『資本論』における資本の諸観念と会計...『資本論』における資本の諸観念と会計...

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『資本論』における資本の諸観念と会計 ──『資本論』第 3 巻第 1 篇~第 3 篇を中心に── 隆志郎 はじめに 資本の現象形態および競争と資本の観念 1 資本の現象形態としての費用価格および利潤の論理と資本の観念 2 価値の市場価値および生産価格への転化さらに競争と資本の観念 3 平均利潤法則のもとでの「埋め合わせの諸根拠」としての費用価格の観念 4 利潤率の傾向的低下の法則と資本の競争関係 資本の観念的総括としての減価償却の論理-エンゲルス書簡における減価償却実務を事例に 1 エンゲルス書簡にみる減価償却実務と神田忠雄氏の分析 2 減価償却の観念と加速償却の成立根拠 3 減価償却基金からみる減価償却の観念 おわりに はじめに 本稿の課題は,カール・マルクス著『資本論』における資本の現象形態や競争に関す る理論を手掛かりに,「資本の観念的総括としての簿記」という『資本論』における会 計的認識の定義の豊富化を試みることであ 1 る。またそのための具体的な素材として本稿 では,マルクスの盟友フリードリヒ・エンゲルスがマルクスに宛てた書簡のなかで記し た,エンゲルスの紡績会社における固定資本の減価償却実務を取り上げた。なお,この 減価償却実務に関しては,すでに神田忠雄氏による詳細な分析が残されているが,本稿 ではこれを批判的に検討しつつ持論を展開した。 周知のように,マルクスは『資本論』第 2 巻第 6 章「流通費」の箇所で,簿記を資本 の運動の観念的総括であると定義してい 2 る。この観念的総括の内容をめぐっては学説が 分かれるところである 3 が,本稿の目的はその諸学説の正否を検討することではない。ま ──────────── 本稿では簿記と会計とを同義語として取り扱っている。その理由は,会計基準・原則として制度化され た会計処理であれ,制度化以前の資本家による簿記実践であれ,いずれも「資本の運動の観念的総括」 の手段である点では共通であり,本稿はこの共通する簿記会計上の認識のあり方とその根拠を,『資本 論』で展開されている資本の諸観念についての論理から導き出そうとすることを課題としているからで ある。なお,資本主義の発展段階と簿記と会計の区別との論理関係については,角瀬保雄『新しい会計 学』(新版)大月書店,1994 年,第 1 章-第 3 章を参照。 カール・マルクス(資本論翻訳委員会訳)『資本論』第 5 分冊,新日本出版社,1984 年,211 ページ。 以下『資本論』の邦訳はすべて同書に依拠している。 ここでいう諸学説とは主に,資本の観念的総括としての簿記の本質を,①資本循環公式に基づく価値 40 840

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Page 1: 『資本論』における資本の諸観念と会計...『資本論』における資本の諸観念と会計 『資本論』第3 巻第1 篇~第3 篇を中心に 新 祖 隆志郎

『資本論』における資本の諸観念と会計──『資本論』第 3巻第 1篇~第 3篇を中心に──

新 祖 隆 志 郎

Ⅰ はじめにⅡ 資本の現象形態および競争と資本の観念

1 資本の現象形態としての費用価格および利潤の論理と資本の観念2 価値の市場価値および生産価格への転化さらに競争と資本の観念3 平均利潤法則のもとでの「埋め合わせの諸根拠」としての費用価格の観念4 利潤率の傾向的低下の法則と資本の競争関係

Ⅲ 資本の観念的総括としての減価償却の論理-エンゲルス書簡における減価償却実務を事例に1 エンゲルス書簡にみる減価償却実務と神田忠雄氏の分析2 減価償却の観念と加速償却の成立根拠3 減価償却基金からみる減価償却の観念

Ⅳ おわりに

Ⅰ は じ め に

本稿の課題は,カール・マルクス著『資本論』における資本の現象形態や競争に関す

る理論を手掛かりに,「資本の観念的総括としての簿記」という『資本論』における会

計的認識の定義の豊富化を試みることであ1

る。またそのための具体的な素材として本稿

では,マルクスの盟友フリードリヒ・エンゲルスがマルクスに宛てた書簡のなかで記し

た,エンゲルスの紡績会社における固定資本の減価償却実務を取り上げた。なお,この

減価償却実務に関しては,すでに神田忠雄氏による詳細な分析が残されているが,本稿

ではこれを批判的に検討しつつ持論を展開した。

周知のように,マルクスは『資本論』第 2巻第 6章「流通費」の箇所で,簿記を資本

の運動の観念的総括であると定義してい2

る。この観念的総括の内容をめぐっては学説が

分かれるところである3

が,本稿の目的はその諸学説の正否を検討することではない。ま────────────1 本稿では簿記と会計とを同義語として取り扱っている。その理由は,会計基準・原則として制度化された会計処理であれ,制度化以前の資本家による簿記実践であれ,いずれも「資本の運動の観念的総括」の手段である点では共通であり,本稿はこの共通する簿記会計上の認識のあり方とその根拠を,『資本論』で展開されている資本の諸観念についての論理から導き出そうとすることを課題としているからである。なお,資本主義の発展段階と簿記と会計の区別との論理関係については,角瀬保雄『新しい会計学』(新版)大月書店,1994年,第 1章-第 3章を参照。

2 カール・マルクス(資本論翻訳委員会訳)『資本論』第 5分冊,新日本出版社,1984年,211ページ。以下『資本論』の邦訳はすべて同書に依拠している。

3 ここでいう諸学説とは主に,資本の観念的総括としての簿記の本質を,①資本循環公式に基づく価値�

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たそれらの統一的な把握を試みようとするものでもない。そのような力量は筆者にはな

い。そうではなく,本稿もまた観念的総括という表現に注目し,『資本論』の論理に沿

ってみた場合にどれだけこの観念の内容を具体化できるか,ということを課題としてい

る。そこで本稿では,『資本論』第 3巻における資本の現象形態や競争の論理に焦点を

当ててこの課題に迫ることとした。なぜなら『資本論』の論理にしたがえば,資本の観

念的総括という場合の観念は,何よりも資本の運動法則の外観が醸し出す,資本の実体

を直接反映しないような仮象としての観念を指すはずだからである。

本稿ではまず,『資本論』第 3巻における資本の現象形態および競争の理論と資本の

観念について,その概要を述べる。ついでそれをもとに,エンゲルスの書簡中にある減

価償却実務に関する一つの論点を取り上げ,これに関する神田氏の見解に触れつつ独自

の考察を展開した。

Ⅱ 資本の現象形態および競争と資本の観念

1 資本の現象形態としての費用価格および利潤の論理と資本の観念

『資本論』全体の論理構成のなかで,資本の現象形態が本格的に分析されているのは

第 3巻である。『資本論』の理論体系全体における第 3巻の位置づけは,マルクス自身

が言うところによると以下のとおりである。すなわち,「第一部では,それ自体として

取り上げられた資本主義的生�

産�

過�

程�

が直接的生産過程として提示する諸現象が研究さ

れ,そのさい,直接的生産過程とは無縁な諸事情の副次的影響はすべてまだ度外視され

た。しかし,この直接的生産過程が資本の生涯の全部をなすわけではない。それは,現

実の世界では流�

通�

過�

程�

によって補足され,そしてこの流通過程が第二部の研究対象であ

った。そこでは,とくに第三篇で,流通過程を社会的再生産過程の媒介として考察した

────────────� の運動実体の表現と捉える馬場克三氏や木村和三郎氏に代表される個別資本循環説,②独占的高利潤を隠蔽し独占資本の高蓄積を促進させるための制度的な計算・公表装置としての会計イデオロギーとみる宮上一男氏,神田忠雄氏および加藤盛弘氏に代表される上部構造説,③資本の実体と会計計算との一致不一致とは別に,公表会計制度それ自体が民主的手段を通じた階級関係の隠蔽,およびそれによる資本主義的生産関係への労働者階級の半自発的な従属化をうながす制度的なイデオロギーであるとみる津守常弘氏の公表会計制度論,④最も完成された資本の観念としての資本物神を表現する貨幣資本の循環公式を基礎とするイデオロギー的上部構造として捉えようとする浅羽二郎氏の見解や,最近では『資本論』第 1巻の商品論における物神性の理論を基軸とした,単純な虚偽意識論ではない新たなイデオロギー論としての会計イデオロギー論の展開を提言する中村恒彦氏の見解,を指している。以上に関しては,馬場克三『会計理論の基本問題』森山書店,1975年,木村和三郎『科学としての会計学』,有斐閣,1972年,宮上一男『会計学本質論』森山書店,1979年,神田忠雄『現代資本主義と会計』法政大学出版局,1971年,加藤盛弘『現代の会計学』(第 3版)森山書店,2002年,津守常弘『会計基準形成の論理』森山書店,2002年,浅羽二郎『会計原則の基礎構造』有斐閣,1959年,中村恒彦「批判会計学とイデオロギー-宮上理論から山地理論まで-」『経済経営論集』第 53巻第 4号,2012年 3月,同「会計学のイデオロギー分析に向けて-Eagleton「2007」によるイデオロギーの定義と戦略を通じて-」『経済経営論集』第 52巻第 3号,2010年 12月,をそれぞれ参照。

