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1 韓国・ノグンリでひらかれる平和博物館国際会議 「平和のための博物館国際ネットワーク」(INMP, International Network of Museums for Peace) からのお知らせより抜粋しました。 (1)国際平和博物館会議とは? 世界には、日本を含めて、平和について考えるための博物館が沢山あります。1992 年、イギリスのブラッド フォード大学とクエーカー教徒の団体“Give Peace a Chance” が、歴史上初めて世界の平和博物館関係者の会 議を呼びかけました。その会議で、現在の「平和のための博物館国際ネットワーク」の前身である「国際平和博 物館ネットワーク」が組織され、ブラッドフォード大学のピーター・ヴァン・デン・デュンゲン博士が統括コー ディネータを務めてきました。 以後、基本的に 3 年に 1 度のペースで国際会議が開かれ、各国の平和関連の博物館の活動報告や、平和博物館 をめぐる理論的な問題に関する討論などが活発に行われてきました。第 3 回会議と第 6 回会議は日本で開催され ました。その活動は国際社会で評価され、2013 年にはノグンリ国際平和財団(韓国)の「第 6 回平和賞」を受 賞するに至りました。 そして、そのノグンリ国際平和財団で、2014 年 9 月 19 日 ~22 日、第 8 回国際平和博物館会議が開催されることになり ました。国家レベルでは日韓両国の間にはいろいろな問題が ありますが、平和博物館に関わる私たちはこぞって参加し、 世界の平和博物館関係者と経験や意見を交換し、友誼関係を 深めたいものです。このニュースは、第 8 回国際平和博物館 会議についての最初の情報としてお届けするものです。 (写真)ノグンリ国際平和財団のチョン・クードゥ理事長と協力 の手を結ぶ安斎育郎 INMP 理事(2011 12 月、ノグンリ平和公 園にて) (2)「ノグンリ」とは?─朝鮮戦争での米軍による韓国人無差別虐殺事件 ●事件の経過 1950 7 月,朝鮮戦争が始まって約 1 ヶ月後のことです.当時,十分な進攻の準備を整えた北朝鮮軍は,38 度戦を超えて破竹の勢いで南下していました.逆に不意をつかれた米軍と韓国軍は,混乱の中を一路南へ向け敗 走中でした. 忠清北道でも道都の大田市が北側の手に落ちました.ヨンドン郡のノグンリ一帯は,敵味方入り乱れ,混乱の さなかにありました. 7 26 日,ヨンドン郡イムゲリとジュゴクリの住民約 500 名に,米軍から避難勧告が出されました.「安全な ところに避難させるから南下しろ」との米軍兵士の言葉に従い,住民は荷造りをして避難の途につきました. 午後 1 時頃,米軍に案内された避難民たちは,ノグンリにある京釜線の鉄橋に集合しました.米軍はこの時, 避難民の荷物を検査し,芝刈り用のカマやノコギリなど武器になりそうなものはすべて押収したといわれます. 住民を指揮していた米軍兵士たちは,本部と無線連絡を取った後,その場を離れました.すると間もなく米軍 P51 ムスタング戦闘機が現れました.戦闘機は,鉄橋の上にいた避難民をめがけて機銃掃射を始めました.逃 げまどう避難民を銃弾が容赦なく襲いました.人々は先を争って鉄橋下の水路用トンネルへと駆け込んでいきま した.しかし,そこは避難所ではなく,彼らの墓地になってしまったのです. 韓国の一地方である「ノグンリ」(老斤里)は、「ノグンリ虐殺事件」として記憶されています。日本では あまり知られていませんが、この事件は、朝鮮戦争開戦の 1950(昭和 25)年 6 月 25 日のちょうど 1 ヶ月後 の 7 月 25 日、アメリカ軍が何百人という韓国人に無差別攻撃を加えた忌まわしい事件です。詳細は下記を ご覧下さい。

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韓国・ノグンリでひらかれる平和博物館国際会議

「平和のための博物館国際ネットワーク」(INMP, International Network of Museums for Peace)

からのお知らせより抜粋しました。

(1)国際平和博物館会議とは?   世界には、日本を含めて、平和について考えるための博物館が沢山あります。1992 年、イギリスのブラッドフォード大学とクエーカー教徒の団体“Give Peace a Chance” が、歴史上初めて世界の平和博物館関係者の会議を呼びかけました。その会議で、現在の「平和のための博物館国際ネットワーク」の前身である「国際平和博

