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Title <論説>京都府における国会開設運動の展開 : 私擬憲法案 「大日本国憲法」の成立と沢辺正修 Author(s) 飯塚, 一幸 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (2009), 92(2): 359-387 Issue Date 2009-03-31 URL https://doi.org/10.14989/shirin_92_359 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title <論説>京都府における国会開設運動の展開 : 私擬憲法案「大日本国憲法」の成立と沢辺正修

Author(s) 飯塚, 一幸

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (2009),92(2): 359-387

Issue Date 2009-03-31

URL https://doi.org/10.14989/shirin_92_359

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Kyoto University

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京都府における国会開設運動の展開

私擬憲法案「大日本国憲法」の成立と沢辺正修一

京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

【要約】 「大日本国憲法」は、国会期成同盟第二圓大会前に作成された数少ない私擬憲法案であるが、関係史料が限られていて、

作成者の確定、作成の経緯など、基本的な点がはっきりしていなかった。ところが稲葉家文書から発見された新史料により、一八

八○年九月における筑前華壇会の和田操の宮津遊説が契機となり、同会の憲法草案の影響の下、天橋義塾社長沢辺正修が一気に書

き上げたことが判明した。その後「大日本国憲法」は、丹後選出府会議員らの討議により若干の修正を加えられ印刷・配布されて

いった。「大日本国憲法」作成と沢辺の国会期成同盟第二回大会参加は、筑前共愛会側から言えば、同仁の遊説活動の顕著な成功

例である。いち早く起草した憲法草案を携え国会期成同盟第二回大会に臨み主導権を握ろうとした筑前共愛会は、九州の外に同志

を得たのである。こうして沢辺正修ら京都府民権派と筑前二種会は、坂野潤治の言う「在地民権右派」の中核を形作っていく。

                                        史林 九一一巻二号 二〇〇九年三月

は じ め に

              ①

 明治前期の私擬憲法については、明治政府の憲法制定作業をも含めて、私擬憲法相互の関係を明らかにする必要性が指

摘されてい解本稿では毒筆国会畿同盟第二圓大会前に「在地民権秘」に・・て起曲早された二つの憲法草案の内㈹

「大日本国憲法」を取り上げ、最も早く憲法草案を持った筑前心墨会の影響の下に同案が作成されていく経過を明らかに 75

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       ④                                                      ⑤

する。沢辺正修筆と推定されている「大日本国憲法」は、原田久美子が京都府中郡の古銅家文書から見出して紹介し、そ

                    ⑥

の後竹野郡の永島家文書からも見つかっていた私擬憲法草案である。ところが関係史料が限られていたために、作成者の

最終的な確定、作成の経緯など、基本的な点がはっきりしていない。本稿では、最近京都府京丹後市久美浜町稲葉家文書

             ⑦

から発見された「大日本国憲法」などの新史料を利用して、こうした問題に回答を与えることも目的としている。

 次に、「大日本国憲法」の作成を筑前共愛会側から見ると、国会期成同盟第二圓大会へ向けて全国的に繰り広げた遊説

活動の最も顕著な成果であった。一八八○年=月に開かれた国会期成同盟第二回大会では、筑前電解会の代表者郡利・

箱田六輔・香月恕経と京都府の代表者沢辺正修は、終始共同行動を取っている。坂野潤治はこのグループを「在地民権右

        ⑧

派」と一括している。本稿では、国会期成同盟第二回大会の検討を行う前提として、京都府の自由民権運動を例に、筑前

共愛会の主導によりいわゆる「在地民権右派」が形成されていく経緯を明らかにし、その運動論上の特徴を明確にするこ

とを、第二の課題とする。

 国会期成同盟第二回大会において、筑前共愛会の代表者や沢辺正修らは、君民共治論・国約憲法論に立脚して途中まで

主導権を握りながら、結局は愛国忌避政社による私立国会論が大会を制することになった。その結果、大会後に組織され

                                            ⑨

た自由党準備会に筑前共融会をはじめとした九州諸結社の代表や沢辺正修らは参加せず、帰郷した。「在地民権右派」の

形成過程を跡付けることは、一八八一年一〇月の自由党結党時における九州諸結社の不参加や、自由党とは別個に大阪で

結成され沢辺正修も加わった立憲政党の淵源を探ることにもなる。見方を変えれば、「在地民権右派」を検討することは、

結党時の自由党に加わらなかった諸結社の視点から新たな光をあてることで、自由党の性格をより明確にすることにもつ

ながるであろう。

①私擬憲法の全体的特徴については、鳥海靖が『日本近代史講義明

 治立憲制の形成とその理念隔(東京大学出版会、~九八八年)第10章

で論じ、政府関係者と自由権権派の憲法構想に「かなり共通性があっ

た」点を強調している。 一方江村栄一は「民権派の憲法構想の特徴と

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 その意義扁(町田市立自由民権資料館編『民権ブックス3 草の根の

 民衆憲法輪、一九九〇年)で、民権派の憲法構想を、①主権が天皇、

 貴族院、衆議院の三者にあるという考え方(民権派の初期に多い)、

 ②事実上の議ム4王権説に立つ二院制の憲法案で立憲君主制の憲法構想、

 ③一院制の憲法草案で事実上の国恩主権説に立つ憲法構想、の王つに

 分類している。また小西豊治「創憲の時代-明治一〇年代憲法構想

 をめぐって一」(『法学新報臨}〇九巻一・二号、法学薪報社、二〇

 〇二年)は、政府官吏案や反民権派の憲法構想をも分析の対象として、

 私擬憲法を検討している。

②薪井勝紘「明治政府の憲法構想扁(江村栄一編糊近代日本の軌跡2

 自由毘権と明治憲法㎞、吉川弘文館、}九九五年)一四三買。

③江村栄【「自由民権運動とその思想」(門岩波講座日本歴史15近代

 2馳、一九七六年所収)では、国会開設運動の主体について、(1)愛

 国社系面構、(2)都市民権派、(3)在地民権派の三つの潮流にまと

 め、通説となっている。

④沢辺正修は安政三(一八五六)年、丹後宮津藩の儒者沢辺淡蔵の長

 男として生まれる。一八七二年から綴喜郡田辺村小学校で教師を務め、

 西南戦争に際して一時国事犯の嫌疑をうけ拘留された。七八年宮津の

 天橋義塾社長に選出され、その運営を担うとともに、丹後における自

 由民権運動の指導者となる。八○年一一月に開かれた国会期成同盟第

 二園大会に出席し幹事に選ばれ、八一年一〇月頃に大阪で設立された

 立憲政党では幹事・常議員を務めた。八六年六月、肺患のため早世。

 なお、沢辺正修については、原田久美子「沢辺正修評伝扁(京都府立

 総合資料館『資料館紀要㎞三、一九七四年)がある。

⑤原田久美子「明治=二年の憲法草案-沢辺正修の噸大日本国憲

 法』について一」(咽日本史研究隔八七号、~九六六年)。京都府立

 総合資料館編『京都府百年の資料』一政治行政編(~九七二年)にも

 一三〇番史料として収録された。また、家永三郎・松永昌三・江村栄

 一編噸明治前期の憲法構想[増補版面(福村出版、一九八五年)に

 「一五 大日本国憲法」として収録され、江村栄一校注『近代B本思

 想大系9 憲法構想輪(岩波書店、一九八七年)にも門3 自由罠権

 派の主要憲法構想」の「3」として収められている。なお、古巻家文

 書から「大日本国憲法」が見出された経緯については、原田久美子

 「京都府民権運動の研究状況と課題」(『識しい歴史学のために臨 一六

 五号、京都毘科歴史部会、~九八一年)、同「天橋義塾研究と岩崎さ

 ん」(哩郷土と美術㎞九六号〈岩崎英精先生追憶号〉、一九九〇年)参

 照。

⑥京都府立丹後郷土資料館蔵永島田文害D101二五二。宮津市史編さ

 ん委員会編『宮津市史』資料編第四巻(宮津市役所、二〇〇一年)に

 一九三番史料として収録。なお、最初に永島家案を翻刻して紹介した

 のは、今西一「永島家所蔵の憲法草案について」(魍郷土と美術』八六

 号〈沢辺正修紀念号〉、一九八五年)である。

⑦稲葉家文書A17箱柵。稲葉家文豆については、文化庁の国庫補助事

 業として調査・整理が行われ、筆者も調査員として加わった。二〇〇

 八年ヨ月にその成果として、噸京都府熊野郡久美浜稲葉家資料調査報

 告書臨全四冊(京丹後市教育委員会)が刊行された。稲葉家文書の番

 号は、右の屋録による。

⑧坂野潤治博愛国社路線臨の再評価」(東京大中社会科学研究所紀要

 隅社会科学研究』第三九巻白蟻号、}九八七年)。

⑨私立難壁論については、松岡僖一『幻視の革命1…自由民権と坂本

 直寛-臨(法律文化社、一九八六年)、国会期成同盟第二回大会から

 慮由党準備会立ち上げに至る経緯に関しては、拙稿「国会期成岡盟第

 二回大会の再検討」(『九州史学』第~四三号、一δ〇五年)参照。

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第一章 「大日本国憲法」作成の起点

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 「大日本国憲法」作成の直接のひきがねとなったのは、筑前共愛会の遊説員和田操の来書である。和田は、嘉永元(~

                                    ①

八四八)年三月一日筑前国御笠郡山家村西福寺に生まれ、最初和田墨壷と称していた。筑前共愛会が全国に先がけて~八

                                        ②

八○年二月に起草した私擬憲法草案「大日本圏憲法大略見込書」の執筆者として知られている。筑前上程会は自らの主義

を各地方へ広めるために、同年六月から、西川九郎・戸田健児を九州に、和田を山陽・山陰に、山中茂を五畿・紀州・東

                                                 ③

山道に、久野藤次郎を東海道に、松本俊之助を北陸道に、頭山満・阿部武三郎を奥州に、尾本某を越後に派遣した。遊説

員に選ばれたのは、頭山満は言うまでもなく、福岡の変に参加した経歴を持ち筑前豊実会早良郡委員であった久野藤次郎、

同じく福岡の変に加わった松本俊之助、高場乱塾出身で萩の乱に呼応した経験があり筑前共愛会那珂郡委員であった阿部

                       ④

武三郎といったように、当時の申心的活動家であった。

 同年二月一七日から開かれた筑前共愛会第二期会で、全国へ遊説員を派遣し、~一月に東京で全国大会を開き全国共愛

                       ⑤

会の組織化を目指すとした決定を具体化したのである。堤啓次郎はこの点について、筑前共愛会は愛国社という有志結合

に基づく組織とは別に、郡…府県あるいは汗塗-九州-全国という積み上げ方式による「地域結合の全国的な組織化」を

           ⑥

意図していたと述べている。遊説はまた、片岡健吉・河野広中両名によって元老院に提出された「国会ヲ開設スル允可ヲ

上願スル書」が、五月八日に却下され、同月一一日東京に駐在していた箱田六輔が「請願顛末書」を全国に送った後に具

体化している。その点からすれば、国会期成同盟規約第一〇条後段「国会願望を聞届られざるか又は二ヶ月を経るも何等

の沙汰なきときは各組合に於て大に天下に遊説し益々全国の結合を謀り、本年十一月十日より大集会を東京に開き、全国

公衆の意見を集合して其方向を議定すべし」との条文に沿った行動であった。だが、遊説範囲は筑前盲愛会が担当すべき

        ⑦

第一区11九州・沖縄をはるかに超えて全国に及んでいる。

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 遊説活動の実態に関しては、頭山と並んで奥州に派遣された阿部武三郎が、『郵便報知新聞』の記事により、奥州地方

