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Page 1: ルイ一四世とパリの凱旋門 - 駒澤大学repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/35451/rsg084...5 佐々木真 ルイ一四世とパリの凱旋門 乗る君主を中心にさまざまなものにより行列が表象されたのだった。まっていった。ここでは、古代研究家たちの尽力により、君主の権力や徳を示すアレゴリーが大々的に拡充され、戦車になかで、古代ローマの凱旋式を高く評価し、それを国王の入市式

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ルイ一四世とパリの凱旋門

佐々木   

はじめに

 

パリの凱旋門といえばナポレオンの命により建設されたエトワール広場のそれが有名であるが、その他にも現在のパリ

市内には三個の凱旋門が存在しており、そのうちの二つはルイ一四世期に建設されたものであった。

 

ローマ時代にその起源を持つ凱旋門は、戦勝をもたらした司令官や君主の勝利をたたえ、彼らが凱旋式を行う際に通過

するものとして誕生した。その後、中世にはこの習慣は絶えるが、ルネサンスとともにまず、君主による入市式の儀礼の

なかで、臨時的建造物として凱旋門が復活した。フランスでも一六世紀の入市式に際してこのような門が多く建設され、

一六六〇年のルイ一四世によるパリ入市式でも、臨時的な凱旋門が準備されたのだった。

 

しかし、注目すべきは、ルイ一四世の治世下に、恒久的な建造物としての凱旋門の建設が推進されたことである。ロー

マのものを範とした凱旋門の建設は、コルベールとルイ一四世によるプロパガンダ政策と密接に関連していた。そこでは、

フランドル戦争やオランダ戦争での勝利を記念し、ローマ皇帝に匹敵する君主や「戦争王」としてのルイ一四世が表現さ

れており、「王の栄光」の伝播に大きな役割を果たした。このような凱旋門は、近代以降の凱旋門のモデルとなったので

ある。また、パリ市内に王権主導で記念建造物が建設されたことは、王権と都市パリとの関係、ひいては王政の性質がこ

の時期を境に変化したことも示唆している。

Page 2: ルイ一四世とパリの凱旋門 - 駒澤大学repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/35451/rsg084...5 佐々木真 ルイ一四世とパリの凱旋門 乗る君主を中心にさまざまなものにより行列が表象されたのだった。まっていった。ここでは、古代研究家たちの尽力により、君主の権力や徳を示すアレゴリーが大々的に拡充され、戦車になかで、古代ローマの凱旋式を高く評価し、それを国王の入市式

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そこで、本論文ではまず、ルネサンス的な一六六〇年の凱旋門の内容を検討した後に、一六七〇年代に整備された恒久的

凱旋門の表象を検討し、王権が表現しようとしたものやその意味について考えてみたい。

 

フランス絶対王政期の凱旋門についての研究は少なく、包括的なものとしてはサンガーらの論文がある程度である。そ

のほかには、パリ市の都市計画や建築に関する研究のなかで凱旋門について触れられている場合が多いが、王権の政策と

関連して検討した研究は少ない。また、現存しないものも含め、建築様式や図像、銘文については、同時代の解説が比較

的多く存在している。本論文ではこれらを参考としつつ、まずその全体像を提示することから始める。

一.一六六〇年の凱旋門

近世都市と凱旋門

 

近世都市における凱旋門の建設は、中世来の伝統を持つ国王入市式と密接に関連していた。中世の入市式は比較的簡素

で、都市の役職者たちが君主を市門で迎え、都市内を案内する程度であったが、一四世紀以降その儀礼的要素が強くなっ

ていった。この変化の嚆矢が一三五〇年のジャン二世のパリ入市式で、市門での都市による忠誠の意思表示と国王による

都市の権利と自由の庇護宣言、それを象徴する都市の鍵の受け渡し、都市内での行列、主要な聖堂でのテ・デウムといっ

た、近世の入市式の形式がほぼ確定した。

 

こうしたなか、儀式としての重要性を示すものとして、都市内での行列が次第にその比重を増していき、それを通じて

王権の正統性が強調されることとなった。当初の行列は、都市儀礼としての聖体行列などの影響を受け、キリスト教に依

拠した王権の表象がなされた。つまり、本来は聖体の上に置く天蓋を国王の頭上に被せることや、聖史劇の上演などによ

り、国王の聖性と正統性を演出し、新しきイェルサレムに入城するキリストとしての国王を表象したのであった。

 

しかし、ルネサンスの伝播とともに、この伝統に変容が加えられていった。そこでは国王の権力を神に由来するものと

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して表象することにとどまらず、その権力をより具体的なかたちで示す努力が開始された。そして、ルネサンスの展開の

なかで、古代ローマの凱旋式を高く評価し、それを国王の入市式に取り入れる動きが、まず一四世紀末にイタリアから広

まっていった。ここでは、古代研究家たちの尽力により、君主の権力や徳を示すアレゴリーが大々的に拡充され、戦車に

乗る君主を中心にさまざまなものにより行列が表象されたのだった。

 

この凱旋の形態を取った入市式の舞台装置で重要なものが、凱旋門であった。凱旋門の装飾はさまざまであったが、ロー

マ神話の登場人物やローマ皇帝を描いた、寓意に富んだ彫像や絵画、メダイヨン、浅浮彫りなどで飾られることが一般的

で、ラテン語による碑文も刻まれた。このように入市式を凱旋式として捉える思想は一六世紀にはフランスにも伝播した。

たとえば、イタリア戦争での勝利を祝して一五〇七年にルイ一二世がミラノで行った凱旋式風の入市式がそれであり、

一五一五年のマリニャーノの戦いで勝利したフランソワ一世がリヨンに凱旋した際には、凱旋門が建設されたのだった。

その後、アンリ二世からアンリ四世の治世にかけて、フランスでは多くの入市式が行われ、その際には常に凱旋門が準備

されたのだった。だが、これらの凱旋門は一般に一時的な建造物で、式の終了とともに撤去されるのが通例であった。

一六六〇年の凱旋門

 

アンリ四世の治世以降、フランスでは入市式の頻度が減少し、戦勝の祝典など、その機会が限定されていった。ルイ

一四世の治世下では、大規模な入市式はほとんど挙行されなくなったが、その例外が一六六〇年の国王の結婚に際して行

われた入市式で、そこではルネサンス的な要素に満ちた凱旋門が建設されたのだった。

 

一六五九年のピレネー条約により、ルイ一四世とスペイン王女マリ・テレーズの結婚が定められ、彼らは翌年の六月九

日にバスク地方のサン︲ジャン︲ド︲リュズで結婚式を行った。その後、国王夫妻はパリ近郊のヴァンセンヌ城に建築され

た新居へと向かう途上、王国内の多くの都市を訪問し、そのうちのいくつかでは入市式が執り行われた。七月二〇日にヴァ

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ンセンヌに到着した後、八月二六日午前七時にヴァンセンヌを出発し、パリでの入市式に参加した。西方からパリに接近

した一行は、市壁の手前の広場で諸社団の出迎えを受けたのち、サン︲タントワーヌ門より市内へと入り、市庁舎やノー

トル︲ダム橋、マルシェ︲ヌフを経由して、ドーフィーヌ(王太子)広場を経てルーヴル宮へと向かった。その途中には、

国王夫妻を賞賛するさまざまな舞台装置が設けられた。市内の入り口のサン︲タントワーヌ門は巨大なタピスリーで覆わ

れ、その上にはルイ一四世にひざまずくパリの都市役人たちの姿が描かれた絵画が据え付けられた。セーヌ右岸のサン︲

ジェルヴェの泉のそばにはパルナッソス山をイメージした凱旋門が建てられ、国王による技芸の保護が描写された。ノー

トル︲ダム橋には歴代国王のメダイヨンが掲げられ、その先のマルシェ︲ヌフにも凱旋門が設置された。

 