『資本論』における資本の諸観念と会計(新祖) ( 841 )41

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さいに,資本主義的生産過程は,全体として考察すれば生産過程と流通過程との統一で

あることが明らかにされた。この第三部で問題となるのは,この統一について一般的反

省を行うことではありえない。肝要なのは,むしろ,全�

体�

と�

し�

て�

考�

察�

さ�

れ�

た�

資�

本�

の�

運�

動�

過�

程�

から生じてくる具体的諸形態をみつけだして叙述することである。諸資本は,その

現実的運動においては,具体的諸形態──この諸形態にとっては直接的生産過程におけ

る資本の姿態も,流通過程における資本の姿態も,特殊な契機としてのみ現れるよう

な,そのような具体的諸形態で相対し合う。したがって,われわれがこの第三部で展開

するような資本の諸姿容は,それらが社会の表面で,さまざまな資本の相互の行動であ

る競争のなかに,また生産当事者たち自身の日常の意識のなかに現れる形態に,一歩一

歩,近づく(傍点はマルク4

ス)」。

このような『資本論』全体の理論体系における第 3巻の位置づけと論理の移行の性格

は,資本概念が生まれながらにまとう必然的な現象形態,およびそのような現象形態と

実体との統一としての資本概念のより具体的特殊的な発展形態の分析・総合の過程であ

るとされ5

る。その第一歩が剰余価値の利潤への転化である。では利潤とはいかなる意味

で剰余価値の必然的な現象形態であるのか,『資本論』の叙述に即して具体的にみてい

こう。

資本が生産する商品の価値構成は,不変資本と可変資本と剰余価値からなる。不変資

本および可変資本はともに生産諸要素に投下された前貸資本を表わすが,剰余価値を生

み出す前貸資本部分は可変資本だけであり,その意味で可変資本こそが最も本質的な資

本の概念である。可変資本に対して不変資本は,商品生産に際してその価値を新たな商

品に移転するだけであり,新しい価値は一切創造しない。ただし,労働力商品から労働

を引き出すのは不変資本であり,不変資本なしには可変資本が労働を生み出すことも不

可能であることから,そのかぎりにおいて不変資本もまた資本概念の不可欠の要素をな

す。したがって資本概念とは,主要な要素としての可変資本と,次要な要素としての不

変資本との統一であ6

る。

しかし,商品資本の価値構成やそのうち可変資本のみが剰余価値の源泉であるという

ことは,生産過程に直接携わる資本家の日常的な意識のなかにも,また剰余価値を生み

出す当の本人である賃労働者自身の意識のなかにも,そのとおりには現れない。「資本

の可変的部分だけが剰余価値を創造するのではあるが,それが剰余価値を創造するの

は,他の諸部分すなわち労働に必要な生産諸条件もまた前貸しされるという条件のもと

でのみである。資本家は,不変資本の前貸しによってのみ労働を搾取するのであるか────────────4 マルクス,前掲書,第 8分冊,1986年,45ページ。5 以下『資本論』第 3巻における利潤概念および平均利潤法則の論理に関しては,見田石介『価値および生産価格の研究』新日本出版社,1972年,を参照。

6 見田石介「資本論の方法」(『見田石介著作集』第 4巻,大月書店,1977年),202−204ページ。

同志社商学 第65巻 第6号(2014年3月)42( 842 )

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ら,また彼は,可変資本の前貸しによってのみ不変資本を価値増殖しうるのであるか

ら,これらのことが,資本家の観念のなかでは,すべて同じものになってしま7

う」。

それはなぜか。第一に,不変資本部分と可変資本部分がともに生産資本に投じた前貸

資本の価値回収分を表わす費用価格として,同じ現象形態で現われるからである。

第二に,費用価格はそれこそが資本が生産した商品価値の現実的費用を指し示すよう

に現われるからである。現実に商品価値の生産に要する費用,すなわち本質的な意味で

の商品の現実的費用としての投下労働量のなかには,剰余労働も含まれる。しかし資本

は剰余労働を無償で取得するため,資本家的視点からはこの部分は商品の現実的費用に

含まれない。したがって費用価格だけが商品生産に要する費用として現われることにな

る。マルクスは費用価格のこの側面を「商品の資本主義的費用価8

格」と表現している。

第三に,費用価格の一部をなす可変資本が労働力価値ではなく労働の価値を表現する

労賃という現象形態をとるためである。このため,可変資本だけが剰余価値の源泉であ

るという資本の実体は,外観上断ち切られている。その結果,費用価格という現象形態

のもとでは,不変資本と可変資本という資本の本質的区別は消え失せている。

第四に,不変資本と可変資本という本質的区別に代えて,費用価格が「ただ一つの区

別,すなわち固定資本と流動資本との区9

別」をみせることによってである。この固定資

本と流動資本という区別は「生産過程で機能する資本価値の,すなわち生産資本の回転

の相違のみから生じる(傍点はマルク10

ス)」区別であり,この区別のもとでは可変資本

は不変資本の流動部分と同じ流動資本とされる。それによって,不変資本と可変資本と

いう資本の本質的区別はますます見えなくなり,その結果「資本の価値増殖過程の神秘

化が完成され11

る」とマルクスは言う。

第五に,以上の諸側面を総合して費用価格は,「商品の本来的な内在的価12

値」を表わ

すようになるからである。費用価格は商品価値のうちの前貸資本の価値補填分であるた

めに,それは実際の商品の販売価格にも投影され,商品販売を通じて必ず回収されなけ

ればならない。しかし費用価格を超える剰余価値部分については,「商品の販売価格が

たとえその価値以下であっても,その費用価格以上である限り,それに含まれる剰余価

値の一部はつねに実現さ13

れ」る。このように費用価格が商品の販売価格の再低限をなす

ことで,費用価格こそが商品の内在的価値に相当するという外観が生まれる。商品の内

在的価値としての費用価格は,もはや商品価値の一部だけではなく商品価値の全体を表────────────7 マルクス,前掲書,70ページ。8 同書,48ページ。9 同書,54ページ。10 同書,第 6分冊,1985年,260ページ。11 同書,第 8分冊,56ページ。12 同書,63ページ。13 同書,62ページ。

『資本論』における資本の諸観念と会計(新祖) ( 843 )43

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現したものと観念される。そして剰余価値は,この意味での商品価値を上回る何かであ

るとみなされるようになる。このことはさらに,価値が流通過程を経てはじめて実現す

ることからよりいっそう強いものとなる。すなわち,剰余価値は「商品の価値がその費

用価格を超える超過分としてではなく,商品の販売価格がその価値を超える超過分とし

て現われ,その結果,商品に潜んでいる剰余価値は,商品の販売によって実現されるの

ではなくて,販売そのものから生じるということにな14

る」という観念的な形態に置き換

えられる。

以上のように費用価格という現象形態がみせる諸側面は,剰余価値と可変資本との内

的関係を一切覆い隠している。このような費用価格の諸側面に照応して剰余価値は,商

品価値のうち単に費用価格を超える超過分に過ぎないものとしてだけでなく,まさに商

品の価値(内在的価値)を上回る流通過程からの産物としての利潤という現象形態に転

化せざるをえな15

い。しかもこの流通過程から生じるかのように見える利潤の外観は,そ

の実体である剰余価値そのものがある一定期間における資本の回転速度に比例して増加

することから,資本家的観点からは固定資本と流動資本という費用価格の外形的な区別

と相俟ってより強く現われ16

る。さらにそれだけでなく,利潤の実現の成否やどの程度実

現するかは,後述する市場の需給変動の影響や競争戦を展開する資本家相互のだまし合

いなど市場諸関係に依存していることから,「それだけにますますこの超過分は流通過

程から生じるかのような外観を帯びやす17

い」。こうして剰余価値は,生まれながらに利

潤という現象形態を必然的にまとって立ち現れることになる。

利潤は,利潤率としては,生産された商品価値に含まれる費用価格と対比されて現わ

れるだけでなく,生産過程でまだ価値移転していない固定資本部分も含めた前貸総資本

と対比されて表現される。いわゆる ROA である。利潤率がこのような算式で表される

ようになる要因は,流動資本の形態をとる生産諸要素も固定資本の形態をとる生産諸要

素も物的素材的な生産物形成要素としては,ともに生産過程において全面的に使用され

消費されるため,そのようにして生産される商品のなかに含まれている剰余価値は,ま

さに費用価格を超えて,生産資本の全部すなわち使用総資本から生じるかのように資本

家には知覚されやすくなるからであ18

る。「剰余価値は,前貸資本のうち,商品の費用価

格にはいり込む部分からも,はいり込まない部分からも同様に生じる──ひとことで言

えば,それは,使用資本の固定的構成部分および流動的構成部分から一様に生じる。総

資本が──労働諸手段も生産諸材料と労働も──素材的に生産物形成者として役立つ。────────────14 同書,63ページ。15 同書,57ページ。16 同書,72ページ。17 同書,72ページ。18 同書,60ページ。