                  ⑧

での遊説を終えて一〇月一九日東京に戻った事実などを除いて、不明の点が多かった。しかし、山中茂と和田操の遊説活

動については、その一端が次のように明らかとなった。

 「五畿・紀州・東山道」を担当したとされる山中茂は、恰土郡神田村の元士族で、一八七九年一二月に開かれた筑前共

                                  ⑨

愛会第~期会では、「聯合副部長」となっており、同会の中心人物の~人であった。山中は一八八○年八月、「東京ヨリ奥

        ⑩

州・北陸ヲ経テ帰途」滋賀県に来たり、浅井郡上野村の伏木孝内らと懇談していることが判明する。伏木外一九名は山中

                                               ⑪

の主張と大体において一致、淡海盲愛会を興すべく決意し、「淡海共電会相談ノ意見書」を県内各地に送付した。伏木孝

内は、同年三月の愛国社第四園大会に朝日社の代表として参加して愛国社への加盟を承認され、「国会ヲ開設スル允可ヲ

                 ⑫

上願スル書」の請願に加わった人物である。ただし伏木は、この直後福井県の杉田定一を訪ね、運動の連携と情報の交換

     ⑬

を行っている。伏木は筑前働盛会ではなく杉田とともに愛国社系の政治家として国会期成同盟第二回大会に登場するので

 ⑭

あり、淡海共進会結成は立ち消えになったと推測される。その後山中茂は彦根に至り、八月一八日彦根での演説会のため

                                           ⑮

来彦していた植木市之と会い}緒に食事をした。さらに九月五Bにも大阪に帰った植木を訪問している。

 一方和田操は、別名大塩操とも重い、真宗僧侶となることを嫌って家を出、一時東京に遊学したが、西南戦争前に帰郷

                       ⑯

して頭山満・進藤喜平太らと行動を共にした人物である。その後一八七九年一月に設立された向陽義塾で教師をしていた

        ⑰

ことが知られている。和田は一八八○年六月~九日、「商業悪夢依テ本月十五日目リ十一月十一日迄日数百五十日間山陰

                            ⑱

山陽地方へ罷越候」と戸長へ「他県行届」を提出、遊説の旅に出た。彼の遊説は豊前・豊後から始まり、四国に渡り淡路

           ⑲                                 ⑳

を経て山陰山陽を圓って後、九月に但馬を訪れ、そこで小室信介と出会ったのである。

                                                   ⑳

 小室信介は、第三回地方官会議傍聴のため東上し、国会開設を求めて東京に集まった人々の動向を肌で感じて帰申した。

ところが信介は、直後の一八八○年四月に大阪日報社長を辞した。従来、この退社は大阪日報社長職の激務がたたって健

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                   ⑫

康を害し静養を必要としたからと解されてきた。しかし綴喜郡井手村の小学校で教師をしていた頃から旧知であった宮本

三四郎に宛てた葉書によると、実のところは同年四月、京都日日薪聞社主安本利七の招きに応じて同社へ正式に入社して

                                                 ⑳

いた。信介は「当今之処二而は紙上もあしく候得共、来月中ニハ屹度日報社にも負ケヌ樽詰仕法」と意気込んでいたが、

                             ⑳

その後発病して京都で静養、九月からは城崎で養生していたのである。

 和田と会談した小室は、和田に好印象を持ち、当今流行の探偵とは思われないとして稲葉市郎右衛門ら丹後の有志家を

   ⑮                                                     ㊧

紹介した。恐らくその結果和田は丹後へと遊説に向かい、久美浜を経て九月二〇日か~=日に宮津に至る。九月二一日に

和田操と沢辺正修との問で行われた「憲法草案軍事等討論」は、午後二時から一〇時に及び、その夜和田は梅村疎影宅に

一泊した。梅村は、和田の議論に関して、「意外精緻ヲ極メ実二愉快」であり、これまで度々宮津を訪れた土佐人の比で

               ⑳

はない、との感想を稲葉に伝えている。恐らく和田は、筑前共愛会で討議を重ねて来た憲法草案を持参したものと見て差

し支えなかろう。梅村はさらに、和田から=月一日を期して全国の有志が東京に集まる予定だが丹後人はどうかと尋ね

られ返答に窮した旨を述べ、本年三月のように「知事ノ説説ニテ骨モ皮モ雪ノ陽気二業クル如ク建白タトハ、余りノ骨ネ

ナシ」なので、稲葉・石川三良助・田井五郎右衛門・小松九郎右衛門らで至急相談してほしいと依頼した。

 梅村疎影は、一八八○年三月、沢辺らとともに槙村正直京都府知事に召還されて説諭を受けた一人であり、この時期沢

                 ⑳

辺を補佐する重要な役圃りを演じていた。~八三三(天保四)年二月=日生まれの旧宮津藩士で、同地で私塾を開いて

     ⑳

いたと言われ、七七年頃には天橋義塾の助教を務めていた。宮津の神官大原美能理によれば、梅村は「民権をどなり散し

国会を騒ぎちらし彼方此方を飛廻り口過をし」ていたが、八一年頃にキリスト教に入信し、「自宅を講会として立派な標

          ⑳

札提灯をか・げ」ていた。同年までにはカトリック・プロテスタントともに宮津への伝道はなく、ロシア正教のみが宮津

                        ⑳                         ⑫

も含めて丹後地方に仮会堂二、講義安八を持っていたこと、梅村の子供夫婦がロシア正教徒であったことから、キリスト

教とはロシア正教と見て間違いない。天橋義塾幹部では最初のキリスト教徒であろう。

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

 一八八○年~○月聖旨付稲葉市郎右衛門宛沢辺正修書簡では、和田操から久美浜を訪れた時に丁度祭礼のため意を尽せ

なかったと聞き、和田との討論の内容と宮津での反応を詳細に述べた上で、「我々懸果つ此憲法大会議を建白し、或ハ願

望せんと欲し、過日より筆を取り憲法乃草稿にも従事せり」と申し送っている。和田との討論を直接のきっかけにして沢

辺は憲法草案の起草を始めたのである。この結果、「大日本国憲法」の起草者を沢辺正修とした原田久美子の推定は正し

く、草案作成の始期は八○年九月下旬と確定した。

 次に、作成にあたりあらかじめ憲法作成上の原則として、第一に、日本を立憲政体とし、帝位は天照大御神の子孫が定

められた順序により継承する、第二に、天皇には国法は及ばず、政治の責任は「執政大臣」が負う(いわゆる君主無答責)、

第三に、立法権は天皇と国会にある、第四に、行政権は天皇が「執政大臣」の補佐を得て行う、第五に、司法権は独立の

法官が法律に準拠して天皇の「名編」をもって行う、以上五つの柱を立て、この大綱をあらかじめ稲葉市郎右衛門に報知

している。草案作成に取りかかった時点で、「大日本国憲法」の主要な特徴がすでに明瞭な形で提示されていた。

 さらに、憲法の制定方法については、全国人民の代議士が会して国約憲法を確定すべきで、決して政府のみの議定で作

成した「布令憲法」とすべきではないとし、速やかに憲法大会議を開くよう元老院に建白するか太政大臣に請願すること

を提起した。この点でも筑前共愛会の唱える国界憲法論と同じ土俵に立っている。ただ沢辺は、官民の権限を制定し国体

を確定せずして国会を開く時は、国会は官権の爪牙となるか、人民の専横会議となると指摘している。ここで「人民乃専

横会議」となる事態をも想定している点は、沢辺の政治論の一貫した特徴である。その上で沢辺は、「是我々が春来大坂

石器テ小室信央・片岡健吉諸氏二百キ、又ハ質シ、帰途朝狩知事二吐露セシ所乃要旨ナリ」と述べており、沢辺が国約憲

                                   ⑭

法論を持論とするに当って、小室信夫・片岡健吉の意見を徴していたことが判明した。この内片岡健吉については、沢辺

が国会期成同盟創立大会を傍聴した際に片岡と面談したのではないかと考えられ穂・他方小室信夫の場合は・沢辺が九月

                        ⑳

上中旬に大阪へ出た際に訪問したものと推測しておきたい。

81 (365)

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 また、いち早く和田操と面談した小室信介は、九月一八日目城崎から稲葉市郎右衛門に書簡を送った後、一〇月一日に

                         ⑳               ⑱

は宮津から稲葉・大石精義宛に書簡を発しており、この間に信介の「老母大病」のため宮津に帰省したことが明らかとな

った。二人の関係から、憲法草案執筆を始めていた沢辺が、信介に意見を求めたと見るのが自然だろう。かつて戸祭武は、

小室信介の執筆した新聞論説を通して信介の政治思想を検討し、当初から国権論的性格の強かった点や国家と社会を区別

できない国家観、「天孫降臨、皇統無窮」の天皇観をその特徴として指摘した。その上で、「大日本国憲法」の君声遣治主

義が小室信介のそれの「みごとな結晶ではある」と述べ、間接的な表現ながら信介の「大日本国憲法」起草への関与を示

  ⑲

唆した。改めて検討すべき課題である。

                                           ⑩

 なお和田操は、丹後での遊説のあと大阪に至り、一〇月一一跡木枝盛を訪うている。両者は前年植木が福岡に滞在して

                 ⑪

いた頃からの旧知の間柄であった。和田はその後福岡に帰り、一二月一一日に開催された玄洋社演説会に出演、「僥倖論

                   ⑫

第一回」と銘打って演説を行っている。和田操の長期にわたる演説行において、丹後での沢辺らとの出会いは、その最後

に位置していたわけである。

①筑紫野市掌編さん委員会編『筑紫野市史睡下巻、近世・近現代(筑

 紫野田印、 ~九九九年)⊥ハ==二~⊥企二五頁。

②「大日本国憲法大略見込潜」は、家永三郎・松永昌三・江村栄一編

 前掲晋に一一番史料として収録されている。また財団法人西日本文化

 協会噌福岡県史』近代史料編自由民権運動(一九九五年)にも、16番

 史料として掲載されている。

③『朝野新聞』一八八○年一〇月一二日。『新潟新聞隔同年一〇月一

 七日にも同じ記事があり、前掲『筑紫野市史駈下巻六三九頁では同紙

 から引用している。

④各自の経歴は、石瀧豊美圃玄洋社発掘[増補版]匝(西日本薪嗣社、

 一九九七年)所収の「玄洋社社員名簿」による。

⑤福井純子「筑前民権運動についての一考察」(『立命館史学』一号、

 立命館史学会、一九八○年)九一頁、上田俊美「筑前地方の自由民権

 運動について」(『九州史学』第七八号、九州史学研究会、一九八三

 年)一二五頁。

⑥堤啓次郎「向陽社-筑前共雷公衆会と九州連合会」(膣史評論瞼

 四一七号、一九八五年)七二頁。

⑦板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂『自由党史幅上(岩波文庫、

 一九五七年)二七四~二七五頁。

⑧璽郵便報知新聞』一八八○年一〇月ニニ日。阿部武三郎は、後に第

 三代玄洋社社長となっている(石瀧豊美前掲轡三三四頁)。

⑨ 前掲『福閥県史隔近代史料編自由民権運動二三頁、三八頁。

82 (366)