この入市式で最もよく王権の意図を表しているのが、ドーフィーヌ広場に設置された凱旋門である(図1)。この広場

は「国王広場(現ヴォージュ広場)」と

ともに、アンリ四世治世下の一六〇八年

に建設が開始されたもので、ちょうどこ

の年に完成したポン・ヌフに接続するよ

うに、シテ島の最西部に三角形のかたち

で整備された。アンリ四世の死去後、ポ

ン・ヌフには彼の騎馬像が整備されたた

め、広場の内側から見ると、この入市式

の凱旋門を通じてアンリ四世像を望む構

成となっていた。

 

凱旋門は後に王の主席画家となり、ル

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図1 ドーフィーヌ広場の凱旋門 (1660年)

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イ一四世期の芸術政策を推進するル・ブランCharles Le

Brun

(1619-1690

)によってデザインされた。ドーフィーヌ広

場の三角形の頂点をなす西側の出口に両側の建物に挟まれるかたちで設置されたこの凱旋門は、大理石で作られ、一部を

除いて彫刻は施されず、彩色するかたちで絵画が描かれた。同年にこの門についての「解説」を出版したフェリビアン

André Felibien

(1619-1695

)は、古代の人びとは君主や征服者の栄誉をたたえ、その徳や栄光を永続化するために凱旋門

を建築したと述べた後に、パリ市がこの古代の人びとの例にならうのは、国王夫妻への敬意と入市式の喜びの証拠を示し、

平和がもたらされ、この結婚により敵対していたフランスとスペインの結合がなされたことを示すためであるとしている。

 

この凱旋門は民を示す下部の門と王を示す上部のオベリスクから構成され、民の土台の上に王が存在することが示され

ていた。イオニア式オーダーで構成される門には、四対のブロンズ製の胸像柱が付けられ、それらにより四元素が表現さ

れるとともに、平和がもたらされた臣民も示している。それぞれの胸像柱の組のあいだには銘板が置かれ、その下には浅

浮彫りが描かれている。左側の「火」と「水」の柱のあいだには、百合の花とスペイン紋章をあしらった二門の大砲の上

に、「二国の運命は共通Com

munia fata duorum

」との銘が刻まれ、その下の浅浮彫りには迷路に網を被せようとしてい

るキューピットが描かれている。そこには、「彼のみがそこから逃れる方法を見つけるSolus invenit viam

」と刻まれ、彼

(王)のみが、結婚と平和により、分断と混乱の迷路から人びとを救い出し、相対するものを調和させることができるこ

とを示している。右側の「空気」と「土」の柱の銘板には、網により結びつけられたふたつのハートと王冠が描かれ、「か

つてこれより高貴な信頼が結ばれたことは、どこにもなかったN

on usquam junxit nobiliora fides

」との銘文がある。そ

の下の浅浮彫りには、混乱状態を終了させ、さまざまなものをあるべき場所に戻すキューピットが描かれ、「引きはなさ

れた物事を調和と平和により結びつけるD

issociata locis concordi pace ligavit

」と書かれている。これらの表象は、ピレネー

条約と婚姻により、敵対していたフランスとスペインの両国が和解し、平和がもたらされたことを示しているのである。

 

門の上のアティック(屋上階)の部分には左右にそれぞれ女性像が描かれているが、片手にハートをもう片手でペリカ

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ンを抱きかかえ、狼を踏みつぶす左側の女性は「敬虔Piété

」を示している。これは母后アンヌ・ドートリッシュを暗示

しており、ペリカンは王太子(ルイ一四世)への彼女の愛情を示している。オリーブの小枝を持ち、凶暴さを示す虎を打

ち負かす右側の女性は「優しさD

ouceur

」を示し、マリ・テレーズを暗示し、結婚による平和と繁栄の到来が示されてい

る。

 

これらのふたつの像のあいだにはタピスリーが描かれているが、そこには結婚の女神であるヒュメナイオンに導かれ、

鶏(フランス)とライオン(スペイン)によって牽かれる戦車に乗る国王夫妻が描かれている。この戦車の片側には、「混

乱」と「戦争」を打倒する「調和Concorde

」が、もう片側にはオリーブの枝と豊穣の角を持つ「平和」が配置されている。

絵のなかでルイ一四世は地球に手を置いているが、これは世界に平和がもたらされてことを示している。

 

このタピスリーの上には、百合の花の紋章が付された青色の地球を掲げ持つアトラスが描かれた。彼は地球を左右ふた

りの女神に捧げているが、彼女らはフランスとスペインの「権化Génie

」であった。アトラスは赤いマントと綬を羽織り、

束棹を持っていたが、これは宰相マザランを示すものであった。束棹は団結と融和のシンボルであり、これはマザランが

フランスとスペインとの和平を樹立させたことを示している。束棹の中の斧は、才気と行為の正当性を、マントはマザラ

ンが教会の中で得ている地位の高さ(枢機卿)を示している。これらの表象により、世界と各君主の利害についての完璧

な知識を有するマザランはヨーロッパで最も重要な役割を果たすとともに、それが位置する場所より、王と民との仲介者

の役割を果たしており、王は彼の肉体を通じ、民の声を聞くのであった。また、地球を両国の権化に捧げることは、和平

と婚姻により、マザランが両国を世界の支配者にしたことを示していた。

 

これらの権化の後には旗が描かれているが、「フランス」の後方のものにはフランス軍が占領した都市の紋章が、「スペ

イン」の後のものには条約によりフランスへと割譲された都市の紋章が描かれている。両国の権化はもう片方の手で「フ

ランス」の王冠を支えているが、その王冠の上にはファーマが配され、世界で最も偉大な二カ国の同盟を全世界に知らし

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めている。

 

国王の権威を示すオベリスクにはふたつの浅浮彫りが配されている。上の部分では「フランス」が母后アンヌにひざま

ずき、アンヌの手より幼子を受け取る場面が描かれ、これは神がフランスにもたらしたルイ一四世の誕生を示している。

その下の浅浮彫りは、王妃の肖像画が描かれた盾を持ち、新たなパラスとして描かれた「フランス」が、戦争の女神を恐

怖に陥れており、婚姻により平和が強固になったことが示されている。

 

オベリスクの最上部には月桂樹の王冠をかぶった「不滅の栄光Gloire im

mortelle

」が配されている。片手に星と国王夫

妻のモノグラムが刻まれた円盤を持ち、もう片手で豊穣の角とトランペットを持っているこの像は、地球の上に座ってい

るが、これは「栄光」がすべてに優越し、トランペットに付けられたのぼりに「永遠Æ

ternitas

」と書かれているように、

この平和が永遠に持続するに違いないことを示しているのである。

 

フェリビアン自身が、オベリスクに戦勝や都市の占領といった国王の偉大な行為を示そうとすればいくらでも可能であ

るが、平和の名がこれらの栄光に満ちているが悲惨な出来事のイメージを消し去ると述べているように、この凱旋門の中

心的なテーマは平和であり、それによってもたらされるフランスの国際社会における栄光や経済的繁栄であった。これは、

建設主体がパリ市であったことも関係していよう。

 

もうひとつ指摘すべきことは、この凱旋門が過剰な装飾に満ちていることである。その意味では、この門はルネサンス

期より続く、一時的な凱旋門の特徴を引きつぎ、さらにバロック的な絢爛さを加えたものであるといえよう。

二.パリ:新しきローマ

新しきローマ

 

ヴァザーリがフランソワ一世により改築がなされたフォンテーヌブロー宮を「新しきローマ」と評したように、ローマ

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は政治や芸術の規範における中心地であり、フランスでも一六世紀以降にしばしばこの言葉が使用されてきた。この時期

に頻繁に実施された国王入市式は、まさにこの新しいローマの再現であった。

 

一般的理解では、一五一九年の神聖ローマ皇帝選挙での敗退や一五五九年のカトー︲カンブレジ条約によるイタリアで

の権益の放棄などにより、一六世紀後半以降よりフランスは、帝国という普遍国家の建設を放棄し、国民国家化へ向かう

とされている。だが皇帝という普遍君主を目指す「帝国の夢」が完全に放棄されたわけではなかった。

 

