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有機化学Ⅱ 講義資料 第 16回「非局在化電子を持つ化合物」
– 1 – 名城大学理工学部応用化学科
第 16回「非局在化電子を持つ化合物」
これまで、「電子の非局在化」によって分子が安定化するケースをいくつか学んで来た。具体的には、下のようなケースである。
(1) エチルカチオンはメチルカチオンよりも安定(第7回)。
(2) アリルカチオンは1級カルボカチオンとしては例外的に安定(第8回)。
(3) ローンペアに隣接するカルボカチオンは非常に大きな安定化を受ける(第8回)
(1) はσ電子、(2) はπ電子、(3) はローンペアの電子の非局在化である。第8回で学
んだ通り、π電子やローンペアの電子の非局在化による安定化は、σ電子の非局在化による安定化よりもずっと大きい。 今回は、主にπ電子が非局在化する分子について、もう少し深く考察することにする。
最初に、非局在化したπ電子を持つ分子の分子軌道について学び、なぜ非局在化が安定化をもたらすのかを理解する。次に、非局在化電子を持つ分子をケクレ型構造式で記述するために「共鳴」という概念を導入する。最後に、非局在化電子を持つ 1,3-ブタジエ
ンの特徴的な反応について学ぶ。
C‒H 結合性軌道 空のp軌道 電子の非局在化(=エネルギー下がる)
+ +
+ +
空のp軌道 電子の非局在化(=エネルギー下がる)C‒C π結合性軌道
Oのローンペア 空のp軌道 電子の非局在化(=エネルギー下がる)
+ +
有機化学Ⅱ 講義資料 第 16回「非局在化電子を持つ化合物」
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1. エチレンのπ分子軌道(復習)
まず、π電子とは何だったか、復習をしておこう。エチレンの二重結合は、2つの炭素原子の 2pz軌道の重なりによって形成されるのだった(第6回で学んだ)。
元の2つの 2pz 軌道に入っていた2個の価電子は、新しくできた2つの軌道のうち、
エネルギーの低い結合性軌道に入る。 分子軌道ダイアグラムで軌道のエネルギーを示すと、下のようになる(第1回)。「π」
は結合性軌道、「π*」は反結合性軌道を表している。元の 2pz軌道に1個ずつ入ってい
た電子は、2個ともエネルギーの低い結合性軌道に入り、安定化する。
2. アリルカチオンのπ分子軌道
次に、π電子が非局在化している「アリルカチオン」の分子軌道について考えてみる。
説明の便宜のため、炭素原子の位置番号を数字で併記してある。
π電子はどのように分布しているのだろうか。上の構造式から素直に導かれる考え方
は、C2(位置番号2の炭素原子)と C3 の 2pz 軌道が重なり合ってπ分子軌道を作り、それが C1のカルボカチオンの空の 2pz 軌道と相互作用する、というものである。第8回でアリルカチオンについて学んだ時は、そのように説明した。
C 2pz C 2pz 結合性軌道 反結合性軌道
エネルギー
C 2pz C 2pz
π
π*
CC
C
HH
H
H
H�2-������� ������
allyl cation1
2
3
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しかし、アリルカチオンのπ分子軌道をよりよく理解するためには、C1, C2, C3 の
3つの 2pz軌道が相互作用して、新しい分子軌道が3つできる、と考える方がよい。図で示すと、下のようになる。この方がアリルカチオンのπ分子軌道をより正確に表している。
そこで、今後は非局在化したπ電子については、このように「非局在化に関与する p軌道がすべて相互作用して、新しい分子軌道ができる」と考えることにしよう。なお、
N個の軌道が相互作用した時には、N個の新しい分子軌道が生成する。 p 軌道が相互作用するためには、それらの軸が平行になっていることが必要である。
軸が平行になっているとき、横方向の p軌道の重なりが最も大きくなるためである。
+ +
空のp軌道 電子の非局在化(=エネルギー下がる)C‒C π結合性軌道
C(3) 2pz C(2) 2pz C(1) 2pz
+ +
+ +
(最もエネルギー低い) (最もエネルギー高い)
軸が平行
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3. アリルカチオンのπ分子軌道のエネルギー
アリルカチオンの分子軌道のエネルギー図は、下のように書くことができる。エチレンの時と同じように、最もエネルギーの低い分子軌道に2個の電子が入る。(元の 2pz 軌
道が図の左側にまとめて書いてあるが、これも分子軌道ダイアグラムの一つの書き方である。)
分子軌道に入る電子が「2つ」であることは、アリルカチオンの構造式で、非局在化する電子が C2–C3 のπ電子2個だけであることからわかる。C1 はカルボカチオンなので、p軌道に電子は入っていない。
分子軌道のエネルギー図を使うと、アリルカチオンが「非局在化によって安定化する」
ことを定量的に説明できる。アリルカチオンとエチレンの分子軌道のエネルギーを並べて書くと、下のようになる。
