讀「釋南」 - 立命館大学立命 白川靜記念東洋 字 究紀 第六號 三九...

西

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  • 立命�白川靜記念東洋�字���究紀� 第六號

    三九

    讀「釋南」

    ─白川�字學の原點に�る(五)

    ─高

     島

     �

     夫

    はじめに

    今回は「南」の字源を論證した白川靜「釋南」を讀む。南は言うま

    でもなく方位を示す�字である。方位は特定の�體�な物の形で表わ

    しえない抽象�念であるから、それを表��字で示すことはできな

    い。何らかの間接�手段を用いて表示する工夫が必�である。ところ

    が、甲骨�は象形による表��字がほとんどであり、�字と�字とを

    組み合わせて新しい�字を作る會�や形聲という�字段階にはまだ

    入っていない。いわば生まれたての象形による表��字を中心とした

    �字體系である。では象形による表�という方法で表わしえない言葉

    はどのような手段を用いて表示するのか、という問題にここで�面す

    る。中國語は言語形態の觀點からは孤立語に分�される。孤立語とい

    うのは、日本語(膠�語)や歐米語(屈折語)のような語の活用がな

    く、�に語順によって�法��能が果たされる言語のことである。言

    い換えれば語尾の多樣な變�を示すための、表�に特�した假名やア

    ルファベットのような�字をさほど必�としないのである。世界の�

    字を眺め渡した場合、表��字から出發した�字でも、表��字で表

    わせない言葉には表�という手段を用いざるをえなくなっていく。そ

    こで象形字を略體�した表�專用の�字が考案されるという�をたど

    ることになる。しかしこれはみな孤立語以外の場合である。甲骨�の

    場合、象形による表��字でもってほとんどカバーできる�字體系で

    あるから、殘された少數の言葉を表現するためには、表�という手段

    を部分�に�用すればよいのである。いわば例外�な�用である。し

    かし表��能に特�した特別な�字を考案しないまま表�という手段

    を用いるわけであるから、別の�字を借用するという方法を�る。借

    字とか假借と呼ばれる方法である。甲骨�の場合、王室およびその�

    邊に關わることを占うという儀禮の記錄であるから、かなり多�な內

    容を持つとはいえ、そこに用いられる語彙もある�度限られている。

    また儀禮を示す�字の�度も高い。したがって表�という手段を用い

    なければ表わせない言葉はかなり限られてくる。その例外の一つとし

    て方位關係の語彙があるのである。東・西・北なども借字による表語

    である。しかし今回白川�士が他の方位語とは別に「南」という語(�

  • 讀「釋南」

    四〇

    字)に限って考證を展開されるのは、別の必�性からである。それは

    「南」という�字が別の用法を持っているからである。

    後に�體�に言�することになるが、甲骨�に用いられる「南」と

    いう�字は方位を示す場合だけではない。�先を祭る際に他の動物と

    ともに犧牲にも用いられることがある。また、南方の國あるいは��

    �地域を指している場合もある。こうした多樣な�味をもつ「南」で

    あるがゆえに、字源論が�功しにくい�因になっていたのである。

    「南」という語の字源を多角�に考察することが求められるゆえんで

    ある。

    「釋南」は初め「甲骨學」第三號に揭載され、後に『甲骨金�學論叢』(油

    印本)に再錄された。再錄された理由を�言されないが、私の推測で

    は、「甲骨學」に揭載されるにあたって、�字學に緣のない人が淸書

    を擔當されたのであろうか、�字の�記が驚くほど多い。これが再錄

    の本當の理由ではないかと思われる。後に『甲骨金�學論叢』に收錄

    される際に、第一章「殷と南方��」が�られた。いずれ�々���

    『白川靜�作集』別卷『甲骨金�學論叢』(下)に收錄されるはずだが、

    今の時點では未刊のため、もっぱら油印本『甲骨金�學論叢』のテキ

    ストを用いる。�られた第一章は殷と南方との關係を當時の考古學方

    面の知見に基づいて描かれた章である。�報として今も�效であろう

    と思われる點についてだけ略�しておきたいと思う。

    「殷と南方文化」の要點

    ・古い時代から河南の東部や北部に定�していた殷人は、早くから

    東夷・東南夷と相接していたものかと思われる。

    ・殷の西方の�衞は�陸附�の戉までであって、それから西方には

    一時�に支配が�ぶことはあっても、殷族が自ら陝西の地に入る

    ことはついになかったのではないかと考える。殷が西方の��に

    接しうるのは、�として河北西部と山西南邊との二方面であった

    が、いずれも多くは戰鬪を�じて接するという對抗�な關係にお

    いてである。

    ・南方との關係は、西方にもまして重�であった。南方という�味

    を、ここでは江蘇・安�・河南南部の一帶を汎稱するものとして

    おく。江蘇・安�には東南夷がいたが、これは東夷と同種族の�

    �民族であったと思う。河南南部から長江の一帶にも他の一系が

    あって、これは卜辭では南、『論語』や『楚辭』に南人・南夷と

    呼ばれているものである。

    「釋南」の構成

    一 南の初義に關する諸家の說と問題點

    二 人身犧牲としての南

    三 南の本義

    四 木に�けた樂�はいかなるものか?

