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    139

    探討川端文學的「成長」

    -以《伊豆舞孃》與《雪鄉》為中心

    黃翠娥

    輔仁大學日本語文學系副教授

    摘要

    川端康成的文學一向被視為是古典美學的再現,因而在川端文學

    的研究上,針對川端文學中的美意識、美的結構等的探討一直是個顯

    學。然而正因為如此,所以容易忽略掉與美學同時存在的「非情」的

    部分。本論文擬以同時呈現「美的世界」與「非情世界」的《伊豆舞

    孃》與《雪鄉》為探討對象,找出兩個世界同時存在的必然性與意義。

    在這其中發現兩者原來都與主人翁在追求人生成長的議題方面息息相

    關。「美的世界」的呈現是追求成長的重要途徑,而「非情」更是「成

    長」的重要內涵。

    研究方法為針對兩個著作做仔細的文本分析,並透過相互比較,

    確立二者之間的關係;接下來再以日本近代「異境文學」(「向う側の

    文学」)的概念來檢視川端這兩個作品的特質,由此闡明出主人翁「成

    長」的獨特性。

    關鍵詞:川端康成、成長文學、異境文學、伊豆舞孃、雪鄉

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    140

    Discussion on the theme of initiation in "The Izu Dancer" and "Snow Country" by Yasunari Kawabata

    Huang Tsui-o Associate Professor, Fu Jen University

    Abstract

    Yasunari Kawabata’s works are considered representations of classic

    aesthetics; therefore, topics such as the theme of beauty and the aesthetic structure have been widely discussed and researched. Actually, it is why the unfeeling characteristics that have been juxtaposed with the aesthetic beauty are often easily overlooked. Both “The Izu Dancer” and Snow Country present and depict “the world of beauty” and “the world of the unfeeling” and thus they are chosen to be the target texts and the subject of discussion in this paper which aims to explore the significance and necessity as to why the two worlds co-exist. During the process, I discover that they are closely related to issues about the main characters’ pursuit of development in life. The world of beauty shows the important route to initiation and the world of the unfeeling is even the key element.

    My methodology is to have a detailed and careful textual analysis of the two texts. Through the comparison and contrast, the relation between the two is established. Then, I study these two works by Kawabata in the context of a modern concept in Japanese literature, “向う側の文学 ,” (literary works in which the characters are set in a place that put them away from the reality that they were in), to explain the uniqueness of the initiation of the protagonist.

    Key words: Yasunari Kawabata, Initiation Stories, Mukougawa,

    The Izu Dancer Snow Country

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    141

    川端文学における「成長」

    -『伊豆の踊子』と『雪国』-

    黃翠娥

    輔仁大学日本語文学科副教授

    要旨

    川端文学は一見非現実的な美ばかりが描かれているようである

    が、その底には、どこかひんやりとした部分、即ち冷たさ、つれな

    さ、非情さなどが存していることも否定できない。今回、『伊豆の踊

    子』、『雪国』を研究対象として取り上げたのは、この二つの作品に

    は、今述べた日本的な美の世界と川端独特の冷たさが同時に存在す

    るからである。そして、その中の「冷たさ」というのは、主人公の

    「成長」の特質とは緊密な関係を有していると思う。両作品とも、

    その主人公が異世界に赴いて当地の女性と巡り会うという、「旅」と

    いう一種の仕掛けが施され、その旅を通じて、さまざまな出会いや

    経験をし、そうして真剣に自分の人生を省み始め、最後には未練を

    感じながらも、相手との関係を絶って現実社会に戻っていくのであ

    る。両方ともそれぞれの人間が成長する上で遭遇した困難にどう対

    処するかという意味で、主人公の個人の完成に関する物語であると

    言える。

    研究方法は、両作品における「美の追求」と「冷たさ」の分析、

    さらに、日本の近代文学における「向う側」文学の条件に照らして、

    その「成長」の特質を闡明しようという方法である。

    キーワード:川端康成 成長文学 向う側 『伊豆の踊子』

    『雪国』

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    142

    川端文学における「成長」

    ―『伊豆の踊子』と『雪国』―

    黃翠娥

    輔仁大學日本語文學系副教授

    1. 研究動機・目的 川端康成は戦後、自分の余生を古典、特にその美の世界の探究に

    捧げようとした。その美的世界の追求心から『雪国』を始め、『山の

    音』、『千羽鶴』、『古都』などの、日本の心を特に表現した作品が誕

    生した。しかし、にもかかわらず、美的世界の創造に腐心した川端

    文学の底には、どこかひんやりとした部分、即ち冷たさ、つれなさ、

    非情さなどが存していることも否定できない。このような異質な資

    質の共存は、日本の近代文学の中においても決してありふれたもの

    ではあるまい。

    今回、『伊豆の踊子』、『雪国』を研究対象として取り上げたのは、

    この二つの作品には、今述べた日本的な美の世界と川端独特の冷た

    さが同時に存在するからである。しかも、両作品とも、その主人公

    が異世界に赴いて当地の女性と巡り会うという、「旅」という一種の

    仕掛けが施されている。主人公は、その旅を通じて、さまざまな出

    会いや経験をし、そうして真剣に自分の人生を省み始め、最後には

    未練を感じながらも、相手との関係を絶って現実社会に戻っていく

    のである。だが、なぜ作者は長期に渡ってこのような作品を書き続

    けたのであろうか。作者がこの二つの作品を通じて求めたものは何

    なのであろうか。両作品は恋愛小説だと思われがちだが、両者とも

    外的な、あるいは内的な様々な問題が描かれ、極めて複雑で奥深い

    ものになっているため、単なる恋愛小説と言い切ることはできない

    だろう。

    これまで『伊豆の踊子』と『雪国』の二つの作品を同時に扱った

    論文はそれほど多くはないが、例えば奥出健の「異郷の母たち―『伊

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    豆の踊子』と『雪国』―」1は、登場する女性たちの「身代わりの母」

