(一)民間信仰は混沌とした世界 中国民間神像図にみる庶民の信仰...

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稿稿使中国民間神像図にみる庶民の信仰(三山) 46

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中国民間神像図にみる庶民の信仰

―「天地三界全神図」の内容と変貌―

三山 

はじめに

平成二八年度駒澤大学秋季公開講座・講座Ⅰ「禅文化の世界――具象化した禅思

想――」の第六回(一一月一九日)に、私は「中国民間版画から見た庶民の信仰」

と題して、民間版画に表れた民間信仰について紹介させていただいた。

「民間版画」という単語は日本では耳慣れない言葉である。公開講座ではまず中

国民間版画の概要を紹介し、その後、具体的な作例を挙げて庶民の信仰対象につい

てお話しした。本稿で取り上げる「天地三界全神図」は、道教・仏教・民間信仰が

混在する例として紹介したものであるが、講座では細かく内容に踏み込む時間がな

かった。このたび禅文化歴史博物館紀要に投稿させていただく機会を得て、講座で

言及できなかったことやその後に考察したことなどを述べさせていただく。

一、民間信仰と民間版画

(一)民間信仰は混沌とした世界

中華系の人々のあいだに伝わる信仰は、仏教でも道教でもないが、それらに強く

影響を受けている。さらに自然崇拝や儒教的な価値観も加わって形成されてきた。

庶民の信仰であるので、「民間信仰」という。民間信仰は、仏教系・道教系の神仏

を崇拝するとともに、原始的な自然崇拝に由来する神も礼拝対象である(仏教・道

教と自然崇拝が重なるものもある)。また、もとは人間であった人物が、超越した

能力や修行によって仙人や聖人になり、庶民の篤い信仰を受けてきた。

民間信仰は、教義が理論的に整理されているわけではなく、地域の特殊性も強い。

一つの崇拝対象に複数の呼称があり、その神仏仙人聖人が掌握する〝職能〟にも幅

がある。たとえば関羽のように〝職能・任務〟が時代と共に付け加えられていく神

も少なくない。体系的に、あるいは科学的に民間信仰を把握することは簡単ではな

い。特に中華人民共和国成立以降は、宗教は幾たびかの弾圧を受けた。現在は伝統

文化として宗教・民間信仰は復活しているが、物質的に失ったものが多く、人々の

意識が変化して忘れ去られたことも少なくないので一段と理解しにくい。しかし呼

称の多様さや〝教義〟の複雑さは、信仰している人々にとっては大きな問題ではない。

地域において、あるいは親から子に、神仏を信仰する儀式が伝えられてきた。これ

を心底から執り行っているのが、民間信仰の特徴であろう。

民間信仰の儀式には木版印刷物が使用されることが多い。礼拝する神像図は多く

が儀式のあとに燃やす(焚化するという)ので、高級な材質の必要はない。紙に刷っ

たものであれば価格が安く、庶民の手に入りやすい。そのため民間信仰の神像図は、

木版印刷で作られている(庶民が生活のなかで消費する木版印刷のことを「民間版

画」という)。

(二)二十一世紀に生きる民間信仰の神像図

二十一世紀の現在においても、中国庶民に信仰されている神々は数多い。それは

民間信仰であるのか、民俗風習というべきものか、区別が難しいものもある。

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都市部でも農村部でも、年末になると用意するのが「カマドの神」(竈神図)で

ある〈図1〉。宗教と無関係に、ほぼ全国的に祀られている。地域によって「竈王」、

「竈君」「東厨司命」など呼び名は多少異なるが、一家の守り神として台所に祀られ

る。民間版画の「竈神図」は、正確な生産量は把握されていないが、おそらく神像

図としては最も大量に印刷されているだろう。以前は木版印刷であったが、近年は

オフセット印刷の竈神図もある。

この他に財神図〈図2〉、土地神図、牛馬神図〈図3〉なども制作されている。

みなそれぞれ信仰の対象であり、これらの神像図は単なる部屋の装飾ではない。供

物をそなえ、礼拝する対象である(門扉に貼る門神図は、魔除けの意味であり、礼

拝はしない)。

前述の神像図とは別に、正月に用意する神像図がある。それは元旦早朝の儀式「接

神」(神迎え)に不可欠の神像図で以前は都市でも農村でも必ず用いられた。天地

のすべての神が集合する図像で「天地三界全神図」、簡単に「全神図」あるいは「天

地」と呼ばれる〈図4〉。日本風にいえば、八百万の神々である。

図1 竈神図「一家之主」河北省武強。

図2 財神図「発福生財」山東省濰坊。

図3 牛馬神「牛王馬王」陝西省鳳翔。

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二、「天地三界全神図」について

(一)天津古文化街の「全神図」――入手の経緯

一九九九年の年末、私は天津の古文化街にある天后宮を訪れた。本殿には海運の

女神・天后像が祀られてはいるが、参拝の人影はほとんどなかった。本殿を囲むよ

うに建つ長い棟は神仙が陪祀されていたのであろうが、当時は天津の歴史や文化を

簡単に紹介する展示室になっていた。参観して外に出ると、門の脇に色鮮やかな版

画を並べているのが目に入った。そばに立つ老人が扱っていた。濃い赤と緑と黄色

の対比がギラギラとして、一目で民間版画と判る。色鮮やかというよりも、日本人

の色彩感覚からは下品な色味と言うほうが近い。素朴な画風で神像が彫ってあった。

これは「全神図」といい、あらゆる神仏仙人聖人が描いてあり正月に用いる。「全神図」

を売り出すのは年末と限られているので、その時期でなければ手に入らないもので

ある。

天津とその郊外の楊柳青は、「年画」(新年の吉祥を願い、部屋を装飾する版画)

の産地として有名である。私が初めて天津を訪れた一九八〇年代後半には、すでに

年画は観光みやげとして制作され高い値段がついていた。版画工房も観光地化して

見学コースが出来ていた。それゆえ、庶民の実用品である「全

神図」が大都会の天津に出回っているとは思いもよら

ぬことであった。

ちょうど版画家の王興邦氏(一九三七~二〇一四)