同志社商学 第65巻 第6号(2014年3月)44( 844 )

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価値増殖過程にはいり込むのは総資本の一部分にすぎないとはいえ,素材的には,総資

本が現実的労働過程にはいり込む。このことにこそ,おそらく,総資本は費用価格の形

成には部分的に寄与するにすぎないが,剰余価値の形成には全体的に寄与する,とする

根拠があるのであろう。いずれにせよ,結果は,すべて剰余価値は使用資本のいっさい

の部分から同時に生じるということであ19

る」。しかも利潤率は,その実体である剰余価

値率の変動によって上下するだけでなく,屑の再利用などの技術革新,固定資本のより

効率的な使用,生産手段生産部門の生産性の増大による不変資本の価値低下など,剰余

価値率とは無関係である不変資本の価値変動や使用の工夫,改良によっても上昇するた

めに,不変資本の全体が利潤を生みだすという ROA としての利潤率表現は,資本家的

観点からはより強く意識されうる。

こうして,一方で不変資本と可変資本が費用価格という現象形態で一括されて現われ

ることで,他方では同時に剰余価値が利潤という現象形態に転化する。費用価格および

利潤という現象形態はたんなる思考の産物,主観的な観念ではなく,「資本主義的生産

様式から必然的に生まれ出る形20

態」であり,客観的実在的な現象である。そのような現

実の表象自体が,すでにその発生の当初からその本質を覆い隠した姿で立ち現われるか

らこそ,そのような表象をあるがままに受け取る感覚的日常的な意識のなかでは,この

現象形態の背後に貫徹している資本の実体は捉えられない。「実際上,利潤という剰余

価値のこの転化した形態では,剰余価値自身が,自己の起源を否定しており,自己の性

格を失っており,認識されえないものになってい21

る」。資本の観念とは,このような資

本の必然的な現象形態の性質から醸し出される観念である。

2 価値の市場価値および生産価格への転化さらに競争と資本の観念

利潤は資本主義的生産過程の発展とともに平均利潤という新たな形態に転化する。マ

ルクスによるとこの転化の可能性は,商品をその価値以下で販売してもなお費用価格以

上で販売すれば利潤を獲得できるという利潤概念の中にすでに潜在してい22

る。しかしそ

の転化が現実的に起こるためには,第一に商品の個別的価値が市場価値に転化し,また

それと同時に個別的利潤率が異なる産業部面ごとに特殊な平均的利潤率(特殊的利潤

率)にそれぞれ転化すること,ついで第二に,あらゆる産業部面で成立する特殊的利潤

率が,その各部面間での相違を受けて生じる資本の部面間移動によって部面横断的な一

般的利潤率へと均等化されることが必要である。

この二段階の発展を経て利潤は平均利潤に転化し,また同時に商品価値は平均利潤と────────────19 同書,60ページ。20 同書,61ページ。21 同書,第 9分冊,1987年,88ページ。22 同書,第 8分冊,63ページ。

『資本論』における資本の諸観念と会計(新祖) ( 845 )45

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費用価格の合計としての生産価格へと転化する。すなわち平均利潤法則が成立する。平

均利潤法則が成立した段階では,価値と価格の一致はもはや,ある一時点における社会

的な商品総量でみたときの総価値と総価格との間にだけ実存する。その結果,「価値の

生産価格への転化とともに,価値規定の基礎そのものが目に見えなく23

な」り,「いまや

この表象が完全に確認され,固定され,骨化される。というのは,特殊な生産部面を考

察すれば,費用価格につけ加えられる利潤は,実際上,この生産部面そのもののなかで

行われる価値形成の限界によって規定されているのではなく,反対にまったく外部的

(他の生産部面との間の利潤率の均等化…引用者)に確定されているからであ24

る」。

ところで,以上のような個別的価値の市場価値への転化および市場価値の生産価格へ

の転化は,資本間の競争を通じてはじめて生じる。「競争が,まずはじめに一つの部面

でなしとげることは,諸商品の異なる個別的諸価値から,同一の市場価値および市場価

格を形成することである。しかし,異なる諸部面における諸資本の競争こそ,はじめ

て,異なる諸部面間の諸利潤率を均等化する生産価格を生み出すのであ25

る」。ここでい

う競争とは,価値法則と剰余価値法則を根本法則とする資本の諸運動の発現を個別資本

に強制するものであり,個別資本にとっては他資本との不可避な関係として外的に強制

された法則として現われるような資本間の関係である。しかも価値の市場価値への転

化,さらに市場価値の生産価格への転化をもたらす競争は,前期的独占を排除した自由

競争とくに後者においては完全な自由競争という形態をと26

る。それは言い換えれば,市

場価値の形成をもたらす部面内競争においても,また市場価値を生産価格に転化させる

部面間競争においても,市場価値に規定された各部面の特殊的利潤率と超過利潤を含む

個々の資本の個別的利潤率との相違を起点とした,対等な力関係にある資本の間での競

争関係である。

さらに資本間の自由競争は,直接的には,市場における商品売買をめぐる競争として

現われる。そのため競争の起点をなす利潤率は,市場の需給変動がもたらす市場価値か

ら背離した市場価格をベースとしたものとなり,部面内競争も部面間競争も現実には市

場の需給変動と相互作用しながら展開される。さらに市場競争としては,例えば供給超

過の場合には,個々の資本家が価値実現のために意図的に低い利潤率やあるいは利潤さ

え無視した投げ売りも辞さないであろうこと,また反対に需要超過の場合には,生産活

動を維持するために市場価格をさらに上回る価格での買い取りに踏み切る可能性もある

こと,さらにそこに投機的思惑が混入することもありうるために,いっそう恣意的な関

────────────23 同書,289ページ。24 同書,290ページ。25 同書,309ページ。26 見田,前掲書,1972年,92ページ。

同志社商学 第65巻 第6号(2014年3月)46( 846 )

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係として,価値法則や剰余価値法則には規定されていないようなものとして現われる。