    五 銅鼓について

    六 銅鼓の�源地

    七 「南」字は銅鼓を吊るした形

  • 立命�白川靜記念東洋�字���究紀� 第六號

    四一

    一 南の初義に關する諸家の說と問題點

    例のごとく『說�解字』の引用から始まる。「南、艸木至南方�枝

    任也。从喞溥聲。」(南、艸木南方に至りて枝に任せる�るなり。喞溥の聲

    に从ふ。)とある。枝が鬱蒼と生い茂る狀態をいうものであるが、東南

    西北を季�の�行に見立てて「南」を「夏」に位�づけ「夏」と同義

    のように�っているのが特徵�である。當時流行した陰陽五行の思想

    に基づいて解釋しようとしたものであろうが、そのような觀念�な解

    釋を施さねば解釋できないということであろう。許愼の字源解釋にこ

    の種のものが多いのは、やはり甲骨金�を見ることのできなかった時

    代の人の限界である。「南」字についても、一旦『說�解字』を離れ

    甲骨金�の字形に卽して考えなければならないという�第になるので

    ある。そのような立場から「南」字を解いた代表�な先學として、郭

    沫若・��・加�常賢などが擧げられる。

    [加�常賢說]

    加��士は、南の字形は幬帳にして�は亦聲であるというが、問題

    は�の三點に歸する。

    は幬帳の形であるか?

    ②下の�形の字は�字であるか?

    ③かつ亦聲であるか?

    (�)形聲字のうち、聲符にその原義を含むものを〈亦聲〉と言う。

    ①の解釋の仕方はかなり複雜な手續きを踏む。先ず、說�解字の解

    に「濃其�也」(

    濃は其の�りなり)

    としているのを�って、これを

    南字の上部と同字で幬帳の象と見なす。ついで�を亦聲として南方

    溫�の�を表わしたものとすることによって、「帷幕內ノ溫�ノ�」

    とする解釋を�くのである。中央に�をもつ帷幕といえば、もはや幢

    蓋や几帳の�ではなく、すでに�居形式の問題となる。しかも帷幕は

    朔北に最も廣く行なわれたものであるから、殷人が南方の�を寄せた

    �字としては、あまりふさわしくない。

    ②③については、�・靑の字は卜辭に見えず、金�にはじめて見え

    る�字である點ですでに無理があるが、字形から考えても南字の下部

    は井中に�の象があることを示したものとはいえない。さらにこれら

    上下の字形を合わせて會�とし亦聲とする解釋は、容易に�立しがた

    い。[�

    �說]

    王國維がと釋したのを排して、孫詒讓の案の說を是としている。

    視を轌となし�となして、「形聲�に變ず」というような大膽な議論

    にしてしまったのは非常に惜しまれる論だという。

    [郭沫若說]

    初め鎛鐘說を立てていたが、その後自說を變えてしまった。��氏

    の說を見て自說を棄て、新たに庵字說を出した。�氏の字解を�け、

    を詞字とする。ただ�としたのでは用牲の例に�じがたいので、こ

  • 讀「釋南」

    四二

    れを庵すなわち小豕と解する。しかし卜辭には「十豕

    詞」のよう

    に豕と詞とを竝稱するものがあって落ち�かない。その��說の方は

    庵は動物の�子を泛稱する語であるという。しかし「南」が南方の�

    味にも用いられることについては觸れない。

    以上が當時の字說の�なものだが、それまでの字說を整理すること

    によって、問題點を析出するわけである。これらの字說が十分でない

    のは、方位を示す「南」字が犧牲にも用いられるという點を說�でき

    ない片手落ちの說になっている點にある。白川�士はこの兩方の�味

    を充たすにはいかに考えるべきかという方向に�んでいく。そこで先

    ず人身犧牲としての「南」とは何か? ということから入るのである。

    二 人身犧牲としての南

    甲骨�の中に人身犧牲のことがかなり多數出てくるのだが、中國の

    �字學�たちは、甲骨�の中に人身犧牲を見ようとはしない。しかし

    殷代から五〇〇年以上も下る春秋時代ですら人身犧牲が行なわれてい

    たことが『春秋左氏傳』の記事から分かるわけで、その紹介から始め

    られるのである。なお、��しておきたいのは、ここに見える「用いる」

    という語は、漠然とした「使用」の�味ではなく、「犧牲として用いる」

    の�味だという點である。これは甲骨�以來の用法である。

    一、宋公は邾の�公に鄫子を執えしめてこれを�睢之�に〔犧牲と

    して〕用いた。(僖公一九年)

    (�)この�睢之�というのは臨沂の東界にあって、�人�といわれ

    ていたものだということである。

    二、楚子が蔡を滅ぼすや、蔡の世子を執えて歸り、これを〔犧牲と

    して〕用いた。(昭公一一年)

    (�)公羊傳によると、これを�防に(犧牲として)用いたとあるから

    いわゆる人�にしたものであろう。

    三、�子が莒を伐って俘を取り、これを亳�に〔犧牲として〕用い

    た。(昭公一〇年)

