『楓橋夜泊』 夜半鐘聲到客船 姑蘇城外寒山寺 江楓漁火對愁 …楓橋夜泊...

4
― 79 ― 24 滿滿目次へもどる 次ページへ

Upload: others

Post on 04-Sep-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 『楓橋夜泊』 夜半鐘聲到客船 姑蘇城外寒山寺 江楓漁火對愁 …楓橋夜泊 張 繼 月落烏啼霜滿天 月落ち烏啼いて霜天に滿つ 江楓漁火對愁眠

― 79 ―

ところに奇抜さがある。一句目で黄鶴が去ってしまうので

二句目の『空しく余す黄鶴樓』という表現が効いてくるの

である。」とあって、作詩の規則を越えても「黄鶴」の方

が趣きがあると説いている。

▽その三 第八句は「人をして愁(うれ)へしむ」と訓読

 するのでは? 簡野氏をはじめ大修館書店、明治書院本

などにもすべて「愁(うれ)へしむ」である。漢和辞典に

も「愁」に「悲しむこと」という字解はあっても、「かなしむ」

と訓読するものはない。「かなしむ」と読ませるのも本会

の伝統なのかと思う。

悠久の名作シリーズ(24)

『楓橋夜泊』  張 繼

  旅愁をうたった詩で、古来より

    有名であるが解釈にあたっては諸説がある

 楓橋夜泊   張 繼

月落烏啼霜滿天 月落ち烏啼いて霜天に滿つ

江楓漁火對愁眠 江楓漁火愁眠に對す

姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外寒山寺

夜半鐘聲到客船 夜半の鐘聲客船に到る

作 者

 

湖南省襄陽の人で、生没年は詳らかではないが、天宝

十二年(七五三)に進士の試験に及第しているから、生

まれたのは多分七二〇年代であろうか。博識で鎮ち

戎じゅう

軍幕

府の属官や塩鉄判官などを経て、大暦年間(七六六〜

七七九)に検け

校こう

祠し

部ぶ

員外郎の官に就く。この年代からみ

ると、杜甫の亡くなった七七〇年以降も生きていたこと

になる。

 杜甫が江南を彷さ

まよ徨いながら絶望的な望郷の悲哀をうたっ

ていた年間は、美しい郷愁の詩句を生むこのような詩人た

ちによって、中唐の幕が開かれていたのである。

要 旨

 秋の夜、楓橋にて船中に一泊し、寂しい自然の中で鐘声

を聞いて、しみじみと旅愁を味わった。

意 解

 月は沈み、鳥の啼き声が聞こえ、冷たい霜の気配が、あ

たり一面に満ちわたる。岸辺の紅葉した楓と漁火がうつら

うつらと眠られぬ目に映る。

 (そのとき)蘇州の町はずれにある寒山寺から、夜半を

告げる鐘の音が、わが乗る船に聞こえてきた。(旅の夜は

ことさら長く思われることだ)

 目次へもどる▲ 次ページへ▲

176
長方形
Page 2: 『楓橋夜泊』 夜半鐘聲到客船 姑蘇城外寒山寺 江楓漁火對愁 …楓橋夜泊 張 繼 月落烏啼霜滿天 月落ち烏啼いて霜天に滿つ 江楓漁火對愁眠