たとえば、ルイ一三世期に執筆された作者不詳の手稿『フランス帝国の政治理論Les idées politiquesde lʼEm

pire français

』では、フランスを三つの同心円により構成される帝国として理解している。その中心がパリLutèce

で、次がガ

リアperipheria Galliarum、最後がガリア帝国Circulus Im

perii Galliarum

で、その範囲はレヴァントからジブラルタル、

大西洋、モスクワへと及ぶ広大なものであった。この帝国の中心がパリで、帝国都市ville im

périal

たるパリを円周

一万二千トワーズ(約二四キロメートル)からなるヨーロッパで最も大きく、最も美しく完璧な都市として整備すべきで

あると述べている。この議論は多分にユートピア的ではあるが、同時代人がもつコスモロジーのひとつを表現しているの

でもある。

 

パリにとっての一七世紀は、人口が約三十万人から五十万人へと急拡大した時期で、人口の拡大に都市の整備が追いつ

かなかった。アンリ四世治世下での国王広場や王太子広場の建設や、ルイ一三世のもとでの市壁の拡大など、いくつかの

整備事業が実施されたが、一七世紀半ばにはまだ、パリは基本的には中世都市の様相を呈していた。しかし、一六六一年

にルイ一四世が親政を開始した後、彼と新たに建築長官に就任したコルベールは、この状況の改善を望み、フランス王国

を代表する現代的な首都にパリを変えるために、王権の主導で制度的・空間的な改革を実施していった。すなわち、街路

の舗装と補修のための新税(一六六二年)、パリ警視総監職の設置、街路灯設置のための課税、建物の高さ制限(いずれ

も一六六七年)などである。また、一六六九年より街路の拡幅・直線化、セーヌ河岸の道の新設や拡幅、水道システムの

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改善と泉水の設置なども実施された。さらに、フロンド以降に進んでいたルーヴル宮殿の改築も進められた。

 

この都市計画で重要な役割を果たしたのが、一六七一年に「パリ事業総監Contôleur général des T

ravauxde Paris

に就任したブロンデルN

icolas-François deBlondel

(1618-1686

)であった。一六一八年にリブモンで生まれたブロンデ

ルは、軍務に就いた後に、一六五二年に外務卿ブリエンヌの子息とともに三年間近くヨーロッパをめぐり、その後に外交

官としてベルリン、コンスタンティノープル、ギリシア、エジプトなどに赴任し、一六五九年にパリに帰還した。その経

歴のなかで、ブロンデルは数学や幾何学についての研究を続け、それにより、工兵兼建築家として要塞の建築などの建設

の仕事に関わっていった。一六六九年には科学アカデミーの会員となり、一六七一年に新たに建築アカデミーが設立され

ると、ブロンデルはその会長兼教授に就任した。

 

一六七三年には新たな都市計画を盛り込んだパリの地図の作成がブロンデルに命じられ、一六七六年に出版された。こ

こでは、セーヌ両岸の大通りのシステムや新設や改装がなされる道が描かれるとともに、欄外の小地図では、水道システ

ムや新たに建設される市門が描かれていた。この時点では、王権は明らかに、パリを「新しきローマ」とする意思を持っ

ていたのだった。

市壁の撤去と凱旋門の計画

 

後に政治の中心がヴェルサイユへと移ったこともあり、この地図の計画がすべて実現したわけではなかったが、いくつ

かの重要な再開発がなされた。そのひとつが、市壁の撤去と街路の整備である。

 

ルイ一四世は、一六七〇年六月七日に、セーヌ右岸の城壁の最北部に位置するサン︲ドニ門から、東のバスティーユ城

砦までの市壁の撤去を命令した。一六七三年からは左岸でも撤去が開始され、一七七六年には、残された右岸西側の市壁

の撤去も命じられた。こうして、パリは市壁を持たない開放都市となった。フロンドの鎮圧とフランドル戦争の勝利によ

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り、パリが内外からの軍事的な脅威にさらされることがなくなったとルイ一四世が判断したことが、この命令の理由とし

て考えられている。

 

市壁を撤去した跡地には、幅一九トワーズ(約三七メートル)の大通りが整備された。大通りは四列の楡の木の並木に

より三区分され、人々のリクリエーションのために供された。コルベールとルイ一四世は新たに出現した空間を飾り立て

ることを望んだわけだが、それにふさわしい建造物が、パリへと凱旋する英雄を迎える凱旋門であった。

 

ローマやフランス国内に残る遺跡に触発され、入市式における一時的なものではなく、恒久的な凱旋門を作るべきであ

るとの議論が存在していた。たとえば、国王修史官であったミッシェル・ド・ピュールabbé M

ichel dePure (1620-1680

は、古代と当代のスペクタクルを比較した一六六八年の論考の中で、以下のように述べている。「時の流れに抗して、英

雄たちの功績やすばらしい行為の記憶を保ち続けるために、堅固で永続的な凱旋門を建設するローマ人のこの慣習を守る

ことが望まれる。しかしながら、しみったれや能力のなさのために、私たちはトランプの家、つまり紙の作品を作ること

しかしていない。そして、人を欺く絵画や、祝祭の間だけに存在している装置に満足しているのである」。また、ブロン

デルは建築アカデミー創設時の演説のなかで建築の役割について紹介しており、勝利を記念する戦場での記念建築物につ

いて触れた後に、入市式について次のように述べている。「建築は勝利者に対して入市式を準備する。建築は凱旋門の素

晴らしい穹窿の下に、勝利者を通過させる。この凱旋門は、建築が勝利者の栄光のために建造し、かくも驚嘆すべき像と、

かくも洗練された装飾で満たされているために驚嘆なしに理解することができないものである」。ローマの凱旋門を範と

し、英雄や勝利者としての国王を検証する装置が求められていたのである。

 

このような状況下で、市壁が撤去される過程で、中世的な市門はそのほとんどが撤去されたが、一部が凱旋門に改造さ

れるとともに、新たに建設された大通り沿いにさらに、全く新しい凱旋門が建設された。すなわち、市壁の撤去に際して

は、王権の主導によりパリの整備が実施され、かつての都市の外周部には、王権の実力と都市の輝きとを同時に象徴でき

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佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門13

る凱旋門が設置されたのである。

三.ルイ一四世治世下の凱旋門

凱旋門

 

ルイ一四世の治世下で最初の恒久的な凱旋門の計画が立て

られたのは、パリ郊外においてで、市壁の撤去が行われる直

前だった。一六六〇年の国王夫妻のパリ入城に際して、市壁

の外の東側、フォーブール・サン︲タントワーヌ通りが始まる

地点に凱旋門と玉座が設置され、ここで国王夫妻はパリの都

市役人や高等法院官僚、聖職者などの出迎えを受けた。現在

のナシオン広場であるこの地点はそれゆえ、当時は、玉座広

場Placedu T

rône

と呼ばれていた。

 

この入市式の例のように、国王がパリに入城する際には、

パリの東に位置するヴァンセンヌ城を出発してサン︲タント

ワーヌ門より市内に入るのが一般的であった。そのため、ヴァ

ンセンヌからパリまでのアプローチを大通りとして整備し、

途中の玉座広場に凱旋門を設置することが決定された。この

決定は一六六六年にはなされていたようだが、一六六七年に

フランドル戦争が始まると、その勝利の記念を目的とし、凱

図2 凱旋門

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旋門の設計コンペが行われた。採用されたのはクロード・ペローClaude Perrault

(1613-1688

)の案で、一六七〇年八月

六日に最初の礎石が置かれた。

 

門は幅が約五八メートルと巨大なもので、コンスタンティヌス帝の凱旋門にならい、3つのアーチより形成されていた

(図2)。それぞれのアーチの脇には、二本のコリント式の柱が付けられ、門の横の部分にも二本の柱が設けられた。エ

ンタプレチュアの上のアティックの部分には、それぞれの柱の延長線上に虜囚を伴ったトロフィーが置かれ、中央部分の

台座の上には、ルイ一四世の騎馬像が置かれるはずであった。また、柱の間のメダイヨンやそのほかの浅浮彫りにより、

ルイ一四世の事績が表現されることが計画されていた。

 

