アメリカの判例法理で憲法の政教分離規定を...

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アメリカの判例法理で憲法の政教分離規定を再考する 161 アメリカの判例法理で憲法の政教分離規定を 再考する ―小泉靖国参拝訴訟最高裁判決を例に― 松 平 徳 仁 一 はじめに 憲法の政教分離規定は比較憲法においても、比較の可能性と必要性が 高いとされてきた分野である。小泉純一郎氏が首相在任中に行った靖国 神社参拝をめぐっては、国家賠償法一条および民法七〇九条にもとづく 損害賠償等の請求を通じてその違憲性を問う訴訟が数多く提起されてい るが、そのうち第一次大阪訴訟(以下本件)については、二〇〇六年に 最高裁判決が出された 1 。本件の下級審では、原告(控訴人・上告人、 以下原告)は、二〇〇一年八月一三日に靖国神社に赴き昇殿参拝を行っ た小泉首相(当時)の行為は憲法二〇条三項が禁止する国家機関の宗教 的活動に当たるので違憲と主張したが、被告(被控訴人・被上告人、以 下被告)は原告の主張を否認し、本件参拝は私的参拝と反論した。一審 の大阪地裁は、本件参拝の憲法二〇条三項該当性を認定しつつ強制によ る利益侵害がないとして、憲法判断をしないまま原告の請求を一部却下、 一部棄却し、控訴審の大阪高裁は要件事実論で理由を補強したうえで地 裁判決を是認した 2 。最高裁は、被侵害利益がないという下級審の結論 1 最判平成一八年六月二三日民集二二〇号五七三頁。 2 大阪地判平成一六年二月二七日判例時報一八五九号七六頁、大阪高判平成一七 年七月二六日訟務月報五二巻九号二九五五頁。もっとも訴訟外では、小泉首相が 本件参拝を通じて職務上の表現をしようとしたことはたしかである。参照、飯島 勲『小泉官邸秘録』三一三頁以下(二〇〇六)、大嶽秀夫『小泉純一郎 ポピュ リズムの研究』一九三頁(二〇〇六)。

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アメリカの判例法理で憲法の政教分離規定を再考する 161

アメリカの判例法理で憲法の政教分離規定を再考する

―小泉靖国参拝訴訟最高裁判決を例に―

松 平 徳 仁

一 はじめに

 憲法の政教分離規定は比較憲法においても、比較の可能性と必要性が

高いとされてきた分野である。小泉純一郎氏が首相在任中に行った靖国

神社参拝をめぐっては、国家賠償法一条および民法七〇九条にもとづく

損害賠償等の請求を通じてその違憲性を問う訴訟が数多く提起されてい

るが、そのうち第一次大阪訴訟(以下本件)については、二〇〇六年に

最高裁判決が出された 1。本件の下級審では、原告(控訴人・上告人、

以下原告)は、二〇〇一年八月一三日に靖国神社に赴き昇殿参拝を行っ

た小泉首相(当時)の行為は憲法二〇条三項が禁止する国家機関の宗教

的活動に当たるので違憲と主張したが、被告(被控訴人・被上告人、以

下被告)は原告の主張を否認し、本件参拝は私的参拝と反論した。一審

の大阪地裁は、本件参拝の憲法二〇条三項該当性を認定しつつ強制によ

る利益侵害がないとして、憲法判断をしないまま原告の請求を一部却下、

一部棄却し、控訴審の大阪高裁は要件事実論で理由を補強したうえで地

裁判決を是認した 2。最高裁は、被侵害利益がないという下級審の結論

1 最判平成一八年六月二三日民集二二〇号五七三頁。2 大阪地判平成一六年二月二七日判例時報一八五九号七六頁、大阪高判平成一七年七月二六日訟務月報五二巻九号二九五五頁。もっとも訴訟外では、小泉首相が本件参拝を通じて職務上の表現をしようとしたことはたしかである。参照、飯島勲『小泉官邸秘録』三一三頁以下(二〇〇六)、大嶽秀夫『小泉純一郎 ポピュリズムの研究』一九三頁(二〇〇六)。

