある。北京五輪は「二〇〇八年までの東アジアの平和」

を約束する女神である。東アジア世界はいよいよ相互依存と協調のなかでの競争という新

時代に入る。関係改善の環境は十分に整っている。

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政経かながわ、1549 号 2001 年 10 月 15 日 6~7 ページ、視点論点 米国同時テロ事件から考えること ワシントンでの小泉・ブッシュ会談が行われた機会に、米国同時テロ事件を考えてみた

い。まずはマスコミ報道の「日米温度差」である。「日本の新聞紙面におけるアメリカ関連

記事量」と「アメリカの新聞紙面における日本関連記事量」を比較すると、「前者は後者の

約 10 倍である」という「情報の非対称性」は、しばしば指摘されることだが、今回の同時

テロ情報においても、その例外ではなかったようだ。9 月 18 日付『日本経済新聞』は、囲

み記事で「柳井駐米大使がアーミテージ国務副長官から、『湾岸戦争とは違う、日本の旗を

立てて欲しい。相当のプレゼンスを示さないと厳しいことになる』と言われた」と伝えた。

同紙はこれを踏まえ、「米国は人的貢献等湾岸以上の目に見えた支援を期待している」と解

説した。 ところが、である。「アメリカの新聞は、アメリカが日本にこのような特定の要求をして

いるなどと報道していない」と Galaxy Weekly Report (2001 年 9 月 21 日号)というメール

マガジンが指摘している。日本ではこの報道の前後から、「湾岸戦争の二の舞」を繰り返し

てはならない、が合言葉のように繰り返し語られた。興味深いのは、同レポートの紹介す

る「湾岸戦争の後日譚」である。 一つはカネの話だ。日本、ドイツ、サウジアラビア、クウェートから集めたカネを合計

すると、アメリカが実際に消費した金額を 5 割上回った。当時、ドイツのゲンシャー外相

はこれを発見し、まだ戦争も終わらぬうちにワシントンに乗り込み、ホワイトハウスと国

務省に対して数字の説明を求めて、追加支払いを拒否した経緯がある由だ。これはアメリ

カの主要紙すべてが伝えたが、「日本の新聞は全く触れなかった」。逆に、「カネだけで血を

流さない日本に、議会をはじめとしたアメリカの不満、さらには怒りが増大する」といっ

た報道ぶりであったことは、周知の通りだ。 ここで、もう一つのトピック、米軍人の死者の話になる。湾岸戦争での米軍の戦死者は

37 人と発表されている。しかもこれは友軍ヘリコプター同士の衝突や車の事故によるもの

で、戦闘死ではなかった。つまり米軍の死者は二桁にとどまった。これに対して、イラク

兵は塹壕に籠もっているところを爆撃され、ほとんど蒸し焼きに遭ったが、その数は約 15万人である。37 人対 15 万人、これが湾岸戦争における死者の対比である。軍事力の圧倒的

な格差を考えれば、容易に納得できる数字であろう。アメリカはベトナム戦争の教訓に鑑

み、当初から「死者は出さない」方針で、この作戦に臨んだのであった。 今回の米国テロでの死者数は 6000 人を超えたが、1 万人には至らない。ただし、アメリ

カ国内で生じた死者であるために、アメリカ・ナショナリズムは燃え上がった。アメリカ

国内における戦死者という意味では、真珠湾攻撃以来だが、今回は、アメリカ本土でもニ

ューヨークあるいはワシントンという経済と政治の心臓部であったために、その衝撃は大

きい。その衝撃を踏まえてブッシュ大統領は「単なるテロ」ではなく「戦争だ」とナショ

ナリズムを極度に煽った。こうなると振り上げたこぶしの落とし所に苦慮する局面が生ま

れる。アメリカ国民の期待する戦果を挙げられない場合、国民を納得させられなくなる。 「一人の生命が地球よりも重い」ならば、イラク兵の生命の重さや今回のタリバン政府

攻撃によって生ずる死者の重さをも冷静に再考すべきであろう。同時に、いまアメリカが

想定している作戦によってテロリストを根絶できるかどうかが問題である。テロは憎むべ

きだが、テロリストが自爆攻撃に走る、その原因をなくさないことには、テロをなくすこ

とはできないはずだ。日本のアラブ世界との関わりは、アメリカのそれとは大いに異なる。

そのギャップを忘れて、アメリカに単に追随するのは、日本の国益を守ることにはなるま

い。マスコミの冷静な分析と為政者の冷静な対応を望みたい。

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政経かながわ 視点論点 2001 年 11 月 15 日 6~7 ページ

