スペイン領ペルーにおける先住民の集住政策 - hiroshima...

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社会情報学研究, Vo l .2 69-85 1996 スペイン領ペルーにおける先住民の集住政策 一副主トレドの政策を中心に一 宮野啓二命 Toledo'sResettlementPolicyof In diansinColonialPeru KeijiMiyano * ThefifthviceroyofPeru FranciscodeToledo whowascalled thegrea t or- ganizer architectofthecolonial system" carried outaseries ofreformsin ordertoreorganizePeru'scolonialsystemwhichhadfacedacrsis in thelate 16thcentury. In this paper Idealwithoneofhisreforms the resettlement policy of the IndiansinPeru. ToledouprootedmanyIndiansfromtheirscatteredsmallvil- lagesandconcentratedtheminlargerSpanish-styledtownsduringthe1570sfor thesakeofpromotingeffectiveadministration ChristianizingIndiansand cre- atingIndianlabor pools forsilvermines. I try to investigateToledo'spolicy andenforcementoftheresettlementofIndiansandtoconsideritsconsequences uponthetraditionalIndiancommunities(ayllus). KeyWords (キーワード) Resettlemen t ofIndians (先住民の集住), Ayllu (アイユ}共同体), Forastero (よ そ者), Mita (強制労働割当制), Tributary (貢納民) (ー)序 スペイン領アメリカにおいて, 16"-17 世紀に大 規模に実施された先住民の集住政策 (congrega ciM又は reduccion と呼ばれた)は,先住民共 同体をスペインの植民地体制に適合させるための 共同体の帯端政策であった。このスペインの植民 地支配政策の重要な…環となった先住民の集住政 策について,これまでのうテン・アメリカ史の研 究ではあまり注目されず,そのため実証的研究は 極めて乏しい状況にある 1) 本稿は,メキシコに比べて集住政策の研究が遅 れていると思われるペルーの集住政策の解明の第 一歩として,副王トレドによって実施された集住 政策の実態を乏しい史料を頼りに究明しようとす る試みである. ベル…の「楠民地体制の偉大な組織者であり, 設計者である 2) Jと讃えられた第五代副主ブラン シスコ・デ・トレド (FranciscodeToledo) (在 1560--82) は,当時のペル…副王領における植 民地支配体制の危機(反乱の勃発,ポトシ銀山の 衰退と財政難など)を建て直すために一連の改革 を断行した. トレド副王の第一の緊急且つ重要な任務は、当 時笈退しつつあったポトシ銀山の再興=r 近代化J であった 3) トレドによる銀山の「近代化J の第 一歩は,水銀分離法の導入による銀生産の技術革 新であった.この方法の導入により,品質の低い 銀鉱石からの銀の分離が容易になり,主主藤性が飛 躍的に向上した.更に彼は銀生産に不可欠となっ -呉大学社会情報学部 (FacultyofSocialInformationScience KureUniversity)

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Page 1: スペイン領ペルーにおける先住民の集住政策 - Hiroshima Uharp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hbg/file/8341/20140303094556/...Resettlemen t of Indians (先住民の集住),

社会情報学研究, Vol. 2, 69-85, 1996

スペイン領ペルーにおける先住民の集住政策一副主トレドの政策を中心に一

宮野啓二命

Toledo's Resettlement Policy of Indians in Colonial Peru

Keiji Miyano *

The fifth viceroy of Peru, Francisco de Toledo, who was called “the grea t or-

ganizer, architect of the colonial system" , carried out a series of reforms in

order to reorganize Peru's colonial system which had faced a crsis in the late

16th century.

In this paper I deal with one of his reforms, the resettlement policy of the

Indians in Peru. Toledo uprooted many Indians from their scattered small vil-

lages and concentrated them in larger Spanish-styled towns during the 1570s for

the sake of promoting effective administration, Christianizing Indians and cre-

ating Indian labor pools for silver mines. I try to investigate Toledo's policy

and enforcement of the resettlement of Indians and to consider its consequences

upon the traditional Indian communities (ayllus).

Key Words (キーワード)

Resettlemen t of Indians (先住民の集住), Ayllu (アイユ}共同体), Forastero (よ

そ者), Mita (強制労働割当制), Tributary (貢納民)

(ー)序 論

スペイン領アメリカにおいて, 16"-17世紀に大

規模に実施された先住民の集住政策 (congrega刷

ciM又は reduccionと呼ばれた)は,先住民共

同体をスペインの植民地体制に適合させるための

共同体の帯端政策であった。このスペインの植民

地支配政策の重要な…環となった先住民の集住政

策について,これまでのうテン・アメリカ史の研

究ではあまり注目されず,そのため実証的研究は

極めて乏しい状況にある 1)

本稿は,メキシコに比べて集住政策の研究が遅

れていると思われるペルーの集住政策の解明の第

一歩として,副王トレドによって実施された集住

政策の実態を乏しい史料を頼りに究明しようとす

る試みである.

ベル…の「楠民地体制の偉大な組織者であり,

設計者である 2)Jと讃えられた第五代副主ブラン

シスコ・デ・トレド (Franciscode Toledo) (在

位1560--82)は,当時のペル…副王領における植

民地支配体制の危機(反乱の勃発,ポトシ銀山の

衰退と財政難など)を建て直すために一連の改革

を断行した.

トレド副王の第一の緊急且つ重要な任務は、当

時笈退しつつあったポトシ銀山の再興=r近代化J

であった 3) トレドによる銀山の「近代化Jの第

一歩は,水銀分離法の導入による銀生産の技術革

新であった.この方法の導入により,品質の低い

銀鉱石からの銀の分離が容易になり,主主藤性が飛

躍的に向上した.更に彼は銀生産に不可欠となっ

-呉大学社会情報学部 (Facultyof Social Information Science, Kure University)

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70 スペイン領ベル…における先住民の集住政策

た水銀の王室独占(ワンカベリカ水銀山)を決行

し,いわゆるポトシ=ワンカベリカ結合体制を・っ

くり,本国への銀供給体制を確立した 4)

他方においてトレドは,ポトシ銀山への安価で

豊富な労働力を安定的に供給するため,強制労働

割当制 (mita)を組織した.彼はポトシ銀山の

再建のため,インカ時代に実施されていたミ…タ

を活用し,新しい植民地体制下での強制労働割当

制に再編したのである.彼は1573年からポトシ銀

山などに労働力を供給するためにこの制度を発足

させた.この制度により ポトシ周辺の16州から

成年男子の1/7(12,600人)がポトシ銀山へ,ワ

ンカペリ水銀山には, 11州 (3,280人)の人々が

強制的に就労させられたと替われる 5) ミータの

実施により,多数のインヂイオが銀山に送り込ま

れ,低賃金労働力として銀生産のロストを引き下

げ,生産高を増大させた. トレドによれば, rポトシなしには,ペルーは存在しえない 6)Jのであっ

た.

トレドの第二の改革は,貫納制の整備・統…に

よる財政の建て直しであった.そのため彼は,五

年聞にわたる全般的巡察(visi ta general) を行

い,人口特に貢納民(tributario)の数を調査し,

それに基づいて貫納額を査定した.この調査によ

れば7)ペル}削王領の人口は,約108万人で,

その中寅納民(18--50才の成年男子)は25万人で

あった.貫納額は 質納氏一人当り平均 5--6ペ

ソと定められベ共同体(アイユー)が徴収の連

帯責任を負うこととなった.従来賞納を免除され

ていたヤナコ}ナ (yanacona9) )に対しでも低

額の賞納が錬せられるようになった.だが,クラー

カ (curaka10)) の免税特権は継続された.