物館ネットワーク」が組織され、ブラッドフォード大学のピーター・ヴァン・デン・デュンゲン博士が統括コー

ディネータを務めてきました。 以後、基本的に 3年に 1度のペースで国際会議が開かれ、各国の平和関連の博物館の活動報告や、平和博物館

をめぐる理論的な問題に関する討論などが活発に行われてきました。第 3回会議と第 6回会議は日本で開催されました。その活動は国際社会で評価され、2013 年にはノグンリ国際平和財団(韓国)の「第 6 回平和賞」を受賞するに至りました。 そして、そのノグンリ国際平和財団で、2014 年 9 月 19 日

~22 日、第 8 回国際平和博物館会議が開催されることになり ました。国家レベルでは日韓両国の間にはいろいろな問題が ありますが、平和博物館に関わる私たちはこぞって参加し、 世界の平和博物館関係者と経験や意見を交換し、友誼関係を 深めたいものです。このニュースは、第 8回国際平和博物館 会議についての最初の情報としてお届けするものです。 (写真)ノグンリ国際平和財団のチョン・クードゥ理事長と協力 の手を結ぶ安斎育郎 INMP理事(2011年 12月、ノグンリ平和公 園にて) (2)「ノグンリ」とは?─朝鮮戦争での米軍による韓国人無差別虐殺事件

●事件の経過

1950年 7月,朝鮮戦争が始まって約 1ヶ月後のことです.当時,十分な進攻の準備を整えた北朝鮮軍は,38度戦を超えて破竹の勢いで南下していました.逆に不意をつかれた米軍と韓国軍は,混乱の中を一路南へ向け敗

走中でした. 忠清北道でも道都の大田市が北側の手に落ちました.ヨンドン郡のノグンリ一帯は,敵味方入り乱れ,混乱の

さなかにありました. 7月 26日,ヨンドン郡イムゲリとジュゴクリの住民約 500名に,米軍から避難勧告が出されました.「安全なところに避難させるから南下しろ」との米軍兵士の言葉に従い,住民は荷造りをして避難の途につきました. 午後 1 時頃,米軍に案内された避難民たちは,ノグンリにある京釜線の鉄橋に集合しました.米軍はこの時,避難民の荷物を検査し,芝刈り用のカマやノコギリなど武器になりそうなものはすべて押収したといわれます. 住民を指揮していた米軍兵士たちは,本部と無線連絡を取った後,その場を離れました.すると間もなく米軍

の P51ムスタング戦闘機が現れました.戦闘機は,鉄橋の上にいた避難民をめがけて機銃掃射を始めました.逃げまどう避難民を銃弾が容赦なく襲いました.人々は先を争って鉄橋下の水路用トンネルへと駆け込んでいきま

した.しかし,そこは避難所ではなく,彼らの墓地になってしまったのです.

韓国の一地方である「ノグンリ」(老斤里)は、「ノグンリ虐殺事件」として記憶されています。日本では

あまり知られていませんが、この事件は、朝鮮戦争開戦の 1950(昭和 25)年 6 月 25 日のちょうど 1 ヶ月後

の 7 月 25 日、アメリカ軍が何百人という韓国人に無差別攻撃を加えた忌まわしい事件です。詳細は下記を

ご覧下さい。

2

米軍はトンネルの両側の出口に機関銃を設置しました.そして一斉射撃を加えました.逃げ場を失った避難民

たちは,理由もわからないまま死体の山を築いていくしかありませんでした.銃撃はその後も米軍が撤退するま

で,3日間にわたって断続的に続けられました.夜半の闇をついて逃げ出した一部の青・壮年を除いて,老人と子ども,婦人たちのほとんどは殺されてしまいました. 身元が確認された死者の数だけでも 121名.実際の犠牲者は 300名を下らないと推定されています.死体の間で息をひそめていた人々が自らの生存を確信したのは,7月 29日,「米軍たちは後退しました.安心して出てきなさい」という,北朝鮮軍兵士の声によってでした. ●なぜ事件が明らかになったか?