外交的配慮が欠けている小泉首相の揮毫 上海 APEC(アジア太平洋経済協力会議)で二〇カ国の首脳たちが選んだ中国服のカラー

が興味深い。ブルーは多数派でブッシュ大統領、プーチン大統領、小泉首相など一一名で

ある。ワインレッドは香港董建華氏など四名、レッドはホスト役の江沢民氏ほか三名、グ

リーンとコーヒー色が各一名、前者は金大中大統領、後者はベトナムのファン・バン・カ

イ首相だ。中国のお隣の韓国とベトナムだけが孤立を恐れず、個性的な色彩を選択をした

のが両国の対中国ナショナリズムを象徴するように感じられて面白い。 小泉首相はこの会議に先立ち一〇月一五日に韓国を訪問している。ソウルで国立墓地と

西大門ソ デ ム ン

独立公園の歴史展示館に献花し、「思無邪」と記帳した。 いうまでもなく、『論語』の「思い邪

よこしま

無し」である。小泉メールマガジンは「日韓の信

頼関係を築き、将来につなげ育んでいく」「歴史を見つめながら、未来に向かって友好の絆

を深めていきたいとの思いを込めた」と解説している。金大中大統領との初の首脳会談で

あること、歴史的な問題から来年のサッカー・ワールドカップの成功にむけた協力まで、

率直に話し合ったことを記して、「心正しく邪念無し」、どんなことにもこの気持ちで対応

していきたい」と結んでいる。 韓国は儒教に代表される中国文化を学んできた歴史を持つが、みずからの民族的誇りを

強く意識し、漢字の使用を極力避けてハングルを用いるのが韓国ナショナリズムの一つの

姿だ。その国で小泉首相が敢えて漢字を書いた理由が分からない。もしできればハングル

を用いたい。それが無理なら、せめて「やまと言葉」を「かな」で書くのが自然だ。漢字

が歓迎されるとは限らないのだ。 もっとやっかいなのは、三文字の含意である。小泉氏は、「自らの思い」を書いたつもり

だが、場所が悪い。この歴史博物館は、旧刑務所跡である。拷問で殺された独立運動の志

士たちと獄吏からなる世界だ。ここで「思い邪なし」では、「獄吏にも悪気はなかった」と

獄吏の立場を弁解したものと誤読される恐れさえある。 日本の政治家は、「明鏡止水」や「虚心坦懐」を揮毫するクセがあるが、日本の習慣を外

国に持ち込むのは考えものだ。誤読される危険性のある言葉を書くのは、いかにも外交的

配慮が欠けている。 一〇月八日の中国訪問では、『論語』から「忠恕

ちゅうじょ

」を揮毫したが、これも誤解される恐れ

がある。首相自身はこう説明した。「私は盧溝橋の記念館で「忠恕ちゅうじょ

」と揮毫した。「忠恕」

とは、『論語』の言葉だ。弟子の曾子そ う し

が、「先生こ う し

は、終始一貫して変わらぬ道を歩いてきた。

その道とは忠恕である」と語る一節がある。「忠」とはまごころ、「恕」とは思いやり。「ま

ごころ」と「思いやり」のこころで、日中友好発展に全力を尽くしていきたい」(『メール

マガジン』一〇月一一日号)。 漢字の「忠」とは、「忠誠」「忠義」であり、その「対象」を無視することはできない。

孔子の時代には、君臣関係であり、戦前の日本では天皇や国家がその対象であった。戦後

は働きバチとして「会社」が忠誠の対象に転化したともいわれた。近代史の文脈では「忠

魂碑」を否応なしに想起させる。他方「恕」は、同輩あるいは目下の者に対する「思いや

り」であり、部下を「ゆるす」度量だ。「盧溝橋の記念館」で「忠」を書くと、軍国主義へ

の「忠誠」と誤解されるおそれなしとしない。 かりに『論語』から選ぶなら、誤解の余地のない文字を選ぶべきであり、もしその自信

がなければ、やはり「かな」で「やまと言葉」を書くのがよい。これならおそらく誤解の

余地はなく、事柄は日本語の解釈権に属するから、不安は無い。靖国と教科書を釈明する

旅で、新たな誤解を生み出しかねないメッセージを揮毫したことに私は驚いている。今回

は、韓国も中国も、それぞれのお国の事情もあり、関係改善に努める方向で動いている。

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しかし小泉流の揮毫サービスは決して韓国や中国の人々の琴線に触れるものではないこと