第三の改革が,先住民村の再繍=強制集住政策

(r吋 uccion)である.この集住政策は,前述の第

一,第二の改革と不可分に結合・関連してとられ

た政策である.集住政策は,散在し,孤立してい

た先住民村(共同体)をスペイン式の村(町)に

強制的に集住させることにより,行政の能率化,

質納徴収や強制労働割当制の容易化,先住民のキ

リスト教化の促進などをねらった政策であっ

た11)

以上のトレドの改革は, rインデイオからの余

剰搾取の基盤としての伝統的アンデスの生産体制

を保持する 12)J原則にもとづいて,スペインの

植民地体制を再編・強化する政策に他ならなかっ

た.すなわち, トレドの政策の目的は,ポトシ銀

山の再興のため水銀分離法の導入と先住民労働力

の安定的供給の体制(ミ…タ)を確立することで

あった.そして先住民労働力の供給源であった村

落を集住政策を通じて動員の容易な集住村に再編

することであった 13)

スターンによれば14) 副王トレドの任務は,

(1)先住民の集住, (2)賀納口強制労働制度の擁立,

(3)強制労働による鉱山経済の再建と繁栄にあった.

そしてその政策の結果,アンヂス社会の「組織的

再編Jが達成されたのである.

本稿は,以上のようなトレドの改革の軍要な一

環としての先住民集住政策をとりあげ,この政策

の意図,実行状況及びその結果を検討し,スペイ

ンの新大陸における集住政策の雁史的意義を究明

するための…試論である 15)

(ニ) トレド前の集住

ベルーにおける集住政策は, トレド以前にすで

に部分的に実行されていた. トレドの集住政策に

はいる前に,その準備段階を概観しておこう.

スペイン国王は, 1503年のニコラス・ヂ・オバ

ンドへの訓令の中で 集住政策の目的をキリスト

教の布教,秩序ある生活,賞納徴収,労働力の確

保にありと記している 1) またスペインのカトリッ

ク教会も,布教のため,早くから先住民の集住の

必要性を提唱していた. しかしペル…においては,

征服者ピサロたちは,旧インデイオ村を改造する

意図をもたず,むしろインディオ社会秩序を温存

して統治しようとした 2)他方,修道会は,ペルー

での孤立分散した村落が布教を妨げていると国王

に訴えていた.

1549年10月,国王はリマのアウヂイエンシアに

対し,初めてペルーのインヂイオを秩序ある村に

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野啓二 71

集住させる勅令を出した.アウデイエンシアは,

この勅令にもとづいてリマの周辺のインヂイオに

新しい集住村に集住し,秩序ある生活をすべしと

の集住命令を出した 3)

1551年の勅令でも インヂイオを分散居住させ

ないで,集住村に集中し,聖なるカトリック信仰

を教えるよう命じている.こうした度重なる勅令

にもかかわらず,当時内乱状態にあったペルーで

は,集住政策は殆んど実行されなかった 4)

1557年8月,副王カニャ…テはリマ盆地で集住

の開始命令を出した.この命令によれば,分散居

住しているインデイオを Chacalea村に集住さ

せること,そこには広場を設け,宅地,共同地を

配分し,インヂイオの自治を認めることが記され

ている 5)

1559年4月,クスコの周辺に住む 2万人のイン

ヂイオを 4ケ村に集住させる命令が出された.そ

してこれらの集住村は,それぞれ 4つの修道会

(フランシスコ,アウグステイヌス,メルセ…,

ドミニコ)の管理下に寵かれたペ

1564年頃, トゥルビージ地方を巡察した報告に

よれば,この地方に修道会やエンコメンヂー口に

より設立された集住村が200以上あったといわれ

るべ以上のように, トレドの集住政策以前に国王の

命によりペル…でもいくつかの集住の試みがな怒

れていたが,本格的な集住政策はトレド副王の就

任を待たねばならなかった.

次にトレドの集住政策に少なからぬ影響を与え

たマルチイエンソ (Juande Martienzo)につい

て述べておかねばならない.彼はトレド副主の顧

問となった法律家で 有名な歴史書“Gobierno

del Peru" (1567)の著者であった.この著作の

中で彼は次のように書いている. rインデイオに

とって明日はない. ・・・彼らは働くのを嫌い,

怠惰,アルコール,泥酔や偶像崇拝を好む.

ぞれ故,怠惰と罪から彼らを救うために,彼らを

支配し,統治し,働かせることが必要である 8).J と.このようなインデイオ観は,当時のスペイン

の支配者,官僚たちの見方を典型的に示したもの

と言えよう.マルティエンソは,こうした立場か

らインヂイオ問題を解決する方策としてインデイ

オの集住政策を提唱したのである.

マルテイエンソは 1540年にリマのアウデイエ

ンシアに対し,インヂィオの集住を勧告し,以下

のようにその実施要領を指示している 9)

山峡や起伏地で孤立して生活しているインヂイ

オは, r秩序正しい生活が出来ず,布教にとって

大きな障害となっている。jそこでまずペルー全

を視察し,各地区で水と耕作に適した土地をも

っ場所を選定せよ.更に各地の人口を調査し,適

当な規模(寅納民500人位)の集住村を設立すべ

しこの集住村には 中心部に四角形の広場を設

け,四つの宅地 (solar)からなるブ口ツクに区

閲せよ.そしてこの広場には,教会・村役場・病

院・牢獄などを建設せよ.また集住村の建設に際

しでは,気候・水・耕地・牧草地・山地の割合を

考慮せよ.また立地の選定には,聖職者と主なカ

シ…ケ(地方の頗役・有力者)を出席させ,各村

の役人はカシ…ケから任命せよ.

以上のような集住に関する具体的なプランの提

案は,後のトレドの集住政策立案の基礎となっ

た10)

(三) 卜レドの集住政策

副王トレドは,後の大規模な集住政策の第一歩

として,前総督ガルシア・デ・カストロによるリ

マ周辺の集住計画を継承し, 1570年に Santiago

(El Cercadoとして知られる)を設立した 1) こ

の集住村は, 35プロックに分割され, 122の宅地

がインデイオに分配された.そしてカピルド・教

会・学校・病院・墓地などの公共の建物が建設さ

れた.また村の自治のため二人のアルカルヂと 4

人の市参事会員が選出された.この集住村の設立

目的は,インヂイオの改宗や教育よりも,十分の

ー税の徴収やスペイン人の農・牧場で働くインデイ

オの労働力の確保にあった.その証拠に,この村

でリマ向けの強制労働割当制が早速実施され,計

987人が動員された.またこの集住村はリマの食

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72 スペイン領ベルーにおける先住民の集住政策

糧貯蔵庫の役割を果たしたといわれる.ともあれ

El Cercadoは, トレドの集住政策のモデルとなっ

た.