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

⑩滋賀大学経済学部附属史料館蔵馬場武司下文漁里諺四、馬場赫三宛

 差出人不明書簡。

⑪同書~五九門淡海共音会相談ノ意見書」。滋賀県における民権運動

 の概略については、苗村和正「毘権を拓いた人々」(同『日本史のな

 かの湖国一地域史の再発見i輪、文理閣、【九九一年、所収)が

 あるが、山中茂の滋賀県訪問の事実や「淡海溺愛会」に関する記述は

 ない。

⑫「愛国社決議録」(庄司吉之助『日本政社政党発達史㎞、御茶の水書

 房、一九五九年)九五~九六頁。板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗

 校訂前掲『自由党史隔上二七 頁、二九〇頁。伏木孝内については、

 立憲政友会滋賀県支部党誌編纂事務所編『立憲政友会滋賀県支部党

 誌㎞(一九閥四年)前篇第一章参照。

⑬遡福井県史㎞通史編五心現代一(福井県、}九九四年)=五頁。

⑭噸新修大津市史偏第五巻近代(大津市役所、一九八二年)第二章第

 一節中の門自由民権運動」参照。

⑮凹植木枝野遊臨第七巻日記ユ(潮瀬書店、【九九〇年)一八八○年

 八月一八日条、九月五日条。『福岡日日新聞暁一八八一年六月二日に

 よれば、山申茂は京都において英学修行を志し、近々老母と共に京都

 に赴く旨報じられている。その後山中茂は、玄洋社には行かず民党系

 の政治家となり、一八九二年の選挙干渉では民党系候補者多田作兵衛

 の運動員として活動、いわゆる「比良松事件」で玄洋社叢の人々に襲

 われ重傷を負っている(石瀧豊美前掲書一四六頁)。なお植木枝盛と

 滋賀県民権運動との関係については、苗村和正「植木第二日記の人々

 植木枝盛と湖国偏(同前掲書所収)参照。

⑯前掲騨筑紫野市史学下巻六三四~六三五頁。西尾陽太郎は、西南戦

 争後に頭山満・平岡浩太郎らが結成した開墾社において、和田が教師

 役を務めたと指摘している(同門九州における近代の思想状況一国

 権論・民権論1」福岡ユネスコ協会編『九州文化論集荏 日本近代

 化と九州駈、平凡社、一九七二年、=六頁)。

⑰ 石瀧豊美前掲書一〇四頁、一一一頁参照。また同義田三三八頁による

 と、和田操は一八八○年一二月、八二年七月時点で玄洋社員であり、

 九三年には朝倉郡三奈木村村長に就任している。一九〇一年没。

⑱前掲『筑紫野市史』下巻六三九頁。

⑲稲葉家文書A2箱52、一八八○年一〇月九日着稲葉市郎右衛門宛沢

 辺正修書簡。久美浜町史編纂委員会編糊久美浜町史』資料編(久美浜

 町、二〇〇四年)に近代一五番史料として収録。

⑳稲葉家文書A2箱45、一八八○年九月一八日付稲葉市郎右衛門宛小

 室信介書簡。

⑳拙稿「京都府自由民権運動研究の新段階-国会開設運動の始まり

 をめぐって一」(『新しい歴史学のために』二五六号、京都向斜歴史

 部会、二〇〇五年)。

⑫ 彿田泉「案外堂主人小室信介」(『明治文化研究駄第二・三輯、一九

 三四年、のち明治文学研究第八巻『政治小説研究輪上巻、春秋社、一

 九六八年に所収)、今西一掴メディア都市・京都の誕生一近代ジ

 ャーナリズムと講刺漫画一二(雄山閣、}九九九年)第2部第二章

 三。

⑬ 綴喜郡井手村の宮本三四郎に宛てた}八八○年四月二一日付小室信

 心葉雷(京都府立総合資料館蔵『宮本守三家文書臨一七}五-一四

 八)。『富本守三家文書隔については「寄贈資料紹介 宮本守三家文

 書扁(京都府立総合資料館『総合資料館だより臨  一八号、一九九九

 年)参照。

⑳ 煎豆布史編集委員会編『豊岡市史学下巻(豊岡市、一九八七年)六

 四頁によれば、小室信介は一八八○年九月に湯島に湯治に来て、当地

 の有志二・三人と会談し、丹後改進党と連携して運動を進めることに

(367)83

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 した、とある。ただし、「丹後改進党」については不明である。

⑮本章注⑳。

⑳本章注⑲。

⑳ 稲葉家文轡A2箱46、一八八○年九月二八日付稲葉市郎右衛門宛梅

 村疎影書簡。

⑳  『大坂日報臨【八八○年三月【八日。

⑲ 申嶋利雄編集代表『資料 天橋義塾隔上(宮津市教育委員会・宮津

 市文化財保護委員会、一九七八年)九七頁。~八九二年三月~八B没。

 なお、後の衆議院議員長田桃造は梅村の息子であり、一八八四年七月

 当時天橋義塾生徒であった。

⑳  『太教薪報』一八八一年九月=二日雑報欄掲載の「正邪問答」。恐

 らく大原美能理の投稿であろう。なお、『太教新報』は太教新報社発

 行、のち『朝陽薪報』と改題して大東社発行に代わっている。

⑳噌日本キリスト教歴史大事典』(教文墨、~九八八年)三九九頁。

⑳ 前掲魑資料 天橋義塾輪上、梅村疎影の長男梅村大蔵の項。

⑳ 原田久美子前掲「明治十三年間憲法草案一沢辺正修の『大日本国

 憲法』について一」六六~六七頁。

⑭ 以上本章注⑲。

⑮ 拙稿前掲門京都府自由民権運動研究の新段階-国会開設運動の始

 まりをめぐってi」七~八頁。

⑳ 小室信夫は一八八○年九月一=日、古沢滋・植木枝盛らと神戸の諏

 訪山温泉に出かけており(『植木枝盛集』第七巻、日記1、同日条)、

 当時関西にいたことが確認できる。

⑳ 稲葉家文書A2箱48、一八八○年一〇月一日付稲葉市郎右衛門・大

 石精義宛小室信介書簡。

⑳ 稲葉家文書A2箱44、一八八○年八月三〇日付稲葉市郎右衛門宛沢

 辺正修葉書。前掲『久美浜町史蝕資料編、近代一三番史料として収録。

⑲戸祭武「小室信介の政治思想」(舞鶴工業高等専門学校『紀要㎞第

 四口写、 ~・九⊥ハ九年)。

⑳前掲一命木枝盛集』第七巻日記1、一八八○年一〇月~日条に、

 「住吉に造り朝飯を一亭に喫し、復た楊柳亭に通る。福瞬県和田□来

 る。」とあるが、これは和磁操であろう。

⑪ 同右書一八七九年三月四日条に、当時福瞬にいた植木が、「藤島、

 大塩、五平等扁と人力車で甘木から福岡まで帰り、湯町で入浴した旨

 の記述がある。また同年王月一一日半にも「大塩来る」とある。

⑫  噸福岡日日新聞賑一八八○年=一月【○日、前掲㎎福岡県史㎞近代

 史料編自宙民権運動に収録。

84 (368)

第二章 「大日本国憲法」草案と筑前共愛会案

 本章では、沢辺が起草した「大日本国憲法」草案(以下「草案」と表記)の内容と、それに極めて大きな影響を与えたと

思われる筑前共愛会の「大日本国憲法大略見込書」(以下「甲案」と表記)・「大日本帝国国憲見込書草按」(以下「乙案扁と表

記)とを比較してみたい。原田久美子はかつて、「草案」は「民権派の草案の最大公約数ともいうべき君乱撃治、二院制、

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

               ①

責任内閣制を柱としている」と述べた。この内、君民共治と二院制について異論はない。しかし、「草案」は責任内閣制

                                        ②

を規定してはおらず、江村栄一が言うように「行政権は天皇に属し、議院内閣制はとられていない」とするのが正確であ

る。こうした全体的特徴は「甲案」・「乙案」でも同じである。以上の点を確認した上で、「草案」と「甲案」・「乙案」の

類似点を中心に検討する。

 第一に、第一篇に三条を設け「政体」を規定する構成は、「乙案」を踏襲したものと推察される。たとえば、「草案」・

「乙案」は共に、第一条において天皇による支配の正当性を「万世一系」性に求めている。「草案」の保守的性格を示すと

                                     ③

される第一条・第二条については、旧宮津藩や沢辺正修の思想的特徴から迫ることも必要だが、「乙案」の直接的影響に

も着目すべきだろう。一方で、「草案」が「大日本国ハ立憲君主政体ニシテ」と規定しているように、両案は「万世一

系」に基づく天皇の支配を徹底させる意図があったわけではなく、立憲君主制の樹立に主眼があった。溜主無答責を条文

化した第二条は、「乙案」第八三条に近い。第三条で立法・行政・司法三権のありかを規定するのも「草案」・「乙案」共

通である。

 第二に、天皇・皇族に関して定めた「第二篇天皇」は、「甲案」・「乙案」第一認諾二章「皇位及皇位継承井摂政」と

第二篇第二章第~款「皇帝ノ権任」から多くの条文を受け継いで成り立っていることが判明する。天皇の婚姻をとってみ

ても、国会の承認を要し(「甲案」)たり、国会の検査を経て許可を得ることが必要であった(「草案」)。また皇族の男子を

欠いた場合に女帝を認めている点でも両案は共通であった。皇帝の権限を制限し、議会の権限を拡充しようとする姿勢で

         ④

も両案は一致している。天皇の外交権を認めた上で、「国益及ビ国安二関スル条約」や「国財ヲ費シ若クハ国境ノ変改二

関スル条約」は、国会への報知や締結理由の開示、あるいは承認を要するとしているが(第四条)、これは字句の点でも

「甲案」を踏襲している。

 ただし、(1)「甲案」・「乙案」がいずれも「皇帝」を使用しているのに対し、「草案」では「天皇」で通していること、

85 (369)

