「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」4 報告Ⅰ 宮治...

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龍谷大学 アジア仏教文化研究センター 2010 年度 第 2 回 国内シンポジウム 会場: 龍谷大学大宮学舎西黌大会議室 日時: 2011 2 26 日(土) 12:30 開場(13:00 開会)~17:10 プログラム コーディネーター 三谷真澄[龍谷大学国際文化学部准教授] 12:30 開場 13:00 開会挨拶 入澤 崇[龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム副館長] 13:15 報告Ⅰ:「中央アジアの仏教信仰と美術」 報告者:宮治 昭[龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム館長] 報告Ⅱ:「西ウイグル国の仏教」 報告者:橘堂晃一[龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員] 報告Ⅲ:「マニ教絵画の世界」 報告者:吉田 豊[京都大学文学研究科教授] 15:50 休憩 16:00 パネルディスカッション:「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」 ファシリテーター:入澤 崇[龍谷大学文学部教授] パネリスト:宮治 昭[龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム館長] 橘堂晃一[龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員] 吉田 豊[京都大学文学研究科教授] 16:50 閉会挨拶 三谷真澄[龍谷大学国際文化学部准教授] 17:00 終了 龍谷大学アジア仏教文化研究センター国内シンポジウム 「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」

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Page 1: 「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」4 報告Ⅰ 宮治 昭「中央アジアの仏教信仰と美術」 三谷: それでは龍谷大学文学部教授、龍谷ミュージアム館長でいらっしゃいます宮治昭

龍谷大学 アジア仏教文化研究センター

2010 年度 第 2 回 国内シンポジウム

会場: 龍谷大学大宮学舎西黌大会議室

日時: 2011 年 2 月 26 日(土)

12:30 開場(13:00 開会)~17:10

プログラム コーディネーター 三谷真澄[龍谷大学国際文化学部准教授]

12:30 開場

13:00 開会挨拶 入澤 崇[龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム副館長]

13:15 報告Ⅰ:「中央アジアの仏教信仰と美術」

報告者:宮治 昭[龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム館長]

報告Ⅱ:「西ウイグル国の仏教」

報告者:橘堂晃一[龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員]

報告Ⅲ:「マニ教絵画の世界」

報告者:吉田 豊[京都大学文学研究科教授]

15:50 休憩

16:00 パネルディスカッション:「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」

ファシリテーター:入澤 崇[龍谷大学文学部教授]

パネリスト:宮治 昭[龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム館長]

橘堂晃一[龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員]

吉田 豊[京都大学文学研究科教授]

16:50 閉会挨拶 三谷真澄[龍谷大学国際文化学部准教授]

17:00 終了

龍谷大学アジア仏教文化研究センター国内シンポジウム

「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」

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目次

開会挨拶 .............................................................................................. 1

報告Ⅰ 宮治 昭「中央アジアの仏教信仰と美術」 .............. 4

報告Ⅱ 橘堂晃一「西ウイグル国の仏教」 ............................ 24

報告Ⅲ 吉田 豊「マニ教絵画の世界」 ................................ 36

パネルディスカッション ................................................................ 59

閉会挨拶 ............................................................................................ 73

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開会挨拶

三谷: アジア仏教文化研究センターは、2010 年度より、龍谷大学に開設され、開設シ

ンポジウム、国際シンポジウム、国内シンポジウム等々を開催して参りました。今回の

国内シンポジウムは第 2 回目となり、実質的な今年のシンポジウムの 後となります。

現在、研究体制といたしまして、センター長を桂紹隆教授、副センター長を木田知生

教授につとめていただき、研究ユニットを 3 つ設けております。南アジア地域班、中央

アジア地域班、東アジア地域班であります。今回のこのシンポジウムは、研究ユニット 2、

中央アジア地域班が担当したものでございます。それでは、ユニットリーダーでありま

す入澤崇より開会の挨拶をいたします。それではお願いいたします。

入澤: 皆さん、今日は多数ご来場いただきまして、誠にありがとうございます。これか

らシンポジウムを開催させていただきます。このプロジェクトは仏教の多様性、そして

現代社会における仏教の可能性を究明しようという大きな目論見を持ってスタートいた

しました。私たちユニット 2 のグループは、中央アジアに焦点を当てて、そこに行き亘

った、イスラム化する以前の仏教の在りよう、そして仏教の果たした役割というものを

掴みだしていこうとしています。

今回、3 人の先生方に発表をしていただくわけなのですけれども、特に私たちが注目し

たいのは、異なる宗教同士がぶつかり合ったときの反応です。それはともすると、現代

社会では「衝突」という形で語られるわけなのですけれども、そうではない在りようが

かつて中央アジアではみられたようにみえます。中央アジアでは特に仏教を中心として

ゾロアスター教、マニ教、或いはネストリウス派キリスト教といった多くの宗教がそこ

で遭遇しあいました。その時にどういう現象が起きたでしょうか。中央アジアの仏教文

化の中には異教的要素が多く見られます。このシンポジムでは、「交流」ですとか「融合」

といったところに焦点を当ててみたいというふうに思っております。

交流、融合という観点からすると、先ず顕著に表れますのが、仏教美術の世界です。本

日、 初にご発表をいただきますのは宮治昭先生です。宮治先生は我が国にあって、イ

ンド・中央アジアの仏教美術研究の第一人者で、私たちに多くの知見を与えてくださっ

ています。宮治先生は数年前、『涅槃と弥勒の図像学』という大著を著されました。今日

はそのエッセンスとも言うべき、「涅槃と弥勒」という切り口から、中央アジア仏教美術

の特徴について報告をしていただこうと思っております。

それから、2 番目の発表者は橘堂晃一先生です。橘堂先生は、今我が国の、と言うより

世界の、中央アジア仏教研究における若手研究者の代表であります。コータン語、それ

から、今はウイグル語の研究をされておりまして、ウイグル仏教の性格の一端を、今日

ご披露いただく予定にしております。 初にご報告いただく宮治先生のご発表の中に弥

勒のことが出てまいりますが、それを受けて橘堂先生にウイグル仏教における弥勒信仰

を切り口にご発表をいただく予定にしております。

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それから、3 人目の発表者であります吉田豊先生。もう吉田先生と言えばソグド語研究

の第一人者で在られますが、本日はマニ教のことについてご発表をいただこうと思って

おります。覚えておいででしょうか。昨年の 9 月の 27 日だったでしょうか、朝刊各紙に

大きく報道されました。日本でマニ教の宇宙図なるものが発見されたと。その発見をさ

れた吉田先生から直接お話を聴く得難い機会を得ることができました。かつて、トルフ

ァンでマニ教の絵画がル・コックを中心とするドイツ隊の手によって発見されました。

ほとんどは断片です。マニ教絵画が日本でも見つかったというのです。マニ教宇宙図と

いわれるもので、トルファンには完全な形では見つかっていない代物です。日本でそれ

が見つかったということで、これからは吉田先生のことを日本のル・コックと呼んだ方

がいいかもしれません。もうヨーロッパではそのように呼ばれているというふうにも承

っておりますが。

今日ご参集いただいた方々、おそらく初めて聞く事柄が多くあろうかと思います。出来

るだけ皆様方からのコメントないしは質問に答える時間を用意しようかなと思っており

ます。休み時間に係の者が質問用紙を回収に回ります。先生毎に質問用紙を用意いたし

ておりますので、何かございましたらお書きになって係の者に渡してください。

それから今日発表していただく 3 人の先生方は、 近出版されました『新アジア仏教史』、

佼成出版から出版されておりますが、『新アジア仏教史』第 5 巻目の中央アジア編にご執

筆いただいた先生方でございます。今日の発表を聴かれた後、この『新アジア仏教史』

に目を通されると、より深く理解が得られるかと思います。では、挨拶はこの辺にして、

早速発表の方に移りたいと思います。私からは以上です。

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報 告

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報告Ⅰ 宮治 昭「中央アジアの仏教信仰と美術」

三谷: それでは龍谷大学文学部教授、龍谷ミュージアム館長でいらっしゃいます宮治昭

先生よりご発表をいただきます。講題は「中央アジアの仏教信仰と美術-涅槃図と兜率

天の弥勒菩薩を中心に-」でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

宮治: ご紹介いただきました宮治です。今日の発表は、先ほど入澤先生からご紹介いた

だきましたが、昔、『涅槃と弥勒の図像学-インドから中央アジアへ-』という本を出し

たものを基にしています。数年前ではなくてもう 20 年も昔のことで、1992 年に出版した

学位論文の著書です。今日のお話は、「涅槃と弥勒」というテーマをもう一度検討し直し

て、この研究プロジェクトに合せる形で、中央アジアのことを改めて勉強し直してみよ

うということで発表させていただきます。20 年ほど前にこの本を出しまして、その後は

専らインドの方の調査、研究をいたしました。その成果として、昨年、『インド仏教美術

史論』という論文集を刊行しました。それでインドの内の方は一段落したということも

ありまして、今度はガンダーラから中央アジアの勉強をもう一度、し直そうというふう

に思っております。

私は仏教美術史、特にインド・中央アジアが専門なのですが、今日お集まりの先生方は

仏教学や歴史学の先生方が多いかと思います。私は、美術史、特に図像学の方法に関心

をもっておりまして、仏教の信仰の実態というものを美術・図像を基にして明らかにし

ようというのが、私の基本的な立場です。過去の仏教信仰がどういうものであったかと

いうことを研究するには、大きく二つの資料があると思います。一つは考古美術資料、

ものから推理し、考える。もう一つはもちろん文字資料でありまして、テキスト。これ

は経典とか、それから歴史資料、さらに銘文・碑文、そういったものを含めた文字資料。

こういう二つの資料、考古美術資料と文字資料を本当は合せて過去の実態がどうだった

かということを考えることが必要だと思うのですが、なかなか一人で全部できないので、

私は図像・美術資料の方から考えてみたいと思います。それで文字資料のご専門の仏教

学や歴史学の先生方からいろいろお教えをいただこうというふうに思っております。

今日のお話は、涅槃図と兜率天の弥勒菩薩を軸に、中央アジアの仏教の様相を考えてみ

たいと思います。釈尊、仏陀が亡くなった後、仏教信仰がどうなったかということがテ

ーマです。いわゆる小乗の涅槃経によれば、釈尊亡き後、仏弟子、比丘たちに対しては、

仏法、仏陀の説いた教えを心の拠り所として修行に励みなさいということを釈尊は言う

わけです。そして、在俗信者、一般の信者に対しては仏舎利を祀るストゥーパを建てて、

それを心の拠り所にしなさい、あるいは仏陀の聖跡を巡礼しなさい、そういうことによ

って功徳、福徳が得られるであろうということが釈尊の遺言として涅槃経に出て来るわ

けです。ストゥーパがその後、在俗信者や比丘たちによって建てられ、それが仏陀や仏

法の象徴として仏教信仰の中核として発展していきます。涅槃経では舎利供養やストゥ

ーパの造立は在俗信者が行うので比丘たちは関わらないでよいとされますが、実際には

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比丘たちも積極的に関与したことが銘文から分かります。インドではストゥーパ信仰と

いうものが仏教信仰の基礎としてずっと後々まで残ります。

現在知られている古いストゥーパの例として、有名なサーンチーのストゥーパ(図 1)、

それからより古いバールフットのストゥーパがあります。それらを取り囲んでいた塔門

とか欄楯に表された浮彫、こういう浮彫彫刻によって当時の信仰を知ることができます

(図 2)。それらを見ますと、サーンチーの場合には東西南北の四つの塔門、それからバー

ルフットの場合には欄楯の浮彫ですが、そこでまず注目されるのは、動植物の文様表現

です。特に蓮の文様とか、あるいは如意の蔓(図 3)と言われる、何でも生み出してくれ

る不思議な蔓の文様が特徴的です。これは蓮の生命力と豊かさを象徴するモティーフで

すが、それから満瓶という壷から蓮が生え出るモティーフ、あるいはマカラ(図 4)とか

象とか、水と関係の深い、いわば生命の根源的なモティーフ、そういうモティーフで満

ちております。実はストゥーパ自体、いわば生命を産み育む母胎として人々に信仰され

たのではないか、と私は考えています。ストゥーパというのは釈尊の涅槃、理想境の象

徴であり、また仏陀(釈尊)自身の象徴にもなりますけれども、多くの仏教信者たちにと

って、ストゥーパは生命の根源的なイメージとして働いたのではないか。涅槃というの

は、いわば釈尊の死の象徴でありますけれども、逆にその根底には生命の根源的な力に

対する信仰があるのではないかと考えています。ストゥーパはヒンドゥー教の礼拝の中

心であるリンガ(男根)と対応するものと思います。リンガというのはシヴァ神の象徴で、

生の象徴でありますけれども、その基礎には根源的な破壊の力、死の力を持っています。

いわば死の世界を秘めた生の世界といえると思います。それに対して仏教というのは、

涅槃・死を理想としますけれども、その根底にはむしろ逆に生の力を持っている。そう

いった意味でヒンドゥー教と仏教の礼拝対象は対照的だと思います。

仏教美術の初期の時代、つまり紀元前 2 世紀の終りから紀元前 1 世紀ないし後 1 世紀の

初め頃ですけれども、その時代には釈尊の仏伝に対する信仰も出てきます。釈尊は一体

どんな人だったのかという、仏陀の人格や奇蹟的な事績に対する信仰、そして前生の物

語、そういう説話もこの時代の浮彫彫刻に出てきます。その前提として仏伝の形成とい

ったことが紀元前からあります。しかし、伝統的な仏陀観では、仏陀は涅槃に入った存

在ということで、仏陀は目に見えない、あるいは表すことができないという仏陀観があ

り、美術の上では釈尊の存在を象徴的な表現で表したということはよく知られています。

このような様子が初期のストゥーパを核とした仏教信仰のあり様であったと言えると思

います。

それでは、釈尊が亡くなった時の姿を表す涅槃図が、どういうふうにして成立するのか。

涅槃は仏陀の理想の達成であり、それはストゥーパによって表されるというストゥーパ

信仰が生き続ける限りは、釈尊の死の場面をあえて表現するということはおそらく考え

にくかったと言うか、考えられなかったと思うのです。釈尊が亡くなった様子を表そう、

図像化しようというふうに考えたのは西北インドのガンダーラ(現在のパキスタン北部)

においてです。おそらく 1~2 世紀ぐらいに涅槃図が成立したと思いますけれども、その

後ガンダーラではたくさんの涅槃浮彫が造られました(図 5)。釈尊の死の場面としての涅

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槃図は、おそらくギリシア・ローマの葬礼美術の影響があるのではないかと私は考えて

います。

この画像はガンダーラ地方で出土した化粧皿(図 6)で、紀元前 1 世紀頃のもので、「死

者の饗宴」といわれる、亡くなった人の場面を表すもので、ヘレニズムの影響のもとに

造られました。それからローマ時代にはよく石棺に施された浮彫がありまして、人間の、

一生を物語るようなものが出てきます(図 7)。このようなヘレニズム・ローマの葬礼美術

というものがベースになって、仏教でも釈尊の生涯や亡くなる時の涅槃の場面を表そう

ということが出て来るのだと思います。図 5 はガンダーラの涅槃図(浮彫彫刻)の一例

です。表されている内容は小乗の涅槃経に基づいています。涅槃経はパーリ本が有名で

サンスクリット本も知られていますが、長阿含の『遊行経』をはじめ漢訳もいろいろあ

ります。そこに記された釈尊の姿やエピソードがガンダーラの涅槃図に表されています。

まず沙羅双樹の下で右脇を下にして、牀座に臥して亡くなったという、その姿です。と

いうのも、経典にはっきりと右脇を下にして、両足を伸ばして、左手を体側にそって伸

ばし、右手を枕にして亡くなったと書かれていますが、そのようにガンダーラの涅槃図

も表されています。

また、涅槃の時のエピソードがいろいろ涅槃経に出て来ます。阿難が非常に慌てふため

いて動転し、兄弟子阿那律に諌められたという話があります。この動転する阿難とそれ

を諫める阿那律が浮彫に表されています。それから釈尊入滅の直前に、釈尊の説法を聞

きたいとやってきた托鉢遊行者、スバトラの話があります。阿難はもう釈尊は死にそう

だからと言って止めるのですけれども、釈尊は許して、ベッドの前で釈尊の説法を 後

に聞いて、忽ちのうちに悟りを開いて、釈尊の入滅を見るに忍びず、自ら先に滅尽定に

入ったと記されていますが、それがこのスバトラの姿です。

それから長老の大迦葉、マハカーシャパはクシナガラにいなかったのですけれども、裸

形外道から釈尊の死を知らされて駆けつけるという話も涅槃経に書いてありまして、そ

の図像もガンダーラ浮彫にしばしば見られます。それからクシナガラのマッラ族や神々

たちが嘆き悲しんだということが経典にも浮彫図像にも出てきます。ですから、小乗の

涅槃経に基づいてガンダーラの涅槃図が作られていることがわかります。

しかし一方、テキスト(経典)に出てこない図像というものもあります。典型的な例は、

ヴァジュラパーニ(執金剛神)です。執金剛神はガンダーラの仏伝浮彫には決まって出

て来ます。ヘラクレスの姿をした執金剛神が釈尊に付き従っているのですが、涅槃の場

面では悲嘆にくれる姿で表されます。この執金剛神の図像はギリシアのヘラクレスの図

像をとるほか、インドのヤクシャの姿をとったり、中央アジア遊牧民の王侯の姿をとる

場合もありますが、執金剛神はどういうわけかテキストには記されず、図像にだけ出て

来るのです。それから沙羅双樹から上半身を表して悲しむ樹神(樹の女神)の姿も図像

として出て来ますが、経典にはほとんど出てきません(一部の漢訳に言及)。

ガンダーラではこの涅槃図のほかに、釈尊が亡くなった後、遺体を五百重の布で包んだ

という「遺体の纏布」、遺体を棺に納める「納棺」、それから「葬送」、遺体を火葬にする

「荼毘」、舎利をクシナガラのお城に運んで、そこで舎利を供養する「舎利供養」、また

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各国の王たちが兵を派遣して舎利を取ろうと争いになる「舎利の争奪戦」、ドローナ婆羅

門が舎利を八つに平等に分ける「舎利八分」、それから舎利を各国に持ち帰る「舎利の運

搬」、そしてストゥーパを建てる「起塔」。こうした釈尊入滅後の舎利に関する話もたく

さんガンダーラには出て来ます。テキストにも、そういうことが書いてありますが、涅

槃経の中心の主題はむしろヴァイシャーリーからクシナガラに至る旅の様子、よく「釈

尊 後の旅」というふうに言われますけれども、実際、涅槃経を読むと、釈尊 後の旅

での出来事が詳しく書かれています。しかし、図像ではそこは全く表されない。ですか

らテキストの伝承と図像の伝承というのはずれ..