さで,トレドは,このお1Cercadoの経験を

ふまえて,ペルー全土の全般的巡回を 6年間にわ

たって実施した.この大規模な巡察の目的は,集

住政策と新税制を行うための碁礎資料の蒐集にあっ

た. トレドは,大司教や聴訴官などを召集し, 14

州 (Provincia)を副王自身が巡察することの同

意を得, 60人以上の同行の役人を任命した.これ

らの役人(巡察官や判事)に各地区の集住命令権

が与えられたベこの巡察の調査項目は,エンコ

メンヂ}口名,貢納のタイプ,貫納民の数,アイ

ユー共同体の数,各地区のクラ}カ名,子供・孤

児の数,不在の成年男子数などであった 3)

以上の巡察による実地調査にもとづいて, トレ

ドは大規模な集住政策を立案した.彼れは f意味

もなく,怠けておまよい捗色悪事と偶像崇拝に

ふけるjインヂイオを, r最も適当な場所jへ集

住させ,スペイン人により管理することの必要性

を唱えた.そしてこの f最も適当な場所jとは,

王室に経済的利益をもたらす地域を意味してい

たベ(具体的にはポトシ銀山やワンカベリカ水

銀山に近い地域を指す)

トレドの集住命令には,次のことが番かれてい

た5)

集住の目的は,分散居住するインデイオを健康

的で秩序ある町に集住させることにより,聖なる

カトリック教に改宗させ, r理性ある人間J(per欄

sonas de razon) にふさわしい秩序正しい生活

をさせることにある.集住に際しては次のことに

留意しなければならない.

(1) 集住地は,土地・水・牧草・山林に恵まれ

た場所を灘定すべし.

(2) 集住は,住民並びにカシーケなどが満足し

て同意した場合に行うべし.

(3) 道路・広場・教会・カピルド・牢獄などの

場所を定めよ.

(4) 住居は道路に聞したところに入口をつくり,

男女別の部屋を設け,各家に寝台を設置せよ.

カシ…ケには広い家を与えよ.

(5) 集住のためには スペイン人やインデイオ

の土地を収用することができる.

(6) 集住したインヂイオの元の土地を奪っては

ならない.

以上のように集住に関して詳細な内容をきめた

上で, トレドの集住政策は, 1571年から1582年に

わたってペルー全土で実施された.この聞にベルー

のインヂイオ約100---150万人が, 600余りの集住

村に強制移住させられたと替われる 6) しかしこ

の移動人口は, トレドの調査による全人口に匹敵

する数なので,過大な見積もりとみられるが,こ

の数の当否は別として,かなり大規模な集伎が行

われたものと思われる.残念ながらこの集住の全

体像は史料や研究舎の不足のため解明できないが,

以下においていくつかの集住の研究を頼りにして,

できる限りその実態に迫ってみることにする.

(1) アルト・ペルー (Charcas)

ポトシ銀山の所在地であるチヤルカスは, トレ

ドの集住政策が徹底して実行された地域である.

第 1表は,この地域の集住状況を示す貴重な史料

である.この表によれば,集住前の人口約11万人

が734の小村(平均数百人)に分散居住していた

が,集住村 (35)に集住させられ,平均数千人の

村(町)に集中していることがわかる.

この集住状況をより具体的に示すコチャンパン

パ地方の場合をみよう. (第 l図及び第 l表を参

照。)

ラ}ソンによれば,地図にホされているように,

集住により 5村7l(Tapacari, Sipesipe,日1Paso,

Tiquipaya, Capinota)が設立された. Tapacari

村へは42の小集落が集められ, Sipesipe村へは

実に胞の部落が強制集住させらきた.村氏はこの

行政効準の良い計閥的な「間王の村J(pueblo re-

al)に集住させられた.副主は,集住村の人々の

生帯権を保証し,新たにアイユ…に土地を分配し

ただけでなく,高地に存在していたアイユ…の冗

の土地の保有権も認めたベまた集住村ではクラ…

カを村役人に任命し スペイン人官僚と教区

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宮 野啓 73

第 l表 Charcas地方(ボリピア)の集住 (1575年)

人口

集佐前の村 集住後の村築住所jの村

平均人口の平均人口人口

(-tt当り)

1. Carangas:

Coquemarca Y

Andamarca 33 2 8.505 4.252 257

Chuquicota y

Sabaya 59 2 11. 986 5.986 203

Totora 50 7.036 7.036 140

Urinoca 5 1. 165 1. 165 233

2. Paria:

Aullagas 19 3 4.851 1. 617 255

Qui11aca 21 4 11. 526 2.881 548

Paria 53 6 17.334 2.889 327

3. Porco:

Puna 28 2 5.968 2.982 213

Chaqui 44 1.960 1.960 44

4. Chayanta:

Chayanta 134 3 12.504 4.168 93

Sacaca 57 5. 161 5. 161 90

Moromoro 12 1. 679 1.679 140

5. Cochabam.

ba:

Tapacari 42 2 6.014 3.007 143

Sipesipe 52 3.691 3.691 71

Santiago

del Paso 48 3.298 3.298 68

Mizque 6 1. 343 1. 343 224

Titipaya 30 2.573 2.573 85

Tarabuco 50 2 2‘876 1. 435 57

N. Sanchez同 Albornos,La poblacion de America latina, Madrid, 1973, p. 68.

司祭の管理下での行政機構を整備した 9)貰納民

には, 4ベソから 7ベソへの貢納額が増徴された

(全納化)上, 5村で毎年409人の強制労働割当が

実行された 10)

(2) 南西クスコ

南西クスコでは, トレドの集住政策により 119

の集住村がつくられた. (この集住村の%は1575

年前に集住。)第 2図は,現在残っている集住村

の立地を示したものである.集住村は,標高3000

メートル以上の山地の谷間や平地にあり,水の利

用可能性が立地選定の第一条件となった. トレド

の指訴した集住村の最大規模は,賞納民500人

(人口, 2 , 500人~3 , 000人)位であったが,実際

にはこれを越える村々が作られた 11)

集住村は,散在していた小村(アイユー共同体)

を強制的に寄せ集めてつくられたもので,各アイ

ユーは独自の社会的・文化的・経済的特徴をもち,

も多種であった.例えば, Santo Toma sは

15, Paruro村は12,Accha は14のアイユーの集

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74 スペイン領ベルーにおける先住民の集住政策

第1図 コチャパンパ地方の集住村

.. P¥.I日bloI~~.ll

仲畑榊 1i';.lI1

Larson, op. cit., p. 4

合体であった 12) 各アイユ}には,生有と質納

のための農・牧地が与えられた.農地は各家族に

割り当てられた 13) 定期割替制)この家族用の

土地の他,村人の共同労働による共有地や共同放

牧地が存在していた.集住村では主要作物ジャガ

イその他,小麦や豆類が栽培された.

集住後,集住村の人口は急速に減少していった.

この地方の人口は, トレドの集住村(1570頃)は

75, 724人であったが十八世紀末には41,000人に

減少した 14)この人口減の主な原悶として,集

住のために生じた疫病の蔓延,強制労働割当制

(各村の成年男子人口の10---15%がポトシなどの

銀山に動員)があげられる 15) 強制労働割当制

や震い貿納負担を逃れて村を去り,都市やスペイ

ン人農場(アシエンダ)で働く人々が増加していっ

た.更に集住村内部の問題一住居から農地への距

離の遣さ,集住村の立地の悪さ,村のアイユー聞

の対忠ーを逃れて村外に住む村人が増加した 1へこうした村外居住=人口分散を防ぐため.1604年

当局は村外居住禁止の法令を出した. (復帰命令)

(3) Huarochiri汲ぴ Lambayeque地方

Huarochiri地方では副王トレドの集住命令に

より.100以上の小村が17の集住村に移住させら

れた 17) 第3閣参照)集住村の平均人口は,約

1500人であった. (1571年)この集住過穂におい

て教会が重要な役割を果たした.またクラーカも

集住に協力し,新しい集住村の支配者となった.