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(2)「甲案」が庶出の天皇を認める条文を欠いているのに対し、「草案」は第十一条で「嫡ハ庶門先チ」と規定して庶出

           ⑤

の天皇を容認していること、(3)「甲案」・「乙案」はともに第五条で皇帝の宗系に皇位を嗣ぐ男子がいない場合、近世以

来の四親王家を前提として有栖川・伏見・閑語の三親王家から継承者を出す規定であるのに対し、「草案」にはそうした

    ⑥

条文はない、(4)「甲案」第一三条・「乙案」第~六条が、皇帝の子女で高堂に至った場合の皇族離脱を定めているのに

対し、「草案」にはそうした規定がない、(5)「甲案」第九七条・「乙案」第九六条が、皇帝は国憲と法律を守ることな

どを圏会で誓うと規定しているのに対し、「草案」においては摂政にのみ宣誓の義務を課し、天皇には該当する条文がな

⑦いなどの、見逃せない重大な相違がある。とりわけ、女帝を認めかつ庶出の天皇を認めない点で、筑前共愛会の「甲案」

                      ⑧

は元老院国憲按第 次案と同じ論理構成をとっているが、沢辺正修の「草案」にはそうした特徴は見られない点に留意し

ておく必要がある。

 第三に、国民の義務と権利に関しても、国防と納税の義務を規定した「草案」第二三条と「甲案」第三四条、公益のた

めに財産を没収する際の賠償規定を盛り込んだ「草案」第二七条と「甲案」第三七条など、「甲案」を参照して作成した

と見られる条文が存在する。

 第四に、民選議員の選挙法として複選法を採用し、その条文の末尾に選挙権を有しない者の条件を列挙する構成が共通

している。ただし「草案」は、その条件の申に「国税ヲ納ムル財産ナク又随意二世ノ財産ヲ使用スルコト能ハザルモノ」

との一項が入っており、選挙権を国税納税者に限定する構想であったが、納税に関わりなく満二〇歳以上の男子戸主と定

めた「甲案」・「乙案」(第七四条)と比べると、選挙権は狭い。また「草案」は、複選法の具体的な内容を民選議院細則に

譲っている。「甲案」第八○条・「乙案」第七六条も代議士選挙の方法は「別段ノ法律ヲ以テ之ヲ定ム」としており、こ

の点でも共通している。なお、「甲案」第七五条では人人五〇〇人ごとに上級選挙人一人を選出する、つまり事実上村代

表が代議士を選出する規定であるのに対し、民選議院網則によると人口一万人に一人の選挙人となっていることから、郡

86 (370)

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

区の代表が代議士を選ぶ仕組みを採用している。両者は一見複選法という共通の制度に立ちながら、代表の選出母体を大

          ⑨                                        ⑩

きく異にしていたのである。村単位の代表から成り立つ六単位の結社から構成されていた筑前重池会と、ようやく郡を範

囲とする結社の形成期に入った丹後民権運動との、組織化の進展度合いが反映しているものと解しておきたい。

 第五に、元老院・民選議院の二院制の採用、元老院と皇太子・皇子との関係、両院とは別個に天皇に任命された参議か

らなる参議院を設置する構想についても「甲案」・「乙案」に近似している。両院の名称は、上院・下院とした「乙案」で

はなく、「甲案」の元老院・民選議院を採っている。ただし、「草案」が参議院に「諸省ノ卿ヲ監察シ、天皇二二シテ其政

                                       ⑪

務処分ノ非違ヲ責問スルノ権」を付与している点は、「甲案」・「乙案」に比して保守的である。

 第六に、「甲案」・「乙案」第三慶典二章に「府県会及府県政」を置いているのに対応して、「草案」も「第七篇 府県区

町村会」を設けている。両者を比較した場合、「草案」が一八八○年四月八日に公布された区町村会法をうけて区町村会

を組み込んでいる点、さらに郡会をも規定している点、第一一六条で「郡区町村会ノ規則ハ其郡区町村ニテ編制シ府県会

ノ裁可ヲ乞フヘシ」との但書を付した点は、原田久美子が指摘したように沢辺正修が「地方人民とともに活動してきた中

              ⑫

で成文化した部分という感が強い」。他方で「甲案」に特徴的な府県知事や郡長の公選規定はない。第七篇は、むしろ元

老院の日本国憲按第二次案「第七篇 府県会及邑会」に近い。

 「草案」は、その構成や基本的考え方、個々の条文の内容に至るまで筑前共愛会案の強い影響を受けていることは明白

  ⑬

である。しかし、日本国憲按第二次案との類似点も随所に見られる。実は筑前寵愛会案の条文の多くは、一八七七年に元

老院が出版した『欧洲各国憲法』に収録された諸憲法の邦訳に依拠していた。その結果、筑前共愛会案は「元老院国憲案

           ⑭

とやや似てい」たのである。沢辺正修にゆかりのある天橋義塾の蔵書群や同志社の「小室沢辺紀念文庫」には『欧洲各国

          ⑮                              ⑯

憲法』は含まれていないが、熊野郡久美浜の稲葉家の蔵書中には同書が存在する。沢辺正修が稲葉市郎右衛門から借用す

るなどして、直接『欧洲各国憲法』を参照しつつ条文化を行ったのか、この点でも和田操を通じて知る所となったのかは

87 (371)

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判然としない。今後の検討課題である。

①原田久美子「天橋義塾」(中嶋利雄・原田久美子編『日本民衆の歴

 史地域編10 丹後に生きる1京都の人びと一』、三省堂、 九八

 七年)~〇四頁。

②江村栄…「幕末・明治前期の憲法構想」(同校注前掲『日本近代思

 想大系9 憲法構想』)四七五頁。

③原田久美子前掲門天橋義塾扁で、甲羅維新期の宮津藩が営門学派の

 拠点であり、沢辺正修も同派の山口正養に師事したことを指摘してい

 る。

④ 筑前共愛会案の特徴については、堤啓次郎前掲論文七二頁に依拠し

 た。

⑤「甲案」を修正したものと解されている「乙案」では、第七条に

 門皇后所生ノ皇子ト妃ノ所生ノ皇子ト有ルトキ脚立長ヲ問ハス皇后ノ

 所生ヲ以テ嫡尊トシ妃ノ所生ヲ以テ次卑トス」との規定を罷き、庶出

 の天皇を認める旨を明確にしている。

⑥}八七〇年ご万一〇日に皇族の身分が定められ、近世以来の桂・

 有栖川・伏見・閑院の四親王家は世襲親王家となり、幕末・維薪期に

 新たにできた宮家は一代限りとされた(糊明治天皇紀臨第二、吉川弘

 文館、 一九六九年、一二六九頁)。四親王家の内、桂宮家には男性がい

 なかったことから、「甲案」・「乙案」は有栖川・伏見・夕照の一二親王

 家を挙げたものと思われる。筑前共愛会は、楽時の皇族事情にかなり

 通じていたと見て問違いない。

⑦原田久美子前掲「明治;奪の憲法草案-沢辺正修の噸大日本国

 憲法㎞について一」七〇頁。

⑧女帝と庶出の天皇の関係をめぐっては、奥平康弘が『「豊里一系」

 の研究1「皇室典範的なるもの」への視座i臨(岩波書店、二〇

 〇五年)第H部第一章で詳細に検討を加えており、大いに参考になる。

⑨原田久美子は、「複選法を採用している点が特異」としているが

 (同前掲「沢辺正修評伝扁二四頁)、この点で「大日本国憲法」のみ

 が特異なのではない。

⑩~八七九年}二月に醗催された筑前共愛会第~期会で決議された

 「共愛公衆会結合法」第四章第三条には、「各本部ハ必ス各町村部ヨ

 リ委員ヲ出シ該本部ノ諸事ヲ議定セシム」と定められている(前掲

 隅福岡県史臨近代史料編自由民権運動二五頁)。上田俊美前掲「筑前

 地方の自由民権運動について扁二八頁の治土・志摩両郡の例も参照。

⑪江村栄一前掲「幕末明治前期の憲法構想」四七五頁。

⑫原田久美子前掲「沢辺正修評伝」二五頁。

⑬筑前共愛会の討議案に採択された「甲案」だけでなく、門乙案」も

 参照されている点に留意する必要がある。

⑭この点に関しては、稲田正次『明治憲法成立史』上巻(有斐閣、一

 九六〇年)三六一⊥二六二頁参照。『欧洲各国憲法』、元老院第二次案

 の成立過程については、島善高編魍元老院国憲按編纂史料隔(国書刊

 行会、二〇〇〇年)の島善高「解題」参照。

⑮天橋義塾の蔵書群は現在みやつ歴史の館に所蔵されており、目録も

 作成されている。門小室沢辺紀念文庫」については、『小室・沢辺紀念

 文康目録睡(同志社大学図書館、一九九皿年)がある。なお、原田久

 美子は前掲「明治=二年の憲法草案~沢辺正修の『大B本国憲法』

 について一」六九頁において、沢辺は「元老院の『欧洲各国憲法隔

 (明治一〇年刊とを参照したようだと述べていたが、それ以後は慎

 重な言い方に終始している。同「自由民権結社の展開過程一天橋義

 塾の場合!」(京都府立総合資料館『資料館紀要』 一、一九七二

88 (372)

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年)六三頁、同前掲「沢辺正修評伝」二七頁注(9)参照。

⑯稲葉家文書A94箱47。稲葉贋文轡には、他にも栗原亮一訳咽泰西名

 家政治論纂暁やリーバー著・林董訳『自治書目などがある。また、同

 じく久美浜在倥の名望家で稲葉家の親族でもある織田幾二郎の蔵書中

にも、共同社の『近事評論隔や中江兆民欄欧米政理叢談臨などが含ま

れている(平成一八年度丹後古代の里資料館春期企画展示図録州函石

浜遺跡とその発見者たち臨、二〇〇六年)。ただし、今のところこれら

の書物と沢辺正修との関係は明らかでない。

第三章 国会期成同盟第二圓大会参加問題

京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

 和田操の遊説は、一一月に東京で開会が予定されていた国会期成同盟第二圓大会へ向けて参加者を勧誘し、国会開設を

目指す筑前脚質会への同意を求め世論を喚起する点にあった。宮津での和田の歓迎会や和田・沢辺会談に動かされ、与謝

郡の府会議員、石川三良助・小松九郎右衛門・糸井徳之助は、代表一人を選定して一〇月二〇日には東上させたいと相談

している。沢辺も、今度こそ丹後人民の名で建蕎したいとの意欲を見せ、(1)時日が切迫している、(2)多人数の集会

は集会条例のために手数繁多である、(3)一一月に全国の有志が東京に集まる機会に広く交際し、公議世論のありかを

見極めてから建白もしくは講度するのが適当であると述べ、代表を}人選び東上させることを第一義とし、建白・請願は

第二義とすると提案した。

 また沢辺は、同意者の組織方法として、①現時点で郡中結合のある所はその会長が適宜処分する、②郡中結合のない所

は、府会議員もしくは天橋義塾社員を派出して通知する方法で、沢辺の提案に賛成者を募り、委任状を東上者に送付する、

との案を提起した。この構想に基づき、与謝郡では一〇月一五日宮津で天橋義塾の大会を開き、その場で沢辺が国会期成

                                 ①

同盟第二圃大会へ丹後から~名を出張させる旨の発議をすることになっていた。右の大会には当初綴喜郡の有志家も参加

       ②

する予定であったが、一〇月~六日から臨時府会が開かれたため、実際に来世したかは明らかでない。大会での議論の内

容も、今のところ不明である。

 さらに沢辺は、一〇月八日付の書簡に同封して、筑前共愛会規則・共愛会々憲三章と海南協同会設立概則の写を稲葉に

89 (373)