    としての機能及びその意義を追究している。また、王奕紅の「『伊豆

    の踊子』と『雪国』をめぐって」2では、『伊豆の踊子』の「空虚」

    と『雪国』の「徒労」の同質性について考察しつつ、中国の「文以

    載道」の観点から比較して、日中両文化の相違点を論じている。本

    論文はこれらの先行研究を踏まえた上で、両作品の男主人公の「人

    格的成熟」を、両作品の共通点の比較分析を通して追究していきた

    い。さらに川端文学における位置付け、及び文化的な意味なども考

    えたいと思っている。

    2. 『伊豆の踊子』 この作品は、二十歳の高校生の〈私〉が憂鬱に堪え切れず、一人

    で伊豆を旅し、その途中、旅芸人の一行に出会い、その中の「髪を豐

    かに誇張して描いた、稗史的な娘の繪姿のやうな感じ」(296)の踊

    子に惹かれ、一緒に旅をする過程を描いたものである。この作品が

    文学史的にどのように位置付けられるかと言えば、「日本近現代文芸

    の中でも類まれな青春小説」3という見方が主流であろう。

    2.1 美の追求

    一人旅に出かけた主人公の〈私〉は、旅芸人の一行に会った時、

    その中の踊子に先ず目を向ける。〈私〉は踊子の第一印象を「私には

    分らない古風の不思議な形に大きく髪を結つてゐる。それが卵形の

    凛々しい顏を非常に小さく見せながらも、美しく調和してゐた。髪

    を豐かに誇張して描いた、稗史的な娘の繪姿のやうな感じだつた。」

    1 奥出健「異郷の母たち-『伊豆の踊子』と『雪国』-」(『文学における「向う

    側」』 国文学研究資料館編 明治書院 昭和 60.6 pp.172-204) 2王奕紅「『伊豆の踊子』と『雪国』をめぐって」(『世界の中の川端文学』 川端

    文学研究会 おうふう 平成 11.11 pp.162-174) 3 「土の香りのする牧歌的な恋愛が、早熟な自意識に苦しむ青年の救いとして展

    開される点に、この小説の生命と現代性がある。」(「川端康成」『日本近代文

    学大事典』講談社 昭和 59.10 p444)

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    (296)と語っている。そして、そのような踊子に旅情を感じ、その

    一行を追おうと決めるのである。また〈私〉にとっては、踊子自身

    だけではなく、踊子が生きる世界に存在する太鼓、三味線、踊り、

    座敷なども現実社会では触れられるものではないので、魅力になっ

    たはずである。即ち、主人公が憧憬する「美」は、単なる外見の美や

    世間的に認められている美しさではなく、特別な条件を備えた美へ

    の志向と言ってよい。それは、「不自然」や「非日常」の美と言い換

    えることもできよう。例えば、〈私〉が踊子と一緒に碁をする場面で

    「不自然な程美しい黒髪が私の胸に触れさうになつた。」(310)とあ

    る。こうした不自然なまでの美しさこそが主人公の心を躍らせるの

    である。この「非日常の美」は、本論で後ほど扱う『雪国』にも現

    れており、川端文学においてはこの「非日常の美」への憧れは重視

    すべきモチーフの一つとなっている。ただ、「旅」の醍醐味のひとつ

    は、日常を離れ、ふだんの現実的な生活の中ではめったに触れられ

    ない対象と接することができることにあるので、「非日常の美」とい

    うのは「旅」の文学においてはそれほど特筆すべきものではないだ

    ろう。それでは、「非日常の美」のほかに主人公を魅了した美とは一

    体、どのようなものなのであろうか。

    『伊豆の踊子』の中の旅芸人は、遊芸を売るいかがわしさゆえに、

    社会的に蔑視されている集団である。「あんな者、どこで泊るやら分

    るものでございますか。」(298)という甚だしい軽蔑を含んだ茶屋の

    婆さんの言葉や、「物乞ひ旅藝人村に入るべからず」(318)という村

    の入口に立てられた立て札、「好奇心もなく、輕蔑も含まない、彼等

    が旅藝人といふ種類の人間であることを忘れてしまつたやうな、私

    の尋常な好意は、彼等の胸にも沁み込んで行くらしかつた。」(313)

    という主人公の言葉などからは、旅芸人の社会的地位の低さが窺え

    る。川端は『文學的自敘傳』で「銀座より淺草が、屋敷町より貧民

    窟が、女學校の退け時よりも煙草女工の群が私には抒情的である。

    きたない美しさに惹かれる。」4と述べているが、この「きたない美し

    4 「文學的自敘傳」(『川端康成全集』第三十三巻 新潮社 昭和 58.8 p96)

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    さ」とは、即ち、旅芸人を含む、庶民的な風情を持った美しさのこと

    であろう。社会的な弱者であるがゆえに備わった美しさと言っても

    よい。主人公が踊子に惹かれた理由の一つも、踊子が「きたない美し

    さ」、庶民的な美を体現していたからなのではないだろうか。そうい

    う意味では、この作品では、踊子との恋愛が描かれているというよ

    りも、むしろ特殊な美の追求を試みる〈私〉の姿が描かれていると

    言うべきだろう。そして、この「きたない美しさ」こそ、孤児という

    出自を持つ主人公に旅芸人一行への親しみを湧かせたのであり、さ

    らに彼らの庶民的な芸能が、踊子の生命力を美しく引き出すがゆえ

    に、主人公の心を躍らせるのにもっとも重要な媒介になったように

    思われる。

    だが、『伊豆の踊子』に表現された美は、「非日常の美」、「きたな

    い美しさ」にとどまらない。この作品のもう一つの美の特徴として

    「子供じみた美」をあげることができるように思われる。「きたない美

    しさ」が庶民性を主人公に感じさせ、親しみを湧かせるものだとす

    れば、「子供じみた美」は主人公に安心感をもたらす美とでも言うべ

    きものである。十七くらいの髪を豊かに誇張した、成熟して見える

    踊子と一緒にいるのは、主人公にとっては喜ばしいことであるが、

    その喜びは常に不安と幻影に彩られている。だからこそ、踊子が傍

    にいなくなると、かえって、主人公の「空想は解き放たれたやうに生

    き生きと踊り始め」る(298)ことになるのである。作品の中で唯一

    主人公に不純さが感じられる場面は、「踊子を今夜は私の部屋に泊ら

    せる」(298)と妄想する箇所であった。主人公がこうした妄想を抱

    いたのは、もちろん茶屋の婆さんの踊子に対する甚だしい軽蔑を含

    んだ言葉によって煽られたためだが、彼女が成熟した女性のように

    見えたことも、大きく作用していたであろう。踊子が座敷に呼ばれ

    ると、主人公は不安と焦燥に襲われる。

    しかし、翌日になると、子供じみた少女の純潔の美は主人公を安

    心させ、「心に清水」を感じさせるのである。この「子供」との触れ

    合いが、今まで孤児であることを感じながら、大人の世界に身を置

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    くことを余儀なくされてきた主人公に、解放を感じさせ、「朗らかな