を銘記すべきである。

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『政経かながわ』2001 年 12 月 15-25 日号 6~7 ページ WTO 対応型の中国の経済方針

北京では党中央・国務院により中央経済工作会議が開催された(一一月二七~二九日)。

今年の内外経済情勢を総括し、来年の経済運営の基本方針を確定する恒例の会議である。

この会議の基本方針に基づいて、「財政金融工作会議」「農村工作会議」などの各種「工作

会議」が開かれ、それぞれの分野の来年度の方針が決められる仕組みだ。世界経済の成長

が減速しているなか、「中国経済は依然良好な発展の勢いを保持し、各種改革も不断に深化

している」、「これは江沢民同志を核心とする党中央が全局を総覧し、時期と情勢をよく観

察し、有力な対策を採用した結果」だという。党中央の政策を正当化する記述は恒例だが、

今年はわざわざ江沢民の名を特記したのが目立つ。内外の情勢からして二〇〇二年の経済

活動は「かなりの困難に直面している」との認識のもと、次の項目が挙げられている。 (1)内需拡大方針を堅持し、積極的財政政策と穏健な金融政策を実施すること。長期建

設国債により投資を牽引する政策が二〇〇二年も継続される。金融政策は、経済成長への

支持を更に強めるとともに、特に企業技術改造・民営科学技術中小企業と農業構造調整へ

の貸出し増が挙げられた。(2)農業構造を調整し、農村改革を深化させ、農民収入の増加に

努力すること。農業・農村・農民の三者のバランスが強調された。これまでは農民の負担

軽減が中心であったが、今回は農村インフラ整備を農民の収入増加に結合させるとしてい

る。(3)経済構造の戦略的調整を更に推進し、企業の技術改造に力を入れること。教育・住

宅・旅行・コミュニティサービス業や近代的流通業を発展させて都市・農村の消費拡大を

図る。西部大開発については、一行簡潔な記述があるだけだ。(4)経済体制改革を不断に深

化させ、発展の加速と開放の拡大のため良好な体制環境を創造すること。市場経済秩序の

整理・規範化、法制建設の強化、社会に商業道徳を重んじ、誠実に信用を守り、公平に競

争を行う雰囲気を生み出す、政府の許認可制度の改革を推進する、といったWTO加盟対

応がらみの政策が強調された。(5)WTO加盟を契機として、「有利な条件を充足し、不利な

影響を最小限度にできるかどうかは、我々自身の努力にかかっている」とWTO加盟がも

たらす試練への奮起を促している。 活動方針の特徴は、以下の三点に集約されよう。(1)先行き不安の増大。国際情勢の分

析は昨年と比べてトーンダウンしている。同時多発テロや世界同時景気後退の発生により、

国際情勢の先行きに不透明感が増したためであろう。一一月三〇日に譲許項目の全貌が明

らかにされ、国内産業への打撃・摩擦的失業の発生を指摘する論調も増えている。特に、

二〇〇一年に入り輸出の低迷等から再び経済が減速傾向に陥る中での市場開放は、先行き

不安を増大させている。(2)安定の重視。「二〇〇二年は、我が党・国家の歴史上重大な意

義をもつ一年である」とし、秋に開催予定の第一六回党大会を優秀な成績で迎えるよう強

調している。政治的に重要なイベントがある年には安定が重視されるのが最近の傾向であ

る。二〇〇二年も雇用増大、都市・農村の人民生活の改善が強調されている。特に今回は

所得分配の問題に焦点が当てられている。また、戸籍制度の改革により、農村余剰労働力

の移転促進が明記され、小都市の郷鎮企業を活性化させることにより余剰労働力の吸収を

図ろうとしているのも、今回の特徴であり、都市・農村の所得格差が容易に縮まらない現

状における苦肉の打開策といえよう。(3)WTO加盟対応の遅れ。譲許項目が会議終了の

翌日一一月三〇日に公表されるのを意識し、到る所にWTO加盟対応・国際競争力強化の

記述が見られる。しかし、具体的対策を見ると、前回も指摘されていた項目が多い。正式

加盟決定まで譲許項目が政府内部でも完全に開示されていなかったわけだが、この結果、

関係者の危機感を醸成せず、対応策の検討を遅らせる結果となったとすれば、情報非公開

が裏目に出たことになる。

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2002 年 1 月 5 日 日中国交正常化から 30 年 2 月 15 日 中国経済脅威論批判 3 月 15 日 アジア経済の相互依存急進展 4 月 25 日 日中国交正常化 30 周年 5 月 25 日 中国首脳人事の読み方 7 月 5 日 中国 Geely Motor Cars Co.