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送った。この内、筑前共愛会規則と共愛会々憲三章は、一八八○年四月に開催されたと推定されている筑前共愛会第三期

        ③

会で採択されたもので、和田操によってもたらされたのは確実である。~方の海南協同会は、立志社が八○年七月に、同

年一〇月を目途として県議層の運動への取り込みをねらって設立しようとした組織である。同業は各郡から選出される総

代各浮名、計三五名から構成される予定であった。九月二三日付『高知薪聞』は、海南協同会仮事務局が置かれ、片岡健

吉など七言が仮事務委員になったと伝えた。その後、開設時期を延期、総代数も各郡一〇名に増やし、一~月一六日に設

        ④

立大会を開いている。海南協同会規則の緒言が同年九月二一日付『大坂日報瞭に、翌日の同紙には海南協同会設立概則が

掲載されており、恐らく沢辺正修は、同紙からの写を稲葉へ送付したものと推測される。いずれにしろ沢辺は、筑前共愛

会や海南協同会のように、郡単位の結社の代表会議を開き、その場で丹後自由民権運動の方針を決めていく構想を持った

のである。ただし依然として各郡単位の結社は十分育っておらず、国会期成同盟第二回大会への参加をめぐっては、便宜

的に従来の「請讐受方繭」を採らざるを得ないというのが・前述した沢辺の提起と兇て良いだろ㌔

 こうした中、熊野郡では筑前共愛会・海南協同会の規則が届く直前、郡単位の結社である同仁会開設へ向けた動きが始

まっていた。九月、小室信介が城崎へと湯治に向かう行きがけ久美浜に立ち寄り、稲葉市郎右衛門・留具・七太郎・牧太、

                     ⑥

西垣席吉・大石精義などと行った協議が発端である。同月二六日夜、熊野郡同仁会発起者が谷田大三郎ほか六名に宛てて、

                                      ⑦

明日午前七時から長明寺において同仁会設立の件に関して相談するとの案内状を回した。右の「発起者」には「稲葉」

「甲南」「東園」「大石」の四つのサインがある。この内、「稲葉」は稲葉市郎右衛門、「東園」は市郎右衛門の弟古学、

「大石」は大石精義であるが、「甲南」が誰に相当するか今の所判然としない。同仁会結成の中核となった四人置中で、

                     ⑧

稲葉堅蔵は一八七九年九月以来熊野郡書記であった。また大石精義は、~八四七(弘化四)年生まれの旧宮津藩士族で、

宮津尽道校、園部支庁、宮津支庁に勤めた後、七九年三月一四日に熊野郡雇、八○年一月七日同郡書記となった人物であ

⑨                                                            ⑩

る。さらに宮津幽思波路に生まれ、天橋義塾創立時の生徒で、八○年四月七日熊野郡雇に任じられた山下新太郎も、当時

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

熊野郡では運動の中心人物の一人であった。熊野郡では、府会議員・組戸長層と並んで郡役所吏員が運動を支えていたの

である。中でも特に大石と山下は、熊野郡同仁会に結集していく精解有志家と宮津天橋義塾をつなぐパイプ役を果してい

たと思われる。

 一〇月三日、同仁会創立大会が久美浜で開催された。同仁会申合条約では集会条例の適用外となるよう、「クラブナル

者ト其性質ヲ同フスル者」と規定したが、沢辺の言う「語中結合」である。しかも条約第~章の「目的」において、熊野

郡の団結を実現した後には、「進ンデ竹野・中郡二及ボシ、与謝郡天橋懇親会ト聯合シ、或ハ西進シテ但馬全国二尉ブ」

                ⑪                                   ⑫

と述べるなど、壮大な意図を有していた。創立大会には沢辺も招待されていたが病気のため出席できず、梅村疎影が代理

で参加した。久美浜からの帰途、梅村は峰山に粟飯原鼎中郡長を訪ね、同仁会得条と名簿を見せた。梅村はそれから古巻

                                   ⑬

芳平宅に出向いたが留守だったため、後日古巻に同仁会約条書と名簿を送付している。同仁会と同様の組織を中郡でも結

成するよう促したのである。一入八○年~○月一日付稲葉市郎右衛門・大石精義宛小室信介書簡によれば、すでに九月下

旬、小室信介が城崎から宮津への帰路栗飯原鼎を訪い、国会開設運動への尽力の様子を聞き取り鼓舞していた。これに対

し粟飯原は、自分も二・深名の有志家と話し合い、熊野郡に先んじられないよう「是非是非団結スベシトノ奮発」で、今

               ⑭

月中には「一会起」す約束をしていた。中郡の場合、郡長が組織化の中心にいたわけである。

 同年春の国会開設請願運動では、各郡の府会議員を通じて同意者の組織化を図った。ところが、国会期成同盟第二回大

                                   ⑮

会を前にした今回の運動の場合は、かつて筑前共晶会が国会開設請願を行った方法にならい、郡ごとに「必中結合」を立

ち上げ、その各総代が連署する方法をとろうと考えたのである。結局東上委員には沢辺正修が選出された。しかし、「郡

中結合」による組織化は、対応する郡単位の結社が未成立であったり、時間が切迫したりしていて、意図通りには進まな

かった。江尻村の宮崎六左衛門は、一〇月二四日宮津に沢辺を訪ね、翌日同村の小学校教師竹本行央宅に集まり沢辺宅訪

                               ⑯

問の始末を報告、沢辺への委任状と東上費用の出金について協議している。与謝郡でも委任状の集約は沢辺の宮津出発に

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間に合わず、しかも個別に行われたと見られる。

 以上のような経過を経て、一〇月二五日、沢辺正修は国会期成同盟第二圃大会が開かれる東京に向けて宮津を発した。

①稲葉家文書A2箱52、一八八○年一〇月九日付稲葉市郎右衛門宛沢

 辺正修書簡。

②稲葉家文書A2箱48、一八八○年一〇月一日付大石精義宛小室信介

 書簡。

③ 菊掲『福岡県史』近代資料編自由民権運動四六~四八頁。

④ 松岡僖一『土佐自由民権を読む1全盛期の機関紙と民衆運動

 一』(青木書店、一九九七年)二〇頁。

⑤堤啓次郎前掲論文七一頁。

⑥凹大坂日報無一八八一年四月二六日。

⑦稲葉家文轡A3箱燭「〔廻章〕」。

⑧隅京都府熊野郡誌瞼(京都府熊野郡役所、~九二 二年、臨川書店よ

 り一九八五年に復刻)一一三頁。

⑨京都府庁文轡明19120-1『明治十九年十一月以前退官者履歴

 轡暁による。

⑩稲葉家文書A34箱53「明治十四年東園日記」八月二〇日条に「山

 下氏依願免役辞令来」とあるが、京都府庁文書明1917115『自明治

 十九年十二月至明治四十五年 退官者履歴害』によれば、この時期熊

 野郡役所吏員を辞任した人物は高橋新太郎しかいないことから、山下

 新太郎は高橋新太郎と見て間違いない。

        第四章 「大日本国憲法」の完成

~八八○年五月二二日、京都府知事愼村正直は第二一

⑪稲葉家文書A3箱㎜「同仁会申合条約扁。前掲『久美浜町史臨資料

 編に近代 六番史料として所収。今西一は『大坂日報㎞一八八一年四

 月二六日置記事を典拠として、同仁会の設立を一八八○年九月として

 いるが、これは誤っている(今西一『近代日本成立期の民衆運動睡、

 柏書房、~九九一年、~三七頁、同前掲欄メディア都市京都の誕生

 -近代ジャーナリズムと鼻塞漫画一』 一〇四・一九九頁、凹宮津

 市史臨通史編下巻五七~頁)。

⑫稲葉家文書A2箱47、一八八○年九月三〇日付稲葉市郎右衛門宛沢

 辺正修書簡。

⑬稲葉家文書A2箱51、~八八○年一〇月九日付稲葉市郎右衛門宛梅

 村疎影書簡。

⑭稲葉家文書A2箱48、一八八○年皿○月一日付大石糟義宛小室信介

 書簡。

⑮前掲槻福岡県史隔近代史料編自由民権運動のU番史料、茂木陽丁

 鶴巻孝雄編噸明治建白書集成㎞第五巻(筑摩書房、一九九六年)の一

 八七九年七一番史料参照。

⑯宮崎感文害門明治十三年日誌」。前掲『宮津市三無史料編第四巻

 に一九九番史料として抜粋を収録。

一号布達を発し、府会に諮る事なく地方税の追徴を達した。府会

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

側は、六月 四日内務卿に宛てた「地方税追徴義二付髭」を可決して、知事の措置の違法性を主張し内務省の指令を求め

た。ところが同省は伺を建議と解釈して指令には及ばないとの態度を取ったため事態は進展せず、七月三〇日会期切れを

迎えてしまった。さらに京都府は、八月二四日第三三〇号布達を発して同年の通常府会での全議決を不認可とする強圧的

方策に出た。府下各地でこれに反発する動きが広がり、九月二〇日府当局は同布達の撤圓に追い込まれた。愼村正直府知

                                            ①

事は、政府とも折衝した上で地方税追徴方針を貫徹すべく、~○月~六日相国寺で臨時府会を開会した。この府会出席の

ため、中郡の古巻意平、竹野郡の永島勝治、熊野郡の稲葉市郎右衛門は、一〇月中旬から京都に出ていた。中郡では、そ

                        ②

のために予定していた「中郡集会」は延期となっている。沢辺正修は、京都に出る前に府会議員から憲法草案への意見を

聴取することができず、脱稿したばかりの憲法草案を携えて京都に至る。

 一〇月二六日午後四時京都着後、沢辺はその日の内に三浦駒太郎・小室信介・西川義延(綴喜郡、京都府会副議長)・松

                                              ③

野新九郎(愛宕郡、京都府会議長)・樺担保親(綴喜郡、府会議員)と会い、翌日に親睦会を開くことを約した。この親睦会

は、小室信介を発起人、旧宮津藩士で天橋義塾創立時の生徒であった三浦駒太郎を会計係として、在京の丹後人有志に向

                                                ④

け案内が送られている。会費は一円であり、「賓客」として招かれた山城・丹波の有志には会費を課さなかった。こうし

た経緯から、沢辺正修が丹後のみではなく京都府下三国二区九郡膚志人民の総代となるのは、沢辺や小室信介がかつて綴

                           ⑤

喜郡で小学校教師をつとめ、同地の有力者と結びつきがあったことに起因すると推測されるのである。

 ~○月二七日午前、沢辺は南桑田郡選出の府会議員田中源太郎を同志に加えようと訪問し、居合わせた五十選出の府会

                                   ⑥

議員川勝光之助と熊野郡選出の府会議員稲葉市郎右衛門と合わせて三人と面会した。しかし、田中・川勝への説得は功を

奏さなかった。田中源太郎は民権派に加わることなく、一年後には北垣国道府知事の意をうけて、立憲政党の派出員小室

                                          ⑦

信介らが丹波・丹後・但馬を党勢拡張のために巡乱した後を追い、「逆オルグ」に圓ることになる。後に京都公民会を組

織することになる田中源太郎は、一八八○年秋の時点で民権派とは別の道を歩む意思表示をしたものと解せるだろう。

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親睦会では、

「朋友」

 次いで翌二八日午前、

の止宿先である室町四条下る音羽屋に訪い、

崎・佐久間丑雄(与謝郡)

