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D.H.ロレンスの短篇小説(1) 一模索の時代一 ,=! N ロレンスにはかなり多数の中短篇小説がある。“The White Peacock”から “Lady Chatterley’s Lover”に至る10篇に及ぶ長篇小説の他に,既に ン・ブックで出たもののうち未完のものを除いて70の創作を完成させている。 その中には,‘Adolf’,‘Rex’などといった必ずしも小説とは言いかねるもの もあるが,ロレンスがいかに中短篇小説に精力を注いだかは,習作時代からこ の世を去る直前迄の殆んどの時期に以上の70余りの作品が行き亘っている事か らも知られるのである。ちなみに,処女長篇・The White Peacock”の完 は1909年,この時既に秀作・Love Among the Haystacks・を含 短篇が生まれており,’最後の長篇“Lady Chatterley,s Lover”の出版以 も・佳作‘The Blue Moccasins・を含む数篇の短篇を執筆している。 ロレンスの短篇について,特に晩年の思想的立場が明確となった時期の ‘Sun’,・The Man Who Died・等,作者の思想究明の材料として論じられる 事は多いが,それ自体として論じられる事は比較的少ない。ロレンスの長篇小 説は,特に後期になると,ややもすれば冗長にすぎ,冗舌に流れる傾向なしと は言えないのであるが,その短篇小説には簡潔な状況設定と人物描写の故にあ ざやかな印象を与えるものがいくつかあって,ロレンスという作家の本質を巧 まずして垣間みせてくれるのである。 ロレンス研究の本筋がその長篇小説の解明にある事は否めないが,それはや 一47一

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D.H.ロレンスの短篇小説(1)

一模索の時代一

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邑 水 昭

 ロレンスにはかなり多数の中短篇小説がある。“The White Peacock”から

“Lady Chatterley’s Lover”に至る10篇に及ぶ長篇小説の他に,既にペンギ

ン・ブックで出たもののうち未完のものを除いて70の創作を完成させている。

その中には,‘Adolf’,‘Rex’などといった必ずしも小説とは言いかねるもの

もあるが,ロレンスがいかに中短篇小説に精力を注いだかは,習作時代からこ

の世を去る直前迄の殆んどの時期に以上の70余りの作品が行き亘っている事か

らも知られるのである。ちなみに,処女長篇・The White Peacock”の完成

は1909年,この時既に秀作・Love Among the Haystacks・を含む10数篇の

短篇が生まれており,’最後の長篇“Lady Chatterley,s Lover”の出版以後に

も・佳作‘The Blue Moccasins・を含む数篇の短篇を執筆している。

 ロレンスの短篇について,特に晩年の思想的立場が明確となった時期の

‘Sun’,・The Man Who Died・等,作者の思想究明の材料として論じられる

事は多いが,それ自体として論じられる事は比較的少ない。ロレンスの長篇小

説は,特に後期になると,ややもすれば冗長にすぎ,冗舌に流れる傾向なしと

は言えないのであるが,その短篇小説には簡潔な状況設定と人物描写の故にあ

ざやかな印象を与えるものがいくつかあって,ロレンスという作家の本質を巧

まずして垣間みせてくれるのである。

 ロレンス研究の本筋がその長篇小説の解明にある事は否めないが,それはや

              一47一

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やもするとロレンスの表向きの顔を突きとめる結果になりかねない。近代の文

明の前に立ちふさがろうとしたロレンスであるから,その表向きの顔こそが本

来の顔だと考えても間違いなかろう。ロレンス自ら進んで取った姿勢だからで

ある。だが,.ロレンスの英雄的な姿とその痛ましい敗北の姿のみに目を向ける

事は一人の作家としての全体像を見失うことになるのではなかろっか。ロレン

スの人間としての,作家としての素質の一つの部分を見落す事になって余りに

わびしい。ロレンスが時代の文明に正面きって対抗するに至る過程で時には意

識的に或は無意識のうちに切り捨てていった素質に眼を据える事によってその

存在に立体感を与える事ができるのではなかろうか。ロレンスのそうした素質

が凝集されて結実した例がいくつか短篇の中に見られる。そこに思想的に深ま

ると同時に先鋭化していったロレンスの一生の創作活動の中で決して失われる

事のなかった生来の姿を感ずるのである。

 ここで,ロレンスの一生を貫いて書かれた短篇の流れを追いながら,いくつ

かの重要な作品,優れた作品については多少詳しく述べて,既にいくつかの論

文において私見を述べた長篇小説の流れとは別の面をも明らかにしてゆきたい

と思う。なお,冒頭に「中短篇小説」と記した様に,ロレンスには長篇では無

論ないが,短篇とも考えにくい作品がいくつかある。私はペンギン・ブック版

に於て50頁前後のものまでを短篇として扱い,それ以上のものを中篇として扱

いたいと思う。中篇小説としては,“The Fox”,“The Ladybird”,“The

Captain’s Do11”,“St Mawr”,“The Virgin and the Gipsy”の五篇が数

えられる。この中で最も短いものは最初の二篇で76頁,最も長いものは“St

Mawr”で156頁である。短篇の中で最も長いものは・The Daughters of the

Vicar・で53頁である。この作品にも中篇とした五篇に類似して作者の創作の

心構えに特別な慎重さが感じられないでもないが,中短の区切りを明確にする

意味で短篇として扱う事にする。更に,中篇とした五篇はいずれも中期以後の

作品であり(最も早い“The Fox”が1918年に最初の稿が完成している),短

                                  tl篇全体の流れとやや異質の底流を持っていると考えられる。又,“St MaW「

は長さとしては長篇と考えられなくもないが(長篇の中で最も短い“The

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’Trespasser”が217頁である),主題から見て明らかに,更にロレンスの長篇に

見られる迂余曲折した創作方法と異質な点からみて,中篇の中に入れるべきも

のと考えられる。言わば,short novelとも言うべき中篇については後日述べ

る事にして,この論文では短篇にしぼって論じてゆきたいと思う。

 ロレンスが処女長篇「白孔雀」(“The White Peacock”)に筆を染めたのは1906

年,その完成は1909年である。そして,Rosalindの筆名で1>bttinghamshire

Guardianの懸賞小説に応募して「ある前奏曲」(‘APrelude’)が入選した

のが1907年,22才の時である。この頃ロレンスはノッティンガム大学の教員養

成部の学生であった。初恋の人Jessie Chambersと訣別の意を固めるのもほ

ぼこの時期である。r白孔雀」の執筆を背景に持ちながら,1907年と1908年の

二年間にロレンスは12篇の短篇小説を仕上げている。恐らくこの時期は作家と

して習作時代あったと同時に,ジェシーと離れてより広範な生きる世界を求め

ていった時期でもあったであろう。この1908年までの時期をロレンスがまだ自

己の文学の中心テーマを明確に意識し始める前の習作時代と私は考えている。

「白孔雀』を完成させた1909年以後の短篇には明らかにロレンスらしいテーマ

として男女の問題が生まれて来るからである。

 無論この習作時代にも男女の問題がないわけではない。 「ある前奏曲」に於

ては若い男女の淡い恋が物語にふくらみを与えており, 「白い靴下」(・The

White Stocking・)に於ては好色漢の隠微な官能に動揺する若い妻の描写が中

心になっている。更に「乾し草の中の恋」(・Love Among the Haystacks・)