礎石の設置までは順調に計画が進んだが、その後の工事の進捗ははかばかしくなく、特に七〇年代後半より建築アカデ

ミーが設計に対して批判を加えると、工事は著しい停滞をみせた。やがてルイ一四世のこの門への熱意が失せると、列柱

の台座が完成した時点で工事が中止された。そしてルイ一四世が逝去すると、摂政となったオルレアン公は、この門に何

らの興味を示さず、一七一六年には解体が始まったのである。

サン︲タントワーヌ門

 

サン︲タントワーヌ通りの終点、バスティーユ要塞の脇に位置するサン︲タントワーヌ門は、その時期にはすでに恒久的

な凱旋門として存在していた。これは、一五八五年にアンリ三世が建設を命じたもので、前王シャルル九世の入市式の装

飾を継承しつつ、初めてルネサンス様式で建設された(図3︲1)。この門は柱によって区切られた三つの部分からなり、

柱の碧眼部分には聖ドニや聖カテリーナなどの聖人像が配され、頂上部分には、国王像が置かれ、その下は帆船やパリ市

の紋章で飾られた。

 

その後、市壁の撤去に伴い、一六七一年にブロンデルに門の改築が依頼された。ブロンデルはもとの凱旋門を残しつつ、

(18)

(19)

(20)

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佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門15

両側をドーリア式建築で拡張し、左

右の拡張部分には歩行者用の通路を

設け、三連のアーケイドの形式に改

造した。全体としては、もともとの凱

旋門の三角屋根を残しつつ、柱上の

エンタプレチュアとその上にさらに

加えたアティック(屋上階)により、

全体の統一性をもたらしている。門

は幅が約一七・五メートル(九トワー

ズ)、高さが約一五メートル(七︲八

トワーズ)であった。

 

門の頂上には、太陽を象徴するオ

ベリスクが左右の端に置かれ、中央

にはファン・オプスタルGérard van

Opstal (1605-1668

)による国王像が置かれた。この像が向いている城外区側には、さまざまな装飾が施されていた(図3

︲2)。もとの凱旋門には、アーケイドの上に二重にペディメント(切妻屋根)が載る形となっていたが、最上部の旧凱

旋門の屋根の部分には、ファン・オプスタルによるアポロンとセレスの像が置かれた。その下のペディメントには、以前

より存在していたグージョンJean Goujon (c.1510-c.1566

)によるセーヌ川とマルヌ川の像が置かれた。中央の入り口の左

右にある窪みの部分には、フランソワ・アンギエ François A

nguier (c.1613-1669

)によるふたつの像が置かれた。右手の

(21)

(22)

(23)

(24)

図3-1 サン-タントワーヌ門(1585年)

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駒沢史学84号(2015) 16

像は「希望」を示し、左側のそれは「公共の安全」を示している。

これらふたつの像により、ピレネー条約の締結によりもたらさ

れた平和とそれによる幸福を示している。タンパンには金文字で

ラテン語の銘文が付されており、そこには「ピレネーの和約、

この条約は、ルイ一四世の勝利した軍隊により、また、母后ア

ンヌ・ドートリッシュの適切な助言により、マリ︲テレーズ・ドー

トリッシュとのすばらしい結婚により、さらにはマザラン枢機

卿のたゆまぬ心配りにより、締結され、永遠に堅固なものとなっ

た。パリ市長と都市参事会員、一六六〇年」と刻まれている。

 

市街地側では、上部のペディメントにより作られた三角形の

部分(タンパン)に、パリ市がルイ一四世の栄光を祝して発行

したメダルを模した浅浮彫りが付けられた。メダルの表面には

ルイ一四世の肖像画が、裏側には盾を持って座る「徳V

ertu

」の

擬人像が描かれ、その盾にはパリ市の紋章が配されて、「公共の

安全FA

ELICITAS PU

BLICA/

パリLU

TET

IA

」という銘文が

刻まれていた。

(25)(

26)

図3-2 サン-タントワーヌ門

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佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門17

サン︲ベルナール門

 

サン︲ベルナール門は、セーヌ左岸のトゥルネル橋のた

もと、サン︲ベルナール港からパリへと入る位置にあった

市門で、一帯のサン-ベルナールの名称は、付近にクレル

ヴォーのベルナルドゥスの名を冠したシトー会の修道院が

あったことによる。この門は、市壁の撤去にともない、パ

リの左岸に唯一残された門で、ブロンデルが一六七〇年に

凱旋門に改造した(図4)。

 

この門は幅が約一五・五メートル(八トワーズ)で、ふ

たつの開口部が設けられていた。高さは約一九・五メート

ル(一〇トワーズ)で、アーチの上には大きなエンタプレ

チュアがあり、両面ともに彫刻家テュビJean

︲Baptiste

Tuby

(1635-1700

)により巨大な浅浮彫りが設けられた。

さらにその上にも巨大な台座の形をしたアティックが載せ

られていた。城外区側の浅浮彫りでは、帆を広げて、川の

精である「ナイアス」と「トリトン」により押されている

船の船尾に、同時代のカツラを付けた状態で古代の神の衣

装をまとい、舵を持って座っているルイ一四世が描かれて

いる。その上のアティックの銘文は、「ルイ大王、神の摂

(27)

(28)

図4 サン-ベルナール門

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駒沢史学84号(2015) 18

理による、パリ市長と都市参事会員、一六七四年」と書かれており、摂理La

Providence

がレリーフのテーマであった。

 

都市側のレリーフでは、同じように古代の神の装束をまとったルイ一四世が玉座に座り、向かって左側に描かれた神々

からさまざまな贈り物をもらっている。そして、それを右側のパリ市を示す女性像に与えている光景が描かれている。ア

ティックには「ルイ大王、豊穣を分配する、パリ市長と都市参事会員、一六七四年」という意味の銘文が刻まれ、豊穣

LA̓bondance

をテーマとしていた。王権を顕彰する凱旋門としてこの門を見なすのかについては意見が分かれ、ブロン

デル自身もその仕事が「改修」であると述べている。だが、テュビの作品が示す、「摂理」と「豊穣」をもたらす国王とい

うイメージは、王権のあるべき姿を

示す表象の一つであった。

サン︲ドニ門

 

サン︲タントワーヌ門とサン︲ベル

ナール門が既存の市門を改築したも

のであるのにたいし、サン︲ドニ門は

従来の門から約五五メートル北に位

置をずらし、全く新しく建設された。

『メルキュール・ガラン』に、「一六七二

年に、たいへんに狭く通過が困難な

通路に建っていた古いサン︲ドニ門が

取り壊され新たな門が建設された。

(29)

(30)

(31)

(32)

図5-1 サン-ドニ門

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佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門19

図5-2 サン-ドニ門:マーストリヒトの攻略

図5-3 サン-ドニ門:ラインの渡河

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駒沢史学84号(2015) 20

というのは、この同じ年に国王はオランダに赴き、たいへんに多くの都市を攻略し、数々の河川を渡ったからである」と

あるように、サン︲ドニ門はオランダ戦争初頭の勝利を記念する凱旋門として建設された。設計を行ったのはブロンデルで、

付随する彫刻の制作は、当初はジラルドンFrançois Gorardon

(1628-1715

)に依頼されたが、彼はヴェルサイユの仕事に

忙殺されていたために、かわってミッシェル・アンギエM

ichel Anguier (c.1614-1686

)が制作を担当した。

 