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政経かながわ、視点論点、2002 年 1 月 5-15 日号 8~9 ページ 日中国交正常化から 30 年

二〇〇二年が明けたが、今年は日中国交正常化三〇年に当たる。皇太子訪中計画などい

くつかのイベントも予定されている由だ。正常化三〇年を回顧して痛感するのは日中間の

相互理解の危うさである。一九七二年九月二五日、田中角栄首相は北京を訪れ、「わが国が

中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて,私は改めて深い反省の念を表明する

ものであります」と述べた。多義的かつ曖昧な「メイワク」という日本語は、「麻煩(マァ

ファン)」と最も軽く中国語訳され、「謝罪の言葉として軽すぎる」と当時話題になった。

国交正常化の大役を無事に終えて帰国した田中は、九月三〇日、自民党「両院議員総会」

で、こう報告した――「戦前大変ご迷惑をかけ、深く反省している」と言った。これに対

し中国側は、「ご迷惑とは何だ、ご迷惑をかけたとは、婦人のスカートに水がかかったのが

ご迷惑というのだ」と言った。こちらは東洋的に、すべて水に流そうという時、非常に強

い気持ちで反省しているというのは、こうでなければならない――。ここで田中は「迷惑」

という日本語が物議をかもした経緯を説明しつつ、自らは「万感の思いを込めたおわび」(誠心誠意地表示謝罪之意)のつもりで「迷惑」を用いたと強調した。この会談で「もしメイワ

クが不都合、中国側にもっと適当な語彙があるならば、中国側の習慣にしたがってそのよ

うな語彙に改めてもよい」とさえ提案していることから、田中の真意は明らかだ。この「誠

心誠意」が受け止められて日中の国交正常化が成った。 七〇年代、八〇年代には日中間でいくつかの波風もあったが、特に大きな問題は生じな

かった。ところが皮肉なことに九二年、国交正常化二〇年を期して平成天皇の訪中が行わ

れ、「日中関係の戦後処理は完全に終わった」と両国政府が認識したあたりから、相互不信

の輪が軋み始めた。九八年一〇月、日韓共同宣言には「痛切な反省と心からのおわび」が

書き込まれた。これに対して、九八年一一月、日中共同宣言では「深い反省」が書き込ま

れ、口頭で「おわび」が述べられた。七二年九月の日中共同声明では「深く反省」と書か

れ、「おわび」の三文字はなかったが、田中自身は「誠心誠意、謝罪した」と中国側が認め

ていたはずである。七〇年代には「日本は謝罪した」と認めていた中国が九〇年代に至っ

て「おわび」の三文字がないことを理由に「日本は謝罪していない」と強弁し始めたこと

には国内の体制的危機があったと見るほかない。中国側はいわば「謝罪を拒絶する日本」

の原型を田中訪中に求め、このイメージを拡大するようになった。当時、毛沢東は、田中が

熱弁で説いた「迷惑」論議に、「迷惑のことばの使い方は、あなたの方が上手なようです」とか

わして、線装本『楚辞集註』をプレゼントした一幕がある。この手土産の意味するものについて、さ

まざまなの憶測が行われてきたが、正鵠を射たものはなかった。私見によれば、この本には「迷惑」

の二文字が使われていたからだ。首脳会談の「迷惑」論議では、結局は毛沢東が折れ、田

中の言い分が認められた。その際に毛沢東の提示した文献証拠が『楚辞集註』である。こ

の古典を毛沢東が選んだ理由は、『楚辞集註』(九弁、宋玉作)の一句に「迷惑」の二文字

が「惑わす」という中国語の古典的な用法で使われているからだと解するほかない。遺憾

ながら、毛沢東の真意は、田中にはむろんのこと、これまで三〇年間、日本人の誰にも伝

わらなかったようである。これは日本側の中国理解の欠如問題だ。他方、中国側にも大き

な責任がある。ひとたびは田中の「誠心誠意の謝罪」を謝罪として認めつつ、江沢民時代

になると「日本は謝罪したことがない」と強弁するに至ったが、これは信義に悖る作風だ。

日中間のコミュニケーション・ギャップの溝は、かくも大きくかつ深い。相手国への敵意

を増幅することによって国内政治に利用しようとする狭隘な愛国主義に日中双方が惑わさ

れているからではないのか。正常化三〇年史は、「迷惑」というコトバにとって、まことに

迷惑な三〇年であった。

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政経かながわ 1561 号 2002 年 2 月 15 日 6~7 ページ 視点論点

