ヨーロッパの新しい独自性eba-kogiseminagamine/20141125ff...第6章...

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第6章 非植民地化の時代のグローバルな文脈のなかのヨーロッパ 繁栄期(50 年代から 70 年代初め)のヨーロッパのグローバルな諸関係 五つの新しい展開 1戦後期に対する新しいヨーロッパの独自性 2脱植民地化、新たな国際機関や非政府組織(NGO)におけるヨーロ ッパの役割の変化 3冷戦・・・これは限定的にしかヨーロッパをグローバルに結びつけ なかった。 4ヨーロッパと世界の他地域との間の移民の流れの変化 5世界の人々のヨーロッパ・イメージの変化、およびヨーロッパ人の 世界を見るまなざしの変化によって。 ヨーロッパの新しい独自性 1950 年代から 1970 年代初期までの間、年当たり約 4%の経済成長高い成長率、持続的な経済成長 世界のほかの地域にはない。 日本においてのみ、その成長がさらに高かった。」

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Page 1: ヨーロッパの新しい独自性eba-kogiseminagamine/20141125ff...第6章 非植民地化の時代のグローバルな文脈のなかのヨーロッパ 繁栄期(50 年代から70

第6章 非植民地化の時代のグローバルな文脈のなかのヨーロッパ

繁栄期(50 年代から 70 年代初め)のヨーロッパのグローバルな諸関係

五つの新しい展開

(1)戦後期に対する新しいヨーロッパの独自性

(2)脱植民地化、新たな国際機関や非政府組織(NGO)におけるヨーロ

ッパの役割の変化

(3)冷戦・・・これは限定的にしかヨーロッパをグローバルに結びつけ

なかった。

(4)ヨーロッパと世界の他地域との間の移民の流れの変化

(5)世界の人々のヨーロッパ・イメージの変化、およびヨーロッパ人の

世界を見るまなざしの変化によって。

ヨーロッパの新しい独自性

1950年代から 1970 年代初期までの間、年当たり約 4%の経済成長、

高い成長率、持続的な経済成長

世界のほかの地域にはない。

「日本においてのみ、その成長がさらに高かった。」

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ラテンアメリカ、アフリカ、アジア、そして北アメリカも、

経済成長においてはヨーロッパよりはるかに低い成長率

この期間の世界の経済成長は、平均で年当たり 3%足らず

アフリカ・・・ヨーロッパと極めて著しい対照

世界の諸地域に対するアフリカの経済的な遅れは、すでに当時から一層拡大

しかし、四半世紀(50年代から 70年代初めの約 25年間)

・・・・地球全体としては経済急成長の時期

それ以前には、そしてもはやそれ以後も、グローバルな経済成長がこれほど

高かった時期はなかった。

アフリカでも成長率は平均で年当たり 2%ほど。

世界の諸地域間のグローバルな成長率の差は、この時期には全体としてはわ

ずかながら減少しさえした。

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ヨーロッパ・・・世界的に見て抜きん出た成長・・・経済ブーム

その結果、新たなグローバルな役割

日本とともに、グローバルな模範地域と成長機関車の役割

20 世紀全体を通じる長期的な傾向

・・・世界の中でのヨーロッパの比重の低下

ヨーロッパが世界の生産に占める割合の低下

1900 年の約 3 分の 1 から

2000 年の 4 分の 1 へ低下

しかし、1950 年代から 1970年代初期にかけては、

低下しないで安定

その世界人口に占める割合が非常に低下したにもかかわらず、

世界生産に占める割合は安定

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世界貿易におけるヨーロッパの重要性が増大

西ヨーロッパの国民総生産に占める輸出の割合は、

1950年代から 1970年代初期にかけて約 9%から 19%へ増加

世界貿易の半分以上がヨーロッパにおいて、

そしてヨーロッパとの間で

この大陸は、1914年以前のように、世界の最も重要な貿易地域

東ヨーロッパにおいても国民総生産に占める輸出割合は 2%から 6%へ増加

全ヨーロッパの輸出志向・・・この期間に、1870と 1914年の間のグローバル

化の時期におけるそれを超えて上昇

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対外貿易の非常に急速な成長と密接に関連して、

ヨーロッパの別のもう一つの経済的独自性が再び顕著

その特に強力な工業志向

その発展において工業が最大の就業部門である段階を走り抜けたのは、

ヨーロッパ社会だけ

アメリカ合衆国、日本、カナダ、あるいはオーストラリアといった当

時の近代的なヨーロッパ外の社会・・・被雇用者の数ではサービス部門

が農業部門のすぐ後に続いた。

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ヨーロッパの強力な工業志向の結果・・・・工業地区や工業

都市全体、工業労働者や工業企業がヨーロッパ社会をヨーロッパ外の社会よりもはる

かに強く特徴づけた。

一連のイギリスやベルギー、ドイツ、スイス、そしてボヘミアのような国々や地

域では、こうした工業社会の時代はすでに 19世紀に始まっており、なおも持続していた。

1950 年代から 1960年代にかけての決定的な新しい展開は、いまやヨーロッパに

おいて全体(ソ連とトルコを除くが)として工業が最大の就業部門になったことで

ある。

1950年頃まではまだ農業部門の就業が優位。

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ヨーロッパの第二の独自性

人口増加の低さ

年 0.9%で 19世紀と同程度の高さ

1930年代・・・0.6%に落ち込んでいた

しかしグローバルな比較においては、ヨーロッパの人口増加は完全に型破り

・・・グローバルな標準の半分未満

人口が毎年 2%以上増加していたアジア、ラテンアメリカ、アフリカと

比べて特に著しく後れ

年間 1.6%、あるいは 1.2%の人口増加を見せていたアメリカ合衆国あ

るいは日本よりも低かった

グローバルな比較において人口増加が著しく緩慢であったのは

西ヨーロッパにおいてのみ

東ヨーロッパはそうではなく、西のほとんど 2倍の高さ

およそ日本と同程度の水準

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ヨーロッパにおける緩慢な人口増加は、家族の離反?

まったくその逆で、1950年代と 1960年代は

第三のヨーロッパ的独自性の時代

すなわち、

家族の強い慈しみの時代

結婚願望はこの時代、ヨーロッパで特に高かった。・・・結婚ブーム

これと比較できるような結婚ブームは世界のどこにもなかった。

ヨーロッパでは未婚の割合がとりわけ大きく減少

多産性の数値が高くなった。

ヨーロッパはベビー・ブームを経験

世界の他地域と比較してではなく、

それ以前の数十年と比較して、

グローバルな比較で結婚年齢がなんといっても特に高か

ったことと見ても、並はずれて高かった。

比較的高齢での多産性

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離婚率の高さとの関係は?