があるということです。図像・イメージ

というものは人々に非常に訴える力があります。ですからテキストの伝承とは別個に、

仏教信者に対して釈尊がどんなふうにして亡くなり、仏弟子や人々、神々はどんな様子

だったのか、また涅槃の後、遺体はどのようにされ、舎利がどうなったかということを、

ガンダーラの人たちは図像を通して知り、非常に関心を持ったことがわかります。

さて、この涅槃図がガンダーラで成立しますと、インドの内でも涅槃図(浮彫)が作ら

れますが、その図像はガンダーラの図像を簡略に踏襲するに過ぎません。インドにおい

ては涅槃図というのは発展することがなかったのです。日本では涅槃図はたいへん関心

がもたれ、多くの人々、菩薩たち、神々たち、さらに鳥獣も数多く集まって悲しむ場面

が表されますけれども、インドではそのような涅槃図は作られなかった。特に古代南イ

ンドでは仏伝の場面がたくさん表されながら、涅槃図というのは一つも知られていない

のです。これはどうしてでしょうか。どうもインドでは、涅槃というのは人間の死では

ないんだ、仏陀の理想の境地の達成なのだという意識が強かったのではないかと思いま

す。南インドでは涅槃を表す際には決まってストゥーパで表しているのです。ストゥー

パこそが涅槃の象徴であって、決して人間の死の場面ではないのだということが、イン

ドの伝統として強く働いたのだと思います。パーラ朝の時代には涅槃図が表されていま

すが、必ず上方にはストゥーパが同時に表現されています。このように、インドの内で

は釈尊の涅槃というのは、それは取りも直さず理想の実現であって、決して人間の死で

はないという意識が強かったのではないかというふうに思います。

ガンダーラで初めて涅槃図ができて、それが中央アジアでまた独特の展開を遂げていき

ます。中央アジアでは多くのオアシス都市で仏教が大変栄えますが、それぞれオアシス

ごとに仏教の発展の仕方が異なります。今回はバーミヤーンとキジルを取り上げて、そ

の様子を見てみたいと思います。

まずバーミヤーンの涅槃図についてです。アフガニスタンのバーミヤーンには、二大仏

の他にたくさんの石窟が造られていて、壁画も飾られていました。その中に、七つの涅

槃図が知られています。しかし、バーミヤーンでは涅槃図以外に仏伝図は一つもありま

せん。バーミヤーンで壁画が描かれている石窟はドーム天井、あるいはヴォールト(か

まぼこ型)天井が大変多いです。そういう天井のちょうど下のところ、あるいは側壁の

上のところ、そこに独立して涅槃図が出て来ます。これは一つの例ですが、Fc 窟という

石窟に描かれた涅槃図(図 8)で、私が現地で作図したものですが、こういう涅槃図が七

つほど残っています。

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これを見ますと、バーミヤーンでは基本的にはガンダーラの涅槃図の図像を踏襲してい

ることが分かります。特に「火界定」に入る 後の仏弟子スバドラが特徴的です。スバ

ドラの図像はガンダーラで、牀座の前で瞑想する姿で表されます。バーミヤーンではス

バドラが肩や頭の周囲から火が出ているのです。文献の上では涅槃経には出てきません

が、『大智度論』などに、スバドラが火界定(火を発する禅定)に入ったと記されていま

す。こういう図像は、敦煌の隋の時代の涅槃図にも出てきます。これは敦煌莫高窟、隋

代の第 295 窟の涅槃図(図 9)ですが、釈尊は右脇を下にして、左手を伸べて、右手を枕

にして寝ています。これはガンダーラ以来の釈尊の横臥の姿勢です。スバドラは頭の周

りに火が燃え上がるように描かれていて、バーミヤーンの図像とよく似ています。「火界

定」に入ったスバドラは中央アジアの一つの特徴といえます。

それからもう一つ大きな特徴は、釈尊の枕辺で項垂れる女性が出て来ます。これはどう

も釈尊のお母さん、摩耶夫人ではないかと見られます。敦煌でも隋代に枕辺で悲しむ女

性が涅槃図に出て来ます(図 9)。これもガンダーラの図像には見られなかった特徴で、涅

槃経のテキストにも出て来ません。おそらくこれは曇景訳とされる、実は偽経ですけれ

ども、『摩訶摩耶経』という経典に、仏涅槃、仏入滅に際して、摩耶夫人が忉利天から降

りてきて、悲しむ話が出て来ます。その経典では釈尊はお母さんのために生き返って、

再生説法したという話が語られます。涅槃に入った釈尊が生き返ったら元も子もないと

いうか、涅槃の意味がなくなってしまうわけですから、インドでは考えられないことで

すが、中国唐代の則天期にこうした図像が成立します。バーミヤーンや敦煌隋代の涅槃

図では釈尊の枕辺で悲しむ摩耶夫人が表されるだけですが、中央アジアでこういう図像

が出て来ます。

そして、もう一つのバーミヤーン涅槃図の特徴は、釈尊の御足を頂礼する長老の大迦葉

の図像です。接足礼拝と言いますが、釈尊の御足に跪いて礼拝する大迦葉の姿が決まっ

て表されます。大迦葉は釈尊が亡くなった時にクシナガラにいなくて、裸形外道から亡

くなったことを知らされて、急遽クシナガラに駆けつけるわけですけれども、クシナガ

ラでは荼毘の火を燃やそうとするが、なかなか火が付かなかった。大迦葉が到着して御

足を頂礼したら火が燃え上がったという話が涅槃経にあります。ガンダーラの涅槃図に

も大迦葉が裸形外道から釈尊の入滅を知らされる図像や、釈尊の御足に手を触れて礼拝

する図像がありますが、中央アジアでは大迦葉が跪いて御足を頂礼する図像が定型化し

ます。後で述べますが、大迦葉は、実は弥勒菩薩、弥勒信仰と関係が深く、中央アジア

では大迦葉の接足礼拝の図像が非常に重視されます。

さて、バーミヤーンで涅槃図と兜率天の弥勒菩薩の図像とが組み合されるというお話を

したいと思います。釈尊亡き後、仏教信仰がどのように展開していったのかが重要なテ

ーマです。涅槃経を詳しく見ますと、多くの経典はパーリ本やサンスクリット本、ある

いは長阿含『遊行経』のように、舎利を祀るストゥーパの信仰を勧め、仏滅後の仏塔供

養によって生天や大福利が得られることを説いているのですが、白法祖訳『仏般泥洹経』、

(大正.No.5)および失訳『般泥洹経』(大正.No.6)には、兜率天にいる弥勒菩薩に対する信仰

が経の 後に記されます。すなわち、大迦葉は仏涅槃に集まった多くの人々に対し、釈

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尊は亡くなったけれども、皆さんは兜率天にいる弥勒菩薩のもとに生まれるであろうと

言って慰めている。あるいは阿難が、将来弥勒が仏となるので、弥勒に従って悟りを開

くのがよいということを説いています。こういうふうに涅槃経の中でも、漢訳の一部に

はストゥーパ信仰だけではなく、弥勒信仰を付加している部分があります。

釈迦入滅後、インドの内ではもっぱらストゥーパ信仰が軸となりますが、中央アジアで

は舎利信仰、ストゥーパ信仰も続きますけれども、弥勒信仰とその美術が大きく展開し

ます。ガンダーラにも弥勒菩薩の図像がたくさん出て来ますが、その中で兜率天の弥勒

を表したと見られる図像があります。アーチ型や梯形破風型の宮殿や天蓋の下で、椅子

に腰かけて、足を X 字型に交差させる、交脚弥勒という言い方をしますが、そういう姿

の弥勒菩薩で、その隣にはよくクシャーンの遊牧民の貴族と見られる人物が表されます

(図 10)。クシャーン民族の間でとりわけ弥勒信仰が盛んだったようです。

しかも、この交脚倚坐の姿はクシャーンの王侯の姿がもとになっていると考えられます。

これはウズベキスタンのハルチャヤン宮殿址の、クシャーンの王侯の姿の復元図(図 11)

ですけれども、交脚倚坐の姿をした王侯像があります。おそらく弥勒菩薩の姿にもこう

いうクシャーンの王侯の姿が反映しているのではないかと思います。交脚弥勒の図像は

中国の北魏時代に大きな影響を与えています。

そして、涅槃図とこの兜率天の弥勒菩薩が組み合されることになります。先ほどバーミ

ヤーンの涅槃図を見ましたが、バーミヤーンでは涅槃図以外には仏伝図が全く見られな

い。仏伝図だけがぽつんと出て来るのです。そしてドーム天井やかまぼこ型の天井の中

央に弥勒菩薩を描いていまして、釈迦の涅槃図と組み合される形になっています。天井

や側壁は多くの小仏陀がぎっしりと描かれ、いわゆる千仏構成をとっています。これは

バーミヤーン Ee 窟の線図ですが、ドーム天井の中央に交脚の姿の弥勒菩薩を表し、周囲

を千仏で取り巻いて、そして涅槃図が入口の上に小さく表されています(図 12)。こうい

う図像構成がバーミヤーンには顕著に見られます。

このような図像構成の背景にある信仰はどのようなものでしょうか。いくつかの経典に

示唆があります。例えば観弥勒経とも言われる、『観弥勒菩薩上生兜率天経』です。これ

は劉宋・沮渠京声訳とされているものですが、サンスクリット原典はなく、中央アジア

で成立した経典と見られているものです。その経典を見ますと、「仏滅度の後に」、「衆生、

もし諸業を浄くして六事法を行えば、必定して疑いなく當に兜率天上に生まれ、弥勒に

値遇し、亦弥勒に随って閻浮提に下り、第一に法を聞いて、未来世に於いて賢劫の一切

諸仏に値遇し、星宿劫に於いても亦諸仏世尊に値遇するを得て、諸仏の前に於いて菩提

の記を受くべし」、こういうように記されています。釈尊が亡くなった後、人々は六事法

を行えば、必ず兜率天にいる弥勒のもとに生まれることができる。そして将来、賢劫の

一切諸仏に巡り合うことができて、諸仏の前で悟りを開くことの授記を受けるであろう

と述べられているのです。バーミヤーンでは釈迦の涅槃図が弥勒菩薩と組み合されてい

ますが、この経典の言うように、涅槃図は「仏滅度の後」を表していて、弥勒菩薩に対

する信仰を強調する役割を果たしていると言えます。

ところが、クチャのキジルにおいては、同じく涅槃図と弥勒菩薩が組み合せられながら

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別な展開をします。キジルには中心柱窟という石窟構造がたいへん多いです。中心柱窟

は長方形の窟で、奥の中心部に方柱を残し、その中心柱(方柱)をめぐる回廊の奥壁に涅

槃図を壁画で描いています。あるいは台を設けて、そこに塑造の涅槃像を安置していま

した。現在塑造の涅槃像はほとんどないのですけれども(発掘によって発見された新 1 窟に残

存)、涅槃図は幾つか残っています。このキジルの涅槃図を見てみますと、 後の仏弟子

スバドラが禅定に入る図像があり、ガンダーラ以来の伝統が継承されています。それか

ら大迦葉の接足礼拝の図像も決まって見られます。これは第 161 窟の例です(図 13)。釈

尊の足もとに跪いて接足礼拝する大迦葉はキジルでも重要な図像となっています。これ

は第 38 窟の涅槃図ですが、釈迦の足もとで跪くのは、やはり大迦葉です(図 14)。

それから神々も讃嘆礼拝しますが、梵天・帝釈天の他に四天王が決まって現れます。第

161 窟では梵天・帝釈天とその向って右に四天王が出て来ます。第 38 窟でも梵天・帝釈

天および四天王が合掌礼拝しています(図 15)。その後ろ(向かって右)には仏弟子たちが

表されています。涅槃図の中に四天王が登場するのは、このキジル石窟が初めてです。

ガンダーラにもバーミヤーンにも出て来ません。小乗『涅槃経』にも四天王についての

言及はありません。どうして四天王が登場するのか。おそらく釈尊を荼毘に付した後の

舎利供養と関っているのではないかと考えられます。僧迦婆羅訳の『阿育王経』という

経典を見ますと、「仏また四天王に告ぐ、われ涅槃の後、汝らまさに法蔵を護持すべし。

(中略)天主帝釈および四天王は一切の香花、種々の伎楽をもって舎利を供養し、説いて

言わく、世尊は我らに法蔵を付して涅槃に入りたまえり。よって今我らは仏法を守護せ

ん」。このように、四天王は仏法を守り、舎利を守る役割があることが説かれています。

おそらくキジルで四天王が涅槃図に登場するのは、釈尊亡き後の仏法の守護、あるいは

舎利の守護ということに関っているからではないかと推測されます。

舎利供養と仏法の継承の問題と関わると思いますが、キジル石窟の涅槃関係の美術は涅

槃図だけではなくて、中心柱をめぐる回廊部に涅槃後の説話図が表されます。これはキ

ジル第 224 窟の壁画の配置図(図 16)ですが、ここでは奥壁に接して涅槃像を安置してい

ました(消失)が、壁画で涅槃図を描くことも多いです。この涅槃の場面だけではなくて、

中心柱の周囲には「阿闍世王故事」、「荼毘」、「分舎利」、「第一結集」という、釈尊涅槃

後の場面が回廊部に連続して描かれます。このことはガンダーラの伝統を受け継ぎなが

らも、さらに仏陀入滅の重大性を強調して、涅槃後の舎利供養と仏法の継承に対する強

い関心があったというふうに考えられます。

これらの説話は、義浄訳『根本説一切有部毘奈那雑事』の巻 38 から 39 に出て来る説話

と関係するものです。まず、「阿闍世王故事」というのは、王舎城にいた長老大迦葉は大

地が動ずるのを見て、釈尊の入滅を知ります。ヴァルシャカーラ(行雨)という大臣に命

じて釈尊の一代記を描かせ、熱心な仏陀の帰依者となった阿闍世王にそれを見せます。

それを見た阿闍世王は釈尊の入滅を知り、卒倒して気絶してしまう。大臣が用意させた

生酥(ヨーグルト)と香水の入った壺に王を入れると、王はすぐに息を吹き返した。こうい

う説話が義浄訳の『根本説一切有部毘奈那雑事』に出て来ます。阿闍世王は父王を殺害

して王となった悪人として有名ですけれども、『阿闍世王経』や大乗『涅槃経』になり

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ますと、阿闍世王は改心して熱烈な仏教信者となったわけで、「阿闍世王故事」はそう

いう伝承を踏まえた釈尊入滅の重大さを印象づける説話だと思います。

「阿闍世王故事」の壁画(ここでは写真の残っている第 205 窟のもの)を見ますと(図 17)、

画面の右下に須弥山の崩壊が描かれています。「大地が動ずる」ことが文献に出てきま

すが、釈尊が亡くなったということをこれで暗示しているわけです。画面左側には阿闍

世王とその妃に行雨大臣が話す場面、そして右上には仏伝場面が描かれた布を王に見せ

る場面が表されています。布には釈尊の四つの場面、つまり誕生と降魔成道と初説法と

涅槃の場面が描かれています。これを見せて、阿闍世王は釈尊が亡くなったことを知る

わけです。王が気絶してしまったので、ヨーグルトや香水の入った壺に王を入れて、そ

して息を吹き返したという、その説話がここに描かれています。文献では仏伝図が堂内

に描かれたとありますが、ここでは布に描かれており、当時絵解き用にこうした布絵が

使われていたことが考えられます。いずれにしても、阿闍世王が釈尊入滅までの絵を見

て卒倒したという話を導入して、仏涅槃の重大さを見る者に訴えかけます。

次に、「荼毘」の絵を描いています(図 18)。長老大迦葉が釈尊の遺体を納めた棺の蓋

を持ち上げて、 後のお別れをしているところです。欄干の上の方には多くの人たちが

悲しんでいますが、彼らの哀悼の身振りをよく見ますと、髪の毛を引っ張ったり、中に

は刀でもって顔を傷つけたり、胸を傷つけたりしています。涅槃経にも人々が悲しんだ

様子が記されていますが、このような激しい哀悼の身振りについては何も述べられてい

ません。これは中央アジアで葬礼の際に行われた哀悼儀礼がここに入っているのではな

いかと私は考えています。『宋雲行紀』にもホータンでは喪に服する者は髪を切り、顔

を傷つけ悲しみを表すと記されていますし、図像資料にもたくさん、このような表現が

見られます。もともとは中央アジアの遊牧民の英雄とか王が亡くなった時に、体に傷を

つけて悲しみ、それによって英雄や王の蘇生・復活を願う儀礼に由来すると言われてい

ますが、そういう習俗が涅槃図にも取り入れられているわけです。

次いで「分舎利」、舎利を分ける場面が見られます(図 19)。クシナガラの城門に舎利

を要求してやって来た各国の軍勢が画面の下の方に出て来ます。クシナガラの城壁、城

門が描かれ、上の方には、ドローナ婆羅門が舎利を八つに分けている場面が見られます。

この写真はドイツの報告書から複写したものですが、中央のドローナの部分だけが欠け

ています。実はその部分を先に調査に入った大谷探検隊が持ち帰ったのです。その残り

の壁画全てをドイツ隊が切り取ってベルリンに持って行ったのですが、そちらの方は第

二次世界大戦のベルリン空襲で消失してしまいました。「分舎利」の壁画はほとんどが

失われてしまったのですが、ドローナの部分だけが幸い、今、東京の国立博物館にある

という、そういうものであります。

ドローナが舎利を分ける「分舎利」の場面に続いて、その次に見られるのは「第一結集」

の場面です(図 20)。すなわち、大迦葉が主導した第一結集の様子を描いています。結集

には阿羅漢果に達した仏弟子たちが集まってきます。仏弟子たちは空中を飛翔して王舎

城に集まって来るのですが、よく見ると、仏弟子たちの体から赤い火や薄緑の水が発せ

られています。深い禅定に入った比丘は、体から火や水を発して、空中を飛翔すること

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ができると言われ、彼らはこのようにして第一結集の場に皆やって来るのです。大迦葉

が第一結集を主導するわけですが、その時阿難はまだ阿羅漢果を得ていなかった。それ

で大迦葉から叱責されて、退去命令が出されます。画面の左側中央に大迦葉がいて、厳

しく阿難を叱責するところが表され、阿難は恭しく大迦葉に礼拝し、そして去っていく

わけです。

しかし、間もなく阿難も目的を達し、阿羅漢果を得て許されます。それで阿難はスート

ラ(経)を結集したという話になっています。画面の右側中央で、アーチの下で威儀を

正すのが阿羅漢果を得た阿難で、比丘たちに囲まれ、その前で経を朗唱して、結集して

います。この「第一結集」や「阿闍世王故事」の説話は『根本説一切有部毘奈那雑事』

に出典がありますが、この経典は義浄訳ですから、唐の則天時代の翻訳です。このキジ

ルの壁画はそれより古い 7 世紀の制作と見られます。今迄見てきました涅槃後の説話図

は大筋では義浄訳本と対応しますが、細部の相違も少なくありません。『毘奈耶雑事』

の梵本も近年刊行され、研究も進んでいると聞いています。今後、梵本テキストを検討

して対照すれば、より詳しい解釈ができるのではないかと思います。

キジルの涅槃美術はバーミヤーンと異なり、涅槃図のみが表されるのではなく、「阿闍

世王故事」「涅槃」「荼毘」「分舎利」「第一結集」といった釈尊入滅後の一連の説話

が大きく表される点に特徴があり、その点でむしろガンダーラ美術との繋がりが推測さ

れます。しかし、涅槃図に四天王が登場したり、さらに「阿闍世王故事」や「第一結集」

といったガンダーラにはない説話図が表現され、大きな展開を見せています。その意味

で中央アジア的展開を示すものと言えます。キジルでは「涅槃」から「荼毘」に次第に

比重が移り、また「分舎利」、そして「第一結集」の場面が好まれます。このことは釈

尊入滅後の人々の信仰のあり方を示唆しています。すなわち、釈尊入滅後に遺された舎

利と仏法の継承に対する関心です。バーミヤーンでは涅槃図は「仏滅度」を強調して弥

勒信仰を鼓舞する役割を果たしていますが、キジルでは舎利信仰と僧団による仏法の継

承が重要なテーマとなっているのです。クチャは説一切有部が強かったことが知られて

いますので、その僧団の人たちの考え方が壁画の図像に反映しているのだろうと思いま

す。

もう一度、キジル石窟の中心柱窟の回廊を右繞しながら見てみましょう。中心柱の正面

に仏龕があって、ここに塑造の仏像を祀っていたわけです(消失)。中心柱を右繞してお

参りするわけですが、 初に「阿闍世王故事」の壁画を見て、阿闍世王も卒倒してしま

い、釈尊入滅の重大事を知らされるわけです。そして回廊の後ろに涅槃像や涅槃図があ

って、向かい側に「荼毘」の様子が描かれている。続いて中心柱の内側に「分舎利」が

描かれ、反対側に「第一結集」が表されているわけです。「分舎利」や「第一結集」の

壁画を見ながら、舎利の供養と仏法の護持の重要性を人々は確認するわけです。しかし、

興味深いことに、キジルでも舎利供養と仏法の護持だけでは満足できなかったようで、

やはり弥勒菩薩に対する信仰が欠かせなかったのです。というのも、右繞して回廊を出

ますと、ちょうど入口の上のところに目がいきます。半円形の区画ですが、そこに兜率

天の弥勒菩薩が描かれているのです(図 21)。右繞して 後にそこに目がいくようになっ

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ています。バーミヤーンの石窟に見られた、涅槃図と兜率天の弥勒菩薩の組み合せが、

