100 ペスト菌(px)撒布による「細菌戦」戦果の実相 -...

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280 日本医史学雑誌 第 59 巻第 2 号(2013ペスト菌 PXによる「細菌戦戦果の実「陸軍軍医学校防研究報」掲載の高橋正彦論文か公益法人社団石川勤労者医療協城北病陸軍軍医学校防疫研究報告」2 部に高橋正彦論文がある.「ペスト菌の細菌学的研究」関連論文 20 昭和 15 年農安及新京に発生せるペスト流行について」関連論文 6 である.前者は免疫学的研究,菌戦用の PXPlague に感染した Xenopsylla cheopis Rothschildけおびすねずみのみ)の産関連論文で あり,後者は 1943 6 月からの農安新京での「ペスト流行」の疫学的研究関連論文である.この「昭 15 年農安及新京に発生せるペスト流行について」の論文は,従来から中国及び日本の研究者間で討 論され,この「ペスト流行」は 731 部隊による略説もあったが,当時散発していたペスト集団発生の 一つであり,其の研究論文とされて日に及んできた. ところが 2011 10 月,奈須重雄氏が国立国会図書館関西館で元 731 部隊隊員金子順一が戦後東京学に提出した博士号申請論文を検索し幾つかの論文を発見した.其の中の一PX ノ効果略算法」(「陸 軍軍医学校防疫研究報告Ⅰ部第 30 号」昭和 18 1 21 受付)には昭和 15 6 4 日から昭和 17 6 19 日までに 731 部隊が実施した農安や常徳等への低空雨下細菌攻撃六件の記録が記載され,その1 例が昭和 15 6 4 日「農安」,第 2 例が昭和 15 6 4 7 日「農安大賚」と明記されていた.したが「陸軍軍医学校防疫研究室報告Ⅰ部」に記載されていた「昭和 15 年農及新に発生せるペスト流 行について」論文 6 篇は,将に 731 部隊が最初に実施した細菌戦 =PX 撒布作戦の「戦果」の克明な記載 であることが明らかになったのでる. 15 年戦争中に日本軍が実施した「細菌戦」は,これまで多数が指摘されてきたが,それらの作戦の「戦 果」の判定は「敵陣」のために非常に困難で,未だに「戦果」の評価が定まってはいない.しかし,其 の点では上記の高橋論文「昭和 15 年農安及新京に発生せるペスト流行について」論文 6 篇は,PX 作戦の結果の克明な記載であり,当時の日本軍の「PX 細菌戦」の実態を明らかにしている点ではきわ めて重要と考えらえる.これらの各論文の特徴的な論は次のようである. 1,患者の発病情況― 6 月中旬農安医院付近で 23 人のものが不明の急性疾患で死亡し,……. 2,ペスト流行は 891011 月と順次近隣地域に伝染,有菌鼠による伝染が主であった. 3遠隔地への伝播はまず鼠族へ伝染鼠ペストの大量発生その後患者発生し流行4,新京では 28 例が発病,敗血症死亡がく,罹病期間は 1 7 日がい. 5,罹病の経過日数は平均 68 週であった.11 20 歳の患者の治癒率が高い. 6,ペスト患者からの菌検出は容易でない.回患者の検査では長期にわたる菌の保有者はいない. 7,ペスト患者血清のペスト菌殺菌用は特異的で,ペスト患者の診断に利用できる8,屍124 から 58 でペスト菌を確認,死者のすべては敗血症死であることを確認9,農安,新京地域から分離された 110 種のペスト菌(患者屍体 71 株,鼠 29 株,蚤 9 種,虱 1 種) を同定したが,すべて同一であることを確認 1010 5 日より「加茂部隊」(731 部隊)を汚染地域に投入し,一朝有事の際の軍官民一体の防疫 体制の訓練を実施した. 100

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Page 1: 100 ペスト菌(PX)撒布による「細菌戦」戦果の実相 - UMINjsmh.umin.jp/journal/59-2/59-2_280.pdf280 日本医史学雑誌 第59 巻第 号(2013) ペスト菌(PX)撒布による「細菌戦」戦果の実相

