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退

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駒澤大學佛教學部論集

第三十六

成十七年十月

退任記念講演

教主釈尊と伝道

私はお釈迦様の研究者ではなくて、先ほど学部長先生から

もご紹介いただきましたように、仏教の伝道を専門とする者

でございます。「教主釈尊と伝道」と題してのお話は、私の

教主釈尊についてお話させていただくということでございま

す。ちょっと学会の講演にはふさわしくないので最初はご遠

慮申し上げたのですが、それでもよいとのことですので、お

許しをいただいてお話をさせていただくことになりました。

もっとはっきり言えば、私の身心の中に、信仰上生きている

お釈迦様についてお話をさせていただくということになりま

す。仏

教の経典や釈尊伝などを学び、それから朝夕の祈りをし、

さらに私はインドの仏蹟巡礼を多くの因縁の方々とさせてい

ただき、今年で十五回目となりますが、そのような活動を通

して、私はそれらを「心の中に生きているお釈迦様の供養と

しての学び」と受け取っております。そのような学びを通し

て私の身心のなかにお釈迦様が生きておられるということで

す。最初、学生時代は小さな仏さまだったけれども、どうに

か等身大のお釈迦様になり、恐れ多いことですが、今は大仏

のような存在でございます。そのような心の中に内在化して

いるお釈迦様についてお話をさせていただくということでご

ざいます。

最初に、ちょっとお聞き苦しいかと思いますけれども、私

と仏教の因縁についてお話させていただきます。

私は栃木県の日光の南麓にあります曹洞宗の寺の息子に生

まれました。小学校に入学するときに、ちょうど今頃(一月

終わり)だったとおもいますが、母が「朝夕のお勤めをしな

さい」ということで『般若心経』とその回向、それから『大

悲心陀羅尼』と回向を、三月のお彼岸ごろまでに本堂で教え

てくれました。と言いますのは、私の寺は小さい寺で、父が

東京に出稼ぎに行っていることから、母が教えてくれたので

す。どうにかお寺にいるときには小学生時代、中学生時代、

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教主釈尊と伝道(皆川)

高校生時代、朝夕のお勤めだけはさせていただきました。し

かし正直言いまして、私の寺には仏教はなかったのです。仏

教的なものはありましたけれども仏教はなく、私も無知だっ

たのです。

それからもう一つ。私は山寺の中で母と妹の三人で小さい

ときから生活していたためか、今考えますと普通の子供とは

少し違った心情というものを持っていたように思うのです。

たとえば遠足は楽しいのですが、それが終ってしまう寂しさ

を同時に感じる心情を持っていました。また来客があると大

変うれしいのですが、帰られるのが大変寂しい。このような

心情を小学校に上がる前から持っていたように思うのです。

そして私は「唯識」を専門として大学で学ばせていただきま

したけれども、こういった心情が阿頼耶識の中に深く熏習さ

れていたように思います。「お寺である」「お葬式をする」

「死者に関係する」、それから親子三人の電気のないランプ

の生活でしたから、そういった山寺の生活を通してそのよう

な心情が、生まれたのだと思うのです。また睡眠中、暗黒の

谷底に落とされるような夢をよく見ました。苦しいので叫ぶ

と母親が「どうした?どうした?」と言って介抱してくれた

ような記憶があります。

しかし中学生のころは野球などをして、わりに元気だった

ように思うのです。そして高校時代に上京して現在の都立大

学の付属高校に入ったのですが、一年の後半になって、心の

病いになったのです。当時、私は東横線沿いの中目黒の近く

に住んでいたのですが、ある朝、下宿を出て学校に向かう途

中、桃色の傘をもった女性が、私の目の前で電車に飛び込み、

その肉片が私の顔にあたるといった、そういう事故に遭遇し

たのです。そのことをきっかけに、私は「東京にいると自分

もあぶない」と思ったのです。このまま東京にいてはだめだ

と思い、高校時代の後半に、郷里の高校に転校しました。

その高校の数学の先生が私に関心を持ってくれまして、今

でいうカウンセリングをしてくれたのです。最初は私も黙っ

ていたのですが、少しずつしゃべりだし、そして死の恐怖で

どうしようもなくなっていることを話したら、「それは仏教

を学ぶことによって解決すべきではないのか」とその先生は

教えてくれたのです。私はお坊さんになろうという意識はな

かったのですが、その先生の勧めにしたがって自分の心の病

いを解決しようと駒澤大学の仏教学部に入りました。幸いに

も衛藤即応先生を寮長とする道憲寮に入れていただき、先生

方や先輩方、同僚たちの中で、心の中の葛藤を何とか乗り越

えることができたのです。つまり真実の仏教に私は会わせて

いただいたのです。

そして私が取り組んだ課題は、教主釈尊が取り組まれてい

た課題であるということを駒澤大学の学習を通して知りまし

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教主釈尊と伝道(皆川)