キジル石窟でも表されているのです。釈尊入滅後の仏法が大迦葉を通じて、 後には弥

勒菩薩に継承されるということを示しているわけです。

このことから、キジルでも兜率天にいる弥勒菩薩のもとへの再生を人々が願う弥勒上生

信仰があったことがうかがえます。キジル石窟では、ガンダーラ美術に見られた「兜率

天上の弥勒菩薩」の図像をもとにさらに発展させています。すなわち、アーチ型の建築

構造の下で、交脚倚坐の姿で説法する弥勒菩薩が多くの讃嘆する神々に取り囲まれる構

図となっています。「兜率天上の弥勒菩薩」は中央アジア色の強い仏教美術のテーマと

言えると思います。ちなみにインドの内の方では弥勒菩薩は造形されていますけれども、

弥勒上生・下生信仰に関わるものはほとんどなく、少なくとも美術作品の上からは確認

されません。これに対し、ガンダーラから中央アジアにおいて、弥勒信仰が大きく展開

します。後ほど橘堂先生からお話があると思いますが、弥勒信仰は下生信仰・上生信仰

という二つの信仰形態をもちながら、中央アジアで著しい発展を見せます。

バーミヤーンにもう一度立ち返り、弥勒信仰について考えてみたいと思います。バーミ

ヤーンにおいては、キジルに比べるとより強い弥勒信仰が伺えます。バーミヤーンには

1.5 キロメートルにわたって続く断崖がありまして、二体の大仏が彫り込まれています(図

22)。向かって右の方の東大仏は高さ 38 メートルの大仏で、玄奘三蔵はこの大仏を釈迦

仏だと述べています。一方、断崖の西端に西大仏、高さ 55 メートルの大仏があります。

この大仏については玄奘三蔵は何仏と記してはいませんが、金色に輝いていて、宝飾で

まばゆいと述べています。この西大仏は弥勒の下生した姿の大仏ではないかと私は考え

ています。両方の大仏の仏龕の天井に、いずれも素晴らしい壁画が描いてありました。

すなわち、東大仏の天井には、イランのミスラと見られる太陽神、西大仏の天井壁画に

はマイトレーヤ(弥勒)の兜率天のあり様が描いてあったと私は推定しています。ミス

ラとマイトレーヤというのは、かつて言語学者や宗教学者、特にフランスのジャン・プ

シルスキー、シルヴァン・レヴィ、ジャン・フィリオザといった学者の研究があります

が、両者の言語・神格(尊格)は密接な関係があるというふうに言われています。

バーミヤーンの二大仏の天井壁画はまさにそのことを物語るものではないかと思いま

す。写真を見ながら観察しましょう。こちらがバーミヤーンの東大仏(図 23)。残念なが

ら 2001 年に破壊されてしまいました(図 24)。その仏龕の天井に興味深い太陽神の大壁

画が描いてありましたが、爆破とともに残念ながらそれもすっかりなくなってしまいま

した。これがかつて描かれていた太陽神の壁画です(図 25)。1969 年に私がスケッチした

図ですが(図 26)、4 頭立ての馬車、羽の生えた天馬の馬車に乗って天を駆け巡る太陽神

が大きく描かれています。大きな円輪の中に立ち、マントを翻し、両肩からコスティと

呼ばれるリボンを立ち上げ、右手で槍を持って、左手で剣の柄に手を当てる、そういう

図像の太陽神です。そしてその両側にそれぞれ盾と弓矢を持つ女神が表されます。二女

神とも有翼で、肩に羽が生えている。その上に上半身が人間で下半身が鳥の、半人半鳥

の神が手に松明を持って、二体表されていましたが、片方だけ残っています。上方には

ハンサ、白い鳥が数羽舞い降りてきて、両端にはショールを広げ、頭髪をたなびかせる

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風神が描かれていました。

この大壁画の中心の太陽神がどういう神かということについては議論があります。イン

ドの太陽神スーリヤではないかという見解もありますが、前田耕作氏やフランツ・グル

ネはミスラ説を提唱しています。ゾロアスター教の聖典であるアヴェスタのミフル・ヤ

シュトには、ミスラは槍を持ち、四頭の白馬の曳く黄金の馬車に乗り、不死にして速き

もの、と讃えられ、風神ワータはミスラを助け、その前でフワルナと呼ばれる燃え盛る

火が飛ぶ、と述べられています。バーミヤーン東大仏の天井壁画はこうしたミスラの記

述と近いものです。私はミスラ説は説得力のある説だと思っています。ただ、ゾロアス

ター教という宗教は、インドのヴェーダの宗教と同様、神の姿を図像で表すということ

はもともとありませんでした。そういう事情もあって、イランには図像化されたアヴェ

スタの神の表現というものはほとんどないわけです。しかし、アフガニスタン、東イラ

ンの方になりますと、ヘレニズムの影響もあって、アヴェスタの神も図像化されていく

わけです。このミスラの図像に関しても、現在数例が知られています。例は少ないので

すけれども、イランの太陽神ミスラの図像と見られる印章の図柄がありまして、バーミ

ヤーンの壁画の図像とよく似ています。それで東大仏の天井大壁画はイランの太陽神ミ

スラを描いたものと考えられます。それにしても、釈迦大仏の天井にどうして異教の太

陽神を大きく描いたのか、という問題が残ります。

一つには釈迦仏と太陽信仰との関係があると思います。釈迦に対する信仰が太陽信仰と

深い繋がりをもっていることについては、昔 E.スナールが大部な研究をしています。釈

迦仏は日種、いわば太陽の後裔だという信仰もありますし、釈尊が出城の時やあるいは

悟りを開いた時、涅槃の時などに光り輝く太陽的なイメージがたくさん出てきます。大

仏の天井に大壁画として太陽神を描くというのは、こうした釈迦の太陽神的な性格を写

し出そうとしたということも考えられます。いずれにしても、単なる守護神として太陽

神を大天井に描いたものとは思われません。太陽神にはいろいろな性格がありますが、

一つは太陽神には死者の霊魂をあの世に運んでくれる、そういう信仰があります。もし

かしたら、バーミヤーンでは仏教が入る以前にはミスラ信仰があったのかもしれないと

考えています。「バーミヤ」という言葉は光り輝くという意味のアヴェスタ語に由来する

といわれています。イラン系の宗教の土壌の上に仏教が入ってきて、仏教はミスラ信仰

を巧みに取り入れて、守護神であると同時に、釈迦大仏の天井に太陽神を描くことによ

って信者たちを死後その霊魂を天の国に運んでくれる、そういう信仰があったのではな

いかとも考えられます。釈迦に対する太陽神的な信仰をもとにイランのミスラ信仰を吸

収しながら、バーミヤーンの東大仏と天井壁画が成立したのではないかと思います。

この写真は爆破された後のものです(図 24)。この爆破された瓦礫の中から、すさ..

(麦わ

ら)を取り出して、放射性炭素の年代測定がなされました。その結果、この大仏の造立年

代は、6 世紀の半ばから後半という説が強まっています。二大仏のうち、 初にこの東大

仏が造られた。そして数十年経って、西大仏(図 27)が造られたと見られます。西大仏も

爆破され(図 28)、そこに残っていたすさ..

や木杭、縄などを取り出して、やはり放射性炭

素の年代測定がなされました。その結果、西大仏の造立年代は 6 世紀末から 7 世紀初め

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という年代が推定されています。西大仏の天井にもかつて大変素晴しい壁画が描かれて

いました。

東大仏の太陽神の壁画は、技法的にもササン朝ペルシアの影響が強いものです。ササン

朝ペルシアの絵画技法というのは、ギリシアとかインドの絵画と違って、立体感や陰影・

明暗をほとんどつけないのです。極めてフラットな、色面で構成していくやり方なので

す。東大仏の壁画は、そういう絵画技法を用いています。それに対して西大仏の壁画は

インド、中インドの影響が強いものです。グラデーションを強くつけて、立体感や人体

の肉づきを強調する絵画技法で、アジャンター壁画と比べられます。西大仏の彫刻とし

ての造形もインドのグプタ様式の影響を受けています。しかし、この西大仏の天井大構

図のテーマ(図 29)は、私の推定では中心に兜率天の弥勒菩薩を大きく描いていたと思わ

れます。こうしたテーマはインドには見られないもので、大層中央アジア的なものです。

大半は剝落していますが、弥勒菩薩が坐っていた台座の一部が残っていて、天衣の端も

見られます。そしてその下に二人の楽女が賛嘆していて、弥勒菩薩の周りを多くの兜率

天の神々、菩薩たちが梯形破風やアーチの下で整然と取り巻いて讃嘆している、そうい

う兜率天の弥勒菩薩の世界を西大仏の天井には描いていたのではないかと私は推定して

います。

すでに述べましたように、ミスラとマイトレーヤというのは非常に関係が深く、マイト

レーヤ(弥勒)信仰の展開にミスラ信仰が深く関わったのではないかと思います。特に

バーミヤーンでは、ミスラ信仰がベースにあって、その上に仏教が入ってきて、弥勒信

仰が大きく展開したのではないかと考えられます。もちろん弥勒信仰はインド以来あり

ますけれども、インドの内では弥勒は 初は仏弟子として登場し、その後、釈尊の後を

継ぐ人、さらに釈尊の次に悟りを開くことが確定している菩薩として信仰されますが、

それ以上には発展しなかったと見られます。これに対し、中央アジアでは弥勒が兜率天

において神々に説法している、いわば理想郷としての天上世界のイメージが膨らみ、そ

こに我々仏教信者は死後生まれ変わりたいという信仰が強く出て来ます。中央アジアで

は天に対する信仰が非常に高まっていきます。その背景には多神教的なインドの風土か

ら、一神教的な世界観を育む中央アジアの風土が関係していると思いますが、いずれに

しても兜率天の弥勒菩薩に対する信仰が中央アジアで大きく展開していきます。バーミ

ヤーン西大仏の天井壁画や、多くの石窟のドーム天井に弥勒菩薩が描かれているのは、

こうしたことを物語るものと思います。

時間も来ました。早口でわかりにくかったかと思いますけれども、仏教は絶えず異文

化・異宗教と接触し、それらと融合することで発展していったということをお話ししま

した。仏教がインドから起って、インドの内では、バラモン教やヒンドゥー教の神々と

いろいろ混淆しながら発展します。そしてガンダーラではギリシア・ローマの影響を受

容しながら変化し、さらに中央アジアでは乾燥した風土の中でイランの宗教の影響も受

けながら展開していきます。仏教は異宗教と出会いながら、それを吸収しつつ根づいて

いったと言えます。仏教以前から信仰されていた宗教や文化をいつもベースにしながら

仏教は発展してきたわけです。仏教はまさに異宗教を取り込みつつ発展していった、む

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しろそれだからこそ発展できたということが、美術を通して窺えるのではないかと思い

ます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

三谷: 宮治先生、どうもありがとうございました。 新情報を織り込みながら、インド、

ガンダーラ、そして中央アジアにわたり、時代的・地域的な様々な特徴をもとに、非常

に明快なご説明をいただきました。どうもありがとうございました。

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図 6 化粧皿(死者の饗宴)

前 1 世紀頃 シルカップ(タキシラ)

第 2 層出土 タキシラ考古博物館蔵

図 1 サーンチー第一塔概観 B.C.3c -A.D.1c 初 現地

図 2 バールフット欄楯と門 B.C.2c 末 -

B.C.1c 初 コルカタ・インド博物館蔵

図 3 蓮華蔓草 バールフット出土

コルカタ・インド博物館蔵 図 4 マカラ バールフット出土

コルカタ・インド博物館蔵

図 5 涅槃図浮彫 ガンダーラ出土 大英博物館蔵

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図 10 兜率天上の弥勒菩薩 ガンダーラ出土

欧州個人蔵

図 11 王侯像(復元線図) ハルチャヤン出土

図 7

図 8 涅槃図(線図)

バーミヤーン

Fc(72)窟

壁画 (宮治作図)

図 9 涅槃図壁画

敦煌第 295 窟

隋代

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図 12 天井画 バーミヤーン Ee 窟 線図

(宮治作図)

図 13 涅槃図壁画 キジル 161 窟

図 14 涅槃図壁画会衆部分

キジル 38 窟 後廊奥壁右

図 15 涅槃図壁画会衆部分 キジル 38 窟 後廊奥壁右

図 17 阿闍世王故事 キジル 205 窟 旧 左廊内側壁所在

図 16 キジル第 224 窟 壁画配置図

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図 19 分舎利 ドローナ像(大谷探検隊将来) 壁画

キジル第 224 窟

図 18 荼毘図壁画 キジル第 224 窟

図 20 第一結集 キジル 224 窟

図 21 兜率天上の弥勒菩薩 キジル第 38 窟

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図 22 バーミヤーン石窟 概観

図 23 東大仏 図 24 東大仏 破壊後

図 25 東大仏天井壁画

図 26 東大仏天井壁画(線図)(宮治作図)

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図 28 西大仏 破壊後

図 29 西大仏 天井壁画 線図 (宮治作図)

図 27 西大仏

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【図版出典】

以下出典を記していない図版は筆者の撮影・作図による。

図 2 宮治昭・肥塚隆編集『世界美術大全集 東洋編 13 インド(1)』小学館、2000 年、図 15

図 4 前掲書 図 22

図 5 Zwalf, W., A catalogue of the Gandhāra sculpture in the British Museum, London, 1996, pl.231

図 6 樋口隆康監修 『パキスタン・ガンダーラ美術展図録』日本放送協会 1984 年、図 V-8

図 7 Faccenna, D, “The Artistic Center of Butkara I and Saidu Sharif I in the Pre- Kuṣāṇa Period”,

Srinivasan, D.M,(ed)., On the Cusp of an Era : art in the pre-Kuṣāṇa world, fig.7

図 9 敦煌研究院編『敦煌壁畫 上 中國美術全集 繪畫編 14』上海人民美術出版社、1985 年、図 169

図 10 栗田功著『ガンダーラ美術Ⅱ 改訂増補版 佛陀の世界』二玄社、2003 年、Pl.47

図 11 Colledge, Malcolm A. R., Parthian Art, London, 1977, fig.40-B

図 13 『佛教藝術』179 号、毎日新聞社、1988 年、口絵 1

図 14 新疆ウイグル自治区文物管理委員会, 拝城県キジル千仏洞文物保管所編

『中国石窟 キジル石窟 1』平凡社、1983 年、図 143

図 15 前掲書、図 144

図 17 A.Grünwedel, Alt-Kutscha, Berlin, 1920, Tafel XLII-XLIII

図 18 A. von LeCoq und E. Waldschmidt, Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien, VI, Berlin, 1928, Tafel.15.

図 19 【分舎利】図 17 前掲書、Tafel XL, VI, XLII

【ドローナ像】宮治昭編『ガンダーラ美術とバーミヤーン遺跡展』、静岡県立美術館、2007 年、図 130

図 20 図 18 前掲書、Tafel.14.

図 21 図 14 前掲書、図 83

図 22 菅沼隆二氏撮影

図 23 京都大学調査隊(代表 樋口隆康)撮影

図 25 同上

図 27 同上

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報告Ⅱ 橘堂晃一「西ウイグル国の仏教」

三谷: それでは続きまして、当研究センターの博士研究員であります、橘堂晃一先生

よりご発表をいただきます。講題は「西ウイグル国の仏教~弥勒信仰を中心に~」でご

ざいます。それではお願いいたします。

橘堂: ただいまご紹介にあずかりました橘堂でございます。宮治昭先生、吉田豊先生

とご一緒に発表させていただくことは、大変光栄ではございますが、少し私には荷が重

いように感じているところでございます。どうぞお手柔らかにお願いいたします。

本日のテーマは「中央アジアの仏教と異宗教の交流」ということでございますが、私

は「異宗教」には全くの門外漢でございますので、宮治先生の後を承ける形で、弥勒信

仰がどのように遊牧民に受容されていったかということを考えてみたいと思っておりま

す。

一、突厥と仏教

そもそも草原世界への仏教伝来について物語る史料といたしまして、『隋書』突厥伝や

『北史』突厥伝がございます。それによりますと「北斉に慧淋という仏僧がいたが、捕

えられて突厥に入っていた。そして佗鉢可汗に、斉国の富強は、みな仏法があるためだ

と言い、十二因縁経と因果応報の理を説いた。佗鉢可汗は、それを聞いて信じるように

なり、一つの伽藍を建て、北斉に使者をやって浄名・涅槃・華厳などの経典と十誦律と

を求めさせた。佗鉢可汗自身も斎戒し、塔をめぐって修道し、中国内地に生まれなかっ

たことを残念に思ったという」と伝えられるのが 初の史料のようでございます。また

『続高僧伝』にも同じく他鉢可汗のところにガンダーラ出身の僧侶、闍那崛多が滞在し

ていた、とも記されています。

これらの記録と関連する資料といたしまして、モンゴルのブグトに立てられていたブ

グト碑文が特に注目されます。この碑文にはソグド語とともに、ブラーフミー文字が刻

まれています。吉田豊先生のご研究によると、ソグド語面は「教法の石を立てること nwm

snk’ ’wst」という言葉が読み取れ、それはこの碑自身を指すと考えられています。そして

ブラーフミー文字の面は、文字が不鮮明なため、単語を把握することすら困難な状態の

ようでございますが、どうやら縦書きであるらしい。インド起源のブラーフミー文字は

本来横書きです。吉田先生は、これは遊牧民にも理解しやすい『十二因縁経』であった

可能性があると推測されておられます。確かに北涼時代の奉献塔には『十二因縁経』に

関連する経文が刻まれているものが多数発見されていますし、そのうちの一点はブラー

フミー文字のものも含まれています。

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また七世紀前半、西突厥の牙庭である千泉を訪れた玄奘は、葉護可汗に対して十善・

命あるものを慈しむこと・波羅蜜・解脱するための業を説いたといいます。このように

遊牧民に対してごく基本的な仏教のエッセンスが可汗に説かれているという事実から、

突厥の人々に対する仏教の浸透の程度は表層的なものにとどまっていた、と考えるのが

妥当ではないかと思います。ちなみに玄奘から教えを聞いた葉護可汗は、手を挙げて額

を叩き歓喜して教えを信受したと伝えられています。

これらは受け皿としての遊牧民が仏教と接触したことを示す資料です。西突厥が東西

トルキスタンのオアシス世界にも政治的、経済的、文化的影響力を及ぼしたことを考え

ますと、オアシス都市国家に浸透していた仏教文化が遊牧文化の受け皿ともなったと想

定することもできるのではないでしょういか。そのことを示す資料といたしまして、キ

ジル石窟マーヤー窟、現在の第 224 窟、ここに描かれた壁画をご紹介したいと思います。

マーヤー窟は、いわゆる中心柱窟の構造をもち、その奥壁に涅槃図が描かれています。

その対面する壁面には、釈尊の入涅槃を嘆き悲しむ人々の姿が描写されています。両手

をあげる人、髪をかきむしる人、胸を叩く人、あまりの悲痛に耐えきれず卒倒する人を

見ることができます。これらの姿に交じって、右から 2 人目と左から3人目と5人目の

人物が、ナイフで自らの顔を傷つけているのがご覧いただけるかと思います。宮治先生

の著書『涅槃と弥勒の図像学』でも詳しく取り上げられましたように、死を悼む表現は

『涅槃経』などとよく一致するものの、顔を傷つけるという表現は、白法祖が翻訳した

「涅槃経」にだけ出てくるとのことでございます。

キジル第 3 区マーヤー窟(第 224 窟)

ナイフで顔や身体を傷つけて死者を追悼する行為、漢籍史料ではこれをリ面といいま

すが、これは古くはスキタイから認められるように、遊牧民に特徴てきな習俗でした。

例えば『周書』突厥伝には追悼儀礼について、このように言っています。

死者があると、その死体を天幕内に置いて、子孫ならびにもろもろの親族の男女が各々

羊馬を殺して天幕前にならべ、お祭りをする。天幕のまわりを七回馬を走らせてまわり、

一度入口の前に来るたびに刀で顔を傷つけて泣く。血と涙が一緒に流れるが、このよう

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にすること七回でやめる。日を選んで、死者の乗馬やふだん使っていたものを死体と一

緒に焼く。その残った灰をとって、時を待って葬るのである。春夏に死ぬと、草木が黄

ばみ洛陽するのを待ち、秋冬に死ねば、花が咲き葉がしげるのを待って、はじめて穴を

掘って埋める。葬式の日には、親族のものがお祭りをし、馬を走らせたり顔をきずつけ

たりすることは、死んだときのやりかたと同じである。葬式が終わると、墓所に石をた

て、墓標もつくる。その石の数は生前殺した敵の数に応じてたてる。またこれを祭るの

に、羊馬を全部の墓標にかける。そしてこの日には、男女みな着飾って葬所に会するの

である。そこで男は気に入った女ができると、帰ってからあらためて使いを立て贈り物

をもってその父母に頼む。普通はうまくいく。(『周書』突厥伝)

私は、マーヤー窟の表現は突厥、それも西突厥の影響ではないかと推測しています。

マーヤー窟の壁画が描かれた年代は、ヴァルトシュミットにより 600 年~650 年という指

標が与えられています(Waldschmidt 1933)、さらにこの年代が、西突厥が強盛を誇って

いた時期ともちょうど重なることなどが、私の推測のささやかな根拠です。もしかする

と右から2番目の結った髪を後ろに垂らしている人物は、実際に突厥人を表現している

のかもしれません。また突厥とオアシス国家との関係について記した『旧唐書』の記述

も参考になります。

統葉護可汗は、勇にして謀あり。攻戦を善くし、ついに北は鉄勒を併せ、西は波斯(ペ

ルシア)をふせぎ、南は罽賓に接すれば、ことごとくこれに帰す。控弦は数十万、西域

を覇有す。旧の烏孫の地に拠るに、また庭を石国北の千泉に移す。其れ西域諸国の王は

ことごとく頡利発を授けらる。併せて吐屯一人を遣わしてこれを監統し、その征賦を督

せしむ。西戎の盛なるや、いまだこれあらざるなり。(『旧唐書』巻 194 下 突厥伝下)