    四、魯は河南北部の長狄と戰って長狄喬如を獲て、その首を魯の郭

    門である子駒の北門に埋めた。さらに齊の襄公もまた長狄を

    破って長狄榮如を獲て、その首を齊の邑・�首の北門に埋めた。

    (�公一一年)

    卜辭には牲獸とともに犧牲に供せられているものに羌と南とがあ

    る。先ず羌の例を列擧する。濃を動詞として用いる場合、犠牲に用い

    るの意を示す。

    ○辛巳卜行貞、王�小辛、彖

    伐羌二、卯二眈、�尤。[H

    23106

    辛巳卜して行貞ふ、王小辛を�するに、�して羌二を伐ち二眈を卯ころし

    て、尤とが�きか。)

    ○甲午卜行貞、王�□□、�伐羌三(二)、卯眈、�尤。[H

    22569

    甲午卜して行貞ふ、王□□を�するに、�して羌三を伐ち、眈を卯して

    尤�きか。)

  • 立命�白川靜記念東洋�字���究紀� 第六號

    四三

    ○癸卯卜貞、濃于河三羌、卯三牛、燎三牛。[H

    1027

    正]

    癸卯卜して貞ふ、河に濃するに三羌をもちひ、三牛を卯し、三牛を燎

    せんか。)

    ○癸卯卜貞、燎河一牛、濃三羌、卯三牛。[H

    1027

    正]

    癸卯卜して貞ふ。河に燎するに一牛をもちひ、三羌を濃して、三牛を

    卯さんか。)

    ○�寅卜、又伐于司、忆卅羌卯卅豕。

    (�寅卜す、又司を伐ち、卅羌を忆し卅豕を卯さんか。)[H

    32050

    ○�午卜貞、畢奠歲羌卅卯三、�一牛、于宗用。六�。[H

    320

    �午卜して貞ふ、畢奠歲するに羌卅をもちひ三を卯さんか、一牛を�

    するに、宗において用ひんか。六�。)

    ○甲寅卜、其�方一羌一牛九犬。[H

    32112]

    (甲寅卜す。其れ�方するに一羌一牛九犬をもちいんか?)

    これらの辭例において羌は牛羊犬豕とともに犧牲に用いられてい

    る。郭沫若氏はこの羌を羌人と解することができないと見えて、羅振

    玉氏の「羊」という說を�けて「狗」と解したりするのだが、そうす

    ると「貞、方�一羌二犬卯一牛」[H

    418

    ]のように羌と犬とを一緖に

    用いる例があって�立しない。また別に、

    ○�卜、�甲寅、畢御于大甲、羌百羌卯十眈。[粹・190

    �卜す、�甲寅す、畢大甲を御するに、羌百羌をもちひ十眈を卯さん

    か。)

    ○丁酉、宜于、羌二人卯十牛。(丁酉、に宜するに、羌二人をもち

    ひ十牛を卯さんか。)[粹・411

    という例もある。だがこの場合「羌百羌」「羌二人」と記されてい

    るのを「狗百狗」「狗二人」としなければならなくなっておかしな讀

    み方になる。そこで郭氏はまた「磔」という新しい解釋を立てるのだ

    が、今度は、一旦否定したはずの人牲を�めたことになってしまう。

    白川�士はさらに羌人を捕獲する「王�伐羌」(王�きて羌を伐たん

    か。)[H

    6617

    甲]や「王�令五族伐羌方」(王ここに�して五族に令して

    羌方を伐たしめんか。)[H

    28053

    ]など、多數の�力な部族が羌人捕獲

    に動員される例を擧げている。また羌のあるものは殷室に使役される

    こともあるのだが、多羌や多馬羌・羌芻などの例を擧げて、彼らが殷

    の宮�において卜骨の修祓にも關與していたことにまで言�する�到

    さである。ここまで�到に詰められると羌が人間以外を�味しないこ

    とは�白である。殷の大墓から多數發見される人牲がそれを示してい

    ると見ていいだろう。こうして異族を用いた人牲の可能性があること

    が�らかになれば、南が他の牲獸とともに宗�に用いられることは何

    ら不思議ではない。そこで南人を犧牲とする用例の列擧となるのであ

    る。○

    甲申卜貞、�乙酉濃于�乙牢濃一牛、濃南。

    甲申卜して貞ふ、�乙酉�乙に濃するに牢をもちひ、一牛を濃して南を

    濃せんか。)[H

    25

    ○濃于�辛八南。九南于�辛。(�辛に八南を濃せんか。九南を�辛に

    もちひんか。)[H

    1685

  • 讀「釋南」

    四四

    ○癸未卜。帚濃妣己南犬。(癸未卜す。婦は妣己に濃するに南・犬をも

    ちひんか。){H

    40852}○貞〔〕年于王亥、咼犬一・羊一・豕一・燎三小、卯九牛・三

    南・三羌。[H

    378

    貞ふ年みのり

    を王亥にいのるに、犬一・羊一・豕一を咼ころし、三小を燎し、九牛・

    三南・三羌を卯さんか。)

    ○庚戌卜牽貞、�于西一犬・一南、�四豕・四羊・南二、卯十牛・

    南一。[H

    40514

    庚戌卜して牽貞ふ、西に�するに一犬・一南をもちひ、四豕・四羊・南

    二を�して、十牛・南一を卯さんか。)