に於てはまさに若い男女の自然な恋が物語の中心である。だが,これ等の作品

に於ける男女問題の扱い方は決してその後の作品に於ける様に作者の強い観点

に動かされた意味付けをされたものと同質のものではなく,ロレンスの生来の

天然の儘の作家的人間的素質が流露したものと言うべきであろう。男女関係は

どうあるべきかという反省は全くないと言うべきで,作者の見た儘,感じた儘

の自然が巧まずに表現されていると言って良い。ただ特に注意すべきは, 「あ

る前奏曲」に於ける恋愛感情の織り込み方, 「白い靴下」に於ける隠微な官能

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の描き方, 「乾し草の中の恋」に於ける恋の歓びと煩悶のとらえ方,等々に見

られるロレンスの作家的才能,観察力の鋭さ,感受性の豊かさなどの驚くべき

資質である。これ等の要素は長短を問わずその後のロレンスの作品のいたる所

に散在しているのであるが,恐らく作家としてのロレンスを考えるならば,こ

れ等の資質の中にすべての出発点があると言って良かろう。後の特有の観点に

裏付けされた男女の描写に於ても,決してその観点が先に立って実相を歪曲す

る事なく,実相に立って観念がそこから生まれるというところにロレンスの文

学としての力があった事を考えれば,以上の事も当然と言うべきであろう。

 上述の三つの作品の世界では,後期の作品とやや異って,それぞれの登場人

物が作者の主観に動かされずにそれぞれに生きている事が読者にさわやかな快

感を与えてくれる。ロレンスの人間を見る眼に主観の強い影がなく自然な儘の

均衡を保って人間の世界が現出しているのである。「ある前奏曲」はクリスマ

スの素朴な行事と人物のそれぞれの感1青の織りなす綾が見事で,ロレンスの短

篇の中でも淡くはあるが最もさわやかな読後感を与えるものであろう。この作

品と同時にロレンスは,「白い靴下」,「伝説」(‘Legend’)の二篇も寄稿し,

余り自ら評価していなかった「ある前奏曲」が当選したのを意外に思ったらし

い。だが,「白い靴下」の描写力,観察力は驚くべきものがあるがやや素材の

面白さが勝ちすぎてふくらみに欠ける面があり,後に‘A Fragment of Stanied

Glass’と改稿改題された「伝説」は素材の扱い方にこなれの悪い面がある事

を考えると,「ある前奏曲」の当選は,ロレンスの意図に拘らず,クリスマス

の懸賞小説という事情もあったろうが,選者の眼の確かさを物語っていると言

えよう。言わば,何の変哲もない素材に作者が知らずして与えたふくらみのあ

るさわやかさが,素材の興味とその巧みな処理に勝って,ロレンスの真の資質

をより多様に生かしていたのである。尤もロレンス自身は,後の二作だけを後

に改稿して1914年,短篇集「プロシヤ士官,その他』(“The Prussian Office「

and Other Stories”)に入れていて初めて活字になった処女作「ある前奏曲」

はあくまで気に入っていなかったらしいのは皮肉である。例えば,炭坑夫の妻

の苦しい生活への不満,自分の息子がいっまでも炭坑夫の状態でいる事への不

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満,粗野で素朴な田舎の青年の暖かい生命,その若者が見せる母親への初心な

愛情,都会生活から帰郷してきた者の味わう疎外感等,後のロレンスの作品に

も素材として現われるものが既にいくっか出ているのだが,それぞれの持つロ

レンスにとっての意味は全く意識されておらず,又深く追究される事もないた

めに,ロレンスの後の姿を知る者にとっては物足りなさが感じられるかもしれ

ない。又,結末に於て父親の妻への優しいいたわりの表現と重ね合わせて若い

男女の恋心のすれ違いを解消させているのも,いわゆるロレンス的な鎮痛な重

味を欠いていると言えよう。作者自身そうした点に不本意を感じていたのかも

知れない。だが,逆に言えば,そうした軽いタッチの故にこそこの作品は習作

時代のロレンスの一っの記念として心に留めていて良いと思う。蛇足ながら,

「ある前奏曲」はジェシーの名で, 「白い靴下」はジェシーに代って新しい恋

人になろうとしていたルイ・バロウズ(Louie Burrows)の名で,「伝説」を

彼自身の名で寄稿していた事はそれぞれの作風を考えると暗示的で興味深い。

 この時期の秀作は「乾し草の中の恋」である。この作品は前の三作の翌年

1908年に執筆され,ほぼ同じ頃大学を卒業している。 『白孔雀』は依然執筆中

である。この作品にはこの時期のロレンスの資質が過不足なく,しかも充分な

力強さをもって現れている。青年の恋の有頂天の歓び,初々しい性の煩悶とそ

の救いが極めて本質的な姿で適確にとらえられ,周囲をとりまく人物や風景の

生き生きした描写,個々の出来事や入物風景の見事な全体の中でのバランス,

性の煩悶に沈む青年の救いによる結末の安堵感等々,すべてのものの本質を適

確にとらえて全体の実在感を高めるロレンス特有の感受性があざやかに実を結

んでいるのである。「ある前奏曲」にはなかった力強さがここにはあり,「白い

靴下」に見られた素材の描写に傾きすぎた弱点がここにはない。

 この作品がロレンスの短篇全体の中で持つ意味をいくつかの点から考えて見

たい。第一に,特にジョフリー(Geoffry)を通して性を人間存在の根源として

とらえている事,第二に,乾し草雨,田園風景等の諸々の背景に入物の感情

の動き,日常生活の奥行きが密接に結びついている事,第三に,登場人物に多

様性があって全体が小さいながら有機的なドラマの要素を持っている事,の三

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点が挙げられると思う。第一の点については,これはロレンスの深い内省から,

