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Page 1: 唐代随一と絶唱された「黄鶴樓」楓橋夜泊 張 繼 月落烏啼霜滿天 月落ち烏啼いて霜天に滿つ 江楓漁火對愁眠 江楓漁火愁眠に對す 姑蘇城外寒山寺

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悠久の名作シリーズ(23)

『黄鶴樓』  崔 顥

  唐代随一と絶唱された「黄鶴樓」

 黄鶴樓    崔 顥

昔人已乘白雲去 昔人已に白雲に乘じて去り

此地空餘黄鶴樓 此の地空しく餘す黄鶴樓

黄鶴一去不復返 黄鶴一たび去って復返らず

白雲千載空悠悠 白雲千載空しく悠悠

晴川歴歴漢陽樹 晴川歴歴たり漢陽の樹

芳艸萋萋鸚鵡洲 芳艸萋萋たり鸚鵡洲

日暮鄕關何處是 日は暮れて鄕關何れの處か是なる

煙波江上使人愁 煙波江上人をして愁しましむ

   

意 解

 (伝説によると)昔の仙人はすでに白雲とともに黄鶴に

乗って去り、今、この地にはただ空しく黄鶴樓がそびえて

いるばかりである。 

 仙人が描き、それに乗って去ったという黄鶴はそれっき

り帰って来ず、白雲のみが千年前と同じようにゆったり浮

かんでいるばかりである。

 (樓から眺めると)晴れ渡った川の対岸にある漢陽の町

の樹木もはっきり望まれ、また芳しい草が盛んに茂ってい

る鸚鵡洲も近くに見える。

 (ただ自分は漂泊の身)日暮れになると故郷はどの方角

にあるのだろうと思われ、夕靄が立ち籠める長江の風情が

私を無性に悲しませる。

評判悪しき作者の青年時代

 

七〇四?〜七五四。汴べ

州(今の河南省開封県)の人。

七二三年に進士に及第し、監察御史として河南節度使の幕ば

下か

に入り、山西省北部にも赴任し軍旅の生活をよく詩にし

た。三十八歳ころから尚書省吏り

部ぶ

司勲員外郎(従六品上)

で官を終わっているが、そのほか詳しいことは分からない。

酒、博打、放蕩の青年時代を送り、軽薄な人物評がある。

しかし晩年は一転して風格も備わり凛とした作品を多く残

している。

「黄鶴樓」に見る三つの逸話     

▽その一 「黄鶴樓」と仙人の伝説

 昔、この地に辛という主人が商う酒屋があった。毎日の

ように老人が来ては無銭で酒を飲んで行くが主人は嫌な顔

もせず飲ませていた。半年ほどして老人は酒代と言って橘

の皮で黄色の鶴を壁に描いた。ところがその鶴が客の歌に

合わせて踊りだすというので評判になり、店は大繁盛し、

辛は巨万の富を築いた。十年後、老人が再来し、笛を吹く

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と白雲が湧き起こり、彼は白雲とともにその鶴に乗って飛

び去った。辛はお礼に記念の楼を立て「黄鶴樓」と名付け

たという。(B2―1参照)

▽その二 鸚鵡洲に秘められた悲話

 

後漢末の禰で

衡こう

なる人はある要人の紹介で三国時代の覇

者魏ぎ

の曹操に仕えたが、禰衡の傲慢な性格のため曹操を怒

らせ、荊州(今の湖北省襄陽)の大守劉り

ゅう

表ひょう

という人物に

預けられた。ここでも厄介者にされた衡は同省の大守黄祖

に身柄を移された。ところが祖の息子射にたいそう気にい

られ、衡をある宴会に侍らせた。その席で射はある人から

祝賀として鸚鵡を贈

られた。衡はこれは

めでたいことだと即

座に「鸚鵡の賦」を

作って奉った。見事

な出来栄えで人々は

衡のまたとない才能

を褒め称えた。しか

し素行が収まらない

彼は、後日長江の船

上での宴席で黄祖を

罵ののし

ったかどで死罪と

なり、この中洲に葬られた。そこで地の人々は憐れんでこ

の洲を「鸚鵡洲」と呼ぶようになった。(出典「一統志」)

 作者崔顥はこの悲運の人に自分を重ねたのではなかろう

か。彼もまた若い頃から博打と酒が好きで、さらに美人好

みで飽きっぽく妻を四、五回も変えたという。官位も従六

品と言えば中程度であり、むしろ進士に及第した者として

は陽の目を見なかった身分である。世間に入れられない性

格と天賦の才能の持ち主に共鳴するものがあったのではな

いかという鑑賞も成立つ。

▽その三 李白も脱帽した名作「黄鶴樓」

 