が同行していたので、彼が売り手の老人に「全神図」

の作者や版画工房の場所を尋ねてくれた。王興邦氏は

当時は河北工藝美術学校(河北省保定)の美術教師だっ

たが、一九六一年に天津美術学院版画系を卒業してか

らずっと河北省武強において年画事業に関わってきた

人である。年画の原画を描いたり、昔の年画工房や版

木の調査なども続けてきた専門家であった。

王興邦氏が老人から得た情報は、「天津の郊外で、

八十歳くらいの老人が作っている」というだけであっ

た。老人はそれ以上のことを話したがらず、自分の名

前も住所も言うのを拒否して立ち去った。そのころ道

ばたで風呂敷や段ボールの箱に品物を並べて物を売る

人たちが大勢いた。彼らは農村から出稼ぎに来た人た

ちや失業者、退職者だったが、ときどき税務関係の役

人が一斉取締をして罰金を課したり税金を払わせてい

図4 全神図「天地三界九仏諸神総聖」(線版)天津市楊柳青 義成永画店蔵(以下、同)

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た。かの老人も、もうけが少ないとはいえ役人に知られることを怖れたのであろう。

結局、このときは生産地も作者も知り得なかったが、伝統的な習慣が都会である

天津でも存続していることが判ったのは貴重な情報であった。

(二)「全神図」の作者に辿り着く

それから十余年、偶然に私は天津で手に入れた「全神図」の作者に会うことが出

来た。

二〇一一年の十一月、天津大学馮驥才文学藝術研究院で国際会議と年画展覧会が

開かれとき、開幕式典では私のとなりに老人が着席していた。式典後に、この高齢

者に付き添って来た家族から挨拶をされた。彼らは民間版画工房「義成永画店」の

後継者で、老人は画店の第六代の楊立仁氏(一九二三年生れ)であった。立仁氏の

孫の楊鵬氏(一九八五年生れ)が八代目として義成永画店を継いでいる。楊鵬氏は

家業を継ぐために子供の頃から画師に師事し、天津美術学院の進修班にも学んだ。

彼らは私に会うのを心待ちにしていたという。なぜ彼らが私を知っていたのか。

私は馮驥才氏(当時、中国民間文藝家協会主席)に委嘱され、『中国木版年画集

成・日本蔵品巻』(二〇一一年三月出版)を編集した。同書には義成永画店が制作

した年画を多数掲載した(すべて早稲田大学図書館の収蔵品)。これを見た義成永

画店の後継者たちは、自分たちも知らない自店の年画が掲載されていることに驚

き、また祖先が作った年画が日本で保存されていることに感激した。それで日本蔵

品巻の主編である私に、感謝の意を伝えるためにわざわざ声をかけてくれたのだっ

た。記念にと、義成永画店の版画作品を持って来てくれた。この記念品の中に、私

が一九九九年に古文化街で入手した「全神図」と同じ物が含まれていた。帰国後に

比べて見ると、やはり同じ版で刷ったものである。その後、この話を彼らにすると「そ

うだ、うちの物だ」という。十余年の時を経て、やっと作者に巡り会えた。楊立仁

氏はこのとき八十八歳であるから、天后宮前にいた老人の情報とも大きな差はない。

「全神図」を入手した経緯の説明が長くなったが、街角で売っている民間版画は

ほとんどのばあい、どこの誰が作ったのか判らないことが多い。制作者が判明する

ことは希なので経緯を紹介した。

義成永画店の楊一家は、「全神図」の実作者であるとともに消費者でもある。「全

神図」の用法や内容に関して具体的に教示してもらうことができた。彼らの話を、

現時点での民間版画の実態を示す一例として記録しておく。

三、「天地三界全神図」の用い方

(一)「接神」儀式における用い方――現在

まず「全神図」の用い方から紹介する。天津郊外に位置する楊柳青鎮周辺の祀り

方を、義成永画店の第八代目・楊鵬氏に教示してもらった(以下は彼の説明を翻訳

した)。

「全神図」はサイズによって、天津、楊柳青では大きい物を「全神大紙」、小型

のものを「小天地」と呼び分けている。 

「全神図」は、毎年大晦日の夜(除夕)に使用する。民間では、天上にはあらゆ

る神仙と仏がおられると考えている。彼らは人々の暮らしぶりを見るために、年越

しの日に下界に降りて来る。民間ではこの活動を「接大紙」と呼ぶ。

我が家では、大晦日の夜に「全神大紙」、「増福財神」と「小天地」を貼りだし、

供物卓には新鮮な果物や乾燥した木の実を並べる。このお供えは「八乾八鮮」が一

般的である。つまり生と乾燥したものをそれぞれ八種類揃える。例えばドライフルー

ツは胡桃、栗、棗、落花生などで、新鮮な果物はリンゴやバナナ、みかんなどである。

お供え物で絶対に欠かしてはいけない物は、一碗の清水である。私の祖母は「水

は良いもので、財が富む意味がある」と言っていた。さらに蝋燭や「黄銭」(黄色

の紙で作った銭)なども欠かせない供物である。

「全神大紙」と「小天地」は「接神」の儀式を済ませると、大晦日の深夜「子の

刻」に焚化する。つまり時刻が元旦に変わる頃である。これは、全神を天上に送り

返す意味である。

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「全神大紙」は家の「中堂」に貼る。我が家が平屋に住んでいたときには、「三間屋」