生まれたものでは決してなく,それ以前のむしろ体験が土台となった無意識の

直感に基いているものと言うべきであって,そこに後の「馬商人の娘」(‘The

Horse Dealer’s Daughter’)の娘の体験する救いとは違った作為のないのび

やかな安堵感を与える力がひそんでいるのである。異性との肌の接触によって

人間存在の根源が揺り動かされるという考えは後のロレンスのいくつかの短篇

のテーマとなるのであるが,それが単なる思索の所産ではない事の証しが既に

この習作時代の巧まざる作品の中に見られる事は特に銘記すべき事であろう。

勿論,ジョフリーの煩悶と救いは後の作品に於けるが如く作者の深い観念に裏

付けされたものではないが故に,自然の中の一つの出来事にすぎないものとし

て描かれている趣きがあるのだが,それが却ってロレンス的な観念に不慣れな

読者に新鮮な印象を与える要素となっているのではなかろうか。この事は必然

的に先に挙げた第二点と関連して来る。やがてロレンスの描く人物や自然は特

有の観念に裏付けされた強じんな視点からのものになってゆく。そこに又ロレ

ンスの固有の資質とその担った宿命の力強さがあるのだが,それに移向する前

のロレンスの言わば天衣無縫と言って過言でない無垢の感受性を見落してしま

うならば,後のロレンスの特質そのものの礎を否定する事になるのである。後

の作品に於ては自然や風景は人物の内面の姿と密接した視点から見た象徴的に

濃密な力を持つものとして描かれる様になるのだが,この作品に於ては自然や

風景の中に人物が包まれていると言った方がより正当なのである。従って,ジ

ョフリーの救いがこの作品のテーマとは必ずしも言い難い面があって,自然の

中に現われる最後のエピソードと言った要素を否定できないのであり,それは

同時に物語の結末として格好の素材であると感じられる様に作品は書かれてい

るのである。それを作者の意図した根強いテーマと考えるのは後のロレンスの

姿に動かされすぎた読み方と言うべきであろう。それ程この作品では自然や人

物の描写が一点の曇りもない素朴な感受性によって映し出されているのであ

る。つまりこの作品はテーマによってよりむしろその感受性の素朴な豊かさ・

清澄さによってロレンス的であるという事になろう。やがて彼の作品は感受性

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にょってよりもそのテーマによってロレンス的であるという印象を強く与える

ものに変ってゆく。勿論それは,感受性が衰えるという意味では必ずしもな

く,テーマの明確さが強まるにつれて感受性が研ぎすまされ,清澄な豊かさか

ら鋭い烈しさ,厳しい強さへと変化してゆくという事である。そしてその変化

に耐え抜いていったところにロレンスの痛ましい資質と宿命を見なければなら

ぬであろう。

 「乾し草の中の恋」と同じ年,1908年のそれよりいく分後の作と思われるも

のに「菊の香り」(‘Odour of Chrysanthemums’)という作品がある。これ

は酒好きの炭坑夫である夫,そして父の帰宅を待つ妻と子の物語であるという

点で,如何にもロレンス的な作品である。だが,その夫であり父である男が死

体となって帰って来る内容からみても,この作品の素材の一つ一つと作者の実

生活の体験とを対比してみるのは恐らく本質的な意味を持たないであろう。ロ

レンスの全短篇の流れの中でこの作品のもつ最も大きな意義は,初めて人間存

在の脆弱感が人物の心に投影されている事である。これは,「乾し草の中の恋」

に於て性の問題が初めて本質的に扱われている事と合わせてロレンスにとって

新しい世界への方向を暗示した作品である。

 この作品に於て夫の死体を運んで来た男達が帰るまでのロレンスの描写の才

能は,単なる才能というより,驚くべき観察力ともいうべき正確さを有してい

る。炭坑の町とそこを貫く鉄道,薄暗くわびしい家と生活,自堕落な夫と父へ

の妻子の悲しみ,不安,怒り,絶望,夫の身に危険を感じた妻の狼狽,動揺

煩悶,死者の母と妻との心理の葛藤,亡骸の帰りを待つ一家の恐慨静寂等,

恐らくロレンスの短篇の中でも最も真実に迫るものの一つであろう。ここに見

bれるロレンスの作家としての力量は「乾し草の中の恋」に匹敵するものであ

る。だが,亡骸と淋しく残された母と妻の描写から突然視点が外的なものから

内的なものに変化するのである。描写力が衰えているというのでは必ずしもな

い。その質の変化を言うのである。しかもロレンスの文章としては,創作を始

めてから二年程の間の突然の変化であって,単に素材の変化によるものではな

く・作家の内的な深い変容から生じたと思われる変化なのである。ロレンスの

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後の文章に慣れている読者にはそれは突然の変化とは映らないかも知れない。

だが,この作品の結末の数頁の文章は後のロレンスの文章の特質に深くっなが

るものであり,それはこの作品で初めて現われたものである事を銘記しておか

ねばならない。1911年,English Reviewに掲載された時,或は1914年,『プロ

シヤ士官,その他」に入れられた時に,この結末を特にその時の思索に基いて

改稿したとも考えられる。では,その内的な変容とは一体何なのか。それは視

点の急速な転換によってこの作品の芸術的完成度に多少の不満が残された事以

上に本質的な重要性を有する問題なのである。

 母と子の描写の中にロレンスの実際の体験の跡をたどる事は余り大きな意味

はない。見事な描写を支えているものとして体験があるであろう事を考えるだ

けで充分である。又,現実にはロレンスの父親は妻子を残して死んではいない

事もさして重要な事ではない。問題は何故作品の中で作者が父親を死に至らし

めたかと言うことである。恐らくロレンスはここで初めて他者と自己,男と女

の間に横わる暗黒の溝に眼を向ける内的な圧迫に押されたのである。この作品

が単なる飲んだくれの父親をもった一家の不安や苦しみを描くだけの内容から

急激に飛躍せざるを得ない衝動にロレンスが本質的に動かされた様相を見てと

る事ができる。その溝を凝視するために父親を殺す事が必要であったのだ。死

者と対峙させる事によってロレンスは妻に生を認識する契機を与えようとして

いる。生とは他者と自己,男と女の関係の中にあるべきものとしてあり,苦渋

に満ちたその生の実相の認識に至る契機をロレンスはこの妻に与えているので

ある。死者の母と妻が亡骸と家に残された直後の描写は次の様になっている。

 立ち上って死のもつ素朴な冒し難さの中で横わっている彼を見て,二入の

女は恐怖と畏怖の念に打たれて立ちすくんだ。しばらくの間二人は視線を降

ろした艦じっと動かず,年老いた母はすすり泣いていた。エリザベスは心が

空を切るのを感じた。何と冒し難く夫は自己に集結していることか。それは

彼女には何のつながりもない存在であり,その事を彼女は認めたくなかつ

た。(中略)エリザベスは夫の亡骸を抱いて頬と唇をすり寄せた。彼女は何

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かのっながりを得ようと,耳を傾け,答えを求めている様子であった。だが

空しく彼女は追い払われてしまった。夫は堅く閉ざされた存在になっていた

のだ。

 夫の死の報が入った時,妻は冷静に泣きわめく母をたしなめていた。そこに

少なくとも妻から見た夫婦の関係をはっきり見る事ができる。だが,引用文に

ある「心が空を切る」(原文ではcountermanded)という表現の中には,夫の

亡骸に接する事によってせめて夫と自分の間に確かな実体としての結びつきが

あった事を思い出したかった妻の心理がかくされている。そして既に「堅く閉

ざされた」(原文ではimpregnable)夫の亡骸は単に死による隔絶だけでなく,

生きていた頃の夫婦の間にも暗黒の深淵があった事を妻に冷たく認識させるの

である。それは単にある夫婦の有様を描くといったものではなく,ロレンスは

明らかに人間存在の根本問題としてとらえようとしている事に留意しなければ

ならない。

 夫が自分にとって如何に他入であったか彼女には解った。一つの肉の如く

共に生きてきたこの孤立した他人の事を思うと彼女の子官に氷の様に冷たい

恐怖が凝固するのであった。生きる熱情によってぼかされていた全き孤立こ

そがすべての持つ意味だったのか。

 ここでは明らかにこの夫婦の隔絶は,ロレンスの精神の深層に於て,より本

質的な男女の性の問題に転化されている。「子宮の中の冷たい氷」という表現

は極めてロレンス的であり,人間存在の根底を震えおののかせる言葉である。

やがて妻は, 「夫と自分は単に生命が子供達へと流れ込んでゆく水路にすぎな

かったのだ」という認識にたどりつく。ζれは確かにロレンスにとって一生を

貫く痛切な実相の認識であった。ロレンスは,恐らく『虹』(“The Rainbow”)