このように西域のオアシス国家の国王には、突厥からイルテベルという称号が付与さ

れていました。また、トルファンでは中国とは逆に襟を合わせる被髪左衽や父兄が死ん

だ場合に、子弟がその妻を娶る習慣、これをレヴィレート婚といいますが、これら突厥

の習俗が強要されていたことがわかります。この他にもソグド地域のペンジケントの壁

画や敦煌莫高窟の壁画にもナイフで顔を傷つける姿が描かれていますが、これらも突厥

の影響なのかもしれません。

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ペンジケント第2址出土壁画

それでは、マーヤー窟の造営に西突厥の人間が関わっていたと考えることは可能でし

ょうか。私はこの問い対する明確な答えを用意できていませんが、先ほど申し上げまし

たように、突厥に仏教が伝えられていた事実を考えるならば、その可能性を完全に排除

することはできないように思います。突厥とクチャのいわゆるトカラ人との間で、さま

ざまなレベルでの文化接触があったことは確かです。例えばフランスのピノー氏は、日

天、月天の表現におけるトカラ語とチュルク語の関連性を指摘されておられます。この

ような仏教とシャーマニズムとの交流、これをシンクレティズムと言ってよいのかわか

りませんが、これがあったとしても何ら不思議はないと思います。

二、西ウイグル国における弥勒信仰の諸相

744 年、突厥の後をうけてモンゴリアの覇者となったのはウイグル(回鶻)です。この

時期のウイグルに仏教徒が存在していた痕跡は認められていません。仏教よりもむしろ

マニ敎が王族の支持を得て国教としての地位を確立していました。

840 年、モンゴリアの故地を追われて、東部天山山脈に安住の地を見出したウイグル人

たちは、すでに成熟した固有の仏教文化を持っていたトルファンやその周辺オアシスの

仏教文化と接触いたします。やがて彼ら自身もマニ教徒よりも仏教徒の数のほうが数を

増して行き、そして様々な特質を持つ仏教文化を形成するにいたります。とりわけクチ

ャ(亀茲)、カラシャール(焉耆)そしてトルファンを中心とする地域に根差していたい

わゆるトカラ仏教、そして 3 世紀以来トルファンに定住してきた漢人の間で行われてい

た中国仏教など、ウイグル仏教はこの二つの仏教から大きな影響を受けて発展していき

ます。私の専門であります写本研究の観点からいえば、トカラ語仏典と漢文仏典をウイ

グル語に翻訳した経典から読み取ることができます。初期のウイグル語仏典のなかには、

『マイトレーヤ・サミティ(弥勒との邂逅)』や『ダシャカルマパタ・アヴァダーナ・マ

ーラー(十業道の比喩譚の花輪)』のようにトカラ語から翻訳されたものと同時に、『天

地八陽神呪経』など漢文仏典からの翻訳された経典もあります。とくに『天地八陽神呪

経』の表現の中にはマニ教の影響がみられるということが、小田寿典先生により指摘さ

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れています。またベゼクリク石窟の誓願図に見られるような宝石類によって荘厳された、

いわゆる「飾られたブッダ」の表現もマニ教の影響ではないかとの指摘もございます。

それは同じ誓願図「燃灯仏の授記」をテーマとし、同じ構図を持つクムトラ石窟(窟群

区第 34 窟)の壁画とベゼクリク石窟の壁画とを比較したときに、ブッダ表現の差異が明

らかとなるのではないでしょうか。

ベゼクリク石窟誓願図 クムトラ石窟誓願図

スクリーンをご覧ください。左がベゼクリク石窟の誓願図。右がクムトラ石窟の誓願

図です。どちらも燃灯仏授記をテーマとしています。両者ともほぼ同じ構図ではありま

すが、クムトラの燃灯仏は装飾を一切身につけていないのに対し、ベゼクリクの方では

様々な瓔珞を身につけているのがおわかりいただけようかと思います。入澤先生は、こ

こにマニ教の影響を想定しておられます。

このようにウイグル仏教は、時代性と地域性による影響を蒙りながら、あるいはシャ

ーマニズム、マニ敎、ネストリウス派キリスト教などの異文化・異宗教と交流しながら

独自の展開をみせていきます。遊牧民のもつ資質によるものなのかどうかわかりません

が、宗教に対する柔軟な姿勢が生み出した多様な仏教文化は、東トルキスタンの仏教の

特性を凝縮したといっても過言ではありません。ウイグル仏教を研究することが、トカ

ラ仏教、中国仏教、チベット仏教、モンゴル仏教の解明にも寄与する、と考えられてい

る理由がここにあります。

ところでマニ敎や仏教は、いずれも遊牧民にとっては外来宗教です。それらがどうい

った過程を経て受容されたかを示唆する興味深い記録が残されています。1129 年、宋の

使節として金に派遣された洪皓は、当時燕山地方に滞在していたウイグル人たちの仏教

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信仰について、次のように観察しています。

(ウイグル人は)仏教を信奉すること頗る厚い。ともにお堂を建てて、塑像の仏像を制

作している。齋日には必ず羊を殺して酒宴をひらく。(羊の)血を指に付け、それを仏

像の口に塗りつける。あるいはまた仏像の足に額をつけて泣く。彼らはこれを「親敬」

と言っている。仏典を読誦する時には、袈裟を着てインドの言葉で読経している。

(『松漠紀聞』)

ウイグル人、ここではおそらく俗人だと思いますが、仏像の口に犠牲獣の血を塗った

というのも、遊牧民の間で行われていた祭天の儀礼に通ずるところがあるのかもしれま

せん。仏教儀礼の在り方にシャーマニズムの要素が混入していたことは、大変興味深い

と思います。そもそもウイグル語でブッダ・仏を示す言葉は、「ブルハン burxan」です。

これは中国語の「仏」の音写である bur に、「王、酋長」を意味する xan を付加してでき

た言葉です。さらに「仏」の前には必ず「天中の天 tängri tängrisi」というエピテートが

付加されます。ウイグル人たちは、彼らが崇拝の対象としていた「天」を通じて「仏」

という存在を理解していたのかも知れません。

多様なウイグル仏教にあって、その黎明期から衰退期まで一貫して彼らの信仰を集め

ていたのが弥勒(仏・菩薩)です。すでにトカラ仏教では弥勒信仰が盛んでした。その

影響を受けたウイグル仏教で弥勒信仰が受容されたことは自然ななりゆきと思われます。

さらに言えば、我々の世界の上にあるとされる「トゥシタ天(兜率天)」が、ブッダの場

合と同じように、「テングリ(天)」と同一視された可能性もあるのではないでしょうか。

この場合、トゥシタ天を住処とする弥勒菩薩に、ウイグル人たちは非常な親しみをもっ

たに違いありません。

ウイグル人たちの弥勒信仰は、もっぱらウイグル語に翻訳された経典やその識語に吐

露されています。これまでに報告されている弥勒の名があらわれるウイグル仏典と識語

は、ベルリン・ブランデンブルグ科学アカデミーの笠井幸代氏や敦煌研究院の楊富学氏

によってまとめてられているので、それらに依拠しながら、上生信仰(此土での命を全

うした弥勒が諸天に教えを説いている兜率天に死後再生したいと願う信仰)と、下生信

仰(兜率天での命を全うした後、此土に生まれて覚りを開き、衆生を済度する弥勒仏に

対する信仰)を示す諸事例を見ていきたいと思います。

1) 下生信仰を示す資料

a.『マイトリシミット』(Maitrisimit nom bitig、弥勒との邂逅)

マイトリシミットは、将来仏としての弥勒と邂逅することをテーマとする仏教戯曲で

す。序章と 27 章からなる。奥書には、アールヤチャンドラ菩薩がインドの言葉からトカ

ラ語 A(カラシャール方言)に作り(yaratmıš)、そこからプラジュニャーラクシタ羯磨

師がチュルクの言葉に翻訳した(ävirmiš)、と記されています。トカラ語 A の写本が発見

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されておりまして、その原題は Maitreyasamiti-nāṭaka です。現在、この両テキストの比較

研究が、トカラ語とウイグル語の研究者により進められています。

ウイグル語本にはセンギム本、ムルトゥク本、ハミ本が知られており、特にハミ本は

1067 年の書写であることがわかる点で非常に貴重な資料です。ハミ本の奥書には、経典

内容に即して将来下生する弥勒との出会いが願われています。

わたくしこと、三宝を信ずる優婆塞チュウ・タシュ・イゲン・トトクは、我が妻ととも

に、将来仏たる弥勒仏に邂逅しますように、と願って弥勒像を描かせ、この「弥勒との

邂逅」という経典一部を書写させました。先ず、この造像と写経の善業功徳を上なる梵

天・帝釈天・四天王に回向いたします。この功徳によって彼らがその威神力を増大させ、

この国と都城とを守護してくださいますように。

b. 棒杭文書

ドイツの探検隊がトルファンの高昌故城 α 寺院跡から出土した棒杭文書には、現在と

ころ三種類(そのうち一件は漢文)が知られています。一つは α 寺院跡の床面中央に泥

に塗り込められたまま土台のレンガ積みにしっかりと突き刺さっていたそうです。先端

が尖った長さ 84cm の八角錐状の棒杭は、その銘文の内容分析から、1008 年に建造され

た寺院建造にあたって打ち込まれた「刹」であることが森安孝夫先生により明らかにさ

れています。また棒杭文書にその名がみえるカルヤーナバドラは『マイトリシミット』

の奥書に現れる同名の僧侶と同一視されています。

我々二人は平等心となって、この寺院を建てるために刹の杭を打ち立てて奉納した。

願わくは、この功徳の力によって、後に弥勒仏と邂逅しますように。願わくは、私た

ちが弥勒仏から仏の慈悲によって、仏となる予言(授記)を得ることができますよう

に。この予言の力によって永劫の間、三阿僧祇劫にわたって六波羅蜜を完成した後、

私たちは仏の国土に姿を現しますように。

また、漢文で書写された棒杭にも、「・・・不失善心。憶念之意。引将弥勒下生之時。

弥勒會・・・」とあります。読み方には未解決の部分が残っていますが、ここでもウイ

グル語の棒杭文書と同じように弥勒の下生が待望されています。

このように『マイトリシミット』と棒杭文書は、両者とも書写された年代がはっきり

とわかる点で非常に貴重である。書写された 11 世紀の初頭(1008 年、1064 年)には、

トカラ仏教の影響から下生信仰が盛んであったことを示しています。

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2) 上生信仰を示す資料

a. 上生経変相図

中国社会科学院考古研究所によって 1979~1980 年にかけて吉木薩爾(ジムサール)

県に位置するいわゆる北庭高昌回鶻仏寺の発掘が行われました。寺院は 70.5m×43.8m の

長方形をしており、二層が現存しています。その東面の E 204 窟に交脚の弥勒菩薩の塑像

と壁面に『観弥勒菩薩上生兜率天経』を題材とする「上生経変相図」が発見されました。

壁画の作成年代は、炭素年代測定により、10 世紀中葉~13 世紀中葉とみられています。

壁画の表現は「上生経」にみえる次のようなトゥシタ天の表現とよく一致しています。

・・・一一宮に七宝七重の垣あり、七宝光明の中、蓮華を生じ、蓮華七宝行樹を生じ、

次第次第に宝女妙音楽等を生ず。龍王ありてこの垣をめぐり、雨を降らすときには垣

上を荘厳し、自然に風あってこの樹を吹き、樹振動して空・無常・無我・諸波羅蜜の

法を説く。龍王またその額よりして宝珠を出し、四十九重微妙の宝宮と化し、また天

子天女七宝蓮華諸楽器を生じ、楽起こり天女起って舞う。歌音十善四弘誓願を演説し、

諸天聞くもの皆無上道心を発す。園中には八

色の宝珠合成の瑠璃渠あり。一一の渠中に八

味の水あり、水中には七宝の蓮華あり、華の

上には二十四天女現じ、各手に楽器を持し、

菩薩の六波羅蜜を賛嘆す。また園には七宝の

大師子座あり、宮の四方には四宝の柱あり、

柱上に楼閣あり、天女その中に住し、妙法を

説くこと前と同じ。・・・

b. インサディ・スートラ Insadi-Sūtra

「インサディ・スートラ」とは、①自恣に関

する漢文仏典を引用しつつ編集された詩節、②頭韻詩の弥勒讃、③「上生礼」、というい

くつかのテーマからなる、ウイグル人によって編集・著述された仏教アンソロジーです。

しかし実際には、①「自恣」の部分だけがインサディ・スートラと呼称されていること

には、あまり注意が払われていません。②の「弥勒賛」では『観弥勒菩薩上生兜率天経』

の経文をウイグル文頭韻詩に独自に改編していることが報告されております。そして③

は敦煌資料にみえる礼懺文である「上生礼」(S. 5433、S. 4451、P. 3840)の陀羅尼部分を

ウイグル文字で音写しています。「上生礼」もやはり「往生兜率内院」を欣求して禮懺儀

礼に用いられたテキストです。

c. ウイグル人が書写した漢字資料から

トルファン出土資料には多くの版本資料が含まれています。例えば契丹大蔵経もその

一つです。紙は当時も大変貴重なものでしたので、ウイグル人たちは、こういった契丹

大蔵経を再利用して裏面にウイグル文を書いたりしています。なかにはウイグル人が書

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写した漢字資料も残されています。断片的に残されたウイグル人が書写した漢字資料を

ジグソーパズルのように復元したところ、これが「弥勒啓請礼」と呼ばれる礼懺文であ

ることが判明しました。さきほどご説明しました「上生礼」と同じく上生を願う内容を

持っています。これらの資料は、ウイグル人たちが漢字を音読して礼懺を行っていたこ

とを示しています。しかし現在の日本の読経がそうであるように、漢字音からでは、そ

の意味を理解することはできなかっただろうと思います。ですから彼らはその内容をき

ちんと把握するためにウイグル語に翻訳することも怠ってはいませんでした。実際に「弥

勒啓請礼」をウイグル語に翻訳したものも発見されています。

3)下生から上生へ

以上の資料をまとめますと、西ウイグル国の弥勒信仰は、「下生信仰」はトカラ仏教か

ら、そして「上生信仰」は中国仏教から影響を受けたものとみることができるようです。

また「下生信仰」が 11 世紀の文献に集中し、「下生信仰」が中期から後期の文献に多く

みられることは、トカラ仏教から中国仏教へとシフトしていくウイグル仏教の姿を反映

しているのではないでしょうか。

「上生信仰」が盛んになっていく要因につきまして、笠井幸代氏は、8 世紀から 9 世紀

にかけて曇曠によって敦煌に伝えられ、さらにチベット期に活躍した法成(チェードゥ

プ)に継承されて隆盛をみた法相宗がトルファン地域へも波及していったのではないか

と想定されています。

この他にも、ツィーメ氏が提示したウイグル語『慈恩伝』の翻訳例は重要です。『慈恩

伝』は、10 世紀末から 11 世紀初頭にかけて活躍したウイグル僧シンコ=シェリ=トトゥ

ング(勝光闍梨都統)によってウイグル語へと翻訳されました。『慈恩伝』本文で玄奘が

病床にあって、傍らで看病していた者に伝えたという偈頌「南無彌勒如來所居内衆。願

捨命已必生其中」は、ウイグル本では「弥勒如来に帰依いたします。その宮殿にいる内

衆に達することを願います。このわが身を捨てた時に、彼らの間に疑い無く生まれます

ように」と正しく翻訳されています。しかしそのあとに続く文章では、漢文は「寺主慧

徳、又夢に千躯の金像が東方より来下して翻經院に入り、香花空を満たすを見る」とな

っているのに対しウイグル語では、これに加えて「西北の方角の道を開く」という漢文

原典にはない文言が付加されている。ツィーメ氏は、釋道安(314~385 年)の伝記にも西

北方の道が開いて、兜率天を見たという表現と一致することを指摘し、ウイグル語『慈

恩伝』では願兜率往生者としての玄奘が強調されているとみたのではないかと考えてお

られます。

道安はいつも弟子の法遇たちと弥勒菩薩の前で誓いを立て、兜率天に生まれんことを願

った。その後、前秦の建元二十一年(385)正月二十七日に至って、突然、姿のとても

みすぼらしい異形の僧が寺にやって来て宿を借り、寺房が狭いので講堂におらせた。そ

の時、維那が仏殿で当直していたが、夜中にこの僧が窓の隙間から出入りしているのを

目にし、慌ててそのことを道安に報告した。道安は驚いて起き上がって挨拶をし、来意

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をたずねたところ、「そなたのためにやって来たのだ」と答えた。道安が「自ら思いま

するに罪業は深く、どうして解脱できましょうか」と言うと、「解脱するのは簡単だ。

だがあらためて聖僧を沐浴させる必要がある。そうすれば願いはきっと果たされよう」

と答えたうえ、沐浴の方法を具体的に教示した。道安は来生に赴くところをたずね、そ

の人がそこで天の西北の方角を手でぱっと払うとただちに雲が開けるのが見え、兜率天

のとても素晴らしい果報をまざまざと目にした。(『高僧伝』巻五、吉川忠夫・船山徹訳)

先行研究の成果に依拠しながら、西ウイグル国の弥勒信仰の変遷をみてきたわけです

が、ウイグル語の仏教文献のなかには、玄奘の高足である慈恩大師基の『観弥勒菩薩上

生兜率天経賛』のように、法相宗の立場から上生経を解釈した注釈書からの引用文もご

ざいます。しかしこのように高度に哲学的な思想が、果たしてどこまでウイグル人に理

解されたのかは明らかになっておりません。同じように敦煌における敦煌の法相宗の影

響を受けた上生信仰も正確な教学理解に基づいたものというよりも、漠北時代から引き

継がれてきた「テングリ(天)」信仰と兜率天を住処とする弥勒への信仰とがミックスし

たものではないかと考えております。

後に、ウイグル人仏教徒は、当初トカラ仏教の影響で下生信仰であったようですが、

しだいに上生信仰へと移行していきます。そのきっかけとなったのは、すでに早い時期

から法相宗が伝播していたトルファン仏教社会では、これにはウイグル人も漢人も含め

ますが、実際にトルファンにも滞在し「仁王経」を講義したことのある、また願兜率往

生者であった玄奘に対する思慕の念であったのではないかと推測しているところでござ

います。

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三谷: 橘堂先生、どうもありがとうございました。

事務連絡をさせていただきます。 初に申し上げましたように、それぞれの先生方に

対する質問がございましたら、配布いたしております用紙にお書きになってください。

そして一番後ろにお茶のコーナーを用意しておりますが、その横に回収箱を置いており

ますので、その中に入れてください。また係の者も回収に回ります。

それから、受付のところで配布いたしましたが、今年の 4 月 5 日に龍谷ミュージアムが

いよいよオープンいたします。そこで宮治先生の方からご案内をしていただければと思

います。

宮治: 龍谷ミュージアムのお知らせをさせていただきます。入澤先生が副館長、私が館

長を務めておりますが、4 月 5 日に龍谷ミュージアムが開館します。ミュージアムのスタ

ッフ一同、現在開館の準備に追われています。西本願寺の向かい側に、3 階建ての立派な

建物が建てられまして、龍谷大学の仏教総合博物館となります。2 階と 3 階に展示室があ

り、2 階の展示室にはアジアの仏教、3 階の展示室には日本の仏教を展示しまして、イン

ドから日本までの仏教の変遷、展開を多くの方々にご覧いただきたく思っています。今

年は「釈尊と親鸞」というテーマで 1 年間開催いたします。しかし、1 年間同じものを展

示するというわけではなくて、展示替えをいたします。アジアの仏教は釈尊というテー

マで、特にインド、ガンダーラ、西域辺りを中心に、釈尊の生涯、そして教えがどう伝

わり、展開していったかということを展示します。日本の仏教の方は、今回特に親鸞聖

人と真宗の歴史に焦点を当てた展示をいたします。日本の方は 6 期に分けて展示替えを

し、100 カ所以上の寺院や博物館などから多くの貴重な法宝物を借用して、展示をします。

関連する図書・図録等の刊行の準備を進めています。是非ご来館いただければと思いま

す。よろしくお願いします。

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報告Ⅲ 吉田 豊「マニ教絵画の世界」

三谷: よろしゅうございましょうか。それでは報告Ⅲにうつらせていただきます。京

都大学大学院文学研究科教授であります吉田豊先生よりご発表いただきます。講題は「マ

ニ教絵画の世界」でございます。どうぞよろしくお願いします。

吉田: 京都大学の吉田と申します。私の前のお二人は、とても上手にしかも時間どお

りやっていただきました。私は話が上手ではない上にがさつな発表しかできませんがお

許しください。数はちょっと多いのですがお手元にハンドアウトがあるかと思います。

前半までが話の筋、後半が話の途中で参照する資料です。別にスライドも適宜見ていた

だくことにいたします。

それではハンドアウトの0、「 近日本で見つかったマニ教絵画について: 時系列で」

のところからお話ししたいと思います。山梨県に栖雲寺というお寺がありまして、そこ

に代々この絵が伝わっておりました(図 1)。これは、虚空蔵菩薩像だというふうに言われ

てきたわけですが、2006 年の『國華』で、東北大学の泉武夫先生が「景教聖像の可能性

―栖雲寺像伝虚空蔵画像について―」という論文を書かれました。この論文の中で泉先

生は、先ほどの図は景教、つまりネストリウス派のキリスト教の絵画ではないかとされ

ました。そして一般に仏教画と言われていながら、仏教画ではないと思われる例として、

奈良にある大和文華館所蔵の、「六道図」と呼ばれている絹絵も紹介しておられます(図 2)。

この「六道図」の中で一番目立つ部分がこれでありまして(図 3)、真ん中に主尊がある

わけですけれども、これがどう考えても仏像ではない。泉先生は、これは泉州で見つか

るマニ像に非常に似ているのではないかというようなことを言われました(図 4)。この図

は従来「六道図」と言われております。なぜそういうふうに言われたかと言うと、この

図を見てください(図 5)。これはいわゆる「十王経」のイラストです。十王経というのは

中国で流行した仏典で、死んだ後に十人の裁判官のところに裁判を受けるという話です

が、見ていただいているのが裁判の場面です。問題の「六道図」の中にも裁判のシーン

がありまして(図 6)、そういうことから、人間が死んでから六道に輪廻する、それをテー

マにした絵であろうというふうに考えられてきました。

私は初め泉先生が栖雲寺の絵を紹介された時に、あることに気がついておりました。

ここに見ていただくのはトルファンのマニ教の壁画ですが(図 7)、ここのマニ教の高僧の

ショールの肩のところに人の顔を描いた絵が貼り付けてあります。これはマニ教の高僧

や預言者のショールに見られるもので、セグメンタと呼ばれています。実を言うと栖雲

寺の泉先生がキリスト像だと言われているものにも、衣装のところに 4 カ所人の顔を描

いたものがあります(図 8)。泉先生は書き判と呼んでおられますが、ご自身は何か全然わ

からないと言っておられます。

論文を読んだときに私は泉先生にお手紙を差し上げて、先生が書き判と呼ばれている

ものは、トルファンにあるマニ教画の中のセグメンタと同じものであるということを知

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らせしたのでありました。それ以外私は別にこの絵に興味はなかったのですが、私の昔