    喜び」を味わわせたのであろう。これらの喜びによって、彼はいつ

    しか自身の孤児根性から解き放たれていくのである。

    このように見てくると、〈私〉が「きたない美しさ」と「子供じみた

    美」に関心を寄せるのは、単に美の享受者としてではないことが分っ

    てくる。それらは主人公の「成長」に深く関わっているのである。

    2.2「成長」という主題

    主人公の〈私〉にとって、上述した二つの美を持つ旅芸人一行は

    どのような存在だったのだろうか。孤児根性による憂鬱に耐えられ

    ず旅に出た主人公は、家族という関係で繋がっている旅芸人に一種

    の憧憬を感じている。この点も主人公が彼らと道連れになることを

    望む隠れた、だが大きな要因となっている。それは、これによって

    主人公の幼年回帰の願望が叶えられることになるためである。特に、

    一行の母親役をしている四十女は、主人公と会って、自然に国に残

    してきた子供のことを話題に出した。これが旅芸人となじむきっか

    けになるわけだが、この部分は〈私〉の幼年回帰の願望を誘発する

    場面と言ってよかろう。この後、彼は道連れとして旅芸人から手厚

    い世話を受け、彼らとの付き合いにおいては、世間的な気遣いから

    解放される。彼の「孤児根性」という言葉で暗示される、正常な幼・

    少年期体験の欠落を考えれば、「子供回帰」の願望が生じるのは、当

    然のことと言えるかもしれない。奥出健は「異郷の母たち―『伊豆

    の踊子』と『雪国』―」の中で、『伊豆の踊子』の中の踊子と『雪国』

    の中の駒子と葉子について、「清楚で、やさしいまなざしの〈身がわ

    りの母〉、それが『私』を慈しみ、個性を認めてくれる。(中略)最

    も中心的な母性要素によって画龍点睛の譬えのごとく、全き精神の

    自立を促されるのである。5」とし、彼女たちの母的要素を指摘して

    いる。『伊豆の踊子』については、確かに幼児のように保護されたい

    5 注 4 に同じく、p181。

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    願望が窺え、奥田氏の分析は従うべき見解だと思われる。が、ただ、

    この作品においては〈身がわりの母〉を求めるようなシーンも確か

    にあるが、主人公自身が母親的な役、あるいは保護者的な役を演じ

    る場面も随所にある。つまり〈私〉はむしろ被恩恵者から恩恵者の

    立場へと変わる機会を踊子一行から与えられたのではないかと思わ

    れるのである。旅という状況の中でお互いに助け合うのはごく自然

    なことであろう。例えば、〈私〉は都会から来た高等学校の書生とい

    う身分でありながら、旅芸人と分け隔てなく付き合い、また金包み

    を投げ与えたり、宿のおかみさんに「あんな者に御飯を出すのは勿

    體ない」(310)と言われるほど、旅芸人を持て成したりする。これ

    らは恩恵者としての行動であり、旅芸人一行は当然、被恩恵者的な

    態度で主人公に好意を表すことになる。主人公の、踊子たちに対す

    る世話焼きについて、奥出氏は同じ論文で「『私』の経済観念のなさ、

    つまりは社会的観念の未成熟を露呈しているのであって、『私』が〈少

    年〉以外の何者でもないことを示している6。」としているが、主人

    公の行動に旅芸人に対する子供じみた同情を読み取るだけではなく、

    そこに被恩恵者から恩恵者になろうとする意志を見るべきではなか

    ろうか。そうでなければ、次のような対話に〈私〉が深く感動し、

    人生における大きな転機が訪れることにはならなかったはずである。

    「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」

    この物言ひは單純で明けつ放しな響きを持つてゐた。感情の

    傾きをぽいと幼く投げ出して見せた聲だつた。私自身にも自

    分をいい人だと素直に感じることが出來た。晴れ晴れと眼を

    上げて明るい山々を眺めた。瞼の裏が微かに痛んだ。二十歳

    の私は自分の性質が孤児根性で歪んでゐると嚴しい反省を重

    ね、その息苦しい憂鬱に堪へ切れないで伊豆の旅に出て來て

    ゐるのだつた。だから、世間尋常の意味で自分がいい人に見

    えることは、言ひやうなく有難いのだつた。(317-318)

    6 注 4 に同じく、p175。

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    これは踊り子と兄嫁の対話で、詩のように澄んだ言葉の響きの中に、

    何一つ濁ったところのない純粋な感情が流れ出している。そして、

    これを偶然に耳にした主人公は自然に自分を「いい人」だと素直に感

    じるようになり、それを言いようもなく有難く思った彼は、息苦し

    いほどの憂鬱感が解消されていくのである。したがって、『伊豆の踊

    子』の主題は、彷徨から救抜への移行、より明確に言えば、孤児根

    性からの脱出と言ってよかろう。では孤児根性から抜け出した後、

    主人公には、どのような変化が訪れたのであろうか。

    私は非常に素直に言つた。泣いてゐるのを見られても平氣

    だつた。私は何も考へてゐなかつた。ただ清々しい滿足の中

    に静かに眠つてゐるやうだつた。(中略)私はどんなに親切

    にされても、それを大變自然に受け入れられるやうな美しい

    空虛な氣持ちだつた。明日の朝早く婆さんを上野驛へ連れて

    行つて水戸まで切符を買つてやるのも、至極あたりまへのこ

    とだと思つてゐた。何もかもが一つに融け合つて感じられた。

    (323-324)