資本間の自由競争とはこのように,現実的には市場諸関係と相俟って,価値から背離し

た価格現象を直接受けて展開される利潤率の相違を起点とした競争である。

なおあらためていうまでもないが,需給変動などの市場の作用はただ価値を重心とし

た価格の往還運動をもたらしているだけであり,それを超えて価値そのものの増減を生

み出すようなものではない。したがって価格ベースでみた場合の利潤率の変動というの

も,ただ社会的に生産された利潤総量の個々の資本への分配を変えるだけのゼロサムな

ものである。競争も市場諸関係も,個別資本の運動を通じた価値法則・剰余価値法則の

外化,発展の条件や一契機にすぎない。その背後で資本を貫く運動法則は,最も発達し

た自由競争段階にあっては,剰余価値法則の特殊的な発展形態であるところの平均利潤

法則であり,この法則のもとでの資本間関係が完全な自由競争である。しかし現象にお

いては,競争や市場諸関係こそが価値を,そして利潤を生みだしているかのような外観

を示す。「商品の価値がその費用価格を超える超過分は,直接的生産過程において生じ

るとはいえ,それは流通過程においてはじめて実現され,しかもこの超過分が実現され

るかされないか,またどの程度実現されるかは,現実には,競争の内部では,現実の市

場においては,市場諸関係に依存しているのであるから,それだけにますますこの超過

分は流通過程から生じているかのような外観を帯びやす27

い」。さらに競争戦では資本家

同士のだまし合いなど市場価格だけでなく価値を無視した売買まで成立しうる余地があ

るために,「個々の資本家にとっては,彼自身が実現する剰余価値は,労働の直接的搾

取に依存するのと同じように,相互のだまし合いに依存す28

る」ように観念される。自由

競争はこのように利潤の観念をより強める働きもみせる。

3 平均利潤法則のもとでの「埋め合わせの諸根拠」としての費用価格の観念

マルクスは,剰余価値の利潤への転化,利潤の平均利潤への転化,そして競争につい

て論じたあと次のようなことを述べている。「資本主義的生産がすでに一定の発展度に

達すれば,個々の部面の異なる諸利潤率のあいだでの一つの一般的利潤率への均等化

は,もはや決して,市場価格が資本を引き寄せたり突き放したりする吸引と反発の作用

だけによって行われるのではない。平均価格とそれに照応する市場価格がある期間にわ

たって固定したのちには,この均等化において一�

定�

の�

諸�

区�

別�

は相殺されることが個々の

資本家たちの意�

識�

にのぼり,その結果,資本家たちはこれらの区別をただちに彼ら相互

の計算のなかに含める。資本家たちの観念のなかでは,これらの区別が生きていて,彼

────────────27 マルクス,前掲書,第 8分冊,72ページ。28 同書,72ページ。

『資本論』における資本の諸観念と会計(新祖) ( 847 )47

Page 9: 『資本論』における資本の諸観念と会計...『資本論』における資本の諸観念と会計 『資本論』第3 巻第1 篇~第3 篇を中心に 新 祖 隆志郎

らによって埋め合わせの諸根拠として計算に入れられ29

る」。

これはどういう意味かというと,平均利潤と生産価格が現実的に定着すると資本家

は,「同じ大きさの資本は同じ期間には同じ大きさの利潤をもたらさなければならない

という観念」に縛られざるをえなくなるが,そうすると各資本家は,生産資本や商品資

本にかかる物理的ないし社会的摩損,流通時間の長期化による利潤の減少,他部門より

も危険が高いために課される保険料など社会的空費である流通費の追加投資などを,価

格に上乗せして補填しようとするようになる,ということである。

このような埋め合わせは価値創造したがって新たな剰余価値の生産に資するものでは

なく,社会的に生産された総剰余価値の各資本家への配分率を変えるだけである。しか

しこのことは利潤率の均等化には一定の影響を与える。例えば流通費についてみれば,

市場が需要超過の場合には,流通費を投じる供給側の資本はそれを価格転嫁すること

で,需要側の資本その他の消費者の負担とすることが容易であるが,このことは供給側

の利潤率の上昇と需要側の利潤率の低下をもたらすことで,利潤率の均等化に一定の作

用を及ぼしうる,ということである。

またこのような価格計算が可能になると,資本家が手にする実際の利潤と剰余価値と

の大きさはいっそう異なり,資本家にとって「利潤の埋め合わせの諸根拠は,総剰余価

値の分け前を均等化する働きをするのではなくて,利�

潤�

そ�

の�

も�

の�

を�

創�

造�

す�

る�

─というの

は,利潤は単に,諸商品の費用価格へのこれこれしかじかの動機による上乗せに由来す

るから─ように見えるのである(傍点はマルク30

ス)」。このように商品価格や利潤は,ま

すますその実体である価値および剰余価値から乖離した,流通や競争の産物として観念

化されるようになる。そしてそれと同時に費用価格がもたらす観念もまたいっそう恣意

的なものとなっている。

4 利潤率の傾向的低下の法則と資本の競争関係

生産価格が成立するためには様々な条件が必要とされているが,その一つにマルクス

は固定資本の現存を挙げてい31

る。資本の集中・集積が進展し有機的構成が高度化した資

本ほど,資本の部面間移動が現実的に困難になるという。

剰余価値率を不変とした場合,資本の有機的構成の高度化は利潤率を低下させる。し

たがって,現存する固定資本の規模が障壁となって他部面への資本移動を制約されてい────────────29 同書,第 9分冊,358ページ。30 同書,360ページ。31 同書,357ページ。なお,この他にも,完全な自由競争の成立,信用制度の発達,資本主義的生産様式

が産業諸部面全体を包摂すること,労働力でもあり消費者でもある人口の多さ,労働の移動を妨げる法律の廃止,自己の労働の内容に対して労働者が無関心になること,諸部面における具体的有用的労働の単純労働化,労働者間での職業的偏見の解消,資本主義的生産様式のもとへの労働者の従属,といった諸条件が必要とされている(同書,336−337ページ)。

同志社商学 第65巻 第6号(2014年3月)48( 848 )

Page 10: 『資本論』における資本の諸観念と会計...『資本論』における資本の諸観念と会計 『資本論』第3 巻第1 篇~第3 篇を中心に 新 祖 隆志郎

る産業部面全体,あるいはそのような個別資本の利潤率は,超過利潤を捨象すれば,他

の産業部面あるいは同一部面の他資本の利潤率よりも低くならざるをえない。そしてマ

ルクスは,このように有機的構成の高度化によって他部面あるいは他資本に比べて利潤

率が非常に低くなっている産業部面や個別資本は,もはや生産価格の形成には与しなく

なるという。その一例としてマルクスは当時のイギリス鉄道業を挙げてい32

る。

あらゆる産業部面のあらゆる資本が労働生産性の向上と拡大再生産を追求する結果,

有機的構成の高度化が資本主義的生産様式全体に生じることで,利潤率の低下は競争を

勝ち抜いた個々の資本においてだけでなく,一般的利潤率そのものに生じるようにな

る。この意味で利潤率の低下は,資本主義的生産様式のもとでの労働の社会的生産力の

増大がもたらす必然的な法則である。ただしそれは緩やかな長期的傾向としてのみ現わ

れる。なぜなら利潤率の低下をもたらす労働の社会的生産力の上昇は,同時に利潤率の

低下に反発する諸要因も生み出すからである。その一般的な要因としてマルクスは,労

働の搾取度の増大,労賃の労働力価値以下への引き下げ,不変資本の諸要素の低廉化,

相対的過剰人口,貿易,株式資本の増加といった諸要因を挙げている。

また利潤率の低下の法則は,同時に剰余価値の絶対的生産量の増加を表わす法則でも

ある。「利潤率の累進的下落の法則,すなわち,生きた労働によって運動させられる対

象化された労働の総量に比べての,取得される剰余労働の相対的減少という法則は,決

して次のことを排除するものではない。すなわち,社会的資本によって運動させられ搾

取される労働の絶対的総量,それゆえまた社会的資本によって取得される剰余労働の絶

対的総量が増大するということ,ならびに,個々の資本家の指揮のもとにある諸資本

が,ますます増大する総量の労働,それゆえますます増大する総量の剰余労働を指揮す

る-この剰余労働の総量は諸資本が指揮する労働者総数が増大しない場合にも増大する

-ということが,それであ33

る」。このように利潤率の低下は,資本主義的な搾取強化の

別の表現にすぎない。

以上のように,労働生産性の増大と資本蓄積の相乗効果として有機的構成が高度化し

た資本の利潤率は,一般的利潤率よりも低い。それだけでなく,部面間移動が困難な場

合にはこの低い水準のまま固定化されるため,このような資本は低い利潤率のまま,そ

れよりも高い利潤率を示す諸資本と競争を展開することとなる。ただし,このときの資

本間の競争関係はもはや,生産価格の形成に携わる対等な力関係を有する諸資本間の完

全自由競争とは言い切れないものに変容している。なぜなら,有機的構成の高度化によ

って利潤率が大きく低下した資本とは,資本の加速的蓄積を果たした巨大資本の別の表

現にすぎないからである。このような大資本と,他方で低い蓄積水準のゆえに資本の部────────────32 同書,410ページ。33 同書,371ページ。

『資本論』における資本の諸観念と会計(新祖) ( 849 )49

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面間移動が可能であり一般的利潤率の均等化に参加する中小資本との競争関係は,もは

や「異なる売り手たちの互いに相手に与える圧力がそれなりに大34

き」いような対等な力

関係の資本でなく,またそれゆえにより高い利潤率を求めて様々な産業部面を転々とす

るような資本間関係でもない。それは,利潤率は低いものの獲得する利潤総量は小資本

家よりもはるかに大きい大資本家と,「外観上高い利潤をあげる小資本35

家」との間の,

不等な力関係のもとでの競争関係である。

このような競争関係においてはもはや,利潤率の高さが資本の競争力の指標とはなら

ない。同一部面内において高蓄積のゆえに上位の生産性を有する少数の大資本,したが

って,有機的構成の高度化が部面全体さらにはあらゆる部面に波及することで一般的利

潤率が低下してもなお,それよりもさらに低い利潤率になるであろう大資本にあって

は,単純に自身の利潤率を一般的利潤率に接近させるというような競争は展開しえな

い。むしろその反対に,そのような低い利潤率を是認する以下のような観念のもとで競

争に参加するようになる。すなわち,「資本家は個々の商品につけ加える利潤を自発的

に少なくするが,自分の生産する商品総数の増大によって埋め合わせをする,というよ

うに解され36

る」。「利潤率の減少は,資本の増加の結�

果�

として現われ,またそれと結びつ

いた資本家たちの打算─利潤率が小さくなっても自分たちの手に入れる利潤総量は大き

くなるであろうという打算─の結�

果�

として現われ37

る」。

このように有機的構成が高度化した大資本にあってはもはや,生産価格の形成に携わ

る諸資本が繰り広げる利潤率の相違を埋めようとする競争に,これらの諸資本と同じよ

うには参加しない。そうする必要性がなくなっている。それは,いまなお平均利潤法則

の支配下にある資本として自由競争の枠内にあるために,上述した利潤率の低さを肯定

する観念が生産価格以下の価値での商品生産の実現,したがって市場競争に縛られてい

るとしても,「ある事情のもとでは,たとえば恐慌期におけるようにより大きい資本家

が市場で自分の席を占拠し,より小さい資本家たちを追い出そうとする場合には,より

大きい資本家は実際にこの法則を利用する。すなわち,小資本家たちを戦場から駆逐す

るために,自分の利潤率を意図的に引き下げ38

る」ことが大資本においてのみ可能となる

ように,不等な力関係に基づく競争関係に変容しているといえる。

「資本の運動の観念的総括としての簿記」という場合の観念的総括とは,これまで述

べてきたように,資本の現象形態やその発展形態が映し出す資本の諸表象や資本間の競

争関係,さらには市場諸関係に規定される価格現象,これらの諸要素が醸し出す価値法────────────34 同書,310ページ。35 同書,384ページ。36 同書,393ページ。37 同書,385ページ。38 同書,384−385ページ。