た。そして仏教の伝道は、教主釈尊の生涯と教えを語って、

その内容を知っていただき、信仰を通して、サンガの中で菩

提行と涅槃行の実践をしていくことであることを学びました。

こうした因縁があったことから、今日まで本学の教壇でお釈

迦様と伝道について語ることができるようになったのです。

まず私の身心の中に生きているお釈迦さまのご生涯につい

て、お話させていただきたいと思います。

お釈迦様はご承知の通り、今から二千五百年前、インドに

おられた方でございます。お釈迦様の国、シャカ国は、ヒマ

ラヤ山脈のほぼ真ん中に八千メートル級の「ダウラギリ」と

いう山がございますが、その南麓に広がるターライ平野がお

釈迦様の故郷なのです。ここのところ毎年仏蹟巡礼で行って

おりますが、本当に美しい田園地帯です。一緒に仏蹟巡礼を

した方々がこの会場にもおられますが、その美しさを共有し

ていただいていると思います。ルンビニーとか、その西にあ

るテウララコート、南のほうにあるピプラフアがお釈迦様の

故郷の中心になったところだと思うのです。大きさは関東地

方の栃木県ぐらいの大きさです。ヒマラヤ山脈の雪解けの水

が南に流れ、それがガンジス河に注ぎ込むような田園地帯に

お釈迦様の故郷がございます。

お釈迦様の氏族や生まれに関しては、いろいろ言われてい

るのですが、私はモンゴロイドでネパール人であったと受け

取っております。そしてお釈迦様の国は米を作ることによっ

て栄えていた国ですから、生活の文化という点ではわが国と

共通した点があると強く感じます。こういうことを檀信徒の

方にお話しすると、お釈迦様を身近に感じていただくことが

できるのです。ただ、現在はこのシャカ国のあった場所に住

んでいる人たちは、ほとんどインド人であって、インド・

アーリア部族であって、イスラム教徒であることはみなさん

ご存知のことと思います。

お釈迦様は生まれて一週間後に母マーヤを亡くし、叔母の

マハーパジャパティという人に養育されるわけです。そして

ナンダという弟が生まれたことも語られております。何年か

前、私はブータンに行きましたけれども、ブータンの国王は、

たとえば一軒の家に娘さんが五人いれば五人ともお嫁さんと

して迎え入れ、五人とも王妃にする風習があるのです。私は

このことを聞いて、思い付きですけれども、もしかしたらお

釈迦様の国もこうした風習があったのかなという気がしたの

です。そしてブータンに行ったときにブータンの文部大臣が

主催するパーティに出席したのですが、その文部大臣が自分

のお姉さんや妹が王室に嫁いでおり、みんな仲良くやってい

るとおっしゃっていましたから、そうしたことからお釈迦様

の家にもそのようなことがあったのではないかと思うのです。

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教主釈尊と伝道(皆川)

青少年のころのお釈迦様は、『南伝大蔵経』の「増支部経

典」や漢訳の「中阿含」などに書かれてあるように、物心両

面において大変恵まれた環境の中で幸せに成長されました。

三季の御殿があったり、外に出るときは傘をかざしてもらっ

たり、カーシー産の衣服を着たり、栴檀香をたいたりして豊

かな生活をしていたわけです。それから強健な体と完成され

た人格というものをもたれていたと思うのです。私の恩師の

水野先生は、お釈迦様は胃腸が悪くて、胃腸が悪い人は思索

型の人が多いということを話されていましたので、私も最初

はそのように思っていたのですが、インドに行って仏蹟を巡

礼したり、仏典をよく読んでいったりしますと、沙門として

の生活に耐えたり、苦行に耐えたり、八十歳まで樹下石上に

座して、そして伝道を行なっていったことを考えますとやは

り強健な体と心をお持ちだったと思うのです。

それからお釈迦様の家では奴隷や寄食者たちにも同じよう

な食事を与えていました。ほかの家では糠のごはんなどを食

べさせるのに、自分たちと同じような食事をさせていたとこ

ろに、高いモラルと暖かさを備えた家であったと感じます。

そのようななかでお釈迦様の暖かい心が育っていったのでは

ないかと思うのです。また農耕祭で動物たちが弱肉強食の生

き方をしていることに大変心を痛めたという話からも、小さ

いときから大変聡明な眼を持っておられたと感じます。その

ようなことから強健な体と完成された人格の上で、仏教的な

課題にのちに取り組むことになったのだと思うのです。そし

てご承知のように十代の後半になって、母親の故郷からお嫁

さんをもらい、ラーフラという息子も授かって幸せな生活を

なされていったと思うのです。

ところがそのような平和な時代で、物質的にも精神的にも

恵まれた中、幸せな生活をしているお釈迦様が大きな人生の

方向転換をするわけです。いわゆる出家求道ということをな

されるのです。お釈迦様は、二十代の後半に、老人や病人や

亡くなられる人々の苦しみを見て、その苦しみから一つの悟

りを得られたと思うのです。それまでのお釈迦様は他人の老

いや病や死に対して、つまり三人称の老病死に対しては、た

だ心を痛めていただけでしたが、しかし二十代後半のお釈迦

様は、それは一人称の自分の死を意味していることであると

悟られたのだと思うのです。これは作家の柳田邦男さんが自

分の息子の死を通して、これまでは三人称の死の評論をして

きたと反省したうえで、自分の死について考えなくてはいけ

ないということをお話しておりましたけれども、お釈迦様は

こうしたことを二十代の後半に体験することになったのだと

思うのです。

つまり他人の苦しみがお釈迦様の心の中で「智」に展開し

ていったのです。この点が仏教という文化を理解していく上

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教主釈尊と伝道(皆川)

