解説13 ロシア南下政策ロシア南下政策31~40解説 解説13 ロシア南下政策...

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ロシア南下政策31~40解説 解説13 ◎ロシア南下政策 19世紀以降を中心としたロシア史です。 1613年創始のロマノフ朝はピョートル 1 世、エカチェリーナ 2 世(啓蒙専制君主) の時代に国力を伸ばし、強国となっていきますが、国内では西ヨーロッパが農奴解放に 向かっていく中で、強固な農奴制が残り近代化は遅れていました。農民が奴隷的身分と いう事は、国内での購買力は皆無で市場を積極的に外に求めていくという政策につなが り、19世紀に入りより積極的に推し進められます。特に不凍港を持たないロシアはそ の進行方向が南に向かう訳です。 また、軍の指揮官である貴族(領主)は、愛国心に満ちた国民軍であるフランス・ナポ レオンとの戦争でロシアの後進性を痛感します。そうした経緯の中で特に若い貴族たち が国内の近代化を目指します。それが1825年デカブリストの乱であり、のちのアレ クサンドル 2 世による「上からの改革」として現れます。 ロシア南下政策ですが、各地域により①②③と分類して整理しましょう。 ロシア南下政策(黒海、エーゲ海、地中海へ)バルカン半島方面 この地域の南下政策は 黒海→ボスフォラス海峡→ダーダネルス海峡→エーゲ海→地中海 へのルートであり、 この地域を領有していたオスマン帝国は弱体化が顕著でした。そこをロシアが狙ってい くのです。そしてそれを常に阻止する中心がイギリスです。それは1830エジプト= トルコ戦争以降露骨になります。 ピョートル 1 世の時、アゾフ海(クリミア半島の東の内海)まで勢力を伸ばし、エカチ ェリーナ 2 世時、クリム=ハン国(クリミア半島)を領有、黒海の自由航行権を獲得す るなど、黒海進出を本格化させます。またこの時オスマン帝国内のギリシャ正教徒の保 護権を得るのですが、これがその後の1853クリミア戦争、1878年露土戦争の戦 争口実となります。 1699年カルロヴィッツ条約を入れておきましたが、バルカン半島のクロアティアトランシルヴァニア(ルーマニアと覚えておけばよいです。)はオーストリア領になりま す。因みにこの時ハンガリーもオーストリア領となります。

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Page 1: 解説13 ロシア南下政策ロシア南下政策31~40解説 解説13 ロシア南下政策 19世紀以降を中心としたロシア史です。 1613年創始のロマノフ朝はピョートル1

ロシア南下政策31~40解説 解説13

◎ロシア南下政策

19世紀以降を中心としたロシア史です。

1613年創始のロマノフ朝はピョートル 1 世、エカチェリーナ 2 世(啓蒙専制君主)

の時代に国力を伸ばし、強国となっていきますが、国内では西ヨーロッパが農奴解放に

向かっていく中で、強固な農奴制が残り近代化は遅れていました。農民が奴隷的身分と

いう事は、国内での購買力は皆無で市場を積極的に外に求めていくという政策につなが

り、19世紀に入りより積極的に推し進められます。特に不凍港を持たないロシアはそ

の進行方向が南に向かう訳です。

また、軍の指揮官である貴族(領主)は、愛国心に満ちた国民軍であるフランス・ナポ

レオンとの戦争でロシアの後進性を痛感します。そうした経緯の中で特に若い貴族たち

が国内の近代化を目指します。それが1825年デカブリストの乱であり、のちのアレ

クサンドル 2世による「上からの改革」として現れます。

ロシア南下政策ですが、各地域により①②③と分類して整理しましょう。

① ロシア南下政策(黒海、エーゲ海、地中海へ)バルカン半島方面

この地域の南下政策は

黒海→ボスフォラス海峡→ダーダネルス海峡→エーゲ海→地中海 へのルートであり、

この地域を領有していたオスマン帝国は弱体化が顕著でした。そこをロシアが狙ってい

くのです。そしてそれを常に阻止する中心がイギリスです。それは1830エジプト=

トルコ戦争以降露骨になります。

ピョートル 1 世の時、アゾフ海(クリミア半島の東の内海)まで勢力を伸ばし、エカチ

ェリーナ 2 世時、クリム=ハン国(クリミア半島)を領有、黒海の自由航行権を獲得す

るなど、黒海進出を本格化させます。またこの時オスマン帝国内のギリシャ正教徒の保

護権を得るのですが、これがその後の1853クリミア戦争、1878年露土戦争の戦

争口実となります。

1699年カルロヴィッツ条約を入れておきましたが、バルカン半島のクロアティア、

トランシルヴァニア(ルーマニアと覚えておけばよいです。)はオーストリア領になりま

す。因みにこの時ハンガリーもオーストリア領となります。

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ルーマニアはその後1878年ベルリン条約で独立します。クロアティアはオーストリ