    ○丁巳卜�貞、燎于王亥十南、卯十牛・三南。[H6527

    丁巳卜して�貞ふ、王亥に燎するに十南をもちひ、十牛・三南を卯さん

    か。)

    ○貞、方�卯一牛濃南。(貞ふ、方�するに一牛を卯し、南を濃せんか。)

    [H14300

    ○貞、皋以二南于父…大乙。(貞ふ、皋は二南を以ゐて父…大乙に于か

    んか。){H

    32430}

    ○丁…�…大…五十…伐…南。[H

    963

    ○濃于�辛伐南。(�辛に濃して南を伐たんか。)[H

    655

    正甲]

    これらの「南」が南人と稱ばれる南方の異族であることは、もはや

    疑いを容れない。こうした異族の人身犧牲には羌・南の他に白人など

    の異常�や不自由人などをも用いた例を擧げられるが、ここでは�愛

    する。さて南字の本義は何であろう? �に南方・南人の義はどのよ

    うにして生まれたかを考えてみなくてはならない。�はこの問題であ

    る。

    三 南の本義

    郭沫若氏は最初、白川�士の提示する初義に比���い說を立てて

    いた。(南)を「鈴」と解するものである。しかし南を含む�字に

    は別に「」のような字形がある。これはいわゆる占卜の際の貞人の

    名�で、と釋することができるものだが、をバチ狀のもので叩く

    形に描かれている。郭沫若のいう鈴では「殳」を加えて擊つというこ

    とは理解できないとされる。なるほどその�りである。そして郭沫若

    自身もその點が�いと見ていたのか、後にこの說を棄てて��說に從

    うことになる。この件は後に改めて言�されるのでこうした經�のみ

    を記して先に�むことにする。

    郭沫若氏の說は白川�士が提示しようとする說に比���いとのこ

    とであったが、それは樂�說を�るという�味で�かったという�味

    であって、鈴では�褄が合わないのである。ではどのような樂�であ

    るか、そこに入っていく。甲骨�の「南」字形を考える場合、��の「」

    字形からして樂�であることが分かるが、さらにこれを別の字形と照

    合しながら考察を�めていくことになる。先ず、「」のような字形

    がある。これは石磬と呼ばれる樂�を擊っている形である。まさに

    「磬」字の上部の象形であるが、この磬は祭祀の時に用いられる石製

    の樂�で、後に�磬と�鐘とが組み合わされかなり大規模な古代オー

  • 立命�白川靜記念東洋�字���究紀� 第六號

    四五

    ケストラの��へと�展するものである。その石磬が殷代にすでに見

    えている。その上部は「」字形になっている。また太鼓を示すの

    場合も同樣で、・のようにやはりこれを擊つ形が「鼓」の字である。

    このような樂�を繫ける木の形であることは一目瞭然である。この字

    形は「釋史」に關��に出てきた「吿()」にも見えている。この「」

    について私の推定を交えるならば、おそらく祭祀の際に用いられる�

    なる枝ではなかったかと思われる。�士はここで豈・壴の二字に關係

    する�字で『說�解字』の豈部・鼓部・豆部・�部に收錄されている

    ものを列擧して、分�の仕方自體に混亂があることにも言�される。

    それは後で、��と樂�とを許愼が混同していることを示すための伏

    線である。

    ついで、『說�解字』の混亂を一�複雜�した說を立てている加�

    常賢氏の說にも言�される。加�氏の字源論が複雜になるのは、象形

    字であるはずの字形をばらばらに分解してそれぞれ別々に解釋し、そ

    れを後で合�してその合字であると解くからである。甲骨�は象形�

    字ではないとでも考えているのであろうか。加�氏はそのような手法

    で「豈」と「壴」とが同じであると說くのであるが、�が「豈(キ)

    も壴(チュウ)と一同であると思う。ソレハ(チュウ)の轉�である」

    とするなど解釋に強引なところがある。かくて�士は「壴」字と「豈」

    字の�いについて『說�解字』の�りを正しながら�のように結論す

    る。

    ��の豆に屬するものは豆・壴の系列に、樂�の豈・鼓に屬す

    るものはまたその系列に、截然として區分されなくてならぬ。壴

    と豈との別は、豆とその豆實に象るものと、鼓とその鼓を繫けた

    形に象るものとの區別である。……說�は豈に加うべき解字を

    �って壴にも加えて混亂を生じたが、加��士は兩字を合せて一

    にし、そのキとチュウとの聲を混じて一とされ、一�理解しがた

    いものとなった感がある。(七八頁)[一二二九~一二三〇頁]

    ここまでで「南()」の上部「」字形が樂�を繫けるための叉

    枝であることが�べられてきた。ここに擧げられた樂�がどのような

    時に用いられるものなのか、私の說�ではすでに�べてしまっている

    が、�士はここで改めてその問題に入られる。ここで用いられるのは

    卜辭に見られる「來慌」の例である。「慌」字は・のように書く。

    「鼓」と「女」に從う字である。「來慌」の�味は「漁陽の鼙鼓

    地を

    動かして來たる」の謂いで、外�の�寇を�味する語である。女字形

    に從うのは古代シャーマンの�俗にもとづくものであろう。わが國の

    古代にも、軍事に女人を先頭させる例があったことが『古事記』上卷

    の天孫�臨の條に見えている。こうして木に繫けた樂�を特定する方

    向へと�む。

    四 木に懸けた樂器はいかなるものか?