の学生である影山悦子さんが大和文華館の「六道図」を見に行くというので、彼女に同

行して貴重な現物を見せていただきました。

絵画を見た時に、それがマニ教の絵であるということを確信したのですが、もう一点

気がついたことがありました。この裁判のシーンがそれです(図 6)。これがあるので、従

来十王経に関連する仏画だと思われてきたわけですが、そこに女神が裁判の様子を見て

いるシーンがあります(図 9)。こんな場面は十王経の絵にはないと思います。これを見た

瞬間私は、これはマニ教の教義の中のダエーナーという神格に違いないと思いました。

ダエーナーというのは、ゾロアスター教の信仰の中にある、同じ位置付けの女神の名前

で、マニ教の文献にダエーナーという名前が現れるわけではありません。この女神は、

マニ教でもゾロアスター教でも、死んだ後で魂を迎えにきて、その魂を天国に運んでい

く神ということになっています。そのことに気がついたので、「寧波のマニ教画 いわゆ

る「六道図」の解釈をめぐって」という論文を発表したわけです。

その後、六道図がマニ教画であるという私の発見が新聞の記事になりました。それを

見た神戸大学の百橋先生が、以前に個人蔵の絵で六道図にとてもよく似た絵を見たこと

があるということを大和文華館の学芸員の古川さんという方に知らされました。ちなみ

に古川さんは百橋先生のお弟子さんです。程なくして私はその個人蔵の 4 点の絵という

のを見る機会を得ました。見てみますと確かにマニ教の絵でありました。それらが今日

の私の話のテーマです。

先ず、ハンドアウト 後の図(省略)を見てください。一つの絵のコピーを付けてお

きました。これがマニ教の宇宙図と言われているものです。それから次に、私が天界図

と名付けた絵もご覧ください(図 10)。これは断片ですけれど、マニ教の光の国の様子を

描いた図です。もう一つはそれと同じものの断片(図 13)。それ以外にもう 2 点あります。

私が聖者伝図の 1 と 2 と呼んでいるものです(図 11,12)。小さくて見えにくいと思います

が、マニ教のお坊さんが布教しているシーンを描いているようです。

そうこうしているうちに、古川さんが戦前の『國華』の中にこういう絵を見つけられ

ました(図 14)。『國華』では道教の絵というふうに紹介されたものです。これは先ほど六

道図にもありました主尊と同じで、マニ像であるということがわかりました。結果とし

て、現在までに日本で 7 点のマニ教の絵が存在しているということが判明いたしました。

私は絵画史のことは存じませんが、これら 7 点の絵は一般に寧波絵画と言われているも

のに属するようです。寧波というのはハンドアウトに地図(省略)がありまして、そこ

に場所を記しておきました。この寧波で宋の時代から元の時代にかけて、たくさんの仏

教画が描かれていたようでありまして、それを寧波絵画というふうに一般に呼んでいま

す。つまり 7 点の絵は、寧波画と同じ様式で描かれているマニ教絵画であるということ

になります。

それでは 7 点の中では一番問題の宇宙図の解説に入ります。ただその前にマニ教の世

界観について、ちょっと難しいのですが大雑把な説明をしておきたいと思います。マニ

教の教義に従えば、本来光の国と闇の国があった。それがある事情で混ざり合うことに

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なる。そしてその結果、肉体や動植物、自然界のあらゆる具象的なものは闇の要素で作

られることになった。しかもそういう全てのものに光の世界の要素が混在しているとい

うふうに考えております。とりわけ光の要素であるのは、我々の魂でありまして、それ

が闇の要素で作られた肉体という牢獄の中に押し込められている。そして、救済される

ということは、魂すなわち光の要素を肉体から解放し本来の光の世界に返してやること

であると考えていました。そして世界のこのような仕組みや成り立ちを悟る知恵をグノ

ーシスと呼んでいます。信者はそれを悟って、この世の光の要素を傷つけないように禁

欲の生活をして、 終的には光の要素を元の光の国に返す。簡単に言えばこんな世界観

を持っておりました。それをマニは非常に精巧な宇宙論を展開しながら説明していたわ

けです。それを説明するときに使う絵があったと考えられていまして、私が宇宙図と呼

んでいるものは、それに対応するものだろうというふうに考えます。

宇宙図全体はハンドアウトにあるようなものでありまして、私はその隣に説明を書き

込んでいます。一番上が光の国です。それから下の方に闇の国、八地があります。そし

て、その間に混合した世界があるわけです。とりわけ、これがマニ教の絵であるという

ことを示すのは、この間に現れている 10 層の天です。マニ教の宇宙神話によると、天は

10 層あって、下から 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10 まであるわけです。その 10 の層に

おのおの 12 の門がある。この絵を見れば円弧で描かれた各層に、12 の窓のようなものが

付いていることがわかると思います。そしてその天を、絵では見えにくいかもしれませ

んが、両サイドに天使たちが手で支えているようになっています。一つの天に 4 人ずつ

いますから、全体で 40 人の天使が天を支えているわけであります。そしてその間に虹色

のものがあって、上のほうにどんどん進んでいます。これが天に向かっていく光の要素

を絵画化したものです。それから金色の船もあります。マニ教では「光の船」と呼んで

いるものでして、この世で救済された光つまり魂を乗せていく船であります。絵ではこ

の部分に入っていくわけですけれども、これはマニ教の宇宙観では新しい天国と言われ

ています。本来の天国と10層の天の間に、本来の天国が汚染されないように、救済さ

れた光が留まる場所として新しい天国を作ってありました。そしてこの世のすべての光

の要素を抽出した後で、つまりこの世の終末には二つは合体することになっていました。

絵の下の大地ですが、マニ教の神話では 8 層というふうになっています。この大地は、

本当に 8 層あると面白いのですがわかりにくくなっています。

一番上の層の真ん中には、須弥山がそびえ立っております。ここですね(図 15)。きの

こ型のものですが。東方のマニ教信者たちは仏教の影響で、世界の中央にある山という

のを須弥山という名前で呼んでいました。実際仏教の須弥山の図像を借りています。仏

画の須弥山と同じように、ここには太陽と月があります(図 16)。次のスライドを見てみ

ましょう(図 17)。宇宙図の中では、下から 1 番目の層が第 1 天ということになります。

その中央に丸いものが見えるのですが、それがこれです。そこに蟹とか天秤とか蠍とか

があります。これはいわゆる黄道十二宮です。マニ教の教義を書いた本には、天の一番

下に黄道十二宮を置いて、男の天使と女の天使にそれを回転させるという記事がありま

すから、正にその絵がここにあるということになると思います。

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先ほどの大和文華館の六道図には、いわゆる十王経によく似た裁判のシーンがありま

したが、そのシーンも実はこの絵にはあります。それは、ハンドアウトでは十天の右下

辺りに裁きのシーンというふうに書いておきましたが、これを細かく見るとこういうふ

うになっています(図 18)。実際に十王の一人に当たるような王がいます。ここに生前の

行為を映す業鏡という鏡もあります。そのすぐ上に見えているのが一番下の天を支えて

いる光の天使たちです。裁判官の前には被告か原告かどちらかが連れられてきています。

ここに雲に乗っているのが先ほど言いました、ダエーナーということになります。この

裁判のシーンは実を言うと、大地と天の間にあります。実際、マニ教の教義では、裁判

官の玉座は空中に据えられているというふうに書いてあります。須弥山があるここが第

八地でありまして、そのずっと下には第一地から第七地があることになります(図 19)。

ですから、ここが闇の国、地獄ということになります。

それでは次にハンドアウトの 0-2 に移ります。マニ教のテキストとこの宇宙図との関

係です。私はこれがマニ教の絵であることを信じて疑わないのですけれど、日本では疑

う方はたくさんおられると思います。そこでこれが確実にマニ教の絵画であるというこ

とを証明するために、わかりやすい例を一つ引用しておきます。トルファンで出土した

中世ペルシア語のテキストです。M98 と M99 というテキストですが、それの一部を日本

語に翻訳しました。そこをちょっと読みますと、「・・・七つの惑星を閉じこめた。そし

て二匹の龍をつり下げ縛り付けた。そして一番下の天にぶら下げた。そして彼らは、(第

三の使者の)声に呼応してとめどなく回転させるように男と女の天使二人をそこに任命

した。そして再び彼らは上方の境へ、そして光の 上界へと、(光の要素?;或いは十天

を)差し上げた。光の……」。ハンドアウトの 0-2 のところを読んでいます。「(光の世

界の要素と闇の世界の要素の)混合物から浄化した風と光、水と火から光の戦車を二つ

造り備えた。太陽のそれは火と光からできていて、五つの壁は気、風、明、水、火でで

きており、12 の門を備え、5 つの住処、3 つの玉座(があり)、魂を集める天使は 5 人で

ある。火の壁の中に(いる)。月神のそれは風と水からできていて……」。

これが太陽でして、玉座が 3 つあります(図 20)。ここに 12 の門があって、光を集める

天使というのはこれです。ここにも何人かいます。別のテキストでは光の船を漕ぐ船主

たちというふうに書いてあります。月はこれですね(図 21)。月神の戦車は風と水からで

きていて、五つの壁は気、風、明、水、火でできていて、14 の門を備えるとテキストに

はあります。14 の門がここにあります。実際に数えたら確かに 14 あります。5 つの部屋

と 3 つの玉座があります。魂を集める天使 5 人というのは、ここにいる 5 人です。

こんな様子でマニ教のテキストに出て来るそのものがこの絵に描いてあります。他の

部分も同じようでありまして、文献に書いてあることがこの絵にはっきり見て取れます。

ただそのマニ教のテキストというのが、ここでは中世ペルシア語で見たわけですけれど、

それ以外にソグド語、エジプトで見つかるコプト語、敦煌の漢文、或いはアラビア語、

シリア語、ギリシア語やラテン語というふうで、いろいろな言語にマニ教の宇宙生成神

話がばらばらに残されています。それらを丹念に集めて、この絵を読み解かねばならな

いというのが難しいところです。

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それでは、そのマニ教は一体どういう宗教なのでしょうか。ハンドアウト 1 の「マニ

教とは」というところに移っていきたいと思います。このスライドをご覧ください(図 22)。

小さい図で申し訳ないのですが、これはマニ教絵画の専門家であるグラーチという研究

者の論文からから取ってきました。マニ教画世界のなかでどのように広まって行ったか

が示されています。マニ教が起ったのはメソポタミアの地域でして、それから西にはロ

ーマの世界、東にはシルクロードの世界、それから中国の北部、 後には中国の南部へ

と、マニ教は伝わっていきました。今日の話は、主に中国南部に伝わったマニ教の話で

すが、地図のここにあるトルファン、中国西部のいわゆるシルクロード地域に伝わった

マニ教についても少しお話しすることになります。

さてハンドアウトの1にマニ教についての大雑把な歴史が書いてあります。マニの名

前は正式にはマーニーで、しばしばマール・マーニー(Mar Mani)というふうに呼ばれ

ます。マールというのは一種の称号で「我が主」という意味です。漢字では摩尼、或い

は末尼というふうに書かれます。ローマの世界では Manichaios と呼ばれましたが、この

“chaios”のところはマニの母語であったアラム語で「ハイヤー」という語がなまった形で、

本来は「命」を意味していました。つまりマーニーハイヤーというのが原語でした。

彼は 216 年に生まれ 276 か 277 年に死んだというふうに考えられています。大体 60 歳

ぐらいで死んだようです。メソポタミアで生まれました。お母さんはマリアム、いわゆ

るマリアですが、パルティア王朝の名門カムサラガーン家出身でした。お父さんはパテ

ィクという名前でした。漢文のマニ教文献では、母親の名前は満艶、父親の名前は跋帝

と表記されています。幼い頃からお父さんとともにグノーシス派の洗礼教団に属してい

ました。この教団はエルカサイ派であったと考えられています。12 歳の時に一度啓示を

受けますが、啓示を与えたのは彼の双子の兄弟であるとマニは言っています。もちろん

本当の兄弟ではなく、一種の霊です。その霊は、マニはまだ幼いから 24 歳まで待つよう

に言いました。そして 24 歳のときにもう 1 回現れ、マニはそのとき初めて洗礼教団から

独立して独自の宗教を布教し始めました。

マニの宗教が他のグノーシスの宗教と全然違うのは、マニは普遍宗教を目指したこと

です。つまり、自分の教えは世界中の人たちに信仰されるべきであると信じていました。

グノーシスの人たちは基本的に教団の中にとどまって、積極的に布教ということをしな

かったようです。マニのほうは意図的に普遍宗教を目指したのであります。

先ず 初にササン朝下で布教をします。その結果ササン朝の第 2 代の王様であったシ

ャープール1世(在位 241-272)が布教の認可を与えました。そのこともあって、各地に

弟子を派遣しササン朝下で急速に広まっていきました。ローマ世界にも広まり、当時の

キリスト教の強力なライバルになりました。非常に有名なところでは教父アウグスティ

ヌス、つまりヒッポのアウグスティヌス(354-430)は、20 代の時に 9 年間マニ教の在家

信者であったということが知られています。マニの時代のこととしてマニの弟子のアン

モーという人が、クシャーンの領域にまで行って、仏教徒と邂逅したという記録があり

ます。

中国ですが、中国の歴史書によれば、694 年にマニ教が伝わったというふうになってい

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ます。732 年になりますと禁教令が出されます。マニ教は何かいい加減な宗教なので中国

人はマニ教を信じてはいけない、だけれども西側の人たちは元々の信仰なのだから以前

通りで構わないというような命令でした。それから、先ほどの橘堂さんの話にもありま

したが、763 年には安史の乱の時にウイグルの可汗、実際にはその時はまだ可汗ではなか

ったのですけれど、中国に来ていました。このその後に可汗になる王子が洛陽でマニ教

の僧侶に会って改宗し、マニ教がウイグル可汗国の国教になりました。その後 840 年に

ウイグルはモンゴルを追われ、シルクロード地域に移住しトルファンと北庭を首都とし

て西ウイグル国と呼ばれる王国を建てましたが、その時もまだマニ教を信仰しておりま

した。11 世紀の初めまでは確実に信仰は辿れます。しかしウイグ人は移住した頃から仏

教を信仰し始め、11 世紀には完全に仏教にシフトしたようです。

こと中国に関して言いますと、中国は安史の乱のときの借りがあってウイグルの言い

なりになっていた時期には、各地にマニ教の寺を建てさせられておりました。しかしウ

イグルが瓦解いたしますと、中国は徹底的なマニ教弾圧を始めます。これはマニ教以外

にも外来の宗教ということで仏教も弾圧された例の会昌の法難の時です。それ以降中国

では、マニ教は秘密結社化していくことになります。そしてこの時期に、中国南方のマ

ニ教徒の伝承によればですが、北から呼禄法師という人がマニ教を福建に伝えたと言わ

れております。そしてその後は福建から海岸沿いを北上して、マニ教は寧波まで伝わっ

ていったと考えられます。そのようなわけで寧波のマニ教というのは、中国の南にある

ものなかでは一番北にあるということになります。江南のマニ教徒は、通常は喫菜事魔

の徒、つまりベジタリアンで魔者に仕えているというふうに言われておりました。当時

のいろいろな反乱は、皆マニ教徒のせいだとも言われておりました。

それから 1294 年だったと思いますが、かの有名なマルコ・ポーロはこの辺りに来てお

りまして、ハンドアウトにマルコ・ポーロ関連の地図を付けましたが、そこの福州にや

ってきた時のことを記録しています。土地のイスラム教徒から、付近にとても変な宗教

集団がいるからちょっと調べてほしいというふうに言われて調べに行った時の記録です。

ハンドアウトにマルコ・ポーロのいわゆる『東方見聞録』の話を載せておきました。こ

れを読むと長くなりますので、手っ取り早く言います。マルコと彼の叔父さんは、その

連中に会いに行った。その人たちは、 初は弾圧されるのではないかと思っていろいろ

隠していたけれども、知り合いになってマルコたちが、彼らが持っている聖典を貸して

もらって読んでみたら、実はキリスト教の聖書の「詩篇」であることが分かった。そこ

で信者たちに、彼らはキリスト教徒であることを言ってやる。彼らに聞くと、自分たち

は何百年も前からこの信仰を伝えているけれども、今頃は信仰の肝心なところはよく知

らないというようなことを言っている。その後マルコ・ポーロのとりなしで、フビライ・

カーンのところまで行って話を聞いてもらうことになりました。いろいろ話があったよ

うですが、結果として元朝時代ここのマニ教徒たちはキリスト教徒と同じ範疇で管轄さ

れることになりました。このことは出土する墓碑からも確認できます。これについて大

阪大学の森安先生の 近の研究があります。マルコ・ポーロが伝える信者の数の 70 万戸

というのも驚くべきものです。

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さて、それから泉州ですが、そこには 1339 年に作られたマニ像が知られております。

これは 1957 年に地元の呉文良という人が発見して報告し有名になっていたものです。現

在はユネスコの世界遺産になっています。はじめにお話しましたように泉先生も、大和

文華館のあの像がこの泉州のマニ像と非常によく似ているということを指摘されました。

ちなみに、この泉州のマニ像の光背の火炎のような模様ですが(図 4)、これは先ほどの入

澤先生の話にもでてまいりましたトルファンの仏像の光背にも類似のものがあります。

残念ながら両者に関連があるかどうかは私では分かりません。

これが大雑把なマニ教に関する歴史です。マニ教は明の時代には大弾圧されて、清の

時代までは残らなかったのではないかというふうに言われていたのですけれど、 近に

なって、清朝時代のマニ教の本というものが発見されてきております。ですから、細々

とは清朝時代まで残ったようです。

教義ですが、先ほども言いましたように、グノーシスの宗教の一種であります。とり

わけキリスト教をベースにしていて、イエスが非常に重要視されている宗教です。更に

徹底した善悪二元論の立場に立っておりまして、ゾロアスター教の二元論の影響がそこ

にあるのだろうと考えられます。また非常にユニークな宇宙論を展開しておりまして、

その宇宙論とそれに関わる救済論、すなわち終末論というものが特徴になっています。

この世にある光の要素を傷つけるというので殺生や破壊を極端に禁じるところがあり、

近年これはジャイナ教の影響であるということが指摘され、ほぼ証明されていると私は

思います。ですから、日本の高等学校の教科書などではマニ教は、仏教とキリスト教と

ゾロアスター教を足して 3 で割ったような宗教だと言うのですが、それは実情を反映し

ていないのではないかと考えています。我々が見るシルクロードや中国のマニ教に見え

る仏教の要素は、仏教圏の人たちに布教するうちに、ある意味で方便として仏教の体裁

を取ってきた結果であるという側面が非常に強いのではないかと思います。ただ、もっ

と深いところで何があったかはもちろんまだわかりません。

先ほどは宇宙図を見ていただいたのですけれど、この絵の構成について宇宙論との関

係で少しお話したいと思います。日本では大貫隆先生が『グノーシスの神話』という本

を書いておられます。グノーシスは一時期流行した一種の宗教運動で、幾つかの教団と

いうか宗派があったわけです。この本にはそれらの各宗派の神話が集められています。

大貫先生は二つの資料を使って比較的長くマニ教の宇宙生成神話についても解説してお

られます。一つは 10 世紀のイブン・アン=ナディームという人がアラビア語で記録して

いるマニ教の宇宙生成神話、もう一つは 8 世紀のキリスト教徒でテオドル・バル・コー

ナイという人がシリア語で書き残した神話です。ハンドアウトをご覧ください。大貫先

生はマニ教の宇宙生成神話を説明した後で、マニ教の世界観に依ればこの宇宙はどのよ

うに図示されるかを示されました。ハンドアウトの上の方にある図が、大貫先生が 1999

年の段階で提案されたものです。これをご覧になると、今回私が発見した宇宙図と非常

に構造がよく似ているのに驚かれるのではないかと思います。正直に申しますと、大貫

先生に限らず、マニ教の宇宙論を読んだ人はみなマニ教の宇宙はだいたいこんなふうだ

と思っていたと思います。実際私があの絵を見た時に、すぐにこれはマニ教の宇宙図だ

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ということがわかったわけですが、その時には大貫先生の図のことは知りませんでした。