― 80 ―

鑑 賞

 楓橋は、江蘇省蘇州の西方約五キロメートルにある橋で、

大運河に通ずる小川に架かる。もとは封橋といったが、張

繼の「楓橋夜泊」の詩に因んで楓橋と言われるようになっ

たとか、封橋の辺りに楓が多く見られたことから、同音の

楓橋の字が当てられるようになったともいう。

 また、当時では船旅をして、夜になると城門外の運河の

岸に船を繋いで夜泊(船どまり)をした。

 起句は、月が沈んだ夜景と、冷たく厳しい気配が作者を

つつみ、また闇の中を鋭く悲しげな烏の啼き声が聞こえて

くる。視覚と聴覚に鮮明に訴えながら詠み込んだ表現は作

者の旅愁をかきたてる大きな効果になって、旅の夜に鋭敏

になった作者の孤独な気分を示している。

 承句は、前句を受けて、紅葉した楓の赤と暗い川面に漁

火が赤く映え、旅の愁いで寝つかれない作者の目に映じて

いる。この二つの赤い色が、月が沈んだ暗闇の黒の中で、

この句でも視覚的な効果に訴えている。そして江楓と漁火

をじっと見つめていることを「對愁眠」の「對」で表現し、

作者をより孤独な気分にさせている。

 転句に出てくる姑蘇は今の水都蘇州で、呉王夫差が姑蘇

臺という宮殿を造ったことから姑蘇という名がある。また

寒山寺は楓橋の東四〜五百メートルにある寺で、宋代では

楓橋寺ともいわれていた。初めは「妙利普明塔院」といわ

れており、

唐の貞観

年間(六

二七〜六

四九)に、

寒山とそ

の弟子の

拾得(唐

の僧で、文殊、普賢の生まれかわりといわれる)がここに

留まったことから寒山寺という言い伝えがある。

 

なお、この寒山寺は戦火などで何度も焼け、現在は清

末に再建され、清代の兪樾の筆による「楓橋夜泊」の詩

碑がある。また、名詞のみで構成されているこの句は、

感情はないにもかかわらず、呉王夫差の都が有った姑蘇

の古跡と、姑蘇城外の「外」や、寒山寺の「寒」の字な

どから引き出される旅愁を、しみじみと伝える大きな効

果となっている。

 結句の「夜半鐘」については、宋の歐陽修が「夜中には

鐘を打たないものだ」と批判をしたが、その後、夜半に鐘

が鳴ったとうたった作例が多くあるという反論が出た。

 

このような議論が出たことで、この詩は非常に有名に

なった。

 目次へもどる▲ 次ページへ▲

Page 3: 『楓橋夜泊』 夜半鐘聲到客船 姑蘇城外寒山寺 江楓漁火對愁 …楓橋夜泊 張 繼 月落烏啼霜滿天 月落ち烏啼いて霜天に滿つ 江楓漁火對愁眠

― 81 ―

諸説・探求

 前記の鑑賞と重複するが、もう少し探ってみたい。

 蘇州には、半夜鐘という鐘が有ったとか、その町の寺々

の中では承天寺だけが半夜に鳴らし、他の寺は五更に鳴ら

したとかいわれ、「烏啼」は烏啼山のこととか、烏啼橋と

いう説とか諸説がある。要は起句と結句が暁のことか、も

しくは夜半のことかがこの詩の解釈のポイントになったよ

うだ。諸種の研究書に見える説を利用させていただくと。

 まず起句は、暁に近い情景ととることは可能で、月が沈

む時刻は明け方に近いことを示すのが普通であろう。また、

この月が上弦の月か、下弦の月か、もしくは満月かによっ

て時刻が異なるといえば、この詩にそれを判定させる決め

手になるものはない。 

 また、烏が啼くのはいつか。たとえば李白の「黄雲城辺

烏棲まんと欲し帰り飛んで啞啞と枝上に啼く」(烏夜啼)

は夕暮れに寝ぐらに帰ろうとして啼く烏。楊巨源の「城頭

夜半声啞啞たり」(烏夜啼)は真夜中に啼く烏。陳後主の「烏

啼き漢

あまのかわ

没し、天応ま

に曙あ

けんとす」(棲烏曲)は暁の烏。と

いうように烏はいつでも啼いている。

 