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を支持したのである。

 本件の背景にある靖国神社による殉国者の慰霊・顕彰の政治的妥当性

については、憲法学内外で多くの論客が論争をくりひろげているところ

であるが 3、本稿筆者としては、アメリカ憲法判例の参照を通じて、本

件で問われた政教分離規定の訴訟論的帰結を検証したいと思う。日本の

判例・学説によるアメリカ判例法理の参照は、後者の実用主義的性格に

よって、憲法の体制選択規定の硬性に伴う「外部不経済」を回避すると

いう目的が秘められていたわけであるが、現状を見ると、実用性を決め

る前提である政教分離規定の規範的意義を日本の文脈に即して説明でき

ないまま、国の政教分離違反は現行の訴訟制度では追及できないとの結

論だけが先行し、かえって思考経済の落とし穴に陥ってしまった 4。そ

の結果、訴訟要件や違憲審査基準にだけ技術屋的関心が集まり、解釈論

は木をみて森をみずという通弊をさけられなかった 5。本件でも、裁判

所は二つの損賠訴訟に共通する要件事実である被侵害利益の否定という

技術論で憲法訴訟の可能性を封じた。公式参拝をめぐる憲法上の疑義は、

未解決のままである 6。そこで本稿は、アメリカ憲法における①政教分

離の規範的意義②訴訟要件③公務員の表現活動に対する憲法上の制約の

検証を通じて、本件でも見られた思考経済的傾向に風穴を開ける解釈論

3 高橋哲哉『国家と犠牲』(二〇〇五)、百地章『靖国と憲法』(二〇〇三)。なお、日本の戦死者慰霊がもつ「フルイ」と「シズメ」の両面性は、国家による戦死者「追悼」という普遍的論理によって包摂されえないとの宗教学者の指摘は参照、西村明『戦後日本と戦争死者慰霊』一五頁以下(二〇〇六)。4 思考経済とは、特定の規範的言説の通説化による思考の排除という意味である。参照、蓮實重彦『物語批判序説』五〇頁以下(一九八五)。5 参照、野坂泰司「「追悼」と「祀り」――憲法と靖国神社問題」ジュリスト一二二二号六八頁(二〇〇二)、宍戸常寿『憲法裁判権の動態』三七二頁以下(二〇〇五)、山本龍彦「違憲審査理論と権利論」大沢秀介=小山剛編『東アジアにおけるアメリカ憲法』三九九頁(二〇〇六)。6 参照、駒村圭吾「判批」平成一八年度重要判例解説(ジュリスト臨時増刊一三三二号)一六頁(二〇〇七)、渡辺康行「判批」民商法雑誌一三六巻六号七二七頁(二〇〇七)。

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の提示を試みる。

二 アメリカの「政教分離」

1 規範性

(1)前提

 政教分離規定の解釈にあたっては、条文の文面とコンテキストからそ

の規範性を確定することが重要であり、立憲主義という大風呂敷に安易

に依存すべきではない 7。合衆国憲法修正一条の国教樹立禁止条項は文

面上、厳格な政教分離を定めておらず、連邦最高裁の判例も、社会統合

をめぐる政府と宗教の競合関係の調節という文脈で同条項を適用してい

る。ダグラス判事がゾラック判決の法廷意見で述べたように、政教分離

は、アメリカ社会の根深い宗教性を否定しているわけではない 8。

(2)審査基準が語る二つの体制選択

 (a)政教分離による統合 分離派の判事は、国家が宗教の力を借りて

社会統合をすることに否定的であるが、宗教的多様性による宗教的意義

の没却を条件に、社会統合における政府と宗教のかかわりあいを認める。

オコナー判事の「エンドースメント・テスト」は、こうした分離派の考

え方を宗教的シンボリズムの場面で応用した理論である 9。つまり、強

制がなくても、政府が特定の政教連携によって政府支持派以外の市民を

のけ者にすることは、その人びとの宗教上の自己決定を侵食するだけで

なく、競いあう信仰同士の自然な相互作用をゆがめることになるから、

強制以上に問題だというのである。その意味で政教分離は、意見の自由

7 Mark Tushnet, Some Skepticism about Normative Constitutional Advice, 49 WM. &

MARY L. REV. 1473 (2008). 8 Zorach v. Clauson, 343 U.S. 306, 312-13 (1952).9 See, e.g., McCreary County v. ACLU, 545 U.S. 844, 881-885 (2005) (O'Connor, J.,

concurring); Van Orden v. Perry, 545 U.S. 677, 736-737 (2005) (O'Conner, J.,

dissenting).

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市場における「公序」の守護者たる政府の特殊な地位にかんがみ、宗教