集住では先住民の伝統的土地所有(共同体的土地

所有)が認められ 旧村の土地所有者も保証さき

たが,住民の抵抗が強く,旧村の焼き払いや逃亡

者のつれ戻しなどの強硬策がとられた 18)

しかし,集住後数年にして人口の減少と分散化

が生じたため,集住村への復帰命令が出された.

1580~ 1750年に17の集住村は人口の分散化により

49村に増加 19) したことは,集住村からの離村が

烈しかったことを示している.

Lambayeque地方では, トレドは人口や賞納

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野啓 75

状態を調査し,分散居住していたインデイオを集

住させる命令を出した. 集住に際して、住民に新

村での土地所有権の保証や村役人への私有地の付

与などそ約束20)したが,住民は集住命令に反対

した.そこで役人は Noquiqui村の住民に対し,

12日以内への新村への集住を命令し,命令に従え

ば寅納の1/3の免除,命令に反すれば,質納金額

徴収の上, I日村の住居を焼き払うと威嚇した 21)

,.・

第2図南西クスコの集住村

77・

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J 、j、J

アド

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76 スペイン領ペルーにおける先住民の集住政策

第3図植民地時代の Huarochiri地方

OCf.̂,V

凡例

阻トレド時代の村

口トレド以後の村

¥

、、

PROVINCE

Spalding, op. cit,裏表紙より

こうして, Jequetepeque 7可流域では, 1572年

頃から集住が開始された.住民は不健康で農業用

水にも恵まれぬ集住村に強制移住させられたため,

疫病による死亡が増加した.更に集住は旧村の良

い土地の放棄とスペイン人によるその土地の入手

が進行し,集住村の周辺には多数のアシエンダ

(大土地所有制)が形成された 22)

(4 ) コ口ンビア

(A) ボゴタ周辺地域

この地域では,初めは教会の先住民改宗の必要

から集住が主張され,王室もこれを支持し, 1550

年代に勅令で先住民のスペイン式の村(町)への

集住の具体的内容が定められた.エンコメンヂ一

口も国王の集住政策を支持した.

集住命令が出されたにも拘らず,この地域の住

民(チプチャ族)は,集住に強く反対し,実行が

困難であった.集住の役人は,すべての住民を集

めて,次のような命令を伝達した 23)

命令通りに集住を実行せよ.集住期間は寅納の

一部を免除する.集住後は旧村に復帰してはなら

ない。(瀧反者には50の鞭打刑を課す)エンコメ

ンデーロは,ニヶ月以内に集住を完了させるべし.

次に Cacunba村と Bobota村の集住状況を

みよう 24). 1576年に実施されたこの村への集住

は20日聞かかった.村のカシ…ケたちは,新村の

農地が耕作に漉していないことや水も不足し不健

康な場所にあると訴えた.しかし当局はこの訴え

をとりあげず,家屋を焼き払って集住を強行した

ため,住民の多くが集住村を離れてしま引た.

局は住民の旧村への復帰の願いを拒百したため,

Bobota村のカシーケは一連の人々をつれて村か

ら逃亡した.その後の住民たちは,再度アウヂイ

エンシアに旧村への復帰を請願したが,許されな

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宮野腎二 77

かった.当局の厳しい禁令を犯して,住民の旧村

への復帰が続いたため, 1586年に再度集住命令が

出され, 34日かかって再集住が強行された.

全体としてこの地域の集住は強制的に実行され

たが,住民の抵抗は根強く,新村からの離脱,旧

村復帰が統いた.そのため, 1590--1600年代に再

ニにわたって集住命令が出されたことは,その実

行がいかに困難であったかを物語っている.

1592年,聴訴官がこの地域を巡察した時,ほと

んどの村が「分散居住形態Jであることを発見し

た25) そこで1600"-1601年に大規模な集住運動

が展開された.第 2表はこの時の集住村と集住方

式を示したものである.集住方式は,複数の村々

の単一集住村への統合が多数を占めるが,村内で

の集住や改造だけの場合もみられる.今回の集住

においても,集住への抵抗は強く,逃亡や旧村復

帰,周辺農地への分散居住が続いた 26) r有核村J(集住村)への反感がいかに強かったかがわかる.

ある報告書 (1761年)によれば, rインデイオは,

村に最も近い土地が大変有用である場合でさえも,

その土地を嫌い,自由で統制もなく生きるために,

最も速い土地にでかけているjと嘆いている 27)

このように,ボゴダ周辺に住むチプチャ族は,

支配者スペイン人の一方的都合による集住政策に

一貫して抵抗しつづけた.チブチャ族の伝統的な

分散居住形態は,この地域の地勢や資源、の利用,

外敵に対する防衛の必要から生まれたものであ

り28) これを統治上の必要からスペイン式の集

第2表 ボゴタ周辺の集住(1600年)

村名

Lenguazaque

Guacheta

Usaquen, Tibavita, Teusaca, Tunjaque Suaque

Guasca, Siecha

Guatavita, Chaleche

Tocanipa, Unta, Gachancipa, SOpO, Meusa, Queca

Zipaquira, Suativa, Tenemequira, Cotaque, Cogua, Nemesa, Peza, TibitO, Pacho, and capitania name not given

Nemocon, Tasgata, one capitanfa of Gachacaca

and 2 of Cogua (Nemeza, Peza), and 50 lndians of Gachancipa

Suesca, Sesqu日6

Suta, Tausa, Cucunuba, Bobota

Ubate

Susa

Simijaca, Fuquene, Nemoga

Tunjuelo, Usme, Fosca (outside of the Sabana)

日osa

Suacha

日ojaca,Bobase, Cubiasuca, Serrezuela

The two Tibaguyes, Sisativa, Chise Engativa

集住方式

R

R

OST

OST

OST

OST

OST

OST

OST

OST

OS

R

OST

OST

OS

OS

OST

OST

R=村の散造. OS= 1村内の集住 OST=複数村の集{主

Villamarin, op. cit., p. 54.