今回の宇宙図には須弥山が描かれていますが、それは先ほども申しましたように仏教の

須弥山のイメージを利用しています。この須弥山の図は森本公誠先生の論文にあるもの

を拝借したもので、東大寺の大仏に描かれたものです。創建当時のものだそうです。

それからハンドアウトには別にジャクソンというアメリカのイラン学者が 1920 年代に

マニ教の八つの大地がどうなっているかを図解したものを添えておきました。中世ペル

シア語のテキストから彼なりに推定したものです。それと比べて今回私が発見した宇宙

図がどう一致するのか、またどう違うのかはそれなりに興味深いところではあります。

比べてみると似ているところもあり、似ていないところもあります。さて、ここまでが

ハンドアウトの 1 番の話です。次に2番マニ教と絵画とのかかわりに移っていきたいと

思います。

マニ教が絵画を使ったというのは、どういうことなのかということを少しお話しした

いと思います。実を言うとマニは当初から、自分で自分の聖書は書く、自分より前の預

言者たちは、仏陀も含めてですけれど、自分の教えを文字で書き残さなかったからその

後教えが堕落したと考えていました。そしてその聖書の中には絵も含めてありました。

その絵は彼の宇宙観をイラスト化したものであったようです。そのことを文献の記録か

ら見てみましょう。

一つは 4 世紀のエジプトにいたマニ教徒たちが残した『説教集』の 1 節です。その中

でマニの言葉として「私は私の絵画(エイコン)のために泣く。私がその中に美しさを・・・」

というふうに書いています。問題の絵画のことはギリシア語のエイコン、つまりイコン

と呼んでいます。それからやはり同じようにエジプトのマニ教徒たちがコプト語で残し

た『ケファライア』という本がありまして、弟子たちに語ったマニの言葉が記されてい

ます。そこにはこういうふうに書いてあります。「あなたはあの「大二宗図(大二宗図とい

うのは、マニ教の宇宙観を表した図のことで、後で紹介する漢文文献を参考にして私はそう呼んでいます)

で、明らかにしておられます。その絵の中であなたは義者(マニ教の出家者のことです)につ

いて、その者が解放され裁き手の前へと連れて行かれてから光の国に到達する様子を描

いています。あなたはまた罪を犯した者についても描いています。彼が死に、裁き手の

前に引き出され尋問を受け」云々。

これは要するに、マニが描いた絵の中には、死後の裁きのシーンやら何やらいろいろ

描いてある。だけれども、一般信者が死んだらどうなるかは描いていない。それは困る

から、死んで地獄へ落ちるパターンと天国に行く以外の、在家信者の死後の運命も描い

てくれというようなことを頼んでいるところです。

それから、マニ教の教会史のなかにも絵についての記録はあります。マニの存命中に

マニ教がどんなふうに布教されて行ったかを記録した文献がありまして、マニ教の教会

史と呼ばれています。本日ここに参加しておられるベルリンの P.ツィーメ先生のご同僚

で W.ズンダーマン先生という方は、このマニ教の教会史についての研究の世界的な権

威ですが、いろいろなテキストを集めてくれておられます。その中には、マニが弟子を

布教に出す時に、聖書と一緒に絵も持たせたということが書いてあるものがあります。

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また、4世紀のキリスト教徒がシリア語で書いた資料の中に、マニは自分の教義をわか

りやすく理解してもらうために絵を使っているというようなことを書いております。

それから、8 世紀の中国にも資料があります。732 年にマニ教は中国で禁止されるわけ

ですが、その直前 731 年に、朝廷に報告書として出されたマニ教についての解説のよう

なものがあります。マニ教が禁止されるきっかけはこの文献だと言う研究者もおります。

これは敦煌から出ているわけですが、『摩尼光佛教法儀略』という正式な名前が付いてお

り、731年に翻訳されたとあります。「摩尼という光の仏陀の教えや儀式の解説」、そ

んなような意味かと思います。そこには、マニ教にはどんな聖書があるかという説明の

部分もあります。「経図儀第三」という表題の下に、「凡七部并図一(およそ七部、なら

びに図一)」というふうに書いてあります。つまり、聖典は 7 種類あるということです。

これは西側の伝承とも一致します。それ以外に絵が 1 つある。その絵の名前は「大門荷

翼図」という名前で、訳して言うと「大二宗図」と言うとも書いてあります。二宗とい

うのは、善悪二つの原理という意味です。というわけで、中国でもこのマニの絵という

のは知られていて、「大二宗図」と呼ばれていたことが確認できるわけであります。

10 世紀のトルファンからは、西ウイグル国がマニ教を国教としていたこととの関り合

いで、ミニアチュールつきの写本が出土しております。ここにお見せするのはトルファ

ンで出たミニアチュールのなかでは一番有名なものの一つかと思います(図 23)。この裏

側も似たような絵がありますけれどここでは省略します。全体は差し渡し 15 センチぐら

いしかありません。画面では大きくしてあるから立派に見えますけれど、本当は非常に

小さいものです。これは鎧を着た王様とマニ教の偉い僧侶が握手しているシーンでして、

この王様がマニ教に改宗するシーンだろうと考えられています。通常は、例のウイグル

の可汗が改宗する時のシーンだろうと言われているものであります。トルファンからは

こういうミニアチュールが出ておりまして、今、アメリカのアリゾナにおられる Zs.グ

ラーチさんという方がそれらをほとんど全部集めて一冊の本にしておられます。この

2001 年に出版された本を見れば、トルファンのマニ教絵画がどんなものであったかを簡

単に見ることができるわけであります。

10 世紀の華北では、毋乙の乱というのがありました。これはマニ教徒が起した反乱で

すが、その乱に関する史料の中には、首謀者の毋乙は魔王がどっしり座って仏陀がその

足を洗っているところを描き、「仏教は大乗と言うけど、自分の教えは上上乗というのだ」

というふうに言っているとあります。10 世紀の中国華北のマニ教徒も絵を使っていたこ

とが分かります。

それから 11 世紀のガズナ、アフガニスタンの町にあった宝蔵についての記録にもマニ

の絵の話があります。これも非常に有名なテキストですが、そこには、マニは白い絹糸

の上にも線を描くことができたので、その絹糸を 1 本引き抜いたら、その線が消えてし

まうほど精巧な絵を描いていた。その絵は、ガズナの宝物庫に入っているというふうに

書いてあります。この時代マニの絵はガズナにはあって、それは Erzheng と呼ばれたとい

うふうに言っています。もちろんマニ自身が描いたものではなく、後世のマニ教徒が使

っていた模写だと思います。イスラム時代には、マニは画家としてきわめて有名になっ

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ておりまして、彼が描いた Erzheng あるいは Ertenk は良く知られていました。この Erzheng

というのは漢文で大二宗図と呼んでいるものに当たるはずです。

12 世紀の中国江南地方にいたマニ教徒についての記事が『宋会要輯稿』にあります。

ちなみにマニ教は明教と呼ばれています。そこには温州のマニ教徒がどんなことをして

いるかということが書いてあります。そして彼らが持っているテキストや仏像にどんな

ものがあるかも記しています。ハンドアウトをご覧ください。A のグループには訖思経、

証明経、太子下生経などが見えます。一体こんなものがどんな経なのか今の我々にはわ

かりません。それ以外に、ちょっと後ろの D のグループ、括弧の 14 番では妙水仏幀、15

番は先意仏幀、16 番は夷数仏幀というふうに、絵の名前もリストしています。このうち

夷数仏幀はイエスの絵という意味で、 初に見た栖雲寺の絵は、正にこれだろうという

ふうに考えられているわけです。

このようにマニが絵を描いたとか、マニ教徒が絵を持っていたということは文献から

は知られていたわけですけれど、実際に残っていたものは本当に僅かしかなかったので

す。ハンドアウトの 3 です。その一つはメソポタミアで見つかって現在はパリにあるも

のですが、印章で、ハンドアウトにその絵を付けておきました(省略)。そこでは真ん中

にマニの絵があって、その両脇にお弟子さんがいるというふうになっています。こうい

うのが 1 個と、それから、先ほど見たようなトルファンのミニアチュールが 100 点ほど

あります。トルファンの絵画はみな断片、しかもたいていは非常に小さい断片です。そ

してもう一つは、やはり 初に紹介した泉州のレリーフです。トルファンの資料をいく

つか見てみましょう(図 24)。これは幡の絵です。それからこれはちょっと引っ繰り返っ

ていますが、マニの絵だと思います(図 25)。本当に小さい、幅が 1 センチか 2 センチほ

どのものです。

ほぼ時間が来ましたので、 後にハンドアウトの 4 に移っていきたいと思います。大

谷探検隊はトルファンにも行きました。それで大谷探検隊が持ってきた図像資料の中に、

マニ教の絵はあったのかという問題について考えてみたいと思います。先ず、ハンドア

ウトを見てください(省略)。これはソウルにある、大谷探検隊の将来品です。2003 年で

したか、新しくカタログが作られた時に初めてこれが出て、私もびっくりしました。韓

国の人たちはこれをマニ教絵画だと言っておられます。この絵には 3 人の人が描かれて

いて、別にドアが半開きになった小屋のようなものが見えます。おそらくは、仏教の絵

では解釈できないので、マニ教というふうに解釈したのだと思いますが、これはほぼ確

実にキリスト教の絵であると思います。どんなシーンかについては必ずしもはっきりし

ませんが、今はイエスの復活のシーンだろうと考えています。イエスが死んでから 3 日

後、3 人の女たちが墓場に行ってみると棺の中にイエスの遺体がなかったということが聖

書には書いてあります。そのシーンだろうと考えられます。いずれにしても、トルファ

ンで見つかるマニ教絵画とは色使いや描き方が違いすぎます。

もう一つは旅順にある絹絵の断片で、大谷探検隊が見つけてきたものであります。こ

れについては、王振芬さんという方が論文を書いておられます。幸いその論文をバージ

ョンアップしたものの日本語訳が出ました。ですから、日本語でも読むことができます。

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そこにこういう絵が紹介してありまして(図 26)、注目されるのは、この尊格が冠を被っ

て十字架を持っていることです(図 27)。私の記憶では、王さんは中央の尊格は被帽地蔵

であって、十字架を持った脇侍は景教の影響が出ているのだろうと言っておられたと思

います。私はこれをマニ教の絵画と考えています。グラーチさんが明らかにしておられ

ますが、マニ教の絵画には主尊の周りに幾つかの尊格を置くパターンがあったようです。

ハンドアウトをご覧ください。これはグラーチさんが書かれた論文の中から私が引用し

てきたものです(省略)。主尊を囲んで 4 隅に別の神格、或いは預言者を置く図があると

いうのであります。ハンドアウトの左上の断片は、グラーチさんが復元しているように

本来は失われた主尊の右上にあったもので、おそらく仏陀の図像です。それから、その

下はやはりマニ教の絵ですけど、主尊の右にあって十字架を持っている、おそらくイエ

スの図と考えられます。グラーチさんの復元案を添えておきました。こんなふうにトル

ファンのマニ教絵画には主尊の周りに、それ以外の預言者を配する絵があるので、旅順

の絵はそのような絵の一部だろうというふうに私は考えます。つまりこれはマニ教の絵

である可能性が非常に高いと私は思っています。ちょっと時間オーバーしてしまいまし

てすみませんでした。ご清聴ありがとうございます。

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2011 年 2 月 26 日 龍谷大学

マニ教絵画の世界

京都大学文学部 吉田豊

0 最近日本で見つかったマニ教絵画について:時系列で

・栖雲寺マニ教のイエス像;泉武夫「景教聖像の可能性―栖雲寺蔵伝虚空蔵画像について―」『國華』

2006年 8号,pp. 7-17.

・大和文華館の「六道図」:個人の終末論画

従来は仏教画;「十王経」のイラストの一種と考えられた

吉田豊「寧波のマニ教画 いわゆる「六道図」の解釈をめぐって」『大和文華』119, 2009, pp. 3-15.

特にダエーナーに注目した

・個人蔵の 4点

1)宇宙図;2)天界図;3)聖者伝図(1);4)聖者伝図(2)

吉田豊「新出マニ教絵画の形而上」『大和文華』121, 2010. pp. 3-34.

・旧藤田男爵蔵のマニ像

どれもいわゆる寧波絵画に分類される特徴を示すと考えられている

参考:特徴的なマニ教僧侶の衣装とポーズおよび「セグメンタ」

0−1 宇宙図の解説

救済論:光=魂(グノーシス)を具象のこの世から光の国へ送り返す

全体の構図:天界;十天;八地;太陽と月;光の流れ(光の船);新しい天国;大地(第8層)にそび

え立つ須弥山;黄道十二宮;空中に据えられた裁判官;闇の国(下の4層と上の4層)

0−2 マニ教のテキストとの関係:トルファン出土の中世ペルシア語テキスト M98/99(写本は 10 世

紀頃)から

「・・・七つの惑星を閉じこめた.そして二匹の龍をつり下げ縛り付けた.そして一番下の天にぶら

下げた.そして彼らは,(第三の使者の)声に呼応してとめどなく回転させるように男と女の天使二人

をそこに任命した.そして再び彼らは上方の境へ,そして光の 上界へと(光の要素?;或いは十天

を?)差し上げた.(光の世界の要素と闇の世界の要素の)混合物から浄化した風と光,水と火から光

の戦車を二つ造り備えた.太陽のそれは火と光からできていて,五つの壁は気,風,明,水,火でで

きており,12 の門を備え,5 つの住処,3 つの玉座(があり),魂(=光の要素)を集める天使 5 人

(五収明使)は火の壁の中に(いる).月神のそれは風と水からできていて,五つの壁は気,風,明,

火,水でできており,14の門を備え,5つの住処,3つの玉座(があり),魂(=光の要素)を集める

天使は 5人(五収明使)で水の壁の中に(いる).

1 マニ教とは

・マーニー,マール・マーニー(Mar Mani),摩尼,末尼,Manichaios(216-276/7?) メソポ

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タミア生まれ,母はパルティア朝の名門門閥出身;父とともにグノーシス派の洗礼教団で育つ;12

歳・24歳で啓示を受け布教;ササン朝下での布教,周辺の地域へ弟子を派遣;ローマ世界ではキリ

スト教のライバルに(教父アウグスティヌス 354-430は 20代のときマニ教在家信者だった);マ

ニの時代にはクシャーンの領域まで(仏教との出会い);中国への公伝は 694 年とされる;732 年

には中国人への布教は禁止;763 年にはウイグル可汗国の国教へ;西ウイグル国に継承され 11 世

紀始めまでトルファンで;843 年会昌の法難,中国では秘密結社化,福建への布教(呼禄法師);

喫菜事魔の徒;マルコポーロの記録;泉州草庵のマニ像(1339)

・教義:グノーシス,キリスト教,ゾロアスター教の二元論;固有の宇宙論と救済論,終末論;極端

な不殺生・非破壊(近年ではジャイナ教の影響であることが明らかにされている);懺悔と断食;定

時のお祈り;イスラム教に影響

・宇宙生成論

参考:大貫隆『グノーシスの神話』東京 1999, pp. 237-284.

・僧侶階級(選ばれた者たち elect)と一般信者=聴者(auditor)

僧侶階級は死んで光の国に,聴者は生まれ変わる(一種の輪廻)

2 マニ教と絵画とのかかわり:聖書の一つとして

・宇宙図とマニ教の宇宙生成論:4世紀のコプト語(エジプトのマニ教徒)

コプト語のマニ教文献『説教集』p. 18, 5-6 には,マニの言葉として「私は私の絵図の絵(複数)

のために泣く.私がその中に美しさを・・・(欠損)」という一文がある.

『ケファライア』から

「あなたはあの大二宗図の中で明らかにしておられます.その絵の中であなたは義者(マニ教僧侶の

こと)について,その者が解放され裁き手の前へと連れて行かれてから光の国に到達する様子を描い

ています.あなたはまた罪を犯した者についても描いています.彼が死に,裁き手の前に引き出され

尋問を受け・・・正義を差配するお方・・・それからその者は地獄に投げ入れられ,その場所で永遠

に彷徨する運命にある様子を.さてこの二つはあなたが大二宗図のなかで描いておられるところです.

しかし何故あなたは教えを受ける者(聴者のこと)を描かなかったのですか.その者が肉体から解放

され裁き手の前に連れて行かれ・・・永遠の休息の場所に達する運命にある様子を.と申しますのも

もし私たちが教えを受ける者の行く道を見て・・・ことができれば,そして・・・を知れば,私たち

はその者を知識を持って認識することになるからです.もし私たちがまたこの大二宗図の中にその者

を現前と見ることができれば,・・・その者を見ることで・・・」(Kephalaion 92, cf. Gardner

『上掲書』, pp. 241-242)

・教会史の中に言及:マニの存命,聖書とともに伝道に出る弟子に持たせる

・4世紀 シリア語資料 キリスト教徒 Ephrem (~373)

マニの幾人かの弟子によれば,マニは自分の考えででっちあげた不埒な教義に現れる者たちを,顔料を

使って巻物の上に描くこともした.彼は忌まわしい者たちを「暗闇の息子たち」と呼んだが,それは弟

子たちに暗闇のおぞましさを明言してそれを厭うようにするためであった.また愛らしい者たちを「光

の息子たち」と呼んだが,それは彼らにその美しさを明言してそれを欲するようにするためであった.

そうして彼は次のように述べている:「私は彼らを書物の中に書き,色を付けた絵で表現した.言葉で

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聞いた者は目に見える形でも見ることができるようになれ.そして(言葉を読んで)学ぶことができな

い者は,絵から学ぶことができるようになれ.」

・8世紀中国:敦煌漢文文書

敦煌出土の漢訳マニ教文献『摩尼光佛教法儀略』(大正大蔵経』vol. 54, p. 1280)に「経図儀第

三 凡七部并図一」とあり,7 つの聖書とともに絵図を挙げ,「大門荷翼図 訳云大二宗図」と記して

いる.漢語で大二宗図と翻訳されている絵図は,マニが自らの教義による宇宙論を絵画化した図巻であ

ると理解されている.

・10世紀頃のトルファン

ウイグルとのかかわり

多くのミニアチュールが出土した

・10世紀の華北(陳州):中国に流行したマニ教?

毋乙の乱(920)「画魔王踞坐.仏為洗足.云仏是大乗.我法乃上上乗」

参考:東方マニ教教会史 中国;ウイグル;江南

・11世紀初めのガズナ:Bay˝nu ’l-Ady˝n(ペルシア語史料)

「人の言うところに依れば,マニは白い絹糸の上にも線を描くことができた.そのようなわけで(布か

ら)一本の糸を抜き取ると線の全体が見えなくなった.マニはいろいろな種類の絵を含む本を一冊著し

たが,それはマニの ErΩengと呼ばれていた.それはガズナの宝庫に存在している」

・12世紀の中国江南地方:『宋会要輯稿』に見られる,温州のマニ教徒に関する宣和二年(1120)十

一月四日の記事

一.明教之人,所念経文及絵画・仏像,号曰(A)(1)訖思経,(2)証明経,(3)太子下生経,(4)父母経,

(5)図経,(6)文縁経;(B)(7)七時偈,(8)日光偈,(9)月光偈,(10)平文,(11)策漢賛,(12)策証

明賛;(C)(13)広大懺;(D)(14)妙水仏幀,(15)先意仏幀,(16)夷数仏幀,(17)善悪幀,(18)太子

幀,(19)四天王幀,已上等経佛号,即於道釈経蔵並無明文.該載皆是妄誕妖怪之言.多引爾時明尊之

事.与道釈経文不同.

3 現在までに知られている図像資料

・メソポタミアの印章

・トルファン文書のミニアチュール類;絹絵,幡,壁画も( も有名)

・泉州草庵のレリーフ

3−1 まとめ

マニは自らの教義,とりわけその根幹をなす宇宙生成論を描いた絵画を作成し,布教の際に使ってい

た.弟子たちも,その後の教団もその伝統を守り絵画を用いていた.宇宙論を描いた絵は,中国では

「大二宗図」と呼ばれていた.またイスラム世界では Erzheng, Ertengなどと呼ばれ,11世紀始

めのガズナには確かに存在していた.しかし,その実物は現在まで発見されていなかった.近年日本

で中国南方のマニ教教団が用いていたマニ教絵画が発見され,その中に「大二宗図」と見なされるも

のが発見された.

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4 日本のマニ教画をめぐって

・仏教との関わり(い):マニ教は仏教に影響を与えたか?

引路菩薩を例にして:大和文華館の「六道図」のダエーナー

引路菩薩については松本栄一『敦煌画の研究』東京,1937,pp. 361-367;秋山光和『西域美術』東

京 1995,pp. 325-326参照.秋山はゾロアスター教や「西方のゾロアスター教やマニ教に同様な神

格が存在し・・・」と述べ,暗に Daˇn˝と引路菩薩の関連を示唆している.

・マニ教が教義の説明のために絵画を多用する伝統と仏教の「絵解き」の伝統

・W. ズンダーマン「マニ教と仏教の出会い——仏教がマニ教に与えた影響の問題——」『龍谷大学 仏

教文化研究書紀要』1997, No. 36, pp. 11-22.

5 大谷探検隊はトルファンでマニ教絵画を発見したか?

・ソウル国立博物館にあるマニ教絵画(?)

・旅順にあるマニ教絵画(?)

王振芬「大谷収集品一幅新発現的帯有景教符号的地蔵麻が初探―兼論回鶻高昌時期景教与仏教的関係」

郭富純主編『旅順博物館学苑』長春 2007, pp. 94-98.

主尊とまわりを固めるイエスなどの預言者;主尊はマニか偉大なる父か?

