ベケットの催眠術 -...

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ベケットの催眠術 The Comp α ny における「呼びかけJ のレトリック 49 ベケットの催眠術 一一一 TheComp α ny における「呼びかけ」のレトリック一一一 木戸好信 ンヅ 彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧する もの、澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。 一一一折口信夫『死者の書j 中上健次は一九九O年八月二十七日の産経新聞のサミュエル・ベケット 『伴侶』の書評 1 において、「一つの声が閣のなかの誰かにどどく。想像する こと」という作品の官頭の言葉について「のっけは呪文のような言葉だ。こ のような呪文で始まるものに対応するには、耳をふたいで、さっさと逃げ出 すか、いっちょやってみつか、と軽いノリで、丈章の呪文に身を任せるか、 いずれかである」と述べている。さらに中上は「この作品を読むときは、読 むほうの統覚を一時棚上げすること」を読者に指南し、「読者とは催眠術を 受ける立場に立つようなものである。その催眠術の中に入ると、すぐに〈彼〉 という人称が出てくる O さらにその〈彼〉に向かつて、何者かが、くおまえ〉 と語りかける場面が現れる。催眠状態に陥っている読者は、何者かが使う くおまえ〉という呼びかけによって、〈彼〉と同一化が起こる」と述べる。 ベケットの作品に対して小難しい文学理論を振りかざす昨今の批評家を尻 目に、小説家としての慧眼、直感をもってして、本作品を「呪文J のようだ と言つてのけ、その読書行為を「催眠術」に喰える中上の発言は難解をもっ て鳴るベケット作品、その中でも際立っている後期の散文作品である『伴侶』

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ベケットの催眠術 The Compαnyにおける「呼びかけJのレトリック 49