集{主村名

Lenguazaque

Cuacheta

Usaquen

Guasca

Guatavita

Tocancipa

Zipaquira

Nemocon

Suesca

Bobota

Ubate

Susa

Simijaca

Tunjuelo

日osa

Suacha

日jaca

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78 スペイン領ベルーにおける先住民の集住政策

住村に強制移住させようとした集住政策に住民が

猛反対したのは当然のことと替えよう.更に集住

地の土地の劣悪さや水不足,スペイン人の家畜に

よる農作物の被害などが加わったため,住民の不

満は益々たかまった.住民が集住に対して分散で

抵抗したのは,以上の理由の他,分散によりスペ

インの支配から「ある税度の独立Jを守ろうとす

る意図もあった 29)

(B) パスト周辺地

この地方は,パスト銚など三つの部族が粗放な

生存農業を行いながら分散した小村(1558年に71

村)に住んでいた.キトーからやって来たスペイ

ン人は, 1539年にパストを設立し,この地方の人

的・物的資源を利用し,先住民を改宗させる目的

で集住による先住民社会の再編をはかった 30)

そしてそのため,度々巡察を行い,先住民の人口,

賞納の種類などを調査した.就中1570--71年に実

施されたパルベルヂの巡察にもとづいて,一連の

改革が実行された.彼は,分散居住していたイン

デイオを集住させ,改宗と行政効率を高めること

が,諸改革の成否を左右すると考えた 31) しか

し,現実に集住政策が実施されたのは, 71村中15

村のみであった 32) これは, 1588年頃からすで

に多数のインデイオがアトリス盆地に集住させら

れていたためである 33) パスト地域では,強制

集住政策は,先住民社会の内部構造の破壊を侃進

した 34)

サンタンデル地方では,集住政策は十六世紀か

ら始まったが,組織的に実行されたのは1602年以

降においてであった.この地方で集住の主要動機

は,人口激減への対策であったが,その他先住民

への効果的な政治的,経済的管理,新しいスペイ

ン文化への同化,府住形態の変吏による先住民の

社会構造の改変もあげられる 35) 集住民の選定

に際しては,土地の肥沃度,水や木材の存在が考

慮された.

集住の若干の示例を示せば,次の如くであ

る36)

(1) Chaaquete他 5村→ Macaregua村.

(2) Taquisa, Chalala村→ Chalala村.

(3) Posaque他4村→ Posaqueの旧村.

(4) Oiba他2村→ SebastianQuintero村.

Chalala村への集住過程をみよう a7) Chalala

の住民50人と Taqui側の住民144人は,布教促

進と労働力の結集及び「スペイン文明Jの中で生

活するため集住させられた.この集住のため 6ヶ

月を喪し,新しい村には教会や広場が建設され,

宅地の割当が行われた.

(四) トレド後の集住政策と評価

トレドの集住政策は 彼の在任期間中約十数年

間続けられた.その後副王となった人達は, トレ

ドの集住政策をどのように評価し,どのような政

策をとったのであろうか.

ベラスコ削王(1596--1604)は, トレドの集住

政策が失敗であったとして,次のように書いてい

る.rトレド副王がアンヂス地方で行った集住村

は破滅状態となっている.なぜなら,多数のイン

ヂイオが死亡してしまい,他の者は,鉱山でのミー

タや割り当てられた労働奉仕やコレヒドールや教

区の司祭から受けた侮辱や慮待を逃れて逃亡した

からである 1).J

問主フェリッベ三世も集住村の人口が減少して

いる事実を認めたが, トレドの政策を踏襲して,

集住村を放棄したインデイオの復村を命ずる勅令

(1602, 1604)を出しつづけた. しかし,集住村

からの人口流出を止めることは不可能であった 2)

こうした事態に直面した副王よそンチスクラーロ

ス(1607---15)は トレドの政策を修正する試み

を実行した.彼はフォラステ…ロの移動を制限・

統制する方法で人口流動を抑えようとし,ある程

度はこれに成功した 3)

ところが次の副主エスキラーチェは集住村を逃

亡した人々に復帰命令を出し, トレドの政策を復

活した.副王プラ…タ(1681~89) は国王にベルー

ではすべての村が破壊され,人口減少にみまわれ

ていると報告している4)またある司祭は,命令

により『吾々は集住村に村民を復帰させようと努

力してきたが,わずかしか成功しなかった 5).J

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野啓 79

と述べている.プラータは,インデイオを集住村

に復帰させることは不可能と判断し, トレドの集

住政策を放難した.

モンクローパ副王(1689--1705)は,プラータ

の改革を変え, トレドの集住政策を踏襲した 6)

このようにドレド以後の副王の集住政策は度々動

揺して一貫性を欠いだ.

他方,スペイン国王は,アンデス地方での集住

の失敗にも拘らず,一貫して集住政策を支持しつ

づけた.国王は繭米全体に集住政策を拡大する方

針をとり,パラグアイやラ・プラタ地方,チリ…

にも集住政策の実施を命令した7)国王は, トレ

ドの集住政策がインヂイオ社会内の危機を解決す

る適切な方法であると信じたし,一部の王集官僚

は,集住政策が有効に機能しているとさえ主張し

ていた.集住政策によるトレドのインデイオ管理

政策は,十七世紀を通じて王室並びにインド枢機

会議により支持されてきたのである 8)

次にトレドの集住政策についての当時の人々の

評価をみよう.

トレドの集住政策について実行過程において多

くの抵抗があったことは既に述べた. トレド自身

がこの政策が多くの死をもたらしたことを認めて

いる位である.国王も 集住政策が Iインヂイオ

に暴力やひどい破壊をもたらすことなく j遂行さ

れるようトレドに要請している 9)

同時代のトレドの政策の評価は二分された.一

方でマルテイエンソは これを f神の手に導かれ

た神の御業J(Obra de Dios y guiada por su

mano)と絶賛した 10) B.ラミーレスも,すべ

てのインデイオが『良き秩序と良き政治J(buen

orden y policia) をもっ集住村に集められたこ

とを高く評価した 11)

しかし,ある地域では集住がその目的を成る程

度達成したことは認められるが,大半の集住村が

インデイオに損害と苦痛を与えたことは確かであ

る.

同時代人のインデイオで f新しい記録と良き統

治J(1613?)の著者ワマン・ポマ・ヂ・アヤラ

は, トレドの集住政策を目撃し,それを厳しく批

判した人である 12) 彼は集住政策が多数のイン

ヂイオの死亡(人口減少)を若、起したことを批判

し,その基本原悶をアンデスの伝統的社会を破壊

して強制的に住民を移動させたことに求めている.

すなわち,インデイオは,先祖伝来の土地から追

い立てられて,新しいスペイン式の集住村に移住

させられたため,昔からの伝統的生活様式が崩れ,

スペイン人との接触が強まり,ブオラステ一口や

ヤナコーナとなるため村からの流出を促進したと

うのである.また集住は疫病の流行を速めて人

口減を促進したのである.元の村の土地は,無主

地となったため,スペイン人により市有されるこ

とになった.このようにポマは,集住政策がアン

ヂスの住民に『甚大な被害jを与えたことを告発

したのである.

トレドの後笹の副主たちも 集住がインデイオ

に苦痛を与え,脱村のため村が荒廃していること

を認め,暗にトレドの集住政策を批判した.リマ

のアウデイエンシアは国王への報告で,インヂイ

オがミータや過重労働を逃れて逃亡したため,全

土が過疎地化し,荒騰していると訴えている 13)

(1i) アイユー共肉体の変容

前漉したように,ベルーで集住がどの程度実行

され,また集住村がどの程度定着したかについて

は正確にはわからない 1) 地域により集住政策は,

住民の抵抗や政策担当者の実行力(強制力)の如

何により異なっていたと思われる.南西クスコ地

方では, トレドの集住村が村務の原型となり,そ

の後の村もこのモデルに従って生まれたといわれ

る2)また一度集住村が設立されても,人口分散

を通じて元の村への復帰や周辺地への拡散が生じ

た場合もあり,集住の結果を考察する際には注意

を要する.

しかし,集住政策がかなりの大規模にペル…全

土で実行され,先住民の居住形態や生活に多大の

影響を与えたことは否定できない.そこで,集住

政策により旧来の村落(居住形態)がいかなる変

容を受けたかを検討することにしよう.