量子力学で計算すると、エチレンの2つの分子軌道のエネルギーをα+β、α-βと
エネルギー
C 2pz
CC
C
HH
H
H
H1
2
3
エネルギー 2pz軌道のエネルギー
アリルカチオン エチレン
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したとき、アリルカチオンの3つの分子軌道のエネルギーはおよそα+1.414β、α、α-1.414βであることがわかる(ここで、αは 2pz軌道のエネルギー、βは共鳴しないπ結合の電子1つ分の結合エネルギーを示す)。従って、アリルカチオンの一番下のπ
分子軌道は、エチレンの結合性軌道よりもエネルギーが低い。つまり、アリルカチオンの方が電子の安定化が大きいことがわかる。
4. 1,3-ブタジエンのπ分子軌道
次に、1,3-ブタジエンのπ分子軌道について考えてみよう。
1,3-ブタジエンでは、2つの二重結合が1つの単結合をはさんで並んでいる。このよ
うな二重結合を「共役二重結合」conjugated double bonds と呼ぶ。「共役」(きょうやく)という用語は、π電子の非局在化を示す言葉としてすでに登場した(第8回)。1,3-ブタジエンは、共役二重結合を持つ最も単純な分子である。
1,3-ブタジエンのπ分子軌道についても、C1~C4の 2pz軌道がすべて相互作用して、新しい分子軌道を4つ作ると考える。分子軌道の形とエネルギーは、下の図のようになる。1,3-ブタジエンの4つの分子軌道のエネルギーはおよそα±1.618β、α±0.618βで
あることがわかっている。
このように、共役二重結合を持つ分子では、共役二重結合全体に広がった分子軌道が
存在し、そこに電子が収まっている。このため、共役二重結合の一方の端で反応が起きると、その影響が遠く離れたもう一方の端に及ぶことがある。このような反応例につい
て、あとで取り上げることにする。
CC
CC
H
H
H
HH
H
1,3-�����1
23
4
エネルギー
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5. 非局在化電子をケクレ式で書く:「共鳴」という考え方
有機化学の反応は、基本的にケクレ式を使って記述される。ケクレ式では、すべての
電子は1つの原子上に存在しているか(ローンペア)、2つの原子の間で結合を作っているか、どちらかとして取り扱っている。従って、非局在化電子をケクレ式で表すことはできない。たとえば、アリルカチオンは下のようなケクレ式で表されるが、これはア
リルカチオンの電子状態を正しく示していない。
2. で学んだ通り、アリルカチオンのπ電子は、C1, C2, C3 の3つの原子の間に非局
在化している。ところが、上のケクレ式では、π電子は C2 と C3 の間にのみ存在して
おり、C1上には全くπ電子は存在していないことになる。これは事実に反する。 非局在化電子を持つ分子はどのように表記するのが適切だろうか。一つの方法は、
C1–C2の間と C2–C3の間にπ電子が同等に分布していることを表すため、π結合を破
線で描くことである。しかし、この表記では、存在している電子の数を明確に表すことができない。
有機化学の表記に一貫性を持たせるためには、非局在化電子を持つ分子でも、電子数
を明解に示すことができる表記法が望ましい。このために広く用いられているのが、共鳴混成 resonance hybridという考え方である。共鳴混成の考え方では、非局在化電子を持つ分子を、ケクレ式で表記できるいくつかの共鳴寄与体 resonance contributor で
近似し、分子の真の姿はこれらの共鳴寄与体の中間的なものと考える。たとえば、アリルカチオンの場合は、下の2つの共鳴寄与体を考えればよい。共鳴混成は、両側に頭のある矢印(←→)で表すと決められている。
注1:くだけた言い方をするなら、アリルカチオンの構造は「上の2つの構造を足して2で割ったようなもの」となる。
CC
C
HH
H
H
H1
2
3
�����������CC
C
HH
H
H
H1
2
3δ+δ+
CC
C
HH
H
H
HC
CC
HH
H
H
H
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共鳴寄与体の特徴は、原子配置が全く同じで、電子の位置のみが異なることである。また、共鳴寄与体は、非局在化電子を持つ分子の構造をケクレ構造で(無理やり)書き表すための仮想的なものであり、それ自体が現実に存在するわけではない。つまり、共
鳴混成は共鳴寄与体の混合物ではない。アリルカチオンの2つの共鳴寄与体が別個に存在して混合物になっているわけではないし、2つの共鳴寄与体の間を行ったり来たりしているわけでもない。
もう一つ注意すべき点は、原子配置が異なる構造は共鳴混成ではなく化学平衡である。例として、次の構造の対を見てみよう。左は原子配置が全く同じで、電子の配置のみが異なっている。このような対は共鳴混成体である。一方、右は水素原子の位置が変化し
ているので、化学平衡である。共鳴混成を表す矢印と、化学平衡を表す矢印が異なることにも注意する。