    郭沫若は最初鎛鐘の�をもって解しようとした。鎛と鐘とは同�の

    樂�であるが、殷代にそれらがあったとするには疑問が殘る。鐘より

    古い樂�には鉦(鎛)がある。その形は下に�があって、口は上に向かっ

  • 讀「釋南」

    四六

    て開いている。ちょうど鐘を�にした形である。したがってこれは木

    に差し�んで立てた形で擊つ��になっている。おそらく樂�という

    よりも軍事の際に擊ったものであろう。殷代に見られる鉦(鎛)は�

    �からして字形に合わない。これを殷代のものに求めるのは�しいと

    いうことになる。しかし考古學方面から見ると、この殷代の鉦が南方

    に傳播し發展した後に、それが�に傳播し流入してくるという說を、

    林巳奈夫氏がかなり後になってから發表された(1

    。その�流入の時�は

    西�時代中�頃ということであるから、その間南方では獨自に發展を

    �げたことになる。しかしこの林說は「釋南」立論の時�にはまだ見

    られず、白川�士が獨自に考察を�めなければならなかった。�士は

    「南」字を鐘を繫けた形としえない理由を�のように整理される。

    一、�品の時代が少し遲きに失すること。

    二、上の甬の部分が南字の字形には見られないこと。

    三、鐘の釭の部分は�ね

    形であるから、その形ならば

    と書くべ

    きであるのに

    のように橫形にしたものがあること。

    四、下部の兩銑と于との部分耀、南の字形のの下部が虛しいもの

    と�しく異なること。

    五、鐘を繫けた形を何故に南と稱するかを說き得ないこと。

    特に第五點が重�な鍵を握っているのである。であるとすれば、こ

    の行論の行方は左に記された方向に向かうことになる。

    もし樂�の名にしてしかもそれが南方の�を示しうるものがあ

    るとすれば、それはその樂�が南方特�のものであり、樂�自體

    が南方を表現しうるようなものでなくてはならない。しかしこの

    ようなものとして、特にわれわれの��を喚�する樂�は、銅鼓

    のほかにはない。私は甚だ武斷であるかも知れないが、南支から

    佛印・東印度諸島にわたって廣汎な分布を示す銅鼓を以て、これ

    に充ててみたいと思う。そこで以下に少しく銅鼓について�べよ

    う。(八〇頁)[一二三二頁]

    五 銅鼓について

    最初に銅鼓が學界の�目を浴びるようになったのは、一八六〇年に

    銅鼓が發見されたことがきっかけであると記されるが、これは歐米の

    學界のことであって、日本ではそれより早く一八六二年に松崎益�が

    「銅鼓考」を發表していて、中國の西南蠻夷の作ったものであるとい

    う卓論を示していた。その後も、大給恆「古銅鼓考」(一八八五年)、

    鳥居�藏「苗族�査報吿」第九章(一九〇二年)が續き、また更に原

    田淑人「銅鼓の製作時代」、松本信廣『印度支�の民族と��』(一九四二

    年)、�津正志『印度支�の原始��』第一四章(一九四三年)と續い

    ていて、銅鼓�究としてはすでにかなりの蓄積が見られる。一方中國

    では凌純聲「記本�二銅鼓�論銅鼓��源�其分布」(一九五〇年)が

    發表された。歐米の學界ではその後ようやく樂�であることが知られ

    るようになり、マイヤー(一八八四年)、フォイ(一八九八年)、ヒルト

    (一八九〇~一八九六年)、ホロート(一八九八年)、ヘーゲル(一九〇二年)

  • 立命�白川靜記念東洋�字���究紀� 第六號

    四七

    等の學�によって�究が�められた。特にヘーゲルの�究は銅鼓の樣

    式區分を試みた大�で、「南」字が銅鼓を示すものだという�士の說

    に�益な�報をもたらしている。以下展開される銅鼓の�說は大部分

    が松本・�津・凌の論�に據るとのことである。以下、�士は「中國

    �獻中の銅鼓」「ホロートの見解の�略」「中國國內の分布」「銅鼓の

    樣式とその分布」の順に�說されるが、ここでは�點を整理する形で

    �めることにする。

    (1)中國�獻中の銅鼓

    中國の�獻で銅鼓のことが見えるものは「後�書」馬�傳に「交阯

    において駱越の銅鼓を得たり」とあるのが初見である。その後の�獻

    三〇件ほどをその後に列擧している。そしてそれらの記事を檢討した

    結果、「銅鼓が獠族の用いた特�の樂�であり、かつ極めて貴重とせ

    られていたものであることが知られる。」(八二頁)としている。銅鼓

    が實際に用いられる時の樣子を記した「裵淵廣州記」(後�書�引)を

    引用しておく。

    俚獠鑄銅爲鼔、鼓唯髙大爲貴、面闊丈餘。初�、�于�、剋

    晨�酒、招�同�、來�盈門、豪富子女以金銀爲大钗、執以扣

    鼓。叩竟留��人也。

    (俚獠

    銅を鑄て鼔を爲る。鼓は唯髙大なるを貴しと爲す。面闊く丈余

    なり。初めて�るに、�に�く。晨に剋して�酒し、同�を招�す。來

    る�門に盈つ。豪富の子女

    金銀を以て大釵を爲り、執りて以て鼓を扣く。

    叩き竟りて�人を留�するなり。)