の真ん中の部屋「中堂」に貼った。現在は高層住宅に住んでいるので中堂はないが、

客間に「全神大紙」を祀る〔筆者注――「三間屋」とは、一棟に部屋が三間ある構造。

中央の部屋(「中堂」と呼ぶ)に外との出入口があり、左右の部屋へは中堂から出

入する。中堂は客間であるとともに儀式なども行う。正式な部屋ということで「正

堂」ともいう。義成永画店は、楊柳青の版画産地として著名な炒米店(地名)に自

宅兼工房と自作用の畑を持っていたが、経済開発区に指定され、その地域全体が強

制立ち退きとなった。現在は、村落の住民がそのまま団地に移住させられ、自宅も

工房もその高層住宅内にある〕。

楊鵬氏は「小天地」を貼る場所について、この説明では言及し忘れている。彼が

第七代目の楊立仁氏に聞き取り調査した記録(後述)によると、「小天地」は大晦

日の夜に家の外――つまり庭に祭る。天地を敬うためだから屋外で礼拝するのだ、

と楊立仁氏は説明する。供物をそなえて、燃やし、叩頭の礼拝をし焼香する。燃や

すことは「焼」とは言わず「発」という。これは「天地」に敬意を示した言い方で

ある。

前述の記録というのは、『義成永年画藝術文献展――実物、技藝と口述』図録の

なかに収載されている。二〇一三年三月に天津美術学院美術館は展覧会「義成永

年画藝術文献展――実物、技藝と口述」を開催した。本展を開催するにあたって、

キュレイターの姜彦文氏(博士、天津美術学院講師)は楊鵬氏とともに、楊立仁氏

に確認しながらタイトルや時代などを決めて整理を進めた。さらに何度にも分け

て、楊立仁氏に聞き取り調査をした。インタビューの影像は会場で公開し、

内容はすべて文字に採録して図録に掲載している(「天地」に関しては、

一六七~一七一頁)。

(二)「接神」儀式における用い方――戦前

澤田瑞穂著『中国の民間信仰』(工作舎、一九八二年)に、義成永画店の「全

神大紙」と類似の図版、「天地三界十八仏諸神」が掲載されている〈図5〉。

澤田瑞穂博士(一九一二~二〇〇二)は戦前に北京に滞在し、俗文学の研

究や民俗学的な調査をしていた際に本図を入手された。現在は早稲田図書

館に収蔵されている(

1)。

挿図の「天地三界十八仏諸神」(以下、澤田収集図)に関して、本文中

には直接の言及はないが、図のそばに解説が付されているので、以下に引

用する。

 「天地三界十八仏諸神」(元版は清末。印刷は民国年間)

  

俗に百分図、百仏図といわれる。天地間の諸仏諸神が雲に乗って来

迎する様を描く。新年の神迎えのために接神卓に立てる。

 

一般家庭では、このような大型の百分図を位牌形に折って立て、礼拝

図5 全神図「天地三界十八仏諸神」(元版:清末、印刷:中華民国)華北早稲田大学図書館蔵(以下、同)。

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する。右の百分図では、天仙娘々や東岳大帝など泰山信仰が描かれ、斗姥や二郎真

君など南中国の神々は現れない。北中国の制作になるものであろう。位牌形に折る

とき正面になる重要な神仏には彩色が施され、尊顔は金紙で作って貼ってある。

  

地の紙の黄色は一般の使用が禁じられており、神仏の祭に縁の深い神聖色で

ある。

 (原寸 

天地一〇四.六センチメートル 

左右七六.七センチメートル)