ノグンリ事件が韓国内で知られるようになったのは 1994 年のことです。虐殺事件で幼い息子と娘を失った鄭ウニョン氏が『我らの苦痛を誰が知ろう』という本を出版しました.これがきっかけになって,ノグンリの虐殺

は『ハンギョレ新聞』や『マル』誌など,一部のマスコミでも取り扱うようになりました.しかし社会的に大き

な関心を引くまでには到らず,政府の反応もありませんでした. 昨年,朝鮮戦争関係のアメリカ側秘密文書が,マル秘扱いを解かれました.この中に虐殺事件関係のファイル

が発見されました.AP通信は,当時の事情と背景を語る資料を整理しました.そして 9月 29日,「ノグンリの鉄橋」という記事で事件を報道し,上部の命令で米軍が行った虐殺だという事実を暴露したのです. レポートは,当時の第1機甲師団と陸軍第 25 歩兵師団司令部の命令書,及び米第 8 軍本部の命令書と参戦兵士たちの証言をもとに,生々しく事件を再現されています.7月 26日,米軍 25師団長であったウィリアム・B・キーン少将は,各方面の野戦軍指揮官たちに,次のような命令書を伝達していました. 「戦闘地域を移動するすべての民間人を敵とみなし,発砲せよ」 そしてノグンリの鉄橋にいた避難民に対しても,「彼らを敵と見なせ」と命令していました. また第 1 機甲師団司令部は,7 月 27 日に「避難民が防御線を越えないようにせよ。越えようとする者はだれであれ発砲せよ」との命令を下していました. 第 1機甲師団に所属していた 6人の将兵が,住民に向かって発砲したことを認める証言を行ないました.またほかの 6人は,大量虐殺を目撃したと語りました。機関銃射手のノーマン・ティンクラーは「われわれは彼らを全滅させた」と証言しました. 虐殺現場にいたジェームズ・カンス軍曹は証言しています. 「女性や子供に向けて銃を撃つことがどうしてもできなかった.空に向けて銃を撃った」 またエドワード・テイラー上等兵は,「今でも雨の降る夏になると,子どもたちの泣き叫ぶ声が聞こえる」と

証言しています. つまり 1950年の 7月 26日から 29日にかけてノグンリで起きたことは,決して偶発的な事件ではなく,意図的で計画的な大量虐殺だったのです. ●あいつぐ新証言

AP 通信の記事が報道された直後,米軍側はこれを黙殺する姿勢をとりました.米国防省は AP 電へのコメントを発表しましたが,それは「陸軍の軍事記録センターで公式記録を調査したが,本件に関する証拠書類は発見

されなかった」という型通りのものでした. しかし AP通信の記事は綿密な調査を経た説得力のあるものでした.記事に追随して『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』,そして ABC,NBC など主要な放送局が報道に乗り出しました.こうして取材競争が始まりました. 取材を受けた元米兵テルロ・フリントは,自分たち兵士も米軍機の機銃掃射を受け,避難民といっしょに小川

に身を隠したと述べました. 第 1機甲師団所属の中尉としてこの作戦に参加したロバート・キャロル予備役大佐は,司令部からの命令を実際に受けたと証言しました.そして命令に基づき,第 7連隊の小銃手らが避難民に向かって発砲したと語りました. キャロルの証言によれば,彼は小銃中隊に銃撃をやめろと命令しました.「彼らが敵なのか、確信が持てなか

った」からです.彼は「少なくとも初日には,避難民の中に北朝鮮軍はいなかった.大部分は女性と子ども、老

人だった」と述べています.

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別の証言によれば,小銃中隊長だったメルボン・チャンドラー大尉は,この後上官と連絡を取りました.そし

て鉄橋の下の入口に機関銃を設置して発砲するよう指示しました.元米兵ユージン・ヘスルマンは、「チャンド

ラー大尉が『彼らを皆殺しにしよう』と語った」と述べています. 10月 8日付で放映された米 CBSのニュース放送は,米軍の事件隠蔽工作に焦点を当てています.これも当時の秘密文書の公開により明らかになりました.米陸軍は,1951年当時の虐殺に関わったトッド一等兵の証言を,「アメリカの立場を困難なものにする恐れがあり,極秘に分類せよ」と指示していたのです.この証言の中でト

ッド兵士は以下のように述べています. 「…こうして皆殺し作戦が始まった.我々は敵を攻撃するために移動し,女,子どもを問わず,我々の目にふれたものをすべて殺戮した」 この事件を取材した CBSニュースは,次のような言葉で報道を終えています. 「すべての戦争は醜悪である.しかし朝鮮戦争は,我々が思っていたよりもはるかに醜悪なものであったこと