    (2)ホロートの見解の�略

    銅鼓が獠族に�原するものであることを、オランダの東洋學�ホ

    ロートも「東印度諸島�び東京・アジア大陸の古銅鼓考」で�べてい

    る。白川�士のまとめた�章をここに引用しておく。

    銅鼓は紀元一世紀頃、廣東の南西隅に流布し、四世紀上�に揚

    子江�岸南部に行われた。廣州の民は銅の大部分を鑄鼓に投じ、

    金銀をもその溶爐に投じたので、時の政府は鑄鼓を禁制したこと

    がある。銅鼓は廣く南方の狸獠の間に行われ、でき上ったときは

    �大な�宴を行なった。また戰時にはこれを鳴らして�を徵集

    し、�の時も��の�願に用いた。南方の夷蠻はしばしばこれを

    政府に�獻したが、南夷にあっては、その���はこれによって

    その威權・勢力・門地を象徵しうるものとされ、これを失うこと

    は從って蠻�を失うものとされた。かくてホロートは、その分佈・

    �樣・使用目�にも考察を�ぼして、銅鼓は獠人に�原するもの

    であることを�べ、從來のヒルトの馬�制作說を破っている。細

    部にわたる議論はしばらくおいて、銅鼓が獠族に�原するという

    このホロートの見解は、今日においてもなお學界の支持を得てい

    るものである。(八三頁)[一二三五頁]

    銅鼓が獠族に�源をもつ祭�であることがほぼ共��識となったと

    考えてよさそうである。

  • 讀「釋南」

    四八

    (3)中國國內の分布

    銅鼓の分布は、南支・佛印・東印度諸島から大洋州の島嶼に�ぶ廣

    汎なものである。それで銅鼓の�源地にも諸說が生じている。今度は

    この�源地を絞り�む方向へと�む。銅鼓の分布と銅鼓の樣式の分�

    との相關關係を考えてみるという方向である。ここで�士の�られた

    凌純聲「銅鼓�地理分佈」の整理を引用する。

    〔中國〕

    四川  (�史劉顯傳) 宣� 慶符 長寧 筠� 高・珙 古宋

    屛山 雷波 西昌 廬山 奉�

    湖南  �陽 嶽陽 乾�

    江西  南康 銅鼓

    廣東  (ヘーゲル)一六五  番禺 茂名 信宜 �康 合浦 

    靈山 欽 萬寧 �昌

    廣西  

    �南 桂� 鬱林 �白 北流 岑溪 蒼梧 桂林 

        融 象 橫 邑寧 凌雲

        崇善 憑祥 A

    ilau

    貴州  貴陽 黎� 印江 思南 銅仁 �我 安順

    雲南  Parmentier

     昆� 瀘西 �衝 芒市

    〔中國外〕

    東京(河內・河南・寧�・河東・和�)

    安南(淸�・公�・島�・巴色・沙��克・景廣・三諾)