サン︲ドニ門は、幅と高さが約二三メートル(七二ピエ)で、ローマのヴェスパシアヌスの凱旋門を手本としている(図

5︲1)。門の横幅は三等分され、中央がアーチ状に開口されている。その左右の下の部分には、徒歩による通過のために、

小さな通路が設けられていた。この通路の入り口を含む台座の上には、細長いピラミッドが配され、それぞれにはトロ

フィー(戦利品彫刻)が刻まれていた。アーチの円弧とアーチを取り囲む長方形とのあいだにできた空間には擬人像が配

され、その上のピラミッドの上部に挟まれた部分には、オランダ戦争での勝利を示す浅浮彫りが配されていた。その上の

エンタプレチュアの部分には、「ルイ大王LU

DOVICO

MAGN

O

」という銘文が刻まれ、その銘文はピラミッドの下、台

座の開口部の上の銘板へと続いていた。

 

城外区側の装飾のテーマは、一六七三年のマーストリヒトの攻略である(図5︲2)。中央の浅浮彫りには、カツラを

付けてローマ軍人の装束を身にまとい、騎乗して左手から進んでくるルイ一四世にたいして、「マーストリヒト」を示す

女性像が都市の鍵を渡す場面が描かれている。その下の左側には月桂樹の冠を手にしたファーマが描かれ、右側には兜と

シュロの葉を持った「平和」が配されている。銘文は全体で、「ルイ大王、一三日間でマーストリヒトを攻略したことの

記念に、パリ市長と都市参事会員、一六七二年」と記されている。

 

都市側のテーマは一六七二年のラインの渡河である(図5︲3)。浅浮彫りでは、右手に指揮棒を持ち、ローマ軍人の

装束をまとったルイ一四世に率いられたフランス軍がライン川を渡っている場面が描かれており、その下の左側では、

ファーマがその偉業を告げている。右側では「勝利」が右手に持った月桂樹の冠を差し出しており、パリに凱旋してくる

(33)

(34)

(35)

(36)

(37)

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佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門21

ルイ一四世にそれをかぶせるような位置についている。左側のピラミッドの下には、「オランダ」の擬人像が疲弊した姿

で描かれ(図5︲4)、右側には「ライン川」を示す老人が、コルノコピア(豊穣の角)、「忠誠」を示す犬とともに配さ

れている(図5︲5)。銘文は「ルイ大王、たった六〇日で、ライン川、ワール川、ムーズ川そしてイーゼル川を渡り、

図5-4 サン-ドニ門:オランダ

図5-5 サン-ドニ門:ライン川

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駒沢史学84号(2015) 22

三つの地方を服属させ、四〇の要塞都市を占領したこと

により、忘れっぽいオランダ人に懲罰を与えたことの記

念に、パリ市長と都市参事会員、一六七二年」と記されて

いる。

サン︲マルタン門

 

一六七四年一月には、フランシュ︲コンテの攻略を記念

して、サン︲ドニ門の東側のサン︲マルタン通りの終点に、

サン︲マルタン門の建設が決定された。設計を担当したの

はブロンデルの弟子のビュレPierre Bullet

(1639-1716

で、彼はローマのコンスタンティヌス凱旋門を参考にし、

三つのアーチによって開口されている門を設計した(図

6︲1)。門の大きさは幅と高さが、ともに約一六メート

ル(五〇ピエ)で、模様のついた石の粗面積みにより仕

上げられていた。開口部は中央がひときわ大きく、左右

のアーチの上には、それぞれ四人の異なる作家による浅

浮彫りが配されていた。アーチの上のエンタプレチュア

には、それぞれの闘いを示すラテン語の銘文が刻まれて

いる。

(38)

(39)

(40)

図6-1 サン-マルタン門

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佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門23

図6-3 サン-マルタン門:ドイツの敗北

図6-2 サン-マルタン門:リンブールの攻略

 

城外区側の右側は、ルグロPierre

I Legros

(1629-1714

)による「リンブールの攻略」(一六七五年、図6︲2)で、後

景に攻城戦の状況が描かれ、その前には横になっているライオン(スペインを示す)の傍らに座る、リンブールを示す女

性像が配されている。左側では、ガスパール・マルシーGaspard Marsy (1624-1681

)により「ドイツの敗北」(図6︲3)

(41)

(42)

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駒沢史学84号(2015) 24

が表現されている。ここでは、フランスの紋章が描かれた盾を手にした「マルス」がドイツ(神聖ローマ帝国)を示す鷲

を追撃している光景が描かれ、その下では女性と川を示す老人がそれを眺めている。銘文には、「ルイ大王、リンブール

を占領したために、見かけ倒しの敵の脅威はあらゆる所で鎮圧された。パリ市長と都市参事会員、一六七五年」と記され

ている。

 

市街地側の右側の浅浮彫では、デジャルダンM

artin Desjardins

(1657-1694

)により「ブザンソンの攻略」が描かれて

(43)

(44)

図6-4 サン-マルタン門:ブザンソンの攻略

図6-5 サン-マルタン門:三国同盟の瓦壊

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佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門25

いる(図6︲4)。そこでは、「ブザンソン」を示す女性像がひざまずき、ローマ軍人の装束を身にまとって右側に座るル

イ一四世に、都市の鍵を渡す場面が描かれ、左上ではファーマがこの都市の占領を宣言している。左側の浅浮彫りは、ル・

オングルÉtienne

Le Hongre (1628-1690

)による「三国同盟の瓦壊」で(図6︲5)、ヘラクレスに扮したルイ一四世が、

アケローオスあるいはゲーリュオーンを示す人物を踏みつけている。その右上では、「勝利」がルイ一四世の頭に月桂樹

の冠をかぶせようとしている。銘文には、「ルイ大王、ブザンソンとフランシュ︲コンテを二度攻略し、ドイツ、スペイン

およびオランダの軍隊に勝利したために、パリ市長と都市参事会員、一六七四年」と記されている。

結語

 

以上、パリに設置された凱旋門を概観した。すべての門がルイ一四世の栄光をたたえ、パリを王国の首都にふさわしい

ものに変えるという、コルベールの政策に合致したものではあった。

 

門の表象にかんしては、サン︲ドニ門とサン︲マルタン門に向かうにつれて、過剰な装飾が排除される傾向が認められる。

一六六〇年の凱旋門はもちろん、サン︲タントワーヌ門も数多くの装飾物が配されており、完成をみなかった玉座広場の

それも臨時的な凱旋門の様相を強く残していた。これにたいして、サン︲ドニ門とサン︲マルタン門の装飾は浅浮彫りに限

られ、装飾の過剰さが排除されている。装飾よりも建築物としてのプロポーションを重視したブロンデルの好みがこの一

つの原因であろう。しかし、後述するようなその後の凱旋門がほぼこのような形式を取ることを考えれば、ひとつの形式

が形成されつつあったとも言えよう。そこでは表象の難解さが排され、都市民にとってわかりやすいものが造られたので

ある。

 

次に、王権とパリ市にとって凱旋門が持つ意味を、入市式にさかのぼって考えてみよう。そもそも、国王の都市訪問は

宿泊権の行使や資金提供を目的としたもので、その際に行われた儀礼は、都市の鍵の授受に象徴されるように、両者の双

(45)

(46)

(47)

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駒沢史学84号(2015) 26

務的な関係を示すものであった。しかし、ルネサンス期に入市式が凱旋式風に変化していくにつれて、儀礼においては双

務的な要素が薄れ、王権の支配が強調されていった。ストロングは一六世紀にこのような変化がヨーロッパで一般化した

と述べ、近代初期の国家は人びとの忠誠心を王室への崇拝へと収斂させることで国民的一致を確立し、そのために入市式

は絶対的権力の行使や権力者への服従を表現するものとなったとしている。ストロングはこのことが政治状況の変化、す

なわち絶対主義の成立の結果であるとしているが、今日の研究状況に照らせば、それは言い過ぎであろう。しかし、王権

が権力強化を志向し、それを儀礼表現に持ち込んだのは確かである。

 

一六世紀に頻繁に行われたフランスでの入市式にも、基本的にはこの構図が妥当しよう。そして、アンリ四世以降、

一七世紀にはこの傾向に拍車がかかるのである。とりわけ、フロンドが収束した後には、王権は一方で反乱に荷担したパ

リを赦し、その一方で、王の権威をパリ内に横溢させようとしたのであった。一六六〇年の入市式の凱旋門は、過剰なま

での装飾により、臣民に平和と豊穣をもたらした国王のイメージが伝播されるとともに、フロンドの標的となったマザラ

ンの顕彰を行っている。

 