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図版キャプション

(出典については『大和文華』119, 121号を参照されたい)

1 栖雲寺蔵伝虚空蔵菩薩像

2 大和文華館所蔵「六道図」

3 「六道図」の一部

4 中国泉州草庵のマニ像

5 寧波絵画の十王経図の閻羅王

6 六道図の裁判のシーン

7 トルファンにあったマニ教寺院の壁画

8 栖雲寺蔵伝虚空蔵菩薩像にみられる書き判

9 裁判のシーンを見ている女神たち

10 マニ教の天界図 A(個人蔵)

11 マニ教の天界図 B(個人蔵)

12 聖者伝図1(個人蔵)

13 聖者伝図2(個人蔵)

14 マニ像(『國華』より)

15 宇宙図(個人蔵)

16 宇宙図の中の須弥山の拡大図

17 第1天の中央の 12星座と男女の天使

18 宇宙図のなかの裁判のシーン

19 宇宙図の 下層

20 宇宙図のなかの太陽の戦車あるいは船

21 宇宙図の中の月の戦車あるいは船

22 マニ教の伝播(Gulacsiの論文から)

23 トルファン出土のマニ教絵画(可汗の改宗?)

24 トルファン出土のマニ教の幡(イエス像)

25 トルファン出土のマニ教絵画(マニ像?)

26 旅順博物館所蔵の大谷コレクション

27 図 26の拡大図(十字架に注目)

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図 4

図 1

図 2

図 3

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図 5

図 6

図 7

図 8

図 9

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図 10

図 11

図 1 2

図 1 3

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図 1 4 図 15

図 16 図 17

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図 18

図 19

図 20

図 21

図 22

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図 27

図 23

図 24

図 25

図 26 図 27

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三谷: 吉田先生、どうもありがとうございました。誠に興味深いご発表で、会場の皆

様の中にも楽しみにして来られた方も大勢いらっしゃったのではないかと思います。

それでは、3 名のご発表をこれで一旦閉じさせていただき、5 分間休憩をとらせていた

だきます。それまでの間に、皆様からいただきました質問を集約させていただきたいと

思います。まだ出していらっしゃらない方がいらっしゃいましたら、後ろにございます

ので、質問を是非出していただければと思います。

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パネルディスカッション

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入澤: それでは、これよりディスカッションに移りたいと思います。今日 3 人の先生

方、大変詳しいレジュメを用意してくださいまして、非常に深い内容であったかと思い

ます。先ず、3 人の先生方に、言い足りなかった部分、補足したいところを 初におっし

ゃっていただいて、相互に質問を投げ掛けていただけたらと思います。それでは、発表

順に宮治先生の方からお願いいたします。

宮治: はい。橘堂先生のお話に出て来ましたけれども、私の一番 後のところで触れ

ました、弥勒信仰には上生信仰と下生信仰があるわけですが、そのことを少し補足させ

ていただきます。弥勒信仰は、歴史的にもちろん変遷があるわけです。非常に古い経典

には、例えばスッタニパータなどではメッテーヤという、仏弟子の 1 人として出てきま

す。それが次の段階には釈尊の次に悟りを開くことが決まっているという信仰になり、

過去七仏の次に弥勒菩薩が表される。こうした表現はガンダーラにたくさん出てきます

し、インドの内にも出てきます。少なくとも 2 世紀頃には、図像の上からそのことが確

かめられます。やがて将来弥勒が悟りを開いて、釈尊の教えから漏れた人を教化して救

いに導いてくれるんだという、信仰が強まっていったと思います。その過程で弥勒経典、

弥勒上生経と弥勒下生経が成立したのだと思います。経典成立史の上では、下生経の方

が早いと言われていますが、下生経には、遠い将来、弥勒が現れる時には、こんなに素

晴しい世の中になるのだということがいろいろと説かれています。

弥勒下生経の一つの大きな特徴は、弥勒がこの世に出現する時に、同時にシャンカと

いう転輪聖王、世界を支配する理想的な帝王が出現するということが説かれることです。

転輪聖王と弥勒が同時に現れ、世の中は平和で、五穀豊穣となり、弥勒は悟りを開き、

転輪聖王は弥勒のもとで出家するというのが、弥勒下生経の基本にあります。

それから、少し遅れて一方では上生信仰が成立します。弥勒は遠い将来、この世に下

生するわけですが、それでは今、弥勒はどこにいるのかという問題意識が出てきます。

弥勒菩薩は現在兜率天にいて、神々に説法しているのだという信仰が起こります。経典

の上では、『観弥勒菩薩上生兜率天経』(弥勒上生経)という劉宋の沮渠京声が訳したと

される経典です。これはサンスクリット原典がなく、おそらく中央アジアで成立したと

見られるものですが、それしかまとまったテキストがないわけです。この経典は 5 世紀

に成立するわけですが、おそらくそれ以前から、何らかの意味での上生信仰があったに

違いありません。おそらく上生信仰は下生信仰に続く、一連のものとして成立したので

はないかと考えられます。

図像の上では、先ほどお話しましたように、ガンダーラでは過去七仏の次に弥勒菩薩

が表されています。一方、交脚弥勒と言われる図像、おそらく兜率天の弥勒菩薩を表し

たと見られる図像が 2~3 世紀頃には成立し、兜率天にいる弥勒菩薩という信仰も出て来

たのではないかと思われます。そしてテキストの上で先ほど申し上げた、上生経が整え

られていったと思います。これがもとになって、バーミヤーンとかキジルの壁画が成立

したと思います。時代的には、バーミヤーンの壁画は 6 世紀から 8 世紀頃、キジル壁画

はどのぐらい遡るか、いろいろ議論がありますが、おそらくバーミヤーンより少し早く

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から制作が始まったと思います。しかし、大体並行する時代で、両地で兜率天の弥勒菩

薩の図像が確立していくわけです。

ところで、下生信仰も一方で存続し、発展します。バーミヤーンの東大仏について、

玄奘三蔵は釈迦仏であるとはっきり書いていますが、西大仏については、金色にきらき

ら輝き宝飾がまばゆいという記述だけで、何仏かということは記していません。私は西

大仏は下生の弥勒仏ではないかと考えています。というのも、弥勒下生信仰の一つに、

弥勒は大仏となってこの世に現れるということがあります。釈迦は丈六といって 1 丈 6

尺の大きさですが、弥勒は将来この世に下生する時に、その 10 倍の 16 丈の背丈をとっ

て現れるということが、弥勒下生経に記されています。

実際、大仏を調べますと、おそらく一番古いものは、現在のパキスタンの北部、ダレ

ルというカラコルム・ハイウェイ沿いのところですが、そこに木造の弥勒大仏があった

ことが、法顕や玄奘などの記録からわかります。現存しませんが、4 世紀には造られたと

みられる大仏です。それ以外にバーミヤーンの他に、敦煌にも二つの弥勒大仏、二体と

も椅子に座った姿の倚坐像ですが、大仏の代表的な例があります。この他、現在残って

いる大仏を調べますと 8 割方が弥勒大仏です。唐の時代のものが多いですが、弥勒信仰

と大仏は深く結びついています。下生経を読みますと、弥勒が下生する時に一種のユー

トピアになるので、人間の身長や寿命が大変のびることが出てきます。そして、弥勒自

身は 16 丈の高さとなることが記されています。ですから、弥勒下生信仰と大仏造立は深

い関係があるといえます。おそらくバーミヤーン西大仏は弥勒大仏で、その天井に兜率

天の世界を描いたのではないかと思います。

兜率天の特徴は、弥勒上生経に記されていますが、たくさんの天人・天女がいる、と

りわけ天女が非常に多いということ、また燦々と光り輝いた世界であるということが挙

げられます。それから大層建築的なヴィジョンに富んでいる、四十九院という言い方を

しますが、豪華な幾重もの宮殿に取り囲まれているという特徴が経典に記されています。

バーミヤーンの西大仏の天井大壁画には、経典のこうしたイメージに近い図像が出てき

ます。つまり、整然とした構図の中に、アーチとか梯形破風とか、建築モティーフがた

くさん出て来まして、天人たちが讃嘆しています。裸形の天女の姿もあります。中心に

描かれた弥勒菩薩は失われていましたが、こうした構図からみて弥勒菩薩を中心とする

兜率天世界を描いたものではないかと私は考えているわけです。ですから、天井壁画に

弥勒菩薩の兜率天を描き、仏像自身は下生の弥勒大仏を表した、上生と下生がセットに

なった形の弥勒信仰を表明したものと思います。

しかし、バーミヤーンのこうした信仰というのは、その後の展開を中央アジアや東ア

ジアでほとんど跡づけることが出来ません。もしかしたら、トルファンの方にも何らか

の影響を与えたのではないかとも思っています。橘堂さんが発表された、ウイグル仏教

との関係を考える必要があるのではないかと思います。私が今日お話ししたのは、大体 2、

3 世紀から 7、8 世紀ぐらいまでのお話ですが、その後 9 世紀以降のウイグル仏教と、ど

ういうふうに繋がっていくかということは、興味深いテーマですが、まだわからないこ

とが多いと思います。

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橘堂さんのご発表の中で、トルファンのウイグル仏教にはトカラ仏教と、それから中

国仏教の両者の影響が入っているのではないかというお話があったと思います。弥勒信

仰の美術でいいますと、中国の仏教絵画、敦煌壁画などを見ますと、隋の時代には折上

げ天井のところに兜率天の弥勒菩薩、弥勒上生経変を描いています。初唐の時代には第

329 窟のように、上生変と下生変を合わせて描く例もありますが、唐代では、上生信仰に

基づいた絵画というのはほとんどなくなってしまって、下生経に基づいて、弥勒がこの

世に出現した時のあり様を描いています。五穀豊饒になり、女性は 500 歳で結婚すると

か、あるいは転輪聖王の出家の話とか、いろいろな説話が描かれています。唐の時代に

は、下生信仰の絵画が多く、上生信仰に基づいた絵画というのはほとんど知られていま

せん。それが突如、ウイグル仏教になって出て来るように、私には思えます。

日本でも、鎌倉時代になると急に兜率天曼陀羅という、弥勒上生経に基づく絵画が出

てきます。13 世紀頃に制作された作例が幾つかありますが、平安時代には全然ないと思

います。おそらく新たに中国から将来された絵画がもとになっているのではないかと考

えられます。中国でもウイグル時代や西夏時代の弥勒上生経変があります。弥勒信仰が

時代によってどう変化したか、その辺のことも、断絶と繋がりという実態を踏まえて今

後さらに検討する必要があると思います。時代による変化、そして中央アジアのオアシ

スごとの特徴と相互影響、またトルファンにどのように受け継がれたのか、特に 9 世紀

以降の弥勒信仰のあり方については、今後の研究課題が多いと思います。

入澤: どうもありがとうございました。インドから中央アジアへ仏教が展開していくわ

けですが、インドになかったものが中央アジアで生まれて、それが中国へともたらされ

るというようなことがしばしば見受けられます。例えば、今日の宮治先生のお話の中に

あった兜率天の弥勒の図像化、これなどはその典型かと思います。弥勒信仰ということ

は、これは日本にも入ってきたわけなのですけれども、今、宮治先生が言われましたよ

うに、弥勒に関する経典では、弥勒がこの世に登場するとき、実は転輪聖王という聖な

る王でありますが、その転輪聖王がまず現れるという部分があるのです。弥勒信仰が行

き渡った地域の国家権力による仏教受容ということを見る上で、「転輪聖王と弥勒」とい

うのは非常に重要な視点かなというふうに思っております。それから、江戸時代なんか

に、我が国の「ええじゃないか」というような民衆が蜂起する運動がありますけれども、

その背後には弥勒の信仰があったのではないかというようなことも言われています。民

衆レベルでの救世主待望といった面にも繋がりがありそうです。ですから、弥勒信仰と

いうものが王権と仏教との関係、そして民衆と仏教との関係を解明する糸口になりはし

ないか。この弥勒ということを一つ取り上げてみても幅広い問題へと展開しそうです。

それから宮治先生への、私からの質問なのですが、兜率天の弥勒の図像がございまし

たね。ちょっとすみませんが、出していただけますか。

宮治: ガンダーラのですか。

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入澤: はい。実は、弥勒を見る場合、弥勒に関する経典というのが非常に重要になるの

は勿論ですが、もう一つ仏伝資料も忘れてはなりません。仏伝の中における弥勒という

ものも見ておく必要があるのではないかと思います。どういうことかと申しますと、

Lalita vistara だとか Mahāvastu といふうに、仏教文献の中で仏陀の伝記を記した資料がご

ざいます。その中で例えば Lalitavistara というのは、実は兜率天における前世の釈尊の部

分が非常に長いのです。注目すべきは、兜率天で前世の釈尊が弥勒に冠を渡して、後継

者は弥勒であるという部分です。兜率天の中で、すでに釈尊の後継者として弥勒が指名

されている。前世の釈尊が弥勒に冠を渡すという部分、実はそれはボロブドゥールに表

現されております。そこで質問なのですが、兜率天を描いている図像の中に、前世の釈

尊が弥勒に冠を渡すものがありますでしょうか。ガンダーラ、その周辺において。

宮治: ガンダーラには兜率天で釈迦がこの世に下生すべく待機し、観察している場面を

表した浮彫が数例あります。しかし、釈尊が兜率天で弥勒菩薩に冠を渡す図像は、ガン

ダーラやその周辺域には今のところ知られていないと思います。私が知っているのは、

ご指摘のボロブドゥールの他に、チベットの仏画に、今言われた『ラリタ・ヴィスタラ』

(『方広大荘厳経』)に基づいて、釈尊がこの世に誕生する前に、兜率天で後継者の弥

勒菩薩に冠を授けている場面がありますけれども(多田等観が寄贈を受けたチベット仏

伝画が有名)、古い時代のものではないです。ガンダーラの菩薩像は基本的に 2 種類に

分かれます。私は行者的なイメージと王者的なイメージという言い方で分けているので

すけれども、もともと弥勒菩薩は釈尊の跡を継ぐべく修行をしているので、行者的なイ

メージで表される。つまり、菩薩としての装身具はつけますが、頭髪を結い、冠はつけ

ずに水瓶を持っています。これはバラモン修行者のイメージが基になっています。とこ

ろがバーミヤーンをはじめ中央アジアでは、弥勒菩薩は王者的なイメージをとるように

なり、頭に冠をつけて表されるようになります。中国北魏時代の弥勒菩薩もそうですが、

冠をつけるのが一般的になります。弥勒菩薩はガンダーラでは悟りを求める行者的なイ

メージであったのが、中央アジアになると天上世界の王者的なイメージに変化していく。

これは今入澤先生がご指摘の冠を授けるという図像の問題と関係してくるのではないか

と思います。ただ、こうした図像の古い例はないように思います。

入澤: どうもありがとうございました。それでは橘堂先生、補足をお願いいたします。

橘堂: はい。今のお話の中で、キジル石窟の第 38 窟の兜率天、宮治先生のレジュメに絵

があったと思うのですけども、ちょっと報告の中でも申し上げたのですが、私はウイグ

ルの下生信仰はトカラ仏教から来ているというふうに考えているわけですけども、例え

ばキジル石窟の壁画に描かれている兜率天上の弥勒は、これはやはり上生なのか、下生

を願ったものなのかという、ことを宮治先生にお伺いしたいと思います。

宮治: キジル石窟では入口を入ったすぐ上の半円形区画にしばしば兜率天上の弥勒菩

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薩を描いています。中心柱窟の奥にある方柱のまわり、回廊を右繞しながら、方柱の周

囲に描かれた釈尊の涅槃関係の場面を見て、そして回廊を出るとちょうど入口の上の半

円形区画に目がいって、兜率天の弥勒菩薩を見る、そういう構造になっています。半円

形区画の上の主室の天井はヴォールトという、かまぼこ型の天井で、その中軸部には天

象図と言われる太陽とか月とか、風神や金翅鳥、飛翔する僧など、天のモティーフが描

かれています。その天象図と接する形で、兜率天の弥勒菩薩を宮殿をかたどるアーチ、

建築モティーフの下に交脚の姿で表しています。弥勒菩薩の背後には光り輝く光背が描

かれています。周囲には兜率天の神々が表されているのですが、天女と思しき人物もい

たりするわけです。こうした描写から、この構図は明らかに弥勒上生信仰と関係する、

兜率天の弥勒菩薩と見られるのです。一方、下生の弥勒を描いた絵画、弥勒下生経に基

づいた絵画というのは、クチャ地域では今のところ知られていないと思います。

橘堂: それは、やはり文献の上では下生が強く願われているということで、ご説明して

くださった絵画では、描かれているのは兜率天上の姿だけども、そこから降りてくる菩

薩を待っているというか、そういう意味では下生というふうに取れなくもないかなとい

うふうに考えるのですけども……。

宮治: おっしゃるとおり、上生と下生は連続した信仰ではないかと思います。今、下生

に関するものはないと申しあげたのですが、実はクチャのキジル石窟にも 10 メートルを

超すような大仏が造られた跡が残っておりますので、それはもしかしたら下生の弥勒大

仏を表した可能性はあると思うのです。

入澤: ありがとうございました。

橘堂: じゃあ、私の方で 後の方、ちょっと説明を補足と言いますか、端折ったところ

がありますので、下生から上生へというところで、なぜそうなったのかというところで、

実は今日もこちらに来ておられますツィーメ先生のお弟子さんで、笠井先生という方が

おられまして、その方の研究によりますと、やはりこの地域、トルファン、そして敦煌

で、一時期、法相宗が大変流行いたします。ちょうど中国の内地で法相宗が下火になっ

てくるのと逆に、西の方では盛んになってくるのですけども、それを伝えたのは長安の

方から流れてきたお坊さんで曇曠とか、或いはそのお弟子さんの法成とか、そういう方々

がおられるのですけども、上山大峻先生の研究で明らかになっているとおり、彼らの法

系がトルファンにも来ていたのではないかというふうに、考えられます。また、王丁先

生の 近のご研究によりますと、玄奘さんのお弟子さんというのは、本当に国際性豊か

なメンバーが揃っておりました。なかには日本人もいましたし、またトルファンの出身

のお坊さんも実はおりました。覚峻という方です。その方が実は玄奘さんが亡くなった

後に、自分の故郷に帰っているという事実もあって、そこで多分布教活動をされていた

のだと思います。そのトルファン出土の写本の奥書に実際にその名前が発見されている

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ということも報告されております。ですから法相宗、そして玄奘に対する、敬愛の念を

トルファンの人々は強くもっていたのではないかなというふうに思います。

後に、全然ご紹介できなかった、今、私が研究している文献なのですけども、すい

ません、それですね。それは法相宗の文献で、かなり大きなものです。30 章まであるの

ですけども、その多分 後になろうかと思いますが、その 30 章が玄奘の功績に対する注

釈書という形になっております。ご覧いただくとわかるように、赤い部分が地の部分で

す。文献の地の分で、黒いところがそれに対する注釈ということになっているのですが、

その赤い部分というのは、実は『大唐西域記』にもないですし、『慈恩伝』にもない。

全く未知の文献であります。更にこの全体図の文献もわからないということで、もし原

典があるとすればいいのですけども、或いはウイグル人が独自に創作して作った可能性

も残されているというふうに考えます。ですから、非常にウイグル人にとって玄奘とい

うのは非常に特別な存在だったのだろうというふうに考えております。

入澤: ありがとうございます。橘堂さんの発表の中に、天に対する信仰、テングリとい

うものが出てまいりました。宮治先生の今日の話と合せて考えて、例えばバーミヤーン

の、今日のお話に出てきた、大仏の上の天井壁画でありますが、一方は太陽神(東大仏)、

一方は兜率天(西大仏)ということで、やはり天に対する信仰と仏教との結びつきが問

題になりそうです。特に遊牧民族が持っている天に対する信仰というものは中央アジア

の仏教をみる上で鍵になるのではないかと推測を立てているのですが。天に対する信仰

に関して、例えば他に事例がありますでしょうか。橘堂さん、お気付きの点があればお

教えいただきたいと思います。

橘堂: そちらの方はよくわからないのですけども。例えば雨乞いの文献とか、そういっ

た彼らの遊牧生活時代を伝えるようなものも残されているのは確かです。ただそれが仏

教と融合しているかどうかというのはわかりません。先ほど岡本先生からも個人的にご

指摘を受けたのですけども、やっぱりサンスクリットの中にも天中の天という表現はあ

るというご指摘をいただきました。本当に天と、遊牧民が考えている天と、仏教でいう

ところの天と仏、それが本当に繋がるのかどうかというのは、もう少し慎重に考えなく

てはならないと思います。

入澤: はい。インド的な文脈で申しますと、インドではデーヴァ(deva)、天のことをデ

ーヴァと言いますが、碑文の中で、仏陀のことをデーヴァと呼ぶ事例があります。これ

については以前に杉本卓州先生が報告されております。それから、今日の橘堂さんの発

表の中に出てまいりました天中天。実は初期の漢訳経典の中で、仏陀のことを天中天と

表現する例があるのですね。原語は、確かデーヴァ・ティ・デーヴァ(devatideva)で

あったかと思います。これについては創価大学の岩松浅夫先生が報告をされております。

あ、宮治先生、どうぞ。

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宮治: 今のお話に関連してですけれども、仏教の世界観では、天はご承知のように何層