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80 スペイン領ペル…における先住民の集住政策

ここでスペイン征服前のインカ時代のペル…の

村落共同体,アイユー (ayllu) について言及し

ておく必要がある.

インカ時代の先住民社会の基礎細胞とも苦うべ

き社会組織がアイユ…共同体3)であった. トレ

ドが集住政策の対象とした村は,このアイユ}共

同体の基盤とする村落であった.アイユ}とはケ

チユア詣で親族を意味し,ロウによれば,…定の

土地をもっ「理論上は内婚的で父系制の血縁集団Jである 4)またクラインは アイユーを「実際上

及び想像上の血縁関係により共同性をもち,共有

地権をもっ家族の集団Jと定義している 5)

このように,アイユ」は,共通の祖先をもっ

(もっと信じる)血縁集団で.rアンヂス社会の細

胞J6)又は「アンヂス社会の政治的並びに生産的

な基礎単位7lJをなすものであった.そこでは

地は共有制で,その一部は共同体成員に定期割替

により分配された. (実質的平等の原則)アイユー

では,家屋,鹿畑,家商を除いては共有制であり,

成員は共同体の土地の用役権のみを許されてい

た8にこれは正しくマルクスの曾うアジア的共同

体そのものであった.また共同体成員間ではいわ

ゆる瓦酬の原則が実行され,相互扶助と共同労働

を通じて共同体の再生産が可能であった. (アン

デス社会の互酬と再分配 9)

インカ帝国の下でこのアイユ…共同体は,次の

三つの義務を負わされていた.第一は,インカの

土地(及びクラーカの土地を)の共同労働義務ニコ

寅納.第二は,ミータとよばれた労働奉仕(軍事,

公共事業等).第三は,衣料の貢租であった 10)

アイユ…共同体には クラ}カと呼ばれた共同

体の長おな指導者が共同体内では土地の分配や裁判

などの共同体の行政,管理権をもち,対外的には,

ミ…タの徴発,貫納などの請負人口組織者として

の地位を維持していた.クラ}カは,土地の所有

や寅納免除などの一般成員がもたない特権をもっ

村の顔役・指導者であった 11)

このようなアイユ…共同体は,スペインの支配

下でいかなる変化を蒙ったのであろうか.ワイト

マンは,スペインの支配下でアイユーは「劇的な

変化Jをとげたと言う.彼はこの変化を. r種族

的立共同体的J(tribal -communal)社会から

「種族的=賞納制的(tri bal -tri bu tary )社会へ,

f平等主義的秩序」から「階層的秩序Jへの変化

と捉えている 12 )彼によれば,スペインの支配

下でのフォラステ}口 (akin-group of strang-

ers)の出現こそがこの構造変化を端的に示すも

のであった 13) 彼はフォラステ…ロの出現と増

加が伝統的なアンデス社会を再編成するものであ

ると雷うのである.雷うまでもなく,このブオラ

ステー口の出現を惹起したのが,先住民の強制集

住政策であった.ワイトマンによれば,アイユー

は以下のように変化していった 14)

スペインの植民地支配下では,インカ時代の土

地共有制に私有が導入され,ミ…タの改変により

共同体内の瓦酬による労働協力が失われ,現物経

済は貨幣経済又は市場経済へと変化していっ

た15) しかし伝統的なアイユーの自治やクラー

カの特権は認められた.

トレドの集住政策は大きなアイユーを細分化し,

これまで立酬で密接に結合していた共同体を分断

したりして,アイユーの自律性に深刻な打撃を与

えた.このように伝統的なアイユーの形態や機能

は,植民地時代を通じて大きく変化したが,先住

民社会でのアイユー成員の資格の重要性は失われ

なかった 16) アイユ…共同体の構成の変化は,

アイユ…成員の減少とアイユーの本来の成員でな

かったヤナコーナやブオラステーロの出現に現れ

ている 17)ヤナコーナの数は着実に増加し,十

七世紀中頃には 2万6千人のヤナコ…ナが賠たと

推定され,その多くはスペイン人農場で働いてい

た. トレドはこのヤナコーナの数を制限しようと

試みたが,失敗した.こうしたインデイオの集住

村からの逃亡と移住は 彼らの「楠民地体制への

抵抗の一叩・・形態J18) であり, トレド体制が生み出

した不可避的結果であった 19)

次にカストロ・ポソによる中部ベルーの村落の

変化をみよう.

この地域の山地地方では 集住政策はインヂイ

オをスペイン人農場や鉱山に近い場所に集住させ

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野啓 81

るため,元の村の農・牧草地を放棄させ, 2 --3

又はそれ以上のアイユーを新村に移住させた.元

の村の農・牧草地の所有権は認められたが,遠距

離のため事実上放棄地となった.この土地をスペ

イン人は様々の手段で入手することとなった.ま

たインデイオのこれまでの土地利用方法が集住の

際無視されたため 瀧瓶制度がくずれ土地が不毛

地化する場合が生じた 20)

リマ地区の集住村の例をみよう 21) この村は

ニペコのアイユー (Huaiiecと Allauca)が合体し

てつくられた村で,各アイユ}はそれぞれの地区

に分かれて土地をもち,アイユ…の共同の土地と

して利用された.また各アイユーは各々の教会や

集会所をもち経済的社会的に自律する地区となっ

た.牧草地は共同放牧地として利用されたが,耕

地は分割されて各家族の長に割当てられた.この

ようにこの村では出身アイユ…の自律性が維持さ

れたが,他方において,旧村の土地,家屋, f甚j既

設備が失われた.そして旧村の土地はやがてスペ

イン人地主の所有するところとなった.また労働

の制度もこの村では変化し インカ時代のミータ

では,労働に対して必要な給付がなされていたの

に対て,新しいミ…タではスペイン人の地主や鉱

山でわずかの給付(食糧のみ)で強制労働させら

れた.

次に集住政策が意図したかどうかは別にして,

結果としてインディオの土地のスペイン人への移

転と大土地主制(アシエンダ)の形成を促進した

ことは注目される.メキシコにおける集住とアシ

エンダとの関連については前掲論文で既に述べ

た22 )が,同様のことはペル…でも生じた.ブア

ロンは,チャンカイ盆地の集住について, I集住

が“vacantland" (無主地)をつくり出す結果

となったJこと及びこの盆地で十七世紀初からア

シエンダが優勢となっていたと述べている 23)

ヤナコーナの増加は アシょにンダの形成と密、接に

関連していた.また前述した Lambayeque地方

での集住が大量の放棄地を生じさせ,集住村周辺

に多数のアシエンダを形成させた 24 )

(六)結 論

トレドの集住政策は,前述してきたようにベルー

副王領において十六世紀末にかなり大規模に実施

された.この政策の目的は,スペインの植民地支

配体制(ベルーでは銀山業が植民地経済の主柱)

を整備するため,先住民共同体(アイユー)を再

編することにあった.この強制的なアイユー共同

体の再編政策により,旧来の{云統的なアイユーに

変化が生じたことは明白である.

アンドリアンは, トレドの集住政策の結果を次

のように要約している 1) 集住は. I伝統的なア

ンデスの土地所有と賠住形態の垂直制jを打ちこ

わし,インデイオの伝統的な生産と交換のパタ

ンを分断し,クラ…カとアイユ…成員との相瓦の

結合を弱体化した.更に集住は,疫病を菱延させ,

スペイン人による土地取得を促進することとなっ

た.要するに集住政策は, Iアンデス的自由の松

統的形態を制限し インヂイオを搾取する可能性

を拡大するJのに貢献したのであると.