ベケットの催眠術

一一一 TheCompαnyにおける「呼びかけ」のレトリック一一一

木戸好信

カ ンヅ

彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧する

もの、澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

一一一折口信夫『死者の書j

中上健次は一九九O年八月二十七日の産経新聞のサミュエル・ベケット

『伴侶』の書評1において、「一つの声が閣のなかの誰かにどどく。想像する

こと」という作品の官頭の言葉について「のっけは呪文のような言葉だ。こ

のような呪文で始まるものに対応するには、耳をふたいで、さっさと逃げ出

すか、いっちょやってみつか、と軽いノリで、丈章の呪文に身を任せるか、

いずれかである」と述べている。さらに中上は「この作品を読むときは、読

むほうの統覚を一時棚上げすること」を読者に指南し、「読者とは催眠術を

受ける立場に立つようなものである。その催眠術の中に入ると、すぐに〈彼〉

という人称が出てくる O さらにその〈彼〉に向かつて、何者かが、くおまえ〉

と語りかける場面が現れる。催眠状態に陥っている読者は、何者かが使う

くおまえ〉という呼びかけによって、〈彼〉と同一化が起こる」と述べる。

ベケットの作品に対して小難しい文学理論を振りかざす昨今の批評家を尻

目に、小説家としての慧眼、直感をもってして、本作品を「呪文Jのようだ

と言つてのけ、その読書行為を「催眠術」に喰える中上の発言は難解をもっ

て鳴るベケット作品、その中でも際立っている後期の散文作品である『伴侶』

50 ベケットの催眠術 The Companyにおける「呼びかけJのレトリックー

の核心を大胆に鷲づかみにしたものだ。しかし、新聞紙上の書評というジャ

ンル上の制限のため、もちろん作品そのものが詳細に分析されているわけで、

はない。本稿の目的は中上の短い書評で展開されたその着想について理論的

注釈を与えつつ紙幅の許すかぎり詳細に検討することにある。

とはいえ、中上の書評は『伴侶』への何よりの手引きとなることは確かで、

あるが、実際この作品に立ち向かう一般の読者はまず面食らってしまうので

はないだろうか。読み始めると誰かが暗潤で横たわりモノローグを続けてい

る(かのように思える)。確かに、ここだけに注目すればベケットの読者に

はお馴染みの状況だ。しかし、「おまえ」と二人称で語る声がある一方、そ

の声を時間で聞いている誰かがいるみたいだがはっきりとしたことは分から

ない。ただ、閣の中にいる「語り手Jと「横たわる人Jと「声」の三者が主

題となっているらしきことは分かるのだが、これらが同一人物、つまり、語

り手の声が分裂したものなのかは分からないままだ。しかも困ったことにい

くら読み進めても状況はまったく進展していく様子もないのである O

それとは対照的にこの閣の中で語られる自伝的な挿話はひときわ鮮明であ

るかのように思える。確かに、ベケット七十三歳の時の作品である『伴侶J

は幻の処女長編作『並には勝る女たちの夢』以来、他のどの作品よりも自伝

的特徴があることがしばしば指摘されてきた。しかし、ベケット自身の協力

のもとに彼の伝記を書いたジェイムズ・ノウルソンでさえも、「記憶の底の

網にかかってきた『伴侶』の思い出の数々について、ベケットと話し合った

とき、過去というものの捉えどころのなさを、これほどまでに確信している

人間の伝記を書かねばならないという皮肉に、ベケットもわたしも直面し

た」、そして「ベケットと話しているうちに、実人生で起こる出来事は、虚

構にぴったりあてはまるように手を加えられ、変形されているだけではない

ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけjのレトリックー 51

ことがわかってきた。[..・ H ・]そこでは、記憶は作り事と区別しがたいJと

その困惑を告白する。 2

どうやら私たちは『伴侶jにおける登場人物やプロットといった作品の内

容を分析する作業、あるいは語られている自伝的要素そのものをベケットの

実際の伝記と照合するといった作業から始めるよりも、むしろそういった内

容の語られ方に注目することによってベケットの戦略をより理解できるので

はないだろうか。中上が「呪文」あるいは「催眠術jと述べたように、『伴

侶jという作品がその難解さにも関わらず私たちをテクストに呪縛してはな

さないその魔力はなによりも語り手らしき「声」が繰り出すそのレトリック

にあるのは間違いないだろう。次にあげる引用は『伴侶jにおけるその典型

的な語り口である。

おまえが最後に出かけたとき、大地は雪に覆われていた。いま聞のなか

に仰向けになっているが、おまえはその朝、おまえの背後で静かに閉め

られた戸の敷居のところにいる。背中をドアにもたせかけ、頭をうなだ

れで、おまえは出かけようとしている。おまえが眼をあけると、是は雪

にもぐっていて、オーヴァーのすそは雪に触れている。暗い風景は、下

から照らされているようだ。この最後の外出のときの、 ドアに背をもた

せ、眼を閉じ、出発しようと待ち構えている自分がおまえには見える。

そこから外へ。そして雪に輝く光景。おまえは聞のなかに眼を閉じて横

になり、さっき描写されたように、この光の層を横切って、体を投げ出

そうと身構えている自分を見る。 3

「おまえが……j、「おまえは……」と執効に繰り返し、あたかも、初期化さ

52 ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけ」のレトリック

れた人間主体である「おまえJになにがしかの記憶=情報を順番に一つずつ

ダウンロード&インストールしていくかのようなこのレトリックはまさに中

上が述べる催眠術的状況を示す典型だ。『名づけえぬものJが最初の二十ペ

ージ以後の残り百五十ページは、一度の改行すらないまま全ページ丈字に埋

め尽くされているが、これとは対照的に、『伴侶jはわずか六十ページほど

の(しかも余白だらけの)短い作品であるのにもかかわらず、さらにこれが

五十九もの小さなパラグラフに分割されている O こと『伴侶Jという作品に

関する限り、この「パラグラフ」という単位を、「おまえjにデータを書き

込んでいくという今述べた催眠術的状況をふまえ、データ通信において長い

データを適当な長さに分割した際のそのデータ転送単位にならって「パケッ

トJ(packet) と呼びたいほどである。

さらに、「おまえJという「呼びかけ」について中上の書評に戻るならば、

作品を「呪文jのようだと言つてのけ、その読書行為を「催眠術」に除える

その発言は、テクスト内の暖昧な状況および登場人物たちの問題にとどまら

ず、読者あるいは読書行為というものに対する再考を迫るものだ。中上に従

えば、「おまえjと呼びかけられているのはまさに読者以外の何者でもない。

『伴侶』が出版される 12年前に「読者の誕生は、〈作者〉の死によってあが

なわれなければならないのだJ4と宣言したのはロラン・バルトであるが、