にもなっている。先ほどのマニ教のお話のようにたくさんあって、その中で兜率天が特

に選ばれたのは、もちろん釈尊がこの世に下生する前に、兜率天におられたということ

が前提となっている訳ですが、インドの内ではモンスーンの影響による高温湿潤な風土

ということがあると思うのですが、大地に根づいた多神教的な世界観があるわけです。

それが乾燥した中央アジアの風土になりますと、一神教的な宗教観・世界観にシフトし

ていく。中央アジアの大半は砂漠地帯です。砂漠の大地というのは、水のない死の世界、

命を奪う、殺す世界ですから、やはり神は、天上世界にいて、われわれを救ってくれる

のだという意識が強くなるのではないのかと思うのです。建築を見ても、インドではイ

スラム以前にはドーム建築というのはほとんどないのですけれども、中央アジアではド

ーム建築が非常に多い。ドーム建築はササン朝ペルシア以来、四角い部屋にドームを載

せる技術が発達します。もともとレンガ造りでやっていたわけですが、そうしたドーム

建築が 5、6世紀以降、中央アジアで流行していきます。バーミヤーンやキジルでは、そ

れを石窟に取り入れています。トルファンのベゼクリク石窟にもドーム天井があります。

ドーム天井の中心に何を描くかは重要な問題で、バーミヤーンでは弥勒菩薩を描くわけ

です。ドームというのは、天の象徴ですから、その中心には「天の主」という意識があ

ったのではないかというふうに思います。ドーム建築は後にイスラムがモスクとして取

り入れていくわけです。モスクはみなドームになっています。クーポラ、ドームという

のは天をイメージさせる建築ですので、バーミヤーンとか、クチャやトルファンなんか

では、そういうドームが増えていくというのは、やはり天に対する信仰と重なっていて、

仏教の弥勒信仰と深く関わったのではないかというふうに思います。風土的な影響が大

きいのではないかなというふうに、私は思います。

入澤: ありがとうございました。それでは、吉田先生、吉田先生は随分 後を端折られ

ましたので、しばらくお時間を。 後の部分をもう一度よろしくお願いいたします。

吉田: 稽古不足で舞台に上がったみたいなところがありまして申し訳ありませんでした。

それではスライド(図 28)を見てみましょう。私のハンドアウトで言うと、4 の部分、

仏教と異教の出会いということに関して少しお話しいたします。マニ教は中国では道教

と間違えられました。或いはわざと道教的になろうとしたところがあります。有名な道

教文献『雲笈七籤』の中にマニ教の教典が一時は入っていたと考えられています。マニ

教徒が賄賂を使って入れさせたようですが、今は見当たりません。先にも言いましたよ

うにマルコ・ポーロは福州のマニ教徒をキリスト教だと思い、元朝時代は明教つまりマ

ニ教とキリスト教は同じ範疇で管轄されておりました。片や仏教という点で言うと、例

えば 近日本で見つかったマニ教画は、日本の美術史の人たちはずっと仏教の絵だと思

っていたわけです。マニ教徒がわざと仏教と見間違うように描かせていたというふうに

も考えられます。

かつて京都大学の竺沙先生が、方臘の乱について研究されたとき、方臘はマニ教徒だと

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図 28

いうけれど、彼についての記録を見ればマニ教的なものはないのではないかというふう

におっしゃいました。例えば方臘は、業鏡というものを使ったということになっている

が、業鏡というのは、十王経の絵にもあるように、仏教で死後の裁判の時に生前の行い

を写す鏡のことであるから、マニ教とは関係がないというようなことを指摘しておられ

ます。実を言うと業鏡はマニ教にもあるのです。大和文華館の六道図にも私が発見した

宇宙図にもありますから、その点から方臘が仏教徒であったということはできません。

彼がマニ教であった可能性は否定できないと思います。

このように中国のマニ教というのはどん

な宗教にも見られ得た側面がありますが、

とりわけ仏教との関係について、証明はで

きないのですけれど、私が関心を持ってい

るテーマがあります。それは引路菩薩です。

引路菩薩というのはこれなのですが(図 28)、

敦煌には10例ぐらい作例があると思います。

この引路菩薩という菩薩は、死後魂を極楽

浄土に運んでいくと考えられていて、魂を

運んでいるシーンが描かれています。それ

で極楽浄土の絵が上のほうにあるわけです。

大和文華館の六道図のこの部分(図 9)、つ

まりダエーナーが雲に乗ってきて裁判を眺

めているシーンを見ている時に、引路菩薩

とよく似ているなあと思いました。実際、

六道図の一番上の段には光の世界が描かれ

ていて、そこにもこのダエーナーが現れて

います。魂をそこまで連れて来ているとい

うことなのだと思います。

引路菩薩については、非常に奇妙な点が

あることが前から指摘されています。例え

ば今は大正大蔵経の検索というのはコンピューターで簡単にできますから、引路菩薩と

入れて検索してみても全くヒットしません。つまり引路菩薩は、大正大蔵経に入ってい

るような普通の漢文仏典の中には一例もないことになります。もちろん大正大蔵経には

収録されていないような11世紀以降の中国の仏教文献に引路菩薩は出て来るのですけ

ど、それ以前はないようなのです。でも敦煌には引路菩薩の絵は少なくありません。ど

う考えたらよいのでしょう。実を言うと敦煌画の専門家松本栄一先生は、引路菩薩につ

いてイランの宗教の影響があるのではないかというようなことをすでに言っておられま

す。それから十王経との関係を見ても、平等王というのが第 8 番目の王様として出てき

ますが、マニ教でも、先ほどの絵で見ていただいた裁判官は、コプト語のマニ教のテキ

ストでは第 8 番目の玉座に座るというふうに書いてあります。しかもその裁判官は、中

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国語で翻訳されたマニ教のテキストでは平等王と呼ばれています。平等王という名前が

漢訳のマニ教教典に出てくることには松本栄一先生も注目しておられます。それから秋

山光和先生も、西域美術という本の中でこの引路菩薩は西方のゾロアスター教やマニ教

に同様の神格が存在していると書いておられ、暗にこのダエーナーとの関連を指摘して

おられます。私も、それが正しいのではないかと考えています。

実際にマニ教のダエーナーの絵が出てきて引路菩薩とよく似ていることが判明する

と、ますますマニ教の影響で仏教の引路菩薩が成立したというシナリオが考慮されるよ

うに思えます。もちろん今までの常識で考えれば、仏教のほうがマニ教に影響を与えた

というシナリオのほうがありそうではあります。実際、そういうパターンは多いのだと

思います。実を言うと、今から 10 年以上前でしたが、ベルリンのズンダーマン先生がこ

の同じ場所で講演をされました。私が翻訳したその講演の内容は活字にもなっています。

その時のズンダーマン先生のご主張も、マニ教と仏教の出会いはあったけれど、基本的

にはマニ教を仏教圏に布教する中で、仏教の体裁、外形を取っていく、そういうタイプ

の影響として理解されるというものでした。ですから、マニ教が仏教に影響を与えたと

いうパターンについて、今まではあまり想定されていなかったのですけれど、こと引路

菩薩については、日本の美術史の二人の専門家がその可能性を指摘されておりました。

しかも今回マニ教絵画にそっくりの図像が見つかりますと、中国のある時代の民衆仏教

にマニ教の方から影響を与えたことがあったのではないかと考えてみたくなります。も

ちろん証明されていることではありません。

更に、これはグラーチさんが論文でも言っておられるのですけれど、仏教は絵解きとい

うものをします。仏教にいつ頃から絵解きがあったのか私は知りませんが、マニはある

意味では布教の 初から一種の絵解きをしていたわけであります。そういう意味でその

絵解きの伝統というのが、もしかしたらマニ教から来ているという可能性も考えられま

す。以上の点を私から付け足しておきたいと思います。

それから、愚かにも絵のサイズについて全然申し上げていませんでした。これらの絵の

サイズは大体、全部が残っているものはパターンが決まっています。横幅が 2 尺ぐらい。

つまり 60 センチほどで、縦が 140 センチ前後です。

入澤: ありがとうございました。マニ教から仏教へということを、今、吉田先生の方か

ら言われましたが、吉田先生のレジュメの中にも 3 ページのところでしたでしょうか。

敦煌の漢文文書の中で『摩尼光佛教法儀略』ですね。これなどは、もう明らかにマニを

仏陀に仕立てあげていると見なされませんでしょうか。この摩尼光佛というのはマニを

仏教化したものでしょうか?

吉田: もちろん摩尼光佛は光の仏陀という意味です。

入澤: そうですね。ですから、マニが、要するに仏陀と見なされたということでしょう

か?そう見なされた流れがあったというふうに理解すべきでしょうか?

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吉田: このテキストの佛を正確にどう理解するべきか、俄に判断できませんけれど、漢

文のマニ教経典の中で、佛が出て来るとすると、それはいわゆる預言者のことを指して

いると思います。マニは、自分自身は一番 後の預言者というふうに言っております。

自分より前にはゾロアスターもいたし、仏陀もいた。イエスもいたし、それ以外にも時

代時代にいろいろな預言者たちを神は送りこんでいたと言っているのですけれど、その

預言者のことを東方のマニ教徒が残したテキストでは佛と呼んでいます。そういう意味

で、この摩尼光佛の佛は摩尼という光の国から来た預言者という意味なのだろうと考え

ます。ですから仏教世界に入ってきてから、マニを含めて預言者を佛というふうに呼ん

だということだと考えます。

入澤: 仏教テキストでマニ教の影響というようなことで、橘堂先生の報告の中に『天地八

陽神呪経』、龍谷大学の中にも写本があるわけですが、その『天地八陽神呪経』がマニ教

的であるということを、小田壽典先生が指摘されておられます。どういうところがマニ

教的かというようなことを、ちょっと橘堂さんの方から説明していただければ。またそ

れについてどう思われるか、吉田さんのコメントをお願いしたいと思います。

橘堂: マニ教のことはよくわからないですけども、光と闇、そういう二元論的な表現に

よって、そういう世界がマニ教のテキストに沿って解説されているのだというのが、確

か小田先生のご主張だったと記憶していますけども、私はそれが正しいかどうかという

ことは、私には判断できかねます。

入澤: 吉田さん、いかがですか。『天地八陽神呪経』に関して。

吉田: 私も詳しいことを知りません。私が理解している範囲では、この漢文の偽経はウ

イグル語訳された10世紀よりもっと古い時代に成立しているのだと思います。それを

ウイグル人はウイグル語に翻訳したわけですが、漢文の原文とウイグル語の翻訳を比べ

てみると、漢文と比較してぴったり合わない部分にはいろいろな補足があって、そうい

うものは非仏教的な思想や宗教、とりわけマニ教やゾロアスター教との関連を考えると

説明できるというようなことを小田先生はおっしゃっていたと思います。

ただ、これは私の個人的な見解で証明できないのですけれど、ウイグルは一旦、マニ教

を国教にしました。つまりいわゆる唱道宗教というもので 初に出会ったのがマニ教で

した。そしてマニ教の教典を組織的にウイグル語に翻訳することが行われました。その

後で仏教にシフトしていったわけですから、とりわけ初期のウイグル仏典の用語や表現

には、マニ教教典を翻訳していた時代のものが強く現れ得たと考えられます。そのよう

なわけで、11 世紀の初めに封印された敦煌の千仏洞で見つかり、初期ウイグル仏典の典

型的な例である『天地八陽神呪経』の訳語、或いは表現の中にマニ教時代の名残のよう

なものが残っているという可能性はあるように思います。

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その点で言うと、私はちょっと橘堂さんに質問があるのですけれど、11 世紀をウイグ

ル仏典の揺籃期だとあなたは言いますが、もう 11 世紀になったら揺籃期どころではない

のではないですか?

橘堂: そうですね。揺籃期というのは言い過ぎかもしれません。ただ、ここで申し上げ

ているのはトカラ仏教の影響を強く受けていた時期という意味でございます。

入澤: はい、どうぞ。宮治先生。

宮治: 先ほどの吉田先生の引路菩薩と関係付けたダエーナーですか。

吉田: はい。

宮治: ダエーナーが引路菩薩の図像に影響を与えた、関係するとしたら大変面白いと思

いますが、ダエーナーの図像はやはり雲に乗っているのでしょうか。あの世に導いてく

れるとか、あの世からやってくるというイメージ。その場合、雲に乗って行ったり、や

って来ると言うと、我々は阿弥陀の来迎や帰り来迎のことを思い浮かべてしまいます。

阿弥陀の来迎図は敦煌では、唐の時代にたくさん出て来まして、特に観経変では上品上

生から下品下生、雲に乗って阿弥陀や聖衆がやって来て、また極楽浄土に連れて行って

くれるという、そういう場面を描いています。おそらく 7 世紀ぐらいから出て来るのだ

と思うのですが、8、9 世紀には随分流行します。それで、阿弥陀信仰とマニ教との関係

もあるのではないかと思います。マニ教も非常に光というものを重視しますので。その

辺のことが気になるのですが、特にトルファンにおける阿弥陀信仰はどうだったのか、

これは橘堂さんにお尋ねしたいのですが。それと、マニ教と阿弥陀信仰との関係につい

てお聞きしたいのですが、いかがでしょうか。

橘堂: トユク石窟にアビタ・クルという石窟がありました。これは阿弥陀窟というふう

に読めるのだということで、弘前大学の松井太先生が発見されたのですけども、もちろ

んウイグルにも阿弥陀信仰がありました。しかしそのテキストは白蓮宗が使用していた

ものです。そして故・百済康義先生が発見された「太山経」、これは疑経なのですけど

も、その中にもやはり民間信仰としての阿弥陀信仰が存在しているので、確実に阿弥陀

信仰はウイグルにあったというふうに思います。しかし浄土教としての阿弥陀信仰がど

こまであったかというのは不明ですね。マニ教と阿弥陀信仰との関係についてはよくわ

かりません。

入澤: それに関しては亡くなられた百済先生がウイグル訳無量寿経に関するご研究の

中で、阿弥陀仏が十二種の光を持っている部分に注目されています。無量寿経の中に阿

弥陀仏が十二種の光を持つ描写があるのですが、そういったところがマニ教徒を仏教に

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誘引する一つの大きな要因になったのではないかと推測されています。ちょうど橘堂さ

んにはウイグルでは阿弥陀仏信仰はどうでしたかという質問が来ていたのですが、今、

それについてお答えになられましたので、ちょうど良かったです。

宮治先生に質問が来ております。弥勒と言えば半跏思惟の弥勒が日本では有名なのです

けども、半跏思惟の弥勒というのは中央アジアではどうなのでしょうかと。

宮治: 半跏思惟像というのは、京都太秦の広隆寺とか奈良斑鳩の中宮寺のものが有名で

すけれども、この半跏思惟という姿が弥勒菩薩であるというのは、大阪・野中寺の弥勒

像に銘文があるということが一つの根拠になっているわけです。朝鮮の三国時代、日本

の飛鳥・白鳳時代に半跏思惟像がたくさん造られます。多分それは弥勒菩薩だろうと考

えられているわけですけれども、翻って大陸の方を見ますと、半跏思惟像がはっきり弥

勒菩薩であるというのはなかなかわからないのです。仏教美術に見られる半跏思惟の姿

はガンダーラに起源がありますが、釈尊の太子時代のいわゆる樹下思惟、樹の下で考え

ているポーズにこの姿が出て来ます。それからガンダーラで少し時代が下りますと、お

そらく 3~4 世紀頃には半跏思惟像が観音菩薩として造られるようになると私は考えてい

るのですが、スワートというガンダーラの北部で、6~7 世紀頃には頭に化仏を付けた、

明らかに観音の姿をしたものが出て来ますので、西北インドでは釈迦太子の姿が弥勒菩

薩ではなく、観音菩薩に転化していくわけです。

中国では、北魏時代に交脚弥勒菩薩の両側に半跏思惟像が左右対称にして出て来ます。

その半跏思惟像は単に脇侍として出て来るわけです。独立した半跏思惟像は、中国では

釈迦太子の姿として表されることが多いですが、どうもある時点で弥勒信仰とも関係し

てくるようです。その辺のことは、まだよく分かっていませんが、どうも弥勒菩薩と観

音菩薩というのは関係があって、時代や地域によってその特徴が交代します。もともと

釈迦太子の姿というものが基本にありながら、それが場合によって観音菩薩になったり

弥勒菩薩になったりするという経緯を取って複雑な展開を遂げます。 初の質問は何で

したっけ。半跏思惟の弥勒……。

入澤: 半跏思惟の弥勒が中央アジアにあるか、というご質問です。

宮治: 中央アジアに半跏思惟の弥勒があるかというご質問ですが、中央アジアでは半跏

思惟像を単独で取り上げた弥勒菩薩というものはないと思います。ただ、キジル石窟に

は先程お話した兜率天の弥勒菩薩を描く構図の左右下隅に、左右対称の形で半跏思惟像

が表されています。中国の北魏時代のものと関係すると思います。

入澤: ありがとうございました。吉田先生に、マニ教に非常に関心を持ちましたと。マ

ニ教を今後勉強していくには、どういうふうな勉強をしたらいいでしょうかと、何人か

の学生諸君から来ております。お答えください。矢吹慶輝先生が日本ではマニ教の研究

者、先駆者かと思うのですが、マニ教に関して入門書としてはどのような書物がありま

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すでしょうか。

吉田: 幸いに文庫クセジュに『マニ教』という本があります。原書はフランスの M.タ

ルデューという人が書かれたもので、それの日本語訳です。これは、非常にオールラウ

ンドに書いてあって有益です。ただあまりこなれた翻訳ではなくて読み辛いというとこ

ろはあるかと思います。でも何度も読み返すと、概要がわかってくるのではないかと思

います。そこにはいろいろな参考文献もありますから、 初に読まれるのであればタル

デューの『マニ教』を読んでみることをお勧めします。矢吹先生のものもありますけど、

少し古いのと、専門性が高くて限られた問題しか扱っていませんから初学者が読んでも

どうかと思います。

入澤: ありがとうございました。そろそろ時間が参りましたので、閉じさせていただこ

うかと思いますが、今日、ご発表の中で仏教以外の宗教がいくつか出てまいりました。

ミスラ教ですとか、そして吉田先生がマニ教のことについてお話しくださいました。中

央アジアには仏教がいろいろな宗教と出会って、それらと融合するわけですね。インド

から中国、日本と仏教が展開したとよく言われるのですけれども、その場合、中央アジ

アはともすると通過点というような扱いがこれまでなされてきました。しかし、中央ア

ジアには確実に中央アジア仏教と言ってもいいほどの特徴ある仏教というものが、そこ

で独自の展開を遂げたということははっきりと言えます。この点は、今後ともこの 5 年

間のプロジェクトの中で追跡していきたいと思っております。

私が大学院のときに、ある研究会で発表する場があったのですが、その時に阿弥陀仏

信仰の中にゾロアスター教的な要素があるということを発表したら、ある真宗学の先生

から大層お叱りを受けました。仏教は外道を排斥したのだから、異教を取り込むことな

どあり得ないというご意見でした。何と仏教研究というのは排他的なのだということを

その時に痛切に感じたものです。しかし、もうそういう時代ではないのです。仏教が異

宗教を、いろいろな形で取り込み展開を遂げていっているという事実に立脚して、広く

文明史的観点から、その意義をみつめていきたいと考えております。対立や衝突、紛争

といった今日的課題を考えるためにも、交流や融合といった事象に目を向けていきたい

と思っております。若手の研究者の方々、学生諸君、こういう機会を何回もこれから持

つかと思いますので、よろしくご参加のほどお願いを申し上げて、このディスカッショ

ンを終了させていただきます。(拍手)

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閉会挨拶

三谷: 私は閉会の挨拶をすることになっているのですが、もうほとんど閉会の挨拶ま

で入澤先生にしていただいたようなものですけれども、今日は宮治先生、吉田先生、橘

堂先生、3 名の方のご発表を聞いて、私も得るところが大変大きかったと思います。

それから先ほどはパネルディスカッションという形で入澤先生のタクトで、皆さんに

とっても関心のあるテーマをさらに掘り下げてお聴きいただけたのではないかと思いま

す。

実は先ほどから「アジア仏教文化研究センター」という非常に長い名前で呼んでおり

ますけれども、私どもは BARC(バーク、或いはバルク)というふうに通称しております。

Research Center for Buddhist Cultures in Asia という英語名、それを略して BARC というふ

うに呼んでおります。この BARC では今年、国際シンポジウム、国内シンポジウム、そ

れから今日はユニット 2 が担当でありましたけれども、数々の国内シンポジウムや研究

会、それから先だってはブータン王女の講演会等もございました。今後も、種々様々な

形でアジア仏教の過去とそれから現在、或いはその現代的可能性を問うていきたいと考

えております。

今日のご発表の先生方のお蔭で、美術資料と文字資料の扱いについて考えさせられま

した。とかく文字資料だけとか、或いは美術資料の中でも一点、二点の内容について考

えがちなのですが、それらを総合的に、それも広く考えていかなければならない、さら

に、仏教をとりまく他の宗教のことも含めて考えていかなければならないという思いを

新たにいたしました。

後に、3 名の先生方にもう一度温かい拍手をいただきまして、この場を終りたいと存

じます。先生方、どうもありがとうございました。(拍手)

それでは以上をもちまして、第 2 回国内シンポジウムを滞りなく終了させていただき

ます。参加の皆様、どうもありがとうございました。