の正統性に関するガバメント・スピーチを禁止することで、統合機能を

はたしているといえる 10。

 (b)宗教による社会統合 融和派の判事は、政教分離を宗教的自由

条項の枠内で位置づけているので、政府の中立性を行政国家

(administrative state)における平等取扱いの要請としてとらえ、政府が

行う社会統合から宗教を排除すべきではないと主張する 11。バーガー長

官の「歴史・伝統」テストは、宗教的シンボリズムに関する融和派の理

論である。つまり、社会は道徳的な思想・物語をもつが、社会的基礎を

有する宗教がそれを代弁するというのである。したがって、感謝祭宣言

を大統領命令で行うことや、公有財産の上における宗教的象徴の設置・

演示のような、一見政教分離違反の政府行為であっても、それが慣習

法として定着した場合には「歴史・伝統」として正当化されることに

なる 12。

(3)技巧性

 政教分離規定の規範性に対する裁判官の素朴な理解が、必然的に、判

決の理由付けの技巧的性格に結びつく。すなわち、国教樹立禁止条項は

権利規定ではないが、分離派主導の判例法は、政治過程による同条項違

反の是正が困難なことから、係争の政府行為に対して個別的な利害関係

(personal stake)を有する原告による私権訴訟の提起を条件づきで認め

10 Id. See also George H. Dession & Harold D. Lasswell, Public Order under Law, 65 YALE L. J. 174, 185 (1955).11 現在 accommodationistとみられている判事たちは、厳格な政教分離を宗教差別として批判し、政教のかかわりあい全般に融和的な立場をとる。したがってこれを従来のように「便宜供与」と訳すと、彼らの主張を没却することになり、適切でない。よって本稿では「融和派」と改訳する。See e.g., Mitchell v. Helms, 530 U.S. 793, 807-812 (2000); Ira C. Lupu & Robert W. Tuttle, The Cross at College:

Accommodation and Acknowledgment of Religion at Public Universities, 16 WM. &

MARY BILL RTS. J. 939, 968-69 (2008).12 Marsh v. Chambers, 463 U.S. 783, 792 (1983); Van Orden, 545 U.S. at 686-692.

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てきた 13。これに対して融和派は、この手の争訟を司法権の埒外に追い

だそうという思惑から、通常の訴訟では要件とされる強制による権利侵

害の不存在を理由に、訴訟を水際で阻止しようとする 14。また本案の判

断についても、融和派が政府の主張を尊重する合理性の基準に近いもの

を好むのに対し、分離派はより厳格な審査を行おうとするので、明快な

基準をもたない 15。

2 政教分離訴訟

(1)原告適格

 (a)憲法上の原告適格 憲法三条の解釈として判例が確立した、①事

実上の損害②因果関係③司法による是正可能性という三つの要件を満た

せば、憲法上の原告適格は認められる 16。とりわけ事実上の損害につい

ては、損害が個別具体的でかつ明白なものであることを要するが、審美

的意味での損害でもよく、またその評価は法的利益の評価とは独立に行

われる。

 (b)民事訴訟 連邦法に違反した州の権利侵害行為に対する民事訴

訟を認める一八七一年公民権法の訴訟原因規定を活用するのが定石であ

る。たとえばヴェン・オルデン事件では、原告は公民権法上の原告適格

を基礎に、十戒の展示は違憲との宣言的判決と展示の差止を求めて提訴

した。原告が主張した損害は、州の違憲な宗教政策によって無神論者の

彼が州の図書館に通うたびに十戒を見なければならないという、「囚わ

れの観衆」の精神的損害であったが、それでも連邦地裁は憲法上の原告

13 ERWIN CHEMERINSKY, CONSTITUTIONAL LAW: PRINCIPLES AND POLICIES 71 (3d ed. 2006)14 Hein v. Freedom From Religion Foundation, 127 S. Ct. 2553, 2572-2573 (2007)

(Kennedy, J., concurring).15 エンドースメント・テストによれば十戒モニュメントは教室や法廷内では違憲、パブリック・フォーラムで合憲となるが、きわめてコンテキスト依存的である。See e.g., 545 U.S. at 698-705 (Breyer, J., concurring in the judgment).16 Lujan v. Defenders of Wildlife, 504 U.S. 535, 560-61 (1992).

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適格を認めたのである 17。

 (c)納税者訴訟 判例法は納税者訴訟の利用を、国教樹立禁止条項違

反の政府行為のうち、連邦議会の憲法一条八項にもとづく課税支出権の

行使に限定している。これは、国民訴訟の機能的等価物であって、国民

訴訟ではない 18。たしかに、国教樹立禁止条項違反を政府の公権(public

rights)に対する損害ととらえれば、納税者訴訟は公的訴訟になりそう

である。しかし、二〇〇七年のハイン判決におけるスカリア判事の同意

意見が、納税者訴訟の原告適格を肯定するには「(原告の)財布の損害」

(wallet injury)が必要と述べていることからもわかるように、現時の判

例法は納税者訴訟を私権訴訟として位置づけている 19。

(2)被告適格

 文面上連邦のみを拘束する国教樹立禁止条項は、一九四七年のエヴァ

ソン判決によって修正一四条のデュー・プロセス条項に組みこまれて州

にも通用するようになった 20。州が包括的統治権(police power)を有

するので、同条項は州行為全般を拘束する。しかし、連邦憲法が州に主

権免除をも付与しているので、修正一四条五節が定める例外を除き、連

邦裁判所で州を被告とする訴訟を提起することはできない。そこで判例

法は、違憲の法令を執行する州の公務員を被告とする訴訟を可能にする

17 42 U.S.C. § 1983 (2002); Van Orden v. Perry, No. A-01-CA-833-H, 2002 WL

32737462, at *2 (W.D. Tex. Oct. 2, 2002).18 See Valley Forge Christian College v. Americans United, 454 U.S. 464, 488 (1982);