それは単に作者をテクストから排除するといったものではない。彼の理論は

より複雑である。作者は完全に死んで、しまったわけで、はなく、彼はなおもゾ

ンビの如く蘇りテクストの中を俳梱する O バルトは作者が作品の中に彼の作

品の起源としてではなく登場人物の一人として戻ってくると主張する。それ

は、彼らの人生を一個のテクストとして読むことを可能にするとともに、ひ

いてはむしろ作品自体が作者の人生を形づくるということでもある o

ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけ」のレトリックー 53

「読むこ2とJ(あるいは「誤読J)に関するもう一人の批評家ポール・ド・

マンもまたバルトに呼応するかのように自叙伝と虚構についての文脈におい

て次のように述べる。「私たちは、行為がその結果を生むように人生が自叙

伝をく生む〉と考えているが、同様の正当性をもって、自叙伝という企画の

ほうが人生を生み、決定することもあるし、書き手の(行う〉ことはすべて、

実は自己描写のための技術上の要請に支配され、したがって全面的に描写の

媒体の資質によって決定づけられているのだと言えないだろうかJo6換言す

るならば、作者、あるいは主体というものがレトリックを形づくるのではな

く、むしろレトリックというもの自身が作者や主体を生み出す。そもそも

「作者」や「主体Jという概念自体が修辞的な比輪以外のなにものでもなく、

まさに「文学言語のレトリカルな性質からしてみると、認識的な機能は主体

のうちではなく言語の中に存在するJ7のだ。

主体の形成についてド・マンほどラデイカルではないものの、リチヤー

ド・ A'レイナムもまたレトリックの重要性を強調し、「レトリック研究は、

人をレトリックから解放しはしない。レトリックの研究が教えるのは、人聞

がレトリックから解放されぬこと、むしろレトリックが人間の半身を象徴す

るということであるJ8と述べ、「シリアスな自我J(homo seriosus) に対し

「レトリック的な自我J(homo rhetoricus) を想定する。レイナムに拠れば、

「シリアスな自我」は「中心的な自我」であり目的性を具えた動機を持ち、

「レトリック的な自我」は「社会的な自我」であり演劇的で遊戯性を具えた

動機を持つ。そしてこの三種類の自我の葛藤、結合といった相互作用によっ

て生まれるのが西洋的自我であり、この「目的」と「遊戯」のあいだの往復

運動の中に文学が位置づけられると主張する O

「テクスト」としての「作者」としてバルトが先陣をつけ、 ド・マン、レ

54 ベケットの催眠術-The Companyにおける「呼びかけ」のレトリックー

イナムによって「レトリックJと直接に名指された「作者」あるいは「主体」

の例として『名づけえぬもの』ほど適切なものはないだろう。語り手である

「わたし」は言う。「黙っていられないだけだ。わたしは自分についてなにひ

とつ知りたいわけじゃない。ここではなにもかもはっきりしている O いや、

なにもかもはっきりしているとはいえない。だが、話はしなければならない。

そこでわけのわからないことをでっちあげる O レトリックをJ(7)ノこの

ようにレトリックによって形成される主体、あるいは「レトリック的な自我」

は言語学者エミール・パンヴェニストならば次のように表現するだろう O ま

さに I<我〉と言うものが〈我〉なのである」、「ことばにおいて、そしてこ

とばによって、人間は自らを主体として構成するJ(244) と。10つまり、人

間の主体とは発話行為の主体であって、それゆえつねに「わたし」という人

称の特異性が問題となるのだが、この人称の問題は、言い換えれば「語りJ

の問題と言ってよいものだ。『名づけえぬもの』の語り手は冒頭でさっそく

次のよう述べる o Iはて、どこだ? はて、いつだ? はて、だれだ? そ

んなことは問題じゃない。わたし、と言えばいいJ(3)。しかしすぐに、

「わたしはしゃべっているらしいが、これはわたしじゃない、わたしのこと

をしゃべっているらしいが、これはわたしのことじゃないJ(同)といった

具合に、「わたしJという人称の安定が揺さぶられ、以後作品全体にわたっ

てこの語る主体が崩壊する様が執劫に描かれ続ける。とはいえ、むしろ注目

すべきは、たとえパラドックスに満ちた「信頼できない語り手Jllあるいは

解体過程にある語り手ではあってもまだかろうじてそのレトリック的な効果

あるいは残像として「わたし」という一人称の語り手が依然として存在して

いることだ。

しかし、『名づけえぬもの』から二十六年後の『伴侶』という作品におい

ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけ」のレトリックー 55

ても小説における人称の問題がはっきりと扱われているのだが、前者の語り

を特徴づける「わたしJという人称に対し、後者においてベケットは二人称

の「おまえJという「呼びかけ」のレトリックを導入することで、人称と主

体の問題をより深化させている O パンヴェニストは「わたし」という語る主

体の存在を主張したが、それは何も語る主体だけが存在するという意味では

ない。バルトがパンヴェニストについて強調したようにそれはなによりもま

ず「対話の言語学」である。12ノfンヴェニストは言う o r自我の意識は、対比

によってそれが体験されてはじめて可能となる。わたしがわたし〔という語〕

を用いるのは、わたしがだれかに話しかけるときだけであり、そのだれかは

わたしの話しかけのなかであなたとなる O この対話の条件こそまさに人称を

構成するものなのであるJ(244) 0 パンヴェニストに拠れば一人称と二人称

はつねに相補的な概念であり、かっ、三人称(非人称)に対立する。13 r伴

侶Jの語りは以上のような人称の問題に関して過剰なまでに意識的だ。「二

人称は、声が実際に使っているO 三人称は、もう一人が。声は誰かにむかつ

て、またその誰かについて話しているが、この誰かに彼もむかつて、この者

について話せるとしたら、三人目がいることになる。しかし、彼にはそれが

できない。彼はそうしないだろう。おまえにはそれができない。おまえはそ

うしないだろうJ(C8)o r一つ一つの言葉を、一人でつぶやくのはやめろ、

私は、私のすることが水の泡と分かっているが、それでも続ける O ちがう O

なぜなら、一人称単数はついでに複数はなおさら、おまえの語葉には決して

存在しなかったJ(C61)。

日半侶Jの語りにおいて、そしてパンヴェニストの指摘においても注目す

べきはこのわたし/あなたという対話の関係であったが、さらに詳しくこの

一人称、二人称と三人称との絶対的な違い、つまり〈主体的〉言表行為と

56 ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけ」のレトリック

〈非主体的〉言表行為の差異を見てみよう。パンヴェニストに拠れば、「三

人称は、それを言表し、それを〈非=人称〉として位置づける話し手のわた