あたりから,この実相の認識から出発した真の男女関係の模索の途につくので

ある。だが,既に「菊の香り」に於てこの深い認識に至っている事は特に銘記

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しておくべき事であろう。そして妻エリザベスにロレンスは,次の様に作品を

結ぶ事によって深淵の恐怖を乗り越えさせている。

 彼女は小さな居間のドアを締めてそこに横わる亡骸を子供達が見ないよう

に心をくばった。それから心に重く沈み込む静寂を覚えながら台所の片付け

に動き廻った。彼女は自分が生に与した事を意識していた。それが当面の彼

女の道しるべであった。究極の道しるべである死に対しては,恐怖と恥辱の

思いで身をそらしたのであった。

 この結びは『息子と恋人』(“Sons and Lovers”)の結びに於けるポールの

生の光への志向と類似しているが,勿論それ程認識が深まっているとは言えな

い。上に引用した結末の少し前に, 「彼女は自分の人生の中のこの挿話は幕を

閉じたのだ」と考えるところがあるが,それには必ずしも次の挿話に向う明確

な意欲に裏付けされたものと言い得るだけの力強さはまだない。

 以上述べた意味で「菊の香り」の特に結末の数頁はロレンスが新しい局面に

立った事を如実に示すものである。勿論この部分の文章はやや明確さに欠ける

ところもあり,同じ内容の反復もあって,ロレンスの思索が深まらない生硬さ

で急速に終らせてしまった感がある。従ってそれまでの描写の文章との多少の

違和感も否めない。だが,ここでロレンスは新しい内面の転化と共に,従来の

正統的なリアリズムの限界にぶつかったのだと言わなければならない。この結

末のいかにも慌しい深刻さは何よりもそれを感じさせるのである。勿論ロレン

スがリアリズムを脱し切るには猶数年を要するのであるが,「菊の香り」によ

って本質的に習作時代に終りを告げた事は明白であろう。

 1908年の秋ロレンスはクロイドン(Croydon)で教員生活に入る。この頃の

ロレンスは現実生活に於ける自己の存在の脆弱感といったものに悩まされてい

た様子である。この頃の作品に,小説とい)より身辺雑記とでもいうべき小

品として,「玉にきず」(‘AFIy in the Ointment’),「レスフォードの兎」

               -56一

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(‘ Lessford’s Rabbits’),「亀の授業」(‘A Lesson on a Tortoise’),の三

っがある。「玉にきず」はこの年の冬に執筆されたものの様であるが,盗みに

入った青年のうろたえたみじめな姿に教壇の自分を連想しながら,その開き直

った青年にこの世界の現実の重圧を見て嫌悪感と敗北感を味わうという筋立て

である。 「レスフォードの兎」と「亀の授業」は直接に教員としての自分を書

いたもので,給食のパンを盗んで兎を飼い売りとばしている少年のふてぶてし

さ,消しゴムを盗んだ者を決して白状しない子供達の反抗的な意地の悪さ等に

人間の現実の生活の根強さを感じて自己の存在の脆弱感を覚えるというもので

ある。いずれも手に負えない不快な現実に否応なくぶつけられた自己の無能の

認識に他ならない。ロレンスの存在の脆弱感は他者との関係の中にひそんでい

るもので,その他者の強い圧迫の実体を認める事への不安が自己への不信感と

なってくる。この頃のロレンスにはそれを内面の充実と熱情とで打破する力を

持っていなかった様である。

 こうした不安定な状況のもとでロレンスはr白孔雀』を完成し,「息子と恋

人』に手を染めていったわけであるが,1909年以後の短篇を見ても,1911年の

「牧師の娘」(‘The Daughters of the Vicar’)に至るまでの数篇には人間関

係,特に男女関係の問題の本質を捉えそうで捉えられない焦燥が影を落してい

る様iに思える。

 1909年の「現代の恋入」(‘AModern Lover’)でロレンスは自己の陥って

いるジレンマを生の儘露呈している。恐らくジェシーと別れる決意をした後の

ロレンスはその後知り合った女性達にも真の満足が得られず彼女と自分の関係

を完全に清算する事ができないでいたのであろう。この前後ロレンスは,大学

での友人ルイ,次に教員の同僚アグネス・ホルト(Agnes Holt)と,いずれも

結婚まで考えながら結局破棄するに至っている。この作品は,共に文学書を読

み,詩を作り,絵を描いていた頃の昔の恋入に復縁を迫る男が主人公となって

いる。その娘には新しい恋人が既にあって,それを冷静に受けとめるだけの知

性を主人公は与えられていて,その新しい恋人と自分の入間としての弱点美点

を彼女の前に語る皮肉っぽい余裕を見せる人物としてロレンスは自分を登場さ

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せている。だが主人公は,数年の都会生活による知性と洗練を得てはいても,

女というものの実体,男女関係の満足すべき有り方を把んでいないが故にその

目論みは見事に失敗する。プラトニックな関係ではあったにせよ最も深い結び

つきであった青春の体験に戻る事より他に彼の依るべき拠はなく,その想い出

に誘う事によってしか彼女を引きつける力は彼にはない。しかも同時に過去の

自己を否定するだけの体験と知性とを彼は持っている,そこから彼の皮肉と冗

舌が出てくるのである。彼の最も大きな失敗は昔の恋入の変化の実相を把んで

いなかった事にあり,同時にその実相を描き切っていない所にこの作品の最も

大きな欠点がある。最後に至って彼の要求を拒絶する彼女を昔の眼でしか見る

事ができず,作者も新しい眼で彼女を見る視点を未だ得ていないのである。新

しい恋人も充分に描かれているとは言えず,彼女との関係も主人公の皮肉な眼

でしか語られていない。ロレンスが自己の姿を赤裸々に見せていながら,この

作品が芸術的に飛躍し得なかったのは以上の様な理由に基づくものであろう。

 1910年には,『侵入者」(“The Trespasser”),『息子と恋人』の執筆等で短

篇を書いていない様である。1911年になって「次善の男」(‘Second Best’)

を書いている。これは恐らく女の恋の煩悶をテーマにした最初のもので,同時

に都会の洗練された人間に対して田舎の青年の素朴な野趣を初めて肯定的に見

たものであろう。更に又,ロレンスが初めて男女の問題の独自の視点をつかみ

かけた事が明らかになる作品でもある。都会の青年らしいジミー(Jimmy)は

名前しか登場しないが,主人公フランシス(Francis)は彼がスノブ(Snob)