ヨーロッパでは離婚の数も同様に並はずれた高さに達した

しかし、アメリカ合衆国、ソ連、あるいは東南アジアのはるか後方に

西ヨーロッパにおけるこうしたグローバルな比較での特殊な家族の慈しみ

・・・長期にわたる発展に基づく。

ヨーロッパの家族の特殊性・・・すでに中世以来、形成

すなわち、配偶者双方の非常に遅い結婚年齢、

その結果としての殊更に低い出生率、

さらには非常に高い未婚の割合、

三世代世帯の特段の少なさ、

そして非常に強力な家族の親密さ

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ヨーロッパの第四の特色

緩慢な人口増加の重要な結果・・・

都市膨張の在り方・・・緩慢、ゆっくり

世界の他のところよりも、日本やアメリカ合衆国、ラテンアメリカ、

オーストラリア、ソ連、そして中国におけるよりもはるかにゆっくり

とくに西ヨーロッパで。

東ヨーロッパについてはさほどではなかった。

20の世界的な大都市のリストのなかに 1900年にはまだヨーロッパの 9都市、

1950年でもまだ 5都市

1975年にはわずかに 2つの都市、

すなわちロンドンとパリだけ。

百万都市はヨーロッパではゆっくりと成長

そこで暮らす都市住民の割合も、ヨーロッパでは世界のたいていの地域におけるよ

りもずっと少なかった。

ヨーロッパでは他の地域よりも中規模の諸都市がはるかに大きな魅力

ヨーロッパは世界の他の地域に比べて、都心の荒れたスラム街や乱雑に膨張した貧

民街に悩まされることがはるかに稀だった。

ヨーロッパ諸都市のゆっくりとした発展は、比較的容易に制御され、より良い都市

計画を可能にした。

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最後に第五に、ヨーロッパ・・・西側においては、市場経済と国家

が特別の共生関係

西ヨーロッパにおける国家の重要性

全体として、西ヨーロッパ経済においては、1975年に国民総生産の約 44%が国家によって

使われた。

これに対して、

カナダでは 38%、

アメリカ合衆国では 35%、

オーストラリアでは 32%、

そして日本では 27%にすぎなかった。

しかし東ヨーロッパの共産主義諸国との比較では、逆に経済過程の制御に占める市場の

割合がはるかに重要であった。

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西ヨーロッパの独自性

市場経済の誤った発展を国家の強力な干渉によって修正し経済を近代化すること、

しかし同時に市場経済を放棄しないこと、これが独特の西ヨーロッパ方式

共産主義諸国から区別

他の大部分の西側諸国からも区別

西ヨーロッパ・・・西側のどこよりもはるかに強力に、国民国家が経済に干渉

その重要度・・・1950年代から 1960年代にかけては、

輸送や交通、メディア、情報伝達といった経済のダイナミックな領域において大

当時急速に成長していた一つの新しい部門、航空交通は、ヨーロッパではアメリ

カ合衆国と異なって、この時期にはまだ国家の航空路線および国営の空港会社によって完

全に支配されていた。

経済の主導部門、自動車産業においては、最大の自動車製造業者のうちの二つ、ル

ノーとフォルクスワーゲンがほとんど国有下

新しい高速自動車道路網の建設・・・、たいていのヨーロッパ諸国ではヨーロッ

パ外の工業諸国とは異なって、国家管理の下で促進された。

鉄道制度・・・この時期、交通部門のなかでかなりゆっくりと成長する領域

ここでは国営企業が支配的

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この部門における大きなイノヴェーション、超特急の最初の諸計画が当時の

フランスで、そしてもちろん日本でも新幹線の建設が始まった。

情報伝達部門・・・アメリカ合衆国とは異なり、

ヨーロッパではどこでも国営企業が電話網を管理

電話・・・この時代に初めて大衆的情報伝達媒体へのブレブレイクスルー

郵便業務・・・ヨーロッパでは国営企業が伝統的

テレビとラジオ・・・西ヨーロッパのたいていの国において、ほとんど、あ

るいは完全に国家の手中に。

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西と東の国家干渉の違い

西側諸国では、市民社会の自立性の保持の下に、市民の共同参加と彼らの自立性や

プライバシーの保護の下に

西側では、福祉国家

福祉国家の支出・・西ヨーロッパでは、平均して世界の他のところよりもはる

かに急速に増加

1970年代半ばに平均で国民総生産の 16%・・・「突出」

当時のいわゆる「第三世界」・・・たとえば比較的裕福であったメキシコや韓国

でさえ国民総生産の 2%から 3%を超えることはなかった。

アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、日本・・・

国民総生産の 8%から 11%であった

老齢、就業不能、疾病、失業に対する国家的な社会保険の完全なプログラム・・・

ヨーロッパ、ならびにオーストラリアとカナダにおいてのみ、構築

それに対してアメリカ合衆国では、さらには日本においても不完全

西ヨーロッパ・・・国家的に保護された市民の割合は、世界の大部分の他の

裕福な諸国におけるよりも非常に高い

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その他の社会的な諸領域

・・・国家の強力な役割

保健サービス、

幼稚園から大学までの教育、

都心再開発や新しい都市の建設に際しての都市計画、

近距離交通や上水供給・下水処理、ゴミ回収および電力・ガス供給における都市の

サービス企業において

高級文化においても・・・劇場、オペラ、博物館、コンサートホール、記念館や記

念碑、城のような文化財的記念建築物、そして公園、さらに一部には教会においても。

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ヨーロッパにおける国家の役割の大きさは、何ゆえか?

国家がヨーロッパではなぜ、アメリカ合衆国、カナダやオーストラリア、ヨーロッ

パ人が入植したあらゆる国々におけるよりも、

しかしまた日本におけるよりも、大きな重みを持ったのか?