一一月三日付で丹後の同志の圓覧に供するために京都から送った

議士油煙渡シ申候、

ら憲法草案が示されたことは間違いない。

                   ⑪

 稲葉家文書と永島家文書の「大日本国憲法」を比べると、以下の点が判明した。

結局、二七日午後に三樹里月導燈で開催された親睦会は、以下の二二名の参加者を得た。

与謝郡 沢辺正修・小室信介・三浦駒太郎・鳥居諺・黒田宇兵衛・田井五郎右衛門・松本誠直・木村栄吉・奥田東之

    助・木崎清三・塩沢行覚・小室佐喜蔵

中郡”古巻意平・田中忠左衛門

竹野郡一永島勝治・永雄勝輔

熊野郡 稲葉市郎右衛門

綴喜郡一西川義延・樺井保親

相楽郡 柳沢三郎

愛宕郡”松野新九郎

        ⑧

下京区“服部嘉十郎

     府下有志人民の結合と東上委員への嘱託事項について協議した。会に出席できなかった膚志者に対しては、

                                             ⑨

   より連絡を取り回答を求める事とし、また、沢辺正修は~○月末まで京都に滞在することに決した。

          丹後選出の府会議員である黒田・田井・古巻・田中・永島・永雄・稲葉と木村栄吉が、沢辺をそ

                   相談を重ねている。同日午後には、西川・田宮勇(綴喜郡、府会議員)・木

           ・木村・奥田・樺井が沢辺を訪ね、協議は深夜~二時まで及んだ。沢辺に同行した梅村疎影が、

                            「東行記事」には、「憲法草案ハ当地ニテ府会議員ノ同

                                    ⑩

        自然世間ニハ流布筆致候、必シモ御秘シ置被下士二不及候」とあり、両日の親睦・協議の場で沢辺か

第~に、本文の筆跡が異なり別人のも

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

のである。第二に、朱書訂正の筆跡は同一人物のもので沢辺の筆跡と一致する。また、欄外右の「閲了」の字も同一の筆

跡であり、沢辺のものと推定される。第三に、永島家勢にあって稲葉愚案にない条文や文言、反対に稲葉家案にあって永

島思案にないものがある。前者の例としては、第五〇条(訂正後第五一条)第二項が稲葉家案にはない。一方、後者の例と

しては、第九〇条の前に「第六篇 司法」が永島家案にはなく、欄外に追加されている。この結果、永島家案と稲葉家案

の訂正箇所は、大半が同一であるが~部異なっている。朱書訂正には、筆写の際の誤り・脱漏箇所の訂正と、集団による

討議を経たそれの二種類があると見てよい。

 討議による訂正としては、まず第二四条の一部を独立させて、薪たに「心墨五条 住居ヲ侵シ信書ノ秘密ヲ害スベカラ

ズ、然レトモ法律二定メタル時機及ヒ方式ニヨルトキハ此限ニアラズ」という条文を置いた点である。これにより「然レ

                                       ⑫

トモ」以下が加わり、無条件に住居不可侵・通信の自由を認めていた原文の性格が変化した。次に、「草案」第二六条の

                                            ⑬

後半部「且教会金轡同一ノ保護ヲ受ク可シ」を「然レトモ葬祭等分国家ノ監督ヲ受ク可シ」と書き換えた。「草案」は神

道・仏教・キリスト教などいずれに対しても国家は保護の任を負うよう明記されていた。ところが、この修正は国家が特

定の立場から宗教行為へ介入する道を開いたわけで、強い保守的な意向が働いたと見ることができる。三つ目は、「草

案」第八九条「参議ハ法律及ビ国益二面リテ奏聞スル所ノ意見、若クハ誰詐明白ナル意見ノ為メニハ其責二等ズ」を全文

                              ⑱

削除した。参議の政治的責任を問う憲法上の根拠を抹消したことになる。四つめは、「第百二条 裁判官ハ立法・行政ノ

職務ヲ兼ルヲ得ズ」という条文の追加である。

 以上から、稲葉・永島・春巻らの列席した一〇月二八日午前の会議で、沢辺正修が起草した「大日本国憲法」草案を各

自が筆写、集団討議を経て修正、完成稿ができ上がった。そして沢辺本人が各自の筆写の誤りと討議による修正箇所を朱

                                  ⑮

書で訂正して、欄外に「最合砿と書き込み自らの印を捺印したものと推測される。今西一は永島家案を検討して、表紙に

「閲了」と書かれ「さわべ」という印が押されていることから、「誰かが草案を書き、沢辺が検閲したという意味」と解

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 ⑯

した。しかし、ここまでの考察から今西説は成立せず、原田久美子が主張するように「大日本国憲法」は沢辺正修筆とし

      ⑰                                                     ⑱

て間違いない。また今西一は、憲法草案は「複数の人の討議のなかで生まれた可能性が強い」とも述べているが、討議に

よって訂正された箇所は前述した四点でほぼ尽きている。それぞれの訂正は重要な内容を含んでいるが、「大日本国憲

法」を集団討議の産物とするのは言い過ぎであろう。さらに今西一は、沢辺を憲法草案への検閲者の位置に置き、「草

                                        ⑲

案」作成者より保守的な立場から行われた訂正を沢辺の思想と結びつけている。しかし、これは正反対なのであって、沢

辺筆の「草案」を、府会議員を中心とする名望家層との討議の中で訂正したのが実態である。「草案」からの「後退」は、

府会議員層の意向に沢辺が妥協した結果であった。

                                         ⑳

 こうして完成した「大日本国憲法」は、直ちに印刷に付され府下へ配布された。

96 (380)

①地方税追徴事件の経過については、原田久美子「民権運動期の地方

 議会-明治十~二年京都府における地方税追徴布達事件i」(噸目本

 史研究臨三八、一九五八年)による。

②稲葉家文書A2箱53、一八八○年一〇月=日付稲葉市郎右衛門宛

 梅村疎影嘗簡。

③稲葉家文書A2箱54「東行記事」。前掲『久美浜町史無資料編近代

 一七番史料として収録。

④ 節巻家文書「古巻意平手控」。前掲剛京都府百年の資料幽一政治行

 政編=三番史料、前掲騨宮津市史隔資料編第四巻一九〇番史料とし

 て収録。

⑤沢辺正修は一八七二年から七六年まで綴喜郡田辺小学校、小室信介

 も七二年から七五年まで謄躍井手小学校の教員であった(原田久美子

 前掲「沢辺正修小伝」一〇頁、同前掲「自由民権結社の展開過程!

 天橋義塾の場合1」四八頁)。

⑥稲葉家文書前掲A2箱54「東行記事」。

⑦原田久美子門関西における民権政党の軌跡一立憲政党小論1」

 (咽歴史評論蜘四皿五号、{九八四年)五九頁。

⑧本章注③・④。「古巻意平手控」では親睦会の開催を一〇月二八日

置としているが、隅大坂日報』一八八○年一〇月三〇日の記事が、親睦

 会は一〇月二七日午後に開かれたと報じていることから、東行記事に

 従い一〇月二七日とした。また今西一は、一〇月二八日京都室町音羽

 屋で懇親会がもたれたと述べているが、音羽屋は沢辺の止宿先であり、

 日付・場所ともに事実と異なっている(同前掲『メディア都市・京都

 の誕生-近代ジャーナリズムと課刺漫礪一臨二〇〇頁、『宮津市

 史無通史編下巻五七一頁)。

⑨本章注③。        

⑩本章注③。「古里意思手控」では丹後選出府会議員と木村栄吉が沢

 辺を訪ねたのは、一〇月二九日午前となっている。また会合への出席

 者についても、東行記事では畜巻・田中・永島・稲葉:水漉と木村と

 記されているが、古巻雲平手控は前記六名に一〇月の補欠選挙で府会

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

 議員に当選した与謝郡の黒田・田井両名とその他一人を加えた計九名

 を挙げている。

⑪稲葉家案は「はじめに」注⑥、永島家捜は「はじめに」注⑤。なお

 古巻意平手建国の門大B本国憲法}は、訂正後のものである。

⑫今西一前掲門永島家所蔵の憲法草案について扁三八頁参照。

⑬宮津市史編さん委員会編『宮津市史撫通史編下巻(宮津市役所、二

 〇〇四年)五七二~五七三頁参照。

⑭今西一はこの修正について、門権力の弾圧を恐れたこともあった」

 のではないかと推測している(同右害五七三頁)。

⑮同時に作成されたと思われる墨金議院細則も稲葉掌文書中にあるが、

 その欄外右にも同じ筆跡で「共学」とある(A2箱71)。

⑯前掲明宮津市史腫通史編下巻五七二頁。

⑰原田久美子は永島家督発見後に同案を検討した上で、門少くとも書

 込みおよび欄外の部分は正修の自筆と考える。正修の起草という可能

 性がより大きくなったといえよう」(「沢辺正修覚え書」『郷土と美

第五章 京都出発までの動向

 術』八六号〈沢辺正修紀念号〉、一九八五年、=頁)と述べ、自説

 を確認している。

⑱前掲『宮津市温風通史編下巻五七二頁。竹野郡弥栄町(現京丹後

 市)の元中学校教師川戸利一は、「沢辺正修は同年十一月一日京都自

 由亭の送別会後東上した。この時かねてから用意してあった㎎大日本

 国憲法案輪を携えて行った。その内容は七編百七条から成っており天

 皇至上主義のもので、この草案起草に上巻意平も参画したという」と

 述べている(同噸明治の初期、口大野村で活躍した若き先覚者 古巻

 意平』二〇〇二年、四七頁)。しかしその典拠とされる古巻田文書中

 の「意平が語ったとされる文章扁がいかなるものか不明である。

⑲前掲『宮津市逆軍通史編下巻五七三頁。

⑳  「大日本国憲法」は「明治十三年 国約憲法見込案」との表紙をつ

 けて印刷されたが、現在永島家文墨と吉川三郎家文書(田辺町近代誌

 編さん委員会編『田辺町近世近代資料集輪、一九八七年、二五二番史

 料)から発見されている。

                                                          ①

 一八八○年一〇月二九日、沢辺は木村栄吉と同道で午前九時に小室信夫を訪問し、午後二時に旅館に戻った。実は小室

                                                ②

信夫の養子信介は、沢辺より一足早く一〇月三日目宮津を発し、五日に京都に帰着していた。当時京都では、~○月島B

から一〇日にかけて、植木枝盛らを弁士として四条南の劇場で政談演説会が開かれ聴衆三〇〇〇人を集めるなど、愼村正

                                              ③

直府知事の下で抑え込まれていた民権論がようやく喧伝される政治状況が生まれていた。小室信介は「時節到来」と見て、

養父小室信夫と桐談の上、小規模な『京都日日新聞』では「事ヲ為スベカラズ」と判断し、信介自ら二一二千円余を出金し、

南山城の有志家と共に発起人となり新たな新聞発行を企図する。そして「身自由ノ犠牲トナリ、聯力尽ス処アラント企

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                                ④