    これは、結末近くで語られている主人公の心境である。主人公は、

    旅に出るまでは孤児根性の持ち主であり、被恩恵者的、被庇護者的

    存在であったために、人間関係に屈託を抱え込まざるを得なかった。

    しかし旅路で、被恩恵者・被庇護者から平等意識を持った人間へ、

    さらに恩恵を与える立場の者へと変化を遂げていき、これによって

    それまでの歪んだ性質から抜け出して、精神的な成長を遂げること

    ができたのである。脱却後の〈私〉は、自我に拘泥することなく、

    素直に他人の好意を受け入れ、他人の世話を快く引き受けたりする

    ようになる。これは過剰な「自我意識」も、またそれによる人間関

    係の中での「疎外者意識」「疎外感」も、自然と消え去っていたこと

    を示している。「彷徨から救抜へ」、あるいは、「孤兒根性からの脱出」

    によって、〈私〉は他人の好意をより一層しみじみと感じることが可

    能になり、それが最終的に主人公の対人関係面での成長を促したの

    である。

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    3. 『雪国』

    『雪国』の主人公島村は、自分を「無為徒食」の徒と感じている

    舞踊研究家であり、「失いがちな」自分に対する「真面目さ」を取り

    戻すために、雪深い温泉町へ旅に出る。島村は二年あまりの間にこ

    の温泉町を三度も訪れたため、当地の芸者の駒子と馴染んでいる。

    だが、島村は駒子の純粋な徒労の美に惹かれながらも、少女葉子の

    ひたむきな生き方にも魅了されていく。そして初冬、火事が起きる。

    葉子が火の出た家屋の二階から飛び降り、駒子がその葉子を狂おし

    く抱きかかえる場面でこの物語りは終わる。

    この長い歳月をかけて書き上げられた作品は戦争中の国家政策の

    ため、重視されなかったにもかかわらず、川端文学の代表作として

    ノーベル文学賞の有力候補作品と目され、また実際にこの賞を受賞

    した。また、この作品は、文学史的にも昭和初期の日本の小説にお

    ける屈指の名作に数えられている。「卑められた」存在である駒子の

    なかに「美しい日本の心」を見出し、彼女の描写に独創性を発揮し

    た作者の才能が評価されたのである。大正期の私小説を越えた昭和

    文学の発想は、この作品ではじめて自覚的に把握され、芸術的成功

    を収めたとも指摘され7、「作者の力量がもっとも発揮された傑作で

    あり、現代世界文学の中でも独自の位置を占めるものだろう。」と高

    く評価する意見もある8。『雪国』の研究で多大な研究業績を上げた

    原善及び岩田光子両氏の統計によれば、『雪国』についての研究論文

    の数は同じ作家の名作『伊豆の踊子』や『山の音』などの倍以上と

    なるという9。『雪国』は川端文学において重要な作品であることは

    疑いようのない事実と言っていいだろう。

    7 「川端康成」(『日本近代文学大事典』日本近代文学館編 講談社 昭和 59.10

    p444) 8 「川端康成・案内」 (『国語総合便覧』 中央図書 昭和 55.1 p150) 9 羽 鳥徹哉「『雪国』、さまざまな研究」 (『川端康成「雪国」60周年』 志

    文堂 平成 10.3 p41)

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    3.1 美の追求

    『雪国』という物語は、島村が雪国に入り込んだ時点から語り始

    められているが、なぜ島村は雪国に通うのだろうか。次の二つの理

    由が考えられる。一つは芸者の駒子との愛情を求めるためという理

    由であり、もう一つは島村が初めての雪国行きで母愛を満喫したた

    め、雪国に通うようになったとするのである。まず、この二つの理

    由についてより詳細に考えてみたい。前者についてであるが、二年

    の間に、島村は三回ほど雪国で長逗留し、駒子との恋も深まってい

    ったとされているので、愛情を求めるために雪国に逗留したことは

    疑う余地がない。しかし、ここで注意しておきたいのは、島村と女

    主人公の駒子との間には意思の疎通が欠けているという点である。

    島村は駒子の美しさに惹かれる一方で、駒子と距離を保ち、冷静に

    見つめるようなシーンが多く、まったく駒子の気持ちが理解できず、

    また理解しようともしないのである。何遍となく駒子に「私の気持

    ち分かる?」と聞かれても、島村は、駒子の真面目さ・真剣さに常

    に悲哀を感じるだけであり、駒子の宴会での忙しさ・惨めさを見て

    も「毎日がこんな風では、どうなつてゆくことかと、さすがに駒子

    は身も心も隱したいやうであつたが、そのどこか孤獨の趣きは、反

    つて風情を艶めかすばかりだつた。」(104)と駒子の中に美しさだけ

    を求める。島村は駒子の彼に向けた愛情を美しい徒労であると見な

    すのである。駒子が島村を駅まで送った場面では、行男さんが危篤

    になっているから速く帰って来て欲しいと知らせに来た葉子に対し

    て強情に断ってばかりいる駒子の態度を見て、島村はまず人の目を

    憚る。そして、強情を張る駒子に「肉體的な憎惡」を感じ、駒子の

    「ちがふ。あんた誤解してゐるわ」という訴えを受け付けようとは

    しないのである。

    「どこへ行く。」と、駒子は島村が自動車の運轉手を見つけ

    に行かうとするのを引き戻して、

    「いや。私歸らないわよ。」

    ふつと島村は駒子に肉體的な憎惡を感じた。

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    151

    「君達三人の間に、どういふ事情があるかしらんが、息子さ

    んは今死ぬかもしれんのだらう。それで會ひたがつて、呼び

    に來たんぢやないか。素直に歸つてやれ。一生後悔するよ。

    かう言つてるうちにも、息が絶えたらどうする。強情張らな

    いでさらりと水に流せ。」(69)