非常に長期的な理由・・・・調整し干渉する君主制の伝統

君主制・・・17世紀と 18世紀における絶対主義の時代に比較的効率的な国家行

政機関を創設

19世紀と 20世紀のヨーロッパの諸国民国家はこの伝統に、とりわけ文化

や都市計画において依拠

ヨーロッパではすでに 19世紀に、強烈な近代化の要求から国家干渉が出現

近代化の要求・・・二つの世界大戦の結果、アメリカ合衆国に対する顕

著な遅れ・・・今度は 1950年代と 1960年代にも現れた。

ヨーロッパでは、国家的なプログラムなしにそうした後れを取り戻すことが

できるとは、ほとんど考えられなかった。

政府による強烈な干渉は、戦時の経済と社会が国家によって徹底的に統制され

た二つの世界大戦の遺産でもあった。

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国家の戦時干渉と、国民総生産に占める国家支出の割合の戦争による拡大は、

1945年以後すぐには元に戻らなかった。

最後に、冷戦もヨーロッパでの国家干渉を刺激

共産主義諸国における国家の全能の役割に対する対抗

総じて言えば、1950 年代から 1970年代半ばまでの時代は、

ヨーロッパの独自性が非常に顕著な時代であった。

簡単に定式化すると、ヨーロッパが世界の他地域から区別されるのは、

抜きん出て高い経済成長、

目立って強力な国家の活動、そして、

並はずれて低い人口増加、

これらの結合であった。

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脱植民地化

ヨーロッパのグローバルな結合・・・1950年代から 1970年代半ばにかけて変化

世界史的に特に根本的な断絶は、いわゆる第三の非植民地化

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第一の非植民地化・・・・18世紀後期と 19世紀初期の

南北アメリカにおける非植民地化、

そして

第二の非植民地化・・・19 世紀後期から 20 世紀初期にかけてのイギリス植民地帝国

における独立した自治領オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、カナダの成

立、

第二次大戦後の 50年代から 70年代における「第三の非植民地化」

・・・先行のものとは多くの点で異なっていた。

(1) 独立を達成した植民地はたいてい、もはや一世紀半前のアメリカにおいて圧倒的

にそうであったような入植者植民地、すなわち住民の大多数、あるいは少なくと

も相当数かつ支配的な層が元々はヨーロッパ出身であったような植民地ではな

かった。

独立運動はいまやほとんどがヨーロッパ系の移住者によってではなく、ほぼい

つも土着の住民たちによって担われた。

それゆえ、独立運動のヨーロッパとの文化的な距離は、以前よりもはるか

に大きかった。

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(2) 第二次世界大戦以降の新たな植民地独立運動は、18世紀後期と 19世紀初期のア

メリカ独立運動のような、大西洋共通の革命時代の一部でもなかった。

それゆえ、ヨーロッパとこれら植民地との間の政治的な相違は、第二次世界大戦

後は以前よりも大きかった。

(3)もっとも、第三の非植民地化で独立を達成した植民地は、

国旗、国歌、首都、政府や大統領、議会、裁判所や軍隊に関しては、

また民主主義的な、あるいは独裁的な統制についても、

しばしばヨーロッパの国民国家のモデルを見習おうと試みた。

これに対して、18世紀後期や 19世紀初期においては、ヨーロッパの国民国家はようや

く成立し始めた段階であり、まだそれほどはっきりとした特色を有するモデルではなかっ

た。

(4)直接的な関係者、植民地支配者や独立運動を越えたアクターは、18 世紀後期や 19

世紀初期よりもはるかに重要だった。

とりわけアメリカ合衆国、

ソ連、

そして国連、

第三の脱植民地化において注目すべき役割を演じた。

スエズ紛争は 1950年代と 1960年代において最もセンセーショナルな事件であった。

アメリカ合衆国とソ連がイギリスとフランスに対して激しい圧力をかけ、それによって

これら二つの強国によるスエズ運河地帯の軍事占領の終結を強制しなければ、1956年に運

河地帯の管理がエジプトに渡ることはなかっただろう。

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国連は別のやり方で影響力を発揮した。すべての諸国民の独立を要求し、従来の植

民地のための国連の信託計画を掲げた1941年の大西洋憲章の大きな象徴的意義

に比べ得るものは、18世紀後期や 19世紀初期には存在しなかった。

(5)第二次世界大戦は、第三の非植民地化にとって多様な観点から決定的に重要

な役割を演じた。

第二次世界大戦がなければヨーロッパの植民地支配者た

ちはさらに正当性を保持し続けたであろう、

これほど大きな影響を及ぼした戦争は以前の非植民地化の段階においては存在しなかっ

た。

(6)植民地支配者と独立運動との間の軍事暴力は第二次世界大戦後たしか

に通例ではなかったが、独立紛争はやはり最初の非植民地化におけるよりもはるかに多

くの流血をともなっていた。

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アメリカ独立戦争は当時最も多くの血が流れた植民地紛争

・・・アメリカ側は 2万 5000人の死者

これに対して、

第三の非植民地化において最も多くの血が流れた植民地戦争では、阿 m、絵

里か独立戦争の何倍もの人間が死んだ。

インドネシアにおけるオランダの植民地戦争・・・

インドネシア側だけで死者が 15万人にも達するとの見積もり

アルジェリアにおけるフランスの植民地戦争・・・

フランス側だけで 2万 5000人以上の兵士が死亡

アルジェリア側では控え目に見積もっても14万から 37万 5000人の死者

たしかに二つの世界大戦での過度の暴力がこうした植民地での暴力に強く影響

これに加えて、植民地諸列強に立ち向かったのは、18 世紀のように白人の入植者た

ちではなく、土着の住民たちであった。

彼らはたいていのヨーロッパ人の目にはほとんど文明化されていなかった。

(7)1950年代から 1960年代初期にかけては、第三の非植民地化は二つの顔

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イギリスとフランスの植民地政策はいくつかの植民地の独立と並行して、

植民地に留まっているところには近代化や経済発展のきっかけを提供。

農業、工業、インフラや教育の計画をあらたに発展させた。

部分的には植民地住民に対する暴力の行使と結合

近代化や経済発展という植民地政策の再活性化は、ヨーロッパにおける経

済的な繁栄や社会計画への新たな確信と密接に結び付いていた。

植民地に対するそのような近代化政策は、18世紀後期や 19世紀初期には欠

如していた。

(8)最後に、第二次世界大戦後の第三の脱植民地化・・・

ヨーロッパにとって二つの先行する脱植民地化よりもはるかに根底的な断絶

以前の脱植民地化の段階・・・アメリカ大陸における旧植民地の損失は、アフ

リカや東南アジアにおける新たな植民地によって埋め合わせ

少なくともイギリス、フランス、ポルトガルの植民地帝国について

これに対して、第三の脱植民地化は、

個々の植民地の喪失だけでなく、

一般にヨーロッパの植民地帝国の最終的な終焉、

そしてそれと同時に、

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ヨーロッパが 16世紀以来、世界史のなかで演じてきた中心的な役割の終焉