望」して、府内の団結と新聞発行の株募集を目的に府内巡圏を計画していた。

 他方『大坂日報』では、一八八○年七月元法制局大書記官古沢滋が社長に迎えられ、経営主体も同年八月、従来の就将

              ⑤

社から大阪日報社へと改組された。これにより、それまでは西川甫~人が資本主であったのを、「藤田伝三郎や中野梧一

                                           ⑥

ら大阪財界人をくわえ、また古沢や小室信夫なども匿名株主として資本参加する体制にあらためた」。元来西川甫は小室

                        ⑦

信夫が徳島藩大参事の時の少参事という深い関係にあり、古沢滋と小室信夫は幕末以来の同志であると同時に、揮わずと

                        ⑧

知れた民撰議院設立建白書の仕掛人という間柄であった。京都・大阪での薪聞発行の背後で小室信夫は強い影響力を持っ

ており、民権派系の新聞再編を主導していたと言えるかも知れない。信介の新聞人としての処し方にも、養父信夫の意向

が作用していたと見て良いだろう。

                        ⑨

 しかし、京都での新たな新聞発行計画は結局頓挫した。小室信介は=月上旬大阪日報社に復社、まもなく印刷長に就

  ⑩

任する。復社直後の一一月一〇日、小室信介は稲葉市郎右衛門に『大坂日報』を一部送付し、社長古沢滋は博学で元法制

局大書暴富であるから府県会規則などに詳しく京都府会の為に尽力する筈、古沢と共に心を合わせ「府下同盟の郡中鼓舞

                              ⑪

之積り」であると述べ、熊野郡同仁会員への同紙売り広めを依頼した。さちに小室信介は、=月九日には朝日新聞社へ

    ⑫

も入社した。稲葉には朝日新聞も一部同封し、同紙の「改正総裁」を依頼されたので、古沢滋と相談して、「上等人民」

には大坂日報、「下等人民」には朝日新聞によって「開進之道ヲ謀ラントスルノ策」をとることにしたと述べ、婦人や子

        ⑬

供へ購読を勧誘した。信介は同年一二月一日、早速この目的を達するために「平仮名民権論」の連載を始め、発行停止に

                   ⑭

あう翌年一月二五日まで;面に及んでいる。沢辺正修が小室信夫を訪ねたのは、右のような大阪・京都での民権奉呈新

聞の再編が進行している最中であった。木村栄吉も交えた三二が何を話し合ったかは定かでないが、沢辺はこの時小室信

夫から、板垣退助と一〇月五日に元老院議官を辞したばかりの中島信行、加えて東京日日新聞社長福地源一郎への紹介状

      ⑮

をもらっている。

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

 一〇月二九日夜、稲葉市郎右衛門の旅宿御幸町御池下る宇野安右衛門方に、稲葉・古酒・田井・黒田・永島・永雄の丹

後選出府会議員六名と、小室信介・西川義延・樺井保親・田宮勇・川瀬の=名が集まり、沢辺正修の東上費用について

協議した。その結果、予算額を二〇〇円と見積もって、内一二〇円を丹後、八○円を山城で負担し、丹波は有志者が確定

していないので、そこからの収入は予備費に充てることに決めた。さらに、丹後国の分担金について担当者と担当地域を

  ⑯                                       ⑰

定めた。また、この会合では地方税追徴問題についても話し合われたらしい。

                                                ⑱

 一〇月三〇日午前九時、下京区の児島定七が沢辺正修を訪問、続いて何者郡の服部直と波多野鶴吉も訪ねてきたが、二

時間ほどして帰った。そこで沢辺は小室信介を訪い府庁への東上届出案に関して相談した上で、=時四五分に府庁へ出

頭して戸籍掛に面会、京都府知事愼村正直代理京都府大書記官国重正文に宛てた「東上御届」を提出した。戸籍掛は、府

下有志人民の姓名について問い質したが、沢辺は丹後には同年春に国会開設請願書への同誌者が一七〇〇名余りおり、山

城・丹波でも数百名は下らないだろうから、~々姓名を挙げることはできないと軽く受け流した。次に願望書の有無を尋

ねられたのに対し、沢辺がまだないと答えたことから、戸籍掛は東上の上全国の志士と~緒に願望書を起草する積りかと

迫った。沢辺は集会条例に抵触するかを問うきわどい質問と解し、なにも決めていないと切り返している。ここで戸籍掛

は国重書記官の意向をうかがうためとして席を空けた。しばらくして出てきた戸籍掛は、東上者が沢辺一名か、出発日と

                                   ⑲

現在の旅宿を尋ねた後、「然うバ東上ハ御勝手ニセラルベシ」と述べて面会は終った。

 同日、以後の通信のために、有志人民を山城部と丹後部の二つに分けた。そして前者の本部を京都に置き、柳馬場三条

上る小室信夫方を仮局と定め、小室信介を主任とし、後者の本部を宮津として天橋義塾を仮局とすることで相談がまとま

った。その上で、有志人民の住所姓名を仮葬で取り纏め、その姓名簿と委任状を東京市ケ谷川田町にあった旧悪津藩主本

                          ⑳

庄邸に宿泊を予定していた沢辺正修に送付すると打合せている。この時沢辺に託されたと推定される一〇月三〇日付の古

町意平の委任状写が、原田久美子により紹介されている。それによれば、沢辺へ委任された事項は、「我々有志人民ノ総

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代トナリ東上シ、誠実二国約憲法制定ノ願望書ヲ草シ政府へ進呈スル歎、全国志士ト一致シ国会開設ノ目的ヲ達スル策ヲ