澤田博士の解説を補足すると、「百分」は「百份」(パイフェン)と書く。図5は

大判の一枚刷りであるが、小型の様々な神像図を数十枚束ねたものも「百份」とい

う。これも「接神」のときに祀り、儀式のあとに焚化する。

解説の文末にある「原寸」は用紙の寸法である(版面ではない)。採寸時に折り

皺があったり、後に裏打ちをすると若干の差が生ずるので、現在の数値とは異なる。

澤田収集図の上部には「天地三界十八仏諸神」と金色で文字を刷った赤い紙が貼

り付けてある。「位牌形に折る」ときは、この赤い紙を中心にして縦長に折り、外

側の左右は裏側に折り込んで立てる。

高位の重要な神仏は図の中央に描き、さらに彩色する。位牌形に折ったときには、

これらの重要な神仏が正面に見える。それ以外の神仏は位牌形にしたときには見え

ないから墨線のままである。また「尊顔は金色で作って貼」ると説明されていると

おり、多色刷りの上にさらに顔の部分に別の「金紙の顔」を貼り付けている。金紙

にももちろん顔が刷ってある。つまり金紙用に、尊顔の版木が別に用意されていた。

澤田博士がこの図を入手された時には金色に見えたから「金紙」と書かれているの

だが、現在は変色して「銀紙」に見える。この色の変化については後述する。

最上段の「天地三界十八仏諸神」の文字も当初は金色であったが、現在は黒ずん

だ文字の跡にわずかに金色の破砕片が認められるだけである。金色の文字を印刷す

る技法は次のようである。

文字を彫った版木に、膠あるいはアラビアゴム糊の接着剤を塗る。その上に紙を

載せて刷るか、あるいは版木をスタンプのようにして紙に押す。接着剤が乾かない

うちに黄銅の粉を振りかける。余分な黄銅粉を払い落とすと金文字が現れる(黄銅

は銅と亜鉛の合金で、真鍮とも呼ばれる。金に似た黄色の光沢があるが、経年変化

により黒く変色する)。

尊顔の「金紙」は銀紙から作るが、その銀紙は薄く延ばした錫を貼り付けて作ら

れる。銀紙にオレンジ色の色料を塗ると、金色に変わって「金紙」になる。しかし

時間が経つとオレンジ色が退色し、もとの銀紙に戻る。

澤田収集図の「尊顔」も制作当初は金色だったが、八十年近くの歳月が経ち、銀

色に戻っている。しかし顔面の一部に黒ずみが見られる。黒ずみは、図の中央に描

いた神仏像に多く残っている。たとえば、上から一段目の「阿弥仏」、二段目の「玉

清」、三段目では「勾陳」と「玉皇」にその黒ずみがはっきりと確認できる。この

黒ずみは、微細な黒点が集まって面になったものだ。黒点の大きさは、前述したタ

イトルの金文字に残る黄銅粉の破砕片よりも微細である。極小の黄銅粉が変色した

のか、または接着剤の跡かは判断できないが、「金色の尊顔」の痕跡には違いない。

この黒点の痕跡から推測すると、本図が使用する「金紙」は、オレンジ色の色料を

塗ったものではなく、微細な黄銅粉を撒いて金色にしたのではないかと思われる。

「全神大紙」は儀式後に焚化するので、人目に触れる時間が短い。見える部分は

多色刷りだが、見えない部分は墨一色だけである。合理的に作られている「全神大

紙」だが、手間をかけた「金色の尊顔」を見ると、神仏への敬虔な気持ちが込めら

れていると感じる。

澤田博士が「北中国の制作になるものであろう」と推測するとおり、本図は天津・

楊柳青の風格を持っている。天津市は北京の東南にあり、楊柳青は天津市の西の郊

外に位置する。天津と楊柳青の民間版画は、華北のみならず東北や西北にも広い販

路を持っていたので、澤田博士が本図をどこで入手されたかは明らかにされていな

いが、天津地域で作られたものと考えて良いだろう。

四、「天地三界全神図」に描かれる神仏

(一)義成永画店の図と澤田博士収集の図の比較

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義成永画店の「全神大紙」(以下、義成永図という)に描かれた神仏像を、澤田

収集図と比較しながら見ていく。

(1)「全神図」のタイトル

  

義成永図――天地三界九仏諸神総聖

  

澤田収集図――天地三界十八仏諸神

二図のタイトルはほぼ同じ意味で、天地三界のあらゆる神仏聖人の図である。義

成永図のほうは「総聖」を加える。道教系の聖人がすべて含まれることを強調して

いるようだが、タイトルの文字数とは逆に、描いている神仏像は澤田収集図よりも

少ない。

(2)「全神図」の版木の大きさ

義成永図と澤田収集図の版面のサイズを比較する(単位はミリメートル)。

  

義成永図――天地:七五〇、左右:五〇八

  

澤田収集図――天地:八六一、左右:六五九

義成永図の版面は、澤田収集図よりも縦も横幅も短い。その差は、天地(縦)が

一一一ミリメートル、左右(横幅)は一五一ミリメートルである。版面のサイズの

差と描かれる神仏像の違いについては、次の(二)で述べる。

(3)「全神図」の原画の制作時期

澤田収集図は戦前に北京周辺で収集されたものであるが、前述

の『中国の民間信仰』に「元版は清末」との解説がある。つまり「本

図のもとの画は清末に描かれた」とされている。義成永図の原画

については、同画店八代目の楊鵬氏に訊ねたところ、「応是解放前」

(解放前というべきだ)と回答があった(二〇一七年七月二三日

電子メール。「解放」とは、中華人民共和国が成立したことを指

す)。さらに彼の祖父である同六代目の楊立仁氏にも確認してく

れたところ、「応該是很早的」(かなり早いものとするべきである)

との答えであったという(

2)。中華人民共和国成立後は伝統的な風習

は封建的と否定され、それを排除するための政治運動が続いた。

その間に「全神図」の版木を新たに制作する可能性は非常に低い。

新しく描いた原画で「全神図」の版木を彫るとしたら、文革後の

改革開放時期(一九八〇年代以降)であろうが、楊立仁氏はその

間ずっと義成永画店の店主であった。しかも主に神像図を制作し

てきた。新たに作った版木であれば覚えているはずである。彼は

九十歳を越えても記憶がはっきりしており、発言は信頼するに足

るものと考える。義成永図の原画の制作時期は確定できないもの

の、一九四九年以前という説を採りたい。

図6 義成永図、第一段目部分。三人の僧形像が並ぶ。

図7 澤田収集図、第一段目部分。薬師仏、釈迦仏、阿弥仏。

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義成永図の原画を一九四九年以前として、同時に版木も彫ったのであれば、すで