Hein, 127 S. Ct. 2553. 松井茂記「国民訴訟の可能性について」高田敏先生古稀記念『法治国家の展開と現代的構成』三五一頁、三六八頁(二〇〇七)も参照。19 See, e.g., 127 S. Ct. at 2573-2575 (Scalia, J., concurring); Ira C. Lupu & Robert W.

Tuttle, Ball on a Needle: Hein v. Freedom from Religion Foundation, Inc. and the

Future of Establishment Clause Adjudication, 2008 B.Y.U. L. REV. 115, 133-34 (2008);

F. Andrew Hessick, Standing, Injury in Fact, and Private Rights, 93 CORNELL L. REV.

275, 293 (2008). 20 Everson v. Board of Education, 330 U.S. 1 (1947); Michael J. Perry, Why Religion

in Politics Does Not Violate La conception Américaine de la Laïcité, 13 IND. J. GLOBAL

LEGAL STUD. 543 (2006).

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ことで主権免除の例外を認めた。これは、問題の州行為が違憲であれば、

州には憲法違反をする正当な利益が認められないので、国家無答責類似

的帰結(無謬性)として、違憲の法令執行は公務性を失うことになる。

したがって、当該公務員は、連邦裁判所に対する関係では一私人でしか

ないから主権免除の抗弁を援用できないが、原告に対する関係ではその

行為が依然として公的性格を有するから、違憲の行為を受忍する義務

がない原告に職務行為性の不存在を対抗できない、という論理構成で

ある 21。

(3)包括的審査基準の不在

 名高いレモン・テストは、下級審では多用されているが、連邦最高裁

では一九八五年いらい使われていない 22。スカリア判事が「深夜のホラー

映画に出てくる、死体を食らう悪鬼」と酷評したように、いまや同テス

トは政教分離に関する包括的審査基準の不在を隠すための思考経済装置

として機能しているにすぎない 23。

3 公務員法理との関係

(1)違憲の条件

 ところで、内閣総理大臣の地位にある者が神社に参拝する行為は、公

務員である個人の象徴的な表現活動ととらえることができる。では、政

府は、勤務関係を理由に、行政府の長である公務員の表現の自由をも制

限することができるだろうか。

 アメリカでは、雇用者である政府が被用者である公務員の表現の自由

21 Ex parte Young, 209 U.S. 123 (1908); CHEMERINSKY, supra note 13, at 204-05. 22 MARK TUSHNET, A COURT DIVIDED 184 (2005).23 See, e.g., Lamb's Chapel v. Center Moriches Union Free School District, 508 U.S.

384, 398-399 (1993) (Scalia, J., dissenting); Steven G. Gey, Reconciling the Supreme

Court’s Four Establishment Clauses, 8 U. PA. J. CONST. L. 725 (2006).

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を制限すること自体は許されると考えられてきた 24。もっとも一九六〇

年代以降、連邦最高裁は、「違憲の条件」の一場面として、公務員が市

民として行った公的関心事に関する論評は修正一条によって保護され、

それを制約する政府行為の合憲性は利益衡量によって決するという、「ピ

カリング=コニック・テスト」を確立した 25。この法理の射程は必ずし

も明確ではないが、二〇〇六年のガルセッティ判決は、公務員が職務に

もとづいて公的関心事について論評した場合には修正一条の保障が及ば

ないとした。この判決がとった、「職務上の表現」による公的関心事に

関する論評の包摂というアプローチは、公務員の表現の自由に対する広

汎な制約を正当化する方向に働く 26。

(2)大統領への適用

 しかし、行政府の長である大統領は普通の公務員ではない。大統領は、

合衆国憲法二条により執行権を総攬し、連邦権力の「単一執行部」とい

われるほどの権力者である 27。その意味で大統領職は、行政各部その他

の行政機関とは峻別された、特別な地位なのである 28。したがって大統

領の職務権限は、法律の授権を前提とする機関行為の枠組では収納しき

れないところがあるが、それを「代表的権力」と考えるべきかどうかは

本稿の問題ではない 29。大統領の緊急権についてフランクファーター判

事が示唆していたように、「議会から疑義をはさまれたことがないだけ

24 Stewart Jay, The Creation of the First Amendment Right to Free Expression: From

the Eighteenth Century to the Mid-Twentieth Century, 34 WM. MITCHELL L. REV. 773, 822-24 (2008).25 Pickering v. Board of Education, 391 U.S. 563 (1968); Connick v. Myers, 461 U.S.