280 日本医史学雑誌 第 59巻第 2号(2013)

ペスト菌(PX)撒布による「細菌戦」戦果の実相―「陸軍軍医学校防疫研究報告」掲載の高橋正彦論文から―

莇  昭三公益法人社団石川勤労者医療協会 城北病院

「陸軍軍医学校防疫研究報告」2部に高橋正彦論文がある.「ペスト菌の細菌学的研究」関連論文 20篇,

「昭和 15年農安及新京に発生せるペスト流行について」関連論文 6篇である.前者は免疫学的研究,細

菌戦用の PX(Plagueに感染したXenopsylla cheopis Rothschild・けおびすねずみのみ)の増産関連論文で

あり,後者は 1943年 6月からの農安・新京での「ペスト流行」の疫学的研究関連論文である.この「昭

和 15年農安及新京に発生せるペスト流行について」の論文は,従来から中国及び日本の研究者間で討

論され,この「ペスト流行」は 731部隊による謀略説もあったが,当時散発していたペスト集団発生の

一つであり,其の研究論文とされて今日に及んできた.

ところが 2011年 10月,奈須重雄氏が国立国会図書館関西館で元 731部隊隊員金子順一が戦後東京大

学に提出した博士号申請論文を検索し幾つかの論文を発見した.其の中の一編「PXノ効果略算法」(「陸

軍軍医学校防疫研究報告Ⅰ部第 30号」昭和 18年 1月 21受付)には昭和 15年 6月 4日から昭和 17年 6

月 19日までに 731部隊が実施した農安や常徳等への低空雨下細菌攻撃六件の記録が記載され,その第 1

例が昭和 15年 6月 4日「農安」,第 2例が昭和 15年 6月 4~ 7日「農安大賚」と明記されていた.したがっ

て「陸軍軍医学校防疫研究室報告Ⅰ部」に記載されていた「昭和 15年農安及新京に発生せるペスト流

行について」論文 6篇は,将に 731部隊が最初に実施した細菌戦 =PX撒布作戦の「戦果」の克明な記載

であることが明らかになったのである.

15年戦争中に日本軍が実施した「細菌戦」は,これまで多数が指摘されてきたが,それらの作戦の「戦

果」の判定は「敵陣」のために非常に困難で,未だに「戦果」の評価が定まってはいない.しかし,其

の点では上記の高橋論文「昭和 15年農安及新京に発生せるペスト流行について」論文 6篇は,PX撒布

作戦の結果の克明な記載であり,当時の日本軍の「PX細菌戦」の実態を明らかにしている点ではきわ

めて重要と考えらえる.これらの各論文の特徴的な結論は次のようである.

1,患者の発病情況― 6月中旬農安医院付近で 2,3人のものが不明の急性疾患で死亡し,…….

2,ペスト流行は 8,9,10,11月と順次近隣地域に伝染,有菌鼠による伝染が主であった.

3,遠隔地への伝播は,まず鼠族へ伝染,鼠ペストの大量発生,その後患者発生し,流行.

4,新京では 28例が発病,敗血症死亡が多く,罹病期間は 1~ 7日が多い.

5,罹病の経過日数は平均 6,8週であった.年齢 11~ 20歳の患者の治癒率が高い.

6,ペスト患者からの菌検出は容易でない.回復患者の検査では長期にわたる菌の保有者はいない.

7,ペスト患者血清のペスト菌殺菌作用は特異的で,ペスト患者の診断に利用できる.

8,屍体 124体から 58体でペスト菌を確認,死者のすべては敗血症死であることを確認.

9,農安,新京地域から分離された 110種のペスト菌(患者・屍体 71株,鼠 29株,蚤 9種,虱 1種)

を同定したが,すべて同一種であることを確認

10,10月 5日より「加茂部隊」(731部隊)を汚染地域に投入し,一朝有事の際の軍官民一体の防疫

体制の訓練を実施した.

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