それどころか、第二次世界大戦後、

ヨーロッパは、逆に自らが、ヨーロッパ外の超大国、

アメリカ合衆国とソ連の覇権領域の一部に

自立性が多かれ少なかれ強く制限された。

第三の脱植民地化は世界のいたるところで同時に行われたのではなかった。

それはヨーロッパからとりわけ遠く離れていた東南アジアおよび南アジアの植民地にお

いて、しかしまた中近東においても、第二次世界大戦後すぐに始まり、

1960 年代と 1970 年代に、ヨーロッパのすぐ近くに位置していた北アフリカおよびサハ

ラ以南のアフリカにおいて終わった。

非植民地化がインド、パキスタン、スリランカ、ビルマの独立でもってすでに戦後間も

ない時期に終結していた南アジアとは異なって、東南アジアではそれが 1960年代まで引き

延ばされ、それによってまた冷戦のコンテクストのなかに置かれることにもなった。

確かに、非植民地化は東南アジアにおいてもすでに戦後期に、フィリピン(1946年)や

インドネシア(1949年)の独立でもって重要な推進力を獲得していた。

しかし 1950 年代と 1960 年代に、とりわけ 1954 年のベトナム、ラオス、カンボジアの

フランス植民地支配からの最終的な独立とともに非植民地化が前進し、1963年のマレーシ

アのイギリス植民地支配からの独立でようやく締めくくられた。

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非植民地化はこうした非常に多様な、ヨーロッパから特に遠く離れていた世界地域にお

いて、一連の同じような特徴を持っていた。インドネシア、ベトナム、マレーシアにおけ

る独立戦争は、世界の他地域と比較して、特に長引き多くの流血をともなった。

さらに、この地域では非ヨーロッパの植民地帝国が、非植民地化に世界の他の地域にお

けるよりもはるかに大きな役割を演じた。

日本植民地帝国は最初は東アジア、すなわち朝鮮、台湾、中国北

部に限られていたが、第二次世界大戦期には数年間、東南アジアの

奥深くへ、その地のヨーロッパ植民地の中へ突進し、ヨーロッパの

植民地支配の崩壊をはっきりと加速した。

ヨーロッパの植民地支配者たちの栄光は日本の占領によ

って傷つけられた。そのうえ、東南アジアの独立運動は日

本の支配に対する抵抗で得た経験を、今度はヨーロッパの

植民地列強に対して用いた。

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東南アジアはそれに加えてアメリカ合衆国が植民地権力であった海外で唯一

の地域

であった。すなわち、フィリピンにおいて。アメリカの非植民地化の事例、第二次世界

大戦直後の 1946 年のフィリピンの解放と独立も、同様にヨーロッパの植民地支

配の衰退に寄与

文化的に非常に多様な東南アジアにおいては、独立運動の三つのモデ

マハトマ・ガンディーによって刻印されたインドの非暴力の独立運動のモデル、

1949年に大陸中国において毛沢東とともに権力を手にした中国の軍事的なゲリラ闘争

のモデル、

そしてインドネシアにおいて成功したムスリムの国民的な独立運動のモデル

中近東・・・非植民地化は東南アジアや南アジアとは異なる様相

公式の植民地は 1950年代においてはまれ

ヨーロッパの支配は主に保護領や勢力圏

ここでの非植民地化の決定的な推進力は、南アジアにおけるのと同様、すでに戦

後間もない時期に発生

すなわち、1948年のイスラエルの国家設立と、

フランスとイギリスのいくつかの保護領の終焉(第三章参照)。

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北アフリカ、アラブ世界の西部・・・非植民地化は明らかに遅れて開始

これに対して他の大部分の国々・・・なおも存続していた公式・ ・

の・

植民地支配からの解放

リビア・・・かつてイタリアの植民地・・・第二次世界大戦の終結後は国連の委任統

治領

1951年に独立

スーダン・・・1956年にイギリスの植民地支配から独立

モロッコとチュニジア・・・1956年にフランスの植民地支配が終焉

北アフリカにおいて、最も多くの流血をともなった事例はアルジェリア

この国は北アフリカのその他の植民地とは異なって、東アフリカや南アフリカにお

ける植民地と同様に入植者植民地

アルジェリアには百万人以上のフランス人移民の子孫たちが、一部は都市で、一部

は農村で生活していた。

アルジェリアは国法上、フランス国家の領土の一部

厳密に言えば植民地の地位にあったわけではなかった。

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しかし、アルジェリアの土着の住民たちにはもちろん政治的、市民的同権は与えら

れていなかった。

こうした理由から、すでに非常に長い間、アルジェリアには独立運動があった。そ

れは 1945年―ヨーロッパでの世界大戦の終結と同時に―、フランスによって鎮圧されるこ

とになる流血をともなう反乱を組織し、

ベトナムでフランスが敗北した後、1954年から再び活発化した。

それ以来、アルジェリアにおける紛争は先鋭化した。一方ではアルジェリアにおけるフ

ランス人マイノリティが、それだけではなくフランス本国における政治エリートの大多数

がアルジェリアの独立を厳しく拒絶した。フランス政府は暴力、拷問、そして近代化プロ

ジェクトを組み合わせて、きたない植民地戦争を遂行した。他方で土着のアルジェリア人

マジョリティは独立を望み、独立戦争だけでなく、フランス本国における爆弾テロをも支

持した。フランス第四共和政の政治家たちはこの紛争の解決策を見いだせなかった。よう

やくド・ゴールが、新しい、彼によって憲法修正により設立された第五共和政の大統領と

して、1962年にアルジェリアに独立を認め、フランス人入植者たちのこの国からの退去を

甘受する政治的洞察と権力手段を持った。

北アフリカにおける非植民地化も独自性を有していた。この地域はあらゆる植民地のな

かでヨーロッパの最も近くに位置し、顧みればヨーロッパの隣人との非常に密接な関係の

歴史は数世紀にわたるものであった。北アフリカの重要な諸都市ではヨーロッパ人がとも

に暮らしていた。とりわけアレクサンドリアがそうだが、チュニスやアルジェ、カサブラ

ンカもそうだった。ノーベル文学賞を受賞したフランス人、アルベール・カミュは北アフ

リカに生まれ、しばしばこの地域について書いた。それからフランス人の歴史家、フェル

ナン・ブローデルは、彼の地中海に関する 1949年の世界的に有名な著作のなかで、地中海

の隣人たちの共通の歴史的な結合を思い起こさせた。

さらに北アフリカは中近東とともに、そして東南アジアやサハラ以南のアフリカよりも

はるかに強く、共通言語アラビア語、共通の宗教イスラム、そして共通の文化によって特

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徴付けられていた。1945年にはイギリスの圧力の下に、アラブ諸国の国際的な連合である