    この場面では、駒子の一途な愛情に対して、島村の義理堅さが示

    されているようにも見えるが、駒子との面倒な関係からさっさと逃

    れたいという思惑がないとも言えまい。そしてそのせいか、島村は、

    行男・葉子の二人に対する駒子の複雑な気持ちをまったく理解しよ

    うとはしない。好きな男性に自分の惨めさを見せたくないという駒

    子の気持ちも、島村には感得できないのである。このような二人の

    間にある隔たりを考えれば、『雪国』を島村の愛情への憧れを描いた

    作品と見なすだけでは、足りないように思われる。

    では、母愛への追求はどうだろうか。確かに、島村は葉子の看病

    の様子に惹かれるし、駒子に対しても「母のようなもの」を感じる

    ところが随所にあるため、二人の女性、特に駒子は島村にとっては

    母親的な意味を帯びている。例えば、悪酔いし横たわった島村を、

    駒子が母親のように介抱する場面がある。そこには「やがて島村は

    女の熱いからだにすつかり幼く安心してしまつた。駒子はなにかき

    まり悪さうに、例へばまだ子供を產んだことのない娘が人の子を抱

    くやうなしぐさになつて來た。首を擡げて子供の眠るのを見てゐる

    といふ風だつた。」(118)と書かれている。奥出氏がこの部分に注目

    して、島村は精神の危機を克服するため、「身がわりの母」との邂逅

    を求めて異郷に旅立ったのだと主張する10のも無理ではない。ただ、

    島村がそれをすべて手放しで喜んでいるわけではないことも忘れて

    はなるまい。例えば、駒子が朝の七時と夜中の三時、一日に二度も

    異常な時間に暇を盗んで訪ねてくる場面があるが、島村はこの時、

    駒子の行動に単に温かいものを感じるのではなく、「ただならぬも

    の」を感じ、冷静に観察しているのである。あるいは無理に島村を

    10 注 4 に同じく、p174。

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    152

    自分の部屋へ引きずり込もうとするのに対して、島村はしり込みし

    たり、「いいよもう」と突っぱねたりする。駒子のあまりにも情熱的

    過ぎる言動に対し、島村は時に消極的に対応しているのであり、こ

    れらのことから考えると『雪国』は決して単に母愛を求める物語に

    は止まらないと思われる。

    それでは、島村は何を求めて雪国に行くかと言えば、それは美で

    あると筆者は考えている。川端自身は『雪国』について次のように

    述べている。「私の作品のうちでこの『雪國』は多くの愛讀者を持つ

    た方だが、日本の國の外で日本人に讀まれた時に懷鄉の情を一入そ

    そるらしいといふことを戰争中に知つた。これは私の自覺を深め

    た。」11とする。なぜ海外の日本人に懐郷の情をそそったのであろう。

    それは海外にいる読者に日本的な雰囲気を強く感じさせることが出

    来たからなのではないだろうか。『雪国』が読者に最も強い印象を読

    者に与えるのは、やはりその「美」的な描写であろう。前述したよ

    うに、川端はさまざまな文章で、自分の余生は日本美を継ぐことの

    ために存在すると述べている。『雪国』はこのような川端の使命感を

    具現した作品の一つと見てよかろう。川端が追求した美については、

    ここでは簡単にそれらをまとめておくことにしたい。(1)『雪国』で

    は作者は実は意図的に美の世界、特に幽玄美の世界を作ろうとして

    いる。逆接助詞、副詞などの言葉使いや作品全体の構成や自然と人

    物の関係、また「夜」という設定などはすべて幽玄の美を醸し出す

    ためのしかけなのである。秋山公男が「『ながら』をはさむことによ

    って結合し、常識的な美感を越えた、玄妙・幽艶な美の空間を形成

    しえて」おり、「日常的な論理を無視し、『なぜか』と曖昧化するこ

    とによって背反する想念なりイメージを結合してみせ」、「『なにか』

    により当然であるかのように、無縁な両者を連合し重層化する。」12と

    指摘しているように、作中に工夫を凝らして幽玄美の世界を創り上

    11 「岩波文庫版『雪国』あとがき」(『川端康成全集』第三十三巻 新潮社 昭

    和 58.8 p646) 12 秋山公男「『雪国』-美の構造と方法」(『近代文学 美の諸相』 翰林書房

    2001.10 pp.334-337)

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    153

    げているのである。作品全体を見ると、これらの工夫によって「曖

    昧」、「余韻」、「奥ゆかしさ」などの雰囲気が醸し出されている。こ

    の幽玄美の誕生は川端文学の初期の特色としての新感覚派的な技法

    に頼る所ももちろん大きいのであるが、日本固有の「自然と人物の

    融合」の精神や「俳諧的な手法」などとも無関係とは言えないだろ

    う。(2)また、色彩の対立も一つの特色として指摘されている。例

    えば、「黒」と「白」の二重構造は雪国の厳しい環境の設定に効果的

    だが、そのほかに、「赤」と「青」の対もこの作品における多彩で鮮

    やかな自然風景の描写に一役買っている。また「白」と「赤」とい

    う対比は駒子の官能美を引き出している。(3)また「死の美学」も

    『雪国』における重要な美の要素の一つである。『雪国』では死の場

    面はすべて美しい。例えば、蛾の死を「窓の金網にいつまでもとま

    つてゐると思ふと、それは死んでゐて、枯葉のやうに散つてゆく蛾

    もあつた。壁から落ちて來るのもあつた。手に取つてみては、なぜ

    こんなに美しく出來てゐるのだらうと、島村は思つた。」(106)と描

    いたり、葉子の墜落事件についても「人形じみた無抵抗さ、命の通

    つてゐない自由さで、生も死も休止したやうな姿だつた。(中略)島

    村はやはりなぜか死は感じなかつたが、葉子の内生命が變形する、

    その移り目のやうなものを感じた。」(139-140)と描写し、死を美化

    しているのである。したがって、『雪国』の主題は耽美的な世界の創

    造と言っても過言ではない。そして、この美の世界に存在する島村

    の目を最も強く引きつけたのは、やはり女性の美しさであった。『雪

    国』では、『伊豆の踊子』の中の少女らしい純潔さはセクシュアリテ

    ィに変わり、そして駒子と葉子という二人の女性の官能美と精神美

    の対立と補完によって、理想的な女性像が創り出されているのであ

    る。また、『伊豆の踊子』の踊子と同じく駒子も芸者であるため、そ

    の社会的身分から生まれる「きたない美しさ」も重要な美の要素の

    一つになっていると言えよう。

    海外の日本人の郷愁をそそった最大の原因が、以上に述べた日本

    的な美の総体であることは認めてよく、それらは島村の目を通して

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    154

    語られているのである。が、『雪国』の美的世界において特筆すべき

    は、やはり「美しい徒労」という精神面の美学であろう。では、こ

    の「美しい徒労」とはどのようなものなのだろうか。以下ではこの

    点に絞って考察を加えてみたい。

    3.2 「成長」という主題

    島村は美を求めて雪国に赴いたのであり、上述したように「きた

    ない美しさ」や女性の官能美などはその要素であると言える。だが、

    それよりさらに、島村の心を惹きつけるもう一つの要素は、駒子と

    葉子の人生の純粋性を表したような「徒労の精神」であった。そし

    て、この精神性こそ『雪国』の芸術性を高めていると言ってよい。

    では、「徒労の精神」とは一体どのようなもので、なぜ島村は特に「徒

    労の精神」に注目するのであろうか。

    まず、「徒労の精神」とは何かについてであるが、実はこの点は

    先行研究で言い尽くされた感があり、改めて問題にするまでもない

    のだが、島村の思考の軌跡を検討するには必要な作業だと思うので、

    ここでもう一度考えておきたい。

    献身的な葉子も「徒労の精神」の持ち主と言えるが、ここで見て

    おくべきはやはり駒子である。駒子は許婚の治療費のために芸者に

    なった女性であり、待っても報われないかもしれない旅人の島村を

    待ち続けていることも徒労の行為であると言える。また駒子は十五、

    六の時から、読んだ小説についての感想を日記に書き留めており、

    そのための雑記帳がすでに十冊にもなっているのだが、島村はこの

    ような、駒子のさまざまな行動を徒労だと決め付けつつ、それと同

    時にこのような駒子に惹き付けられてもいるのである。他には次の

    ような描写もある。

    島村の頭にはまた徒勞といふ言葉が浮んで來た。駒子がい

    ひなづけの約束を守り通したことも、身を落してまで療養さ

    せたことも、すべてこれ徒勞でなくてなんであらう。駒子に

    會つたら、頭から徒勞だと叩きつけてやらうと考へると、ま

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    155

    たしても島村にはなにか反つて彼女の存在が純粹に感じら

    れて來るのだつた。(51)