に七十年の年月が経っている。「版木はそんなに長持ちするか」と日本人は思うで

あろうが、中国の版木は長持ちするのである。日本の浮世絵印刷では印刷状態の良

いものは始めの三百枚ほどで、それ以上に刷ったものは版木が傷んで線がつぶれる

といわれる。その原因は竹の皮で作った硬い馬連で擦るからであるが、中国のばあ

いはシュロの幹のまわりに生える毛を束ねて刷り具に使う。これは馬連よりもはる

かに軟らかい。しかも力を入れて擦るのではなく、薄い用紙を版木に載せて撫でる

ように刷るので版木があまり傷まない。版木に隙間が出来ることはあるが摩耗は少

なく、何十年も使え

る。長命のものは百年

経っても印刷できると

いう。

(二)「全神図」の

各段に描かれた神仏

義成永画図に描か

れた神仏を、「天地三

界」のタイトル下から

順に段ごとに見ていく

(右から左へ)。さらに

澤田収集図とも比較す

る。

(1)タイトル下の

第一段目

「天地三界九佛諸神

総聖」の題の下に三人

の僧形の像が並ぶ〈図

6〉。光輪には「佛」の文字があり、胸に卍を記す。しかし中央の三仏には名前がない。

三仏の右には「燃燈仏」や薬瓶を持つ「観音」を描き、左には「弥勒仏」「大士」(観

音大士のこと)が描かれている。

澤田収集図では、薬師仏・釈迦仏・阿弥(陀)仏と記名する〈図7〉。この三尊

はみな「金紙尊顔」で、墨版に加えて色版は四色(赤・白・緑・藍)も使用してい

るから重要な仏である。しかし義成永画店がこの版木を彫ったとき、庶民は仏教の

内容には関心がなかったのではないか。もし具体的に釈迦や阿弥陀の名を彫っても、

庶民にとってはすべて「ほとけさま」でしかなかったと思われる。といっても、庶

民は仏教を軽視しているわけではなく、むしろ深く信仰している。ただ阿弥陀仏、

釈迦如来などの区別には無頓着で、経典もよく解らない。庶民が知っているのは「弥

勒仏」や「観音菩薩」である。「弥勒仏」は相撲取りのように肥った身体で表され、

日本人なら「布袋」と呼ぶ体型だが、中国の庶民は「弥勒」と親しみを込めて呼ん

でいる。「観音」や「菩薩」も身近な仏である。子供を授けるとされる「送子娘娘」は、

「送子観音」と言われることもある。「竈神」を「東厨司命」という所もあると前述

したが、「司命菩薩」と呼ぶ地方もある。人々の生活に密着している神仏は、宗教・

宗派とはかかわりなく敬愛され、崇拝されている。

(2)タイトル下の第二段目

中央部には道教の最高神とされる「三清」を描く<

図8>

。右から「玉清」「上清」

「太清」の名を示す。三尊の総称が「三清」である。「玉清元始天尊」、「上清霊宝天

尊」、「太清道徳天尊」とも呼ばれる。「太清道徳天尊」は、「太上老君」つまり道教

の祖師である老子のことである。老子は長いヒゲを生やした老人の姿で表現される

ことが多く、本図の「太清」も白いあごヒゲが長く、額には数本の皺が見える。

「三清」の右の「五当」は、「武当神」のことである。「五」と「武」の漢字の読

みが同音であることから、画数の少ない漢字を当てている。民間版画ではしばしば

このような簡略化が行われる。「武当神」は道教聖地の武当山の神である。手に棒

状のものを持つ。澤田収集図を見ると「吾當老祖」(武当老祖)と書かれ、ホッケー

のクラブのような棒を掲げ、先の丸い部分に「日」の字が見える〈図9〉。

図8 義成永図、第二段目部分。「三清」が並ぶ。

図9 澤田収集図、第二段目部分。右端の「吾當老祖」は武当山の神。

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「三清」の左は、「月」の字牌を持ち、老人のような顔である。光輪には「岳神」

とある。一般に「岳神」は岳飛廟の神霊を指すか、あるいは「山の神」のことである。

民間信仰の数多くの神仏の中ではどちらも重要な神とはいえない。「岳」と同音の

「月」と仮定すれば「月神」になる。「月神」は太陰星主、月姑、月宮娘娘、月光娘

娘、月光菩薩などの言い方があり、女神である。古代から月は人の生死を司ると考

えられていた。特に女性の身体と関連しているとされ、妊娠ばかりでなく生まれた

子供の成育を守護する神でもある。女性の守護神から拡大解釈されて、恋愛の成就

や家人の安康を願っても礼拝されている。

右の解釈から楊鵬氏とは「月神」で意

見が一致したが、のちに澤田収集図の解

説を見ると、この像は「太上老君」となっ

ている。隣の「太清」がつまり太上老君

(老子)であるから、老子が二人並ぶこ

とはないと思われる。

澤田収集図のこの部分は、印刷が不鮮

明ではあるが「注生産母」と読める(

3)。「注

生産母」は、妊娠を司る女神である。「注

生娘娘」「送子娘娘」「送生娘娘」「順天

聖母」などの名もある。「順天聖母」は、

「臨水夫人」とも呼ばれる出産の神で、

難産の女性を救うとされる。「注生産母」

は、「注生娘娘」(妊娠)と「順天聖母」(出

産)の能力を合わせ持つ名前である。「三

清」の隣に「注生産母」を配しているの

は、子だくさんや子孫繁栄をいかに重要

視していたかの表出と思われる。この像

が「月字牌」を掲げるのは、妊娠・出産

が月と縁が深いこともあるが、「三清」の右の「武当神」が持つ「日字牌」と対に

なることも意識しているのであろう。

(3)タイトル下の第三段目

第三段目から第四段目にかけて、図の左右端には大勢の官吏や侍者を描く。義成

永図は各自の名称を記していないが、澤田収集図には「南斗」「東斗」「北斗」「西

斗」の星座の神の名前を示している。道教では「南斗星君」「北斗星君」とも呼び、

人の誕生、寿命、延命などと関わりがあるとする。義成永図では星座の神の名は省

略され、第三段目で名前が示されるのは、大きな光輪を持った四位である。右から、

次のように並ぶ〈図10〉。

「勾陳」(勾陳上宮南極天皇大帝)

「玉皇」(昊天金闕至尊玉皇大帝)

「紫微」(中天紫微北極太皇大帝)

「后土」(承天効法后土皇地祇)

道教ではこの四位は「四御」と呼ばれ、彼らは「三清」の補佐をする。「三清」

は宇宙万物の創造者であるが、実質的にそれを運用、統治する最高の神が「四御」

とされる。「后土」は「四御」唯一の女性で、陰陽と生育を司る。また土地の神で、

玉皇大帝と対になって「天公地母」と一組で祀られることもある。

「玉皇」と「紫微」のあいだに「協天大帝」の文字があるが、これは下段中央の

関羽の名称である。

(4)タイトル下の第四段目

義成永図のタイトル下の第四段に並ぶ神々は、人間界に近い存在といえるだろう。

記された名前を右から左に並べる。

「九天」……「九天応元雷声普化天尊」という雷を統率する神。剣を持ち、額に

第三の眼がある。九天とは、中天の最も高い処で神仙が住むところ。天の禍福を司

る。同じく「九天」と省略して呼ばれる「九天玄女」は仙女である。

「薬王」……官服を着て兜のような冠を被り、左手に薬瓶を持つ。薬の生産者や

販売業者はもちろんのこと、病気に罹った人々が救いを求めて薬王廟にお参りする。

図10 義成永図、第三・四段目部分。第三段目には、「三清」を補佐する「四御」を描く。第四段目の中心に、財神として崇拝される関羽「協天大帝」が見える。

中国民間神像図にみる庶民の信仰(三山)

(七三)

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そこで御神籤をもとにした処方箋をもらって、治療の薬とする。