し人称との対立においてはじめて存在し、特性づけられるのである。これが

三人称の地位である。かれが… (il…)という形は、それが必ず〈わたし〉わ

によって言表される話に属することによって、その価値を得るのであるJ

(251) 0 さらに、パンヴ、エニストはこの人称の変化が生み出す意味効果を考

察し、 〈主体性〉の特徴をよりはっきりと見分けるために、ある種の「社会

的効力をもっ個人的行為を示す動調」一一一「誓う J(jurer)、「約束する」

(promettre)、「請け負うJ(garantir)、「保証するJ(certifier )など一ーを

例にあげ、次のように主張する。言表行為「わたしは誓うJ(je jure) は、

それによって「我 Ego自らが縛られる」、つまり「わたしを拘束する行為そ

のものであって、わたしが実行している行為の描写ではない」と O つまり、

je jureが一つの誓約行為であるのに対し、一方 iljure rかれは誓う」は単

にある一つの描写にすぎない。14

面白いのは、言語行為の主体的な形を記述するパンヴェニストのこの区別

はJ. L .オーステインのあの有名な「事実確認的J(constative) と「行

為遂行的J(performative)の区別に対応するということだ。15人称と主体化

の関係の考察を通し、発話行為に基礎をおく言語学を構築しようとするパン

ヴェニストがオーステインの言語行為論へと導かれるのは必然の成り行きと

言えるが、ここでもまた私たちはベケットのテクストにおける人称と語り、

そして主体の問題がレトリックの問題へと収数する現場を目撃する。そもそ

もレトリックとは聞き手に対する効果を狙った説得の術であるが、これこそ

「言葉によって何かをする」という目的を持つこと、すなわち「行為遂行的」

発言に他ならない。 16具体的にベケットのテクストから例文をあげるならば、

ベケットの催眠術 The Compαnyにおける「呼びかけJのレトリックー 57

「おまえは続けなくちゃいけない、わたしには続けられない、おまえは続け

なくちゃいけない、だからわたしは続けようJ(179) という『名づけえぬも

のjの語り手の典型的なレトリックはまさに「行為遂行的」発言であり、オ

ースティンに従ってより細かく分類するならば、この語り手の発言は「発語

行為J(locutionary act)であるとともに、その発言自体が「発語内行為」

(i11ocutionary act)の遂行ともなっているわけだ。17すなわち、イ可かを発言

しながら何かをおこなう場合、ここでは語り手が「続けようJと言いながら

実際に語りを「続ける」ことになる。

ベケットの小説における「語り」の問題をパンヴェニストと共に発話行為

の主体という観点からこれまで見てきたが、さらに、「わたし」という人称

の特異性はそれが話し手を指示すると同時に話し手たる「わたし」について

の言表を構成するというまさにその二重性にあることにも注目しよう o r発

話の主語」と「発話行為の主体」の一致が単に想像上のものでしかないと主

張し、主体と言語の関係から無意識の成立について新たな概念を提案したジ

ヤツク・ラカンについて、その理論をオーステインに引きつけようとスラヴ

ォイ。ジジェクはこのように注釈している。「ラカンは、自立的な象徴的秩

序の観念を練り上げたとき、一種の発話行為(遂行文)の理論を先取りして

いたのではないか。彼の最初のセミネーJレの基本的前提は、相互主観的な現

実は発話からなり、発話は、発話されるという行為そのものによって、主体

を、それが主張しているところのものにする o rおまえは私の妻だjrあなた

は私の先生ですJといった類の発話である。いいかえれば、主体がそれらの

呼びかけの中に自分を見出し、自分のなりたいものになるような、聞いや発

話であるJo18言語行為論に少しでも親しんだことのある者なら、ジジェクが

いつもの香具師めいた手つきで理論的すり替えを行っているかのように感じ

58 ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけJのレトリック

るだろう O というのも、オースティンが遂行文に挙げるほとんどのものは

「第一人称・単数・直説法・能動態・現在形の動調」を含んだ、事例であった

のに、ジジェクがラカンから引用する例は「おまえj、「あなたJというこ人

称であるからだ。しかし、むしろこの「わたし」から「おまえjへの移行は

『名づけえぬもの』と『伴侶』との違いをも特徴づけるものなのだ。中上も

またこのことに敏感に反応して、「催眠状態に陥っている読者は、何者かが

使うくおまえ〉という呼びかけによって、〈彼〉と同一化が起こる」と述べ

ていたが、まさにこの光景こそレトリックによって主体が形成される原克景

であることを、ラカンの他者の概念及び鏡像段階における自己認識の理論を

援用し「あなた」への「呼びかけJCinterpellation)の考え方に置き換えて

再考したフランスのマルクス主義哲学者ルイ。アルチュセールの「国家のイ

デオロギー装置」の理論とともに見ていこう O

なによりもまず、彼が発展させた理論の中でこの「呼びかけ」の過程はイ

デオロギーが個々の人間に主体としての自己認識を与える認知の瞬間の決定

的な働きを指している O イデオロギーは各個人を主体へと呼びかける、そし

て、個人はこの「国家のイデオロギー装置」の「呼びかけ」に答えることで

はじめて「主体Jとして確立されるのだ。アルチュセールはぼんやりと歩い

ている時、突然警官に「おい、そこのおまえJと呼びとめられる人の例をあ

げる。つまり、その声に答えることによって、つまり、立ち止まって警官の

方に振り返ることによって、その人は自分を権力の主体=臣民 (subject)

として認識、構成しているというわけである。19

では、この「呼びかけjとはどのようなものなのか具体的に『伴侶』の最

初の数パラグラフを見ながら補足していこう O 先ず第一パラグラフは次の簡

潔な命題で始まっていた。「一つの声が闇のなかの誰かにとどく O 想像する

ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけ」のレトリック 59

ことJ。そして第二パラグラフでは「一つの声が閣のなかで仰向けになって

いる誰かにとどく」とこの命題が敷街され、さらに次のように続く。

例えば、おまえは閣のなかで仰向けになっている、と言うのが聞こえて

くるときなど。この場合彼は言われたことを認めるしかない。しかし、

言われたことの大部分はとても確かめられない。例えば、おまえはこれ

これの目、日の目を見た、と言うのが聞こえるときなど。例えば、二つ

が結びっくこともある O おまえはこれこれの目、日の目を見た、そして

今おまえは、閣のなかで仰向けになっている。おそらく、一方に他方の

明白さを波及させようとする策略だ。そこでこんな命題が成立する O 関

のなかで仰向けになっている誰かに、一つの声が一つの過去を告げる。

(C 7)