ア領になる事により西洋的な近代化を進め産業が比較的充実していきます。

このことがまだまだ先の事ですが、1990年代クロアティア独立を阻む原因となりユ

ーゴスラヴィア紛争の一因となっていきます。

東方問題とは西ヨーロッパ列強から見たオスマン帝国内の領土・民族・宗教問題をさし

ます。その衰退に乗じて進出していこうという野心も潜んでいます。

授業で既にやったギリシャ独立戦争では、ロシアは南下政策を背景に積極的にギリシャ

に味方し、ボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡の自由航行権をオスマン帝国から獲得

します。

ボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡が重要なのは、ここを自由に航行できれば、念願

のエーゲ海、地中海へとつながるからです。

この辺りからイギリスを中心にロシア南下政策への警戒が強まります。そうした中で勃

発するのがエジプト=トルコ戦争です。二度に渡り起こりますが、詳細を理解して下さ

い。ここもよく出題されますよ。重要です。

きっかけとなる重要人物がエジプトのメフメト=アリーです。彼はナポレオンのエジプ

ト遠征でも戦った人物で、ギリシャ独立戦争でもオスマン帝国に協力します。そして

その勢いでシリアへと進出します。シリア領有をめぐってオスマン帝国と戦争となるの

が第一回です。

因みにエジプトとシリアは1517年オスマン帝国が、セリム1世の時、マムルーク朝を

滅ぼし獲得した重要地域です。第一回では英・仏・墺が欧米列強はオスマン帝国の弱体

化、エジプト介入等の理由でエジプトを支援します。ロシアは南下政策で有利に立つた

めオスマン帝国を支援します。1833年イギリス、フランスはオスマン帝国と条約を

結びエジプトのシリア領有を認めさせました。これがキュタヒヤ条約です。少し細かい

ので、この条約は余裕があれば覚えておく程度で良いでしょう。重要なのはウンキャル

=スケレッシ条約です。この条約に不満をもったオスマン帝国がロシアの支援を得るた

めに結んだ条約です。ここでロシアはボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡の独占通行

権を獲得します。ロシア、オスマン帝国以外の国は両海峡を通過して黒海に入れないと

いう事です。

第二回はメフメト=アリーによるエジプト・シリア世襲総督権要求とオスマン帝国のシ

リア等の領土奪回目的のために起こりました。この戦いはフランスの援助で有利に運び

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ましたが、英・露・墺・晋はエジプトの強大化を警戒し介入、ロンドン会議でオスマン

側を支援します。結局、ロンドン四国条約によりエジプト・スーダンの世襲総督は認め

られましたが、シリアはオスマン帝国に返還となりました。また、フランスはエジプト

支援によりこの地に勢力を持とうとしましたが、孤立してしまい、この事が外交的失敗

として益々、七月王政の批判を高めることになります。

ムハンマド=アリーはシリアを失いましたが、世襲の総督として実質的な支配を確立し

ていきます。

その後1841年、フランスを交えた形で、五国による海峡協定が結ばれました。すべ

ての外国軍艦はボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡の軍艦の通行禁止が決定します。当

然、ロシアも含まれウンキャル=スケレッシ条約は破棄され、独占通行権は失われ、ロシ

ア南下政策は後退します。これはイギリス中心のロシア南下政策阻止にロシアが屈服し

たという事です。

この後退を挽回するためにロシアが起こした戦争が1853年クリミア戦争となります。

原因(口実)は聖地管理権問題です。当時聖地イェルサレムはオスマン帝国領です。フ

ランスはイタリア戦争当時から、オスマン帝国と友好関係を結んでおり、その関係で

聖地イェルサレムの管理権を得ていました。しかしその後のフランス革命などの混乱の

中、ギリシャ正教の中心ロシアが獲得、再びフランスが取り戻した事にロシアが抗議、

オスマン帝国と対立します。ロシアはオスマン帝国内のギリシャ正教徒を保護するとい

う名目で出兵、戦争が起きます。本音は南下政策です。その主戦場がクリミア半島で、

イギリス、フランス、サルデーニャがオスマン帝国を支援します。

山場はセヴァストーポリ攻防戦で、ニコライ1世は、戦局悪化に対して憤死した、とも

いわれますが、1855年即位したアレクサンドル2世により戦争終結、パリ条約が結

ばれます。この条約で黒海中立が確定します。またもやロシア南下政策は失敗です。ア

レクサンドル 2 世はこの戦争の敗北を国内の近代化の遅れととらえました。そのため国

内改革を優先します。上からの改革、それが農奴解放令です。しかしこれはその後の近

代化のスタートではありますが、中途半端なものとなり、またポーランドでの反乱が勃

発する中で彼は反動化していきます。その反動化の中で南下政策を再開します。187

7年露土戦争です。

農奴解放令ですが、人格的自由は保障されましたが、土地は有償です。フランス革命の

時と同じですね。

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50年近いローンを組むのですが、支払いが終わるまで土地も人も農村共同体である、