またマラガは集住政策を次のように評価してい

る2)集住は一方において インヂイオを父祖伝

来の土地から根こぎにして 新しいスペイン式の

村落組織に集住させたために,かなり急激な生活

様式の変化を惹起し,他方において,貢納徴収や

インデイオの豊富な労働力の利用,改宗促進など

植民地官僚やスペイン人に,大いなる利益をもた

らす結果となったと.

このように集住政策は インデイオの生活に

円虫烈でしばしば探い傷を残す変化3)Jを与え,

「インディオ共同体の内的構造の崩壊4)Jを促進

したとさえ替われている.

しかしながら,アンデス社会のアイユー共同体

が,集住により完全に破壊されたと判断するのは

早計であろう.前述したょっに,集住の際にはア

イユ}共同体は基本的には温存され,変質を受け

つつも根強く存続したのである.ワシュテルは,

アイユー共同体が重大な変化を蒙りながらもアン

デス「社会の基礎細胞」であり続けたとして次の

ように述べている 5) iしかし, こうしたすべて

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82 スペイン領ベル…における先住民の集住政策

の変化にも拘らず,旧い共同体的組織(その核に

アイユー又はカルプリをもっ)は,存続するか又

はそのメンバーを結合していた血縁関係や相瓦扶

助の結びつきを土台として再建されたのである 6).J

トレドの集住政策は アンヂス社会の「基礎細

胞」マあったアイユー共同体を強制移住を通じて

弛緩させ,スペインの植民地支配体制に繍成する

ことにより変質させたけれども,その共同体とし

ての基本的骨格は破壊されず,存続しつづけたの

である7)

(一)

1 )拙稿「スペイン領アメリカにおける原住民の集住

政策J(1), (広島大学「経済論叢J11…4), pp.56山

58を参照.

2) K.Spalding, Huαrochiri…An Andeαn 80-

ciety under lncααnd 8pαnish Rule, Stan冊

ford, 1984, p. 156.

3 )トレドは銀山業を植民地経済の支柱と認識し,銀

なしにはスペインは植民地を維持できずと考えた.

P.Bakewell, Miners of the Red Mountαm

lndiαn Lαbor in Potosf, 1545 -1650, Albu-

querque, 1984, p. 63.

4) Cf. J. A. Cole, The Potosi Mitα, 1573-170

0: Compulsory lndiαnLαbor in the Andes,

Stanford, 1985, pp.8.......9, B. Larson, Colo-

nialismαnd Agrarian Trαnsformαtion in

Bolivia, Cochαbαmbα, 1550 1900, Prince“

ton, 1988, p.57.

5) M. Morner, The Andean p,αst: Lαnd,

80cieties,αnd Conflict, N.Y, 1985, p.55.

6) Colo, op. cit., p.20.

7) Morner, op.cit., p.59.

8) K.J.Andrien,“Spaniards, Andeans, and the

Early Colonial State in Peru" (K.J.

Andrien & R.Adorno eds., Trαnsαtlαntic

Encounters : Europeαnsαnd Andeαns in the

16th Century, Berkeley, 1991) pp.125叩 126.

ラーソンによれば,質納額は 4ペソから 7ペソに増

徴された.Cf. Larson, op. cit., p. 73.

9 )ヤナコ…ナとはインカ帝国時代から存在していた

隷属農民(又は奉公人)でアイユ}共同体に属さ

ず,インカ貴族,後にはスペイン人にやとわれた

人々で賞納やミータの労役義務を免除されていた.

Cf. A.L.Zulawski, Migrαtionαnd Lαbor in

the 17th Century Alto Peru (Boliviα), Ph.

D. di間. Columbia Univ. 1985, pp.33-34,

A.M. Wightman, lndigenovs Migrationαnd

80ciαl Chαnge The Forαsteros of Cuzco,

1570-1720, Durham, 1990, pp. 82叩 87.

10)クラーカ (Kurakaとも書く)は,インカ時代の

アイユ}共同体の長などの行政上の費住者で土地

や家畜などの所有権をもっ特権的な世襲的貴族で

あり,貫納や労役も免除されていた. トレドをは

じめ植民地支配者は,このクラ}カの地位を尊重

しながら,先住民共同体とスペイン人を結ぶ仲介

者として利用した. なお, 中米でカシ」ケ

(cacique)とよばれた地方貴族はクラーカとほぼ

問じ地位である. Cf. Spalding, op. cit., pp.

33-35; Larson, op. cit., pp.71-72;染田秀藤

編 fラテンアメリカ史ー植民地時代の実像-1.世

界思想、社, pp. 105-106.

l1)Mりrner,op.cit., p.52

12) Spalding, op.cit., p.158.

13) Ibid., p. 214.

14) S.J.Stern, Per・u'slndiαn People αnd the

Challenge ofめαnishConquest, Huαmαngα

to 1640, Madison, 1982, pp.76-77.

15)拙稿「前掲論文J(一)において,ペルーの集住の

実態について,いくつかの史料をあげておいた.

本稿では新しい史料を追加するが,行論の必要上

重複する史料を用いることにしたい.

(ニ)

1) A.Malaga Medina,“Las reducciones en el

Penu, 1532-1600" (Historia y cultura, No.8,

1974) p. 142.

2) Ibid., p. 145.

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宮野啓二 83

3 ) lbid., p. 150.

4) lbid., pp. 150,156; Wightman, op.cit., p.12.

5) Malaga, op. cit., pp.152四 153.

6) lbid., p. 153.

7) Ibid., p.154.

8) Wightman, op. cit., p.12

9) Malaga, op. cit., pp. 155-156.

10) Ibid., p.156.

(五)

1 ) Malaga, op. cit., pp.158-161.

2 ) Ibid., pp. 161-163.

3) N .D.Cook,“Population Data for lndian

Peru: 16th and 17th Centuries" (HAHR, 62-

1, 1982) p. 116.

4) Wightman. op. cit., p.15.

5) Frαncisco de Toledo:・disposicionesgubeト

nαtivαs pαrα el virreinαto del Peru, 1569山

1574, Sevilla, 1986, pp. 33四 35.

6) Cf. Wightman, op. cit., p. 20; D.pp. Werlich,

Peru: A Short History, London, 1978, p.46;

Zulawski, op. cit., p.89.

なおトレドによるベル…の人口→調査の数は,

前述した約 108万人(貫納民25万人)に対し, 150

万人(質納民31万人)説もあり,クックの人口推

定では, 1570年の人口は126万人(質納民32万人)

となっているので正確な数はわからない. Cf. J.

日.Rowe,“lnca Culture at the Time of the

Spanish Conquest" (J.H.Steward ed.,

Hαndbook 01 South Americαn lndiαns,

Vo1.2, The Andeαn Civilizαtion, Wash-

ington, 1946) p.184, N.Sanches-Albornoz,

Lα poblacion de America lαtinα, Madrid,

1973, p.65陶

7) Larson, op. cit., p.79. この村の数は第一表の

6村と異なるが,人口数などでは大差はないので

うーソンの研究に従う.

8) Ibid., p. 68.

9) Ibid., p. 70.

10) Cf. lbid., pp.73, 79-80.賞納の金納化事は,制

-94%となり,インヂィオは従来の自然経済から

急激に貨幣経済にまき込まれた.