アラブ連盟も結成された。そこで、この地域の独立運動は特に国際的な方向へ向かった。

もっとも、それらは競合する諸権力中枢の間の激しい緊張状態によっても特徴付けられ、

さらにその上、三つの根本的に異なる潮流に分裂した。まず近代的な世俗的で国民的な流

れ。この流れはアラブ社会の近代化を求めたが、ヨーロッパの植民地支配者の保護監督な

しでやろうとした。それから共産主義の潮流。これはまもなく冷戦によって東側ブロック

からの国際的な支援を得た。そして最後にムスリム的な流れ。もっとも、これは 1950年代

から 1960年代にかけてはまだ大きな重要性を持っておらず、後になってようやく注目すべ

き役割を演じた。

いちばん最後に、サハラ以南のアフリカにおける非植民地化が成し遂げられた。その重

要な部分は十年もかからないほどの全く驚くべき速度で進行した。こうした急速な過程は

まず最初にヨーロッパ人がわずかしか住みついていなかった西アフリカで、すなわち首相

クワメ・エンクルマの下での 1957年のガーナと、非常に異質な地域からなるナイジェリア

の 1960年のイギリス支配からの独立で始まった。同時に、1960年には 14のフランス植民

地がいっせいに独立した。その際、フランスは、たいていはすでにそれ以前にアフリカ人

の政府、軍、行政機関が設立されているように配慮した。同じ年、ベルギー政府は全く性

急に、まだ準備ができていなかったコンゴを解放し、コンゴは無秩序な独立状態に陥った。

東アフリカでは、多数のヨーロッパ人とインド人がそこに定住していたために、非植民

地化ははるかに困難だった。それにもかかわらず、非植民地化はそこでも急速に進行した。

タンガニーカがジュリウス・ニエレレの下で 1961年に、ウガンダが 1962年に、ケニアは

血なまぐさい植民地戦争「マウマウ団の乱」の後の 1963年に、ザンビアとマラウイは 1964

年に、それぞれイギリスの植民地支配からの独立を達成した。南ローデシア、1980年にア

フリカ人の支配下に入った現在のジンバブエは、第二次世界大戦後、イギリスからの独立

を宣言(1965 年)したのが白人入植者であった唯一の植民地だった。ポルトガルの植民地ア

ンゴラとモザンビークだけは、宗主国の孤立のために、およそ十年後の 1974年になってよ

うやく、ポルトガルにおけるカーネーション革命と独裁制の崩壊との間に独立した。

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非植民地化の過程におけるヨーロッパ諸政府の役割は、当然にもしばしば批判されてき

た。三つの誤った方向への展開が強調されてきた。

すなわち、まずヨーロッパ諸政府は一連のケースで、とりわけインドネシア、インドシ

ナ、アルジェリア、マレーシア、そしてケニアにおいて、植民地の独立を阻止するために

見込みのない植民地戦争を行った。それらは多くの人命を失わせ、莫大な経済的損害を引

き起こし、世界の南側に対するヨーロッパの諸関係に永続的な重荷を課した。さらには、

ヨーロッパ人は植民地の独立をしばしば本当には準備しなかった。彼らはあまりにもわず

かの範囲においてしか政治、行政、軍事エリートを育成しなかったし、植民地経済を世界

経済に組み込む準備もほとんどわずかしかしなかった。それに加えて彼らは恣意的な国家

的統一を創り出すことも稀ではなかった。それらは内部での深刻な宗教的、民族的な緊張

に苦しめられ、インド亜大陸およびナイジェリアやウガンダにおけるように、不可避的に

多くの流血をともなう内乱へと向かわざるをえなかった。さらに彼らは、植民地が経済的、

政治的に自らの利害において実際に報われるのかどうかについても、しばしば綿密には計

算していなかった。

地図 第二次世界大戦後の非植民地化(S. 162-163.)

1 パレスチナ

2 ヨルダン

3 中央アフリカ共和国

4 ウガンダ

5 ルワンダ

6 ブルンジ

7 マラウイ

8 ジンバブエ

植民地列強

1939年時点での独立国

1939年から 1957年の間に独立した国

独立戦争

1958年から 1963年の間に独立した国

1970年以降に独立した国

脱植民地化に関連する紛争

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ヨーロッパとグローバル組織

ヨーロッパのグローバルな影響力…弱体化

第二次世界大戦後の数十年の間に単に

植民地支配の終焉によってのみならず、

戦後間もない時期における国際的組織の中での重要性の低下によっても

戦後期から 1970年代にいたるまで、西ヨーロッパ人と中立的な国々のヨーロッパ人は

国際機関のなかでなおも多数の指導的な地位を占めており、それゆえに多大なグローバル

な影響力を有していた。

国連安全保障理事会で拒否権を持つ五つの常任理事国のうち、二つはヨーロッパの国、

イギリスとフランスであった。

最初の二人の国連事務総長はヨーロッパ人であった。

同じく UNESCO(国連教育科学文化機関)の事務局長は、1970 年代半ばまで主にヨ

ーロッパ出身者

さらに IMF(国際通貨基金)の専務理事も――それに対する対抗人事として世界銀行

総裁の地位を占めていたアメリカ合衆国との協定にしたがって――、GATT(関税および貿

易に関する一般協定)や当初の FAO(国連食糧農業機関)の事務総長ないし事務局長と同

様に、ヨーロッパ人であった。

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この時期に世界銀行総裁の他には、UNICEF(国連児童基金)の事務局長にのみアメ

リカ人が一貫して就いていた。本部がニューヨークに置かれた国連の重要な下部機関がヨ

ーロッパに置かれたことは、ヨーロッパ人のこうした多大な影響力に起因していた。

UNESCO、FAO、UNCTAD(国連貿易開発会議)、UNV(国連ボランティア計画)・・・

本部をパリやローマ、ジュネーヴ、

ILO(国際労働機関)も本部はずっとジュネーヴ

世界的組織におけるヨーロッパ人の当時の影響力を過大に評価してはならない。

二つの超大国の意向に反してはヨーロッパ人は重要な決定を押し通すことはできな

かった。

それに加えて、彼らは世界的組織において統一的なアクターとして登場したのでは

なかった。全く逆に、ヨーロッパ人は東側と西側のヨーロッパ諸国の間で深く分裂

していた。さらには、彼らは世界的組織における自らの活動を通常はヨーロッパの

代表としてではなく、むしろナショナルなあるいはグローバルなアンガージュマン

と見なしていた。

これに対して 1960年代と 70年代には、国際機関の指導的な地位におけるこうした西ヨ

ーロッパ人の大々的な存在感は後退していった。

たしかに、イギリスとフランスは国連安全保障理事会の常任理事国のままであったが、

国連やその下部機関の最高職務には、ヨーロッパ人は時々にしか選ばれなかった。

この時期からはアジア人やラテンアメリカ人、そしてアフリカ人が優勢になった。

これは歴史の必然的結果であった。すなわち、脱植民地化とともに国連総会における非

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ヨーロッパの加盟国の数が増加し、そこではいずれの加盟国も一票を有していた。