    中原から見て南方に廣く分布し、それがベトナムにまで�んでいる

    ことが分る。

    (4)銅鼓の樣式とその分布

    �に銅鼓の樣式を分布狀況と關係づけて考える。これは最も古い樣

    式がどこであるかを探るためである。分�の仕方はヘーゲルによる。

    第一式……

    最も古く大型の基本形式をもつもので、胴部が三區に別

    れ、上部は膨らみ、中央部は垂�、下部は截頭圓錐形を

    なす。上部に鼓面と胴部とを結合する丸く張り出した部

    分がある。中央部の下は圓錐胴となっていて、緣は外方

    に開いている。鼓面と胴部張出しの裝��は人物・動物・

    家屋・舟・飛鳥の原始�繪畫・�何�樣等である。鼓面

    には蛙・騎馬像等が附けられている。

    上部が鼓面に接觸する部分に張出しがあるかないか、

    その他若干の點の相�によって、更に甲�と乙�とに分

    れる。

    第二式……

    胴の上部と中央部間の凹んだ稜がなく、胴の上部は下部

    の圓錐胴に�接�るS字型の側面を示す。鼓面は�出

    し、�樣區は第一式より多く、�細な�匠の裝��から

    �る。�體の�樣は籠目の靑銅�の傳統を示している。

    把手は小さく優美となり、重�性を失なって、ときには

    多くの小枝のある�物形の三角片から�る。

    第三式……形小さく、蛙の數が多く、圓筒部は大きく下部は小さい。

  • 立命�白川靜記念東洋�字���究紀� 第六號

    四九

    鼓面の�樣帶も少なくなってジグザグ�が形式�し、動

    �物の�樣は��となる。いまカレン族の間に傳わって

    いる。

    第四式……中國��匠多く、丈低くして非實用�である。鼓面の蛙

    はなく、中央の星から十二本の射線が放出され、十二支

    獸を鑄出す。南支�に最も多く發見され、ラオスのシャ

    ン族、ビルマの白カレン・紅カレン族の間でも使用され、

    タイの寺院や宮殿においても用いられている。

    この四式はそのまま時代の新古を�味するものと考えられる。

    〔樣式の分布〕

    ・湖南・四川……第一式甲�

    ・廣東・廣西……第一式乙�と第二式

    ・貴州・雲南……第三式

    ・分布が廣汎……第四式

    〔新古の層〕

    ・第一�(第一式甲�)……

    湘西・川南・滇南から�島區の東トンキン京・

    ラオスに�ぶ。

    ・第二�(第一式乙�)……

    廣東・廣西から東トン

    キン京

    ・ラオス・安南・

    カンボジアを經て東印度諸島に�ぶ。

    ・第三�(第二式)……廣東・廣西から東京・ラオスに�する。

    ・第四�(第三式)……貴州・雲南からビルマ・シャムに分布。

    ・第五�(第四式)……中國と東トンキン京灣付�一帶に分布。

    各樣式の分布狀態は銅鼓の發源地とその波�の仕方を反映するもの

    と思われる。

    六 銅鼓の起源地

    銅鼓の分�とその分布によって、銅鼓の最も古い第一式甲�が湖

    南・四川であることが分かった。これをほぼ銅鼓の�源地と考えれば

    良さそうだが、�士はなお愼重に檢討する手續きを踏んでいく。紹介

    された諸說を列擧しておこう。

    インド說(シュメルツ)

    カンボジア說(マイヤー・フォイ)

    中國南部・インドシナ�島北部說(ホロート、ヘーゲル、ラクーベリ)

    東トンキン京南部・安南北部說(ゴルーベフ)

    西歐・中亞・西南諸省・インドシナ�島北部傳來說(ケルデルン)

    淮河・長沙說(カールグレン)