138 (1983). 26 Garcetti v. Ceballos, 126 S. Ct. 1951 (2006). 27 単一執行部をめぐる論争については参照、駒村圭吾『権力分立の諸相』一八八頁以下(二〇〇〇)。28 GARY LAWSON, FEDERAL ADMINISTRATIVE LAW 5 (4th ed. 2007).29 代表的権力の概念については、カール・シュミット(尾吹善人訳)『憲法理論』二六四頁以下(一九七二)。合衆国大統領の対外的代表性については参照、United States v. Curtiss-Wright Corp., 299 U.S. 304 (1936).

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でなく、議会の承認を得るべく長期にわたって築かれてきた、体系的か

つ強固な行政上の慣行は、大統領に付与された執行権の体裁を飾るもの

として是認される場合がある」のであって 30、その場合に大統領は、新

しい権力を「時効取得」するのである 31。感謝祭宣言を大統領命令で行

うのは、まさにその一例である。

 大統領は、その憲法上の地位とは別に、市民として修正一条の諸権利

を主張することも可能である 32。後者の場合、大統領の表現活動へのガ

ルセッティ法理の適用が問題となるが、行政特権を度外視すれば、連邦

最高裁はこれを否定していないと解される 33。そして、判例によれば、

公務員の権利に対する制約の強度は、当該公務員の権限と職務の社交的

公共性に反比例する 34。したがって強い裁量権と公共性を有する公選公

務員は、職務上のことがらについて自分の思想・信条を明らかにする義

務がある。よって、大統領の表現活動がガバメント・スピーチと同視で

きる場合には、職務の忠実な履行を受ける政府の利益が重大なので、司

法審査は一概に否定しえないと解される 35。ただし、大統領が一市民と

して公的関心事の論評を行った場合には修正一条の保障が及び、表現規

制の合憲性は利益衡量で判断されることになる。

30 Youngstown, 343 U.S. 579, 610-611 (1952) (Frankfurter, J., concurring).31 K. L. Scheppele, Small Emergencies, 40 GA. L. REV. 835 (2007).32 René Reyes, The Case for Executive Privacy as a Right Independent of Executive

Privilege, 17-SPG KAN. J. L. & PUB. POL'Y 477 (2008).33 Erwin Chemerinsky, Speakers Cornered, SLATE, July 25, 2006, http://www. Slate.

com/id/2146477/ (last visited June 6, 2008).34 Rankin v. McPherson, 483 U.S. 378, 390-91 (1987).35 Charles W. “Rocky” Rhodes, Public Employee Speech Rights Fall Prey to an

Emerging Doctrinal Formalism, 15 WM. & MARY BILL RTS. J. 1173, 1186 (2007);

Randall P. Bezanson & William G. Buss, The Many Faces of Government Speech, 86 IOWA L. REV. 1377, 1501-09 (2001).