で大変重要なところです。我々は苦しみはマイナスなものだ

と理解するのですが、苦しみを通して仏教の「智」、「悟り」

は生まれてくるのです。お釈迦様の心の中で、このマイナス

のものをプラスに転換していき、唯識でいう「転依」してい

く心的な働きがあったということが重要なのです。仏教を学

ぶ我々も心の中で心的転依というものを自覚的に学び取って

いかなくてはならないと思うのです。そしてその智はもっと

深い苦しみを実感させたのです。智と苦しみが円環的に深

まって、にっちもさっちもいかなくなり、涙も出なくなるほ

どのうめく状態にお釈迦様はなっていったのです。つまり

「カルーナー(悲)」という状態になっていったのです。し

かしそういう中でも、カルーナーという状態から苦しみを解

脱しなくてはならないという心の働きもあり、また同時に

「死」という「自分の無化」が見えて、うめくような状態も

あったわけです。そういったことが二十代の後半、お釈迦様

におとずれたのです。

お釈迦様はこのような課題をもって、当時のすぐれた宗教

者、バラモンからいろいろ学ばれていたと思うのですが、お

釈迦様の納得のいくような回答は得られなかったと思うので

す。それでお釈迦様はバラモンに代わって当時、新しい宗教

者、沙門にみずからなって、自分の生死の苦悩を解決して、

安心を得ようとされたのです。

ご承知のように沙門というのは、樹下石上に座して、三つ

の着物と一つの鉢しか持たないで、行乞によって生きていく

という、人間としては最下端の生活をする行者であります。

その行者に国王の道を捨ててお釈迦様はなられたのです。こ

のことを我々は自分の問題として考えていくべきだと思うの

です。この沙門の生活は王宮で生活していたお釈迦様にとっ

て身体的な苦痛を伴うものであったと思うのです。しかしそ

の苦痛よりももっと深い苦しみがあったから、その苦しみを

苦行のエネルギーに転じて、沙門の道に少しずつ慣れていか

れたのだと思うのです。私は必ずしもお釈迦様がすぐれた能

力をもっていたから沙門の道を行じられたとは受け取れない

のです。我々と同じ人間のお釈迦様ですから、沙門の道は大

変厳しいものですけれども、その厳しさよりももっと深い苦

悩がお釈迦様にあって、その苦悩を求道のエネルギーに変え

ながら沙門の道に少しずつ慣れていかれたのだと思うのです。

お釈迦様が出家求道をされるときに持たれたカルーナーと

いう根源的な苦悩と、その苦悩を沙門の道によって解決しよ

うとする道行きというものを、我々も自分の問題として考え

ていかなくてはならないと思うのです。これはお釈迦様だけ

がもっているのではなく、心を持った動物である人間の宿命

だと思うのです。ここにいる皆さんもいつかはお釈迦様と同

じように自分の死を前にして、いつかは死して土くれになる

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教主釈尊と伝道(皆川)

という一大事を持っているわけです。ここに仏教の普遍的な

課題があるように思うのです。

それからお釈迦様は生死の苦しみ、「悲」からの解脱と同

時に、もう一つ課題を持たれたと思うのです。我々人間は、

「死」というものは、他から強要されているように思ってい

ますが、自ら死して土くれになり、自死していくのです。私

も子供のときにそれが見えてしまって耐えられなかったので

す。これは皆さん一人ひとりが持っている課題でもあるので

す。仏教の課題というのは人類の普遍的な課題でもあるとい

うことを知っていただきたいのです。

また、金子大栄先生がおっしゃっているのですが、お釈迦

様が取り組んだのは、「死」の恐怖からの解脱であって、

「死後」の恐怖からの解脱ではない、ということも大変重要

なのです。ちょっと難しい表現ですけれども、死の恐怖から

の解脱がテーマであって、仏教は死後の恐怖もテーマにして

いますが、死後の恐怖はお釈迦様にはなかったと思うのです。

それからお釈迦様は「四苦八苦」の苦しみからの解脱を求

めて宗教者になったと言われますが、四苦八苦の苦しみの大

半は、お釈迦様は王族の恵まれた生活の中では持っておられ

なかったと思うのです。こういうこともきちんと我々は学び

取っておかなくてはならないことだと思うのです。

お釈迦様はご承知のように沙門になるべく、カピラヴァッ

トゥを出てガンジス河を渡り、さらに南のマガダ国の都、

ラージャガハに行って主に坐禅を中心とした修行をなされる

のです。

最初はアーラーラ・カーラーマという禅定者についていき、

「無所有処」という悟りを得たと言われています。しかしそ

こでは問題の解決は得られず、次にウッダカ・ラーマプッタ

という禅定者について「非想非非想処」という悟りを得られ

たと言われています。しかしお釈迦様は「何のために生まれ、

何のために死を作り出しているのか」という、つまり「人生

の目的は何なのか」ということと、生死の苦しみからの解脱

道というものを発見できずにいたわけです。お釈迦様は大変

明晰な眼、明晰な智慧を獲得して、これまで見えなかった我

々の心の奥底にある、唯識でいう阿頼耶識の中にある「無

明」と「煩悩」が苦しみの原因である。そしてそれを捨てな

ければ安心が得られないということをマガダ国のラージャガ

ハにおける二人の禅定者からの学習を通して知ったのではな

いかと思うのです。

その後、お釈迦様は我々の心の奥底にある無明とか煩悩を

捨てる行として「苦行」を実践されることになるのです。

ラージャガハから西の方へ五十キロほど行ったところに、

現在のブッダガヤがあり、その近くの「ウルヴェーラ」とい

う苦行道場でお釈迦様は苦行をなされます。沙門という生活

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教主釈尊と伝道(皆川)

も大変苦しいのに、その上、断食とか止息という壮絶で極端

な苦行を行じていかれるわけです。パキスタンの国立ラホー

ルの博物館にある「釈迦苦行像」のような姿になるまで苦行

を行っていったのです。これ以上苦行を徹底すると死んでし

まうような、ぎりぎりのところまでいったのです。しかしお

釈迦様はこうした苦行でも、煩悩は捨て切れないと悟られた

と思うのです。神話では煩悩が悪魔となって現れ、悪魔を降

伏させたと言われていますが、そうではなく、悪魔(煩悩)