注目すべきは、「声Jを聞いているのが「誰か」からこれ以後頻出する「お

まえjであると仮定されたこと、そして何より、この場合「彼jは言われた

ことを「認めるしかないJということだ。「声Jはこういったレトリックを

はっきりと「命題」であり「策略J(device)であると述べている。しかも、

「声だけが伴侶だが、それでは不充分だ。聞き手に対するその効果が、どう

しても補足として必要である。たとえそれがさっき言ったような不確かさと

気づまりの、あいまいな感情の形であっても。しかし伴侶の問題は別にして

も、このような効果が必要なことは確かだ」と、執効なまでの「聞き手に対

するその効果JCits effect on the hearer)の必要性を主張し、その呼びかけ

る声について、「最大の効果で発声すること。容易に聞こえるための理想的

な大きさ。過ぎた音量や、反対に緊張を強いるようなかすかさで耳を害さな

60 ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける f呼びかけjのレトリック

いよう気を配ってJ(C34) と述べ、そして再び、その「目的とは、聞き手

に過去をもたせて、それをしかも彼が認めることだJ(同)と念を押す。ま

さにこれこそ、「おまえ」と呼びかけられた個人に対する有無を言わさぬ認

知の瞬間ではないだろうか。「有無を言わさぬjというのは「おまえ」はそ

の呼びかけを「認めるj以外には選択の余地がないからである 20

「国家の抑圧装置J(軍隊、警察、司法制度など)と「呼びかけJすなわ

ち「国家のイデオロギー装置」を混同してはいけないとアルチュセールは注

意を促す。前者は暴力と恐怖によって支配しようとするが、後者は人々を支

配し支配される存在となるように説得をするO 説得がなによりもレトリック

に関わるとするならば、言うまでもなく「呼びかけjはつねにレトリカルな

性質をそなえていることになる。個人は国家のイデオロギー装置の呼びかけ

に答える一一「私です!J ことではじめて「主体」として確立される O

それゆえに、「呼びかけ」はつねに人称的であり「汝Jrおまえ」といったよ

うに具体的であることも補足しなければならない。その構造は、「汝(おま

え)は……」と呼びかけ、呼びかけられたものは「我(私)は……」で答え

るO 例えばこんな具合に。「おまえは閣のなかで仰向けになっている。そし

てある日、おまえは再び喋りだすだろう O ある日! ついに。おまえはつい

に再ぴ喋るだろう。そう、私は思い出す。それは私だ、った。あのときそれは

私だ、ったJ(C21)。

「わたし」から「あなたjへ。私たちはこの移行を、 r<我〉と言うもの

が〈我〉なのである」及ぴ「対話の言語学jであるパンヴェニストから「言

葉によって何かをする」オーステインの言語行為論を経由し、さらにはそれ

をラカンの他者の概念及び鏡像段階における自己認識の理論を援用し「あな

た」の側から書き直したナルチュセールの「呼びかけJへと接続した。わか

ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけ」のレトリック 61

りやすく、作品にそって言うならば、前期ベケットの到達点である『名づけ

えぬもの』が主体の解体過程を「わたしjという人称を執効に登用し続ける

ことによって表現したとするならば、『伴侶Jは「おまえ」という呼びかけ

のレトリックを導入することによって、その主体自体が担造される過程を暴

きたてる。まさにそれは、「閣のなかにおまえといっしょにいる他人につい

て作り話をするおまえについての作り話J(C63)以外のなにものでもない。

同じことを別の角度から注釈するならば、十九世紀の小説家が意識的に「読

者よ J(dear reader) という呼びかけをお題目のように繰り返すのは、すで

にある「主体」を単に「読者」に変えるだけであるが、一方、『伴侶Jにお

ける「おまえJという読者への呼びかけは、個々の人間を「主体」そのもの

に変えるものなのだ。

執筆の初めの段階では「開き書きJ(Verbatim) とか「声J(voice) と呼

ばれていた本作品の主役、つまり伴侶である「声」についても見ておきたい。

ここでも中上の書評は冴えている O 中上は述べる。「ここに多出するく声〉

といういわば、私たちの伴侶であるものをヒントに、実際に声を出して、朗

読してみれば、作者のしかけた装置がくっきりと顔を顕す」。すでに私たち

は『伴侶』というテクストを「呼びかけ」という国家のイデオロギー装置と

関連付けたが、ここで中上が言う「作者のしかけた装置」とはまさにその

「呼びかけ」のレトリックであることはもはや説明は要らないであろう。ジ

ェイムズ・ジョイスのテクストがたいへん声を意識したものであり、朗読す

ると面白いということはしばしば指摘されることであるが、これはそのまま

ベケットの『伴侶jというテクストにもあてはまる o rおまえは閣のなかで

仰向けになっているJをはじめとする、その他、単語、句、丈、パラグラフ

単位の同じフレーズの繰り返しは催眠術的な効果を狙ったレトリックである

62 ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけ」のレトリック一一

とともに、ウオルター・ J.オングが声の文化の特徴としてあげる、記憶

のしやすさをつねに念頭においたあの「決まり文句jと「紋切型Jをも例証

するものだ。21r伴侶jの「声」も以上のことに意識的であるo rもう一つの

特徴はくどい繰り返しだ。いつまでもほとんど変わりのない同じ過去。まる

で、その繰り返しを彼が自分のものにしてしまうよう、無理強いするみたい

に。そう、私は思い出す、と彼に白状させようとして。そのうえ、彼にたぶ

ん一つの声をもたせようとして。そう、私は思い出す、と彼につぶやかせよ

うと。それは伴侶としてずいぶん役立った、ろう O とぎれとぎれにつぶやく一

人称の声、そう、私は思い出すJ(C16)。

付け加えるべきは、『伴侶』の音読はオングの言う「文字に基づく声の文

化literateorality Jとしてのラジオとテレビによって生み出される「二次的

な声の文化」の模範的な実演ともなっていることだ。実際、メディア技術に

対しつねに意識的であったベケットは、ラジオ、テレピ、映画といった新し

い視聴覚メディアでそれぞれの特長を生かした前衛的な作品を次々と発表し

てきた。面白いことに、「呼びかけJという国家のイデオロギー装置を記述

する際、アルチュセールが電気通信といったものからの呼びかけも同様で、あ

って、呼ぴかけられた人物はつねに呼びかけられたのが自分だと認識すると

述べていたことも想起されたい。22メディア時代の申し子ベケットがつねに

熟知していたように、彼にとって何より最大のメディアは「言語」そのもの

で、あった。もちろん、これまでの私たちの関心に引きつけるならば、それを

「レトリック」と言い換えてよいのは言うまでもない。『伴侶』における「お

まえJという呼びかけは、まさにこの言語=レトリックというメディアその

ものからの「呼びかけJでもあるのだ。

「おまえ」と呼びかけられていた読者が、テクストを朗読することで今度

ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけ」のレトリック 63

は「おまえ」と呼びかける、つまり、催眠術を受けていた読者が、さらにこメデイウム

の音読によって「声jに癌依され霊媒=レトリックそのものになってしまう

からくりだ。23中上は朗読によって『伴侶』の戯曲性が明るみに出ると述べ

ていたが、24そもそもレイナムが「レトリック的な自我」の演劇性を強調し、

アルチュセールが「国家のイデオロギー装置」を「呼びかけという芝居」と

その「役者たちJ(79) に例えているように、『伴侶』というテクストの読書

体験とは、「呼びかけJによって主体が確立する瞬間を読者に呈示するだけ

でなく、まさに読者自身の主体がテクストからの「呼びかけ」によってま里造

される過程を実演しバーチャルに体験させてみせる。25音読はこの『伴侶』

というテクストに内在するパフォーマテイブな側面をより前景化するものな

のだ。

最後にこの「声」という観点から、自叙伝としての『伴侶』について立ち

返って見ょう O 墓碑銘や自叙伝の言説の主要な比喰は「活除法、墓の向こう

からの声という虚構であるJ(R98) と述べるド。マンによれば、活除法と

は「その場にいない、または亡くなった、あるいは声のない存在に呼びかけ

るという虚構であって、そういった存在の返答の可能性を仮定し、話す力を

それに授けるというものJ(R96-7) である O ド・マンがここで自叙伝を

「声」を与えることとして捉え、しかも、「呼びかけるという虚構J(the

fiction of apostropheあるいは thefiction ofαddress) として捉えているの

は面白い026さらに、 H半侶jの翻訳者である宇野邦ーも、中上の先の書評に

ついてのコメントで、中上が『伴侶jを折口信夫の『死者の書』の官頭、死

者が目覚めつつある幻想風景をイメージして読んでいるのではないか 27と

示唆していたが、ここでも「声」を与えることと死者が蘇ることが同じ次元

で扱われることになる O 再度繰り返し引用しておこう o Iおまえは閣のなか

64 ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけjのレトリック

で仰向けになっている。そしてある日、おまえは再び喋りだすだろう O ある

日! ついに。おまえはついに再び喋るだろう O そう、私は思い出す。それ

は私だ、った。あのときそれは私だ、ったJ(C21)o

主体がつねに「おまえJという「呼びかけjの中でしか存在しないことは、

『伴侶jと同時期に執筆された『モノローグ一片Jの冒頭の台調では、「誕生

は彼の死だ、ったJ(“Birth was the death of him") 28と簡潔に表現される O

確かに、レトリックによる主体の形成と解体の物語としてみるならばこの小

品も『伴侶』も『名づけえぬもの』も、さらにはその他のベケット作品も大

きな違いはない。ベケット自身も、この独演用の作品 (fモノローグ一片~)