さらに、一六七〇年以降の市壁の撤去と凱旋門の建設は、王権と都市社団パリとの関係においてひとつの画期であった。

高澤紀恵はこの時期に建設されたパリの門について触れ、都市民による「都市の安全」を守る実践が衰退し、かわって王

権がパリに「秩序とポリス」をもたらすという変化が、王権が都市に「公共の安全」を授けることを示す凱旋門の設置に

より象徴されていると述べている。凱旋門の銘にあるように、門の設置はパリ市によって行われたが、一六六〇年のもの

はル・ブランがデザインしたように、王権の意向が反映されていたのであり。一六七〇年以降の凱旋門も王権主導で計画

が推進された。

 

このことは凱旋門の表象とも関連している。一六六〇年の凱旋門やサン︲タントワーヌ門は、ルイ一四世の結婚やその

原因となったピレネー条約による平和の到来が表象されている。サン︲ベルナール港のそばに位置し、ワインの貯蔵所な

(48)

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佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門27

どが存在していたサン︲ベルナール門では、航海や商業の発展やそれによる豊穣がテーマであった。これらの門では、パ

リ市の紋章やセーヌ川、マルヌ川などの表象により、王権とパリ市との互酬的な関係にも配慮されていた。これにたいし

て、サン︲ドニ門とサン︲マルタン門は、ただひたすら王の軍事的な成功を顕彰するものとなっており、ローマの凱旋門に

ならった「皇帝」としての国王が存在するのみで、パリという要素は完全に抜け落ちている。サン︲タントワーヌ門とサ

ン︲ベルナール門が従来の門の「改修」であることを考えれば、サン︲ドニ門とサン︲マルタン門こそが王権の意思を示し

ていると言えよう。

 

このように、ルイ一四世期の凱旋門は王権のプロパガンダとしての役割を果たしていたが、パリでは一六八〇年代より、

新たにふたつの広場が整備された。最初のものが一六八三年より建設が開始されたヴィクトワール広場で、そこでは国王

の戦勝が顕彰され、広場の中心には「勝利」によって戴冠される国王像が設置された。また一六八五年には、あらたに征

服広場(ヴァンドーム広場)の建設が開始され、中央にはローマ皇帝の装束をまとったルイ一四世の騎馬像が設置された。

 

凱旋門や広場の表象では、王の戦勝が大きな役割を果たしていたが、これはまさに、優れた軍司令官かつ政治家である

ローマ皇帝としてルイ一四世を表象することであり、そのために新しきローマとしてのパリの整備が推進されたのだった。

ブロンデルによる都市改造計画の多くが実現しなかったように、国王の関心がヴェルサイユに転じたことも関係し、この

パリのローマ化は未完成に終わった。だが、パリのモデルは、いくつかの地方に伝播することになる。すなわち、モンペ

リエやストラスブールではローマのものをモデルとした凱旋門が建設された。さらに、ヴォーヴァンのもとで国境地帯の

都市が要塞化される過程で、リールのパリ門やヌフ・ブリザック、ラ・ロッシェルのように、要塞化された都市の市門に

も、凱旋門風の装飾が施されたのであった。さらに騎馬像についても、いくつかの都市で建立が計画され、財政難のため

に放棄された計画も多かったが、モンペリエやリヨン、ディジョンでは実際に像が完成し、都市の公共の広場に据え付け

られたのだった。

(51)

(52)

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さらに、ナポレオンがパリに凱旋門を設置しようとしたように、凱旋門の設置は一九世紀にも数多くなされ、今日ロン

ドンのウェリントン門をはじめとして、ミラノやモスクワでも凱旋門の建設が進んだ。さらに、アメリカでも数多くの凱

旋門が建設されており、君主の勝利を表象していた凱旋門は、国民の勝利を示すものとして、建設が続けられたのであっ

た。

(1) V

ictoria Sanger and Isabelle Warm

oes,

“The City Gateof Louis X

IV

”, in Journalof Urban History, Vol.30, N

o.1, 2003.

(2) 

たとえば、Louis Bergeron (dir.), Paris genèse

du̓n paysage, Paris, 1989,Geneviève Bresc-Bautier et

Xavier D

ectot (dirs.), Art

ou politique? Arcs, statues

et colonnesde Paris, Paris, 1999

(以下、Bresc-Bautier, A

rt oupolitique?

と略記)、Richard

L. Cleary, The Place Royale and Urban Designin the A

ncien Régime, Cam

bridge, 1999

、Robert W.Berger, A

Royal Passion, Louis XIVas

Patronof Architecture, Cam

bridge, 1994 (以下、Berger,A

Royal Passion

と略記)など。

(3) 

入市式とその意味については、Roy C.Strong, A

rt and power: Renaissance festivals, 1450-1650, W

oodbridge, 1984

(ロイ・C.

ストロング(星

和彦訳)『ルネサンスの祝祭:王権と芸術』平凡社一九八七年)、小山啓子『フランス・ルネサンス王政と都市社会

―リヨンを中心として』九州大学出版会、二〇〇六年。

(4) 

小山前掲書、一〇九頁。

(5) 

主な訪問都市は以下の通り。バイヨンヌ、ボルドー、ブールジュ、ポワティエ、リシュリュー、オルレアン、フォンテーヌブロー。

Christophe Levantal, Louis XIV

, chronographie d'un règneou biographie chronologique

du Roi-Soleil établie dʼaprèsla

"Gazette"de Théophraste Renaudot, les 28121 journées

du Roi entrele

5 septembre 1638

et le1er septem

bre 1715, Gollion, 2009, t.1.pp.190-192.

(6) 

ルイ一四世とパリを描いた当時の絵画では、この騎馬像が一緒に描かれることが多い。これは、宗教戦争で敵対関係となったパ

Page 27: ルイ一四世とパリの凱旋門 - 駒澤大学repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/35451/rsg084...5 佐々木真 ルイ一四世とパリの凱旋門 乗る君主を中心にさまざまなものにより行列が表象されたのだった。まっていった。ここでは、古代研究家たちの尽力により、君主の権力や徳を示すアレゴリーが大々的に拡充され、戦車になかで、古代ローマの凱旋式を高く評価し、それを国王の入市式

佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門29

リを最終的に平定したアンリ四世とフロンドでパリからの脱出を余儀なくされたルイ一四世との類似性を表現したもので、最終的

には王権がパリに勝利したことを表象している。

(7) 

彫刻家の息子としてパリに生まれたル・ブランは、画家を志し、大法官セギエの庇護のもとでヴーエSim

on Vouet

の弟子となった。

その後、一時パリにやってきたプッサンN

icola Poussan

の目にとまり、一六四二年にプッサンに伴われてローマに赴いた。ローマで

は、プッサンのもとでラファエルなどの絵画を研究し、古典主義の吸収に努めた。そして、一六四六年に帰国した後には、フラン

ス画壇の指導者の一人となり、プッサンの古典主義にバロック芸術を融合させた、フランス宮廷絵画の様式の確立に寄与した。

François Bluche (dir.), Dictionnairedu Grand Siècle, Paris, 1990 (

以下、Bluche, Dictionnaire

と略記),pp.840-841.

(8) A

ndré Félibien, Description de lʼarcde la

place Dauphine presentée àson ém

inence, Paris 1660.

シャルトルの公証人・

著述家の

息子に産まれたフェリビアンは、一四歳でパリに出て、しだいに文筆家や美術愛好家、芸術家たちたちと交わりを持つようになっ

ていった。フォントネイ︲マルイユ子爵の書記に任命され、彼が大使としてローマに赴いたために、彼も同行し(一六四七年から

一六四九年)、記念碑や芸術について学んだ。フランスに帰国した後には、芸術論などを執筆し、一時はフーケに仕え、彼の失脚に

よりシャルトルに戻ったが、一六六六年にコルベールに呼び戻され、小アカデミー書記および国王修史官に任命された。彼は芸術

論や芸術家の評伝を数多く執筆したが、もう一方で活字により当時のさまざまな芸術作品の内容を記述する「解説D

escription

」を行っ

た。この「解説」は、芸術作品や王権の表象の意味の伝達に大きく貢献した。Bluche, Dictionnaire, p.578.