と共存する方向に安心の道がある。こういったことをお釈迦

様は感じられていたということを、私は釈迦苦行像を見てい

て思うのです。この像をご覧になられた方はお分かりになる

と思うのですが、ものすごく静かで澄んだ眼をしています。

悟りの前のお釈迦様を感じさせるような明晰性があるのです

ね。私は苦行によって死に近づいた状態で、お釈迦様はお気

づきになられたのではないかと思うのです。

そのようなときに、経典に出てくるような農夫の歌が聴こ

えてきて、琴を巧みに弾く名人は、弦を強く張って切ってし

まうようなおろかなことはせず、また緩く張って濁ったよう

な音を出すこともしない。ほどほどに張って妙なる音を出す。

そういう歌を聴いて、いわゆる苦楽を離れた「中道」をお釈

迦様は悟られたのだと思うのです。苦行では非常に危ない状

態にまでいっており、ここで死んでしまっていては、仏教は

今日無いわけです。仏教は生まれていなかったのです。駒澤

大学もなく、今日のこのような集まりもないわけで、歴史の

上でも大変重要な出来事がこのとき生じているのです。

お釈迦様は、生きている間には煩悩は滅尽できないという

ことと、煩悩は生きるために必要だということ、両極端を離

れた中道に我々の解脱道があるということにお気づきになっ

たのではないかと思うのです。

お釈迦様は苦行道場を出て、ネーランジャラー川で沐浴し

て、スジャータ村で静養をなされました。現在スジャータ村

があったところは自然に大変恵まれた土地です。そこでお釈

迦様は身体の回復をなされていったのです。そして身体が回

復していく中で、湧き上がるような生命力というものをお釈

迦様は実感されていったと思うのです。と同時に、かつて二

人の禅定者から学んだ明晰な智慧をクローズアップし、その

上で、苦行で得た禅定もクローズアップして智が高まってい

き、「自分は生命なんだ」ということをお釈迦様は悟られた

と思うのです。ですからお釈迦様の悟りは、死の直前だった

苦行から静養へと移る中で、「すべてを作っているのは生命

なんだ」、つまり「自分は生命なる存在なんだ」ということ

を悟られたと思うのです。私はそう解釈したいのです。時間

的に見ると自分の生命しか見えないでここまでお釈迦様は求

道されてきたのですが、自分の生命は個人としての生命だけ

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教主釈尊と伝道(皆川)

でなく、たとえば我々の生命は両親から生命をいただいてお

り、その両親も二組の両親からいただいているのです。ずっ

と遡ると、地球上に生命が誕生してから立て続けに自分まで

生命が生き続けているものです。そして自分の子供から孫へ

と受け継がれて永遠に生き続けていく、そうした生命なので

す。私

は上手に伝える方法を持っていないのですが、この永遠

に生き続けている生命を、過去現在、そして未来へと生き続

けている「三世の生命」だと私は思うのです。そして空間的

には自分だけではなくすべての生物を作っているのです。す

べてという意味で「十方」、つまり「十方の生命」である。

そういった悟りを身体の回復の中でお釈迦様は悟っていかれ

たのではないかと私は解釈するのです。つまり「三世十方な

る生命」の実相を第一段階の悟りとして得られていったので

す。そしてこういった三世十方の生命に圧倒されるような思

いで、お釈迦様はネーランジャラー河の西に沈む太陽を見て、

その下にあった菩提樹で最後の成道の儀式をなされたと解釈

したいのです。

お釈迦様の菩提樹下の成道というものについて、一つには

「自己の真実」。人間のレベルでは解決できなかったけれど

も、お釈迦様が悟ったのは「人間は生物である。生物は生命

の乗り物である」ということです。そして「生命が自分の當

体である」ことを悟って、お釈迦様は出家のときにもたれた

課題を解決された、と私は学び取りたいのです。三世十方の

生命というものを「真実、真如」として学び取ることによっ

て問題の解決を得た、と受け取りたいのです。つまり地球上

に存在する生物のなかで、生物は生命によって作られている

ということを最初に自覚した人がお釈迦様であるということ

になります。

今から四十年ほど前に、遺伝学者のJ・ワトソンとF・エ

リックが、我々の生命の設計図がDNAであることを明らか

にしたときにノーベル生理学・医学賞を受賞したのですが、

まもなく慶応大学の渡辺格先生が、論文に「DNAがDNA

を解読する快挙」という文章を発表したのです。ワトソンと

エリックもDNAによって作られた生物であるわけで、それ

がDNAの構造を明らかにしたことを称えた文章だったので

す。私はそれを読んだとき大変うれしくなりました。私たち

の教主・釈尊は二千五百年も前に電子顕微鏡もない時代に、

自分が生命なる存在であることを全生物のなかで最初にお悟

りになった方です。

そして三世十方の生命を観法するなかで、お釈迦様は出家

求道の時に持たれた課題というものを解決されてゆかれたの

だと思うのです。生命というものは仏教で言う「因縁生・因

縁滅」しながら永遠を目指して流れているものです。そして

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教主釈尊と伝道(皆川)