同志社商学 第65巻 第6号(2014年3月)50( 850 )

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則や剰余価値法則から全く乖離したような資本の観念に基づく会計的認識であるといえ

よう。それではそのような会計的認識の具体的姿とはどのようなものか。節をあらため

てつぎにこの点をみていく。

Ⅲ 資本の観念的総括としての減価償却の論理-エンゲルス書簡における減価償却実務を事例に

1 エンゲルス書簡にみる減価償却実務と神田忠雄氏の分析

マルクスは『資本論』第 2巻および第 3巻の執筆に向けて減価償却基金についての研

究を深める際,エンゲルスの紡績工場で行われている減価償却実務と減価償却基金の使

途に関する具体的な内容をエンゲルスに問い合わせてい39

た。それに対するエンゲルスの

返答はこうであった。

「償却基金問題については,ます,計算書を添えてくわしく加工。つまり,ぼくはこ

れから両 3人の工場主たちに,われわれの方式が一般的なものか,それともただ例外的

でしかないか,を尋ねてみなければならないのだ。つまり,問題になるのは,機械の原

価が 1000ポンドで第 1年度に 100ポンドが償却される場合に,第 2年度には 1000ポ

ンドに対して 10%が償却されるのが通例なのか,それとも 900ポンドにたいして 10%

が償却されるのが通例なのか,等々ということだ。あとのほうをわれわれはやってい

る。そして,それならば事態が無限に進行しても理解できる,少なくとも理論的には。

このことは計算には大いに影響する。だが,ふつうは疑問の余地なしに,工場主は,機

械が損耗し終わるよりも平均 4年半前にすでに償却基金を利用するし,少なくとも自由

に処分できる。だが,これは,いわば無形の損耗に対する一種の保証として計算に入れ

られる。あるいはまた,工場主はこうも言う。機械が 10年間ですっかり損耗するとい

う過程はただ近似的に正しいだけだ,すなわち,私が 10年の分割払いで償却基金をす

ぐ最初からきちんと支払ってもらうという前提のもとで正しいだけだ,と。とにかく君

には計算書を送る。この問題は,その経済学上の意義については,ぼくにはあまり明瞭

ではない。僕にわからないのは,いったいどのようにして工場主はこんな虚構によって

他の剰余価値分け取り人や最終消費者たちを-長いあいだにわたって-欺くことができ

るのか,ということだ。注意。通例では機械は 7½%が減価償却され,したがって約 13

年の損耗期間が見積もられ40

る」。────────────39 マルクスによる減価償却基金の研究に関しては,久留間鮫造『恐慌論研究』(増補新版),大月書店,1965

年,第Ⅵ章を参照。40 フリードリヒ・エンゲルス「エンゲルスからマルクス(在ロンドン)へ(1867年 8月 26日)」((大内

兵衛,細川嘉六監訳)『マルクス=エンゲルス全集』第 31巻,大月書店,1973年),274−275ページ。以下マルクスとエンゲルスの書簡の邦訳はすべて同書に依拠している。

『資本論』における資本の諸観念と会計(新祖) ( 851 )51

Page 13: 『資本論』における資本の諸観念と会計...『資本論』における資本の諸観念と会計 『資本論』第3 巻第1 篇~第3 篇を中心に 新 祖 隆志郎

この返答のなかでエンゲルスは,当時の 19世紀中期におけるイギリス紡績業での一

般的な減価償却実務は償却率 7.5%での定額法であったが,これに対してエンゲルスの

紡績会社が採用していた方法は定率法であったと記している。なお定率法の償却率につ

いては記されていない。そして定率法の採用に関して,そこには物理的摩損だけでなく

いわゆる社会的摩損も反映されていたと言いながら,しかしそれがもたらす減益効果に

対して,「僕にわからないのは,いったいどのようにして工場主はこんな虚構によって

他の剰余価値分け取り人や最終消費者たちを-長いあいだにわたって-欺くことができ

るのか,ということ41

だ」という疑問を残している。

神田忠雄氏は,このエンゲルスの紡績会社における減価償却実務を会計学的に詳しく

検討し,以下の結論を導き出してい42

る。第一に,当時のイギリス紡績業において定額法

による減価償却実務が普及していた点について,それは景気循環や綿花飢饉による綿業

恐慌を経験していた紡績業のなかでは,そのような状況下でもなお生存可能であった平

均以上の生産性を有する資本,なかでも上位の生産性をもつ一部の資本群においてのみ

成立していた会計実務であったと評価している。

第二に,さらにその上で定額法よりも加速償却効果を有する定率法をエンゲルスの会

社が採用していた事実について,その要因のひとつは,エンゲルスの会社が加速償却に

よる減価償却費の増加分を計上してもなお,平均以上の利潤を獲得できた(すなわち減

価償却費の増加分を補うに足るだけの特別利潤を獲得できていた)ほど高い生産性を有

していたからではないかという。またもう一つの要因として,このような会計処理は株

主からすれば配当原資である利益の減少を意味するにもかかわらず,そのような株主に

対しても通用していたのは,それだけ一般株主の無機能化が進行していたからであり,

また加速償却を実施してもなお他資本と同水準の配当を実現できていたからではないか

という。ここから神田氏は,エンゲルスが抱いた 2つの疑問について次のような回答を

提示している。まず最終消費者への欺きという点については,欺きの意味が,加速償却

分を商品価格に転嫁することによる高価格を消費者がなぜ甘受するのか,という内容で

あるならば,それは会計計算上特別利潤によって加速償却分が相殺されていただけのこ

とであり,商品価格は市場価値あるいは生産価格と同水準であったはずであるから,こ

のような欺きはそもそも成立していないとする。そうでなければ疑問の真意が不明であ────────────41 同書,275ページ。42 以下,エンゲルスの会社の減価償却実務に関する神田忠雄氏の見解については,神田,前掲書,120−126

ページおよび 132−134ページに依拠している。なお予め断っておくが,本稿では同書で展開されている神田氏の会計理論全体を批判的に検討しているわけではない。氏における上部構造論としての会計学の理論的位置づけ,「会計における価値的事実と原価的事実」という独特の会計理論,資本主義以前の段階から独占段階に至るまでの会計実務に関する氏の豊富かつ詳細な事例分析,独占段階における独占資本の運動形態の変化と会計理論の展開との相互関係の分析,など氏の会計理論からは資料的にも方法的にも学ぶべきところが多い。本稿はあくまでもそのような氏の広大な研究成果のうち,エンゲルス書簡における加速償却実務に関する氏の見解だけを取り上げたにすぎない。

同志社商学 第65巻 第6号(2014年3月)52( 852 )

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るという。つぎに他の剰余価値分け取り人=株主への欺きという点については,資本集