    このように、駒子の徒労の行動に対して、島村は哀れみを感じつつ、

    次第に命の純粋性の表現と見なすようになる。また、三味線の練習

    についても、山峡の大きい自然を相手として稽古する駒子の孤独が、

    哀愁を踏み破って野生の意力を宿したように島村には感じられる。

    それゆえ島村は「虛しい徒勞とも思はれる、遠い憧憬とも哀れまれ

    る、駒子の生き方が、彼女自身への價値で、凛との撥音に溢れ出る」

    (60)と感動するのである。このように駒子の徒労の中に純粋性を

    見出した島村だが、その後、次第に自分の人生の徒労についても考

    えていくようになる。例えば、東京でいろいろと稽古をした後、田

    舎に戻った駒子の様子を見た後で島村は、

    都會的なものへのあこがれも、今はもう素直なあきらめに

    つつまれて無心な夢のやうであつたから、都の落人じみた高

    慢な不平よりも、單純な徒勞の感が強かった。彼女自らはそ

    れを寂しがる様子もないが、島村の眼には不思議な哀れとも

    見えた。その思ひに溺れたなら、島村自らが生きてゐること

    も徒勞であるといふ、遠い感傷に落されて行くのであらう。

    けれども目の前の彼女は山氣に染まって生き生きした血色だ

    つた。(38)

    と、彼女の徒労の行為を哀れみつつ、その生き生きとした命を讃え、

    自分の生の徒労さにも思い至る。他にも同様の例がある。

    彼女の口振りは、まるで外國文學の遠い話をしてゐるやう

    で、無慾な乞食に似た哀れな響きがあつた。自分が洋書の寫

    真や文字を頼りに、西洋の舞踊を遙かに夢想してゐるのもこ

    んなものであらうと、島村は思つてみた。(37)

    駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかはらず、

    それを美しい徒勞であるかのやうに思ふ彼自身の虛しさが

    あつて、けれども反つてそれにつれて、駒子の生きようとし

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    てゐる命が裸の肌のやうに觸れて來もするのだつた。彼は駒

    子を哀れみながら、自らを哀れんだ。(102-103)

    駒子の生に徒労の美を見出すと同時に、自分自身の生をも省み始め

    るのである。そして島村もまた、「無為徒食の彼には、用もないのに

    難儀して山を歩くなど徒勞の見本のやうに思はれるのだつたが、そ

    れゆゑにまた非現實的な魅力もあつた。」(89)という部分がほのめ

    かしている通り、駒子たちと同じように、現実な意味を持たないも

    のに惹かれる人間であった。

    『雪国』の人物設定については川端自身が述べており、そこで川

    端は「葉子にはモデルはなく、まつたくの架空です。島村は私では

    ありません。男としての存在ですらないやうで、ただ駒子をうつす

    鏡のやうなもの、でせうか。」13としている。この発言に従えば、島

    村はそれほど重要な存在ではないようにも思えるが、順を追って見

    ていくと、『伊豆の踊子』と類似した点が見出せる。島村が雪国とい

    う土地を訪れ始めたのは、自分の人生に疑問を感じたからである。

    そして「無為徒食の島村は自然と自身に對する真面目さも失ひがち

    なので、それを呼び戻すには山がいいと、よく一人で山歩きをす」

    る(19)。だがなぜ彼は自身に対する真面目さを失いがちなのであろ

    うか。その原因は彼のおそらく生来の「非日常性」にある。

    西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほど安樂なこ

    とはなかつた。(中略)これほど机上の空論はなく、天國の

    詩である。研究とは名づけても勝手氣儘な想像で、舞踊家の

    生きた肉體が踊る藝術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や

    寫真から浮ぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞してゐるのだ

    つた。見ぬ戀にあこがれるやうなものである。(24)

    結局、島村は、女性達から感じ取った現実的な意味を求めない徒労

    性、徒労の美が自分の中にも存していることに気付くのであり、駒

    子を通して彼は自分の生の本質をやっと掴むことができたのである。

    それゆえ島村は、物語の結末の葉子の墜落事故の場面では「物狂は

    13 「『雪国』について」(『川端康成全集』第三十三巻 新潮社 昭和 58.8 p194)

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    157

    しい駒子に島村は近づかうとして、葉子を駒子から抱き取らうとす

    る男達に押されてよろめいた。踏みこたへて目を上げた途端、さあ

    と音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるやうであつた。」

    (140)というようになすすべもなく、そこにはただ抒情的な心情の

    描写しかない。この時、島村はすでに雪国を去るべき人間であり、

    駒子と葉子の複雑な絆に立ち入ることはできなくなっているのであ

    る。即ち、『雪国』は、主人公島村が『伊豆の踊子』の〈私〉と同じ

    ように生の悩みを抱えて旅に出、その地の女性によって自分の生に

    対する自信を取り戻し、自己を完成することによって元の世界に素

    直な気持ちで戻っていく物語なのである。

    したがって『雪国』は愛情や母愛への追求、美の追求などが主題

    だとされがちであるが、島村自身の人生に対する反省も無視できな

    いのではないだろうか。また自己の完成の過程においては、これま

    で述べてきたように島村が他人に対しては傍観者性、自己に対して

    は自照性を、十分に示している点も指摘したい。このことはまた島

    村の実地調査などの行動からも証明できる。例えば、雪の中での縮

    作業を紹介したシーンにはかなりのページ数が割かれており、この

    部分が駒子の「底の涼しい」性格をある程度反映していると読むこ

    とも可能だが、ページ数のことを考えれば、多少不自然に感じられ

    る量であり、それよりもむしろ実地調査をしている島村自体に焦点

    があると考えた方がしっくりする。

    4. 結論 即ち、『伊豆の踊子』と『雪国』は両方ともそれぞれの人間が成

    長する上で遭遇した困難にどう対処するかという意味で、主人公の

    個人の完成に関する物語であると言える。『伊豆の踊子』の青年は、

    人間関係における自己確認についての悩みを抱えており、一人前に

    人生を送ろうという願いを持ち、その旅の中で被恩恵者から恩恵者

    に変わり、自分という存在に自信を持って現実世界に戻っていく。

    しかし、『雪国』になると、中年になった主人公は人間関係をめぐる

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    悩みではなくなり、寧ろ、人生の意義についての悩みに変わってく