中国経済脅威論を分析すると、日本経済との補完関係に気づく 中国経済脅威論がますます流行しているようだ。昨年の中国GNPは七・三%成長、今

年も七%成長は堅い。中国経済はいま発育盛りであり、高度成長期の日本経済に酷似して

いる。不況下の日本経済と比較するのでなく、東京オリンピック前後の日本経済と重ねて

こそ的確な理解が得られる。北京オリンピックは二〇〇八年に予定されているから、東京

の三四年後である。通貨の交換性への第一歩である「国際通貨基金(IMF)八条国移行」は

日本一九六四年、中国は一九九六年で三二年遅れである。円は一九七三年にハードカレン

シーになったが、中国の人民元は、早ければ二〇〇五年、遅くとも北京オリンピックまで

にはそれを実現すると予想される。そのとき初めて、中国経済はいわば一人前になるが、

いまはまだ「半人前」、肩身が狭い。中国のGNPは為替レートで換算すると、およそ一兆

ドルであり、日本の四兆ドルの四分の一だ。人口は約一〇倍だから、一人当たりGNPは

四〇分の一である。購買力平価をどこで押さえるかについて見方はいろいろあるが、仮に

中国経済がすでに日本経済の規模に到達したと見ても、一人当たりで比較すると日本の約

一〇分の一にとどまる。高度成長のなかで、中国の人々の生活水準は著しく向上し、都市

では家電製品が一巡し、近年は農村にもそれが普及し初めている。カラーテレビや冷蔵庫

など主な家電製品の普及率は、概して三〇年前の日本の水準に相当するレベルである。マ

イホームやマイカーを持ち、旅行を楽しみ、一人っ子に大学教育を受けさせようとする中

産階級も続々生まれているが、まだ世帯の一割に満たない。要するに中国のいまの姿は三

〇年前の日本の姿によく似ており、中国経済は日本経済よりも三〇年遅れている。 日中貿易を見ると、昨年の日本の中国向け輸出は三一〇億ドル、中国からの輸入は五八

〇億ドル、すなわち二七〇億ドルの入超であり、入超相手国中のトップである。しかし中

国の輸出品の内訳を見ると、輸入部品に小さな付加価値をつけたものが少なくない。これ

らは香港経由で輸入されるものが多いので日中貿易だけではなく、日本・中国・香港の三

者を全体として見る必要がある。日本・香港関係は二一九億ドルの出超だから、中国・香

港をまとめて考えると輸出入はほぼバランスしており、五一億ドルの赤字にとどまる。中

国経済はGNPレベルでも、一人当たりGNPにおいても、日中貿易の構造から見ても、

日本にとって脅威であるとはいいにくい。 かつて中国製品は粗悪品の代名詞のように受け取られた時期もあるが、日本企業など外

国企業が直接投資を行い、技術移転に努めた結果、メイドインチャイナは「安くて品質も

よい」という評価を獲得した。今日、日本人の日常生活からメイドインチャイナを追放し

たら、生活が成り立たないほどに深く愛用されるに至っていることは、消費者にとって周

知の事柄だ。とはいえ、中国からの輸入品との競争に敗れて、廃業や生産品目の調整を余

儀なくされている一部の業界から見ると、中国産品は脅威である。昨年はネギ、生シイタ

ケ、藺草についての輸入制限の問題が発生し、中国側は自動車や携帯電話などの輸入制限

で対抗し、日中経済摩擦が騒がれた。 この問題をどう考えるべきであろうか。 中国と競合し敗退するのは日本の衰退産業 率直にいうが、途上国・中国との競争に敗れるのは衰退産業である。衰退産業を保護し