を書いて欲しいと依頼を受けた時、その返事の手紙の中でこのテーマについ

て次のように述べている o n誕生が俺の命取りだ、った』。しかし、この新鮮

味のない話を、四十分(五千語)も続けるのはまず無理です。目下着手不能。

おそらく過去の作品から、あなたの手で抜粋版を作るのがよろしいかと存じ

ます。あらかじめ署名の入った白紙委任状を、わたしの祝福とともにお送り

します。あなたが抱くイメージは、きっと既存の作品の中に見いだせるはず

ですJo29ベケットのこのコメントは確かに彼の順列組合せに対する偏愛を知

るうえで興味深いものだ。しかし、むしろわたしたちが注目すべきは、ベケ

ットが気の進まないままにもこの依頼された作品を仕上げる一方で、なぜ、あ

えてまたそれとは別に同じテーマの『伴侶』という作品をしかも今度は意欲

的に執筆したのかという理由である O もちろんその理由はすでにこれまで何

度も述べたように、「わたし」から「あなた」へのレトリックの移行である。

それは『名づけえぬもの』に特徴的であったように、「わたしJという人称

を執効に登用することによって主体の解体過程を表現したものを、今度は

「おまえ」の側から書き直すという試み、つまり、中上が「呪文」、「催眠術」

ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけjのレトリック 65

と述べる「呼びかけ」のレトリックを導入することによってこの主体そのも

のが形成される過程を前景化するためであった。30

さらに言語行為論から補足するならば、「誕生は彼の死だったJ(あるいは

「誕生が俺の命取りだ、ったJ) という文はあくまで事実確認的であるが、「お

まえは闇のなかで仰向けになっているJは、これまで見てきた「呼びかけ」

のレトリックを考慮するならば、行為遂行的、すなわち発語内行為であると

注釈することもできるだろう。この「呼びかけjによる有無を言わさぬ認知

の瞬間は、発語内行為における発言の意味ではなく、オーステインがいうと

ころの発言の力に関係している。彼自身はこの「発語内の力」

(i11ocutionary force)について詳細には述べていないが、このことは言語行

為論の遺産管理人たるジョン。サールによってより精密に議論されている O

サールは発語内行為を、主張型、指示型、拘束型、宣言型、表明型に分類す

る31のだが、『伴侶Jにおける「呼びかけ」のレトリックを考察してきた私

たちにとって最も興味深いのは、彼が「一番やっかい」だと言ういわゆる

「宣言型」である O すべての発言はそれに付随する発語内の力によって定義

され行為を成し遂げるのだが、宣言型だけがその他四つのものと決定的に違

うのは、この宣言型だけが陳述内容を実現するからである O すなわち、何ご

とかを成立しているものと表象することによってそれを成立させようとして

いる。32

その一方で、サールは、「なぜ、われわれには『私はこの発言によって卵

を焼く Jという宣言がなく、宣言の力で卵を焼くことができないのだろうか」

という疑問を呈す。33サールの答えは簡潔だ。なぜなら、「それが表象の能力

を超えているからである」と。『伴侶』の世界、この「呼びかけ」のレトリ

ックによって形成される世界はある意味この宣言の力で卵を焼くことのでき

66 ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけJのレトリックー

る世界である o rおまえjという呼びかけが有無を言わさぬ認知の瞬間であ

るということは、これが宣言型であるなによりの証だ。ベケットは「おまえJ

という呼びかけのレトリックを駆使して主体を形成する催眠術師であるとと

もに、そのからくりを暴露しているという意味において脱催眠術師であり、

彼の戦略はまさに「名づけえぬもの」を名づけようとする、あるいは「表象

の能力を超えている」ものを表象しようとする、レトリックによってレトリ

ックの本質を暴き立てる試みだ。サールはこの宣言型の文に宿る力を「言葉

の魔術J(form of word magic)と表現しているが、中上が同じように「お

まえは閣のなかで仰向けになっている」を「呪文」のようだと表現したのが

いかに適切で、あったかが分かる O

『伴侶』の最後のパラグラフの「ただ一人J(“Alone") CC63) という力強

い一語は、「声」が「おまえjに呼びかけ、その誕生から死までの、その幼

年期、青年期、老年期の「物語」のダウンロード&インストールがついに完

了し、「主体jが確立したことを宣言するものだ。もちろん、この「主体」

が「呼びかけ」というレトリックの中でのみ存在が可能である以上、この主

体化の過程はいったん終わった後もなお終わることがない。それは私たちの

語り方や思考法をも決定づけるこのレトリックというものから逃れることが

不可能であり、「呼びかけ」によって「声Jを与えられ復活、形成したこの

「おまえ」がつねに生きながらの死者であることを宣言するものでもある。

ベケットは『伴侶』というテクストのその催眠術的語り、すなわちその「呼

びかけ」のレトリックをとおし私たち読者にこう宣言し続けるのだ一一「お

まえはもう死んでいるjとO

ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけJのレトリック 67

1 一九九O年八月二十七日『産経新聞』夕刊。中上健次『中上健次エッセイ撰集

一一文学・芸能篇J(東京:恒文社 21、2002年)に所収。

2 ジ、ェイムズ・ノウルソン『ベケット伝』、高橋康也[ほか]訳(東京:白水社、

2003年)、(下巻)313-3140

3 Samuel B巴ckett,The Company (New York: Grove Press, 1980),35.これ以降

項数の前に Cと略称する。尚、日本語での引用は宇野邦一訳『伴侶J(東京:書

津山田、 1990年)を用いた。

4 ロラン・バルト「作者の死Jr物語の構造分析』花輪光訳(東京:みすず書房,

1979年)。

5 バルトは「作品からテクストへ」の中で次のように述べている。

テクストは、その父親の保証がなくても読むことができる O 相互関連テク

ストの復権が、逆説的にも相続を廃止するのだ。ということは、「作者」

が「テクスト」のなかに、自分のテクストのなかに〈もどれ〉ないという

ことではない。ただ、そのときは、いわば招かれた客としてもどるのだ。

それが小説家なら、紋塗(=テクスト〕に描かれた作中人物の一人のよう

に、そこに記名されるのであるo [……]彼の人生は、もはや彼の創作の

起源とならず、彼の作品と競合する一個の創作となる。作品から人生への

逆流が起こるのだ(もはや、その反対はない)。ブルーストの、ジュネの

作品が、彼らの人生を、一個のテクストとして読むことを可能にするので

ある。(バルト『物語の構造分析.J, 100)。

6 ポール・ド・マン『ロマン主義のレトリック』山形和美、岩坪友子訳(東京:

法政大学出版局、 1998年)、 890これ以降項数の前に Rと略称する。

7 Paul de Man, BZindnessαnd Insight: Essαys in the Rhetoric of

Contemporary Criticism. Second Edition, Revised (Minneapolis: University of

Minnesota Press, 1983), 137.

8 リチヤード.A.レイナム『雄弁の動機 ルネサンス文学とレトリック』早

乙女忠訳(東京:ありな書房、 1994年)、 20-21.