中に規定される経営権を握る支配株主と,無機能化した一般株主といういわゆる所有と

支配の分離の問題と,平均的生産性・収益性の資本と高生産性・高収益性の大資本との

間の利益率の相違に規定された配当水準の問題とがエンゲルスにおいては「内面的に結

合せしめて分析されるにいたっていなかったた43

め」,疑問が解消されなかったのではな

いかと結論づけている。

さらに神田氏は以上のほかに,当時の実務慣行では,減価償却費は費用として損益勘

定にではなく,利益からの控除として資本勘定に計上する記帳方法が採用されていたと

いう。そしてこのような事実認識に依拠して,それは平均利潤法則が支配する自由競争

段階における株式会社資本にとって必然的な会計処理であったと結論づけている。すな

わち,一方で株式会社の経営者は,配当可能利益計算の必要性から減価償却費の計上が

必要とされたが,他方で自由競争段階における景気循環と自由競争にさらされた諸資本

において減価償却費の回収は不確実ならざるをえなかったことから,償却期間全体を通

してではなく年度ごとの自社の業績評価においては,回収の確実性なき減価償却費を除

いた粗利益レベルで自社の業績を判断せざるをえなかったのではないかという見解を提

示してい44

る。

2 減価償却の観念と加速償却の成立根拠

以上がエンゲルス書簡にある減価償却実務の成立根拠についての神田氏の見解であ

る。あらためて指摘するまでもなく,氏のこのような見解は,平均利潤法則の理論や資

本家の意識性といった資本論の理論を基礎としたものであ45

る。しかし,同じく資本論の

理論に基づいてエンゲルスの減価償却実務を分析しようとすると,神田氏の見解にはい

くつかの矛盾点を感じざるをえない。それは神田氏が超過利潤を論拠に据える点にある

と思われる。

そもそも超過利潤とは市場価値に必然的にともなう利潤の形態であることから,それ

は力関係が等しい資本間での生産性向上努力の結果,より優れた生産方法を採用した一

部の資本のみが,そのような生産方法が同一部面の他の諸資本に普及するまでの短い期

間にだけ獲得することができる利潤にすぎない。したがってその額も小さいものとなら────────────43 同書,123ページ。44 同書,126ページ。45 他にも一例を示せば次のとおりである。「そこ(自由競争段階の資本主義経済─引用者)では個々の企

業の生産物価値は産業部門間の資本移動の自由,資本間の競争の条件のもとに,平均利潤形成過程を通じて,総過程的には生産価格=原価価格プラス平均利潤として実現される。もちろん,平均利潤を超える超過利潤が追求されるが,資本間の自由競争はかかる超過利潤を解消せしめる。かかる事情のもとでは平均利潤率こそすべての企業資本家の経営活動成否判定の規律たらざるを得ない。ここにおいて,平均利潤率に対比さるべき自己の企業の利潤率の測定が企業経営実践の重要な一翼として,企業会計の必須の課題たらざるをえないのである」(同書,185−186ページ)。

『資本論』における資本の諸観念と会計(新祖) ( 853 )53

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ざるをえな46

い。このような超過利潤の性格からすると,ある特定の資本だけが加速償却

効果の及ぶ数年間もの長期にわたって超過利潤を獲得し続けたという想定は成り立たな

い。

しかし超過利潤を否定すると,神田氏の指摘を待つまでもなくエンゲルス自身すでに

理解していたよう47

に,定率法に基づく減価償却費額に基づいて費用価格を計算し,それ

に一般的利潤率を乗じて商品価格を設定すると,それは市場価値や生産価格を大幅に上

回る高価格になってしまい,自由競争下でそのような商品が市場で通用するはずがな

い。あるいは反対に,商品価格を先に生産価格に等しい額でもって設定していたとする

と,今度は加速償却効果によって償却前半期には商品価格中に占める費用価格の割合が

大きくなり,利潤率が一般的利潤率を下回る計算結果になる。利潤率の相違は資本の部

面間移動の引き金であり,また部面間移動の実現が生産価格の形成条件であるから,こ

の場合エンゲルスの会社が生産価格の形成に与していたとすれば,理論的には他部面へ

の移動を決意しなければならないはずである。あるいはさらに,エンゲルスの会社にお

いて,定率法に沿った固定資本の価値移転と,一般的利潤率したがって生産価格どおり

の価値構成が両立していたとすれば,この場合にはエンゲルスの会社だけが例外的に加

速償却の描く軌跡に等しい生産量したがって生産時間を実現していたことになり,償却

開始時点に近いほど労働日の延長あるいは固定資本の稼働率の引上げ,すなわちより多

くの労働搾取を実施していた資本ということになる。これもまた考えにくい。つまりい

ずれの場合においても,エンゲルスが書簡で投げかけていた「最終消費者たちを-長い

あいだにわたって-欺くことができるのか」という疑問は依然として残る。

それではなぜエンゲルスの会社では,こうした疑問を残すことなく定率法を採用する

ことができたのだろうか。それはエンゲルスの会社が,労働生産性が部面内でも極めて

高い水準にまで発展して有機的構成の高度化も高水準に達した結果,もはや利潤率は一

般的利潤率よりも低下しており,しかも場合によっては固定資本が原因で部面間移動が

困難になっていたことから,生産価格の形成に完全には与せず低い利潤率のまま部面内

に留まるものの,しかし利潤総量は加速償却分を吸収してもなお配当原資を十分に確保

できる規模にまで増大していたことで,かえってその低い利潤率が会社の経営陣によっ

て肯定されるほどにまで,資本の集中・集積が進展した大資本であったからだといえな

いだろうか。神田氏の見解では,エンゲルスの会社は資本集中・集積の進んだ高い生産

性を有する優良企業であったことから,超過利潤の獲得,それによる加速償却分の相────────────46 見田,前掲書,1972年,82ページ。47 エンゲルスは同じような価格設定計算でもって,当時のイギリスでは機械設備の更新期間が 5年であっ

たというバビッジの見解は,それでは減価償却費のせいで費用価格があまりに高額になりすぎるとしてこれを退けている(フリードリヒ・エンゲルス「エンゲルスからマルクス(在ロンドン)へ(1858年 3月 4日)」(前掲書,第 29巻,1972年),231−233ページ)。

同志社商学 第65巻 第6号(2014年3月)54( 854 )

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殺,したがって定率法に基づいて費用価格および商品価格を設定しても一般的利潤率を

維持することができるほど,生産価格の形成に携わる資本群の中では利潤率が高い資本

であったと評価されていた。しかしそうではなくエンゲルスの会社は,資本の発展段階

としては,それよりもさらに一歩先に進んだ段階にまで達していたのではないだろう

か。すなわち,自由競争段階の資本から独占段階の資本への移行期にあるような高度な

集中・集積の入口に差し掛かっているような大資本,もはや平均利潤法則から体半分は

み出たような大資本であったからこそ,平均利潤法則とは一見矛盾するような特殊な会

計実務が成立していたといえるのではないだろうか。

ところで,以上のように一般的利潤率を下回る利潤率をむしろ積極的に肯定できるだ

け資本蓄積が進み,その結果手にする利潤総量が巨額に達している大資本においては,

自由競争段階にあっても,もはや神田氏の言うような正確な利潤率の算定ということ

は,経営判断の最重要課題にはならない。このような大資本では,定率法のような加速

償却実務が固定資本の価値移転分を超える帳簿上での減価償却費の過大な計上を意味

し,したがって会計上計算される費用額すなわち資本家の観念上の費用価格が実際の費

用価格を上回り,その結果実質的な利潤率を大きく下回る会計上の利益率が計算された

としても,そのような利益率の格差が単純に競争上の劣位を表わしてはいないことは,

すでに述べたとおりである。むしろこの場合の低い会計利益率は,資本家が無意識のう

ちに剰余価値の資本への転化を促進させるような内部留保効果を宿した観念上の利益率

であるがゆえに,現実的には資本の高蓄積に資する効果を発揮する。したがって,現実

に運動する主体である大資本は,その代理人である資本家がこのような一般的利潤率を

下回る個別的利潤率をさらに下回る会計上の利益率を算定しても,それを無下に拒絶し

たりはしないだろう。ただしこのようなことが成立するためには,神田氏の見解にもあ

るように,株主との関係など信用制度の発達の影響との調整が必要となるであろうが。

以上のような形で経済的現実的な利潤から乖離した会計利益は,自由競争段階におい

て,有機的構成の高度化した大資本とそうでない他の諸資本との間の不等な競争関係に

規定された大資本の資本家に特有の競争観念の上で成り立つ,資本の観念的総括の具体

的姿の一つだといえる。それだけでなく,減価償却費に起因する経済的利潤と会計利益

との乖離の可能性は,費用価格として現われる減価償却費の性質そのものに本来的に内

在しているといえる。なぜなら費用価格とは,生産過程での商品への価値移転分を直接

表わすのではなく,販売する商品の価格から回収すべき価値補填分を表わすような現象

形態だからである。すなわち,流動資本のように生産手段の物理的消費と価値消費が対

応している場合には,生産過程での価値移転分と流通過程からの価値回収分とは資本家

的意識においても等しくなるであろうが,固定資本のように価値消費の態様を物理的消

費でもって直接把握することが不可能な場合には,商品の販売価格から回収した前貸固

『資本論』における資本の諸観念と会計(新祖) ( 855 )55

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定資本の一部として現われる減価償却費は,直接に生産過程での価値移転分を表現する