11) D.W.Gade & M.Escobar,“Village Set綱

t1ement and the Colonial Legacy in South-

ern Peru," ( Geogrα:phicαl Review, 72同 4,

1982) p.432.

12) Ibid., p.435.

13) lbid., p.438.

14) lbid., p.439.

15) Ibid., p.440.

16) Ibid., p.441.

17) Spalding, op. cit., p.215.

18) lbid., pp.179, 215.

19) lbid., pp.225-226.

20) S.E, Rami rez, Provincial Patriαrchs : Lαnd

Tenure αnd the Economics 01 Power in

Colonial Peru, Albuquerque, 1986, p.74.

21) M.Burga, De la encomiendααlα hacien齢

dα capitαlistα, Lima, 1976, pp.5ト52.

22) Ramirez, op.cit., p.77.

23) J.A.Villamarin & J.E.Villamarin,“Chibcha

Settlement under Spanish Rule, 1537-1810"

(D.R.Robinson ed., Sociαl Fαbric αnd

めαtiαl説ructurein Colonial Lαtin AmeT・側

~cα, Ann Arbor, 1979) p.42.

24) lbid., pp.45-47.

25) Ibid., p. 50.

26) lbid., p.61.

27) lbid., p.65.

28) lbid., p. 80.

29) Ibid., p.81.

30) L.F¥Calero, P,αsto, 1535-1700: The Sociαl

αnd Economic Decline 01 lndiαn Com-

munities in the Southern Colombiαn Andes,

Ph.D.diss., Univ. of Calif, 1974, pp.6-7.

31) Ibid., pp.91-93.

32) lbid., p.93.

33) lbid., p. 124.

34) Ibid., p.124.

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84 スペイン領ペルーにおける先住民の集住政策

35) A.Ines Guzman, Poblamiento y urbαnismo

coloniαl en Sαntαnder, Bogota, 1987, pp. 24叩

25.

36) Ibid., p.28.

37) Ibid., pp.30-33.

(四)

1 ) Malaga, op.cit., p.163.

2) Cf. Ibid., p. 166., Wightman, op. cit., p.24.

3) Wightman, op. cit., pp. 25-26.

4) Ibid., p.31.

5 ) Ibid., p. 31.

6) Ibid., pp. 34-35.

7) Ibid., p.36.

8) Ibid., pp.36, 39-41.

9) Malaga, op. cit., p. 165.

10) Ibid., p.165.

11) Ibid., p.165.

12)染田秀勝.友枝勝泰著 fアンヂスの記録者ワマン・

ポマj平凡社, pp. 202-206を参照.

13) Malaga, op. cit., p. 166.集住の悪しき結果と

して, (1)人口密集による疫病の蔓延人口減少.クッ

クの推定によれば,ベルーの人口は, 126万人

(1590)から59万人(1620)に減少した.(2)農業の

破壊・強制移住のためこれまでの伝統的農業が崩

壊.(3)先住民への政治的・宗教的管理の強化があ

げられる. Cf. P. L. van den Ber官he& G.P.

Primov, Inequαlity in the Peruviαn Andes:

Classαnd Ethnicity in Cuzco, Columbia,

1977, pp.40-41.

(五)

1 )ラテン・アメリカ全体について集住政策による新

しい村が,全体として定着したとカステイ}ジョ

は評価している.彼によれば,集住村は改宗促進,

ヨ}口ッパ農業の導入,自治制,貨幣経済化,土

着とヨ…ロッパ文化の融合などを逮成したと雷う.

メルナーやフォードも大部分の集住村が根をおろ

したとみている.

Cf. Cepedes del Castillo, G., AmericαHis幽

panicα(1492-1898), Barcelona, 1983, p. 215,

T.R.Ford, Man and Land in Peru, N.Y,

1971, p.96., Morner, op. cit., p.60., Zu-

lawski, op. cit., p.92.

2) Gade & Escobar, op. cit., pp.430, 434, 446幽

70.

3 )アイユー共同体については,次の文献を参照.

J.V.Murra, LαorgαnizαcidFl ecortdmicα del

estαdo incαMexico, 1980, W.Espinoza

Soriano, La civilizαcibn incα Economiα,

sociedαd y estαdo en el umbral de lαCOTレ

quistαHispαnα, Madrid, 1995, N. Wachtel,

Sociedαd e ideologiα ensα.yos de historiα

y αntropologiααndinαs, Lima, 1973. N.ワ

シュテル,小池祐二訳『敗者の想像力…インヂイ

オのみた新世界征服-j,岩波書庖, P. Carrasco,

“The Political Economy in the Aztec and

Inca States," (G.A.Collier et al. eds., The

Incααnd Aztec Stαtes 1400-1800, Anthro-

pology & History, N.Y, 1982).

4) Rowe, op. cit., p.255.

5) H.S.Klein, HIαciendαsαnd Ayllus : Rurαl

Society in the Boliviαn Andes in the 18th

αnd 19th Centuries, Stanford, 1993, p.58.

6) Larson, op. cit., p. 21.

7) Spalding, op. cit., p.28.

8) Cf. Klein, op. cit., pp. 60叩1.アイユ}共同体

と比較されるアステカ社会(古代メキシコ)のカ

ルプリ共同体については,拙稿「アステカ社会に

おけるカルプリ共同体J(広島大学経済論叢, 10-

1)及び Carrasco,op. cit.,を参照.

9 )ワシユテル f前掲番jp.96.

10) r前掲審jp.108.

11) r前掲養子j.pp.103, 118.

12) Wightman, op. cit., p. 75.

13) Ibid., p. 74.

14) Ibid., pp.79山 88.

15) Ibid., pp.79-80.

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野啓

16) Ibid., pp. 81山 82.

17) Ibid., p.82.

85

in the ChαncαY VIαlley, Peru, 1533 to 1964,

Pittsburg, 1985, pp.15叩 16.

18) Ibid., P. vi. rアイユーの伝統的形態への最大の

挑戦Jは農村におけるインヂイオの「広汎な移動」

であった. Cf. J .Lockhart & S.B.Schwartz,

Bαrly Lαtin Americα, Cambridge, 1983, p.

173.

24)拙稿「前掲論文J(一)pp. 68由 69.

19) Cf. Ibid., p.24, Larson, op. citけ pp.93-94.

Zulanski, op. cit., p. 90.

20) H.Castro Pozo,“ Social and 日conomlc

Evolution of Communities of Central

Peru," (HIαndbook 01 South Americαn

Indiαns, vo1.2) pp.489-90.

21) Ibid., pp.489-90.

22)拙稿「前掲論文J(二)pp. 51-54.

23) L.C.Faron, From Conquest to Agrαnαn

Relorm: Ethnicity, Ecology,αnd Economy

(六)

1) Andrien, op. cit., p.128.

2) Malaga, op. cit., pp. 163-164.

3) Morner, op. cit., p.60.

4) Calero, op. cit., p. 124.

5) Wachtel, op. cit., p.129. ワシュテル f前掲審J.

p.184.

6) L. Bethell ed., The Cαmbridge, History 01

Lαtin Americα, Vol. 1. p.232.

7 )例えば,十八世紀後半のラ・パス地方(ボリビア)

のインヂイオ農民の大半は.491村(アイユー)に

住んでいた.Cf. Klein, op. cit., p.7.