1950 年には、約 60 の国連加盟国の中でヨーロッパはラテンアメリカと並んで最も多く

の代表をもつ地域であり、加盟国の三分の一弱を占めていた。

それ以前の何年間かに独立を果たした植民地―当時 10カ国を越えなかった―は、加盟国

のうちのごく少数を占めるにすぎなかった。

それに比べて、

1970年代半ばには、その時までに 150弱になっていた加盟国のなかで、ヨーロッパは約

25カ国のみ、すなわちわずかに六分の一となっていた。

今やアフリカおよびアジアのかつての植民地が圧倒的な大多数を占めていた。

ブレトン・ウッズの機関である世界銀行グループと国際通貨基金においてのみ、西ヨー

ロッパ人が影響力をなおも保持していた。というのはそこでは投票権が出資額に依存して

おり、彼らの出資額が高く定められていたからであった。

もっとも、国際的な非政府組織は相変わらず西ヨーロッパの影響を強く受けていた。

戦後期から 1970年代まで、それらは本部をなおしばしばヨーロッパに置いていた。

このことは、すでに 1864年に設立されジュネーヴに本部を置く国際赤十字や、キリスト

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教の教会、あるいはヨーロッパ各国の開発基金のような伝統的な組織にも、当時新しかっ

た NGOにも同じように当てはまる。

すなわち、人権団体アムネスティ・インターナショナルが 1961年にイギリス人弁護士に

よって設立され、多大な影響力を獲得し、その本部をロンドンに置いた。

なるほど、センセーショナルな活動で世論に登場した環境保護団体グリーンピースは、

1971 年にアメリカとカナダの活動家たちによって設立されたが、すでに 1970 年代の間に

ヨーロッパの事務所を大きな拠点とするようになり、1979年には本部をアムステルダムに

移した。

すでに 1961年にスイスで設立されていた、わりあい控え目に活動していた環境保護団体

WWF(世界自然保護基金)は、現在まで本部をレマン湖からさほど遠くないスイスのグラ

ントに置いている。

それから、フランス人医師たちのグループによって 1971年に設立され、主にヨーロッパ

諸国に拠点を置いている人道的な緊急医療援助団体「国境なき医師団」は本部をジュネー

ヴに置いている。

しかし少なくとも、西ヨーロッパに基礎を置く NGO は、1950 年代から 1970 年代まで

の時期において、著しく大きな道徳的権威と国際世論への重要な―その程度を一つ一つ測

ることは難しとはいえ―影響力を有していた。

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冷 戦

冷戦・・・1940年代後半に始まって以来、グローバルな紛争・・・

にもかかわらず、ヨーロッパ人を新しいグローバルな結合のなかに引き込んだり、

あるいはそれを強制することはなかった。

冷戦のなかで二つの超大国は、グローバルな軍事的政治的同盟ではなく、むしろもっぱ

ら地域的な軍事的政治的同盟

ヨーロッパ人が参加していた同盟、すなわち西側の同盟、NATO(北大西洋条約機構)

と東側の同盟、ワルシャワ条約機構は、地域的な、ヨーロッパに限定された軍事同盟

もし開戦するようなことがあれば、東西ヨーロッパの各同盟の軍隊は、二つの超大国自

体の軍隊とは異なって、ヨーロッパにのみ投入されることになっていた。

当時 NATO はまだ 1990 年代以後のような、ヨーロッパの外部での世界的な軍事作戦を

遂行してはいなかった。それゆえ、これらの同盟の中では、グローバルな展望はたいてい

の場合、開けていなかった。もちろん二つの大きな例外、朝鮮戦争とベトナム戦争は、ヨ

ーロッパの公衆を激しく揺さぶった。そこでベトナム戦争はアメリカ合衆国においてのみ

ならず、西側ヨーロッパにおいても深刻な内政上の衝突を引き起こした。

冷戦の重要な要素であった緊張緩和政策・・・地域的な枠組みにおいて組織

1955年のジュネーヴ会議・・・完全にヨーロッパの問題に限定

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全欧安全保障協力会議(CSCE)は、1970 年代に緊張緩和政策の最も重要なフォーラム

であり、1975年には将来への影響の大きいヘルシンキ協定を取り決めた。たしかにこの会

議はアメリカ合衆国とカナダという北アメリカのメンバーも含んではいたが、純粋にヨー

ロッパに焦点を当てたものであり、グローバルな焦点は持たなかった。

総じて言えば、冷戦はたしかに全く疑いなくグローバルな紛争であったが、しかしヨー

ロッパ人は通常、ただその地域的なヨーロッパのシーンに結び付けられていたにすぎなか

った。

ヨーロッパの各政府は、冷戦において、こうした地域的な結合から脱する方向へ向かう

ことや、目的意識的に超大国の意向に反してグローバルな新しい関係を築くことは試みな

かった。その唯一の例外は、ユーゴスラヴィア大統領チトーがインド首相ネルーやエジプ

ト大統領ナセルと協力して実現した非同盟諸国のグローバルな政治的協力であった。

冷戦のもう一つの領域、共産主義の独立運動との植民地戦争においても、ヨーロッパの

グローバルな結び付きの断絶は永続的には食い止められなかった。

インドシナにおけるフランスのような、ヨーロッパの植民地権力の敗北の場合には、ヨ

ーロッパの植民地中心地との結び付きは新たな共産主義政権によって、特に容赦なく断ち

切られた。

マレーシアにおけるようにヨーロッパの植民地権力が共産主義の独立運動に勝利した場

合にも、後にはやはり独立が―なるほど政治的方向性の異なる政権による独立ではあるが

―、承認されなければならなかった。

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そのうえアメリカ合衆国は、こうした冷戦の植民地紛争を可能な限り自ら引き受けよう

とした。

インドシナで 1954年にフランスが敗北した後、アメリカ合衆国はベトナムで自ら戦争を

継続した。

スエズ紛争においては、エジプトが冷戦においてソ連の側へ向かうかもしれないという

危機が生じた際に、イギリスおよびフランスの駐留軍は国連の委任を受けたアメリカ軍兵

士たちによって交代させられた。

ソ連も同様に、ヨーロッパの同盟諸国を植民地戦争に巻き込みはしなかった。アンゴラ

では、ソ連は共産主義の独立運動をヨーロッパの同盟国ではなく、キューバ軍に支援させ

た。

もっとも、開発政策によって 1950 年代からは、ヨーロッパと、西側および東側ブロッ

クを除く他の世界地域との間に、新しい結び付きが生まれた。開発政策はヨーロッパの植

民地列強による植民地の近代化政策に似た原理に従ってなされた。

この政策はしかし、非常に広範囲にわたる重要性を獲得した。なぜなら、それがすべて

のヨーロッパ諸国によって、植民地を持たなかった諸国によっても支えられたからである。

その目的はアフリカ、ラテンアメリカ、アジアの諸国を北のモデル、すなわち市場経済

モデルか共産主義モデルかに従って発展させることであった。

そのために相当な規模で資本、投資財・消費財、専門家ならびに政府と企業の代表が開

発途上国へ送られた。開発途上国からの留学生はヨーロッパやアメリカの大学で学び、あ

るいはそれらの企業で教育を受けた。こうした仕方で、ヨーロッパと、北を除く世界の諸

地域との間で新しい結び付きが生まれた。

この開発政策は冷戦と結びついていることが稀ではなく、アフリカやラテンアメ

リカ、あるいはアジアの国をそれぞれのブロックに結び付けるために投入された。それに

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ともなって、開発政策はヨーロッパ人の間に新たな競争を、すなわちもはや諸帝国間では