生命は個としての生物を乗り物とし、生まれれば必ず死ぬの

です。生命の法則では生まれてきた生物は役割を果たせば自

ら死するのです。これは非連続なのです。しかし非連続だけ

だと、ここで終わりですけれども、親から子へと生命を伝承

しているのです。こうした生命の実相のなかで、お釈迦様は

自分のために生きている自分がどうして自ら殺してしまう

(死ぬ)のか、我々の人生の目的は何なのかということの回

答を見出されたと思うのです。つまり自分中心に生命につい

て考えると、自分自身の生命を自分自身で絶つということは

不条理なものです。しかし生命の実相、三世十方の生命とい

うものが見えてきますと、我々は自分のためだけに生命があ

るのではなく、永遠を目指す生命のために生まれ、生命を伝

承し、それが終わると自ら老いて死するということが理解で

きるのです。そういう世界が見えてきますと、我々は自分の

人生ともう一つ、生命を永遠に伝えるという大いなる営みを

全生物が行なっていることを悟れるのです。お釈迦様はこう

して第一の課題を解決されるのです。生命の乗り物は五蘊説

でいう「色」という物質的なものによって作られています。

物質的なものというのは永遠に変わらないということはない

のです。当時のお釈迦様はそういった物理学の世界をご存知

だったと思うのです。

それから、もし死がなかったら我々はどうなるのか。ユネ

スコの統計では我々人間が死ななくなると、七年半で地球上

の陸地は我々人間でいっぱいになるそうです。畑も住むとこ

ろもなくなってしまうわけです。びっくりするようなデータ

ですがコンピューターで計算しているようですからどうやら

本当のようです。つまり地球という限られた空間や、国、家

などに住む場合、生物という乗り物を乗り換え、生命を伝承

しながら生きていくことが最適なのです。そういう生命の実

相をお釈迦様は学び取って、人生の目的というものを明らめ

たと思うのです。それは自分の人生を歩ませている永遠の生

命というものの自覚によるものです。そしてその生命の法則

というものは全生物が破ることのできないものです。科学で

は破ろうとしておりますが、破ることができない真理です。

そして、もう一つの課題は、「生死の苦しみからの解脱」

です。お釈迦様は、三世十方なる自己の真実を知らない「無

明」と、無明から生まれた「煩悩」や「我執」によって苦悩

が生まれるということを、生命の実相の中から発見されたと

思うのです。ですからお釈迦様の死苦からの解脱道というも

のには、「無明」を滅し、「我執」を滅するなかに現成するの

です。そして無明を滅するために「菩提行」を実践するので

す。「四諦説」の「道諦」で説かれている実践です。それか

ら無明のしっぽである我執を捨てる実践として「涅槃行」の

実践をお釈迦様は示されているのです。「四諦説」の「滅

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教主釈尊と伝道(皆川)

一〇

諦」で説く道理がそれであると思うのです。「六波羅蜜」で

いう「持戒」と「(聞法)精進」を通し、「坐禅瞑想(禅

定)」やメンバーの中での対話によって「智慧」を得るよう

な菩提行を実践しなくてはならないのです。これを繰り返す

ことによって凡夫としての菩提行が確立していくのです。

もう一つは、涅槃行の「忍辱」と「布施」です。忍辱は一

人でする行で耐えることです。煩悩は耐えることを嫌います。

そして布施は社会の中で行なう実践で、自分の大切なものを

他人にもらってもらうことにより我執を捨てていくのです。

こういう実践をすることによって、安心が得られることをお

釈迦様は三世十方の生命の実相のなかで発見されていったと

思うのです。実践の仕方としては、苦行中に悟られたように

両極端を離れた中道を実践する。それによって安心を得るこ

とができるのです。結局仏教が問題にしているのは、自己の

生死の苦悩の解脱ということですから、生きている間の問題

なのです。死後の苦しみを仏教は問題にしたりしますが、お

釈迦様が問題にしたのは自分のプライベートな問題、自分の

死の苦しみというものです。つまり「有余涅槃」が仏教の

テーマだと思うのです。その有余涅槃は菩提行と涅槃行の実

践を通して成就することになると思うのです。

そして人間は最後に自ら死ぬことによってすべての煩悩を

滅尽するわけです。お釈迦様だけがクシナガラのサーラの林

のなかで涅槃を確立したのではなくて、お釈迦さまの教えに

基づきますと、我々のような人間でも自らが死して子孫に生

きる場所を譲るわけですから、仏教においては、すべての人

の死は完全なる涅槃であると解釈しなくてはならないのです。

ここが仏教の大変優れているところです。お釈迦様にとって

最初、死は深い苦悩であり、最大のマイナスであったけれど

もそこから出発したのです。しかし成道によって死は我々が

営む最高の営みでもあることを悟られたのです。これが自覚

されると仏教者としての安心が生まれるのです。でも大変難

しいことでもあるのです。理屈では理解できたとしても、自

分が老いて病いになり、死するときに、そのような死の受容

というものを得ることは大変難しいことです。

結局、お釈迦様は、煩悩を持っている我々凡夫は、仏教の

課題を一人では解決できないということを悟られていたと思

うのです。ですからお釈迦様は初期の伝道からサンガを作る

ことに専念されます。サンガの中で、お釈迦様とその教え、

そしてサンガを信じることを通して菩提行と涅槃行を実践し、

安心を得ていくことを理想とされたと思うのです。よって仏

教は生涯、サンガの中に入ってサンガの中で実践していくこ

とが必要であると思うのです。

私が教化研修所の研修生のときに緑蔭禅の集いというサン

ガを作ったのは、そういう自覚によるものです。そして寺を

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教主釈尊と伝道(皆川)