である事を見抜いていて,そこに彼女の煩悶の一因があると見ていい。これは

「現代の恋人」の主人公に対する作者の復讐とも受けとれて,ロレンスは自分

の中にある負の要素を見極め否定する事によって真の人間の有り方をとらえて

ゆこうとしたのだと言えない事もない。この短い作品にはそうした素朴な人問

への暖か味と共感がはっきりと作者によって意図されているのである。その青

年トム(Tom)が初めて登場する場面は次の様になっている。

門の近くに青年がいて家畜の午後の餌に鎌で草を刈っていだ。娘達の姿が

             一58一

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目に入ると彼は仕事の手を休めて何気ない風に待っていた。フランシスは白

いモスリンの服を着て,いかにも尊大で冷淡に,何も気に留めないといった

様子で歩いていた。何の動揺も見せず,ただ無関心にすたすた近ずいて来る

姿に彼は苛立ちを覚えた。彼女は遠くジミーを五年も愛していて,いい加減

な生返事しか受けていなかった。この青年の存在など彼女はにはほとんど響

いて来なかったのである。

 トムは活力みなぎる体格の中背の青年であった。彼の滑らかな美しい肌を

した顔は茶色というより赤く陽に焼けていて,その赤味のために彼の陽気な

屈託のない顔は一層印象深いものになっていた。フランシスより1つ年上で

あったから,もし彼女がその気になっていればとうの昔に求婚していた事で

あろう。実際彼は,多くの娘達とおしゃべりはしても深入りする事はなく,

大抵は悶着も起さず,愛想よく何事もない日々を送ってきたのだった。ただ

彼は自分に女が必要な事は解っていた。娘達が近ずいて来ると彼は少し照れ

かくし気味にズボンを引き上げた。フランシスは珍らしく繊細な女で,それ

を思うと彼は奇妙に甘く血が騒ぐのであった。彼女はかすかに息が詰まる様

な気持にさせるのである。どういうわけか,今朝はいつにも増して彼女は彼

の心を動揺させた。彼女は白い服を着ていたのだ。ところが,元来頭の鈍い

方の彼にはその辺の察しはつかなかった。彼の心の動きは決して意識的にな

ったり,意図的になったりする事はなかったのである。

 ここに描かれている青年トム自体も素朴なら,描くロレンスの筆致も素朴で

快い共感を誘うものである。一入前の成功者気取りのジミーへの思いに絶望し

て,すべてに無関心になりかけていたフランシスの心がトムの素朴な暖か味に

解けてゆく過程をロレンスは,快活な妹アン (Anne)を問にはさみ,もぐら

のエピソードを挿入したりして,淡く巧みに描いている。二入が少々意地を張

りながら結ばれる結末はロレンスの作家としての力量を思わせるものである。

 この作品はロレンスの数ある短篇の中でも佳作に属するものと言えるが,ロ

レンス特有の錯綜した人間の深層の絡み合いから逃れているのは女性を主人

              一59一

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にして客観視することが出来たからであろうと思われる。男性を主人公にする

とどうしても自身の言わば内的なこじれが作品に投影されて短篇という狭い枠

の中で収まりがつかなくなるのではなかろうか。だが,それを敢えて行うとこ

ろにロレンズの短篇を読む意義の一面があり,ロレンスの作家としての真骨頂

の一つもあると言えるのであろう。

 「次善の男」の直後の作と思われる「当世風の魔女」(‘Witch a la Mode’)

ではそうしたロレンスの焦燥が痛ましく描かれている。これも「現代の恋入」

に似て,ある青年が昔の恋入に会いに行くという筋である。違うところは,男

には既に婚約者があり,題名の示す如く昔の恋人そのものが魅力のある存在で

ありながらも嫌悪感を抱かせる存在としてかなり克明に描かれている事であ

る。「現代の恋人」に於ては女性そのものは実体を描かれているとは言えな

い。恐らく「当世風の魔女」は女性を正面から描こうとした最初の短篇であろ

う。ここには「現代の恋人」に於けるインテリの空しい冗舌は少いが,昔馴染

んだ男によって自分の生活に生じている空虚さを満たそうとする女のエゴが描

かれる。男は女の官能に動かされているのだが,女は決して男の官能を求めて

いるのではない。女の部屋の装飾が描かれる際の二人の会話のやりとりの如

く,日常生活を色どる雰囲気の中に洗練された感覚と行き届いた知性を引き込

む事に女の目的がある。男はそれに応ずる事によって女と馴染んできたのであ

る。男は自分自身もまだ明確に意識し得ないでいる自己の根源の要求に女が無

頓着でいる事に耐え難い屈辱を覚える。一方彼は,婚約者を単なる可愛い従順

一方の女と見ていて,そこに自己の要求の本質を見ては決していない。だが,

一人の女の実体を描く事によってこの作品は「現代の恋人」よりかなり具体的

にロレンスの陥っていた情況を示しているものと言えよう。この作品には他に

いくつか題名が考えられていて,その一つが「馴染み」(‘Intimacy’)であ

る。主人公が女の家に行ってかつての馴染んだ二人の生活をなつかしむところ

があり,その時男は自分達は火遊びをしていたのだと考える。そしてロレンス

は,女の本性を改めて痛感した男が少々自暴自棄になり誤って女の服を焦して

しまうところで二入を別れさせている。それは創作上の技巧であると同時に,

               -60一

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そうした二人の馴染みに頼った関係を陥りやすい男女の悲劇として弾劾してい

るわけである。

 この作品では都会と田舎の対照は明確に出てはいないが,主人公の煩悶の中

には都会風のインテリの生活に馴染みすぎた青年の迷いが描かれていると言っ

て良かろう。従ってここに現われる都会風の言わば洒脱な会話のやりとりは,

「現代の恋人」に於ける主人公の皮肉な冗舌よりも,二人の男女の対等のかけ

合いであるだけ一層作品の中で一入相撲に終らない実在感を占めているのであ

る。そうした酒脱な会話のやりとりの中に二人の男女の馴染みの本質が現われ

ていて,それの生み出す空虚感がこの作品の意図された重要な要素の一つにな

っていると言える。この事はこの作品が「現代の恋人」より作品として優れて

いる事だけではなく,作者の内面の一層の深まりをも示すものだと言う事がで

きるのである。

 この作品はロレンスに女を描く際の一つの視点を呈示したものと言える。こ

れ以後ロレンスは自己の問題の本質に絡めて女を描く時はっきりとこの視点を

定める様になる。無論それは単に女を描くための手段ではなく,逆に男の側の

曖昧模糊とした煩悶の実体を浮かび上らせる手段でもあって,それによって人

間のあるべき姿の追求を可能にする重要な視点であった。

 「当世風の魔女」で見た女の隠れた虚偽とそれへの嫌悪感をロレンスは殆ん

ど同時に「古きアダム」(‘The Old Adam’)という軽い作品で調刺的に描い

てみせている。若い青年の熱っぽい視線を強く意識して,その緊張した隠微な

官能の通い合いの中に悦びを感じている肉感的な人妻は,帰って来た夫を軽く

あしらって,本質的にはどちらの男とも接触を拒否した生き方をしている女で

ある。やがていがみあった二人の男が格闘するに及んで女の生き方の根無しの

如き虚偽が彼女の動顛した態度の中に暴露される。女は二人の男のどちらをも

救い得ないでただ立ちすくむのである。彼女は勿論夫との本質的なつながりを

失い,青年とも冷たい関係になる。あまつさえロレンスは女中をもころがり込

んだ遺産を求めて暇をとるという仕組にしている。二人の男の格闘の因は女中

の荷物を運んでやる際に生じたのである。作者の意図はあまりに明白であり,

               -61一

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特に動顛した女が自分の以後の生活の有様を瞬時に直感して痛切な悔を覚える