が明らかになるだろう」 ●共同調査報告の発表

当初,米政府は虐殺の事実を否定していました.しかし被害者・加害者の生々しい証言や物証、真相調査を求

める声に押され,調査団を現地に派遣し,調査することを明らかにしました。 陸軍監察官マイケル・エッカーマン中将を団長とするノグンリ事件真相調査団は,99 年 10 月 29 日に現地を訪問.虐殺現場などを見て回った後,「ノグンリ住民虐殺真相対策委員会」代表 6人と面談しました. 今年 1月 12日,両国政府による「ノグンリ調査報告書」が発表されました.結論は次のものです. 「1950 年 7 月,切迫した韓国戦争初期の守勢的な戦闘状況下で,強要によって撤収中だった米軍は,ノグンリ周辺で数未詳の避難民を殺傷するか,負傷させた.…しかし,これは戦争中にしばしばありうる偶発的な事件であり,当局の命令によって引き起こされた意図的な虐殺ではない」 この報告は,米軍の民間人虐殺行為を公式に認めた点では一歩前進です.しかし,それが意図的・組織的なも

のであった可能性は否定されました.結果として,元米兵らによる証言は無視されたことになります.直接的な

証拠となる第 24師団第 7騎兵連隊の文書は発表されていません.米軍当局は,第 7連隊の文書のうち「核心的な記録は紛失した」ことを明らかにしました. 死傷者数について,韓国側は死亡 177人,負傷者 51人,行方不明者 20人など,計 248人と主張しました.しかし米国側はこれを認めていません. 共同調査が不十分に終わったのは,米陸軍が米兵証人に免責特権を与えず,十分な証言を得られなかったため

といわれています. クリントン大統領は「ノグンリで韓国の民間人が命を落としたことに深い遺憾を表明する」との声明を発表し

ました.米政府は,ノグンリに百万ドル規模の追悼碑を建設し,遺族の大学生ら 30 人に奨学金を支給すると発表しました. ●ノグンリ国際平和財団と平和公園・平和博物館

ノグンリ国際平和財団は、上に紹介した「ノグンリ虐殺事件」を記念して法律に基づいて設立された財団で、

チョン・クードゥ博士を理事長として、平和公園と平和博物館を運営し、宿泊できる施設として国内外の若者な

どを対象にワークショップを開催したり、国際会議を主催したりしています。

同財団は、毎年、人権・平和の増進に貢献した個人や組織を対象に「ノグンリ平和賞」を授与しています。同

賞は、①人権賞(国籍不問)、②ジャーナリスト賞(韓国人)、③文学賞(韓国人)の 3部門(賞金:各部門 1000

万ウォン)から成り、2013年の「人権賞(Human Rights Prize)」は、多くの候補の中から「平和のための国

際平和博物館ネットワーク」(INMP)に授与されこととなり、執行理事である山根和代氏(立命館大学国際平和

ミュージアム副館長)が INMP を代表して受賞式に出席、ピーター・ヴァン・デン・デュンゲン INMP 統括コ

ーディネータのスピーチを代読するとともに、自らのメッセージを伝えました。

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(3)「第 8回国際平和博物館会議」のノグンリ(韓国)開催が決定された経緯

「平和のための博物館国際ネットワーク」(INMP)は 2011年 5月にバルセロナ(スペイン)で開催された第 7回国際平和博物館会議の会期中に理事会を開催、第 8回の会議をノグンリ国際平和財団のチョン・クードゥ理事長のイニシャチブの下で、韓国で開催することを決めました。その後、2013 年 5 月にハーグ(オランダ)で開催された理事会にはチョン理事長も出席し、会議の準備状況について報告しました。また、INMPの諮問理事である安斎育郎氏は、2012 年 3 月、チョン理事長を日本に招聘し、ノグンリ国際平和財団と安斎科学・平和事務所の協力協定を締結するとともに、第 8 回国際平和博物館会議の準備について予備的な会談をもちました。同会談には、INMP理事である山根和代・立命館大学国際関係学部准教授(現在、立命館大学国際平和ミュージアム副館長)および韓国の平和博物館建立推進委員会のコーディネータであるキム・ヨンファン氏も出席しまし

た。第 8回会議は 2014年 9月 19日~22日にノグンリで開催される方向で準備が進められています。

グンリ平和公園の正面ゲート 銃弾の跡が残る事件現場

平和博物館で説明するチョン理事長 平和公園内の記念塔

ノグンリは韓国の首都ソウルから南に 160km に位置している忠清北道永同郡の山間の小さな村です。ここに

「ノグンリ平和公園」があります。

全国の平和博物館関係者の皆さんに、緊急のお知らせです! ─9月に韓国で開かれる「第 8回国際平和博物館会議」に参加しませんか?─

平和のための博物館国際ネットワーク(INMP)理事 山根和代・安斎育郎 ご承知のように、立命館大学国際平和ミュージアムは 1998年と 2008年の 2回、国際平和博物館会議を主催してきました。この会議は、山根・安斎が理事を務める「平和のための博物館国際ネットワーク」(INMP)のメイン企画で、今年はその第 8回会議が、9月 19~22 日の予定で、韓国のノグンリ(老斧里、ソウルから南に 1時間半程)にある平和公園施設(ノグンリ国