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三 アメリカからみる日本の政教分離

1 日本国憲法の政教分離規定の意義

(1)政教分離規定の規範性

 (a)国家神道 日本国憲法の政教分離規定が国家神道の排除を所与と

して成立したことは、まぎれもない事実である 36。戦時中にその全盛期

を迎えた国家神道は、「中心の権力」と「周縁の感性」を統合した宗教(神

社神道)・儀礼(皇室祭祀)・物語(国体)の体系であり、決して政府が

一方的に強制・支配しうるものではなかった 37。とりわけ靖国神社は、

殉国者=英霊の慰霊・顕彰による国民国家の軍事的統合機能を営むこと

で、和漢洋風のナショナリズムの接点をなしていた 38。その意味で、国

家神道は、憲法の体制選択を如実に映す宗教的シンボリズムの最たるも

のといえる 39。

 (b)戦後の体制選択 国家神道は特定宗教による国家の思想・物語(宗

教性)の充填を意味するが、政教分離はこれを否定する 40。日本国憲法

36 否定的な見解については大橋寛明「判解」最高裁判例解説民事編平成九年度五六一頁、五八二頁。戦前の国家神道については、阪本是丸『国家神道形成過程の研究』二八四頁以下(一九九四)、山口輝臣「明治国家と宗教」宗教法一八号二九一頁、二九九頁以下(一九九九)、大石真『憲法と宗教制度』二三二頁、二三四頁注九(一九九六)参照。37 参照、山口昌男『天皇制の文化人類学』(一九八九)、島薗進「日本の近代化過程と宗教」ジュリスト増刊二一号六六頁(一九八一)、同「国家神道と近代日本の宗教構造」宗教研究三二九号三二八頁以下(二〇〇一)。38 参照、島薗進「国家神道はどのようにして国民生活を形づくったのか?」洗建=田中滋編『国家と宗教(上)』二二三頁、二二七頁以下(二〇〇八)、ジョージ・L・モッセ(宮武実知子訳)『英霊』八七頁(二〇〇二)、小島毅「天道・革命・隠逸」網野善彦ほか編『天皇と王権を考える(4)宗教と権威』六九頁(二〇〇二)。39 安丸良夫『神々の明治維新』岩波新書、四二頁以下(一九七九)、葦津珍彦『日本の君主制』九一頁以下(二〇〇五)。40 Perry, supra note 20, at 554. コンドルセほか(阪上孝訳)『フランス革命期の公教育論』岩波文庫、四九頁以下(二〇〇二)も参照。

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の制定にさきだち、神道指令が政教分離の条件を整えるブルドーザーの

役割をはたした。これをうけて憲法二〇条一項後段は、一宗教団体となっ

た国家神道への便宜供与禁止を政府に求めるいっぽう、権力から切り離

された国家神道に対しては、その教権の私的性格を確認し、宗教団体

として思想・物語を保持し表現する憲法上の権利を有することを認め

た 41。そして同条三項は、政府が宗教的手段で政治・行政的目的を達成

すること、なかんずく宗教の力を借りて国民統合を行うことの禁止に

よって、国家の宗教性と特定宗教の分離を政府に求めた。さらに八九条

は、給付行政その他中立的な政府行為について政教のかかわりあいの限

度を定めた。戦前国家神道の協力者であった田上穣治が戦後見ぬいたよ

うに、憲法の政教分離規定は、一四条が掲げた「民主政の平等原則」と

あいまって、宗教の国家化と国家の宗教化を否定し、政教分離を公序と

して選択した体制選択規定なのである 42。

 (c)例外 このように憲法の政教分離規定は厳格分離型を原則とする

が、天皇に制度体保障をあたえた憲法一条との関係で例外的に緩められ

る場合がある。すなわち、憲法一条が象徴天皇制を定めた結果、国家神

道的皇室祭祀は天皇の私事として存続を許され、その限度で政教分離は

緩和されることになる。ただし、この例外が認められるのは、国家神道

から切り離された皇室祭祀が象徴天皇制に付随する宗教的シンボリズム

として正当化できるからである 43。これに対し靖国神社が行う軍関係者

の慰霊・顕彰に政府が関与することは、国家と神道の象徴的結合を意味

41 大石・前掲注 (36) 二四二頁以下、百地章「宗教団体の政治活動とその限界」宗教法一六号一五五頁、一七〇頁以下(一九九七)。42 田上穣治『日本国憲法原論』一二二頁以下(一九八〇)。43 参照、石川健治『自由と特権の距離(増補版)』二三六頁、二七六頁(二〇〇七)、奥平康弘『「萬世一系」の研究』三八五頁注二三(二〇〇五)、大貫恵美子「大嘗祭と王権」網野ほか編『天皇と王権を考える(5)王権と儀礼』四一頁、六〇頁(二〇〇二)。

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し、例外的に許容すべきでないと考える 44。

(2)最高裁の解釈

 しかし、津地鎮祭判決いらい、最高裁は政教分離規定を制度的保障と

解してきた 45。強固な判例は、①国家機関の宗教的活動自体は許される、

②国の政教分離違反を訴訟で追及するには権利侵害の要件事実を具備す

る必要があると明言している 46。これは、アメリカの融和派判事が試み

た宗教的自由による政教分離の緩和を意味する。ところで、アメリカの

融和派は、国教樹立条項の厳格分離派的解釈を憲法判例=「生ける憲法」

(The Living Constitution)による憲法改正だと批判するが、日本では同

じ批判が最高裁の制度的保障論にあてはまることになる 47。

 この「生ける憲法」を選択したことは、最高裁が政教分離規定の統合

力を認めていないことを意味する。他方、原告団の中核を構成する浄土

真宗とプロテスタント系の宗教者もまた、①に反対しながら、②の枠内

で訴訟追行することに同意してきた。なぜなら、彼らのメタ・レヴェル

では、政教分離は、国家権力を握る多数派による宗教的自由の行使がも

たらす抑圧から少数派の信教の自由をまもる手段として認識されてきた

からだ 48。アメリカの側から見れば、こうした事態は「生ける憲法」に

44 異論は大石真=山元一「信教の自由と政教分離原則」井上典之ほか編『憲法学説に聞く』七四頁〔大石〕(二〇〇四)。 45 最大判昭和五二年七月一三日民集三一巻四号五三三頁、越山安久「判解」最高裁判例解説民事編昭和五二年度二一二頁、二二三頁。46 典型的には、自衛官合祀訴訟最高裁判決(最大判昭和六三年六月一日民集四二巻五号二七七頁)。瀬戸正義「判解」最高裁判例解説民事編昭和六三年度一八七頁、二〇八頁も参照。47 See Antonin Scalia, Common-Law Courts in a Civil-Law System, in A MATTER OF