烏が夜に啼くのは吉兆がある前触れであるとする言い

伝えが中国にはあるようだが、詩の烏は別れた人を思う

ときのように、悲哀をそそるものとしてうたわれる場合

が多い。

 次の「霜満天」これはいつか。古来中国では、霜は天か

ら降るものと考えられており、「淮え

南なん

子じ

」という書物には、

青女という天の神が霜雪を司ると見える。天上から降りて

きた霜が、地上におりしく前に、空中に冷ややかな気配を

満ちたらせている。それを肌に感じたとすれば、どうやら

夜明けに近いとおもわれるが、これも短い時間の中に限定

する決め手はない。このように見ると起句の解釈によって

夜中とみるか、夜明けととるか、諸説の出てくるところで

ある。

 結句の解釈はどうか。前記した歐陽修の指摘とは違って、

胡こ

仔し

が例証とした、作者の親友の皇こ

甫ほ

冉ぜん

の「秋夜厳げ

維い

宅に

宿すの詩」に(秋深くして水に臨む月、夜半に山を隔つる

鐘)の詩的真実によって真夜中の鐘であるという説を有力

視したい。

 月は沈み、烏が啼いて

霜の降る気配を感じて、

浅いまどろみから覚め、

もう夜が明けたかと錯覚

したのであろう。そこで

江楓や漁火が目に映り、

そこへ姑蘇城外の寒山寺

から夜半を告げる鐘の音

が聞こえてきて、今はま

寒山寺

 目次へもどる▲ 次ページへ▲

Page 4: 『楓橋夜泊』 夜半鐘聲到客船 姑蘇城外寒山寺 江楓漁火對愁 …楓橋夜泊 張 繼 月落烏啼霜滿天 月落ち烏啼いて霜天に滿つ 江楓漁火對愁眠

― 82 ―

だ夜中であったのかと再び旅愁のわびしさが言外に余情を

もってひびいてくる。と解釈については可能な限り発掘を

試みたつもりですが、どのようにご判断されるでしょうか。

今回の詩においても、先学からの有益な啓発を受けつつ、詩

趣が私たちの心に浸みこんでくれば、これも唐詩の世界を

説き明かすロマンではないでしょうか。

悠久の名作シリーズ(25)

『春  暁』  孟 浩然

  春の季語に 

  春ともなれば私達がくちずさむ「春眠暁を覚えず」は唐

詩の中でも広くよく親しまれ、日常生活化された語句では

ないだろうか。

 俳句の世界では「朝寝」といえば春の季語ですがそれは

孟浩然の五言絶句に由来するようである。

 俳人の水原秋桜子の句がある。

 朝寝せり孟浩然を始祖として

 春  暁

孟浩然

春眠不覺暁

春眠暁を覺えず

處處聞啼鳥

處處啼鳥を聞く

夜來風雨聲

夜來風雨の聲

花落知多少

花落つること知んぬ多少ぞ

意 解

 こころよい春のねむり、うっかりねすごして夜のあけた

のも知らない。目が覚めてみれば、朝はすでにみちている

らしく鳥の鳴き声が、あちこちから聞こえる。ベッドの上

に横たわったまま、きようはよい天気であることを思う。

 しかし昨夜から今朝にかけては相当の嵐であった。嵐の

あとのきょうの日よりは、いっそう快いであろう。しかし

気にかかるのは、咲きほこっていた庭の花。昨夜の嵐でど

れだけ散ったことであろうか。

隠棲閑居は悠々自適か

 当時、詩人を含む知識人はおおむね高級官僚であって出

勤時間も早い。朝廷への出仕は早暁だから夜の明けたこと

も知らず春眠をむさぼることは無理で、宮仕えを辞してこ

そ可能な心境だろう。こんなのどかな詩を詠んだ作者は功

成り、名を遂げた豊かな境遇の人だったのだろうか。

 孟浩然(六八九―七四〇)盛唐の詩人。湖北省襄陽の人。

若くして節義を好み、交遊を重んじ、人の艱難をわが身を

顧みず救った。弟の洗然と共に文名は知られていた。

 目次へもどる▲ 次ページへ▲

176
長方形
176
長方形