ということにはならない。例えば,ある固定資本を耐用年数 10年の定額法で減価償却

を行うという会計的発想は,費用価格としての資本家的観念においては,直接的には 10

年かけて売上総額から投資を回収するということを表現しているのであり,生産過程で

の価値移転によって失われた固定資本の価値減少分の補填ということを直接に反映した

ものではない。そのような認識に至るためには,固定資本が価値生産を一切担わないと

いう認識,すなわち利潤の実体は剰余価値でありまたそれを生産する唯一の資本は可変

資本であるという,価値法則を基礎とした剰余価値法則を理解しないかぎり不可能であ

る。費用価格としての減価償却費という現象形態のうちに,固定資本の価値移転という

その実体と前貸資本の価値回収というその現象形態との背離がすでに潜在しているとい

える。もちろん自由競争段階では商品価格は市場価値あるいは生産価格によって限界づ

けられているため,減価償却費の過大計上は価格上昇ないし利潤率の低下として資本に

跳ね返り,また過小計上は言うまでもなく前貸資本の回収漏れを生じさせ,資本の再生

産そのものを阻害する。それゆえ自由競争下で特殊的利潤率や一般的利潤率に支配され

ている資本においては,減価償却費の大きさは遅かれ早かれ生産過程における価値移転

の大きさによって客観的には規定されるようになる。しかし事情さえゆるせば,資本の

蓄積欲求などによって価値移転の実体とは異なる減価償却費の加速的計上は成立しうる

のであり,エンゲルスの会社の事例は,この潜在性が特定の条件のもとで顕在化した事

例だということができよう。

3 減価償却基金からみる減価償却の観念

最後に,神田氏が,当時減価償却費が費用ではなく利益からの控除として資本勘定に

直接計上されていた点を非常に強調しており,その根拠を,自由競争段階において回収

不確実な減価償却費を資本家が自社の業績評価から切り離さざるをえなかったという資

本家的実践意識に求めていたが,この点はその論理の是非を問う前に,そもそも事実認

定の根拠が不正確であるように思われる。それは邦訳の問題もさることなが48

ら,そのま

えにマルクスが利潤率の算定の例証の一つとして用いた『工場委員会第一次報告書』の

紡績業における費用計算の事例と明らかに反するからである。そこでは減価償却費は原

材料費,労賃,燃料費や運賃費用などとともに費用項目の中に含まれてい49

る。

────────────48 この点に関して神田氏が依拠した邦訳は,前出した 1858年 3月 4日付のエンゲルスからマルクスへの

書簡中にある一文についての岡崎次郎氏の邦訳「機械は年々の利益からの控除分によっておきかえられる」(神田,前掲書,120ページ)であった。しかしながら,本稿で依拠した大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』での邦訳では,「機械は 13⅓年で使用による年々の減価を償却され,つまり損失なしに完全に更新されうる」(エンゲルス,前掲書,第 31巻,274ページ)と訳出されている。この邦訳からは必ずしも減価償却費が一律に資本勘定に賦課されていたとは読み取れない。

同志社商学 第65巻 第6号(2014年3月)56( 856 )

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また,減価償却費が資本勘定に計上されていたからといっても,その意味を,自由競

争段階の平均利潤法則に規制された資本においては減価償却費を自社の業績評価から切

り離さざるをえなかったという点に求めるのは,他方で氏が言うところの,平均利潤法

則のもとでは個々の資本家は何よりも自らの直接的な必要のために一般的利潤率と対比

すべき自社の利潤率の正確な算定を会計実践上の最重要課題としていた,という命題と

は齟齬を来していると言わざるを得ない。なぜなら,減価償却費を計上していた資本が

正確な利潤率を算定しようとすれば,それを損益勘定に表示するか資本勘定に表示する

かはともかく,利潤率算定上の基礎となる費用価格には織り込まなければならなかった

はずだからである。神田氏の言うように,減価償却費(過大償却分を除く)が固定資本

の価値移転分として商品価値の生産に要した現実的費用であるにもかかわらず,それを

あえて資本勘定に計上していたのは,自由競争段階における減価償却費の回収不確実性

から業績評価から除外するためであったとすれば,そのような業績評価はいったい何を

目的としたものであろうか。これが利潤率算定の指標であるという意味ならば,減価償

却費を含めた実体としての利潤率よりも,それを除外したここでいう業績評価として示

される利潤率の方が不当に高くなってしまう。そのような数値は利潤率の相違に規定さ

れた部面間移動に晒されている資本にとって無意味ではないだろうか。

神田氏は,当時通例では減価償却費が資本勘定に計上されていたという不正確な事実

認識にとらわれすぎており,しかもそれを平均利潤法則や資本間の自由競争関係,景気

循環などの自由競争段階の諸法則に強引に落とし込めようとしたために,かえって非現

実的な結論に至ってしまったかのように思われる。そうではなく,当時のイギリスでは

資本勘定と損益勘定のどちらにも減価償却費を計上する会計実務が存在していたとみる

────────────49 マルクスが挙げた『工場委員会第一次報告書』のなかの費用計算とは以下のとおりである。

「建物および機械への投下資本 …………………10,000ポンド流動資本 …………………………………………7,000ポンド固定資本 10,000ポンドに対する利子 …………500ポンド流動資本に対する利子……………………………350ポンド地代,租税,地方税………………………………150ポンド6½%の固定資本減価償却基金 …………………650ポンド小計 ………………………………………………1,650ポンド臨時費(?),運賃,石炭,油…………………1,100ポンド小計 ………………………………………………2,750ポンド賃金および俸給 …………………………………2,600ポンド小計 ………………………………………………5,350ポンド単価 6ペンスの原綿約 40万重量ポンド ……10,000ポンド合計 ……………………………………………15,300ポンド

紡糸 363,000重量ポンドの代金 16,000。利�

潤�

650。すなわち約 4.2%。したがって労働者の賃金はこの場合には約 6分の 1。この場合には総利潤は,利子を含めて,たしかに約 10%にすぎない(傍点はマルクス)」(カール・

マルクス「マルクスからエンゲルス(在マンチェスター)へ(1858年 3月 5日)」((大内兵衛,細川嘉六監訳)『マルクス=エンゲルス全集』第 29巻,1972年),234−235ページ)。

『資本論』における資本の諸観念と会計(新祖) ( 857 )57

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ならば,そのような会計実務はまず何よりも本来的に,費用価格としての減価償却費の

現象形態から導き出されうる資本家の観念的総括の具体的姿の一つとして容易に理解す

ることができよう。すなわち,上述したように減価償却費は,資本家の観念的表現とし

ては,生産過程における価値移転分を直接表わすのではなく,商品価格の実現分すなわ

ち売上からの投資回収分として現われる。しかし同時にそれは,減価償却基金という表

現にみられるように,将来の再投資資金の源泉としても現われる。しかも利潤率につい

て述べた際に触れているように,利潤率は商品価値中の費用価格と利潤の割合として表

現されるだけでなく,固定資本の回転形態に起因する観念的表現として前貸総資本に対

する利潤の割合としても表現されるように,固定資本が減価するという認識は,固定資

本の回転を数回経験してこの資本循環が単純再生産にすぎないことを肌で感じ取らない

かぎり感覚的につかむことができないような高度な認識である。またそのためには,自

由競争段階において市場価値や生産価格に縛られた諸資本としては,流動資本分だけを

費用価格としたり,あるいは反対に更新のための減価償却基金を恣意的に早く積み立て

たのでは利潤率が不自然に高低してしまい,そのような計算がひいては自己の再生産の

障害となりうるということを実際に経験しなければならないだろう。つまり実際の更新

の必要性からはじまり,ついでその原資が前貸固定資本の投資回収分に等しいこと,さ

らにこの投資回収分の実体は生産過程中での固定資本の価値移転分に等しいこと,この

ような認識の深化を経てようやく減価償却の本質がつかめる。

またさらに,減価償却基金が固定資本の価値回収分にすぎないことを理解するために

は,そこに一切の利潤が含まれていないことを理解することが前提となるが,この前提

を理解することがまた現実には非常に高度な認識である。なぜなら,すでに述べたよう

に費用価格としては現象形態からはそのような不変資本としての実体は決して見えず,

また流通過程で回収した貨幣資本を眺めても利潤と固定資本の価値回収分との境界を見

つけることは不可能であり,さらに現実の再投資は減価償却基金と利潤とが合算された

拡大再生産として行われるからである。そのうえさらに資本は,マルクス・エンゲルス

効果と呼ばれる固定資本の回転形態が生み出す生産拡張効果を得るためには,既存の固

定資本の耐用年数が経過する以前に減価償却基金を再投資することになるが,こうした

固定資本の回転と剰余価値の資本への転化が同時に発生するようになると,このような

現実の姿から固定資本の回転そのものと剰余価値の資本への転化とを本質的に区別して

理解することは,マルクス自身が当初はそうすることができず前者も後者と同じく「資

本の蓄積」と誤認していたほ50

ど,またそれゆえにエンゲルスと幾度も事例検証や討論を

重ねて減価償却の分析を深めていったほど,単純に感覚的に捉えることが困難な非常に

高度な認識である。────────────50 久留間,前掲書,146ページ。

同志社商学 第65巻 第6号(2014年3月)58( 858 )

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したがって,減価償却という会計的認識は,その実体が固定資本の価値移転であるも