    以上は凌純聲の整理したものだが、凌氏はカールグレンの說がほぼ

    當たっているとして、長江中流、雲夢大澤の地が銅鼓の�源地である

    とする。その理由は�の四點である。

    1 湖南省�陽は宋・�のときに甚だ多數の銅鼓を出土した。黎

    獠民族は古くこの澤�にあり、その後�第に南下したものと

  • 讀「釋南」

    五〇

    思われる。

    2 

    �の�人孫光�・杜牧・溫�筠・許渾の詩に獠族が銅鼓蠻歌、

    神を祀って樂舞することが歌われている。

    3 銅鼓の�樣にある�室と船との形式が「依樹積木、以居其上」

    といわれる獠族の生活と一致している。

    4 

    黎獠民族が北方中原諸族の壓�を�けて南下した事�が古い

    �料によって證�される。

    ここに黎獠とされる民族は�獻に俚獠・狸獠などとも記される民族

    で、凌純聲氏によれば今のインドネシア人と同一の民族であるとい

    う。これはコルベフやハイネ・ゲルテルンなどの考え方にも�ずるも

    のがある。そして銅鼓の最も古い形式のものが湘西の洞�湖�附�か

    ら發見されることに�目すべきだという。ここで少しだけ付言してお

    くと、「俚獠・狸獠」などとされる民族は現在壯族・布依族と呼ばれ

    るものであるらしいことが馬寅��『�說

    中國の少數民族(2(

    』に記さ

    れている。そして銅鼓の使用はさらに苗族にも擴がっていることをも

    考慮しておくべきだろう。

    七 「南」字は銅鼓を吊るした形

    �士の考證は�に「南」字が銅鼓を吊るした形であることに入って

    いく。字形�識に關わる問題であるから、銅鼓を實際に用いている場

    面や樣子を確かめなければならない。それで銅鼓使用の樣子を記した

    �獻を引用しながら論證の補強が圖られる。ただ讀む側からするとす

    でに�べられたこともあり、內容�に重複する氣がするので省略に從

    うが、しかしこうした手續を疎かにしない點にこそ�士の論證が�到

    極まりないことを示してもいるわけである。ここでは「南」字が銅鼓

    を吊るした形であることを緻密に�べている箇�を引用しておく。

    これらの記�によるときは、銅鼓はこれを�繫して擊ったこと

    が�らかであり、その他の記事においても、その聲の極めて淸亮

    であることをいうものが多いので、別に�繫することをいわない

    ものでも、みなこれを繫けて擊ったものであることが知られる。

    いま東京河內の東洋學院�物�に藏する一銅鼓は、吊り下げた形

    のままで寫されているが、實は繫けるといってもこのように

    形に下げるのではなく、上の方はもっと絞って中央の一處に合せ

    て吊るしたものであろう。銅鼓の�樣には、銅鼓を木架の下に描

    いたものがあるが、おそらく一�古い時代においては、磬が

    のように�接木に繫けられていたように、銅鼓も�接木に繫けた

    ものではなかろうか。從ってその形は木形のと、銅鼓の側面形

    と、そして銅鼓の兩旁の耳からに繫けられた紐の部分と、

    この三つの部分をもつことになる。そしてこの三つの部分を合せ

    るとまさにとはなって、銅鼓を木に繫けた�形をあらわす。銅

    鼓の下部は�洞となっていて、その點が鐘と�く異なっており、

    鐘ならば下邊の于の部分がのような形にはならないはずであ

    る。もし右の推定が�り立つものとすれば、南字は銅鼓の兩耳を

    吊って、これを木の一處に繫けた形であり、本來は樂�である銅

  • 立命�白川靜記念東洋�字���究紀� 第六號

    五一

    鼓の名である。しかもこの形式の樂�はひとり狸獠に限られた彼

    ら特�のものであり、また彼らはこれ以外には他の樂�を用いる

    ことが甚だ少い。そしてこのような事�からいえば、樂�の名で

    ある南がやがて南人たる狸獠を稱する南となり、ついに南方を�

    味する南に用いられるに至った事�が、極めて自然に解せられる

    のである。(八八頁)[一二四〇~一二四一頁]

    こうして「南」字が銅鼓を吊るした形であることが緻密に論證され

    た。もはや疑う餘地はないと言ってもよい。しかしこれは字形を中心

    に考察した結論である。�に「南」の�のことに入る。「南」字は「ナ

    ン」という�をもつが、銅鼓を�味する語の�が「ナン」であること

    を示すことができるかどうかという問題である。この點については比

    ��初めの方で言�されていたのでご記憶の讀�もあるだろう。ここ

    で再度持ち出してその裏付けを提示するという�び方である。

    ここも�士の�章を引用しておこう。今し方引用した箇�の�ぐ後

    のところである。

    銅鼓を木に�繫した形である「南」が、ナンの�をもってよま

    れたのは、おそらく獠人の語に出るものであろう。鳥居�藏�士

    の苗族�査報吿によると、�士が貴州北盤江の上游にある毛口地

    方で仲家の銅鼓使用狀況を�査されたとき、彼らは、われわれは

    苗子や羅ゝと�って、もとからここにいたのではない。�の洪武

    のとき、はじめてここに�ってきたものだ。われわれの樂�には

    笙の�はなく、ただ銅鼓だけを使う。銅鼓は土語ではN

    an-Yan

    という。ときどき地中から發掘される。�族が�入してからは

    すっかり奪い取られ、今ではもうなくなってしまった。だからや

    むなく皮で作った太鼓を使っている、と語ったという。(八八~

    八九頁)[一二四一頁]

    こうして�の面からも「南」が銅鼓を示すものであることが�らか

    になった。�士の考證はさらに念入りに細部の檢討を重ねていくが省

    略に從う。

    ○〔小要�〕

    以上によっていえば、南字は銅鼓を木に�繫した形であって、それ

    はNanj

    とよまれ、その樂とあわせて南任の語があったようである。

    いま銅鼓を土俗の語でN

    an-Yan

    と呼ぶのは、その語の今に存したも

    のではないか。もしかく考えうるならば、南字の形�義は、一應の說

    �をなしうるに至るわけである。

    南は獠族特�の樂�であり、古い時代からこの民族獨自のものとし

    て�人に強烈な印象を與えていたものであったから、�人はやがてか

    れらをも南とよび、南人と稱し、�いてはかれらの�む地域が南とよ

    ばれ、また轉じて方角の名にも用いられるに至ったという事�は、右

    によって大體首肯されるであろう。

    これらの南人は、古くは遙か北方の揚子江中流附�一帶にあり、桐

  • 讀「釋南」

    五二

    柏山�を越えて中原の殷人と接觸をもっていたものと思われる。古代

    においては、異種族の間には互いに他族を犧牲としてこれを祀る風が

    あって、殷人が羌・南・夷をその宗�・陵墓に用いたことはすでに記

    した�りである。ただ南に關する卜辭が羌に比�すると甚だ少なく、

    特に獲南の辭が殆ど見いだしがたいほどであるのは、南人が殷と接觸

    しつつも、かれらが�として山谷や沼澤地の狹長な地帶などを�んで

    �み、かつ甚だ�捷であり、��に臨んでは�ちに南を鼓してその同

    �を結束し、強力な抵抗を行なったため、羌人のように容易に捕獲し

    えなかったというような事�もあったものと思う。

    おわりに

    �士の論證は「南」字の字源論の形式を�りながら、銅鼓を用いた

    祭禮��の廣がりを描き出した。これを銅鼓��圈と呼んでもいいだ

    ろう。實際、現在苗族や壯族の居�する都市には巨大な銅鼓のレプリ

    カが町のシンボルとして聳え立っているところがあって大勢の觀光客

    の目を樂しませている。

    付記

    「釋�」「釋史」「作册考」「釋師」「釋南」と讀みすすめてきた「白

    川�字學の原點に�る」は今回で一旦�了する。最も重�だと思われ

    る論考をひとまず�えたことになる。この五�を讀んでおかないと白

    川�字學の眞髓を理解したことにはならない。まだ多くの論考が殘っ

    ているが、後は讀�自身が獨力で讀むべきだろう。

    �(1)林巳奈夫「殷、西�時代の地方型靑銅�」(「考古學メモワール

    一九八〇」(學生� 一九八〇年)

    (2)馬寅��・君島久子監譯『�說 中國の少數民族』(三省堂 一九八七年)

    (立命�大學白川靜記念東洋�字文��究�客員�究員)