なくて、東西ヨーロッパ間の競争を引き起こした。

開発政策や経済関係を通じたこうした新たな結び付きは、宗主国―植民地の関係と同様

に、豊かに発展し優勢を誇るヨーロッパ人とかなり貧しい第三世界の諸国との間の深刻な

不平等によって特徴付けられていた。もっとも、ヨーロッパ人は植民地時代におけるより

もはるかに弱くなってはいたが。開発組織、ヨーロッパの行政官庁、あるいはヨーロッパ

の企業の代表としてアフリカ、ラテンアメリカ、アジアに暮らしていたヨーロッパ人は、

以前にヨーロッパの植民地において暮らしていた何百万ものヨーロッパ人のほんの小さな

部分をなすにすぎなかった。

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移住と旅行

ヨーロッパの 1960年代以降の植民地からの撤退や国際機関における権力の喪失は、少な

くともグローバルな移住やそこから生まれた新しい結合によって相殺されただろうか?

多くのことがその反対を物語っている。非植民地化は結果として、たくさんのヨーロッパ

人のアフリカやアジアからヨーロッパへの、群れを成した、また最終的な帰還をもたらし

た。

それによってすでにこの結合は衰えた。全体としては、1940 年から 1975 年の間に、概

算で 700万のヨーロッパ出身の住民が植民地から引き揚げた。

アルジェリアからだけでも、百万人以上のフランス人が母国へ移住した。

たしかに、帰ってきたヨーロッパ人たちは、他の世界地域についての知識をヨーロッパ

の人々のなかにもたらし、彼らの母国や国際機関において新たな国際的なキャリアを築く

ことを試み、一部は成功し、一部は成功しなかったが、しかし引揚者の一部しか以前の故

郷との接触を保持しなかった。

ヨーロッパ人たちの出身大陸への引き揚げは、ヨーロッパからの移住やそこから生まれ

た大陸間の新たな結び付きによっては、実際には相殺されなかった。たしかに、多数のヨ

ーロッパ人が戦後間もない時期に移住して行ったが、しかし数百万のヨーロッパ人のこの

最後の大きな移民の波は、すでに 50年代にヨーロッパで経済ブームが始まるとともに終わ

った。それに加えて彼らはとりわけ合衆国やラテンアメリカへ向かい、それによってヨー

ロッパと大西洋地域を以前よりも強く網状に結合した。これに対して、アフリカやアジア

への移住はまれにしか行われなかった。

ヨーロッパとアフリカおよびアジア世界との間の切断された結合は、1950 年代と 1960

年代の間には、アフリカ人やアジア人のヨーロッパへの移民によっては、まだ実際には修

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復されなかった。たしかに、こうしたかつての植民中心地への移住はすでに戦後期の後半