         ⑳

謀ル事」となっている。稲葉家文書にも同文の委任状が存在するが、もう~つの委任事項「天祖ノ神勅ヲ奉戴シ、皇統~

                          ⑫

系万世不朽ノ国体ヲ安シ奉ルヲ主義トスル事」を含んでいる。さらに、一〇月三一日付の永雄勝輔の委任状写も残ってい

るが、沢辺への委任事項は、「国約憲法ヲ制定スルノ国会開設アラン事ヲ其筋へ建言シ或ハ請願シ、誠実温和ノ主義ヲ以

                   ⑳                             ⑳

テ其目的ヲ達ス可キ事務取扱ノ事」であった。同じ日付の同文の委任状は稲葉家文書にも存在する。委任状の内容は、

「国体ヲ安シ奉ルヲ主義」とする人や「誠実温和ノ主義」を持つ人など、様々な考え方の人々を網羅するために、複数作

成されたのではないかと推測される。また沢辺正修は、京都滞在中に「同議士」となった人々から、同様の委任状を取っ

ている。同日までに「同議士」となったことが確認できるのは、一〇月二七日の親睦会に参加した中で、三浦駒太郎・鳥

居誇・黒田宇兵衛・松本誠直・塩沢避雷・樺井保親・柳沢三郎を除いた一四名、及び綴喜郡の田辺与三郎・吉川磯右衛

門・西川篤・伊東熊夫・田宮勇・南藤三・井上喜右衛門・川瀬明太郎・木村艮司・家村正治・山田直竹、愛宕郡の氏名不

                                           ⑮         ⑳

詳の~名、下京区の児島定七、宮津の佐久間丑雄、京都日日新聞社主安本利七、大阪日報記者赤松幹、計三〇名である。

こうして、丹後のみではなく、京都府下三国二区九郡有志人民の総代として沢辺正修が東上する下準備は整った。

 一~月一日、東京へ向けて出発する沢辺を見送るため、小室信介二二浦駒太郎・松野新九郎・西川義延・稲葉市郎右衛

                                                  ⑳

門など十数名が京都七条停車場の自由亭に集まり、沢辺と別れの杯をかわした。沢辺はこの席で一場の演説を行った後、

                                        ⑳

神戸港まで同道を申し出た小室信介とともに、午前九時~○分発の列車に乗り込んだのである。

①第四章注③。

②稲葉家文書A2箱50、一八八○年~○月額目付稲葉市郎右衛門外有

 志家御…愛山小室信介書簡。

③『大坂日報馳~八八○年~○月~二三↓三日。

④本章注②。明治~○年代の京都における新聞の概況については、福

 井純子「新聞と演説会i民権期の都市京都一」(図録四京都の自

由民権運動扁、京都府立丹後郷土資料館、一九九~年)参照。

⑤西弼長寿隅明治時代の新聞と雑誌』(至文堂、一九六一年)五二頁。

⑥岡満男『大阪のジャ…ナリズム睡(大阪書籍、一九八七年)四二~

 四三頁。

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

⑦毎日翻聞百年史刊行委員会編『毎日新聞百年史鹸(毎日新聞社、一

 九七二年)三八頁。

⑧幕末・導爆期における古沢滋と小室信夫の関係については、山下重

 一「古沢滋と初期自由民権運動(上)扁(『国学院法学臨第一三巻第三

 号、一九七五年)参照。また古沢は、阿波自助社の創立宣言を起草し

 ている(同「古沢滋と初期自由民権運動(下)」『国学院法学㎏第一三

 巻第四号、一九七六年、一三八~一四〇頁)。

⑨州京都日日新聞鹸は一八八一年一月六日休刊に追い込まれ(『酉京

 新聞臨一八八一年一月八日、今西一前掲開メディア都市。京都の誕生

 一近代ジャーナリズムと誤刺漫画-睡二〇四頁)、三月には廃刊

 となっている(西田長寿前掲書五三頁)。

⑩『大坂日報』一八八○年=月一〇Bに、門○小室信介此度本社へ

 復帰候に付、同源相知の看客へ報道し、愈々御春顧を辱ふせられんこ

 とを願ふ」との広告が掲載された。なお前掲『宮津市史』史料編第四

 巻に一九二番史料として収録されている黒田玄碩・吉岡彦次郎宛小室

 信介書簡は、一八八○年二月の発信と推定されているが、これは一

 八八一年の誤りである。

⑪ 稲葉家文書A2箱55、一八八○年一一月一〇日付稲葉市郎右衛門宛

 小室信介書簡。

⑫朝日新聞社百年史編修委員会鮮明朝日新聞社史㎏明治編(朝日新聞

 社、一九九〇年)三七頁。前掲『毎日新聞百年軒昂三八頁では、朝日

 新聞との兼職について、「古沢の大阪日報入社を契機として小室信介

 に両社の籍を与え、民権運動の戦力とするため養父信夫が企画したと

 すべきであろう扁と記されている。

⑬本章注⑪。同旗贔凹ではこの他に、小室信介が=月=二日に大阪へ引

 っ越す予定であることを告げ、一一月中に大坂日報で大会を催し、板垣

 退助・島本伸道を上賓とし、近国の有志家を悉く招待する積りであるの

 で、稲葉にも出張願いたいと誘っている。この大会は門自由懇親会」と

 銘打って一二月八日に大阪江戸堀府会議事堂で開催されたが、その会

 主は大阪日報社長古沢滋・同社株主西川甫・小室信炎の単名であった。

⑭  「平仮名民権論」に関しては、柳田泉前掲門案外堂主人小室信介」

 一三三~三二六頁に、詳細な分析がある。柳田は、小室信介の政治的

 信念を「歴史的国粋主義に基礎したもの」と規定し、小室の民権論が

 国権論と結合している点を指摘している。

⑮稲葉家文書A2箱68「東行紀事第三報」。前掲蝿久美浜町史隔資料

 編近代一七番史料として眼録。

⑯古三家文書前掲「古圏点平手控」。

⑰原田久美子は田井五郎右衛門稿「臨時府会日誌」に基づき、~○月

 二九日夜に丹後諸郡と山城綴喜郡の府会議員が小集会を開き、地方税

 追徴問題について議したと指摘している(前掲「民権運動期の地方議

 会-明治十 二年京都府における地方税追徴布達事件!」五八頁)

 が、この集会は沢辺の東上費用を協議した会合と同じであろう。

⑱郡是製糸の創設者波多野鶴吉の実弟である羽室亀太郎は、後に「此

 人(沢辺正修一飯塚)なんかも筍も国会を議罪する上は勿論憲法の見

 込を立てねばならぬと言って、自分でも憲法草案を起草した事があ

 る」と述べている(哩立命館文学』第四巻第一〇号、一九三七年)。こ

 の点から推して、波多野は沢辺訪問の際に憲法草案を見たか、あるい

 は筆写した可能性もある。なお原田久美子前掲「明治一三年目憲法草

 案-沢辺正修の欄大日本国憲法』について一」六六~六七頁参照。

⑲稲葉家文書前掲A2箱54「東行記事」。

⑳同右。

⑳原田久美子前掲「明治=二年の憲法草案一沢辺正修の圃大日本国

 憲法幅について一」六七~六八頁。

⑫稲葉家文書A2箱83「委任状漫事恥。

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⑳ 京都府立丹後郷土資料館蔵永島家文書D10一二五七。前掲『宮津市

 史』史料白煙四巻に一八九番史料として収録。

⑳ 稲葉家文書前掲A2箱83門委任状之事扁。

㊧赤松幹は福岡県士族。赤松については、福井純子碑我楽多珍報』

 の周辺」(『立命館大学人文科学研究所紀要輪第八六号、二〇〇六年)

 =駕一~=一四頁参照。同論文で明らかにされたように、赤松幹が山

 中茂など筑前共愛会の民権家と交際があった点に注目しておきたい。

⑳稲葉家文書前掲A2箱54「東行記事」。

⑳ 古巻藁文書前掲「古碑意平手控」。

⑳  咽大坂日報睡一八八○年一一月二日。

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お わ り に

 本稿で明らかにしたように、沢辺正修が「大日本国憲法」の執筆に取り掛かったのは、一八八○年九月に行われた、筑

前共愛会の憲法草案作成者和田操の宮津遊説がひきがねであった。筑前共愛会案などを参考に、短期間に「大日本国憲

法」草案を書き上げた沢辺は、国会期成同盟第二圓大会に出席するため東上する途中、京都に立ち寄った。当時ちょうど

地方税追徴問題をめぐって臨時府会が開会中であり、在京した丹後選出府会議員を中心に沢辺筆の「大日本国憲法」草案

は討議に付され、若干の修正を経た後印刷され、府下へ配布されていった。これにより、「大日本国憲法」の作成者、作

成時期は確定し、原田久美子の推測が大筋において正しかったことが確認された。ただし原田久美子は、「大日本国憲

                                                   ①

法」について「先行の憲法草案(たとえば筑前共栄会のもの)のひき写しでない、主体的な起草ぶりも興味深い」と述べて

いるように、同案を沢辺正修個人、あるいは丹後民権運動の所産として研究してきたために、民権運動全体の中で位置付

ける点に弱さがあった。確かに「大日本国憲法」の中には、丹後での経験に照らして条文化したと思われる箇所もあるが、

国会期成同旨皿第二回大会前に私擬憲法草案を持ち得たのは、筑前共愛会とのつながりを抜きに説明することはできないだ

ろう。

 他方、和田操の来丹から沢辺正修の東京への出発までを筑前共愛金側から見ると、国会期成同盟第二圓大会へ向けた遊

説活動の中でも顕著な成功例であった。しかも単に京都府から第二圓大会への参加を実現させただけでなく、筑前共愛会

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京都府における国会開設運動の展開(飯塚)

案に類似した憲法草案の作成という成果を生み出した。一〇月一日から五日にかけて筑前共愛会第五期会が開かれた。そ

れについては当時、「世人ハロハ一口に国会を開くべしと説けど其方七珍を考濡せし者紗なし、故に同会にてハ先づ日本帝

国の憲法制定の議会を開かんことを請願し、春宮同会にて審議したる日本憲法見込書凡そ三篇八章百三十八条に増補を加

                                ②

へ、其団結の証として筑前人民同盟の惣名簿を副へ差出して哀願する積なり」と報じられている。いち早く起草した憲法

草案を携えて国巡憲法の制定を要求するという方針で、国会期成同盟第二回大会に臨もうとしたと見てよい。沢辺正修ら

京都府民権派は右の方針に強い共感を示して嗣期したわけであり、筑前共愛会は九州の外に同志的存在を獲得したのであ

る。さらには、個別の請願署名に基づく有志結合ではなく、郡一府県(あるいは旧国)の積み上げに基づく地域結合によ

り組織化を進めるという運動論においても、沢辺正修らの了解を得ている。ただし、京都府民権派の力量から、直ちに地

域結合による組織化を進めることはできなかった点にも留意する必要がある。いずれにしても、ここで出来上がった両者

の密接な関係が、坂野潤治のいう「在地民権右派」の中核を形作っていく。

 最後に、国会期成同盟国二回大会における「大日本国憲法」について一言しておきたい。周知のごとく、国会期成同盟

第二回大会では、第五号議案として憲法見込書の審査議定が提案されていたが、議論の結果廃案説に決した。唯一憲法草

案を持って大会に臨み、憲法論議を主導しようとした筑前共愛会代表と沢辺正修の目論見は、潰えたのである。しかし、

近年稲葉家文書から発見された新史料により、国会期成同盟第二回大会終了直後に、一部の大会参加者によって「憲法討

                                      ③

論会」が開催され、憲法構想の相互討論や情報交換が行われていたことが明らかとなった。これにより、私擬憲法作りは

新たな段階を迎えるが、すでに紙幅も尽きたため、この問題は別稿で検討を加えることにしたい。

 ① 原田久美子前掲「天橋義塾」~〇四~一〇五頁。            美浜町史』資料編に近代一七番資料として収録されている。

 ②『郵便報知新聞隔一八八○年一〇月二一日。            (大阪大学大学院文学研究科)

 ③稲葉家文書A2箱62申の「東行記事第五報」。岡史料は、前掲『久

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Aeduans utilized thjs access to the court for the revitakzation of their hometown.

This connection, which had been constructed in the Tetrarchic politica} system,

was stM effective in the eariy Constaritinian period and enabled Autun to obtain tax

reductioR. At the same time. Maximian’s revolt had to be treated in a restrained                       ’

rnanrier within panegyrical discourse because Maximian was the source of author-

ity both for Constantine and for prominent Gahic ex-ofucials. This close ge with

Gaul, however, seems to have collapsed immediately after Constantine’s victory

over Maxentius. Their relationship that had oyiginated in the age of the Tetrarchy

could not be sustained once deprived of the potitical background of the Tetrarchy.

A History of Campaigns in Kyoto for Establishing a National

Assembly: Forrnation of the Draft Constitution of the Ernpire

    of Japan [DainipPonleoleu KenPo] and Seishu Sawabe

by

Ilzul〈A Kazuyuki

  The Draft CoRstitution of the Empire of Japan [DainipPonleoleu Kempo] was one

of the few civic constitutional drafts drawm up before the second meeting of tlie

League for Estabtishing a National Assembly [Kokkai lgsei Dornei]. However, due

£o limitation of historical materials, basic points had been unclear, for example,

who wrote it and why it was written, unti1 a new historical source document from

the lnaba Family Archive revealed that the draft was made in quite a short period

of time by Seishu Sawabe, the president of Tenkyogijuku School. Sawabe atteRded

a speech by Misao Wada, the head of the ChikuzeR Kyoaikai group, in Miyazu in

September 1880 and was血sp辻ed by the group’s draft constitution. The Dainip-

ponkoku Kenpo was slightiy amended by prefectura“awmakers elected from the

TaRgo region before it was printed and published. From the standpoint of the Chi-

kuzen Kyoail〈ai group, the formulation of the Dainipponkoku Kenpo and Sawabe’s

participation in the second meeting of the Kokkai Kisei Domei were typical exam-

ples of the success of i£s speech tour. The Chikuzen Iくyoaikai group,血an eff()rt

to take the initiative in the second assernbly of the Kol〈kai Kisei Domei by de-

veloping its own draft cons£itution earlier than its rivals, thus succeeded in gaining

sympathizers outside of Kyushu. ln this way, the pro-democracy faction in Kyoto

led by Seishu Sawabe and the Chil〈uzen Kyoaikai group forrned the core of what

Ju切i Banno ca皿ed the‘‘gaichi-minleen-uha”(10cal right-wing訓Hance fbr democracy).

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