一一

中心とした「寺サンガ」と、家庭を中心とした「家サンガ」

の関係性のなかで初めて、悟りと安心が得られていくものと

考えるのです。

そしてもう一つ。仏教はただの解脱道ではなく、「宗教」

であり、「信仰」があるのです。我々は心を持った動物です

から「信仰」という営みができるのです。お釈迦様は二千五

百年前にクシナガラでお亡くなりになったのですが、我々は

お釈迦様の生涯と教えを学んでいくことにより、心の中にお

釈迦様と教えを再生していき、心の中で一緒に生きていくこ

とができるのです。そうした信仰によってお釈迦様の悟りと

安心を共有していくことができるのです。信仰のなかに我々

は、お釈迦様や道元禅師や、他の祖師方、先祖仏を内在化し

てゆくことができるのです。祈りを通して内在化した仏と対

話していくという文化を我々は持っているわけです。こうし

た点が今の我々において欠けているように思えるのです。

そして我々の心の中に生きているわけですから、たとえば

どのような美しい花でも水がなくなれば枯れてしまうように、

我々の心の中に生きている仏様に食べ物を与えなかったら死

んでしまうわけです。つまりせっかく我々の心に誕生したお

釈迦様も三帰依を唱えたりして供養をしなかったら死んでし

まいます。お釈迦様の教えを学び、教えについて他者と対話

をし、祈りをしなかったら死んでしまうのです。死んでし

まったら教えを共有することはできません。つまり悟りと安

心を授かることはできないのです。こうした供養としての学

びが欠落していると思うのです。供養はとても必要なことで

す。朝夕のお勤めをしたり、経典や仏典を読んだりすること

も、自分の心のなかに生きているお釈迦様に供養することな

のです。そうすることによって心の中のお釈迦様が等身大に

大きくなり活性化していくのだと思うのです。これが「信

仰」、「信心」であります。これらがなくては我々は悟りと安

心は得られないのです。

私は去年の夏休みに敦煌から河西回廊を通り西安まで仏蹟

を巡礼しました。千仏洞というのがありますけれども、あれ

は私たちの心の中にいる仏様を具現化して描かれたものです。

千仏洞は外に描かれていますが、作者の心の中にいるお釈迦

様を中心とした仏様を現した千仏洞なのです。これは「曼荼

羅」も同じです。そうした心の中の仏様を供養することに

よって、仏様と共生し、悟りと安心を共有していただけるの

です。

成道までのお釈迦様は、王族を捨て、妻子を捨てて自分の

為だけに行なってきたわけです。ヨーロッパの学者はお釈迦

様はエゴイストだと言っていますけれども、その通りエゴイ

スティックなところがあったと思うのです。ところがお釈迦

様のすごいところは、悟った後は沙門としての生活を続けな

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教主釈尊と伝道(皆川)