時,ロレンスは「その苦悶の中に彼女は激しい喜こびを感じた」という一文を

入れて,女の虚偽の調刺を一層痛烈にしている。こうした類の女へのロレンス

の嫌悪感が如何に強かったが見てとれるのである。本質的に男を弄ぶ女と見て

いたのであろう。

 この1911年という時期の最も重要な作品でもあり,全短篇の中でも代表作に

数えるべきものに「牧師の娘」がある。これはロレンスが恐らく初めて自己の

思索の結晶を作品化したものと言って良く, 「当世風の魔女」によって定着し

かけた視点によって人物を単に否定的にのみ観るのではなく積極的肯定的にも

描こうとしたものである。ここで初めてロレンスの肯定する人間像が明確な作

者の観念によって作品の中に定着したと言っても良い。

 その視点の中核は精神と肉体のいずれに生きる依り拠を置くかという事にあ

る。この作品はロレンスの階級観を表わしたものとして言及される事が多い

が,単なる社会科学的な意味での階級というものでは決してなく,精神と肉体

という二つの要素が如何に生き方に関わっているかという点が中心であって,

階級という問題は第一義的に本質的な問題ではないのである。例えばこの作品

で,娘のルイーザ(Louisa)が家族,特に両親の社会的対面上カナダに行く事

によってしかアルフレッド(Alfred)と生きる事が出来ないという結末は決し

て作品の第一の本質ではなくて,その事は作者の筆致からもうかがえる事であ

る。

 ロレンスは都会風のインテリの生き方を中心を失った不安定なものとして何

度か描いてきたが,それは恐らくロレンス自身の自画像でもあって,この作品

によってそれを徹底的に否定して自己の視点を確立したのだと考えられる。勿

論ロレンス自身がそういう残津を捨て切ったというのではない。物の本質を見

定める観念を確立した事を言うのである。

 作者によって完膚なきまでに痛罵されるマッシー(Massy)という人物はキ

リスト教の教条によってしか生きられない存在である。教条によってしか生き

られない人物を戯画化するのは恐らくロレンス程の作家にとっては容易であつ

               一62一

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たろう。「チャタレー夫入の恋入」に於けるクリフォードと同様、マッシーを

余りにも通常の人間らしからぬ操り人形として戯画化した事にこの作品の欠点

を見る事も出来るのである。メアリー(Mary)を彼と結婚させる事によって

結果としてはその欠点は多少は補われているのであるが,メアリーを肉付けす

る事によって戯画化されたマッシーの本質の持つ人間への重荷も肉付けされて

いると言えよつ。

 教条によってしか生きられないという事はそれ自体が一つの戯画であると考

える事ができる。だが,ロレンスの思考が,或は更に彼の観察が,精神の正し

さによって生きる事それ自体までも戯画化してしまうところまで進んでいる事

が重要なのである。メアリーが置かれていた状態は階級の維持,一家の財政的

救済が本質なのではなく,マッシーの持っ精神の正しさと自己の内にある肉体

の誇りとの間の選択の問題が本質なのであり,家族や階級という問題は両親と

の関係から来る言わば第二義の問題であってロレンスの深い本旨は決してそこ

にあるのではない。彼女がマッシーの正しさを意識してゆく過程の中でロレン

スは次の様な個所を挿入している。

 彼女の肉体としての自己は彼よりも誇り高く強いものであり,彼を嫌悪し

軽蔑していた。だが,彼女は彼の道徳的な精神的な存在に掌握されていたの

だ。

彼女も自己の肉体的存在をかなり意識していて,精神の正しさによってそれ

を否定する事に一つの喜こびを感じていたのである。マッシーからの求婚を受

ける時の彼女をロレンスは次の様に描いている。

 彼女は来たるべきものを恐れ不安で身を堅くしていた。自分の肉体が立ち

上り彼を投げ捨ててしまうのではないかと思った。だが,彼女の精神は震え

ながら待ち望んでいたのだ。殆んど期待にあふれんばかりに彼の言葉を待

ち・彼を我が物にしたいと願っていたのだ。

             -63一

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 ここには精神の正しさの持つ隠微な力が如何に彼女の心を魅惑していたかが

語られていて,それは性的な魔力すら合んでいるかの様に彼女の全存在を震わ

せている。肉体を捨てて精神につく事の与える喜悦を恐らくロレンスは知り尽

していたのである。その喜悦は肉体を意識する事が強ければ強い程鋭敏に感じ

られるものであろう。ロレンスはメアリーをこの様に描く事によって自己の中

にある本性の一つを厳しく見つめ否定する必要を感じていたのである。

 メアリーがマッシーと結婚する事によって得た安定は財政上や社会的地位上

のものであるより,精神の正しさに身を委ねる事による内面的なものであっ

た。だが無論ロレンスは彼女自身の肉体を通してメアリーに復讐している。

 だが彼の中の男の性は冷く自己完結していて,全く横暴なものであった。

彼は弱々しく未発育の小男だったので,こういう事は彼女は予期していなか

ったのだ。結婚というこの取引きに何か彼女の理解の及ばなかったものがあ

ったのだ。冷静を失わぬ様彼女はじっと耐えていざるを得なくなった。自分

で自分を殺害している様な気持がおぼろげにしてきた。今になってみれば,

自分の肉体はそう簡単に捨て切れるものではなかったのだ。肉体をこんな風

に扱うとは! 時折彼女は立ち上ってこぶしを上げ,すべてを破壊し完全に

否定して死をもたらさずにはいられぬ気持になるのであった。

 この文章に盛られたロレンスの意図の激しさは痛切なものであるが,マッシ

ーを戯画化した事もあってやや抽象的説明に終っている感がある。それは単に

復讐への性急な思いによるというよりも,ロレンス自身がこうした人間の虚偽

と苦悩の実際の有様を完全に掌握していなかった事によるものであろう。その

事の認識と描写の深化は後の作品を待たねばならない。又同時にメアリーとv

ッシーに対立するルイーザとアルフレッドを描く方に力が注がれたからでもあ

ろう。だが少なくとも,自分が嫌悪する男女関係のあり方をこれ程徹底した観

点から本質的に描いた事はかつてない事であった。

 ロレンスがマッシーを戯画化し媛小化したのは単に彼に対する嫌悪感の勢’