際平和財団が世話をする施設で、立派な平和博物館があります)で開催されることになりました。 ノグンリになぜ平和公園があるかというと、それは、朝鮮戦争が勃発した 1950年 6月 25日のちょうど 1か月後に、米軍が韓国の住民を無差別に銃撃し、数百人が死亡したいわゆる「ノグンリ虐殺事件」に源流があります。クリントン大統領時代に

公式に謝罪が行われ、韓国政府の管理下で法に基づいてノグンリ平和公園がつくられました。平和の施設に国家が関与するこ

とは「好ましい面」と「危うい面」とがあります。それは、ちょうど日本の自治体立の平和博物館が直面している問題と似て

います。 ノグンリ国際平和財団(理事長:チョン・クードゥ博士)が第 8回国際平和博物館会議の開催地として立候補し、INMPの理事会で公式に決定されて 2 年以上が経過しましたが、この間韓国で政権交代があり、ノグンリ国際平和財団が計画していた通りには政府資金が調達できない可能性があるなど、いくつかの状況変化に見舞われています。しかし、日本以外のアジアで

開催される初めての国際平和博物館会議を、欧米やアフリカ、ラテンアメリカなどからの参加者に加えて、日本を含む近隣諸

国からの多くの参加者のもとで成功させることは、とかくきな臭さが漂う日中韓の政治状況下にあって、平和を希求する私た

ち市民の真摯な気持ち、努力の成果、希望を共有し、相互理解と平和創造への共同の意志を育む効果的な機会であり、INMPの理事を務める者として、平和博物館に関心を持つ全国の皆さんに心から参加を呼びかけたいと思います。 第 8 回国際平和博物館会議の「メイン・テーマ」は「記憶、歴史的真実、和解を促進する際の平和のための博物館の役割」

ですが、必ずしもこれにとらわれず、平和友の会の活動に関わる経験や課題や構想を報告することが可能です。 INMP は、現在、発表者を募集中です。発表には、割り振られたセッションで口頭発表する方法のほか、ポスター・セッショ

ン(決められたスペースに資料を掲出して、随時訪れる参加者に説明する発表方法)や、自ら「パネル討論会」の設置を提案

し、パネリストの一人として報告するという方法もあります。会議言語は、公式には「英語」ですが、日本語でも発表できる

ように通訳体制を整えたいと思いますので、「英語が使いこなせない」という気後れなしで積極的にチャレンジして下さい。 INMPは、同時に、「誰にどういうテーマで記念講演をしてもらいたいか」についても、提案を募集しています。 一応、「第一次集約」は「2014年 1月 31日」となっていますので、以下のいずれかの方法で出来るだけ早くお申し出くださ

い。発表はしないが参加だけしたい人も、その旨を書いてお申し出ください。ツアーの企画などを考えたいと思います。

英語で報告される方は、直接下記の INMPのウェブサイトから申し込めます、 http://inmp.net/index.php/events/inmpconferences/2014-no-gun-ri-south-korea

英語で申し込まれた方も、参加状況把握のため、下記のいずれかの方法でお知らせ頂ければ幸いです。 日本語での発表や申し込みを希望する方は、「氏名、連絡先、希望の発表形式(口頭、ポスター、パネル討論)、テーマ」を

明記の上、下記の方法で申し込んで下さい。 削除 〈追記〉山根・安斎両名は、2014 年 1 月 18・19 日に韓国を訪れ、ノグンリ国際平和財団のチョン・クードゥ理事長と会い、第 8回国際平和博物館会議に関する詳細情報を聞くとともに、過去 2回、京都で国際会議を組織した経験から必要な助言をしてくる予定です。引き続き具体的な参加条件(旅費・宿泊費・参加費など)をお知らせするつもりですが、現段階で「迷い」

のある人も、「どんな迷いがあるか」をお書きの上、遠慮なくどんどんお申し込みください。

2014 年 9 月 19 日~22 日  

第 8 回国際平和博物館会議が  

韓国のノグンリで開かれます