宋の厳げ

羽う

が「滄そ

川せん

詩話」の中で「(黄鶴樓の詩は)唐人

の七律の詩、当ま

に此れを以て第一と為すべし」と述べてい

るように第一級品であることには間違いない。同じ宋の敬

優孝の「唐詩紀事」には「李白が後に黄鶴樓を訪れた時『眼

前に景あれども言ふを得ず。崔顥の類詩上頭に在り(もっ

とも優れている)。』と言い、崔顥以上の詩は作れないと述

懐している。」と記している。その後李白は追放の身なが

ら金陵の鳳凰臺を訪れた時に崔顥に対抗しようとして七律

を作っている。その「鳳凰臺」をみると(B1―2)首聯

が「鳳凰臺上鳳凰遊び鳳去り臺空しくして江自ずから流る」

で始まり、一方「黄鶴樓」では「昔人已に白雲に乗じて去

り此の地空しく余す黄鶴樓」とあり、両者とも懐古的背景・

黄河

長安

洛陽

漢水

漢陽

武昌

黄鶴楼

洞庭湖

長江

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情景・趣きがきわめて類似しており、また「白鷺洲」と「鸚

鵡洲」の地名を織り込んだ構成の仕方、そして尾聯ではど

ちらも故郷に思いをはせ、しかも「人をして愁しましむ」

の同表現。まさに崔顥の「黄鶴樓」と二重写しになってい

る。崔顥を越えることができなかったと言う李白の一面を

見るようである。

現在の黄鶴樓

 

現地を訪れた会員は多いと思いますが、敢えて記しま

す。黄鶴樓は湖北省武昌市の長江と漢水が合流する地点

の河畔にあり、小高い丘(蛇山)の上に立つ五層の楼

で、日本の五重の塔を五・六倍太らせたような大きな建

物である。屋根の反りが文字通り鶴の羽根を広げたよう

になっていて見事である。写真によく見る現在のものは

一九八五年に完成され、六代目か七代目で、それとは全

く外観の違う過去の楼の模型が一階に陳列されている。

高さは五十一メートルありこれまでより最も高くてまた

大きい。コンクリート製でその一階には土産物屋があり、

見上げると崔顥のこの詩が陶器製の大きな壁画として描

かれているのが迫ってくる。最上階まで登ると長江を展

望することができる。エレベーターも付いている。漢陽

の町は対岸にあるというから、あのあたりだろうと見当

はついたが、鸚鵡洲らしいものは眼前には見えない。漢

陽県武昌の西南にある中洲と解説書にあるから近い所に

あるにはあるのだろう。

訓読上の三つの疑問

▽その一 「黄鶴」をなぜ「おうかく」と読むのか。

 

以前から会員の間でこのことは語られている。「伝統だ

から」らしいが、どの書物にも「くゎうかく=こうかく」

となっている。「くゎう」は漢音で「おう」は呉音である。

一般的には漢音を採用することからすれば「こうかく」が

正当読みだろう。

▽その二 一句目は「乗白雲」なのか「乗黄鶴」なのか。

 「全唐詩」には「乗黄鶴」とあり「唐詩選」「三体詩」には「乗

白雲」とある。簡野道明氏の「唐詩選詳解」には「全唐詩」

の方を良しとして「……その方がいかにも自然の妙を得て

いる」と解説し、も

との「白雲」をわざ

わざ「黄鶴」と改字

して載せている。ま

た別の解説書にも「同

字を嫌う近体詩であ

るが、『黄鶴』の二字

があえて最初の三句

に繰り返されている

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ところに奇抜さがある。一句目で黄鶴が去ってしまうので

二句目の『空しく余す黄鶴樓』という表現が効いてくるの

である。」とあって、作詩の規則を越えても「黄鶴」の方

が趣きがあると説いている。

▽その三 第八句は「人をして愁(うれ)へしむ」と訓読

 するのでは? 簡野氏をはじめ大修館書店、明治書院本

などにもすべて「愁(うれ)へしむ」である。漢和辞典に

も「愁」に「悲しむこと」という字解はあっても、「かなしむ」

と訓読するものはない。「かなしむ」と読ませるのも本会

の伝統なのかと思う。

悠久の名作シリーズ(24)

『楓橋夜泊』  張 繼

  旅愁をうたった詩で、古来より

    有名であるが解釈にあたっては諸説がある

 楓橋夜泊   張 繼

月落烏啼霜滿天 月落ち烏啼いて霜天に滿つ

江楓漁火對愁眠 江楓漁火愁眠に對す

姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外寒山寺

夜半鐘聲到客船 夜半の鐘聲客船に到る

作 者

 

湖南省襄陽の人で、生没年は詳らかではないが、天宝

十二年(七五三)に進士の試験に及第しているから、生

まれたのは多分七二〇年代であろうか。博識で鎮ち

戎じゅう

軍幕

府の属官や塩鉄判官などを経て、大暦年間(七六六〜

七七九)に検け

校こう

祠し

部ぶ

員外郎の官に就く。この年代からみ

ると、杜甫の亡くなった七七〇年以降も生きていたこと

になる。

 杜甫が江南を彷さ

まよ徨いながら絶望的な望郷の悲哀をうたっ

ていた年間は、美しい郷愁の詩句を生むこのような詩人た

ちによって、中唐の幕が開かれていたのである。

要 旨

 秋の夜、楓橋にて船中に一泊し、寂しい自然の中で鐘声

を聞いて、しみじみと旅愁を味わった。

意 解

 月は沈み、鳥の啼き声が聞こえ、冷たい霜の気配が、あ

たり一面に満ちわたる。岸辺の紅葉した楓と漁火がうつら

うつらと眠られぬ目に映る。

 (そのとき)蘇州の町はずれにある寒山寺から、夜半を

告げる鐘の音が、わが乗る船に聞こえてきた。(旅の夜は

ことさら長く思われることだ)

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