INTERPRETATION: FEDERAL COURTS AND THE LAW 3, 41-42 (1997); Bruce Ackerman, The

Living Constitution, 120 HARV. L. REV. 1737, 1759 (2007).48 W. F. SULLIVAN, PAYING THE WORD EXTRA: RELIGIOUS DISCOURSE IN THE SUPREME COURT

OF THE UNITED STATES 110 (1994)

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よる政教分離の変質というほかない 49。

2 日本の政教分離訴訟

(1)要件事実

 国の政教分離違反の追及は国賠法と民法にもとづく損賠訴訟による

が、これはアメリカと同じ私権訴訟モデルである。ところで、日本の損

賠訴訟は、権利侵害その他さまざまな要件を満たさなければ請求は認容

されず、被告側にとって請求棄却にもちこむ余地が大きい訴訟形態であ

る。したがって、本件のように要件事実の欠如を理由に請求を棄却する

ことは実質的には、原告適格を狭めることによって訴訟を門前払いにす

るアメリカの融和派判事の手法と変わらない 50。それでも、戦没者の遺

族である原告の被った人格的利益の侵害は個別具体的であれば、要件事

実に欠けるところがないので、主観訴訟では強制に至らない国の政教分

離規定違反を追及できないと性急に断定するのは早計であろう 51。

(2)審査基準

 (a)歴史・伝統テスト 神社参拝は宗教的活動そのものであり、国家

機関がこれを行った場合にはストレートに憲法二〇条三項に抵触する。

この場合、裁判所としては、宗教的活動に絞りをかけるのではなく、違

憲性阻却事由を検討するのが筋である。したがって、適用されるべき審

査基準は、かのポズナーが津地鎮祭最高裁判決について示唆したように、

歴史・伝統テストである 52。ところが、津地鎮祭事件と違って、本件参

49 Noah Berlin, Constitutional Conflict with the Japanese Imperial Role: Accession,

Yasukuni Shrine, and Obligatory Reformation, 1 U. PA. J. CONST. L. 383, 408 (1999). 50 高木光ほか『行政救済法』八頁(二〇〇七)。See also Brent T. White, Reexamining

Separation: The Construction of Separation of Religion and State in Post-War Japan,

22 UCLA PAC. BASIN L.J. 29, 70 (2004).51 棟居快行『憲法学再論』四六三頁以下(二〇〇一)、大村敦志『基本民法Ⅱ(三版)』二〇五頁(二〇〇七)。本件最高裁判決における滝井裁判官の補足意見も参照。52 Richard A. Posner, Foreword: A Political Court, 119 HARV. L. REV. 31, 87-89 (2005).

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拝を通じた国家と神道の象徴的結合はまさに二〇条三項が禁止する典型

的な場面であり、違憲性を阻却しうる歴史・伝統とは認められない。

 (b)目的・効果基準 同基準は構造上、憲法八九条関連の政府行為

に適用すべきであった 53。ところが、日本では政府の宗教的活動に合憲

性推定が働くため、この基準は政府行為全般に適用されている。日本の

目的・効果基準は、政教分離の緩和によるエスニックな社会統合の維持

を志向するので、歴史・伝統を含んだ政教のかかわりあいを前提とし、

その限度を目的・効果審査によって確定するという明快な基準であ

る 54。じつは、この包括性と明快さこそ、アメリカの融和派がレモン・

テストに求めていたものであり、日本の目的・効果基準は同テストの屍

をこえて成功したことになる。その意味で、レモン・テストの正確な参

照によって日本の目的・効果基準を枠付けることは、奥平康弘が指摘す

るように、そもそも無理な相談である 55。

3 公務員の政治的行為

(1)内閣総理大臣の職務権限

 憲法二〇条三項が神社の祭祀を法令上の職務とすることを禁止してい

る以上、本件参拝の政治的影響を正当に評価するのに法的に不確かな「公

式参拝」概念を用いるのは賢明ではない 56。では、内閣総理大臣が、行

政上の慣行として公式参拝をすることは可能だろうか。この点、一審判

決は、外形標準説的にみれば可能と判断したようである。しかし、合衆

国憲法が執行権を大統領に授けているのと対照的に、日本国憲法は行政

53 Lemon v. Kurtzman, 403 U.S. 602, 612 (1971). 高柳信一「国家と宗教」法学セミナー増刊『思想・信仰と現代』一〇頁(一九七七)も参照。54 White, supra note 50, at 51. 林知更「政教分離原則の構造」高見勝利ほか編『日本国憲法解釈の再検討』一三五頁(二〇〇四)も参照。55 奥平康弘『憲法の眼』二六七頁以下(一九九八)。56 田上穣治「国務大臣の公式参拝と政教分離原則」ジュリスト八四八号三四頁(一九八五)。