一二

がら、四十五年間クシナガラのサーラの林でお亡くなりにな

るまで、ガンジス河中流域をはだしで歩いて無報酬で説法を

してまわったことです。私は駒澤大学に来て悟りの内容に感

動いたしましたが、それ以上にお釈迦様を教主として信仰し

て生きていこうと思ったのは、こうした沙門としての四十五

年の伝道によるものです。ところが今の我々はこの四十五年

のお釈迦様の伝道についてあまり重要視していないと思うの

です。縁起や空などの哲学的な思想にも興味があるけれども、

しかしお釈迦様の四十五年の伝道ほど途方もないことはない

と思うのです。

お釈迦様の伝道を見ていくとき次のような流れで捉えてい

くことができると思います。まず生死の苦悩、「悲」という

ものがあり、これは隣人の老病死を目の当たりにして起こっ

たものです。そして悲なる苦しみが、菩提樹下の悟り、

「智」を作り出したのです。ただ作り出したのではなく心の

転依を通して作り上げられていったわけです。お釈迦様は

悟った立場から見たら自分の持っている苦しみをすべての人

々が持っていると気づかれたのです。よって自然に思いやり

としての「慈」の伝道が生まれてきたのです。悟る前までは

自分のために尽くしてきたのですが、悟った後は他者への思

いやりとしての伝道を行ってゆかれたのです。私は自分の言

葉で言いますと「悲・智・慈」の展開から伝道が生まれて

いったと思うのです。私はこれを知ったときにすごくうれし

かったのです。しかし友達にしゃべってもみんな感心してく

れないのです(笑)。本学でただひとり感心してくれた先生

は文学部の高橋文二先生。高橋先生は私のレポートを見て、

いい解釈だとほめてくれたのです。とてもうれしかったです。

もう一つ、私はお釈迦様は「涅槃行」として伝道をなされ

ていると思うのです。つまり自分の安心の行として伝道をな

されていると思うのです。お釈迦様は沙門として一銭の報酬

も受けないで、四十五年間、三つの衣と一つの鉢を持って、

家に住まわず、洞穴やマンゴーの林に住みながら八十歳まで

法を説き続けてこられたのです。それはなぜ行なったかと言

いますと、やはり自分の煩悩を捨てていくという涅槃行とし

て伝道を行ったのです。お釈迦様の四十五年の伝道は悲・智

・慈の展開としての利他行としての伝道と、もう一つ、安心

としての行、「自利行」としての伝道であったと思うのです。

そして初期の伝道においては伝道者を養成する伝道でも

あったわけです。イエス・キリストは神から頂いた福音を一

番必要とされる人のところへ行き、三年の伝道で十字架にか

けられたのですが、お釈迦様は初期の伝道でまず自分の教え

を理解し、信仰し、伝道する人々を養成しました。そして見

事にサンガを形成していき、仏教という偉大な宗教を作り上

げていったのです。その点を注目すべきだと思うのです。四

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一三

十五年の伝道を通して対象としていった人々は差別すること

なくすべての人々なのです。アングリマーラのような殺人鬼

からキーサゴータミのような人、チュウーラパンタカなどす

べての人々に悟りと安心を与えていったのです。その点の認

識を私たちもしていかなくてはならないと思うのです。お釈

迦様は四十五年の伝道を通して示された解脱道というものは、

すぐれたエリート達のためだけのものではなく、すべての人

々が悟りと安心が得られるものだったのです。

それからお釈迦様の途方もない伝道や、大悲という途方も

ない思いやりというものを感じるべきだと思うのです。私も

深い苦しみを持った人と長い対話を通して苦しみを乗り越え

たとき、法悦といいましょうか共感みたいなものを少しは体

験しておりますが、お釈迦様も身を削るような旅だったので

すが、人々に悟りと安心を与えていく上で、言葉にならない

ような法悦があったと思うのです。我々は原始経典を探って

みても、お釈迦様はなかなかそういったことを語らない方

だったと思うのですが、私はそのようなこと(法悦)があっ

たと思うのです。

たとえば最後の伝道の旅、パーリ文の『大般涅槃経』に書

かれていますけれども、これを読んでいきますと、お釈迦様

は最後の食事としてチュンダの供養を受けます。いろいろな

説がありますが、きのこの料理をお釈迦様は召されるわけで

す。そして他の者には食べてはいけないと言われるのです。

他の動物も食べることができないように土のなかに埋めさせ

るのですが、その後、血を吐かれて苦しまれたのです。こう

したお話が『大般涅槃経』に出てくるのですが、私はこの話

を大学二年のときに知りまして「どうしてだろう?」と思っ

たのです。またヴェーサリーにおいて悪魔とも死の約束をし

てしまっているわけです。それでもアーナンダの付き添いの

もと、休みながら伝道の旅を続けるわけです。私は大学時代

の夏休み、道憲寮でこれを泣きながら読みました。「もうお

釈迦様、伝道をやめてください!」という気持ちでここの箇

所を読んでいったのです。壮絶な伝道の旅です。途中、ガン

タキ河という湿地帯の河があります。そこを経てパーヴァの

チュンダの供養を受け、それが、最後の食事となります。な

ぜ召されたのか。私は卒業論文で、お釈迦様は「私たちのた

めに召された」と書いたのです。すると水野先生が「いい解

釈だ」と褒めてくれました。

お釈迦様は最後になって、それを食べれば明らかに苦しむ

ということを知りながら、涅槃行として召されたと思うので

す。こういった食事は、もっとも煩悩が嫌うことです。死の

間際で、老いの苦しみと病気の苦しみがあるわけで、肉体も

ぼろぼろになっているのです。普通の人間でしたら煩悩が野

放図となってあふれ出るところですよ。それをお釈迦様は見

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一四

事にコントロールされているのです。その上で、最後に持っ

ている少しの生命力を否定されるかのように、きのこの料理

を召されながら、苦しまれ、医者の力を借りず、正念によっ

て耐えられたのです。それはやはり我々に対する「思いや

り」で、その思いやりを最後にぼろぼろになった体でお示し

になったのです。これは尊い心身を起こしての行であったと

思うのです。ですから私は苦しいときには「チュンダ供養」

として思い出すのです。そうすると少し癒されるのです。お

釈迦様は私よりも、もっと最悪の苦しみの状態のなかで耐え

られたわけですから、私のような苦しみはたいしたことはな

いと思えるのです。このことは学生諸君にもよくお話しする

のですが、ある学生が交通事故で苦しんでいるときにこの

チュンダ供養を思い出して、苦しみを耐えたそうです。元気

になって主治医から「あなたはさすが禅宗の僧侶ですね」と

褒められたそうです。彼は私に「皆川先生のおかげです」と

言いましたが、私は「いや、お釈迦様のおかげだよ」と言い

ました。

このような意味で、こうした壮絶な行をお釈迦様はなされ

ているわけです。その裏には煩悩を最後までコントロールす

る力と、法悦とがあったと思うのです。仏典には記されてい

ないようなダイナミックなお釈迦様の仏教というものを我々

は発見していかなくてはならないと思うのです。

最後は、クシナガラのサーラの林の中でお亡くなりになる

のです。パーヴァからクシナガラへの道は私も仏蹟巡礼で何

度か通りましたけれども、途中カクッター河という深い川が

あるのですが、そこの水でお釈迦様は末期の水をいただくの

です。そしてクシナガラのサーラの林に入ってきてお釈迦様

はそこでお亡くなりになったのです。私は二、三年前、山寺

で坐禅をしていたときに、「お釈迦様がサーラの林でお亡く

なりになるのは変だ」と思ったのです。お釈迦様はたいてい

お休みになるときはマンゴーの林でお休みになられます。し

かしサーラの林はみなさんも仏蹟巡礼をされれば分かります

が林の中は真っ暗です。トラなどが住んでいるようなところ

です。お釈迦様はここでもう動けなくなって、亡くなられた

と思うのです。普通ならばマンゴーの林でお亡くなりになれ

ばよかったのですが、と言いますとご専門の方から怒られて

しまうと思うのですが(

笑)。ここでも最後にスバッタという

行者に対して余命をふりしぼって説法を行なっているのです。

そして最後に「如来供養」というすばらしい説法をされて

います。お釈迦様が亡くなられるときにさまざまな人や生き

物が花や食事やお香を供養されていますが、お釈迦様はその

ような供養よりも、私の教えを一人でも多くの人が学び、実

践して悟りと安心を得ることが一番の供養であると説かれて

いるのです。私が伝道を仕事としなくてはならないと思った

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教主釈尊と伝道(皆川)