               -64一

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に押されたからだけではない。ロレンスが肉体を謳歌する時,彼は単に抽象的

観念としての肉体を考えているのではなく,物としての肉体の有様を具体的に

考えているのである。そこからマッシーの媛小化が生まれるのであり,ロレン

スの新しい視点の確立もそこに存在する事を見落してはならない。精神に支配

されて歪曲された肉体と精神を支配して厳然とある肉体との本質的差異が初め

て認識されるに至っているのである。ロレンスの肉体讃歌は彼自身のうちにあ

る精神の正しさへの傾斜との常なる葛藤の中から生まれている事は極めて重要

であって,この事は後のロレンスの作品を理解するための不可欠の要素となっ

ているのである。

 メアリーが自ら妹のルイーザにマッシーとの結婚は自分の希望なのだと言っ

た時のルイーザの反応をロレンスは次の様に描いている。

 その時ルイーザ嬢は心の奥深く憤りを覚え,そのために言葉が出て来なか

ったのだ。この危険な状態は彼女の中に変化を生む契機となった。その急激

な変動による反動で彼女はそれまで全く信頼していたメアリーからしり込み

する様になったのである。

 メアリーの中にある精神の正しさへの反擾には無論マッシーの肉体という実

体的存在がある。そしてその反機の原動力として既にルイーザの心にアルフレ

ツドの肉体という実体的存在が印象を残している。ここでロレンスは,マッシ

』とアルフレッドという二人の男性の実体としての肉体を底辺に置いて精神の

正しさに頼る事の媛小性を拡大化してみせるのである。マッシーの肉体なしに

はルイーザーの精神の正しさへの疑惑は生じ得ず,アルフレッドの肉体なしに

は精神の正しさを乗り越える力をルイーザは持ち得なかったであろう。ところ

で・マッシーを戯画化し蟻小化した事はこの作品の欠点と見る事ができると前

に述べたが,それはそれによって精神の正しさに頼る事の虚偽性があまりに単

純イヒされすぎて・レイーザのメアリーへの反vaが作品の中で芸術的な深さを持

ち得なくなっているという事である。ルイ・一ザのこの反擾は精神か肉体かとい

              一65一

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うロレンスの煩悶の深さを芸術的に反映するものでなければならなかった筈で

あり,他の三人が肉付けされているに対して,マッシrが言わば象徴的存在と

しての要素を与えられている事からルイーザの反掻に至る経緯が余りに見えす

いてしまうのである。従って,ロレンスの思想の変容深化は別として,この作

品の芸術的価値は半ば以上ルイーザとアルフレッドの関係を描く事にあると言

わねばならない。

 ルイーザがアルフレッドと結ばれるにはいくつか乗り越えるべき難関があっ

た。その第一はマジシーと結婚したメアリーの精神の世界であり,第二は階級

の相異による生活の相異であり,第三に彼の母親の存在であった。第一の問題

については既に論じてきた通りであるが,それをロレンスは第二の問題と殆ん

ど同時に解決させているところに階級の持っ意味が暗に語られている様に思

う。青春時代からルイーザとアルフレッドは互に相手の存在に他の人間には感

じられない暖い生命観を覚えていたのであるが,彼の父,そして母の死に際し

て生活の相異による懸隔を否定できずにいて余所々々しさを感じていたのであ

った。特に下手に出るアルフレッドに対するルイーザの苛立ち,母と息子の親

密な下層階級の生活に違和感を覚える苛立ちは見事に描かれている。少々長い

が次に炭坑から帰って体を洗うアルフレッドの背中を拭いてやる心理を描いた

個所を引用する。

 結局,自分と庶民の間には違いがあるのだ。彼の腕を浸した水は真っ黒

で,石けんの泡まで黒ずんでいた。彼女には彼が入間とは思えなかった。習

慣となった機械的な動きで彼は黒い水の中をまさぐり石けんとフランネルを

取り出すと後手にそれを彼女に渡した。彼は二本の腕をたらいに真直に立て

て肩の重みを支え,体をこわばらせ従順にじっとしていた。彼の肌は不透明

な堅い白さできずもなく美しかった。次第にルイーザにはその本質が見えて

きた。これもやはり彼なのだ。彼女は魅惑された。彼女の遊離感は消え去り,

彼とその母との接触を避けようという気持がなくなっていた。これこそ生命

を持った中心であった。彼女の心臓は激しく燃えたった。この美しい明蜥な

              一66一

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男性の体の中にある窮極の目標に触れたのであった。白く,自己を越えた熱

に燃える彼を彼女は愛した。だが陽に焼けた赤みがかった首と耳はいく分彼

独特で異様に思えた。優しい気持が彼女の心に湧き起り,その奇妙な耳にも

愛しさを覚えた。一人の人間,彼女にとって彼は親密な存在であった。彼女

はタオルを置き,心に動揺を覚えて二階にあがった。彼女がこれまで入生の

中で見てきた唯一の人間,それはメアリーであり,他の人間はすべて他人で

あった。今彼女の魂は開き始め,もう一人の人間を見つめようとしていたの

である。彼女は奇妙な,心に何かをはらんだ様な気がしていた。

 人間の物としての肉体の有様そのものが他の人間の根底を動かすこうした描

写は恐らくロレンスとして初めての事ではなかろうか。これまでの男女間の引

力は主として入間の動作や表情の生み出す雰囲気にあったのである。それも勿

論ロレンス独特のものであるが,ここに初めて現れた描写は視力によって異性

の肉体そのものに触れている姿が見られるのである。やがてロレンスは直接の

肌の触れ合いに本質を求めて行くのであるが,ここで既にはっきりとその一歩

を踏み出しているのである。次にアルフレッドがルイーザに感ずる官能を引用

してみる。

 かなり強い光が束ねた彼女の髪のニケ所に当って黄金色の羽毛を重ねた様

に渋くきらきらと輝いていた。彼女のうなじは非常に白く,美しいうぶ毛が

生え,金色の髪が先細りに束ねてあった。彼は幻影であるかの様にうっとり

見つめていた。

 ここにはルイーザのアルフレッドを見る眼とやや異って,上流階級の女に対

する気後れがある。だが,彼が彼女のうなじに眼で触れている姿ははっきり見

てとれるのであり,ロレンスが,これまで言葉で介入された事のない男女の交

流の真相に既に一歩足を踏み入れている事が感じられるのである。この事は,

マツシーとメアリーを通して精神の正しさによって生きる事を弾劾した事にも

              一67_

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増して芸術家ロレンスにとって重要な意味を持つものであろう。

 アルフレッドとルイーザのクライマックスの瞬間をロレンスは次の様に描い

ている。母を失った彼の身の処し方について話し合うところである。

 彼女の顔は青白くじっと動かなかった。それは重く無表情で,顔が白くな

ればなる程彼女の髪は豊かに輝いた。彼の目前の彼女はじっと動かぬ永遠な

何物かであった。彼の心は行き所のない不安の苦悩に燃え立った。沈黙は耐

え難いものであった。彼はこれ以上彼女にそこにすわっていてもらいたくな

かった。彼は胸の内が熱く窒息する様だった。(中略)