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権を合議体の国家機関である内閣に与えており、内閣総理大臣が単独で

行使しうる権限を国務大臣の任免権と行政各部への指揮監督権に限定し

ている 57。また通説・判例も、内閣総理大臣の代表的権力による行政慣

行の創造を消極的に解してきた 58。したがって、本件参拝は、職務とし

て行ったものと認められなければ、ガバメント・スピーチとはいえず、

私的行為を含む公務員の政治的行為として評価されることになる 59。

(2)公務員の私的表現の限界 

 思うに、内閣総理大臣は、憲法一五条二項にいう「全体の奉仕者」た

る公務員の一員であり、憲法九九条により憲法尊重擁護義務を負ってい

る。そして、憲法の政教分離規定が政府に課した制約は、右に掲げた各

条項を通じて公務員の私的行為に及んでいる 60。したがって、一般国民

とちがい、内閣総理大臣の地位にある者の権利がその義務との関係で制

約される場合のあることは憲法上想定されているといえる。これを本件

についてみると、かりに本件参拝が私的行為だったとしても、公務員小

泉が私的になしうる政治的行為の限界を超えたものとして、比較衡量に

より、本件参拝の保護法益を否定することは可能であろう。しかし問題

は、特別職公務員である内閣総理大臣については、その私的表現活動に

対する法的規制が存在しないことである 61。そこで、アメリカの被告適

57 任免権と異なり、行政事務の指揮監督権は官僚制的上下関係に依存するかぎり、政治的決定権とみることができない。参照、シュミット・前掲注(29)四二三頁、飯尾潤『日本の統治構造』中公新書、一九五頁以下(二〇〇七)。58 藤田宙靖『行政組織法』一二六頁(二〇〇五)、宇賀克也『行政法概説Ⅲ』九〇頁以下(二〇〇八)。59 本稿と異なる見解については参照、渡辺康行「「国家の宗教的中立性」の領分」ジュリスト一二八七号六〇頁、六六頁(二〇〇五)、林知更「判批」判例セレクト二〇〇六(法学教室三一八号別冊付録)六頁。60 参照、蟻川恒正「立憲主義のゲーム」ジュリスト一二八九号七四頁(二〇〇五)。61 人事院規則一四-七の定式に従えば、「政治的目的のために職名、職権又はその他の公私の影響力を利用すること」(六条一号)に該当するが、同規則は内閣総理大臣に適用されない。もっとも、内閣総理大臣は、靖国神社参拝によって職務命令違反との評価を受けないとしても、それによって参拝の合憲性に関する内

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格の法理を転用することになるが、民法七〇九条にもとづく損賠訴訟に

おいて、本件参拝が違憲であれば、被告には保護されるべき法的利益が

なく、原告に正当な権利行使を対抗できない可能性があることを理由に、

裁判所に本件参拝の合憲性審査を行わせるという方法があるのではない

かと考える 62。事実、自衛官合祀訴訟最高裁判決における伊藤裁判官の

反対意見は、このアプローチの可能性を示唆していたのである 63。

四 結論

 アメリカ憲法の文法に従えば、本件原告の提訴は「公式参拝」の慣習

法化を阻止する効果をもつはずであるが、裁判所は、被告が主張しなかっ

た本件参拝の職務行為性を認めながらその合憲性判断を避けることで、

靖国神社参拝という職務を創出したといえる。融和派的立場をとるとし

ても、これは妥当ではない。やはり、本件参拝を被告の私的権利行使と

とらえ、その合憲性について判断すべきであった。これが、本稿の一応

の結論である。

閣の憲法解釈をつくる権限もないはずである。参照、樋口陽一『司法の積極性と消極性』二〇一頁(一九七八)、蟻川恒正「自由をめぐる憲法と民法」法学セミナー六四六号四四頁、四五頁(二〇〇八)。62 松井・前掲注(18)三九八頁は憲法八九条による納税者訴訟をとなえるが、公金支出が認められなかった本件の解決には結びつかない。63 最大判昭和六三年六月一日民集四二巻五号三〇九頁以下参照。