(9) 

以下、凱旋門の内容については、Félibien, Description, pp.4

︲20, Anonym

e, L'explication généralede toutes les peintures,

statueset tableaux des portiques

et arcsde triom

phe, dressés pour l'entréedu roiet

dela reine, tant

au faubourget porte

Saint-Antoine, qu'aux places publiques, pont N

otre-Dam

e, Marché-N

euf :avec une descriptionde

la belleet m

agnifique pyram

ide dela

Place Dauphineet

de son amphithéâtre

; ensemble toutes les devises

et inscriptions latines, expliquéesen

français;et

la marche

de Leurs Majestés depuis Vincennes jusques

au Louvre, Paris.1660, pp.9-12.

(10) Etienne T

huau, Raisond

É̓tatet pensée politique

de Richelieu, Paris, 1966, pp.289-290.

(11) Berger,A

Royal Passion, pp.73-74.

(12) Bluche, Dictionnaire, pp.205-206.

当時の建築家としては、ヴェルサイユ宮殿の造営にかかわった、ル・ヴォーやマンサールがよ

く知られているが、ブロンデルに代表されるように、軍人(工兵)として要塞や市壁、それに付随する門などの建築を担当した者

Page 28: ルイ一四世とパリの凱旋門 - 駒澤大学repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/35451/rsg084...5 佐々木真 ルイ一四世とパリの凱旋門 乗る君主を中心にさまざまなものにより行列が表象されたのだった。まっていった。ここでは、古代研究家たちの尽力により、君主の権力や徳を示すアレゴリーが大々的に拡充され、戦車になかで、古代ローマの凱旋式を高く評価し、それを国王の入市式

駒沢史学84号(2015) 30

たちも、国王の建築政策において重要な位置を占めていた。特に、市門の建設など、都市計画に関連する事例では、このタイプの

建築家が重用された。ブロンデルと彼を取り巻く世界については、三宅理一『パリのグランド・デザイン―ルイ一四世が造った世

界都市』、中公新書、二〇一〇年。

(13) A

lexandre Gady

“ Les portesdu Soleil

”,dans Bresc

︲Bautier, Art

ou politique?, p.51.

(14) Pierre Lavedan, Nouvelle histoire

de Paris [5] Histoirede l'urbanism

eà Paris, 1975, pp.186

︲188.

(15) 

イタリア人の家系に産まれた彼は、優れた人文学者であり、多くの歴史書の翻訳を行っている。René

et Suzanne Pillorget, France baroque, France classique 1589-1715, Paris, 1996

(以下、Pillorget, France baroque, France classique

と略記),t.2, pp.962

︲963.

(16) abbé M

ichel dePure, Idée des spectacles anciens

et nouveaux, Paris, 1668, pp.206

︲207.

(17) François Blondel, "D

iscouers prononcé par Mr. Blondel

àl̓ouverture

del̓A

cadémie

dʼArchitecture,le 31

e décembre 1671", dans

Id. Cours d'architecture enseigné dans l'Académ

ie royale d'architecture, première partie, 1675.

(18) 

シャルル・ペローの兄のクロードは医師で学者、かつ建築家で、一六四一年にパリ大学で医学の学位を得て医師として活動し、

一六六六年の科学アカデミーの創立メンバーとなった。建築の分野でも『建築論』を執筆するなど優れた業績を残し、ベルニーニ

案が破棄された後のルーヴル宮東ファサードやパリ天文台の設計を行っている。Bluche, Dictionnaire, pp.1185-1186.

(19) 

以下、この凱旋門については、Germ

ain Brice, Descriptionde

la villede Paris,

9e édition, Paris, 1752

(以下、Brice, Description

と略記) t.2, pp. 249

︲254, Jean-Aym

ar Piganiolde

La Force, Descriptionde Paris,de Versailles,de M

arly,de Meudon,de Saint-

Cloud,de Fontainebleauet

de toutes les autres belles maisons

et châteaux des environsde Paris, N

ouvelle édition, Paris,1742

(以下、Piganiolde

La Force, Description

と略記),t.4, pp.443-446, Charles Perrault, M

émoires

dema vie, Paris, 1993, pp. 254-

258

(20) 

門の比率や柱の数の多さ、国王像の大きさ、装飾の多さなどが批判の対象となった。Gady" Les portes

du Soleil", p.50.

(21) 

以下、門の内容については、Brice, Description, t.2, pp. 237︲247、Piganiol

deLa Force, Description, t.4, pp.422

︲431, Mercure

Galant, Septembre 1683, pp.348-351

(22) 

ブリュッセル出身の彫刻家。ブリュッセルで修行を積んだ後に、アントワープで活動をしていたが、一六四三年にリシュリュー

の招きでパリに定住した。彼は絵画彫刻アカデミーの創立メンバーであり、アカデミーの教授も勤め、幾度も指導者recteur

に選出

Page 29: ルイ一四世とパリの凱旋門 - 駒澤大学repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/35451/rsg084...5 佐々木真 ルイ一四世とパリの凱旋門 乗る君主を中心にさまざまなものにより行列が表象されたのだった。まっていった。ここでは、古代研究家たちの尽力により、君主の権力や徳を示すアレゴリーが大々的に拡充され、戦車になかで、古代ローマの凱旋式を高く評価し、それを国王の入市式

佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門31

されている。Bluche, Dictionnaire, p.1564.

(23) 

ノルマンディー生まれの彫刻家。一五四七年にアンリ二世の建築家となり、ルーヴルの改築などに活躍した。A

rlette Jouanna, Dom

inique Bilogjo, Jacqeline Boucher,et al., Histoire

et dictionnaire des guerresde religion, Paris, 1998, pp.948

︲950.

(24) 

弟のミッシェルともにアンギエ兄弟として知られているこの彫刻家は、生地であるノルマンディー地方のウーで修行を積み、パ

リに出た後にイギリスやローマに滞在し、プランスに帰国した後にはムーランに居を定め、制作を行った。墓所の彫刻で優れた才

能を示し、代表作として、モンモランシー公アンリ二世の墓がある。Bluche, Dictionnaire, pp.85

︲86.

(25) Piganiol

deLa Force, Description, t.3, p425.

(26) PA

CI/VICT

RICIBUS LU

DOVICI X

IV./

ARM

IS/FELICIBU

S ANNAE CO

NSILIIS

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STIS.M

. THERESIA

E NUPT

IIS, /A

SSIDUIS JU

LII CARD

INALIS

/MAZA

RINI/

CURIS PA

RTAE FU

NDATAE A

ETERN

UM/FIRM

ATAE PRA

EFECTUS

URBIS A

EDILESQ

UE/SA

CRAVERE

/ANNO M

.DC.LX

(27) 

以下、門の内容については、Brice, Description, t.2, pp. 355-358,Piganiol

deLa Force, Description, t.4, pp.734-736, M

ercure Galant, Septem

bre 1683, pp.354-355。

(28) 

一六六三年にアカデミー会員となったテュビは、ジラルドンやマルシーとともに、コルベール期のヴェルサイユ造営で重要な役

割を果たした。Bluche, Dictionnaire, pp.1542-1543.

(29) LU

DOVICI M

AGN

I/PRO

VID

ENTIA

E/PRA

EF. ETAED

IL. PONI/

CC./ANN.R.S.H

. M.DC.LX

XIV

.

(30) LU

DOVICO

MAGN

O/ABU

NDANTIA

PART

A/PRA

EF.ET A

EDIL. PO

NI/

CC./ANN.R.S.H

. M.DC.LX

XIV

.

(31) Blondel, Cours d'architecture, chap. V

,note 27.