1,3-ブタジエンの共鳴混成による記述はどのようになるだろうか。非局在化した分子
軌道を見ると、C1–C2、C3–C4だけでなく、C2–C3の間にも電子が分布しているので、この間にπ結合を持つ構造が寄与していると考えられる。しかし、単純に C2 と C3 をπ結合で結んでしまうと、C1と C4に p軌道の電子が1つずつ余ってしまう。
そこで、ちょっと強引だが、π電子を C1 側または C4 側に無理矢理偏らせて、下の
ような共鳴混成を考える。
無理矢理作った共鳴寄与体(両端のもの)は、C2–C3 に電子が分布することを表現
するのに必要だが、電子があまりにも偏っているので好ましい構造ではない。従って、1,3-ブタジエンの共鳴混成では、上の真ん中の構造がもっとも寄与が大きい。すなわち、3本の C-C 結合は等価ではなく、あくまでも C1–C2, C3–C4 の二重結合性が強く、
C2–C3の二重結合性は弱いものである。
C CH
O
H
HC C
H
O
H
H�����
C CH
O
H
HC C
H
O
H
H�����
HH
CC
CC
H
H
H
HH
H
CC
CC
H
H
H
HH
HC
CC
CH
H
H
HH
HC
CC
CH
H
H
HH
H
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注2:再びくだけた言い方をすれば、「上の3つの構造を足して3で割ったもの、ただし真ん中の成分が圧倒的に多め」となる。
6. ローンペアの非局在化
ローンペアの非局在化によるカルボカチオンの安定化について、すでに学んだ。
上の図はメトキシメチルカチオン CH3OCH2+ におけるローンペアの非局在化を示し
たものである。この非局在化も、下のように共鳴混成式で書くことができる。
右の共鳴寄与式が異様に見えるかも知れない。O と C の間の二重結合は、O のロー
ンペアが Cの空の p軌道に流れ込んで、「π結合」と同じような電子配置になっていることを表している。 共鳴寄与式の間で電子の位置がどのように変化するか明記するために、下のように巻
き矢印を書くことがある。この記法は、二重結合のみが関わる場合(左)も、ローンペアが関わる場合(右)も、使うことができる。
巻き矢印を用いた共鳴寄与体の記述は、正しい共鳴寄与体の構造を導く際に有用であるため、ぜひマスターしておくこと。
7. 1,3-ブタジエンに対する求電子付加反応
共役二重結合を持つ化合物は、興味深い反応生成物を与える場合がある。例として、1,3-ブタジエンと HBr の反応を考えよう。この反応は、カルボカチオンを経由する求
電子付加反応と考えることができる。”1 eq.” というのは、アルケン1分子に対して1
+ +
空のp軌道Oのローンペア 電子の非局在化(=エネルギー下がる)
O CH3C
H
HO C
H3C
H
H
CCC
H
H
HH
H
CC C
H
H
HH
HO C
H3C
H
HO C
H3C
H
H
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分子の HBrを反応させる、という意味である。さて何ができるだろうか。
最初に二重結合に H+が付加してカルボカチオンができることが予想される。1,3-ブ
タジエンは左右対称だから、H+が付加する可能性があるのは C1と C2の2箇所である。どちらに入るだろうか?
答えは C1である。C1に H+が付加して生成したカルボカチオンは、アリル型である
から、電子の非局在化による安定化を受ける。共鳴混成式は下の通りである。
次の段階は、Br–によるカルボカチオンへの求核攻撃である。Br–はカルボカチオンの正電荷に向かって攻撃するのだが、このカルボカチオンの正電荷は、非局在化のために
2箇所に分散している。そこで、2種類の生成物が得られる。
CC
CC
H
H
H
HH
HH C
CC
CH
H
H
HH
HH
1,4-付加体
1,2-付加体
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1,4-付加体は、出発物質と比べると二重結合の位置が変わっているので、初めて見る
とびっくりするだろう。しかし、このように中間体の共鳴混成を考えることで、生成機
構を簡単に理解することができる。このように、化学反応を議論する場合には、分子軌道による記述よりも、共鳴混成を使ったケクレ式による記述の方が、便利であることが多い。
注3:この反応は、温度によって 1,2-付加体と 1,4-付加体のどちらが優先するかが変化するという面白い特徴がある。ここでは取り扱わないが、詳しくはフルセットの教科書を参照のこと。
7. 今回のキーワード
・(復習)カルボカチオンの安定化(三種類)
・(復習)エチレンのπ軌道 ・アリルカチオンのπ軌道(軌道の図、分子軌道ダイアグラム) ・1,3-ブタジエンのπ軌道(軌道の図、分子軌道ダイアグラム)
・共鳴混成、共鳴寄与体 ・アリルカチオンの共鳴混成による表記 ・共鳴と化学平衡の違い
・1,3-ブタジエンの共鳴混成による表記 ・メトキシメチルカチオンの共鳴混成による表記 ・1,3-ブタジエンと HBrの反応
【教科書の問題(第8章)】 26, 60, 62, 72