    る。人間の一生から見れば、このような変化はごく自然なものであ

    ろう。そしてこのような成長物語には次のような共通点が見られる。

    (1)即ち、このような成長物語を展開させていく上で、美という媒

    介物が重要な存在となる。主人公はそれぞれ生の悩みを持っている

    が、最初はそれほどはっきりと意識していない。だが、旅路で美に

    触れることで自己反省の機会を与えられ、それによって自らの生き

    方を認め、個人として完成することが可能になるのである。言い換

    えれば、この二つの成長物語が成立する前提として「美」の存在が

    まず挙げられるのである。この点は成長物語では特異な例と言える

    だろう。なぜなら、いわゆる成長物語はどちらかと言えば、「真」と

    「善」の精神を主軸としているからである。しかし、川端のこの両

    作には「真」の世界を求める傾向はあるものの、「真」よりも「美」

    が前面に押し出されている。「美」が十分に描かれた後に、はじめて

    「真」の世界が現れてくるのである。したがって、「真」の世界とし

    ての「自己完成」はあまり重んじられていない印象を与える。これ

    は芸術的雰囲気を主眼とする川端文学においてはよく見られる傾向

    であり、川端文学の特徴と言ってよかろう。

    また両作品の美の共通点として「きたない美しさ」を挙げること

    ができる。岩田光子が川端の掌の小説を対象に行った調査によると、

    作品の中で最も多く描かれている職業は「踊子」だという14。この

    ように社会の底辺を生きる人物に愛着を示すのは川端文学の基本的

    な傾向の一つであると言える。

    (2)しかし、前述した美の世界と背反するものとして、両作品には

    それぞれ残酷性もないとは言えない。男性の主人公は両作とも自照

    性が強いが、これは初期の『伊豆の踊子』から、中後期の『禽獣』、

    『雪国』、『千羽鶴』、『山の音』まで一貫した男性像である。もとも

    と自己を凝視し、そこから人生を反省したり、悟ったりする「自照

    14 岩田光子「川端文学における女性像」(『川端文学の諸相-近代の幽艶-』 桜

    楓社 昭和 58.10 p.93)

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    159

    性」は、川端文学の底流をなすもっとも重要な要素と言われている

    が、世界的に見ても余り例のない王朝時代の「女流日記文学」から

    近現代の自伝や私小説に至る日本文学的伝統を見れば、川端文学の

    この「自照性」もその伝統を受け継いでおり、それほど特異なもの

    とは言いがたい。ただ、そこに見られるのは自照性だけではない。

    両作品とも一元的な視点で描かれており、男主人公と女主人公が、

    その交流において同等の主体として設定されているのではなく、男

    主人公からの視線によって、冷静に外界の変化を凝視しているので

    ある。そして、このような傍観者としての主人公の視線の中で、踊

    子や駒子達は生き生きと自分の役目を演じている。しかし、そこに

    非情さが滲んでくることも否めない。『雪国』は言うまでもないが、

    「青春小説」や「恋愛小説」と称される『伊豆の踊子』の場合でも、

    最後の「別離」で主人公が「空虚」な気持ちを「踊子に別れたのは遠

    い昔であるやうな氣持で」(323)臆面もなく語ることの冷酷さは否

    定できないだろう。このように自照性に傍観者性を加えることで、

    川端文学特有の冷たさを持った世界が創られたのである。逆に言え

    ば、「非情さ」は川端文学の中の自己完成という主題には欠かせない

    要素なのかもしれない。

    (3)自己完成を求める過程で、周囲の状況や人間関係に多大な

    注意を払うのは、日本の社会における最大の特色であろう。ただ、

    このような日本的な文化の中でも、「いい人」というような褒め言葉

    に執着するのは、川端文学の特色なのではないだろうか。例えば『雪

    国』の駅の見送りの場面で島村は、駒子とのやりとりの後、駒子に

    「あんた素直な人ね」と言われると、つい「わけ分らぬ感動に打た

    れて、さうだ、自分ほど素直な人間はないのだといふ氣がして來る

    と、もう駒子に強ひて歸れとは言はなかつた。」(70)という気分に

    なる。いつも冷静に自分の感情を押さえて相手を見つめ続けていた

    島村であったが、思いがけず駒子の言動に感動し、そして自己を省

    みるようになるのである。さらに、自己肯定したことによって、相

    手に対しても寛容な態度を示せるようになっている。この場面は、

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    160

    まるで『伊豆の踊子』の世界の複写と言ってよい。前述したように

    「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね」と踊子の家族に褒められ、

    孤児根性から抜け出せた〈私〉は「素直に他人の好意を受け入れた

    り、他人の世話を快く引き受けたりするやうな状態に至つてゐ」る

    のである。つまり主人公は「向こう側」で人情の温かさにより、自

    己の存在価値を再認識することができたということであろう。この

    点と(2)の「きたない美しさ」の特徴とを考え合わせると、川端文

    学は一見非現実的な美ばかりが描かれているようであるが、実際は

    人間味を求める傾向も顕著だという特質が窺われるだろう。

    では、以上述べてきたような特質を有している『伊豆の踊子』と

    『雪国』の両作品は、日本の近代文学の中でどのような位置を占め

    ているのであろうか。上に述べたように、両作品とも日本の近代文

    学の中の傑作とする意見が大勢を占めているが、同じ作者の他の作

    品、あるいは他の作家の作品との比較の基準はさまざまである。そ

    こで、この二つの作品と他の作品との違いをより明確にするために、

    ここでは近代における「向う側」文学という観点に絞って論ずるこ

    とによって、その文学史における地位をより明確にしていきたい。

    なぜなら、両作品とも「向う側」の文学だと看做されているからで

    ある15。

    山中光一の「日本近代文学における『向う側』成立の条件」16に

    よれば、ザ・〈向こう側〉の共通点は以下の何点かにまとめることが

    出来る。(一)ザ・〈向こう側〉は、特定された空間として、リアル

    な「こちら側」と場所的にはっきりと区別されて設定されている。

    (二)或る男性の主人公が、「道行き」を経て、その「向う側」空間

    15山中光一の整理に従えば、幸田露伴の『対髑髏』、泉鏡花の『高野聖』、夏目漱

    石の『草枕』、芥川龍之介の『素戔鳴尊』、谷崎潤一郎の『蘆刈』、川端康成の

    『雪国』、太宰治の『浦島太郎』、安部公房の『砂の女』、古井由吉の『聖』な

    どである。(「日本近代文学における『向う側』成立の条件」『文学における「向

    う側」』 明治書院 昭和 60.6 p238)ただ、奥出健の見解に従えば、『伊豆の

    踊子』もこれに含まれる。 16 山中光一「日本近代文学における『向う側』成立の条件」(『文学における「向

    う側」』 国文学研究資料館編 明治書院 昭和 60.6 pp.207-208)