ミールの管理下に置かれます。実際には支払える農民は稀でミールの所有となったよう

です。こんな不徹底な農奴解放令でしたが、ここからロシア産業革命が本格化していき

ます。

一方、下からの改革ともいうべきナロードニキ運動も展開されます。しかし農民の理解

度の欠如、思考する余裕の無さなどもあり失敗に終わります。理想・希望が高かっただ

けに、一部はいわば社会すべてを信じなくなる、いわば「すべて否定・諦めの境地」の

ような虚無主義、暴力のみに解決を求めるテロリズム等に向かっていきます。こうした

動きの中でアレクサンドル 2世はテロに倒れます。

ここで少しまとめると、エカチェリーナ 2 世(啓蒙専制君主)は当初、当時の文化教養

を享受した君主として近代化を進めましたが、プガチョフの乱鎮圧以降、反動化します。

アレクサンドル 2 世はクリミア戦争を終結させ、上からの改革・農奴解放令を実施しま

したが、不徹底、ポーランド反乱鎮圧後、反動化し、暗殺されます。

この地域、最後の南下政策と言えるのが1877年露土戦争です。結果は失敗です。

邪魔する中心はやはりイギリスです。でも露骨に邪魔はしないけれど、うまく両者の間

に立つようにロシアの南下政策を阻止したのがドイツのビスマルクです。「誠実な仲買

人」と言われた所以です。結局この事でロシアとドイツの関係は悪化です。三帝同盟の

崩壊ですね。では露土戦争です。

1875年ボスニア・ヘルツェゴビナでイスラーム系の地主からの迫害に対して起こし

たギリシャ正教徒の反乱がきっかけです。ロシアのアレクサンドル 2 世はギリシャ正教

徒保護の名目で、オスマン帝国に宣戦します。南下政策再開です。

あっという間のロシア勝利。サン=ステファノ条約でセルビア・モンテネグロ・ルーマニ

アを独立させ、ブルガリアは領土を拡大させロシアの影響下に置くことが決定します。

ブルガリアは地図で見ればわかる通り、黒海に面した要所です。

こうした動きにイギリス、フランスが反発、ドイツのビスマルクが仲介に入る訳です。

改めて協議したのがベルリン会議。そして締結したのがベルリン条約。どの国もロシア

の南下は阻止したいので、サン=ステファノ条約自体が破棄されました。新たに決定し

たことは改めてセルビア・モンテネグロ、ルーマニアの独立承認。ブルガリアは逆に領土

を以前よりも縮小しオスマン帝国管理下の自治公国。イギリスは地中海の監視の意味も

含めキプロス島を領有します。またオーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナの行政

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権を獲得しますが、ここは特に重要です。その後オーストリアは1908年トルコで革命

が起こると(青年トルコ革命)、その混乱の中、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合します。

元々この地はセルビア人が多く居住していてセルビアが自国と考えていた地域です。それ

をオーストリアが一方的に支配していくのです。セルビアはスラブ民族、オーストリアは

ゲルマン民族で、民族間の大きな対立も含んでいました。

セルビアの怒りは激しくやがて、1914年セルビアの一青年によるオーストリア次期皇

帝候補暗殺事件(サライェボ事件)が勃発、これが第一次世界戦の直接的原因となります。

つまりオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ進出が世界大戦をやがて引き起こす

という事です。

いずれにせよ、1878年ベルリン条約は完全な南下政策の挫折です。この失敗を受けて

ロシアは特に東アジアへの南下に目を向け、やがて日本と対戦するのです。

因みに墺はオーストリア、晋はプロイセンです。墺の漢字は注意です。

② ロシア南下政策(西アジア、中央アジアへ)

この地域の南下政策は黒海~カスピ海からの南下(イランへ)、カスピ海~アラル海から

の南下(ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国へ)を指します。

まず、イランへの南下ですが、この地域へはアフガニスタン方面からイギリスも進出し

ており、緊張関係となりますが、日露戦争でロシアの脅威が薄まり1907年英露協商

として友好関係に転換します。その時の協約内容はまずイランです。北がロシア、南東

部がイギリスの勢力範囲になるのです。その他アフガニスタンはイギリスの勢力範囲、チ

ベットは両国不干渉と決定します。イラン南西部はイラン王朝・カージャール朝の領域で

す。この地域の略図を載せたので頭に入れて下さい。西から黒海、カスピ海、アラル海

です。東西交渉史、中国史でもアラル海周辺はよく出てきます。また今後学習しますが、

イラン史(ペルシャ史)は重要です。また、左宗棠は清の洋務運動の中心人物の一人で

す。

③ ロシア南下政策(東アジア、中国へ)