「協天大帝」……「関聖帝君」、関羽のことである。名前は上段に示されている。

胸の前で笏を持つ。右に小さく描かれているのは関羽の息子の関平である。侍者の

周倉は左側に描かれ、関羽のアトリビュート(象徴する持物)である青龍偃月刀を

持っている。

「文昌」……「文昌帝君」という学問成就の神である。もとは四川省の民間信仰

の雷神であったというが、文運功名の神になり、道教に吸収された。「文昌」の左

にひかえるのは「魁星」という文運、科挙及第の神である。文昌帝君の侍者として

配されているのだろう。現在で

も、受験シーズンになると「魁

星」を祀った廟には、学生・生

徒やその家族が捧げ物を持っ

て合格祈願に大勢集まる。

「真武」……「真武大帝」、「真

武帝君」、「玄武大帝」ともいう。

北方の神で、額に第三の眼を持

ち、甲冑を着け剣を持つ。容貌

は「薬王」の右の「九天」と

ほぼ同じである。道教の聖地・

武当山の神とされる。

澤田収集図の第四段目は、義

成永図との違いが大きい。右か

ら記名されるものを列記する

〈図11〉。

「天佑」・「天蓬」・「玄武」

……これらは一つの雲形で囲

まれている。「天佑」は、「天猷」

のこと。「佑」は「猷」と同音のため、彫りを簡略にするために画数の少ない「佑」

にした。この三人は「北極四聖」と呼ぶ元帥で、もう一人は「翊聖元帥」という。

道教では、彼らは紫微大帝(北極星)の部下の将軍で、護法の神将とされる。元始

天尊が群衆を守るために、彼らを人間界に派遣して邪鬼を一掃させた。つまり庶民

を邪悪から救出・保護する将軍たちである。

「地官」・「天官」・「水官」……「三官」と呼ばれる、人の生に密着した神(後述)。

中央の「天官」が三官の中で位が一番高く、顔に金紙を貼っている。

「三官」とは、天官・地官・水官をひとまとめにした呼称で、自然崇拝(天・地・

水)に源を持つといわれる(

4)。「三官」は「三元」とも呼ばれ、「三官」を一緒に描い

て「三元大帝」ということもある。それぞれの任務は、「天官」は人に福を与え(賜

福)、「地官」は罪を許し(赦罪)、「水官」は厄を払う(解厄)とされる。どれも人

生の重要な事柄である。それゆえに「三官」は広く信仰され、清末までは全国各地

に「三官」を祀った廟が多数あった。

正月を迎える時期には「天官賜福」(天官が福を授ける)という年画が出回って

新年の室内を飾る。「天官」の誕生日は正月十五日で、この日は「上元節」と呼ば

れて天官が祀られる。またちょうど新年最初の満月でもあり、正月行事の最後のイ

ベントとして各地で燈籠祭が行われる。

「地官」の誕生日は七月十五日で「中元節」という。仏教では「盂蘭盆会」を行い、

地獄の門が開いて、亡者があの世から現世に戻る日である。祖先の霊と中元節を過

ごすとともに、子孫のない無縁仏にも施しをする(施餓鬼)。地蔵菩薩が地獄に落

ちた死者を救うという信仰も「地官」が“赦罪”するいわれと関連があるようだ。

「水官」の誕生日は十月十五日で、この日は「下元節」という。三官廟や水神廟

に参ったり、田畑で水官を祀る地域があるが、多くのところでは目立った行事は見

かけない。

「天師」・「真武」・「文昌」……「天師」は「張天師」といい、道教の祖師である

張道陵を指す。「真武」は前述した。「文昌」は「文昌帝君」といわれ、学問、受験

の神で文筆業の神でもある。

図11 澤田収集図、第三・四段目部分。第三段目に「四御」を描く。第四段目の中央に「三官」が配されている。

中国民間神像図にみる庶民の信仰(三山)

(七四)

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(5)タイトル下の第五段目

義成永図では、前述の「三官」を中央に配している。その右側の山型の囲いのな

かに五人の女性を描いて、「五位娘娘」と記す〈図12〉。「三官」の左には「五位娘娘」

と対をなすように「五岳神」が描かれる。

澤田収集図の第五段目では、中央左の囲いのなかに、「南岳」「西岳」「東岳大帝」

「中岳」「北岳」とそれぞれの名称が書かれている。「東岳大帝」が一段と大きいの

は、いちばん位が高いからである。「東岳」は山東省にある泰山のことで、東にある。

東は日が昇る方角であるから、「東岳大帝」は人の生死や禍福、貧富などを司ると

される。義成永図は、神の名は略しているものの、中央の「東岳大帝」を大きく描

いてその高位を示している。

澤田収集図五段目の右側には、前述の「五岳大帝」と対になる形で五人の女神を

描く。その呼称は「眼光」「催生」「天仙娘娘」「送生」「子孫」とある〈図13〉。「眼

光娘娘」は眼病を治す女神である。「天仙娘娘」は泰山に住み、「泰山玉女」ともい

う。結婚・子授け・生育・豊作・出世など全般を叶える女神で、五人の中央に大き

く描かれている。その他の女神も出産・育児・子孫繁栄に関わる。澤田博士の解説

ではこの五女神を「泰山の娘娘」とする。義成永図の「五位娘娘」も五岳神のそれ

ぞれの夫人・泰山の娘娘であろうと単純に考えたが、楊鵬氏の答えは次のように予

想に反したものであった。

「五位娘娘」は「五岳神の夫人」ではない。「五位娘娘」とは、眼光娘娘、耳光

娘娘、口光娘娘、鼻光娘娘、耳光娘娘、つまり人の顔にある五官を表す女神たちで

ある。私が二十年前に房蔭楓師匠に師事して神仏像画を学んだとき、房先生はこの

種の題材の像をたくさん描いていた。結跏趺坐し、両手の掌にそれぞれ眼、耳、口、

鼻を持つ形象であった。これらの神像は一般に五官を患っている人々が礼拝する。

義成永図の「五位娘娘」は、澤田収集図とはまったく異なる女神を配列している

のであった。楊鵬氏の説明は、目・耳・口・鼻の四つを挙げ、もう一度耳を加えて

合計五官としている。一般に「五官」の意味は二通りあり、一つは目・耳・口・鼻・

皮膚の五つの器官・感覚を指す。もう一つは顔立ち全体をいう。言葉の意味からい

えば、皮膚を守る女神が五人の女神に含まれなけ

ればならないが、「皮膚」は形に表しにくいので、

顔の左右にある「耳」を二回数えて「五官」にし

たのであろう。これらの「五官娘娘」は、本来は

泰山娘娘であったものが伝承の過程で地域独自の

民間信仰に置き換わったのではないかと考える。

(6)タイトル下から第六段目(最下段)