(32) 

以下、サン︲ドニ門については、Brice, Description, t.2, pp.1-4,Piganioll

deLa Force, Description, t.3, pp.258-262, M

ercure Galant, Septem

bre 1683, pp.351-352, Laure Beaumont-M

aillet, Vieet histoire

duX

e arrondissement Saint-Vincent

de Paul, porte Saint-Denis, porte Saint-M

artin, hôpital Saint-Louis (以下、Beaum

ont-Maillet, Vie

et histoiredu

Xe arrondissem

ent

と略記),Paris,

1998, pp.90-93.

(33) M

ercure Galant, Septembre 1683, pp.351

︲352.

(34) 

一六五〇年にイタリアから帰国したジラルドンは、ヴォー︲ル︲ヴィコントの彫刻の制作に参加してル・ブランやル・ヴォー、ル・

Page 30: ルイ一四世とパリの凱旋門 - 駒澤大学repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/35451/rsg084...5 佐々木真 ルイ一四世とパリの凱旋門 乗る君主を中心にさまざまなものにより行列が表象されたのだった。まっていった。ここでは、古代研究家たちの尽力により、君主の権力や徳を示すアレゴリーが大々的に拡充され、戦車になかで、古代ローマの凱旋式を高く評価し、それを国王の入市式

駒沢史学84号(2015) 32

ノートルと知遇を得た。一六五七年には絵画彫刻アカデミーに迎えられ、一六六三年以降には、国王の城館の仕事に参加し、テティ

スの洞窟のアポロン像など、ヴェルサイユの装飾で大きな役割を果たした。Pillorget, France baroque, France classique, t.2, p.464-

465.

(35) 

一六四〇年から一六五〇年までローマで修行をし、パリに戻った後には、おもに浅浮彫りにより、ルーヴル宮の王妃の夏のアパ

ルトマンやヴォー︲ル︲ヴィコント、一六六二年から一六六七年にかけては、アンヌ︲ドートリッシュが建設したヴァル・ド・グラー

スなど、数多くの著名な建築物の室内装飾を手がけた。Bluche, Dictionnaire, pp.85

︲86.

(36) LU

DOVICO

MAGN

O. /

QUOD T

RAJECT

UM

AD M

OSA

M X

III. DIEBU

S CEPIT./

PRAEFECT

US

ET A

EDILES.P. CC. /

ANNO D

.M.LX

XII.

(37) 

サン︲ドニ門を含むラインの渡河の表象については、拙稿「「ラインの渡河」の表象―戦争イメージの構築をめぐって」『軍事史学』

第五〇巻第二号、二〇一四年を参照。

(38) LU

DOVICO

MAGN

O./

QUOD D

IEBUS V

IX SEX

AGIN

TA

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ENUM, W

AHALIM

, MOSA

M,/

ISALA

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BEGIT PRO

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CIAS T

RES./CEPIT

URBES M

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AS/QUADRA

GINTA./

EMEN

DATA M

ALE M

EMORI/

BATAVORU

M GEN

TE./

PRAEFECT

US ET

AED

ILES.P. CC./ANNO

D. M

.DC.LX

XII.

(39) 

以下、サン︲マルタン門については、Brice, Description, t.2, pp.41-45,Piganio

deLa Force, Description, t.3, pp.412-414, M

ercure Galant, Septem

bre 1683, pp.352-355, Beaumont-M

aillet, Vieet histoire

duX

e arrondissement, pp.93-94

(40) 

パリで石工の息子として生まれたビュレは、ブロンデルの弟子となり、パリ市に雇用された。そのため、サン︲マルタン門の他に、

ペルティエ河岸やサン︲トマ・ダカン教会など、パリ市内の建造物を多く手がけている。一六八五年に建築アカデミー会員となった。

Bluche, Dictionnaire, p.844.

(41) 

サラザンJacques Sarrazin

(1592-1660

)の弟子でマルシーの娘婿、版画家のピエール・ルポートルPierre Lepautre

(1652

1716

)の義兄弟であるルグロは、ルイ一四世の彫刻家たちと緊密な関係を持っており、国王の建築物を多く手がけた。とりわけ、ヴェ

ルサイユの造営事業に尽力し、多くの作品を残している。Bluche, Dictionnaire, p.844.

(42) 

カンブレーに生まれたマルシーは、弟のバルタザールBalthazard

(1628-1674

)とともに父親のもとで修行をし、一六四八年にパ

リに出た。兄弟はサラザンやアンギエらのアトリエで働き、ガスパールは一六五九年に絵画彫刻アカデミー会員となった。ルーヴ

Page 31: ルイ一四世とパリの凱旋門 - 駒澤大学repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/35451/rsg084...5 佐々木真 ルイ一四世とパリの凱旋門 乗る君主を中心にさまざまなものにより行列が表象されたのだった。まっていった。ここでは、古代研究家たちの尽力により、君主の権力や徳を示すアレゴリーが大々的に拡充され、戦車になかで、古代ローマの凱旋式を高く評価し、それを国王の入市式

佐々木真  ルイ一四世とパリの凱旋門33

ル宮の改築事業に参加したのち、マルシー兄弟はヴェルサイユの造営に参加し、ジラルドンやテュビとともにヴェルサイユ宮の造

営に参加した芸術家の最初の世代を代表した。Bluche, Dictionnaire, p.988.

(43) LU

DDOVICO

MAGN

O/QUOD LIM

BURGO

CAPT

O/IM

POTEN

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IUM M

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UE REPRESSIT

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EF.ET

AED

IL.P./C.C./

ANN.R.S.H

. M.D

C.LXXIV

.

(44) 

一六五七年にブレダで生まれたデジャルダンは、アントワープで学んだ後、二〇歳頃パリに移住し、一六七一年には「「栄光」に

戴冠されるヘラクレス」の浅浮き彫りにより、絵画彫刻アカデミーに迎えられた。国王建造物の彫刻チームに所属し、ヴェルサイ

ユの彫刻も数多く手がけた。Bluche, Dictionnaure, pp.464-465.

(45) 

国王の指物師を父に生まれたル・オングルは、サラザンのアトリエで学び、ローマに赴いてベルニーニの指導を受けた。帰国後

はフィナンシエや、役人、貴族、高位聖職者の城館の室内装飾を担当し、一六六七年には絵画彫刻アカデミーに迎えられた。ルー

ヴルやフォンテーヌブローなどの国王の建造物も多く手がけ、ヴェルサイユではジラルドンやテュビ、ルグロなどとともに多くの

彫刻を制作した。Bluche, Dictionnaire, p.845.

(46) LU

DOVICO

MAGN

O/VESO

NTIO

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S,/PRA

EF.ET A

EDIL. PO

NI/

C.C./ANNO R.S.H

. M.DC.LX

XIV

.

(47) Gady "Les portes

du Soleil", p.50.

(48) Strong, A

rt and power,

pp. 47-48.

(邦訳第一巻一〇八︲一一〇頁)

(49) 

高澤紀恵『近世パリに生きる:ソシアビリテと秩序』岩波書店、二〇〇八年、二三三︲二三五頁。

(50) 

たとえば、サン︲ドニ門とサン︲マルタン門は一六六九年のパリ市会Conseil

dela V

ille

で建設が決定されたが、市壁の撤去を伴う

計画は王権主導で進んでおり、この決議はパリ市による形式的な自治権の主張であるとの指摘がある。実際、一六六八年に商人頭(市

長)に就任したル・ペルティエはコルベールに近く、以降の広場の建設も含め、パリ市が王権の意向に沿うかたちで都市改造を行

うのである。Gady "Les portes

du Soleil", p.51.

(51) 

ヴィクトワール広場については、拙稿「ヴィクトワール広場と王権の表象」 『駒沢史学』、六四号、二〇〇五年。

(52) 

ルイ一四世の騎馬像については、M

ichel Martin, Les m

onuments équestres

de Louis XIV une grande entreprisede propagande

monarchique, Paris, 1986

が詳しい。