のの,そのことを直接反映した認識ではなく,あくまで直接的感性的な認識としては前

貸固定資本の投資回収分を表わしたものであり,またそうであるかぎりにおいて規則

的・継続的に売上収益からの控除として,すなわち費用価格の構成項目をなすものとし

て認識されるような,資本の現象形態に規定された観念的認識であるといえよう。その

意味では,減価償却あるいは減価償却基金という認識は,商品生産に要した費用である

ことを物理的にも感じ取れる流動資本とは区別されて,利益からの控除として通常の積

立基金の設定などと同じく資本勘定に計上するという発想の方が歴史的にはより初期の

形態であっても不思議ではない。減価償却費を費用価格の構成要素として損益勘定に計

上するという発想は,より後段の認識だといえる。なぜなら帳簿処理としては,一度再

投資用の基金を利益剰余金を含む自己資本から分離して帳簿上に設定してしまうと,固

定資本を廃棄する時にはこの基金を固定資本の帳簿価額(減価償却をしていないので時

価評価を採用していなければ取得価額)と相殺消去しなければ帳簿が整合的に閉じなく

なるからである。

ただしこの発想はまだ貸借対照表だけで閉じる会計処理であるから,減価償却基金の

積立分を減価償却費として費用処理するということまでは含んではいない。費用処理の

ためにはやはり減価償却費を含めない利潤率が不自然であるということを資本家が知覚

する必要があろう。もちろん,以上のような減価償却の段階的な観念を一度に同時的に

認識することは十分にありえる。利益剰余金を含む自己資本からの控除ということのう

ちには,同時に計算技術としては自己資本を含まない利益剰余金からの控除ということ

を含蓄しており,したがってそこには固定資本の価値回収分を意味するかぎりでの減価

償却費の損益勘定への計上ということが顕現はしていないものの内包されているからで

ある。したがって減価償却費の資本勘定への計上と損益勘定への計上とが歴史的には同

時に誕生してもそれほど不思議ではないといえる。

以上のように,減価償却費の資本勘定と損益勘定への区分というのは,そのいずれも

が,費用価格としての固定資本の現象形態に生まれながらに備わっている本来的な観念

に規定された会計的認識であるといえよう。ただしマルクスによると,資本家が減価償

却費を資本勘定に計上するか損益勘定に計上するかという問題は,単純に以上のような

費用価格としての減価償却の本来的性格だけに単純に規定されていたわけではない。マ

ルクスが『資本論』第 2巻のなかで行っている,これまた平均利潤法則に与していない

当時の巨大資本の典型であるイギリス鉄道会社の減価償却実務の分析によると,両会計

実務は獲得した利潤に占める減価償却費の比重いかんで資本家によって恣意的に使い分

けられていたとされる。すなわち,損益勘定の増益効果による好配当の演出を要する鉄

道会社は,減価償却費の全部あるいは一部を資本勘定に計上する方法を採用しており,

『資本論』における資本の諸観念と会計(新祖) ( 859 )59

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反対にそのような株主対策を不要とするだけの多額の利潤を獲得していた鉄道会社では

損益勘定に計上する方法が採用されていたという。減価償却の会計実務の規定要因は会

計認識の対象である固定資本の運動や現象形態だけに限定されないということを,マル

クスは指摘している。

この指摘が正しいならば,エンゲルスが抱いた疑問のうちなぜ株主が定率法に欺かれ

るのかという疑問の内容は,神田氏の言うように減価償却費が資本勘定に計上されてい

たのであれば,氏が指摘した,なぜ株主は定率法の加速償却効果による配当可能利益の

減少を受け入れるのか,という疑問ではなく,なぜ株主は意図的に演出された配当可能

利益(損益勘定の利益)に易々と踊らされるのか,という疑問であったと理解すること

もできる。もしそのような意味の疑問であるならば,それへの返答もまた,神田氏の言

うような,経営と所有の分離が進行した結果一般株主が低配当に甘んじるまで無機能化

していたことだけに求めることはできない。資本市場対策としての会計情報の機能を分

析しなければ,その回答を見出すことはできないだろう。それは会計情報の社会的有用

性をめぐる今日の議論にも通じる,古くて新しい会計学上の課題の一つである。

Ⅳ お わ り に

本稿はエンゲルスが紹介した減価償却実務を事例に,資本の観念的総括としての簿記

という定義の具体的姿の一例を提示してみた。資本の現象形態や競争の外観が醸し出す

資本の観念を出発点とすると,減価償却という会計的認識は,それは生産過程における

価値移転という実体そのものを直接反映したものではなく,あくまで費用価格としての

固定資本の現象形態に規定された投下資本の回収計算および固定資本の再投資の資金源

として現われるような会計的認識であった。

このような会計的認識としての減価償却の観念には,すでに潜在的に減価償却の実体

と会計的認識との背離の可能性が潜在している。しかしそれは,市場価値や生産価格に

支配された自由競争段階における一般的な資本においては,固定資本の運動の実体をな

す価値法則に規定されて潜在的なままであり,利潤率の相違を起点とした競争関係から

なかば解放されているような特殊な大資本においてのみ顕在化しうるものであった。本

稿ではエンゲルスの加速償却の事例をそのように解釈した。

本稿は『資本論』の広大な理論体系の中のごく一部に基づき,観念的総括としての簿

記の一例として減価償却について論じたまでである。さらに深く『資本論』における資

本の諸観念の論理を基礎とする会計的認識のより総体的かつ具体的な分析を行うために

は,本稿で取り上げた『資本論』の範囲のなかからでさえ,つぎに示すような本稿では

扱い切れていない諸論点を解消していく必要がある。すなわち,商品の内在的価値を表

同志社商学 第65巻 第6号(2014年3月)60( 860 )

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わす費用価格の観念と取得原価主義会計との関係,自由競争段階における市場価格およ

び市場生産価格論とそれに対する時価会計や低価法など市場価格ベースの会計実務との

関係,「埋め合わせの諸根拠」で論じられている平均利潤法則のもとでの恣意的な価格

設定とその平均利潤法則への作用とそれに基礎づけられた会計上の費用計算との関係,

売上高利益率と総資産利益率という利潤率の二つの表現形態と資本家の会計実践との関

係,マルクスやエンゲルスが触れた配当政策としての会計実践とその成立根拠,などで

ある。さらにその範囲外となると,商業資本およびその亜種としての会計資51

本,さらに

利子生み資本や擬制資本の概念・競争・蓄積,地代論を踏まえた資本物神の観念,これ

ら資本の諸概念および観念と会計的認識との関係の分析まで立ち入る必要がある。いず

れも今後の課題としたい。

参考文献浅羽二郎『会計原則の基礎構造』有斐閣,1959年。角瀬保雄『新しい会計学』(新版)大月書店,1994年。加藤盛弘『現代の会計学』(第 3版)森山書店,2002年。カール・マルクス(資本論翻訳委員会訳)『資本論』,新日本出版社,1982−1989年。────「マルクスからエンゲルス(在マンチェスター)へ(1858年 3月 5日)」((大内兵衛,細川嘉

六監訳)『マルクス=エンゲルス全集』第 29巻,大月書店,1972年)。神田忠雄『現代資本主義と会計』法政大学出版局,1971年。木村和三郎『科学としての会計学』,有斐閣,1972年。久留間鮫造『恐慌論研究』(増補新版)大月書店,1965年。田中章義「いわゆる個別資本説の方法について-会計の形態規定によせて-」『東京経大学会誌』第 86

号,1974年 3月。津守常弘『会計基準形成の論理』森山書店,2002年。中村恒彦「批判会計学とイデオロギー-宮上理論から山地理論まで-」『経済経営論集』第 53巻第 4号,

2012年 3月。────「会計学のイデオロギー分析に向けて-Eagleton「2007」によるイデオロギーの定義と戦略を通

じて-」『経済経営論集』第 52巻第 3号,2010年 12月。馬場克三『会計理論の基本問題』森山書店,1975年。フリードリヒ・エンゲルス「エンゲルスからマルクス(在ロンドン)へ(1858年 3月 4日)」((大内兵

衛,細川嘉六監訳)『マルクス=エンゲルス全集』第 29巻,大月書店,1972年)。────「エンゲルスからマルクス(在ロンドン)へ(1867年 8月 26日)」((大内兵衛,細川嘉六監

訳)『マルクス=エンゲルス全集』第 31巻,大月書店,1973年)。見田石介『価値および生産価格の研究』新日本出版社,1972年。────「資本論の方法」(『見田石介著作集』第 4巻,大月書店,1977年)。宮上一男『会計学本質論』森山書店,1979年。

────────────51 会計資本については田中章義「いわゆる個別資本説の方法について-会計の形態規定によせて-」『東

京経大学会誌』第 86号,1974年 3月,27−31ページを参照。

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