68 ベケットの催眠術 The Companyにおける「呼びかけ」のレトリックー

9 Samuel Beckett, The Unnαmαble (New York: Grove Press, 1958).

10 エミール・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』岸本通夫監訳;河村正夫

[ほか]共訳(東京:みすず書房, 1983年)。 ベケットの作品をバンヴェニスト

の言語学の観点から真っ向から論じたものは以外に少なしあっても散発的な言

及にとどまっている(例えばその初期のものとして、オルガ・ベルナル『ベケッ

トの小説一一沈黙と語のあいだ』安堂信也訳[東京:紀伊園屋書庖, 1972J)。そ

のような中、例外は NobuyoshiSaito, "Man in Language: Toward a

Philosophy of Language for Samuel Beckett's The Unnamαble" r同志社大学

英語英文学研究j32 (同志社大学人文学会, 1983)で、パンヴェニストの言語学

がハイデガーの言語哲学と絡め論じられている。

11 ウェイン・ c.ブース『フィクションの修辞学j米本弘一,服部典之,渡辺克

昭訳(東京:書庫風の蓄積、 1991年)を今一度再読のこと。

12 rなぜパンヴェニストを愛するか」の中でバルトは次のように述べている。

主体は、言語活動に先立つて存在するものではない。ただ言葉を話すかぎ

りにおいて主体となるのだ。要するに、〈主体〉なるものは存在せず(し

たがって、〈主観性〉なるものも存在せず)、ただ話し手だけが存在するの

であり、さらに言えば一一パンヴェニストがたえず注意を喚起しているよ

うに 対話者しか存在しないのである O

こうした観点から、パンヴ、ェニストは、ヤーコブソンによって華々しく

提出されたシフターの観念を著しく押し広げ、バンヴェニスト以外にはど

こにも存在しない(とりわけチョムスキーのもとには存在しない)、ある

新しい言語学を創始する。つまり、対話の言語学である。そこでは、言語

活動が、ひいては世界全体が、あの私/あなたという形式にもとづいて分

節される。(ロラン・バルト『言語のざわめき』花輪光訳[東京:みすず

書房, 1987年]、 221)0

13 r人称代名詞をわたし、あなた、かれという三つの用語を含むものとする通常

の定義そのものが、まさに〈人称〉の観念を破壊していることを知らねばならな

い。〈人称〉はただわたし/あなたにのみ固有のもので、あって、かれのなかには

ベケットの催眠術- The Companyにおける「呼びかけJのレトリック 69

欠けているのである。この基本的な差異は、わたしを分析することによって明ら

かになるであろうJCバンヴェニスト『一般言語学の諸問題』、 234)。

14 パンヴ、エニスト、前掲書2印刷252及び2570

15 J. L. Austin, How to Do Things With Words, 2nd ed. CCambridge, Mass.:

Harvard University Press, 1975) C邦訳『言葉と行為j坂本百大訳[東京:大修

館書底、 1978年])。

16 オーステインは「事実確認的jと「行為遂行的Jという二つの区別を最後には

あらゆる言語が行為遂行的であると脱構築的に破棄するのだが、「言語行為論」

を私たちの関心であるレトリックと関連づけるならば、ド・マンもまた「文法」

と「修辞」の差異を述べる時、前者を「事実確認的J、後者を「行為遂行的」に

暗に対応させながら、結局は修辞性があらゆる言語の特質をなすものでありそれ

がまた私たちの誇り方や思考法をも決定づけると主張するのは注目に値する。

(pαul de Man, Allegories of Reαding : FigurαlLαnguαge in Rousseαu,

Nietzsche, Rilke,αnd Proust [New Haven : Yale University Press , 1979]、特

に第一章“Semiologyand Rhetoric"は熟読のこと)。

17 行為遂行的発言と事実確認、的発言という区別を放棄しなければならなくなった

あと、オーステインは別の角度から、つまり f何ごとかを言うことが何ごとかを

行うことであるということ、あるいは、何ごとかを言いつつ何ごとかを行なうと

いうこと、さらには、何ごとかを言うことによって何ごとかを行なうということ

に、幾通りの意味があるのか」といった観点から同じ問題を再考する。この際、

彼は発言に関わる行為を、一定の文法に合致するような文をなす音声を、一定の

意味と指示対象をもつようなやり方で発する「発語行為J、何ごとかを言いつつ

ある一定の力を示す「発言昔内行為J(すなわち、何かを言うという行為の遂行では

なく、何かを言いつつ行っている別な行為の遂行)、そして、何ごとかを言うこ

とによってある一定の効果を達成する「発語媒介行為J、の三つに分類している。

18 スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ一一ハリウッド vsラカン』鈴木晶

訳(東京:筑摩書房、 2001年)、 550

19 アルチュセールは「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」という有名な論

70 ベケットの催眠術 The Companyにおける「呼びかけJのレトリックー

文の中で「呼びかけjを次のように定義づけている。

こうしてわれわれは、イデオロギーは、われわれが呼びかけ

Cinterpellation) と呼び、警官(あるいは警官でなくとも)が毎日やって

いる、『おい、そこのおまえ!jといった、きわめてありふれた呼びかけ

〔尋問〕の型にしたがって想像できるきわめて明確な操作によって、諸個

人のあいだから主体を募り(イデオロギ}は諸個人をすべて徴募する)、

あるいは諸個人を主体=臣民に〈変える)(イデオロギーは諸個人をすべ

て変える)ように〈活動し〉あるいは〈機能する〉ものであるということ

を示唆しておきたいと思う O

もしわれわれが想像したような理論的な場面が街頭でおこったとすれ

ば、呼びかけられ〔尋問され〕た個人はふり向くであろう。このような一

八O度の単純な物理的回転によって、この個人は主体=臣民になる。なぜ

か? なぜなら彼は呼びかけが〈まさしく〉彼にむかつてなされており、

また〈呼びかけられたのはまさしく彼である) (そして,他者ではない)と

いうことを認めたからである。実験の示すところによれば、電気通信を用

いて呼びかけをおこなう場合も同様であって、この呼びかけはじっさいに

はかならず当人に伝えられる o つまり言葉による呼びかけであろうと、呼

子の一吹きであろうと、呼びかけられた当人は常に、呼びかけられたのは

自分であるということを知っている。しかしながらこれは奇妙な現象であ

り、〈自分に疾しいところのある〉人々がいかに大勢いるにしても、 〈罪

の意識〉のみでは説明できない現象である。(引用はルイ・アルチュセー

ル『国家とイデオロギー』西川長夫訳[東京:福村出版、 1975年]を用

いたが一部変更した)。

20 呼びかけを「認めるj以外には選択の余地がないのはアルチュセールの「呼ぴ

かけ」の理論は暗にラカンの「常に宛先に届く」手紙についての論文をふまえて