て成功した経験は古今東西の貿易史にない。日中経済関係は、基本的に競合部分よりは、

補完関係にある部分が多いのであって、競合しているのは衰退産業である。中国で生産で

きるものは極力輸入して、補完関係をさらに発展させ、日本のコストを引下げる必要があ

る。世界一の高物価国から脱却することが真の構造改革でなければならない。途上国の追

随を許さないものに特化・高度化することは可能である。日本が培ってきた技術力や資本

力を活用することに活路を求めるべきである。たとえばハイテクを駆使した環境に優しい

自動車などはその典型というべきであろう。

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『政経かながわ』視点論点 2002 年 3 月 15 日号 6~7 ページ アジア経済の相互依存 EUに似て急進展か

欧州連合(EU)では年初から欧州単一通貨ユーロの現金流通を開始し、統合の歩をさ

らに進めた。EUは戦後半世紀を費やしてここまで到達したが、国民国家を越えて国家連

合がここまで発展することは五十年前はむろんのこと、三十年前でさえ、必ずしも予想さ

れてはいなかった。それはかつては夢あるいは理想論にすぎなかった。第一次世界大戦と

第二次世界大戦という二つの惨禍を経て、「もはや世界第三次大戦は絶対に避けなければな

らない」という強い「平和への意志」が EEC から、EC を経て、EU を作り上げた人々の

願いであった。鉄鋼の生産やエネルギー供給こそが戦争を準備する条件であり、これらの

相互規制から出発したのは第二次大戦直後であった。これらの戦略物資を有無相通じさせ

る貿易から始まった EU 域内の輸出を見ると、その「域内依存度」はおよそ六割のレベル

である。わがアジアを見ると、アセアン 10 カ国、アジアニーズ、日中韓の域内の輸出依存

度は八〇年代後半の三割台から九〇年代央の五割の大台まで右肩上がりで高まった。アジ

ア通貨危機に伴う経済混乱のなかで、この比率は四割台に落ちかけたが、その回復に伴い、

ふたたび五割の大台に近づきつつある。これまでは「まとまりのよいEU」と「ばらばら

なアジア」とは、両者を比較すること自体でさえためらわれるような状況であったが、ア

ジア域内の「輸出依存度」が EU の姿に酷似する傾向を見せている。 EU主要国はヨーロッパ大陸上に位置しており、地政学的にまとまりがよい。キリスト

教文化圏という文化を形成してきた。国民国家のサイズも比較的に似ている。これらの条

件は、相互理解と相互交流に有利といわれてきたが、まさに共通の価値観のゆえに世紀を

越える戦争を体験した。ここから EU の識者たちは、EU統合を推進した原動力は、これ

らの条件の類似性ではなく、「もはや戦争はできない」という平和への意志、未来への意志

であったと解釈する(横浜市立大学シンポジウム「ヨーロッパ統合と日本」2000 年 10 月)。国家連合の契機が「平和」や「未来」にあるとすれば、その教訓はアジアでもそのまま学

べるはずだ。ヨーロッパ経済の低迷に対してアジア経済の躍進は著しい。大陸ヨーロッパ

と比較して、海で結ばれたアジアは物流のコストを考えるとはるかに経済的に有利な面も

ある。実はアジア経済の躍進は、欧米先進国の市場に依拠してきたが、近年は域内市場シ

ェアがより大きくなりつつある。域内輸出依存度がすでに五割の大台に近づいており、今

後ますます拡大しよう。 興味深い森嶋教授の東アジア共同体論 二〇〇〇年一一月のチェンマイ会議で、「アセアン+3」首脳会議は東アジア自由貿易圏

の可能性をも含めて、東アジア協力のあり方を探るよう提起した。二〇〇一年九月、日本

アセアン経済閣僚会合ではより緊密な経済的パートナーシップに向けて経済協力と経済統

合の話し合いが行われた。二〇〇一年一一月、朱鎔基総理は中国とアセアン自由貿易協定

の調印を発表した。二〇〇二年一月、小泉首相のシンガポール訪問に際して「包括的経済

連携協定」が結ばれた。 経済学者森嶋通夫教授の「東アジア共同体(East Asian Community)」論は、きわめて

興味深い(『日本にできることは何か----東アジア共同体を提案する』岩波書店、2001 年)。「東アジア共同体」論は、ロンドンに住み EU の動向を身近に観察しつつ、東アジアを対