(中国との国境画定条約中心)

ここは東アジアへ南下するロシアと中国(清)との国境画定の経過がポイントです。

よく出ますよ。東アジアへの南下政策は19世紀後半からですが、それ以前の条約から

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まとめました。ネルチンスク条約は最初の国境条約で清に有利なものでした。

キャフタ条約は西側の未確定だったラインを規定したものです。アイグン条約からロシ

アは有利に領土を獲得、北京条約で沿海州を獲得しムラヴィヨフはウラジヴォストーク

を建設、極東の中心となります。図で示したのでよく理解して下さい。条約はその時の

皇帝、境界線の名称等押さえて下さい。

(中央アジアにおける清との衝突)

中央アジアでの清とロシアの衝突がイリ事件です。イリ地方はコーカンド=ハン国の東

側です。新疆は漢字で書けるようにして下さい。アラスカの経緯も載せておきました。

清とは直接関係ありませんが。

(日本との関係)

江戸から明治にかけての関係をまとめたものです。

◎ロシア通史

一通り通史でまとめたものです。

解説は1891年シベリア鉄道着工から行きます。フランス資本の導入です。ウィッテ

は蔵相そして首相になる政治家で日露戦争・ポーツマス会議の全権代表です。資本主義

的、自由主義的な政策を進めます。シベリア鉄道建設も積極的に進めた人物です。

大津事件はニコライ皇太子(のちのニコライ2世)が日本遊説中に津田三蔵に襲われた

事件です。世界史ではあまり出ませんが、時のロシア皇太子暗殺未遂は日本中を震撼さ

せ、極刑を望む声が高まりましたが、児島惟謙は世論に流されず法に従い裁くことを貫

きます。その皇太子がニコライ2世として即位、日清戦争での日本の勝利に干渉します。

日清戦争は19世紀後半のアジアで詳しくやります。簡潔に言えば、東アジアのロシア

南下政策において、日本が脅威となっていきます。遼東半島を日本が領有することはロ

シアにとっては許しがたく三国干渉の中心として日本に領有を断念させるのです。そし

てそれをちゃっかりロシアは租借します。ここに旅順(軍港)・大連(商港)を建設しま

す。租借とは長期のスパンで他国の土地を借りる事を言いますが、実質、好きなように

支配します。この状況もアジアの所で詳しくやりますが、香港もまさにイギリスの租借

地でした。そして日本とロシアは中国東北地方(旧満州)、朝鮮半島の覇権をめぐり日露

戦争が起きるのです。このあたりはプリント通りに理解してくれれば大丈夫だと思いま

すが、日露戦争中にロシアは戦争中止を目的とした血の日曜日事件、第一次革命が起き、

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戦艦ポチョムキン号事件で軍も反乱を起こします。アメリカの仲裁により戦争は終結、

ロシアでは民主化の動きを受け、ウィッテが起草した「十月宣言」によりドゥーマ(国

会)開設へと向かいます。

世界史的にはアメリカが仲裁しましたが、当然、イギリスもロシア南下政策阻止の立場

から、日本の友好国であり(1902年日英同盟)、国際関係では日本が有利であった事

は確かです。

ロシアでは保守派から見れば、戦争敗北、その後の自由主義的改革は受け入れがたく、

ウィッテを罷免、ストルイピンによる反動政治が現出します。議会解散、政府に反発す

る運動の原因ともいえるミール解体等強硬路線です。

東清鉄道はシベリア鉄道のチタから分岐しウラジヴォストークに達する本線と、中間の

ハルビンから遼東半島の旅順・大連を結ぶ南満州支線からなり、本線は1896年にロ

シアが敷設権を認められ、支線は1898年の列強による中国分割の際にロシアが遼東

半島南部の租借権とともに敷設権を清に認めさせます。

日露戦争で勝利した日本は、ポーツマス条約でロシアの遼東半島租借権を継承し、長春

(満州国首都・新京)から旅順までの鉄道の営業と沿線の鉱山開発などを行う南満州鉄道

会社を1906年に設立します。

その後のロシア革命は第一次世界大戦のところでやります。

また、ロシアの政党の動きもしっかり覚えて下さい。まとめた通り覚えていけばよいで

すが、ロシア革命の時に再度学習しましょう。

次回はアメリカの発展、アフリカ分割へと進みます。