義成永図の六段目は、図の最下段である。澤田

収集図の最下段は第七段目になる。つまり澤田収

集図のほうが一段多い。両図の下段はともに中央

に「地蔵」を描く。地蔵菩薩は右手に錫杖を持ち、

蓮華座に座す。地蔵の両脇に僧侶がひかえ、額に

は白毫が見える。その左右には冠を被った人物が

図12 義成永図、第五段目右側部分に「五位娘娘」を描く。

図13 澤田収集図、第五・六段目部分。第五段目に「天仙娘娘」、第六段目に「関聖大帝」を描く。

中国民間神像図にみる庶民の信仰(三山)

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みな中央に向かって立っている。地蔵菩薩を拝しているようだ。地蔵に近い人物ほ

ど冠り物が立派である。

前述の『義成永年画藝術文献展――実物、技藝と口述』図録では、最下段は「地

蔵王菩薩及十殿閻君」としている(九五頁)。「十殿閻君」は、日本では「十王殿」

の名のほうが知られているだろう。地獄図の一種として、十王のそれぞれの裁きの

場面を描くものがある。いわば地獄の裁判官である。亡者はこの審判官を順に巡っ

て、さまざまな罪をチェックされ、送り先を決められる。冠を被って笏のようなも

のを持っているのは地獄の役人であるからだ。

澤田収集図のほうでは「当番諸神」と書かれるのみで、十王殿の説明はない。「当

番」は人々の仕業を記録する任務を持つ。冠に官服を着けた人物は左右合わせると

十人以上になるので、十王殿とするには解説に困ったために表記を避けたのであろ

うか。

(7)義成永図の最上部について

義成永図と澤田収集図を比較しながら最下段まで見たが、義成永図のタイトル「天

地三界九仏諸神総聖」の上に描かれている像について検討しておきたい。

鳳凰の背に乗る人物が中央に描かれる。大きな冠をつけ、笏を持つが、図には名

前が記されていない。タイトル下に描かれた各段の主要な神仏には名前が示されて

いるが、この像には記名がない。一体、誰を描いているのだろうか。全図の最上部

に描かれているということは最高位の神であろう。

楊鵬氏によれば、これは玉皇大帝という。しかし、本図のタイトル下の第三段目

には「玉皇」の名前がある(図の中央右側)。玉皇大帝が重複している点を質したが、

「最高神であるから最上段に描く」との回答であった。この答えに納得できないも

のの、さらに問いただすべき事項が見つからずそのまま放置していた。あるとき馬

書田の「玉皇大帝」の解説を読み、突然、楊鵬氏の回答を理解する「鍵」を手にし

た気がした。馬書田は次のように書いている(

5)。

道教の高級神「三清」や「四御」のことを話しても、一般人はおろかインテ

リ層でも知っている者は万人に一人もいないだろう。しかし「玉皇大帝」の名

は女子供までみな知っていると言って良い。特に近年は『大閙天宮』というア

ニメーションや連続テレビ劇『西遊記』が人気があって、玉皇大帝の知名度は

日に日に高くなっている。

庶民が思う玉皇大帝は、道教の廟に鎮座する像ではなく、西遊記のなかの万

神の王である「玉皇大帝天尊玄穹高上帝」で、すべての天神、地祇、人鬼を管

轄している。〈中略〉 

玉皇大帝の形象は歴史的には比較的遅いが、その原型で

ある天帝の出現は早く、原始社会の自然崇拝に遡る。

玉皇大帝は別名を元始天尊といい、天帝・天公という呼び名もある。

台湾は昔からの民間信仰の思想や形式が比較的によく保存・伝承されているが、

台湾で民間信仰を調査したときには、大多数の人が玉皇大帝とは言わず、短く「天公」

と呼んでいた。どんな廟に参詣しても、また家庭で儀式を行うときにも、先ず南に

向かって線香を捧げて礼拝しなければならなかった。それは南に「天公」がいるか

らだ。玉皇大帝はこの世の最高神で、天地三界の全権力を持ち、全能である。真の

玉皇大帝はすべての神の上に存在している、というのが庶民の認識であった。この

認識には難しい理屈はないのである。

中華系の文化のなかで伝承されてきた「天界の概念」は、「玉皇大帝・天公は全

神格の最高位」としている。義成永図が、たとえ「玉皇」が重複しているとしても、

最上部に玉皇大帝を描くのはこの概念に基づいているからであろう。

五、まとめとして

澤田収集図も義成永図もどちらも、道教・仏教・民間信仰が混在していて整然と

筋道だった理論をもとに配された図ではない。しかしこの混沌とした「全神図」こ

そが中国庶民の心を具現化したものであり、中国文化の底流を理解するためには決

して軽視できないものであろう。この二図には「混沌」の共通点もあるが明らかな

違いもある。それはこの二図が背景として持つ文化の違いといえるだろう。最後に

その背景の差異をまとめておきたい。

中国民間神像図にみる庶民の信仰(三山)