比したものだ。日本経済崩壊の危機からの再生には、アジア経済との結合以外にはありえ

ないと説く。東アジア共同体議会は、中国 5 票、台湾 1 票、南北朝鮮各 1.5 票計 3 票、東

西日本各 1.5 票計 3 票、総計 12 票の地域代表からなる。共同体政府の首都は、(日本から独

立した)沖縄におく。当面の「新幹線共同体」、「建設共同体」から、いずれは「市場共同体」

を目指す。森嶋史観はかなり個性的であり、アクが強い。当然異論はありえよう。しかし

五〇年後には、アジア版 EU がこの構想に似た形で実現するかもしれない。アジア経済の

相互依存の進展は急ピッチだ。

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『政経かながわ』2002 年 4 月 25 日 8~9 ページ 日中国交正常化 30 周年 台湾と大陸の絆太く

今年は日中国交正常化三〇周年であり、さまざまのイベントが予定されている。昨年李

登輝訪日問題のあおりでキャンセルされた李鵬全人代委員長の訪日や、次期国務院総理の

呼び声の高い温家宝副首相の訪日が予定され、日本からはさまざまな代表団に加えて小泉

首相の秋の訪中も準備段階に入った。日本から見ると、「日中三〇周年」だが、中国では「米

中正常化三〇周年」のムードが日中を上回っている。日本は米国に追随するのみだから、「日

本を動かすには、米中の往来が肝心」と中国が見くびっているフシもある。 いまから三〇年前の七二年二月、ニクソン大統領の頭越し外交、すなわち「ニクソン・

ショック」を体験し、九月の田中訪中が行われたことは歴史のヒトコマだが、三〇年後の

今日なお、「自主性なきアジア外交」のイメージを払拭できないのは、嘆かわしい。冷戦体

制が崩壊してすでに一〇数年を経ており、自主外交の可能性が広がっている状況だからこ

そ、なおさら外交不在が印象づけられる。 台湾からの報道によると、陳水扁政権の李登輝離れは急ピッチであり、李登輝氏の影響

力は急速に薄れつつあるようだ。昨年八月の経済発展諮問会議で「積極開放、有効管理」

の新方針による大陸との交流が始まり、「戒急用忍」(あわてず、忍耐強く)の李登輝路線は

放棄された。台湾経済の不振から脱却するためには、大陸との積極的な交流以外に道はな

いからである。昨年一二月の立法委員(日本の国会議員に相当)の選挙結果も陳水扁政権によ

り現実的な選択を迫るものであった。李登輝氏の台湾団結連盟は一三名しか当選せず、民

進党議員八七名と合わせて百名であり、定数二二五の過半数一一三に足らない。 民進党は依然少数与党であるから、野党や経済界との妥協を図るしか道はない。游錫堃

内閣の組閣人事を見ると、あえて李登輝氏と対立する閣僚を混ぜた形跡もあり、意識的に

距離をとろうとしていることが察せられる。立法院の議長、副議長をいずれも野党の国民

党に奪われたことは、議会における与党と野党の力関係を象徴する。昨年九月台湾の CIAたる国家安全局の出納担当者(大佐)が亡命した際に持ち出した資料により、李登輝時代の対

米、対日政策の舞台裏も暴露され始めた。総額約一三〇億円の機密費の使途が記されてい

るという。日本でいわゆるガイドライン法が制定された当時の橋本首相や国防関係者への

働きかけにいくら用いられたかも記されているらしい。A 防衛次官には一〇万米ドル(約一

〇〇〇万円)が手渡されたともいう。日本の安全が台湾資金によって買収されていたとする

ならば、由々しい事態であり、真相解明が待たれる。台湾海峡両岸がともに WTO に加盟し

た現在、九〇年代後半の両岸関係の「疑似緊張」は様変りしつつある。 両岸交流の障害は航空機の相互乗り入れを除けば、すでにすべて解決済みだ。たとえば

人事の往来は、毎年二八〇万人の台湾人が大陸を訪れる。目的は親戚訪問や観光旅行も少

なくないが、近年は圧倒的にビジネス関係が多い。台湾の直接投資は五万社、一〇〇〇億

ドルを超えている。一社平均一〇人を派遣するとして、五〇万人が大陸で働いている。彼

らが年に二回帰省したとしても延べ百万である。ちなみに日本企業は二万社、直接投資は

三〇〇億ドルだから、台湾のおよそ六〇分の一にすぎない。台湾と大陸の絆の太さ、強さ

は明らかであろう。もう一つ数字を挙げれば、財務省の貿易統計によると、昨年の日本の

中国からの輸入は五八〇億ドル、日本のGNPは四・八兆ドルであるから、一・二%にす

ぎない。中国の輸入が日本の不況の元凶であるとみる中国脅威論は一・二%がGNP全体

を動かすというもので、いわば犬の尻尾が犬を振り回すという議論に近い。これが日中正

常化三〇年、日台断交三〇年の現実である。いたずらに中国経済脅威論を煽るのではなく、

東アジアの経済協力を進める知恵が求められている。

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政経かながわ 視点論点 2002 年 5 月 25 日 6~7 ページ 中国トップ人事の憶測記事