一五

のはこの言葉によるものです。ですからお坊様になる方はこ

の言葉を忘れないでいただきたいのです。お釈迦様に対する

一番のご恩返しは、お釈迦様の教えを一人でも多くの人々に

伝え、悟りと安心を得ていただくことであるとおっしゃって

いるのです。お花やお香などを供養されるのは確かにうれし

いことですが、それは本当の供養ではないのです。こうした

大切な説法をされてお釈迦様はお亡くなりになるのです。

お亡くなりになった後はご承知のように、お釈迦様にふさ

わしい葬法で火葬されて、供養されます。そして残った仏舎

利を信者たちは塔を建てて供養したのです。私はこのことに

よって宗教としての仏教が確立されていったと思うのです。

もう仏弟子も信者たちもお釈迦様に会えないわけです。そう

すると信仰をするよりほかはないのです。お釈迦様の生涯や

教えを自分の心にきちんと記仏して、記憶したお釈迦様を踏

まえて、仏様として心の中に誕生していただくのです。最初

は小さな仏様として心にあるお釈迦様を育て上げていき、等

身大、そして大仏としてのお釈迦様を育て上げていくのです。

こうして、祈りや対話を通して釈尊と悟りと安心を共有する

道を、仏弟子たちは作っていったのだと思うのです。それが

「舎利供養」や「塔供養」というものの基本だと思うのです。

だいぶ前に私はNHKの「日曜美術館」でアメリカの女性

画家であるジョージア・オキーフ(一八八七~一九八六)の

絵を見ました。彼女は若いときから花を描いた人です。それ

も一つの花だけです。その花の中でもおしべとめしべを美し

く描くのです。ところが五十代になって花を描くのをやめて、

ニュー・メキシコへ移り、砂漠の中で死んだ動物の骨を描い

てゆきます。大変な変わりようです。そのときに動物の胎盤

を描き出すわけです。そして彼女が亡くなる直前には、その

胎盤の絵が最初の花と同じように綺麗で、生命力に満ち溢れ

ているような美しい胎盤の絵になるのです。そのような絵を

私は見たのですが、私はこの絵が気に入って一年ぐらいは坐

禅をしているときにも、その絵を思い出すのです。「彼女が

見ていたのは〝生命〟なんだ」と。生命として一番生きてい

るのが分かるものの一つは花です。ところがあるときにオ

キーフは捨てられた骨の中にも生命を発見していったわけで

す。骨も生命が作り出したものです。それがニュー・メキシ

コの荒野で骨を描くことになったのです。そしてその骨を見

ているうちにオキーフの心の中に、骨が三世十方の生命に見

えてきて、美しい絵を大成していったと思うのです。

私たち仏教徒はお釈迦様の骨の中にジョージア・オキーフ

と同じように、三世十方の生命を学び取り、舎利信仰や塔信

仰というものを持っていくべきだと思うのです。私自身は舎

利はそういうものとしてオキーフと同じように思いますし、

仏教徒としての信仰はそのようにありたいと思うのです。文

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一六

献にこうした信仰があるかないかは、学者の先生にお願いし

て、私は舎利信仰、塔信仰をそのように受け取りたいのです。

道元禅師が『弁道話』の中で「遍法界みな佛印となり、盡

虚空ことごとく悟りとなる」とおっしゃっておられる世界も

オキーフが見た世界と同じであると思うのです。ここにいる

皆さんや、ここにあるテーブルなど含め、空気中の酸素もす

べて生物が作り出したものです。ここにあるすべてが我々の

当体である「生命」によって作られているのです。道元禅師

は、お釈迦様の菩提樹下の悟り、つまりスジャータ村で静養

をしながら、大自然の中で悟られた三世十方の生命というも

のを、『弁道話』の中で我々にお示しになっていると思うの

です。

よって舎利供養とか塔供養というものを、そういった視点

で現代の人たちに語っていき、お釈迦様の「生命」、つまり

お釈迦様や祖師方を再生していき、そして二千五百年前と同

じように、自分の全生涯においてお釈迦様とともに歩み、共

有し、悟りと安心を現成させていくべきと思うのです。

最後に二つお願いをして結びの言葉といたします。一つは、

お釈迦様の取り組まれた、「死の矛盾」や「人生の目的」を

明らめること、そして生死の苦しみというものはすべての人

にあるということです。よってお釈迦様のメッセージという

ものはすべての人に我々は伝えていかなくてはならないので

す。すべての人々に伝えていくためには、難解で難行なもの

であってはならないわけです。そういうことを我々は考えて、

お釈迦様の生涯や教えを一人でも多くの人に知っていただき、

そしてサンガを形成して一人でも多くの人にメンバーになっ

ていただいて、生涯を通して、仏を内在化する営みを行ない、

菩提行や涅槃行の実践を通してその人の悟りと安心が成就で

きるようにしていかなくてはならないと思うのです。是非、

同志になっていただきたいと思うのです。

二つ目は、仏教は「世間と出世間」というものを説きます。

お釈迦様は出世間の沙門として生涯を送られたと思うのです。

悟った後、お戻りになって我々と同じような在家の生活をし

ながら生きてゆかれたら、もっと多くの人たちに教えを理解

していただけたと思うのですけれども、生涯、沙門として出

世間の生き方をしてゆかれたものですから、仏教とは出世間

の法だと思われているのです。しかし私は、仏教は世間、つ

まり我々凡夫の我執によって作り出される生死の苦悩や、そ

して死の矛盾を解決するといった、凡夫のための教えだと思

うのです。正覚者のためのものではないのです。凡夫のため

のものなのです。やはり仏教者というものは、お釈迦様の時

代もそうなのですが、お釈迦様は説法の中で、世間の中に生

きている人に、出世間の実践をしながら、つまり世間と出世

間の両方を踏まえながら悟りと安心の道を示されたのだと思

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教主釈尊と伝道(皆川)

一七

うのです。そこから我々のこれからの新しい仏教の可能性を

作っていっていただきたいと思うのです。

お釈迦様は出世間の道を歩みましたけれども、出世間の道

を歩まなければ悟りと安心は得られないとはおっしゃってい

ないのです。あくまで仏教の課題は我執により生死の苦悩に

打ちひしがれている人々、つまり、世間の問題です。お釈迦

様は出世間の生き方を通して、生死の苦悩と死の矛盾を解決

するということをなされました。しかし我々は同時に仏教的

な課題だけを解決すればいいというわけではないのです。結

婚したら子供を育てなくてはならないとか世間的な営みもあ

るわけです。お釈迦様の時代にも、出世間的な課題を解決し

ながら世間を生きている人たちがいるのです。大半の仏教徒

はそういう人たちなのです。それを忘れないで新しい自分た

ちの仏教を創造して行きたいと思います。