には始まっていた。しかし 1950年代と 1960 年代の間には、こうした移住はヨーロッパ人

によっても、そしてしばしば移住者自身によっても、まだ最終的な移住とは考えられてお

らず、むしろ一時的な労働移民と見なされているにすぎなかった。移民環境の出身で、ヨ

ーロッパとヨーロッパ外の国々との間の文化的な仲介者としての役割を演じる学者や作家、

そして知識人は当時はまだまれであった。たしかに、移民自身は彼らの出身国との密接な

ネットワークをしばしば維持したが、こうしたネットワークは当時、ヨーロッパのアジア

やアフリカ世界との結合としては限定的にしか見なされなかった。反対に、かつての植民

地のエリート層は、彼らの子女の外国留学先として、あるいは彼らの家族の観光旅行先と

して、ますますアメリカ合衆国を選ぶようになり、一部からはソ連も好まれた。

グローバルな観光旅行も、1950 年代と 1960 年代の間は、ヨーロッパのアジアやアフリ

カ世界との接触にわずかな影響しか与えなかった。当時は少数のヨーロッパ人しか大西洋

地域の外の世界旅行に出かけなかった。そのためにはヨーロッパ人の大衆的購買力は、経

済ブームの始まりの時期においては一般にまだあまりに弱く、世界旅行の費用はまだあま

りにも高額であった。さらに世界の大部分は冷戦のためもあって、旅行するのが困難だっ

た。それに加えて、大衆観光旅行が他の諸国との国際的な、そして大陸間的な真に密接な

結合を生じさせることができるというのは、根本的に疑われうることでもある。

最後に、1950 年代と 1960 年代においては、アフリカやアジアの国における数年間にわ

たる、あるいは長期にわたる労働滞在も稀であった。確かに 19 世紀や 20 世紀初期におけ

るのと同様に、ヨーロッパ人は宣教師や大企業の社員として、学者や留学生、外交官、あ

るいは開発援助隊員としてアジアやアフリカで働いた。しかしそれは 1950年代と 1960年

代においては、正確に数を見積もることは非常に困難であるが、植民地時代におけるより

もはるかに小さな集団であった。国内のキャリアの過程での多数の国際的キャリアあるい

は多数の外国滞在―これらは現在では対外移住統計のなかに表れている―は、当時はまだ

ほとんどなかった。

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ヨーロッパと世界公衆

世界の公衆のなかでのヨーロッパ・イメージは、ヨーロッパ人が他の世界地域に対して

抱くイメージと同様に、1950 年代と 1970 年代の間に変化した。ここで述べたヨーロッパ

の特殊性の観点からは意外かもしれないが、この大陸は世界の公衆の間では、ダイナミッ

クで急速に成長する近代的な経済のモデル、あるいはスラムのない穏健な都市発や家族の

親密な結び付きのモデルとしては認識されなかった。たとえ当時はアメリカ経済の成長が

ヨーロッパのそれよりも遅かったとしても、ヨーロッパではなくむしろアメリカ合衆国が

そのようなモデルとして見られていた。アメリカ合衆国との比較では、ヨーロッパはむし

ろ遅れていると見なされていた。アメリカ合衆国ははっきり目に見えてたいていのヨーロ

ッパ諸国よりも、はるかに大きな一人当たりの国民総生産と相当高い生活水準を有し、ま

た社会的発展の当時の指標であった自動車、冷蔵庫、テレビ、電話の数で比べてもそうで

あった。さらにその間に、アメリカの諸科学はヨーロッパのそれらよりも優れた業績をあ

げ、はるかに多くのノーベル賞を受賞した。

他の世界地域から見てヨーロッパの重要性が大きく減退したことは、まったく新しいこ

とではなかった。ヨーロッパはすでに第一次世界大戦によって肯定的なグローバルなモデ

ルとしての信用を無くしており、第二次世界大戦によってさらに道徳的な信用を失ってし

まっていた。その後、ヨーロッパはなお魅力を維持するにはあまりに貧しかった。それに

加えて、ヨーロッパの名声は植民地戦争のせいで一層失墜した。反対に、アメリカ合衆国

は二度の世界大戦の開戦、独裁政治、植民地戦争によって、道徳的に信用を落とすことは

なかった。同時にヨーロッパは、アメリカ合衆国と異なって、広告や映画、音楽、テレビ

を通じて、また小説や学問によって、世界の人々に対して消費の生活様式のモデルを宣伝

することもなかった。そのうえ、ヨーロッパはアメリカ合衆国やソ連のような冷戦におけ

るグローバルなアクターではなく、世界の公衆が注目する超大国ではなかった。

ただし二つの領域に限っては、ヨーロッパは世界の公衆に対して指導的な役割を果たし

た。すなわち、福祉国家についての議論と文化においてである。たとえばラテンアメリカ

や日本、アフリカの一部などのいくつかの世界地域や、さらにはアメリカ合衆国における

一定の政治環境にとっても、ヨーロッパは第二次世界大戦後、国家的な社会保障のモデル

となった。というのは、西側世界おけるその他のどこにも、福祉国家がそれほど広範囲に

構築されたところはなかったからである。こうしたヨーロッパ・モデルの主要な体現国と

みなされたのは通常は、改良された福祉国家であるイギリスとスウェーデンであった。戦

間期においてまだドイツやオーストリアがそうであったが、もはやそうではなくなった。

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これに対して世界のもう一方の側では、むしろソ連や東ヨーロッパの国家的な社会保障が

モデルと見なされていた。

もっとも、ヨーロッパのこうした福祉モデルの国際的な影響力は、通例は二つの限界を

有していた。このモデルは普通にはもはや目印ではなかった。それは他の世界地域におい

て実際に模倣されることはなかった。さらに、それはしばしばアメリカ・モデル―ある見

方ではこのモデルには修正が必要だったので―の補完と見なされるにすぎなかった。ヨー

ロッパはアメリカ・モデルに対する包括的なオルタナティヴではなかった。

それに加えてヨーロッパは、世界大戦時代における政治的な信用失墜と経済的な没落に

もかかわらず、文化的モデルであり続けた。ヨーロッパの知識人はしばしばグローバルな

影響力を持ち、少なくとも西側ではいたるところで読まれた。多数の世界地域が相変わら

ず古典的なヨーロッパ文化や音楽、絵画、建築、哲学を目指した。他の世界地域のエリー

トの子女にとって、ヨーロッパの大学への留学は引き続き魅力的であった。

世界の公衆のヨーロッパへの関心が減退しただけでなく、反対にヨーロッパ人の他の世

界地域への関心も減退した。確かにヨーロッパの一部、とりわけフランスとイギリスにお

ける、以前の植民地があった大陸に対する公的な関心は活発なままであった。しかしそれ

に対して、ヨーロッパの他の部分はグローバルな発展から顔を背け、せいぜいアメリカ合

衆国やソ連に関心を向けるだけであり、相当に自分たちの大陸に意識を集中し始めた。

他の世界地域に対するヨーロッパの学問の関心は、非常に限られたままであった。アメ

リカ合衆国においては世界のあらゆる地域をカバーする地域・ ・

研究・ ・

が発展し、中国やインド

においては自国以外の歴史や哲学、文化に対する関心が引き続き活発であったのに対して、

ヨーロッパはこうした傾向に大いに乗り遅れた。ヨーロッパのかつての植民地首都におい

てさえ、他の世界地域についての専門家は少数の大学にいるにすぎなかった。パリの 1975

年設立の社会科学高等研究院(EHESS)や、その前身となる高等研究実習院第六部門(1947

年創設)、あるいはすでに 1916 年に設立されたロンドン大学東洋アフリカ研究学院や、オ

ランダのライデン大学のような、グローバルなプログラムによる研究機関の創設は依然と

して特殊な事例であり、決してヨーロッパの大学生活を特徴付けてはいなかった。

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全体としては、1950 年代から 1970 年代初期までの間は、ヨーロッパのグローバルな結

合の減退期ではなかったにしても、停滞の時期であった。ヨーロッパとヨーロッパ外の世

界地域との間の結び付きは、非植民地化でもって中断した。第二次世界大戦後、世界的組

織において初めのうちは優勢だったヨーロッパ人の影響力は、1960年代以降、後退した。

それは、単に新たな超大国、アメリカ合衆国やソ連の位置によって最初から制限されてい

ただけでなく、非植民地化のなかで生まれた新しい多数のアジアおよびアフリカ諸国によ

っても、国連やその下位機関においてさらに一層弱められた。

移住によるグローバルな結び付きもむしろ縮小した。新しい結び付きを生じさせた 1945

年以後のヨーロッパの外への移民の波は短期間の現象にとどまった。ヨーロッパ人の植民

地からの大々的な引き揚げは、はじめは、土着の植民地住民のヨーロッパへの新たな移住

によって限定的に埋め合わされたにすぎなかった。というのは、これらの移民はヨーロッ

パの諸社会においてしばしば孤立し、それゆえに彼らの出身地域とヨーロッパとの間の架

け橋になることができなかったからである。

それに加えて、冷戦が西ヨーロッパ人の注意を大西洋地域に、そして東ヨーロッパ人の

注意をソ連の支配領域に制限した。これは、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争を除

けば、ヨーロッパが冷戦のグローバルな次元にほとんど巻き込まれなかったからである。

冷戦のそれぞれのブロックの外のグローバルなテーマへのヨーロッパ公衆の注意は、わず

かな諸国を除いて弱まった。結局、ヨーロッパはとりわけ福祉国家モデルや高級文化のよ

うなわずかなテーマ領域においてのみ、なおもグローバルな目印として認められた。ヨー

ロッパは包括的な経済、文化、政治のモデルとしてはアメリカ合衆国によって、もしくは

世界のもう一方の側ではソ連によって押しのけられた。