いるからである。つまり、この「呼びかけ」という手紙は決して宛先を間違える

ことはないのだ。「彼はときどき、声が彼にむけられているのか、それとも同じ

状況にある別の人間にむけられているのか、自問する。声が彼の状況を正しく説

ベケットの催眠術 The Compαnyにおける「呼びかけ」のレトリックー 71

明していても、この説明は同じ状況にある別の人間にむけられていることもあり

うるからである。この疑いは、声が四方に霧散するのではなく、彼にむけて押し

寄せるにしたがって、徐々に否定されるJ(C44)。

21 Walter J. Ong, Oralityαnd Liter.αcy : The Technologizing of the Word

(London; New York: Methu巴n,1982). r伴侶Jにおける言葉の反復については

次も参照のこと。 RubyCohn, A Beckett Canon (Ann Arbor : University of

Michigan Press, 2001), 348幽355.また DavidWatsonはPαradoxαndDesire in

Sαmuel Beckett's Fiction (London : Macmillan, 1991), 146-154において『伴侶J

における反復をラカンを援用しつつ“ghoststoη"という観点から再考している。

22 註 19の引用を参照のこと。

23 ベケットとジャンルの問題及び彼の作品の“mediumisticfunction"について

は以下を参照のこと o Steven Conner,“Over Samuel Beckett's Dead Body," in

Beckett in Dublin, edited & introduced by S. E. Wilmer (Dublin, lreland :

Lilliput Press, 1992).補足するならば、レイナムがルネサンスのレトリック研

究から電子メディア論 (RichardA. Lanham, The Electronic Word: Democracy,

Technology,αnd the Arts rChicago : University of Chicago Press, 1993])へと

向かうことになったのもレトリックとメディアの毅密な関係からすれば必然の成

り行きと言える。

24 rそう考えると、これ (r伴侶j) を戯曲ととることもできる。もちろん詩に極度

に接近した〈名づけえぬもの〉ともJ(中上、前掲書、 312)0

25 ベケットの散文の演劇牲については以下を参照のこと o S. E. Gontarski,

“Compαny for Company: Androgyny and Theatricality in Samuel Beckett's

Prose," in James Acheson and Kateryna Arthur eds., Beckett's Lαter Fiction

αndDramα: Texts for Compαny, (Basingstoke: Macmillan, 1987), 193-202.

26 虚構と自叙伝の区別は二者択一的なものではなくて、決定不可能で、あり、つま

り、それはジャンルや様式ではなく、あらゆるテクストにおいである程度生じる、

読みや理解の比除であると主張するド・マンによれば、「自叙伝が生まれる契機

は読みの過程に関わり、そのなかで互いに反射して置き換わることによって明確

72 ベケットの催眠術 TheCompαnyにおける「呼びかけjのレトリックー

にし合う二つの主体聞の連合という形をとって生じるJ(R90)。ド・マンはこの

著者と読者、著者と彼の名を持つテクスト内の著者の関係の鏡像構造を繰り返し

主張するのだが、この鏡像構造にラカンとアルチュセールの主体化の理論の響き

を聞かないわけにはいかない。

このような鏡像構造は f伴侶』においてはMとWという鏡像的なアルファベッ

ト(もちろんこの M とwがベケットの作品の登場人物たちのイニシャルでもあ

ることは言うまでもない)を用いタイポグラフイカルな表現が与えられている。

「彼が決意して開き手を少なくともMとよぶまで。指示を容易にするためである O

自分自身は別の文字。 wでJ(C42-3) 0 r彼の名づけがたさ。 Mでさえ消えなく

てはならない。こうしてWは、自分の作ったものをこれまで作ってきた通りに回

顧する。 W? しかし彼もまた作られたものである。幻影J(C45)。

27 rユリイカ.11996年2月号の保坂和志との対談。

28 Samuel Beckett, The Complete Drαmαtic Works (Faber and Faber, 1990),

425.

29 ノウルソン、前掲書、(下巻)310。

30 ベケットを『伴侶』という自伝的な作品の執筆に向かわせたもう一つの理由を

あげるとするならばそれは本作品の二年前に出版されたデアドラ・ベアによるベ

ケットの伝記ではないだろうか。彼女の伝記の中にベケットは登場人物としての

自分、その誕生から現在にいたるまでの「客観的Jデータの積み重ねによって構

築されたもう一人の「サミュエル・ベケット」を見出したに違いない。『伴侶』

は彼女の伝記の「おまえはこういう人間だJ、「おまえの人生はこうだ」という

「呼びかけJに対する返答でもあったのだ。デアドラ・ベアによる伝記と『伴侶j

の関係については、 DeirdreBair, 叫Backthe Way He Come . . . or in Some

Quite Different Direction': Company in the Canon of Samuel Beckett's

Writing," PennsylvαniαEnglish : Essays in Filmαnd the Humanities 9 (Fall

1982)及びH.Porter Abbott, Beckett Writing Beckett: The Author in the

Autograph (Ithaca, N.Y. : Cornell University Press, 1996) を参照のこと。

31 John R. Searle, Expression and Meαning : Studies in the TheOTッofSpeech

ベケットの催眠術-TheCompαnyにおける「呼びかけ」のレトリック 73

Acts CCambridge : Cambridge University Press , 1979), 1-29.

32 r宣戦布告、男女を夫婦と宣すること、会議の商会、辞職といった宣言型言語

行為は、他の型の言語行為にない特別な性質を二つもっている。第一に、宣言型

の発語内行為の主娘点は、発話を行うだけで何か新しい事態をもたらすことにあ

るので、宣言型は適合方向を三っとももっている。われわれは、 Pという事態が

成立しているものと表象することによって、 Pという事態をもたらす。すなわち、

『私はあなたたちを夫婦と宣する』という宣言は、二人が夫婦であるという事態

が成立しているものと表象する(言葉から世界への適合)ことによって、二人が

夫婦であるという事態を成立させる(世界から言葉への適合)のであるJ(ジョ

ン・ R ・サール『志向性 心の哲学J坂本百大監訳[東京:誠信書房, 1997

年]、 236)。

33 サール『志向性j、2420