四月初めにニューヨークの時事トップセミナーに招かれて、中国経済について講演した。

中国問題はいまや話題の焦点であり、ニューヨーク在住のビジネスマンの関心も高いとの

ことで、わざわざ東京から私を招いたものである。主題は経済問題である。私は中国経済

の高度成長が中産階級を育てている、彼らは消費面でのオピニオン・リーダーであるにと

どまらず、やがては政治改革の担い手にもなるであろう。中国の未来像についてそのよう

な中期展望を描くことが必要だ、などと私は述べた。 そして秋には第一六回党大会が予定されているので、最後に人事予想にも触れた。胡錦

濤政治局常務委員が留任し、江沢民氏の後を襲って中国共産党のトップに就任すること、

李瑞環常務委員も留任し、彼は全人代常務委員会委員長に就任するであろうこと、引退す

る朱鎔基首相の後継者は温家宝政治局委員であり、これ以外の人事は考えにくいこと、な

どを説明した。これらの「指導部の中核となる人事」はほぼ確定しているが、細部までは

まだ固まっていないと見られる。やはり夏の北戴河会議で人事の決定案の根回しが行われ、

党大会を経て正式に決定される見通しであると解説した。 さらにこう付け加えた。これから秋の党大会まで人事をめぐる憶測記事が氾濫すると思

われるが、そのほとんどすべては単なる憶測であり、信憑性はほとんどゼロに近いものだ。 私は一例として敢えて、『産経新聞』(二月一〇日付伊藤正支局長発)の記事に言及した。

この記事は「中国筋」なる正体不明のソースをもとに李鵬氏留任説を書いているが、ほと

んど噴飯物だと思われる。若返りが基調であり、そのような「老害」人事はありえないは

ず。ただし、「人事は正式決定までは、その過ちを証明しえないはずだから、ウソでも書い

ておいたほうがトクだ。これを記者仲間で”書き得”というらしい」と補足した。 連休直前、果たして「書き得」記事が相次いで現れた。『東京新聞』(四月二六日付鈴木孝

昌支局長発)の「温首相、次期首相を辞退か」および『読売新聞』(四月二八日付浜本良一支

局長発)の「次期首相レース混沌、温副首相が辞表」である。 私は早速二つの記事の要旨をメモして、この記事は基本的に同じネタ元であり、しかも

単なる憶測である、温家宝は二月の金融工作会議で総括報告を行っており、金融政策で間

違いを犯したという論拠は成立しないというコメントをつけてメール仲間に送った。 メール仲間から「ネタ元がばれた」と連絡が届く まもなくメール仲間の一人から、「ネタ元がばれた」というメールが届いた。香港紙『明

報』がネタ元は香港『争鳴』誌四月号(三月九日発売)だと書いたのである。これで「中国筋」

「外交筋」などと、さも重要なソースらしく、ぼかしたことが子供だましであることが明

らかになった。 温家宝辞表執筆説の間違いに私がすぐ気づいたのは、実は四月一六日夕刻、日本国際貿

易促進協会の大型ミッションの一員として人民大会堂で温家宝氏の接見を受け、その物腰

を身近に見ていたからである。一時間の予定を三〇分以上延長して、日本側団長、副団長

たちの提言に耳を傾ける姿勢はたいへん好感がもてた。私は次期総理として貫祿十分と見

たわけである。

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ところで『東京』と『読売』の特派員は、いずれも一〇〇名以上におよぶ温家宝副首相

との会見者を一人として取材していないのが特徴的である。もし温家宝氏に興味をもつの

ならば、最も近い時点で会見した者に印象を取材するのは、ジャーナリストの鉄則である

はずだ。このような基本的取材をまるで怠り、中央工作会議における温家宝報告の内容を

調べることもせずに、単に香港誌の憶測記事に基づいて、「中国筋」や「外交」筋などとぼ

かして憶測作文を書いている。駆け出し記者ならいざ知らず、これが大新聞の外国支局長

による自称「スクープ記事」とはまことに情けない。「報道の自由」の看板が泣いている。

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