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    161

    にはいり込む。(三)「向う側」空間には一人の女性が居て、その空

    間で強い影響力を持っており、主人公の男性に、こちら側の世界で

    は得られないような、基本的に共通性をもつ或る根元的な作用を与

    える。(四)その女性はケア・ティカーとしての無限抱擁的女性で、

    セクシュアリティを持つ娼婦性という属性を有しているという。こ

    の第四点については、『雪国』の場合、官能的な女性であるため、当

    てはまっているが、『伊豆の踊子』の場合は、エロスが欠けているわ

    けではないが、聖処女的な存在として現れているので完全に当ては

    まるわけではない。だが、ケア・ティカーの役目ということになる

    と、奥出氏も前述のように「身代わりの母」としての機能を指摘し

    ているし、無論両方とも当てはまると言える。この「身代わりの母」

    という観点については、鶴田欣也も似たような意見を述べている。

    即ち、日本の近代文学には主人公が向う側の世界に行って戻る話が

    多いが、それは中国の陶淵明やイギリスのサー・トマス・モアなど

    のような、現実の政治を批判し、理想的な世界を空想する社会性の

    強い作品と相違し、寧ろ、現実に疲れた男の主人公が、向うの世界

    で美しい女性に出会い、癒されて帰るという、個人的で社会性に乏

    しいものがほとんどであり、しかも西洋の大人になるための旅の代

    わりに、日本のは寧ろ母胎回帰の行動だと指摘しているのである17。

    『雪国』における島村は、まさに現実に疲れて、異境に移行した人

    物として設定されており、異界で母性愛の強いケア・ティカーとし

    ての女性達に慰めてもらっている。また、西洋の主人公が純粋性に触

    れた場合には、それを結婚という形で所有しようとするが、日本の

    場合は、向う側をこちら側に持ち帰ろうとはしない18が、確かに、『伊

    豆の踊子』にせよ、『雪国』にせよ、最後に必然的な別れがあって、

    現実に回帰していく。現実回帰というのは、日本文学のもっとも顕

    著な要素の一つであると言えよう。いずれにしても、「向う側」の条

    件に照らしてみると、『伊豆の踊子』も『雪国』も日本の近代文学に

    17 「『向う側』の文学」(『文学における『向う側』』 国文学研究資料館 明治

    書院 昭和 60.6 pp.6-35) 18 注 21 に同じく、P28。

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    おける「向う側」文学の条件にほぼ合致している。

    しかし、以上の(1)きたない美しさへの追求(2)非情さの現れ

    (3)人間味が濃い、などの特質から考えれば、上で『伊豆の踊子』

    と『雪国』は「向う側」文学の条件に合致すると述べた筆者の見解

    は一旦、保留しなければなるまい。いわゆる「向う側」文学は、そ

    のほとんどが想像や幻想の世界であり、それらの異界や非現実性の

    強い空間を有する作品と比べた場合、旅先という空間が果たして真

    性の「向う側」と言えるかどうかは、再検討されるべき問題だと思

    われるからである。個人の完成に焦点を当てるこの両作品は、強い

    て「向う側」文学だとするなら、その特質はむしろ人間味の濃い世

    界にいながらにして、遠方の美の世界を必死に引き寄せようとする

    点にあるとも言えるのではないだろうか。

    テキスト

    1.川端康成(1982)「伊豆の踊子」『川端康成全集』第十巻 新潮 社

    2.川端康成(1984)「雪国」『川端康成全集』第二巻 新潮社

    参考文献(五十音順による)

    1.秋山公男(2001)「『雪国』―美の構造と方法」 『近代文学 美

    の諸相』 翰林書房

    2.磯貝英夫(1980) 「雪国―作品分析の方法―」(日本文学研究資

    料叢書『川端康成』 有精堂 )

    3.岩田光子(1983)「川端文学における女性像」『川端文学の諸相 近

    代の幽艶-』 桜楓社

    4.王奕紅(1999)「『伊豆の踊子』と『雪国』をめぐって」『世界の中

    の川端文学』 おうふう

    5.奥出健(1985)「異郷の母たち―『伊豆の踊子』と『雪国』―」 『文

    学における「向う側」』 国文学研究資料館編

    6.上坂信男(1986)『川端康成―その『源氏物語』体験―』 右文書

    7.川端康成(1983)「哀愁」、『川端康成全集』第二十七巻 新潮社

    8.川端康成(1983)「獨影自命」『川端康成全集』第三十三巻 新潮

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    163

    9.川端康成(1983)「岩波文庫版『雪国』あとがき」 『川端康成全集』第三十三巻 新潮社

    10.川端康成(1983)「『雪国』について」『川端康成全集』第三十三 巻 新潮社

    11.川端康成(1982)「横光利一弔辭」、『川端康成全集』第三十四巻 新潮社

    12.鶴田欣也(1985)「『向う側』の文学」 『文学における『向う側』』

    国文学研究資料館 明治書院

    13.鶴田欣也(1985)〈西洋文学の《向う側》(《文学における〈向う

    側〉》明治書院 )

    14.日本近代文学館(1984)「川端康成」『日本近代文学大事典』 講

    談社

    15.羽鳥徹哉(1993)「『雪国』における自然」 『作家川端の展開』

    教育出版センター

    16.羽鳥徹哉(1998)「『雪国』、さまざまな研究」『川端康成「雪国」

    60周年』至文堂

    17.平山三男(1998)「越後湯沢と『雪国』」『川端康成「雪国」60

    周年』至文堂

    18.平山三男(1990)「『雪国』の虚と実―「雪中火事」の新資料報告

    ―」 『川端康成 日本の美学』 有精堂

    19.広幸亮三他(1980)「川端康成・案内」『国語総合便覧』中央図書

    20.山中光一(1985)「日本近代文学における『向う側』成立の条件」 『文学における「向う側」』 国文学研究資料館編 明治書院

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