 今この儘この家を出て行けば人間として破産である事が彼女には解ってい

た。だが彼女は帽子をピンでとめる手を休めなかった。もう行かねばならな

い。何ものかに運ばれている様だった。

 その時突然稲妻の様に鋭い苦痛が全身を焦し,彼女は自分自身を越えてし

まっていた。

 「私,行った方がいいかしら?」彼女は何かに支配されながら,猶火の様

な苦悩の中から,まるで言葉が自分の介入なしに自分の中から出て来るかの

様にたずねた。(中略)

 顔がびくつき彼はやや前にのめり,心のやり場を失って真直ぐ彼女の眼を

見つめた。彼は混頓とした苦悩の中で自分を集中する事が出来なかった。そ

して彼女は石と化した様に彼の眼を見つめ返した。二人の魂はしばしの間む

き出しの儘曝されていた。それは苦痛であった。二人はそれに耐える事がで

きなかった。彼は頭を垂れ,小さく鋭く体をびくつかせていた。

 この様な描写の中でロレンスが二人の男女を精神の自我を超えた世界に飛び

込ませている事は,例えば「当世風の魔女」の描写と比較してみれば明らかで

あろう。特に「二入の魂はむき出しの儘曝されていた」という苦痛はこれまで

のロレンスの窮極の描写であり,男と女の間にあるすべての爽雑物を捨て去つ

て純なる存在として対峙する透明で明晰な本質を浮かびあがらせたものとして

               一68_

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注目すべきである。この後事態は一挙に落着するのであるが,抱擁の中で二人

が体験する愛と陶酔,平安と情熱はすべてむき出しの魂を触れ合う事から生ま

れてくるものである。

 ロレンスがアルフレッドに乗り越えさせたものは階級と母親である。母親に

ついては,この頃既に『息子と恋人』の執筆に入っている事と考え合わせてみ

ると,この長篇の結論の一っを既に短篇の中で出してしまっていたわけであ

る。ロレンスがルイーザに乗り越えさせたのは階級と精神である。だが本質的

に見ればこの作品の主眼が精神に対する肉体の勝利にある事は明らかであっ

て,その主題の中に階級や母親の問題が包まれてしまっている事も見てとれる

のである。

 この作品に於ける階級の持っ比重は相当に大きいものであるが,余りに重要

視しすぎると,次の二っの点で釈然としない点が生ずると思われる。第一は既

に述べたマッシーとメアリーの描き方である。第二はルイーザとアルフレッド

との結婚がカナダ行きを前提として許される描写の中にどこか拍子抜けのあっ

けなさが感じられる事である。つまりこの作品はルイーザとアルフレッドの結

びつきを描く事ですべてが語り尽されてしまっていて,カナダ行きという条件

は物語に本質的に関わる事ではないのである。結論として,ロレンスが肉体の

讃歌を奏でるための過程として階級を持ち込んだ事にそれ相当の意義が認めら

れるが,決してそれ以上のものではないという事になる。その様に見ないなら

ば・ロレンスの全作品の流れからみてもこの作品の真価を見落す事になるので

ある。この作品の真価を一言で言うならば,人間の魂の本質をその肉体の中に

見出そうとしたところにあり,それはロレンスが自己の行く道をはっきり見定

めた事を意味している。同時にそれは,人商の実相を観て虚偽と真理とを見抜

く視点を確立した事をも意味している。従ってこれ以後の作品の流れは以前に

も増して明晰な跡を遺す様になるのである。例えば,長篇についても, 「息子

と恋人」,「虹」という傑作の土台は既にこの作品の中にあると言ってよい。こ

れまでのロレンスの作品は主として彼の天性そのものによって支えられていた

感があるに対して,以後の作品はその天性によって定められた宿命の道を明確

               一69一

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に自覚して進んで行くのである。時には天性そのものが抑圧される場合も生じ

る様になり,それが思索の深化と相殺されるという風に進んで行く感もあるの

である。「牧師の娘」という作品にも既にその繭芽は見えるのである。この作

品は従って,ロレンスの多くの優れた長篇小説がそうであった様に,到達点で

あると同時に出発点でもあるという意味で,一つの大きな期を画する作品なの

である。

 この1911年という年にロレンスの模索の時代は終ったと見てよい。この稿の

最後に「牧師の娘」とほぼ同じ頃執筆されたと思われる 「春の陰舞署」 (‘The

Shades of Spring’)という忘れ難い佳品について述べておきたい。これは後

に改稿されている様であるが,これまでにいくつか青春の拝情をこめた小品が

ある中で,最も成熟した完成度に達している点で興味深いのである。「現代の

恋人」と,或は「当世風の魔女」とも類似した設定で,ある都会に出ていた青

年が昔の恋人に会いに来るという物語である。この作品の主題は青春の悔恨で

ある。主入公サイソン(Syson)はやはり都会風の自意識と皮肉を合んだ入物

であるが,既に彼は冷静に事物を判断する眼を与えられている。ダンテのベア

トリーチェに対するが如く,プラトニックに恋を恋していた若き日の娘ヒルダ

(Hilda)が成熟した女となって彼の心を動揺させる。その動揺にはいくつかの

陰がさしている。女の本質を見抜けぬ儘に過去の夢を追おうとした自分の愚か

さ,肉体の生命豊かに泰然と成長した女に対する敗北感その敗北感には,女

の生命を支えるだけの生命の力が自分にない事,女の新しい恋人たる森番の素

朴な野性味への優越感の中にひそむ劣等感などが織り込まれている。 「現代の

恋入」と比較してみて,ロレンスの成長は実にあざやかである。各人物の存在

感が明晰となり,彼等の間にある感情の流れもより本質的な実相を有してい

て,徒らな冗舌が消えて作品全体の雰囲気に混然と溶け込んでいる。

 この作品に「牧師の娘」で得たロレンスの視点の確かさと深さが投影してい

る事は明らかであって,深刻な代表的作品の陰にふとこぼれ落ちた様にこうし

た佳品が点在している事はロレンスの大きな魅力の一つである。従ってこの作

品を「牧師の娘」と並んで模索の時代の終りを告げるものと見る事ができるの

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Page 25: D.H.ロレンスの短篇小説(1)...ロレンスにはかなり多数の中短篇小説がある。“The White Peacock”から “Lady Chatterley’s Lover”に至る10篇に及ぶ長篇小説の他に,既にペンギ

である。

 「牧師の娘」はロレンスが模索の時代を終えた事を意味すると同時に,通常

のリアリズムで描き得ない人間の実相を捉え始めた事をも意味している。ルイ

ーザとアルフレッドの行く先に何が待ち構えているか,魂を曝け出した苦痛を

ロレンスは決して避け様とはしなかった。もし人間に信頼しうる真理があると

すれば,その苦痛の中からしかそれを発見し得ない事を既にロレンスは信ずる

に至っているのである。ロレンスの苦闘は緒についたばかりである。

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