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(一)受容層の違い

澤田収集図と義成永図の原画は、制作時期の違いによる社会の変化を反映してい

ることは当然であろう。しかし、その時間差よりももっと大きな差異があることに

注意したい。それは、澤田収集図を購入する階層と義成永図を求める階層は同一で

はないという点である。澤田収集図は、北京や天津の都市部の住民――彼らは比較

的富裕で、教養ある階層であった――に向けて販売されたものと思われる。なぜな

ら版画のサイズが大きく、中心部に描かれた神仏像には金紙の尊顔が貼られ、わざ

わざ別紙に画題を印刷して貼りつけた手間のかかったものである。タイトルは、模

造とはいえ金泥を使用して豪華さを出している。神仏像には優雅さがあり、彫りも

繊細である。澤田博士が「元の画は清末」とされる根拠もここにあると思われる。

これに比べると義成永図の用紙は澤田収集図より小型であり、画風に優雅さはない。

どちらかといえば稚拙で、線が太く衣服や顔の表現が単純かつ明快である。神仏像

はわかりやすく、威厳よりも親近感にあふれ、漫画のような雰囲気には訴求力があ

る。義成永図は農村向けに制作されたものと考えられ、農民が理解しやすい画風に

なっている。「全神図」に限らず、民間美術は受け手(庶民)の受け入れやすいス

タイルを取り、受け手が望むもの(こと)を表していなければ存続できない。つま

り庶民の支持がなければ売れ行きが悪く、すぐに消滅していく。反対に、強大な支

持を受けたベストセラーは、他の店や地域が模倣して次々と拡散していく。中国の

民間版画はこのような特徴を持っている。

(二)信仰対象の違い

四の(二)で前述したように、澤田収集図と義成永図の神仏が並ぶ各段を比較す

るとさまざまな違いがあった。これは版木の大きさの違いにも起因すると思われる。

四の(一)の(2)で述べたように、義成永図は縦は約一〇センチメートル、横は

一五センチメートルも小型である。この縦の差は、神仏が居並ぶ一段分の高さであ

る。義成永図は段数が一段少ないながらも、描き入れる神仏は庶民の信仰を反映さ

せ、農民が必要とする神仏諸聖をできる限り多く配する努力をしている。たとえば、

澤田収集図の第四段目に配された神格のなかで、義成永図に描かれているのは左側

の「真武」と「文昌」のみである。それ以外の神格は、庶民の実生活と距離が生じ

ていたということだろう。澤田収集図が第四段目に配する「三官」は道教では高い

位にあるが、義成永図は下の第五段目に下げている。農民にとって道教の教理は遠

い存在であったようだ。

ところが澤田収集図の第六段目に配された「関聖大帝」と従者の関平・周倉は、

義成永図では庶民の信仰の篤さを受けて、第四段目に格上げされている。結果とし

て、関羽の下に「三官」のひとり「天官」が位置することになった。しかも関羽

の「協天大帝」の名は、上の第三段中央に書かれている。いかに関羽が重視され、

信仰を集めていたかが判る。「協天大帝」(関羽)は、公平無私の財神である。礼拝

すれば、えこひいきなく財をもたらしてくれる正義の味方なのである。さらに義成

永図の第四段は、澤田収集図にはない雷神の「九天」や「薬王」を描く。病気から

救ってくれる「薬王」、雷を統括して農業に利益をもたらす「九天」は、どちらも

具体的に御利益があり、解りやすい〝任務〟を持っている。「薬王」や「九天」には、

実益優先の庶民を強く引き寄せる力がある。これらの神々が「三官」よりも上位に

あるのは、庶民の現世利益の価値観を映すものであるが、生活のなかで道教の影響

力が強くないことをも示している。圧倒的多数の庶民(その多くは農民)にとって、

道教の教理よりも自らの生活・健康のほうが重要であったことを義成永図は如実に

語っている。つまり、澤田収集図と義成永図の描画の違いは、この神像図を拝する

人々の信仰の違いを表したものであった。

庶民が納得する天地三界の神仏諸聖の世界が描かれているからこそ、人々は全身

全霊を傾けてこれに礼拝するのである。このように庶民の篤い信仰心に支えられて、

民間版画は弾圧を受けながらも復活してその生命を保ってきた。(了)

中国民間神像図にみる庶民の信仰(三山)

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謝 

辞本稿執筆にあたり、次の方々にお世話になりました。記して感謝いたします。

天津楊柳青・義成永画店の第六代楊立仁氏、第八代楊鵬氏、北京在住の版画家・

橋爪佳子氏、早稲田大学図書館特別資料室の馬渕敬子氏、殊に駒澤大学禅文化歴史

博物館の佐藤大樹氏には、平成二八年度駒澤大学秋季公開講座へのご紹介や本紀要

投稿に関してご高配いただきましたことを深謝いたします。

(みやま 

りょう 

首都大学東京非常勤講師、博士(学術))

注(1)澤田博士の膨大な収集品は、現在「風陵文庫」として早稲田大学図書館に収蔵され、

コレクションは図書館ホームページの「古典籍データベース」で画像が公開されてい

る。

(2)『義成永年画藝術文献展――実物、技藝と口述』図録(天津美術学院美術館、二〇一三年)、

九五頁。本図と同版と思われる図が掲載されている。そのキャプションには「清代版」

となっている。楊立仁氏がいう「かなり早い時期とすべき」という見解はここに「清

代版」として表明されている。しかしこれは「清代の風格を継承する図柄」という意

味であって、実際に清の時代に彫った版木そのものが伝わっている訳ではないと思わ

れる。なぜならこの版の図は描線に崩れが見られ、何を表現しているのか理解しにく

い個所がある。彫版が何度か繰り返されると、線の意味を解しないままに模刻される。

民間版画にはよくこのような現象が見られる。

(3)澤田瑞穂『中国の民間信仰』の図の解説では、「太上老君(老子)」とあるが、筆者の

実見では「□生産母」の線条が残り、□の文字は印刷が不鮮明ではあるが、かすかに

「さんずい」が見えるので、「注生産母」とした。

(4)馬書田『中国道教諸神』北京:団結出版社、一九九六年初版・一九九八年第二版、

六〇―六一頁。

(5)前掲、馬書田『中国道教諸神』三六頁。

参考文献

『義成永年画藝術文献展――実物、技藝と口述』図録 

天津:天津美術学院美術館、二〇一三

年澤田瑞穂著『中国の民間信仰』東京:工作舎、一九八二年

馬書田著『中国道教諸神』北京:団結出版社、一九九六年初版・一九九八年第二版

宗力・劉群著『中国民間諸神』石家荘:河北人民出版社、一九八六年

中国民間神像図にみる庶民の信仰(三山)

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